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2024年4月 8日 (月)

新・私の本棚 榊原 英夫「邪馬台国への径」 4/6 増補

 「魏志東夷伝から邪馬台国を読み解こう」(海鳥社)2015年2月刊 
私の見立て ★★★★★ 総論絶賛、細瑾指摘のみ  2021/10/08 補追 2022/10/19 2024/04/08, 04/25

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*交通路の整備~銕(てつ)の路
 関係史料で衆知の如く、半島東南部弁辰に鉄山があり、採掘鉄は、楽浪、帯方両郡に納入された明記されています。半島東南部から重量物資が半島中部に納入されたことから、大量輸送に耐える官道整備が見てとれます。一部に、盗賊、猛虎などで「道中不穏」などと野次を飛ばす方がいますが、それは、時代錯誤、状況誤認でしょう。正史韓伝には、そのような異常事態が常態化していたとは書かれていません。

 言うまでもなく、帯方郡郡指示で、弁辰から郡への「銕街道」が整備されていて、對海、一大からの市糴は、狗邪で陸揚げ後、「銕街道」で北上したと想定されます。官道には所定間隔で宿駅があり、寝床と共に、食糧水分補給、代え馬と共に、時に険路もこなす荷運び人夫が(有料で)用意されていたのです。あるいは、流れの緩やかな南漢江中流(中游)は、川船移動でしょうか。緊急を要し、日程厳守が要求される文書使以外は、日程の範囲内で行程選択の自由があるのです。また、随時、送り継ぎして、運び手の交替もできるのです。
 特に、途上の小白山地越えの竹嶺(チュンニョン)は、鞍部とは言え、北側の南漢江流域が険阻なため、片峠の難所ですが、必要な人員を確保して、計画的に望めば、重大な難所にはならなかったと見えます。南側の、洛東江流域は、緩やかに見えるので、日数/人数を費やせば、十分乗り越えられたと見えます。いや、当事者に言わせれば、そんなことは何の事はないので、倭人は、余計な心配をするなと言うでしょう。何しろ、専門家の仕事なのです。貰うものを貰っている限り、つまらない泣き言は言わないのです。
 ちなみに、街道宿所、関所は、市糴課税と運賃で運用したとみられます。後世日本であったように、本来官営通信のための宿所が、民間の利用で繁栄したかも知れませんが、自然な成り行きは、正史には特記されていないのです。

 認識不足の例として、倭人領域に「禽鹿径」と評された官道(?)を見つけ、それを根拠に半島内陸行不能と言い訳した例には困惑したものです。官道整備は当然であるから、特に書かないのが常識で、特記の「禽鹿径」は、倭地、それも、山島の極致である對海國の陸上道里の一例に過ぎないのです。つまり、特記された異常事態です。

 なお、「けものみち」は、狭隘で路面が荒れた「間道」(関所破りの抜け道)の意が伝わりにくい「誤訳」の好例です。あるいは、つづら折れして牛馬行できそうな本道を、端的に直登で突き抜けているのかも知れません。因みに、現在の対馬史蹟では、対馬島上下二島連結部に、西側から食い込んでいる浅茅湾の入り江から東側の外海の沿岸に通じる「間道」を船荷だけ越えさせた「船越」の形容ともみえます。
 ちなみに、「船越」と言っても、重厚な船体を力まかせに陸越えさせるのは、とてつもない無法な運用であり、まして、大型の使節船などを人力で陸越えとは、どうにもあり得ないことです、言うのも無駄ですが、海船の船体は海中に浮かんでいるものとして構造を決めているので、陸上を力尽くで移動するのは力ずくで壊すようなものです。つまり、船底を固いものにゴリゴリ押しつけてぶち壊しているものであり、一度で船体が壊れなくても、かなり傷むことは間違いないので、下手をすると海上で壊れてしまう可能性があります。そんな無茶なことは、はなからしないのです。
 と言うことで、恐らく、船荷を言ったん降ろして、人が担って「船越」したものの、陸地を越えた向こうには、別便の船が待機していて、其処に積み込んだものと見えます。担い手は、いくらでも替えがいるので、無理のない目方の荷を、小遣いなみの手間賃で運んだものと見えます。

*難路でなく、無理の路
 郡治から狗邪韓国まで、陸路が整備されているのに、遠回りで運航が不安定で力不足の半島西岸/南岸まわりの漕運に固執するのは、まことに不合理で不幸な誤解ですが、根強く続いています。海に路はありません」が、そのような無法の事態であるのにもかかわらず、郡東南方の倭に赴くのに、何を思って、西海岸に出て西まわりの海船に命を預けるのでしょうか。船が沈めば積荷は喪われ船客は溺死します。誰が、乾いて安定した陸路を棄てて、荒海に転げ回るのでしょうか。
 ほんの少しで良いから、「真剣に」考えてみてほしいものです。
 いや、古典教養を有する中原読書人である「倭人伝」読者は、そのような無法なことは、前例のないこととして考えなかったのです。つまり、選択肢にすら登らなかったのです。そんなとんでもないことを考えるのは、無教養な蛮人ぐらいであるから、「誤解」を防ぐ手立てなど、していなかったのです。

