新・私の本棚 榊原 英夫「邪馬台国への径」 2/6 増補
「魏志東夷伝から邪馬台国を読み解こう」(海鳥社)2015年2月刊
私の見立て ★★★★★ 総論絶賛、細瑾指摘のみ 2021/10/08 補追 2022/10/19 2024/04/08, 04/25
*加筆再掲の弁
最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。
〇私撰の誣告~余談
世上、陳寿を貶めるつもりか「魏志私撰説」がありますが、許可なくして公文書を渉猟して史書を私撰するのは「死罪」ですから、「三国志」、就中「魏志」は、公認編纂されたものなのです。まして、多くの政府高官が、陳寿の魏国志編纂を知っていながら、一切、「私撰」の非難がない以上、天下御免の編纂事業だったことは明解です。
後漢代の漢書編者班固は、父の代から続けていた漢代史書編纂に於いて、洛陽書庫所蔵の公文書をみだりに渉猟したとの誹りを受けて下獄し、あわや獄死するところを、西域の英傑班超など親族の懇望で死罪を解かれ、却って、その偉業が評価されたことにより、漢書編纂を公認されました。
南朝劉宋の笵曄は、西晋末の国難によって散佚した雒陽所蔵の後漢公文書でなく、世俗公開の先行後漢書所引公文書を採用したので、時代の変遷もあって、私撰の誹りを免れたと見えます。
大罪を告発するには、入念な捜査、検証が必要です。現代人が、誣告を重ねても命を落とすことはないのですが、恥を知るべきでしょう。 いや、これは、榊原氏の論議ではないので、言わば余談です。
〇行程道里記事の取り違え~余談
これは、広く倭人伝論者に共通の「思い込み」ですが、冒頭の道里行程記事は「景初遣使の答礼である正始の魏使訪倭行程記録ではない」のです。これは、いや、これは、榊原氏の創唱したものではないので、言わば余談です。
「倭人伝」は、新参の東夷の「伝」であり、当然、魏の公式道里/行程によって書かれています。但し、「倭人」は、郡から王の居処まで万二千里との全体道里が、早々に皇帝裁可されていたという厳重極まりない縛りがあり、皇帝裁可の公文書の改編は、大逆罪に当たり、また、同様に、無視することも許されないので、陳寿は辻褄合わせに苦慮したと思われます。
*「倭人伝」道里の成り行き
公式史書(公史)道里で肝要なのは、太古以来、公式道里は、『官制の街道であり「陸行」が自明なので「陸行」書いてない』のです。街道未整備の辺境蕃夷の「道里」は、「道」が定まっていない以上、当然大雑把ですが、「万二千里」の道里は、中国側で言い慣わしたものなので精測不能/不要なのです。
*行程明細
陳寿が、最善を尽くして取り組んだのは、狗邪から末羅に至る主要行程である(仮称)「狗末」行程の確定です。本来、中原の官道も河川は船で渡るので説明は不要なのですが、この際の「渡海」は行程日数が必要で、安易に乗り継げるものでなく、それに見合う「道里」が必要でした。
郡から狗邪まで(仮称)「郡狗」行程は、郡から倭までの(仮称)「郡倭」行程、都合「万二千里」を、適宜按分して「七千里」とし、それぞれの渡海は、一律「一千里」と「想定」したのです。中国圏内での「陸行」なら、そうした大雑把な里数概算に批判がありそうですが、難路の渡海行程「三千里」は「水行」十日で収めたのです。
陳寿は、まさか、「海を歩いて行く」自明で無表記の「陸行」と言えなかったので、法外の「水行」を、この場限りの異例の用語と明記しました。
また、「郡狗」行程 を、ここに限り、つまり、LocalでPrivateな「道里」であると明記したので、読者を騙してはいないのであり、当時の読書人は、それで納得したので、今日まで、「倭人伝」(限定的)道里として継承されているのです。そのように、「倭人伝」独特/限定の「道里」運用は、全国里制の変更が無用です。
以上二件は、言わば、東夷伝末尾の片隅で、ひっそり運用されたのです。特に、里制の変則的な適用は、空前絶後であり、どこにも類例はないのです。一方、陳寿が、言わば創始した「水行」道里は、真意を理解されないまま、用語として一人歩きしたように見受けます。
「郡狗」七千里は、郡にとっては既知の「郡狗」を「倭人伝」で「七千里」とし、全体の「万二千里」は推して知るべしとしたのです。
「千里」単位の一桁計算で、末羅までは、桁上がりして「一万里」、残る「末倭区間」は、大雑把な概数で「二千里」ですが、「常識的」には、「郡狗」の七分の二でも、大雑把な概数の積み重ねで不確定です。つまり、倭人伝の「道里」は、実道里との関連が大変大雑把なので、「周旋五千里」と明記された「狗倭」間の主要行程以外の道案内には、全く不向きなのです。
*「高等」算術という事
因みに、古代中国の算数教育でも、「足し算」は「初等」算術であり、掛け算、分数計算、果ては、桁の多い計算などは、「高等」算術であり、官吏と言っても下層の吏人は「初等」計算に留まり、「高等」算術は、小数の官人にしかできなかったと見えます。
「初等」の分野は、数字の面でも「初等」と言えるように「一桁計算」に留めていて、つまり、千里単位の計算に、百里単位の里数を交えることは避けたのです。言い方を変えると、「千里」単位の数字と「百里」単位の数字は、異次元の存在であり、混在しないように努めたのです。
〇韓「方四千里可」
氏は、一部で提唱されている説に従い、「方四千里」が、一辺四千里の方形と、ほぼ決め込んでいますが、これは、根拠の無い憶測に過ぎません。
まずは、当時、統一政権の無い韓地の包括地形を、どのようにして知ったのでしょうか。帯方郡が、各韓国に命じた耕地検地はともかく、厖大な労力と未踏技術を投入して、意味なく全領域面積を測量するはずがありません。
泰然たる黄土平原で、整然と農地開発/測量が進んだと見える中原と異なり、「東夷伝」領域では、耕作地は各国領分の一部に過ぎません。韓地には、千㍍を超え冬季冠雪凍結する小白山地が連なり、それ以外の地域でも、山川渓谷の地が多く、領域面積に何の意義もありません。
高句麗は、地形がさらに険しく、冬季は寒冷で定住できず、灌漑農地に適しない牧畜地が多いので事情は同様です。まして、絶えず、周辺諸勢力との攻防を歴て領分が盛衰する高句麗で、「国境」は、特に意味はなく、まして、国境で囲まれた領域面積には、何の意味もありません。
太古以来、中国の中原領域の農地管理は、国家の根幹であるこことから、官人の必修書であった「九章算術」等の算術書で、個別農地の面積測量法は、早くから知られていて、余さず課税台帳に記載していたので、登録農地面積の全国集計は十分可能だったはずです。
韓地の農業は、中原ほど組織的でなく、高度な検地、土地管理はできなかったとしても、笵曄「後漢書」に統合された「地理志」には、楽浪郡の戸口が、一戸、一口単位で集計されています。耕地面積が、国勢指標として最重要視されていたのです。
ならば、「方四千里」が、どのような農地面積の形容だったかですが、当記事は、『「方四千里」が、一辺四千「里」(道里)の方形/矩形/四辺形ではない」と主張するのが目的なので、「方四千里」の考証は、任にあらずです。
未完
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