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2024年4月

2024年4月30日 (火)

毎日新聞 歴史の鍵穴 謎の五世紀河内王宮 再掲

大阪城跡の下層
 古代王宮が埋もれた可能性      =専門編集委員・佐々木泰造
 私の見立て☆☆☆☆☆ 根拠なき迷走-全国紙の座興か   2016/08/25 2023/01/23 2024/04/30

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯始めに
 今回は、毎日新聞2016/8/24日夕刊の文化面記事、月一連載の「歴史の鍵穴」に対する批判である。

 今回は、穏当な書き方で有るが、良く見ると大変大胆な主張が発表されているので、ぜひ検証したいが、なんとも検証できない。あえていうなら、出所不明への不満である。雑ぱくで恐縮だが、市井の諸賢の叡知を広く顕彰する記事として、どこがまずかったか気づいて頂ければ、幸いである。

*五世紀河内宮仮説
 今回の記事は、大阪市教委の学芸員の意見を伝えて頂いているようだが、学芸員の地方公務員公務の成果を、毎日新聞社独占としてこの紙面で成果を提供頂いているのだろうか
 ご当人の詳しい論旨が不明なのだが、燦然としているのは、五世紀、前期難波宮に二世紀先行して、この附近に王宮(と政府組織)があったとする主張であり、まことに大胆である。いつここに都を来させて、いつ、ここから都を移し出したのか、資料を拝見したいものである。

 80年度の調査で検出された柱穴の上の地層から、古代土器片が検出されたという微妙な意見であり、五世紀後半とおもわれる須恵器の破片が出土しているとしているが、どの程度の数量出土したのか不明だから論評できない。

 「柱穴」がいつ掘られたか確証があるのだろうか。また、「柱穴」が示す通り何らかの建物があったと仮定して、それが「王宮」の一部であったと断定的に主張するのは、あまりに大胆ではないか。以下の記事でも、五世紀にこの附近に王宮があったという記録については触れられていない。
 できれば、そのような画期的発表の基資料(プレスレリース)を見たいものだが、出所不明では、如何ともし難い。

*七世紀のお話
 七世紀のお話として、図解されている難波宮遺蹟の中枢部の一部が、北北東という半端な方向に500㍍程度離れてあったというのも、不思議な話である。
 記事の末尾を見ると、学芸員は、ここに王宮と言うより内裏があったのではないかと想定しているようだが、復元模型で示されているような難波宮が堂々とあるのに、天皇の寝泊まり/居処は別の場所というのは、なんとも信じがたい。

*公開データ利用のモラル
 今回の説明図は、「写真は国土地理院のウェブサイトより」とされているが、URLもなければ整理番号もない。白黒でサイズが小さい上に、撮影時期不明、縮尺不明、方角不明。(国土地理院が不親切なのではない) 説明がないので、どこが本丸やらどこが二の丸やらわからないし、追加記入した、白線や破線枠も、よく見えない。
 記事筆者は、現地事情を承知しているし、見ているのはカラーで大画面だから良い説明図と思われたのだろうが、夕刊紙面を見ている読者にはちんぷんかんぷんである。
 「近辺」の「法円坂遺跡」が描かれていないのも不満である。

 ということで、今回の記事も、一般人たる読者に画期的な新説を発表する方法として、ほめられたものではないと感じるのである。
 この地区の発掘ができないのは、特別史跡の保護のためと言うより、予算不足が最大の原因だろうから、世論の支持を願って、このようにリークして、予算獲得を狙っているのだろうが、ちょっと、このプレゼンテーションでは無理であろう。

 ちなみに、記事前半で、「織田信長と対立して1580年に焼失した(中略)本願寺」と無造作に書き飛ばしていて、これでは、比叡山を焼き討ちした信長が、同様に石山本願寺を焼き払ったと取られそうだが、そのような因果関係はないと思う。
 中立な書き方として、以下のようにした方が良いと思う。
 「一六世紀後半、織田信長と対立した(中略)本願寺(1580年和議開城後焼失)」

 全体に、学術的な発表の記事としては、大変不出来であるが、記者氏は、大先輩の足跡を見て書いているのだろうか。学ぶ相手を間違えているようにも見えるのである。 

以上

毎日新聞 歴史の鍵穴 意図不明な「宗達」新説紹介記事 再掲

                   2016/06/15 2024/04/30

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯始めに
 今回は、当ブログ筆者が毎月躓いている毎日新聞夕刊文化面の月一記事である「歴史の鍵穴」の6月分記事である。

*見えない「新説」/「通説」の対比
 麗々しく題して「風神雷神屏風」の意味として、日本美術史研究家の近刊書籍の打ち出した新説を紹介している記事のようである。しかし、不勉強な当ブログ記事筆者には、この記事を見ただけで、見て取れるものは、モノクロの縮小図版、しかも、左半分だけでは、どんな絵画+揮毫なのか、皆目わからない。
 記事は、紹介の念押しもなしに、いきなり、林氏の新説の引用というか紹介で始まり、肝心な、打倒/克服されるべき従来「通説」と対比されていないので、どこがどう異なるのか、読み取れない。何のことやらわからないのである。

 どうも、建仁寺所蔵の貴重な屏風絵である「風神雷神図」と呼ばれる国宝屏風絵らしい図の部分紹介、解説と見えるが、記事から見る限り、とても、この図はキャプションに書かれているような「高精細デジタル複製」には見えない。いずれにしろ、当図版から、「鉢巻き」、雷神が乗る「黒雲」、雷神の赤い肌でない「白い肌」の特徴は、とても見て取れないから、無意味な図示である。

 いや、今回の記事全体に、どこが、林氏の所説なのか、どこが、紹介者の解釈なのかわからない。これでは、一般人読者は、「五里霧」の深い霞の中を引き回されているようで、困惑するのである。これが書評であれば、通説と対比する形で新説を逐次紹介し、新説の主張の論拠を示す形になると思うのだが、これは、なんなんだろう。

 例えば、当記事筆者は、相当の達人で高名だったはずの「宗達」の同名異人が存在したという憶測を書き立てるだけで、それ以上、何の掘り下げもせず、二人「俵屋宗達」だったものと納得しているようである。大事なポイントのように思うのだが、記事は、何もつかえずに通り過ぎるだけである。ご不審の方は、記事の実物を読んでいただきたい。

 そういうわけで、林氏が、新発見の角倉素庵書状の解釈によって、そこに絵屋『俵屋』の宗達が示唆されているというのだが、「織り元『俵屋』の宗達」と「絵屋『俵屋』の宗達」が同時代に生きていたという説を打ち出したようなのだが、この紹介記事のゆるゆるの書き方では、何とも掴みがたいから、林氏の論証そのものを確認しない限り、にわかに信じがたいものがあるとしか言いようがない。紹介になっていないのである。

*丸投げの顛末
 当連載記事の定番で確認不足の紹介を投げつけられては、筆者が、被紹介者の説に賛同していると言うことくらいはわかるが、その賛同を生み出した意義・意味が読み取れないのが、ほぼ毎回である。しみじみ思うのだが、他の読者諸兄姉は、記事の意図をすんなり受け止めていて、わからん、おかしいと言い続けているのは、当ブログ筆者だけなのだろうか。今回も、書いていて、途中で途方もない徒労のような気がしたが、これまでの記事の扱いと調子を大きく変えることはできないので、意気を奮って書いたものである。

以上

毎日新聞 歴史の鍵穴 不思議な世代交代 (最終回)再掲

 私の見立て☆☆☆☆        2017/03/22 2024/04/30

◯始めに
 今回、毎日新聞大阪2017年3月22日付夕刊掲載の月一連載については、従来、素人考えで批判させていただいていたが、今回が最終回とのことである。

小山田古墳の被葬者 候補は舒明と蝦夷だけか=専門編集委員・佐々木泰造

*私見吐露の弁
 せっかくなので、今回は、少し念入りの批判を述べさせていただく。
 因みに、当ブログ筆者は、国内史料に関して無学/無教養なので、毎日新聞の一般読者の視点に立って、素人考えを述べさせて頂くのである。

*不釣り合いな間柄
 記事を一見して、ぱっと目に付くのは、図示された系図の不釣り合いなことである。
 当然、書紀などの文献を参照して書かれたのだろうが図の左に書かれた蘇我氏の系列と右に書かれた天皇家の系列が、(本当に)一見して、不釣り合いなのである。
 よく中身を見て、具体的に言うと、図全体の最上部に蘇我稲目が置かれているが、蘇我氏が、蝦夷、入鹿と直系相続されている間に、天皇家は、兄弟相続もあって、しきりに代替わりしている。
 ここで書かれている図式に従うと、当記事で被葬者に擬されている二人のうち、蘇我蝦夷は蘇我稲目の孫、つまり二世の子孫であるのに対して、舒明天皇は、曾孫を過ぎて五世(あるいは四世か)の子孫なのである。

 つまり、蘇我家が二代進むのにそれぞれ三十年で計六十年かかったして、その間に天皇家が、四,五代進んだとなると、一代あたりせいぜい十五年になる。同時代の同程度の地位の家系で、そんなに世代交代の期間が食い違うものだろうか。

 図では、最下段の建王と言う一人の人物で、両系列がつながっているだけに、蘇我氏二世代の間に天皇家は五世代という格差が的確に「可視化」されていて、どうにも目立ってしまう。舒明天皇の書かれている位置は、蘇我蝦夷どころか蘇我入鹿よりもはっきり下方になっていて、しかも、埋葬はほぼ同時期になっている。

 ところが、当記事筆者は、その点について何も触れないで、六百四十年代の遺物と六百五十年代の遺物が明確に区別できるなどと、根拠不明の健筆を振るっている。何か、素人にはわからない定説があるのだろうか。

 素人考えでは記事の限られた場所にこれだけの大きさで書いた以上は、今回の記事の主張の根拠を示す重大な論拠としての意図があったと思うのだが、読む限り、何も伝わってこない。
 いろいろ丁寧に繰り出される説明は、関連資料を読み込んでいる感じがうかがえるのだが、当の記事にこのような不思議な図が説明なしに使われていると、不思議な感慨を持って、最終回記事を批判せざるを得ないのである。

以上

毎日新聞 歴史の鍵穴 壬申の乱と地図幻想 不確かな謎の不確かな解決 再掲

 私の見立て☆☆☆☆☆          2017/02/19 補充 2024/04/30
 壬申の乱の大海人皇子 夏至の方位に素早く移動=専門編集委員・佐々木泰造 

*加筆再掲の弁 
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*遅筆の弁
 今回、毎日新聞大阪2017年2月15日付夕刊掲載の月一記事に対して当方のブログ記事が遅れたのは、諸事多忙のせいもあるが、一つにはあきれたからである。とは言え、当ブログは、「歴史の鍵穴」記事の論理のほころびに批判を加える立場を取っているので、今回も、ブログのポリシーに従い、手抜きせずに一介の素人読者としての批判を加えることにした。
 また、当ブログ筆者は、「日本書紀」の史料批判に通じていないので、「圏外敬遠」としたかったのであるが、当記事自体が多大な自己撞着を起こしているので、その範囲で批判することを決意したものである。

*無批判の史料依存
 念のため言うと、今回記事は、出典を隠していても、「日本書紀」記事のいずれかの解説書によるものと思われるが、ここに引用され図示されている「大海人の皇人(ママ)の進路」は原史料の忠実な解釈としても、示されている行程は、とうてい「常人」の踏破できるものではなく、「フィクション」の可能性が高いように思う。(吉野宮が、現在金峯山寺のある山岳地であったという2016年10月記事の主張は採り入れないとしても)

 この記事だけを手がかりとするにしても、訓練を経た武人だけならともかく、妻や子、そして、女官多数の足の弱い面々を引き連れて、朔日に近い24日の無いに等しい月明かりをたよりに、見たこともない険阻な山道を「夜を徹して」突き進むことなどできなかったはずである。もちろん、これらの弱者を背負ったり、輿で運ぶなどは論外であろう。

 いや、いくら武人でも、背負っている装備や食料の重荷を考えれば、全体として到底踏破できない距離と行程と素人は思うのである。戦地に到着したとき、兵士が疲労困憊して半死半生で戦闘不能であったら、それは「強行軍」ではないのである。

 以上は、自分で現地を踏破したわけではないから、地形図やネットで見る紀行文を参考にするのだが、この行程は、結構起伏曲折の激しい山道であり、平坦地の古代道路を淡々と移動したのではないと推定しているのである。難路とみるのが間違いであれば、ご指摘いただきたい。

 そうした「フィクション」が両陣営の戦績について正確という保証は何もない。勝った方が、全部勝ったと言っているだけではないのかと、疑ってかかるべきであろう。かろうじて、最終的な勝敗はその通りだったろうというしかない。

 そのように不確かな戦いで、近江側が、不思議にもことごとく負けたというのが推測なら、それは、近江側が戦意を喪失したためだろうというのは推測の上に推測を重ねていると見える。そうした記事筆者の個人的な思い込みを「謎」と見るのは、誠に勝手だが、困ったものだと読者は嘆くのである。

 普通に考えれば、反乱を予想していなかった近江側は、広範な軍の動員が立ち後れ、反乱軍の勢いに抗しきれなかったと見るものだろう。そのような立ち後れは、古代の軍備、輸送、交通の整備状態を想像すれば、急遽援軍を得て劣勢回復することが不可能であったとしても、何の不思議もない。むしろ、全面的な劣勢を自覚していれば、早々に西国に亡命すべき所である。

*謎の深層
 美濃方面に集結した反乱軍が、どうして、多数の兵を所定の日に集結するよう動員できたかが、本件最大の謎である、とここまで読み進んだ素人の考えで思う。これは、個人の意見であるから、個人の勝手である。

 当時は常備軍制でなかったはずだから、同盟する領主は、領内各地の農民を、自前で武装して、腰弁当で来いと招集するのであり、数か月の事前通達が必要ではないか。もちろん、召集された多数の兵士の戦闘時の食料や武装は、同盟領主が、食料庫や武器庫を開いて供出しなければならないが、これは、参集した兵士の手になれば、数日でできるとしてもである。
 つまり、反乱に数か月先立って、現地に通じた重臣ないしは皇子などを派遣して旗揚げの確約を取り付けていた、その旗揚げの日付が記録されていたために、間に合うように空を飛ぶように急行したと書かざるを得なかったのではないか。

 普通考えれば、遠隔の勢力を反乱に荷担させるには、いわば、人質の意味もかねて、皇子の息子が派遣されていたと見たい。反乱に失敗すれば、一族皆殺しになるような大罪であるから、文書や口先の指示では荷担できないはずである。ということで、大事な人質を確保していれば、大海人の一行が旗揚げに数日遅れても、大きな問題にならなかったはずである。というものの、それでは、討伐されたので、逃亡して挙兵したという「フィクション」の体裁が悪くなるので、そのような事実は記録を避けたはずである。

 色々素人考えを重ねたが、颯爽と疾駆して、と言いつくろっているものの、実際は疲労困憊して遠路はるばる美濃に辿り着いたら、先触れもしていないのに同盟軍が勢揃いして待ち構えていたというのは、「フィクション」に過ぎるのではないだろうか。
 こうして考えても、いろいろ不思議な所伝なのだが、記事筆者は、書かれているとおり丸呑みするだけで、咀嚼も吟味もしないで善良な読者に向かって投げ出すのである。こうした点から見て、当記事は健全な批判精神を失い、依拠史料に無批判に依存するという泥沼に落ちたと見るのである。

*無効な論理
 以下、当記事の論理の展開について、これまでにも書いた問題点を再確認する。次に挙げたのは、2016年9月の記事で引用されていた論文の冒頭記事であり。当然、当記事筆者は承知のはずである。

 水林 彪 古代天皇制における出雲関連諸儀式と出雲神話 第1部 古代の権威と権力の研究
 「8世紀の事を論ずるには,何よりも8世紀の史料によって論じなければならない。10世紀の史料が伝える事実(人々の観念思想という意味での「心理的事実」も含む)を無媒介に8世紀に投影する方法は,学問的に無効なのである。」

 言うまでもないが、水林氏が論断しているのは、10世紀史料を根拠に8世紀を論ずることが無効であるという一つの例だが、要は、論じられている時代の事を、別の時代の史料を根拠として断定してはならないと言うことである。

 まして今回論じているのは、人々の所感、人の心であるので、同時代人にも知り得ないものであろう。それを、ここで断定的に論じているのだから、これは科学的な議論ではない。
 ここに書かれたような地理認識は、現代人が常識としているものだが、生まれてこの方近郊にしか出向いていない軍兵は、夏至や冬至の日の出の方角に何があるのか知らないので、地理認識によって心理的な「ハンディ」(何とも不穏当な比喩である)を背負っていたと見るのは、無理というものである。

 まして、当時、ここに書かれている神武天皇説話が周知であったかどうかわからないから、論じても無意味なのである。また、大津宮とされている場所から見て、美濃野上が夏至の方角というのも、地図を一見して信じがたいものがある。いや、古代人は、この地図を見ていないから、こうした言い方は無効なのであるが。

 それぞれ、心理的な背景として日本書紀が「フィクション」と書き立てそうなものなのに、どうやら書かれていないようだから、そんな背景はなかったと見るのが適切ではないか。

 結局、今回は、無謀な衛星地図観は目立たないものの、個人的な謎に個人的に体裁をつけた資料解釈で個人的な解決を与えて自己満足しているものであり、全国紙の権威ある記事として一般読者に貢献するものではないと見る。

以上

新・私の本棚 番外 刮目天 一 「卑弥呼は公孫氏だったのか?( ^)o(^ )」 再掲

                        2022/12/30 再掲 2024/04/30

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯始めに
 当記事は、かねがね瞠目している刮目天氏のブログ記事の批判でなく、引用記事に対する氏の批判が「ツボ」を外しているので、身のほど知らずに援軍を送ったものです。氏は、専門外の中国史料の解釈に手が回っていないことがあるので、ここでは、僭越ながら愚見を述べるものです。

*本文
「卑弥呼は○○族だった!?古書から日本の歴史を学ぶ?」

 論者にして講師である「古本屋えりえな」氏は、勉強不足の新参者のようです。

晋書四夷伝倭人伝 「晋書倭人伝」の解釋です。スクリプト提供あり。
其家舊以男子為主 漢末倭人亂功伐不定 乃立女子為王名曰卑彌呼 宣帝之平公孫氏也 其女王遣使至帯方

「[略]漢の末に倭人は乱れて世情が定まらなかったので、ひとりの女子を立てて王とした。名は卑弥呼という。その女王は晋の宣帝が平らぐる公孫氏なり。この女王は帯方に使者を派遣し[以下略]」


 出所不明で、翻訳文責不明ですが、ここに書き出されているのは、飜訳などではなく、原文から遊離した乱調解釈で、素人目にも不出来な「誤解」です。「其女王 」を、挿入された「公孫氏」の女王と言うのは、子供の粘土細工のようで、話にも何にもなっていないのです。 公孫氏は、遼東郡太守であって、「女王」に属していたのではないのですから、「公孫氏女王」は、話の筋が壊れています。とんだ落第生です。

 何しろ、原文は、宣帝司馬懿が、魏明帝景初年間、遼東遠征平定の折、倭女王が帯方に遣使したというだけで、ここで女王出自を述べてはいないのです。

 要するに、そのように「誤解」するのは、「晋書倭人伝」を読む前に、重要な基本資料である「魏志倭人伝」を読んで十分理解した上で、次いで、補足資料として、これを読むという手順を外れているのが原因です。「晋書倭人伝」は、晋が滅び、後続の南朝諸国が滅び、北朝の隋が天下を取った、そのあとの唐の時代に、すでに公式史料として定着している「魏志倭人伝」を不朽の原典として編纂されたものですから、その内容を要約しつつ多少補足するのであって、脱線して余談に嵌まることは「絶対に」ないのです。小賢しい創意を加えることは「絶対に」 ないのです。つまり、そのような解釈は、「絶対に」 物知らずの後世東夷の「誤解」なのです。

 その見方を守っていると、論者の解釈は、正史の「伝」として、とんでもなく場違いで不細工なものであり、簡単に、それは「考え違い」とわかるはずです。
 晋書編纂は、唐皇帝の勅命に基づく大規模の国家事業であり、同時代最高の人材が編纂に取り組んでいる以上、少なくとも、二千年後生の無教養な東夷に後ろ指をさされるような、お粗末な体裁にはなっていないとみるべきです。周囲の編纂者に、お粗末で史官の資質に欠けると断定されれば、更迭、降格され、史家としての威信を無くすのです。ほとんど命がけですから、最善を尽くすしかないのです。

 そもそも、後世の「晋書倭人伝」が、公式史書として信用している「魏志倭人伝」にない風評記事を、場違いなところに書き足すはずはないのです。誰でも、史料の食い違いを発見することができるので、冷静な研究者なら「晋書倭人伝」をそのように解釈することは大間違いとわかる筈です。あるいは、周囲の良識ある研究者が「誤解」の公開を制止するはずです。

 「場違い」と言うのは、「魏志倭人伝」では、「名は卑弥呼という」までに、女王が「一女子」であったと明記しているのに続いて、男弟や城柵の話まで書いているのに、「晋書倭人伝」は、その部分を既知として省略して、景初二年六月に相当する部分に飛んでいるから、これは、女王となった後の話であり、そこに女王が実は公孫氏の親族であったと書くのは、読者を騙したことになって失礼であり、晋書の編者が、そのような手違いを見過ごすはずがないのです。つまり、「公孫氏の親族である女性を王に擁立した」ともともと書いていないのを、飜訳したかたが、自己流で作り出されているのであるから、まことに失礼ながら、それは お客様の「誤解」ですよと言わざるをえないのです。

 時代背景を確認すると、景初年間、大軍を率いて遼東に派遣された司馬懿は、魏皇帝に反逆した大罪人一族を族滅(一族皆殺し)し、洛陽の人質まで殺しています。司馬懿の遼東平定時に公孫親族がやって来れば、連座して首を飛ばしているところです。いきなり首を切られなくても一味として投獄されます。もちろん、そんな目に遭うのがわかっていて、(公孫氏の縁者を堂々と女王として担いでいる)倭人の使節が、魏明帝の直轄となっている帯方郡にのこのこやってくるはずがないのです。だから、気軽に書き流すことはできないのです。
 ここでも、論者の解釈が「誤解」だとわかるのです。

 もちろん、そうしたことは、すべてが常識なのでわざわざ書いていませんが、中国の古代史料を十分勉強したものは、そんな間違いはしないものです。ぜひ、出直してほしいものです。

 以下、変則的文献解釈が続きますが、勉強不足の勘違いの上に立てた「思い込み」の不出来な連鎖を読むことは、時間の無駄なので、一発「退場」です。ここでは、落第生の弁護はしないのです。

 結構な時代で、時代錯誤の解釈も堂々と公開でき、うらやましい限りです。読者も手早く採決しないと、時間がいくらあっても足りません。

*脇道コメントの弁
 本件、刮目天氏のブログにコメントを投書しようとすると、Gooブログの開設を要求されるので今回も直接のコメントは遠慮しました。
 当ブログは身元確認などしないが、不当なものは然る可く遮断します。

*余談の弁
 以下、余談ですが、背景を知らずに炎上すると不本意なので、釘を刺すものです。以下が理解できないなら、当ブログの落第生なのでお帰り頂くものです。お気に召さないとしても、それは、当方の責任ではありません。

*初めての「卑弥呼」伝
 魏志倭人伝」を普通に読む限り、卑弥呼は、男王の「女」ここでは「娘」が嫁ぎ先で産んだ「女子」(娘の子)、つまり「外孫」(そとまご)であり、娘」が嫁ぎ先に持ち込んだ男王の「家」と嫁ぎ先の「家」の両家の「共立」で「女王」に立てられたものです。卑弥呼は、いわば、両家を強力に締結する「かすがい」だったのです。
 本来男子継承ですから、卑弥呼は継嗣でなく、季女(末娘)の伝統的な役目として、生まれながらにして家の祖霊に傅く「巫女」であり、生涯不婚の身であったことを、誰もが承知していたので、氏神の第一の巫女として広く信用されていたのです。年齢としても、数えで二十歳に満たない「妙」、「少女」、「未成年」であり、近年正月に「成年通過儀礼」(Rite of Passage)を受け「已に長大」と書かれています。

*笵曄「後漢書」批判
 笵曄「後漢書」が、女王関連記事で、「漢末」と数十年遡らせたのは、後漢献帝期の建安年間すら、「後漢書」でなく「三国志」の領分なので、三国志にない「倭国大乱」を、献帝に先立つ桓帝・霊帝の時代のことにして創作していますが、根拠史料は「一切」存在せず、つまり、「魏志」に反する虚構の創作と見えるのです。
 笵曄「後漢書」は、陳寿「三国志」完成稿が、『陳寿の没後、さほど年月を経ず上程され、直ちに「三国志」と公認された』のと異なり、笵曄が劉宋皇帝に対する謀反に加担した大罪で嫡子もろとも斬罪に処され命を落とした後、誰が、いつ、どのようにして、笵曄「後漢書」を南朝高官の手元に届け、後に、正史として認定されたのか不明です。現に蔓延している意地の悪い言い方をすると、誰も笵曄「後漢書」の上程稿を見ていないのです。

 そのほか、講師は、色々史料を読んでいますが、歴史背景理解力に乏しく大きく躓いて泥沼に墜ちていますが、個人の信念なので助けの手は出せません。まずは、古人を根拠の無い妄想で貶めるのは、感心しないものです。そして、自分で自分を窮地に追いやるのは、傍目にも感心しないのです。世間には、同様の論法を好む論者が氾濫していますが、「良い子」は「悪い子」の真似をしないで欲しいものです。

*まとめ
 刮目天氏は、基本的に当方と同意見なので、これは、講師批判のみです。

                                以上

2024年4月28日 (日)

新・私の本棚 古代史検証4 飛鳥の覇者 推古朝と斉明朝の時代 三掲 1/2

監修 上田正昭 著者 千田 稔  文英堂 2011/4 第一刷
私の見立て ★★★★☆ 考察が潤沢な好著。ただし、図解は「無残な」でたらめ。 
 2022/04/09,04/11,2023/01/01,05/03, 2024/04/28

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯はじめに~圏外介入の弁
 本書は、全五巻の名著、日本古代史通史(出版社がそう呼んでいるわけではない)の二巻目で、時代的にも当ブログの範囲を外れるが、「遣隋使推定航路」図に重大な異議があり、「細瑾」批判記事を立てた。と言うものの、随分深刻な「細瑾」なので、手痛い批判になってしまったことをお詫びする。

*遣隋使行程図批判~名著の細瑾
 下図は、本書掲載の「概念図」であるが、批判するのに不可欠なので、千田稔氏著作物として謹んで複製引用した。「日本書紀」に推古朝遣隋使の航路圖はないので、氏の著作物として作図、公表したと見て批判したのである。

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*無知の憶測の堆積~現代地図の弊害
 本図は、一見、正確な図示であるが、実は、実現性/正確性に欠けたものであり、大いに誤解を招く
 まず、遣隋使船が、海船で飛鳥を発し、瀬戸内海航行するのは、「画に描いた餅」もいいところで、実行不可能である。
 飛鳥は、奈良盆地、つまり、内陸であり、海船が出発する「母港」は無いし、仮に、飛鳥を海船で出発しても、大振りな海船が、当時の大和川を下って、河内平野に出て、河内湾に出るのは、全体に水量の乏しい浅瀬続きであるから、どう考えても、不可能である。
 何しろ、遠路渤海湾までほとんど無寄港で進むのであるから、甲板と船室、船倉を備えた大型の帆船に違いないのだが、まずは、大和川を下って河内湾に出ることは到底できない。次に、瀬戸内海の移動であるが、衆知の如く、東の備讃瀬戸、西の芸予諸島の難所は、水先案内が乗り組み、小船の助けで舵取りしたとしても、外洋航行に適した帆船には到底通過不可能である。
 最後に、関門海峡通過が至難の業であるが、ここは、詳しく言わないで前に進む。
 七世紀に、大型の帆船が、こうした難所を「易々と通過することが可能であった」という根拠は無いはずである。ことは、「冒険航海」などではないから、絶対安全でなければ、飛鳥で海船を造船、進水させることなどできないのである。

 確実な出港地「海港」は、「北九州」玄海灘沿いである。帆船自体、ここで造船し、ここを母港にするのが自然であり、当然、船員も、目前の半島航路に習熟した船員とすべきと思われる。瀬戸内海航路に習熟した船員は、一切不要なのである。

 その際、目前にあり、古代の多方面に通じていた船路の要であったはずの一大國、壱岐を通過しないように見えるのが、意味不明である。
 以上の重大な難点は、総て、九州北部「北九州」から、半島を経て、黄海を進み、山東半島に上陸して、以下、官道を西に進むという、誠に自然な経路を経由していた史実を無理矢理揉み消しているからであり、三世紀、魏使の来訪航路を知らなかったのか、強引に無視した白日夢であり、政権記録の継承/断絶という視点から、大変不審であると言い置く。

 百済沿岸と称する南岸西岸航路も、無寄港で、沖合を通り抜ける意図が不明である。食糧、燃料、飲料水という重大な補給もあるが、そもそも、「沿岸」は、百済の陸地であるから、必ず上陸しなければならない。とても、百済沿岸を経ている図とは見えない。三世紀に各地に海港があって、航路が稼働していたのなら、後世になって寄港しない理由が、途轍もなく不審である。

 図によれば、七世紀当時、抗争中の百済「領海」、次いで新羅「領海」を通り、さらには、高句麗「領海」へ通過し、転進して渤海の河水河口に直行したと見える。このような経路が、理不尽で、不合理と見る理由を、以下述べる。

 朝鮮半島の新羅海港(後の唐津 タンジン)と山東半島の登州海港(東莱 トウライ)を連絡する航路は、新羅の厳重管制下であり、横切るにしろ、新羅の通行許可を必要としたはずである。
 また、遼東半島先端の高句麗海港は、専ら登州と往来するものであり、当時、隋と紛争を繰り返していた高句麗が、遣隋使の通過を認めるはずがない。いずれにしろ、著名な海港は、常用されているものであり、それ以外の場所に、異国の海船を受け入れる能力/設備があったとも思えない。所定の海港以外で、蛮夷のものが、中国領に上陸することが許されたとも思えない。奇っ怪千万である。

 ついでながら、河水(黄河)航行について考えても、先ずは、通行許可の無い異国の船舶は、通行できなかったはずである。
 そのように、常用される海港を避けて、人跡未踏の河水河口から、大河河水(黄河)に乗り入れて、遡行する航路など、金輪際あるはずがない。河水河口部は、泥沼であり、天井川となっていたから、海船が乗り入れ、上下航行できるようなものではない。

 図示された洛陽は、「東都」と称され、たまたま、隋煬帝時代には、東夷との折衝に用いられていたが、あくまで、副都であり、帝都は京師(長安)であったから、倭國使は、本来、京師に向かったはずであるが、なぜ、隋帝の所在を察知して東都に向かったのか、不審である。洛陽は、洛水と呼ばれる手狭な支流沿いであったから、大型の帆船の進入は許されなかったはずである。いや、河水への進入をどうやって成し遂げたかという、さらなる難問が克服されていないのを忘れないで欲しいものである。

 素人目にも、どうにもこうにもつじつまの合わない無残な絵解きである。

 ついでながら、地図上の半島の「平城」であるが、Wikipediaによると、「平城市(ピョンソンし)は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の平安南道の道都。1965年に平壌市の一部を分割し、平壌市から道都を移して成立した都市である。」古代に存在しなかった地名と思われる。不審である。

 事の振出しに戻ると、遣隋使船を発するとき、見通しの立たない海を、不案内なまま、できたての船、新米の船員で行くことは「絶対に」あり得ないと見えるのである。

 本図は、現代科学の手を借りてきれいな絵解きに見えるが、当時にそのような結構な技術はなく、それこそ、一寸先は闇の手探りの旅であり、以上のように、どうにも解けない「疑問」、ここでは「重大な難点」がある。図示されたような「つぎはぎ」の船旅は無茶である。
 百済と提携して、一貫して案内して貰うのか、どこかで、百済船に乗り込むのか、いずれにしても、手慣れた百済に任せるのであれば、旅路が不案内でも、国使を送り出せるのである。

 確かに、後年、この航路が通行不能になった後は、自力で、東シナ海を突っ切るしか無かったのであるが、それ以前は、小型の海船で、百済海港にいたり、以後、経験豊富で不安のない百済海船を利用したはずである。

 なお、どう経由するかは別として、中国上陸は、半島交易船が往来していて、高麗館、新羅館と言った専用設備のある山東半島登州であろう。高麗館、新羅館は、それぞれの商館であり、隔壁で守られ、駐在武官を擁していた、言わば、治外法権なのである。何しろ、高句麗、百済、新羅は、山東半島登州への海岸往来、つまり、交易/市糴によって、莫大な収益を得ていたのであり、百済と高句麗の抗争は、互いの国王が戦死する凄惨な戦いであったが、新興の新羅が、死力を尽くして、両国間に介入して、百済を南に追ったから、三国必争地域に、強力な楔を打ち込んだのであるから、はるか圏外で海船を持たないの「倭」が介入することなど、許さなかったのである。さよう、隋代から唐代初期に「日本」は未形成であったから、三国戦局に介入しようがないのである。度しがたい、時代錯誤である。地図は、七世紀と銘打っているが、隋は、六百十八年に亡んでいるから、七世紀の残る八十年に、隋は存在しないのである。
 隋の後継と言うものの、唐代初期は全土大乱で混乱していて、とても、明快に図示できないのである。つまり、この図は虚構である。

 この海域の海上往来に、裏道、抜け道はあり得ない。

                   未完

新・私の本棚 古代史検証4 飛鳥の覇者 推古朝と斉明朝の時代 三掲 2/2

監修 上田正昭 著者 千田 稔 文英堂 2011/4 第一刷
私の見立て ★★★★☆ 考察が潤沢な好著。ただし、図解は「無残な」でたらめ。 
 2022/04/09,04/11,2023/01/01,05/03, 2024/04/28

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*「画餅」~根拠なき「夢想」疑惑
 重複気味に念押しすると、河水河口部は、毎年春先の凍結解消による氾濫で、茫々たる泥濘で、東夷海船の河水乗り入れは無謀である。河口部を大きく避けて上陸したとしても、以後、現地川船で河水に乗り入れと見るにしても、なぜ、京師である長安/大興でなく、東都/洛陽に入ったのか。一部に新説が流布しているようだが、一般読者に対して説明不足である。

 因みに、洛陽は、河水の支流である洛水の上流であるが、海船で乗り入れることが許されたかどうか不明である。長安に入るには、河水をはるばる撞関まで遡った後、支流である渭水に乗り入れる必要があり、海船で乗り入れることが許されたかどうか、さらに不明である。いずれにしろ、密入国に近い状態でどこまで辿り着いたのか、不審である。

 蛮夷は、少なくとも、いずれかの海津(しん)で、隋官人に来訪を申告し、入国許可と国内通行許可を得るのであり、河水河口部の無人の境地から不法侵入するものではない。蛮夷のものは、鴻臚寺と交信の上、事前に入国強化を得ているものであり、いきなり飛び込んでいくものではない。中国は、法と秩序の国家であるから、このような不法侵入が承認されることはない。

*合理的な推定~国使の行くべき「道」
 以上の難点を見た上で、九州北岸からを旅路を見なおすと、倭人伝以来周知の壱岐、対馬経由の半島への渡海/水行は、便船豊富で「銭」で雇えるし、上陸後は、古来内陸街道が常道、既知であったので、ここも何の迷いもない。
 方や、壱岐から転じて南岸西岸沖合航路は、以上説いたように、にわか作りに違いない倭船にとって、不案内で、とても行き着けるものではない。
 どちらを行くべきか、明白ではないだろうか。特に、出発点が、本当に内陸の飛鳥であれば、海の長旅には、恐怖しか感じなかったと思うのである。

*「新羅道」提言~安全、確実、迅速、低廉な経路
 復唱すると、新羅街道「新羅道」は、古来整備されていた官道であり、半島の嶺東を北上して竹嶺で小白山地を越え、下山して西に向かい、西岸海港に出て、以下、渡船で登州に至る長丁場だが、新羅にお任せである。
 山島半島の海津、登州上陸以降、内陸街道は、人馬を要する移動も宿泊も「銭」で賄える。安全、確実、迅速、低廉な経路であるから、挙って、蹈襲したと見るものではないか。
 倭と統一新羅の関係が険悪になれば、倭遣隋使の新羅国内街道通行が許されなくなる。もちろん、後年の遣唐使の大使節団も、同様に通行できないと思われる。それにしても、なぜ、後世の遣唐使が、寧波あたりを目指して東シナ海を遮那に無二横断したのか、誠に不合理で、不可解であるが、不可解な事項を論議するのは時間の無駄なので、ここで筆を置く。

 以上が、本図航路に対する異議であり、反論があればお受けする。

*隋書無視に疑問~台所事情の苦渋か
 氏の論議は、信頼すべき隋書を無視しているが、国書交換など、世上の遣隋使論に整合しない「隋書」俀国伝を無視したと思われる。「『日本書紀』の記事が事実とすれば」と書く氏の苦渋を察して、これ以上は深入りしない。
 舊唐書、新唐書どころか、古田武彦氏著作も参照していないが、以下同文。

                                以上

  追記:「隋王朝(7世紀)」の無残 (2022/04/11)
 ついつい、地図の疎漏の指摘で、精力と注意を削がれて、肝心なことを取りこぼし、書き漏らしたので、仕方なくここに追記するが、実は、一番無残なのは、この表現である。

_n_20220411203901 

 重要なので復習すると、隋は、一般に581~618年の期間存続したとされていて、別に、七世紀べったりではない。むしろ、七世紀の主要部は、唐にとって代わられているので、正直に書くなら、七世紀初頭と言うべきだろう。
 それにしても、隋代、グレゴリオ暦による世紀の数え方が、隋に届いていたと思えないので、「七世紀」の当否を煬帝の霊魂に問い質そうにも、飜訳/通訳の仕様がないのである。
 史学会には、当時の教養人に理解できない言葉や概念は避けよ、と言う箴言があると聞いている。それにしても、この失態は、一言で言えば、杜撰を越えて無残な誤記である。

 さらに言うなら、世紀の半ば過ぎの六百六十年代には、唐の征討軍により百済、高句麗が、相次いで撲滅され、この図は、全く無意味になっている。氏が、どういうつもりで本図を掲載したのかというと、単に、裴世清来訪時の諸国形勢を書きたかっただけではないのだろうか。と言わないと、何も言い訳ができないことになる。不確かな推定を、立派な地図にしてしまったために、アラが目立つのである。

 ついでに付記すると、「日本」国号が創唱されたのは、8世紀冒頭であり、7世紀を想定した地図に「日本」を表記するのは、非科学的な時代錯誤である。この点で更に減点したいが、最早本図に対する評価点は底をついているので、減点しようが無いのは残念である。

 と言うことで、氏は、同時代の国内古代史について、満腔の造詣を有していると想われるが、同時代の中国、朝鮮方面については、全く素人だと露呈しているそれにしても、氏の周囲に、誰も「助言と支持」を与える知恵袋はいなかったのだろうか。出版社の編集担当からの助言もなかったのだろうか。いかに「細瑾」とは言え、重大な「躓き石」があからさまで、勿体ないことである。

この項完

追記 2024/04/28
 近来、岡田英弘氏の至言に追従すると、中国正史は、中国の最高の教養人が、その時点の最高の読書人を読者として、厖大な知識、語彙を背景に、精魂こめて編纂したものであり、同時代の記事を適確に解釈するためには、同時代の読書人に近い知性と教養を要求されるのである。にも拘わらず、現代人、つまり、千年、千五百年、二千年後生の無教養な東夷が、限られた教養で解釈するのは、無法なのである。

以上

2024年4月23日 (火)

新・私の本棚 番外 内野 勝弘 第413回 邪馬台国の会 序論

魏志倭人伝・考古学・記紀神話から読み解く                        2023/10/24
1.魏志倭人伝・考古学・記紀神話から読み解く邪馬台国時代の年代論

 邪馬台国時代100年を俯瞰してみれば日本古代の全体像が見えてくる。

私の見立て☆☆☆☆☆ ひび割れた骨董品      2023/10/24 補追2023/11/01, 02 2024/04/23

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*はじめに
 本講演は、安本美典師が主催する月例講演会の「レジュメ」前半部に対する批判であるが、主催者の見識を前提にしていると見えるので、ここに率直に批評する。
 なお、ここに言及できなかった付表の詳細な批判を、下記別稿で公開しているので、ぜひご高覧いただきたい。(補追2023/11/01)
 新・私の本棚 番外 内野 勝弘 第413回 邪馬台国の会 補追 1/4
 新・私の本棚 番外 内野 勝弘 第413回 邪馬台国の会 補追 2/4
 新・私の本棚 番外 内野 勝弘 第413回 邪馬台国の会 補追 3/4  
 新・私の本棚 番外 内野 勝弘 第413回 邪馬台国の会 補追 4/4

 大抵の場合、このようなお話は、他愛のない「夢語り」/法螺話である。「日本」が、八世紀以降しか存在しないのは衆知である。言うまでもないが、「邪馬台国」は(遺跡遺物を論じる)考古学にも記紀神話にも一切登場しないから、話にならない。「邪馬台国時代100年」も、意味/根拠不明である。
 現代は、通りすがりの無学な野次馬でも、もっともらしい格好の「新説」をぶち上げられるご時世である。会長の任にある内野氏の個人的な権威がどのように評価されているのか、素人の門外漢/部外者である当方には分からないが、かつて、『安本美典師が、季刊「邪馬台国」編集長就任の際に抱負として宣言した、然るべき「論文審査」』を経ていない「無審査」私見であれば、一介の読者/聴衆として「話が違う」と思うものである。(補追2023/11/01)

内野9つの仮説
①倭国大乱の原因・・(タウポ火山大噴火181年→気候変動→黄巾の乱184年) 黄巾の乱が倭国の乱190年前後につながる

*コメント
 (補追2023/11/02)
 衆知であるが「倭人伝」に「倭国大乱」はない。「倭人伝」は、何かの事情で、雒陽への報告/情報が途絶えたと言うだけである。それでなくても、後漢霊帝没後の混乱のため、雒陽は大乱の渦中であった。長安遷都が強行されたりしているから、蛮夷のことなど構っていられなかった。
 「黄巾の乱」自然災害起因説は「倭人伝」に無関係で、杜撰な「蛇足」である。「倭国の乱」は、新規の概念であるから、紹介/高言するのは、不適切である。
 いきなり、大すべりしていては、後段を読んでもらえないものである。聴衆が、一斉退席しなかったのは不思議である。

②卑弥呼の年齢を推理・・通説は180年に15歳で共立248年没83歳だが、210年15歳共立 魏への使節44歳 死53歳頃

*コメント
 (補追2023/11/02)
 「卑弥呼の年齢 」論は、二千年後生の無教養な東夷の浅慮から「日本」古代史学分野で氾濫している『「通説」無根拠』の好例である。史料を「大胆に」改竄しているいわゆる「通説」は論外だが、突発した新たな推測/憶説も、「魏志倭人伝」の正確な解釈から隔絶していて、何ら根拠のない「思いつき」である。史料改竄趣味が、「蔵付き酵母」の如く「伝家のお家芸」になっているのは、世も末である。
 いくら新規/新奇でも、卑弥呼が44歳にして「魏への使節」となったというのは、根拠の無い大胆/無謀な意見である。結末に「頃」(土地面積単位)がぶら下がるのも奇異である。
 「魏志倭人伝」に根拠の無い夢物語/いわゆる「通説」は、大概にしてもらいたいものである。

③長里・短里説は司馬懿への忖度から・・洛陽から大月氏国16000里、洛陽から邪馬台国まで17000里と5倍引き延ばし説

*コメント
 (補追2023/11/02)
 「忖度」は、主語がない暴言、粗雑な暴論である。「倭人伝」時代に存在せず、『二千年後生の無教養な東夷「後世人」が創造した「長里・短里説」が、三世紀の司馬懿に対する「後世人」 の「忖度」によって生じた』などと言う摩訶不思議な「思いつき」は、早急に撤回した方が良いと思われる。
 それはさておき、『根拠なし、意図不明の思いつきである「5倍引き延ばし説」』は、「倭人伝」道里を、現存地名間の行程に投影した、簡潔、明快、反論不可能な金石文と言える安本美典師の不朽の提言に堂々と背いている。世も末である。ついでながら、「洛陽から邪馬台国まで17000里 」なる思いつきは、根拠の無いこじつけの一例である。

④ニニギ天孫降臨物語は狗奴国の戦いが神話化・・不毛の地、南薩摩へ降臨への疑問と日向・延岡経由の戦略的側面攻撃説

*コメント

 「倭人伝」に無縁な場違い圏外の法螺話である。手前味噌も、大概にして欲しいものである。

⑤狗奴国は熊本県北・中部に位置する・・筑後平野の南、球磨川の北の熊本平野に存在し、九州南部は異種(後の熊襲)

*コメント

 「倭人伝」に無根拠の法螺話である。もし、位置付けが正しかったとして、何が「異種」なのか、何が「同種」なのか、意味不明である。

 アマテラス(卑弥呼)スサノオの誓約と天岩戸は30年の差・・誓約[うけい](出産)は高天原建国期で日食神話は晩年の死の時期

*コメント

 「倭人伝」に無根拠の法螺話である。 アマテラス(卑弥呼)スサノオの誓約」とは、何の夢想であろうか。独り合点の思いつきは、早々に引き下がるべきである。

⑥高天原神話、出雲神話、日向神話は順番完結ではない・・同時並行型神話で、出雲の国譲りは台与の時代のできごと

*コメント
 (補追2023/11/02)
 「倭人伝」に無根拠である。 中国史書「倭人伝」に「臺與」も「台与」もない。場違い、圏外、無縁の法螺話である。

⑦記紀の父子継承率100%は疑問・・古代天皇の父子継承率は10%前後、神話からの父子継承は垂仁天皇、成務天皇(13代)

*コメント

 「記紀」は、「倭人伝」にとって異次元/無縁である。場違い、圏外である。

⑧3世紀の「大和・纒向」時代は後進国、4世紀に大発展した・・崇神、垂仁、景行の纒向時代に領土拡大

*コメント

 「倭人伝」に、場違い、圏外、無縁の法螺話である。「後進国」を先導した「先進国」とは、何なのか。

まとめ
 「仮説」は、論証された根拠に立脚しなければ、「仮説」となり得ない単なる「個人的な思いつき」である。即刻、「ゴミ箱」直行である。
 以下、氏の「夢語り」が展開するが、論証がないから根拠が見られず、単なる思いつきの積層に過ぎない。

 誤解されると困るのだが、当方は、安本美典師の偉功に心服しているのだが、かくも奔浪のように論考の態を成していない「思いつき」が、安本美典師の峨々たる業績である月例講演会の前座に供されたのは、誠に傷ましいと思うのである。(補追2023/11/02)

                                以上

新・私の本棚 番外 内野 勝弘 第413回 邪馬台国の会 補追 1/4

魏志倭人伝・考古学・記紀神話から読み解く 邪馬台国時代の年代論
私の見立て☆☆☆☆☆ ひび割れた骨董品 2023/10/24 2023/10/26 2024/04/23

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯はじめに
 以下、本稿で批判する付表は、前稿に続く一部に過ぎないが、内野氏が、会長の立場で「倭人伝」道里の諸説を集約したと見えるので、まとめて批判を加えた。多様な誤謬は俗耳に膾炙していると見え、本稿は、卑(柄杓)の一振りで、些細な撒水を試みているのだが、広く燎火を鎮めることができれば幸せである。
 ともあれ、掲載された表は、疑問点満載で、批判内容を表内に書き込めないので、誰でも読解可能な平文に展開して逐条審議している。要するに、氏の提示した表は、混乱を掻き立てるだけで、何の役も果たしていないのである。

 と言うことで、以下、紙数を費やして、まるで初心者の論稿を添削指導しているようで、大変心苦しいのだが、氏が長年に亘って、このような論稿を公開し続けていると思われるのに、誰も、率直に指摘しなかったことを見ると、この際、赤の他人が、無礼を覚悟の上で、無遠慮に/率直に/誠実に指摘するしか無いように思うのである。遠慮して指摘を甘くすることは、氏にとって、百害あって一利がないものと思われるので、あえて、斟酌していないことをご理解頂きたいものである。

*本論
大月氏国と倭国・女王国から見る魏の国内・国際情勢
◯大月氏国
記録
 「後漢書」西域伝・大月氏国の条「229年12月 明帝は大月氏波調王(ヴフースデーヴァ王)」に「親魏大月氏王」の金印

 范曄「後漢書」西域伝には、以下の記事があるのみである。後漢は、220年に魏に天下を譲ったから229年は、場違いである。

笵曄「後漢書」西域伝 中国哲學書電子化計劃
 大月氏國居藍氏城,西接安息,四十九日行,東去長史所居六千五百三十七里,去洛陽萬六千三百七十里。戶十萬,口四十萬,勝兵十餘萬人。
 初,月氏為匈奴所滅,遂遷於大夏,分其國為休密、雙靡、貴霜、驸頓、都密,凡五部臓侯。後百餘歲,貴霜臓侯丘就卻攻滅四臓侯,自立為王,國號貴霜王。侵安息,取高附地。又滅濮達、罽賓,悉有其國。丘就卻年八十餘死,子閻膏珍代為王。復滅天竺,置將一人監領之。月氏自此之後,最為富盛,諸國稱之皆曰貴霜王。漢本其故號,言大月氏云。

 して見ると、内野氏は、引用の根拠を大きく取り違えていて、正しい出典は、陳寿「三国志」魏志明帝紀と見える。もったいないことである。

陳寿「三国志」魏志 明帝紀 (太和三年十二月)
 癸卯,大月氏王波調遣使奉獻,以調為親魏大月氏王。

 陳寿「三国志」魏志に「大月氏王」に「親魏王」印授が下賜された記録は見当たらない。
 まして、氏が謳い上げている「金印」が、古来言う「青銅印」であるか、異例の「黄金印」であるかは、正史からは、読み取れないと見える。古典的な「金印」(青銅鋳物)は、原材料が潤沢で、製造設備/技術も帝室付の製造工房である尚方に完備していたから、製造が「容易」であったため、漢代を通じ、蕃夷使節の来訪に際し、正使、副使に始まり、侯国の使人、果ては、随員に至るまで、印綬が大盤振る舞いされたとされているから、別に希少価値は無く、単に、再訪の際に、街道関所の過所(通行許可証/手形)、身分証明となったに過ぎないと見える。

 一部で、印綬は、国王代替わりの際に一旦返納するという説を唱えている諸兄姉があるようだが、万里の彼方から、あるいは、波濤を越えて、代替わりの報告に来いというのも、無理難題に属すると思うのである。近郊であれば、年々歳々時候の挨拶に来いということもあるだろうし、近郊であれば、大した下賜物もいらないだろうから、「歳貢」もあったろうが、それは、鴻臚が漢制に従って命じたものだろう。

 「貴霜」国なる国名について言うと、蕃夷来駕を受け付ける「鴻臚」の蕃夷/掌客台帳には、「貴霜」の文字は無く、その実態に拘わらず、大月氏国が王権伝統されているとして受け入れたのである。もちろん、本紀は、皇帝が受け付けた国書に従って、「貴霜」国としたであろうが、鴻臚の台帳は、漢武帝以来維持されていたので、更新も改竄もできず、「大月氏」として受け入れたことになっているようである。
 因みに、南北朝の分裂期を統一した隋唐は、北朝を展開した蕃夷の流れに属するので、その治世下、伝統的な鴻臚掌客の格付けがどのようになったか、調べる必要がある。
 どちらが正確な解釈であるかは、当方の素人判断の域を外れているので、断定は避けたい。
 
国内・国際状況 
 魏は西方の蜀と戦争状況の中、西方彼方の大国・大月氏国(クシャーナ朝)からの交易、同盟を目的にした遣使を歓迎した。
 司馬懿のライバルで西方経営を進めた曹氏の功績になった

 陳寿「三国志」魏志明帝紀記事は、儀礼記事であり「歓迎した」など冗句である。このあたり、思いつきの私見を付け足す悪習は、中々なくならないようであるが、論者の無教養と浅慮をむき出しにしていて、もったいないことである。

 魏は、関中を辛うじて勢力範囲内に保っていたものの、その西方、西域の入り口にあたる河西回廊は、涼州勢力が蜀漢と連携していたため、服従させられなかったと見える。つまり、事実上、西域への扉を閉ざされていたと見える。一方、東呉は、敦煌方面に商人を送り込んでいたことは、西域から「三国志」呉書に類する紙文書の断簡が出土していたことから、明らかである。というものの、涼州は、蜀漢に臣従していたわけではないので、涼州の帰属は不明である。
 ということで、「大月氏」が涼州勢力の目を潜って洛陽に参上したのは、あるいは、金銀玉石などの秘宝を通行料/謝礼として積んでのことかもしれない。世上、同時代の西域勢力分布が、麗々しく地図化されているのにお目にかかることがあるが、大抵は、良くある法螺話に過ぎない。

 班固「漢書」、笵曄「後漢書」に代表される正史「西域伝」記録から見ると、かつて、漢武帝使節に応対した大月氏は、匈奴同様の騎馬掠奪国家であった。涼州辺りに根拠を持って、北方に一大勢力を形成していたらしいが、匈奴の勃興で覇権を奪われ、遙か西方に夜逃げしたのである。
 但し、概して城壁国家ではなく、天幕に居住して、財貨は金銀玉石としていたから、「全財産」を携えても身軽であり、騎馬部隊として逃亡することが可能だったのである。全財産と軍馬をもとに、強力な騎馬軍団によって、亡命先のオアシス国家「大夏」を乗っ取り、周辺諸国を侵略、掠奪し猛威を振るったのである。移住当初、西の大国安息国の東方拠点を攻撃し、「国王」親征軍を大破して、「国王」を戦死させ、大量の財宝を奪ったと、欧州史書に記録されている。
 安息国は、西方メソポタミアにあった王都から号令して、ペルシャなどの近隣諸侯を動員して復仇したが、以後、両国境界付近のオアシス都市マーブ要塞に二万の大軍を常駐させて、大月氏/「貴霜」国の再来に備えたのである。
 貴霜国は、後漢代においても、生来の掠奪/侵略志向は健在であり、東方勢力である西域都護班超に執拗に反逆し、都度鎮圧された札付きの盗賊国家である。
 後漢後期は、西域都護の撤退に乗じて、大月氏が西域西半を支配した時代であるから、魏代に移って「交易、同盟」とは白々しいが、西域無縁の魏朝は、「金印」下賜で体面保持でき、西域都督を常設するより随分安上がりで、善哉であったろう。
 但し、三世紀当時、西域有力勢力であった貴霜国も衰退期にあり、追って、西方のペルシャ領から興隆してパルティア(安息)をイラン高原の支配から追い落としたササン朝「波斯」に服従したと見える。陳寿が言い残したように、蛮夷の諸族王の消長は、誠に儚いものである。

 以上、ちょっとした背景説明のはずが、字数が募ったのは、国内視点で西域を眺めている諸兄姉に、現地視点の史談を試みたものである。世の中、「一刀両断」は、歴史のほんの表層を撫でるに過ぎないのであって、何も斬れていないのである。

功労者
 魏の鎮西将軍 曹真の功績。子の曹爽と司馬懿はライバル

 蜀漢勢力に西方を阻まれた窮状からすると、まさに「棚からぼた餅」の蕃王来訪では、軍功/功績になどならない。後漢西域都護に対する反抗の数々は、明帝紀上では、云わないことにしたとしても、後漢代以来引き継いでいる鴻臚の記録には、堂々と記録されているので、この記事を持って、魏志「西域伝」を設けるなど論外に違いない。魏志第三十巻巻末に、劉宋裴松之が補追した魚豢「西戎伝」は、大部の蛮夷伝であるが、内容のほとんどすべては、西域都護が健在であった後漢代の記事を承継したものであり、後漢末期に西域都護を撤退して、「貴霜」国に西域の西半を支配された事態が魏朝に引き継がれたという魏朝の失態が明らかになるから、魏志「西域伝」は魏志から割愛されたのである。

 このあたり、劉宋当時、西域伝の欠落を難詰する批判が無視できなかったため、裴松之が、論より証拠とばかり、魚豢「西戎伝」の善本を貼り込んだのだが、二千年後生の無教養な東夷は、史料を読めないために、裴松之の注釈が陳寿の「西域伝」割愛を断固支持した意義を理解できず、無意味な批判を繰り返しているのである。いや、大抵の論客諸兄姉は、陳寿の残した三国志原本に不備があったため、裴松之が補追した裴注本が三国志完成版と見ているようだが、それは、事情ののみ込めていない二千年後生の無教養な東夷の浅慮なのである。
 裴松之は、当時の劉宋皇帝を始めとする時代読者の圧力に従いつつ屈せず、大量の「蛇足」を不備を承知で付け足したものであり、それら「蛇足」の補追されていない陳寿原本が「三国志」として完成されていると「密かに」述べているのである。いや、「密かに」と云うものの、文意を読解できる有為(うい)の読者には「自明」なので、明言したに等しいのである。
 裴注による補追の中でも、魚豢「魏略」「西戎伝」は、ほぼ原文収録されているので、一度、筑摩書房「三国志」に収録されている日本語訳を読み取っていただきたいものである。
 因みに、魚豢「魏略」「西戎伝」は「魏志」「西域伝」ではないので、当時、洛陽の書庫に収容されていた後漢/魏公文書を収録していても、正史としての厳正さに疑義が無いわけではない。魚豢の私見が無造作に書き足されている部分や錯簡、落簡らしいものはあっても、無造作な校訂、改竄の筆が加わっていないのは明らかである。
 因みに、東夷伝、特に「倭人伝」に関して、裴松之がほとんど「魏略」を起用していないところから明らかなように、陳寿の編纂は、粗略と見える魚豢の編纂の上位互換であったため裴松之が黙殺したと見えるのである。

 もちろん、魚豢は、烈々たる魏の忠臣であり、蜀漢、特に、逆賊の首魁と目される(「敵」などと敬称を付することは無い)諸葛亮に対して、猛然たる反感を表明していても、「老獪な陰謀で魏の実権を握り、ついには、天下を簒奪した司馬一族に阿(おもね)ることはあり得ない」ので、魚豢「魏略」に世上言われるような「曲筆」はあり得ないのである。
 して見ると、こと「倭人伝」道里記事に関しても、魚豢「魏略」は、「郡から倭まで」「万二千里」と普通に書いていたはずである。もし、それを曲筆で普通里換算して「二千里」と書いていたら、裴松之が、すかさず付注したはずである。

 それにしても、司馬懿は、曹操、曹丕、曹叡、曹芳四代の「幹部」であり、曹爽と同列/「ライバル」視は侮辱であろう。同年代の曹真はともかく、曹爽の如き青二才は、問題外と見ていたはずである。もちろん、当時の洛陽の高官・有司は、両者の格の違いを見ていたはずである。「ライバル」が示している「川釣りの漁場争い」などとは、別次元なのである。

 因みに、史官は、周代以来、国家官制の中で、むしろ取るに足りない卑位の官人である。また、後世の形容で「正史」と言っても、「三国志」に関して言うと、三世紀当時、写本の流通は無いに等しく、まして、全巻を所蔵する愛書家は存在したとしても、全巻熟読する読書人は、取るに足りなかったから、「正史」の影響力は希少であり、現代風に言う「政治的文書」などではなかったのであり、その意味でも、「正史」編纂に「権力者」が干渉することは皆無に等しかったのである。

 それにしても、ここでも、三世紀に存在しなかった生かじりのカタカナ語は、文意を掻き乱し品格を下げるので、ご使用を控えていただいた方が良いように思える。

                                未完

新・私の本棚 番外 内野 勝弘 第413回 邪馬台国の会 補追 2/4

魏志倭人伝・考古学・記紀神話から読み解く 邪馬台国時代の年代論
私の見立て☆☆☆☆☆ ひび割れた骨董品 2023/10/24 2023/10/26 2024/04/23

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

方角
 西方シルクロードの彼方の国

 貴霜国は、後世、遙か西方「ローマ」に延びていたとされる「シルクロード」の傍路であり、西インドガンダーラ方面に勢威を振るっていた。方角違いである。因みに、古代中国に「シルクロード」の概念は無い。

人口
 都10万戸 カニシカ王時代(在位(144~171)
 倭とは比較にならないほどの大国。

 班固「漢書」西域伝、笵曄「後漢書」西域伝、共に、大月氏に「都」は無いとしているから、これは、深刻な事実誤認である。
 「王都」が認められたのは、西方の「超大国」安息国が唯一の例外である。同国は、宿郵を備えた街道網を完備し、金貨、銀貨の貨幣を有し、皮革紙に横書きする「文化」を有したのであり、漢使が訪問した東方国境部から西方メソポタミアの国都クテシフォンまで、騎馬の文書使が往来することによって、今日で言う「軍事」「外交」の全権を与えていたのであるから、漢に勝るとも劣らない「法と秩序」の実質を認められていたのである。

 氏の云う「人口」は、西域伝「口数」のことか。「倭人伝」に「口数」は無いから、比較しようがない。また、遠隔の地の「人口」など、「国力」として評価できないのは明らかである。実体の不明な「戸数」、「口数」の数字を論じても、無意味である。

 中国古代史では、「大国」は不属の「主権国家」であるが、「大月氏」は、少なくとも一度は、戸数、口数、道里を西域都督に申告して服属したから、「大国」定義を外れ「倭人」と同格である。それにしても、倭とは比較にならないほど」は、弱小対象物としての大月氏を予告するものである。

距離
 魏の都、洛陽より大月氏国まで1万6千370里
 記録16000里X434m=6944㌔ 実測4000㌔(長里の実数に近い)

 笵曄「後漢書」西域伝では、「大月氏國,居藍氏城,... 東去長史所居六千五百三十七里,去洛陽萬六千三百七十里」である。要するに、一万六千里は「実測」などされていない。勘違いであろう。又、当然ながら当時の概念で「距離」は、無意味である。「長里」「実数」は、意味不明である。
 明らかに、当時の「貴霜国」王の居処は、大月氏の藍氏城とはかけ離れていて、当然、道里は異なるが、「公式道里」は、当初のままだったのである。これは、漢魏代に限らず、当然であった。

