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2024年5月

2024年5月31日 (金)

新・私の本棚 番外 「今どきの歴史」 2019/07 不思議な視点と視覚 1/3

私の見立て★★★★☆ 但し、ホラ話は除く          2019/07/24 補追 2024/05/31
百舌鳥・古市古墳群(大阪府) 「最辺境」社会の合理性

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

□総評
 今回の題材は、国立歴史民俗博物館松木武彦教授(日本考古学)(以下、歴博、論者との略称ご免)のご高説の紹介らしいのですが、記者の史観が混じり込んでいるか不明なので、見当違いな批判があればお詫びする次第です。

*全知全能幻想か
 論者の専門は国内考古学で、普通、(日本)列島内遺跡、遺物に関するご高説と思いましたが、堂々と「世界史的激動」であり、圏外かと危惧します。

 記者の言葉ですが、「当時、寒冷化で地球環境が悪化し、世界的にも大転換期だった」と時代錯誤の神がかりが述べられ、失礼ながら、「当時」の列島内遺跡、遺物にどう露呈しているか不思議です。論者の提言かどうかは別としても、とんでもない空想がかたられているという印象を禁じ得ません。
 素人目には、法螺はほどほどにしないと信用をなくすと言いたいのです。

□誤解招く「世界」通観の書き出し
 そのあと、豪快に世界史通観ですが、首を傾げっぱなしです。論者が博識を披瀝しても、説明は概してずさんで、日本考古学には的外れでしょう。世界」的と大風呂敷を広げたものの、南北アメリカ、アフリカ、そして、インド亜大陸、南極大陸、オーストラリア大陸、等々には何も触れていません。言わずもがなで不可解です。

 そのあと、「東夷が漢墓制を真似た」と急に重箱隅になり不首尾です。「漢」でも大規模墳墓に豪華副葬品を収めた皇帝もあれば、文帝のように薄葬を命じた皇帝もいます。漢を中原政権と捉えるなら、魏創業者曹操が後漢皇帝墓の盗掘を目撃(実施)したことから、薄葬を遺命による国是とし、墓所は秘匿されたので、東夷が真似ようにも真似られなかったのです。

 いやはや、杜撰のてんこ盛りです。言わない方が良い余談です。

*世界崩壊の津波の余波
 「秩序が崩れて集団間の競争が激化しました」と無責任に言い放つのですが、どの世界、いつの話で、それは、どのような遺跡、遺物で立証されるのでしょうか。それとも、ただのほら話、「冗談」なのでしょうか。

 論者は、神がかりの筆致で、当時、つまり、紀元四世紀あたりの「世界」を描写し、それが、列島に影響を及ぼしたと言いますが、列島の地域支配者が、ヨーロッパ等の状勢は論外として、中原墓制の変化を知り得たか不思議です。
 まして、列島に及んだ余波の結果、銅鐸が廃棄されたというのも、意味不明です。何か、廃棄儀式の能書きでも発掘されたのでしょうか。

*破格の論議
 『「劇的」な変化が連続しておこった』とは、世にも不思議な言い回しで、「大状況」も、「状況」の意義を錯誤の上に、何を「大」と言うのか不可解です。

*ご冗談でしょう
 全体として、「ご冗談でしょう」です。脈絡のないほら話は、逆効果です。記者は納得したのでしょうが、歴博の日本考古学とは、根拠も何もないまま、素手でこのような夢想を紡ぎ上げるのが専門なのかと言いたいところです。

■解答なき問題
 ここで、読者に問題が投げつけられ、意味不明で解答がないのです。
 「世界」が、現代語の全地球、全宇宙なのか、戦国時代の「天下」なのか、盆地世界に閉じ込められた井蛙の井戸なのか、意味が不明では、凡人には応答できません。

                                未完

新・私の本棚 番外 「今どきの歴史」 2019/07 不思議な視点と視覚 2/3

私の見立て★★★★☆ 但し、ホラ話は除く          2019/07/24 補追 2024/05/31
百舌鳥・古市古墳群(大阪府) 「最辺境」社会の合理性

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*墳丘墓巨大化術の楽観と達観
 論者は、大規模な墳丘墓は在来の封土、土饅頭を大きくしただけだから、在来技術の延長線で施工できたとあっけらかんとおっしゃいますが暢気すぎます。
 二㍍の墓は近所の寄り合いでできても、二十㍍の墓を地区全体で、大勢でよってたかって作るには、縄張りやら線引きやら、工学的な指図が必要です。親方一人で仕切れず専門集団が必要です。二百㍍の墓は、それこそ、近郷近在以遠を駆り立てて数年にわたる大事業で、高度な政治的指導力が必須です。高度な理数概念を駆使した本格的技術集団が必要です。とても、とても、素人の成り上がりではこなせません。長年にわたって集団を維持するためには、世襲工人集団となります。
 「土は盛りやすい」と楽天的ですが、盛りやすいと崩れやすいのです。墳丘墓が巨大化すれば災害も巨大化し、とても、素人にはできないのです。

*拡大の算術解
 規模が拡大すれば、どこかで、単純な拡大主義は、大きく破綻します。
 二十㍍墳丘墓は二㍍の十倍でなく、資材所要量は、数百倍に上ります。
 二百㍍墳丘墓の資材所要量は、二㍍の数十万倍から百万倍に上ります。資材所要量と所要労働力は、ほぼ比例関係であり、資材と労働力が大幅に増大すると、工事現場への輸送距離、人員の移動距離が、それにつれて急激に増大します。

 厖大な人員の宿舎が必要になり、食糧供給も厖大です。いくら生前着工の寿陵で、自身の采配で、計画的に十年は越える長期の巨大工事ができても、その間の国政は、維持しなければならないのです。
 かくして、為政者には超人的な行政手腕が求められたはずですが、各地で、代々受け継がれたという事は、それを支える職能集団が列島に采配を振るったという事のように思うのです。
おそらく、文字教養どころか、理数教養まで備えた外来の集団が、当時の各地に「文化」を齎したものと思うのですが、歴博の日本考古学は、そのような考えをしないことにしているのでしょうか。文化は、人が言葉と行いで伝えるものであり、風に乗って漂い来るものではないのです。
 論者は、まさか古代史を坦々たる上り道のように見てはいないでしょうが、こう簡単に見ただけでも、凄まじい、険阻な先上がりが見えてきます。俗に右肩上がりと言いますが、自然界には、これほど上がる肩はないのです。

*不可解な階級指標
 次いで、当時、列島に「中国風」の絶対的な階層社会がなかったと認識しながら、広くゆるやかな階層構造があったとしていて、意図不明です。自認しているように、層は不連続で層間に仕切りが入ります。
 文書のない世界で、そのようなきめ細かい階層をどう規定し、運用していたのでしょうか。階層が一段上がれば墳丘墓の各部はどう変わり、どのように施行され、どのように測量したのでしょうか。
 歴博の日本考古学は、衛星軌道から地上を観察しているようですが、伝統的な考古学のように、地を這い、なめるようにして大地と対話して地道な考察をしないのでしょうか。

*見えない規模格差
 階層の具体像が不明なまま、そのような階層構造であったため、階層の規模を明確に視覚化するために、頂点たる「王墓」が巨大化したとしています。
 どうにもよくわからないのですが、冒頭に記者が指摘しているように、現代のビルから見下ろしても、王墓の形態や規模は正しく認識しがたいのです。当時、ある土地と別の土地の墳丘墓のどちらが、どれほど大きいのか、構造が どう違うのか、誰が認識したのでしょうか。墳丘墓施工で、どうやって、各部「設計寸法」をきめ、実際に確保したか、不明です。

*時代錯誤
 当時の「国防」を推定していますが、論者専門外の朝鮮半島で不思議な言動があります。「山域のネットワーク」とは、時代を超えてローカルエリアネットワークでも形成していたというのでしょうか。

*巨大化の動機付け
 「大きいことはいいことだ」的感情が巨大化を促しても、厖大な労力と資材で、身の程を知っていたと思わなければ、当時の人々の無分別を根拠なしに蔑視することになるのではないでしょうか。
 家畜の首の鈴が巨大銅鐸に、小振りな銅鏡が直径四十㌢の巨大鏡に化したと言いますが、銅鐸はとうに廃棄したはずで、時代錯誤のご都合主義と見えます。このような安直極まる、子供じみた類推をおもてに立てるのでは、折角の学術的展開を一気にぶち壊す蛇足です。
 続く「中国にはない」とは、文化を知らないものの「蕃習」という自嘲表現でしょうか。

                                未完

新・私の本棚 番外 「今どきの歴史」 2019/07 不思議な視点と視覚 3/3

私の見立て★★★★☆ 但し、ホラ話は除く          2019/07/24 補追 2024/05/31
百舌鳥・古市古墳群(大阪府) 「最辺境」社会の合理性

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

■「東アジア最辺境」の悲劇
 ここで、東アジア最辺境と、時代錯誤の錯辞が出て来ます。
 当時、「アジア」を認識していたものはいないから「東アジア」は錯辞であり、最辺境と言うには、中心、周辺、辺境、最辺境の階層が前提と思われますが、何も説明もないので不可解なだけです。論者の「生徒」は知っていても、一般読者には耳慣れない呪文で、記者が絵解きしなければ、論者の意図が伝わらないのです。報道の者の責務ではないかと考えるものです。

*結語の美
 論者は、記者の前振りに続いて、結語に入ります。
 「文字が本格的に使われておらず」とは、墳丘墓被葬者の視点でしょうか。
 一瞬、めまいに襲われて、戸惑います。「本格的」が律令時代とすると、古墳時代は、何だったのでしょうか。
 論者の言い分で大変もっともなのは、後世人の浅知恵で「合理性」を難詰するのは時代錯誤の錯辞であり、当時の関係者は、時代なり、統治者なりの合理性の最大限の発露として墳丘墓を築いたとの卓見です。

 当時、論者も自認するように、文字がなかったので、中国文化圏の事象として「文化」と呼ぶのは、不勉強丸出しで、不出来ですが、兎に角、『墳丘墓に表現された当時の為政者の理念は、現代語で言う「世界」に誇りうる「文化」である』というのが論者の結論であり、圏外情報の素人くさい前振りで、論者の知性を疑われるような愚は避け、ご自身の錚錚たる学識の核心を披露いただければ、これ以上の知の饗宴は無いと思うのです。

*急転の没落
 いや、折角の結語で、東アジア全体の墳丘墓制が、世界に類のない遺産であると言いながら、全世界を足蹴にするように「人類が二度と持つことのない文化」などと、今後の人類文化の展開に呪いをかける言葉を吐き捨てていて、椅子からずり落ちるのです。ご両人とも、気は確かですか。
 続く記者コメントは、論者の負の遺産を背負って、反知性的な夜郎自大放言で、論者の論考の足を引っ張るのです。
 古代人は、古代人の知りうる世界情報をもとに、最善、最高の合理的事業を行ったのであり、現代人にも知り得ない「残る全世界」の賞賛を押しのけないものであって欲しいのです。

*まとめ
 論者の展開した論考は、日本考古学」の圏外から論拠不明の憶測を述べて、学術的に無法であるとともに、一般読者に対し、誤解を与えるものになっています。歴博は、メディア対応を論者一辺倒にしているのを排して、愚直に学術的な見解を提示できる方を人選して、人を変えた方が良いのではないかと愚考します。
 記者は、論者の展開した論考を、十分咀嚼できないままに、自身の未熟な知性、語彙をなすりつけて、贔屓の引き倒しになっています。
 折角、適確な結語に到着していながら、論者が、夜郎自大な感慨を吐露したのは大変勿体ないところで、記者が大人の分別で適確に舵取りしなかったのが惜しまれます。
 港に入って船を割るのは、水先案内人の不手際です。

*蛇足
 風評の類いですが、巨大墳丘墓は、権力者が圧政を敷き、「奴隷同然の強制労働」を課して次々に完工したとの見方が囁かれています。論者は、当時の権力者に妥当な合理性があってこれだけの大工事を成し遂げたと弁護していますが、説得力に欠けているように思われます。
 私見では、当時の税制として、収穫物の貢納、産物の貢納以外に、労力の提供が唱えられていて、権力者は、公共の土木工事に民衆を動員する権限を有していたのですが、もちろん、農作業に支障を来さない合理的な動員期間はあったでしょうし、メシと寝床は支給したでしょうから、それは、「奴隷同然の強制労働」 などではないのは明らかです。 農民を酷使する権力者は、いずれ、打倒されるものです。
 考古学者は、必ずしも当時の権力者の合理性を弁護する必要は無いでしょうが、世界遺産に登録する上では、黒い疑惑は糺す必要があるように思えるのです。「いたすけ」古墳が、公然と、益体もない現代遺物であるコンクリ橋を、世界遺産の保存対象にしているのと並ぶ「汚点」でしょう。

