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2024年4月23日 (火)

新・私の本棚 番外 内野 勝弘 第413回 邪馬台国の会 補追 3/4

魏志倭人伝・考古学・記紀神話から読み解く 邪馬台国時代の年代論
私の見立て☆☆☆☆☆ ひび割れた骨董品 2023/10/24 2023/10/26 2024/04/23,05/12

*加筆再掲の弁

 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

国内・国際状況
 司馬懿は朝貢した倭を呉の背後と位置し、皇帝に呉の海上支配に対抗する大国と報告し司馬懿自らの功績を高めるために金印を仮綬させた。  

 司馬懿は、遼東郡を撲滅した際に、郡太守の誅滅は当然として、官吏、公文書もろとも、破壊し尽くしていて、とても、「東夷管理」の継続、拡大を志していたとは見えない。また、その時点で、司馬懿は、魏の最高権力者ではなかった。誤解・誤認連発である。
 帯方郡平定は、司馬懿遼東征伐とは別に実行されていて、明帝の勅命で、公孫氏の任じた郡太守は更迭され、新任太守のもと、帯方郡は、平和裏に皇帝指揮下に回収され、倭人に対して「すぐさま」参上を指示したと考えるのが、自然な成り行きではないか。

 郡の太守弓遵と使者梯儁は大月氏國に匹敵する同等な国とすべく距離、人口を報告した。

 帯方郡太守にとって、関心の的は、雒陽の意向であり、西方の大月氏などは無縁で、何も知らない/分からないから、「匹敵」など考えようもない。とんだ白日夢である。
 「倭人伝」に、距離・人口は書かれていない。史料にない事項を言い立てるのは、内野氏の白日夢であろうか。誰か、覚醒してあげないのか。
 郡太守と官人使者(行人)は、身分違いで対等ではないから、結託して策動することは不可能である。つまらない法螺話は、止しにした方が良い。新参の蛮夷への使者は、時として、いきなり斬首されるから、大身の官人は任用されないものである。

 そもそも、新任の郡太守には、使節団の現地報告を「捏造」する動機は、全く無い。「こと」が露見すれば、一族皆殺しである。また、雒陽での評価を上げようにも、当然、このようなつまらない事項に、命をかけるはずがない。つまらない法螺話は、止しにした方が良い。
 官人使者にしても、行人の大命を受けて、艱難辛苦の果てに大過なく往還したのに加えて、意味不明な指示を受けて報告を捏造して、それが功名になるのかどうか、皆目不明だから、命をかけるはずがない。つまらない法螺話は、止しにした方が良い。

 何しろ、いくら粉飾しても、何れは、郡倭の間で使者が往来するから、「道里」「戸数」は、知れるのであり、この時点で、ことさら必死で粉飾しても、早晩露見するのは明らかである。郡太守は、子供ではないから、その程度の分別は有していたはずである。つまらない法螺話は、止しにした方が良い。

 それにしても、明帝の手元には、生前に帯方郡の「倭人公文書」が、大挙将来されていたのであるから、「倭人」の身上は、とうに知れていたのである。公孫氏のもとで、長年東夷管理に従事していた郡太守が更迭され、新米に入れ替わっていたから、史料継承に難があったにしても無理のないところだが、最終的に、使節団派遣までには、倭までの行程は四十日程度と知れたのである。
 経過を振り返ってみると、「道里」「戸数」は、公孫氏の公文書遺物が、明帝に無批判で採り入れられた結果と見るのが、もっとも自然であろう。そうではないと主張するのであれば、半仮睡の臆測で無く、具体的な根拠を示すべきである。 

 どう考えても、内野氏の提案は、とんでもない言いがかりでは無いかと思われる。それとも、現代の古代史研究機関は、そのような捏造が日常茶飯事なのだろうか。とんだ、時代錯誤の幻想である。

