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2024年4月 1日 (月)

新・私の本棚 坂本 光久 「新邪馬台国の研究… 3/4

…魏志倭人伝の漢字を読み解く」Kindle版 2024/03/13
 私の見方 ★★★★☆ 面目一新、されど前途遼遠  2024/04/01
 
*西行の不合理
 ついでに言うと、道中は、半島東南部の狗邪韓国に向かう以上、南あるいは東と無難ですが、郡から海津は、どう見ても西で不合理です。海岸沿いの難所突進は、はなから不合理です。
 最後、狗邪韓国は、對海國と船で往き来するには、東に寄りすぎています。想定の海船は、船員は疲労困憊し、船客は、特に船酔い憔悴し不合理です。
 史料の当然の解釈を、不合理な推定で覆すのは論外です。

*始めて海を渡る
 「倭人伝」も、ここで始めて「海」を渡るとし、一日がかりの難業で千里に相当するとしています。南下渡船は、朝早く出港して午後入港し、船人ともに休養すると見ます。一度限りの冒険航海でない「業」であるから持続できる策のはずです。船上騎馬疾駆は無意味であり、馬は残したはずです。
 文書使は、対海国治で国主に所信を渡したが、商用市糴は港の市に積み荷を降ろし対面交換して先を急いだはずです。文書使は所定日限を守ることが最優先で、連日渡船しなかったと見えます。船荷は疲れないから、先を急いだかもしれませんが、海市開催日の関係で日を置いたかもしれません。
 ということで、日を置いての南下渡船ですが、「常識」的に別便仕立てと見るべきです。難所以外では装備、人員を減員したはずです。
 以下、入港先の一大国で休養したとみるのは当然です。
 最後の南下渡船で末羅国に上陸し、以下陸上行程と特記されています。
 「倭人伝」は、「牛馬無し」と明記し、騎馬・馬車往来は無いものの文書使は乗馬の可能性があります。蹄鉄装備馬匹でなく草鞋履きかも分かりません。官道と言うものの馬車往来の道で無いから、日数は徒歩想定かもしれません。
 伊都国まで、ゆるゆる歩む想定なので、文書使は無理しません。ちなみに、初期報告では、末羅国は独立でなく伊都国海津とされたかもしれません。
 伊都国以遠は、交通事情不明です。中国内の街道制度では、適宜馬を乗り換えられる宿場があって、道里で所要日数が決まりますが、「従郡至倭」行程は、渡海部分もあって道里から所要日数を想定できず、全体日数を表示し、「従郡至倭」名物の渡海行程は、急便できないことを明示し水行十日としました。

 以上は、おそらく、後漢献帝の建安年間、楽浪郡時代に「大要」が定まり、後日、新設の帯方郡によって補充されたと見えます。
 南の女王国行程は、道里行程記事「大要」に対して、魏代に記事を追加したので行程外で明示していませんが、新設の女王国は、伊都国の城壁内ならぬ垣内に収容されていたと見えます。女王居処の設立維持は、領地を持たない女王に無理なので伊都国が「最大の氏子」として御報謝したとも見えます。

 ちなみに、南下「従郡至倭」の南下行程は、すべて「自女王国以北」であり、この往来行程を「周旋五千里」と形容したとみるのが賢明です。
 奴、不弥、投馬の三国は、脇道で地理不明であり、以外の小国群は、所在不明であり、明快最優先の倭人伝に詳記することはありません。
 以上は、筆の走りを重視して断定調ですが、当方は独断を押しつける意志もなければ断定を保つ気力もありません。常識で解釈頂きたいだけです。
 その他にも、氏の論調に納得できない点は多々ありますが、認識を正して頂きたいのは、道里行程論です。

                                未完

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