                                 完

2024年5月28日 (火)

私の本棚 41 笛木 亮三 「三国志の写本検索」 季刊「邪馬台国」 128号 1/2

 季刊 「邪馬台国」 128号  2016年2月  2016/03/08  補足 2021/07/14 2024/05/28

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

⚪補足の弁
 今晩、当記事筆者から、丁寧な補足説明があって、当記事を読み返したのだが、ブログ記事の通例で説明が急ぎ足になって、ご迷惑をかけたように思える。読者諸氏は、何度でも、読み返すことができるので、落ち着いて再読いただきたいものである。
 また、提供頂いた資料の所在情報等は、編集部が検証していると信じるので、不鮮明であれば、それは編集部の責任なのである。いや、同誌の編集部は、安本美典氏の薫陶を得て、論文誌の任にあたっていると信じるので、特に明記しない限り、批判されているのは、編集部である。

 つまり、当分野の最高峰の専門誌で論文審査されたうえで掲載されているから、編集部、就中(なかんづく)、安本美典氏の指導があったと思って、少しきつい言い方をするが、筆者たる笛木氏を責める気は、さらにないのである。笛木氏に、ご不快の念を与えたとしたら、お詫びする。

⚪お断り
 当記事は、論文と言うより、史料探索の体験談であり、批判するのは著者の意図に反すると思うのだが季刊「邪馬台国」と言う、一流媒体に掲載されているので、色々批判を加えても、了解いただけると思うのである。

 著者は、本記事において、あたふたと諸般の説明を書き連ねているだけで、読者には、混乱した印象しか残らないのである。各資料に関する情報が再三書かれているが、出所によってばらついているようで、決定的な説明が読み取れないのである。いや、同誌編集部がこれで良しと判断したのだから、本来筆者に文句を言う筋合いはないのである。この点、著者にご不快の念を与えたとしたら、深くお詫びする。

 本記事が、不完全なものに終わっていると感じる理由の一つが、本記事著者の抱負に反して、資料写真の転載が2点にとどまっていると言うことである。しかも、掲載されている写真が、紙面から文字を読み取ることすらできないと言うことである。
 率直に言って、当記事を掲載するのは、かなり時期尚早だったと感じるのである。
 堅苦しい法的な議論は、次回記事に譲るものとする。その部分に意見のある方は、そちらに反論して欲しい。

 法的な議論が必要と思う背景として、行政府の一機関である宮内庁書陵部提供の三国志紹凞本写真画像に対して、(C) 宮内庁書陵部と著作権表示しているサイトがあって誤解がまき散らされている事例がある。同サイトだけ見ていると、宮内庁書陵部が(不法に)権利主張していると見えるのである。

 同組織は、国民全体に研究成果や所蔵文化資産を提供する任務を課せられているのであり、同資料については、盗用、悪用を防止するのが肝要、本務であって、組織としての著作権を主張して国民の利用に制約を加えることは、本来許されないのである。

 これは、地方公共団体が運営している組織についても同様であるし、また、各大学は、全て研究成果を国民に還元することを主務としているから、こちらも、不必要に所蔵文化資産を秘匿してはならないのである。

 現に、地方公共団体の外郭団体である台東区立書道博物館は、当然のこととして、所蔵資料の写真転載に同意しているのである。公共機関が、所蔵品の写真について非公開を主張するのは不法であるから、妥当な判断なのである。当該機関は、公的資金で運用され、成果を公共に供するのを最大の使命としている。ただし、区立「博物館」として、運営に要する資金に対して、利用者の応分の「寄附」を求めるのは当然であり、それは、営利事業として収益を求めているのではないのでご理解頂きたいものである。

 以上、ことさら固い口調で述べたが、時に、そのような理念を無視する例があるので、再確認しただけである。もとより、同誌編集部は、そのような事項は知悉しているはずなので、笛木氏が孤立しないように支援していただきたかったものである。

 それにしても、中世や古代の史料写真が現代著作物であるなどと言うのは、確認不足による誤解である。

以上

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私の本棚 41 笛木 亮三 「三国志の写本検索」 季刊「邪馬台国」 128号 2/2

 季刊 「邪馬台国」 128号  2016年2月  2016/03/08  補足 2021/07/14 2024/05/28

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯補足の弁
 当記事は、笛木氏の記事で、各管理者が示した否定的な見解の法的根拠を模索したものであり、笛木氏の見解を批判することを目的としたものではない。いわば、当誌編集部への公開質問状であるので、もし、笛木氏初め、関係者にご不快の念を与えたとしたら、お詫びする次第である。

◯私見のお断り
 著作権などの権利関係についての私見を以下に示すので、よろしく、ご検討いただきたい。
 なお、当ブログ筆者は、別に弁護士でもなんでもないので、ここに展開した議論の当否は、最寄りの知財権専門の司法関係者の確認を取っていただきたいものである。
 当記事を根拠に行動されても、当ブログ筆者の関知するところではない。

 当ブログ筆者の知る限り、「三国志」写本に関する著作権は存在しない。
 「三国志」写本の写真に関する著作権も存在しない。

*三国志の著作権
 史料の原典である「三国志」は、三世紀後半の著作物であり、著作権を主張できるのは、編纂者である陳壽と思われるが、没後千年年以上経っているので著作権は消滅している。
 三国志を写本するという行為は既存著作物の複製行為であるので、新たに著作権が発生することはない。いや、発生したとしても、とうに著作権は消滅している。
 写本の断片は、せいぜいが既存の著作物の一部分であるので、それ自体が新たに著作物となって著作権を発生することはない。いや、発生したとしても、写本時代は、とうに一千年は過ぎているので、著作権は消滅している。
 つまり、三国志写本は、すべて人類共通の公共的知的財産になっている。

 既存の著作物の写真複製はたんなる複製行為であるので、撮影された写真に新たな著作権が発生することはない。
 ということで、三国志の写本の写真の著作権、つまり、知的財産としての権利は、消滅している。
 著作権が存在しない資料に関して、著作権を主張して資料利用に制限を加えるのは、違法であることは言うまでもない。

*その他の権利
 写本の断片は、現在の管理者が、何らかの対価を払って購入したものであるか、寄贈を受けたものなので、管理者の個人的財産であれば、これを公開するか、秘匿するか、あるいは、有償または無償の契約を結んで、限定された対象者に開示することは、管理者の権利の範囲である。要は、世間に見せるかどうかは、管理者の勝手である。
 「限定された対象者」が、管理者と二次的な公開をしないとの契約を結んでいるのであれば「限定された対象者」は、二次的な公開を禁止されているものである。
 と言うことであるが、展覧会図録などに資料写真が掲載されていて、そのような図録が書籍として流通していた場合、書籍の購入者は、別に管理者と契約しているわけではないので、図録制作者が管理者者と結んだ「二次公開しない」との取り決めに拘束を受けることはないと思われる。
 また、管理者は、一旦、資料の写真図版が図録に掲載されるのを許可した以上、図録を正当に入手したものが、掲載されている写真図版を自身の論考に転載したとしても、これを法的に規制することはできないものと考える。

 そもそも、史料写真を掲載した図録を販売するのを許可した時点で、購入したものが掲載写真を資料として引用して、独自の論考を執筆することを許可したものと見なすべきではないか。資料出所を明記することは必須である。
 まして、図録の写真図版を、何らかの手段で複製した場合、写真図版そのものの転用ではないので、厳格に規制する権利はないものと考える。
 まして、写真図版から、文字情報を取得した場合、そのような文字情報の利用を制限することは不可能と考える。

 それにしても、資料そのものや精密なレプリカなら、何か権利を主張しても、ごもっともという人が出るだろうが、単なる外観写真について、しつこく権利を主張するのは、どういうことだろうか。「肖像権」と言うつもりなのだろうか。
 いや何、出し惜しみするような秘宝は持っていないので、肩肘張って言えるのである。

以上

追記:当誌上で、中国に於いて、正史の写本は、草書体で運用されていたに違いない、何の物証も無しに主張する論客が登場して、編集部のダメ出しがないまま、堂々と掲載されていたから、そのような勝手な思い付きを公開する不都合を、機会ある毎に言い立てているのだが、笛木氏の検討によれば、草書系資料は、ここには含まれていないということである。
 当ブログ筆者が、誌上写真や図録掲載の高精細度写真を見た限り、「草書」は見当たらないのである。

 当該「フェイクニュース」は、早々に排除されるべきだと考える事態である。

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新・私の本棚 石井 謙治 「古代の船と航海の歴史」 再掲 1/2

石井 謙治 「古代の船と航海の歴史」 歴史読本臨時増刊 「渡来人は何をもたらしたか」新人物往来社 1994年9月刊
私の見立て ★★★★★ 当記事に限定 瑕瑾ある卓見 2020/11/12 2024/05/28

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

▢はじめに
 本書は、新人物往来社が、斯界先賢の寄稿、ないしは、刊行物引用によって、特集テーマに関する総合的な定説構築を図ったものと見えます。「臨時増刊」特集各号は、古代史関係で多数の好著を輩出し貴重な情報源となっています。この点、星五つ、本特集も同様、賛嘆置く能わざる、と言う感じです。

◯石井 謙治 「古代の船と航海の歴史」
 当稿は、目下審議中の「倭人伝」行程道里論、特に、『半島陸行に対する「和船史研究家」石井謙治氏の否定見解』に対して、石井氏が、ご自身の豊富な学識に背くように専攻分野中心の偏見で史料解釈しているのを捉えて異論を呈するものです。
 「魏志倭人伝」記事考証で「日本列島と大陸間」と述べていて、素人目には、地理概念の調整が必要と見えます。九州北部から半島内陸の帯方郡への経路が問われる/問われているのであり、殊更、雑然と視野を広げて、説きようのない難題を拵(こしら)えて、手近な解決を水平線に押しやって、解決を困難にするべきではないと思われるのです。

*技術考証
 当時の船体の技術解明において、六世紀前後と見られる大型「複材剥舟」遺物は、所詮、倭人伝の三世紀後であり時代考証不適当と見えます。
 同誌には、三世紀から五、六世紀にかけて造船技術の進歩がなく、むしろ後退したとの憶測が説かれていますが、その間「大陸」交流が断絶したわけではないので、長期の技術停滞/後退は信じがたいのです。造船技術は、大規模な事業からの注文を必要とするので、理由もなく衰退することは考えられないのです。定期的な造船が行われていれば、技術は世代を越えて継承されるのであり、その間、近場の小振りの船の造船も続くはずであり、衰亡と減退とは相容れないでしょう。
 素人が納得できるように、根拠を示していただけると幸いです。

 その後、準構造船考察と国内史料依拠の七、八世紀軍事作戦の裏付けを進め、筆に勢いがありますが、三世紀の渡海船構造談義と大きく隔絶しているのです。

*大軍派遣の「考証」
 例えば、斉明四~五年(658~9)の軍船180隻(艘)蝦夷出兵、天智元年(662)の軍船170艘百済派遣、天平宝字五年(761)の新羅侵攻作戦用394艘造船」と巨大な数字が連発されますが、架空のホラ話の感が否めないのです。どのように派兵計画を構想し、関連工事を推進し、兵員を呼集し、派兵を実現したとして、以後船体はどう活用されたのか、「画餅」でなければ、首尾一貫して記録するものではないでしょうか。
 誰かが基本構想を立て、誰が、全体図から明細図を書いて各担当部隊に配布し、そのような広大で込み入った造船計画を統御したのか、人材育成、技術移管の面だけ見ても、大変疑問が残ります。
 ということで、以上は、書紀編者が筆を嘗めた虚構と見えます。これだけの字数を書き立てるのに、別に、汗一つ書かなかったでしょう。
 八世紀末の平安京遷都後には、要地の造船所に所定の技術者が配置されたでしょうが、「ローマは一日にして成らず」の成語通り、所望の予算を継続して費消しても、体制作りには、五十、百年を要すると見えます。