 勘違いと意味不明では、論拠にならない。いや、この「駒」の話に限ったことではない。

国力
 中央アジアの大国、クシャーナ朝・カニシカ王時代最盛期、後漢と接す。東西貿易で栄える。軍騎10万

 内野氏の云う「国力」の尺度が不明では、読者として、評価検証も、大小比較もしようがない。「倭人伝」に「軍騎」はない。
 笵曄「後漢書」西域伝は、「戶十萬,口四十萬,勝兵十餘萬人」と登録していて、耕作地を付与された「戸」が十万、つまり、収穫が十万戸相当に対して十万の兵としているが、これでは、常備軍とは見えない。それとも、各戸は、四人と見られる戸内から、一名の成人兵士を出しても、平然と農耕に勤しんでいたのだろうか。何れにしろ、この数字は、西域都護に対する申告/登録数であり、百年を経て、貴霜国に大成した時点では、これらの数字は現実離れしていたのであるが、更新はされていないのである。
 「後漢と接」したと云うが、「後漢」は、武帝以来の「漢」と称していたはずである。なお、後漢は、皇帝直々でなく、西域都督に折衝させていたのであり、格落ちの相手と見なしていたのである。「接して」とは、なにを言っているのか、意味不明である。
 前記の如く、大月氏は、後漢西域都護と角逐して屈服していたのである。又、西方は、一度侵略/掠奪に成功したパルティア侵略が、以後撃退され、大きく反撃/侵入を許している。
 どの時点の国力を評価するかと言えば、貴霜国の盛時であろうが、それは、後漢書に記録されていないし、いずれにしても、儚いものである。
 「貴霜」国繁栄の起源は、インダス川流域文明を活用した南方の商材を多としていたはずであり、「東西貿易」で栄えたとは、浅慮と見える。
 本当に貿易立国であれば、大量の軍騎は不要である。西方の安息国は、自衛のために二万人を境界部に貼り付けていたが、貿易相手を侵略して、掠奪する意志/意義は皆無であったから、常備軍は、僅少であった。国内各国も、常備軍を持たなかったから、内乱が生じにくかったのである。

 三世紀当時、どこにも「中央アジア」の概念は無い。また一つの時代錯誤である。ギリシャ流に云えば、「アジア」は、地中海東岸地域である。勘違いしてはいけない。

距離・説
 ほぼ実数に近い

 この「駒」も、何の話やら、皆目分からない。各駒が意味不明では、表にして対照する意味が無いように思われる。古来、史学論で、作表して、読者を煙に巻く手法は、学問的に無法と見える。なにしろ、もともと、短冊状の「簡牘」に縦書きしていた文書であるから、作表など存在しなかったのである。読者が、一定の理解をしない提言は、眩惑志向であり、学術的に無意味である。

 以上、大変な不勉強で、ここに「仮説」を提示できるものではないと見える。

◯倭国・女王国

記録
 [魏志倭人伝]倭人の条「239年倭の女王卑弥呼に「親魏倭王」金印を仮綬する」(過分なる恩賞、好意的)

 「魏志倭人伝」と書いて「倭人の条」は、無意味である。「」内に引用されている記事の根拠は、見当たらない。正史に西暦年数が算用数字で書かれているはずはない。二千年後生の無教養な東夷が、正史の記録文に、「過分」とか「好意的」とか、私見を書き足すのは、稚拙と言われかねない。

 遼東の大国・公孫淵には「楽浪王」のみ。

 「遼東の大国」と虚名を課されている公孫淵(国名でなく、人名である)は、後漢/魏の遼東郡太守である。「大国」など、見当違いである。また、自称したのは「燕王」である。
 漢制の郡太守は、帝国の根幹をなす大身で、国王に等しい高官である。国王は、漢・魏代、皇族にしか許されない臣下として至上の格別の称号である。因みに、「親魏倭王」は、漢制の王などではない「蕃王」であり、単なる髪飾りである。

                                未完

新・私の本棚 番外 内野 勝弘 第413回 邪馬台国の会 補追 3/4

魏志倭人伝・考古学・記紀神話から読み解く 邪馬台国時代の年代論
私の見立て☆☆☆☆☆ ひび割れた骨董品 2023/10/24 2023/10/26 2024/04/23,05/12

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国内・国際状況
 司馬懿は朝貢した倭を呉の背後と位置し、皇帝に呉の海上支配に対抗する大国と報告し司馬懿自らの功績を高めるために金印を仮綬させた。  

 司馬懿は、遼東郡を撲滅した際に、郡太守の誅滅は当然として、官吏、公文書もろとも、破壊し尽くしていて、とても、「東夷管理」の継続、拡大を志していたとは見えない。また、その時点で、司馬懿は、魏の最高権力者ではなかった。誤解・誤認連発である。
 帯方郡平定は、司馬懿遼東征伐とは別に実行されていて、明帝の勅命で、公孫氏の任じた郡太守は更迭され、新任太守のもと、帯方郡は、平和裏に皇帝指揮下に回収され、倭人に対して「すぐさま」参上を指示したと考えるのが、自然な成り行きではないか。

 郡の太守弓遵と使者梯儁は大月氏國に匹敵する同等な国とすべく距離、人口を報告した。

 帯方郡太守にとって、関心の的は、雒陽の意向であり、西方の大月氏などは無縁で、何も知らない/分からないから、「匹敵」など考えようもない。とんだ白日夢である。
 「倭人伝」に、距離・人口は書かれていない。史料にない事項を言い立てるのは、内野氏の白日夢であろうか。誰か、覚醒してあげないのか。
 郡太守と官人使者(行人)は、身分違いで対等ではないから、結託して策動することは不可能である。つまらない法螺話は、止しにした方が良い。新参の蛮夷への使者は、時として、いきなり斬首されるから、大身の官人は任用されないものである。

 そもそも、新任の郡太守には、使節団の現地報告を「捏造」する動機は、全く無い。「こと」が露見すれば、一族皆殺しである。また、雒陽での評価を上げようにも、当然、このようなつまらない事項に、命をかけるはずがない。つまらない法螺話は、止しにした方が良い。
 官人使者にしても、行人の大命を受けて、艱難辛苦の果てに大過なく往還したのに加えて、意味不明な指示を受けて報告を捏造して、それが功名になるのかどうか、皆目不明だから、命をかけるはずがない。つまらない法螺話は、止しにした方が良い。

 何しろ、いくら粉飾しても、何れは、郡倭の間で使者が往来するから、「道里」「戸数」は、知れるのであり、この時点で、ことさら必死で粉飾しても、早晩露見するのは明らかである。郡太守は、子供ではないから、その程度の分別は有していたはずである。つまらない法螺話は、止しにした方が良い。

 それにしても、明帝の手元には、生前に帯方郡の「倭人公文書」が、大挙将来されていたのであるから、「倭人」の身上は、とうに知れていたのである。公孫氏のもとで、長年東夷管理に従事していた郡太守が更迭され、新米に入れ替わっていたから、史料継承に難があったにしても無理のないところだが、最終的に、使節団派遣までには、倭までの行程は四十日程度と知れたのである。
 経過を振り返ってみると、「道里」「戸数」は、公孫氏の公文書遺物が、明帝に無批判で採り入れられた結果と見るのが、もっとも自然であろう。そうではないと主張するのであれば、半仮睡の臆測で無く、具体的な根拠を示すべきである。 

 どう考えても、内野氏の提案は、とんでもない言いがかりでは無いかと思われる。それとも、現代の古代史研究機関は、そのような捏造が日常茶飯事なのだろうか。とんだ、時代錯誤の幻想である。

功労者
 魏の大将軍 司馬懿の東方経営を進めた功績とすべく皇帝に強く上奏した。

 創作された司馬懿の「東方経営」は、時代錯誤の無意味な概念である。従来、司馬懿は、西方の蜀漢侵攻に対する「抑え」であったから、遼東方面に関する知識は白紙に近かったと見える。もちろん、何の功績も立ててはいない。
 仮に、司馬懿が「東夷」情勢を評価したとしても、地域の「交易」は、遼東半島から山東半島を往き来する渡海船が主力であり、また、遼東郡太守公孫氏は、勢力拡大に際しては、南方/西方との交易が盛んであった山東半島青州地域の支配に尽力したのであり、帯方郡の管轄する「荒地」は、意識の片隅にしかなかったのである。
 司馬懿の意識した「東方」は、高句麗の支配地域であったと見えるのである。氏の意見は、随分方向感覚が、ずれているように見える。

 帯方郡の管理した韓、穢、倭は、札付きの貧乏諸国/荒地であり、経営しようがない。漢武帝が朝鮮国撲滅後に、強引に四郡を創設したが、半島東南部諸郡「嶺東」は、一段と貧乏な荒地であり、漢制の郡が設立されたとしても、郡太守の粟(俸給)の出所がなく、忽ち「経営破綻」して引き払っているのである。残ったのは、半島中部以北の楽浪郡、そして、玄菟郡である。

 それにしても、誰がどのように「強く上奏」した証拠があれば提示いただきたい。内野氏の私見では、当時、司馬懿が最高権力者だったのだから、別に誇張の必要は無く単に上奏すれば良いのである。

 因みに、半島の三韓諸国は、晋代以降、高句麗が公孫氏の軛を免れて大挙南下したこともあって、百済と新羅の自立に進んで、高句麗共々帯方郡の支配を跳ね返し、帯方郡は、楽浪郡共々撤退したのである。ことは、司馬懿が、遼東郡の東夷管理体制を丸ごと破壊して「東方経営」など放念したことから来ているのである。

方角
 東南の大海の中、会稽東冶の東、呉の背後の国。南方的記述。

 どこの「東南」か、意味不明である。「大海」の方角ではないはずである。恐らく、氏の語彙にある「大海」は、倭人伝の説く「大海」と大きくずれていると思われるが、氏は明言しないので、何も伝わらないままである。
 当時の中原人の世界観で、魏から見た「呉の背後」 は、交址(ベトナム)、緬甸(ミャンマー)と思われる。
 「南方」も、どこから見て南方なのか不明である。「帯方郡から見て南方」と言うなら、狗邪韓国も、壱岐、対馬も「南方」である。とんだ呪文である。
 時の皇帝は、恐らく少帝曹芳であろう。さらに疑問を掻き立てる「呉の背後」については、後述する。

人口
 女王国の都7万戸(35万人)倭国15万戸(75万人)日本人口(鬼頭宏)59~75万人。あまりに少ない数字。
 推測200~300万人と多めに見て九州30~45万人、倭国15万人)

 三世紀当時「人口」は無意味である。とんだ時代錯誤である。戸数」から、現代流の「人口」を換算するのは、各戸の内情が不明である以上、無謀である。戸数が想定しているのは、夫婦と子供のようだが、人口に子供をどう数えるのか、不明であれば、不明と唱えるべきである。
 当時、倭人に戸籍簿はなく、従って、「人口」を数える制度はなく、精々、推測/臆測した「戸数」集計である。ただし、戸籍が記帳されていた証拠はない。存在したのは、各戸に対する耕作地割り当ての記録程度であり、これは、国制の根幹であるから、厳重に維持されたが、各戸構成は、維持されていたと見えない。当時、早世、夭逝はざらであり、各戸の内実を調べ立てる口数、「人口」に大した意味は無いから、これを言い立てるのは、二千年後生の無教養な東夷が、自身の先祖である三世紀「倭人」世界の情勢を知らないことを露呈している。
 蕃王に「都」はないから、「女王国の都」は錯誤/空文である。女王居処「國邑」は、精々数千戸規模と見えるが、当然、「直轄地は無税が常識」であり、「官人、奴婢が多数を占めていれば、農民は希少であった」ろうから、ことさら「戸数」を言うのは不遜である。
 倭国15万戸は、倭人伝に根拠の無い憶測である。二千年後生の無教養な東夷の「世界観」の呪縛を振り払って、三世紀人の「世界観」まで降りていかないと、「倭人伝」の描いている「世界」は、わからないのである。「人口」論は、氏の白日夢であろう。
 三世紀時点未生の「日本」の「人口」は、重ね重ね、時代不明、根拠/対象領域不明の「ごみ情報」である。後世、恐らく、八世紀あたりで戸籍制度が確立されて、以後、少なからぬ紙情報が残存しているのだろうが、「鬼頭宏」なる「専門家」の立論手法は不明である。提言、仮説、断言の何れにしろ、前提や条件付けが欠落して、数字だけが、ポツンと一人歩きしていては、単なる法螺話とされかねない、個人攻撃になっているのである。
 恐らく、八世紀近辺の時点の豊富な史料を根拠とした折角の推計情報を、根拠とできる情報が一切存在しない三世紀に転用されて「あまりに少ない」などと手厳しく批判/非難されるのは、ご当人にして見ると妄想と云われかねない「濡れ衣」ものであり、そのような悪名は圏外に排除いただきたいと願っているはずである。

距離
 都洛陽から帯方郡まで5000里 帯方郡より女王国1万2千余里 計1万7千里。
 記録12000里×434m=5200㌔ インドネシア方面まで行ってしまう。短里80m 960㌔実数相当 九州圏内

 帯方郡は、後漢末建安年間の設立であり、笵曄「後漢書」に収容された司馬彪「郡国志」には、洛陽からの公式道里は記録されていない。「魏志」に公式道里記事は無く、後年の宋書にも無く、晋書にもない。内野氏は、何を根拠に存在しない公式道里を標榜しているのか、不審で、不合理である。

 「基本的」確認であるが、「倭人伝」が明記しているのは「郡から倭まで」「万二千里」であり、「帯方郡より女王国」とは書いていない。「魏志」に書かれていない数字を、臆測で足し合わせても、臆測の段積みでは、「虚妄に過ぎない」と言われそうである。誠に不合理である。

 ついでながら、「倭人伝」に「郡から狗邪韓国まで七千里」と起用されている里数の根拠が、誤解の余地無く明示されているのを無視して、単純に、二千年後生の無教養な東夷の臆測で、全行程普通里で目的地を想定するのは、非科学的で、不合理である。非科学的な思考は、早く一掃していただきたいものである。傍証であるが、「倭人伝」道里に対して、魏、晋、南北朝、隋、唐、宋に到る期間、伝統的に何ら公式の異議は立てられていないのである。
 現代で云えば、安本美典師も、伝統的な解釈に従っているのである。一度、教えを請うべきでは無いか、と愚考する。

 さらについでながら、当時どころか、秦漢魏晋の歴代王国で、「公的制度としての短里」など、「どこにも存在しなかった」とみるべきである。内野氏程の方が「短里説」を支持するのは、如何なものか。当然、意義の成り立たない「長里」も、存在しないのである。単に、普通「里」と云えば済むのである。現に、正史には、そのような「里」が書かれているのであり、ほぼ唯一の例外は、「倭人」に関する万二千里由来の記事である。

追記: 2024/05/12
 正史たる隋書の「俀国伝」は「古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里」と称しているが、肝心の笵曄「後漢書」東夷列伝に、そのような記事は、一切存在しないのは先に書いた通りである。
 雒陽から帯方郡の道里が不明なのは、依然として解明されていない。誠に、趣旨不明で、不可解である。

                                未完

新・私の本棚 番外 内野 勝弘 第413回 邪馬台国の会 補追 4/4

魏志倭人伝・考古学・記紀神話から読み解く 邪馬台国時代の年代論
私の見立て☆☆☆☆☆ ひび割れた骨董品 2023/10/24 2023/10/26 2024/04/23

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国力
 東の果ての小国、海外(呉)への武力攻撃などの能力はない。小国30か国の連合体

 「国力」が正体不明、その評価は不可能である以上、資料に忠実に解釈を進めるべきである。
 当時、現代紛いの「連合体」など存在し得ない。「国」の態を成していたのは、対海、一大、末羅、伊都の4国であり、それ以外の名のみの「国」の事情を論じるのは「白日夢」であろう。

 因みに、「倭人伝」は、「更に東」の諸国を描いているので、倭人は、「東の果て」などではない。何かの錯覚であろうか。
 因みに、「倭人」が「小国」三十ヵ国の「連合」であるとすれば、それは「小国」などではない。氏の用語は、混乱していると見える。
 何しろ、「倭人」の領域は、把握されていないのだから、領域の広さは不明であり、殊更、領域の広さで国の大小は論じられないのである。
 海外(呉)とくると、東呉孫権も、蛮族の王となってしまう。まことに尊大である。
 因みに、当時の中国に「海外」の概念は無い。またもう一つの時代錯誤であろうか。それとも、氏の視点が錯乱していて、ここは、二千年後生の無教養な東夷の眼で見ているのであろうか。読者に超人的な理解力を要求するような「無理/難題」を言ってはならないと思うのである。

距離・説
 ①古い時代の短里説 ②誇張説 ③政治的忖度説

 無意味な列記である。「古い時代」とは、殷周代のことだろうか。太古の制度など幻影である。「誇張」は、計算の根拠が必要である。まして、当時「政治的忖度」などあり得ない。全て、虚偽/虚妄である。

◯内野説(5倍説)
 魏から外国に贈られた金印は大月氏国と倭国の二国のみであるが、大月氏国と倭国との国力は大きく違うのに金印付与されたのが謎とされる。

 当時「国力」は無意味で、ここで問われるのは、新参蛮夷の格付けである。当時の天子の評価は、当時の天子にしかわからないのであり、二千年後生の無教養な東夷に分かるはずが無い。最善の努力を払っても、誰にも解答が出せないのは、「問題」でも「謎」でも無い。
 天子が蕃王に「金印」を贈るなど論外である。そもそも、なぜ、それぞれの国に「金印」を贈ったのか。貴霜国に対しては、武力を抑えるための懐柔であろうが、「倭人」は暴虐でないので、全く異なった意義を持っていたと思われるが、いくら二千年後生の無教養な東夷が考えても、わかるはずはないから、「回答」を要求した「謎」ではないと見るものではないか。
 
 卑弥呼は司馬懿が公孫氏を滅亡させた翌年の239年にすぐさま使者を魏に送った。倭からの朝貢は司馬懿の功績を宣伝するためには格好であった。

 「格好」「すぐさま」と云いつつ、景初二年を踏み潰したまま「翌年」と正史を改竄し、一年をおいておもむろに遣使したとは不審である。そのような解釈は、たいへんな勘違いと自覚するべきである。陳寿「三国志」魏志によれば、「倭人」は、景初二年六月に帯方郡に到着したのであり洛陽に参上したのではない。と言うか、内野氏は、大胆にも、洛陽到着は景初三年という主張であろうか。
 景初二年中は、魏明帝が生存していたが、景初三年元旦に逝去しているから、景初二年中に上洛したかどうかは、大問題である。記録されている皇帝詔書は、明帝のものか、少帝曹芳のものか、本来、文献考証上の大問題を孕んでいるのである。陳寿「三国志」魏志倭人伝には、倭人使節の洛陽到着の年次は書かれていないが、魏明帝の逝去の際の、それこそ「画期的な事情」を無視していては、臆測/創作/改竄の類いとされて、反論できないのではないか。

 翌240年官吏梯儁は倭国に派遣され倭国に至るまでの行程、国情、政治など詳細に調査し報告した。

 無造作に「官吏」だが、下級吏人の筈はなく、帯方郡官人建中校尉梯儁である。
 魏帝が、国情/行程不明のまま下賜のお荷物を担いだ遣使を送り出すとは不審である。子供の近所へのお使いにしても不都合である。当然、使節団の発進以前に「郡から倭まで万二千里」と知れていたし、さらには、実務的に必須の所要日数四十日程度というのも知れていたはずである。

*反射的なダメ出し
 因みに、翌240年」とは、不可思議である。正史に西暦紀年など存在しない。「倭人伝」に書かれているのは、明帝景初二年の帯方郡訪問、同年十二月の皇帝詔書であり、翌景初三年の記事はなく、一年余を経た少帝曹芳の「正始元年」である。
 内野氏の「臆測」では、景初三年六月の帯方郡訪問、追って上洛、同年十二月の皇帝曹芳詔書であり、翌正始元年に下賜物を担いだ遣使が発進したという強行日程であり、明帝没後の喪中の景初三年の六ヵ月諸事自粛を思うと、信じがたい「特急処理」である。
 下賜物を発送するためには、道中諸国からの受入確認連絡が必須であり、未曽有の大事に関して、現地から即答が来るはずはないので、一年かかっても不思議ではない、「相当の期間」を要したと見るものではないか。そして、全地点からの確認が必要であるから、蕃王の配下から来る応答は、随分遅々としたもので在ったはずである。いや、遣使した難大夫、都市大夫が帰国して指示したとしても、ということである。
 「特急処理」など、有りえないのではないか。素人の反射的なダメ出しであるから、読者諸兄姉には、かえってわかりやすいと見て、一通り書いたのである。

*論評総括
 内野氏が、どのような検証で、ここに提議されたような短縮/強行/特急日程を支持したのか不明であるから、とても、信用できないのである。
 要するに、当然の事項なので、「倭人伝」から割愛されていても、当然の手順は、当然執り行われているはずである。またもや当然であるが、要するに、発進以前に、行程各地に使節団の到着予定を通達し、各地責任者から、確認を得ていたはずである。当然、そのような交信の所要日数は、使節団の所要日数設定の参考となったはずである。
 以上は、魏帝国という「法治国家」では、当然の手順であるから、「倭人伝」から割愛されているとしても「行われなかった」と主張するには、相当確固たる反証が必要である。

 帰国後、太守弓遵等は司馬懿の功績を高めるため距離、人口、位置は呉の背後の会稽東冶の東で1万7千里(5000里+12000里)大月氏国に匹敵する遠方の国で数十万の大国として報告を作成した。ゆえに朝鮮半島と倭国は人口と距離が5倍ほど水増しされた。陳寿や魚豢(魏略)はその記録を踏襲した。

 その時期、不遇であった「司馬懿の功績」なぞ、どうでも良かったはずである。
 繰り返しになるが、「倭人伝」に、「距離」「人口」は、一切書かれていない。「位置」は、初耳であるから返事に窮する。それにしても「数十万の大国」は、冗談がきつい。戸数のことなのか、何のことなのか。
 因みに、洛陽/帯方両郡の戸数、口数は、一戸、一人まで正確に集計されていて、五倍誇張など無意味である。そう言えば、郡管内の「朝鮮半島」道里の水増しも、本来無意味である。
 ついでながら、魚豢は曹魏の忠臣であり、逆臣司馬懿の功績を高める粉飾など死んでも行わないのである。
 
 「呉の背後」と言い切っているが、「会稽」は呉の中心部であり、その南部の東冶は、ほんの裏庭に過ぎない。氏は、漢数字が読めないのだろうか。二千年後生の無教養な東夷の地理感覚を、根こそぎ洗い直して、せめて、洛陽人の世界観で史料解釈に臨んで欲しいものである。別に「中国語が自力で発音できなくても」、つまり「読めなくても」関係ない。当時の実務を想定すれば、史官の深意は、行間や紙背から読み取れるはずである。
  
 因みに、公孫淵と孫権は、数次の書簡往復があり、実務として、遼東公孫氏の臣下「倭人」の素性は、東呉に既知であったと見える。

 それにしても、帰還して万里捏造」は、時代錯誤である。皇帝報告後に報告「作成」は不可能であろう。「万里」往復に要する日数は、氏の臆測の五分の一程度であろうから整合しない。古代史の泰斗である岡田英弘氏は、既に、「万二千里」を後世西晋代の「陳寿の創作」と断じていて、それはそれで、無根拠、臆測の随分軽率な断言であるが、内野氏は、高名な岡田氏の提言を、無断で改竄しているのだろうか。それとも、盗用、パクリの際の手違いなのだろうか。

 端的に言うと、陳寿は、「魏志倭人伝」の編纂にあたって、史官の「職務に殉じる」覚悟で、洛陽の各部門に所蔵されていた公文書の記載内容を遵守したが、無謬の天子である明帝が犯したと見える「道里」に関する「錯誤」を、文書交信の所要日数によって「事実上」是正し、当時の高官諸賢の同意/正解を得たのだが、二千年後生の無教養な東夷は、偏見に満ちているため、「魏志」に書かれていない風評/裏話を、寄って集(たか)ってでっち上げて、挙(こぞ)って誤読/誤解していると見えるのである。反論があるなら、文書史料を提示して、反駁していただきたいものである。

 因みに、少帝曹芳の最初の十年間、司馬懿はむしろ逼塞し、老妄を擬態して最高権力から遠ざかっていたから、もし、曹爽が司馬懿の野心を察知して、大権を駆使して司馬懿一族を誅殺するとなると、司馬懿に阿諛追従した報告者一族も、自動的に連座して皆殺しだから、ヘタな策謀はしなかったと見える。何しろ、漢書を編纂した班固は、史官として中立的な立場にありながら、絶対的な最高権力者であった大将軍竇憲が、時の皇帝によって誅伐された際に連座/刑死していて、有力者に追従するのは、ときに、死に至る近道だったのである。
 因みに、陳寿の司馬懿評価は冷徹で、司馬懿は、多年の功労で列侯とされながら、「魏志」に「伝」を立てられていない「不名誉」に浴している。

 一方、明帝没後、司馬一族の専横に抵抗した毋丘儉は、司馬懿が尊重することを誓約した曹芳を廃位するに及んで、反乱蹶起/敗死し、一族は全滅したが、「魏志」に伝を設けられている。制約のある伝の真意を読み取れば、明帝曹叡の信任が格別に厚かった毋丘儉が、当時、遼東を管轄する幽州刺史として公孫淵の上位者であり、「西方戦線から臨時に起用されて与力した、現地事情に通じていない司馬懿」と並ぶ副将として遼東平定に大きな功績を果たしたと理解できる。特に、公孫氏滅亡後の遼東の空白を突いて南下しようとした高句麗を、玄菟郡太守王頎に命じて長駆大破した功績は明らかである。当然、西晋政権下で編纂された「魏志」には、明記できなかったのである。

 ついでに言うと、帯方郡太守弓遵は、いわば「国王」に等しい高貴な身分であり、「等」で括り付けられるような同格の人物は、登場していない。軽率である。それとも、内野氏は、玄菟郡太守王頎が「黒子」として参画したというのだろうか。

◯まとめ
 総括すると、内野氏は、世上流布しているらしい、不出来な/理解できない元史料を、不出来に切り刻み、逐一味見しないままに盛り付けた俗説を、席上に提示しているが、実際は、一場の「ごみ史料」と化しているから、とても、食するわけには行かないのである。当方は、そのような率直な指摘を言いがかりと言われないように、大量の根拠を示して批判している。文句があれば、キッチリ反論して欲しいものである。
 総括すると、氏は、中国史料を、適確に読解する能力が不足しているのに、それを周囲に対して認められないままでいるようである。周囲は、氏を適切に支援する努力をしていないようである。困ったものである。

 内野氏の発表が素人ブログの片隅であれば、野次馬の雑情報として見過ごせるが、安本美典師主宰講演会の資料は、「邪馬台国の会」会長の絶大な権威もあって、世間の注目と信頼を集めるので、年代物の誤解の伝播を防ぐために公開書評せざるを得ないのである。
 ここに示されたような「誤解放置」は、氏の玉稿をだれも真剣に批評していないのが原因と危惧される。おかげで、部外者の素人が、憎まれ役を引き受けざるを得ない。

 ぜひ一度、ご自身の思考過程を、一歩一歩確認/ご自愛いただきたいものである。一度、公開してしまえば、それは、不滅の業績なのである。是非とも、自重いただきたいものである。

 冒頭に「ひび割れた骨董品」と悪態をついているが、ひび割れた焼き物は、「金継ぎ」すれば、ひび割れる前より遥かに高い価値を得ることができるのである。ぜひ、ご自愛頂きたいものである。

                                以上

2024年4月22日 (月)

私の本棚 51 水野 祐「評釈 魏志倭人伝」 1/10 補充 改頁

 雄山閣 新装版 2004年11月 (初版 1987年3月)
私の見立て★★★★☆ 『「倭人伝」は「唯一無二の史料』 2016/06/18 追記 2020/06/07 2021/07/17 2024/04/21

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯はじめに
 本書は、以前から大型書店の書架で見かけていたが、何しろ、本文653ページの大部であり、また、本体価格で12,000円の高価な物だったので、内容に価格ほどの価値があるかどうかの懸念もあって、なかなか手が出なかったが、最近、古書の掘り出し物が見つかったので慌てて購入したものである。
 一度、大型書店の立ち読みで流し読みして、手堅い論考に一目置いていたが、今回、自分の蔵書として、じっくり読んでみると、大変な労作であり、また、当ブログ筆者が最近「俗論」と勝手に呼んでいる、「通説」固執の議論がほとんど見られないので、一段と敬意を深めたものである。

*概要
 まずは、宮内庁書陵部蔵書である三国志宋版刊本(「紹煕本」)影印が綴じ込まれていて、これに続いて、凡例と目次を挟んで、句読点を補充し全29段の区分入り「漢字原文」が続いている。
 なお、「紹煕本」は「倭人伝」と小見出しして開始しているので、正式名称云々の雑音の毒消しになっているように思う。

*充実不偏の引用文献
 巻末の主要引用参考文献目録には、およそ、膨大な「魏志倭人伝」関係書籍群に加えて、魏晋朝時代の当時の社会動向、政治思潮を書き綴った岡崎文夫氏の「魏晋南北朝通史」 や邪馬台国に関する論考を集成した橋本増吉氏の「邪馬臺国論考」、さらには、松本清張氏の「清張通史-1 邪馬台国」等々、与党的と見える論考があげられているのは当然だが、野党的と見られる安本美典氏の「新考 邪馬台国への道」、そして、古田武彦氏の「『邪馬台国』はなかった」もあげられている。ただし、最終例は、「邪馬台国」のカギ括弧が抜けた誤記になっているのは、ご愛敬である。
 以上のように、書名を書き連ねたのは、本書が、安易な通説固執の弊を免れていると感じさせてくれると言うことである。

*原史料密着の姿勢堅持
 著者水野氏は、自身明言のように、いわゆる「九州派」であり、不偏不党とは言えないが、根拠のない度を過ごした偏見は見られず、また、野党的な論考であっても、採り入れるべき主張は採り入れるという姿勢が貴重である。
 ということで、さりげなく、「漢字原文」と書いたが、ごく一部の例外を除けば、影印本の記載に従った読み取りであり、従って、世に溢れている原文書き換えは、避けられている。
 著名な例で言うと、「邪馬壹國」、「一大國」、「会稽東治」、「景初二年」、「壹與」の表記が採用されている。中国史書である「倭人伝」を、中国史書として考察するという、当然の前提に従うものであり、当然の処置である。

                                未完

私の本棚 51 水野 祐「評釈 魏志倭人伝」 2/10 補充 改頁

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*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

・視点明示~史料批判
 冒頭に宣言されているように、氏の「倭人伝」観は「古代日本に関する(唯一無二の)中国史料」と言うものである。
 つまり、氏は「日本史」の文献史学による考察にあたり、「国内史料は辛うじて第五世紀に始まるに過ぎないから、それ以前の世紀に関しては、国内史料が存在しない、従って、中国史料に依存せざるを得ない」との確認を経ている。これは、誠に確実な考察であり、貴重なものである。
 続いて、史料の乏しい(つまり、事実上、存在しないに等しい)(日本列島の)古代史の研究にあたっては、外国起源の史料であっても、本質を追究して史料価値を見極め、「倭人伝」の史料としての確認を進めていくのである。
 俗な言い方で気が進まないが、「有言実行」であり、ずっしり重みがある。
 追記すると、以上のような冷静な視点は、大抵の「倭人伝」論に欠けているものであり、是非とも、天下に「蔓延」してもらいたいものである。

◯概観
 著者の考える指針として、「倭人伝」の解釈に際しては、「虚心坦懐に」記されたままを素直に本文に即して読むことから出発」し、「その検討に際しては」、まずは、「倭人伝」の文章とそれ以外の「三國志」、特に「東夷伝」の文章と対比して検討することが示されている。さらに、『「先入観」に禍いされて、自説に都合のよいように「倭人伝」の字句を改訂したり、勝手に解釈したりしても、それは、価値のない研究に過ぎない』と主張している。
 そして、「考古学によって帰納的に解明される倭国像と中国史料によって解明される倭国像は、究極的には一致するべきものであるが、それぞれ、異なった分野の研究であるから、の過程において安易に両者を合致させようとすると、研究の進路を誤ることになりかねない」と危惧し、「互いの研究が自力で確実な結論に至ったときに、整合を図るべきだ」と述べている。
 こうした提言は、まことに合理的なものであり、本来、広く遵守されるはずなのだが、衆知のように、このような先人の提言は見事に裏切られ、考古学成果は、データに基づく帰納的検討ではなく、データが先入観に合うように解釈・整備されて、当方に「俗論」などと悪態をつかれている昨今である。
 本書刊行当時、すでに、「三国志」などの中国史料に対する(国内)考古学研究者の「反感」、「敵視」が顕著だったようで、世上、「もし本書(三國志)がなかったならば、女王國も、邪馬壹國も、またその他の国も、卑弥呼の存在も、何もわからず、従って、邪馬壹國論争などは全く起こらなかった」と述懐している例まである。
 これは、あくまで寓意としているだけで、本気で「百害あって一利無し」などと思ってはいないことは言うまでもないはずであるが、文字通りに解釈する向きにして見ると、至言と解しているのかも知れないのであるが、それはそれとして、当分野の議論が、「学術論義」でなく、個人的な「信念」なり「感情」で大きく左右されていることは、見逃せない。
                                未完

私の本棚 51 水野 祐「評釈 魏志倭人伝」 3/10 補充 改頁

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*「三国時代史概観」
 本書は、倭人傳本文の評釈に先立ち、第二章 魏を中心とする三国時代史概観、と題して、後漢朝衰亡期に始まる、一世紀あまりの乱世に堕ちていく政治、社会動向が描かれている。この期間に含まれる、倭人傳に所縁のある後漢桓帝、霊帝治世時の深刻な内紛も描かれている。

*「桓帝霊帝時」談義~余談
 以下、余談に近い、私見であり、氏の見解を云々するものではない。
 「倭人伝」に見られる後漢桓帝霊帝時の時代は、後漢の内征崩壊が露呈した時期であり、東夷管理が、漢武帝創設の楽浪郡による秩序が、同地域の支配体系として新興の遼東郡の管理に堕したことも容易に想到できる。それまで定期報告で現地事情を悉に把握し、頻りに訓令した雒陽の主管部局の東夷管理が遼東郡の管理に委ねられ、放任時代になっていたのである。

*参考書紹介
 因みに、当ブログ筆者の同時代参考書は、主として、陳舜臣「中国の歴史」、宮城谷昌光「三國志」、それに、岡崎文夫「魏晋南北朝通史」(国会図書館の近代デジタルライブラリー所蔵は、内外両編揃い)であるが、あくまで時代背景を知る読書であり、厳密に参照しているわけではない。
 世上、「史料批判」の何たるかを知らず、また、先人によって、適確な「史料批判」が、既に徹底的に為されていることも知らず、ひたすら、「倭人伝」の史料価値の欺騙を叫ぶ無知、無教養な素人論者が見られるが、陳寿が編纂にあたって確保していた教養から見ると、「二千年後生の無教養な東夷」の独善と見るものであり、まずは、ご自身の無知/無教養を癒やすべきと思う。
 無知は、致命的であるが、「やまい」ではないから治療のしようがないが、ご当人が気づいて、自覚是正すれば救われるのである。さしあたっては、本書が、妙薬となる可能性があるが、まさか、味見も咀嚼もせずに「鵜呑み」はしないだろうと思うのである。

*「概説」の偉業
 と言う事で、本書の冒頭では、「概説」篇として、陳寿「三国志」とそれに先行する史料である「三史」(司馬遷「史記」、班固「漢書」、笵曄「後漢書」)、さらには、隣接する魚豢「魏略」について、適切な概評が加えられている。
 時代、地理背景として、(後漢末期)遼東郡が半島中部に設けた帯方郡から海峡向こうの東夷に管轄を及ぼすに至った経緯とその滅亡が説かれている。
 薄手の新書版は本書の真似はできないが、その際は、本書の該当部分を参照する「注記」として一々再現する必要はない。適確な参照は短縮紹介に遙かに勝る。言うまでもないが、当節の軽薄新書「倭人伝」談義は、思いつき、思い込みを怒鳴り立てず、本書などの先賢諸兄姉の著作を踏まえて、それを克服した上で、ご自身の意見を述べるべきである。いや、言うまでもなく、これは、氏の教戒を承けた自戒でもある。

                                未完

私の本棚 51 水野 祐「評釈 魏志倭人伝」 4/10 補充 改頁

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〇「鵜呑み」論 まくらに代えて
 本書は、何しろ大部の書籍であるから、手の届くところから、何とか咀嚼して、味わって飲み込み、消化するものである。
 鵜は、鳥類であって歯も舌もなく、川魚を囓りも味わいもせず丸呑みできるが、人は、歯で噛みしめ、噛み砕き、舌で味わい、匂いまで照顧して食するのである。その前に、ウロコや骨も内臓を取り除き、大抵の場合は、生食せずに、煮たり焼いたり調理、調味するのである。人間相手に、「鵜呑み」を言うのは、自身が「鵜呑み」の常習者だと物語っているのである。
 人は、決して、鵜の真似はしない。低級な比喩は早く撲滅したい。

-第二部 評釈篇 第一段 総序
*「倭人伝」事始め 「倭人在帶方東南」
 前置きに小見出し「倭人伝」の話をしたが、この小見出しが、陳寿の原本に、すでに書き込まれていたかどうかは、わからない。
 知る限り、「紹興本」に先行する旧版「紹興本」に小見出しは存在しない。
 念のため確認すると、「紹熙本」は、「紹興本」と共通した北宋刊本「咸平本」の良質写本に依拠している。「倭人伝」なる小見出しが、北宋刊本に存在していて、「紹興本」が取りこぼしたのを「紹凞本」が是正したのか、「紹興本」が正確に継承したのに対して、「紹凞本」が付け足したのかは、にわかに決めかねるところである。
*「紹凞本」所見 「坊刻の創成」~余談
 本「所見」は、「紹凞本」の由来を推測/確認するものであり、一部説かれている「坊刻」、つまり、官業でなく、民間事業に托したことを殊更批判していることに対する反論である。書誌学的事項に興味なければ、「紹熙本」の史料価値に影響を与えないとの趣旨を理解いただければ、深入りは不要である。
 南宋創業時に、北宋亡国時の「国難」を逃れて河南に逃亡し、再集結した天下一の英才が結集し、国富を傾けた経書、史書の「国家刊刻事業」の一環で、国史「三国志」として「紹興本」が刊行された。その際、南宋は、領内を広く捜索し、北宋「咸平本」の写本を呼集して、諸写本の異同を校勘し、最善の「咸平本」復元史料として「紹興本」を確立し、刊刻したのである。
*北宋咸平本の意義
 丁寧に言うと、北宋「咸平本」は、木版印刷により所定の部数が刊行されたが、皇帝以下、皇族、及び高官有司の蔵書として配布したのであるが、配付された刊刻本は、夫々の場で写本原本として起用され、言わば、それまでに発生していた異同を駆逐して、定本として統一を図ったものである。
 ただし、写本工程の宿命で、刊刻本から起こされた写本は、字数を重ねる毎に、次第に誤写が発生した。また、帝国中心部を離れた地域では、写本工の技術、教養が調わないために、高度な写本行程が確立できず、誤写が発生しやすかったとも思われる。刊刻本配付により、北宋が統一した天下に、それまでにない高精度の写本が普及したことは、北宋の重大な功績である。

                                未完

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*加筆再掲の弁
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*未曽有の「国難」
 さて、その際の「国難」は、西晋亡国事例の再現でもあったが、この際は、北方異民族による亡国、南方への避難と言うだけでなく、北方異民族が、「蛮夷を毀傷する中国文明」の撲滅を図った徹底的なものであった。
 「文書破壊」は、四書五経そのものの棄却、焚書に始まり、史記以来の正史に到る書籍類が根こそぎ駆逐され、更に、復刻をも許さないとして、木版印刷の版木に到るまで破壊したのである。地域としても、江水、つまり長江流域までに侵略が及んだので、宋代刊本事業は壊滅したが、侵略者は後退し江水流域で南宋が回復したが、甚大な破壊は、大打撃を与えたのである。
 先例である西晋滅亡時には、異民族軍に洛陽/長安が蹂躙されて、皇帝、皇族が連行されたが、退避できた皇族が江南で東晋を再興し、その際は、比較的良質な古典書籍類が生存したようであるが、北宋亡国時の国難は、そのような先例すら越えて、未曾有の甚大な被害と言って良いようである。

*再度の復刻
 さて、一旦、復刻を完成した「三国志」であるが、なぜか、再度、復刻が行われ、新たに刊行された「紹熙本」は、既刊の「紹興本」より優れていると判断されたということである。南宋創業に伴う「国家刊刻事業」計画としては、「三国志」刊刻は、いわゆる「紹興本」刊刻により終了していて、他の経書、史書の刊刻にかかっていたため、計画外として民間事業に附託したものである。そのため、時に「坊刻」と称されるが、それは「国家刊刻事業」の枠外で、民間の起用により刊刻したと言う事であり、別に、質を貶める根拠にはならない。いわゆる「坊刻」が刊刻の質が低いとは言い切れない。
 因みに、国難以前の北宋時代、刊刻は国家が独占していたが、亡国、南遷によって、中原の官営事業は壊滅し、辛うじて、江水、つまり、長江沿岸に展開されていた刊本事業を、侵略者の破壊から復元したものである。

*「青磁」の起源~余談
 そうでなくても、南宋創業の際には、太古以来、国家事業として運営していたものの多くが、宋代に興隆した民間事業に移管されたのである。
 参考であるが、北宋に至るまで、秘儀として天子の執り行う礼式に使用されていたのは、殷周代以来、精巧な青銅器が伝世されていたのである。北宋壊滅時、神聖な青銅器の避難が叶わず、南宋朝は、秘儀祭器に事欠いたが、殷周代の青銅器鋳造技術は、とうに喪われていて、祭器復元は敵わず、「青磁」と呼ばれる精巧な磁器が、青銅器に代わる祭器となったのである。
 歴代の天子は、太古祭器の継承が権威の根拠とされたので、青銅器に代わる「青磁」は、本来、尚方という名の帝室工房に独占される門外不出の技術であるべきであったが、南遷に伴って異動した尚方には、必要な祭器を制作するのに必要な技術、技術者、製造設備が完備せず、民間に委託せざるを得ず、結果として、青磁の技術は、南宋代に民間に流出したと見える。

                                未完

私の本棚 51 水野 祐「評釈 魏志倭人伝」 6/10 補充 改頁

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*加筆再掲の弁
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*印刷刻本技術の進化
 刊刻事業は、木版版刻技術とその版木で多数の均質な「単葉紙」に印刷し装幀製本する技術であるが、南宋再興期は、国家事業が整わず民間に依託したと見える。それは、印刷用紙製造技術も、同様と見える。北宋初期に完成した印刷製本技術は、帝室尚方が成し遂げた美術工芸であったが、北宋期に経済活動の盛んな長江流域に興隆した地域産業が、南宋創業時の国家事業を受託したことから技術的に進化して、民間事業として開花したと見える。
 「咸平本」断簡と「紹凞本」を比較すると、「紹凞本」で本文一行に対し細字で注釈二行を収める「割注」は、「咸平本」に見られず、注釈は、改行して同行格で書き継いでいるのが異なる。つまり、木版印刷技術の進歩で、細字で版を刻み、それを忠実、かつ迅速に印刷する技術が完成した。
 古来、発展的改善が「進化」であったが、遥か後世、欧州起源ダーウィン「進化論」により「生存競争による旧種駆逐、新種繁栄」が「進化」との新解釈が登場したが、本来、「進化」は「目覚ましい進歩」である。いや、当ブログでは異界の「躓き石」に属する余談であった。

*「紹熙本」談義
 三国志で言うと、「紹凞本」とは、南宋紹凞年間に審査、校正が完了し、テキストが確定したことから命名されたのであり、公開年間は、関係無い。
 ついでながら、当時最高の人材を投入して編集し、多大な費用を投入して、重複と見られかねない改訂版を起こしたと言うことは、当時の権威者が、「紹凞本」に「紹興本」に勝る(とも劣らない)価値を認めたと言う事であり、現代出版物の絶版、改版とは、重みが違うのである。推測するに、侵攻を免れた「蜀漢」旧地成都付近の蔵書家から良質写本の提供があったと見える。

*「紹凞本」所見の由来
 以上の議論は、尾崎康氏の名著「正史宋元版の研究」(汲古書院 1989年)の潤沢・深遠な書誌学的著述を大いに参考としたが、ここで附した「紹凞本」擁護の所見は、「紹凞本」起用の背景推察共々、当ブログ筆者の私見であり、異論は、当方に帰すべきである。「尾崎康氏」は、紹凞本について、否定的とは言わないまでも、消極的な意見に留めるべく「使命」を帯びていたようであるから、歯切れが悪いのは仕方ないと見て、勝手に代弁したものである。

*「倭人」論再開
 さて、本文論義に入ると、記事の冒頭に「倭人」の二字が置かれている。
 著者である水野氏は、これは、唐代以前の「日本人」呼称であるが、自称ではなく中国人が与えたと解している。因みに、三世紀論で、「日本」は、時代錯誤と批判されるが、ここは、少し緩い見方で見過ごすことにする。
 氏の見解に対し、当方も、ほぼ同感である。古代に於いて、「日本人」の側には、漢字について十分な知識はないから、いずれの時代の、どんな由来か、知る由もないが、中国からの頂き物の可能性が高い。但し、それなりに由緒のある命名であり、性急な思い込みは後回しとしたいものである。
                                未完

私の本棚 51 水野 祐「評釈 魏志倭人伝」 7/10 補充 改頁

 雄山閣 新装版 2004年11月 (初版 1987年3月)
私の見立て★★★★☆ 『「倭人伝」は「唯一無二の史料』 2016/06/18 追記 2020/06/07 2021/07/17 2024/04/21

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯傍道の「倭人」論など~私見
 別の段で、この呼称の由来について評釈されているが、当ブログ筆者は、異論と言うほどではないが、当評釈にない、別の意見である。
 「倭」は、倭女王の姿を描いたものと思う。人偏は、「人」の意味であるから、残りは、「女」、つまり、女性の頭上に、「禾」、つまり、稲穂の髪飾りが翳されている姿である。「倭人」は、そのように稲穂を髪飾りにした女王が束ねる人々であり、当然、稔りを言祝ぐ姿は、誠に尊いものと見るべきである。
 私見によれば、「倭奴」は、あるいは、諸蕃夷を改名した王莽によるものかも知れない。北方の猛々しい異民族、「匈奴」と対比して名付けたものであろう。という事で、書評に便乗して、勝手な意見を付け足している。
 後年、東夷が「倭」を嫌って「日本」と改称したというが、「女王国」を表す文字を嫌ったかと思われる。「倭」は、周代史書に残される貴称で、無理して返上したが、唐は蕃人上がりで古典にこだわらず自称を許したようである。

◯「在帯方東南」・最初の躓き石
 さて、「倭人」に続いて、後続の「在帯方東南」と五字付随句で、一応文の体を成している。つまり、私見によれば、東夷傳の走り読みで、ここまで来て「倭人伝」にぶつかった読者は、この七字で倭人の居住地を知るのである。
 もちろん、この後には、「大海之中依山島」等々が続いていて、詳しい知識を得られるが、「倭人」の概容を知れば良い読者(例えば、皇帝陛下)は、最低限の七文字だけで、取り敢えず十分と満足する可能性がある。
 つまり、この七文字は、独立して必要な情報を過不足なく伝えているが、それは偶然ではなく、史官の外夷傳編纂時の推敲のたまものである。
 朝鮮半島と西日本を包含した現代地図でわかるように、帯方郡治の想定される半島中部から見て東南は九州島であり、本州島は、九州島のすぐ東から、東北方向に延びて帯方郡東南方で収まっていない。このあたり、「倭人伝」の世界観、地理観が、端的に表現され劈頭を飾る名文と感じる。これは、あくまで個人的感想であり、いかなる効果効用をも保証するものではない。

 世にはびこる「邪馬台国」論議をまとめる書籍は、なぜか優勢とされている近畿説に「遠慮」してか、この点に触れないのである。

 いや、多数の論者の中には、この点に触れても、『大意として、そのように読めても、「現代人は、邪馬台国が近畿中部から九州北部まで支配していたことを知っている」から「倭人伝」の誤記と理解できる』と割り切っている。
 わずか七文字の解釈で、原文無視・改訂派が鎌首をもたげてくる。この手で行けば、「倭人伝」に何と書いてあっても、自説に沿って読み替えればいいから、「倭人伝」など、あってなきがごとしということである。「畿内説」、「纏向説」論者の暴論嗜好は、かくのごとく、無根拠の思い込みに支配され、史料論議の場から「外野」の荒地に踏み出しているのである。
 水野氏は、当ブログ筆者のまことに拙い指摘に遙かに先駆けて、そのような原文無視・改訂の勝手読みを否定している。
                                未完

私の本棚 51 水野 祐「評釈 魏志倭人伝」 8/10 補充 改頁

 雄山閣 新装版 2004年11月 (初版 1987年3月)
私の見立て★★★★☆ 『「倭人伝」は「唯一無二の史料』 2016/06/18 追記 2020/06/07 2021/07/17 2024/04/21

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*俗論の堰き止め
 かたや、世上、いの一番に論議すべき事項をすっ飛ばして、外部資料の勝手な持ち込みで、頑迷極まる俗論が形成されたのは、かねて不満であったが、そのような俗論を堰き止めようとする水野氏の賢明な配慮が表れている。

*倭人伝事始め 「倭人在帶方東南」
・最初の躓き石(追記)
 本書の最初のそして多分最大の躓き石は、「従郡至倭」に始まる行程記事の冒頭の「郡から狗邪韓国まで」(郡狗)行路の解釈の難点にある、と言うか、見落としにあるように思う。
 氏の堅実な解釈手順にも拘わらず、「循海岸水行」が「従海岸水行」と字義の異なる別字と読み替えられ、そのために、郡狗行程は、半島「海岸」に沿った「沿海航行」とみなされ、氏は、史官がこれを「水行」と称したと早計にも断じているのは、まことに残念である。
 氏は、在野の伝記類が同一文字の反復を避けて、同義の文字の言い換えを多用する点を想起して「循」に格別の意義を見ていないが、それ以外にも、史書行程記事における「従」は、必ずしも、何かに「沿って」の意味でないことが多いのを見過ごしているのは、やはり、氏の限界かと思う。
 大原則として、正史記事では、まずは、一字一義と見るべきなのである。要するに、文字が違えば託された意味が違うのである。

 古くは周に発し、承継した秦漢代以来の官道制度に、「海岸」沿いの「沿海航行」は存在しない。敢えて、正史の一条として構想された魏志「倭人伝」が、法外の行路を官道と制定したすれば、先だって諄諄と明記して裁可を仰ぐべきであるが、そのような手順が示されていない以上、法外の行程は書かれていないと見るのが、順当な解釈である。
 氏の解釈は、日本古代史視点では順当に見えたのだろうが、中国史料解釈としては古典用例を取り違えた曲解の誹りを免れない。
 当記事は、正史「三国志」魏志に書かれている以上、帯方郡に至る官道は、雒陽から漢武帝創設の楽浪郡に至る陸上官道の展延された官道を定義するものであり、「海岸」は陸上の土地であるから、もし、帯方郡から海上に出て船で南下するのであれば「乗船」の二字を要する。

*良港幻想
 氏は、何らかの史料を根拠とされたのか、「半島西岸は、多くの大河が流入して良港が多く、沿岸航行が容易であったと見ている」が、同時代、現地の地理、交通事情を考察すると憶測と言わざるを得ない。
 そもそも、半島西岸は、大河漢江が注ぐ漢城付近を最後として、南方の馬韓地域は、小白山地が後背に聳える狭隘な地域であり、多くの大河が存在するはずはない。大河と呼べそうなのは、小白山地の東、嶺東と呼ばれる広大な地域を南下する洛東江しかない。そして、洛東江は、対馬に向かうように、半島南岸の東端に河口を開いている。
                                未完

私の本棚 51 水野 祐「評釈 魏志倭人伝」 9/10 補充 改頁

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*加筆再掲の弁
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*大河幻想
 あるいは、先ほど示唆したように、帯方郡から山間南下した北漢江が、漢城(ソウル)東方で南漢江と合流している合流点から、南漢江を遡行する「水行」の道を採れば、これも一つの大河とみることができるかも知れない。
 一方、漢江河口部は、沖積平野、河口デルタであり、良港どころか海港は一切設けられない。海港は海岸の崖が迫り出した入江で、船舶接岸には水深が必要で、風波を避けられる海湾が必要なのである。
 また、南漢江上流は嵌入蛇行しているため遡行は不可能であり、洛東江上流との間が小白山地で遮られているため、早々に陸道に移行するのである。
 戦前、現地を精査した岡田英弘氏は、韓国鉄道中央線を参照した上で、竹嶺越えの官道に想到していたが、何故か、郡から狗邪韓国の行程として注意喚起せず、虚構の「海行」にひたったのは、残念である。

*西岸領域確認
 嶺東事情は置くとして、半島西岸の事情を言うとすれば、漢江河口部を過ぎた南部は、山地が海に張り出して、島嶼、浅瀬が多く、港湾があっても、後背地が狭隘で耕作地が乏しいので、当時、沿岸交易、市糴は希と見える。

*百濟南遷
 後世、南下した高句麗の大軍が百済王城漢城を包囲壊滅し、南方に退避した百濟王族が、南方の熊津、泗沘で再興したが、漢江付近から山東半島に至る海上経路は高句麗の手に落ち、百済は、南部諸港に逼塞し、漢江海港の奪還に挑んで、高句麗と激しく抗争したから、南部海港繁栄は、幻想と見える。熊津も泗沘も内陸であり、海港とはほど遠い。

*隋唐使来航
 後年、隋唐倭使は、青州から黄海に乗り出し半島西南岸沖を通過して九州北部に乗り入れる帆船航行路を新規開拓して竹斯到来したのを見ると、沿岸交通路は未設営であったと見える。
 以上の議論は、「正道」議論であり、「邪道」、つまり、斜めで遠回りの曲がった径(みち)の存在は否定できない。径があれば人物往来はできるが、それは官道でなく馬の通れないぬけみち「禽鹿径」である。

*「循海岸水行」確認
 氏が、以上の難点に気づいていれば、「循海岸水行」が、郡狗区間「水行」規定か、官道の注記に過ぎないか、考察したはずであるが、残念ながら、氏もまた、倭人伝の解釈でありがちな無意識の改竄を施したと見られる。

*大作の瑕瑾
 いや、いかなる史学者も、思い過ごしや勘違いは避けられない。大部の労作が、この一点で全面否定されるべきではない。全長万二千里、四十日行程の、ほんの一点に、瑕瑾があるという指摘だけである。

                                未完

私の本棚 51 水野 祐「評釈 魏志倭人伝」10/10 補充 改頁

 雄山閣 新装版 2004年11月 (初版 1987年3月)
私の見立て★★★★☆ 『「倭人伝」は「唯一無二の史料』 2024/04/21

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯見過ごされた提言
 本稿は、後日、氏の慧眼を賞する意味で追記したものである。

*「魏志倭人伝」狗奴国記事復原
 女王と不和でその氏神祭祀権威を認めなかった、つまり、氏神を異にする「異教徒」と見える狗奴国は、「絶」と思われ、女王国に通じていなかったと見えるので、「倭人伝」の狗奴国風俗記事は、正始魏使の後年、人材豊富な張政一行の取材結果と見るのが、水野氏の慧眼であり、納得できる卓見である。
 水野氏は、「其南有狗奴國」に始まる記事は、亜熱帯・南方勢力狗奴国の紹介と明快である。一考に値する慧眼・卓見と思われる。

其南有狗奴國。男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。[中略]男子無大小皆黥面文身。[中略]計其道里當在會稽東治之東。[中略]男子皆露紒以木綿招頭。[中略]種禾稻、紵麻、蠶桑[中略]所有無、與儋耳朱崖同。
 「其南有狗奴國」から「儋耳朱崖」は、南方狗奴国の詳解と解する方が自然である。
 ただし、「自郡至女王國萬二千餘里」は、場違いで衍入である。

 「会稽東治」も「儋耳朱崖」も、狗奴国記事であるから、陳寿の女王国道里地理観と、別儀である。
 して見ると、この部分は、報告者が異なると見える。正始魏使以後、張政が、女王国と狗奴国を調停した際の取材と見える。

*本来の「倭記事」推定
 つづく[倭地溫暖]に始まる以下の記事は、冬季寒冷の韓地に比べて温暖であるが亜熱帯とまでは行かない「女王国」紹介記事と見える。
倭地溫暖、冬夏食生菜、皆徒跣。[中略]其死、有棺無槨、封土作冢。[中略]已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。[中略]出真珠、青玉。[中略]有薑、橘、椒、蘘荷、不知以爲滋味。[中略]自女王國以北特置一大率[中略]皆臨津搜露傳送文書賜遺之物[中略]倭國亂相攻伐歷年乃共立一女子爲王。名曰卑彌呼。事鬼道能惑衆。年已長大。無夫婿。[中略]女王國東渡海千餘里復有國皆倭種。[中略]參問倭地絕在海中洲㠀之上或絕或連周旋可五千餘里。

 「邪馬壹国」が、伊都国の直下に隣接していると見れば、「女王国」紹介記事の気候風俗は、伊都國、邪馬壹国に共通すると見える。
 俗説のように、「邪馬壹国」が「伊都国」の遠隔地とすると、「女王国」紹介記事は、まことに不可解となる。纏向は、とても「温暖」とは言えないし、飛鳥地区は、更に、冬季寒冷である。とても「伊都国」と同一視できないのは、素人目にも、明らかなのである。

 ついでに言うと、山中にある寒冷な纏向が、会稽の東方に位置しているとか、南海の儋耳朱崖に産物が似ているとか、思いつくはずがないのである。

*本項結論
 要するに、「倭人伝」には、狗奴国は女王国の南方の温暖の地と「明記」されている。「北暖南冷」の奈良盆地とは、えらい違いである。

*未完成の弁
 以上のように、「倭人伝」道里行程記事批判の範囲止まりで頓挫している。どうも、本書に個人的書評は成立しがたいようである。前途遼遠。

 正直なところ、本書で滔々と展開された「史料批判」が、世上顧みられることなく、野に埋もれたままになっているのに呆れたこともある。
 凡そ、学術上の論議は、先行所説の批判と克服を踏まえて自説を提言することでのみ前進するものと思うのだが、古代史分野では、「黙殺」路線が大勢を占めていて、当分野の新参、素人は、困惑しているのである。

                                以上

2024年4月21日 (日)

新・私の本棚 安本 美典「狗奴国の位置」邪馬台国の会 第411回 講演 再掲

 2023/06/18講演 付 水野祐「評釈 魏志倭人伝」狗奴国記事復原 2023/07/22 2024/04/21

*加筆再掲の弁
*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*総評
 安本美典師の史論は知的創造物(「結構」)であるから、全般を容喙することはできないが、思い違いを指摘することは許されるものと感じる。

*後漢書「倭条」記事の由来推定
 笵曄「後漢書」は、雒陽に所蔵されていた後漢公文書が西晋の亡国で喪われたため、致し方なく先行史家が編纂した諸家後漢書を集大成したが、そこには東夷伝「倭条」部分は存在しなかったと見える。
 後漢末期霊帝没後、帝国の体制が混乱したのにつけいって、遼東では公孫氏が自立し、楽浪郡南部を分郡した「帯方郡」に、韓穢倭を管轄させた時期は、曹操が献帝を支援した「建安年間」であるが、結局、献帝の元には報告が届かなかったようである。
 「後漢書」「郡国志」は、司馬彪「續漢書」の移載だが、楽浪郡「帯方」縣があっても「帯方郡」はなく郡傘下「倭人」史料は欠落と思われる。

 笵曄は、「倭条」編纂に際して、止むなく)魚豢「魏略」の後漢代記事を所引したと見える。公孫氏が洛陽への報告を遮断した東夷史料自体は、司馬氏の遼東郡殲滅で関係者共々破壊されたが、景初年間、楽浪/帯方両郡が公孫氏から魏明帝の元に回収された際に、地方志として雒陽に齎されたと見える。

*魚豢「魏略」~笵曄後漢書「倭条」の出典
 と言っても、魚豢「魏略」の後漢書「東夷伝」「倭条」相当部分は逸失しているが、劉宋裴松之が魏志第三十巻に付注した魏略「西戎伝」全文から構想を伺うことができる。
 魚豢は、魏朝に於いて公文書書庫に出入りしたと見えるが、公認編纂でなく、また、「西戎伝」は、正史夷蕃伝定型外であり、それまでの写本継承も完璧でなかったと見えるが、私人の想定を一解として提示するだけである。
 笵曄「後漢書」西域伝を「西戎伝」と対比すれば、笵曄の筆が、随所で後漢代公文書の記事を離れている事が認められるが、同様の文飾や錯誤が、「倭条」に埋め込まれていても、確信を持って摘発することは、大変困難なのである。

*「魏志倭人伝」狗奴国記事復原
 念を入れると、陳寿「三国志」「魏志」倭人伝は、晋朝公認正史編纂の一環であり、煩瑣を厭わずに、両郡の郡史料を集成したと見える。史官の見識として、魚豢「魏略」は視野に無かったとも見える。魚豢は、魏朝官人であったので、その筆に、蜀漢、東呉に対する敵意は横溢していたと見えるから、史実として魏志に採用することは避けたと見えるのである。
 それはさておき、女王に不服従、つまり、女王に氏神祭祀の権威を認めなかった、氏神を異にする「異教徒」と見える狗奴国は、「絶」と思われ、女王国に通じていなかったと見えるので、「倭人伝」の狗奴国風俗記事は、正始魏使の後年、人材豊富な張政一行の取材結果と見える。

 安本師が講演中で触れている水野祐師の大著労作『評釈 魏志倭人伝』(雄山閣、1987年刊)に於いては、「其南有狗奴國」に始まる記事は、亜熱帯・南方勢力狗奴国の紹介と明快である。

其南有狗奴國。男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。[中略]男子無大小皆黥面文身。[中略]計其道里當在會稽東治之東。[中略]男子皆露紒以木綿招頭。[中略]種禾稻、紵麻、蠶桑[中略]所有無、與儋耳朱崖同。

