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2024年4月23日 (火)

新・私の本棚 番外 内野 勝弘 第413回 邪馬台国の会 補追 4/4

魏志倭人伝・考古学・記紀神話から読み解く 邪馬台国時代の年代論
私の見立て☆☆☆☆☆ ひび割れた骨董品 2023/10/24 2023/10/26 2024/04/23

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

国力
 東の果ての小国、海外(呉)への武力攻撃などの能力はない。小国30か国の連合体

 「国力」が正体不明、その評価は不可能である以上、資料に忠実に解釈を進めるべきである。
 当時、現代紛いの「連合体」など存在し得ない。「国」の態を成していたのは、対海、一大、末羅、伊都の4国であり、それ以外の名のみの「国」の事情を論じるのは「白日夢」であろう。

 因みに、「倭人伝」は、「更に東」の諸国を描いているので、倭人は、「東の果て」などではない。何かの錯覚であろうか。
 因みに、「倭人」が「小国」三十ヵ国の「連合」であるとすれば、それは「小国」などではない。氏の用語は、混乱していると見える。
 何しろ、「倭人」の領域は、把握されていないのだから、領域の広さは不明であり、殊更、領域の広さで国の大小は論じられないのである。
 海外(呉)とくると、東呉孫権も、蛮族の王となってしまう。まことに尊大である。
 因みに、当時の中国に「海外」の概念は無い。またもう一つの時代錯誤であろうか。それとも、氏の視点が錯乱していて、ここは、二千年後生の無教養な東夷の眼で見ているのであろうか。読者に超人的な理解力を要求するような「無理/難題」を言ってはならないと思うのである。

距離・説
 ①古い時代の短里説 ②誇張説 ③政治的忖度説

 無意味な列記である。「古い時代」とは、殷周代のことだろうか。太古の制度など幻影である。「誇張」は、計算の根拠が必要である。まして、当時「政治的忖度」などあり得ない。全て、虚偽/虚妄である。

◯内野説(5倍説)
 魏から外国に贈られた金印は大月氏国と倭国の二国のみであるが、大月氏国と倭国との国力は大きく違うのに金印付与されたのが謎とされる。

 当時「国力」は無意味で、ここで問われるのは、新参蛮夷の格付けである。当時の天子の評価は、当時の天子にしかわからないのであり、二千年後生の無教養な東夷に分かるはずが無い。最善の努力を払っても、誰にも解答が出せないのは、「問題」でも「謎」でも無い。
 天子が蕃王に「金印」を贈るなど論外である。そもそも、なぜ、それぞれの国に「金印」を贈ったのか。貴霜国に対しては、武力を抑えるための懐柔であろうが、「倭人」は暴虐でないので、全く異なった意義を持っていたと思われるが、いくら二千年後生の無教養な東夷が考えても、わかるはずはないから、「回答」を要求した「謎」ではないと見るものではないか。
 
 卑弥呼は司馬懿が公孫氏を滅亡させた翌年の239年にすぐさま使者を魏に送った。倭からの朝貢は司馬懿の功績を宣伝するためには格好であった。

 「格好」「すぐさま」と云いつつ、景初二年を踏み潰したまま「翌年」と正史を改竄し、一年をおいておもむろに遣使したとは不審である。そのような解釈は、たいへんな勘違いと自覚するべきである。陳寿「三国志」魏志によれば、「倭人」は、景初二年六月に帯方郡に到着したのであり洛陽に参上したのではない。と言うか、内野氏は、大胆にも、洛陽到着は景初三年という主張であろうか。
 景初二年中は、魏明帝が生存していたが、景初三年元旦に逝去しているから、景初二年中に上洛したかどうかは、大問題である。記録されている皇帝詔書は、明帝のものか、少帝曹芳のものか、本来、文献考証上の大問題を孕んでいるのである。陳寿「三国志」魏志倭人伝には、倭人使節の洛陽到着の年次は書かれていないが、魏明帝の逝去の際の、それこそ「画期的な事情」を無視していては、臆測/創作/改竄の類いとされて、反論できないのではないか。

 翌240年官吏梯儁は倭国に派遣され倭国に至るまでの行程、国情、政治など詳細に調査し報告した。

 無造作に「官吏」だが、下級吏人の筈はなく、帯方郡官人建中校尉梯儁である。
 魏帝が、国情/行程不明のまま下賜のお荷物を担いだ遣使を送り出すとは不審である。子供の近所へのお使いにしても不都合である。当然、使節団の発進以前に「郡から倭まで万二千里」と知れていたし、さらには、実務的に必須の所要日数四十日程度というのも知れていたはずである。