*時代背景考証の試み~素人の素人考え
 そもそも、7世紀中葉とされている、北関東から発して直近とみえる「蝦夷」征夷に多数の軍船を催すのは、小振りの沿海船行なら、「画餅」と言っても「一口小餅の盛り合わせ」の類いとみえ、見かけ倒しとみえます。相手とみえる「蝦夷」は、当然、多数の軍船をもっているわけではないと見えるので、船戰(ふないくさ)はないから、兵員の陸上移動が困難な事情があったのでしょうか。何とも、趣旨不明、不可解です。どの道、現地で軍務を行うには、大量の食糧補給が必要であり、やたらに/やみくもに兵員を送り込んでも、何の戦にならないと思われます。

 これに並行したとみえる7世紀中葉の百濟への軍船派遣は、元来、筑紫の専任とみえますから、北関東方面と別ですから、好きなだけ盛ることが出来たとしても、せいぜい、一船辺り乗員、兵員合わせて数十人止まりとみえ、麻布、麻縄を大量に造作したとして、何をしに/何を得ようとして百濟に出向いたのか、誠に奇異です。
 百濟は、黄海を隔てて先進の中國造船業を利用可能であり、大型の帆船を調達することが出来たので、なぜ、交通不自由な南「馬韓」を越え、さらに、未通の海峡越えで、わざわざ小振りの倭船を求めたか不思議です。加えて、高句麗、新羅が敵であれば、陸戦勝負が大勢とみえるので、ひ弱な倭船は、ますます出番がありません。
 新羅とは、三世紀辰韓斯羅国時代以来交流があったため弱小な蕃国と見下していたとしても、侵攻談議の出ている時代は、嶺東統一後の新羅であり地域最強とも言える軍事大国であり、黄海岸では南北大国を押しのけて楔を打ち込むように海港を確保していたのであり、もはや、気軽に征伐できる相手ではなくなっていたのです。
 して見ると、百濟派遣から百年を経た今更、わざわざひ弱な軍船を造成して侵攻するなど、無謀とみえるのです。計画倒れで、造船、徴兵を中止したのは、天の恵みとみえます。
 以上は、当ブログ筆者にとって、圏外の時代なので、素人くさい思いつきを連ねているのではないかと恐縮ですが、氏は、和船専門史家の務めとして、同時代の時代考証を行い、大計画群が砂上の楼閣か、実質の裏付けがあるか、論考の必要があると見受けます。

◯倭人伝行程道里考察~誤解釈の確認
 氏は、中国史書である「倭人伝」の読解に於いて、ご自身の専門分野の領域拡大のために勝手読み(誤解釈)していると見えます。

 後世の遣唐使船が、ある時期から東シナ海越えの冒険航海になったのを見て、『それだけの造船技術があったのなら、「北路」は半島西岸沖合航路であった』と決めつけて、ついには、『堅実確実な半島内陸行程と目前の山東半島への軽微な渡船とみえる「新羅道」』まで遡って、同様の冒険航海と決め付けるのは、時代錯誤の牽強付会(誤解釈)です。

                                未完

新・私の本棚 石井 謙治 「古代の船と航海の歴史」 再掲 2/2

石井 謙治 「古代の船と航海の歴史」 歴史読本臨時増刊 「渡来人は何をもたらしたか」新人物往来社 1994年9月刊
私の見立て ★★★★★ 当記事に限定 瑕瑾ある卓見 2020/11/12 2024/05/28

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*遣唐使新羅道談義
 新羅道は、半島東南部の王治慶州(キョンジユ)から北上し、小白山地を竹嶺で越えて、西に黄海岸に降り、漢江河口部南方の通称唐津(タンジン)海港を経た山東半島渡航の途次であり、慶州~唐津間を要所の驛亭を経る安全/確実な陸道としたのに拘わらず、氏は、頭から西岸沖合航行と決めてかかっています。
 半島史素人にも、第三次遣唐使時点、西海岸南方は概して百濟支配下でしたが、肝心の漢江河口部南方には、新羅が戦い取っていて海港を設けていたと窺えます。つまり、西海岸沖合航行で百濟海港に寄港する行程なら「新羅道」と呼ばれることはないのです。

 因みに、半島西海岸中部から「大陸」に渡るには、海上行程の短い漢江河口部南方が唯一の適地であり、それ以外の土地からの渡海は、行程が長期化するため、不可能だったのです。あるいは、山東半島側には、新羅公館が設けられ、百濟船の入港を武力排除していた可能性もあるのです。いずれにしろ、当時、同航路は、新羅の独占、排他状態であり、新羅は頑強だったのです。尤も、遼東半島との往来は、依然として、高句麗が頑健に死守していたので、港湾は、新羅、高句麗の「呉越同舟」だったともみえます。

*新羅の国威の根源
 新羅は、古来、南下する高句麗とこれを排除する百済との武力の狭間を、多大な犠牲を払ってこじ開けて自国領を確保し、中国に認知されるに至ったので、独占した海港の権益を損なう試みには断固実力行使したはずです。

 と言う事で、丁寧に時代考証すると、氏の唱える北路観は、憶測に過ぎず、はなから間違っています。氏は、慶州唐津間行程が陸上街道で、唐津から山東半島渡海船は新羅船では、和船の出る幕が無いので、意識外にしたようですが、先入観に囚われた論考は勿体ないものです。南方からの和船参入はあり得ないのです。

*沖合航行談義
 因みに、氏の「北路」は、特に難路ではないので、航路に熟知した現地「パイロット」(操縦士でなく水先案内)を想定していますが、当然、航路全般に通暁した案内人はいないので、寄港地毎に案内人が交代したはずです。これは、港港と「条件交渉」すればいいので、地元は、入港料や水、食糧の補給代に多額の関税もあり、商売として成立すれば維持できたはずです。
 結局、出発地政権と新羅、百濟両国の関係を、「日鮮関係」と時代錯誤の概念で括るのは随分粗雑です。百済と新羅の怨恨を無視されているのは、感心しません。

◯百済新羅抗争
 古来、漢江河口部に在ったとされる百濟の王治漢城ですが、史上知られる高句麗長寿王時代の南下攻勢で漢城は陥落し、王族は全滅して、百濟は亡国で要地を奪われ、南遷して、旧都回復目指し反撃角逐していたところ、東方嶺東の僻地から興った新羅が、小白山地越えで貿易最適地を奪ったので、百濟は再度の失地回復を国是としていて、南部でも小白山地を挟んだ新羅との東西紛争であり、両国の和解はあり得なかったのです。

*「北路」航海記欠落
 氏は、遣唐使記録に「北路」航海記がないと歎きますが、新羅道陸行は、新羅使随行の臣従の体で、とても、実態を書き残せなかったのです。
 氏は、天平八年(736)の遣新羅使の半島東海岸への航海記を提示していますが、近隣外洋航海と見受けます。恐らく、筆者、読者ともども、内陸住民で海を知らなかったため、ことさら感動、特記したのでしょう。

◯まとめ~半島内陸行の裏付け
 と言う事で、新羅慶州から漢江沿岸部の海港唐津への陸道は、倭人伝時代以来、確立された公道で迂遠で危険な沖合航行はなかったのです。
 これは、帯方郡から狗邪韓国まで「陸行」』の当然とは言え、強力な支援です。
 氏にしたら、新羅道陸行説は、不倶戴天の敵、すなわち「天敵」なのでしょうのが、結果として、倭人伝」行程道里解釈の順当な解釈を妨げ、国内古代史解釈に長く暗雲を投げたので、まことに罪深いのです。
                                以上

新・私の本棚 古田史学論集 24 正木裕 改めて確認された「博多湾岸邪馬壹国」 補充 1/3

古代に真実を求めて 俾弥呼と邪馬壹国 明石書店        2021/03/30 
私の見立て ★★★☆☆ 堅実な論議が学界ぐるみの時代錯誤の側杖(そばづえ)を食っている。 2022/05/16, 11/10 2024/05/28

*加筆再掲の弁
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◯はじめに~問題提起のきっかけ
 当記事は、古代史学界の時代錯誤の改善を提言しているのである。要するに、「シンポジウム」に集結されている学界諸兄姉の「用語」誤謬を指摘しているものである。これに対して、正木氏の記事は、言わば、引用による事実報告であるから、正木氏には、その用語に責任は無い。
 記事の主旨を読み分けて、以下の指摘の重さを感じ取って頂ければ、幸いである。

*引用と批判~「都市」の三世紀闖入と蔓延
 二〇一八年十二月に大阪歴史博物館で開催された「古墳時代における都市化の実証的比較研究」総括シンポジウムにおいて、福岡市埋蔵文化財課の久住猛雄氏らにより、弥生時代終末期から古墳時代初頭の三世紀にかけて、全国でもっとも都市化が進んだ地域は、JR博多駅南の那珂川と御笠川に挟まれた台地上に広がる比恵・那珂遺跡地域であり、「最盛期には百ヘクタール前後以上(*比恵遺跡は六十五ヘクタール、那珂遺跡は八十三ヘクタールとされ、合計は吉野ケ里遺跡の四倍にあたる)の集落範囲があり、遺跡密度も高い、他の地域を圧倒する巨大集落」(久住)だったとされている。

*コメント
 以下は、当ブログ筆者たる素人の所感で行き届かない点もあるはずだが、それはさておき、まずは素人の見識に基づく疑念を表明する。

*用語の時代錯誤
 古代史論では、当時存在しなかった用語、概念を「安易に」導入すべきでないと見ると現代的な「都市」は、古代史に於いて、まことに場違いである。つまり、ご主張の理解は、大変困難である。(不可能という趣旨である)
 現代「都市」は、高層ビル、道路、電車、水道、電信、電話を具備した大きな「まち」であり「弥生時代終末期から古墳時代初頭の三世紀にかけて」どころか江戸時代にも存在しなかった、時代錯誤の白日夢としか見えない。
 古代史で、「都市」は、「倭人伝」の都市大夫牛利に示される「市」(いち)を総(都)べる有司・高官と解される。あるいは、要地に常設された「市」(いち)の主催者かも知れない。現代語の「都市」とは、全く無関係と見える。
 「都市化」と言うと当世流行りの「すらすら」解釈に呑まれて時代錯誤となる。因みに、「倭人伝」を基盤とすると「都市化」は倭大夫に化することである。何やら、薄ら寒くなる混乱である。

*是正の勧め~未来への遺産
 この用語輻輳の解消策として、一捻りして「都會化」と古代に常用されなかった単語を、この場に転用すれば、忌まわしい錯誤感が緩和される。今からでも遅くない、学会ぐるみの「時代錯誤」を解消して、俗耳に訴える小気味よい「美辞麗句」を遠ざけることである。

*古代史に対する「都市」の侵入
 明治以降、地域を越えてギリシャ「都市国家」なる外来語が導入され、先哲は、強い抵抗を感じつつ後生の猛威に負けたようである。つまり、中国古代の聚落国家を理解するために対比する概念として、あくまで方便として認められたのである。ただし、認められたのは、ギリシャ風の「都市国家」であって「都市」を認めたものではない。そして、本題で取り上げている現代語「都市」が、どうして古代史用語となったのか、初学の素人は知らない。

*当ページのまとめ
 本項は、考察の手掛かりとした正木氏の論考に異を唱えるものではない。また、担当部門から示された「御国自慢価値観」について批判しているものではない。単に、「都市化」なる造語の不具合を批判するのにとどまっているので、よろしくご理解いただきたい。

                           続く

新・私の本棚 古田史学論集 24 正木裕 改めて確認された「博多湾岸邪馬壹国」補充 2/3

 古代に真実を求めて 俾弥呼と邪馬壹国 明石書店                       2021/03/30 
私の見立て ★★★☆☆ 堅実な論議が学界ぐるみの時代錯誤の側杖(そばづえ)を食っている。 2022/05/16 2022/11/10

*関連資料評
Ⅰ.古代の宮都 (奈良県立橿原考古学研究所)
「飛鳥の宮」 宮都とは、もともと「宮室、都城」を略した言葉です。宮室は天皇の住まいを意味し、都城はそれを中心とした一定の空間のひろがりを示しています。古代の宮都は、政権の所在地であるとともに、支配力の絶対性を象徴する存在でもありました。飛鳥時代になると、わが国は中国から新しい制度を取り入れ、「律令国家」とよばれる新しい国づくりをめざします。そのため、古代の宮都の変遷には、当時の支配者の意図が如実に反映されることとなり、古代国家の形成過程が具体的にあきらかとなります。

*コメント
 「宮都」は橿考研造語ではないが、中国古典書に出典が見当たらず、「宮室」「都城」の解釈に「和臭」が漂って「定義」が不明瞭である。

 「宮室、都城」と言うが、それぞれの単語の意義が吟味されていない。「宮室」は「宮」の一室でしかない一方、「都城」は隔壁集落の一形態であり特段の機能を示していない。つまり、当該政権支配者の居処とは見て取れない。「都城」の「都」に、天子の権威を見たくても、中国古代史で普遍的に支配的な解釈とは見えない。
 要するに、折角の絵解きであるが、大小長短に差異のある二概念を一括りにして何かを示すのは、学術用語として大変不可解である。

