新・私の本棚 笛木 亮三 季刊 邪馬台国 第142号「卑弥呼の遣使は景初二年か三年か」 新稿再掲
「その研究史と考察」 季刊 邪馬台国142号 投稿原稿 令和四年八月一日
私の見立て ★★★★☆ 丁寧な労作 ただしゴミ資料追従の失策 2024/02/08 補筆 2024/04/08, 2025/02/05
*加筆再掲の弁
最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。
◯はじめに
当記事に関しては、既に先行記事に於いて、丁寧に批判していますが、どうも、当方の粗忽で論旨が不明確のようなので、ここに、筋の通った批判を試みました。
暫くして、落ち着いて読み返し、誤字訂正などを加えた上で、要点を加筆しました。
◯結論
本件に関する論義は、近年でも、既出論考で議論されていますが、笛木氏が、誠実な考察を進めたものの、根拠として採用された諸論考が、論考の体を成さないものも多い、粗忽なものであったため、周到な史料考証の果てに、要するに「誤謬をてんこ盛りにした私的記事群」に足を取られて、とんでもない結論に陥ったことを、整然と批判することにしました。
1.大局観の喪失
笛木氏の論考は、『原典史料である陳寿「三国志」魏志の記事に誤字があった』という後世論客の批判に原典と同等、ないしは、それ以上の価値を見て考察していますが、これは、私的サイト記事に溢れている国内視点の古代史考察に蔓延した「宿痾」に感染したと見える氏の誤謬です。
そもそも、西晋朝は、漢魏歴代王朝が維持していた国家制度が健在であり、又、過去、歴代史官が監修していた「史実」(公文書記録)が、健在であったので、その時点で、最高の人材を投入した写本事業は、数次の校訂を経て、およそ、現代俗信である「ヒューマンエラー」とは無縁の「完璧に近い」写本が行われたと見るべきです。以下、刊本事業が挙国一致で行われた北宋代にいたるまで、原典史料の写本継承は、歴代王朝によって、いわば「国宝」として厳格に管理されていた最上級の史料の系譜であり、これに異議を唱えるには、同等、ないしはそれ以上の史料を、論拠として提示する必要があります。
世上溢れている無効な諸説の大半は、陳寿「三国志」の信用失墜を唯一、最大の目的として喚起されているものであり、無視はできないとしても、適切な処遇を期すべきものと思われます。素人目には、笛木氏は「倭人伝」泥沼に塗(まみ)れ小局に囚われて、大局を見失っているものであり、諸兄姉の判断を混濁させるものになっていると愚考します。
一言で言えば、氏の論考は、原典史料に対して、明らかに信頼性の劣る後世史料をいわば、無審査で提示しているのです。この点で、欠格後世史料は、早々に棄却されるべきものです。
2.史料批判の錯誤
繰り返すと、氏の論考は、先行する論客の誤謬を検証無しに収録しているので、いわば、泥沼をバケツで浚えている態であり、いたずらに、視界を混濁させているものと思われます。重大な失当として、「史料は、原典から最初に筆写された際に、必然的に誤写の可能性を有している」という、無意味な意見であり、これは、氏の鑑定眼が曇っていることを証しています。
歴代王朝が、三国志「国宝」写本を管理するのは、市井の、いわば野良写本と異なり、「完全」主義で行われていて、最高の学識の人材を、最優先で投入していて、繰り返し、照合、監査した上で、写本を引き継いでいるので、誤写の可能性は、限りなく無に近いものです。そのためには、誤写が露見した場合、責任者の馘首、文字通りに断罪されなくても、単に、解任、失職にとどまらず、一族全体が死に至る可能性のある処分が想定されているのです。無造作に、「アメとムチ」というものの、中国古代における鞭打ちや杖刑は、しばしば、というか、大抵は、死に至るものです。