*反射的なダメ出し
 因みに、翌240年」とは、不可思議である。正史に西暦紀年など存在しない。「倭人伝」に書かれているのは、明帝景初二年の帯方郡訪問、同年十二月の皇帝詔書であり、翌景初三年の記事はなく、一年余を経た少帝曹芳の「正始元年」である。
 内野氏の「臆測」では、景初三年六月の帯方郡訪問、追って上洛、同年十二月の皇帝曹芳詔書であり、翌正始元年に下賜物を担いだ遣使が発進したという強行日程であり、明帝没後の喪中の景初三年の六ヵ月諸事自粛を思うと、信じがたい「特急処理」である。
 下賜物を発送するためには、道中諸国からの受入確認連絡が必須であり、未曽有の大事に関して、現地から即答が来るはずはないので、一年かかっても不思議ではない、「相当の期間」を要したと見るものではないか。そして、全地点からの確認が必要であるから、蕃王の配下から来る応答は、随分遅々としたもので在ったはずである。いや、遣使した難大夫、都市大夫が帰国して指示したとしても、ということである。
 「特急処理」など、有りえないのではないか。素人の反射的なダメ出しであるから、読者諸兄姉には、かえってわかりやすいと見て、一通り書いたのである。

*論評総括
 内野氏が、どのような検証で、ここに提議されたような短縮/強行/特急日程を支持したのか不明であるから、とても、信用できないのである。
 要するに、当然の事項なので、「倭人伝」から割愛されていても、当然の手順は、当然執り行われているはずである。またもや当然であるが、要するに、発進以前に、行程各地に使節団の到着予定を通達し、各地責任者から、確認を得ていたはずである。当然、そのような交信の所要日数は、使節団の所要日数設定の参考となったはずである。
 以上は、魏帝国という「法治国家」では、当然の手順であるから、「倭人伝」から割愛されているとしても「行われなかった」と主張するには、相当確固たる反証が必要である。

 帰国後、太守弓遵等は司馬懿の功績を高めるため距離、人口、位置は呉の背後の会稽東冶の東で1万7千里(5000里+12000里)大月氏国に匹敵する遠方の国で数十万の大国として報告を作成した。ゆえに朝鮮半島と倭国は人口と距離が5倍ほど水増しされた。陳寿や魚豢(魏略)はその記録を踏襲した。

 その時期、不遇であった「司馬懿の功績」なぞ、どうでも良かったはずである。
 繰り返しになるが、「倭人伝」に、「距離」「人口」は、一切書かれていない。「位置」は、初耳であるから返事に窮する。それにしても「数十万の大国」は、冗談がきつい。戸数のことなのか、何のことなのか。
 因みに、洛陽/帯方両郡の戸数、口数は、一戸、一人まで正確に集計されていて、五倍誇張など無意味である。そう言えば、郡管内の「朝鮮半島」道里の水増しも、本来無意味である。
 ついでながら、魚豢は曹魏の忠臣であり、逆臣司馬懿の功績を高める粉飾など死んでも行わないのである。
 
 「呉の背後」と言い切っているが、「会稽」は呉の中心部であり、その南部の東冶は、ほんの裏庭に過ぎない。氏は、漢数字が読めないのだろうか。二千年後生の無教養な東夷の地理感覚を、根こそぎ洗い直して、せめて、洛陽人の世界観で史料解釈に臨んで欲しいものである。別に「中国語が自力で発音できなくても」、つまり「読めなくても」関係ない。当時の実務を想定すれば、史官の深意は、行間や紙背から読み取れるはずである。
  
 因みに、公孫淵と孫権は、数次の書簡往復があり、実務として、遼東公孫氏の臣下「倭人」の素性は、東呉に既知であったと見える。

 それにしても、帰還して万里捏造」は、時代錯誤である。皇帝報告後に報告「作成」は不可能であろう。「万里」往復に要する日数は、氏の臆測の五分の一程度であろうから整合しない。古代史の泰斗である岡田英弘氏は、既に、「万二千里」を後世西晋代の「陳寿の創作」と断じていて、それはそれで、無根拠、臆測の随分軽率な断言であるが、内野氏は、高名な岡田氏の提言を、無断で改竄しているのだろうか。それとも、盗用、パクリの際の手違いなのだろうか。

