新・私の本棚 古田史学論集 25 正木 裕 「邪馬台国」が行方不明になった理由 補充
古代に真実を求めて 古代史の争点 明石書店 2022/3/31
私の見立て ★★★☆☆ 課題山積に蓋をした軽率 2022/04/24 補充 2023/04/29 2024/04/10,12
*加筆再掲の弁
最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。
◯はじめに
正木氏の本記事は、まことに手短であるが、「倭人伝」道里記事解釈は、多岐に亘っていて手短に片付けられないはずである。氏は、世上の「総括病」に感染したか、百出議論が挙(こぞ)って「伊都国と奴国の比定」を誤って迷走していると「一刀両断」しているが、「諸説は全部間違い」との断言から始まる世上の勝手論者の手口と同様で、混同されて「損ですよ」と申し上げる。古典的であるが、それでは、「ゴルディアスの結び目の課題を解かず一刀両断したアレキサンドロス三世」の世紀の愚行を、いたずらになぞっていると見え、勿体ないのである。
世上の諸兄姉は、まさか「神がかり」の定型文を複製して論じてはなかろうから、諸説は、百花斉放の筈である。正木氏が、全て読み尽くしたなら、後学のために指摘して欲しいが、氏は、ひと息に在庫一掃して「自説」を説く。そして、氏の提言の賛同者は多くても、まとめて「自説」と見る、そんな感じを与えているのである。
因みに、当ブログの議論は氏の決め付けと無縁と信じる。
以下、「倭人伝」道里記事解釈に続くが、古田氏流「短里説」は控え目である。「短里」は自明であり、頑迷な「短里」否定論は、我田引水風の独善に過ぎず、殊更強調する必要はない。これで、纏向遺跡説は、野球場で言えば、「外野」ならぬ「場外」である。
*道里記事解釈の不備 2023/04/29
初稿で言い漏らしていたが、氏が、「倭人伝」道里記事を、粗雑に書き換えていることに異議を呈したい。
「➀帯方郡から...狗邪韓国に至る」と書き換えているが、原文は「到」である。「至」と「到」は、文字も意味も違うのから、不正確である。
②,③,④は、いずれも「渡海」(倭人伝限定の「水行」)であるが、②「始めて」、③「又」、④「又」と、限定的に書かれているのを削除しているのは不正確である。
⑤でも、「末羅国に至る」と書き換えているが、原文は「到」であるから、不正確である。
陳寿が、史官の筆法の最善を尽くして、「倭人伝」道里記事で提起した用字は、行程の分岐、不分岐、到達、不到達を峻別するために、敢えて厳密に採用されているから、原文を維持すべきである。
ここでは、具体的な論義を差し控えるが、史料原文を恣意をもって書き換えるのは、解釈不備に繋がっているものと考える。ご確認いただきたい。岡田英弘氏の至言に基づいて、『「二千年後生の無教養な東夷」が、三世紀中華文明の至宝である陳寿の筆法を、軽率に改竄して論ずるのは、論外である』と苦言を呈させて頂く。
*「方里」論の不首尾
倭人伝の「方四百里」を、氏は古田氏追随で、一辺四百(道)里の方形と見なす。
しかし、この書法は東夷伝独自であり、古来の「道里」と整合しない。史官は、典拠ある書式、語法を遵守するので、説明無しに「方里」を「道里」と同列に扱うのでは史官落第である。思うに、「方里」は「道里」と異次元である。 (「道里」は一次元、「方里」は二次元で、次元が違うという意味であり、現今の政治経済用語とは、次元が異なる)
方形一辺が十倍なら、面積は百倍となり、桁の違う韓国と對海国の面積比較が、困難で当を得ないものとなると見るのである。冷静に読みなおして欲しいものである。
*「島巡り」の不備
氏は、狗邪韓国から倭に至る途上の渡海道里の對海国に一辺四百里の二倍を足す「道里」表現とするが、陳寿が想定していた魏志読者には思いもよらないことだろう。
倭人伝の道里記事の解釈を強いられたとして、千里単位の概数で限定件数の「道里」は計算できるが、百里単位の端(はした)を明記せずに埋め込まれては、解読に「労苦」を要する。陳寿ほどの史官が、魏志末尾の辺境蕃夷記事に、些事の「労苦」を持ち込むだろうか。
渡海千里は、実「道里」でないのだから、国間(国城間)千里に全て込みが常識と思える。
元来、国間道里は、それぞれの首長間の文書連絡の所要日数を知るためのものである。また、「倭人伝」の諸国邑は、本来、隔壁で囲まれているべき「國邑」が、海で隔てられていることにより、隔壁を持たないことを許容されているものだから、島を巡って上陸しないのは、首長居城の外壁を舐めて首長に拝謁せずに歴訪と称することになり、大変、不適当である。本来、全行程万二千里の千里単位の振り分けであり、悉く概数計算の世界であるから、ケタ違いの端たの百里代の辻褄合わせは、無意味で無効であるから、不合理な「島巡り」は、すべからく撤回すべきである。
*「戸」の話
東夷伝で、国土を「方何千里」と書いた高句麗、韓の両大国は、地形、地勢の制約で、中原基準の耕作地整備が至難なため、土地台帳から畝(むー)単位の農地面積を集計し、「戸」で把握困難な国力を表現したと見える。
古来、「戸」は農地割当単位で、戸内の成人男子が牛犂、牛鍬を用いて耕す前提で、農地面積に基づく収穫量計算の要件であるが、東夷は、中原社会と家族制度が異なる上に、対象とする農地が、牛耕に適した平坦地か、山谷地かも、不明である。「倭人」に至っては、農耕に不可欠なはずの牛耕が存在しないと明記されている。してみると、「倭人」の戸数に、中原並の収穫量を求めるのは、見当違いとなるのである。つまり、陳寿は、史料に書かれている倭人の総戸数七万戸をそのまま記載したものの、それでもって、「倭人」の獲れ高を計算してはならないと、明示したことになるのである。そのような食い違いを明示したものが、「方里」であるとも言えるのではないか。要は、戸数から想定される獲れ高に、到底及ばない「実力」を示していると見える。
郡太守(公孫氏)は皇帝に戸数を報告しつつ「方里」を試行したと見える。きれい事で言うと、倭人は牛耕なしの人力頼りであるため、「戸」の意義が不確かであるが、魏志に地理志がないので不明である。
*まとめ~「方里」再確認
拙論では、「方里」は「一辺一里の方形面積」であり、各戸が耕作する農地面積を、戸籍台帳/土地台帳から集計したものと見る。これは「九章算経」読者の理解を得られるのである。
いや、些末に巻き込まれたが、一番明解な論議は、『「方里」は、土地面積の単位で、「道里」とは「単位次元」が違うので混同してはならない』で決まりであり、以下蛇足である。論議は、明解第一と再確認した次第である。
なお、本論では、「南至邪馬壹国女王之所 都水行十日陸行一月」の解釈で、「都」の一字をもって、「総て」、「都合」とする玄妙な用字を掘り下げていないのに失望したが、ここでは論じない。
因みに、そのような解釈は、古賀達也氏の仮説として知られているが、支持が得られず退蔵されているようなので、かねて腹案としていた当方が、ブツブツ呟いているのである。一度、真剣に考慮いただいた方が、古田武彦氏の所説の細瑾を取り除く画期の事例となるものと信じている。
以上
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