 案ずるに、諸兄姉は、「京都」なる中国語成句が、国内史では平安京に固く連結しているので、同義と見た「宮都」に回避したのだろうが、検討不足と見える。

 要するに、素人目には、「宮都」は、(中国)古典書に確たる用例の無い、国内史学会自家製「新語」、手間味噌造語と感じたが、素人ならぬ中国史学界の権威から、別途異議が提示されているので、続いて紹介する。

 なお、この「新語」は、三世紀に対して不整合であるが、この点は別義とする。

*「物々しい造語」の空転
 それにしても、「支配力の絶対性を象徴する」とは、物々しく、意味不明な概念であり、なぜ普通の言葉で言えないのか不審である。何か、業界の申し合わせでもあるのだろうか。
 「宮都」を根拠として「政権」が確立して、「支配範囲」に対抗者がなければ、自然に「絶対性」が見えるが、所詮、「支配範囲」の外は保証の限りでない「井蛙」の世界観である。但し、善悪の評価は別義とする。

 端的に言うと、藤原京、平城京、長岡京時代に続いて千年を閲した平安京時代のどのような状態を指して「宮都」というのか、少なくとも、素人には大変不明瞭である。まして、
 論じる時代の「世界観」の等身大、同時代の理解がないと、いかなる比喩も空を切る。それには、不当な造語を、何としても避けるべきである。
 当記事筆者の勝手な「意見」を、諸兄姉に返させていただく。

                                未完

新・私の本棚 古田史学論集 24 正木裕 改めて確認された「博多湾岸邪馬壹国」補充 3/3

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*加筆再掲の弁
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*関連資料評
Ⅱ 唐長安城および洛陽城と東アジアの都城 王仲殊 中国社会科学院考古研究所
 掲載誌 東アジアの都市形態と文明史 巻21 ページ411-420   2004-01-30
 中国古代の長安や洛陽などの都は「都城」と称されるが、1960-70年代に日本の研究者は改めて「宮都」という用語を作り出し、これを以て日本の藤原京・平城京・長岡京・平安京を呼ぶ。80年代以降、一部の研究者は、日本の都が一貫して羅城をめぐらせないので、「都城」という用語をそれらに使えないと主張し、専ら「宮都」の用語で藤原京・平城京・長岡京・平安京を呼ばなければならないと強調している。
 ところが、『日本書紀』の記載によれば、天武天皇十二年(683年)十一月に「凡そ都城・宮室は一処に非らず、必ず両参を造らむ」という詔がある。又『続日本紀』桓武天皇延暦三年(784年)六月の条に「都城を経始し、宮殿を営作せしむ」という記事もある。つまり当時の日本の朝廷の規定により、藤原京・平城京・長岡京・平安京などの都がすべて「都城」と呼ばれるのは疑いもない事実である。それゆえ、「宮都」という新しい用語に慣れない私はやはり、中国の長安・洛陽などの都城と同様に、日本の藤源京・平城京・長岡京・平安京をそのまま「都城」と呼ぶことにする。

*コメント
 時制が不確かであるが、要は、王仲珠氏見解は、国内史家の言う「宮都」は古代史用語として「不適切」ということである。言い回しは柔らかであるが、其の実は、決然たる否定と見える。

 因みに、「羅城」を巡らしていなければ「都城」と言えないというのは、恐らく、「国内」基準であり、素人目には、根拠不明の強弁と見える。中国基準では、「國邑」は、城壁で囲まれていなければならない、つまり、そうでなければ、侵入者を排除できないので、生存できないというのが当然であるが、「倭人伝」は、倭人の國邑は、必ずしも城壁で囲まれていないと認めているから、上記は必須ではないのは明らかである。

 その点を、王仲珠氏は(日本)国内史料を参照しつつ指摘しているのだが、国内史学界は、頑冥で耳を貸さないようである。

◯本件総評
 正木氏が、本稿で提示された「卑弥呼の宮都」は、率直に言って、国内史学界に巻き込まれて迷走しているようである。
 まず、本件は三世紀記事で在るから、時代相応に、つまり、中国史学用語で解釈すべきである。
 世上、「倭人伝」で、「女王之所都」は「女王の都とする所」と解されているが、正史「倭人伝」で東夷蕃王「都」は場違いであり、「女王之所」が妥当である。「宮都」自体、二十世紀に発明された六世紀対象の造語で在るから、当然、三世紀に波及できない。また、卑弥呼居処は「都城」であったと証されていない。

 種々考察したが、卑弥呼「宮都」は、二重の錯誤である。と言うことで、正木氏が採用した「卑弥呼の宮都」と言う言葉は、重ね重ね不合理であり、総じて撤回された方が良いと思うものである。理由は、以上で説明を尽くしたものと思う。

*用例批判
 参考までに、「中国哲学書電子化計劃」検索で、「宮都」らしき用例は、二例である。
 用例があるではなないか」と声がありそうだが、古典書以来僅か二例で、しかも、正史でなく権威の乏しい文献であるから、三世紀時点には、典拠として起用されていなかった証左である。

 一例目は、とかく疎漏の目立つ「御覧」所引であり出典正史に見当たらない。出典があれば用例となるから、出典不明なのは「御覧」でしばしば見られる空引用の証左である。
《太平御覽》 《咎徵部三》 《風》
《陳書》曰:陳文帝天嘉三年…[改行]又曰:天嘉六年…[改行]又曰:后主至德年…明年,陳亡[改行]又曰:隋文帝開皇中,宮都大風,發屋拔木
 「御覧」所収「陳書」に、後世の隋文帝記事があるのは、ここでは批判しない。隋文帝都城大興城(長安)全体で、建屋が飛んだとか、木が根こそぎとか、大災害で、「文帝獨孤皇后干預政事,后宮多有濫死,又楊素邪佞」と不穏な政情を招いただろう。いずれにしろ、これら記事が陳書のどこにあるのか、見つからなかった。
 いずれにしろ、「御覧」は、全体として分量、紙数を積み重ねることを至上命令としていたと見え、取材で得られた史料を嚴に批判して「ジャンク」や「フェイクニュース」を峻別するのを怠っているから、正史などの精選史料と同列に論ずるのは、大変な間違いなのである。

 二例目は、下記を「三十六宮都是春」と解すのは不適当で、「三十六宮、都(すべて)是春」が妥当である。
 《朱子語類》 [金] 1270年 《程子之書一》 『天根月窟閑來往,三十六宮都是春』
 先の「女王之所都水行...」を、「女王之所」、「都(すべて)水行...」と解すのと同様の文型と見える。
 「宮都」なる成語が当たらない以上、それが順当な解釈であろう。

 当史料も、権威を備えているかどうか、慎重な検証が必要であるが、文意を解する限り、天の「三十六宮」』は、天が順次運行して健(すこ)やかに春を迎える(天行健なり)の趣旨と見える。つまり、ここに述べた解釈で意を尽くしていると見える。

 して見ると、「宮都」なる漢語は存在しないから、第一例も、「宮すべて」の意味で書かれているのかも知れない。
 要するに、「宮都」は幻影である。

 用語検索は、的が外れて転んでも、ただでは起きないのである。
                               以上

2024年5月26日 (日)

新・私の本棚 石井 幸隆 季刊「邪馬台国」143号「古代の海路を行く」 再掲

「離島の考古学-日本の古層を探る旅」季刊「邪馬台国」143号 令和五(2023)年六月一日
私の見立て★★★★☆ 好記事 瑕瑾多々  2023/06/12-16 2024/05/26
 
*加筆再掲の弁
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◯始めに
 本号は、待望久しい新刊であるが、昨年の142号発刊より2カ月程度先行していることもあって、また、「邪馬台国の会」サイトに、本日(2023/06/16)現在、なにも告知がないのもあって、一週間以上刊行を見逃してしまった。と言う事もあって、ここでは、新刊告知をかねている。

*瑕瑾
 大小取り混ぜて、氏の玉稿に散在する瑕瑾を取り上げさせていただく。

*無法な「海路」
 いきなりタイトルで躓いているが、氏は、国内古代史の研究者であって、中国資料には疎(うと)いと見えるので用語が的外れでも仕方ないのだろうか。少なくとも、中国古代史書に「海路」はあり得ず、氏の圏外での無学を吐露していると言われそうである。

*史料談義

 本文冒頭の『「古事記」の原本は存在(現存の意味か)しない』とは、古代史分野に蔓延(はびこ)る一部野次馬論者の無責任な放言に似ている。但し、定番では、この後に「原本を読んだものも現存しない」と続くが、幸い、氏は、そのような放埒の泥沼を辛うじて避けているつもりのようであろう。
 通常は、史料批判の劈頭では、現存最古の写本論義や数種の写本間の比較を語るはず(語らなければならない)であるが、氏は、いきなり正体不明の「写本」とだれが物したか分からない現代語訳を持ち出して、これに基づいて、氏の持論を開示していくのである。これでは、読者には、資料の確認ができない。
 氏は、「写本」の現物を確認してなのか、いずれの解説書に依存しているのかも語っていない。何とも困ったものである。
 これらは、史学論文の基本の基本であるので、編集部が何の校閲もしていないのが心配である。
 以上は、恐らく、氏の追随した「お手本」がお粗末なのだろうが、お手本を真似をするかしないかは、氏の見識の問題と思うので、ここに指摘する。
 ちなみに、中国史書の分野で、「原本」とは「原典」と解すべき文字テキストであり、太古の史書の現物が存在していることを言うのではない。この辺り、氏の見識が、どんな背景にあるのかわからないので、是正のしようがないのである。

 なお、氏は「古事記」に拘泥しているが、倭女王が魏に遣使したのは、日本書紀「神功紀」補注に記載されているので一言触れるべきと思われる。

*「九州」談義

 「九州」は、中国古典書で言う天下全体に由来しているとの説が有力であるから、これも、一言触れるべきと思われる。

*船越幻想~いやしがたい迷妄
 本稿で重大なのは、「船越幻想」の蔓延である。氏は、何気なく、船を担(にな)って、つまり、人力で担(かつ)いで陸越えしたと言うが、そんなことができるものでないのは明らかである。反論があるなら、現地で実験/実証して頂きたいものである。但し、寄って集(たか)って一回実行できたから、当時実施されていたと実証できた」などと、こじつけずに、そのような難業・苦行が、長年に亘り地域の稼業として持続できるかどうかということである。せめて、丸太を転がした上を、大勢で曳いて滑らせたというものではないか。それにしても、船体、船底部の損傷は重大であり、とても、長期に亘って運用できるものでないのは、理解いただけるものと思う。
 ついでに言うと、海船船体は、船虫が食いかじるものであり、川船と異なって、寿命の短いものなのである。

 そもそも、手漕ぎで渡海すると言っても、対馬界隈は、強靱な、つまり、骨太でずっしり重い船体でないと運行できないのである。そして、「船」と言っても、総重量の大半は、船体の自重(じじゅう)なのである。水分をたっぷり吸った船を、寄って集(たか)って担(かつ)いで陸(おか)越えしたとは、三世紀の古代社会に対して何か幻想を抱いているものと見えるが、だれも、覚ましてくれないようなので、ここに謹んで、幻想と申し上げる。ちなみに、時に言われる「船荷ごと担ぐ」というのは、無謀である。船荷は、小分けすれば、誰でも担げるから、当然、手分けして運んだと思うのだが、世の中には、そう思わない人がぞろぞろいるようなので、書き足したのである。先に書いたのは、「空(から)船」の「陸(おか)越え」である。
 この地以外でも、荷船を担いで陸(おか)越えしたという幻想は、揃って早く「殿堂」入り、退場頂きたいものである。

*持続可能な事業形態
 要するに、陸の向こうにも荷船と漕ぎ手は十分にあったから、陸を越えて運ぶのは、荷下ろしして小分けした積み荷だけで良いのである。
 小分けした積み荷なら、最寄りの人々が、とにかく寄って集って運べば良いのであり、担おうが背負おうが、勝手にすれば良いのである。
 もともと、手漕ぎ船の積み荷は限られるので人海戦術と言っても知れているのである。向こう側で、船を仕立て出港すれば、船体が痛むこともなく、また、住民を酷使することもなく、持続可能である。いや、漕ぎ手すら、ここから、知り尽くした経路の気軽な帰り船を運航するのが常道であり、あえて陸を越えるのは、大変、大変非効率的である。
 世なれていれば、道半ばに溜まり場を作って、担ぎ手が荷を取り換えるものとしておけば、荷運びと言っても、来た道を担い下って地元に帰るので、負担が軽い上に、その夜は、慣れた寝床で休めるのである。どの道、毎日のことではないので、農家の副業として永続きしそうである。

