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2024年4月 8日 (月)

新・私の本棚 榊原 英夫「邪馬台国への径」 3/6 増補

 「魏志東夷伝から邪馬台国を読み解こう」(海鳥社)2015年2月刊 
私の見立て ★★★★★ 総論絶賛、細瑾指摘のみ  2021/10/08 補追 2022/10/19 2024/04/08, 04/25

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*「方里」と「道里」
 案ずるに、東夷伝の「方里」は農地面積であり、それを、幾何学図形として「現代地図」に当てはめたことにより推定した一里八十㍍は確たる根拠が無いのです。(当時、「現代地図」は存在しなかったので、もともと、無理なこじつけなのです。「方里」は、面積系単位(二次元)であり、「道里」(一次元)とは「異次元」ですから流用できないのです。世上に多く見られる議論、たとえば、「方四百里」を、一辺四百里の四辺形と見る論議は、根も葉もない思い付きであり、議論全体が陥穽に墜ちているので、もったいない話です。
 因みに、「方千里」などの蛮夷伝記事表記は、扶余、高句麗、韓、對海、一大のように魏志東夷伝固有であり、地形、地理が知られている各郡、各国の公式記録には適用されていないので、背景を知らない現代人に、すんなり理解は困難(要するに、実際上不可能)なのです。

*對海国「方四百里」
 以上述べたように、對海記事で、「方四百里」を国の広さの形容とするのは、単なる思い過ごしです。「對海国」は、「国」邑、つまり、国王居城を囲む「むら」聚落「国」であり、所管する領域の広さは無意味です。他ならぬ陳寿が、郡から倭に至る諸国は全て「山島国邑」と明記しているので、そう解すべきです。「一大国」も同様です。
 言い換えると、「方里」は、一辺が「道里」単位の「里」の方形と証されて、以上述べたような推論が否定されない限り、「道里」検証に起用できません。つまり、「道里」の根拠としては、使い物にならないのです。
 正確に言うと、「方里」(二次元)と「道里」(一次元)が異次元の単位であることが、より上位の「定説」と認められれば、對海國、一大國の「道里」論義で、「方里」を論じることは、不要となり、一段と諸論が明快になるのです。

*投馬国に至る道~倭人伝限定の「水行」
 「三国志」以前の中国史書「道里行程」記事に「水行」は無く、「魏志」第三十巻の末尾、つまり、後続記事が一切ない場所である「倭人伝」に於いて、初めて、必要不可欠な渡海行程を、『海岸を背にした渡海による「水行」』と臨時に「定義」したというのが、小生の「孤説」です。
 この定義は、一切遡行せず、また、他の二国志にも波及しないのが、「定義」の効力判定の核心です。言うまでもないことですが、「魏志」末尾に、劉宋史官裴松之によって、全「伝」が、完全補追された魚豢「魏略西戎伝」は、この定義と全く無関係です。
 と言うことで、「末羅」記事で、あえて、「陸行」と明記したので「水行」が払拭された「末羅」以降の記事ですが、もし「水行」が復活すれば、自動的に「渡海」です。世上言われるような「沿岸船行」ではなく、もちろん、唐突に先祖返りする「河川船行」は、「倭人伝」の定義に外れています。誠に、鋭利で明快な論理ではないでしょうか。

*「山のみち」~余談
 「実際」は、「水行」も即ち「倭人伝」では、「渡海」と呼べそうな行程は、大分から豊予海峡を越えて三崎半島に渡る「渡船」であり、以下、三崎半島を東に一直線に進み、高縄半島の南部鞍部を越えて、東の燧灘沿岸に出れば、「水行」を含む行程であり、五万戸と噂される「投馬国」を収容できそうな平坦地、燧灘沿岸に出るのです。そのような行程は、九州中部の日田から大分を歴て三崎半島に届き、更に東進する「中央構造線」「山のみち」経路が存在するからであり、太古以来、日本列島における東西交通の有力な道程と見えるからです。

*不通の瀬戸内海航路~難所の無い径
 思うに、三世紀当時の様相を推定すると、北九州と畿内を結ぶ「瀬戸内海」行程は、玄界灘から関門海峡、芸予諸島、備讃瀬戸の東向き行程の主要な難所(瀬戸)を挙げてもわかるように、当時の船体、漕ぎ手で、一貫運行は到底できなかったはずです。更に東に行くと、淡路島の南北は海流渦巻く鳴門海峡と明石海峡があって、ひ弱な海船を阻んでいた瀬戸と見えます。
 ところが、「山のみち」は、中央構造線を辿れば、燧灘沿岸の東から軽微な山越えで吉野川渓谷に出て、以下、東に進むと、最後は、鳴門海峡の東の大鳴門に出るのです。つまり、「山のみち」は、最後、鳴門海峡の南で「紀伊水道」に抜けるので、終始、海の難所無しです。
 以下、淡路島南端を歴て紀の川河口部に至る経路は、これもまた、渡船で可能な軽微な経路ですから、以下、紀の川を遡り、北の奈良盆地に入る行程を想定すれば、それは、かの高名な「纏向遺跡」に到ります。また、そのまま東に進めば、伊勢方面まで達し、更に、渡船を駆使すれば、知多半島に達するという、壮大な「中央構造線」ロマンが見えるような気がしないでしょうか。

