新・私の本棚 新版[古代の日本]➀古代史総論 大庭 脩 1/2 再掲
7 邪馬台国論 中国史からの視点 角川書店 1993年4月
私の見方 ★★★★★ 「古代の日本」に曙光 2024/01/11, 04/20,05/24, 05/30
*加筆再掲の弁
最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。
□はじめに
大庭脩氏の論考は、的確な教養を有し、中国史書視点によっているが、国内史学界の潮流に流されて、氏の教養豊かな麗筆を撓めて、外交辞令に陥る例が散見され残念である。
□中国文献から見た「魏志倭人伝」~「魏志」考察
*「三国志」の版本
氏は、写本論義を避け、話題を北宋咸平年間に帝詔により校勘、厳密な校訂が行われた「北宋刊本刊行時点以降」に集中/専念している。その際、三国志の正史テキストが統一され、それが、後年、紹興/紹熙本なる南宋刊本において復元され、今日まで継承されているのだが、それでは、史学界の飯の種である「誤記説」絶滅が危惧されるので救済を図ったと見え、「一方、厳密な校訂が行われたとしても、その判断は当時の知見の限度においてなされたものであり、刻工の作業段階で起こるケアレス・ミスの可能性を完全に否定する論理はあり得ない。」とあるが、論理錯綜で氏の苦渋がにじんでいる。
陳寿遺稿の「三国志」原本が、西晋皇帝に上申され、皇帝蔵書として嘉納されて以来、言わば、「国宝」として最善/至高の努力で継承された史料の後生権威者集団による最善を尽くした校勘も、「三国志」原本の「完璧」な再現ではないのは当然であるが、氏は、写本継承の厳正さに触れることを避け、北宋時の刊本工程に飛び、「校勘されたテキストが一字の誤りも無しに刻本されたとは言えない」と迂遠である。
以下2項は、大庭氏の論考に対する異議ではなく、氏の見解に触発された所見であるので、「余談」として、意識の片隅に留めて頂ければ、望外の幸甚である。
*乱世の眩惑 ~私見 余談 2024/05/30
二千年にわたる「三国志」原本継承の怪しいのは、先ずは、南朝側から北朝側への流入であり、特に顕著なのは、南朝滅亡時の北朝への写本献上である。南朝最後の「陳」は、先行する「梁」の威勢の順当な継承でなく、まずは、半世紀に及んだ梁武帝の雄大な治世下、北朝側から侵入した侯景の建康長期包囲により、帝国の統治が瓦解した時代があり、「梁」の滅亡後、北朝の干渉により、「梁」の中核部を維持した「陳」と周辺地域を支配した「後梁」に分裂した乱世が、北朝を統一した「隋」の征服で決着したものである。陳後主が降伏時に「三国志」原本を隋皇帝に献上したかどうか不明である。何しろ北朝天子である「隋」は、建康に屯(たむろ)していた賊子を撲滅したのだから、「陳」の蔵書をいかに収納したかは、不明なのである。
「隋」の北朝統一に前だって、北朝東方で古来の雒陽を占拠していた「北齊」は、中原天子を自負して、正史を含む古典書を集成し、後の「太平御覧」の先駆になる巨大類書を編纂したとされているから、史書集成は着々と進んだとも見える。但し、北朝の西方の「北周」は、古来の「長安」を根拠に、太古の周制の復古を目論むとともに、前世蜀漢の旧地を南朝から奪って、三国鼎立の形勢を得ていたが、西域を確保した上に「中國」の大半を支配していたので、鼎立の覇者を自負していて司馬遷「史記」、班固「漢書」、陳寿「三国志」の「三史」の確保を進めたかもしれない。
要するに、挙国一致体制で組織的に行われた北宋刊本、南宋復刊の大事業のアラ探しをするより、暗黒時代とは言わないが、数世紀に及ぶ乱世を考慮するのが賢明である。
*笵曄「後漢書」雑考 ~私見 余談 2024/05/30
なお、この乱世に於いて、笵曄「後漢書」が、いかにして継承されたか、滅多に論じられないので、不審である。
笵曄は、「西晋が北方異民族の侵攻破壊で滅亡し、辛うじて、南方の建康で再興した東晋」の後継、劉宋の重臣であり、皇帝蔵書として継承した「三史」に対して、後漢代史書が不完全であるのに着目し、「三史」と並ぶ史書とすべく「後漢書」編纂に従事したものである。但し、すでに、班固「漢書」に続く「後漢書」の根拠となる雒陽公文書は散逸していたので、先行諸家後漢書を換骨奪胎して本紀、列伝部分を集成したものの、西域伝、東夷伝の集成には不備が多く、魏代に後漢代以来の記事を整えた魚豢「魏略」を起用したものとみえる。なかでも、後漢末期の桓霊帝及び三国鼎立期に入る献帝期の東夷記録、なかんずく新参の「倭条」の欠落は補填しがたかったので、陳寿「三国志」魏志「倭人伝」を加工して、後漢書の担当である後漢霊帝期にずらし込んだと見える。そのように造作された笵曄「後漢書」東夷列伝「倭条」は、世上、「偽書」とされかねないと見えるが、世上「偽書」論義は見られない。
何しろ、偽書を根拠とする後世史書、類書の「倭」記事は、自動的に虚構となり、余りに多大な、破壊的な結果をもたらすので、明言できないものと見える。
