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2024年4月22日 (月)

私の本棚 51 水野 祐「評釈 魏志倭人伝」 9/10 補充 改頁

 雄山閣 新装版 2004年11月 (初版 1987年3月)
私の見立て★★★★☆ 『「倭人伝」は「唯一無二の史料』 2016/06/18 追記 2020/06/07 2021/07/17 2024/04/21

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*大河幻想
 あるいは、先ほど示唆したように、帯方郡から山間南下した北漢江が、漢城(ソウル)東方で南漢江と合流している合流点から、南漢江を遡行する「水行」の道を採れば、これも一つの大河とみることができるかも知れない。
 一方、漢江河口部は、沖積平野、河口デルタであり、良港どころか海港は一切設けられない。海港は海岸の崖が迫り出した入江で、船舶接岸には水深が必要で、風波を避けられる海湾が必要なのである。
 また、南漢江上流は嵌入蛇行しているため遡行は不可能であり、洛東江上流との間が小白山地で遮られているため、早々に陸道に移行するのである。
 戦前、現地を精査した岡田英弘氏は、韓国鉄道中央線を参照した上で、竹嶺越えの官道に想到していたが、何故か、郡から狗邪韓国の行程として注意喚起せず、虚構の「海行」にひたったのは、残念である。

*西岸領域確認
 嶺東事情は置くとして、半島西岸の事情を言うとすれば、漢江河口部を過ぎた南部は、山地が海に張り出して、島嶼、浅瀬が多く、港湾があっても、後背地が狭隘で耕作地が乏しいので、当時、沿岸交易、市糴は希と見える。

*百濟南遷
 後世、南下した高句麗の大軍が百済王城漢城を包囲壊滅し、南方に退避した百濟王族が、南方の熊津、泗沘で再興したが、漢江付近から山東半島に至る海上経路は高句麗の手に落ち、百済は、南部諸港に逼塞し、漢江海港の奪還に挑んで、高句麗と激しく抗争したから、南部海港繁栄は、幻想と見える。熊津も泗沘も内陸であり、海港とはほど遠い。

*隋唐使来航
 後年、隋唐倭使は、青州から黄海に乗り出し半島西南岸沖を通過して九州北部に乗り入れる帆船航行路を新規開拓して竹斯到来したのを見ると、沿岸交通路は未設営であったと見える。
 以上の議論は、「正道」議論であり、「邪道」、つまり、斜めで遠回りの曲がった径(みち)の存在は否定できない。径があれば人物往来はできるが、それは官道でなく馬の通れないぬけみち「禽鹿径」である。

*「循海岸水行」確認
 氏が、以上の難点に気づいていれば、「循海岸水行」が、郡狗区間「水行」規定か、官道の注記に過ぎないか、考察したはずであるが、残念ながら、氏もまた、倭人伝の解釈でありがちな無意識の改竄を施したと見られる。

*大作の瑕瑾
 いや、いかなる史学者も、思い過ごしや勘違いは避けられない。大部の労作が、この一点で全面否定されるべきではない。全長万二千里、四十日行程の、ほんの一点に、瑕瑾があるという指摘だけである。

                                未完

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