 一考に値する慧眼・卓見と思われ、ここに重複を恐れずに紹介する。

*本来の「倭記事」推定
 つづく[倭地溫暖]に始まる以下の記事は、冬季寒冷の韓地に比べて温暖であるが亜熱帯とまでは行かない「女王国」紹介記事と見える。

倭地溫暖、冬夏食生菜、皆徒跣。[中略]其死、有棺無槨、封土作冢。[中略]已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。[中略]出真珠、青玉。[中略]有薑、橘、椒、蘘荷、不知以爲滋味。[中略]自女王國以北特置一大率[中略]皆臨津搜露傳送文書賜遺之物[中略]倭國亂相攻伐歷年乃共立一女子爲王。名曰卑彌呼。事鬼道能惑衆。年已長大。無夫婿。[中略]女王國東渡海千餘里復有國皆倭種。[中略]參問倭地絕在海中洲㠀之上或絕或連周旋可五千餘里。

*結論/一案
 要するに、「倭人伝」には、狗奴国は女王国の南方と「明記」されている。主要国行程は、對海國、一大国、末羅国、伊都国、そして、「邪馬壹国」と一貫して南下しているから、ここも、「邪馬壹国」の南方であることに疑いは無いと言うべきである。
 但し、西晋亡国、東晋南遷の動乱の時代を隔てて、雒陽公文書という一級一次史料から隔絶していた笵曄が、風聞に惑わされて、その点の解釈を誤ったとしても無理からぬとも言える。
 要するに、笵曄「後漢書」東夷列伝「倭条」は、「倭人伝」と対比しうるだけの信頼性が証されないので、「推定忌避」するものではないかと愚考する。(明快な立証がない限り、取り合わない方が賢明であるという事である)

 安本師は、当講演では、断定的な論義を避けているようなので、愚説に耳を貸していただけないものかと思う次第である。

                                以上

新・私の本棚 石野 博信討論集「邪馬台国とは何か」田中 琢 銅鏡論 1/2 三掲

 吉野ヶ里遺跡と纏向遺跡 新泉社 2012年4月刊
私の見立て 星無し ただし、本記事に限定  2021/04/14 2024/01/27, 04/21

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯はじめに
 本書は、掲題の通り考古学界の泰斗である石野博信氏が主催した当分野に関する討論会の集大成であり、本稿は、就中、「1992 邪馬台国ヤマト説 考古学から見た三世紀の倭国」と題された討論会記録の批判です。好著への批判は不本意ですが、総監督石野氏への責めと理解いただきたい。

◯「銅鏡百枚から見えてくる邪馬台国」
 本記事の題材は、水野正好、石野博信、田中琢(みがく)三氏の講演と続く討論ですが、やり玉に挙げているのは、最後の田中氏の「発言」です。上げたのは、氏の設定した小見出しですが、看板にもならない、ボロボロのものです。

*「無知と不勉強」前提の提議
 不審なのは、高度な学術的な討論の場と期待されている席に、なぜ、このような無知、不勉強な輩(やから)の登壇と無法な決め付け発言が許容されたということです。石野氏に人選責任があるのでしょうか。
 発言内容をなぞると、以下の感じです。

*根拠なき史料不信説諭
 何を考えてか、いきなり、低俗な史料不信を開陳します。
 具体的な記事をサカナに論(あげつらう)のでなく、自身の狭く浅い見識に基づく所感を強弁し、果ては、「お見合いに提出される釣書が、ウソばかり」との「風聞」を取り上げて、それが、史料不信の根拠とされています。胡散臭い古代史講演で定番の、自身の実体験らしい「卑近」ネタですが、退席せずに我慢するしかありません。

 この下りは、誰に向かって講釈しているのか不審です。ある程度、古代史の史料考証に慣れていれば、氏が、専門外では一介の門外漢で、無資格と自白していると見て取れます。無様な自己紹介です。「金返せ」です。

 いい年をして、自身の狭くて浅い了見で世界を推し量るのは大した度胸ですが、実史料に言及せずに、はなから、ご自身の「無知と不勉強」を高言していると思う次第です。いわば、「史料読まず・知らず」と言う自罰発言です。

 ご自身の保身は別として、どうか、他人を巻き込まないでいただきたいものです。
 「無知と不勉強」は、自習し適切な指導を仰いで是正するものです。「病的」と言われかねない性癖ですが、「病気」ではないから「つけるクスリ」はありません。

*不似合いな前置き~動機不純な文献排除
 なぜ、そのような途方もない思い込みを言い立てるかと推察すると、要は、本題の銅鏡談義で、二千文字程度の「倭人伝」すら持論を妨げる「鉄の壁」なので、捨て身で排除しているようです。「目的のために手段を選ばない」とは「カラスの勝手」ですが、見え見えの暴言は逆効果と悟るべきです。対象非限定の史料全面否定では、「良識ある人」は、共感、支持を憚(はばか)るはずです。

 と言っても、田中氏の持論は、古代史学界で、大変分の悪いと見える「三角縁神獣鏡舶来」説ですから、苦し紛れに「倭人伝」を排除しても仕方ないのですが、本稿の発言の冒頭で度を過ごして力説しているのは、それだけ持論が崩壊していると露呈しているのです。

*「無知と不勉強」の好例~景初・正始論議の不覚
 「無知と不勉強」の好例として、ようやく「倭人伝」に言及して、景初三年に関する発言が提示されます。
 氏は、勝手に、魏帝逝去時、直ちに改元したと思い込んでいますが、景初~正始改元の経緯は、衆知自明で、景初三年元日皇帝逝去、即日新帝即位で、その年は皇帝なしの景初三年が続き、翌年元日に正始改元です。
 即日改元なら景初三年は存在しません氏は無知の強みで無頓着です。

 大抵の「倭人伝」読者には常識でも、田中琢氏の周囲では「無知」が「常識」なのでしょう。

                                未完

新・私の本棚 石野 博信討論集「邪馬台国とは何か」田中 琢 銅鏡論 2/2 三掲

 吉野ヶ里遺跡と纏向遺跡 新泉社 2012年4月刊
私の見立て 星無し ただし、本記事に限定  2021/04/14 2024/01/27, 04/21

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯書紀の変格不法記事考察
 因みに、国内史料「日本書紀」神功紀補注は、景初三年記事を「明帝景初」と改竄しています。
 書紀編者は皇帝元日逝去の史実か、翌年改元の制度のいずれかを知らず、好意的に見ると、景初三年中、何ヵ月かは皇帝が存命だったから、そう呼んだとの先入観でしょうが、田中氏は、冒頭の「史料読まず・知らず」という自罰高言を裏付けるように、いずれの史料も「読めていない」不勉強を露呈しているのです。いや、はなからデタラメ満載と勝手に判定して、読もうとしないのでしょうか。
 では、記紀も読まない、以下の史書も読まないのでしょうか。一体、何を根拠に、こうした暴論を言い続けるのでしょうか。

◯石野氏弾劾発言の考察~敬意無き乱闘発言
 個人発言の後の、討論という名の意見交換で発生した大事件は、石野博信氏罵倒暴言です。
 銅鏡舶来・非舶来論議で、石野氏は、「不勉強」(勉強不足)と自認し、つまり、大人の態度で謙遜し、持論を公言するのを避けましたが、暴言氏はまるで理解していないようで、「だったら勉強しろ」と言い放ちます。子供の口喧嘩みたいです。
 まさに、この暴言は、自罰発言です。素人目にも、石野氏は、古代史の考古学分野の最高峰であり、広範、深遠な見識を備え、当然、銅鏡の由来にも定見を持っているはずですが、専門外への介入を避けたと見えるのです。(当方の銅鏡論は、定見に至っていないので、ここでは批判も何もいたしませんが、暴言は、敗勢を自覚した側から、自暴自棄隠しとして出るものです

 さらに深意を察すると、石野氏は、立場に相応しくないので、見解の明言を避けたと憶測されます。詮索を避け、「不勉強」発言をしたのは、まことに賢明です。

◯見当識喪失の発言
 単純思考の持ち主である暴言氏は、これが、「討論でなく衆知の結集を聴衆に伝える公開の場」との意義を失念し、討論論客が誰かも忘れ、大先輩に論敵面罵発言を呈したのです。正直の所、これ程の暴言が公開されたのは驚きです。
 田中氏は、「失見当識」に加え、書面発言を問わず、文章深意の理解力に欠けているようです。暴言蔓延防止のため、治癒まで蟄居謹慎をお勧めします。

*最後の暴言
 田中氏は、最後に、またもや、根拠の無い暴言を発して何とも無残です。

 曰わく、『昔はみな邪馬台国を「やまと」と読んでいた』。その証拠はどこにあるのでしょうか。氏は、史料を信じませんが、「倭人伝』にない「邪馬台国」を論じるのに、氏は何を信じているのでしょうか。奇っ怪です。まして、唯一信ずるに足る史料にない、手前味噌の国名の発音など、何の根拠もないのです。

*暴言救済
 水野正好氏が、取り繕うように蘊蓄を傾けますが、要は、『「倭人伝」に現実に書かれている「邪馬壹国」は「邪馬臺国」である』との改竄に始まって『「邪馬臺国」は「邪馬台国」と同発音』『「やまたい」でなく、「やまと」と発音した』と大変迂遠で、大飛躍連発であり、論理の鎖が繋がっているかどうかの不信は別として、これは、田中氏の持論に真っ向から挑戦するものと見えます。一向に、取り繕えていないのです。

*暴言フォローへの愚行
 水野氏の発言を理解できないのか、田中氏は、またもや『「やまと」と読んでいた』と暴言します。「つけるクスリがない」のでしょうか。
 「戦後変わったがそれ以前の昔は」と言う意図であるとしたら、「倭人伝」の時代である西暦250年頃から終戦1945年までの期間の発音の「信頼できる」記録史料はあるのでしょうか。と言うより、この暴論者は、信用できるのでしょうか。
 これでは、田中氏の銅鏡観の同調者は、氏の「無知と不勉強」に同調・加担していると見なされ、暴言者に連座して、不見識だと自罰することになるのです。

○小結尾
 田中氏の発言は、「邪馬台国」纏向派の足もとを根こそぎ掬います。主張のためには、唯一の同時代史料の「倭人伝」を「落書き」扱いするしかない、追い詰められた姿を露呈して、逆効果の自罰行為なのです。
 石野博信氏ほどの泰斗が、暴論の徒を招請したのは勿体ないと思います。そして、席上受けた罵倒を、愚直に収録したことに複雑な所感を覚えます。

                              この項 完

2024年4月20日 (土)

新・私の本棚 新版[古代の日本]➀古代史総論 大庭 脩 1/2 再掲

7 邪馬台国論 中国史からの視点 角川書店 1993年4月
 私の見方 ★★★★★ 「古代の日本」に曙光   2024/01/11, 04/20,05/24, 05/30

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

□はじめに
 大庭脩氏の論考は、的確な教養を有し、中国史書視点によっているが、国内史学界の潮流に流されて、氏の教養豊かな麗筆を撓めて、外交辞令に陥る例が散見され残念である。

□中国文献から見た「魏志倭人伝」~「魏志」考察
*「三国志」の版本
 氏は、写本論義を避け、話題を北宋咸平年間に帝詔により校勘、厳密な校訂が行われた「北宋刊本刊行時点以降」に集中/専念している。その際、三国志の正史テキストが統一され、それが、後年、紹興/紹熙本なる南宋刊本において復元され、今日まで継承されているのだが、それでは、史学界の飯の種である「誤記説」絶滅が危惧されるので救済を図ったと見え、「一方、厳密な校訂が行われたとしても、その判断は当時の知見の限度においてなされたものであり、刻工の作業段階で起こるケアレス・ミスの可能性を完全に否定する論理はあり得ない。」とあるが、論理錯綜で氏の苦渋がにじんでいる。

 陳寿遺稿の「三国志」原本が、西晋皇帝に上申され、皇帝蔵書として嘉納されて以来、言わば、「国宝」として最善/至高の努力で継承された史料の後生権威者集団による最善を尽くした校勘も、「三国志」原本の「完璧」な再現ではないのは当然であるが、氏は、写本継承の厳正さに触れることを避け、北宋時の刊本工程に飛び、「校勘されたテキストが一字の誤りも無しに刻本されたとは言えない」と迂遠である。

 以下2項は、大庭氏の論考に対する異議ではなく、氏の見解に触発された所見であるので、「余談」として、意識の片隅に留めて頂ければ、望外の幸甚である。

*乱世の眩惑 ~私見 余談 2024/05/30
 二千年にわたる「三国志」原本継承の怪しいのは、先ずは、南朝側から北朝側への流入であり、特に顕著なのは、南朝滅亡時の北朝への写本献上である。南朝最後の「陳」は、先行する「梁」の威勢の順当な継承でなく、まずは、半世紀に及んだ梁武帝の雄大な治世下、北朝側から侵入した侯景の建康長期包囲により、帝国の統治が瓦解した時代があり、「梁」の滅亡後、北朝の干渉により、「梁」の中核部を維持した「陳」と周辺地域を支配した「後梁」に分裂した乱世が、北朝を統一した「隋」の征服で決着したものである。陳後主が降伏時に「三国志」原本を隋皇帝に献上したかどうか不明である。何しろ北朝天子である「隋」は、建康に屯(たむろ)していた賊子を撲滅したのだから、「陳」の蔵書をいかに収納したかは、不明なのである。
 「隋」の北朝統一に前だって、北朝東方で古来の雒陽を占拠していた「北齊」は、中原天子を自負して、正史を含む古典書を集成し、後の「太平御覧」の先駆になる巨大類書を編纂したとされているから、史書集成は着々と進んだとも見える。但し、北朝の西方の「北周」は、古来の「長安」を根拠に、太古の周制の復古を目論むとともに、前世蜀漢の旧地を南朝から奪って、三国鼎立の形勢を得ていたが、西域を確保した上に「中國」の大半を支配していたので、鼎立の覇者を自負していて司馬遷「史記」、班固「漢書」、陳寿「三国志」の「三史」の確保を進めたかもしれない。
 要するに、挙国一致体制で組織的に行われた北宋刊本、南宋復刊の大事業のアラ探しをするより、暗黒時代とは言わないが、数世紀に及ぶ乱世を考慮するのが賢明である。

*笵曄「後漢書」雑考 ~私見 余談 2024/05/30
 なお、この乱世に於いて、笵曄「後漢書」が、いかにして継承されたか、滅多に論じられないので、不審である。
 笵曄は、「西晋が北方異民族の侵攻破壊で滅亡し、辛うじて、南方の建康で再興した東晋」の後継、劉宋の重臣であり、皇帝蔵書として継承した「三史」に対して、後漢代史書が不完全であるのに着目し、「三史」と並ぶ史書とすべく「後漢書」編纂に従事したものである。但し、すでに、班固「漢書」に続く「後漢書」の根拠となる雒陽公文書は散逸していたので、先行諸家後漢書を換骨奪胎して本紀、列伝部分を集成したものの、西域伝、東夷伝の集成には不備が多く、魏代に後漢代以来の記事を整えた魚豢「魏略」を起用したものとみえる。なかでも、後漢末期の桓霊帝及び三国鼎立期に入る献帝期の東夷記録、なかんずく新参の「倭条」の欠落は補填しがたかったので、陳寿「三国志」魏志「倭人伝」を加工して、後漢書の担当である後漢霊帝期にずらし込んだと見える。そのように造作された笵曄「後漢書」東夷列伝「倭条」は、世上、「偽書」とされかねないと見えるが、世上「偽書」論義は見られない。
 何しろ、偽書を根拠とする後世史書、類書の「倭」記事は、自動的に虚構となり、余りに多大な、破壊的な結果をもたらすので、明言できないものと見える。
 そうした不吉な由来はともかく、史官ならぬ文筆家であり、劉宋高官であった笵曄は、劉宋内部の紛争に連坐して斬首の刑に処せられ、嫡子も連坐したので、笵曄の家は断絶したのである。つまり、笵曄「後漢書」の完成稿は遺せず、まして、重罪人の著作は、劉宋皇帝に上程されることはなかったのである。
 南北朝の南朝側で、非公式な後漢書として継承されていた状況は不明であるが、南朝皇帝蔵書として堅持された陳寿「三国志」すら、写本継承の瑕瑾を論じられるのであるから、『笵曄「後漢書」原本を確定し、なかでも、素性・由来の疑わしい東夷列伝「倭条」の画定を図るのは、多大な論考が必要』と思われるが、寡聞にして、例を見ない。

*閑話休題
 北宋代の刊本は、東晋以降の南朝が保持していた原本と各地の蔵書家の所持していた善本の集成により、北宋が唐代文物を結集した 組織的に行われた刻本であるから、「刻工無謬」であろうとなかろうと校勘稿と試し刷りを照合する「最終校正」により逐一是正されるから、刻本行程で発生する「誤刻」は、実質上皆無と見て良い。「可能性を完全に否定する論理はあり得ない」の「二重否定」で、希有な事象を露呈させ、本筋から目を逸らさせているのではないかと危惧する。
 まして、意味不明の「ヒューマンエラー」で、善良な読者を「眩惑」して、私見を押しつけるのは「迷惑」以外の何物でもない。

*最後の難所~南宋刊本復刻~私見
 氏は、あえて論じていないと見えるが、ここで、刊本の正確さを論じる際に不可欠なのは、北宋刊本から南宋二刊本への継承であり、南宋創業期に二度、校勘刻本された紹興本、紹熙本の微妙な事情/実態を考証する必要がある。

 尾崎康氏の労作「正史宋元版の研究」で確認できるが、北宋末の金軍南進「文化」全面破壊で、国書刊本は版木諸共全壊し、南宋刊本は、損壊を免れた上質写本に基づいて復元を図ったが、最善を尽くしたとは言え、上質写本でも不可避な疎漏があったと見える。

 そのため、四書五経をはじめとする厖大な古典書籍の大挙復刻という一大挙国一致事業に於いて、陳寿「三国志」南宋刊本が、第一次として「紹興本」として復刊されたといえども、(わずか)数十年を経て、より上質な写本から再度「紹熙本」を刻本したとされている。つまり、南宋校勘の最終成果を示す意図での再刻本と見え、尾崎氏は「紹熙本」の称揚を避けざるを得ないので、明言はしていないが、氏の筆の運びからそのように見える。示唆の深意が容易に想到できるのは、明言に等しいのである。

 大庭氏の口吻は微妙で、漠たる一般論に転じて「写本ならば、その一本限り」の謬りとしたが、中国に於いて、帝室蔵書として厳格に継承された写本といえども、一度、いわば、「レプリカ」として世に出れば、最早、最善写本と言えなくなり、以後、在来写本は、順次在来継代写本になり、子が孫を生んで下方/市井に継承され、謬りは、順当に継承/蓄積され、しばしば増殖していく行くことは、世上常識であるから、氏の述解は、素人目にも的外れの難詰である。
 結論として、史料の正確さは、写本継承工程では、個々の写本の厳密さの積層/累積に依存し、固有の、自明の限界を有していたのであり、国内史学界の風潮に馴染んで、「公的校勘、写本を受けられず、写本者の個人的偉業に依存して、散発的に継承され、写本毎に個性を募らせている」国内独自事情の秘伝「写本」継承を、厳格に管理された「三国志」南宋刊本を超えて尊重するのは、誠に度しがたい本末転倒である。

〇卑弥呼の時代の東アジア~「水上交通」論への異議
 続いて、氏は、渤海湾水上交通」なる現代概念を投影しているが、氏ほどの顕学にして、「水」が河川との古典用語常識から乖離して不用意である。同時代用語がないので仕方ないが、せめて「海上交通」として、とにかく、読者の誤解を招く用語乱用は避けねばならない。「水」は、あくまで真水(clear water)である。塩水(salt water)かどうかは、口に含めば子供でもわかる。
 また、氏は、慧眼により、的確に、青州・山東半島を要(かなめ)として、遼東半島に加えて、朝鮮半島中部「長山串」との三角形の交通』を論じているが、少々異を唱えざるを得ない。両交通の要点は、短時日の軽快な渡船であり、陸上交通のつなぎである。但し、三世紀当時、帯方郡管内は、未だ「荒れ地」であったから、「長山串」交通は、言うに足る商材が無く、「海市」は閑散が想定される。いや、近隣のものが野菜や魚(ひもの)を売り買いするのは、自然のことであるが、隣村まで野菜、魚を売りに行くのは、商売にならないことが、太古以来知られている。

*瀬戸内海海上交通論

 例示されている瀬戸内海であるが、芸予・備讃島嶼部は、南北海上交通が、渡し舟同様の小船で往来可能と見えても、東西の多島海海上交通は実行困難(持続不可能)な難業であり、また、中央部は「瀬戸」でなく、島嶼のない「燧灘」(ひうちなだ)なる「大海」(塩水湖)「瀚海」(塩水の大河)で南北に懸隔されていて軽快な渡船では渡りきれないとみえ、要するに一口で言えない。氏の東西交通に集中した地理観は、後世的/巨視的であり、三世紀当時の世相から隔絶しているように見える。

                                未完

新・私の本棚 新版[古代の日本]➀古代史総論 大庭 脩 2/2 再掲

7 邪馬台国論 中国史からの視点 角川書店 1993年4月
 私の見方 ★★★★★ 「古代の日本」に曙光  2024/01/11, 04/20,05/24

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*海上の行程
 して見ると、氏が「渤海湾」行路と見ているのは、実は、「黄海二行路」であって、いわば、海上の「橋」と見た方が時代/地域相応の見方と思われる。いや、両行路は、三世紀時点では、便船の規模、頻度に相当の差があったはずであるから、実用的には、遼東青州行路が独占していたと見えるのである。
 後世唐代には、二行路が並び立ったようであり、円仁「入唐求法巡礼行記」によれば、青州に「高句麗館」と「新羅館」が繁栄を競っていたとされているが、あくまで隔世譚である。三世紀、新羅、百済は、萌芽に過ぎず、行路と言うに足る往来はなかったと推定される。
 つまり、遼東から青州に至る「黄海海上行程」は、始点~終点に加え途上停泊地、全所要日数も決定し、並行「陸道」(陸上街道)が存在しない「海道」であったと見える。但し、公式道里ではないから、正史の郡国志、地理志などには書かれていないのである。
 と言うことで、そのような行程が、常用/公認されていても、公式道里に採用されていないから、陳寿は、いきなり「倭人伝問題」に使用して、高官有司から成る権威ある読者を「騙し討ち」することはできなかったである。精々、事前に、伏線/用語定義して、読者を納得させる必要があったのである。
 魏の領域で街道の一部が海上行程に委ねられた先例があったとしても、沿岸行程には、必ず並行陸路が存在するから、あてにならない、ひねもす模様見では、公式道里として計上されないので、ここではあてにできないのである。

□「倭人伝」水行の起源~余談
 かくして、陳寿は、現地運用の「渡海」を参考に「倭人伝」道里行程記事の用語を展開したのである。
 つまり、陳寿は、苦吟の挙げ句、海岸を循(盾)にして対岸に進む「海道」行程を、史書例のある「水行」に擬し、海岸沿いでなく「海岸を循にして進む渡海行程を、この場限りで「水行」と言う」と道里行程記事の冒頭で定義し、混迷を回避しているのである。
 深入りしないが、そのように陳寿の深意を仮定/理解すれば、当然、「倭人伝」道里行程記事の混迷が解消するはずである。
 言うまでもないが、当方が二千年前の史官の深意を理解して道里行程記事の混迷が解消する「エレガント」な解を創案した/見通した』と自慢しているのでは無い。あくまで「れば・たら」である。

□『「邪馬台国」はなかった』の最初の躓き石~余談
 古田武彦氏は、第一書『「邪馬台国」はなかった』 (1971)に於いて、当該記事を漢江河口部の泥濘を避ける迂回行程の「水行」と解釈し、以下、再上陸し半島内を陸行する行程と見たが、帯方郡を発し一路南下すべき文書使が、さほどの旅程がないとしても、迂遠で危険な行程を辿る解釈は、途方もなく不合理で、論外である。おそらく、古田氏が、海辺に親しんだ「うみの子」であったために、抵抗なく取り組んだものと思われるが、「倭人伝」の読者は、大半が、海を知らない、金槌の中原人であり、帯方郡から狗邪韓国までは、整備された街道を馬上で、あるいは、馬車で日々宿場で休みながら、一路移動すれば良いのであり、安全、安心な陸路があるのに、命がけ/必死の「水行」など、ありえないのである。

 冷徹な眼で見れば、古田氏ほどの怜悧な/論理的な論客が、第一書の核心部で、迂遠な辻褄合わせ、ボロ隠しを露呈しているのは感心しないが、在野の研究者として孤高の境地にあったことを考慮すれば、論理を先鋭化するためには無理からぬ事と思われ、また、一度、確固として論証を構築したら、後続論考で姑息な逃げ口上を付け足さなかったのは、私見では、むしろ、首尾一貫/頑固一徹と思われる。

*「景初遣使」談義
 続く遼東郡太守公孫氏の興亡記事はありがたい。但し、「倭人伝」に厳然として継承されている「景初二年」の記事を、後世改変に乗じ、留明確な論証無しに「景初三年」と改竄するのは感心しない。

 氏は、司馬懿による遼東平定の「傍ら」、楽浪・帯方両郡が魏の支配下に入ったとしつつ、さしたる根拠もないのに、三年説の「蓋然性」が高いと見るが、原文を尊重すべき二年説を「可能性」と評価を一段押し下げた挙げ句、両説を偏頗に評価しているが、誠に趣旨が不明である。つまり、史料を否定するに足るべき論証が不調であり、いわば、学術論者として醜態をさらしている。
 氏の筆致は、言葉を選んで暴論を避けているが、だからといって、「偏頗」の誹りを逃れることは、大変困難と見える。
 氏の書法で言うと、『「二年説が三年説より信頼性が高い」可能性を完全に否定する論理はあり得ない』と思われ、とんだ躓き石で足を取られている。

◯「親魏倭王」などのもつ意味
 正史「三国志」で、蛮夷称揚の例として、二例が際立つとみえるため、東夷「倭」と西戎「大月氏」の二事例を並列させる論があるが、氏によれば、史書の事例で、漢魏晋の四夷処遇では、鴻臚において『「親」(漢魏晋)某国「王」」の詔書/印綬を下賜したと指摘している。
 同様に、氏の指摘とは別に、後漢代、辺境守護に参上した蕃王一行を雒陽で歓待し、一行全てに余さず印綬を与えた記録がある。ただし、そのような漢蕃関係事例の大半は、陳腐として本紀/列伝から省略されていると見える。さらに、氏は、賢明にも、壹與遣晋使の魏印綬返納、親晋倭王綬受を示唆している。同記事が、本紀/列伝から省略されているのは、当然の儀礼だからである。
 氏も示唆しているように、晋の天子が「親魏倭王」印を放置することがないからである。

◯中郎将、校尉
 難升米、掖邪狗などに与えられた称号は、魏制になく、蕃王高官に相応しい前提である。官制官位には俸給、格式が伴うから、蛮夷には付与されないのである。
 また、新参の際に「自称」したと明記されている「大夫」は、官制のものであり、当然、蛮夷のものには許されないのだが、蛮夷の無知を示すものとして、自称したのを鴻臚が記録しているのである。正史四年の遣使では、依然「大夫掖邪狗」とあったものが、壹與の遣使に於いて、「倭大夫率善中郎將掖邪狗」と改善されているが、むしろ至当である。
 余談であるが、このように厳重な訓戒・指導を受けていながら、後年、書紀推古紀の大唐(実際は、隋)使裴世清来訪記事に於いて、「鴻臚寺掌客裴世淸等」の応対役として「掌客」を新設したと正式に記録されているのは、何とも、つまらない/重大な失態である。

*「一大率」異聞~私見
 氏は、蛮夷官名に関して、「率善」が、官制に無い蛮夷のものと明言されているが、至当である。念のため言い置くと、蛮夷の者が、官制の官名をいただくことはあり得ないのであり、それ故、後の事例では、「倭」を前置する是正を行ったものと見える。
 私見では、倭の蛮夷官位である「倭大夫率善中郎將」が転じて縮約され、「一(倭)大率」となったと見える。もちろん、単なる思いつきである。

□一点総括~「病膏肓」~つけるクスリが無い
 大庭氏は、『「倭人伝」テキストを気ままに改編して論じる安易な風潮』に釘を刺すが、かかる風潮は、通説論者の「病膏肓」で「馬耳東風」、苦言には、一切耳を貸さないと見える。「糠に釘である」。半世紀以上経っても、一向に是正が見られないのであるから、これは、最早癒やしうる病ではないようである。
 「病でない」となると、つけるクスリが無いのである。

                                以上

私の本棚 大庭 脩 「親魏倭王」 三掲 1/12

 学生社 2001年9月 増訂初版 (初版 1971年)
 私の見立て ★★★★☆ 豊かな見識を湛えた好著 2018/05/26 補充 2020/06/24 2022/12/13 2024/04/20
 最初に見立てを入れるのは、以下を非難と取られたら困るからである。

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯始めに
 従来の記事では、初版年を見落とし/書き落としていたので補充する。
 氏は、「倭人伝」に関する論争が、さほど盛り上がっていなかった1971年に刊行し、そのために、以降の議論の紹介に欠けるのが、不満であったが、今回、執筆時点の最善の理解と見て容認していくことにした。但し、氏が、2001年の増訂時、更新していない点が多々あるのは、感心しないが、ある意味仕方ないかとも思うのである。

◯序章~暗夜の灯火
 本書の視点は、中国史料に基づく/中国史料としての公正な「倭人伝」考察であり、今日に至るも、いわゆる「倭人伝」論争は、公正な展開に欠けていると思われるのでここに顕彰するものである。

*「暗愚な考古学者」の文献曲読
 著者が本書を書くに到った動機は、ある古代史シンポジウムで、考古学関係者が「魏帝の詔に書かれている鏡百枚は多すぎる」と軽薄に論じたのに対して、『「史書」に厳格に引用されている/書かれている倭人伝の皇帝の詔すら、自説の邪魔になるなら書き替えて読むという安直な暴論に対して、異を唱えねばならない』というもの(義憤というべきか)であったそうである。

*法制史の物差し
 著者は、中国法制史、つまり、各王朝の法律とそれに従って運用された政府機構のあり方を研究するのであり、本書は、そうした専門家の目で、「魏志倭人伝」を読み解き、我々素人にも理解しやすい書物としたものである。

*不揃いな錯覚
 冒頭、「卑弥呼と諸葛孔明」と題して、卑弥呼の時代が、蜀漢宰相諸葛孔明の時代に重なると説いている。国内古代史と中国史の関係が容易に浮かんでこないことを歎いている。おっしゃるとおりと思う。ただし、特に直接、間接の関係がないのだから、一般人の意識に上らないのは、むしろ当然である。
 ところが、直ちに『同じような錯覚が「魏志倭人伝」にもある』と書き出されたのは感心しない。今書いた認識に照らして乱暴な飛躍としかとれない。

*「魏志倭人伝」はなかったか
 続いて、中国には「魏志倭人伝」という書物はない、と書かれているが、これが「錯覚」だと解すると、著者が自己否定していることになるので、おそらく、おっしゃりたいのは『「魏志倭人伝」は国内の感覚であって、中国古代史と関係が成り立っていないから、それは錯覚であると言うことだと思うが、「錯覚」を断じる論理が、混線/錯綜している上に不正確である。
 著者ほどの識見の持ち主にして、不用意な行文であり、また、不用意な断言である。どんな読者を想定しているのか、一瞬、見て取れなくなる。

*「倭人伝」知らずの「倭人伝」批判か
 大庭氏は、陳寿「三国志」現存史料のうちで、南宋時代の「紹興本」と呼ばれる版を利用しているが、もう一つの有力な「紹凞本」は、「倭人伝」と小見出しを置いて区分を示し、続いて、新たな部分として「倭人伝」記事を書いているので、魏書第三十巻の巻末にあって、事実上、「倭人伝」なる「書物」として取り扱われていると見えるのである。因みに、ここでもう一つというのは、多数あるうちの一つという意味ではない。天下に、これら二本しかないのである。一読者として大いに不満である。

                               未完

私の本棚 大庭 脩 「親魏倭王」 三掲 2/12

 学生社 2001年9月 増訂初版 (初版 1971年)
 私の見立て ★★★★☆ 豊かな見識を湛えた好著 2018/05/26 補充 2020/06/24 2022/12/13 2024/04/20
 最初に見立てを入れるのは、以下を非難と取られたら困るからである。

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*なじまない「東アジア」
~私見
 続いて、著者の用語に不満なのは、多分、学会用語として通用しているものと思うのだが「東アジア」なる現代語が使用されていることである。他の古代史書でも見かけるから学会基準かも知れないが、素人目には異議が感じられる。
 「東アジア」というからには、三世紀古代の中国に「アジア」全域の地理の知識があって、そのうち、一部分を「東アジア」と呼ぶという前提だと思うのだが、何も定義されずに登場するので、大変居心地が悪い。やはり、古代史論で、意味の明確でないカタカナ語は避けたいものである。

*「アジア」と「ヨーロッパ」の原義確認
 実際、三世紀当時の東地中海、つまり、ギリシャの視点では、お膝元の地元がヨーロッパであり、エーゲ海を隔てた対岸、今日言う小アジアの地域が「アジア」だったから、中国東部と朝鮮半島を中心とした地域とは、何の関連もないのである。要は、良くある「時代錯誤」であり、丁寧に説明して使わなければ、一般人に「ウソ」を押しつけていることになると思うのである。
 ちなみに、「ユーラシア」と陸続きを強調するのは、カスピ海の北方を通過すれば、遮るもののない草原の道という意見であるが、冬季、氷原/雪原と化する地域(シベリア)があるので、魔法の絨毯とは行かないのである。

*地域包含視点
 と言うものの、氏が、当時の倭だけをとらえるのでなく、倭を中心した地域を包含した視点は、貴重である。特に、倭から西北に遼東に到る直線的な経路だけでなく、帯方/遼東郡と青州山東半島との連携を見出して、渤海を囲む環渤海圏の「地中海」的交流を描くのは、大変ありがたい。
 氏は、広大な「東アジア」と言うが、実際意義があるのは、環渤海圏+朝鮮半島、倭という、限定された世界であり、当時の人々にとっては、それが、辛うじて認識/到達可能と思う。当時の倭、韓、帯方世界が認識していない「東アジア」呼称は、現代人に幻想を及ぼすので、無用有害に思う。

 帝都史官は、東西全ての地域を西域伝、東夷伝、地理志などによって把握したかも知れないが、ここでは、東夷諸國とそれを束ねた楽浪/帯方両郡など、倭人伝編纂に関わった人々の意識を言うのである。「倭人伝」は、もともと「倭人伝」の原史料を書き留めた人々の世界観で書かれているはずである。

*「邪馬台国」の国際関係
 現代感覚で「国際」と言うが、国としての構造・権威を保っていたのは、せいぜい、後の魏・呉・蜀三国であり、遼東の公孫氏政権は、後に王と自称したものの、それはあくまで曹魏の一地方であるから、国家としての体裁を成していなかったと思われる。
  但し、曹魏の大義名分は、魏の領分は、後漢から禅譲を受けた領域全土であり、東呉、蜀漢をも包含したから、三鼎形勢など存在しなかったのである。
 一方、蜀漢は、「漢」であり、後漢の継承者であり、曹魏は謀反人勢力だった。
 東呉の正義はどこかわからないが、自立した天下と自認していて、それ故、史官を任じて、自国の正史を編纂していたのである。

*蛮夷と外国
 それ以外の蛮夷の世界で、東夷伝諸國、特に、細分化された「小国」は、大小にかかわらず、中国基準の「国」ではなく、「蛮夷」の集落であり、何より根幹的なこととして、言葉/文字に基づく「文化」を「中国」と現代語で言うと「共有」(シェア)していないから、「国際関係」はなかったと見る。
 当時、「外国」は「不属の蛮夷」という意味であるから、「外交」は、言葉の意味を外していないかも知れないが、現代語の縁で誤解を誘うので、厳に避けるべきだろう。

                               未完

私の本棚 大庭 脩 「親魏倭王」 三掲 3/12

 学生社 2001年9月 増訂初版 (初版 1971年)
 私の見立て ★★★★☆ 豊かな見識を湛えた好著 2018/05/26 補充 2020/06/24 2022/12/13 2024/04/20
 最初に見立てを入れるのは、以下を非難と取られたら困るからである。

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*「倭人伝」「國邑」の時代考証
 中国太古(殷代から周代の初期)の意識では、「国」は、原初「國」、つまり、聚落「或」を隔壁、城壁で囲った単位聚落であり、後世、広大な領域を統合した単位は、「邦」と称したが、漢高祖の本名が「劉邦」であったため、これを避けて、「國」が復活したとのことである。つまり、漢代以降の「國」は、太古の「國」、或いは「國邑」とは異なるのである。
 「倭人伝」は、冒頭で、倭人の「國」は太古の「國邑」であったと明記/宣言/定義しているので、当時の読者は、平常の「國」と読み分ける必要がある。但し、大庭氏が、こうした中国太古の言い習わしの変遷を、厳格に認識していたかどうかは、ここでは不明である。何しろ、持ち出すほどに、現代の東夷読者を困惑させる恐れがあるので、慎重に、消極的にならざるをえないのかも知れない。素人は、口出ししない方が良いのかも知れないが、ここでは、お叱りを覚悟で口に出すのである。

*漢蕃関係
 時代錯誤の「国際関係」、「外交」の妥当な置換として、「時代相応」の言葉を選ぶと「漢蕃」関係である。現代東夷読者には、「違和感」ものだろうが、ここは現代語で言う「違和」でない、本来の不調和感を醸し出して、安直な読み飛ばしを避けるのが狙いだから、ある意味、賢明なのである。自然にわかりやすく書いていてしまうと、咀嚼せずに丸呑みされてしまうので、深意がいきなり排出される可能性がある。
 「自然」に学ぶとすると、植物が、種子の媒体役として期待するのは、鳥の如き丸呑みであるが、われわれ動物は、噛み砕いて咀嚼してしまうので、折角の種子が亡んでしまう。せめて、かまずに吐き出してもらえるように、固い殻を纏わせるが、かといって、最善の策として、味覚のある動物よけに、檄辛みを付けてしまうと、播種による種族繁栄は、鳥頼りになるのである。

 閑話休題
 御不満はさておき、当家の「芸風」を我慢頂くことになるのである。
 さて、「蕃」にしても、「漢」なる中国の大帝国を、自分たちの同類と見たのは「夜郎」のようなお山の大将である。一方、いわゆる「邪馬台国」は、仲間内では、大将扱いされていたかも知れないが、「漢」を相手に背比べを挑むような意識はなかったと見るべきではないか。
 当時の世界を取材したわけではないから、臆測しかないが、二千年後世の無教養な東夷である現代人の世界観で押し通すのは無理と理解頂きたい。あちこちで見る、「屈辱」とか「対等主張」とかを見ると、どうも、誤解の方が蔓延しているように見えるのである。
 いや、大庭氏は、そのような低俗な世界観を持ち込んでいないのであるが、読者の受容力を懸念しているのである。

 「倭人伝」を後世用語で論じると、一般読者に誤解を押しつけると思う。

*「諸国」状勢
 以下、著者は、後漢末期から、三国時代の中国及び東夷の状勢を描いていて貴重である。とかく、国内古代史論者は、後漢桓帝、霊帝の治世と無造作に言うが、両帝期は、いわば、後漢朝衰亡(衰退・滅亡)期であることを理解しているかどうか不明である。霊帝没後の帝位継承時の混乱で、後漢は事実上滅亡して大乱状態になるから、時代認識の錯誤は、深刻である。

                               未完

私の本棚 大庭 脩 「親魏倭王」 三掲 4/12

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 最初に見立てを入れるのは、以下を非難と取られたら困るからである。

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*遼東天子~便乗
 大帝国が衰亡、崩壊したから、当然、蛮夷管理も崩壊するのである。ただし、東夷の目から見ると、大帝国も遼東郡太守公孫氏の影法師であり実質はないに等しかったのである。むしろ、洛陽の天子でなく、遼東に天子が居たことになるのである。天子には、書記官がいて天子の制詔を発し、史官がいて、天子の行状を記録していたと見えるのである。

*失われた公孫氏史料
 公孫氏は、最後、後漢を継いだ曹魏によって、天子に対する大逆の徒として討滅され、天子紛いの治世の記録は、全て破壊されてしまったから、以上は、二千年後生の無教養な東夷の臆測に過ぎないのだが、公孫氏滅亡後に残った楽浪/帯方両郡の行動を見ると、公孫氏の東夷管理の形が偲ばれるのである。と言うことで、一読者の感慨を締めくくることにする。

*後漢「最後の皇帝」~未曾有の「禅譲」
 霊帝没後、姦雄董卓の威勢も過ぎて、十年近い混乱を経て、後漢最後の復興期となる。
 少帝であった献帝劉協が、僅かな側近と共に、「悪党どもが徘徊し荒廃した長安」から脱出し、東都洛陽方面に逃げ延びたものの、周辺に支持者はなく、孤立、逼塞していた窮状であったものを、好機と捉えた英傑曹操が自陣営に迎え、帝威で乱世統一を図ったのである。

 後漢の最後の光芒、建安年間であったが、中原世界天下統一の完成と共に、後漢皇帝(献帝)は、その役を終え魏に政権を譲ったのである。古典的な形容としては、天命が劉氏を去り曹氏に移ったのであり、献帝劉協は、曹氏の恩人にして「賓客」(この場合は、本当の意味)として生き延びたのである。

 魏に政権を譲った際、光武帝が継承、再興した漢の政権機構はそっくり移管され、漢高祖以来の厖大な公文書も引き継がれたのである。
 ここに「未曽有」と書いたのは、「殷周革命」に見られるように、それぞれの新興帝国は、先行政権を武力で打倒して取って代わったのであり、「禅譲」に近いのは、王莽の簒奪があっただけである。王莽は、いわば三日天下で継承されなかったから、なかったことにしているのである。

*長広舌
 この部分で語られる議題はそれだけではないが、根拠史料満載だし、素人に見解を押しつけるものではないので、大変参考になる。

*古代史泰斗の所感
 大庭氏のやや自由な引用で、内藤湖南氏が、「支那史学」誌に書かれた言葉として「三国志には、陳寿が参照した原資料が、削除加筆されずに原型のまま残されている箇所が多い」との趣旨で評されているとのことである。

*不明瞭の戒め
 因みに、論説の常用句である「多い」と言う言葉は、五を言うのか百万を言うのか読者に判断を強要する。加えて、人それぞれの感覚も作用し、不明瞭と見える。いや、これは内藤湖南氏の用語で大庭氏の感覚とも違うと思う。
 結局、ここで湖南氏の言う「多い」が、どの程度のことを言うのかは「不明瞭」であるが、おそらく大半の意ではなく、散見される程度と解釈しても、目に付きやすいとの意味であると思われる。
 著者は、「倭人伝」に引用されている曹魏皇帝が下した制詔は、「制詔」と書き出しているのは、一例としている。つまり、制詔は、ほぼ原史料の引用だと見ているのである。

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*蛮王の栄光
 さて、⒋で、著者は、『景初三年六月記事から「倭人伝」の調子が変わった』と感じるとおっしゃる。お説の通りのようである。
 そこまでは、客観的な記録文書であるが、この後の部分は、魏朝皇帝の制詔を骨格とした史実に即した記事であるとしている。

*蕃王の正当な評価
 氏は、陳寿「三国志」魏志の記事を吟味して、卑弥呼は、蛮王であるから中国の王より一段も数段も低い格落ちとされていて、これがわざわざ「帯」に大書、特筆されているが、氏は、これは不当でなく、むしろ、秦漢魏三代の官制に即して順当と見ている。私見では、蕃王は、蛮夷として上級の格付けであるが、弱小遠隔、極東故に、不相応な厚遇を受けたと見る。班固「漢書」西域伝に見られる有力国は、東西交易の要所を占めていて、それぞれ、途方も無い富裕な国状であったと見えるから、初見の東夷は、本来比較されるものではなかったと見えるのである。

 ただし、時代で変動する「漢蕃」関係で、服従で参上する蕃王を厚遇し、麗名を与えたのは、中国天子の常用策であり、反感を避ける策であり、時に、蛮夷を「賓客」扱いしたが、本気で厚遇したのではなく「外交儀礼」である。漢代、鴻臚が下っ端にまで印綬をばらまいて非難されたが、それが、究極の倹約策だったのである。

*「王」の隔絶した権威
 漢制では、王は皇帝一族に限定された。建国当初任じられた異姓の王は、長沙王なる例外を除き全て誅殺された。その後も、漢制の王は、皇帝の縁戚だけが任じられる極めて高貴な身分であった。しかも、漢代、皇帝の縁戚である有力な王は、「呉楚七国の乱」とよばれる大乱を起こして天子の座を危うくしたが、討伐を承けて壊滅し、弱小王国が残った。つまり、漢代を通じ「王」の権威は低く抑えられ、しかも、大抵の王族は、格下の「侯」に留められたのである。
 後漢建安年間、漢朝の威光を天下に回復した曹操が、無比の大功により「魏王」にまで任じられたのは、その光明の頂点、死の直前であった。「王」とは、そのように、臣下を超絶した、天子に通じる境地である。漢代、臣下の頂点は、列侯(漢初は徹侯)と称されたが、王は、明らかに上位に位置する。

*蛮夷考
 蛮夷は、「文化」を身につけていないから、そもそも、中国の一員になれない。つまり、中国の文字を知らず、中国の言葉を知らず、よって、先哲の書を知らず、中国の暦に従わず、中国の衣服を身につけず、まして、女性を王とするのは、中国でなく蛮夷である。つまり、本来一段格下であり、それで何が不都合なのか理解に苦しむという観点である。
 この辺り、著者の面目躍如であり、諸王朝法制史料を広範に照会して、説得力に富む。当方の口を挟むものではないので批判しない。
 付け足すとすれば、唐代、新羅が女王廃位を厳命された史実である。

*「倭人伝」本文批判
 以下、「倭人伝」記事について、普通、あてにならないとされる「書紀」記事まで援用して議論を進められるが、『郡太守が皇帝に「使」を送るのはもってのほかで、「吏」を送ったと解すべきである』と具体的な校正を行っている。つまり、史料を精密に考証すると「魏の士人の誤記でなければ、誤伝であろう」と思われる誤記があるという事である。至言と言うべきである。

*丁寧な古田説批判
 さて、そこで、倭人伝に一度登場する「邪馬壹国」が「邪馬臺国」の誤写であるとする俗説に断固反対する古田武彦氏の論考に対して、丁寧に考察を加えて私見を示されているのは、貴重である。
 大庭氏は、俗説として世に蔓延っている『現に史料に書かれている「邪馬壹国」を「邪馬臺国」に読み替えるべきだ』という無根拠で短絡的な議論に同意しないが、古田氏の後漢書論考に同意できない乱れを感じている。まことに、おっしゃるとおりであろう。
 但し、初版で古田氏から根拠が提示されていないとした異議が、三十年後の新版の際に適切に更新されていないのは、残念である。

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*古田氏の後漢書論
 古田氏は、「現存史料を最も尊重すべき」との原則であるから、『後漢書に「邪馬臺国」と書かれていることを、論考無しに否定することはできない』のである。いわんや、誤記/誤写論を自制している。それが、手際が悪いと見える「後漢書」史料批判になっているから、大庭氏の意見は妥当と思える。
 つまり、古田氏の『「邪馬台国」はなかった』論が、『「倭人伝」に「邪馬台国」はなかった』とするにとどまっている最大の論敵は、古田氏自身なのである。もちろん、古田氏の諸般の提言が、すべて正鵠を得ているわけではない。

*景初三年論義~私見
 続いて、著者が力説の『「景初三年」が「倭人伝」に「景初二年」と書かれている』問題に挑んでいるが、ご自身が最大の論敵のようである。

*順当に解釈した両郡回復
 氏は、陳寿「三国史」東夷伝韓伝の「景初中、明帝密かに....二郡を定めしむ」「密かに」を適確解釈し、東夷伝の「淵を殺す。又、....楽浪、帯方の郡を収め、....」の「又」を、「その後」と解さず景初二年と解することができると適正に紹介する。
 文意の解釈は、まずは文脈、次いで、文献自体から、深意を解するのが理性的な判断であり、辞書解釈の蹉跌に囚われるのは、愚策という教えである。

*「遅れた下賜物発送問題」の解を求める
 著者は、景初二年説不採用の理由として、制詔は二年十二月なのに皇帝のお土産が正始元年に発送されたのは一年後で遅れていることを挙げる。「景初二年」派は、それは、大量のお土産の品揃えが、前皇帝明帝の服喪によって、大きく手間取ったとしていると見ているが、氏は不同意である。

*順当な読み解き~エレガントな解
 私見では、大量の土産の送達途次の確認に、多大な月日がかかったと見る。何しろ、伊都国に到る行程の輸送への動員指示に対して確約が揃うのを待ったと見える。文献記録はないが、実務として当然の手順と思う。
 洛陽の指示により郡が行程諸国の確認を得るのに一年ないしはそれ以上かかるのは、むしろ当然と言える。郡文書の受領、復唱の期間は、道里記事の「都(都合)水行十日、陸行三十日」基準でも、数か月を要しても無理ないように思える。前例のない大規模な輸送/移動、宿泊、饗応であり、施設の整備、人員、資材準備に、近隣で口答指示が可能とは言え、労力を費やしたはずである。
 一説に従い、遠隔架空で文書連絡がない奈良(纏向)王城に指示確認を仰ぐなら、途上各地の手配確認の交信に要する日数は見当がつかない。神懸かった快挙と主張するなら根拠を示していただきたいものである。
 大庭氏の「景初二年」説難詰は紙上武断であり、決定的でないように思われる。

*景初三年説死守の起源~私見
 奈良(纏向)王城を根拠とする遠隔国家運営、長途隔絶では、そもそも、景初二年六月に郡に参上は、到底不可能であるため、せめてもとばかり、明帝没後の景初三年を死守していると見える。まして、途方もない長距離移動/輸送が、所望の期間に確約できたとは思えない。できれば、景初四年と言いたいのであろうが、景初は三年で打ち止めなのである。本当に、派遣可能と信じているのだろうか。

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*改暦談義~余談
 続いて、景初三年元日の明帝崩御に始まる正始移行について解説頂いているが、論理が乱れている。正始改元は改暦を伴い、三年正月を二年「後十二月」に改め、先帝の命日を、三年正月から前年十二月に移動させたため、景初二年が一ヵ月増えたのであり、大庭氏が推定するように、景初三年が一ヵ月増えたのではないと思う。
 いや、既に景初三年暦が施行されている事態で、年中の改暦改元では、誤解が出回っても不思議はない。記録に旧暦新暦が混在し難航したと思う。ただし、曹魏は、文書行政の確立した「法と秩序」の世界であり、混乱は沈静化したと見える。

*改暦余波
 魏暦を引き写したものの元号は自立したと思われる東呉は、魏暦追随に大変苦労したと思う。魏明帝は、就職早々に改暦して混乱を招いたが、皇帝の「気まぐれ」が、後世人に理解困難(実質的に不可能)なのは言うまでもない。この時期の呉書紀年に前後の食い違いがあっても無理からぬところである。
 なお、蜀漢は、後漢暦を継承していたから、既に、魏暦とのズレが生じていたものと思われるが、このあたり、素人の手に余るので、深入りしない。
 ちなみに、曹魏は、「暦」を蜀漢、東呉に適用できなかったから、全国統一と言えないのである。二国の戸籍、版籍を把握していないし、租税を収納できなかったのも、三国鼎立の証しである。世に、公孫氏自立と憶測している向きがあるが、公孫氏は、最後の最後に至るまで曹魏の臣下であり、主権国家になっていなかったのである。

*原則に背く不法文書
 書記神功紀の引用した「明帝景初三年」は、正史記事にあり得ない無法であり、引用に際して、原史料を改竄しないのが、史官の大原則であるから、原則を守っていない史料は、一切信用できない。

*なかった/あった?「景初三年」
 皇帝没後の期間は皇帝諡号を冠としない無冠の期間である。景初三年の場合、二年末に先帝が崩御していることになるから、本来、即日改元し「景初三年は、存在しない」はずであったが、実際は、既に景初三年が進行していたから、遡って、景初二年後十二月一日の明帝逝去に伴う即日改元はできなかったはずである。
 つまり、景初三年は消滅しなかったが、一年を通じ無冠である。春秋の筆法もなにも、「イロハのイ」で周知の原則で、知らない奴は「もぐり」である。いや、書紀の筆者は、もともと「もぐり」であるから、別に、誹謗しているわけではない。

*会稽東治論
 この時点で、大庭氏は、古田氏の論拠を見ていないと明言しているから、氏の推定私見だが、以下論じられている「会稽郡東冶県」論は、氏の認識不足に思う。(これは、1970年当時古田氏の論考が未刊であったと言うだけであった。後日登場しているが、補正されていないのは、残念である)
 中国古典概念の「会稽」は、会稽山附近の狭い地域を指すものである。

*「東治之山」
 因みに、「水経注」などの郡名由来記事によれば、会稽郡は、禹の会稽の地であり、会稽山が「東治之山」と呼ばれていたのに因んで、秦始皇帝の宰相李斯によって命名されたと言う事である。秦漢代から魏、東晋までは、周知だった事情である。「倭人伝」の会稽東治論は、それで決着するもので、以下の考証は、余計なお節介である。

*宋書概観
 劉宋「宋書」は、東晋、劉宋を後継した南齊/梁の史官沈約の撰であり、東晋が建康に退避させることのできた魏晋代公文書などの最善史料を得たと思われるが、「州郡志」の評を見る限り、「最善」といえども、かなり制約があったものと見える。まして、梁末期の戦乱と南朝滅亡の際の混乱もあって、南朝系の正史と処遇されていた「宋書」すら、散逸の害を受けていたものと見えるが、判然としない。
 「齋書」が辛うじて梁代に編纂されたものの、それ以降の「正史」は、編纂の遅れていた「晋書」共々、唐代の編纂であり、隋の南朝撲滅によって建康の公文書庫が破壊されたため、公式史料は散佚していたと思われる。
 また、唐代の正史編纂は、皇帝主導のもと、多数の担当者の分業によるものと見られ、班固、陳寿、笵曄、沈約の特任編纂に比して質の面で劣る。

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*唐代正史革命
 唐皇帝の北朝正統史観では、「南朝は、西晋が国家崩壊によって滅亡した後、残党が不法に東晋を再興した、不法な賊徒」というものであり、皇帝の指示と相俟って「正史」の客観性を喪失して行ったと見える。従って「晋書」は、西晋の頽廃、紛争を語っていて、前代史の本分に務めた「三国志」と同列に見ることはできない。

*「宋書」州郡志の奇蹟~沈約の偉業
 正史の過渡期の谷間で、「宋書」が「州郡志」を備えたのは奇蹟である。「宋書」編纂時点では、諸家後漢書が併存したものの司馬彪「続漢書」のみが「志」を備え、正史要件欠格の笵曄「後漢書」は、無名に近かったと見える。
 この点、宋書編者の沈約は前代史料は、班固「漢書」と馬彪(司馬彪)「続漢書」の「志」のみで、三国志は「志」を欠くので、会稽郡県の異同明細は得られず、辛うじて「呉書」本紀部から郡の異同を知るのみ」と歎くが、沈約が宋代公文書で補った「州郡志」がなければ谷間は全く埋まっていなかったのであるから、その功績は絶大である。

*会稽郡分郡
 沈約「宋書」州郡志によると、会稽郡南部は、三国東呉時代に会稽郡から不可逆的に切り離され、会稽郡の「県」と呼べなくなっている。
 東呉が、司馬晋(馬晋)に降伏した際、国志「呉書」と戸籍、地籍を献じたものの、国家としての記録である公文書は廃棄されたと見るのである。つまり、会稽郡の異同経歴は、沈約が公文書佚文を復元しようとしたものの、散佚していて、不確かだったのである。「宋書」州郡志を、信じるべきである。
 したがって、陳寿「三国志」魏志「倭人伝」編纂時には、会稽郡南部の東冶県に関する曹魏史料は、全く存在しなかったのである。従って、東冶県から郡治に至る公式道里も不明だったのである。少なくとも「呉書」の会稽郡地理情報は、「呉書」未公認の間は参照できず、「呉書」を「呉志」として収容したとは言え、「呉志」記事を「魏志」に補充することは、不法であるから、陳寿が、「魏志倭人伝」に「会稽東冶」と書くことはなかったのである。

*公式「水」道里の謎
 因みに、東冶、後の福州、厦門と会稽郡治の間は、海岸沿いに迫り出した巨大で険阻な福建山地で厳重に隔離されていて、会稽郡治まで、官道どころか通商路も、陸上街道を一貫して利用することはできなかったのである。分郡するしかなかったのである。
 一方、正史「州郡志」に拠点から京都(けいと)建康の公式道里は必須である。

*宋書「州郡志」道里記事  維基文庫引用
 江州刺史,晉惠帝元康元年,分揚州之豫章、鄱陽、廬陵、臨川、南康、建安、晉安,荊州之武昌、桂陽、安成十郡為江州。初治豫章,成帝咸康六年,移治尋陽,庾翼又治豫章,尋還尋陽。領郡九,縣六十五。戶五萬二千三十三,口三十七萬七千一百四十七。去京都水一千四百。
 江州刺史治所は、去京都水一千四百。麾下の建安郡は、去州水二千三百八十。去京都水三千四十,並無陸。とされていて、江州陸路道里は別記されているようだが、東冶県の後身と見える建安郡治は、江州も京都も、陸路道里がなく、「水」、つまり、河川経路とされている。恐らく、渓谷を船行したのであろうが、唐代遣唐使留学僧の報告以外、史料が見えない。
 このように、建康に避難した南朝は公式道里に「水」を認めたらしいが詳細不明である。

*東冶県談議
 古田武彦氏は、陳寿が、三国鼎立期の東呉の国内事情、特に行政区画の変動を逐一時代考証した上で、「倭人伝」をまとめたと見ているが、「呉書」は「魏書」とは別の「国志」、別の巻物であるから、参照することはなかったのである。

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*中原人世界観の変遷
 著者は、中国古代人と一口に言うが、古代中國人は、洛陽なる中原世界の住人であり、古代人の地理知識は、東冶、今日の厦門まで及んでいなかったのである。晋朝南遷で、東晋京都建康からさほど遠隔でないことになったが、それは、あくまで、陳寿「三国志」魏書編纂時の百五十年後の異世界であり、洛陽人の世界観ではないのである。

*笵曄の地理観
 と言う事で、後漢書を編纂した笵曄は、古典的な中原世界の人でなく、長江下流の建康を京都とした南朝劉宋の人である。
 行政官としての笵曄は、「東冶」の位置を把握していたかも知れないが、劉宋当時、会稽郡に東冶地区は含まれていなかったため、後漢朝時代の史料解釈や魏志の解釈で、地理概念の時代錯誤が発生していた可能性はある。
 この辺りは、氏の専門分野を外れているので、一種受け売りになって、正確さを欠く議論となっているのはもったいないのである。

*「東アジア」再訪
 巻末には、三~五世紀の「東アジア」として、時代ごとの地域勢力地図が書かれているが、地図に描かれているのは中国と東夷諸国である。
 「中国」というが、地図は、今日の地理観で「中央アジア」としている地域を含んでいるから、「東アジア」とずれているように思う。ベトナムは、「中国」の勢力下にあったと見えるが、今日の地理観では、「東南アジア」と思う。言う人ごとに動揺する概念は、放置せずに是正して欲しいものである。
 学問の世界で、「用語」が示す「概念」が論者によって異なっては、意見交換はもちろん、論争も、実行不可能である。重大な「課題」と思われる。
 良い言い方は無いものか。

*一旦の結語
 と言うことで、部分的に突っ込みは入ったが、本書は、全体として、とても好ましい知的体験を得られるのである。

*余談
 古代史学界で、『この時期までしきりに行われていた「良い意味での論争」が消え失せ陣営間の罵倒応酬となった』のは残念である。また、「邪馬臺国」論争が「臺」派の「論争忌避」で途絶しているのは、もったいない。早々に終戦宣言して、本来の論義に転進すべきでは無いかと思われる。
 ちなみに、「遠絶」とは、地理上の遠隔を言うのでなく交流の断絶を言うのである。
 二千年後生の無教養な東夷が、自身を好んで遠絶の境地に置いて、主として「九州説」諸論者の間の「倭人伝」論炎上を高みの見物している図は、感心しないのである。いや、勿論、これは、本書のことでもなければ、大庭氏のことでもない。「定説」と証して、俗耳に訴えている牢固たる論陣勢力を言うのである。

*増補の弁
 ここまでは、当初7ページで完結していたものであるが、このたび、全12ページに増補したものである。
 「増補」というものの、場違いな付け足しが多々あって、真剣、真一文字の議論を望まれている方には、御不満であろうが、真面目な話、道草や蛇足の形でしか書けない意見もあるのである。ご容赦頂きたい。
 今回三訂としたのは、色々書き足したからである。

                               未完

私の本棚 大庭 脩 「親魏倭王」 三掲 10/12

 学生社 2001年9月 増訂初版 (初版 1971年)
 私の見立て ★★★★☆ 豊かな見識を湛えた好著 2018/05/26 補充 2020/06/24 2022/12/13 2024/04/20
 最初に見立てを入れるのは、以下を非難と取られたら困るからである。

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯「岡田流武断」への対比
 追加して述べたいのは、大庭氏の丁寧な史料考証である。対比されるのは、岡田英弘氏の「武断」の論法である。
 もちろん、岡田氏の断定口調は、氏一流の史観の産物であり、当然ながら、関連資料の周到な読解にもとづくものであり、そのような前提を明示した上での「武断」であるから、安直な否定論は成り立たないが、細目で史料解釈が動揺しているのは、指摘できるのである。その結果、氏の持論が揺らぐとは思わないが、氏の「武断」を、果敢な武断故に支持している諸兄姉の再考を期待しているのである。

*陳寿「偏向」論批判
 岡田氏の陳寿観で、最大の難点は、人格否定を基礎に置いていることである。つまり、『陳寿は蜀漢で任官しながら不遇であり、蜀の滅亡後、洛陽に出て晋朝に仕官したが、高官であった張華の引き立てで、「魏志」編纂を主管できる地位まで引き立てられたため、恩人、つまり、ローマ風に言う「パトロン」~「クライアント」の関係によっていたため、張華の名声を高めることを至上命令としていた』と判断しているが、それは、場違いであり、陳寿は、あくまで中国流の史官であり、正史によって後世に訓戒を与えることを目的としていたから、恩倖に報いることに生きる「小人」では無かった。

