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2024年4月13日 (土)

新・私の本棚 長野 正孝 古代史の謎は「鉄」で解ける  1/11 三訂

 『前方後円墳や「倭国大乱」の実像』 PHP新書 2015/10/30
私の見立て ★★☆☆☆ 傷だらけの野心作 2017/12/15 追記 2020/07/09 2022/06/21 2024/04/13

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

〇はじめに

 前書で、先頭からのダメ出しで力尽きたので、今回は冒頭と末尾で、集中的にダメ出しすることにしました。先ずは、冒頭部分で、著者の書きぶりと言葉遣いになじもうとしましたが、期待を裏切られて困りました。

*飛躍した進行
 通常、まずは、不吉にもタイトルで提示された『前方後円墳や「倭国大乱」』の解釈に触れて、読者自身の言葉遣いや歴史観になじませるものですが、それは端折られ、もやの中を引き回されている感じです。
 ついでながら、「実像」は誰かが見た外面であり、特に珍重すべきものでないと思います。「実像」を検証しようにも、墳墓の外観は見ることができても抽象概念である「倭国大乱」の外観は、「実像」も「虚像」も、どのようにしたら見ることができるのか不明です。空疎な大言壮語は控えたいものです。

*考古学の悪用
 また、これも珍しくありませんが、考古学上の編年を、自己流で西暦年代に結びつけ、以後、暦年で書くということのようです。それは、著者の都合であって学界の本意ではないのですが、考古学成果は、一部を援用するだけで、背景の考察不足にお構いなしです。かくして、不確定な根拠を読者に知らせずして、延々と独演会が展開されます。
 全書の方針を明示しているという点ではいさぎよいかも知れありませんが、自分の所見を押しつけると宣言されては、読者も困惑するのです。

*行方不明
 漢武帝の朝鮮侵攻談義で、自身の言葉で事態を語りつつ、司馬遷「史記」を援用しますが、語られている根拠が不明です。前提として、「西方の匈奴」と言いきっていますが、普通は北方です。九十度近く方位感覚がずれている乱文です。

*帆船綺譚
 「西域から匈奴排除の結果、西方交易が通じ帆船技術が入った」と言うために方位を曲げたようです。実際は、どこからの新技術なのか。通常、帆船は南海起源と見えます。少なくとも、小型の帆船は、格別の技術がなくても製造可能なので、南シナ海方面の温熱地帯では、軽量の小型の帆船が、南北に往来していたことでしょう。また、長江(揚子江)の淡水行路も、小型帆船を駆使していたはずです。確かに、大型の帆船を設計/製造するのに必要な技術が完成していなかったかも知れませんが、何が既存で何が新規東莱なのか、慎重に論証する必要があるはずなのに、 こうした自然な推定を、なぜ、頭から否定するのか不明です。
 また、中原には、海(うみ)がなく、河水(黄河)の水運は、頻発する氾濫の影響で限られていた時代に、なぜ、帆船技術が珍重されたか、意図不明です。「南船北馬」と言い慣わされているように、帆船が必要なのは、長江(揚子江)の話です。
 また、中国文明が、西域からの文物の恩恵を受けていたのは、商(殷)代に戦車の車輪に対する車幅(スポーク)技術導入の例もあって、別に目新しいものではありません。
 ついでに言うと、漢代の匈奴の猛威は、結構新しい現象で、秦代以前、北方と西方は、後に月氏と呼ばれた部族が栄えていて、匈奴は、下っ端にすぎなかったのです。匈奴の躍進で月氏が西方に駆逐されたのは、秦代かとも見えますが、漢武帝代の張騫の西方探索以前の西域事情は、はっきりしないのです。なぜ、氏が、そのような不確かな事情を独断で論じるのか、不明です。

 これほど異質な技術が、帆船を必要としない漢都長安に届いて、それが、瞬く間に山東に伝達され、現地に帆船造船が起こったと言う主張のようですが、せいぜい数名と思われる異国の技術者が多少の資料を持参したとは言え、言葉も働きぶりも異なる異境の地に、斬新な造船業を確立するのに、どれほどの期間がかかるのか、考慮していないようです。漢都長安は、海を遠く離れた陸封の池で、海船など想像もしたことのない人々の世界なのです。
 そして、山東半島は、春秋戦国の大国齊の故地であり、経済力から見て、齊の勢力が、自力で造船技術を導入したと見る方が、随分合理的です。あるいは、西域から到来した技術者は、長江流域で成長して流下し、後年の広東に花開いた造船技術が、北上したのかも知れません。
 そう考える方が、自然な成り行きと見えます。

 正直、帆船の造船技術が導入され、最初の一隻が進水するのに二十年程度、船台を並べて複数の帆船を並行して造船できるようになるのに、更に二十年程度と見て、最初の一隻で操船を修行したとしても、大挙水軍を進められるのには、大概四十年から五十年はかかると見られるのです。途中で、技術者も、治世者も代替わりしていることでしょう。そして、戦国時代、南海で、在来工法の帆船は、既に十分繁栄していたと見えるのです。そんな悠長なことではなく、とうの昔に定着していた技術と見えるのです。

 結論とすると、大規模な技術の移管/習得には、大変な時間/年数がかかるので、ずいぶん太古に帆船が到来していたはずです。また、それは、西域から中原を経ていたとは限らないのです。

                               未完

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