功労者
 魏の大将軍 司馬懿の東方経営を進めた功績とすべく皇帝に強く上奏した。

 創作された司馬懿の「東方経営」は、時代錯誤の無意味な概念である。従来、司馬懿は、西方の蜀漢侵攻に対する「抑え」であったから、遼東方面に関する知識は白紙に近かったと見える。もちろん、何の功績も立ててはいない。
 仮に、司馬懿が「東夷」情勢を評価したとしても、地域の「交易」は、遼東半島から山東半島を往き来する渡海船が主力であり、また、遼東郡太守公孫氏は、勢力拡大に際しては、南方/西方との交易が盛んであった山東半島青州地域の支配に尽力したのであり、帯方郡の管轄する「荒地」は、意識の片隅にしかなかったのである。
 司馬懿の意識した「東方」は、高句麗の支配地域であったと見えるのである。氏の意見は、随分方向感覚が、ずれているように見える。

 帯方郡の管理した韓、穢、倭は、札付きの貧乏諸国/荒地であり、経営しようがない。漢武帝が朝鮮国撲滅後に、強引に四郡を創設したが、半島東南部諸郡「嶺東」は、一段と貧乏な荒地であり、漢制の郡が設立されたとしても、郡太守の粟(俸給)の出所がなく、忽ち「経営破綻」して引き払っているのである。残ったのは、半島中部以北の楽浪郡、そして、玄菟郡である。

 それにしても、誰がどのように「強く上奏」した証拠があれば提示いただきたい。内野氏の私見では、当時、司馬懿が最高権力者だったのだから、別に誇張の必要は無く単に上奏すれば良いのである。

 因みに、半島の三韓諸国は、晋代以降、高句麗が公孫氏の軛を免れて大挙南下したこともあって、百済と新羅の自立に進んで、高句麗共々帯方郡の支配を跳ね返し、帯方郡は、楽浪郡共々撤退したのである。ことは、司馬懿が、遼東郡の東夷管理体制を丸ごと破壊して「東方経営」など放念したことから来ているのである。

方角
 東南の大海の中、会稽東冶の東、呉の背後の国。南方的記述。

 どこの「東南」か、意味不明である。「大海」の方角ではないはずである。恐らく、氏の語彙にある「大海」は、倭人伝の説く「大海」と大きくずれていると思われるが、氏は明言しないので、何も伝わらないままである。
 当時の中原人の世界観で、魏から見た「呉の背後」 は、交址(ベトナム)、緬甸(ミャンマー)と思われる。
 「南方」も、どこから見て南方なのか不明である。「帯方郡から見て南方」と言うなら、狗邪韓国も、壱岐、対馬も「南方」である。とんだ呪文である。
 時の皇帝は、恐らく少帝曹芳であろう。さらに疑問を掻き立てる「呉の背後」については、後述する。

人口
 女王国の都7万戸(35万人)倭国15万戸(75万人)日本人口(鬼頭宏)59~75万人。あまりに少ない数字。
 推測200~300万人と多めに見て九州30~45万人、倭国15万人)