*南北市糴の要地
 郡治から狗邪韓国まで半島内官道は、對海、一大の南北市糴の延長である民間輸送にも供用されていたので、信頼できる輸送経路が、早々に確立されていたのです。
 因みに、帯方郡直下の漢江河口付近の扇状地/沖積地は、長らく、泥濘軟弱の不可侵状態でした。何しろ、南北漢江は、半島中央部の山地の降水を南北に広く大量に集めていて、諸所で滝の如き急流になったので、長年に亘って、泥濘の流下、搬入が甚だしく、農地開発にも城郭建設にも適していなかったし、まして、橋梁を設けたり、城郭を設けたりはしなかった/できなかったのです。

 夏后本紀には、聖人でもあった「禹后」の言として、「乾いた平地(陸)を行くときは車で行き、河水を行くときは船で行くが、その間の泥を行くときは橇で行く」と言うくらいで、漢江河口部には、今日、有明海干潟のような泥の世界が広がっていたと見えますが、官道が泥橇で行くことはないので、道里記事に「橇行」は登場しないのです。まして、乾いた固い、陸道が通じている陸地から、道のない「海」まで下りて舟に乗るとしても、安全の保証もなければ、日々の寄港地も、どこで入港できるのか、どう進めば、座礁しないで進めるのか不確かでは、生きた心地がしなかったものと見えます。

 南漢江上流部(上游)では、鋭く蛇行した流路を山間渓谷に深く刻んで嵌入蛇行(せんにゅうだこう)の光景となっていますが、現代はダムが設けられて湖水になっているので、三世紀当時蛇行がどこまで下っていたか不明です。恐らく、渓谷沿いの安全通行は不可能ということで、山地中腹部の高地に街道が設けられていたのでしょうが、詳しいことを現代地図から読み取るのは限界があるようです。

*中国航路の怪
 当時、そして後年に到っても、半島中部中国側の海港は、漢江河口部の南、後に唐津(タンジン)と呼ばれたあたりと見えます。新羅の進出以前は、百済の官営海港であったと見えますが、詳しくは調べがついていません。要するに、この海港が、山東半島との間の海上交通の要衝、一種の「聖域」であったものと思われます。
 半島東部、小白山地の向こうの後進地で「嶺東」として差別されていた新羅が、長年の苦闘の末に、百済の「聖域」を奪ったものの、以後も、「聖域」回復を図る百済、そして、南下の企てを維持していた高句麗との「角逐」が続いていたものと見えます。
 随分後年のことで、余談にしかならないのですが、このように黄海海域で必争の地となっていた激戦地を、日本の遣隋使、初期遣唐使の船が沖合を横切って、渤海海港に入ったという推定は、随分、暢気な話であり、誠に信じがたいものです。

*両島繁栄の時代~余談
 對海、一大両国/両島は、南北市糴の要路を独占していて、市糴船の寄港から潤沢な収入があり、結構繁栄したのです。半島上陸後は、街道を洛東江沿いに北上して、洛東江上流の要地栄州(ヨンジュ)から竹嶺(チュンニョン)を越え、今一つの要地忠州(チュンジュ)を経て、絶好の海津唐津(タンジン)に出る行程が、もっとも繁盛したものと思われます。一方、両郡に向かう便は、引き続き南漢江を北上し合流する北漢江遡上を利用したと見えますが、主力とはなり得なかったと見えます。

 以上、榊原氏の本書に書かれていたわけではないのですが、氏の意識の底流に、ここまで批判したようなそのような時代錯誤の意見が流れていたとすれば、今後も悔いを残すので、此の際、脱線気味の余談を述べたものです。

 要するに、「倭人伝」時代の遙か後年になっても、半島東南部の新羅王都慶州(キョンジュ)から「中国」に参上するには、内陸経路で唐津にいたり、そこから、東莱に向かうのが、もっとも確実で素早い経路であり、記録に依れば、統一新羅の「遣唐使」は、この経路を辿ったと言うことです。

 日本遣唐使の帰路として、新羅船便乗が書かれていることがありますが、要するに、安全、確実で、しかも、随分速い方策であり、両国が友好関係に有る限り、もっとも、賢明な策となります。少なくとも、唐に対しては、日本が新羅を従属させているとの演出が不可欠であったため、帰路の一部にしか適用できず、大きな迂回である上に危険この上ない「東シナ海」の策しかとれなかったようです。この経路は、南朝建康に到達するためには、不可避であったため、遣唐使時代になっても、新羅との敵対によって、唯一の選択肢となり、難船を重ねつつ、命がけで依存したものと見えます。 

〇景初遣使の件~「誣告」疑惑
 本件に関して、氏は、随分熱弁を振るっていますが、「倭人伝」現行刊本に、景初三年たるべきが景初二年に誤記されたと立証された論拠は一切ないと見受けます。本件は、刑事裁判ではありませんが、それでも、赫々たる文献に現に書かれていることを否定する「異議」は、俎上に載せるまでに相当の物証が必要ではないでしょうか。有効な証拠がなければ門前払いです。「推定無罪」ならぬ「推定有効」です。
 要するに、これほど「異議」を提議する前に、「物証」や「証人」を厳格に審査する必要があるのですが、これまで見かける限りでは、有効な根拠無しの言いがかり「誣告」が横行しているのです。

 そもそも、本項目以外でも、悪意による曲解が頻出しています。氏が、そのような風潮に荷担しているのでなければ幸いです。

                                未完

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