*偏向した「偏向」観
 岡田流世界観での「偏向」は、意図して偽りを述べることを言うようであるが、史官の「偏向」は、正史の対象、つまり、主として歴代皇帝への直接的な毀損を避けるものであり、それは、ある意味、当然である。
 かつて、司馬遷は、史記編纂時に、武帝の命で、景帝、武帝の書稿を取り上げられ執筆を禁じられたので、両帝紀は欠けている。
 陳寿は、編纂時の皇帝司馬氏の逆鱗に触れる「宣帝」司馬懿へのあからさまな非難は控えたが、私見では、明帝臨終の場で継嗣曹芳を庇護すると誓ったはずが、後年、廃位に追いやったことは、裏切りと見え、隠蔽していないから、司馬懿に阿諛追従してはいない。司馬懿の立場から言うと、先帝遺言は、天命を撓めているから、従うものではない、天下を譲られたとの考えとも見える。いや、私見を述べただけで、岡田氏が誤っているという主張ではない。
 言うまでもないと思うが、人は、誰でも、ひいき目で世界を見ているものであるが、各人の「偏向」は、言葉の端に現れるに過ぎず、余程精妙な視覚がなければ、見過ごしてまうのである。見逃してしまうと言うのは、「偏向」だと気づかないという事であり、逆に、著者の望む心証は伝わるのである。
 軽率な著作家は、ものごとを直截に、つまり、露骨に形容して、読者の反発を招いているが、それは、個人的な「芸風」で矯正などできないのである。

*大庭氏の克明な「東アジア」観
 ここまで、「東アジア」なる業界用語について、再度疑問を呈したが、大庭氏は、その中核となる「地中海」観を提示し、時間的な偏倚も加味して、確実な認識を示している。つまり、朝鮮半島西岸中部の百済海域とこれと体験した山東半島東莱海域が、対面の「海上交通」を原動力とした交易で、必ずしも、大型の帆船と長途の船路を要しないので軽快に持続したものと思う。
 背景として、東莱上陸後は、陸上交通に恵まれて、船員、船腹が長期間拘束されないことが背景となったのである。

                               未完

私の本棚 大庭 脩 「親魏倭王」 三掲 11/12

 学生社 2001年9月 増訂初版 (初版 1971年)
 私の見立て ★★★★☆ 豊かな見識を湛えた好著 2018/05/26 補充 2020/06/24 2022/12/13 2024/04/20
 最初に見立てを入れるのは、以下を非難と取られたら困るからである。

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*束の間の黄金時代
 大庭氏が描き出した地域事情で、東晋から劉宋に至る一時期、小国分立であった北方が、北魏の隆盛で統一勢力になる以前、渤海、黄海の「地中海」が核となって百済、新羅、高句麗と江南の間に陸海連絡がなり立っていたため、南方の建康勢力が、洛陽以北にまで威容を誇ったのである。ある意味、それは、三国の一角として繁栄していた東呉の野望を実現し、陸封された中原政権の知り得ない事情だったと思うのである。
 太古の戦国時代、山東半島に存在した齊は、西の秦、南の楚、北の趙と匹敵し、むしろ、一段と繁栄していたのは、南北に延びた海上輸送と西に延びた陸上輸送、それには、河水輸送も含むのだが、とにかく、「都て一に會す」(一都會)の意義だったのである。
 地域に即した小世界像”Microcosmos”に、賛辞を呈したいのである。
 但し、北魏が強力な北朝国家を形成すると、小世界は霧散したのである。

*大庭氏の克明な考証
 大庭氏は、本書全体に於いて、既成の先入観で決め込む武断でなく、一件ごとに考証する姿勢で、古田氏に対峙するが、当然、一致しないことが多い。
 但し、蒼然たる「壹臺」論でも、いずれが合理的かと決め付けることはなく、それぞれの長短を示し、俗耳に媚びている「臺」派が、どんぶり勘定頼りで、分が悪いように見えるが、これは当方の私見である。
 と言うことで、最後に、陳寿が「倭人伝」道里行程論に示した「地理観」の評価であるが、大庭氏は里制や方位論に深入りせず、全体的な距離感を表している。
 つまり、陳寿は、女王国が「会稽郡東冶県」という、既知の具体的地点と括り付けている以上、それに相応する地点を想到していたと考えている。加えるに、女王国は、海南島界隈に類する南方と解していたと見ている。
 この点、大著「評釈 魏志倭人伝[新装版]」を著した水野祐氏は、「倭人伝」記事について詳細に考証し、特に、「其南有狗奴国」に始まり、「自郡至女王国萬二千餘里」を挟んで「儋耳朱崖同」までの地理風俗記事を、女王国の南に位置していた狗奴国の記事としていて、大庭氏の女王国を南方国とする解釈は、大半が空振りになると見えるのである。

*異議貢献
 以上、一理ある意見であるが、既に述べたように、史料に基づく合理的な判断という見地から、論義済みの点も含め、手早く異議を唱える。
 1.「会稽東冶」は、史料誤認である。三国志曹魏の関知しない東呉辺境であり、道里不明であるから、「倭人伝」に不都合である。
 2.「会稽東治」は、会稽山の位置を示す漠然たる概念に過ぎない。
 3.「会稽東治」「東方」は、漠然としていて、「倭人伝」当事者に倭地地理が不明であった以上、女王国位置を決定する役に立たない。
  二千年後生の無教養な東夷は、目前の地図に惑わされるが、三世紀人は文字で論じる。
 4.最前に述べたように、「其南有狗奴國」から「儋耳朱崖」の諸条は、南方の異端児狗奴国の詳解と解する方が自然との指摘がある。(水野 祐「評釈 魏志倭人伝」)
  「自郡至女王國萬二千餘里」は衍入である。 「会稽東治」も「儋耳朱崖」も、狗奴国記事であるから、陳寿の女王国道里地理観と、別儀である。
  「倭地溫暖」(暑熱でない)以降では、本来の記事に戻って、倭国風土などが語られている。
  して見ると、この部分は、報告者が異なると見える。正始魏使以後、張政が、女王国と狗奴国を調停した際の取材と見える。

 と言うことで異議提出である。水野氏の卓見は、芳醇な大著に埋もれたか、あまり取り上げられないので、この機会に提起した。

                                未完

私の本棚 大庭 脩 「親魏倭王」 三掲 12/12

 学生社 2001年9月 増訂初版 (初版 1971年)
 私の見立て ★★★★☆ 豊かな見識を湛えた好著 2018/05/26 補充 2020/06/24 2022/12/13 2024/04/20
 最初に見立てを入れるのは、以下を非難と取られたら困るからである。

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*大庭氏の史観確認~戯れ言御免
 と言うことで、大庭氏が本書に於いて展開された「陳寿」観は、岡田英弘氏に代表/煽動される「偏向」、「曲筆」観に追従せず、極論ではないので、それぞれの局面で陳寿の真意を察するものになっていて、極めて健全である。
 少し、戯れ言を言う。まともに言うと、既存の諸機関や先賢諸兄姉の存続/生存に関わる主張とも取られかねないので、戯れ言としたのである。例えば、徳川幕府の政権下、真田の一族が大御所に危害を企てたとは言えないので、本名「信繁」を架空の「幸村」に代えたようなものである。江戸時代にも、出版物の検閲はあったのである。
 大体に於いて、陳寿を執拗に人格攻撃する諸兄姉は、背後に決して譲れない「党議拘束」を抱え「纏向幕府」の主義に反することが許されない特命「浪士隊」に参集して「士道」に反する行動は固く禁じられているように見える。近年、幕末に近づいて切迫感が募る模様が傷ましい。大政奉還は来ないのか。陳寿/倭人伝への攻撃を撤回しても本論は揺らがないはずである。

 因みに、岡田英弘氏は、陳寿の史官としての厳正さに心服していて、「二千年後生の無教養の東夷」が、三国志に対して誹謗中傷する事態を、大いに歎いていたのであるから、むしろ、陳寿支持派と言えるのである。岡田氏のためには、陳寿に対する魏志西域伝割愛説は、失言として惜しまれるのであるが、綸言汗の如し、遂に、撤回されることはなかったのである。

*「親魏倭王」の適正評価
 大庭氏が、史書用例から明らかにしたように、「親魏倭王」は、殊勝な蕃王への「称号」であり、漢制「称号」ではない格別の称号なのである。
 史書によると、漢代に辺境守護が外夷の参上を取り持つ例が多く、蛮夷一行を国使に仕立てて、京師や東都への道中で饗応し、適当な瞑目で一行に印綬を下付し、過分の手土産をもたせて送り返した例が多々見られるという。
 辺境守護にしたら、蛮夷の侵入を止め兵役を軽減するのは接待が最善である。収穫の乏しい辺境に守備兵を括り付けるのは、多大な俸禄と食糧給付を要し、外夷への派兵は、戦果としようにも領地に収穫はなく、砂浜に田地の徒労である。戦わずして些細な給付で手懐けられたらそれに越したことはないのである。

*大月氏~歴然たる盗賊国家
 大庭氏は大月氏の実態をご存じで東夷との対比で、惑わされない。
 大月氏は、もともと西域入り口付近に屯していた西の蛮夷で、涼州を本拠地とし漢地に侵入し掠奪を重ねたが、大秦との軋轢で消耗しているところを、配下としていた匈奴の反逆で漠北を追われ、西方大夏に寄寓した。要するに、大月氏は、匈奴同様、騎馬の兵が速攻で侵入し掠奪する無頼の盗賊国家であり、漢武帝の使者に対して匈奴に復讐する同盟を拒否した一方、西域西端で、掠奪国家として周辺に多大な危害を加えた。西の大国安息は、大月氏の急襲に敗れて国王が戦死し、宝庫を奪われ、領土を侵略され、以後、国境のMerv要塞に二万の守備兵を常駐した。
 後漢西域都護班超が諸国を制圧した時代も、大月氏は、隙あらば反抗し、掠奪しない代償として多大な対価を求めていたと見える。西域都護の撤退以降は、西域一帯に札付きの不良国が猛威を振るったと見える。
 そのような素性は、後漢から鴻臚による西域管理を引き継いだ曹魏も承知で、本気で厚遇したのではない。長年の絶交状態を解消した使節を儀礼的に歓迎したものの、曹魏はアメをしゃぶらせだけであり、別に厚遇ではない。
 何しろ、諸葛亮の蜀と連携した涼州に洛陽から西域に至る経路は封鎖され、曹魏にとって扉を閉ざされていて、大月氏も涼州に手が届かず、実効は皆無だった。
 大庭氏は、西域事情について立ち入った考証を加えていないが、世界的に西域学の権威である白鳥庫吉氏の意見を聞けばよかったのである。
 但し、大庭氏は、当該国の金印が、「お土産」と見抜いているので、以上は、氏の誤解を正す趣旨ではない。岡田氏の誤解を正す意図である。いや、岡田氏の真意に気付いていない性急な野次馬の意識を正したいのである。

                                完

新・私の本棚 番外 愛川 順一 私の「邪馬台国」試論 1/2 再掲

魏志倭人伝より「邪馬台国」を読み解く 季刊「古代史ネット」第2号 2021/03/25
 私の見立て ☆☆☆☆☆ 勉強不足の我流空転      2023/01/11 2024/02/12 2024/04/20

*加筆再掲の弁

 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯論評のお詫び
 当記事は、季刊「古代史ネット」第2号の記事ですが、論文審査、「ダメ出し」が不十分と見えるので、ここに、素人が、勝手に「ダメ出し」するものです。手短な記事だからこそ、丁寧な「ダメ出し」が必須と思う次第です。悪い癖は、一日も早く矯正するものでしょう。
 以下、(?)は、当方の勝手な挿入で引用原文ではありません。

*引用とコメント~意味不明の山、また山
8.さいごに
 釣り糸の縺れをほぐすために、無理やり引っ張ったり、穴をくぐらせて(「くぐらせたりすると」(?))、却って難しくする事にもなりかねません。大きな観点(?)と、大きな流れを把握しつつ、常識的判断(?)で考える事が必要だと思います。

コメント:
 全文通じて、無理矢理こね回す「芸風」/症候群と見受けるので、「自嘲」かと心配します。「常識」欠乏症とご自覚の上としたら、随分、読者を馬鹿にされていることになります。ここまでの錯誤に自覚症状がないのでしょうか。ご自愛頂きたいものです。

 ついでながら、先賢諸兄姉を、ドンとひっくるめて「非常識」とは、大したものですが、その中に、理事たる愛川氏ご自身が入っていないとの「自信」はどこから来るのでしょうか。お手本にしては、随分不出来ではないでしょうか。

 
それにしても、「観点が大きい」とは、年寄りにしてからが「初耳」です。「観点を把握する」のも、神がかりのように聞こえます。

 以下、まとめの各条を批判します、お手間でしょうが、なぜ、ダメがでたのか確認いただき、できれば、お手本を変えることをお勧めします。引きつづき、(?)は、勝手追記です。

7.まとめ
1.「帯方郡」から「邪馬台国」(?)までの距離(?)は萬二千里である。

コメント:
 「距離」が、古代では無意味な「直線距離」か、「倭人伝」で言及している「道里」(道のり)か、不明では論義にならないので、困るのです。
 ちなみに、「倭人伝」に「邪馬台国」がないのは、周知の事実です。堂々と論じる前に確認しておくものでしょう。

2.「帯方郡」から「伊都国」までの距離(?)は萬五百余里である。
「伊都国」から「邪馬台国」(?)までの距離(?)は、萬二千里から萬五百余里を差し引いた、千五百里未満(?)。直線(?)で千五百里未満(?)の距離(?)は、「周旋可五千里」の地図(?)の概念(?)と一致する。

コメント:
 概念も何も、当時「地図」はなかったから一致しようがないのです。もちろん、倭人伝に「未満」は無しですから「論外」つまり、議論が成立しません。多分、「餘」の解釈を誤っているのでしょうが、氏がなぜそのように原文を離れて解釈したのか不明ですから議論できません。
 合わせて、「直線」でない「距離」の幻想が漂っています。さらに合わせて、「周旋」の理解に不都合があるようにも見えますが、説明がないので、手直ししようがないのです。
 ともあれ、大量の誤解山積で、つけるクスリが見つかりません。

 ついでながら、「余」は、その値の上下を含んでいるので、「萬二千餘里」から「正体不明」の「萬五百余里」を引いた結果は、「千五百余里」としか言いようがないのです。「倭人伝」には、「未満」なる時代錯誤は出てこないので、結局、意味不明です。

3.出発地は「帯方郡」であり、特定がない場合(?)は、距離(?)や日数の基準(?)は「帯方郡」からとなる。

コメント:

 出発点は、「郡」であり、これを「帯方郡」と断定する根拠は、ありません。不「特定」とは、何のことか、理解困難です。なぜ、そのように言い切れるのかも不明。いや、これは、当記事の全体を通してのことですが。「基準」は「基点」の誤解でしょうか。

4.「帯方郡」から「末盧国」(倭国の本土(?))までの日数は「水行十日」。

コメント:

 「倭国の本土」は、全く意味不明。なぜ、郡からの日数が「水行十日」 と書かれていると断定しているのかも不明。ちんぷんかんぷんで、頭が海の藻屑ならぬ、モズクです。

                                未完

新・私の本棚 番外 愛川 順一 私の「邪馬台国」試論 2/2 再掲

魏志倭人伝より「邪馬台国」を読み解く 季刊「古代史ネット」第2号 2021/03/25 
 私の見立て ☆☆☆☆☆ 勉強不足の我流空転 2023/01/11 2024/04/20

*加筆再掲の弁

 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

5.女王に従う「倭国」とは「邪馬台国連合国」(?)21国プラス6国(対馬、一大、末盧、伊都、奴、不彌)(?)と「投馬国」(?)である。これを「邪馬台国同盟国」とみる。(?)

コメント:

 意味不明の連発。とどめの「邪馬台国同盟国」は、皆目不明。「連合国」は、まるで第二次大戦です。敵は「枢軸国」でしょうか。
 因みに、従属していれば、対等の関係ではないので、どう見ても「同盟」/「連合」はあり得ません。と言うか、「倭人伝」にそのような時代錯誤は書かれていないのです。

6.「邪馬台国」と「投馬国」の日数(?)は、それぞれが連合国家(?)である故、其の国を巡邏(?)する旅程。故に、「邪馬台国」の「水行十日、陸行一月」は、「帯方郡」から「末盧国」までの、「水行十日」(?)を差し引いた「陸行一月」であり、同様に「投馬国」の「水行二十日」とは「水行十日」で国を巡邏(?)する旅程である。

コメント:

 日数」も、「連合国」ならぬ「連合国家」も「巡邏」も意味不明。三世紀倭人に「国家」などなかったはずです。日数論は、一段と意味不明です。

7.当時の近隣諸国との人口構成(?)からみて、大きさ、人口、国家形態が「邪馬台国」を連合国家。(?)
コメント:
 「近隣諸国」とは何のことやら。「人口」は意味不明の時代錯誤、「人口構成」も意味不明です。(年齢構成か)「國の大きさ」も意味不明。「国家形態」は、ますます不明。それにしても、全体に文になっていないようにも見えます。「...との人口構成」も、何のことやら意味不明。それにしても、文末処理は、誤編集操作でしょうか。せめて、書き始めた文を完結していただかないと、困るのです。

8.女王国の境は第2の「奴国」(?)であり、南は「狗奴国」と接しており、戦闘状態にある。(?)

コメント:

 狗奴国は、女王国と不和、つまり、服従関係になかったと言うだけで、主語が動揺していて、趣旨不明ですが、「奴国」が「狗奴国」と「戦闘状態」にあったとは書かれていません。

9.東の海を渡って、千余里(以東)の所にも国があり、それも倭人である。(?)

コメント:

 「東の海 」は、意味不明、出所不明。
 東は、「倭種」であって、「倭人」には属していません。属していれば、詳細を報告する義務があります。ここでは、以東は、基準点を含まないようです。それとも、さらに千里、つまり、果てしなく進むという解釈でしょうか。

10.後の中国の史料では、畿内の大和王朝(?)は「日本」と名乗っており、筑紫城に居た倭奴国の後裔(?)。

コメント:

 「後の中国の史料」は、正体不明。「筑紫城に居た倭奴国の後裔」も「畿内の大和王朝」も「倭人伝」に書かれていないので、確認不能。「日本」は、八世紀以後の新語で、これも、深刻な時代錯誤です。

11.中国の他の史料(?)と突き合せて読むことによって、3世紀以前の邪馬台国は倭国(?)であり、空白の4世紀(?)以降は日本(?)と名前を変えており、近畿(?)に拠点を置く大和朝廷(?)となっている事が窺える。(?)

コメント:

 「中国の他の史料」は、正体不明。何を突き合わせるのかも不明。 「三世紀以前」は、三世紀及びそれ以前の意味としても、それ以前、つまり、二世紀、一世紀等々のことは、「倭人伝」には明記されていません。魏代景初年間及びそれ以降を対象としているとして、結局は、三世紀の話がせいぜいです。
 因みに、当時、西洋風の「世紀」は知られていなかったので、陳寿に、「世紀」を意識した表現を求めても、無理というものです。

 もちろん、「倭人伝」に、四世紀及びそれ以降のことは「一切」書かれていません日本」は、「近畿」共々、藤原京、平城京及びそれ以後の用語であり、「倭人伝」論義に持ち込むのは、深刻な時代錯誤です。
 「大きな流れ」を見ても、何の話をされているのやら、「五里霧」中です。確か、本記事は「邪馬台国」私論だったのではないでしょうか。「圏外」乱闘は、ほどほどにして欲しいものです。

◯まとめ
 総じて、現代語とその誤用の氾濫で、折角の意欲的な提言が、あらぬ方に飛び散っていて意味不明です。先賢諸兄姉の山成す業績から、何も学ばなかったのか、それとも、よりによって、不勉強な論者のお手本を丸呑みしたのでしょうか。誰か、文章作法の講釈をしてくれる方がいないでしょうか。

 同号の塩田泰弘氏の論考は、長期に亘る考察の成果と見え、また、念入りに考証されているので、当ブログで賛同できない点に関して言及するときも、毎度、尊敬の念を持って批判します。えらい違いです。

 ぜひ、ご自身の意志で、先輩諸兄姉の「筆法」を学んで頂きたいものです。

                                以上

2024年4月18日 (木)

新・私の本棚 安本 美典 「倭人語」の解読 補足編 再掲

 「卑弥呼が使った言葉を推理する」勉誠出版 2003年刊
私の見立て ★★★★☆ 絶妙の好著、但し、極めて専門的 2020/07/01 補足 2022/01/04 2024/04/18

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯はじめに
 本書書評としては、既に三回連載形式の記事公開の上で、随時補充していますが、検証不十分と判断されたのか賛同が聞こえないので、少し丁寧に掘り下げて追い打ちするものです。自己記事を自由に引用できるのに、補充した際に文意から繋ぎ損ねていたら、ご愛敬としてください。

◯三世紀の日本語考
 安本氏は、単行本33ページの「三世紀の日本語の特徴」条に言語学論考を並べていますが、無解説に近いので、素人は、自力で踏み石を配置して理解の助けとするしかありません。

*森博達氏 上代八世紀日本語の音韻法則
 森氏は、引用出所の単行本30ページに及ぶ学術的論考の労作を見ても、八世紀奈良時代の豊富な日本語文書資料から得た知見を根拠に、『「上代日本語」は、四世紀余前世の筑紫地域語らしい「倭人語」と共通の音韻法則を有する』と主張するものの、有効な推定と断定しているものではないのです。

 また、語中の母音連続禁則も、「決して」と断定せず、「原則として」と限定しています。当禁則には、既知の例外があるのでしょう。

 素人考えでは、括弧内に例示されたように「青し」(awoshi)が禁則でないなら、「邪馬壹」も、yamawi(邪馬委)のように、w音が間に入れば、禁則除外となると見て良いかと愚考されますただし、手元の森氏単行本では、例示出典は不明です。文庫本で補充されたのでしょうか。

*長田博樹氏 倒錯した方言観
 長田氏は、「倭人語」音韻は、「上代日本語」のそれと明らかに異なるとしますが、「筑紫方言」は本末転倒でしょう九州が起点と見れば、天地が逆転していて、「上代日本語」は「倭人語」の「後世奈良方言」かとも思われます。いかがでしょうか。

*大野晋氏 場違いな勘違い放言
 大野氏対談で、鈴木武樹氏が、丁寧に古田氏の馬委(yamawi)説を紹介したのに対して、粗忽に「上代日本語で成り立たない」と言うものの、何がどう成り立たないのか、全くもって根拠不明で引用が打ち切られていて、これでは、単なる「ジャンク」情報と見えます。
 このようなお粗末な発言が、なぜ延々と掲示されているのか、安本氏の意図が不明です。

*安本氏の訂正と総括
 追いかけて、安本氏が、「倭人語」は、奈良時代の「上代日本語」ではないと大野氏のうろ覚えの断言を是正した後、「倭人語」にも、母音が重なるのを避ける傾向があると、森、長田両氏の論考を承継しています。大野氏の暴言は、どう補正しても、両氏の精緻な論考と席を連ねられるものではないと愚考します。

 安本氏は、慎重に言語学権威の発言を引用しつつ、賢明にも加減、毒消しして総括し、そのような傾向が認められるとしても断言できないとの口調です。誠に、妥当な対応です。

*「邪馬臺国」か「邪馬壹国」か(単行本181ページ)~未解決の課題
 氏は、第4章で、以上の論議を回顧し、馬壹がyamaiと発音されていたと限らない」可能性も考慮した上で、「言語学的に、邪馬壹国が、倭人語発音上で許容されたかどうかは、判じがたい」としています。
 続いて、地名論などの多角的視点から、両国名のいずれが妥当であるか論議を加え、当然「邪馬台国」有利の方向に重きを置いて論じても、両論には、「それぞれ異なった視点から根拠あり」としています。むしろ、一時の「邪馬壹国排斥論」でなくなっているように見えます。

 本書は、国名論の最終回答として物されたのではないので、この場でどうしても断定しなければならないということは無いのです。
 当ブログ筆者は、安本氏のかかる慎重な筆法は、学術的に極めて公正かつ妥当なものと見るのです。

 これ程周到に進めた議論の結論を「断定的結論を示した」と解されると、安本氏も、大いに困惑するでしょう。

 本記事の愚見に関して、安本氏に問い質すつもりはありませんが、もし、とんでもない勘違いを書いているとしたら、しかるべき筋からご指摘があるでしょうから、お待ちしています。

◯まとめ
 本書は、全体として、誠に堅実な論考の宝庫であり、安本氏の明晰な論理の冴えを示すものです
 ただし、本書が対象読者としていない古代語学初級者が早合点するのが完全に防止されていないのは、やや残念です。ただし、それは、本書の学術書としての意義をいささかも損なうものではないのです。

                                 完

新・私の本棚 安本 美典 「倭人語」の解読 1/3 再掲 国名論~倭人伝論

 卑弥呼が使った言葉を推理する 勉誠出版 2003(平成一五)年刊
 私の見立て ★★★★☆ 絶妙の好著、但し、極めて専門的 2020/01/21 補充再公開 2020/06/30, 2022/01/04, 2024/04/18

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

〇はじめに
 本書は、倭人伝語が七~八世紀の「万葉仮名」に反映されたとの作業仮説に関して、第二章、第三章の厖大な考察(専門的につき書評回避)を経て構築した「解読」の原則に従い、倭人伝解釈に挑んでいるものです。

 総じて、安本氏の諸著作で、とかく目障りだった好敵古田武彦氏に対する攻撃を抑制し、学術書の境地に到ったと見るのです。また、本書で追及している原則の性質上、多くの場合、断定表現を避けているのは賢明です。
 
〇第一章 邪馬壹国 幻の国名論
 探し求めたのは、『「邪馬壹国」なる国名に含まれる「ヤマイチ」或いは「ヤマイイ」の後半部の母音続きが、七~八世紀の古代日本語で厳重に避けられていて、自称国名たり得ないから、「邪馬壹国」はなかった』とする託宣ですが、遂に、本書の結論部には見つかりませんでした。

 最初に提示された大野晋氏見解は、「放言」と見える座談紹介の失言が誤解か、明らかな誤りを放置した粗相の事態ですから、安本氏が、自説の根拠にしたとは考えられません。真剣に取り組むなら、大野氏の論文等を発掘して、史料批判した上で利用したと見るからです。

 森博達氏見解は、一般紙記事断片で、佚文である御覧所引魏志引用と並べて「倭語の法則性に反する」と根拠不明の見解で断言していますから、森氏ほどの学究の徒の説としては、粗雑です。つまり、文献批判に耐えず、安本氏の論拠として、不適格なのです。
 ただし、それで終わると、事のついでに森氏の顔に泥を塗ったままになってしまうので、以下、論文に準ずる論考を引用します。

*森博達氏の考察
 森氏は、日本の古代 1「倭人の登場」 5「倭人伝」の地名と人名(中央公論社)において、本書の安本論考に先立つ着実な展開で、古代日本語と三世紀中古中国語の音韻関係を論じています。

 ただし、両語は、時代、地理が隔絶している上、事例は、多数の中の一例でなく、乏しい資料用例のほぼ全部であり、とにかく資料が乏しいことから、森氏は、断定的な見解を述べていません。当然のことと思います。

 また、制約として、倭人伝語は中国中古語に忠実に基づいていない可能性があり、その場合は適用できない」と明記されていますが、安本氏の紹介にはありません。本書の参照引用は、かくのごとく不確かです。資料批判は、原典、特に出版された論考に対して行うべきものです。

*安本氏の見解
 安本氏は、森氏の論議を踏まえて『「邪馬壹(壱)国と表記されていたとしても、必ずしも、母音が二つつながっている原音をうつしたことにはならない」と言う考え方もできそうである』と、言葉を選んだ上で限定付きで明言しています。森氏が、「自然」などと、根拠不明の非学術的情緒表現としているのと好対照です。

 ただし、同業者論文引用の際の儀礼ですから、安本氏は、森氏の論考の行き届かない点をあげつらうことはできないのです。この点、同業者ならぬ素人である当ブログ筆者が、時として、諸兄の書斎に土足で踏み込むような乱暴、無礼をしてのけるのとは、大違いです。

 なお、以下では、学術的な見識として、両氏の「厳重に避けられていた」なる断言が、絶対のものではないとする用例を述べています。

〇第四章 浮かびあがる「邪馬台国」
 章冒頭で『「大和」をなぜ「やまと」と読むか』の小見出しでそそくさと駆け抜けますが、素人目にも引っかかる所が多いのです。
 「やまと」が、はじめ「倭」だった根拠は示されないし、そもそも「はじめ」とは、いつのことなのか曖昧です。

*根拠なき誹謗
 また、「倭」が、古代に於いて「背が曲がった丈の低い小人」であったと解するのは、白川静氏に代表される漢字学上に根拠が見当たらず、また、安本氏による見解も示されず、根拠薄弱に見えます。 あるいは、藤堂明保史編の「漢字源」などの辞書によるものかとも思われますが、所詮、風評に近い不確かなものであり、国号を改変する動機にはならないと推察します。

 さらに、「倭」を「やまと」と読む伝統と共に「倭」は「邪馬台」との伝統もあったろう』と付記しますが、そのような「伝統」が実在していたという根拠は示されていません。「伝統」とは、本来、血統が継続維持されるという意味であり、一国の国号は、正当に継承されずに「時の風評で変遷するものではない」のです。
 ちなみに、中原文化は一字一音の大原則であり、蛮夷が、勝手に発音を注釈することは、「絶対に」許容されないのです。百濟は、教書の学習のため、あるいは、仏教経典の学習のため、「発音記号」(振り仮名)を利用していたようですが、中國からの厳命/禁止により、直ちに廃止したのです。ついでに言うと、「辻」「峠」などの「国字」、つまり、本来の漢字にない作った漢字も、中國からの厳命/禁止により、直ちに廃止したようです。何方も、中國からの指導が緩和される東夷「倭」では、百済仏僧の教授を得て、生き残って繁盛したと見えます。

 復習になりますが、三世紀にそのような発音があったとする文字資料は、一切ないのです。ない資料が、7~8世紀まで伝承されたとする資料も、また存在しないと見るしかないのです。

 安本氏は、そのような限界を承知しているので、ここでは、単に、一つの意見を述べているものと見られます。

*お門違いの枕詞
 また、「枕詞」説ですが、「倭」「やまと」では逆縁で語調も合いません。
 安本氏にしては、論理の筋も口調も整わない不思議な乱調です。

                                未完

新・私の本棚 安本 美典 「倭人語」の解読 2/3 再掲 「倭人伝」論

卑弥呼が使った言葉を推理する 勉誠出版 2003(平成一五)年刊
私の見立て ★★★★☆ 絶妙の好著、但し、極めて専門的  2020/01/21 補充再公開 2020/06/30, 2022/01/04 2024/04/18

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

〇第五章 地名と人口から見た倭人の国々
 本章では、倭人語解読を踏まえて、倭人伝道里記事による戸数推定などが始まります。
 安本氏は、『邪馬臺国は小国連合の「大国」であって七万戸を有した』と解釈していて、世に蔓延る百花斉放の新説提唱者と同様に、一説である先入観を読者に押しつけていると見えます。
 また、行程道里も、『背景不明の概数を、一律に多桁計算処理する』時代錯誤をたどっていて痛々しいものがあります。

*原点からの再出発の提案
 倭人伝」を、倭人語解読により正解するのなら、この際、「倭人伝」解釈の旧弊を深い穴に打ち棄てて、一から虚心に読みなおすべきではないでしょうか。
 纏向派などの俗説派の諸兄は、多年の学究で壮大な理論体系を構築し、起点部分から考え直すことはできないでしょうが、安本氏も、いたずらに旧説に固執するのでしょうか。
 いえ、無礼にも、素人考えで質問しているだけです。定めしご不快でしょうが、素人論者は、率直を旨としているので、そうなるのです。

〇第七章 新釈「倭人伝」
 本章の諸見解は、安本氏の絶大な知識、学識を背景とした「倭人伝」新釈であり、これを偉として、大いに傾聴すべきであると思います。

*長大論
 「長大」論では、奈良時代文書の用例を主たる根拠として、俗説となっている卑弥呼老齢説を一蹴しているのは、痛快であり、大いに賛成です。
 俗説遵守の諸兄は、卑弥呼は老婆に決まっている」との牢固たる先入観に支配されて、柔軟、適確な用例評価ができないのです。当方は、無用の先入観を有しない安本氏が、頑迷な俗説を打破したことに、この上なく感謝しているのです。

 僭越ながら、当ブログ筆者は、中国史書の用例を参照して、同様の結論が導き出せるものと信じて、かねて、成果を発表しているものです。ここで種明かしされている結論は、新入生の如く先入見のない眼で中国史料用例を斟酌すれば、むしろ難なく到達できる「正解」と思うのです。
 勝手ながら、私見では、氏は、別の山路を登坂して、同一のいただきに至ったのであり、いただきの正しさを二重に確証している、大変ありがたい論説なのです。逆に、世にはびこる感染症である長大老齢」説は、一体、何を根拠としているのでしょうか不思議です。
 因みに、「長大」呉書用例から「三十代男性の形容」との考察は古田武彦氏の提言です。
 私見では、古田氏に安本氏の慎重さがあれば、「長大」論で、魏書ならぬ呉書に依拠する愚は避けられたはずです。

*都督論
 「都督」論で、安本氏は中国側用例を軽視して好ましくないと思うのです。「都督」は、歴代中国王朝で、古来しばしば起用された地方官名であり、「倭人伝」も、古典用例を踏まえているとみられるのであり、奈良時代国内文書も、本来、中国用例から発しているはずですから、前後関係を度外視した起用は好ましくないと思われます。
 ただし、「都」を、平城京などの「みやこ」の意味に固定したために、以後の「都」の解釈は、中国とずれて行くように思います。また、「都督」の「都」に表れている「すべて」の意味が、それによって、国内文書から姿を消したように見受けます。
 中国史料の読解に、大いに影響している国内「用語」の変遷です。

*大夫論
 中國史書を参照すると、「大夫」は、周制の最高官でしたが、秦で、爵位の最低位から数えた第五位の「低位」、塵芥のごとき一般人階層となり、錦衣が雑巾の感じです。秦が、周制高官を意識的に雑巾扱いしたように見えます。
 因みに、漢は秦の爵位を継承しましたが、新朝の皇帝として君臨した王莽は、周制を復活させ、「大夫」を周制同様の至高の官位としましたが、束の間の晋が滅び、漢を回復した光武帝劉秀は、漢の官制を復興したので、「大夫」の高揚は、束の間だったのです。
 案ずるに、諸兄姉は、中国では「大夫」は地に墜ちたが、倭人は、古(いにしえ)の周制を踏まえて、その高官としているように見えるという史官陳寿、魚豢の示した機微を見損ねています。
 安本氏の「大夫論」「は、奈良時代文書の同様の誤解の影響でしょう。してみると、安本氏は、ここでは安直な「俗説」に追従して、随分不用意です。
 ここで、中国史書解釈の常道に立ち返ると、「大夫」は、中国官制に定義された官位、官名であり、中国文明に属していない蛮夷が「自称」するのは、途轍もない無礼な行為です。本来、激しく叱責されるべきなのですが、蛮夷を取り次ぐ鴻臚は、蛮夷の文書をそのままに皇帝に取り次ぐことを命じられているので、そのまま公文書に記載されたものと見えます。

*「一大率」の起源推定~私見御免 2024/04/18
 「倭人」「大夫」に関しては、「親魏倭王」に任じられた際に、厳重に指導されて是正されたと見え、後続の記録では、「壹女王與」の遣使として、「倭大夫率善中郎將掖邪狗」のように、「倭大夫」と称していて、穏当になっています。ついでながら、「倭大夫率善中郎」は、中国官制にない独特のものであり、「倭人」側では、「倭大率」転じて「一大率」と略称で通称したのではないかと憶測している次第です。いえ、「倭」と「一」が、「倭人」の世界で同音であったなどというものではありません。

*劈頭句から始まる別の道
 「倭人在帯方東南大海中依山島依国邑」は、「倭人伝」劈頭句ですが、この句は、史官たる陳寿が、想定読者である皇帝等の教養人に対して提言するものであり、厳格に史書としての行文、用語に従ったと見るものです。

 安本氏は、七~八世紀の奈良時代文書から古代人の解釈を察することを「勉強」と勧めますが、こと「倭人伝」解釈では、少なからぬ傍路、道草と思量します。いや、念のため付け足すと、勉強は、道草から思わぬ収穫を得るものです。時には、道草をついばんで、ツメクサの滋味を知ることもあるのです。
 口幅ったいようですが、古代史書の解釈には、文書著作者の「辞書」を想到する努力を、もっと大事にしてほしいものです。

                                未完

新・私の本棚 安本 美典 「倭人語」の解読 3/3 再掲 「倭人伝」論 世界観談義

卑弥呼が使った言葉を推理する 勉誠出版 2003(平成一五)年刊
私の見立て ★★★★☆ 絶妙の好著、但し、極めて専門的  2020/01/21 補充再公開 2020/06/30, 2022/01/04 2024/04/18

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*大海談義 隔世の世界観~余談
 以下、安本氏初め先学諸兄には、常識のことばかりでしょうが、当ブログの読者には未知の領域の方もあると思うので、ご容赦ください。

 隔世の世界観というのは、三世紀の中原人、倭人、後世奈良人は、それぞれの世界、天下を持ち、従って、それぞれの「世界」の認識は大きく異なるから、同じ文字、同じ言葉で書いた史料も、そこに表現された意義は、それぞれで随分異なるということなのです。

 それに気づかず、その記事の著者の深意を推定する当然の努力を怠り、現代日本人のそれも「無学な」素人、二千年後生の無教養な東夷の「常識」で字面だけを判読したのでは、「誤解」も避けられないでしょう。もっとも、「誤解」は、自分自身が気づかないと是正されないので、「付ける薬がない」のですが。

 例えば、同時代の夷蕃伝である魚豢「魏略」「西戎伝」で、西域万里の「大海」はカスビ海であり、総じて,当時の中原人にとって、「大海」は、英語でPond, Lake、つまり「内陸水面」、但し、「塩水湖」とわかります。三世紀時点の中国の世界観は、そうなっていたのですが、この点の論議は、先人の説くところなので省略します。

 いや、現代の英米人は、両国間の大洋Atlantisを、しばしば、Pond、水たまりと呼ぶのです(もちろん冗談半分でしょうが)。「古池」をジェット機で飛び越す感覚なのでしょう。それ以前、英語(Englandのことば)では、伝統的にブリテン島の周囲の海をSeaと呼ぶものの、米語では、東部人は、目前の海を、まずはOceanと呼んだのです。後に、西海岸の向こうの大洋を知ってAtlantis, Pacificと呼び分けたのです。認識の水平線は、時代で変わっているのです。

 ざっと走り読みしただけでも、土地と時代で、世界観が大きく異なり、それに従って「海」の意義が大きく異なるのです。

*認識の限界 地平線/水平線効果~余談
 もちろん、倭人伝の「海」、「大海」の認識は不明ですが、例えば、帯方人や倭人が南方の太平洋、南シナ海を認識していた証拠はないと思われます。認識の「地平」が異なるのです。

 例えば、「倭人伝」の「大海」は、当時の中原人世界観に従うと、韓国の南を「大河」の如く滔々と流れているのであって、これまた大河のように中州(山島、洲島)があって、対海国、一大国、そして、末羅国とそれぞれの中州の上にある諸国を、渡し舟で伝っていくという感じなのです。

 従郡至倭、つまり、郡から「倭人」、つまり、倭人王の治所、居城まで、普通里で萬二千里であるとの解釈が出回っていますが、東夷が、それほど広大な世界観を持っていた証拠は、何所にも無いのです。後世人が色々推定して、勝手に言い立てるだけで、資料には、何も何も書いていないのです。繰り返しばかりですが、世界観、地理認識が異なれば、言葉の意味は異なるのです。

 七~八世紀以前の奈良人が、内海から隔絶した、地平線/水平線のない奈良盆地で、見たこととも聞いたこともない「大海」をどう認識していたか、知ることはできません。「まほろば」は、住民の先祖が流亡の果てに安着した桃源郷、陸封安住の境地と見えるからです。
 隋帝を「海西」の天子と呼んだ「俀国天子」は、半島経由で黄海を軽々と渉る行程を知らず、漠然と、両者を隔てる「海」を言い立てたのかも知れませんが、隋帝にとって、「海西」とは、西域の果ての大海「裏海」の西岸であり、つまり、途方もない辺境を指定されたと感じたのでしょう。

 いや、時代人の本心は、当人に訊かねば分かりません。「グローバル」な視野に囚われた後世人が、倭人の世界観に同化するには、精緻広範な地球儀(グローブ Glove)を棄て、同じ「井戸」に入ることです。まずは、「ローカル」が、万事の基礎です。

 古代奈良平野は、立派な湖水を有していたそうですから、『対岸は見通せても、そこは「海」』と見立てた海洋観が存在した「かも知れない」。そうした時代地理環境も影響するのです。

*魚豢の慨嘆~余談
 「倭人伝」の収録された陳寿「三国史」魏使第三十巻の最後に、劉宋史官裴松之が補注した「魏略」「西戎伝」には「議」が記され、魚豢は、自分を含め万人は自身の井戸の時空に囚われた「蛙」であるとの趣旨で、雒陽世界に囚われている自身を慨嘆しています。西域万里を実見できず、前世の他人の見聞録に頼るもどかしさを感じたのでしょう。

〇総評

 誤解を避けるために付言しますが、安本氏は、古代史学界にまれな資料読解力と理数系合理的世界観の持ち主であり、本書は、氏の最善の論考と思います。その一端として、本書の随所で安本氏の優れた大局観が確認できます。
 なお、当ブログの手口として、しばしば安本氏の著書書評から脱線して、持論の手前味噌に迷走していますが、具体的に根拠を示して反論していない議論は、書評外です。諸兄の関心を引くための手口であり、ご容赦ください。
 当方は、安本氏の論に、時に軽率な決めつけが散見されると指摘しますが、それは難詰ではありません。

 広範な考察範囲を述べていけば、誰でも勘違いはあるのです。大事なのは、基本的な論考姿勢です。

*参考文献の偏り
 安本氏の限界とも思いますが、当分野における古田武彦氏の意見について、ほぼ印象批評、人格批判しか公開されていないのは、氏ほどの学究にしては、大変偏ったものと言わざるを得ません。
 また、白川静氏は、漢字学の碩学ですが、万葉集に深い見識を示されているので、是非、白川氏の遺した著書、辞書を、安本氏の参考文献に取り入れていただきたいものです。白川氏は、七十代半ばで教職を辞し、以後二十年掛けて、三大字典/辞典と多数の漢字学書を公刊し、その中には、潤沢な教養を生かした、万葉論もあるのです。

                                完

新・私の本棚 日本の古代 1 「倭人の登場」 5 「倭人伝」の地名と人名 再掲

 中央公論社 単行本 1985年11月初版 中公文庫 1995年10月初版
 私の見立て ★★★★☆ 貴重な学術的成果  2020/01/15 追記再公開 2020/06/30 再掲 2024/04/18

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

〇初めに
 本書の本章は、森博達氏の執筆であり、「倭人伝」に書かれている漢字地名、人名の発音を推定する際に「上代日本語」の発音を参考としたものです。
 安本美典氏の近著で、森氏の見解に言及しているので、急遽、趣旨確認したものです。

*概論

 森氏の以下の提言は、結論を急いだものでなく、適用範囲を限定している作業仮説です。案ずるに、科学的議論は、かくあるべきです。

*提言要約の試み

 「倭人伝」の地名と人名は、三世紀当時の「倭人語」の漢字表記であり、倭人と中国人の交流から、一定の発音規則に基づいて生成されたものです。

 ここで倭人語と対照可能な言語として、「文献によって音韻体系を窺い知ることのできる最古の日本語は、七~八世紀大和地方の言語で、これを上代日本語と呼ぶ」と明記の上で、倭人語と上代日本語の分析を進めています。

*上代日本語
 上代日本語は、文字通り上代の「日本語」であり、「日本」国家成立以前から同地域で話されていた言語ですが、同時代には文字記録、つまり、漢字の発音を利用して言葉を記録することができなかったため、後代、「日本」成立後、万葉仮名などの手法により文書に記載された資料から、上代日本語の発音を推定して、そこから、往時の音韻法則の大系を推定する研究が進んでいるということです。

*倭人語
 倭人語は、発音面で言うと、倭人伝で起用されている地名、国名、人名、官名などの漢字表記から推定されているものであり、古代中国語の発音に従うものと推定できるとして、限られた資料ですが、上代日本語と共通する音韻法則に従っている可能性が高いとみているのです。

*中国古代音韻
 現存資料で得られる中国語音韻は「切韻」に収録された中古音です。中古音は、魏晋代の音韻であり、秦漢代音韻は、中古音と必ずしも同様ではない上古音であり、私見では、中古音音韻から遡上推定されているようです。


 森氏は、倭人語は、上代日本語と同様の規則に従っているものと見ています。

*残された課題

 森氏は、倭人語発音の推定に、次のような課題が残っているとしています。
⑴ 「倭人伝」の地名・官名・人員はどの時代に音訳されたのか。
⑵ 先秦から魏晋まで、漢字音はどのように変遷したのか。
⑶ 音訳者(複数と考えられる)はどのような姿勢で音訳したのか。

 ⑶の音訳の「姿勢」は、別に、音訳者が正座していたかとか、寝そべっていたかという話ではなく、一つには、倭人語が中国側の当てはめによるのか、倭人側の提言によるのか、ということになります。つまり、「卑弥呼」が倭人語の中国語への音訳か、この漢字三字が起源の倭人語か、ということです。後者なら「卑弥呼」の発音は倭人語に馴染まない可能性があります。

*まとめ

 以下、森氏が明言していない「要旨」であり、先に述べた紹介とともに、文責は当ブログ記事筆者に帰します。
 お疑いの方は原書をご確認ください。


 「邪馬壹(臺)国」なる国名が、三世紀時点に倭人語から音訳されたのであれば中古音であり、倭人発音は、上代日本語に従う可能性が高いが、後漢書で漢代「初出」の国名なので、上古音の可能性があり、倭人発音は、上代日本語の規則に従わない可能性があります。また、帯方郡や楽浪郡の音訳であれば、「地域発音」の可能性もあります。

 ということで、森氏は、言語学という現代科学の求めに従い、法則としての妥当性とその限界を論じ、特定の国名、人名に関する断定は慎重に避けているのです。

*安本氏の見解
 安本美典氏は、著書で、森氏の提言を踏まえ、慎重に言葉を選んで、不用意な断言は避けているものと解します。
 この点は、別途書評する予定です。

                             この項完

新・私の本棚 日本の古代 1 「倭人の登場」 4 『魏志』倭人伝を通読する 1/2 三訂

 中央公論社 1985年11月初版 中公文庫 1995年10月初版
 私の見立て ★★★★☆ 好著ながら、俗説追従の弊多々あり 2020/01/15 追記再掲2020/07/07 2021/07/24 2024/04/18

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

〇初めに
 本章著者は、森博達氏と杉本憲司氏の並記ですが、恐らく主体は杉本氏でしょう。

*曹叡拝謁図の虚報
 口絵の倭使明帝拝謁図は、虚報、妄想と罵られても仕方ありません。
 原史料「魏志倭人伝」に依れば、倭使節が帯方郡に於いて洛陽で皇帝に拝謁することを上申したのは景初二年六月なので、そう書いたのでしょうが、「倭人伝」には、詔書引用だけで皇帝拝謁記録がない以上、拝謁してない可能性が、大変高いと見られます。
 皇帝に拝謁していれば、堂々と明記されるのです。

 なお、「俗説」は「一つ覚え」の誤記説で「景初三年六月」を押し通していますが、この絵は俗説信奉者に対し異様に反抗的/挑戦的です。衆知ですが、明帝曹叡は景初三年元旦に崩御して、即日新皇帝少帝曹芳が即位しているので、「俗説」の通り、景初三年六月以降に雒陽に昇ったとしたら、皇帝は明帝の筈はなく、口絵は虚報であることが明らかです。編集の際、記事校正はしても、口絵の校正はしなかったのでしょうか。これでは、著者の権威に泥を塗っています。(文庫本は、単行本の文庫化ですが、校正はしなかったのでしょうか)

*誤読/誤解のしるし~余談
 因みに、書紀には「明帝景初三年」と「はっきり」書かれているようですが、中国史書では、皇帝没後、翌年改元されるまでの期間は、単に「景初三年」と書くのが、厳格な規定であり、書紀は、魏書/魏志を正しく引用していないのです。
 つまり、明帝曹叡は、元旦に逝去したので、景初三年が「明帝景初三年」と書かれることは、一切ないのです。

 書紀編者は、よほどの物知らずから聞かされた、ごみ情報を書いたのでしょう。書紀編者を、誤謬を「はっきり」書いた「浅学非才」の馬鹿者』との非難、不面目から救うとしたら、元々「明帝景初二年」と正しく書かれた佚文を、見習いの実務担当者が書紀に採り入れる際に、達筆佚文を誤読して、「明帝景初二年」と書いたとでも言い訳するのでしょう。
 あるいは、継承経過不明の「書紀」のいつ、誰の手によったかわからない写本継承の際、その際の誰ともわからぬ写本者が、小賢しく追記したのでしょうか。中国では、正史の帝室保存の至高写本、時代原本を次代に継承するのは、その時点の王朝の国家事業として取り組み、その時点の良質写本とも照合して、当代「本」を確定した上で、最高の写本工が写本し、厳格な校訂を経て、初めて、写本を当代本と交代させる手順を踏んだはずですが、天皇家を至高の存在とする「書紀」は、武家政権にとっては、悪書の極みであり、いわば、禁書の類いともなりかねなかったので、「書紀」の写本継承は、古来、いずれかの寺社の識者の個人的な秘めやかなものであり、時代の叡知を集めた国家事業ではなかったので、写本の正確さには「限界があった」と推定されるのです。
 古来、中国正史の伝承を見ても、厳格な校訂を維持しなければ、つまり、一度でも、ぞんざいな写本がなされたら、写本には、誤字、誤写、誤釈が繁茂するのです。

 まあ、精々弁護しても、「書紀」の「魏晋代」記事伝承は、中国文化に対して厳格な「修行」に欠けた、素人仕事の積み重ねなので、多分、無学無教養な東夷にありがちな間違いなのでしょう。当時の「日本」で、中国古典権威者は、一字一句の編集校正をしなかったのでしょう。いや、この部分は、両氏に責任の無い余談です。

 再確認すると、両氏が採用した原史料解読は、景初二年上洛なので、このようなつまらない余談は無関係なのですが、倭人伝解釈は、古典解釈の常識の通らない渡世なのです。

*「通読を終えて」
 両著者は、本章の最後に「通読を終えて」と感慨を述べていますが、「古典の解読では、先人の読み方に異をはさむのに急で、自分の先入観に惑わされた読み方をすることが多く見られる」とは、見事に見当外れです。自分に先入観があれば、先人にも先入観があり、先人の読み方に無批判に追従することは、大局を誤るものと考えます。起点とすべきは、史料原文であることを再確認すべきなのです。

*原著者最優先ということ
 「先人」の誤りの大半は、原史料たる「倭人伝」に縁も所縁(ゆかり)もない、「国内史料」と言う、つまりは、「倭人伝」にとっては異界の史料から生じた先入観に囚われて原史料を改竄、創作して読み進むことから生じている過誤に起因していると思われます。

 文献解釈で最優先すべきは、原著者の意図、真意を察することであり、いかに高名でも、「先人」は原史料解釈に於いては、一介の初心者に過ぎないことを説きたいのです。もちろん、「先人」の読み方は、国内史料に関する学識の厖大な蓄積に立脚しているのですが、原史料の起点を理解していないとみられる場合は、まず、「先人」の読み方を、虚心坦懐に批判する必要があるのです。

 と言うことで、「倭人伝」解釈の原点を再確認すると、万事、原史料本位、原史料起点の解釈が必要なのです。「倭人伝」は、編者陳寿の著作物であり、何よりも、原著者の深意を察することが始点なのです。
 史実は、原著者の深意を解読した上で、次段階で追求すべきなのです。
 以上、「邪馬台国論争」で、滅多に語られない原点確認なので、ことさら、ここに書き立てたものです。

                     未完

新・私の本棚 日本の古代 1 「倭人の登場」 4 『魏志』倭人伝を通読する 2/2 三訂

中央公論社 1985年11月初版 中公文庫 1995年10月初版
私の見立て ★★★★☆ 好著ながら、俗説追従の弊多々あり 2020/01/15 追記再掲2020/07/07 2021/07/24 2024/04/18

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*三国志上程余談
 遡って、当段落では、「倭人伝」を初めて読んだのは、誰かわからない』と、まことに意味不明の愚問を呈されています。
 愚問に愚答を返すとして、話題を、陳寿最終稿に絞ると、まずは、陳寿自身であり、次いで、陳寿の遺稿を写本した写本工であり、さらには、それを、陳寿編纂「三国志」として上申した官人となりますが、皇帝が嘉納して初めて官許を得たとみれば、「三国志」を最初に見たのは、(皇帝を除けば)担当高官となります。

 なお、陳寿は、別に「三国志」編纂を秘匿していたわけではないので、少なからぬ知識人が、陳寿の稿本の写本を所蔵していたはずです。
 諸所に残されている諸般の批判、世評、風聞をみると、陳寿の編纂の過程で関係者の意見を聞くなどの取材が行われていたことの証左であり、西晋高官の許可を得ていたことを物語っています。

 「愚問」と断罪したのは、その人名を知っても、何の意味もないからです。

 世上、陳寿の「三国志」編纂を私撰と誹る向きがありますが、古来、公認を得ず史書を編纂するのは大罪であり、斬罪処刑の対象です。漢書を編纂した班固は、当初、公認を得ていなかったため、史書私撰の大罪で告発されて下獄し、あわや処刑されるところを、高位の女官であった妹班昭や西域都護に属していた弟班超の助命嘆願で許されて、任官して史書編纂を公認され、漢書を完成しています。
 いや、正確に言うと、班固は、政争に巻き込まれて、漢書未完にして処刑され、文筆に優れた班昭が、兄の遺業を引き継いで完成させています。 
 正確には、漢書は、班固、班昭の共纂とすべきですが、班昭の名は滅多にあげられません。

 陳寿の編纂に司直の手が伸びなかったということは、高官の援護のある、官撰に近い編纂であったことは明らかです。官撰史書となるには、皇帝に上申して勅許を得る必要があったので、陳寿の存命中は官撰と言えず、没後に皇帝の裁可を得て官撰となったものの、編纂者が当然行う、序文の整備ができていないのです。
 因みに、上申稿に序文をつけて完成形とすると、皇帝の裁可無しに決定稿とした不敬で処刑されかねないので、上申の際には、序文の欠けた「不完全な未定稿」としたものなのです。
 古田武彦氏の考察(「俾彌呼」ミネルヴァ書房)では、当時、上申書籍の決定稿の裁可後の仕上げの手順としては、「三国志」巻中に収められて上意を得ていた序文(東夷伝序文)を本来の位置に移動し、後跋を付して補筆を完成する想定だったそうですが、編者が没していて、遺命も伝わっていなかったため、序跋不備で画竜点睛を欠いているとのことです。まことに筋の通った提言ですが、多分、定説となることはないでしょう。

 このように、陳寿の没後、程なく西晋帝室に陳寿遺稿が謹呈されて嘉納され、帝室原本として収納された後、公認された帝室原本を基点として、子写本を起こし、次いで、子写本から孫写本と、少なからぬ数の初期写本が出回ったはずです。少なからぬとは、百部まで多くはないが、数部という少ないものでなく、二十部程度だろうということです。当然、西晋帝室写本工房が、世界一の権威をこめて、全力を振るった、高度な写本が行われたはずです。

 因みに、三国志編纂時代は、依然として、帝室蔵書は、簡牘、恐らく伝統的な木簡巻物であり、下って、范曄「後漢書」時代も、建康が長江流域ということで、竹簡巻物が正式写本のはずです。何しろ、伝統的な工房ですから、後漢代に普及しはじめた「蔡侯紙」といえども、四書五経、仏典、四書などの蔵書は、簡牘巻物が長く続いたはずです。

 一方、西域乾燥地帯などで出土した呉志(それとも、東呉史官編纂の呉書?)紙写本断簡は、明らかに民間写本であり、恐らく、旅行者/商人の携帯が前提の紙写本でしょうが、恐らく、簡牘巻物から写本しやすく荷物にならない紙巻物類と思われます。何しろ、現代では普通至極の「コピー用紙」風の単葉紙は、ページ毎の構成が固定されるので実務に適さず、巻紙に書き連ねることが普通だったでしょう。また、文書としても、巻き上げる方が扱いやすかったようです。ひょっとすると、現代でも、仏教のお経に見られるように、巻紙を折り曲げて製本していたかも知れませんが、出土遺物は、巻物の一部と見えるのです。
 いずれにしろ、出土遺物は、写本の信頼性で言うと、帝室写本に近い正式写本とは、とても思えないのです。つまり、「三国志」現存刊本との異同は、異本とみるべきか、誤写、改竄とみるべきか、確かではないのです。いずれにしろ、素性不明の僅かな断簡で、現存刊本の記事の当否を云々すべきではないのです。
 何しろ、耐久性の実証された簡牘巻物と異なり、紙文書の耐久性、例えば、吸湿による変質や紙魚食いなどの対策が確立されるのに時間がかかったことでしょう。一方、民間では、補完、形態の難点解消が優先されたでしょう。

*「読者」裴松之ということ
 「三国志」の最重要読者は、百五十年後、晋朝南遷行幸の地で、南朝劉宋官人として付注した裴松之でしょう。
 同時代の「後漢書」編纂の范曄は、「三国志」講読の動機が不明です。「後漢書」倭伝は「魏志倭人伝」に似た「お話」を載せますが、史官の用語、文体では書かれてないし、魚豢「魏略」が底本の一部とも見えますが実際の所は、全ての詮索が不確かなのです。
 笵曄「後漢書」は、先行史書諸家後漢書を明快に書き改めたこともあって、文章表現として明解で、断じて読みやすいとされていますが、史書としては「正確さに欠ける」落第作との批判とも見えます。

*「倭国大乱」の愚~笵曄「後漢書」世界観倒錯
 一例として、笵曄「後漢書」に、倭国「大乱」とありますが、史官辞書で、「大乱」は天下が乱れて天子の地位を争う非常事態の用語です。陳寿は、蛮人である倭人の内紛に「大乱」などと「たわごと」を書かなかったのです。

 これに対して、笵曄の属する南朝劉宋は、後漢が崩壊した霊帝没年以来、「大乱」の果てに、三国鼎立、つまり、地域自立という形の安定期に入ったのに満足せず、南部の両反乱分子を討伐し収束し全国統一の難業を成し遂げた晋が、あろうことか、王族内紛というお手盛りの「大乱」で秩序を乱し、北方異民族の軍兵を招き込んで、遂に亡国となった結果、中原世界という天下を失った晋朝残党が旧賊地に設立した流亡政権東晋を継いだ流亡の政権であり、劉宋高官であった笵曄は、今さら、古典用語にこだわることもなかろうと蛮人「大乱」に何とも思わなかったのです。

 陳寿「三国志」は、中原政権である曹魏が、南方の二大「反乱分子」と対峙したという形式を取っているものの、実は、三国それぞれが、大義名分を抱えていたという「形式」を踏まえていますが、劉宋は旧「反乱分子」の故地に逃げ込んでいて、中原回復のめどがたたない「惨状」にありました。
 東晋代の書家王羲之(書聖)は、残された「喪乱帖」で、 晋の南遷以後、天下は乱れ、故郷郎邪に残された父祖の墓が荒らされていると歎いていますが、 後世、そのような「喪乱」 は、司馬氏の乱行によるものであるとの非難が定着し、さらには、そのような司馬氏に、むざむざ天下を奪われた曹氏の不始末を非難する風潮があったことから、三国鼎立は、漢の名分を嗣ぐ蜀漢が統一すべきだったとの風評が起こったようです。
 いずれにしろ、笵曄は、曹魏に対して、かなり冷淡であったと考えていいようです。
 陳寿から范曄までの百五十年間に、中国知識人の世界観は、大きく倒錯するに至ったのです。

 このように、世界観倒錯後の笵曄が、「陳寿が古典的世界観で編纂した倭人伝」を、「謬って」解読し、中原世界を喪失した謬った」世界観で「後漢書」を書いたのは、明らかですから、そのような史書としての危うさを脇に置いて、行文の流麗さをもって褒めそやすのは、范曄が問題のある不正確な史書を物したと、暗に非難していることになるのです。

 杉本氏、森氏の意図は、そのような「春秋の筆法」にあるのでしょうか。一般読者向け書籍は、素人にもわかるように、明解に書くべきではありませんか。

 以上、両氏には、苛酷な批判かと思いますが、御両所の高名に惹かれて購入した読者は、それ故、無批判に追従しかねないのです。そのため、本書については、労作としてその価値は認めるものの、倭人伝の誤釈という悪しき伝統(誤伝)の蔓延拡大という見地から批判すると、悪書の誹りは免れないのです。
 もちろん、御両所が、諸悪の元凶と断じているのではありませんが、「先人」の諸悪を、拡大再生産したという点では、率直に指弾せざるを得ないのです。

                             この項完

2024年4月17日 (水)

新・私の本棚 長野 正孝 古代史の謎は「海路」で解ける 1/9 四訂

『卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎ出す』 PHP新書 2015/01/16
私の見立て★☆☆☆☆ 根拠なき推定の沼 2017/12/12 再掲 2020/07/08 2021/07/20 2022/06/21 2023/04/19 2024/04/17 

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯はじめに
 以前、本書不買(買わず)判断の背景を三回にわけて書いたのです。
 要は、惹句の部分に、商品紹介として不出来な文句が並んでいたから、「これでは、とても売り物になりませんよ」と書いただけであり、新書編集部のずさんな仕事ぶりへの批判が、半ば以上と思います。

 以後二年半に、結構参照されたので、「買わず飛び込む」と言ってられず身銭を切って購入しました。旧記事抜きで書いて、時に重複、時に途切れますが、ご了解いただきたいのです。
 そして、まだ、諸兄姉に主旨が届いていないようなので、警鐘を鳴らす意味で三掲しました。(2022現在)
 最近、参照されている例が見られるので、少々手を入れましたが、本旨は、一切揺らいでいません。(2023/04/19)