 三世紀当時「人口」は無意味である。とんだ時代錯誤である。戸数」から、現代流の「人口」を換算するのは、各戸の内情が不明である以上、無謀である。戸数が想定しているのは、夫婦と子供のようだが、人口に子供をどう数えるのか、不明であれば、不明と唱えるべきである。
 当時、倭人に戸籍簿はなく、従って、「人口」を数える制度はなく、精々、推測/臆測した「戸数」集計である。ただし、戸籍が記帳されていた証拠はない。存在したのは、各戸に対する耕作地割り当ての記録程度であり、これは、国制の根幹であるから、厳重に維持されたが、各戸構成は、維持されていたと見えない。当時、早世、夭逝はざらであり、各戸の内実を調べ立てる口数、「人口」に大した意味は無いから、これを言い立てるのは、二千年後生の無教養な東夷が、自身の先祖である三世紀「倭人」世界の情勢を知らないことを露呈している。
 蕃王に「都」はないから、「女王国の都」は錯誤/空文である。女王居処「國邑」は、精々数千戸規模と見えるが、当然、「直轄地は無税が常識」であり、「官人、奴婢が多数を占めていれば、農民は希少であった」ろうから、ことさら「戸数」を言うのは不遜である。
 倭国15万戸は、倭人伝に根拠の無い憶測である。二千年後生の無教養な東夷の「世界観」の呪縛を振り払って、三世紀人の「世界観」まで降りていかないと、「倭人伝」の描いている「世界」は、わからないのである。「人口」論は、氏の白日夢であろう。
 三世紀時点未生の「日本」の「人口」は、重ね重ね、時代不明、根拠/対象領域不明の「ごみ情報」である。後世、恐らく、八世紀あたりで戸籍制度が確立されて、以後、少なからぬ紙情報が残存しているのだろうが、「鬼頭宏」なる「専門家」の立論手法は不明である。提言、仮説、断言の何れにしろ、前提や条件付けが欠落して、数字だけが、ポツンと一人歩きしていては、単なる法螺話とされかねない、個人攻撃になっているのである。
 恐らく、八世紀近辺の時点の豊富な史料を根拠とした折角の推計情報を、根拠とできる情報が一切存在しない三世紀に転用されて「あまりに少ない」などと手厳しく批判/非難されるのは、ご当人にして見ると妄想と云われかねない「濡れ衣」ものであり、そのような悪名は圏外に排除いただきたいと願っているはずである。

距離
 都洛陽から帯方郡まで5000里 帯方郡より女王国1万2千余里 計1万7千里。
 記録12000里×434m=5200㌔ インドネシア方面まで行ってしまう。短里80m 960㌔実数相当 九州圏内

 帯方郡は、後漢末建安年間の設立であり、笵曄「後漢書」に収容された司馬彪「郡国志」には、洛陽からの公式道里は記録されていない。「魏志」に公式道里記事は無く、後年の宋書にも無く、晋書にもない。内野氏は、何を根拠に存在しない公式道里を標榜しているのか、不審で、不合理である。

 「基本的」確認であるが、「倭人伝」が明記しているのは「郡から倭まで」「万二千里」であり、「帯方郡より女王国」とは書いていない。「魏志」に書かれていない数字を、臆測で足し合わせても、臆測の段積みでは、「虚妄に過ぎない」と言われそうである。誠に不合理である。

 ついでながら、「倭人伝」に「郡から狗邪韓国まで七千里」と起用されている里数の根拠が、誤解の余地無く明示されているのを無視して、単純に、二千年後生の無教養な東夷の臆測で、全行程普通里で目的地を想定するのは、非科学的で、不合理である。非科学的な思考は、早く一掃していただきたいものである。傍証であるが、「倭人伝」道里に対して、魏、晋、南北朝、隋、唐、宋に到る期間、伝統的に何ら公式の異議は立てられていないのである。
 現代で云えば、安本美典師も、伝統的な解釈に従っているのである。一度、教えを請うべきでは無いか、と愚考する。

 さらについでながら、当時どころか、秦漢魏晋の歴代王国で、「公的制度としての短里」など、「どこにも存在しなかった」とみるべきである。内野氏程の方が「短里説」を支持するのは、如何なものか。当然、意義の成り立たない「長里」も、存在しないのである。単に、普通「里」と云えば済むのである。現に、正史には、そのような「里」が書かれているのであり、ほぼ唯一の例外は、「倭人」に関する万二千里由来の記事である。

追記: 2024/05/12
 正史たる隋書の「俀国伝」は「古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里」と称しているが、肝心の笵曄「後漢書」東夷列伝に、そのような記事は、一切存在しないのは先に書いた通りである。
 雒陽から帯方郡の道里が不明なのは、依然として解明されていない。誠に、趣旨不明で、不可解である。

                                未完

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