新・私の本棚 新版[古代の日本]➀古代史総論 大庭 脩 2/2 再掲
7 邪馬台国論 中国史からの視点 角川書店 1993年4月
私の見方 ★★★★★ 「古代の日本」に曙光 2024/01/11, 04/20,05/24
*加筆再掲の弁
最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。
*海上の行程
して見ると、氏が「渤海湾」行路と見ているのは、実は、「黄海二行路」であって、いわば、海上の「橋」と見た方が時代/地域相応の見方と思われる。いや、両行路は、三世紀時点では、便船の規模、頻度に相当の差があったはずであるから、実用的には、遼東青州行路が独占していたと見えるのである。
後世唐代には、二行路が並び立ったようであり、円仁「入唐求法巡礼行記」によれば、青州に「高句麗館」と「新羅館」が繁栄を競っていたとされているが、あくまで隔世譚である。三世紀、新羅、百済は、萌芽に過ぎず、行路と言うに足る往来はなかったと推定される。
つまり、遼東から青州に至る「黄海海上行程」は、始点~終点に加え途上停泊地、全所要日数も決定し、並行「陸道」(陸上街道)が存在しない「海道」であったと見える。但し、公式道里ではないから、正史の郡国志、地理志などには書かれていないのである。
と言うことで、そのような行程が、常用/公認されていても、公式道里に採用されていないから、陳寿は、いきなり「倭人伝問題」に使用して、高官有司から成る権威ある読者を「騙し討ち」することはできなかったのである。精々、事前に、伏線/用語定義して、読者を納得させる必要があったのである。
魏の領域で街道の一部が海上行程に委ねられた先例があったとしても、沿岸行程には、必ず並行陸路が存在するから、あてにならない、ひねもす模様見では、公式道里として計上されないので、ここではあてにできないのである。
□「倭人伝」水行の起源~余談
かくして、陳寿は、現地運用の「渡海」を参考に「倭人伝」道里行程記事の用語を展開したのである。
つまり、陳寿は、苦吟の挙げ句、海岸を循(盾)にして対岸に進む「海道」行程を、史書例のある「水行」に擬し、海岸沿いでなく「海岸を循にして進む渡海行程を、この場限りで「水行」と言う」と道里行程記事の冒頭で定義し、混迷を回避しているのである。
深入りしないが、そのように陳寿の深意を仮定/理解すれば、当然、「倭人伝」道里行程記事の混迷が解消するはずである。
言うまでもないが、当方が『二千年前の史官の深意を理解して道里行程記事の混迷が解消する「エレガント」な解を創案した/見通した』と自慢しているのでは無い。あくまで「れば・たら」である。
□『「邪馬台国」はなかった』の最初の躓き石~余談
古田武彦氏は、第一書『「邪馬台国」はなかった』 (1971)に於いて、当該記事を漢江河口部の泥濘を避ける迂回行程の「水行」と解釈し、以下、再上陸し半島内を陸行する行程と見たが、帯方郡を発し一路南下すべき文書使が、さほどの旅程がないとしても、迂遠で危険な行程を辿る解釈は、途方もなく不合理で、論外である。おそらく、古田氏が、海辺に親しんだ「うみの子」であったために、抵抗なく取り組んだものと思われるが、「倭人伝」の読者は、大半が、海を知らない、金槌の中原人であり、帯方郡から狗邪韓国までは、整備された街道を馬上で、あるいは、馬車で日々宿場で休みながら、一路移動すれば良いのであり、安全、安心な陸路があるのに、命がけ/必死の「水行」など、ありえないのである。
冷徹な眼で見れば、古田氏ほどの怜悧な/論理的な論客が、第一書の核心部で、迂遠な辻褄合わせ、ボロ隠しを露呈しているのは感心しないが、在野の研究者として孤高の境地にあったことを考慮すれば、論理を先鋭化するためには無理からぬ事と思われ、また、一度、確固として論証を構築したら、後続論考で姑息な逃げ口上を付け足さなかったのは、私見では、むしろ、首尾一貫/頑固一徹と思われる。
