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2024年4月20日 (土)

新・私の本棚 新版[古代の日本]➀古代史総論 大庭 脩 1/2 再掲

7 邪馬台国論 中国史からの視点 角川書店 1993年4月
 私の見方 ★★★★★ 「古代の日本」に曙光  2024/01/11, 2024/04/20 

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

□はじめに
 大庭脩氏の小論は、的確な教養を有し、中国史書視点による論考を投影しているが、国内史学界の潮流に流されて、氏の教養豊かな筆を撓めて、外交辞令に陥る例が散見され残念である。

□中国文献から見た「魏志倭人伝」~「魏志」考察
*「三国志」の版本
 氏は、写本論義を避け、話題を北宋咸平年間に帝詔により校勘、厳密な校訂が行われた「北宋刊本刊行時点以降」に集中/専念している。その際、三国志の正史テキストが統一され、それが、後年、紹興/紹熙本なる南宋刊本において復元され、今日まで継承されているのだが、それでは、史学界の飯の種である「誤記説」絶滅が危惧されるので救済を図ったと見え、「一方、厳密な校訂が行われたとしても、その判断は当時の知見の限度においてなされたものであり、刻工の作業段階で起こるケアレス・ミスの可能性を完全に否定する論理はあり得ない。」とあるが、論理錯綜で氏の苦渋がにじんでいる。

 陳寿原本が主要された西晋代以来、最善の努力で継承された史料の後生権威者集団による最善を尽くした校勘も、「三国志」原本の「完璧」再現ではないのは当然であるが、氏は、「校勘されたテキストが一字の誤りも無しに刻本されたとは言えない」と迂遠である。組織的に行われた刻本であるから、「刻工無謬」であろうとなかろうと、校勘稿と試し刷りを照合する「最終校正」により、以後に発生する「誤刻」は、実質上皆無と見て良い。「可能性を完全に否定する論理はあり得ない」の「二重否定」で、希有な事象を露呈させ、本筋から目を逸らさせているのではないかと危惧する。

*最後の難所~南宋刊本復刻~私見
 氏は、あえて論じていないと見えるが、ここで、刊本の正確さを論じる際に不可欠なのは、北宋刊本から南宋二刊本への継承であり、南宋創業期に二度、校勘刻本された紹興本、紹熙本の微妙な事情/実態が見過ごされている。

 尾崎康氏の労作「正史宋元版の研究」で確認できるが、北宋末の金軍南進「文化」破壊で、国書刊本は版木諸共全壊し、南宋刊本は、損壊を免れた上質写本に基づいて復元を図ったが、最善を尽くしたとは言え、上質写本でも不可避な疎漏があったと見える。

 そのため、四書五経をはじめとする厖大な古典書籍の大挙復刻という一大挙国一致事業に於いて、陳寿「三国志」南宋刊本が、第一次として「紹興本」として復刊されたといえども、(わずか)数十年を経て、より上質な写本から再度「紹熙本」を刻本したとされている。つまり、南宋校勘の最終成果を示す意図での再刻本と見え、尾崎氏は「紹熙本」の称揚を避け、明言していないが、氏の筆の運びからそのように見える。

 大庭氏の口吻は微妙で、漠たる一般論に転じて「写本ならば、その一本限り」の謬りとしたが、中国に於いて、帝室蔵書として厳格に継承された写本といえども、一度、いわば、「レプリカ」として世に出れば、最早、最善写本と言えなくなり、以後、写本は次代写本に下方に継承され、謬りは継承/蓄積されて行くことは避けられず、氏の述解は、素人目にも的外れの難詰である。
 結論として、史料の正確さは、写本継承工程では、個々の写本の厳密さの積層/累積に依存し、固有の、自明の限界を有していたのであり、国内史学界の風潮に馴染んで、公的校勘、写本を受けられず、写本者の個人的偉業に依存して、散発的に継承され、写本毎に個性を募らせている独自特性の「写本」刊行を、厳格に管理された「三国志」南宋刊本を超えて尊重するのは、誠に度しがたい本末転倒である。

〇卑弥呼の時代の東アジア~「水上交通」論への異議
 続いて、氏は、渤海湾「水上交通」なる現代概念を投影しているが、氏ほどの顕学にして、「水」が河川との古典用語から乖離して不用意である。同時代用語がないので仕方ないが「海上交通」として、とにかく、読者の誤解を招く用語乱用は避けねばならない。
 また、氏は、慧眼により、的確に、青州・山東半島を要(かなめ)として、遼東半島に加えて、朝鮮半島中部「長山串」との三角形の交通を論じているが、少々異を唱えざるを得ない。両交通の要点は、短時日の軽快な渡船で、陸上交通のつなぎである。但し、三世紀当時、帯方郡管内は、未だ「荒れ地」であったから、長山串交通は、言うに足る材が無く、「海市」は、閑散が想定される。

*瀬戸内海海上交通論

 例示されている瀬戸内海であるが、芸予・備讃島嶼部は、南北海上交通可能と見えても、東西の多島海海上交通は、実行困難な難業であり、また、中央部は「瀬戸」でなく、島嶼のない「燧灘」(ひうちなだ)なる「大海」「瀚海」で南北に懸隔されていて、要するに一口で言えない。氏の東西交通に集中した地理観は、後世的/巨視的であり、三世紀当時の世相から隔絶しているように見える。

                                未完

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