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2024年4月22日 (月)

私の本棚 51 水野 祐「評釈 魏志倭人伝」 2/10 補充 改頁

 雄山閣 新装版 2004年11月 (初版 1987年3月)
私の見立て★★★★☆ 『「倭人伝」は「唯一無二の史料』 2016/06/18 追記 2020/06/07 2021/07/17 2024/04/21

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

・視点明示~史料批判
 冒頭に宣言されているように、氏の「倭人伝」観は「古代日本に関する(唯一無二の)中国史料」と言うものである。
 つまり、氏は「日本史」の文献史学による考察にあたり、「国内史料は辛うじて第五世紀に始まるに過ぎないから、それ以前の世紀に関しては、国内史料が存在しない、従って、中国史料に依存せざるを得ない」との確認を経ている。これは、誠に確実な考察であり、貴重なものである。
 続いて、史料の乏しい(つまり、事実上、存在しないに等しい)(日本列島の)古代史の研究にあたっては、外国起源の史料であっても、本質を追究して史料価値を見極め、「倭人伝」の史料としての確認を進めていくのである。
 俗な言い方で気が進まないが、「有言実行」であり、ずっしり重みがある。
 追記すると、以上のような冷静な視点は、大抵の「倭人伝」論に欠けているものであり、是非とも、天下に「蔓延」してもらいたいものである。

◯概観
 著者の考える指針として、「倭人伝」の解釈に際しては、「虚心坦懐に」記されたままを素直に本文に即して読むことから出発」し、「その検討に際しては」、まずは、「倭人伝」の文章とそれ以外の「三國志」、特に「東夷伝」の文章と対比して検討することが示されている。さらに、『「先入観」に禍いされて、自説に都合のよいように「倭人伝」の字句を改訂したり、勝手に解釈したりしても、それは、価値のない研究に過ぎない』と主張している。
 そして、「考古学によって帰納的に解明される倭国像と中国史料によって解明される倭国像は、究極的には一致するべきものであるが、それぞれ、異なった分野の研究であるから、の過程において安易に両者を合致させようとすると、研究の進路を誤ることになりかねない」と危惧し、「互いの研究が自力で確実な結論に至ったときに、整合を図るべきだ」と述べている。
 こうした提言は、まことに合理的なものであり、本来、広く遵守されるはずなのだが、衆知のように、このような先人の提言は見事に裏切られ、考古学成果は、データに基づく帰納的検討ではなく、データが先入観に合うように解釈・整備されて、当方に「俗論」などと悪態をつかれている昨今である。
 本書刊行当時、すでに、「三国志」などの中国史料に対する(国内)考古学研究者の「反感」、「敵視」が顕著だったようで、世上、「もし本書(三國志)がなかったならば、女王國も、邪馬壹國も、またその他の国も、卑弥呼の存在も、何もわからず、従って、邪馬壹國論争などは全く起こらなかった」と述懐している例まである。
 これは、あくまで寓意としているだけで、本気で「百害あって一利無し」などと思ってはいないことは言うまでもないはずであるが、文字通りに解釈する向きにして見ると、至言と解しているのかも知れないのであるが、それはそれとして、当分野の議論が、「学術論義」でなく、個人的な「信念」なり「感情」で大きく左右されていることは、見逃せない。
                                未完

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