 もちろん、「山のみち」は、四国山地とその支脈法皇山地の南の山肌を行く細道で、牛馬の助けが得にくく、大量、高速の輸送はできず、結局、持続可能な行程としては、地域地域ごとの送り継ぎになるでしょうが、とにかく、何よりも大きな難所がないので、太古以来三世紀に到るまで、東西を結ぶ「道」としては、一級品であった見えます。私見ですが、備讃瀬戸の海島で採取された燧石(ひうちいし)は、「山のみち」の有力な産物だったように見えます。
 
 後世人は、現代の瀬戸内海船舶航行の様子を見て、安直に古代の様相を想定しますが、瀬戸内海を貫く東西の帆船行程は、現代でも、たいへんな難所であり、後生戦国時代で言うと、水先案内と関所をかねた海賊が要所を占め、逆に、そのような便益を与えないと、安全に航行できなかった極めつきの難所と見えます。
 一度、専門家に、古代の東西交通について、ご意見を伺いたいものです。何しろ、古代史で、このあたりの議論は、敬遠されて曖昧模糊としているのに、「東西を大型の帆船が往き来していた」などと、文献史料にない夢物語が轟くのです。

*倭人伝「水行」は「渡海」
 再確認すると、公式史書の構成要素である「倭人伝」で、「水行」は「渡海」であり、沿岸、河川移動ではない(ありえない)のです。
 して見ると、長期「水行」を要すると「見える」投馬国が九州島にないのは自明ですいや、「長期」でなくても、渡海」して渡るべき先は、九州島ではないのです。先に述べたように、軽快な渡し舟で東に渡海できるのは、先に述べた、大分~三崎半島の「渡し」になりそうです。
 結局、水行を要する長期の行程が、伊都国、女王国の視点で、「水行二十日」と報告されたと見えるのです。何しろ、渡船は、甲板も船室も無い軽舟であり、二十日続けることは、はなから不可能なのです。いずれにしろ、投馬國は、渡船で渡る遠絶の地であり、詳細は調べがつかないというのが、「倭人伝」の書法です。

*周旋五千里ということ~念押しの工夫
 陳寿は、道里を辻褄合わせし、読者への「手がかり」として、「従郡至倭」と宣言した主要行程の狗邪韓国~倭「狗倭」道里を明記しているのです。「狗倭」往来を「周旋五千里」と書いたので、読者は、自身の解釈を検算できるのです。出題者の神業でしょう。

 「倭人伝」では、郡~狗邪~對海~一大~末羅~伊都~倭の主行程国が、肝心の要件で、以外は余傍で道里計算外です。
 陳寿は、倭の主行程国を「(行程上の)女王国以北」、それ以外は行程外「余傍」としたので余計な思案が省けるのです。「投馬国」のように人によって方位/道里が読み替えられる遠隔地は、考慮する必要がなく、また、名のみ掲載された諸国の位置も知る必要はないのです。

 「女王国以北」の解釈が色々出回っていますが、ここは、単純明快に読むべきです。郡を発して以来一路南下している行程ですから、倭の「女王国以北」は、誰が読んでも、對海~一大~末羅~伊都(~倭)なのです。
 ということで、「周旋五千里」は、「周旋」の意味を取り違えさえしなければ、狗邪を起点として南下し、對海、一大、末羅、伊都と進んで、最後倭に到る「直線道里」なのです。

*余傍の国~見過ごされた「明記」
 陳寿は、倭人伝道里行程記事で、奴国/不弥/投馬に言及しますが、奴国、不弥道里は、百里単位の「はした」で、投馬に至っては道里不明です。道里記事に載せた三国を「余傍」として道里計算に入れないのは、史書書法に従い、整然と明記したものと理解すれば、「題意」を見失わないのです。

*半島内行程~果てしない迷走の果て
 郡から倭に文書使を送るときに、漕ぎ船乗り継ぎを標準行程とすることは「明らかに」不合理なので、当時の読者は、誰もあり得ることと考えないので何も説明がないのです。結論を言うと「循海岸水行」「従郡至倭」の「循」「従」の二字に官道施行が、端的に、異存なく「明記」されているのです。

*「短里制」はなかった~明解な中締め
 「倭人伝」は、万二千里を実行程に当てはめたとき一里七十五㍍程度となるかの如く示唆したものの、そのような里制を、魏朝の国家制度とする重大な主張に、何の証拠もないので「短里制はなかった」と結論します。当記事でも確認しているように、そのような道里は「倭人伝」限りのものであり、従って、魏晋朝の里制に影響を一切及ぼしていないのです。
 当説では、「都水行十日陸行一月」の「都」を「全て」と解し、続く総日数を「倭人伝」の結論とし、水行十日三千里、陸行三十日九千里、どちらも、一日三百里と明快です。「シンプル」、「エレガント」と世間に悪影響を及ぼさないカタカナ語で締めて「閉店御免」です。

 榊原氏の名著をサカナに勝手に提言を続けたため。場内は、非難囂々でしょうが、まずは、話の成り行きを確認してほしいのです。

                                未完

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