これに対して、国宝から、順次、写本の階梯を下っていくと、そのような厳格な管理体制はなく、果ては、単なる、家宝、書庫の肥やしになり、誤字は、蔓延っていても、責任を問われないものです。むしろ、走り書きで手早い写本が貴ばれるのです。
ということで、遠隔地の自由な写本資料を根拠に、「国宝」写本の質を問うのは、見当違いです。先に述べたように、陳寿「三国志」の信用失墜を目的として「誇張」されているので、そのまま信じてはいけません。
因みに、列挙されている後世資料は、全て、写本継承されているものですが、全てが、「翰苑」や「書紀」のように、史料としての意義のない「誤伝」ではないのは、言うまでもありません。粗悪な事例を一律に適用するのは、乱暴です。
3.歴史経過の無視
ここでは、三国志原本の写本継承の背景を述べます。
西晋恵帝台、陳寿が遺稿として後生に托していた、三国志「決定稿」が、西晋皇帝に上程され、「国宝」と認定され、帝室書庫に所蔵されたものです。但し、門外不出の「国宝」は、一切、史料として利用できないので、厳格な写本工程により「副本」(レプリカ)が謹製されたことは明らかです。「レプリカ」は、原本と同一の素材、つまり、極上の筆墨、写本工、校正官を登用したものであり、当面、政府高官などへの写本配布の原本とされ、その後は、帝室書庫で閲覧に供されたものと見えます。「禁帯出」、「門外不出」というものの、所定の閲覧、所引筆者は、書庫管理者の許可/管理のもとに可能であったと見えます。
つまり、政府高官以外の識者の所蔵/参照できるものではなかったので、さらに、権威ある写本が作成されたものと見えます。
ということで、次第に写本階梯を下ると、次第に取り扱いが自由になるものの、それぞれの写本は、経済原理によって、それなりの精度/信頼性のものになったものと推定できます。
南朝劉宋の高官であった笵曄は、文筆家としても名をなしていたので、公的な書庫以外に、私的な書庫を形成していたものと見え、左遷されて、建康を離れるときは、任地に蔵書を移動させたものと見え、その在所でも、陳寿「三国志」が、書庫に所蔵されていたことは確実と思われますから、比較的高級な(時代原本に近い善本)写本であったと見えます。つまり、教養ある高官が、閲読するための史料なので、公的な写本工の手になる、それなりに高精度のものであったと推定できます。
但し、陳寿が奉職していた西晋は、内乱、北方異民族の大挙侵攻という国難で、首都が陥落して国家として滅亡し、皇帝位の継承権のある皇族が、ただ一人難を逃れて、南方の建康に逃避し、随行できた高官有司を動員して東晋を起こしたのですから、国宝級四書五経などは、辛うじて持ち出せたものの、陳寿が、三国志の編纂に使用した公文書類は、大半が失われていたものと見えます。
つまり、笵曄が、後漢書「東夷列伝」「倭条」を書いたとき、魏代「史実」を記した史料として利用できたのは、ほとんど陳寿「三国志」魏志倭人伝だけだったのです。
*後代文献復習
本件に関する論義は、近年も各種論考で議論されていますが、笛木氏が、周到な史料考証の果てに、「誤謬をてんこ盛りにした私的サイト記事」に足を取られて、とんでもない結論に陥ったことを残念に思います。当ブログでは、各種私的サイト記事を丁寧に批判し念入りに否定していますから、笛木氏は、当ブログの趣旨を見過ごしているのであり、残念ながら、考えちがいというか、不勉強による浅慮を根拠にしているので、この時点で「自動的に」考慮に値しない「ジャンク」となります。
笛木氏の実直な献身的努力のおかげで、それこそ、ゴミの海中山島をかき分ける徒労は避けられるのですが、反面、笛木氏の貴重な労作は、資料解釈に紛れ込んだ妄言のたまり場と化しているのです。