*言葉の時代錯誤
 まず、本項の批判の基準として明確にしたいのは、用字、用語のけじめの緩さ(あるように見えないが)です。
 用字、用語は、同時代を原則とし、同時代と現代で変化があったために誤解しやすい言葉は、初出時に注釈して、時代錯誤を避けるものです。
 近年、「魏志倭人伝は、三世紀中国人が、同時代中国人のために書いたから、時代と目的を認識して解すべきである」との趣旨の、誠に味わい深い意見が提示されているのに気づき、当然至極とは言え、実に至言です。正確に言うと、三世紀当時に「中国人」と言っても、何のことかわからないので、せめて「中国教養人」、つまり、豪族や政府高官、さらには、皇帝その人のように、深い知識と高い倫理観を、少なくとも、十分知っていた人のことなのです。
 「十分」とは、当然、当時の中国語を解し、万巻の古典書籍を読解して、自身の教養としていたという意味で、その証左として、例えば、「論語」に代表される四書五経を諳んじていることが求められていたのですから、当時の「中国人」が、満足に読み書きのできない一般庶民と別種の人々であったことは確実です。これは、「常識」ですが、現代人には、常識ではないので、殊更言い立てる無礼を犯したものです。

 一方、「倭人伝」論考では、カタカナ語や当代風の言葉の無造作な乱用は、読者の世界観を混乱させるので、「断固」避けるべきです。

 当時、適当な言葉がなかったのは、当時の人々の念頭にない、全く知られていない概念だったからであり、当時知られていなかった概念は、当時の人々の動機にも目標にもならないのです。

 時代錯誤の用語を使うのが、どうしても避けられない場合は、丁寧に説き起こして、言い換えを示すべき考えます。とにかく、読者に冷水を浴びせるような不意打ち(おぞましい「サプライズ」)は感心しません、

*「海路」はなかった
 いや、こんな話が出るのは、本書の表題で「海路」と打ち出しているからです。引用符入りですから現代語と見て取れというのは、読者に気の毒です。
 古代中国語に「海路」という言葉が無かったので、「中國哲學書電子化計劃」の全文検索で、魏晋朝まで「海路」は出て来ません。三国志の魏志「倭人伝」にも出て来ません。念押ししますが、当時「海路」と言う言葉が無かったのは「海路」で示す事柄がなかったからです。

 「海路」があったとすると、それは「路」と呼ぶ以上、官制の街道であり、あたかも、海中に道路を設えたように、経路、里数、所要日数が規定されます。所要日数は、国家規定文書通信の所要期間として規定されるので、保証するために、整備、補修の維持義務が課せられるのです。
 所定の宿泊地、宿場の整備も必須です。宿場は文書通信の要諦であり、維持義務が課せられます。道路維持は理解できても、海路維持の説明がないのが不思議ですが、ないものに説明はないのが当然です。

 と言うことで、本書筆者は、本書の商品価値の要であるタイトルの用語選定を誤っているのです。それは、単に字を間違えたのでなく、「海路」と言う概念の時代考証を間違えているので、まことに重大です。

 これに対して、古代にも存在したと思われる「渡海」は、川を渡るように海の向こう岸まで移動するということです。もっとも、中原世界は内陸なので「海」(塩水湖)はなく、まして、海中の山島もないということで、「渡海」自体は、出番がないのです。
 古来、中原の大河には橋が架かっていないので、街道に渡し舟は付きものですが、特に渡河何里、所要何日とは書かないものです。渡海も、普通は、陸上街道行程の一部とされて、道里、日数を書かないものです。
 また、日程を定めない海上移動は「浮海」と呼ばれます。いずれも「海路」の概念とは無縁です。
 賑々しく著書を公開するには、十分な下調べが不可欠です。そのような必須事項を、出版社が確認していないのも不審です。出版社編集部は、世間の信用とか、恥さらしとかを怖れていないのでしょうか。勿体ない話です。

                         未完

新・私の本棚 長野 正孝 古代史の謎は「海路」で解ける 2/9 四訂

『卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎ出す』 PHP新書 2015/01/16
私の見立て★☆☆☆☆ 根拠なき推定の沼 2017/12/12 再掲 2020/07/08 2021/07/20 2022/06/21 2023/04/19 2024/04/17 

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

第一章 卑弥呼と海人の海は 九州それとも大和?
 この章題は不吉です。馴れ馴れしく問い掛けられても、当時、中国語に、「海路」もなければ「海人」も無いのです。当然、当時の東夷には、文字がないので、何も無いのです。こうした言葉がない以上、当時、「海人」論は無かったのです。無神経な時代錯誤は、「断固」戒めるべきです。

 そして、これは、畿内説にとっては、重ねて不吉です。奈良盆地の大和に海はないのです。ここで、畿内説論者は、本書をゴミ箱に放り込んでもおかしくないのです。

 ついでに言うと、九州は海中の島であり、「大和」は、巨大戦艦でなければ、内陸の世界です。どちらも、「海」などではありません。ご冗談でしょう。

一.一 私たちの先祖が暮らした古代の海
 冒頭の抱負として、「魏志倭人伝」解読を課題とし『三世紀の「魏志倭人伝」の倭国や魏の海に漕ぎ出し』と大言/虚言を吐きますが、三世紀に倭国の海や魏の海などなかったのは自明ですから、比喩が不出来です。
 特に、曹氏の魏は、内陸国家なので、「海」は圏外だったのです。
 もっとも、そこに他意はないようで、忽ち、箸を泳がして「卑弥呼の国」について考察すると建言しています。
 因みに、著者のご先祖の由来は、読者にはわかりません。当ブログ記事筆者の先祖は無名の存在なので、記録はありませんが、少なくとも、ここ数世紀間は、乾いた大地に暮らしていたはずです。得体の知れない筆者に馴れ馴れしく「私たち」と抱き込まれては大迷惑です。

*定番の水海混同
 第一章冒頭で、既に著者の誤解、誤読が露呈しています。要は、知らないことを知らないままで論じたら、間違うのが、自然と言うだけです。
 今倭水人好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽なる倭人伝記事を引用しますが、著者は、「水」と「海」の違いが理解できないまま、以下、暴走しています。

 中国古典で「水」は淡水河川(かわ)です。狭義では、河水(黄河)のような大河であり、広い意味では、つまり、「普通」は河川です。「水」で海(うみ)を指すことは、まず(絶対に)ないのです。
 つまり、ここで、水人、水禽と言っているのは、まずは、「自然に」淡水漁人、淡水水鳥と見るべきです。海のものであれば、海人、海禽と言ったかも知れませんが、余り、前例はありません。「倭人伝」の文脈・語彙を斟酌しても、「自然な」読みに、大いに分があると思います。
 また、古代中国語で、「沈没」は、大抵、人が水(河川)で身を半ば沈めて、「泳いで」いるのかどうか、姿がよく見えない状態を言うのであり、潜水とは限らないのです。普通に考えれば、河川の浅瀬に立って、腰を屈めて、流れの中の魚貝を手網などで捕らえたり、掬ったりしているものと見えます。その際に、姿勢を低くして、おなかのあたりまで水に浸かっていたら、それは、沈没なのです。
 
 この記事を皮切りに、「水」を、勝手気ままに「海」に読み替えての論考が進んでいますが、第一歩で大きく踏み違えていては、以下のご高説も、話が耳に入らないのです。本書で、度々躓く石ころです。

*余談無用
 ここで、著者は、脇道に逸れて、長々とご託宣を述べますが、これは、新書の体(てい)、字数を成すためにか、あるいは、著者の知識を誇示するためにか、用も無いのに詰め込んだと見え、この手の余談は時間の無駄です。
 丁寧に言い直すと、時も場所も大いに異なる状況での見聞を、三世紀限定の議論に持ち込まれても、何の参考にもならないのです。

 また、著者がしばしば見せる「受け売り」の迷走ぶりを見ると、余談の報告者たる著者に信頼はおけないから、検証無しでは、とても信用できないのです。要は、ほら吹き常習と見なされるだけです。
 言うまでも無いのですが、書かれている情報源の信頼性検証が、必要です。

 とにかく、場違いで参考にもならない余談は無用に願いたいのです。

                               未完

新・私の本棚 長野 正孝 古代史の謎は「海路」で解ける 3/9 四訂

『卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎ出す』 PHP新書 2015/01/16
私の見立て★☆☆☆☆ 根拠なき推定の沼 2017/12/12 再掲 2020/07/08 2021/07/20 2022/06/21 2023/04/19 2024/04/17 

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*廊下トンビの批評
 と言うことで、末尾に飛んで批判を再開します。

*白日夢の展開
一.四 近畿纏向国から難波の海に下る
 言うまでも無いのですが、三世紀時点で「近畿」は無く、時代を問わず「纏向国」は無いのです。無いものの議論は妄言で無意味です。
 時に纏向幕府」と揶揄される畿内説推進陣営の要人は、まさか、このような追従に悦に入っていることはないとは思うのですが、どうでしょうか。それとも、こう書けば、ご褒美がいただけるのでしょうか。

 以下、動機不明の引用紹介が受け売りで続いています。「なぜ古都・平城京が舟運の便が悪い内陸にあったのか?」と物ものしく切り出しています。
 これが無法な問いかけなのは、氏の冒頭抱負から明らかです。ここまで、専ら、三世紀辺りの考察に耽ったのに、急遽、数百年跳んでCE701に開闢した平城京談義ですが、時代が四世紀以上ずれては、有効な推定ができないのです。まして、舟運の便が悪い とは、とんでもないほら吹きです。現代に至るまで、平城京に船便などないし、ついでに言うと、「纏向」にも、舟運の便が悪いなどでなく、船便などなかったと見るのが、普通の理解でしょう。
 まして、ここで問われているのは、「古都」などと「レジェンド」、博物館遺物の扱いをされている現在ではなく、当時、現役バリバリの「平城京」に船便はなかったのはなぜか、との設問なので、無神経な問いかけが空をきっています。著者は、日本語の読解力が足りないのでしょうか。

*纏向幻想に加担
 纏向遺跡を「大規模集落」(どの程度を大規模というか、何を集落というか不明)としても、三世紀中頃の仮定では、せいぜい千人規模なので、自給自足を旨とすれば、細々とした供給手段でも、生存に要する食料補給はできるでしょう。要するに、当時として、ありきたりの「国」だったのです。
 いや、誰だって飢え死にしたくはないから、何とかして自分の食い扶持は稼ぎ出すでしょう。身の回りの土地で食っていけなければ、さっさと逃げ出すだけです。

*時代錯誤
 ところが、平城京は、万を遙かに超えるであろう非生産人員が寄り集う「都市」(「倭人伝」では、倭大夫都市牛利、現代語では「大きなまち」)であり、周囲からの持ち寄りでは物資の供給が圧倒的に不足するのです。戸籍があるから逃亡すると重罪となり、餓死しかねないことになります。時代の相違です。

 もっとも、遠国から物資貢納の仕組み、律令制度があったから、餓死はしなかったようですが、持って来いと命令される遠国はたまった物ではなかったろうと推察します。何しろ、帰途の食料など配慮していないのです。

 ここでは、平城京を考察するはずなのですが、提示されるのは三世紀辺りの状勢です。言葉を連ねた河内平野開発も水運も、妄想に近い推定であり、著者が「イメージ」とする絵は、何の根拠も無い単なる画餅ですから、平城京について何も論じていないのです。古代史談義で、中身のない時代錯誤のポンチ絵を振り回される善良な一般読者は、たまったものではないと思うのです。
 冒頭で課題を提示して、一切、その解明に当たらないというのは詐欺です。

*イメージ談義~余談
 因みに、現代において「イメージ」は、食品の、調理仕上がり、盛り付け図であって、そのように出来上がる保証はなく、時に、購入者自身で調達する食材まで含まれています。ある意味、無責任な「絵」ですから、本書のような論考書めいた物には、まことに不似合い、それとも、お似合いです。
 因みに、このカタカナ語の由来とも見える「image」も漠然たる(キリスト教で言えば、主の)「姿形」を指すことが多く、概念図、模式図は、「ピクチャー」と呼び分けています。安直なカタカナ語乱用は、固く戒めたいものです。

 そうでなくても、「イメージ」は、見る人次第で印象も解釈が大きく異なるので、論考は、極力、文字で綴る言葉で進めるべきです。何しろ、古代の史官は、現代人の好むインチキな「イメージ」など知らず、ひたすら、文字概念で論じていたのです。場違い、見当違いのこじつけは、別に珍しくないとしても、不出来なものです。

 「これは、古代の現実の姿を推定したものでなく、著者の考える夢を描いたものである」と責任を持つべきです。無責任を明言するのも、責任の取り方の一つです。

                               未完

新・私の本棚 長野 正孝 古代史の謎は「海路」で解ける 4/9 四訂

『卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎ出す』 PHP新書 2015/01/16
私の見立て★☆☆☆☆ 根拠なき推定の沼 2017/12/12 再掲 2020/07/08 2021/07/20 2022/06/21 2023/04/19 2024/04/17 

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*白日夢の展開 承前
一.五 纏向国から魚買い出し舟が行く
 ここで、遂に著者の白日夢です。
 「三輪山麓の纏向から盆地を横断し、大和川下りで魚買い出し舟が数十隻連なって、およそ二十㌔㍍を行った」と言い切りますが、舌の根の乾かぬうちに、下りは五,六時間、上りは、二日かかると、何とも不細工です。
 そのような川下りは、能書き通りに日帰りなら頻繁に往来できるでしょうが、一泊二日以上の長丁場では、下った日は魚を積んだ川港で寝泊まりし、翌朝こぎ出して途次で一眠りし、翌日、昼過ぎにでも、奈良の市に魚を出す「絵」です。二泊三日の食事はどうするのか、鮮魚は二、三日持つか疑問です。

 さらに、大和川筋から奈良盆地東部纏向までは、当然、きつい登り坂であり、手漕ぎ船で登るのは大変難航です。と言って、川沿いに大勢動員して、日々の食糧を大層な曳き船で登らせるのも、馬鹿馬鹿しい限りです。曳き手を揃えて食糧をあてがうから、大量の食料を担ぎ上げるという趣旨でしょうか。
 盆地内の細流に乗り入れられる小船は、軽量とは言え、載せられる積み荷は微々たるものなので、全重量というものの、船体の重みが大半です。結局、船体を担ぎ上げて日々を過ごすことになるのです。
 そうした、持続的に実行できない絵空事を、滔々と言い立てるのは、ほら吹き商売の持病でしょうか。

 いや、そもそも、通常の荷役なら、荷を小分けして、大勢で分担して背負い込んで登れば、どうということは無いのです。というものの、そのあと、空船をどうするのでしょうか。漕ぎ登るのでしょうか。河川が、山並みから直接流れ出していて、根本的に水量が乏しく、渇水期が多いのに加えて、増水期には、河川が氾濫し、広範囲に水没する奈良盆地で、運河水運などあり得ない愚行です。必要なのは、ため池でしょう。

 いや、そもそも、奈良盆地のような傾斜地に運河開鑿とは画餅も良いところです。運河は、等高線状に開鑿するから、安定して運用できるのです。高低差のある運河など、あり得ないのです。
 寝ぼけた話は、ご勘弁頂きたい。

 とかく、関係者というか当事者は、遺跡発掘公費確保のために、きれいに手軽に想定図(イメージ イリュージョン)を描きますが、自然法則無視の画餅が多いのです。一種の捏造です。

*無理な鮮魚商売
 買付談義に戻ると、地域の市から、半日程度かけて各家庭に届きやっと調理できます。こうした迂遠な買付は、日常生活の中で長期に維持できるとは、到底思えないのです。天候、渇水、氾濫問題などが一切無いとしてもです。そして、肝心なことですが、これは、鮮魚類流通の絵とはなっていません。
 あり得るのは、浜でゆで干しする「干し魚」でしょうか。保存するためには、塩が必要です。河内湾岸に、大々的な干し魚「コンビナート」を作り上げたのでしょうか。干し魚を担ぎ上げた帰りは、何を担いで戻るのでしょうか。往復輸送があってこそ、「コンビナート」なのです。
 著者が絵解きしなければ、この画餅は、罪作りな夢想です。

*うつろな夢想
 このように、著者の推論は、大きくうねって、まずは、奈良盆地に「古代国家」(時代錯誤の極み)があって、大和川船便で食糧輸送したとの夢幻世界に誘い込んでいます。先人考察で、奈良盆地(都市国家)への大和川経路が提案されますが、現実的な実施形態を検証し、安直な受け売りや時代錯誤は避けるべきです。

*大和川幻想あるいは願望
 江戸時代の付け替え以前の大和川は、奈良盆地からの落差を一気に流れ下る早瀬であり、人間業では遡上できません。付け替え後、下流の平野部は一路、天井川になって、等傾斜で西行していますが、往時は、河内平野に突入して扇状地を形成した後、北へ分流していて、とても、漕ぎ船の主力経路とならなかったと思います。
 後年、山間からの水流が安定したので、多少は水運に供したようですが、それでも、物流の大勢は、早々に陸揚げして陸上輸送したとみられます。
 大和川の流域を眺めても、山間を抜ける渓流部の流れ沿いに人夫が曳き回る道は、あり得ないないように見受けます。と言って、手漕ぎの曳き船で補助するのも、無理と見えます。そこまでして、船体を担ぎ上げる意義は、どこを探しても無いのです。何しろ、奈良平野に、川船を荷船として運用できるような川筋は無かったのです。

*曳き船の不合理
 現実に戻ると、河内平野の荷のかなりの部分は、二上山竹ノ内峠越えのつづら折れの道などを、重荷を背負った多数の者達が往き来したと思われます。大和川沿いの経路は、険阻で、しかも、地盤が不安定で山崩れが頻発しているので、常用されたかどうか不明なのです。

 一方、奈良盆地北部は、淀川・木津川経由で木津の川港に荷下ろしてから、背の低い「なら山」越えで到達できます。こちらが、奈良盆地極北に設置された「平城京」の表玄関であったと見るべきでしょう。何しろ、古来、淀川は、今で言う「水運」の幹線であり、大動脈だったのです。

 纏向遺跡は、創業できても守成できなかったので、最終的に、盆地南部、山地に近い飛鳥に竹内峠越えの古代街道に負けて、さらには、平安京遷都に抗し得なかったのであり、万年隘路の大和川川船横行は、願望の幻像です。

                               未完

新・私の本棚 長野 正孝 古代史の謎は「海路」で解ける 5/9 四訂

『卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎ出す』 PHP新書 2015/01/16
私の見立て★☆☆☆☆ 根拠なき推定の沼 2017/12/12 再掲 2020/07/08 2021/07/20 2022/06/21 2023/04/19 2024/04/17 

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*淀川実相~余談
 古来、河内湾からの物流の主流は、水甕琵琶湖を上流に持ち、調整池もあって、水量が安定して豊富で、概して緩やかな淀川水系経由と思われます。
 ただし、琵琶湖に向かう瀬田川は、水量は安定していても、渓谷の急流であり、また、当時、現在の京都市市域には河川交通に適した水流が無かったため、物資の主流は南に折れて、今日の木津付近まで運ばれ、そこから奈良山越えで、比較的大きな消費地、奈良盆地に運び込まれたものと思います。

 総じて見るに、素人考えでは、淀川水系は流域の農地開発も早くから進んでいたようなので、曳き船に動員できる農民に不足はなかったろうし、農民にしてみれば、本業以外の格好の副収入ですから、いそいそと参じたものと思います。いわば、持続可能な体制だったのです。

 著者の性癖に倣い、現代用語を持ち込むと、淀川が「ブロードバンド」、大和川は「ナローバンド」と思います。同時代に並行して運用されていても、交通量に大差があったのです。古代史には定量的な評価がないので、一石を投じたつもりです。「倭人伝」に倣うと、大和川は大道ではなかったのです。

*木津談義~余談
 当時の淀川水系物流終着点だった木津には、往時の繁栄を示すように丘上に銅鏡王墳墓が築かれ、川畔に、地域(畿内)最古と思われる恵比寿神社があります。下流に当たる河内湾岸には、ご神体の漂着を機に起こされた「えびす神社」が幾つか見られますが、淀川上流で、ご神体流出の候補地は、ここしかないのです。

 平城京では、物流の乏しさに呆れた聖武天皇が、河内平野の難波と木津付近の恭仁に遷都を企てられたという挿話からも、平城京の貧しさが偲ばれ、百年を経ずして故郷を捨てた「旧都」の貧しさも知れるのです。いや、以上は、素人の勝手な意見てあります。 

*ロマンの氾濫
 本書の批判に戻ると、この辺り、著者は、止めどないロマンの世界に溺れているようですが、それらの世界は、著者だけしかうかがい知ることのできない、著者の脳内に存在している幻宇宙であって、現実世界とのつながりが示されていないから、学術的な論考と主張するのは、断じて無理なのです。
 特に、史料引用などで、粗忽と言いたいぼろを頻発するのは、自身のロマンに溺れて現実世界が見えないためでしょう。もったいない話です。

*第一章総括 どんでん返しのカラクリ
 第一章の問題点を総括すると、一見、奈良盆地の壺中天に古代国家があって半島、大陸と交流があった』と論じている論考と見えますが、著者の暴走に付いてきた読者を、最後に否定的判断に放りだして、どんでん返しです。
 いわゆる「近畿説」の読者は、ここまで自説の裏付けと思っていたとしたら、読者をだましていて、最後にペロリと舌を出した体です。財布から金を出した読者に非礼です。

 以下の論議も、所詮うわべのもので、著者の真意は逆なのではないかと思わせる、不吉な出だしです。文章作法のイロハに反しているように思います。雑誌募集の懸賞論文でも、ここまで論文として杜撰であると、普通は許されないのです。

                               未完

新・私の本棚 長野 正孝 古代史の謎は「海路」で解ける 6/9 四訂

『卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎ出す』 PHP新書 2015/01/16
私の見立て★☆☆☆☆ 根拠なき推定の沼 2017/12/12 再掲 2020/07/08 2021/07/20 2022/06/21 2023/04/19 2024/04/17 

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*「無かった」海の道
 飛ばした部分から見ると、著者は、日本海沿岸の「海の道」という概念に惚れこんでいるようです。ここで示された現地確認の努力が、大和川水運説に対して堅実に費やされていたら、ここまで素人に突っ込まれることはなかったはずです。
 つまり、途方もないホラ話に続く展開なので、随分損しているのです。

 著者は、「大船団長距離航海」というロマン/虚構に浸っていますが、まさか、山中から切り出した丸太舟ではないでしょうから、どんな材木をどんな大工道具で製材加工して、航海に耐える船体に仕上げたか、帆船にするとして、帆布はどうやって調達したのか、船員をどうやって集めたのか。白日夢はいい加減にして欲しいものです。「イメージ」の壮麗さに、自分だけ酔っていては、書き割り以外のものにはできないのです。
 実務としては、道中の食料と水の補給をどうしたのでしょうか。各寄港地に、所定の人員を配置していたのでしょうか。ここまでに説明はないのです。
 「海路」と言えるためには、確実に到着できる保証が必要なのです。倭国使節が魏都洛陽まで航行と陶酔していますが、確たる根拠があるのでしょうか。

 朝鮮半島の産鉄に誤解があるようです。鉄鋌が「銭」として使われたというのは、機能をいい、大小などを言うのではないのです。忽ち錆びて朽ちる鉄銭は、古来希です。

*「無かった」「コンビナート」
 第四章も、冒頭に時代錯誤のロマンが提示されておおぼらです。英語やロシア語由来カタカナ語を連発しないと著者ロマンは書けないとしたら、古代に、そうした概念はないので、ほら話としか言いようがないのです。
 例えば、「コンビナート」(ロシア語:комбинат,ラテン文字転写:kombinat)を「工場群」と言い放っていますが、古代に「工場」などなかったのです。
 「コンビナート」は、本来、ソ連のシベリア開発で、離れた鉄鉱山と石炭鉱山を鉄道で連結し、行きは、石炭を乗せ、帰りは、鉄鉱石を乗せて貨車往復輸送によって、資源産地双方に工業化の道を開いたことを言います。つまり、単に複数分野の工場が連携したものを言うのでは無のです。

 無人の荒野に産業拠点を新設するソ連シベリア開発に独特な課題に併せた革新的な解決策を造語したのであり、同様の課題が存在しないところに同様の解決策は無いから、他国に本来の「コンビナート」は、ほとんど存在しないと思います。心ある著者なら、誤用されたカタカナ語は避けるべきです。

 この「コンビ」(ComBi 二つの物の結合)は、その名の通り、遠隔地の二業種限定の「コンビ」を言うのですが、氏は、例によって、現実離れした幻想を書き殴ります。いや、この機微を承知で、だらだらと言い崩しているのでしょうか。
 現実の丹後半島地域も、町おこしどころか、著者のおおぼらの「サカナ」にされて、世間の嘲笑を浴びては不本意でしょう。
 立て続けに、とんでもない前置きでは、以下を読み通すのは、途方もない苦痛です。当方の忍耐の限界が来てしまいました。

*荷物の山越え~できる方法
 氏のほれ込んでいる白日夢、荷物山越えを考察します。まず、海船の河川遡上は無謀なので、海港で、小振りで底が浅い河川航行用の船に積み替えます。
 遡行につれ、川幅が狭まって通行不能になれば、さらに小振りの船に積み替えます。それでも通行不能になれば、船荷を降ろして、背負子に載せ替えます。もちろん、船体ごと担いで山越えするような、無謀なことはしないのです。それぞれの船腹は、帰り船にするか、始発港に戻って次便に備えて温存待機です。
 人海戦術ですから、峠を越えたら、小舟の船着き場まで下り、以下、順次積み替えていくのです。局面、局面に適した手段で荷送りすれば、無理なく山越えできるのです。

 「荷船」の山越えは、船体が途方もない重荷の上に、引きずり移動で船体の痛みが激しく、長続きしないのです。そもそも、山向こうには山向こうの手立てがあるので、無理して船体を運ぶ必要など、全くないのです。
 この理屈は、穀物輸送が多かったと超える大和川の山越えでも同様です。

 奈良盆地に、小船の荷船が運用されていたら、下流から川船を持ち越す必要は、全く無いのです。そして、奈良盆地に、荷船が、一切運用できていなかったら、川船を持ち越しても、何の意味も無いのです。
 古代人が、無駄な労苦に取り組んでいたと考えるのは、余りにも、古代人を見損なっていることになります。

                               未完

新・私の本棚 長野 正孝 古代史の謎は「海路」で解ける 7/9 四訂

『卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎ出す』 PHP新書 2015/01/16
私の見立て★☆☆☆☆ 根拠なき推定の沼 2017/12/12 再掲 2020/07/08 2021/07/20 2022/06/21 2023/04/19 2024/04/17 

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*終幕
 おわかりのように、当書評は、著者がロマンを抱いていることやそのロマンの内容についてとやかく言っているのではないのです。
 堂々と自著を市場に展開するからには、ご自身の夢想を現実と付き合わせて、筋の通った説明を付けるべきではないかと言っているのです。倫理的な問題なので、同意していたけないならそれきりの話です。

 他方、ファンタジーなら、ファンタジー、フィクションならフィクションと明記すべきです。
 もっとも、ファンタジーも、フィクションも、現実世界との接点の考証が必要です。空想世界でも自然法則は通用するので、重量物が重力や水流に逆らって、勝手に急流を遡上することはありません。

*誤解、誤記の塊
 80ページ末尾から、魏の曹操は船を使って戦う常勝将軍であったが二〇八年、長江中流域の蜀の諸葛孔明と呉の孫権の連合軍にその船団を焼き討ちされ敗れるという不覚をとったとは、誤解、誤記の塊です。うろ覚えの書き飛ばしは、信用を無くすだけです。

 「魏の曹操」と言いますが、二〇八年(CE208)時点は無論、曹操は終生後漢の臣下で、在世中は魏なる国は存在しないのです。

 「常勝将軍」と言いますが、曹操ほど度々大敗を喫した将軍は少ないはずです。負けの数で劉備に勝てないとしても、当時有数の負け馬と言えます。時には、大敗して、辛うじて窮地を脱しているのです。

 「」は渡河に必須ですから一切不使用と言えませんが、正史三国志で、曹操はほぼ陸戦であり、船戦は皆無に近いのです。(まぼろしの赤壁は別として)もちろん、時に応じて、兵糧の輸送に船を使ったことはむしろ当然と言えます。兵員、馬匹の移動にも、水運を使ったとも思われますが、特筆されていない以上、些細な事項と見られているものと思います。それが史書です。

 「長江中流域の蜀の諸葛孔明」というのは、論考の一部としてグズグズに型崩れしています。
 「諸葛亮」は、一時、長江中流の荊州辺りにいましたが、そこは蜀などではないのです。
 国としての「蜀」(蜀漢)は、その後に長江上流に劉備が建国したのですが、正確には「漢」と号したのです。蜀は、長江上流の成都付近の地域名です。
 言うまでもありませんが、蜀の君主は、劉備とその嫡子であって、諸葛亮は、蜀の宰相、臣下です。孔明は、本名でない「あざな」で、実名呼び捨ての曹操、孫権と並べるのは、一段と無様です

 孫権の当時の支配領域は、古来、呉と言われていましたが、別に、当時呉国皇帝だったわけではないのです。寄留していた荊州を逃れて根拠地を持たない流亡の劉備軍団の無名の軍師と同盟するような小身ではなかったから、ここで並記するのは見当違いですそうではないでしょうか。それが史書です。

 「その船団」と言いますが、曹操が率いた船団は、曹操の私兵でも後漢朝の官兵でもなく、大半が降伏した荊州船団に過ぎないから、戦いが不首尾でも、曹操船団が「敗れた」わけではないのです。それが史書です。(漢水上流で、新造船を命じたと言いますが、急拵えの船腹に訓練されていない兵を乗せても、戦力にはならないのです)

 後漢の最高権力者である曹操ですから、戦ったとしたら、当然勅命のある敵に勝つべくして戦ったのでしょうが、帰還後、皇帝から違勅、敗戦の責任をとらされたわけではないから、曹操は、この時、孫権と戦ったのではなく、従って、不覚はとっていないのでしょう。
 陳寿「三国志」魏志で、曹操は、地域を歴訪する傍ら孫権に示威行為しただけであり、討伐の戦を起こしたものではなく、疫病多発の瘴癘の地を忌避して帰還し、別に戦ってないのです。

 以上、随分、うろ覚えでいい加減なことを言い散らしていて、僅かに残っていた信用を損ねています。

                               未完

新・私の本棚 長野 正孝 古代史の謎は「海路」で解ける 8/9 四訂

『卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎ出す』 PHP新書 2015/01/16
私の見立て★☆☆☆☆ 根拠なき推定の沼 2017/12/12 再掲 2020/07/08 2021/07/20 2022/06/21 2023/04/19 2024/04/17 

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*終幕の続き
 次に、何の繋がりもなく、とんでもないことが書かれています。まさしく、白日夢で、氏は何か薬物に耽っていたのでしょうか。
 倭国使節団は、長江で大敗した荊州水軍の船を渤海湾などで見たという趣旨を述べています。河川船団を、三十年かけて回航したといいたいのでしょうか。何の幻を見たのでしょうか。荊州船団の生き残りを転進させたとしても、孫権麾下の水軍支配下の長江中下流域をどうやって擦り抜けたのか不審です。

 そんな無茶をしなくても、皇帝が指示しただけで、帯方郡最寄りの黄海岸で、易々と保証付き海洋船を多数造船できるのに、海船としての運航に耐えるかどうか不明の三十年前の川船を、延々と回航する意味が「わからない」のです。

 ホラ話として、誰も感心しないのです。ずるりと滑っていますが、氏は、寄席芸人ではないので、何も感じないのでしょう。

*倭人伝談義
 92ページで、陳寿「三国志」の魏志「倭人伝」に「倭国大乱」が書かれているかのような妄言が書かれていますが、「倭人伝」には「乱」れたと書いているだけであり、「大乱」と書いたのは、陳寿の後世で書かれた笵曄「後漢書」です。とんだ、いや、とんでもない、途方もない勘違いです。

 「邪馬台国」が書かれたのは「倭人伝」だけとは、また一つの妄言です。
 「邪馬台国」は、原文では「邪馬臺国」であって、笵曄「後漢書」の初出が孤立した起源であり、後世史書、類書に引用されていますが、裏付けはありません。
 衆知の如く、現存「三国志」に「邪馬臺国」はなく、書かれているのは「邪馬壹国」であるというのが客観的事実であり、これを、学術的な批判に耐える論拠を示して否定する論議は見られないのです。
 史書記事を誤記と主張するなら、主張者に重大な立証責任がある」というのが、学問上の常識ですが、著者は、ここでも無頓着で、出所不明の誤断を受け売りしていて、この不注意も、商業出版物の著者として、見過ごせない過誤です。
 以上のように、著者の文献依拠のあり方は、誤断と受け売りの混在です。
 不正確な史料引用は、不正確な情報源のせいですが、容易に原典を確認できることが多いから、著作の際に、厳重に検証するのが当然と考えます。

 一方、氏は、書紀」の史書としての信頼性は低いと賢明な判断を示していながら、ここで例示していないものの、随所で、書紀記事の史料批判を怠って、安易に受け売りしているのには同意できないのです。

*軽率な余言
 注意をそらす余言癖も健在であり、斉明天皇は、高齢の女帝でありながら、二百隻の船を率いて奈良を出た」ことにしていますが、時代違いとは言え、「奈良に海はない」ことは衆知で、とんでもないホラです。
 言い繕うとしたら、別に高度な思索を要しない言い間違いです。まして、二百隻の新造船が可能だった、実際に造船したという証拠は示されていません。「画餅」と言うものの、二百隻の海船の絵を描くことすら容易ではありません。まして、二百隻に乗船して波濤を越えるに耐える船員は、画に描くことはできません。
 それ以上は、当否の範囲外なので、追究しないのです。

*信頼性の欠如
 本書は、近来見受けるように、出版社として出版物を無条件に近い篤さで信頼されるべきものが、出荷検査無しに、瑕疵満載、傷だらけで上梓したものです。
 権威のない一私人には、「買ってはいけない」などと言う資格はありませんが、商用出版物に必須の校正の労が執られていない無責任な書籍であり、真剣に読むべきものでないと言わざるを得ないのです。ここまで、我慢して丁寧に批判しましたが、余の部分は推して知るべしです。
 つまり、日本海沿岸に海港の鎖があり丹後から筑紫に至る水運が形成されていた」という折角の提言は、本書の大部分がとんでもない出来損ないであるために見向きもされないのです。

 折角の労作ですから、後世に恥を遺さないように、明白な欠点は是正し、全面改訂すべきであると思います。それでこそ、氏の主題が正当な評価を受けられるのです。

                               未完

新・私の本棚 長野 正孝 古代史の謎は「海路」で解ける 9/9 四訂

「卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎ出す」 PHP新書 2015/1/16
私の見立て★☆☆☆☆ 根拠なき推定の沼  2017/12/12 補充再掲 2020/07/08 2021/07/20 2022/06/21 2023/04/19

*蛇足 半島迂回の夢
 それにしても、著者の乱調ぶりは、禍福ない交ぜているようです。つまり、図4-2(77ページ)ですが、これは、ご自身で懸命に描かれたものですから、細部に至るまで責任を持たれるべきであり、「イメージ」と逃げられないのです。要するに、この地図に、著者の主張の矛盾が顕在化しているのです。

*不可能な無寄港航海
 自身で、当時の船舶航行では、二十から三十㌔㍍が一日の限界とされています。
 私見では、甲板、船室無しの吹きさらしでは、好天でも夜間航行できず、夜明けに出港、午後早々に入港、食料と水を補給し、乗員を休養させるものでしょう。
 漕ぎ船で、多数の漕ぎ手を常人とすると、相当丁寧な休養が必要でしょう。当ブログの別記事で、寄港地毎に漕ぎ手と船を替える乗り継ぎが、健全な常識と書いていますが、筆者は、鉄人揃いの連漕を想定されているようです。

 それにしても、ここには、朝鮮半島西南部の多島海を大きく迂回して無寄港で進む「画」を描いているのです。この間、一五〇㌔㍍程度を無寄港とした理由も、そのような行程を可能とする構成は、何も書かれていないし、何も見て取れないのです。極限の画餅症候群とでも言うのでしょうか。食糧備蓄は当然としても、航海中、しょっぱい海水は飲めないので、大量の 淡水の貯蔵が必要です。

 おそらく、氏の良心から、このような多島海を、連漕しつつ、時に応じて、寄港する画が描けなかっのなら、そのように明言すべきかと思うのです。いや、それでは、氏の力説する洛陽への長途航行の夢、渾身の一大ロマンが壊れるからなのでしょうが、それはそれで明言が必要では無いでしょうか。何しろ、氏の提言では、倭使は一貫漕行であり、黄海を縦断して天津あたりに乗りつけて、海船で河水に乗り入れ、最後は河水から洛水に入り、ついには、雒陽まで漕ぎ至ったことになっているのです。人間業では無いとしか云いようがありませんが、何も書き込まれていないのです。
 何とも、著者への信頼性を損なう愚策と思うのです。

*半島内陸行の示唆か
 と言うことで、氏の見識を信じると、半島西南部の航行は、頑張ってやり遂げるべき困難などでは無く、全く「不可能」であり、従って、倭国使節は半島内陸行したとの表現かとみられるのです。「春秋の筆法」でしょうか。凡人の知るところではないようです。その際、洛東江を上下したか陸行したかは、この場での論議の対象外です。
 いかに優れたと感じた着想でも、論証できない場合は、証拠不十分として断言を保留しなければならないのです。それが、商業出版物における筆者の品質「保証」と言うものです。

*書き残した提言
 幸い、著者は、不都合な証拠を覆い隠すような姑息な感性の持ち主では無いのですが、これほど自明な事実に目を向けないのは、もったいないと思うのです。因みに、史書で当然とされている山東半島と遼東、ないしは、帯方郡との渡海往来は、何故か、慎重にも明言していません。
 それでは、氏の力説する洛陽への長途航行説が壊れるからなのでしょうか。

◯まとめに代えて
 是非、改訂版では、自身の所説の限界に直面し、可能であれば、堂々と、本稿を論破して欲しいものです。

                              以上

毎日新聞 歴史の鍵穴 地図幻想批判 1 宮町木簡の悲劇

 私の見立て☆☆☆☆        2014/10/15 再掲 2024/04/17
 =専門編集委員・佐々木泰造

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯はじめに
 歴史学者諸賢の学説は、拝聴することにしているのだが、毎日新聞(大阪)夕刊文化面の連載記事「歴史の鍵穴」 難波津と安積山 紫香楽宮を挟んで両極端は、ちょっと暴走したように見えるので、指摘させていただきたい。
 いや、これまでも、牽強付会の意味付けには、ちらちら首をかしげていたのだが、世間に良くあることなので、見過ごしていたものであるが、今回は、あんまりにも、あんまりなのである。

*「宮町木簡」悲劇の始まり
 本日の記事の導入は、宮町遺跡で発掘された木簡(仮称「宮町木簡」)の両面に書かれている難波津の歌と安積山の歌の読まれた舞台の位置が、地理的に対極の関係にあるという説である。

 また、記事の最後の部分の導入は、8世紀中期当時の「都」(みやこ)である紫香楽の宮から見て、難波津は南西の地の果て(断定)であり、安積山は北東の地の果てに近いと書き、記事を締めにかかっている。

*「地の果て」の向こう
 しかし、掲載されている地図を見るまでもなく、大阪湾岸の難波津が「地の果て」とは、何とも、不思議な見方で、とても同意できないのである。確かに目前に海はあるが、つい、その向こうには、別の陸地があるのは、漁民には衆知であり、また、一寸、北に寄って、今日言う山陽道を西へひたすら辿れば、下関あたりまで延々と陸地であり、そこで海にぶつかるとは言え、すぐ向こうに九州の大地がある。
 いくら、遙か1200年以上昔の事とは言え、大抵の漁民は、その程度の知識を持っていたはずであり、況んや、漁民達より深い見識を有する都人(みやこびと)は、難波津が地の果てなどとは思っていなかったはずである。

 全国紙毎日新聞の「専門編集委員」ともなれば、無検閲で自筆記事を掲載できるのだろうが、この程度の、中学生でもわかりそうな不審な言い分を載せるのは、どうしたことだろう。

 ここで地図を見ると、確かに紫香楽の宮から見て、 安積山は、遙か北東遠隔の地であり、到達に数ヵ月かかるから、現地確認など思うもよらず、ここが地の果てと言われても、同時代人は反論できなかったろうが、難波津は、せいぜい数日の行程であり、ほん近間である。これらの二地点を、対極というのは、字義に反するものである。

 また、大局的に見ると言うことは、さらに縮小した地図を見ることが想定されるが、そうしてみれば、難波津は紫香楽宮のすぐ隣である。ますます、字義から外れてくる。
 斯界の権威が自信のある自説をはるばると敷衍しようとするのは当然としても、なぜ、ここまで、遠慮のない言い方をすると、こじつけの域を遙かに超えた無理な見方をするのか、理解に苦しむのである。
 今回の記事の説が成立しなくても、前回までの議論に影響はないように思うのである。 

 都の東西に対極があるとする見方に固執するのであれば、安積山が大体このあたりとして、難波津は、地図の左にはみ出して、下関や博多あたりが、距離として適地である。実は、九州に難波津を想定しての発言なのであろうか。
 また、南西という方角にこだわるなら、宇和島あたりであろうか。それとも、いっそ都城か。
 対極をともに想定地に固定維持すると、都は、近畿にとどまることはできず、飛騨高山か飛騨古川あたりに、紫香楽宮の位置をずらさねばなるまい

 そうした、無理に無理で重ねる作業仮説が否定されて退場すると、木簡の裏に二つの歌が並べて書かれていたからと言って、同時代人が、両者の舞台を、地理的な対極に想定していたとは言えない」と言う至極当たり前の意見に至るのである。
 回答の選択肢から、可能性の無いものを取り除くと、残されたものが、正解である」と古人は述べている。宜なるかな。

 これほど、素人目にも明らかな齟齬であるから、「専門編集委員」と言えども、PCソフトに相談するだけでなく、発表以前に、生きた人間、それも、経済的に利害関係のない人間の率直な意見を仰ぐべきではなかったかと思うのである。

以上

毎日新聞 歴史の鍵穴 地図幻想批判 3 「御船、還りて」の謎

 私の見立て☆☆☆☆☆                       2016/01/20 再掲 2024/04/17
 =専門編集委員・佐々木泰造

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯始めに
 毎日新聞夕刊文化面に月一の連載コラム「歴史の鍵穴」
と題した記事が掲載されていて、どうも、専門編集委員佐々木泰造氏の執筆がそのまま掲載されているらしいことについて、また触れることになった。と言っても、4度目なので、当方も、あごやら手やら、くたびれるのである。

 天下の毎日新聞の専門編集委員の玉稿に口を挟むのは不遜かも知れないが、当方は、毎日新聞社の社員でも何でも無く、宅配講読している「顧客」の立場で、高名な著者の重要な記事に対して、今回も失礼を顧みず、あえて遠慮なく書いていくが、相手の怒りを恐れない「率直」は、誠実(Sincerity)の極致と思って言うのである。

斉明女帝の御出航
 今回は、いよいよ斉明女帝の御出航であるが、一段となまくら論理(?)の迷走で、二の句が継げなくなりそうであった。

*旅立ち回顧
 冒頭に、連載記事の主題を強調するように、御座船の針路を日の入りの方位に合わせていたと言うが、地図でわかるように、それでは、船は、程なく四国山地に突入するのである。掲げられた地図の上に直線を引くのは簡単であるし、天文学的な計算を高精度で行うのは、当代のPC愛好家には片手業だろうが、地上、海上を進むものには、到底実行不可能と考える。

 今回の記事にも、関連地点の地図が掲載されているが、素人には、不審満載である。念のため、過去ログを自己引用し、掲載する。

 「多武峰付近の御破裂山から、松山市近郊の白石の鼻までの直線経路は、見たとおり、出だしが淡路島に乗り上げた後、すぐ四国の山地(今日の香川徳島県境)に入り込み、そのあと、燧灘沿岸の海中を辛うじてなめるものの、高縄半島に乗り上げている。経路のほぼ全てが、見たとおり、遠く見通すことのできない陸上である。太陽の沈む方向に、となると、現代人でも、軽飛行機ででも飛ばない限り、とても「追いかけて」行けるものではない。無茶な言い回しである。」

*ホラ話(架空論)の始まり
 また、物々しくこの日(1月14日)の日の入りの方位は、257.9度と小数点第一位まで書かれているが、これは大嘘である。いかに現代科学が進歩しても、1450年前の日の入りの方位をそこまで正確に計算することは不可能と考える。(関連計算の計算精度のことは、御自分でお調べいただきたい)
 また、現代の科学者であっても、現場で観測していて、落日の中心を見極めて、その方位を0.1度単位で決定するのは至難の業と考える。(事実上、不可能と言いたい)
 また、地図上に図示された地名の場所は、その位置を257.9度と提示された数値と「一致」するほど正確に求めることも不可能と考える。
 いずれも、現代の科学技術をもってしても、現場での測定で(信頼できる数値として)4桁精度が確保できるかどうか、身近な専門家に確認していただきたいものである。
 こうした、一見科学的でじつは裏付けのない論法は、現代科学のご威光を借りた、文字通りの「架空論」と思われる。

 まして、カレンダーも時計もなく、海図、地図や羅針盤もなかったと思われる(「なかった」とする証拠資料を提示できないので推定とする)当時の人にできたことは、西方の方角を見て、思いを馳せる、つまり、遙拝、想到するだけであったと思うのである。
 近代の航海のように、専門技術を備えた航海士が、海図と羅針盤をもとに、六分儀による精密な天体観測をおこなって、現在位置を確認できたとしても、陸上通過を前提とした一定方位に合わせて、迂回した海上航路を経由して、最終的に所定の目的地に辿り着くよう進路を取ることなどできるものではないと考える。

 言うまでもないが、海図は、誰かが、事前に測量を重ねてようやく描き上げられるものであり、歩測や測量機器による精測が可能な陸上でも、地図とコンパス、ないしは、天体観測によって、遠距離を誤りなく進めるようになったのは、遙か後世と考える。
 つまり、神がかりで、当日の日没の方位を0.1度単位で知ったとしても、その方位角に従って航海することは不可能と考える。
 繰り返すが、御座船の現在位置を正確に測定する手段はなく、目的地の方位を正確に知る手段もないのに、どうやって、進路を方位と一致させることができるのだろうか。ホラ話と批判されて、応答できるのだろうか。

*修行の不足
 このあたり、専門編集委員の科学観が、中高生レベルから間違っているのであり、間違った方向を向いているのである。意見形成の土台となる見識が方向違いでは、筋の通った意見を形成できるはずがない
 今からでも遅くない。一から学び直し、考え直すことであると愚考する。

*虚名の罪科
 とは言え、ぱっと見にはもっともらしい科学的な裏付けであり、それが権威ある高名な筆者の名の下に、毎日新聞の専門編集委員の肩書きで権威付けして堂々と前面に打ち出されている
だけに、当方も、執拗に、つまり、丁寧に、誠実に、批判せざるを得ないのである。

*不審の自覚
 因みに、当連載記事筆者のお人柄を信じたくなるのは、「もう一つの謎」と題して、「御船、還りて那大津に至る」の一句の意味が解せないことの確認である。「悪意」はないようである。

 ここまでに展開されたお話は、一種のおとぎ話、たとえ話、ほら話、落とし話、の類いとして笑い飛ばすとしても、この一句は、そこまでに展開された「おとぎ話」と「還」の一文字で、決定的に食い違っていると考える。

 無理に筋の通った説明を付けようとすると、「御船」は、本来、那の大津が母港であり、手元の素材資料の御船の帰還記事を、その趣旨を理解しないまま、(御船とは別の)斉明女帝の御座船の到着と誤解してしまった、とも思われる。
 当記事で書かれているような、斉明女帝が、百済支援の船群を率いて出航しながら、半島西岸に赴くのに大きく方向違いの壱岐に出向いて、敵前逃亡さながらに帰港した」という不名誉極まる航海だったという「不敬極まる読みをされかねない記事」を、正式史書に載せている気が知れないと考える。

 いずれにしろ、意味の通らない結句をここに置いたことは、書紀の歴史記録としての信頼性の低さを示しているものと思われる。「もう一つの謎」などと軽く片付けるべきものではないと考える。

 「還」の字義は大層な参考書を繰らなくても、自明事項(Self-evident, Elementary)と思われるのである。およそ、書紀の草稿起筆を任されるほどの者が、気づかないはずはない。まして、文書校正する高位者が気づかないはずはない。解決策は簡単で、「還」の一字を削除すればよいのである。なぜ、放置したのだろうかと困惑するのである。
 書紀は、当時、広く講読されたと言うから、筋の通らない記事には、批判が出たと思うのであるが、それとも、出なかったのだろうか。
 してみると、ここ(書紀の編纂部門)では、誤記、誤編集が野放しになっているものと考える。誤記、誤編集が野放しになっている部門が編纂した資料は、全ての記事の全ての字句を信頼してはならない(全てが誤っているという意味ではない、個別に検証しない限り、記事を全面信頼してはならないという意味である)とするのが、客観的な「ものの見方」と考える。

 ここで、大胆に書紀記事の信頼性について断罪しているので、論拠を示すとしよう。
 誤記、誤編集は、必ず発生するものであり、発生した誤記、誤編集を、発見し、是正することにより、誤記、誤編集が最終文書に残らないようにするのが、時代、社会環境を越えた編纂者の責務と考える。編纂者の責務」というのは、これを守らなければ、最終文書が誤記、誤編集混じりのものになり、誤記、誤編集が事実として継承されるからである。そうした事象を理解せずに編纂されていると思われる資料は、全体として、信頼してはならない資料である」と考える。
 
 とは言え、全面的に資料の否定を打ち出すと、個別の記事毎に精査すべきだという正論めいた批判が出てきそうなので、狭い範囲の話にすると、ここまで説かれた「斉明西征」記事の一連の辻褄の合わない記事は、本来、由来の異なる断片記事の貼り合わせによる「創作」と推定されるものであり、そのような批判が克服できない限り資料として信じてはならないと思うのである。

 そのような、信じてはならない記事を、不正確な科学論理で強引に正当化して、延々と説き続ける論者の信頼性も貶められるのであり、気が知れないと思えるのである。

*書紀の史料批判~私見
 そうそう、基本的な意見に還るのだが、書紀に、最高権力者の大々的な行幸記事のちゃんとした記録が残っていないのは、なぜなのだろうか
 壬申の乱で近江宮の宮廷記録が焼失したとしても、乱後の天武天皇の朝廷には、当時の関係者が大勢生存していたはずであり、2カ月の滞在地や九州北部の各機関にも、生存者がいたはずであり、当時の業務記録が残っていたはずである。重要な記事であれば、史官、書記官は、それにふさわしい努力を払って書き残すべきではないのだろうか。もちろん、はるか、遙か後世の無責任な批判なぞ、言っても詮無いのであるが。

*架空論の戒め
 それにしても、独自の自説に応じて図上に直線を引いて、それにあわせて、現実に自説を投影して話を運ぶというのは、古代史学につきものの「空論」とは言え、無検閲で掲載されるという特権を与えられている高名な学者の採るべき正々堂々の論法とは思えない。「牽強付会」と言う四文字熟語が思い浮かぶのである。

 またも、繰り言になるのだが、高名な専門編集委員には、記事を熟読し、難点に気づいて苦言し、思い違いを窘めてくれる良き友はいないのだろうか。

以上

毎日新聞 歴史の鍵穴 地図幻想批判 3 「松山長期滞在」の謎

 私の見立て☆☆☆☆☆                       2016/01/21 再掲 2024/04/17
 =専門編集委員・佐々木泰造

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯始めに
 毎日新聞夕刊文化面に月一の連載コラム「歴史の鍵穴」と題した記事が掲載されていて、どうも、専門編集委員佐々木泰造氏の執筆がそのまま掲載されているらしいことについて、また触れることになった。

 天下の毎日新聞の専門編集委員の玉稿に口を挟むのは不遜かも知れないが、当方は、毎日新聞社の社員でも何でも無く、宅配講読している「顧客」の立場で、高名な著者の重要な記事に対して、今回も失礼を顧みず、あえて遠慮なく書いていくが、相手の怒りを恐れない「率直」は、誠実(Sincerity)の極致と思って言うのである。

*斉明女帝再訪
 今回は、15/10/21付けで公開している「合わない鍵穴再訪」と題した前々回記事の補足である。どうも、趣旨が言い尽くせていないかと思ったのは、斉明帝の現地滞在、長逗留の話である。
 斉明帝は、緊迫した半島情勢に急遽対応するために、国を挙げた出兵を陣頭指揮すると言いつつ、この地に二ヵ月滞在したと語られているが、とても、あり得ないほら話なのである。

 天皇が単身で来たわけではない。当時の最高権力者であり、朝廷諸官全員は言えないものの、政権中枢の高官(文官)のかなりの人員が随行したと考えられる。いわば、政府機関の引っ越しである。それ以外に、軍務関係者も、相当数随行していたはずである。行幸全体に於ける天皇の護衛という意味でも、十分に武装していたはずである。
 何しろ、彼方の大国唐は交流が乏しいので脇に置くとしても、長年抗争してきた新羅が敵である以上、刺客を投入しての暗殺の可能性がある。新羅人は、長年にわたって渡来、来訪しているので、朝廷内に同調者がいるかも知れないほどである。

 さて、そうした生々しい治安問題は別としても、このとき、現地には、天皇の威光を示すにふさわしい行在所なる仮御所が設けられ、現地の日常と隔絶した世界が確立されたはずである。当時、この地に行在所にふさわしい規模と威容の建築物があったとも思えないから、新たに整地し、柱を立て、屋根を張る行在所造営工事を執り行ったはずである。
 現地に、そのような行在所の遺跡は、既築新築を問わず、見つかっているのだろうか。大極殿や紫宸殿などの威容はないとしても、行在所については、整地や柱の跡は残っているはずである。

 当然、行幸には、高官だけでなく、日常実務を担当する昇殿の許されない下位のものまでが随行するし、使い走りのものまで随行する。
 全体として、例えば、千人の一行とすれば、人数分だけ寝泊まりする場所が必要である。千人が適切であるかどうか判断する基準は持ち合わせていないが、数百人程度では収まらないし、まさか、万とは行くまいと思い、仮に提示するのである。
 千人分の食事となると、それだけの膨大な食料を調達するだけでなく、竈で煮炊きして日々の炊事に当たる者達が必要である。ちなみに、まだ、金属製の鍋釜がなかった時代であるから、個人毎、銘々の小ぶりな竈での煮炊きになったと思われるのである。
 してみると、炊事場所の跡や日々食した食事から出た貝殻や魚骨のようなゴミが残りそうなものである。
 食事には、毎回千人分の食器が必要である。割れた食器の残りがありそうなものである。

 また、滞在二ヵ月ともなると、その間に千人分の衣類を何度となく洗濯しなければならない。飲料水の供給と共に、洗濯、物干しの場所も必要であるから、造成した水路跡が残りそうなものである。

 滞在時期は冬季に始まる。滞在地が松山市付近としても、厳しい寒さは当然であり、今日のように暖房などできるものではないから、少なくとも高官には十分な採暖が必要である。炊事用の薪と合わせて、千人分の大量の薪炭の調達が必要である。
 事前に周辺に広く通達して、木炭とか薪の増産備蓄をしそうなものであるが、それら大量の備蓄の置き場所が必要である。

 ここに物々しく書くのは、滞在地が、経済的に未発達な状態ではなかったかと思われるからである。九州北部のように、人口が多く、随分以前から経済活動が活発であったところであれば、所定の対価さえ整えば、食料、物資、労力が調達可能であったろうが、滞在地は、千人規模の長期滞在を、施設の造営や物資の調達の面で、平然と受け入れられる状態ではなかったと思うのである。平然と受け入れられなかったのであれば、かなりの遺物が残ったはずである。

 それとも、千人規模の長期滞在者を、日常茶飯事のように支えきれるだけの施設、物資、管理体制を備えた繁盛した寄港地だったのだろうか。それなら、それなりの遺跡、遺物が出土しそうなものである。また、早々にそれほどの発展を遂げた海港であれば、災害で破壊でもされない限り、後世まで残りそうなものである。

*架空論の粗雑な考証
 思うに、書紀記事筆者は、与えられた断片的な資料の中から、適当と思われる断片をざっと並べ、大きな穴をもっともらしく埋めただけであり、出来上がった記事を現地取材や関係者の遺物などで考証する意欲などなく、また、中間滞在地の地理条件を考証するだけの土地勘も実務知識もなかったと思うのである。
 斉明帝行幸行程に二ヵ月の空きができてしまったのは、大阪と九州北部とでそれぞれの行程日付を書いている断片資料しかなかったと言うことであり、書紀編纂に当たって、個別の事象の日時については、細かくつじつま合わせしないという原則があったように見えるのである。要するに、史官は、述べて作らずと言う職業倫理が伝わっていたと見えるのである。

 逆に言うと、何か重大な入出港があったと言うことだけが、どうも、原資料の内容を保っているらしいが、それが、御座船かどうかは、どうもはっきりしないと言うことである。であれば、入出港が同一の船であったというのは確かではなく、また、途中で二ヵ月の滞在があったというのも確かではない。まして、滞在場所も不確かである。

 書紀の記事は、そういう風に確証のないものと受け取るべきあって、元々実在した行幸の的確な記録の反映と受け取るのが無理なのであり、極論すれば、実際に起きたことと無関係の、寓話、説話、おとぎ話の類いと受け取るべきなのである。

*自縄自縛
 毎日夕刊連載記事筆者は、根拠のない自説の裏付けを得たいために、書紀の記事に信を置いて、懸命に筋道立てて、不可能な謎の解明に挑んでいるようであるが、その結果、例えば二ヵ月の滞在という、裏付けのしようがない記事を前提とした巨大な空論を唱えているのである。これでは、自縄自縛である。

 高名な専門編集委員には、苦言し、窘めてくれる良き友はいないのだろうか。

以上

毎日新聞 歴史の鍵穴 地図幻想批判 4 1/3

 私の見立て☆☆☆☆☆                       2016/02/17 再掲 2024/04/17
 =専門編集委員・佐々木泰造

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯はじめに
                       斉明西征の意味
                       国生み神話に共通点     

 当記事は、毎日新聞夕刊の月一連載囲み記事であるが、当ブログでの批判記事は初出ではなく、これまでは、月一連載が出る度に「合わない鍵穴」と題して突っ込みを入れていたのだが、どうも、筆者のお耳に入っていないようなので、座り直して、書評を上げることにした。

 今回も、特にあたらしい突っ込みはないのだが、お浚いをかねて、批判させていただく。 

日本書紀崇拝
 まず、素人ながら気になるのは、当記事筆者は、「日本書紀」記事を「真に受けて」いることである。
 往年の大学者のように、日本書紀は全て事実の裏付けのない創作とまでは言わないが、こうして、論考をまとめる際には、どの程度信用すべきかの史料批判、内容確認はすべきと思う。当人一人の勘違いが、百万読者に、権威ある定説として伝わるのである。

女帝西征夢想
 今回の一連の記事は、斉明女帝の博多入り行程を取り上げているが、これほどの国家上げての大事業でありながら、ちゃんとした記録が書かれていないのには驚く。
 いや、当ブログ筆者は、守備範囲を離れて、日本書紀の原文を取り出して、記事の裏を取るような労力は取りたくないので、記事に書かれた内容を批判するのである。
 要約すると、当記事には、断片的な出発、到着の記事はあるが、女帝以外に誰が同行し、全体として、どのような陣容、人数が随行したのか、途中寄港地はどこだったのか、記事の要件が脱落した、断片的なゴミとみた。

 日本書紀編纂の際にも、編纂者は、当時存在していた資料を捨てて、あえて断片的な記事にしたとも思えないので、何らかの事情で、記録に不備があったとみるのである。それでも、記事として残さざるをえないのであり合わせの断片を継ぎ合わせたのだろう。当然、継ぎ合わせた元の史料が正確だったという保証はない極めて、疑わしい記事とみるのが、科学的な見方ではないだろうか。
 そうした断片的な記事の欠落部分を、後世のものが想像をたくましくして埋めるのは、科学的なものではない

 日本書紀編者に言わせたら、わからない、責任を持てない部分は飛ばして書いたのに、「書いていないところを勝手に推定して、書紀記事を非難するのは、お門違いだ」とでも言うだろう。

 ここまでの連載記事で言えば、当記事筆者は、斉明女帝が松山市付近に二ヵ月滞在したとしているのである。ここで「松山市付近」と「二ヵ月滞在」の二点は、それぞれ、いずれも根拠の乏しい憶測でしかない。それぞれ、史料での裏付けがあるわけではないとみた。
 それを、確実な事項のように考察の基礎に据えて展開されているのが、一連の記事であるから、きれいに言うと砂上の楼閣である。とても、科学的な論考ではない

 当記事の著者は、「二ヵ月滞在」したのは、「戦勝祈願」、「潮待ち、風待ち」、「日時待ち」などの理由があったのではないかと言うが、推定の事項に現代人の推定を重ねたのでは、もはや、憶測の極みとしか言えない。それは、科学的な論考ではない。

 素人考えながら、かりに業界の定説となっているとしても、「松山滞在」は、確実な史実とは思えない。確実に検証されない限り、不確かな推測である。

 専門に調べたわけでもないので深入りしないが、知る限り、現地に地名は残らず、海岸沿いに古代良港の遺跡が見当たらないことから、どこか、別の場所と取り違えた可能性が高いとみている。先だって触れたように、斉明女帝の行幸先にふさわしい「行在所」(仮御所)らしき遺跡も見当たらないようだ。

反乱の的
 ここで、「行在所」というのは、最高権力者の滞在場所には、厳戒態勢が必要であるということである。つまり、「反乱」の可能性も踏まえてのことである。少なくとも、斉明帝の軍事関係者は、このような手薄な地点でに長逗留して合流部隊を待つことの恐ろしさを感じていたはずである。