 端的に言うと、陳寿は、「魏志倭人伝」の編纂にあたって、史官の「職務に殉じる」覚悟で、洛陽の各部門に所蔵されていた公文書の記載内容を遵守したが、無謬の天子である明帝が犯したと見える「道里」に関する「錯誤」を、文書交信の所要日数によって「事実上」是正し、当時の高官諸賢の同意/正解を得たのだが、二千年後生の無教養な東夷は、偏見に満ちているため、「魏志」に書かれていない風評/裏話を、寄って集(たか)ってでっち上げて、挙(こぞ)って誤読/誤解していると見えるのである。反論があるなら、文書史料を提示して、反駁していただきたいものである。

 因みに、少帝曹芳の最初の十年間、司馬懿はむしろ逼塞し、老妄を擬態して最高権力から遠ざかっていたから、もし、曹爽が司馬懿の野心を察知して、大権を駆使して司馬懿一族を誅殺するとなると、司馬懿に阿諛追従した報告者一族も、自動的に連座して皆殺しだから、ヘタな策謀はしなかったと見える。何しろ、漢書を編纂した班固は、史官として中立的な立場にありながら、絶対的な最高権力者であった大将軍竇憲が、時の皇帝によって誅伐された際に連座/刑死していて、有力者に追従するのは、ときに、死に至る近道だったのである。
 因みに、陳寿の司馬懿評価は冷徹で、司馬懿は、多年の功労で列侯とされながら、「魏志」に「伝」を立てられていない「不名誉」に浴している。

 一方、明帝没後、司馬一族の専横に抵抗した毋丘儉は、司馬懿が尊重することを誓約した曹芳を廃位するに及んで、反乱蹶起/敗死し、一族は全滅したが、「魏志」に伝を設けられている。制約のある伝の真意を読み取れば、明帝曹叡の信任が格別に厚かった毋丘儉が、当時、遼東を管轄する幽州刺史として公孫淵の上位者であり、「西方戦線から臨時に起用されて与力した、現地事情に通じていない司馬懿」と並ぶ副将として遼東平定に大きな功績を果たしたと理解できる。特に、公孫氏滅亡後の遼東の空白を突いて南下しようとした高句麗を、玄菟郡太守王頎に命じて長駆大破した功績は明らかである。当然、西晋政権下で編纂された「魏志」には、明記できなかったのである。

 ついでに言うと、帯方郡太守弓遵は、いわば「国王」に等しい高貴な身分であり、「等」で括り付けられるような同格の人物は、登場していない。軽率である。それとも、内野氏は、玄菟郡太守王頎が「黒子」として参画したというのだろうか。

◯まとめ
 総括すると、内野氏は、世上流布しているらしい、不出来な/理解できない元史料を、不出来に切り刻み、逐一味見しないままに盛り付けた俗説を、席上に提示しているが、実際は、一場の「ごみ史料」と化しているから、とても、食するわけには行かないのである。当方は、そのような率直な指摘を言いがかりと言われないように、大量の根拠を示して批判している。文句があれば、キッチリ反論して欲しいものである。
 総括すると、氏は、中国史料を、適確に読解する能力が不足しているのに、それを周囲に対して認められないままでいるようである。周囲は、氏を適切に支援する努力をしていないようである。困ったものである。

 内野氏の発表が素人ブログの片隅であれば、野次馬の雑情報として見過ごせるが、安本美典師主宰講演会の資料は、「邪馬台国の会」会長の絶大な権威もあって、世間の注目と信頼を集めるので、年代物の誤解の伝播を防ぐために公開書評せざるを得ないのである。
 ここに示されたような「誤解放置」は、氏の玉稿をだれも真剣に批評していないのが原因と危惧される。おかげで、部外者の素人が、憎まれ役を引き受けざるを得ない。

 ぜひ一度、ご自身の思考過程を、一歩一歩確認/ご自愛いただきたいものである。一度、公開してしまえば、それは、不滅の業績なのである。是非とも、自重いただきたいものである。

 冒頭に「ひび割れた骨董品」と悪態をついているが、ひび割れた焼き物は、「金継ぎ」すれば、ひび割れる前より遥かに高い価値を得ることができるのである。ぜひ、ご自愛頂きたいものである。

                                以上

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