 このあたり、氏は、具体的な、しかし、当時の実態に即していると証しようのない、つまり、でまかせの時代錯誤の現地地形図まで付けて、対馬浅茅湾界隈の「船越」を語っているが、行程の「高低」は語っていないので、当世流行りの架空視点になっているのではないかと危惧される。この際に要求される労力は、どの程度の高みを越えるかで決定するのである。
 また、ここは、倭人伝で、『街道でなく、まるで「禽鹿径」(みち)である』と言われるように、手狭で、上り下りのきつい連絡径(みち)、つまり、ぬけみち同然の未整備状態なので、荷馬も台車も使えず、大勢で担ぎ渡りしたと見えるのである。
 色々考え合わせても、氏が、この区間を大勢で船体ごと担いで渡ったと固執する理由が、一段と不明である。何か確たる物証が有るのであろうか。

*「ロマンティック」、「ロマンス」の(良くある)誤解~余談
 氏は、欧州系の話題に疎(うと)いらしく、ローマ談義の余談に「ロマンティック」、「ロマンス」の誤解が飛び出して、困惑する。どちらも、欧州の中世騎士道談義について回るのであり、男女の恋愛には全く関係無いのである。よく調べて頂きたいものである。
 因みに、19世紀オーストリアのクラシック音楽の大家であるアントン・ブルックナーには、”Romantishe”(ドイツ語)の「愛称」が付いた大作交響曲があるが、日本で、なぜか英訳を介して「ロマンティック」と通称されたため、随分誤解されているようである。あるいは、ドイツには、「ロマンティック」街道(Romantische Straßeと親しまれている観光名所があるが、これも、「中世騎士道を思わせる街道」という趣旨であり、通称のために随分誤解されているようである。氏も、こうした誤解に染まっているようであるが、ここに言及するには、ちゃんと語源を検証して欲しかったものである。誤解の蔓延に手を貸しては、氏の名声が廃(すた)るというものである。

 因みに、氏ほど。世上の信頼を集めている論者であれば、責任上、「Romantic」は、ローマ帝国と無関係とする有力な意見があることも、考慮すべきである。

 「専門分野」を離れるとその「離れた距離の自乗に比例して、見過ごしと誤解の可能性が高まる」ものである。ご自愛いただきたい。

*AIIDA談義~余談
 後出の「アイーダ」談義も的外れである。
 提起されたAiidaは、イタリア19世紀の大作曲家ジュゼッペ・ヴェルディが古代エジプトを舞台に描いたオペラのタイトルロール(題名役)であり、実は、敵国エチオピアの王女が、正体を隠して虜になっていたのだが、最後は自害する薄幸の人なのである。
 悲劇の主人公にあやかったのでは、あまり元気が出ないと思うのだが、Aiidaをアルファベットで書くと、船名列記のトップに来るので命名されたようである。現に、大抵の百科事典で、Aiida/アイーダは、冒頭付近に出て来るので、氏も、ちょっと目をやれば、オペラ歌手/プリマドンナのことでないことはわかったはずである。
 それにしても、ここは、氏の博識をひけらかす場所ではないのである。

*離島談義~「要路」の島嶼国家と離島
 さらに言うなら、厳しく言うと、壱岐、対馬は「離島」などではなく、「倭人伝」によれば、両島は、大海に連なる州島、流れに浮かぶ「中の島」であり、朝鮮半島に当然のごとく繋がっていた交通の「要路」だったと思われる。
 見方によっては、一時期、「一大国」は、「天国」(あまくに)として地域の中心であり、それこそ「従横」に巡らされた影響力を持っていたとも見えるのである。但し、「倭人伝」は「郡から倭への行程」に専念していたので、「従横」と言っても、「横」は一切描かれていないのである。
 ついでに言うと、「倭人伝」の視点で言うと、末盧国、伊都国の属する山島以外は、行程を外れた「辺境」「離島」とされているので、「本州」も「四国」も、離島ということになる。万事、どの時代のどの地域の視点を採用するかで、位置付けが異なってくるのではないかと思われる。掲載誌から注文を付けられたにしろ、そのように明言された方が良かったと思うのである。

 因みに、明治の文明開化の折、壱岐、対馬が、最終的に福岡県を離れたのは、両島は、他に「離島」のない福岡県に重荷になるので、五島などの島嶼が多い長崎県に任せたと見えるのであるが、どうだろうか。氏ほどの見識であれば、そのような見解を耳にしたことは有るはずであるから、そうした視点から見た両島の行政区分について、一言あってしかるべきだろう。

*稼ぎ頭の保身策
 因みに、交易路での収益は、「国境」、つまり、倭韓境界での取り引きから生じるのであり、言うならば、対馬は、三世紀において、稼ぎ頭(がしら)だったはずである。また、倭の諸公は、対馬に心付けをはずんでも、競い合って売り込んだはずであり、そのためには、米俵を送り届けることも、それこそ、日常茶飯事であったはずである。もちろん、そんなことを、帯方郡に知られると、何が起きるか分からないので、「倭人伝」にあるような「食うに困ってます」との「泣き」を入れていると見えるのである。そうでなくても、豊富な海産物の乾物類を売りさばくことも多かったはずである。 

*まとめ
 というように、つまらない瑕瑾がゴロゴロ転がっていて、しかも、肝心の「船越」談義が、一種法螺話になっているのは、まことに勿体ないことである。
 氏は、既に、社会的な地位を極めて久しいので、ここに書いたような不快な直言を耳にしていなかったのだろうが、それは、氏に対して失礼と思うので、率直な苦言を呈するものである。

以上

2024年5月25日 (土)

新・私の本棚 田中 秀道 「邪馬台国は存在しなかった」 改 1/3

                勉誠出版 2019年1月刊
私の見立て ★☆☆☆☆ 無理解の錯誤が門前払い  2019/12/12 追記 2022/01/13 2024/05/25

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇結論
 本書は、本来、不細工なタイトルのせいで読む気はなかったのだが、買わず飛び込む、ならぬ、読まず飛び交うでは、当方の本分に反し、しゃれにならないので、仕方なく買い込んで、一読者として不満を言わしていただくのである。
 自薦文ではないが、氏としては、他分野で赫々たる定評を得ているから、当古代史分野に於いても、旧来の迷妄を正す使命を帯びていると、勝手に降臨したようであるが、随分勘違いしているのである。御再考いただきたい。
 柳の下にドジョウは二匹いないという諺をご存じないのだろうか。別分野で赫々たる名声を得たのは、状況に恵まれた上に好機を得、おそらく、率直な支持者を得たからではないのだろうか。漁場に恵まれれば、凡人でも釣果を得るのである。以下、折角だから頑張って批判させていただく。

*盗泉の水、李下の冠、瓜田の沓
 まず、何より重大な指摘は、本書は、タイトルをパクっていると言うことである。自書が、先行諸書籍と取り違えられるのを期待しているのでなければ、何とかして、一見して差のあるタイトルにしようと苦闘するはずである。
 著作権、商標権などの知財権議論はともかく、本書のタイトルは、古田武彦氏の『「邪馬台国」はなかった』を猿まねしたものであり、一般読者の混同・誤解を期待しているので、商用書籍として恥知らずな盗用だと見る。

*出版社の怠慢
 出版社は、当然、コンプライアンス意識と倫理観を持っているはずだから、このような盗用疑惑の雪(すす)げない不都合なタイトルの書籍を上梓したことは、その道義心を疑わせるものである。「渇しても盗泉の水は飲まず」の気骨は無いのだろうか。
 かくして、本書の社会的生命は、たちまち地に墜ちたが、其の内容の端緒に触れることにする。

〇内容批判~枕(端緒)のお粗末さ
 本書の冒頭、枕で、氏の所論が説かれているが、氏の古代史見識は、大変お粗末なものと言わざるを得ない。それは、大変粗雑な第一章章題に露呈している。これでは、誰も耳を貸さないだろう。

 曰、『学者はなぜ「邪馬台国」と「卑弥呼」の蔑称を好むのか」
 著者は、自身を学者と自負してか、まずは、天下に曝した上で、自身の無理解、無知を、世にあふれる「学者」全員に当てはめるのは無理と思わないのか。自罰は自罰に止めるべきである。
 素人の苦言であるが、何か「学者」に質問があるのなら、御当人に問えば良いのであり、無実の読者にツバキを浴びせるものでは無いのではないか。感染症蔓延は、ご勘弁いただきたい。
 以下の指摘でわかるように、俗に言う独りよがりである。著者には、当然、学者としての自負心があるだろうから、自罰/自傷行為としかみえない暴言が、どこから出てきたのか、どうして、出版者が制止しなかったのか、不思議である。

 個人的に快感があっても、それを世間に曝すのは自罰行為である。

*無知の傲慢
 以下、周知の史実について、氏は、的確な用語を使用できていない。つまり、歴史認識の不備であり、そのような見識の不備、つまり「欠識」に基づいて書かれた当書籍は、読者に誤解を植え付ける「ジャンク」(ごみ)である。

 例えば、氏は、史書全般を断罪して「伝聞をもとにすべて構成」と書いているが、史官は、常に原資料に基づいて自身の著作を編纂する史学が「過去に起きた事実を、後刻推定する科学」である以上、「直接見聞/検証する一次情報で無く、証言、報告や伝聞による間接的な二次情報、ないしは、それ以降の更なる間接的情報に基づくものでしかない」ことは、もちろん、当然、明白である。氏は、それすら知らずに、反論できない当事者や先人を易々と誹謗して、堂々と快感を覚えているようである。ここでは、口のきけない先人に代わって、素人が、訥々と異議を唱えるしかできないのである。

 史官は、時間や空間を跳躍して、現場に立ち戻る能力は無いから、すべからく、得られた文字情報の正確さを信じて、いや、最善の努力を持って精細に検証して、最終的に、科学的最善を尽くすのである。いや、子供だましの戯言のお付き合いには徒労感がある。もっとも、このようにして、素人に言われて、自身の不明がわかるなら、当然の自省段階で、言われる前にわかるはずである。

 この記事は、燃えさかる山火事に、聖器である柄杓(『卑』の原義)一杯の水を注いでいるのかも知れないが、注ぐ前より、幾許かの改善になっていれば幸いである。

                                未完

新・私の本棚 田中 秀道 「邪馬台国は存在しなかった」 改 2/3

                勉誠出版 2019年1月刊
私の見立て ★☆☆☆☆ 無理解の錯誤が門前払い  2019/12/12 追記 2022/01/13 2024/05/25

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*「伝聞」の意義喪失
 「伝聞」が、否定的に扱われるのは、裁判時の証言の検証時であり、史学では、「又聞き証言は一切証拠とならない」という際の「伝聞」とは意義が異なるのであり、それを、だらだらと振りかざすのは無神経である。「罪無き者が石を投げよ」である。
 まだ、陳寿の場合は、三国志編纂時に一次証言者が生存していた可能性があるが、それにしても、長年を経た証言が有効かどうか疑問と言わざるを得ないから、どう考えても無理無体な発言である。
 きれいな決めゼリフを吐きつけたいのなら、まずは、一度、洗面台の鏡に向かって、目前の人影と自問自答されたらいかがだろうか。快感があるようであれば、それは、自罰体質の表れである。脂汗が出ても、「売り」を立ててはならない。 

*欠識の確認
 そして、先ほど上げた氏の「欠識」、つまり知識欠如であるが、論議の裏付けとして語られる時代様相談義に使用される言葉は、要所要所で同時代用語、ないしは、同時代を表現する後世用語と乖離していて、氏の史書理解が、体質的に不当なものと思わせるのである。とは言え、体質は「やまい」でないので、お医者様でも草津の湯でも治療できない。やんぬるかな。つけるクスリがないのである。

 歴史科学の様相として、時代固有の事情を表現する言葉を的確に使用できないと言うことは、時代様相の理解が枯渇、欠如しているのであり、時代様相の的確な認識ができないものが、記事内容を批判するのは不適切の極みである。

