新・私の本棚 日本の古代 1 「倭人の登場」 4 『魏志』倭人伝を通読する 2/2 三訂
中央公論社 1985年11月初版 中公文庫 1995年10月初版
私の見立て ★★★★☆ 好著ながら、俗説追従の弊多々あり 2020/01/15 追記再掲2020/07/07 2021/07/24 2024/04/18
*加筆再掲の弁
最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。
*三国志上程余談
遡って、当段落では、『「倭人伝」を初めて読んだのは、誰かわからない』と、まことに意味不明の愚問を呈されています。
愚問に愚答を返すとして、話題を、陳寿最終稿に絞ると、まずは、陳寿自身であり、次いで、陳寿の遺稿を写本した写本工であり、さらには、それを、陳寿編纂「三国志」として上申した官人となりますが、皇帝が嘉納して初めて官許を得たとみれば、「三国志」を最初に見たのは、(皇帝を除けば)担当高官となります。
なお、陳寿は、別に「三国志」編纂を秘匿していたわけではないので、少なからぬ知識人が、陳寿の稿本の写本を所蔵していたはずです。
諸所に残されている諸般の批判、世評、風聞をみると、陳寿の編纂の過程で関係者の意見を聞くなどの取材が行われていたことの証左であり、西晋高官の許可を得ていたことを物語っています。
「愚問」と断罪したのは、その人名を知っても、何の意味もないからです。
世上、陳寿の「三国志」編纂を私撰と誹る向きがありますが、古来、公認を得ず史書を編纂するのは大罪であり、斬罪処刑の対象です。漢書を編纂した班固は、当初、公認を得ていなかったため、史書私撰の大罪で告発されて下獄し、あわや処刑されるところを、高位の女官であった妹班昭や西域都護に属していた弟班超の助命嘆願で許されて、任官して史書編纂を公認され、漢書を完成しています。
いや、正確に言うと、班固は、政争に巻き込まれて、漢書未完にして処刑され、文筆に優れた班昭が、兄の遺業を引き継いで完成させています。
正確には、漢書は、班固、班昭の共纂とすべきですが、班昭の名は滅多にあげられません。
陳寿の編纂に司直の手が伸びなかったということは、高官の援護のある、官撰に近い編纂であったことは明らかです。官撰史書となるには、皇帝に上申して勅許を得る必要があったので、陳寿の存命中は官撰と言えず、没後に皇帝の裁可を得て官撰となったものの、編纂者が当然行う、序文の整備ができていないのです。
因みに、上申稿に序文をつけて完成形とすると、皇帝の裁可無しに決定稿とした不敬で処刑されかねないので、上申の際には、序文の欠けた「不完全な未定稿」としたものなのです。
古田武彦氏の考察(「俾彌呼」ミネルヴァ書房)では、当時、上申書籍の決定稿の裁可後の仕上げの手順としては、「三国志」巻中に収められて上意を得ていた序文(東夷伝序文)を本来の位置に移動し、後跋を付して補筆を完成する想定だったそうですが、編者が没していて、遺命も伝わっていなかったため、序跋不備で画竜点睛を欠いているとのことです。まことに筋の通った提言ですが、多分、定説となることはないでしょう。
このように、陳寿の没後、程なく西晋帝室に陳寿遺稿が謹呈されて嘉納され、帝室原本として収納された後、公認された帝室原本を基点として、子写本を起こし、次いで、子写本から孫写本と、少なからぬ数の初期写本が出回ったはずです。少なからぬとは、百部まで多くはないが、数部という少ないものでなく、二十部程度だろうということです。当然、西晋帝室写本工房が、世界一の権威をこめて、全力を振るった、高度な写本が行われたはずです。
因みに、三国志編纂時代は、依然として、帝室蔵書は、簡牘、恐らく伝統的な木簡巻物であり、下って、范曄「後漢書」時代も、建康が長江流域ということで、竹簡巻物が正式写本のはずです。何しろ、伝統的な工房ですから、後漢代に普及しはじめた「蔡侯紙」といえども、四書五経、仏典、四書などの蔵書は、簡牘巻物が長く続いたはずです。
一方、西域乾燥地帯などで出土した呉志(それとも、東呉史官編纂の呉書?)紙写本断簡は、明らかに民間写本であり、恐らく、旅行者/商人の携帯が前提の紙写本でしょうが、恐らく、簡牘巻物から写本しやすく荷物にならない紙巻物類と思われます。何しろ、現代では普通至極の「コピー用紙」風の単葉紙は、ページ毎の構成が固定されるので実務に適さず、巻紙に書き連ねることが普通だったでしょう。また、文書としても、巻き上げる方が扱いやすかったようです。ひょっとすると、現代でも、仏教のお経に見られるように、巻紙を折り曲げて製本していたかも知れませんが、出土遺物は、巻物の一部と見えるのです。
