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2024年3月26日 (火)

倭人伝随想 12 里数・日数の虚実について 3/3 更新

                          2019/01/13 2024/03/26

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*倭人伝原資料(仮称)
 「倭人伝原資料」は、帯方郡、ひょっとするとその母体であった楽浪郡の実務担当者が書き起こしたものと推定され、遼東郡健在時は、公孫氏のもとに上程されていたのですが、公孫氏は、天子気取りで、零落した後漢朝に上申することも無く、公孫「天子」の史官がまとめていたのでしょう。当然、後漢朝史官の視点でなく、実務的道里が書かれていたかも知れませんが、「魏略」魚豢ないしは「魏志」陳寿が、国史にそのような実像を書いても、中原の読者が現地の「地図」を思い描けないので、史官の「常道」に従い虚像を書いたのでしょう。そして、常道として、班固「漢書」の西域道里「表現」を踏襲したものと見るのです。

 これは、世に言う曲筆、改竄、誇張のいずれにも該当しない、堂々たる史官の筆法なのです。いや、二千年後世の無教養な東夷が、「史官」の筆法を誹るなど、罰当たりなのですが、それが分かっていたら「無教養な東夷」などと罵倒されずにすんでいるのです。

*隠された史料伝達
 ちなみに、公孫氏時代の「倭人」関係史料は、司馬懿の遼東殲滅の際に灰塵に帰したのであり、景初初年に、魏明帝の特命を受けた毋丘儉が任用した新任太守が、無血で回収した楽浪/帯方郡に所蔵されていた郡志の控えを上程したために、雒陽の関係部局に届いたとは言え、後に、司馬氏に背いて族滅された毋丘儉の功績を隠滅するために、明記されなかったので、正史の字面をいくら発掘しても出てこないのです。

 ついでに言うと、「倭人伝原資料」(仮称)は、後漢献帝の建安年間に起草されたとは言え、曹魏明帝の治世になって、初めて開示されたので、後漢公文書には収蔵されず、従って、笵曄が、先行する諸家の後漢書を下敷きに、笵曄「後漢書」を編纂した際には、所引するのを憚ったと見えます。笵曄は、史官としての訓練を受けたわけでは無いのですが、史官として恥となるあからさまな剽窃はできなかったと見えます。
 又、東晋の司馬彪「続漢書」「郡国志」の編纂の際に、後漢献帝建安年間の事例とは言え、遼東郡時代の帯方郡創設の文書が参照できなかったため、唐代になって、范曄「後漢書」に司馬彪「続漢書」「郡国志」を収納したとは言え、そこに楽浪郡-帯方縣と書かれていても、帯方郡は存在せず、従って、雒陽から楽浪郡に到る公式道里は書かれていても、帯方郡に到る公式道里は書かれていないのです。
 従って、「倭人伝」で言う「従郡至倭」の道里は、所在不明の帯方郡を基点とするものではないのは明らかです。
 世上、陳寿「三国志」魏志に「西域伝」が欠けているのに対する非難めいた発言が漂っていますが、魏代西域に天子の威勢を示していなかった史実を隠蔽するのは当然であり、「東夷伝」にしても、「倭人」に関する史料が断片散在状態では、陳寿としても、薄氷を踏む思いで編纂の筆を凝らしたのは明らかです。

*緩い推定
 それはさておき、以上のような緩い推定は、「倭人伝」道里に堅固な実像を求める論者にしてみれば、大変不満でしょうが、当ブログでの最近の論議は、以上のような理路に従って推察したものです。

 くれぐれも、現代技術で得られる道里や後世法制から推定される日数計算の精密な、しかし、虚構の数字を、倭人伝記事の「実像」と主張されないようにお願いします。古代人は、根拠が確かでない「実像」記事の危うさを熟知していたのです。

*曖昧談義の念押し
 以上で、不確かさを盛り込んだのは、あくまで、「精確さを求められない」東夷、特に「倭人」の話であり、別項で論じた戸数の不確かさも、同様の事情によるものです。

 一方、帝国内の諸郡国には、管下の戸数、口数を、一戸単位で謬りなく報告する任務があり、地理志等には、そのような精密な集計が報告されています。一桁単位の計算しかできない「算木」で、一戸単位から始まり万万(億)に及ぶ桁数の計算は、至難の極みですが、読み書き計算に熟練した官吏を無数に揃えれば、何人・日かかろうと、郡国としての責務を果たしたので、つまり、不可能でないので、実行されたと見えます。

 しかし、それは、あくまで、郡の統制が健在で、精確な戸籍が記録されているのが前提であり、両郡が高句麗、百済の圧力によって統率力を失った際の戸数、口数は、漠たる概数として房玄齢「晋書」地理志に記録されているのです。

 と言っても、程なく、両郡は高句麗/百済の支配下に入って滅亡し、太守は職を失って逃亡したので処罰の仕様がないのです。また、曹操が再建した帝国内文書伝送の厳格化は、次第に形骸化し、おそらく、晋朝には引き継がれなかったのでしょう。

*曖昧論のお勧め
 以上、ここまで折に触れて書いてきたように、倭人伝の「時代相応、地域相応の曖昧さ」を理解いただきたいというお勧めです
 以下、改めて再論することはないと思うので、当ブログの筆法として承知いただきたいものです。

                               以上

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