 ほんの一例であるが、対馬に関する記事で、海産物を食べて暮らすのは島国の「常識」と高々と断じるが、当記事が、中原人読者対象の記事であることをバッサリ失念しているのは、何とも杜撰で滑稽である。念のため言い足すと、海産物が売るほど豊穣であって、穀類を買い込むに足りるほどであったとしても、別に意外ではない。対馬が、本当に饑餓続きであったという証拠は見られない。ここで言いたいのは、氏の言う「常識」は、中原人には、全く想像の他であったと認識頂きたかっただけである。そう、ちと言いすぎたと後悔して、付記したのである。

*史的用語の不手際
 「二六三年、陳寿が仕えていた蜀が魏に併合されました」と脳天気におっしゃるが、蜀は魏に攻め滅ぼされ、蜀帝ならぬ「後主」劉禅は誅伐覚悟の肌脱ぎ降伏儀式をもって、ひたすら平伏したのであり、和やかに併合などされていない。この言い方は欺瞞である。

 また、蜀の宰相であった諸葛亮は、『「魏」の政敵』とされているが、一宰相が一国の「敵」、つまり、対等の存在とは笑止であり、まして、その状態を「政敵」とは何とも奇っ怪である。事は、政治的な抗争では無いのである。喉元まで、「幼稚」の言葉が出そうになるが、呑み込む。

 また、陳寿にとっては、(故国の偉人忠武侯を、本来実名呼び捨てなどしないのだが、著作集タイトルとしてはそう書くしかないのである)「諸葛亮著作集」を編んだのは、忠武侯が、魏では、邪悪、野蛮な賊将、つまり、へぼな武人と見なされていたのに対して、その本質は「武」でなく不世出の「文」の人であることを示したものであり、氏の解釈は、陳寿を、史官として貶(おとしめる)めるのに集中して、人物評の大局を見失っている。魏晋朝の諸葛亮観を、無教養で軽薄な現代人たるご自身のものと混同しているのであろう。まあ、知らなければ、何でも言いたい放題という事なのだろう。

 それにしても、「だいたいのところ賞賛」とは、陳寿も見くびられたものである。陳寿は、諸葛亮著作編纂によって、偉人を「文」人と「顕彰」こそすれ、「賞賛」などと忠武侯を見下ろした評語は書けないのである。
 陳寿が、三流の御用物書きなみとは、重ねて、随分見くびられたものであるが、何しろ、当人は、どんなに無法な非難を浴びせられても一切反論できないので、後世に一私人が、僭越の極みながら、代わって反駁しているのであるから、当方の趣旨を誤解しないでいただきたいものである。

*見識の欠如
 そのように、氏は、(中国)史書の初歩的な読解が、まるでできていないので、「中国の歴史書」なる膨大な批判対象について、事実の分析という視点が一切無いと快刀乱麻で断言する根拠も権威も、一切もっていない。ここは、誰でも、氏の不見識を、絶対の確信を持って断言できるのである。

 根拠の無い断言、大言壮語は、中国だけかと思ったが、日本にも、一部伝染しているものと見える。なんとか、蔓延防止したいものである。それにしても、学者先生が、素人に不心得を指摘されるのは恥ではないかと思う。もっと、しっかりして「書評に耐える階梯」に達して欲しいものである。半人前の史論は、もう沢山なのである。

 著者も、当分野の初学者として、「過ちをあらたむるに憚ることなかれ」とか「聞くは一時の恥」とか、諺の教えに謙虚に学んでほしいものである。

                                未完

新・私の本棚 田中 秀道 「邪馬台国は存在しなかった」 改 3/3

                勉誠出版 2019年1月刊
私の見立て ★☆☆☆☆ 無理解の錯誤が門前払い  2019/12/12 追記 2022/01/13 2024/05/25

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*終わりなき放言
 なぜか、陳寿は、「三国志」の編纂の官命を受けたことになっているが、勢い込んだ割りに、的外れになっている。司馬晋が、よりにもよって「三国志」編纂の勅命を発する命じるはずがない。氏自身も言うように、官撰史書は当代正当性を裏付けるものである以上、反逆の賊、呉、蜀を、天子たる魏と同列に描くよう指示するはずはない。せいぜい、魏国志であろう。
 まして、当時、既に、官修の前代史書が三件、内二件は、「魏史」として昂然と成立していた氏の主張なら、改めて、屋上屋の「魏国志」の編纂を命ずるはずがない。

 氏自身の言う、「呉書」は、呉の史官韋昭が、私的に、つまり、魏晋朝の官命を受けること無く編纂した呉史書を、呉の亡国の際、降伏時に献呈したものであり、また、「魏略」は、魏の官人たる魚豢が、官命に基づかず私撰したものであって、氏自身私家版と断じている。その程度の分別が行き止まりとは、情けないと思えるのである。

*歴史認識の混乱
 つまり、氏の歴史認識は、ほんの数行前に自分で書いたことも判読できないほど、つまり、著作家として、収拾の付かないほどボロボロに混濁していると言いたくなるほどであるが、言わないことにする。

 多分、伝聞、受け売り史料の貼り合わせで混乱したのだろうが、このような支離滅裂と言われかねない証言は、証人採用されるはずがない。「勉誠出版」社編集担当は、玉稿を閲読しないのだろうか。

*自覚なき迷走
 ということで、続いて、『「魏志倭人伝」の記述の不正確さ』なる段落があるが自分で書いた文章の当否を判読できないのに、他人の著作を的確に判断できるはずがない。何か、重大な勘違いをしているようである。
 物理的には、本書は書棚にあるが、当方の判定では、本書は、このあたりでゴミ箱入り、紙くずリサイクル仕分けである。

*提示部の壊滅~本編自棄
 読者を招き入れるべく渾身の労が投じられたはずの書籍「扉」が、これほど念入りに汚物に汚れていたら、読者がそ「たんぼのこいだめだ」と教えてあげないか。「枕」がボロボロなのをそう見るのは、皮肉に過ぎるだろうか。

 当方であれば、著書の確定稿ができたら、論理のほころびに、遠慮無く、論理的にダメ出ししてくれる「査読」者を懸命に探すのであるが、著者は第三者査読体制をどう構築したのだろうか。一般読者の財布の紐を緩めさせたかったら、誠意を持って完成度を高めた上で上梓するものではないのか。

*客除けの壁
 氏は、世上著書批判が少ないと嘆くが、これほど混乱した書籍に対して、真面目に書評を行うのは、当方のようなよほどの暇人である。
 いや、もし、読者が、のんきな方で以上のような齟齬に気づかないのであれば、上っ面だけで紹介記事は書けても、自分の目で、本書の各ページの各行を丁寧に追いかけていけば、躓きまくって地面を転げ回ることだろう。それは、当人が不注意なせいであり、著者を責めるものではない。

 著者は、自著の不評を近代政治思潮のせいだと気取っているが、どんな世界、どんな時代でも、不出来な著作は世間の相手にされない。いわば、ご自身で、客除けの壁(バリヤー)を念入りに設(しつら)えておいて、「客が来ない、けしからん」と憮然としているのは、自縄自縛の戯画にもならない。(当ブログの閑散は、自嘲の対象にもしないようにしている)

 と言うことで、同書の以下に続く内容については触れないこととする。いや、端緒が糺されない限り、気合いを入れて読むことはないのである。それが、著者の選んだ路であるから当方がその当否を云々しているものではない。

*最後に
 以上、例によって、端から論評に値しない書籍を物好きにも論評したが、氏の周囲には、氏の論調に共鳴する方ばかりで、ここに書いたような素人目にも当然の批判を受けなかったのだろうか。本当の支持者なら、このように批判される言い回しは取り除くよう、馘首覚悟で殿に諫言するだろうから、それがないということであれば、氏の閉塞した環境が思いやられて、まことに勿体ないと思う。

 本書は、氏の「五丈原」なのだろうか。重ねて、勿体ないと思う。

                                以上

2024年5月22日 (水)

新・私の本棚 「新古代史の散歩道」ブログ批判 南畝 「乍南乍東」1/2 補充

「乍南乍東」 2024/05/19
私の見立て 考古学記事全般 ★★★★☆ 当記事 ★☆☆☆☆ 大変不出来/不勉強 2024/05/22 補充2024/06/16


◯始めに
 「新古代史の散歩道」は、当ブログと紛らわしい名称を名乗っている後発ブログであるので、ここでは、混乱を避けるために、中国古典書の筆法に倣って、冒頭二文字「新古」と略称することがあるのをお断りしておく。
 又、同サイト全体は、本来、地道な(遺跡/遺物考察専門の)考古学専門記事であり、又又本来、素人の批判など許されないものである。本記事は、同サイトの余傍分野である「倭人伝」解釈であるので、当方専門範囲の基準に照らして客観的な批判を試みたものである。

*記事批判
乍南乍東(さなんさとう)は韓半島の西岸を航行するときの船の進み方である。

コメント:

現地は、歴史的に朝鮮半島である。いや、「新古」子は、半島南半を「韓半島」と呼ぶとに決めているのだろうか。説明不足で不明瞭である。
いずれにしろ、懸案は、本来、西岸及び南岸を合わせた議論である。何故、西岸だけに限定するのか、不審である。それとも、「新古」子は、韓は南で「倭」に接する、つまり、「海(うみ)」とは接していないと決め込んでいるのかもしれない。となると、「南岸を航行するとき」はどう解釈するのであろうか。いや、いずれにしろ、誠に面妖な解釈である。
原典から読みなおすと、「航行」は粗雑な作業仮説であり、確定したものではないから、本来論議などできないのである。いや、道里行程記事では、些末事項であり、時間・労力の無駄は避けたいものである。

概要
『魏志倭人伝』原文は「従郡至倭循海岸水行歴韓国乍南乍東到其北岸狗邪韓国」である。乍南乍東の解釈は各書で微妙に異なる。
 歴韓国乍南乍東到其北岸

コメント:
諸説解釈が「微妙」に異なるとは、何とも鷹揚である。

 以下、項目列挙。
岩波文庫の解釈、倭国伝の解釈、漢辞海、邪馬台国研究総覧、字統、古田説

考察
「L字型の行路を最初は南に行き、然る後に東にいく水行の行路」という時間的順序(連続説)を表すとする解釈がある。しかし、これは地図で見たときのマクロの進み方であって、実際に船に乗船すれば、ミクロな進み方しか体感できないので、この解釈は取れない。

コメント:
 ここまでの迷走に続いて、出所不明の「解釈」が引き合いに出されるが、ドサクサ紛れに自説開陳するものではないと意見したいところである。
 「マクロの」「ミクロな」の混沌も解釈を妨げる。「マクロの」は、大局として前半南行、後半東行だろう。海勢など関係無い。正史記事に「ミクロな」は、「有害無益」である。それにしても、「体感」は見事なホラ話である。「新古」南畝子はGPS装備のサイボーグなのか。絶対音感ならぬ絶対方位/距離感をお持ちなのか。実際は、帯方郡の官人が、軽快な小舟に乗れば、たちどころに船の揺れを「体感」して、船酔いになるはずである。なぜ、西岸を南下し、南岸を東行するという素直な解釈を拒否するのか、まことに、「海(うみ)」を知らない中原人読者に対する、説得には字数がかかるのである。この辺りで、何か大きな間違いに陥っていると悟るべきではないだろうか。

 石原道博(1951)、藤堂明保(2010)、古田武彦(2010)による「乍南乍東」の解釈は表現は異なるが、実質的には同一であるといえる。

コメント:
 「概要」部「岩波文庫」主語は人格が存在せず、冤罪である。
 書名は、「新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝 中国正史日本伝 1 (岩波文庫)」である。

 「概要」部「倭国伝」主語は人格が存在せず、冤罪である。
 書名は、「倭国伝 全訳注 中国正史に描かれた日本 (講談社学術文庫)」である。

 「概要」部「古田説」は、書名『「邪馬台国」はなかった―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社(1971)である。

 うろ覚えは誤記/誤断のもとであるが、「新古」サイトは、公開以前に校正しないのだろうか。誰も、誤記/誤解についてコメントしないのだろうか。もったいないことである。

 「概要」部『全訳「漢辞海」第三版記事』考察(割愛)に後続考察がない。「概要」に書き立てて、それっきりとは、もったいないのではないか。

                                未完

新・私の本棚 「新古代史の散歩道」ブログ批判 南畝 「乍南乍東」2/2 補充

「乍南乍東」 2024/05/19
私の見立て 考古学記事全般 ★★★★☆ 当記事 ★☆☆☆☆ 大変不出来/不勉強 2024/05/22 補充2024/06/16