 当時、まだ、誅滅された物部氏や蘇我氏といえども、各地の一族が健在だったはずだから、警備手薄とみて、来襲する可能性がある。

 また、大軍だったと思われる北部九州で待機している遠征部隊の動向も気がかりである。こうした臨戦態勢の部隊の反乱の恐ろしさは、周知の通りである。

 何しろ、国内的に反乱と言っても、半島を支配している「大唐」「新羅」に迎合して投降すれば、身分は安泰なのだから、この状況での反乱は、かなり成算の高いものと見えたはずである。
 こういう状態だから、斉明女帝がだらだらと長逗留すれば、旗下の諸隊の不信を招くだけでなく、帰順した輩まで寝返りを思いかねない。

 端的に言うと、そのような長逗留はなかったものと考えるのが順当な考証というものである。

未完

毎日新聞 歴史の鍵穴 地図幻想批判 4 2/3

 私の見立て☆☆☆☆☆                       2016/02/17 再掲 2024/04/17
 =専門編集委員・佐々木泰造

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

承継

地図の妄想-妄想の地図
 さて、肝心なのは、「地図の思想」である。筆者はしきりに現代地図を掲示するが、このような地図に基づく地理観を、古代に持ち込むのは、良く言えば軽率な誤解であり、悪く言えば欺瞞である。

 例えば、内陸奥地の奈良地区の起点から瀬戸内海沿岸近くの松山付近の地点に引かれた線は、四国東部では山中深くを通過していて、今日でも、この通りに陸行する方法はないと言える。

 まして、見通し圏外の遙か彼方の地が、この線上にあるかどうか、人の知覚では知ることはできない。
 仮に、現代人が、最新の光学測量機器をもってしても、見通し範囲内の測量を多数積み重ねて、何とか、それらしい精度の測量ができるかどうかである。0.1度とか、0.1kmとか、云々すること自体、極めて非科学的である。

 もちろん、衛星写真、航空写真などのデータや各地の三角点のデータを参照すれば、居ながらにして、紙面に掲示された地図のように直線を描くことができるが、そのような時代を超絶した「超絶データ」は、地上の観測者が独力で、と言う前提を外しても、全く時代錯誤となる。

 ちなみに、何らかの手段で、各測定地点での正確な方位を知ることができれば、測量精度を高められるが、いかに正確な機器を使用しても、実測する以上、各点での測定誤差の累積は避けられず、到達地点で数百㍍、数㌔㍍の誤差が発生しても不思議はない。
 書かれている地図は、全て、「超絶データ」を利用しているものであって、現代人が、距離計測、方位計測に誤差の少ない機器や物差し(例えば、誤差1㌫以内のもの)を使用し、測定者が誤差1㌫以内の高精度の測量をできた場合には、まあ、これにある程度近づけるとしても、ここにあげられているような古代人には、到底なしえないものである。

 そのような技法を検証することなく採用して、現代人の認識不足に任せて、勝手な論考を進めるのは、科学的な態度ではない

 中学、高校レベルから学び直してみると、遙か後世のものが、自ら検証することを怠って、「直線に一致する」と放言するのは、不遜というか浅慮というか、とんでもない考え違いであることがわかるはずである。

 不確かなデータを一直線に引いて、それが「一致する」というのは、非科学的な幻想である。

未完

毎日新聞 歴史の鍵穴 地図幻想批判 4 3/3

 私の見立て☆☆☆☆☆                       2016/02/17 再掲 2024/04/17
 =専門編集委員・佐々木泰造

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

承前

国生み神話に共通点
 その後に、「古事記」の国生み神話が引用されるが、はなから、おのころ島」を架空の島と断じて、無用に慎重な姿勢を示しているのに、以下、大八島(洲?)については、現代の地図に照らして確定しようとする。首尾一貫しない御都合主義の態度である。

 日本書紀の12種類の国生み記事を踏まえて、「こうした記述の解釈に議論が分かれている」と健全な発言をしながら、突然、自身の所説に馴染ませやすい古事記の記述を採り上げるのは、これまた、こじつけであり、不確かで多様な資料の中から、自分の気に入る資料だけを選別して採り上げるのは、科学的な態度ではない。記事筆者の思考の外れ方が思いやられる。

 自身の意見に合わせやすい一説に、自身の所説の修飾を施して勝ち誇るのは、まことに、非科学的な論法である。

 素人目にも、列記された諸島の比定で、大小の格差が著しいのは、不審である。大体が、当時本州島全体が一つの「島」と認識されたはずはなく、現代の「県」ですら、目の行き届かない巨大な地域である。
 素人目には、伊予二名島は、四国全体でなく、例えば、西方から接近したときの現在の松山市程度の狭い領域であり、筑紫島は、例えば、北方から接近したときの博多湾岸一帯であれば、首尾一貫するのである。どちらも全島一望とは行かないはずなので、「島」全体の名前とは思えない
 してみると、大倭豊秋津島も、せいぜい国東半島程度の領域ではないだろうか。古来、「豊」は豊前、豊後をあわせた領域、つまり、豊の国の一領域という意味と思える。

 「島」というと、地続きは半島であって島ではないとか、地理の教科書のようになってしまうが、当時の人々が、今日の全国地図や西日本地図のような確かさ、視野の広さで各地の地形を認識していたわけではないと思うのである。
 不確かな情報は、不確かな情報として扱うべきである。それが、科学的な態度である。

 因みに、タイトルで「国生み神話に共通点」と見出しで書き捨てているが「斉明西征の意味」に続いているので、これを主語として解釈するものなのだろうが、言葉としての意味が理解できない。 不確かな情報を断言するなと言うのは、言葉遣いを錯綜させて、煙に巻けばよいと言うことではない。

迷走の果て
 今回記事の結末には、あろう事か、「飛鳥と本州北端を結ぶ」とおおぼらが出て来るが、当時の「本州北端」がどこかという認識があったか、という問題以前に、この大地がどこまで続いているか、知っていたかどうか疑わしいのである。
 どうせ、妄想を言い立てるのなら、国後島北端とか、樺太北端とかを採り上げれば、歴史的に固有領土であった証拠として国際的に主張できるのではないか。本州北端とは、志の小さい話である。

 そこまでの距離と白村江までの距離がほぼ等しいというのは、2年後の海戦の位置を知っていたという主張であり、そこまで予知していたのなら、なぜ、2年後に予知していた敗戦に荷担したかと言うことになる。
 当時の最高権力者に対して、幻想・幻視に支配されていたと非難するものであり、不遜、不敬であり、ゆゆしき主張である。

 「斉明の西征の目的は、天皇の影響力を朝鮮半島に及ぼすことだった。」と突如断言しているが、大軍を率いて親征したのならともかく、瀬戸内を数ヶ月にわたって徘徊して、半島まで影響が及ぶと思った、根拠は何だったのだろうか。不可解である。

 ところが、突如理性に促されたか、「距離まで一致するのは偶然」としても、と譲歩しているが、何とも不可解である)というが、距離以外の何が一致しているのか、書き漏らしているので趣旨不明である。方角は、ご執心の線図から大きく外れている。

事実の報道
 個人の意見は個人次第であり、思想信条の自由に属する大事な権利であり、個人の意見を個人の意見として報道するのは、報道の自由に属するのだが報道機関は、個人の意見を自身の意見と混同させるような形態で報道すべきでなく、また、事実に反する報道は禁じられているはずである。

 当ブログ筆者の知る限り、毎日新聞社は、「正確な事実」の報道を信条としているのであるが、ここまでに提示したような不確かな推定を基礎として憶測を積み上げた「非科学的」記事を紙面に掲載するのは、どういう理由があるのだろうか。社内で、どのような過程を経て、事実の報道と検証して掲載したのだろうか。お伺いしたいものである。

以上 

毎日新聞 歴史の鍵穴 地図幻想批判 5 「伊勢・出雲ライン」の妄想

伊勢・出雲ラインの意味 神話を演じる祭祀空間か
専門編集委員・佐々木泰造  私の見立て☆☆☆☆☆ 2016/09/21 補充 2023/05/21 再掲 2024/04/17

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*お断り 2023/05/21
 当記事は、コラムとしては、終了して久しいものであり、誠に旧聞であるが、爾来毎日新聞紙上で是正されていないと見え、一方、一部で、当方の記事を参照していると見えるので、自衛のために、補充、再掲載したものである。近来の補充/再掲載は、概して、同様の理由に基づくものであり、弱者の自衛策として、看過頂ければ幸いである。
 なお、上記リンクは、毎日新聞の公開期限切れで解消しているようである。

◯始めに
 今回の題材は、毎日新聞夕刊の月一コラム「歴史の鍵穴」の今月(2016年9月)分の批評であるが、またもや、「地図幻想」を蒸し返しているので、当ブログとして、誠意を持って対応している証拠として、蒸し返しに近い指摘を繰り返さねばならないのである。

*総論
 素人が、無報酬で頑張るのは、不似合いであり割に合わないと思うのだが、本件のような途方も無い暴論に対して、世上、当然と思われる批判が見られないので、柄杓一杯の冷水を、燃えさかる野火に注ぐものである。とても、火消しにはならないが、柄杓一杯分の消火活動に務めているのである。

*主題
 今日の技術でも、各地の三角点やそれらを利用して作成した地図、或いはGPSと言った技術が無ければ/無かったから、見通しの利かない地点間を直線で結ぶことは不可能であり、従って、8世紀当時も不可能であった」と断じざるを得ない。いくらなんでも、高校生レベルで納得できる話と思うのだが、どうも、高貴な身分の方は、耳を貸さないようである。イソップ物語に擬えるのは控えるが、佐々木氏が、毎日新聞の専門編集委員なる格別の権威にふさわしい知性を示していないので、何か揶揄したくなるのである。
 このような批判に対して、確たる証拠を持って反論するのが、全国紙に堂々掲載されたこの記事の筆者の責任だと思うのである。

*引用資料の内容確認
 2009年の「国立歴史民俗博物館研究報告」第152集掲載という論文を引き合いにしているが、字数多くして一向に要領を得ないので、別ページで原資料の書評を掲示している。

私の本棚 水林 彪 古代天皇制における出雲関連諸儀式と出雲神話
抄録:本稿は,『続日本紀』の記事に散見され,『貞観儀式』や『延喜式』にも見えるところの,出雲国造が天皇に対して賀詞などを奉上する儀式の意義について考察したものである。
(以下略)

 結論を言うと、当記事で紹介されている部分、つまり、「地図幻想」は、水林氏が本来の論説を展開したあとで、『自身の「私見」を補強するために同僚の私見の教示を仰ぎ、論証無しの「憶測」であることを理解せずに、自説として取り込んだ』部分であり、当記事で、付け足しのように長々と引用されているのが、水林氏が、いわば心血を注いだ本論なので、紹介の軽重・順序が倒錯しているのである。

 それにしても、厳しい言い方をすると、「伊勢・出雲ライン」幻想は、水林氏自身が論説の冒頭で提示した学問上の信念に反して、『現代的な思考を論証無しに古代の考証に持ち込んだ「無効」な議論』なので、その点を理解した上で慎重に引用すべきなのである。(要するに、こんな与太話は持ち込んではならない、ということである。)
 毎日新聞の専門編集委員が、正確さに疑問のある未検証の理論を、「孫引き」にも拘わらず「通説」として、無批判で引用するのは、全国紙記事として不見識この上ないのではないかとの批判を免れないのである。

 言うまでもないが、このようないい加減な「トンデモ科学」めいた思いつきを安易に受け売りすると、論説全体の信頼性を害するものであり、即ち、毎日新聞の権威に重大な疑念を投げかけるのである。

*締めくくり
 と言うことで、今回も、ため息をついて、当記事は非科学的なものであり、ダメだと言わざるを得ないのである。特に、今回は、水林氏の卓見の「論証の欠けた蛇足の部分」が冒頭に引用され、論説本体が巻き込まれて批判されるの』は困ったものである。
 一介の素人がちょっと調べて、論証の(象の隊列がすらすらと歩き抜けられるような巨大な)「アナ」を「ぞろぞろと」指摘できるような粗雑な論説の付け足しを、本来必要もないのになぜ紹介するのか、理解に苦しむのである。

 ご自身が、しきりに押しつけている「地図幻想」も、受け売りと言って、別人に責任転嫁するつもりなのだろうか。

以上

毎日新聞 歴史の鍵穴 地図幻想批判 6 日吉大社の悲劇 1/2

天智の宮と聖武の宮 日吉大社とつながる
 =専門編集委員・佐々木泰造
 私の見立て☆☆☆☆☆☆ 「無法な」ホラ話  2016/10/19 再掲 2024/04/17

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯はじめに
 今回の題材は、毎日新聞月一コラム「歴史の鍵穴」の今月分であるが、またまたもやもや、途方もない地図幻想を蒸し返しているので、指摘を繰り返さねばならないのである。なぜ、全国紙がこのような「無法な」ホラ話を掲載し続けているのか、まことに不可解である。

*後世知の戒め
 前回記事で、2009年の「国立歴史民俗博物館研究報告」第152集掲載という論文「水林 彪 古代天皇制における出雲関連諸儀式と出雲神話」を引き合いにしているが、冒頭で提起されている戒めを読み損ねているのだろうか。
 8世紀の事を論ずるには,何よりも8世紀の史料によって論じなければならない。10世紀の史料が伝える事実(人々の観念思想という意味での「心理的事実」も含む)を無媒介に8世紀に投影する方法は,学問的に無効なのである

 当然、8世紀の事を論ずるのに21世紀の認識を適用することは学問的に無効だと言うことは言うまでもない。

*前提「技術」
 と言っても、指摘の論点をできるだけ変えていくことにしているので、今回は、「カシミール3D」に関する指摘を言い立てたい。
 いや、記事筆者は、ずぼらをして「地図ソフト」などと言いくるめているが、実際は、「カシミール3D」は、国土地理院の数値地図を利用する、「地図ブラウザー」(地図データを表示、流し読みするもの)であって、自力で地図を創作しているものではないから、表示され、印刷されている地図に責任を負わせられるものではない。
 科学技術的に肝心なのは、地図上の各地の地理データは、国土地理院の提供したものだと言うことである。前提技術は、明確に表記すべきである。
 国土地理院の数値地図は、近年になって、衛星からのデータを利用して校正されているというものの、本来は、全国にくまなく巡らされた三角点を実際に測量して得られたデータをもとにしているのである。

*科学に基づかない科学論
 記事筆者は、色々資料を取り出して蘊蓄を加えているが、今回も臆面もなく掲示されているような架空「地図」を根拠に、当時の為政者の配置の動機を忖度するのは、非科学的な妄想と言われても仕方ないのではないか。

*現実世界の有り様
 現在の技術を持ってしても、0.14度とか0.37度とか、1/100度の精度で論ずるのは、無意味である。それにしても、当シリーズの表記は、従来、0.1度単位であったが、今回は、0.01度に単位と超絶的な高精度になっているのは、一段と不可解である。全周360度に対して、一万分の一、0.01度の精度で測量する手段は、現実には存在しない。恒温恒湿、無振動、無塵の測定室が必要であり、おそらく、体温や呼気の影響を避けるために無人化する必要があるであろう。つまり、今後如何に技術革新があっても、記事筆者の妄想世界ならともかく、現実の生きた世界に適用するのは、「絶対に」無理というものである。

未完

毎日新聞 歴史の鍵穴 地図幻想批判 6 日吉大社の悲劇 2/2

天智の宮と聖武の宮 日吉大社とつながる
 =専門編集委員・佐々木泰造
 私の見立て☆☆☆☆☆☆ 「無法な」ホラ話  2016/10/19 再掲 2024/04/17

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*8世紀の技術考証
 話を元に戻すと、当時、方位の決定方法として、太陽の南中をもって真南-真北とし、その線に垂線を立てることによって、東西の線を得ることは特に困難ではなかったと思う。(小難しく見えても、要は、真っ直ぐな木の棒を立てる際に、天辺から錘付きの糸を垂らして、それに合わせて棒を立てると言うだけのことである。ちょっとした大工仕事で必ず柱の垂直なのを確かめているから、家が傾いて立つことはないのである。基本の基本である。)

 つまり、季節に関係なく、その土地の東西南北を正確に知ることができる。
 四分割した方位を二分割して八分割にすることは容易であり、更に二分割して、十六分割にすることも、さほど困難ではない(子供でも理解できる手順である )から、8分方位や16分方位は、お説の8世紀でも利用できたと思われる。(未開だった3世紀でもできたと思われる)
 また、このような方位決定に必要なのは、太陽の南中方位だけであるから、水平線への日の出、日の入りを観測できない場所でも問題なく可能である。季節も、全く関係しない。(子供でも理解できる手順である)

 言うまでもないが、そのような方位の求め方は、地上や紙上での作図によるものだから、せいぜい数㌫の精度である。
 また、大変重大なことなのだが、そのような方位は、作図したその場で決定されるだけであって、全周360度とした0.01度単位どころか、1度単位でも、別のどこかでその方位をそのまま利用することは、ほぼ不可能であったと思われる。
 だから、ある地点で、精密な方位角を求めても、無意味なのである。

 ついでながら、そのような方位線を得たとして、例えば、日吉大社から見通しのできない伊勢神宮内宮の方角が、360度のどの方角にあるか知ることはできないのである。

*8世紀の測量考証
 いや、ここまで、記事筆者が高精度の方位線に固執しているから、このように徹底的な掃討戦になるのであって、8世紀においても、地点間の方位の「概要」を知ることは不可能ではなかったと考えられる。
 8分割で「北」とか「東南」とか言う程度の方位感であれば、方位図とその地点の南中線を重ねれば、その地点の方位は知ることができるのである。(子供でも理解できる手順である)

 例えば日吉大社から伊勢神宮に至る街道が曲がりくねったものであっても、見通しの利く範囲に区切って、その都度行程距離と方位を記録して丹念に補正を繰り返せば、誤差が積み重ならない測量も、大変な労苦ではあるものの、不可能ではなく、二地点間の大まかな方位関係は得られるはずである。
 簡単に言えば、大津宮が恭仁京のほぼ北にあることは、当然知られていたはずである。

 と言うものの、「日吉大社の西本宮と伊勢の外宮を結ぶ線が紫香楽宮の中心建物の約2㌔㍍南にある甲賀寺跡を通る」など、当時の誰も知らない/知り得ないことである。知らない/知り得ないことに依拠して、何かの位置を決めることはあり得ない。

*測量技術の時代限界
 測量は、誤差とのつきあいが不可欠であり、8世紀には8世紀の、18世紀には18世紀の測量が行われたはずである。そうした理解無しに、結果だけを捉えて、0.01度の精度で論ずるのは、子供だましの言い草であり、はなから非科学的と言わねばならない。

記事筆者の大いなる誤解は、「そこで高精度を言い立てるのは、不可能事項を可能だと力説している」のであり、記事の信頼性を地に落としていると言うことである。地図も、8世紀の知識では、このように精密に描けるものではないのである。精密に描き、その根拠を現代に求めると言うことも、また、天下の公器、毎日新聞の記事の信頼性を地に落としていると言うことである。恐らく、原稿無審査で掲載できる特権の持ち主なのだろうが、それなら、それに値する自己審査を怠ってはならないのである。

 あるいは、奈良盆地の山中、つまり、水平線の見えない場所での日没の方位を高精度で論ずるのは、科学的思考を知る誰が見ても、非科学的と言わねばならない。

 非科学的な論法を、科学的な装いで粉飾して一般読者に押しつけるのは、早急に止めるべきである。

 と言うことで、今回も、ため息をついて、当記事は非科学的なものであり、ダメだと言わざるを得ないのである。折角のご託宣が、もったいない話である。

以上

2024年4月16日 (火)

新・私の本棚 白石太一郎 「考古学と古代史の間」再掲 1/2

            筑摩プリマーブックス154 筑摩書房 2004年
      私の見立て★★☆☆☆ 参考のみ          2017/02/10 2018/12/10 2024/04/16

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*はじめに
 本書を購読したのは、近年顕著な「古墳時代の開始吊り上げの主たる提唱者が、本書著者白石太一郎氏である」という風説を確認しようとしたものです。結論を言うとまさしくその通りで、著者は肯定的な確信犯だと言うことです。
 言うまでもありませんが、当ブログ筆者の意見は、本書で公開されている論理の進め方に一般人として異論を唱えるもので、学術的な当否は対象外であり、まして、本書著者の権威を傷つけようとしているものではないのです。

*「考古学」と「古代史」の狭間
 本書冒頭の述懐で、古代史分野と一般人が捉える学術分野は、「考古学」と「古代史」の、ずいぶん土台も筋道も異なった二分野に分かれていることが、素人にもよくわかるように説かれているのです。

*議論の分かれ道
 そうした前提が説明された後で、本書著者は、文献資料である「魏志倭人伝」の解釈と考古学の知見をすりあわせ、古墳時代の開幕を、積極的に3世紀前半であると判断し、この判断に従うと、「倭人伝」の「邪馬台国」は、奈良盆地の一角ヤマトを本拠としたとの論理を述べています。この論争に良くある「決まり」主張です。

 もちろん、その際に、先に述べた、考古学の見る遺物、遺跡は、他の遺物、遺跡との相互年代、つまり、どちらが古いか新しいかという判断はできるものの、「絶対」年代、つまり、西暦何年であるとか、中国のどの王朝の何年という断定はできない、という考古学の定評を克服したと主張するのです。明確な結論が端的に導き出されると言うことは、その形成過程が「結論」に向かう強い指向性を持って進められていたのではないかと思われるのです。

*自然科学的手法の「限界」

 しかし、援用されている自然科学的時代判定は、どんなデータをどのような方法で検定したか明記されてないので一般論で批判するしかないのです。
 言うならば、考古学の持ち分である遺物、遺跡鑑定でなく、第三者である自然科学の観点からの判定ですから、その判定は、自然科学視点で支配され、考古学の立場から責任をもって検証できないと思われるのです。つまり、本書著者が慎重に遠ざけた文献史学の年代検定同様、「部外者」見解なのです。
 これに対して、「倭人伝」の「邪馬台国」 なる仮説は、文献のテキストを無視した「思い込み」ではないかとの批判が克服されていないので、どう見ても、砂上の楼閣と見られてしまうのです。

                             未完

新・私の本棚 白石太一郎 「考古学と古代史の間」再掲 2/2

            筑摩プリマーブックス154 筑摩書房 2004年
      私の見立て★★☆☆☆ 参考のみ          2017/02/10 2018/12/10 2024/04/16

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*「考古学」における科学的測定法
 データねつ造に至らないまでも、依頼者所望の結果を出すのが受託した科学者の仕事なのです。測定方法選択の段階で測定結果が予想されることは珍しくないので、希望するデータが出るよう測定方法が塩梅されることは珍しくないのです。
 
 また、判定の条件設定は主観に左右されるのです。専門機関といえども、依頼元の意図が肯定される判定を出さねば依頼元を裏切ると考えて、測定方法を調整しデータ解釈を演出することはざらにあることです。依頼の際に強調することもあるだろうし、あうんの呼吸で忖度させることもあるのです。
 
 考古学者は、自身の学識知見には責任を持てても、自然科学的測定は畑違いで責任外ですから、くれぐれもお手盛りにならないように、依頼からデータ受け入れまで慎重に扱うべきなのです。

*早計な判断
 そこまで言うのは、本書は、自然科学的判定によって古墳年代を比定していると見えるからです。更に、その判断を元に、文献資料解釈を決めているのです。そのような成り行きは、古典的な言い方では曲筆です。

 本書著者は、考古学者として赫赫たる名声を得ている方と思いますが、一読者には、他分野の見解が耳に心地良ければ丸ごと受け入れるのは、考古学者の使命をおろそかにしているように見えるのです。

 しかも、ご自身で、最初に述べたように、考古学者の見識が揺らぐ原因として、外部分野見解の安易な取り合わせがあることを見抜かれているのですから、なおさらに、本書の主題となる「曲筆」は痛々しいのです。

*素人の意見
 当ブログ筆者は、遺物、遺跡を実見していないので、諸文献を精読して自分なりの意見を形成します。つまり、先賢の高説を元に文献を読み解くのですが、その限り、「倭人伝」には、九州北部の局地的政権である「倭」が描かれているとする意見に大きく傾いています。
 本書著者は、深い学識で、ヤマトにあった地方政権が全国政権として広く統括するに至った「歴史の必然」を示されて、当ブログ筆者は深い敬意を持ってその展開を眺めるものです。ただ、そのような議論を文献資料とつなぎ合わせるために、たとえば、箸墓の造成に、卑弥呼の没後十年をかけたとされるのはもったいない話です。堂々たる議論でも、文献資料を無理な解釈で歪めさせるとすれば、その発端となる、自然科学的判定を造作する進め方に賛同できかねるのです。
 まして、考古学を基本とした見解で、乱世の続く文献解釈を快刀乱麻のごとく武力平定するというのは、何か初心を忘れているように思うのです。

*最後の聖戦か
 思うに、本書著者は、ヤマトに対する絶大な愛着で冷徹な判断が妨げられていると見るものです。そのような先入観から遠い当方には、愛着に起因する先入観に立つ議論は学術上の論議として採用しがたいのです。

*主観的科学観
 当ブログ筆者の科学観は、考古学者自身の見解形成にそのような外部見解を丸呑みして採用すべきでない、と言うものです。自然科学の判定が信用できないという話でなく、自身の学識および知見の範囲外のものは、(素人なりの)検証無しに受け容れるべきでない、というものです。

 当ブログ筆者は、工学系訓練を受け、企業内で技術的実務に携わり、場数はある程度踏んでいると考えてください。その背景から、科学技術的な測定と見解は、測定機器の高精度化とデジタル化によって客観的なものと思われがちですが、実は主観の影響を大きく受けると考えるのです。

 特に、先に述べた第三者機関は、業績を向上させるためには、いわば顧客である考古学者の意を迎えざるを得ないのであり、時には、「考古学者の意に沿わない判定結果であれば却下される」危険を示唆/明言されるものであり、それこそ、「高位の第三者機関」による厳正な研究成果監査が必要と思うのですが、考古学者からは、客観性を危ぶまれる成果発表しか無いようです。
 是非とも、ご一考賜りたいものです。
                           以上

新・私の本棚 西本 昌弘 邪馬台国論争 (日本歴史第700号) 補追 1/3

 日本歴史 2006年9月号 吉川弘文館  2019/02/20 補充 2021/08/21 2024/04/16
 私の見立て ★★★☆☆ 多大な労力に敬意 孤高の徒労か

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯総論
 本記事は、記念論文の使命で、論争史を回顧し今後の展開を想定するのでしょうが、所詮、当論争は、「九州説」「畿内説」に二分され、異なった使命感で熱烈に説かれていて、不倶戴天、何れかの陣営に属すると相手の論理が見えないのです。

 西本氏は、畿内派視点で論じていて、以下示すように、筋立てが無理で。裏付けが追いつかず、ちょっと(つまり、めちゃめちゃの意です)お粗末です。

 ただし、本誌の編集方針で、論拠のあやふやな記事は採用しないので、偏見、曲解の根拠を読み取れるようになっています。

*内藤・白鳥回帰の是非
 ここで、氏は、古典的な内藤湖南、白鳥庫吉両氏(両先達)の論争を回顧し、倭人伝記事の理解を図るという生き方ですが、偉大な先人といえども、前提となる倭人伝記事への先入観が災いして、いきなり、引き返しようのない論説を立ててしまったため、後生に大きな軛(くびき)を遺したように見受けます。(国内史学界は、先達の後追いの隊列を構成しているので、そうなるのです)

 当方は、両氏の深い学識と堂々たる知性を尊敬していますが、前提となる資料把握が整っていなかったという限界は如何ともし難く、今日、倭人伝理解の出発点とすることはできないと考えます。つまり、誌面の無駄なのです。

*方位 苦慮の辻褄合わせ~博物館の名物に
 方位論は、所詮、想定里数で想定比定地に届かせるこじつけであり、いわば、辻褄合わせの屁理屈でしかないのです。もはや、博物館入りの骨董品であり、きれいに言うなら「レジェンド」(歴史遺物)です。

*道里 数字に弱い畿内派
~補習必須
 まず、「倭人伝」里程は、地域ごとにバラバラであり、郡から狗邪韓国までは数倍の誇張、渡海旅程はかなりの誇張なのに、九州上陸後は実里程に近い」とする見方が提示されていますが、随分筋の通らない話です。

 帯方郡近くで、「洛陽から指示があれば実測検証すべき旅程を六倍に誇張し、海の果てで、検証困難な旅程を実里数にする」とは理解に苦しみます。そもそも、当時実測困難だった海の果ての「実里数」は、誰がどうやって測ったのでしょう。(丁寧に言い直すと、古来「困難」とは、「事実上不可能」という意味です。念のため)

 なぜ、当時としては、大変計算が困難な六倍なのでしょうか。「十倍」なら単位を「百里」から「千里」にするだけで、再計算不要。現代風なら、小数点を移動するのですが、倭人伝の一桁概数表示では、「百」から「千」へ「千」から「万」への単位の書き換えで良いのです。
 五倍なら、単位の書き換えで「十倍」しておいて、数字部分を二で割るだけなので楽勝なのに、なぜ、わざわざ六倍なのか。もちろん、6.5倍は、当時不可能な計算になります。

 数字に弱い人が、どうして無理な作り話に凝るのか。誰の知恵を借りたのかも不審です。大の大人が、受け売りは、情けないように思うのです。

*無理なこじつけ
 実際の距離と言うなら、郡から狗邪韓国までの七千里と書かれている道里と、末羅国辺りから纏向までの地図上の距離は大差ない
のですから、これを、ほぼ五分の一の千三百里と見るのは、どう考えても無理です(つまり、不可能です)。

 その間は、当時、どう考えても、道路や港湾の整備がなく、牛馬がいないので騎馬移動ができないのを考えると、所要期間は、何倍にもなりそうです。
 氏は、淀川水系運航は提案しても、そこまでの行程は示さないのですが、いくら魏使が「鈍感」でも、長期間の移動の方位や所要日数を体感できたはずで、終生、誤解し続けとは信じがたいのです(嘘だろうという趣旨です)
 ついでに言うなら、帰国後の報告で、当然、日誌の提出を求められたはずですから、途中経過が知られなかったとは信じられないのです。

                               未完

新・私の本棚 西本 昌弘 邪馬台国論争 (日本歴史第700号) 補追 2/3

 日本歴史 2006年9月号 吉川弘文館  2019/02/20 補充 2021/08/21 2024/04/16
 私の見立て ★★★☆☆ 多大な労力に敬意 孤高の徒労か

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*日程 不届きなドタバタ
 日程論も、伊都国以降の里程解釈に依存していて、直線行程と解釈して最終部が否定困難となったために起こる「ドタバタ喜劇」であり、廃棄することはできないにしても、単なる作業仮説、外野の野次馬の思いつき程度に落とすべきです。

魏制が求めたのは、郡から王の居処への所要日数であり、これが「都(合)日数水行十日に加えて陸行一月」と明記されているのです。何しろ、郡から末羅国の里数は明確なのに、所要日数は明記されていないわけですから、そう理解しなければ、『「倭人伝」として必須記事が欠けている』と非難していることになります。

*墨守
 そこまで、内藤・白鳥論争を辿って、論争初期の諸論が行き届かないものであったことを示した後、氏は、自身の理解で捌こうとします。現代「読者」の理解力が、三世紀「読者」の要件を満たしていれば、それが正解への最短の道里ですが、ほぼ間違いなく、理解力の不足、欠格により、題意の理解に失敗して頓挫するのが、多くの、つまり、ほぼ全員の失敗の前例に示されています

 方位論を云えば、氏は、相変わらず魏使、つまり、「倭人伝」「錯誤説」を振りかざします。何しろ、倭人伝」の道里と方位が正しければ、持論である畿内説は、一気に破綻するので、「倭人伝」「錯誤説」に固執すると見えるのです。そのような錯誤はあり得ないと、百人、千人が諄諄と理屈を説いても、「錯誤説」を撤回できないのが、背水の陣というものなのでしょう。
 魏使が行程上の諸国間の道里、里数を提供したという誤解は置くとしても、伊都国記事に付された各国への道里行程の方位に間違いがあるとの途方もない言いがかりが蔓延しているために、諸兄姉の誤解に論拠を与えているように見えるのが、深刻なのです。

 道里論で云えば、畿内説諸兄姉の例に漏れず、氏は随分「数字に弱い」と思われます。なにしろ、短里説を認めると、その瞬間に畿内説は破綻するので、ベタベタの変則理解に固執するのです。これも、また、不退転、背水の陣でしょう。これでは、論議が収束/終息しません。

 日程論も同様です。水行十日、陸行一月が、「(投馬国から)邪馬台国に至る道里」として行程最後に来なければ、その瞬間に畿内説は破綻するので、ここでも、ベタベタの俗説に固執するのです。不退転、背水の陣ばかりです。

 後に、三世紀の中国史書陳寿「三国志」「魏志」の一記事である「倭人伝」が二千年に近い考証で検証されてきたのに対して、二千年後世の無教養な現代東夷の勝手な解釈を押しつける目的で、倭人伝と同等の考証を受けていない東夷の『不法な』史料である、四百年後の七世紀書紀記事(隋使裴世清来俀とこじつけられているもの)を動員しての畿内説墨守は、学術的論議の手順を踏み外していて、感心しないのです。(それでは駄目ですよの意です。そもそも、中華に服属しながら自前の天子を掲げる「正史」など、自国年号共々「論外」であり、下手をすると討伐されるのです。)

 三世紀中国史書は、三世紀に書かれた文化背景、先行史書の視点で解釈しなければ、編纂者の真意と当時読書人の理解を追体験することができないのです。つまり、浅慮に基づく勝手な誤解、極論すれば史料改竄になるのです。

 学術的な論議の前提として「書紀」の史料批判が不可欠なのですが、この不可欠な手順を飛ばして、国内基準の読解が超法規的に投入されるのは、問答無用の最終兵器ということなのでしょうか。

 それでは、論証として客観的に見ると、不備が満載で、後世の批判に耐えることができません。末代の恥という事では、勿体ないことです。

*数字嫌いの食わず嫌い
 氏は、この蒸し返しで、最終行程の「おつりである」一千三百里が、長里なのか短里なのか比較検討ができないようです。
 短里制に大きな疑問がある」と嘆じていますが、疑問があるなら、大小を問わず、ご自身の脳内の混乱を放置せず「聞くは一時の恥」と言う至言に従うべきです。このままでは、氏の不明が歴然と残され、末代の恥で、まことにもったいないのです。
 
 理解が困難なら、当方が好むきりの良い数字で、概数が自明として、「約」抜きの短里七十五㍍、長里(普通里)四百五十㍍と「仮置き」して場合分けして評価したらいいのですが氏は、思考が混乱して文末まで動揺し続けたようです。
 
 わかりやすく言うと、一千三百里は、長里とすると五百八十五㌖、短里とすると三十五㌖で、それぞれ、諸々の誤差、不確かさを考えれば、一応、畿内説、九州説に適した数字と見えます。

 それが、自説にとってどういう意味を持つのかは、ご自分で考えていただきたいものです。

*里程論の突き当たり
 郡から末羅国までの里数を考え合わせると、「倭人伝」の短里/長里判断で、短里は、そのまま普通に理解できるのに対して、長里は不合理な「誇張」が必要です。後で蒸し返しが来ますが、理屈を整理すれはそれだけです。
 
 因みに、先ほど提示したように、測定不能な海上里程や測定困難な倭地里程を、どの程度の精度のものと評価するか、掘り下げが必要でしょう。
 
 この程度の理屈が聞き分けできなければ、全て一緒くたにして排斥し、短里説全面否定となるのも無理からぬ所です。

 そもそも、論争で、相手陣営の論理が聞き取れずに、感情/情緒だけで首を振り続けると、子供の口げんかになってしまって、とても、大人の論争などできないのです。いたずらに醜態を露呈し続けるのは、勿体ないことです。

                               未完

新・私の本棚 西本 昌弘 邪馬台国論争 (日本歴史第700号) 補追 3/3

 日本歴史 2006年9月号 吉川弘文館  2019/02/20 補充 2021/08/21 2024/04/16
 私の見立て ★★★☆☆ 多大な労力に敬意 孤高の徒労か

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*魏志行程記事と古墳時代開始時期
 当ブログ記事の筆者たる小生は、元々、「古代史」に関しては「素人」ですが、素人の限界を多少なりとも緩和するために、それなりの勉学を重ねてきました。ただし、全般的な勉学に手が回らず、国内古代史学については、勉強不足になっていることを申し上げておきます。
 今回も、勉学の立場で読み進めたのですが、小生の乏しい知識でも、同意しがたいご意見が見られるので、素人なりに批判しています。

木津川水系重視の視点賞賛
 当論説で意外だったのは、魏使の河内到着以降の旅程が、淀川~木津川水系にとられていて、それは、流域に散在する初期古墳の時代比定と連動していることです。つまり、淀川~木津川の流域に展開した勢力が、なら山を越えて奈良平野に進出し、平野の中・東部、今日「中和」と呼ばれる纏向で周辺を睥睨したとの設定のようです。淀川~木津川水系 から、奈良平野北部、後の平城京領域に入る/出る移動・輸送経路は、小生がかねてから、西の方から奈良盆地への経路として最有力として着目していたので、ここに取り上げられたのを見て、我が意を得たとの感慨があります。(なぜか、無理難題山積の大和川遡行にこだわった先哲が多いのですが、その衣鉢を継ぐ諸氏は、同説に囚われて、自由な視点を取れずにいるようです)

 そのような進出と展開には、最低でも二世代六十年は必要と思われるので、淀川水系の古墳造成が三世紀中頃に一応整ったのであれば、纏向は、遅れて四世紀中期の古墳造成開始となるのではないでしょうか。
 まことに、無理の無い、筋の通った作業仮説ですが、これ以降、あまり見かけないのは、纏向学会で賛同を集められなかったのでしょうか。

*おわり方の問題
 「おわりに」と題して、少し長めの結語が書かれています。
 その一は、中国王朝の記録能力を正視して行程記事を正当に評価するという趣旨です。自戒、自責を込めた言葉として貴重で、同感です。
 その二は、考古学成果をもとに、三世紀当時日本列島を統轄する政治中心がどこにあったか明らかにするという趣旨ですが、賛成できません。

 古代史用語で「日本列島」は、概ね、今日の近畿以西の西日本ですが、そもそも、三世紀当時、この広大な地域を統轄する政治中心があったとは、作業仮説、要は、単なる思い付きに過ぎないと思量します。ないものの所在地を明らかにするのは、できない話です。氏は、素人ではないのですから、学者らしく、もっと手前から、丁寧に検証を一段一段重ねるべきです。
 
 また、『「古墳時代」のはじまり』が、「以前より早まった」とは、学説の表現方法としては、ちと稚拙の響きがあります。近年蔓延している若者言葉に染まっているのではないかと憂慮しています。
 そのため、提示された概念は、一段と不可解
です。
 当論説を見る限り、『「以前」は、纏向地区の墳丘墓のはじまりが「古墳時代のはじまり」とされていた』と思えるのです。不可解な動揺です。
 
 当論説に依れば、「淀川水系の墳丘墓の副葬銅鏡が、中国由来で先行していた」との仮説を踏まえた考古学的見解のようですが、他分野に影響するので、「考古学学界内の台所事情による辻褄合わせの作業仮説」では済まないのです。纏向を中心とした奈良平野内の考古学的な研究活動、就中、長年にわたる広範囲の発掘活動は、多額の国費と地元協力者の労苦に支えられているので、厳密な論証と焦点を定めた有力仮説の検証に絞られるべきと考えるのです。

 巨大な計画は、それ自体、自己正当化の本能が発生するため、捏造や虚飾の危険性が格段に高まるのですが、天に恥じない公明正大な活動を貫けているでしょうか。
 諸々のしがらみに連なっていない素人なりの危惧を提示しておきます。

*正当化困難な言い分
 「魏や遼東に発した数百枚の銅鏡が連綿と将来された」という途方もない仮説や「魏使が淀川水系を通過した」という目新しい仮説は、ベタベタの常套句で「今後の発掘に大いに期待」するとしても、論拠が明確でない以上、氏の思惟にとどまる、単なる作業仮説であり、そのように明記すべきものと理解します。要は、論考に遙かに及ばない、個人的な「思い付き」であり、この場に書き立てる意義が理解できません。氏の周囲には、率直に批判してくれる学友はいないのでしょうか。氏の不快を買うことを怖れず、苦言を吐く人が、真の学友と思うのです。
 
 行間を読むと、氏には卑弥呼の墓を纏向に誘致するとの使命が課せられたようですが、大黒柱の三角縁神獣鏡魏鏡説が、実質的にほぼ崩壊した今、正当化手段に窮して、引くに引けず、強弁していると見えて、しぶといと云うより、痛々しいのです。

 と言うことで、畿内説に基づく本論説は、倭人伝錯誤説や魏鏡説など、根拠不明で正当化「困難」な作業仮説が、あまりに多く含まれています。因みに、当方が「困難」と言うのは、社交儀礼に従った古風な婉曲表現で、若者言葉で言うと「不可能」なのです。

 今日日の口喧嘩では、「不可能」には「成せばなる」の反論があって、「絶対不可能」と追い打ちする
のですが、普通の日本語では、「困難」と言えば十分強い否定表現なのです。

 真意を誤解されないように、念押しします。

                               完

2024年4月15日 (月)

新・私の本棚 番外 邪馬台国ブームに火をつけた男の情熱 1/2 再掲

 推定地今や50超.. 編集委員・宮代栄一 朝日新聞デジタル 2020年5月14日
私の見立て ★★★★★ 適確な紹介と論評     2020/05/27 2024/04/15

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

〇はじめに
 当方は、朝日新聞の購読者ではないので、掲載当時は気づかなかったのですが、十日ほど経って「邪馬台国の会」サイトの紹介で気づき、朝日新聞デジタルの会員記事を確認したのです。
 記事全体は、簡潔にして丁寧な構成であり、「まぼろしの邪馬台国」なるベストセラー書を世に送った宮崎康平氏の功績に、ふさわしい脚光をあてていて、当今のジャーナリズムには珍しく冷静な記事です。

*躓きの滑り出し
 但し、導入部の部分に、次のように、当節定番と言える誤解を振りまいて感心しません。
 日本古代史最大の謎といわれる邪馬台国。3世紀に編纂(へんさん)された中国の歴史書「三国志」の「魏志倭人伝」に登場し、当時の日本列島の国々の盟主的存在だった同国の女王・卑弥呼は、239年に魏へ使者を送り、金印や銅鏡を下賜(かし)されたと伝えられる。だが、その国のあった場所は、いまだにわかっていない。

 「魏志倭人伝」が三世紀に編纂されたとぼかしていますが、「倭人伝」の主要部分は、遅くとも260年頃までには書かれていたはずです。つまり、ほとんど同時代の記録だったから、本来「謎」などはなかったのです。当然、女王の居処は、知られていたのであり、当然、倭人伝に明記されているのであるから、「その国のあった場所は、いまだにわかっていない」などと泣き言を言うのでなく、「まだ読み解けていない」とでも正直に書くべきでしょう。
 「当時の日本列島の国々の盟主的存在」は筆が踊っています。「当時の日本」でないのはさすがですが、古代史用語「日本列島」は誤解を招きやすいので、丁寧に列島西部と言うものでしょう。当時「畿内」も吉備も盟主に仰いでいなかったと見ます。厳しく言うと「国々」も誤解を誘い不用意です。要するに、卑弥呼は、臣従している人々を支配していたのであり、「当時の日本列島の国々」などとは、書かれていないのです。
 「倭人伝」に従っていく以上、魏への遣使は、238年というものでしょう。不用意です。もちろん、「邪馬台国」も論外です。
 金印は、仮授されたもので、代替わりの際には、変換すべきものですから、預かり物だったのですが、銅鏡百枚は、確かに下賜されたものですから、違いがあるのです。
 
 いや、当節定番というように、記事を起こすほどの大問題ではないのです。

*解けない疑問
 最後が、大事な疑問です。本当に、「当時の日本列島の国々の盟主的存在」であったのなら、それにふさわしい栄誉で、「日本」の記録に末永く後継されたはずであり、その国のあった場所は不明の筈がありません。女王居処の場所が知れていないというのでしょうか。確かに、飛鳥時代の王居処は、知れていないことがありますが、少なくとも、飛鳥地域の内部と知れているのです。ここに説かれているのは、国内史料に一切登場しない「まぼろし」です。

 こう書かないと、記事が成り立ちませんが、一般読者に、日本列島には脈々たる系譜が刻まれているという誤解を植え付けるのは、大新聞の取るべき姿勢でないように思います。

〇 隠れた本題
 言い忘れていたようですが、記事本体部分には、特に文句はありません。
 そして、以下の論議は、記事自体に基づく批判ではありません。記事が引用する談話に触発された、重大な問題提起です。

▢無免許論議は禁止か
 末尾で鈴木靖民国学院大学名誉教授は、「アマチュア研究者が中国の文献である魏志倭人伝をきちんと史料批判するのはなかなか難しい」と論じます。
 まず、氏の世代が「なかなか難しい」と言う時は「事実上不可能」の趣旨の全否定、断言と酌み取るべきです。日本語といえども注釈が必要です。

 言うならば、無免許の素人は、公道を走るなと言うお叱りです。

*もう一つの無免許暴走
 しかし、冷静に眺めると、「アマチュア」研究者を倭人伝論議から排除すると言っても、当分野には、別の種類の無免許運転が横行しているのです。

*異分野での新境地順応
 国内古代史の研究者は、いかに権威でも、中国文献に関して適切な専門的知識がなければアマチュアであり、適確な史料批判は「大変難しい」のです。でありながら、一人ならず、尊大な態度で、頭ごなしに、中国史料の罵倒を繰り広げるから、「きちんと史料批判」などはなから無視していると見えます。
 要は、国内史料で形成した所説に反していると見てとって、山ほど「塩を撒いて」いるのですが、それは、権威者の保身であって、新参者の取る態度ではありません。
 これを、無免許運転と言わずにどうしましょうか。

 高名な歴史家である岡田英弘氏は、『三国史を編纂した陳寿は、同時代最高の教養を備え、古典書の語法に通暁した「史官」であり、そのような卓越した「史官」が身命を賭して編纂した正史を「二千年後生の無教養な東夷」である現代人が、安易な思い込みで「罵倒」するのは許されない』と解される警句を発しています。

 国内古代史の分野の碩学であっても、中国史書の解釈に不可欠な教養に欠けるのであれば、それは、異分野/異国における初心者/異邦人であり、それこそ、小学校に入り直す謙虚な姿勢が必要と思われます。

                                未完

新・私の本棚 番外 邪馬台国ブームに火をつけた男の情熱 2/2 再掲

 推定地今や50超.. 編集委員・宮代栄一 朝日新聞デジタル 2020年5月14日
私の見立て ★★★★★ 適確な紹介と論評     2020/05/27 2024/04/15

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*尊大な初心者たち
 国内史料などの異分野で築いた広大な歴史ロマンの愛好家、ホビーストの根拠なき自尊心が、上質の中国史料に直面した時に要求される、一介のアマチュアとしての謙虚な学びを疎外しているように見えます。これは、純然たるアマチュア初心者より質(たち)が悪いのです。実際は運転未熟なのに、なまじ、暴走運転するだけの能力、技術が備わっているとの名声が漂っているため、無批判に追従する衆生が結構あり、誠に危険です。
 特に、論拠に自信が持てない時に、殊更に大言壮語して、声量と気迫で異論を押しつぶす論争術は一段と危険なものです。この厚顔無恥の姿勢に、多くのアマチュアが無批判に追従している風潮は、実に重大な暴挙拡散です。

*求められる資質
 「きちんと史料批判」と言うからには、当の史料は当然として、同時代同環境の史料を、自力で読み解(ほぐ)す読解力を求められているのです。ちなみに、読解力は、それを支える智識/見識が必要です。
 史料読解力が不足し、学習力もない、古代史権威者という「仮面」の「似而非アマチュア」諸説が、堂々と氾濫しているのを見ると、倭人伝に真摯に、かつ堅実に取り組む純正「アマチュア」は、簡単に排除できないものと見ます。

 氏が、自身、中国文献を読解してのご意見かどうか、記事からは知り得ませんが、折角の断定の論拠がぼやけているので敢えて書き出すのです。いや、偶々、氏の発言が基点となっていますが、氏がそうした世相に無頓着だと言っているのではありません。ちょっとした石ころに躓いただけなのです。

*一つの失敗事例と考察
 因みに、付随する記事で、高島忠平・佐賀女子短期大学名誉教授が謙虚に指摘の事例が著名です。

 国内古代史学の泰斗、小林行雄・京都大名誉教授が、木津の墳丘墓から多数出土した銅鏡、三角縁神獣鏡を見て、「これは卑弥呼が百枚下賜されたと倭人伝にある魏鏡であり、各国に配布する任務を与えられた地域支配者の手元に大量集積されたものである」と「絵解き」されましたが、まずは、中国視点から見て、魏が女王に下賜した銅鏡は三角縁神獣鏡と別物と思量します。

 また、「絵解き」の構造を客観的に眺めても、広域国家が未形成であったと思われることから、当時貴重な財貨であった銅鏡の配布を、特定の支配者が服属関係にない別地域の支配者に付託するはずがないと想定されます。そもそも、配布を厳命された地域支配者が、大量私蔵するなど許されなかったはずですし、厳命を厳守させることができなければ、上位支配者の権威はないはずです。

 普通に「絵解き」を順当に考えれば、なら木津の墳丘墓に埋葬された「国主」は、木津川流域にあって、淀川水運交易の支配者であり、その最大の財貨として、貴重な銅鏡を少なからず保有していたため、埋葬葬礼に際して、銅鏡の一部を副葬したとみるのが順当と思われます。
 なお、いわゆる「三角縁神獣鏡」が、どの土地で、誰によって、そして、誰が齎した技術/意匠によって、多数制作され、どのように配布されたかは、当ブログ筆者の知りうるところでは無いと思われるので、ここでは、追求を控えます。

 小林氏は、長年醸成した所説による妥当な考察と自負されたと思いますが、当方のような素人が考察の妥当性を考察したところでは、客観的な根拠の乏しい作業仮説と思われるのです。

*古代史浪漫派公害
 古代ロマンに心酔した「浪漫」派学者は、ある意味、「アマチュア」同様であり、混沌の中から湧き出たご自身の卓見に陶酔して、壮麗な結論に我を忘れて陶酔したために、もったいないことに、判断を誤ったと見えるのです。

*天地玄黄
 素人が誤断すれば、その害毒は素人の身辺ですみますが、泰斗が誤断すれば、広く長く漂う暗雲となるのです。

*糺し難い偉大な誤謬
 高島氏は、そのような失礼な言辞を物してはいませんが、当記事の最後を占める意見である以上、学界の一部にある「アマチュア」排除に対する、強い反論と忖度し、ここでは、素人考えで、全く勝手、不遜に発言するのです。

〇最後に
 全国紙は、冷静な「史料批判」を、本気で称揚して「浪漫」派跳梁の抑制に努めていただきたいものです。

 報道媒体としては、各方面に差し障りはあるでしょうが、近来、素人目にも「浪漫」派偏重の非科学的な発表が目立つので、全国紙としての自制を望みたいのです。いや、決して、当記事を誹っているのではないのはご理解いただきたいのです。

                                以上

新・私の本棚 ネット記事「現代人でも至難の業! 卑弥呼の船はなぜ大陸から帰れたのか」 1/4

 「逆転の発想」から見えてくる邪馬台国  播田 安弘
日本史サイエンス〈弐〉邪馬台国、秀吉の朝鮮出兵、日本海海戦の謎を解く 講談社 ブルーバックス 2022/06/26 2024/04/15

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯はじめに 
 本稿は、ネット記事の紹介であり、このように堂々と販売促進されている以上、記事自体の批判も許されると考えて率直に批判しました。抜粋の文責はサイト編集部でしょうが、著者了解済みと見て書いています。
 因みに、「なぜ卑弥呼の船は...戻れたのか?」は、意味不明の大滑りです。

*不吉な展開~トンデモ本の系譜継承か
 なぜ卑弥呼の船は戻れたのか? 船舶設計のプロフェッショナルであり、このほど『日本史サイエンス〈弐〉』を上梓した播田安弘氏の仮説から、邪馬台国への意外なルートが見えてきました。

 ここで、著者紹介は「船舶設計のプロフェッショナル」と認定していますが、本書で問われる古代木造船設計建造に、どんな知識、経験を保有していることか、無茶苦茶な言い回しと見えます。要するに、現代の大型鉄鋼船舶は、強力な推進機関と航海情報を有していて、造船所は、巨大な鉄鋼構造物の力業で蠢いています。そのような「現代人」の古代船「初心者」の「素人考え」が無造作に開陳されていると見えます。

*不吉な課題呈示
「卑弥呼の船」を考える
 弥生時代の日本で邪馬台国が最大の国として発展したのは、女王・卑弥呼が中国大陸と活発に交流し、先進的な文化や技術を導入した……

 氏は、古代史に関して素人と見え、まことに無造作に始めますが、三世紀、「日本」は存在せず、筑紫に限定しても「最大の国」など時代錯誤です。『女王が「中国大陸」と交流』とは、大変お粗末で、そもそも、いつの時代であろうと、「活発」であろうとなかろうと、人が「大陸」とは交流できません。魏が中原を確保しても、南に漢帝国の継承者と自認の漢(蜀漢)が健在で子供だましです。

 魏志倭人伝を基点とすると、「倭」から「大陸」に至るには、半島上陸後、街道で帯方郡に至り、郡官吏の同伴で山東半島から洛陽に赴きます。当時、遼東は関係ありません。
 洛陽に到着すると、まず、鴻臚の典客担当は、蕃人を「客」と煽(おだて)てつつ、人前に出られるよう行儀を躾けます。最後、手土産、印綬を与えて、送り返すのですが、辺境で厄介事を起こされて始末するよりは、随分安上がりなのです。
 こうして見ると、「大陸と交流」は安易な思い過ごしと見え、まことに不勉強です。

 「先進」文化を採り入れようにも、まずは、漢字習得と言っても、万に及ぶ文字の発音と字義の記憶で、文字文書がうっすら理解できるというだけでなく、中国文明の根幹である、四書五経の暗唱、解釈を身につけることが「文化」の大前提であり、また、幾何(算術計算)習熟も必須です。「技術」は、言葉が通じるのが必須条件であり、それでこそ、実務/徒弟修行を通じて、伝授/習得/技術移管できるものであり、手軽に「導入」などできません。
 また、女王が如何に意欲を持っていても、当時の情勢を眺めると、文化/技術指導者が、先進国での栄達を捨てて、生存も覚束ない「倭」に移住し、途方も無い労苦を厭わずに指導にあたったとは思えません。
 古代に何か想定しても、時代考証を重ねないと、単なる夢想に終わります。

*関係不明な遺跡紹介
 以下の遺跡に、参考になる出土品が4例あります。(略)
 卑弥呼の時代の船は、基本的には木をくり抜いた丸木舟の両側や前後を覆っただけの構造で、帆はなく、櫂やオールを漕いで進んでいました。海に出るにはかなりの危険をともないましたが、それでも船首と船尾を高くするなどの工夫をして、大陸へと漕ぎ出していったのです。

 「卑弥呼の時代」と出土物の時代比定は、大変不確実/無根拠と見えます。全て、後世の閑人の妄想の産物でしょう。
 埴輪の土器造形と線刻画は、制作者の主観、再現精度が不明で、担当研究者の推定の確かさも不明です。無根拠に等しい憶測です。
 現代の工業化社会で確定している「機械製図」の規則に従っている「図面」以外の図形情報「イメージ」は芸術的表現であって、一切、工学的な史料と解釈してはならないというのが、「サイエンス」の大原則と思いますが、考古學のHistorical Scienceは、図形の見かけの印象を絶対視するらしく、困ったものです。まして、孤証を孤証として限定的に評価することもないのです。まことに非科学的です。

                               未完

新・私の本棚 ネット記事「現代人でも至難の業! 卑弥呼の船はなぜ大陸から帰れたのか」 2/4

 「逆転の発想」から見えてくる邪馬台国  播田 安弘
日本史サイエンス〈弐〉邪馬台国、秀吉の朝鮮出兵、日本海海戦の謎を解く 講談社 ブルーバックス 2022/06/26 2024/04/15

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*承前
 「海に出るにはかなりの危険」と乱調で、一見して不出来な船が濫造される筈はありません。近畿地方遺物の船が玄界灘に居たとは思えません。瀬戸内の船は海峡を越えないのが氏の所見のようですが、乱文です。
日本史サイエンス〈弐〉邪馬台国、秀吉の朝鮮出兵、日本海海戦の謎を解く 講談社 ブルーバックス 2022/06/26 2024/04/15

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。


現代人による実験航海
(1)野性号プロジェクト
 実験航海と方向が逆です。筑紫を発して対馬海峡を乗り越えた後、半島南岸を西に行き、西岸を北に上って、実験航海としたのです。
 冒険としての評価が、的外れではないでしょうか。先駆者の偉業に対しては、部分的な失敗は失敗として、全体的な「総括」を贈るべきでしょう。
(2)なみはやプロジェクト
 大阪から韓国の釜山まで約700kmの航海実験を計画。
 単なる「計画」倒れだったのでしょうか。意味不明の参照です。
(3)山陰の丸木舟プロジェクト
 釜山から対馬海峡横断に挑戦。
 対馬海峡北岸の韓国に丸木刳舟しかなかったとは、独善です。
(4)「海王」実験航海
 しかし技術面から評価すると、船の知識があまりない人がほとんどで、埴輪や線刻画を見たままで……建造した例も多いようです。
 「冒険」の目的は経常的経路の検証であり、無理矢理押し通す冒険ではありません。先人が、熱意だけで、無謀無知と決め付けるのは、失礼です。
 本件は、明らかに瀬戸内海の各地寄港であり、対馬海峡越えでなく日本海漂流でもありません。見当違いです。

 四例を「多い」とは不審です。これは「サイエンス」ではありません。

 綿密な検証……を行わなかったために、……問題が山積してしまいました。現代人がつくった船でさえ、そうだったのです。

 無知な現代人は失敗できても、当時なら、失敗、即難破沈没です。不勉強な後世人に古代人を貶める権利はありません。現代に木造船船大工は存在しません。それにしても、先人の偉業を貶めて、何がうれしいのでしょうか。

航海には「生贄」を乗せていた
 卑弥呼の時代にも、成功と失敗が……積み重ねられていき、ついには大陸への航海が可能になったのでしょう……「持衰(じさい)」とする習慣があったことが『魏志倭人伝』に記されています。

 意味不明です。「持衰」は、航海に先立って血祭りで献げられる「生贄」ではありません。

 持衰は航海のあいだ……謹慎させられ……航海が無事に終われば、褒美を与えられます。……失敗すれば、……生贄として殺されるのです。

 どうも、深刻な誤解があるようですが、持衰は、強制的に謹慎させられているのではなく、聖職者として身を慎んでいるのです。
 それにしても、ここでは、話題は、卑近な半島渡海でなく、正体不明の中国直行の話です。要は、風聞ですらなく、信ずるに足りないホラ話の可能性が濃厚です。対馬から半島は、ほんの半日の渡し舟であり大層な神頼みはいりません。
 渡し舟に持衰の小屋を乗せたら、客の乗る場所も船荷を載せる場所もありません。
 つじつまが合わないことばかりですが、この記事は、そういう位置付けで書かれているのです。
 毎度の訂正ですが、当時「航海」という言葉はありません。ちゃんと、史料原文に密着した解釈から出発すべきです。もっとも、難破すれば命を落とすのは、別に、古代だけではありません。

 それでも卑弥呼は大陸に船を出しつづけました。リスクを冒してもやらなければならないという強い意志を感じざるをえません。

 かってな夢想を述べていますが、どんな史料を根拠として述べているのでしょうか。新造船して養成した乗員を乗せ、それが、次々海のモズク、ならぬ藻屑になっても、平然とチャレンジを続けるとは、いつの時代でもあり得ないことです。神がかりの君主が失態を重ねれば、更迭、馘首が鉄則です。
 もっとも、卑弥呼は、そうした独裁君主などではなかったのですから。話全体が見当違いです。そんな途方もないホラ話は、倭人伝のどこにも書かれていません。史料無視も、ほどほどにしてほしいものです。

 現代人が、神がかりも無しに、二千年前のレジェンドの「意志」を感じ取るとは不可解です。もちろん、当時「リスク」などという言葉はありませんでした。全体として、まことに無様な時代錯誤です。

 但し、いくらとんでもないことを書いても、馘首、生贄にはならないので、卑弥呼ボラ話著者稼業は、気楽なものでしょう。
                                未完

新・私の本棚 ネット記事「現代人でも至難の業! 卑弥呼の船はなぜ大陸から帰れたのか」 3/4

 新刊書紹介「逆転の発想」から見えてくる邪馬台国  播田 安弘
日本史サイエンス〈弐〉邪馬台国、秀吉の朝鮮出兵、日本海海戦の謎を解く 講談社 ブルーバックス 2022/06/26 2024/04/15

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。 

*承前
 半島の鉄は、大きな制約/対価無しに入手できたと、陳寿「三国志」魏志東夷伝に書かれています。

 当時、糸魚川(現在の新潟県)では宝石の翡翠(ひすい)が豊富に産出し、これを加工した「勾玉」(まがたま)は、装飾品として権力者に珍重されていました。……卑弥呼は日本の特産品である翡翠を朝鮮半島に輸出し、かわりに鉄を輸入して国づくりを進めたのです。

 翡翠は、普通言う「宝石」ではありません。「豊富」に産出した証拠もありません。翡翠加工は技術の問題でなく、工具と労力の問題です。翡翠加工の「文化」と言いますが、文字のないところに文化はありません。単に、工人集団の確立した加工技術です。

 「日本人」と、時代錯誤の失言です。当時、「日本」は無いから「日本人」もありません。半島南半の三韓諸国には、統一国家がありませんから、「輸出」は不可能で、当然、鉄の「輸入」も不可能です。カネで買えないのだから、そういうしかないのです。ホラは出放題でしょうか。

 中国では、秦始皇帝の制定した統一通貨、銅銭が豊富に流通していたから、銭を運べば距離を隔てた代金決済は可能でした。耕作を許可された農地から得られた収穫の「納税」は、穀物を納めるのではなく、銭で収めていたので、広大な全土から厖大な銭が集まっていたのです。
 銭がない倭では、「倭人伝」に適確に記録されていて、魏帝も、帯方郡太守も、倭から大量の収税はできないと教育されていたのです。
 ところが、二千年後生の無教養な東夷である後世人は、それらの情報を全て無視して巨大な国家を想定し、まことに病膏肓の感じです。