特に、資料解釈の結論部で、不意打ちで「いかがわしい意見」を採り上げて、折角集積した先賢諸兄姉(当然、自身のブログ記事は尊称の対象外です。念のため)の見解を一括遺棄するという、大変な間違い/取り違いをしていますから、丁寧に、率直に批判しています。
二重引用になるので、原記事に対する言及を避け、要するに、当記事の責任は笛木氏に帰属するので、当該意見の由来は明記していませんが、興味のある方は、原文を参照いただきたいものです。
*誤解の起源
陳寿「三国志」魏志原文の「又」が、みずほ書房版「三国志」で、学術的に正確に、「さらに」なる古典的な日本語に翻訳されているのに対して、これを、現代の無教養な論者が、「自然に」、つまり、自身の限界のある「脳内辞書」で解釈して、権威ある辞書の参照を怠ったため、魏志の真意を察することができずに「楽浪、帯方二郡の回収時期を、公孫氏滅亡後と勘違いして決め込んでいる」ものであり、笛木氏が、そのような意見に操られたのは、浅慮に属するものと思われます。
笛木氏の発言にも関わらず、史料批判とは、古来、何事も、繰り返し検証を積み重ねるものであり、一片の野次馬発言で動揺するべきではないのです。
「又」は、漢字一字ですが、文意解釈上の要点であり、笛木氏の別コメントにあるように、字数だけ捉えて「わずか」などと「二千年後生の無教養の東夷」が安易に切り捨ててはならないものなのです。
要するに、司馬懿の公孫氏討伐に時間的に連動せず、但し、ものの理屈から、これに「先行して/先立って、両郡を皇帝指示の少数部隊により、太守を更迭して、遼東公孫氏の指揮下から外して、明帝直轄の新任太守に無血交替した」という趣旨が見てとれていない浅慮の失錯と見えます。何しろ、両郡太守は、皇帝の指揮下にあるので、勅命の紙片一枚で、更迭できるのです。
但し、当ブログを参照している笛木氏は、文脈を捉えず、肝心の指摘を見過ごしているので、今回の指摘も、見過ごされるかも知れません。あるいは、名「解釋子」が、そのような「回収は、両郡郡兵を遼東軍攻撃に参加させる目的があったなどと、無謀な創作をしている」のに影響されたものかも知れませんが、それは、とんでもない臆測も良いところで、陳寿が「密かに」と、当たり前の事項を但し書きした真意を見過ごしています。
因みに、引用者が「景初中」を237-239と見るのも、軽率の誤訳です。景初三年は皇帝のいない異例/特異な期間なので、明帝の治世と見ることは許されないのですから、史官たる陳寿が意図したのは、景初一,二年の期間であるのは自明です。景初三年を含めたと解するのは、史官に対する侮辱-警告無しに一発退場です。ですから、「景初中」というのは、景初元年と景初二年に絞られます。
ついでながら、確たる史料である「魏志倭人伝」定本に対して、異説として提示されているのは、倭人使節は景初三年六月に帯方郡に到着した」という説ですから、明帝没後六ヵ月の時点です。その後、数ヵ月を経て洛陽からの上洛許可を得て帯方郡を発進しても、洛陽に到着するのは、さらにまた数ヵ月後という成り行きなので、自動的に「皇帝たる少帝曹芳が、倭使節の上書に接するのは景初三年に収まらず、正始元年、ないしは、それ以降であった」と主張していることになると思われます。其の場凌ぎの言い訳は、言うはたからボロを出す例です。
冒頭に述べたように、論争の通則として、「明らかに誤謬である前提」に立った意見は、自動的に、根こそぎ誤謬となりますので、以下のご意見は、いかに念入りに構築されていても、自動的に、根拠の無い臆測となります。特に、本件は、日本語訳文の解釈の齟齬なので、解釈の誤解は、みずほ書房「三国志」翻訳者の責でなく、これを「現代語」に読み替え/解釈したものの責です。