考察 承継
 古田(2010)説は原文に「海岸水行」と書かれる個所をことさらに無視しており、原文を尊重しない都合の良い解釈といえる。

コメント:
 「古田(2010)説」は、「循海岸水行」を、漢江扇状地陸行を避ける部分行程とする点で誠に論点が明快であり、これを原文「無視」と見るのは、浅薄である古田説は、第一書『「邪馬台国」はなかった』(1971) が初出、ほぼ創唱であり、以後、維持されているので、 そのように明記すべきであろう。他説は、概して氏の提言を克服できていないものであり、「新古」子は、ここに示されたように、古田説を理解していないので、罪が深いのである。
 以下、「古田(1971)説」では、行程は、半島西岸に上陸して、以下、一路陸上街道で韓国歴訪するので、上陸地点以降の海況は無関係である。陸上街道は、難波沈没が存在為ず、好天による航行途絶も発生しないから、誠に確実安全な行程であり、帯方郡の公用往来、主として官用郵便に適しているとみるべきである。この場で、もの知らずに自論を振り回す前に、原史料を精読した上で、「古田(1971)説」を克服するのが、学問の徒の責務であると感じる次第である。特定の所説に対して「原文を尊重しない」と勝手に決めつけた上で、これに対して自説にとって「都合の良い」解釈などと主観的な「賛辞」を呈して、議論をはぐらかすのは、まことに、身勝手で不適切である。
 ちなみに、当ブログサイトでは、「古田(1971)説」の不合理を指摘して克服しているので、「新古」子とは、席を同じくするものではないし対決するものでもない。

 『邪馬台国研究総覧』の解釈は連続説か断続説かは明らかで無い。つまり、南に向かうことと東に向かうことが繰り返されるのか、1回限りなのかは明らかで無く、どちらともとれる。

コメント:

 「邪馬台国研究総覧」は、先行論考総覧であるから「解釈」は存在しない。勝手に、「連続説」「断続説」と誤解を振り回して、どちらともとれるとは、独り善がりというものである。

 韓半島の西海岸は溺れ谷を含むリアス式の複雑な海岸線であるため、海岸線に沿って航行すれば、南行・東行、さらには書かれていない西行も繰り返される。船の進む方角が次々と変わることは自然である。それを表現する意訳としては「しばらく南に進むと、しばらく東に進み、これが繰り返される」であろう。

コメント:
 地理解釈で眩惑を図っているが、そもそも、原文は「海岸線に沿って航行」などと書いてはいない。「倭人伝」の真意を解し得ない無教養な東夷の誤解である。「海岸」は海辺の崖、つまり、堅固な陸地であり、したがって、「海岸に沿って」は当然陸上行である。また、当時「航行」などという言葉は存在しない。要するに、史官が推敲の果てに編み出した「循海岸水行」を勝手に改竄して論議するのは愚行である。
 このような記事が平気で書けるのは、原文の意味が理解できていない「強み」だろう。うらやましいと言いたくなるところである。
 「書かれていない」西行は不適切である。文献解釈になっていない。ついでに言うと、今日、「リアス式」は廃語であり「リアス海岸」とでも言うべきであり、加えて、勝手な解釈で「溺れ谷」まででっちあげておいて、そのような難所を手漕ぎの小舟で行けというのは、無法である。
 総じて、あたかも、ものを知らない中高生ばりの論者が、限られた知識で、膨大な先行諸説を「読みかじって」評価しているみたいで、残念である。
 これでは。文献史学に無教養な門外漢が、先人が論議し続けてきた文献解釈に、読みかじりのご高説を垂れているように見えかねないので、稚拙と言われそうであるが、ここでは、遠慮してそうは言わない。

参考文献
 石原道博(1951)『新訂 魏志倭人伝』岩波書店
 藤堂明保(2010)『倭国伝』講談社
 佐藤進・濱口富士雄(2011)『漢辞海』第三版、三省堂
 三品彰英(1970)『邪馬台国研究総覧』創元社
 古田武彦(2010)『「邪馬台国」はなかった』ミネルヴァ書房
 白川静(1994)『字統 普及版』平凡社

コメント:
 白川氏漢字字書は熟語記載の豊富な「字通」を参照すべきである。
 三品彰英(1970)『邪馬台国研究総覧』は、具体的な記事、論者名、出典を明記すべきである。
 参考文献に付番がないので、被参照が不明瞭である。
 文献の原文史料、字書、総覧、個別論の混在、順序錯綜は混乱を招くので、もったいない。

◯まとめ
 当記事は、学術論文としての編集・校正がされていないのは、まことに、疎略で、不名誉な読み物になっている。ブログランキングに列席して天下に公開する以上、真面目に最善を尽くしてほしいものである。この繚乱ぶりでは、「新古」サイトの本領、専門の遺跡/遺物考古学分野の諸兄姉の考察/考証の紹介も、同程度の杜撰なものと疑われるのではもったいない。しょけいしの労作が、杜撰なでっち上げと速断されたら、どう弁解するのであろうか。「新古」子は、「たられば」論法を愛好されているようだが、他人に迷惑をかけない範囲に留めて欲しいものである。

                      以上

2024年5月18日 (土)

今日の躓き石 毎日新聞 名人戦観戦記の「屈辱」

                2024/05/18

 本日の題材は、毎日新聞大阪朝刊第14版掲載の「第82期名人戦七番勝負 豊島将之九段-藤井聡太名人 第2局の1」である。

 呆れたのは、同記事は、別主催者のタイトル戦「叡王戦」5番勝負第二局で、藤井叡王が屈辱的な敗戦を喫したと、ちと古い報道で開始している。最後は、同タイトル戦主催者の担当者の談話が盗用されているのである。「盗用」というのは、どう考えても、毎日新聞社ともあろうものが、「藤井名人がタイトル戦敗者として晒し者になった」などと云う屈辱的な報道を、名人戦観戦記の冒頭に24行に亘って掲載するはずがないからである。叡王戦中継番組関係者は、低額予算で番組維持のための連日の苦闘と引き比べて、大資本の全国紙の観戦記運営の暢気さを揶揄しているのではないかと見えるのである。
 これでは、名人共々、挑戦者の顔も丸つぶれである。合わせて、長年の伝統を継承している毎日新聞の品格が疑われているのである。
 なにしろ、今回の掲載は第四局の初日であり、挑戦者はカド番に喘いでいるし、叡王戦は、逆に叡王二敗のカド番であり「屈辱」どころか逼迫しているのだが、朝刊掲載の観戦記は、別次元の懐旧談であり、これでは、新聞棋戦の読者が減るのではないかと思われる。
 別に速報せよと言っているのではないが、第三者の棋譜報道を制限している以上、速報性を持たせるべきではないのだろうか。

 当該観戦記者は、A級順位戦観戦記で一方対局者のぼやきを延々と盗用して一回分原稿料をもぎ取っている実績があるから、初回ではないので、ここで悪質だと言われたとき、毎日新聞社はどう反論するのだろうか。名人戦共催なので多少の手抜きは、被害が薄められると思っているのだろうか。無駄な、というか、逆宣伝効果のある観戦記を割愛したらどうかと言うつもりはないが。

 今回は、字数が少ないが、不快感は、いや増しである。宅配講読者としては、この部分の紙面、全記事39行中の24行相当を返金してもらいたいほどである。それとも、毎日新聞の観戦記運用が気に入らなかったら、朝日新聞に切り替えろというのだろうか。なんら改善がないから、口調がきつくなるのは、当然であろう。

以上 

2024年5月 9日 (木)

毎日新聞 歴史の鍵穴 意図不明な「宗達」新説紹介記事 補足 三掲

 私の見立て☆☆☆☆☆               2016/06/17 2024/04/30, 05/09
 今回は、当ブログ筆者が毎月躓いている毎日新聞夕刊文化面の月一記事である「歴史の鍵穴」の6月分記事に対する批判記事の補足である。

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯始めに
 前回記事は、いきなり、切り口上で、麗々しく題した「風神雷神屏風」の意味として、「日本美術史研究家の近刊書籍の打ち出した新説を紹介している記事のようである。」と書きだして、自分なりに「専門編集委員」の作品として出来がまずいと思われる点を率直に指摘したものであり、ここまでのところ、撤回すべき内容は見つかっていない。

*補足の弁
 ここで、補足したいのは、「林進氏の新説が明確に提示されていない」と批判した点であるが、読み直してみると、冒頭部分に、一応書かれていることに気付いたので、明確でないと感じた背景を以下に述べるものである。
 そのためには、当該部分を忠実に引用する必要があるので、出典を明示したうえで引用させていただく。この点、著作権者の了解をいただけるものと確信している。

 「江戸初期の絵師、(生没年未詳)の傑作「風神雷神図屏風(びょうぶ)」(京都・建仁寺蔵)は、学者で書家、貿易商だった角倉素庵(すみのくらそあん)(1571〜1632)の供養のために描かれた追善画だった。大手前大学非常勤講師の日本美術史研究家、林進さんが史料に基づいて通説を見直し、近著『宗達絵画の解釈学』(敬文舎)でこんな新説を打ち出した。」

 これでは、字数が多く、紙面では8行+1字の長文の上、必要な説明とはいえ、大量の説明やかっこ書きが割り込んでいて、文の主題が目に入りにくいのである。と早合点の咎の言い訳をさせていただく。
 とはいえ、批判するだけでは、改善の手掛かりにならないので、素人なりの再構成を試みた。
 引用ならぬ粉飾
 俵屋宗達の代表作とされる「風神雷神図」は、京都・建仁寺所蔵の国宝として有名である。その制作動機として、通説では、京都の豪商が、臨済宗妙光寺に対して、その再興の際に寄贈するため製作を依頼したとされている。また、現在所蔵している建仁寺は、妙光寺の上位寺院であり、いずれかの時点で上納されたものと推定されている。
 日本美術史研究家 林進氏(大手前大学非常勤講師)は、近著『宗達絵画の解釈学』(敬文舎)で、近年公開された資料を基に「風神雷神図」の独特の構成、彩色を新たな視点から分析し、宗達は、芸術上の盟友であった角倉素庵の追善画として制作したとの仮説を提示している。
 *角倉素庵(すみのくらそあん)(1571〜1632)は、江戸時代初期の貿易商であり、のちに隠居して、学者となった。書道では、本阿弥光悦に師事したが、自身で角倉流を創始するほどの高名な能書家であった。

 こう切り出して、興味を書き立てられた読者に、以下の記事を書き続けるのだが、基本的に、通説と新説を対比し、新説の根拠を明快に提示するものではないかと思う。いくら優れた学説であっても、紹介者として、疑問に思う点があるはずであり、それは、率直に書くべきである。

 例えば、上にあげた改善例では通説とされている制作動機に触れているが、この説に従うと、少なくとも、当初、妙興寺方面からの製作依頼、つまり、多額の資金提供/手付金が契機になって屏風として制作されたという経緯、および、現在の建仁寺に所蔵されに至った経緯が、滑らかに説明されている。記事に紹介されていないが、林氏も、この点は否定していないことと思う。
 つまり、新説の趣旨は、通説の否定/克服ではなく、宗達が、制作依頼に応じて屏風を制作する際に、追善の思いを込めたというべきではないだろうか。

 ついでながら、角倉素庵の極度の窮乏は納得しがたいので、以下に書き留めると、五十歳を目前にして家業を長男に譲り、ついで、資産すべてを次男をはじめとした親族に譲り渡して、完全に隠棲に入ったとはいえ、「嗣いだ家業が繁栄している実子二人が、重病に苦しんでいる実父を見捨てて、無一文の困窮状態に放置した」とするのは、どんなものか。親が放蕩息子を勘当して縁を切ることはあっても、子が親と縁を切る法はないはずである。

 まして、長男は玄紀(京角倉家)、次男は厳昭(嵯峨角倉家)と、それぞれ、立派に家業を継いで、社会的にその地位を認められているから、最低限の親孝行として最低限の支援はしたはずである。直接の支援を拒絶されたとしても、宗達を介した出版支援など、陰ながらの支援をしなかったとは信じられない。

 今回の新説の補強を要するポイントは、宗達が、素庵にそれほどの哀悼の念を抱いた背景の推察であろう。
 素人考えでは、素庵は、自身とほぼ同年、つまり初老の宗達が、ともすれば、扇子製作の分業の中の一介の「絵師」職人として埋もれていたところを、自身の書家としての高名を生かした共作により、世評に上るように引き立てたものと思う。
 素庵との共作により、芸術家「絵師」として世に広く知られることになり、ついには、朝廷から「法橋」の称号を得て、多くの大作を製作する機会を得たことについて、とても返礼できない恩義を感じていたのではないか。