対馬海峡の横断は至難の業
 対馬海流の速さです。筆者は、前著『日本史サイエンス』において、……、対馬海峡の横断をシミュレートしています。図略
 対馬海流は1.5~2ノットの速さで北上しています。……対馬海峡を横断するには、海流の約2倍の船速が必要……です。……実験航海が失敗したのは、こうしたことが計画に十分には組み込まれていなかったからです。
 古代の船で……、対馬海峡を横断……至難の業で……す。

 先人の海流無知は氏の思い込み、要するに、根拠の無い言いがかりです。
 まずは、野性号の「敗因」は、船体過重と見えます。船体制作の際、大事を取って船板を厚くしたのでしょう。古代、難所は難所向け構造とし、それ以外は身軽のはずですが、現代人は無思慮です。「半島半周航」という見当違いの行路設定も、敗因に寄与しています。
 三世紀当時、帯方郡から狗邪までは街道/官道が整っていて、道中、道の「駅」が完備し、公的な用途では街道/官道を、騎馬や車輌で往き来する「規則」だったのです。
 そのような公道を無視して、遠回りで延着必至、まして、確実な危険が待ち構えているとわかっている違法な経路を、なぜ通ると信じ込んでいるのか、まことに不可解です。公的な往来は、冒険などしないのに決まっているのです。

出雲大社が絶好の目印に
 卑弥呼の船が……釜山を出航して、……対馬海峡を横断し、……対馬海流の流れにまかせる……と船は、山陰に着きます。……天気がよければ……三瓶山が見え、浜田沖では……大山が見えます。

 天気が良くても、雲がなくても水平線付近が霞めば、悪い天気です。
 さらに、そのまま陸伝いに海路を行けば、出雲の方向に高い塔が見えてきます。……海からは絶好の目印となり、出雲まで容易にたどりつく……でしょう。……海からの目印として建てられた可能性もあります。

 「陸伝い」とは陸上を行くことであるから「海路」は、そういう陸上の「路」なのでしょう。色々、安直な誤解が蔓延っていて、一々訂正もできないのです。
 賑々しく書かれている「塔」は、氏の白日夢にすぎず、何の根拠にもなりません。「確実」「絶好」「容易」と子供じみた言葉と相俟って、「サイエンス」とは言えない夢物語です。一度、顔を洗って出直すべきでしょう。

 それにしても、彼方の「塔」が見えるとか、「塔」の見えた方向に漕ぎ着ければ良いとか、古代の船の運航を何も知らない安直な夢想です。
 いうまでもないですが、釜山(プーサン)、出雲、対馬海峡などなど、古代人の知らないことばを土砂降りにして、何が言いたいのか理解に苦しみます。

カルマン渦が導いてくれる
 流れの中に円筒形の障害物を置くと、下流に「カルマン渦」ができ……ます。……対馬からブイを流して、その軌跡を見ると、朝鮮半島東側から下っているリマン海流が、朝鮮半島突端の半円形に影響されて、大きな渦が生じ……この渦に巻き込まれ……れば、約50日でブイは山陰沖に漂着します。
 対馬から流したブイの軌跡(『日本史サイエンス〈弍〉』より)  図略

                                未完

新・私の本棚 ネット記事「現代人でも至難の業! 卑弥呼の船はなぜ大陸から帰れたのか」 4/4

 新刊書紹介「逆転の発想」から見えてくる邪馬台国  播田 安弘
日本史サイエンス〈弐〉邪馬台国、秀吉の朝鮮出兵、日本海海戦の謎を解く 講談社 ブルーバックス 2022/06/26 2024/04/15

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*承前
 海流が激しいのに、霞の果てに向けて漕ぐなど無謀の極みです。図示海流が三世紀に存在した保証はないというのが、「サイエンス」です。それにしても、五十日経て漂着するなら、餓死者の山です。

*不思議な「視点」幻想
邪馬台国の場所を考えるためにも欠かせない視点
 すなわち朝鮮半島から日本に帰るには、……山陰をめざすほうがはるかに楽で、自然に到着することができるのです。……実際に、古代にはこうした山陰沖から日本海を通る「翡翠の道」「鉄の道」というべき交易路があったと考えられています(図「交易路[翡翠の道][鉄の道]」)。図略

 「邪馬台国の場所を考えるためにも欠かせない」の断言ですが、他にどう活用するのか、不思議です。どこが楽で自然か、意味不明です。
 当時、誰も地域全貌を知らず、遠めがねも羅針盤もなく、水や食料もなく、風雨を読めず、どこから、このような仕掛けを見出したか不明です。試行錯誤の果てと言うが、「錯誤」で関係者が死に絶えれば航法確立はありません。
 丹後半島への旅も、絶対否定はしませんが、早晩、徒死でしょう。家長が旅で死ねば家族は餓死し船主は破産します。古代人も命は惜しかったのです。

 氏が一顧だにしない九州狗邪往復は、目視可能な対岸との渡海往来で手軽で確実であり滅多に難破しません。快適で安全で楽な経路が、健全で自然です。

 中国地方北岸の沖合を、寄港しながら、北九州、そして、壱岐、対馬、狗邪に至る交易は「あり得た」ろうが、交易の要諦は、仕入れした物を手早く、仕入れより高く売ることであり、産地は、買い叩かれる定めなのです。

 壱岐は、一大國として、海上交易の中心でしたが、半島交易成長で対馬に権益を奪われたと見えます。対馬は、狗邪に倭館倉庫と船溜まりを有し、飛び地の周辺農地で食料と水を得た倭地としたのは、自然の成り行きです。

*迷走の果て、続く瞑想
交易路[翡翠の道][鉄の道](『日本史サイエンス〈弐〉』より
 つまり、対馬海流は古代の航海にとって、……利用価値の高い海流だったと思われ……邪馬台国……を考えるうえでも、……重要……と思うのです。

 「非常に利用価値の高い海流」とは、意味不明です。「この海流が果たしていた役割はかなり大きかった」と言っても、何が「かなり」なのか。毎度、非科学的で不明史料な言い回しでのらくらしていて、回答のしようがありません。凡人に理解できる平易・明解な言葉で書いて欲しいものです。
 海流は、両方向の下り坂ではありませんから、順行時に尻押しされても、遡行時に莫大な労力を伴うのが自然の理、ただ乗りはできないのです。行程は、往還してようやく総評できるのです。

◯まとめ~率直な苦言
 粗製される今どきの「新書」ならともかく、伝統と権威のある老舗、講談社ブルーブックスに求められる基準は、相応に高いのです。
 折角のご紹介ですが、本稿で呈示されたホラ話は、仮説論証を必須とする「サイエンス」原則に背いていて、氏の新奇な「視点」による夢想談に過ぎず、編集段階で是正されて然るべきです。

 因みに、純粋史学の「視点」からすると、所詮、「邪馬臺国」は、范曄「後漢書」東夷列伝倭条独自の名付けであり、その原史料で、正体が不明なのに、肝心の史料を放念して、トンデモ本ばりに憶測を重ねて、大倭王居処の所在地を推定するのは、率直なところ時間の無駄です。
 この難詰は、つけるクスリがない類いのものなので、言いっぱなしの捨て台詞にしておきます。
 
                                以上

新・私の本棚 関川 尚功「考古学から見た邪馬台国大和説」 1/3 再掲

 「畿内ではありえぬ邪馬台国」 梓書房 2020年9月刊
私の見立て ★★★★☆ 自明事項の再確認 2021/10/06 補充 2022/03/13 2024/04/15

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯はじめに
 本書は、長年、奈良県立橿原考古学研究所(以下、橿考研)で、纏向遺跡などの古代史蹟の古学研究に尽力された著者が退職後上梓されたものです。
 本書は、従来、古代史学界において、世上権威を有していた「邪馬台国」「纏向説」の背景を詳細に述べています。当説は、しばしば「畿内説」、「大和説」と称されますが、要は、「邪馬台国」が奈良盆地中部、中和纏向地区に存在したとの主張であり本稿では「纏向説」と言う事にします。

*素人書評の弁
 本書に関しては、古田史学の会の古賀達也氏が、主催ブログに短評を付していますが、古賀氏の堅持している古田武彦師氏提唱の「九州説」視点から書かれているので、ここでは、なるべく「素人」の視点から論じてみます。
 なお、以下、特に付記しない限り、諸論見解は、本書に触発された素人意見で、当然、独善覚悟であり、諸兄に押しつける意図はないので、予めご承知頂きたい。当ブログが素人論断なのは自明ですが、とかく、罵倒のネタになるので、特に念押しするものです。
 なお、余談が長いのは、当ブログの基本方針(ポリシー)によります。ポリシー批判は、もしあっても「ご意見無用」とするので、了解頂きたい。

*橿考研理論背景の推定
 本書の核心となっている「橿考研」ですが、歴年の堅実、整然たる考察が、近年、一部の暴論の攪乱を受けて、いびつになった経緯が読み取れます。端的に言えば奈良盆地諸遺跡の発掘成果をもとに築き上げられた、精妙なペルシャ絨毯の如き壮麗な「世界像」を構築した比類なき考古学の業績は賛嘆すべきですが、それを述べると本書書評に入れないので割愛しました。
 考古学的議論において、庄内式土器の年代比定に伴う纏向遺跡の年代比定の動揺が、箸墓の年代比定に関する論議を巻き起こしたのは、「世界像」の一部、箸墓年代比定という特異点を、三世紀にずり上げたため、壮大な「世界像」全体に破綻を招いたと見え、それが一種の動乱と活写されています。あるいは、古代史論で人口に膾炙した「120年ずらし」を逆用したとも見え、大変、不吉な響きを禁じ得ません。

 もちろん、著者は、そうした動乱を通じて、「橿考研」所員、つまり、一方当事者でしたから、在職当時は、いわゆる「党議拘束」に縛られて、機関決定以外は外部に発言できなかったろうし、退職後の機関決定批判にも限界があるのでしょうが、関わり合いのない素人からすると不可解な点が多いのです。

*破綻の元凶~余談
 ここで、問題にしたいのは、かかる議論が、田中琢氏なる個人の提議によるものであり、橿考研が個人の強弁で変節したと思われる点です。
 別稿でも述べたように、高名と思われる田中琢氏は、石野博信氏の主催する講演会において、自身の専攻分野ではない中国史書の文献批判におて、根拠の無い、場違いな批判を強引に展開して「橿考研」が基礎としている「倭人伝」の信頼性を損壊する議論を進め、遺物考古学が文献考古学を破壊する「新説」を推進しています。
 さらには、講演会の主催者である石野氏を公開の場で罵倒したことが明記されています。

 当ブログ記事筆者の意見では、権威ある橿考研が、そのような錯綜した思考の持ち主の提言による箸墓年代比定説は、取り上げるべきではなかったと思われます。案ずるに、田中琢氏は、氏に求められている専攻分野の学説の確立に失敗していながら、「ブレない」強弁によって議論の結尾を撓めたようです。
 仄聞するところでは、陰の声として「橿考研」が「伏魔殿」などと後ろ指される原因であり、公的研究機関として、審問に曝されるべきです。
 いや、ここで述べた意見は、関川氏に向けたものでないことは、ご理解頂きたいものです。

                                未完

新・私の本棚 関川 尚功「考古学から見た邪馬台国大和説」2/3 再掲

 「畿内ではありえぬ邪馬台国」 梓書房 2020年9月刊
私の見立て ★★★★☆ 自明事項の再確認 2021/10/06 補充 2022/03/13 2024/04/15

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*鍋釜論の低迷
 関連して、「鍋釜論」が解明されていません。纏向に全国各地の土器が、若干量集積されているようですが、これらは、各地からの移住者が持参したに違いないという決め込みです。私見では、「纏向」が、削り込み技法で製作した「鍋釜」を、高効率を売り物に各方面に交易品として送り出したのに対して、現地土器が環流したと見ます。
 個人的に好む表現として、好まれる「物」は足が生えていて、一人歩きすると見ています。つまり、各地の市で物々交換をくり返しながら、順送りで遠距離まで届けられたと見えるのです。月日がかかるにしても、別に納期が限られているわけではないし、賞味期限があるわけでもありません。それこそ、何年かけても「ダンナイ」、全く問題ないのです。

*無理な持参仮説
 いや、橿考研定説では、纏向出土の各地土器は、纏向に参上した各地行人が長い道中を持参したと見ていて、主従交流の証拠とみているようですが、これほど大柄で重く、また、纏向特産の薄肉土器と比べて、格別の特色もない各地土器が、いわば、海山越えて将来されたとは、信じがたいのです。また、身軽であることを信条とする行商人が、土器を担いで、海山越えて旅する図は戯画にもなりませんが、遠国からの旅人が、鍋釜を担いでやってくる戯画とどっこいどっこいです。

*時代錯誤の風潮
 後年、遠隔地から白布や干しアワビが税納されたようですが、それは、古代街道整備で道中安寧が保証されてからのことで、各地に大和への供物が徹底して地方官人が務めとして送り出す制度が完備してからのことです。

 律令国家が成立した時代は、一片の木簡を荷札として隠岐のアワビが税衲されたと知られていますが、四百年の過去、文書も、律令法制もなく、古代街道もない時代、有力者が出向かないと献納を指示できなかった時代に、どのようなカラクリで土器収集ができたか、重大な謎ではないでしょうか。
 これもまた、遺物自体については異論はありません。考察があれこれ曲がるのは、一も二もなく(仮想)「古代国家」に、こじつけるからです。

 筋の通った(reasonableな)仮説として、各地特産物の上納の初期例として、纏向制薄肉土器の交換として、各地土器に特産物を詰めて還送したと見えるのですが、どうでしょうか。いずれの「物々交換」でも、対面取引で互いに等価だと合意/納得して、初めて物々交換が行われたはずです。何もないのに、各地産物が一人歩きしてくるとみるより筋の通った(reasonableな)仮説 でしょう。

*庄内式土器私論
 以下、本書で提言されている庄内式土器の年代記を見ると、同形式の特徴である内面研ぎ上げによる薄壁、丸底の薄肉土器は、奈良盆地内で創出されたものではないようです。西方、恐らく吉備圏から到来した土器技術者が、まず、河内湾岸から南河内丘陵部で窯元となって、薄肉土器を周辺に送り出して、その特性によって、天下[当時で言うと、精々、吉備、河内、中和(大和中部)程度]銘品との定評を勝ちえたようです。
 その後、有力な技術者が分家して奈良盆地内に移住し、そこで、盆地内の諸集落に薄肉土器を送り出したが、初期は、周辺地域に限られ、長年を経て、何かの契機で、奈良盆地を要とした東の伊勢方面、西の河内平野、そして北の淀川水系への送り出しが増加したと見えます。何しろ、クチコミしかないのですから、売り込みできる範囲は、大変限定されていたのです。

 特に、当初、纏向を発した「もの」は、盆地北部に偏在していたため、なら盆地の在地勢力を超えて、なら山を越えた木津水系を経て淀川の河川運送にいたる主力経路に届かなかったため、盆地壺中天に囚われたと見えます。

*年代鑑定「お手盛り」疑惑
 因みに、庄内式土器の年代比定は、かの田中琢氏の本業であるから、本来は、正当な学問の成果と思いますが、以後の「橿考研」年代解釈が大分撓んでいるので、起点部分にまで疑いの目を向けたくなるのです。

                                未完

新・私の本棚 関川 尚功「考古学から見た邪馬台国大和説」 3/3 再掲

 「畿内ではありえぬ邪馬台国」 梓書房 2020年9月刊
私の見立て ★★★★☆ 自明事項の再確認 2021/10/06 補充 2022/03/13 2024/04/15

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*試行錯誤の伝説
 一体に、「考古学」の諸兄姉は、どこかで技術革新が発生したら、たちまち「全国」に模倣追随が広がると決め込んでいますが、そのような安直な発想は、時代錯誤と言うより事実誤認です。
 土器内面を削る庄内土器の斬新な技法と雖も、完成までに失敗例が山積した過程があり、厖大な失敗から学んだ技術者が、土器技法を完成したはずです。後世、失敗を乗り越えた成功技法を「ノウハウ」と珍重しましたが、要は、試行錯誤を無用なものとするから「ノウハウ」伝授は貴重なのです。そのような「ノウハウ」は五年や十年では習得できず、長期の徒弟修行を経て習得するから、分家して別天地で開業するには、随分随分、年月を要するのです。
 と言うことで、革新的な新技術が広がるには、とても大変な時間がかかるのです。橿考研が空論を広げているのは、実務寄りの考察を進める人材に欠けるためだと見て苦言するのです。

*文書考証の欠落
 続いて、国内古代史「考古学」の分野で軽んじられている中国史料の考証です。氏の専門分野外なのか、「倭人伝」解釈が風説引用に陥っているのは残念です。特に、無理やりのこじつけが目立つのに、疑問を呈していないのは、残念です。
 いわゆる「史料批判」なる手順は、中国史料自体の信頼性や具体的な記事の信頼性を問う手法ですが、国内では、関川氏もとらわれている「誤解」「思い込み」が出回っていて、本書でも、肝心の考察をはなから取り崩しているのです。

 「史料批判」の前提としては、検証済みの基本資料、いわば、測定原器があって、当該史料の内容をこれに当てて審議していくはずなのですが、橿考研が一翼を担っている国内史学界の「定説」、「通説」論義では、そのような前提は一切確立されていないと見えるのです。つまり、その場その場の場当たりの「感想」で、言ったもん勝ちの議論を推し進めていると見えるのです。

*文献否定の不調~晩節の課題
 本題に入ると、氏を含む先賢諸兄姉は、「魏志倭人伝」(倭人伝)なる中国史料に、学問的な意義のない、単に、無節操な「批判のための批判」を浴びせます。大抵は、先人の「一刀両断」の蛮勇に無批判で追従しているのですから、何も新たな知見が付け加えられているものでなく、素人目にも、「倭人伝」は当時唯一無二の史料として尊重すべきであるにも拘わらず、素人考え並みに、明確な根拠無しに否定論を述べ立てる発言者に対しては、信頼を置かないのです。

 端から行くと、一級史料たる「倭人伝」に「邪馬壹国」と明記されているにも拘わらず、根拠不十分な異論を言い立てて「邪馬臺国」と無法にも改竄しています。根拠なき改竄は学会ぐるみの悪習であり、史料偽造に等しい暴挙であり、氏は、かかる非学問的な学会風俗に同調しています。
 従って、倭人伝」不信論調に従い、原文改竄、後代創作している第Ⅷ章には、信を置けません。

 氏は、文献史料に基づく「考古」をどう捉えているのか、大変歯切れが悪いのですが、「邪馬壹国」否定論は、厳しい反論を避けて通れないと思います。見てみないふりの「逃げるが勝ち」は、論争敗者の最後の隠れ家であって、現場から逃れてもしっぽが見えています。いや、以上は、関川氏の職歴上、不可侵なのでしょうが、そのために氏の考古学「晩節」は、浄められていないのです。

*史学における本末転倒
 纏向論者は、纏向論者向け特製「倭人伝」を用い、他人事ならず、心地良いほど纏向論に合っているとご自慢と見えます。所詮、「倭人伝」は、纏向論にしては、枝葉末節史料であり、その程度の自己完結で結構として、本当にそれでいいのでしょうか。
 古来、名刀は、鎚に打たれ、火と水の試錬を経て、名刀になるのであり、小手先でこね上げて温存される安直な造形物ではありません。
 氏が、田中琢氏の本末転倒『「倭人伝」全否定論』に毒されてなければ幸いです。

*まとめ
 以上、氏の著書の書評はことの切り口であって、氏が、専門外の文書考証で、杜撰な先賢諸兄姉に無批判に追随したことは、ここでは、主たる批判対象ではありません。ご自身が気づいて、ご自身が姿勢を正すべきなのです。

以上

新・私の本棚 西村 敏昭 季刊「邪馬台国」第141号 随想「私の邪馬台国論」三掲

 梓書院 2021年12月刊
 私の見立て ★★☆☆☆ 不用意な先行論依存、不確かな算術 2022/01/04 追記 2022/11/20 2023/01/23 2024/04/15

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

〇はじめに
 当「随想」コーナーは、広く読者の意見発表の場と想定されていると思うので、多少とも丁寧に批判させていただくことにしました。
 つまり、「随想」としての展開が論理的でないとか、引用している意見の出典が書かれていないとか、言わないわけには行かないので、書き連ねましたが、本来、論文審査は、編集部の職責/重責と思います。安本美典氏は、季刊「邪馬台国」誌の編集長に就任された際は、寄稿に対して論文査読を実施するとの趣旨を述べられていて、時に「コメント」として、講評されていたのですが、何せ四十年以上の大昔ですから、目下は、無審査なのでしょうか。

▢「邪馬壹国」のこと
 季刊「邪馬台国」誌では、当然『「邪馬壹国」は誤字である』ことに触れるべきでしょう。無視するのは無礼です。 
 大きな難点は、「邪馬タイ国」と発音するという合理的な根拠の無い「思い込み」であり、この場では、思い込み」でなく「堅固な証拠」が必要です。半世紀に亘る論争に、今さら一石を投じるのは、投げやりにはできないのです。パクリと言わないにしても、安易な便乗は、つつしむものではないでしょうか。
 そうで無ければ、世にはびこる「つけるクスリのない病(やまい)」と混同されて、気の毒です。

 因みに、氏は、説明の言葉に窮して「今日のEU」を引き合いにしていますが、氏の卓見に、読者の大勢はついていけないものと愚考します。(別に、読者総選挙して確認頂かなくても結構です)
 素人目にも、2023年2月1日現在、イングランド中心の「BRITAIN」離脱(Brexit)は実行済みとは言え、実務対応は懸案山積であり、連合王国(United Kingdom)としては、北アイルランドの取り扱いが不明とか、EU諸国としても、移民受入の各国負担など、重大懸案山積ですから、とても「今日のEU」などと平然と一口で語れるものではないので、氏が、どのような情報をもとにどのような思索を巡らしたか、読者が察することは、到底不可能ですから、三世紀の古代事情の連想先としては、まことに不似合いでしょう。

 「よくわからないもの」を、別の「よくわからないもの」に例えても、何も見えてきません。もっと、「レジェンド」化して、とうに博物館入りした相手を連想させてほしいものです。

*飛ばし読みする段落
 以下、「邪馬壹国」の「国の形」について臆測、推定し、議論していますが、倭人伝」に書かれた邪馬壹国の時代考証は、まずは「倭人伝」(だけ)によって行うべきです。史料批判が不完全と見える雑史料を、出典と過去の議論を明記しないで取り込んでは、泥沼のごった煮全てが氏の意見と見なされます。「盗作疑惑」です。

▢里程論~「水行」疑惑
 いよいよ、当ブログの守備範囲の議論ですが、氏の解釈には同意しがたい難点があって、批判に耐えないものになっています。

*前提確認の追記 2023/01/23
 ここで、追記するのですが、そもそも、氏の提言の前提には、当ブログが力説している『「倭人伝」の道里行程記事は、帯方郡から倭への文書通信の行程道里/日数を規定するもの』という丁寧な視点の評価がないように見えるのです。つまり、「必達日程」と言われても、何のことやらという心境と思います。説明不足をお詫びします。
 手短に言うと、正史読解の初級/初心事項として、『蛮夷伝の初回記事では、冒頭で、当該蛮夷への公式行程/道里を規定するのが、必須、「イロハのイ」』という鉄則です。

*前稿再録
 氏の解釈では、『帯方郡を出てから末羅国まで、一貫して「水行」』ですが、里程の最後で全区間を総括した「都(すべて)水行十日、陸行三十日(一月)」から、この「水行」区間を十日行程と見るのは、どうにも計算の合わないも、途方もない「無残な勘違い」です。
 氏の想定する当時の交通手段で「水行」区間を十日で移動するのは、(絶対)不可能の極みです。今日なら、半島縦断高速道路、ないしは、鉄道中央線と韓日/日韓フェリーで届くかも知れませんが、あったかどうかすら不明の「水行」を未曾有の帝国制度として規定するのは無謀です。

 何しろ、必達日程」に延着すれば、関係者の首があぶないので、余裕を見なければならないのですから、氏の説く「水行」を官制、つまり、曹魏の国家制度として施行/維持するには、各地に海の「駅」を設けて官人を常駐させるとともに、並行して陸上に交通路を確保しなければなりません。いや、海岸沿い陸路があれば、まず間違いなく、帯方郡の文書使は、騎馬で、安全、安心で、迅速、確実な「官道」を走るでしょう。
 先賢諸兄姉の論義で、海岸沿い陸路を想定した例は見かけませんが、好んで、選択肢を刈り込んだ強引な立論を慣わしとしているのです。

 前例のない「水行」を制定/運用するに、壮大な制度設計が必要ですが、氏は、文献証拠なり、遺跡考証なり、学問的な裏付けを得ているのでしょうか。裏付けのない「随想」は、単なる夢想に過ぎません。場違いでしょう。

▢合わない計算
 狗邪韓国から末羅国まで、三度の渡海は、それぞれ一日がかりなのは明らかなので、休養日無しで三日、連日連漕しないとすれば、多分六日、ないしは、十日を想定するはずです。
 誤解を好む人が多いので念押しすると、当時、一日の行程は、夜明けに出発して、午後早々に着く設定なのです。各地の宿駅/関所は、当然、隔壁に囲まれていて、厳重に門衛があり、日が沈めば厳重に閉門、閉扉するのです。門外野営など、無謀であり、特に、冬季に厳寒の事態となる半島では、冬場の野営は凍死必至です。従って、行人は、一日の行程に十分に余裕を見て、早々に宿場に入るのです。渡海水行の場合は、さらに顕著で、便船に乗らなければ対岸に渡れないのです。そして、早々に着いて次の渡海を急いでも、そのような便船がないのが普通ですから、渡海が、半日かからないとしても、それで一日と数えるのです。

 そもそも、氏の想定を臆測すると半島西岸~南岸を600㌔㍍から800㌔㍍進むと思われる『氏が想定している遠大極まる「水行」』行程は、七日どころか、二十日かかっても不思議はない超絶難業です。潮待ち、風待ち、漕ぎ手交代待ちで、乗り心地どころか、船酔いで死にそう、いや、難破すれば確実にお陀仏、不安/不安定な船便で長途運ぶと、所要日数も危険も青天井です。
 諸兄姉は、そう思わないのでしょうか。聞くのは、陸上街道は、盗賊がでるとか言う「おとぎ話」/風評であり、なぜ、船が安全、安楽で良いのかという議論は聞きません。
 隣近所までほんの小船で往来することは、大抵の場合、無事で生還できたとしても、数百㌖を一貫して官道として運用するのはあり得ないのです。
 一方、「幻の海岸沿い陸路」ならぬ半島中央の縦貫官道を採用して、ほぼ確実な日程に沿って移動し、最後に、ほんの向こう岸まで三度渡海するのであれば、全体としてほぼ確実な日程が想定できるのです。えらい大違いです。

 この程度の理屈は、小学生でも納得して、暗算で確認できるので、なぜ、ここに無謀な臆測が載っているのか不審です。

▢古田流数合わせの盗用
 氏は、万二千里という全行程を、『三世紀当時存在しなかった多桁算用数字」で12,000里と五桁里数に勝手に読み替えて、全桁「数合わせ」しますが、そのために、対海国、一大国を正方形と見立てて半周航行する古田説(の誤謬)を丸ごと(自身の新発想として)剽窃しています。
 安本美典氏の牙城として、絶大な権威ある「邪馬台国」誌が、このような論文偽装を支持するのは、杜撰な論文審査だと歎くものです。

〇まとめ
 後出しの「必達日程」論は言わなくても、凡そ、『帯方郡が、貴重な荷物と人員の長行程移送に、不確実で危険な移動方法を採用することは、あり得ない』という議論は、絶対的に通用するものと思います。
 まして、正始の魏使下向の場合、結構大量の荷物と大勢の人員を運ぶので、辺境で出来合の小船の船旅とは行かないのです。とにかく、いかに鄙(ひな)にしては繁盛していても、隣村へ野菜や魚貝類を売りに行くのと同じには行かないのです。人手も船も、全く、全く足りないので、現代世界観の塗りつけは、論外です。

 弁辰狗邪韓国近辺の鉄山で産出した「鉄」は、陸上街道で帯方郡まで直送されていたのですから、そのように、郡の基幹事業として常用している運送手段を利用しないのは、考えられないのです。と言うことで、本稿の結論は、維持されます。
 氏が、自力で推敲する力が無いなら、誰か物知りに読んで貰うべきです。「訊くは一時の恥……」です。
 
 それにしても、高名であろうとなかろうと、誰かの意見を無批判で呑み込むのは危険そのものです。聞きかじりの毒饅頭を頬張らず、ちゃんと、毒味/味見してから食いつくべきです。
 以上、氏の意図は、丁寧かつ率直な批判を受けることだと思うので、このような記事になりました。頓首

                                以上

2024年4月14日 (日)

今日の躓き石 囲碁女流が罹患した「リベンジ」悪疫 毎日新聞の手落ち

                  2024/04/14
 本日の題材は、毎日新聞大阪12版「くらしナビ」面の「囲碁将棋スペシャル」である。今回は、囲碁棋士の紹介であるが、「悔しさをバネに」と添え書きして、国際棋戦決勝進出のサクセスストーリーと見える。

 それで済めばよかったのだが、2年前に一回戦敗退したときの感慨として、「次に機会があればリベンジしたい」との思いを語っていて、大きく暗転している。担当記者は、既に悔しさをバネにと地の文で、程のよい決めことばを使ったために、つい、使ってはいけないことばを出してしまったのだろうが、折角の記事に泥を塗っているのは、プロらしからぬ不用意な失言と見える。この記事では、別に、主人公の発言をそのまま出さなくても良いはずである。それが、今後、永く読み返されるであろう重大な紹介記事で、このように失言を曝すのは随分残酷である。単に「借りを返したい」と言ったことにしておけばいいのである。別に「次は、ぶち殺して血染めにしてやる」と言わなくてもいいはずである。

 このあたり、担当記者の語彙が影響しているようである。「私はメンタルが強くない」とのぼやきも、不用意なカタカナ語で、主人公に残念なものなのが目を引く。直後に「勝ちたい気持ちが強くなりすぎると力んで実力が発揮できなくなる」と噛み砕いているが、まとめて「気負いがち」という言い方で、もっと切実に読者につながると思うのである。
 それなら、口数は少なくて済み、先ほどの失言と裏腹の落ち着いた言葉遣いである。ここは、速報で無く紙上囲み記事であるから、落ち着いて読み返して推敲すれば良いはずである。
 辛口で言うと、力んだら冷静な判断ができなくなるのも「実力」のうちというのが、プロの意見と思うのである。『どんなときにも緊張感が保たれていて、しかも、気負いがないのが「最強のメンタル」』との勝手な素人考えは、外野の野次馬の寝言として聞き流していただいて結構である。

 加えて、末尾で「私は意識しない方が良い結果が出る」と言う趣旨が、少し崩れた現代風の言葉遣いで語られているが、世界のトップレベルで戦う一流棋士が最早若者言葉でもあるまいと感じさせるのである。

 ということで、今回の記事に関しては担当記者に、今後一段の努力を戴いて、主人公が「淡々と自分のベストを尽くす」のを支援戴きたいものである。

以上

今日の躓き石 岡上 佑の古代史研究室 【ちょっと待てい!】支離滅裂? 再掲

 【ちょっと待てい!】支離滅裂?ここが変だよ!!魏志倭人伝その①【邪馬台国】  Jul 28, 2023
 初稿 2023/07/28 2024/04/14, 11/49

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに
 今回の題材は、YouTube動画の独演会であり、信頼できる文字テキストがないので、引用・批評できない。書評としないのは、そのためである。評点も付けられない。
 以下の当家所感が適切かどうかは、原本動画を視聴頂きたいのである。

*本論 
 いや、「支離滅裂?ここが変だよ」とまで堂々と自画自嘲されると、大丈夫かなと心配になるが、一応、『ご自分のことを「支離滅裂」というのは残念だ』と言っておく。
 要するに、古典史書をご自身の「視点」で読み解けないので「反省会」気取りで、一々降参してみせているだろうが、それを、『ご自身の「支離滅裂」さのせいだと「ぼけ」』て見せて、古典的な一人「スラップスティック」のつもりなのだろうか。

 その端緒が、原文解釈に岩波文庫版の読解を無批判で流用しているのであり、これに、二千年後生の無教養な東夷の現代人の無教養な語彙、現代地図、などなど、「倭人伝」解釈に不都合な、有害無益の道具立てを多数起用しているが、氏の「失敗」の要因として、世上の俗説を参照して、わざわざ具合の悪いものを使い立てている。野次馬精神旺盛な通りすがりの視聴者の耳には、わかりやすく、馴染みやすいかもしれないが、間違い必至の「必敗」法を、またもや確認いただいているように見て取れる。(地図に出典を書かないのも、自嘲しているのだろうか)

 いや、古典的なコメディ技法としても、ちょっと目先を変えているだけで創造性が見えないと思う。折角だが、お付き合いしかねる。

 また、氏の現代日本語の語り口は、古来の先賢諸兄姉には、重訳無しでは伝わらないものと見えるし、まして、原編纂者陳寿は、「二千年後生の無教養な東夷」蕃人から悪罵を浴びせつけられていても、理解しようがない。そもそも、陳寿「三国志」魏志「倭人伝」は、漫談でも「演義」でもなく、別に「ぼけ」ているわけではないから、氏が「ツッコン」でも、すべりまくりであろう。

 氏の動画の背景には、先賢諸兄姉の新書、文庫が見えるが、これら著作を『論者の「支離滅裂」のともがら/共犯者』とされては、皆さん、大いに御不満と思うのである。

以上

新・私の本棚 笛木 亮三 季刊 邪馬台国142号「卑弥呼の遣使は景初二年か三年か」(1)補追 史料群批判 再掲

「その研究史と考察」 季刊 邪馬台国142号 投稿原稿 令和四年八月一日
私の見立て ★★★★☆ 丁寧な労作 ★☆☆☆☆ ただしゴミ資料追従の失策
2022/08/21, 09/05~06 2023/01/26, 08/30 2024/04/14

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

⑴「魏志倭人伝」の記述
 氏が総括された「研究史」の難点が、劈頭に露呈している。「主張の根拠」を丁寧、正確に明示するのは、笛木氏の美点であり、「主張の根拠」として採用された世上の諸説に、何かと行き届いていない点が見てとれるが、それは、氏が依拠した「倭人伝観」が、大きく傾いた「通説」の視点/視線の齎したものであり、これは、第三者でないと、率直に、つまり、不躾に指摘できないものと思うので、以下、僭越を承知で苦言を呈したものである。決して、個人的な批判ではないので、ご了解いただきたい。

 卑弥呼の遣使」は、一級史料たる倭人伝に記録されているから、とうの昔から、景初二年」と確定している。それが、出発点である。
 氏の信奉する景初三年「説」は、信頼性で劣る雑史料「ジャンク」を根拠としているようであるが、それら雑史料の史料批判/資格審査を残さず歴た上で、ようやく「説」として評価するに足るかどうかを審議できるのが、当然の手順である。事前の審査で好評を得て、審議に対して発言する資格を得ても、「倭人伝」を覆すには、さらに幾山河越えねばならないが、それは、提言者の務めである。

 「研究史」は、笛木氏が創唱、主導したのでなく、これまでの成り行きに氏に責めは帰せられないが、氏が、ほぼ無批判で、「研究史」を総括しようとされたのは勿体ない。また、季刊「邪馬台国」氏は、安本編集長の就任時の抱負では、掲載論文を査読するという意気込みが示されていたが、いつしか、ただの雑論文誌になったようである。

 要するに、「景初三年」説は、言わば土中の萌芽に過ぎず、未熟で、形を成さない異論の双葉になろうか、というものでしかないから、二者択一は、不当である。

 つまり、冒頭の「⑴「魏志倭人伝」の記述」は、論義の方向を誤っている。で、氏は、論拠として有力と見た史料を列挙されたが、前提が克服されていない。

 いや、そもそも、列挙資料の一端として、考証の原点となるべき「倭人伝」に、原本未確認の根拠なき予断を貼り付けていて、写本の際の誤写発生の多寡についての認識不足、考証不足とともに、氏にとって重大な学恩のあると推定される「いずれかの諸兄姉」に由来する、つまり、義理がからんだ不自由なもののようだが、深刻な「偏見」、「曲筆」、「妄説」に追従していると見えて、誠に勿体ない。当ブログ筆者は、素人、それも、完全自由な立場なので、言いたいことを言っているが、社会人が不自由であることは承知している。

 古来信頼されてきた誠実な著作物である「倭人伝」が「罪人」扱いで、不揃いな証人/容疑者と並べて、お白州/被告席に座らされてはたまらないのである。天下の正義は、どこにあるのか。正義の女神は、目隠しされているのだろうか。

⑵誤記はいつ生じたか
*資格審査/証人審査
 まずは、論拠とするに足る史料は、同時代、中国で史書として記事検証を歴たと思われる「史書」に限定すべきではないだろうか。また、後記したように、「史記」以来の断代史を総合して「通史」を編纂するという偉業を成し遂げた「通志」が参照されないのは、不思議である。
 以下、最低限の「判断と根拠」を明示しているが、当ブログ筆者は、別に何の報酬を承けてもいない、言わば、暇人のボランティアであるが、当然、なんでも勉強させて頂くわけではない。今回は、密かに私淑して来た笛木氏の労作であるから、あえて、口を挟んだのである。

 総括すると、「魏志」の原記事を推定するための証拠資料として、提出諸資料は、全て不適格と判断される。下世話な言い方で言うと、「顔を洗って、出直しなさい」ということである。

⑴「日本書紀」は、中国史書でないので、正史同等の信頼性を有さず、不適格である。
 「日本書紀」は、中国の権威ある査読者によって校訂された史料ではないから、ここに提示されるのは、不当である。この一点で、棄却され、それで退場である。
 あくまで、非公式の参考意見であるが、当該部分は、所定の校正を経た「書紀」本文でなく追補と見える。「書紀」原本で確認しない限り、「書紀」と同様の権威すら認めることができない。但し「書紀」原本は現存せず、「書紀」原本を読了した人物は生存していない。(苦笑)

 氏は示していないが、「書紀」の魏志「引用」は、史書で不法な「明帝景初三年」なる字句を放置していて、引用元が「適切な魏志写本でない」と判断される重大な錯誤のある引用資料の他の部分が正確との主張は、無効である。「不法」と言うのは、叱責どころでない、大罪であるからである。

⑵「翰苑」は、史書でないので、正史同等の信頼性を有さず、不適格である。
 既に以上の判断で当史料は棄却され、それで退場である。
 そもそも、提示されているのは、「翰苑」の有効な写本でなく、出所不明の断簡、つまり、断片、佚文であり、重ねて不適格である。
 同断間の該当部分は、広範な史料から雑多な引用を連ねた記事であり、僅かな区間に「重大な誤字」が二点確認されている以上、当写本は、適切な校正を怠った「ジャンク」と断定できる。(残る部分の惨憺たる状況は、ここでは論じない)(苦笑)
 わかりやすく言うと、冒頭に「魏志」でなく「禾鬼」めいた嘘字を書いているのが、書いたなりで継承されているのでも、同断簡の史料としてのお粗末さは、明らかである。当方は、該当部分の全体を確認しているので、此は、同写本の実態を示す適例と断言する。要するに、「ジャンク」であり、論外である。
 因みに、氏が図3で紹介されているのは、太宰府天満宮所蔵の国宝、「翰苑」断簡写本の影印のコピーのようであるが、氏は、これを「在来版本」と見ているのだろうか。何とも、暢気なものである。
 通常の史料批判では、別系統写本と比較校勘するものだが、本史料は「版本」が一切存在せず、「紹介部分以外にも大量に存在する重大な誤写が、残らず温存された原因は不詳」であるが、史料としての評価は明確である。(諸兄姉は、そのような「ジャンク」から、発見を重ねているようであるが、とんでもない迷走てある)(国宝と認められた美術品としての文化財価値は、ここでは論じない)

⑶「太平御覧」は、史書でないので、正史同等の信頼性を有さず、不適格である。
 本質的に、厳密な校正が施された「史書」でなく、緩やかな写本を繰り返した「類書」、つまり、権威ある専門店でなく、大盛りを売りにする雑貨屋/総合スーパーである。氏も、現行刊本の関係記事の「景初」年に両様があると認めていらっしゃるから、考証の根拠とできないのは自明と思われる。(証明不要)

*比較すべき資料
 素人目にも、「史書」資料として信頼できるのは、南宋初期、紹興年間の編纂と見える鄭樵「通志」と思われる。「景初」記事は、魏志の引用として書いてはいないので、「魏志」の原記事を推定するための証拠資料として、どのように評価するか腹をくくって頂く必要があるが、このような明白な資料候補を無視されるのは、不都合極まりないのではないかと思われる。氏の面目に関わると憶測されるので、ご一考頂きたいものである。

⑷「梁書」は、成立過程に重大な疑問が呈され、札付きの不良「正史」である。不適格である。
 南朝「梁」は、安定した治世の末期に大規模な内乱が発生し、反乱軍に帝都建康を長期包囲され、帝国が崩壊したから、公文書の正確な継承を信頼することができない。南朝は「北狄」の末裔である隋に滅ぼされ、南朝文書類は撲滅されたと見えるから、公文書の正確な継承を信頼することができない。そもそも、西晋崩壊時、漢魏晋代公文書の多くは散佚したと見え、重ね重ね、梁書「東夷」記事は、信用ならない。

 「梁書」は、天下を統一したと称する唐によって、積極的に南朝の非正統性を証する「正史」として編纂されたものであり、信頼することのできない内容であることは、衆知である。(食べると中毒するジャンクである)

 この一点で、棄却され、それで退場である。

 このような「正史」は、堂々たる「フィクション」であり、一部不見識な野次馬が言うような「ウソ」ではない。(野次馬が言う「ウソ」の意味は理解しがたいので憶測で反駁する)
 因みに、先行する劉宋の正史「宋書」は、直後の南齊、梁年間に、本職の史官が、梁末の破壊に先立って、東晋以来の建康に蓄積された南朝公文書を元に編纂したので「梁書」と異なる誠実な正史と見る。ただし、部分的な喪失記事があるように、南朝滅亡後の継承に難があったのは確実である。尊重しても、限定的な信頼とならざるを得ない。

 どちらが新しいの古いのと言うのは、史学者がもっとも避けるべき軽率の論義である。ご自愛頂きたい。

⑸「北史」は、粗忽に総括された史書であり、記事の正確さを問うべきではない。不適格である。
 対象とされる北朝諸国は、朝鮮半島三国との交渉はあったようであるが、北部の高句麗を除けば、影響力は限定されていて、東南部、嶺東の新羅との交渉は、更に限定され、まして、渡海の果ての「倭」とは、接触がなかったはずである。つまり、「北史」は、信頼できる「倭」伝を持っていないと見るべきである。
 従って、紹介記事は、陳寿「三国志」「魏志」の適確な引用でなく、北史編纂者の作文と推定するしかない。要するに、陳寿「三国志」「魏志」の原記事を推定するための証拠資料として、不適格である。(食べると中毒するジャンクである)
 この一点で、棄却され、それで退場である。

 どちらが新しいの古いのと言うのは、史学者がもっとも避けるべき軽率の論義である。ご自愛頂きたい。

⑹「通典」⑺「玉海」が紹介されるが、史書でなく不適格である。
 この一点で、棄却され、それで退場である。

 
「正史」は、本職の史官が、「史実」、つまり、国庫に収蔵された公文書記録」を、正確に後世に伝える使命を持って、身命を賭して書き遺したものであり、「正史」の子引き、孫引きの(いい加減な)資料とは、比較できないのである。

*告発不成立
 「倭人伝」の誤謬を告発する証左となるはずの証人/資料は、全員不適格で排除され、審理は不成立である。これは、本件に関する最終的裁断であり、此の際「無罪」と判定された以上、二度と告発されることはないのが鉄則である。

*史学の常道を怠る「通説」の決め込み~余談
 通説は、基本である史料考証を怠り、憶測によって「倭人伝」を非としたようだが、笛木氏であれば、本稿で論理的裁断を示していただけるものと期待したのであるが、実らなかったようである。
 常識として、正史「三国志」に異を唱えるには、匹敵する有力史料が不可欠である。司法手続きで言うと、審理の基本は、「推定無罪」であり、この原則を覆すに足ると証される客観的な証拠を示さないと、審理は棄却されるのである。

*「減縮」~取り敢えずの提言~余談
 不確かな「ジャンク」史料は、論義から排除、減縮すべきである。「ジャンク」は、何件積み上げようと「ジャンク」であり、数は力とばかり、素人並の料簡違いで「ジャンク」をずらずらと提示するのは、却って論者の不見識が露呈している。

 以下、「誤記はいつ生じたか」新たな「ジャンク」を唱え、引き続き、延々と、「ジャンク」に基づく憶測が延々と述べられるが、非科学的な推移である。出発点の選定に謬りがあり、初期進路選択に誤りがあれば、いかに、適確な考証を進めても、進路の成否を問えるものではない。
 ぜひ、原史料に立ち戻って、丁寧に審議して頂きたいものである。

 端的に言って、記事の「二」が「三」の謬り(ではないか)との「ジャンク」論に、研究者諸兄姉の多大な労力が浪費されたと見えるのは、勿体ないのである。

*大脱線~余談の余談
 今回のように、「研究史」として抜粋列記されると、強弁するために強調を重ねたこじつけと誤解が表面化するのである。それぞれ、生煮えの一説を、闇鍋に付け足したのに過ぎないのに、決定的、排他的な断言となっているのが、後世から見ると、むしろ、子供染みて見えるのである。いや、素人の「野次馬」発言をお詫びするが、この混沌は、古人の言う「烏鷺の争い」と見え、誰が、「漁父の利」を得ているのか、思い巡らすのである。
 各公的機関の研究者」が、公務の一貫として、そのような「攪乱工作」、「焦土作戦」、「清野の上策」に取り組んでいるとしたら、それは、大変困ったことである。

 いや、またまた脱線して、笛木氏に関係ない方向に踏み込んでしまった。陳謝陳謝。

                               未完

新・私の本棚 笛木 亮三 季刊 邪馬台国142号「卑弥呼の遣使は景初二年か三年か」(2) 結論批判 再掲

 「その研究史と考察」 投稿原稿 令和四年八月一日
 私の見立て ★★★★☆ 丁寧な労作の失墜  2022/09/06 2024/04/14

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。
 
〇竜頭蛇尾
 序章紹介に続いて、本稿は、結尾部分に移動する。
 氏は、延々と続く、迷い箸にも似た「煩悶」、つまり「研究史」考察の果てに、末尾で忽然と東夷伝序文に着目し、既に陳腐化、風化した解釈により「帯方郡収容」は公孫氏滅亡後と断定しているように見える。

 本稿読者には、頭から氷水を浴びる「サプライズ」、すなわち不愉快極まりない「ドッキリ」である。

*サイト記事の史料批判は、筆者批判
 氏の結尾は、某サイト主の一文に依拠しているが、同主は中国文を読解できないと自認し、翻訳文を根拠としているのだが、その過程で、原文の「又」を、『自己流の「さらに」と決め込んでいる』ので批判するのに困る。
 後述するように、漢文の「又」は、漢文において、さまざまなな意味を持っていて、どの意味を採用するか、苦心するのだが、同主は、そのような苦心に無頓着で、翻訳文に採用された日本語の「さらに」を、自身の解釈に採用するのだが、後述するように、陳寿「三国志」魏志の翻訳文で「さらに」と言うのは、日常語、現代語の「さらに」ではない。漢文の「又」を精密に投影しようとしているのであるから、安易な断定は、禁物なのである。
 このあたりの機微は、中國古典資料の飜訳に於いて、もっとも高度な配慮が必要なものである。つまり、日本語の用語は、時代によって、意味が変動しているのは当然であるが、さらに、使用されている文脈によって異同があるため、不連続な「意訳」を行うと、滑らかな訳文のように見えて、原文との連係が喪われるのである。
 「又」を「さらに」と置き換えたのは、その際に「又」の複数の意義が喪われないことから、誤解を誘う「意訳」に陥らないものとしたように見える。ただし、読者に、そのような慎重な解釋の素養がなければ、そのような配慮は水泡に帰して、単なる「意訳」に堕したと見られてしまうのである。

*至高の飜訳
 筑摩書房刊 正史「三国志」第一巻 魏書訳文は、端倪すべからざる翻訳者の畢生の偉業であり、中国古典書の飜訳であるから、現代人がすらすら読めるものでなく、適確な読解には、相当の「勉強」を求められる。同主は無頓着だが、引用された資料展開は、翻訳者に「誤解」の責めを負わせようとしているのであり、随分、論者として無責任であり、翻訳者に失礼と思われる。
 素人でも、史料解釈には、丁寧な解釈に最善を尽くすものではないかと、愚考する次第である。それは。飜訳の解釈の錯誤/誤解に及ぶのである。「勉強」は、夜更かしを強制しているのではない。二重、三重に模索して欲しいと言っているだけである。

*辞書確認
 権威のある国語辞典「辞海」を参照すると、「さらに」、「又」の項には、これらの言葉が、『それまでの事項(甲)を受け、「それとはべつに」と新たな事項(乙)に繋ぎ、「甲乙並記」と解釈する』ことが「できる」(排除されてはいない)と明確に示唆されていて、漢文の「又」の多様な語義を忠実に引き継いでいるとわかる筈である。

 同主は、日本語解釈が世人なみに不確実で思い込みが強い筈であるから、その「個性的な」見解が適正であるかどうか、論拠として採るかどうか、氏としては、慎重に「裏」を取る必要を示している。
 本件のように、両様の解釈が成り立ちうると判断される場合、一刀両断で断定せずに、両論を考慮するのが常識と見えるのである。いや、論者が誰であれ、論拠として依存すると決める前には、慎重な検証が必要なのである。

 笛木氏が、「引用された個性的な固執解釈を深く審議することなく、つまり、「辞海」などの国語辞書で追試することなく、断定的判断に追従した」のは、氏としては軽率である。
 少なくとも、本稿に於いて、「ここに到るまでに慎重に多数の諸兄姉の意見を審議した」のであるから、それらの思索を読者に辿らせておいて、ここに来てコロリと「どんでん返し」しては、貴稿の筋が通らないのではないかと危惧される。

 同書翻訳者は、「魏志」東夷伝が三世紀の中国人のために書かれたことに深く留意し、飜訳によって原文解釈が曲がらないように、心をこめて飜訳したのであるから、自身の限られた語感でなく、適切な辞書に従って解釈すべきである。

*後世史料観~余談
 また、別の要素として、「太平御覧」、「梁書」などの「後世資料」の「又」は、魏書の「又」と同義と断定的に解釈できないと見られるのである。要するに、資料の文脈を掘り下げて、その時代背景を考慮して、その真意を察するしか無いのである。陳寿「三国志」の編纂が、同時代でないにしろ、編纂時と時代的に接近し文化背景が維持されていたのと異なり、中原文化が破壊され南方に逃避した残党が、遂に北方の異民族の手で無理矢理復元された時代であるから、「後世資料」の「又」の用法が、陳寿「三国志」魏志の「又」の用法と、安易に同一視できないのは、むしろ当然と思われる。いや、場違いな感慨で失礼する。

*結論の試み
 以上で、魏志東夷伝記事の「又」の翻訳文の独自解釈に依拠して、「景初二年」解釈を決定的に排除することはできないことが理解できる筈である。世の中は、そんなに甘くないのである。

◯まとめ
 笛木氏には、是非とも、本稿の結尾を、御再考いただきたいのである。氏が、膨大な資料の慎重な審議を重ねて、この解釈に到着したのであれば、このような「どんでん返し」形式を避けて頂き、読者が安心して追従できる、着実な著作として頂きたいものである。

 因みに、「御再考頂きたい」とは、「御意見を変えて頂きたい」の趣旨であり、英語の"I would appreciate if you would kindly reconsider, Your Honor." とほぼ同義(敬語表現)である。事実上、「教育的指導」だが、深意を露骨に示さないのが礼儀というものと思うが、ここは、不躾にも「率直」に書いている。

 某サイト主は、とにかく頑冥で、思い込みに一途に固執し、他人の意見にとんと耳を貸さないので、笛木氏のご理解を願うしかないのである。

◯苦言
 氏が、十分な確認無しに、一サイト主の意見に飛びついたのは、各史料との苦闘に「鞠躬尽瘁」されたためと思える。
 不浄の可能性がある「ジャンク」史料を紹介しても、決して俎上に載せず、「清浄かつ精選」史料の核心の考察に集中されることをお勧めする。そうしていただければ、善良な読者は、荒海に灯台の明かりを見出す思いで、漸(ようや)く安堵できるのである。

                              以上

2024年4月13日 (土)

新・私の本棚 長野 正孝 古代史の謎は「鉄」で解ける  1/11 三訂

 『前方後円墳や「倭国大乱」の実像』 PHP新書 2015/10/30
私の見立て ★★☆☆☆ 傷だらけの野心作 2017/12/15 追記 2020/07/09 2022/06/21 2024/04/13

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

〇はじめに

 前書で、先頭からのダメ出しで力尽きたので、今回は冒頭と末尾で、集中的にダメ出しすることにしました。先ずは、冒頭部分で、著者の書きぶりと言葉遣いになじもうとしましたが、期待を裏切られて困りました。

*飛躍した進行
 通常、まずは、不吉にもタイトルで提示された『前方後円墳や「倭国大乱」』の解釈に触れて、読者自身の言葉遣いや歴史観になじませるものですが、それは端折られ、もやの中を引き回されている感じです。
 ついでながら、「実像」は誰かが見た外面であり、特に珍重すべきものでないと思います。「実像」を検証しようにも、墳墓の外観は見ることができても抽象概念である「倭国大乱」の外観は、「実像」も「虚像」も、どのようにしたら見ることができるのか不明です。空疎な大言壮語は控えたいものです。

*考古学の悪用
 また、これも珍しくありませんが、考古学上の編年を、自己流で西暦年代に結びつけ、以後、暦年で書くということのようです。それは、著者の都合であって学界の本意ではないのですが、考古学成果は、一部を援用するだけで、背景の考察不足にお構いなしです。かくして、不確定な根拠を読者に知らせずして、延々と独演会が展開されます。
 全書の方針を明示しているという点ではいさぎよいかも知れありませんが、自分の所見を押しつけると宣言されては、読者も困惑するのです。

*行方不明
 漢武帝の朝鮮侵攻談義で、自身の言葉で事態を語りつつ、司馬遷「史記」を援用しますが、語られている根拠が不明です。前提として、「西方の匈奴」と言いきっていますが、普通は北方です。九十度近く方位感覚がずれている乱文です。

*帆船綺譚
 「西域から匈奴排除の結果、西方交易が通じ帆船技術が入った」と言うために方位を曲げたようです。実際は、どこからの新技術なのか。通常、帆船は南海起源と見えます。少なくとも、小型の帆船は、格別の技術がなくても製造可能なので、南シナ海方面の温熱地帯では、軽量の小型の帆船が、南北に往来していたことでしょう。また、長江(揚子江)の淡水行路も、小型帆船を駆使していたはずです。確かに、大型の帆船を設計/製造するのに必要な技術が完成していなかったかも知れませんが、何が既存で何が新規東莱なのか、慎重に論証する必要があるはずなのに、 こうした自然な推定を、なぜ、頭から否定するのか不明です。
 また、中原には、海(うみ)がなく、河水(黄河)の水運は、頻発する氾濫の影響で限られていた時代に、なぜ、帆船技術が珍重されたか、意図不明です。「南船北馬」と言い慣わされているように、帆船が必要なのは、長江(揚子江)の話です。
 また、中国文明が、西域からの文物の恩恵を受けていたのは、商(殷)代に戦車の車輪に対する車幅(スポーク)技術導入の例もあって、別に目新しいものではありません。
 ついでに言うと、漢代の匈奴の猛威は、結構新しい現象で、秦代以前、北方と西方は、後に月氏と呼ばれた部族が栄えていて、匈奴は、下っ端にすぎなかったのです。匈奴の躍進で月氏が西方に駆逐されたのは、秦代かとも見えますが、漢武帝代の張騫の西方探索以前の西域事情は、はっきりしないのです。なぜ、氏が、そのような不確かな事情を独断で論じるのか、不明です。

 これほど異質な技術が、帆船を必要としない漢都長安に届いて、それが、瞬く間に山東に伝達され、現地に帆船造船が起こったと言う主張のようですが、せいぜい数名と思われる異国の技術者が多少の資料を持参したとは言え、言葉も働きぶりも異なる異境の地に、斬新な造船業を確立するのに、どれほどの期間がかかるのか、考慮していないようです。漢都長安は、海を遠く離れた陸封の池で、海船など想像もしたことのない人々の世界なのです。
 そして、山東半島は、春秋戦国の大国齊の故地であり、経済力から見て、齊の勢力が、自力で造船技術を導入したと見る方が、随分合理的です。あるいは、西域から到来した技術者は、長江流域で成長して流下し、後年の広東に花開いた造船技術が、北上したのかも知れません。
 そう考える方が、自然な成り行きと見えます。

 正直、帆船の造船技術が導入され、最初の一隻が進水するのに二十年程度、船台を並べて複数の帆船を並行して造船できるようになるのに、更に二十年程度と見て、最初の一隻で操船を修行したとしても、大挙水軍を進められるのには、大概四十年から五十年はかかると見られるのです。途中で、技術者も、治世者も代替わりしていることでしょう。そして、戦国時代、南海で、在来工法の帆船は、既に十分繁栄していたと見えるのです。そんな悠長なことではなく、とうの昔に定着していた技術と見えるのです。

 結論とすると、大規模な技術の移管/習得には、大変な時間/年数がかかるので、ずいぶん太古に帆船が到来していたはずです。また、それは、西域から中原を経ていたとは限らないのです。

                               未完

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 『前方後円墳や「倭国大乱」の実像』 PHP新書 2015/10/30
私の見立て ★★☆☆☆ 傷だらけの野心作 2017/12/15 追記 2020/07/09 2022/06/21 2024/04/13

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*時間要素
 時間要素は、当方の推定ですが複雑高度な新技術の定着には、人/技術者/船頭の育成が必須なので、大変な人数、年数がかかると見ます。造船業確立は、多様な材料をどこに求めるかに始まり安全航行までの技術を全て確立し、初めて、帆船艦隊で兵士、馬匹、物資を運搬できるのです。
 端的に言って、氏の提言は、不出来な画餅と思います。そのような画期的事項が、何の記録も遺さずに消え失せるものではないのです。

*武帝の心奥
 この部分で驚くのは、『「武帝は鉄を得るため侵攻した」と司馬遷は書いていない』なるトンデモ発言です。
 司馬遷は、武帝の底意を知っていたが書かなかったとは、とんでもない言いがかりです。書いたことを論評されるのならともかく、武帝の実力行使で意に反して削除された「武帝紀」を「サカナ」に、史官としての編纂姿勢を手ひどくこき下ろされては、たまったものではないのです。司馬遷「史記」の武帝紀は、後世人が、班固「漢書」から採り入れたものなのです。
 知らない強みで断言できたのでしょうが、何とも、無様な失言です。

*異例の人物描写
 事のついでに、著者の渾身の武帝像が描かれます。武帝は、前に机を置いて、はかりごとを巡らしたと言いますが、戦略参謀はいなかったのでしょうか。架空人格「武帝」の意見や欲望が描かれますが、根拠史料はあるのでしょうか。ないから、好き放題に言い立てるのは、読者を騙していることになります。
 武帝が、「勝っても領土も資源も得られない」匈奴との対決で、北方から西北方に広がる長大な戦線に大兵力と巨額の財を投じたことや匈奴に勝つために西方に駿馬を求めたことは、正史(班固「漢書」)で確認できますが、ここで著者の説くような趣旨で朝鮮侵攻を画策・実行したことは、示唆すらないように思います。まことに乱文の極みです。

 ちなみに、武帝以前、国家は、全国からの税収が巨額で、税として納入された大量の銅銭の保管に苦労していたほどですが、武帝治世の途中で税収が枯渇し、本来、皇帝の私財であった塩鉄専売の国庫移管などの財政改革を余儀なくされたのです。つまり、匈奴討伐のかなりの部分は、武帝の私財で賄われたと見えます。

*鉄資源の幻想
 著者は、「武帝が、半島鉄資源を絶大と判断した」と見ているようですが、朝鮮産鉄、説くに、最果てと言える弁辰の鉄山は、は、小規模にすぎず、武帝の関心外だったのです。実際、朝鮮各地に郡を置いたとの記事を真に受けるとして、各郡は、所領から必要な税収を得ることができず、郡太守の高額の粟(給与)を賄うのに苦しみ、まして、郡兵を維持することもできず、早々に、楽浪郡、玄菟郡の二郡に撤収したのです。何しろ、小白山地が障壁となって、後に「嶺東」と称された最後進地帯は、水田稲作技術の導入が遅れて荒地状態にとどまり、後年に到っても、産鉄の輸送経路として街道整備するくらいしか、管理体制の維持ができなかったので、辰韓斯羅国が興隆して大国新羅になるまで、荒地が、多く残っていたのです。
 はるか後世の陳寿「三国志」魏志韓伝は、当時、弁辰で「鉄が取れたので、周辺の民族集団がやって来て、鉄を持ち帰っていた。楽浪、帯方郡にも、鉄は届けられていた」と簡単に書くだけで、産鉄が大量に輸送されるような物々しい状態は、一切窺うことができないのです。つまり、帯方郡の財政を支えるのに、遥かに及ばないものだったので、郡は手を出さなかったのです。
 帯方郡は、当然の貢納として弁辰産鉄を受け取っていただけであり、郡の鉱山として管理はしていても、所詮は小事として、各集団の取り分は放置していたのです。早い話が、所定の産鉄を送り届けていれば、お下がりで鉄を持ち帰るのは、黙認していたのです。規制しようと思えば、官吏と郡兵を常駐させる必要があり、それは、とても、産鉄では賄いきれなかったのです。
 言うまでもないのですが、郡は、魏制で銅銭を流通していたので、鉄材を通貨扱いする必要はなかったのです。
 珍事「三国志」魏志東夷伝を的確に読み取れば、氏の醸し出す幻想の立ち入る余地はないのです。

*脳内世界の成り行き
 以上、著者の脳内に物々しい歴史ドラマが創作され、独自の世界が堅固に構築され、「脳内では脳内なりに主観的に辻褄が合っている」のでしょうが、史料にその根拠を求めても無駄でしょう。
 かくて、読者は著者の口説に翻弄されて、話の筋道を捉えられないまま、物語終章に倒れ込むのです。