時に、愛情をこめて揶揄するように、無批判の先行見解踏襲は、夕暮れに、疲れ果てた旅人が路傍の「温泉」にいきなり飛び込むのと同様で、まずは、狸に化かされていないことを入念に確認して頂く方が良いでしょう。何しろ、日本古代史の「通説」は、八百八狸の騙し芸の名所なのです。被害者は、枚挙のいとまがないのです。
*同日追記
どうしても気がかりな部分をとりだして、精査してみました。
・推理とネタばらし
司馬懿が明帝崩御の景初三年春正月一日の後少帝の太傅(後見人)となって尚書省の長官に就いているので、人事権も掌握し、部下の劉夏を帯方郡太守に就け、戦略上重要な場所にある倭国を朝貢させたと推理できます。倭国王への詔書は司馬懿が書かせたものだと分かります。
つまり魏志倭人伝にほぼ全文掲載された詔書は、陳寿がそのまま転載したということです。陳寿は西晋の宣帝司馬懿を称揚するために魏志倭人伝を編纂したのです。晋書にも東夷の朝貢は司馬懿の功績だと記されているのですから、倭の魏への最初の遣使は明帝崩御後の景初三年六月が正しいと言えるのです。
*コメント
見事な創作/解題ですが、客観的な根拠は見られません。
丁寧に解説すると、後に司馬懿が任じられた太傅は、少帝のお守り役/名誉職であり、特に権力はありません。世上、司馬懿が、太傅なる閑職に押しやられたものの、依然として軍権を保持したという「思い込み」が出回っているようですが、私見では、裏付けの乏しい臆測のようです。
何しろ、帝国政府は、多くの組織に分化していて、人事権も、同一組織に限られていたのです。つまり、先に滔々と述べられたのは、古代中国の事情に気づかない、たんなる時代錯誤なのですが、誰から教わったのでしょうか。いえ、別に、「ほら吹き童子」の名前を知りたいのでなく、実(じつ)のある根拠を示してもらいたいだけです。
晋書は、唐代に「皇帝」が官僚に命じ司馬氏を貶めるよう編纂させた「正史」史上初の画期的な官製「ダメ史書」ですが、なぜ、信用されるのでしょうか。
因みに、常識的な景初二年に従うと、帯方郡回復は遼東戦役の最中であり、司馬懿が任務以外の策動をすることはあり得ないのです。また、朗々と騙られている「戦略」もなかったのです。また、皇帝詔書は、高度な教養が要求されるので、担当が決まっていて、文筆に信用に無い武官の司馬懿が書くことは絶対ないのです。というか、笛木氏の説に関係しない余談でしょうから「蛇足」でしょう。
ということで、笛木氏のお話は、本末転倒しているのです。「景初遣使三年六月」仮説を、不退転の根底/出発点/大前提に据えて、寄って集って寄木細工で物語を組み立てているので、辻褄が合って見えるだけです。
当方の意見としては、ご力説のように、三国志「魏志」が、西晋皇帝の帝詔により司馬懿に迎合するよう編纂されたとしたら、なぜ、燦然たる倭使事績が、読み人も希な巻末/隅っこの倭人伝に、「わずか二千字」で、ひっそり/わかりにくく書かれているのかということです。司馬懿を顕彰する「戦略」があったというなら、「三国志」に司馬氏の悪名が残されているくせに「司馬懿」伝がないのが、まことに不思議です。逆臣/国賊である劉備、孫権にとどまらず、司馬氏に叛旗を翻して及ばず族滅された毋丘儉にも、「伝」はあるのです。
一見すると、笛木氏は、脳内に、現代人が現代語の概念で蠢く「時代劇」世界を展開されているのかと愚考する次第です。そこでは、現代概念が通用しているのでしょうが、「現実」の古代世界は、大きく様相が異なるのです。
いや、そのような個性的世界観は、開祖岡田英弘氏初め、多数の追随者がいらっしゃるので、共感の声を聞くことが多いでしょうが、それは、高名なカズオ・イシグロ氏(ノーベル文学賞受賞)の「フィクション」観と通じるものですが、『フィクション」古代世界が整合して見えても、現実の混沌たる古代とは別世界です。このあたりが理解できないで、現代語で突っ張っているとしたら、それは、中国古典文書解釈の常道を踏み外しているということです。
