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2024年4月23日 (火)

新・私の本棚 番外 内野 勝弘 第413回 邪馬台国の会 補追 2/4

魏志倭人伝・考古学・記紀神話から読み解く 邪馬台国時代の年代論
私の見立て☆☆☆☆☆ ひび割れた骨董品 2023/10/24 2023/10/26 2024/04/23

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

方角
 西方シルクロードの彼方の国

 貴霜国は、後世、遙か西方「ローマ」に延びていたとされる「シルクロード」の傍路であり、西インドガンダーラ方面に勢威を振るっていた。方角違いである。因みに、古代中国に「シルクロード」の概念は無い。

人口
 都10万戸 カニシカ王時代(在位(144~171)
 倭とは比較にならないほどの大国。

 班固「漢書」西域伝、笵曄「後漢書」西域伝、共に、大月氏に「都」は無いとしているから、これは、深刻な事実誤認である。
 「王都」が認められたのは、西方の「超大国」安息国が唯一の例外である。同国は、宿郵を備えた街道網を完備し、金貨、銀貨の貨幣を有し、皮革紙に横書きする「文化」を有したのであり、漢使が訪問した東方国境部から西方メソポタミアの国都クテシフォンまで、騎馬の文書使が往来することによって、今日で言う「軍事」「外交」の全権を与えていたのであるから、漢に勝るとも劣らない「法と秩序」の実質を認められていたのである。

 氏の云う「人口」は、西域伝「口数」のことか。「倭人伝」に「口数」は無いから、比較しようがない。また、遠隔の地の「人口」など、「国力」として評価できないのは明らかである。実体の不明な「戸数」、「口数」の数字を論じても、無意味である。

 中国古代史では、「大国」は不属の「主権国家」であるが、「大月氏」は、少なくとも一度は、戸数、口数、道里を西域都督に申告して服属したから、「大国」定義を外れ「倭人」と同格である。それにしても、倭とは比較にならないほど」は、弱小対象物としての大月氏を予告するものである。

距離
 魏の都、洛陽より大月氏国まで1万6千370里
 記録16000里X434m=6944㌔ 実測4000㌔(長里の実数に近い)

 笵曄「後漢書」西域伝では、「大月氏國,居藍氏城,... 東去長史所居六千五百三十七里,去洛陽萬六千三百七十里」である。要するに、一万六千里は「実測」などされていない。勘違いであろう。又、当然ながら当時の概念で「距離」は、無意味である。「長里」「実数」は、意味不明である。
 明らかに、当時の「貴霜国」王の居処は、大月氏の藍氏城とはかけ離れていて、当然、道里は異なるが、「公式道里」は、当初のままだったのである。これは、漢魏代に限らず、当然であった。

 勘違いと意味不明では、論拠にならない。いや、この「駒」の話に限ったことではない。

国力
 中央アジアの大国、クシャーナ朝・カニシカ王時代最盛期、後漢と接す。東西貿易で栄える。軍騎10万

 内野氏の云う「国力」の尺度が不明では、読者として、評価検証も、大小比較もしようがない。「倭人伝」に「軍騎」はない。
 笵曄「後漢書」西域伝は、「戶十萬,口四十萬,勝兵十餘萬人」と登録していて、耕作地を付与された「戸」が十万、つまり、収穫が十万戸相当に対して十万の兵としているが、これでは、常備軍とは見えない。それとも、各戸は、四人と見られる戸内から、一名の成人兵士を出しても、平然と農耕に勤しんでいたのだろうか。何れにしろ、この数字は、西域都護に対する申告/登録数であり、百年を経て、貴霜国に大成した時点では、これらの数字は現実離れしていたのであるが、更新はされていないのである。
 「後漢と接」したと云うが、「後漢」は、武帝以来の「漢」と称していたはずである。なお、後漢は、皇帝直々でなく、西域都督に折衝させていたのであり、格落ちの相手と見なしていたのである。「接して」とは、なにを言っているのか、意味不明である。
 前記の如く、大月氏は、後漢西域都護と角逐して屈服していたのである。又、西方は、一度侵略/掠奪に成功したパルティア侵略が、以後撃退され、大きく反撃/侵入を許している。
 どの時点の国力を評価するかと言えば、貴霜国の盛時であろうが、それは、後漢書に記録されていないし、いずれにしても、儚いものである。
 「貴霜」国繁栄の起源は、インダス川流域文明を活用した南方の商材を多としていたはずであり、「東西貿易」で栄えたとは、浅慮と見える。
 本当に貿易立国であれば、大量の軍騎は不要である。西方の安息国は、自衛のために二万人を境界部に貼り付けていたが、貿易相手を侵略して、掠奪する意志/意義は皆無であったから、常備軍は、僅少であった。国内各国も、常備軍を持たなかったから、内乱が生じにくかったのである。

 三世紀当時、どこにも「中央アジア」の概念は無い。また一つの時代錯誤である。ギリシャ流に云えば、「アジア」は、地中海東岸地域である。勘違いしてはいけない。

距離・説
 ほぼ実数に近い

 この「駒」も、何の話やら、皆目分からない。各駒が意味不明では、表にして対照する意味が無いように思われる。古来、史学論で、作表して、読者を煙に巻く手法は、学問的に無法と見える。なにしろ、もともと、短冊状の「簡牘」に縦書きしていた文書であるから、作表など存在しなかったのである。読者が、一定の理解をしない提言は、眩惑志向であり、学術的に無意味である。

 以上、大変な不勉強で、ここに「仮説」を提示できるものではないと見える。

◯倭国・女王国

記録
 [魏志倭人伝]倭人の条「239年倭の女王卑弥呼に「親魏倭王」金印を仮綬する」(過分なる恩賞、好意的)

 「魏志倭人伝」と書いて「倭人の条」は、無意味である。「」内に引用されている記事の根拠は、見当たらない。正史に西暦年数が算用数字で書かれているはずはない。二千年後生の無教養な東夷が、正史の記録文に、「過分」とか「好意的」とか、私見を書き足すのは、稚拙と言われかねない。

 遼東の大国・公孫淵には「楽浪王」のみ。

 「遼東の大国」と虚名を課されている公孫淵(国名でなく、人名である)は、後漢/魏の遼東郡太守である。「大国」など、見当違いである。また、自称したのは「燕王」である。
 漢制の郡太守は、帝国の根幹をなす大身で、国王に等しい高官である。国王は、漢・魏代、皇族にしか許されない臣下として至上の格別の称号である。因みに、「親魏倭王」は、漢制の王などではない「蕃王」であり、単なる髪飾りである。

                                未完

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