                               未完

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*加筆再掲の弁
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*夢幻の余言
 事のついでに、「この戦争以降、中国は周辺諸国にとって常に侵略を行う恐ろしい国となり、それは現在のウイグルや南沙諸島でも続いています。」と書き飛ばしていますが、本書の論考と関係ないゴミで乱文です。「中国」にしたら、「日本」から言われたくないことでしょう。少なくとも、中国の大局観からすると、それぞれ実績のある所領の確保/回復であり、他国を侵略しているものではないと言うはずです。それが正しいかどうかと、押し問答するのは、古代史論議の圏外としたいものです。

 以来二千年間の「中国」は、時に統一王朝に支配され、時に、諸国分立し、時には、異民族が異なった世界観を持ち込み、一息に語れるものでなく、その時々の支配者がどう考えたか、著者の知ったことではないと思うのです。
 おそらく、巨大な超時代知性体と化した著者の脳内には、「中国」という一つの人格を持った「鬼」が棲息し、「恐ろしい」怪物と見えているのでしょうが、それは、読者の知ったことではないのです。
 この手のゴミ見解は、著者だけでなく、多くの「古代史」論者に共通の宿痾ですが、くれぐれも、世間に蔓延させないで欲しいものです。

*無法な紹介
 最後に、とどめを刺すように、「東アジアの古代鉄研究の第一人者である愛媛大学」の研究者が、肩書きも、学位も、参照先も示さないまま引き合いに出されていますが、これは、愛媛大学に対して非礼、非常識で、この部分の論考の締めとして無効です。とにかく、お粗末な乱文です。(注記はないし、巻末参照文献にも見当たらないように見えます)
 伝統ある国立大学である愛媛大学に対して「東アジアの古代鉄研究の第一人者」などと勝手に権威付けして、勝手に同意を求めていますが、そのような第一人者は、著者の幻想の産物です。

*陥穽連鎖
 以上のように、冒頭に近いこの部分に、著者の論考の問題点が軒並み露呈しています。これらは、躓き石などとしゃれのめせる程度ではなく、底なしの陥穽となっているようです。人によっては、取り返しの付かない、地雷並みの破壊力となるかも知れないのです。怖れるべきは、乱文です。

*一旦の結論
 本書は、新書であるからには、読者に罠を仕掛けるのではなく、地ならしした王道を用意して欲しいものです。
 特に、出版社で内容を吟味されて信用のおけるはずの商用出版物に、史料に根拠のない憶測・所見が横行しているのは、独学の参考資料として、まことに剣呑です。

 このような多数の問題点を持つ書籍であることを知った上で、以下読み進むかどうかは、読者の自由です。ここに書いているから、正統な論考とは言い切れない、との理解と言うか覚悟が必要です。

                               未完

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*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*読み飛ばしの弁
 途中の膨大な論述は、ここまでの「味見」からして、大勢として信頼できないものと見られるし、一々批判しては、諸兄姉の読書の楽しみを盗むので、路なき地帯は端折って末尾に飛びます。

◯掉尾の観察
 ここからは、原文と当方の意見を並記するので、どこがどうだめと見られたか見て取って頂ければ幸いです。

 言うまでもないでしょうが、以下のダメ出しの視点に権威がある訳でないし、商用出版物を排斥する論議でもないので、軽いものと考えていただければ幸いです。要は、当方のひけらかしのダシにしているのです。

八•九「邪馬臺国論争」――もう神学論争はやめよう
 小見出しが、意味不明です。「神学論争」の比喩の典拠が何であって、どうして、真剣な史学「論争」が、そこまで揶揄されるのか解き明かされないのです。これは、文章作法のイロハを知らない、ド素人の書き方です。乱文は、文章を書いて金を獲るものの業ではないのです。

「邪馬臺国はどこか?」。『日本書紀』には、卑弥呼を神功皇后に比定する記述が存在します。『日本書紀』の神功皇后摂政三九年の条に「是年、魏志にいわく、明帝の景初二年の六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わして、郡に詣りて、天子に詣らむ……」とあります。

 衆知の書紀記事を「誤引用」するのは、氏が、どういう意味を托した提言なのか、まことに理解困難です。信じられないという言葉通りです。書紀の記事は「明帝景初三年」と明記していて、それは『中国史書の原則を外れているので、原史料「倭人伝」の正確な引用ではない』と言うのが、学術的な判定なのです。著者は、それを知らないとしても、書紀を確認すれば、容易にわかることです。それでは、氏の書き付けた卑弥呼を神功皇后に比定する記述が存在します」『「……」とあります。』の発言が、全くの虚言と判断されてもしかたないところです。「虚言癖」と呼ばれないように、身を慎んで戴きたいものです。

 私見ですが、倭国遣使の帯方郡参上が景初二年六月」では、畿内説の根底が崩れるので、纏向遺跡擁護派の諸兄姉は、不確かな後世東夷資料を根拠に「倭人伝」原記事は景初三年であったと、懸命に言い立てているのです。
 いわば、「死んでも譲れない」不退転の砦と見える命がけの必争論点で誤引用とは、著者の権威も何もかも喪失です。

*盗まれた批判
 引き続く書紀記事の背景として、景初三年元旦に皇帝曹叡が夭逝して明帝と諡され、少帝曹芳(斉王)が当日直ちに即位し、但し、改元はその翌年年頭であり、その際、景初三年が「明帝景初三年」と呼ばれることは、絶対に無くなったのです。というとこで、景初四年となるはずだった「明年」が新帝曹芳の正始元年となったのです。確認すると、そのような必然の推移により、景初三年は、皇帝の冠の付けられないただの「景初三年」と表記されるのです。中国史書の規則で本来衆知なのですが、国内古代史論では閑却されているので、念のため、くどくどと書き留めたものです。
 よって、「明帝景初三年」は、先帝に対しても新帝に対しても不敬極まりないので、(中国)史官は、絶対書かないし、従って、陳寿も、「三国志」魏書に、絶対に書かないのです。従って、魏志引用で「明帝景初三年」とは、空耳ならぬ錯視です。
 つまり、書紀が「魏志云」と書いても、「明帝景初三年」記事は、疑問の余地なく魏志の正当な引用でなくて「今日風フェイク記事」であり、「史料としての書紀」不信の否定しがたい根拠です。
 それが、氏によって「明帝景初二年」と改訂/改竄されていては、ダメ出しができず、不満たらたらなのです。氏は、どんな権限/根拠があって、「書紀」を改竄しているのでしょうか。

                               未完

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*加筆再掲の弁
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◯掉尾の観察 承前
 この文章は明らかにトリックです。ここでわざわざ卑弥呼と書かないで「倭の女王」とし、「卑弥呼は神功皇后である」と宣言しています。

 いや、ここで壹與も「倭の女王」なので、改竄演出したのでしょう。書紀編纂者の苦肉策を察すべきです。
 「この文章」=「トリック」とは、時代・概念錯誤のダブルトリックです。カタカナ言葉では「フェイク」ですが、時代錯誤で意味の定着していないカタカナ語は、真剣な議論には避けたいものです。総じて乱文です。

 読者に理解されるのがそんなにいやなら、出版物にしなければ良いのです。

 舎人親王の邪馬臺国をヤマトにしたいという意図が見え透いています。

 書いたご当人には、目前に赤々と輝くイメージが見え透いているとしても、読者には何のことか理解できないのです。この語順では、舎人親王が邪馬臺国の男王」であったと読み取れます。明解に書く努力は怠るべきではないのです。また、一個人が、実在しなかった「邪馬臺国」を意図的に変身させるなど、とても、できないでしょう。かくなくとも、後世人が見透かせる「意図」とは、不可解です。

 卑弥呼は日本海ならば航海安全のシャーマン、ヤマトならば鏡の祈禱師でしょう。ですが、ヤマトの鏡の時代は一〇〇年ほどでブームは終わっています。

 古代に「ブーム」とは、時代錯誤で場違いで滑稽です。ヤマト(ここまでは、維持されている)の鏡の時代が、いつまでなのか、なぜ年代固定できるのか不明です。それにしても、卑弥呼=日本海とは、とんでもない乱文です。卑弥呼が化体すべき聖職も、根拠不明の妄想図と見えます。

 読者に理解されるのがそんなにいやなら、出版物にしなければ良いのです。

 そうしたことから見ても卑弥呼は、西日本の海洋都市国家の共通の利益である「鉄の安全輸送」に貢献した巫女(シャーマン)であると考えています。

 「そうしたこと」とは、対象不明であり、安易な括りです。『西日本の海洋都市国家の共通の利益である「鉄の安全輸送」に貢献』とは、ひと息で言えない巨大架空概念の積層錯綜ですが、氏の意図は、誰にも読み解けないと見えます。どうしてそう言わないと気が済まないのでしょうか。

 巫女(シャーマン)と、ここで言い換えたのは文意錯乱のもとで、不適切でしょう。卑弥呼は「シャーマン」など知らなかったから、勝手な枠はめで迷惑だし、輸送安全に「貢献」とは、供物を差し出した意味か、とにかく用語が混乱しています。つい先ほど、シャーマン=祈禱師と明記しているのを、コトンと失念されたようです。

 読者に理解されるのがそんなにいやなら、出版物にしなければ良いのです。

 天気と航海安全の祈禱、働いている場所は渡海すべき対馬海峡付近の日本海だったでしょう。その時代、航海安全の祈禱は国家事業です。

 卑弥呼は、現在形で、日本海の海の中で働いている巫女なのでしょうか。(玄界灘や対馬海峡は、日本海と言い切れないのですが、付近はどのあたりまでか)それにしても、「祈禱、働いている」場所とは錯乱です。

 読者に理解されるのがそんなにいやなら、出版物にしなければ良いのです。

 毎度のダメ出しですが、当時、「国家」はなかったのです。「渡海すべき」と言い切っていますが、なぜ、卑弥呼が渡海しなければならないのか不審です。総じて、結論部にしては、(冒頭から一貫して)大いに乱文です。

 読者に理解されるのがそんなにいやなら、出版物にしなければ良いのです。

                               未完

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◯掉尾の観察 承前
卑弥呼の時代の倭国の祈禱の広がりは、卜骨遺構、港湾遺跡を繫げることで説明できます。

 一人芝居の自己陶酔でなく、素人にも明快な説明をいただきたいのです。このあたりの主張を裏付け、時代を特定でき、明確な文字資料は皆無です。

朝鮮半島の伽耶、釜山から壱岐の原の辻遺跡、妻木晩田あたりまで卜骨があります。

 文型からは、壱岐の原の妻木晩田と読めますが、意味不明、初耳です。妻木晩田「遺跡」でないのはなぜか。「妻木晩田遺跡」は米子であり壱岐でないのです。「卜骨がある」とは、出土の意味か。意図不明です。遺物として出土したのは事実でしょうが。

丹後あたりまでの日本海沿岸の小さな都市国家の船が集まり、彼女の采配で対馬海峡を団体で安全航海をおこない、鉄を得たと考えます。

 なぜ、団体航海したのか不思議です。卑弥呼が、どうやって広範囲に采配を揮えたのか、物理的にも精神的にも不審です。結局、安全保証などないのです。
 そして、衆知の如く、對海~狗邪の渡海は、当時の船と漕ぎ手では、生やさしいものではないです。
 せめて、各国が集まりやすい壱岐の島で集合したとは言えないのでしょうか。

まず、卑弥呼の倭国は九州から日本海です。決して大和ではないのです。

 九州全島と日本海全体とは、法外な大国です。そして、なぜか大和にこだわるのが、不審です。

私がそう考える理由をさらに三つ述べます。第一に当時のアジアの世界情勢や『倭人伝』の内容を考えても、いわゆる「国家」はありませんでした。
 「アジア」と言って「東アジア」と言わない趣旨が不明ですですが、「東アジア」すら時代錯誤です。単に、
 ここに来て、「いわゆる「国家」」も意味不明で誤読と思うだけです。集落の集合は「国家」といえないのです。ムラと国家の違いは何か、都市国家、集落は国家か。「大きな国」の要件は何か。趣旨不明です。

点である弥生集落が全国に拡がっていますが、朝貢している卑弥呼の国は一握りに過ぎないのです。
国家を代表しているともいえないのです。

 「卑弥呼の国」は、卑弥呼の私物として、倭人伝の三十国でしょうか。「一握り」は五国程度でしょうか、国は国連のように数で数えて、大小は考慮しないのでしょうか。「点である」集落とは、何戸までを指して言うのでしょうか。「全国」は、どんな範囲なのでしょうか。

 「朝貢」は、天子に蛮夷が貢納することを言うのであり、ここでは、何が何に「朝貢」しているのかも、という要点すら、不明なのです。

 自説の論拠展開で、否定表現連発は、焦点が定まらず、論考として大変、大変、大変拙劣です

 読者に理解されるのがそんなにいやなら、出版物にしなければ良いのです。

                               未完

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陳寿が間違えて卑弥呼を女王と呼称したのです。松本清張もそう語っています。

 陳寿が何をどう間違えたのか不明です。性別の誤認なのでしょうか。陳寿は、帯方郡の遺した「史実」を書き取っただけであり、自身の創作として倭人伝を著述したわけではないのです。ちなみに、清張氏は、どの著書でどう語ったのか趣旨不明ですが、ここでの引き合いは、当人に不本意でしょう。気の毒なことです。

前作で「陳寿が、宗教家か対馬海峡横断の航海安全を祈禱する巫女を、倭国の『女王』と書いてしまった」と書いたところ、「卑弥呼を冒瀆している」という厳しい非難を受けた。

 氏の『前著』で、「陳寿の誤解を受け売りした」らしい氏の形容が非難されたとしたら、非難者は、単に、中国史書に対する教養が欠落していて、要するに、もの知らずで考えが足りないのです。でありながら、何の権威も示さずに「厳しい非難」をぶちまけるのは、貧しい品性を露呈しています。これは、匿名とは言え、いきなり呼び捨てで公開処刑です。

この人は卑弥呼が祭祀を今も守っているというのでしょうか。天照大神などと同一視しているのでしょうか?歴史と神話は分けて考える必要があります。

 氏の持ち出す反論は、とことん的外れです。卑弥呼は故人であり、現に「祭祀を今も守」る訳はないのです。
 古代人卑弥呼は、鬼道に事えた実在の普通人で神などではないから、「冒瀆」は的外れと言うべきでしょう。非難者が、史書の意味もわからず、自己の信奉する神に対する冒瀆と判断したら、当人の勝手でありとがめ立てはできないのですが、それをもとに同時多発テロなど起こされたら、善良な研究者はたまらないと思うのです。と言うことで、ほぼ否定表現づくしです。

第二の理由も、陳寿の間違いに関連します。前作でも触れたことで、『魏志』「倭人伝」に「陸行一月、水行十日」とあるが、九州から近畿まで、当時は歩いては行ける状態ではないのです。

 ここは、「第二に」ではないのでしょうか。(児戯です)
 陳寿の間違いと言いますが、氏は、陳寿「三国志」魏志倭人伝の道里/行程記事を、大きく誤解しています。「非難者」と同じ穴の狢であり、事は兄弟げんかと見えます。
⑴ 陳寿は、「倭人伝」を著述したのではなく、現地検証したのでもないのです。
⑵ 「倭人伝」の誤記か、著者の誤解か、趣旨不明です。
⑶ 「倭人伝」を「正確に」引用すると、「都(すべて)水行一日陸行一月」の所要期間を総括しているのであり、所要期間の対象は、帯方郡以来の全日数と自然に読むべきです。
 「九州から近畿まで」歩いては行けないとの断言でも、空は飛べないので寝泊まりして移動したでしょう。と言っても、「倭人伝」には、九州のことしか書いていないので、どんな根拠で「近畿」まで移動したと考えるのか、まことに不可解です。何か、夢でも見たのでしょうか。

山陽道は山ばかりの道なき森林地帯。

 三世紀に「山陽道」は時代錯誤です。一般論として、官道成立のはるか以前とは言え、人が往き来すれば、尾根道か沢道は常にできます。「街道」は未確立としてもです。もちろん、三世紀とは言え、海岸沿いに平地は多々あるはずです。ついでに言うと、山陰道はどうだったか、中央構造線沿いの四国中央道は、どうだったか。要するに、氏は、何も知らないのです。
 それにしても、ここで体言止めとは、乱文です。短気は損気です。

                               未完

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◯掉尾の観察 承前
宿や馬を準備した駅制がないとそれだけの距離の旅はできないのです。

 全くお説の通り。滅多に聞けない賢察であり、絶賛です。と褒めましたが、「それだけ」がどれだけなのか。宿舎なしに数日以上移動できないのは自明です。
 馬は、三世紀に輸送手段として普及していなかったようだし、どのみち蹄鉄(Horse shoe)なしの裸足では、駄馬は荷駄を背負って移動できないし、乗り馬も長旅できないから、馬がいてもいなくても大勢に影響ないのです。それとも、江戸時代のように、駅ごとに、馬に草鞋を履かせていたというのでしょうか。

しかし、山陰道は、沿岸を船で移動するので「水行一月、陸行十日」です。

 根拠不明の妄想と見えます。なぜ、山陰側は沿岸(すなわち陸上部)の道を行けるのに「山陽道」が山中なのは、なぜか。後世、街道ができたのではないのか。何が楽しくて、わざわざ道なき道を行くのか。不可解です。もちろん、山陰道と言っておいて、船に頼るのは、とんでもない勘違いでしょう。
 と言うものの、山陰沿岸の山陰道が、滑らかで通行容易だったはずはないのです。

間違いにすれば、すべて、条件が違ってくる。

 そりゃそうです。これまでの「神学論争」の大半は、これです。誰が何を根拠に間違いというのかです。
 自分の意見に合わせて、史料を撓めて、望みの形にするのは、神学論争でもままあるようです。

なお、本書で縷々説明したような理由で卑弥呼の特使難升米は当時の瀬戸内海は通れないし、通っていません。

 論拠の部分を飛ばして読んでいるのは申し訳けありませんが、お言葉通り説明されているとしても、「通れなければ通りようがないから通らない」のは自明です。行数稼ぎの冗語は、ご勘弁いただきたいのです。一貫航行できなかったとしてもそれが全てではないはずです。

つまり、邪馬臺国が近畿に存在すること自体が物理的に無理(不可能)なのです。

 「自体」とは、言っている意味がわからないのです。冗語ですか。
 「物理的に無理」と言いますが、物理法則に違反していない限り、無理に見えても、成せば為るのではないでしょうか。しばしば、「無理」を通して「道理」を克服するのが歴史ではないでしょうか。と言うようなつまらない反論が出ないように、普通の日本語で、「女王国は、近畿/畿内に存在した可能性はない。」とでも言ったら良いのでは無いでしょうか。要するに、北九州の伊都国から畿内まで二十日どころか、一ヵ月かけても、到達する手段がないのです。

 ある集団の存在というか生存は、自然の摂理に逆らっても、相当の期間、持続できるのです。つまり、この部分は「負け犬の遠吠え」と見られるだけです。

 と言うことで、この部分も、根拠不明の否定表現づくしです。

 ちなみに、難升米一行は、九州から出発して九州に帰還しているから、山陽道も山陰道も、全て関係ないと見る意見の方が、随分合理的であり、夢物語を捏ね上げる必要はないと見えます。それでは、本書が、空論になるので、認められないでしょうが、その程度の事情は、執筆に着手する前に解決しておくものでしょう。ここでは、難升米の属する「女王国」が、「近畿」にあった可能性は否定していないので、穏やかに受け入れられるものとみています。

                               未完

新・私の本棚 長野 正孝 古代史の謎は「鉄」で解ける  9/11 三訂

 『前方後円墳や「倭国大乱」の実像』 PHP新書 2015/10/30
私の見立て ★★☆☆☆ 傷だらけの野心作 2017/12/15 追記 2020/07/09 2022/06/21 2024/04/13

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯掉尾の観察 承前
三つ目は、邪馬臺国近畿説の有力な証拠とされる箸墓古墳がある大和古墳群の公設市場に、当時鉄は届いていません。

 この構文では、「第三に」でしょう。(児戯です)「邪馬臺国近畿説の有力な証拠」とは誰の視点か不明です。近畿説論者には迷惑かも知れませんが、肝心の古墳の学術調査が不備で憶測なので、有力な証拠は、皮肉でしょうか。

 因みに、大和(本書は、ヤマトのはず)古墳群の「公設市場」とは、用語の意味不明、かつ重層した時代錯誤で、困ったものです。古墳のてっぺんに、近畿圏住民には懐かしい、生鮮食品の鮮魚や野菜を近隣住民に売りさばく、賑やかな焼け跡商店街、きれいに言うと「ストリートショッピングモール」があったのでしょうか。
 市場、つまり、野菜、鮮魚、雑貨の販売店街が各地に「公設」されたのは、米軍の無差別空襲で市内全域がほぼ焼け野原になっていたため、食糧/雑貨の流通を支える「市場」を公費で建設し、維持したことを言うのです。ちなみに、「公設市場」以外に、多数の闇市があり、価格統制外だったので、高値で売買されていたのです。

 考古学の正統的な定見では、三世紀前半当時、先駆とされた箸墓は別儀として、後世のヤマト古墳群は、影も形も無かったはずです。箸墓が卑弥呼の墓所としたら、墳丘墓は「一切存在しなかった」ことになりますが、どう考えているのでしょうか。存在しない墳丘墓のてっぺんに、商店街を築くことなど誰にもできません。ついでの言うと、権力者の墓所の天辺に、不特定多数の庶民が立ち入ることなど、許されないと見るものでしょう。

 「当時届いていない」と断言しても、論証は不可能でしょう。届いたら記録が残るとしても、絶対ではないのです。地上で供用されていたら、すぐさま埋蔵されないのは常識です。

そして、ここ纏向の人々はこの時代、海洋民族の倭人ではなく渡来系の人々で、三世紀の大和と吉備を結ぶ航路も渡来系の人々が運営する航路でした。

 「この時代」の「ここ纏向の人々」の由来を言いますが、根拠不明。いつ、視点がヤマト東端の纏向に移ったのか、急変に眩暈がします。とは言え、山中の『「大和」と「吉備」を結ぶ航路』など、実現不可能な航路は運営しようがないのは、明らかです。

『前方後円墳の世界』で広瀬和雄氏も、「卑弥呼の墓に比定できる条件は考古学的には整っていない」という。

 広瀬氏の発言は、「何を」を欠いていて失礼な引用です。同様に「考古学的に整っていない」は乱文ですが、明らかに不正確な引用なので、文責不明です。「広瀬和雄氏」には失礼でしょうが、著書が適切に参照されていないと見え、学問的には、呼び捨て同然の扱いと見えます。

 いずれにしろ、古代史学の常識、鉄則として、年代明確な文献資料と年代明記のない考古学資料の時代合わせは土台無理と思います。「無理」で「道理」を曲げてはならないという事ではないでしょうか。
 きれいに言えば、それは、永遠の課題(不可能な使命)と思います。

 そして、著者はどちらの視点なのか不明です。

                                未完

新・私の本棚 長野 正孝 古代史の謎は「鉄」で解ける 10/11 三訂

 『前方後円墳や「倭国大乱」の実像』 PHP新書 2015/10/30
私の見立て ★★☆☆☆ 傷だらけの野心作 2017/12/15 追記 2020/07/09 2022/06/21 2024/04/13

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯掉尾の観察 承前
そして、海上輸送を考えても、前作で述べたが大和川を下って亀の瀬で船を乗り換え、古市あたりで外洋船に乗り換えるというのは難があり、とても洛陽に船団を送れるレベルではなかったと考えます。

 これは、広瀬氏の意見の引用の続きなのでしょうか。
 手短に言うと、「海上輸送」の概念が混乱しています。普通に解すれば、「海上輸送」は、海港で止まるのです。
 「古市あたり」は古墳群界隈の現存地名「古市」として、外洋船が支流に分かれていて、相当浅いはずの大和川を「古市」まで遡上できたとは、到底思えないのです。普通に考えると、精々、内陸河川を遡上できる、随分小振りの川船に積み替えての河川輸送と思われます。
 定説では、柏原辺りに船着き場があり、船荷の積み替えをしていたと確認されていますが、ここで、川船と外洋船を乗り換えるのが洛陽まで一貫航行の必須条件とは、途方も無い無謀な、無理な思い込みです。
 別に、ここで乗り換える必然性はなく、玄界灘と狗邪で乗り換えれば良いのです。もちろん、大抵は「あり合わせ」の航路を乗り繋いでいたはずです。
 ちなみに、当方の理解では、三世紀当時、瀬戸内海の東西航行は、不可能以外の何物でもなかったはずです。

*もったいない蛇足
日本の古代史研究は科学的でないのです。中国や韓国の歴史認識が正しいものとは到底言えありませんが、日本もおかしいのです。国際的にも歴史の客観性がより求められよう。

 貴重な託宣ですがわかっている人は、とうの昔からわかっているし、わかっていない人は聞き流すだけです。わかっていても採用できない人は、無視するので、ここで言ってもしょうがないので、字数、行数の無駄です。
 ちなみに、国内では、史学は文学部の管轄であり、安直に自然科学の手法は適用できないことが認識されています。中国や韓国の歴史認識を根拠不明の快刀で一刀両断した後、「日本もおかしい」とは、ずっこけます。卑俗な突っ込みで言えば、「おかしけりゃ笑え」です。
 大事なところですから、「日本の歴史認識も正しいものと言えない。」と字数を費やすべきです。それにしても、「歴史認識」と言い捨てにせず、具体的に述べなければ、誰一人貴見に同意も反対もできないのです。

 読者に理解されるのがそんなにいやなら、出版物にしなければ良いのです。

 いやはや、短気は損気、もったいない話です。そして、そのような壮大な断言が、本書が志した学問的な論証とどう関わるのか、不思議です。

五•五で前述した三島規裕氏は「今、全国の神社の大部分は過疎化の中で浮沈の瀬戸際にあります。今、何とかしないと神々の世界は大変になる。それには古き日本の神社に存在するコミュニティを救うことが活性化につながる」と語った。
私は、そのためには、文化庁や県がしっかりとした歴史観を持ち、中央史観の「ヤマトの古代史の収奪」という偏った現状を見直すとともに、国指定、県指定の文化財をあり方を再検討し、地方の歴史に光を当て予算を配分することが焦眉の急と考えます。古代の遺産が残る地方の神社、寺社仏閣で光るモノが見つかれば、地域のコミュニティの崩壊を食い止めるだけでなく、良い環境ができ、やがては観光振興にも役立つし、地元の日本型の伝統産業を支えることにもなろう。

 ご立派な大演説ですが、意気込みはともかく、言葉がよくわからないし、文章になっていないので、だからどうした、というのが典型的な受け止めではないでしょうか。例えば、文化庁は、国家の安定化に寄与する歴史観を維持しているはずであり、対して「県」(地方自治体の意味か)は、文化庁の指針に従って管内の歴史観の昂揚をしているのであって、それが、予算の配分に繋がっているものと感じます。中央史観の「ヤマトの古代史の収奪」という偏った現状』などと、意味不明の発言をぶち上げても、 世論の支持は得られないでしょう。

 国の統一性を重視すれば、「中央史観」の維持が至当であり、もちろん、諸説の信奉者は、自身の諸説を偏った史観、邪道とは、全然思っていないはずです。国を担う重責を負う官僚に対して、ここで著者の述べ立てる意見に説得力はないのです。相手を見て議論を組み立てるべきです。

 「焦眉の急」は、伝統的に切迫した危機を言うのですが、実際、焚火に近づいて、目に見えない高温の外炎で眉毛を焦がすのは珍しくないのですが、別にやけどするわけでないので痛くも何ともなく、もちろん命に別状はないのです。古めかしい例え話は、当世人に理解されない上に、的外れになっていては、徒労です。

 読者に理解されるのがそんなにいやなら、出版物にしなければ良いのです。

                                未完

新・私の本棚 長野 正孝 古代史の謎は「鉄」で解ける 11/11 三訂

 『前方後円墳や「倭国大乱」の実像』 PHP新書 2015/10/30
私の見立て ★★☆☆☆ 傷だらけの野心作 2017/12/15 追記 2020/07/09 2022/06/21 2024/04/13

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯もったいない蛇足 承前
 私見では、著者の言葉に倣うと、あちこちで「光るモノ」造作に励んでいると見えるのです。関係者全てが、「予算を配分」し続けて貰うために、つまり、生きるために、無理を承知で、自然に筆を「曲げて」いるのですから、口先できれい事を言っても、そのような事態は何一つ変わらないのです。
 つまり、これは、「歴史観」の問題ではないのです。関係官庁の官僚をはじめとして、関係者の家族や出入り業者も含めて、多くの人々の生活がかかっているのです。生存権は、奪ってはならないと思うのです。
 趣旨に共鳴して、手弁当のボランティアも多数いるはずであり、その志は、安易に誹れないのです。 

*説得の心構え
 当方の意見の蒸し返しになりますが、著者の新説に対して、意見の近い同志は好意的であっても、論敵は、はなから耳を貸さないので、支持者を増やしたかったら、まだ意見を固めていない人(無党派層)に理解、同意される言い方を工夫しなければならないのではないでしょうか。今のように、呪文を連ねたような乱文では、よほど寛容な人以外は、そもそも受け入れてくれないでしょう。
 理解、同意は、その場のウケでなく、心底考え方を併せてくれることを言うものです。

 手短に言うと、商業出版する著書は、観客と想定した読者に訴える場であって、仮想敵をなじったり揶揄したりしては、観客が興ざめしてぞろぞろと引いてしまいます。もったいない話です。一部にウケたとしても、本書のような粗雑な論拠提示と意見表明は、適正な批判を受ければ吹き飛んでしまい、後に残るのは著者に対する不信です。

◯最後に
 読み飛ばした中間部は、著者の渾身の労作と思いますが、冒頭と末尾を抜き読みして、「著者の筆力が拙いもので不正確な点が多く、虚勢に終始している」と見抜かれては、結局、敬遠されて、核心を読んでもらえないのです。
 著者の今後のために、是非とも、未熟な/誤った論議をむき出しにばらまくのを避けるように、自戒いただきたいものです。

*「鉄」の正体
 蛇足ですが、「鉄」と簡単に言っても、鋳鉄と鋼の「鉄」は別物であり、掲題は、やや無造作なので、早々に改題すべきでしょう。

*素人書評の弁
 蒸し返しになりますが、以上の批判記事は、論拠を明らかにするために、あえて自明の事情まで言い募ったものですが、何の権威にも基づかない私見であり、この私見は、著者を含めた論者の意見を排斥しようとしている排他的なものではないことを、ご了解頂きたいのです。

                                以上

2024年4月12日 (金)

新・私の本棚 番外 大阪府立弥生文化博物館 講演会の味わうべき弥生時代観 再掲

                     2019/07/06 再掲 2024/04/12
*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

 今回の題材は、毎日新聞大阪夕刊「夕刊ワイド」面の囲み記事である。

 大見出しに 異口同音「邪馬台国は畿内」とあって、何のことかとみたが、話題は、大阪府立弥生文化博物館(以下、弥生博)の館長代替わりの機会に、新旧館長が語り合う講演会が開かれたとの報道であった。

 失礼を承知で言うと、弥生博は、在阪であることから、当然、地域文化としての「畿内説」の支持者であり、館長はその「首長」であるから、これまた当然、畿内説支持以外の発言はあり得ないのである。
 さらに失礼を覚悟で言うと、古来、報道は、新規性のあるものを報道するのであり、いわば「犬が人をかんだ」のは、ニュースにならないのではなかったか。これほど、見出しの役に立たない見出しも珍しいのではないか。いや、これは、毎日新聞の落ち度であって、両館長及び弥生博には、一分の否もないのである。

 いやなことを先に言ったので、後は、真剣に両館長の発言を確認させていただく。

 新館長のお話として、弥生時代終末期の三世紀には、「初期国家」と呼べる要素が揃い始める、と大変慎重に言葉を選んでいて、弥生博としては、三世紀は「初期国家」の萌芽期と見ることもできる程度と限定していることがわかる。

 前館長(現名誉館長)は、七世紀から八世紀にかけて(堂々たる)古代国家の完成が見られるものの、そこから四,五世紀遡る三世紀は、まだ、国家として随分未熟な時代であり、国家形成の初期段階という確信は持てないのではないかと、これまた限定的な意見が窺える。

 両館長の見解表明が、慎重で、無用な断言を避けているのは、史学者としてまことに廉直な姿勢を示したものであり、大いに学ぶべきである。

 毎日新聞記者は、ジャーナリストの務めと感じてか、邪馬台国の所在地について見解を求めているが、公式見解しか出てこないのは明らかであるから、毎日新聞記者に似つかわしい、賢い質問とは言えないこれでは、まるで三流ジャーナリスト並である。それにしても、館長が、リハーサルでもしたのか「声をそろえた」というのは、まことに涙ぐましいものがある。そこまでさせて報道するとは、新聞記者は残酷なものである

 新館長は、纏向遺跡について、慎重に言葉を選んで、弥生博の受け持ちとして弥生時代中期から後期にかけての畿内社会について調査研究していくと述べている。まことに、慎重である。また、記事の末尾で、新館長は、新しい切り口で研究を進めると語られている。府民税納税者としては、頼もしい限りである。

 一読者としては、毎日新聞記者が、自身が使命感を持って担いでいる(風化に曝されてレジェンド化しかけている)畿内説を洗い直す/検証する活動を期待したいものである。そうなれば、わくわくするような見出しが期待できるのである。

以上

新・私の本棚 上発知 たかお 『混迷・迷走「邪馬壹国」比定地論争の真実』 1/2 追記

魏志倭人伝の女王卑彌呼の居場所は100パーセント宮崎平野にあった
 アマゾンKindle B071DYB11Q 2017年5月 第一版 2021/03/20
私の見立て ★★★★☆ 健全な視点、但し未熟成    2021/03/20 追記 2021/07/24 2024/03/31, 04/12

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。


〇はじめに
 諸所に、同意したい見解が多数提示されていて、同感、同感とうなずきかけて、すぐ、意見の転進(迷走などではない)を見て首を傾げたものです。

〇足りない点~先行諸説の克服
 参考文献に、古田武彦氏と安本美典氏の著書が見られません。文中で、「邪馬台国はなかった」と書いているという所を見ると、この部分は、誰か(不注意な人の)受け売りかと思われます。それでは、「論争の真実」を偽っていることになります。御自分で何と題したか忘れているのだったら、ここで顔を洗ってください。「近年」も奇っ怪。
 つまり、新説は、有力な先行諸説を理解した上で、無意味だと既に排除されている「脇道」を取る際には、念入りの検証が必要ということです。率先して「混迷」「混迷」を自演されては、付き合いきれないので、本書の大部分の考察は、一瞥しただけでお蔵入りです。折角、健全な始発点を選んでいるのに、勿体ないことです。

 古田氏は「短里説」創唱者と書かれていますが、それは不正確だし扱いが不適切です。氏は、「里程記事」解釈を通して邪馬壹国博多説を唱えています。氏の短里説を論ずるなら氏の所在地説を乗り越えねばならないのです。

 因みに、「短里説」は、随分以前から説かれていましたが、確たる論説になったのは、藤井滋氏の書であり、それは、郡から狗邪韓国まで([郡狗]という)を七千里とするなら、そこから渡海三千里を経た末羅国は、郡から一万里であり、「倭」は末羅国から二千里、つまり、郡狗道里の七分の二の辺りに存在するという明確な説であり、自ずと、ある範囲が想定できます。(藤井滋「『魏志』倭人伝の科学」『東アジアの古代文化』1983年春号
 「短里説」を広く紹介したのは、まずは安本美典氏であり、氏は朝倉説です。この提言に対し、正史である魏志に書かれているその道里は、『魏朝明帝曹叡により秦始皇帝施行の「普通里」(450㍍程度)が廃され、「魏朝里」(75㍍程度)が魏制とされた』との判断が古田氏創唱の「魏晋朝短里」説です。
 一方、安本氏は、そのような国家制度は無かったとしています。

 氏が、両説のいずれに組みするにしても、長年論議されている「短里説」に関する認識不足は、氏の浅読みを思わせて信用をなくしているのです。私見ですが、氏の判断は、それぞれの提言の原文に触れず、諸賢の評価にも触れず、細部の確認がいい加減なために、あやふやで人騒がせな「思い違い」と見られているのです。

〇奇妙な「東治県」談義
 また、何気なく「東治県」などと混乱していますが、未だかって、「会稽郡」「東治県」が存在したことはありません。
 世間で議論されているのは、倭人伝の「会稽東治」が「会稽東冶」の誤記であり、これは「会稽省東治郡」ならぬ「会稽郡東冶県」の誤断でないか、などの論議であり、これを無視して、勝手読みしているのは、軽率、不明で、妙薬のない深刻な病患です。

〇今さらの後漢書批判
 笵曄「後漢書」史料批判、史料素性調べ不足で、倭条記事解釈に深刻な錯誤があります。
 笵曄は、後漢の歴史史料、つまり、国家文書に基づき光武帝本紀の倭の記事を書きましたが、他の有力後漢史書、袁宏「後漢紀」にも、同主旨の本紀記事があり、「倭人伝」にも裏付け記事があるから、この笵曄「後漢書」倭条記事は信頼できると言えます。

 但し、氏が引用している倭に関する地理的な記事には、笵曄「後漢書」光武帝本紀に裏付けがないのです。つまり、倭が参上した公式記録がない以上、史官視点では風聞、憶測に基づく創作です。そのような風聞史料を論考の基礎に置くのは失当です。

 いずれにしろ。曄「後漢書」は、後漢朝公式史料を根拠に書かねばならないのですから、当然、魏志「倭人伝」は時代違いで利用できないのです。

 楽浪郡の檄が、その国を去ること萬二千里と書いているのに、後漢書倭条の冒頭で楽浪郡に触れていないのは、冒頭記事時点では、東夷倭の管轄は、楽浪郡郡でなかったことを示しているようにも見えます。

                                未完

新・私の本棚 上発知 たかお 『混迷・迷走「邪馬壹国」比定地論争の真実』 2/2 追記

 魏志倭人伝の女王卑彌呼の居場所は100パーセント宮崎平野にあった
 アマゾンKindle B071DYB11Q 2017年5月 第一版 2021/03/20
私の見立て ★★★★☆ 健全な視点、但し未熟成    2021/03/20 追記 2021/07/24 2024/04/12

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

〇笵曄「後漢書」誤読批判
 丁寧に言うと、笵曄「後漢書」には、倭の女王之所、つまり、王城への道里は、曹魏雒陽には公式記録がないため、最後まで皆目わかっていないので、「郡治を起点として何里」と書けないのです。ということは、ここで言う「去」一万二千里は、当然、倭国からの道里を想定していますが、所在不明では「明確」に認識できたはずがないのです。倭は韓の東南にあるというのは、光武帝時、洛陽から見て、韓の(東)南にある(らしい)と言うことしかできなかったのです。
 して見ると、倭奴国王が金印を賜ったという東夷列伝記事も、「本紀」記事でない以上、そして、袁宏「後漢紀」に書かれていない以上、根拠の無い推測になってしまいます。

*「金」と「黄金」~余談挿入
 金印は、客(野蛮人)への下賜物として定番でも、黄金印なのか金(青銅)印なのか、判然としないのです。何しろ、古代人にとって、金印は粘土細工みたいに手軽ですが、青銅鋳物の設備では、高温が必要な黄金を溶かせないし、溶かした黄金を受け入れる鋳型も、そのままで受け付けるのかどうか、良いのかどうか不明です。いや、余談でした。

閑話休題 
 因みに、笵曄「後漢書」の扱う事のできる時代は、精々、曹操が没して曹丕が継承し、後漢献帝から天下を譲り受けた時点までですので、少なくとも、「倭人伝」記事を、「パクる」わけにはいかないのです。范曄が、後漢代の東夷列伝を史料として確保していれば、東夷の新参者である「倭」が後漢朝に対して提出した国書なり、自己申告が確保されているはずであり、それを引用すれば、堂々と、明確に倭伝/倭条を書き出すことができるのです。そうしなかったということは、笵曄は、東夷伝で語るべき後漢代末期の「倭」資料を一切持っていなかったことになります。

 因みに、この時代、遼東に割拠していた公孫氏が、「東夷と後漢朝の間に入って連絡を遮断していた」ので、後漢献帝の手元には、何の資料も入らなかったということです。笵曄は、どんな根拠があって倭伝/倭条を書いたのでしょうか。まさか、魏のことを書いたと決まっている魚豢「魏略」の記事を切り貼りしたというのでしょうか。もっとも、後漢霊帝の没後、暴漢董卓が簒奪して、帝国行政機関の一部を長安に移したため、公孫氏としても、何所に管轄部門があるか不確定てあったから、報告しようがなかったと言えます、。そのような異常事態は、曹魏武帝と追贈された曹操が、本拠地許昌に、さすらいの皇帝献帝劉協を迎え入れ、雒陽に残存していた帝国政府の一歩と長安で形骸化していた一部とを受入、帝国の面目を整えたから、公孫氏も、嫡子を献帝のもとに送り込み、自身も、後漢朝の辺境を担う郡太守として、大人しくして見せていたのですが、別に、後漢皇帝から、俸給/粟を戴いていたものでもなく、「燕王」として治まっていたとみるのが、真相に近いようです。

 このあたり、氏の誤解が氏を誤導しています。「致命傷」などの言い方をしなくても断定していることは伝わります。勘違いを怒鳴って恥の上塗りです。

〇范曄冤罪批判
 但し、笵曄「後漢書」編纂に際して、范曄が時代錯誤の魏代記事を盗用したとの冤罪は、大変な侮辱であり、いくら、当人が反論しないからと言って、そのように歴史上の偉人を見くびるものではないのです。告発には、証拠が必要です。前段に書いたのは、あくまで、疑惑止まりであって、決定的な告発ではありません。
 要するに、笵曄「後漢書」記事は、史料自体の視点でよくよく吟味しなければならないのです。

 倭人伝」冒頭の里程記事が魏使の紀行記事(だけ)を元にしたとは、二千年後生の無教養な東夷である現代読者に普通の誤解ですから、氏の個人的過失ではないのですが、ここに公開する以上、子供が書いているのではないのですから、本当に正しいのか、という反問は必要だったのではないでしょうか。

 以下、引くに引けない強攻になるのですが、魏使派遣前後の現地報告が諸所に混入していると言う程度なら、もっと慎重な断罪ができると思います。少なくとも、タイトルに「百㌫」などと、恥さらしな言い分を書くことは無かったはずです。笵曄は、東夷蕃人に盗用と容易にわかる書き方はしていないのです。
 二千年過去の史料が、どの程度正確かすら不確かなのに、二千年後生の無教養な東夷である 後世人の勘違いだらけの僭越な解釈で、「百㌫」正確に読み取れる可能性は皆無(ゼロ)です。

 氏の口ぶりで言うと「皆無」でなく「零㌫」なのでしょうが、当時存在しなかった言葉遣いでは意味が通じず、間違い積層のあげく正確な見解に到達することも「ぜったいありえない」わけではないのでそう言わないのです。

 いや、氏の著書は、世上にたむろしている勝手な論説の山では、健全な史料観を元にした「異色作」でも、諸所に誤解と見過ごしが、やたらと散在し、さながら、躓き石が一面に散らばる散歩道では、普通の人は歩き続けることはできないのです。受けるのは、氏の好む「致命傷」などではなく、擦り傷と打ち身だけですが、不慣れな読者だと、全て真に受けて大きく転倒し、大腿骨や骨盤を骨折する可能性が否定できないので、ここに具体的な批判を書き続けているのです。

 以上、一般的でない事項は、丁寧に根拠を示していますが、基本的に、諸資料に書かれていることは、節約しています。どう勘違いし、言い間違いしたか理解いただいた上で、改善いただければ、ゴミ箱直行は避けられます。

〇最後に
 世上の「所在説」論者の大半(ほとんど全員)は、「所在地を言い立てるために諸論を誂える」ので史料解釈の是正など「ご意見無用」ですが、氏はどうでしょうか。「耳、日曜」でしょうか。氏の場合、論議の前提を修正しても、所在地は健在かも知れません。

 氏は、論考の最後で、一世風靡の「纏向」説に冷静な批評を加えていて、同感に加えて痛快なのですが、氏が起用された諸史料ないしは資料は、大抵、原文に纏向風の上塗り/味付け/トッピングを施しているので、安易に信用しない方が良いのです。

 氏だけがどうこう言うことではないのですが、中国史書である魏志「倭人伝」や後漢書「倭伝」(倭条))を論じるには、中国史書の文字や言葉に通じた論者の意見を聞くべきであり、生かじりの翻訳に頼るべきではないのです。まして、勝手に、自己流の「所在地」にあうように書き換えた自己流改竄資料に頼っては、中国史書の解釈ではなくなるのです。
 まして、学術的な翻訳文は、日常会話の言葉遣いとは大きく異なるので、現代日本人が、とんでもない誤解をしていることもあるのです。桑原、桑原。

 ぜひとも、心ある読者諸氏は、現代語離れ改竄離れすることをお勧めします。

                                以上

2024年4月11日 (木)

今日の躓き石 毎日新聞の暴言 「リベンジに燃える」JABA日立市長杯に暗雲

                    2024/04/11
 本日の題材は、毎日新聞大阪14版スポーツ面 [JABA社会人野球]「JABA日立市長杯」展望の署名入り記事である。

 「NTT東日本」は、言わば分別のある熟成されたチームの筈だが、昨社会人野球の二大大会(出場?)を逃がした(予選落ちした?)とかで、「リベンジに燃える」と汚名を着せられている。歴史のあるチームだから、試合の勝ち負け、特に敗北は、ぐっと呑み込んで挑み続けている筈であり、記者が言うように負けた相手に対する恨みを高言して恥を曝しているとは思えない。これは、担当記者の失言/暴言と見ている。間違っていたら、ご容赦頂けない。
 仮に、社会人野球の名門チームが、本大会の頂点で続けて苦杯を喫したとしたら、再戦での勝利を目指して闘志を燃やすのは言うまでもないことと思うが、名門チームが「本大会出場を逸したことで復讐に燃える」とは、何とも、志(こころざし)が貧しいと思うのである。
 担当記者なら、名門チームの顔に泥を塗るような記事は書かないのではないか。

 当ブログでは、「リベンジ」なる忌まわしい暴言が撲滅されることを願って、徒労に近い投稿を重ねているのだが、特に、「野球界に悪疫の種が潜んでいる」ことを歎いているのである。そして、報道陣が好んで「リベンジ」を煽るのが、最近、漸く、影を潜めているとみて、安心していたのである。今回の記事も、未熟な記者の手落ちと思うのだが、くれぐれも、先輩諸公の的確な指導を望むものである。

 全国紙の紙面から姿を消しても、高校野球の指導者に「リベンジ依存症」が跋扈していると、その発言が選手の意識に刻み込まれ、長じて、社会人野球やプロ野球の選手となったときに、世に出てしまうと思われる。本当は、指導者の意識改革が必要なのだが、それは、当ブログ筆者如きが何を言っても、聞く耳を持たないとみるのである。そこで、せめて、全国紙の担当記者が、そのような罰当たりなことばが、紙面に出てこないように芽を摘んでほしいと思うのである。

 ちなみに、当方の「摘発」は、公共放送と全国誌の巨峰である毎日新聞に限っているが、それぞれ、同業他社に対して指導できる立場にあると思うので、念入りに御願いしているのである。

以上

2024年4月10日 (水)

新・私の本棚 瀧音 能之 邪馬台国論争の現在地 歴史人10 1/3 再掲

OCT 2023  「日本の古代史が変わる!?」 ABC アーク
私の見立て★★☆☆☆ ひび割れた骨董品 学問劣化に警鐘か 2023/09/25 2024/04/10

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

〇はじめに
 速攻すると、瀧音能之氏は、本誌が委嘱する以上、「殿堂」物の権威ある古代史論者だろうが、「日本の古代史が変わる」雑誌で今どきの熱々の学説を語るのはお門違いではないだろうか。文字史料解釈に疎いのは困る。つまり、専門外の史料解釈をどなたから聞いて受け売りしているのか分からないが、ちゃんと裏付けを取る義務があると思うのである。

▢邪馬台国論争の現在地
 冒頭で「骨董品」と絶賛し、ヒビを埋め戻しているが、当評言は、ピアノ界不世出の巨匠ウラジミール・ホロヴィッツ最晩年の来日公演に呈された苦言であり、趣旨を酌み取って欲しいものである。

*数値化無き図形化の怪
 今回創出かどうかは分からないが、編集部制作年表は、研究史を縦書き表であり、表全体が右から左に流れるのは、現代風に見ると、奇観というか、むしろ、古文書の流れに即していて適切か。
 さらに奇観は、「畿内vs九州勢力グラフ」なる波打つ色分けが、どんな統計数値からグラフ化したか不明である。中央線の位置付けも神がかり、鬼道か。なぜ、こんなものに金を払わないといけないのかいや、「歴史人」誌は、世評の信頼の篤い媒体なので、編集部の手際に対して採点が辛いのである。他意はない。

 それにしても、段末の「近年は畿内説の支持が多い」とは、誠にいい加減である。「近年」とは、いつ頃からのことなのか、「支持」とは、支持者の頭数か、質量か、筋力か。「多い」とは単純多数か、何と比較したか。非論理的非科学的である。まして、「畿内説が優勢」とは、誰が誰に「惑わ」されたのか。全国各地で「街角千人インタビュー」でもしたのだろうか。
 
▢所在地論争の元凶!? 曖昧な記述も多い1級史料を読み解く
中国史書が描く「邪馬台国はこんな国」
[最新の定説はこれだ!]
*戦国時代だった倭国大乱の後30の国が集まる邪馬台国連合に
 氏は、班固「漢書」地理志から始めて、笵曄「後漢書」東夷伝の後漢初期記事に続いて「倭国大乱」の文字を取り出し「列島戦国」時代としている。
 当時、列島全体が、戦国時代の群雄割拠という記事は、後漢書にも「魏志倭人伝」にもない。単に、57,107年に代表者が遣使したのに、以後、百年にわたり定期的参上を怠ったのは、王(主)が無かったからである。笵曄は、美文愛好誇張趣味で、同時代人には読みやすいが、それを額面通り受け止めるのは「楽天的」に過ぎる。
 そのあとに、初めて格上の一級史料「魏志倭人伝」紹介で、「倭が互いに争い数千人が殺されたとある」とは、史料に根拠が無く、世間の野次馬から、錯乱されたのかと批判を招くように見える。

 関連記事は、以下二件であり、氏の根拠は不明である。氏自身が自覚しているように、「倭人伝」なる高度な教養を要求される文書に対して、氏の古代中国語文書理解力が「妖しい」のに「曖昧な記述も多い」とは困ったものである。「多い」とは、どの程度の数、分量、位置付けを言うのだろうか。「曖昧」とは、誰の意見なのだろうか。とにかく、「風評」、「臆測」が出回るのは、なぜだろうか。
1 其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子爲王。名曰卑彌呼。(笵曄[後漢書]倭条:倭國大亂,更相攻伐,歷年無主)
2 卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人。更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與、年十三爲王、國中遂定。
 複数の国主が妥協して卑弥呼を王に立て、国々が収まったのは1の後か。その結果、「邪馬台国連合」ができたとは奇態で、根拠不明である。因みに、当時の中国の辞書に「連合」はないから、定義無しに持ち込んでは、「時代錯誤」と言われかねないのである。
 ちなみに、一度敵対した諸国が「連合」を締盟したと仮定すると、そのためには、「全代表者が集いて血書連判/誓約する必要がある」が、互いに言葉が通じたとしても、互いに通じる文字が無く、互いに通じる共通「法」のない状態で、どのようにして「連合」できたのかねまことに不可解である。
 因みに、主要な国以外は、国に王なる代表者がいない政体であり、国主なる代表者を戴いているだけだから、国主が交替した後、代表者の盟約がどの程度有効なのか不明であるし、当座の代表者が結盟しても、構成国が代替わりした後も締盟が有効かどうか、誰も責任を持てない。そんな約束/盟約など無意味ではないか。余程の確証がない限り、そのような「思いつき」は、学術的に支持されないと見るものである。

 氏は、以上のように、どなたかが後世の歴史資料から拾い集めた概念を捏ね上げて「倭人伝」解釈に塗りたくっているように見受けられるが、どの項目を取っても、何の根拠も示されていないので、これでは、氏の憶測/個人的な感想を書き付けたものとなるのである。

                                未完

新・私の本棚 瀧音 能之 邪馬台国論争の現在地 歴史人10 2/3 再掲

OCT 2023  「日本の古代史が変わる!?」 ABC アーク
私の見立て★★☆☆☆ ひび割れた骨董品 学問劣化に警鐘か 2023/09/25 2024/04/10

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*「魏志」倭人伝に記載された不明瞭な邪馬台国の位置
 氏は、楽天的に、「邪馬台国」の位置と言うが、学問的に主張するには、「魏志倭人伝」に「邪馬台国」はなかった』と言う史実を、まず克服すべきである。重大な怠慢である。依拠している史料に一切記載されていない記事があいまいだと批判するのは、自爆/自嘲に過ぎない。
 ことのついでに、帯方郡を「植民地」と決め付けるが、魏は帯方に屯田していない。途方も無い虚言と見える。
 韓諸国は、概して山地が多く寒冷で水田稲作に適さない土地であるから、取り立てられる穀物は乏しいのである。また、貴石、宝石、玉などが出たとも書いていない。何かの勘違いであろう。
 帯方郡から行程諸国までの距離・方角などが見られるとは、深刻な勘違いである。書かれているのは各国経由して目的地までの行程である。

 「倭人伝」を勝手に解釈した上で、『「記載通り」に追っていくと一路南下』と解しているが、誰の「解釈」に追従しているのか知らないが、それで明らかな不合理が露呈するなら『そのような「解釈」が不正確/誤謬である』という証左である。

 過去の研究者達諸兄姉は、「倭人伝」の記事と自身の思い込みが整合しないのを「矛盾」と見ているらしいが、言葉の意味を知らない無教養を暴露していることになる。局面を眺めれば分かるように、別に、対等の両者が攻防しているわけではない。蟻が「富士山」に背比べを挑んでいるのであって、足下にも及ばないのである。この比喩は、つまらない、低次元、子供じみた勘違いである。

 「倭人伝」は、最高峰の学者が切磋琢磨して確認した正史文書であり、二千年後生の無教養な東夷が、提示された「問題」を読み解けずに間違っているに過ぎない。題意を理解できずに回答不能であるのに、自分好みに「問題」を改竄するのは、とびきり愚行としか言いようがない。

▢「魏志」倭人伝に記された邪馬台国までの行程
 当図出典は不明だが、まずは、帯方郡~狗邪韓国行程が、手ひどい原文改竄で、伊都国到達後の行程は、ありふれた誤解と見え、改竄した原文を捉えて「記述通り」との断定は、世上の読解が正確であるとの「思い込み」に依拠していて、余りに楽天的である。
 「放射説」と俗称されている「伊都国終着」説を採用すると、「邪馬台国」は伊都国近傍であるから、本図は無意味となる。全て、徒労である。氏は、初心に復って、「倭人伝」解釈を仕切り直すべきではないか。

*絹織物の生産
 図示の織機が存在したなら、九州説は、決定的に有利になるのではないか。

*河川漁労の誤解  2024/04/10補充
 なお、女性素潜りは、甚だしい誤解と思われる。世上の論者は、勝手に海濱での「潜水」漁労と決め込んでいるが、「水」に「うみ」(海)の意味はないのが、中国語古代史料解釈の初歩の常識である。
 「沈没」は、中国語古代史料解釈の常識では、漁人が河川渓流に踏み込んでいると言うだけである。今日にも伝わっているように、精々、腰まで渓流の水に浸かって漁労しているのである。「好捕魚鰒」というが、海中に素潜りして、肉眼で、すばしこい海魚や鰻(うなぎ)を捕らえることなど、誰にもできないのである。明らかに、太公望ばりの川釣りではないが、複数の漁人が包囲すれば、竹籠、竹笊などで捕らえられるものである。もちろん「水人」は男性である。

 畿内説、九州説の論義は飛ばす。

▢卑弥呼の「真説」
 意味不明の風評だが、業界「定説」は、「俗説」、「巷説」である。「呪術的能力」が、いかなる能力か、不合理に論じては纏まらない。「鬼道に事え衆を惑わす」とは、氏神の社(やしろ)で祖霊に問い掛けて神託を得て、氏子を納得させる「合理的」な神事ではないか。
 「倭人伝」は、古代中国人である「史官」が、古代中国人である、時の天子が理解できるように書き上げた史書ではないか。つまり、後世の「日本古代史」史書とは、全く無関係と見るものではないのか。記紀に卑弥呼が実名、実記事で登場しない以上、そのように解するのが、合理的ではないか。
 それとも、古代史学は、「神がかり」なのだろうか。

▢有力な候補者三人との共通点を考察
 卑弥呼とは一体誰なのか。?
*卑弥呼=女王の概念は、古代中国が広げたもので、国内では、「姿を見たものは、ほぼいなかった。姫御児」などの敬称で呼ばれていた

 コメント 構文錯乱だが、「卑弥呼=女王」の概念は時代錯誤であり、特に「=」はあり得ない。「古代中国」が広げたとは妄想である。「倭人伝」に存在しない「姫御児」の造語を三世紀に持ち込んで「定説」としたのは誰か。いつから、「女王」は「児」になったのだろうか。
 ちなみに、現代に於いて「女王」は、皇族女性に許される敬称であり、王権は持っていないし、「王」の配偶者でもない。
 ちなみに、「古代中国」には人格も知性もないから、「卑弥呼」の格付けを広げることはできないと見るものではないか。破格の連続である。
 ちなみに、「国内」は、「倭人伝」では、女王の居処であり居城であるから、大変狭い、内輪の世界である。「少有見者」とは、「姿を見たもの」が、(郡太守と比較して)少ないと言うだけであり、「直属の臣下である高官有司とほとんど接見しなかった」とは決めつけられないのではないか。あるいは、垂廉、つまり、下ろした御簾のかげで、臣下の直視を避けていたのではないか。なにしろ、「衆を惑わす」には、人前に出るのが務めであったが、女王になってからは、それほど、姿を見せなかったというのではないか。
 何しろ、二千年前の中国人が、異界の異人の生業を報告しているのだから、たいへん限られた字数で、要点を極めて何を伝えようとしたのか、よほど、叮嚀に考察するものではないか。
 蒸しかえしになるが、「倭人伝」の基本資料は、決して、後世「日本書紀」の編纂者/権力者の気に入るように筆を曲げた「政治文書」などではないのである。

*魏の使者が二百五年頃に倭を訪れた時点で、三十代後半で夫はいなかった。

 コメント ボロ丸出しの放言に困惑する。魏創業」は二百二十年であり、提起された二百五年は、後漢献帝の建安年間で、曹操が権力を把握していた時代である。魏明帝の下賜物を携えた使節が、長途、倭を訪れたのは二百四十年あたりである。なぜ、誰も、注意してあげなかったのか不可解である。
 そもそも主語欠落の不出来な文章であるが、「倭人伝」は、共立時点で女王に配偶者がいないと記録しているだけで、魏使来訪時の年齢を大胆に三十代と判断するのは著者臆測であり、「定説」では「老婆」である。
 但し、「年已長大」を「当年成人した」と順当に解すれば、精々、(数えで)二十歳ということになる。よくよく考えて頂きたいものである。

 それにしても、論外の勘違いである。誰も氏の玉稿を校正しなかったのだろうか。これでは、氏が、後世に恥をさらすことになる。

*倭迹迹日百襲姫命・倭姫命・神功皇后が有力な候補で、倭迹迹日百襲姫命であった可能性が高い

 コメント 誠に不可解である。書紀は、三世紀記録でなく、また、後世の合理的な後付けで関連付けが成されていない以上、有力、被有力を問わず、想定されている候補は、「卑弥呼」と全く無関係と見るのが合理的な判断である。書紀編者は、現代人ではないから二千年後生とは言わないが、いずれにしろ、無教養な後生が「卑弥呼」比定の「候補者」品定めに憂き身をやつすとは、不敬の極みである。

 ここでも、著者の解釈は、錯乱しているように見える。書紀編者が、卑弥呼を神功皇后に擬えていた」と言いながら、「神功皇后は非実在」と断罪しては意味不明である。書紀編者は、同時代随一の教養人であり、すくなくとも、錯乱状態で書紀を編纂したのではないのは明らかである。
                                未完

新・私の本棚 瀧音 能之 邪馬台国論争の現在地 歴史人10 3/3 再掲

OCT 2023  「日本の古代史が変わる!?」 ABC アーク
私の見立て★★☆☆☆ ひび割れた骨董品 学問劣化に警鐘か 2023/09/25 2024/04/10

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

□卑弥呼はどんな祭祀を行ったのか?
 「シャーマン」なる俗説で、卑弥呼を超能力者に擬しているが、「倭人伝」に明記されているのは、卑弥呼は、生涯不婚の巫女であり、共立される以前は、衆の求めに応じて、共通する祖霊の助言を仰いだのである。「人々を思いのままに導いた」と著者は糾弾するが、巫女に権力志向の「思い」など有りえないのである。とんでもない冤罪である。滅多に重臣諸侯に臨見せず、また、口頭の「お告げ」であるから、卑弥呼は、どんな意志をいだいて、どのように意志を徹底できたのか、想像するのも困難では無いか。
 そもそも、卑弥呼は有力氏族の一員で、父祖は、父方母方双方の者と見え、両家/両王が従うのは、卑弥呼が鎹(かすがい)だからなのだろう。もう少し、古代人の思いに理性的に想到/解釈し、三世紀人が知らない「シャーマン」など、持ち出すべきでは無いと思われる。
 それにしても、卑弥呼「天照大神説」は、指摘されていないが、いつの間に廃棄されてしまったのだろうか。

▢卑弥呼はどんな生活を送っていたのか
【最新の定説はこれだ!】
*宮室に住み、高殿で祭祀を行った。

コメント
 宮室かどうかは知らないが、少なくとも、地べたから離れて、床の上にいたはずである。床下に風を通さないと、雨水が浸入して、かびが生え、ネズミが巣を作って、たまらなかったはずである。特に、冬季、地べたに藁を敷くようでは、寒くてたまらないと見るのである。

*弟と巫女の内弟子数十人が仕え、姿を見たものはほぼいなかった。

コメント
 誤解に誤解を重ねて