*「景初遣使」談義
続く遼東郡太守公孫氏の興亡記事はありがたい。但し、「倭人伝」に厳然として継承されている「景初二年」の記事を、後世改変に乗じ、留明確な論証無しに「景初三年」と改竄するのは感心しない。
氏は、司馬懿による遼東平定の「傍ら」、楽浪・帯方両郡が魏の支配下に入ったとしつつ、さしたる根拠もないのに、三年説の「蓋然性」が高いと見るが、原文を尊重すべき二年説を「可能性」と評価を一段押し下げた挙げ句、両説を偏頗に評価しているが、誠に趣旨が不明である。つまり、史料を否定するに足るべき論証が不調であり、いわば、学術論者として醜態をさらしている。
氏の筆致は、言葉を選んで暴論を避けているが、だからといって、「偏頗」の誹りを逃れることは、大変困難と見える。
氏の書法で言うと、『「二年説が三年説より信頼性が高い」可能性を完全に否定する論理はあり得ない』と思われ、とんだ躓き石で足を取られている。
◯「親魏倭王」などのもつ意味
正史「三国志」で、蛮夷称揚の例として、二例が際立つとみえるため、東夷「倭」と西戎「大月氏」の二事例を並列させる論があるが、氏によれば、史書の事例で、漢魏晋の四夷処遇では、鴻臚において『「親」(漢魏晋)某国「王」」の詔書/印綬を下賜したと指摘している。
同様に、氏の指摘とは別に、後漢代、辺境守護に参上した蕃王一行を雒陽で歓待し、一行全てに余さず印綬を与えた記録がある。ただし、そのような漢蕃関係事例の大半は、陳腐として本紀/列伝から省略されていると見える。さらに、氏は、賢明にも、壹與遣晋使の魏印綬返納、親晋倭王綬受を示唆している。同記事が、本紀/列伝から省略されているのは、当然の儀礼だからである。
氏も示唆しているように、晋の天子が「親魏倭王」印を放置することがないからである。
◯中郎将、校尉
難升米、掖邪狗などに与えられた称号は、魏制になく、蕃王高官に相応しい前提である。官制官位には俸給、格式が伴うから、蛮夷には付与されないのである。
また、新参の際に「自称」したと明記されている「大夫」は、官制のものであり、当然、蛮夷のものには許されないのだが、蛮夷の無知を示すものとして、自称したのを鴻臚が記録しているのである。正史四年の遣使では、依然「大夫掖邪狗」とあったものが、壹與の遣使に於いて、「倭大夫率善中郎將掖邪狗」と改善されているが、むしろ至当である。
余談であるが、このように厳重な訓戒・指導を受けていながら、後年、書紀推古紀の大唐(実際は、隋)使裴世清来訪記事に於いて、「鴻臚寺掌客裴世淸等」の応対役として「掌客」を新設したと正式に記録されているのは、何とも、つまらない/重大な失態である。
*「一大率」異聞~私見
氏は、蛮夷官名に関して、「率善」が、官制に無い蛮夷のものと明言されているが、至当である。念のため言い置くと、蛮夷の者が、官制の官名をいただくことはあり得ないのであり、それ故、後の事例では、「倭」を前置する是正を行ったものと見える。
私見では、倭の蛮夷官位である「倭大夫率善中郎將」が転じて縮約され、「一(倭)大率」となったと見える。もちろん、単なる思いつきである。
□一点総括~「病膏肓」~つけるクスリが無い
大庭氏は、『「倭人伝」テキストを気ままに改編して論じる安易な風潮』に釘を刺すが、かかる風潮は、通説論者の「病膏肓」で「馬耳東風」、苦言には、一切耳を貸さないと見える。「糠に釘である」。半世紀以上経っても、一向に是正が見られないのであるから、これは、最早癒やしうる病ではないようである。
「病でない」となると、つけるクスリが無いのである。
以上
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