いずれにしろ、出土遺物は、写本の信頼性で言うと、帝室写本に近い正式写本とは、とても思えないのです。つまり、「三国志」現存刊本との異同は、異本とみるべきか、誤写、改竄とみるべきか、確かではないのです。いずれにしろ、素性不明の僅かな断簡で、現存刊本の記事の当否を云々すべきではないのです。
何しろ、耐久性の実証された簡牘巻物と異なり、紙文書の耐久性、例えば、吸湿による変質や紙魚食いなどの対策が確立されるのに時間がかかったことでしょう。一方、民間では、補完、形態の難点解消が優先されたでしょう。
*「読者」裴松之ということ
「三国志」の最重要読者は、百五十年後、晋朝南遷行幸の地で、南朝劉宋官人として付注した裴松之でしょう。
同時代の「後漢書」編纂の范曄は、「三国志」講読の動機が不明です。「後漢書」倭伝は「魏志倭人伝」に似た「お話」を載せますが、史官の用語、文体では書かれてないし、魚豢「魏略」が底本の一部とも見えますが実際の所は、全ての詮索が不確かなのです。
笵曄「後漢書」は、先行史書諸家後漢書を明快に書き改めたこともあって、文章表現として明解で、断じて読みやすいとされていますが、史書としては「正確さに欠ける」落第作との批判とも見えます。
*「倭国大乱」の愚~笵曄「後漢書」世界観倒錯
一例として、笵曄「後漢書」に、倭国「大乱」とありますが、史官辞書で、「大乱」は天下が乱れて天子の地位を争う非常事態の用語です。陳寿は、蛮人である倭人の内紛に「大乱」などと「たわごと」を書かなかったのです。
これに対して、笵曄の属する南朝劉宋は、後漢が崩壊した霊帝没年以来、「大乱」の果てに、三国鼎立、つまり、地域自立という形の安定期に入ったのに満足せず、南部の両反乱分子を討伐し収束し全国統一の難業を成し遂げた晋が、あろうことか、王族内紛というお手盛りの「大乱」で秩序を乱し、北方異民族の軍兵を招き込んで、遂に亡国となった結果、中原世界という天下を失った晋朝残党が旧賊地に設立した流亡政権東晋を継いだ流亡の政権であり、劉宋高官であった笵曄は、今さら、古典用語にこだわることもなかろうと蛮人「大乱」に何とも思わなかったのです。
陳寿「三国志」は、中原政権である曹魏が、南方の二大「反乱分子」と対峙したという形式を取っているものの、実は、三国それぞれが、大義名分を抱えていたという「形式」を踏まえていますが、劉宋は旧「反乱分子」の故地に逃げ込んでいて、中原回復のめどがたたない「惨状」にありました。
東晋代の書家王羲之(書聖)は、残された「喪乱帖」で、 晋の南遷以後、天下は乱れ、故郷郎邪に残された父祖の墓が荒らされていると歎いていますが、 後世、そのような「喪乱」 は、司馬氏の乱行によるものであるとの非難が定着し、さらには、そのような司馬氏に、むざむざ天下を奪われた曹氏の不始末を非難する風潮があったことから、三国鼎立は、漢の名分を嗣ぐ蜀漢が統一すべきだったとの風評が起こったようです。
いずれにしろ、笵曄は、曹魏に対して、かなり冷淡であったと考えていいようです。
陳寿から范曄までの百五十年間に、中国知識人の世界観は、大きく倒錯するに至ったのです。
このように、世界観倒錯後の笵曄が、「陳寿が古典的世界観で編纂した倭人伝」を、「謬って」解読し、中原世界を喪失した「謬った」世界観で「後漢書」を書いたのは、明らかですから、そのような史書としての危うさを脇に置いて、行文の流麗さをもって褒めそやすのは、范曄が問題のある不正確な史書を物したと、暗に非難していることになるのです。
杉本氏、森氏の意図は、そのような「春秋の筆法」にあるのでしょうか。一般読者向け書籍は、素人にもわかるように、明解に書くべきではありませんか。
以上、両氏には、苛酷な批判かと思いますが、御両所の高名に惹かれて購入した読者は、それ故、無批判に追従しかねないのです。そのため、本書については、労作としてその価値は認めるものの、倭人伝の誤釈という悪しき伝統(誤伝)の蔓延拡大という見地から批判すると、悪書の誹りは免れないのです。
もちろん、御両所が、諸悪の元凶と断じているのではありませんが、「先人」の諸悪を、拡大再生産したという点では、率直に指弾せざるを得ないのです。
この項完
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