そうした不吉な由来はともかく、史官ならぬ文筆家であり、劉宋高官であった笵曄は、劉宋内部の紛争に連坐して斬首の刑に処せられ、嫡子も連坐したので、笵曄の家は断絶したのである。つまり、笵曄「後漢書」の完成稿は遺せず、まして、重罪人の著作は、劉宋皇帝に上程されることはなかったのである。
南北朝の南朝側で、非公式な後漢書として継承されていた状況は不明であるが、南朝皇帝蔵書として堅持された陳寿「三国志」すら、写本継承の瑕瑾を論じられるのであるから、『笵曄「後漢書」原本を確定し、なかでも、素性・由来の疑わしい東夷列伝「倭条」の画定を図るのは、多大な論考が必要』と思われるが、寡聞にして、例を見ない。
*閑話休題
北宋代の刊本は、東晋以降の南朝が保持していた原本と各地の蔵書家の所持していた善本の集成により、北宋が唐代文物を結集した 組織的に行われた刻本であるから、「刻工無謬」であろうとなかろうと校勘稿と試し刷りを照合する「最終校正」により逐一是正されるから、刻本行程で発生する「誤刻」は、実質上皆無と見て良い。「可能性を完全に否定する論理はあり得ない」の「二重否定」で、希有な事象を露呈させ、本筋から目を逸らさせているのではないかと危惧する。
まして、意味不明の「ヒューマンエラー」で、善良な読者を「眩惑」して、私見を押しつけるのは「迷惑」以外の何物でもない。
*最後の難所~南宋刊本復刻~私見
氏は、あえて論じていないと見えるが、ここで、刊本の正確さを論じる際に不可欠なのは、北宋刊本から南宋二刊本への継承であり、南宋創業期に二度、校勘刻本された紹興本、紹熙本の微妙な事情/実態を考証する必要がある。
尾崎康氏の労作「正史宋元版の研究」で確認できるが、北宋末の金軍南進「文化」全面破壊で、国書刊本は版木諸共全壊し、南宋刊本は、損壊を免れた上質写本に基づいて復元を図ったが、最善を尽くしたとは言え、上質写本でも不可避な疎漏があったと見える。
そのため、四書五経をはじめとする厖大な古典書籍の大挙復刻という一大挙国一致事業に於いて、陳寿「三国志」南宋刊本が、第一次として「紹興本」として復刊されたといえども、(わずか)数十年を経て、より上質な写本から再度「紹熙本」を刻本したとされている。つまり、南宋校勘の最終成果を示す意図での再刻本と見え、尾崎氏は「紹熙本」の称揚を避けざるを得ないので、明言はしていないが、氏の筆の運びからそのように見える。示唆の深意が容易に想到できるのは、明言に等しいのである。
大庭氏の口吻は微妙で、漠たる一般論に転じて「写本ならば、その一本限り」の謬りとしたが、中国に於いて、帝室蔵書として厳格に継承された写本といえども、一度、いわば、「レプリカ」として世に出れば、最早、最善写本と言えなくなり、以後、在来写本は、順次在来継代写本になり、子が孫を生んで下方/市井に継承され、謬りは、順当に継承/蓄積され、しばしば増殖していく行くことは、世上常識であるから、氏の述解は、素人目にも的外れの難詰である。
結論として、史料の正確さは、写本継承工程では、個々の写本の厳密さの積層/累積に依存し、固有の、自明の限界を有していたのであり、国内史学界の風潮に馴染んで、「公的校勘、写本を受けられず、写本者の個人的偉業に依存して、散発的に継承され、写本毎に個性を募らせている」国内独自事情の秘伝「写本」継承を、厳格に管理された「三国志」南宋刊本を超えて尊重するのは、誠に度しがたい本末転倒である。
〇卑弥呼の時代の東アジア~「水上交通」論への異議
続いて、氏は、渤海湾「水上交通」なる現代概念を投影しているが、氏ほどの顕学にして、「水」が河川との古典用語常識から乖離して不用意である。同時代用語がないので仕方ないが、せめて「海上交通」として、とにかく、読者の誤解を招く用語乱用は避けねばならない。「水」は、あくまで真水(clear water)である。塩水(salt water)かどうかは、口に含めば子供でもわかる。
また、氏は、慧眼により、的確に、『青州・山東半島を要(かなめ)として、遼東半島に加えて、朝鮮半島中部「長山串」との三角形の交通』を論じているが、少々異を唱えざるを得ない。両交通の要点は、短時日の軽快な渡船であり、陸上交通のつなぎである。但し、三世紀当時、帯方郡管内は、未だ「荒れ地」であったから、「長山串」交通は、言うに足る商材が無く、「海市」は閑散が想定される。いや、近隣のものが野菜や魚(ひもの)を売り買いするのは、自然のことであるが、隣村まで野菜、魚を売りに行くのは、商売にならないことが、太古以来知られている。
*瀬戸内海海上交通論
例示されている瀬戸内海であるが、芸予・備讃島嶼部は、南北海上交通が、渡し舟同様の小船で往来可能と見えても、東西の多島海海上交通は実行困難(持続不可能)な難業であり、また、中央部は「瀬戸」でなく、島嶼のない「燧灘」(ひうちなだ)なる「大海」(塩水湖)「瀚海」(塩水の大河)で南北に懸隔されていて軽快な渡船では渡りきれないとみえ、要するに一口で言えない。氏の東西交通に集中した地理観は、後世的/巨視的であり、三世紀当時の世相から隔絶しているように見える。
未完
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