*追加コメントみたび 2023/11/15 2024/04/08
当ブログ読者には、「耳タコ」だろうという事で、飛ばしましたが、初見の方のために、説明を加えます。
七万戸の邪馬台国は、誤読です。まあ、尊重すべき「倭人伝」を、はなから否定して「邪馬台国」と改竄して、原文が読めなくなっているのでしょうが、自然に解釈すると、女王は、精々千程度(文飾か)の端女(はしため)に傅かれていたことですが、端女は戸数に関係しないので、農耕「戸数」は無いに等しいのです。まして、女王の居城、奴婢に課税することはあり得ないので、女王居所自体の「戸数」は無かったのです。
「倭人伝」には、「南至邪馬壹國女王之所」としか書いていないので、卑弥呼が自己の居城を「都」(みやこ)としたというのも、世上、普(あまね)くありふれていますが、誤解です。「邪馬壹国」と明記されているのを「邪馬臺国」と改竄する「誤解」とは、別次元ですが、文脈の誤解は文章解釈を誤らせる点では同罪です。
班固「漢書」西域伝で、蛮夷の王の居所を「都」としたのは、ただ一例であり、漢に匹敵する文明大国であった西域西端の巨大王国「パルティア」だけです。世上、班固「漢書」西域伝を、混乱していると片付けている論者がいますが、其の伝で言えば、過去長年の史家、中には、欧米の史家もいるのですが、全てが、勘違い、取違していたことになり、暴言も良いところです。これほどの暴言を正当化するには、班固「漢書」西域伝全篇の悉皆評価が不可欠であり、それがないということは、当該論者の主張は全て信用されないということです。
この部分の考察から、陳寿が東夷の新参蛮夷の王居処/居城に「都」の尊称を与えるはずが無く、ごくごく簡単に「誤解」と分かるのです。
念のため、丁寧に念押しすると、蛮夷の固有名詞/地名に「都」の字があっても、それ自体は、表音字となれば、「不敬」とは限らないのです。蛮夷が上申した文書は、例外になるとも言えます。ともあれ、「不敬」であれば、はなから、「魏志」に書かれるはずがないのです。
五万戸の投馬国は、確かに文飾ですが、笛木氏の書き漏らしている二万戸の奴国の二大国共々、笛木氏が虚飾/誇張と断定する「戸数」の文字を書き残したのは、遼東太守時代の公孫氏であり、後世になって公文書を引き継いだ陳寿は、文書改竄ができないので、ありのままに書き残しただけです。ということで、気に染まないことを全て陳寿に押しつけて非難するのは、筋違いです。対海国、一大国、末羅国、伊都国と続く戸数/家数を見れば、実数は、全て五千戸にも満たないと見えますが、当時、一大率の指導を受けていない奴国、投馬国の二国には戸籍制度がなかったので、戸数は、推定すらできなかったと見えるのです。
陳寿に司馬懿を高める意志があったのかどうかは、「二千年後生の無教養の東夷」には、分からないはずですから、「気づいた」というのは、単なる、良くある錯覚なのです。(「二千年後生の無教養の東夷」は、岡田英弘氏の至言の当家処方です)
「帯方郡東南万二千余里の海上にある魏のライバル孫呉」は、筆が滑ったのでしょうか。魏皇帝は天子ですから、川釣りで釣果を争う「ライバル」などと呼べる相手などどこにもいないのです。(もともと、中国古代史に、生かじりのカタカナ語を持ち込むこと自体、「無法」の極みです)
かって、匈奴は、漢高祖の親征軍を大破して、匈奴が兄、漢が弟という和睦を締結しましたから、「匈奴」は、漢に匹敵する「尊称」と言えますが、それ以外、漢魏西晋は「無敵」だったのです。ちゃんと、同時代の世界観で語らないと、大局を誤るのです。
史料の文脈を精読しない「読み囓り」は、たちまち自滅発言になるのです。
頓首頓首死罪死罪
以上
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