 念のためいうと、当ブログ筆者は、世間並みの好奇心と知識を持っているだけであり、以上の議論は、当記事を書き綴る傍ら、Wikipediaを購読してた得たにわか作りの知識を基に、つらつらと推察したものに過ぎない。
 せめて、こうした考察が付け加えられていなければ、学説紹介にならないのではないか。毎日新聞の専門編集委員に求められるのは、その令名に相応しい充実した記事ではないかと思うのである。

 毎度のことであるが、当ブログ筆者は、毎日新聞の編集長でも何でもない。素人の放言だから、別に気にすべきものでもない。ただし、毎日新聞の紙面にこうした記事を公開し続けることは、毎日新聞に対しても、記事筆者に対しても、「品格」の低下を感じさせてしまうのではないかと危惧しているのである。

 因みに、素庵の遁世の原因は「ハンセン病」罹患のせいと語られているが、当時「業病」として忌み嫌われていたというものの、記事の主題との関係の深いものではないから、中途半端に病名を出すより「難病」程度にとどめたほうがいいのではないか。読者が詳しく調べたければ、自力で調べればいいのである。

以上

2024年5月 8日 (水)

私の所感 古賀達也の洛中洛外日記 3059話 『隋書』俀国伝に記された~都の位置情報 (1)  

古賀達也の洛中洛外日記 第3059話 ブログ記事 2023/07/02            当ブログの初稿  2023/07/04, 2024/12/08

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯コメント
 本稿は、「多元的古代研究会」の会誌『多元』176号掲載の八木橋誠氏論稿に対する古田史学の会事務局長古賀達也氏の「賛成意見」と見える掲題ブログ記事に対する「賛成意見」である。あくまで、一介の素人の「所感」であるが、早いうちに表明しないと契機を逸するのではないかと懸念して、あえて、早合点覚悟で先走ったものである。
 八木橋誠氏論稿の引用は、二重引用になり、第三者著作物の取り扱いに疑義が生じることもあり、本稿からは割愛したが、あくまで、古賀達也氏の部分引用コメントに限定したものである。

*本題
 知る限り、古田武彦師の本件に関する最終的な見解は、『「隋書俀国伝」は、中国人によって、中国人のための史書として書かれているのであるから、中国史書として解釈すべきである』と解される「原則再認識」と見える。要するに、隋書編者が知るはずもない「現代日本人の地図情報や歴史認識、及び/又は『日本書紀』の記述」を参照した論義は、論外/圏外のものとして、まずは排除すべきであるとの真意と思うものである。
 つまり、当史料は、それ自体の明記事項と先行する史書、主として、「魏志倭人伝」の明記事項に基づいて、丁寧に解釈することを推奨しているものである。

*隋書「俀国伝」再確認
 「隋書」「俀国伝」は、冒頭部分で「三史」の重鎮である笵曄「後漢書」を根本として、格下の「魏志」は、一応書名に言及するだけで、内容はほぼ無視していて、「古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里,在會稽之東,與儋耳相近。」と、まだ、正史として認知されていない/認知されたばかりとはいえ、「古」として、尊重すべき笵曄「後漢書」を、無造作に、改竄しつつ節略して述べていると見えるので、当該記事に限っての断定であるが、隋書編者の「存檔史料」が時代混濁している感じである。あるいは、笵曄「後漢書」の所引でなく、別系統の古史料の所引かもしれない。

 さすがに「魏志倭人伝」の「存在」は承知しているはずであるが、厳密な史料批判無しに、新作記事を捏ね上げているので、千年あまり後生の無教養な東夷読者にしてみると、「隋書」「俀国伝」編者の視線/視点が、有らぬ方にさまよっていて、いわば、宙に浮いていると見えて心許ないのだが、諸兄姉は、どう感じておられるのだろうか。

*追記(2024/05/09)
 初稿で読み過ごしていて面目ないのだが、笵曄「後漢書」(?)が時代錯誤で書けなかった『「樂浪郡境」と「帶方郡」郡治が、行程道里上、同一の位置である』という更新定義が成されているのは軽視してはならない。恐らく、当時行われた笵曄「後漢書」補注の成果であろうか。
 ただし、このような場合、楽浪郡境が昇格した帯方郡が、道里の起点として相応しいかどうかという考察がされていないのは、何とも、暢気である。


 そのような史料認識に搭載された裴世清「訪俀所感」と見えるが、それにしても、本来原史料として最も尊重すべきである「魏志倭人伝」は、九州島外の地理を一切詳記していないこと、及び「隋書俀国伝」自体が、「竹斯国から東に行けば、最終的に海の見える崖(海岸)に達する」と書くだけで、以後、「浮海」するとも「渡海」するとも書いていない上、『「書かれていない」海津/海港で船に乗って長距離を移動する』ことは、一切予定されていないと見るべきではないかと思われる。
 当代天子である隋帝楊廣(煬帝)は、この時期は、依然意気軒昂で在ったはずであるから、魏代以来疎遠であった俀国への文林郎裴世清の「往還記」が、探索行の要点を漏らした粗雑なものと見たら、突っ返して、きつく叱責したはずである。鴻臚が上程する蛮夷「国書」は、原文無修正であるのだが、当「往還記」も、勅命の成果であるので、公文書扱いせずに原文が天子のもとに上程されたと推察される。

 それにしても、陳寿が、「魏志倭人伝」に於いて、ことさら「水行」なる行程用語を渡海行程に充てる書法を創始したことに気づけば、幸甚な先例として、「循海岸水行」と書くのは適法であるが、それも書かれていない。俀国に至る行程記事に於いて、「魏志倭人伝」に一顧だにしていないことを重大に受け止めたい。要するに、「魏志倭人伝」には、郡から狗邪韓国まで理解道行程が書かれているだけであり、該当する海上行程が書かれていないので、参照していないのである。端的に言えば、狗邪韓国に相当する海津/海岸が書かれていないのである。

 もちのろん論者が「魏志倭人伝」の道里行程記事に、「島外に出て、東方に遠出する」と書いていると、根拠無しに「決め込んで」いる』と泥沼に墜ちていると、さすがに「つけるクスリが無い」。論義は「決め込み」を主張することで解決することは無いのである。

*頓首/死罪の弁
 当ブログ読者諸兄姉は、古田武彦師が書かれたように、順当な文書解釈にたいして、あえて重大な「異議」を唱えるのであれば、正統な論拠に準拠した堅固な論証を提示する重大な義務がある』ことにご留意いただきたい。それでようやく異議が一人前と認められて審査に付されるのである。世に蔓延る「異議」僭越に対して、当然の指導とみる。
 以上の「難詰」は、「異議」を奉戴している史学界諸兄姉には、無礼極まりないと聞こえるかも知れないが、ことは、「論義」/「論証」の正道の確認であるので、ご容赦いただきたい。また、古賀達也氏に対して、頭越し/僭越の失礼であることも、よろしく御寛恕頂きたい。

以上

2024年5月 6日 (月)

新・私の本棚 番外・破格 西村 秀己 古田史学会報 127号「短里と景初」誰がいつ短里制度を布いたのか? 追記三掲

 古田史学会報 127号 (ネット公開)  2015/04/15
 私の見立て ★★★☆☆ 思い余って言葉足らず  2020/12/13  追記 2021/04/02, 04/12 2024/05/06

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

□はじめに
 当記事は、古賀達也氏ブログの最新記事で踏襲されているので、最新論考とみて、あえて、非礼を省みず率直な(部分)批判を試みたものである。

○論考のほころび~景初初頭短里施行の検証
 案ずるに、「景初短里」圏外の長「里」が、三国志編纂時に換算され、処理に窮した端(はした)を「数*里」表記したとの部分的仮説の検証であり、以下の引用で主旨は尽くされていると思う。

 そこで三国志の陳寿の本文から、[中略](検証に関係しない用例を除くすべての)「里」を年代別に並べてみた。(本紀はともかく、列伝は年号を明記していないものが比較的多い。特に対象の人物の若いころのエピソードははっきりどの年代なのか判別できないものも多いので、間違いがあるかも知れないが、大勢には影響がないと思われるのでご容赦願いたい)
 表をご覧戴ければお判りのように、「数〇里」の出現比率は、
 漢=二一・三%
 蜀=三三・三%
 呉=四〇・〇%
 魏の黄初?青龍=三七・五%
 ところが
 魏の景初以降=五・三%
 つまり、短里の施行は景初初頭という仮説にピタリと一致しているのである。

*過度の精密表記~速断の弊
 当記事は、「数*里」限定だから、中略部は空振りとしても、断片的データ計算結果に過度に精密な数字を提示し、「ピタリ」一致とは不合理である。穏当な漢数字表記でも、元々不確か、うろ覚えの原データの信頼性であるから、二、三、四割が妥当と思われる。有効数字として一桁も覚束ない数字に0.1㌫表現は、児戯で非科学的である。

 漢数字でも、三世紀当時は、小数のない時代なので、氏の表示は時代錯誤である。あるいは、五分の一、三分の一、五分の二とでも表現するのであろうか。
 数字表記の意義は後回しとしても、景初以降五㌫と言っても、サンプル個数と個別評価が不明なので、統計数値として意味があるだけの数なのかどうか、判定しようがない。つまり、「ピタリと一致」と言うのは、根拠の無い速断なのである。
 いずれにしろ、胡散臭い精密な数字の陳列は、古代史論には無用である。
 さらに言えば、各数字は、各サンプルの意義次第であり、数字の字面論議で済む議論ではない。言い募るほどに論者の見識を疑わせるだけである。

 以上は、偶々、当史論の批判の機会に書き立てただけで、言うまでもないことながら、西村氏個人に独特のものではなく、まして、古田史学会にだけ存在している風潮でもなく、むしろ、広く古代史論全般を見る限り大半の論者と同列の書法なので、「史学論に科学はない」と言いたくなるほどである。心ある方は、是非、古代史論は、原資料と同等の漢数字書法にしていただきたいものである。

◯場違いな用例の山積
 正史の道里表記の検証には、記録の正当性の検証が必要であり、それには、相当の立証努力、試錬を要する。(鍛冶が刀剣を鍛えるように、叩いて焼き入れして、真っ直ぐで強靱なものにするという意味である)
 つまり、偶々、何れかの記事に書かれている「道里」が、「短里」で書かれているように見えたとしても、それは、国家の制度として実施されていたことを証する効力はないので、史学論議として、無意味な徒労なのである。それは、記録の数をいたずらに増やしても、意味がないのである。これは、夙に古田武彦氏が高らかに指摘しているものであることを、書き付けるものである。

*「三国志」の個性再確認
 通常、「三国志」の構成史書は、「魏志」、「蜀志」、「呉志」と言い慣わされているが、三国志の諸志というと、紛らわしいことがあるので、本編に限っては、「魏国志」、「蜀国志」、「呉国志」と呼ぶことにしている。
 これら三篇の「国志」は、それぞれの別の書き手によって整えられた史書であるから、当然、別の方針で編纂されているので、必ずしも、三国志としての統一語法、思想で編纂されているわけではないことは、公に意見を述べる程の品格の諸兄には、周知と思う。(『「周知」と勝手に言うが、俺は知らん』などと反論しないでほしいものである)

 各国志は、それぞれの「天子」の諸制度をもとに書かれているが、仮に、魏朝が、漢朝以来の確固たる里制を変更する蛮行があっても、何よりも、曹魏を後漢帝制の不法な簒奪者「偽/賊」と見ている蜀漢では、そのような不法な変更は、絶対に施行されない。

 つまり、「蜀国志」は、漢史稿であり、当然、採用されるのは、当然漢制であり、陳寿は、「蜀国志」を「魏国志」と峻別している以上、里制をいわゆる「魏短里」制(仮に、そのような制度が施行されたとしても、ということであって、「魏短里」制が実在したと言ってるわけではない)に書き替えたりしない。いや、蜀漢皇帝を先主、後主とし、両主に本紀を立てないが、蜀国志の細目に(無法な変改の)手を入れていない。

 東呉は、本来、後漢に服属していたが、曹魏による簒奪は、正統な継承とは見ていない。従って、「呉国志」も、東呉韋昭編纂の「呉書」が土台であり、その主旨は同様である。東呉は、時に魏に臣従表明したが、だからと言って、魏短里制を踏襲していないと思うのである。つまり、仮に「魏短里」制が、強行されたとしても、「呉国志」には、そのような不法な制度は書かれていない。
 よって、「蜀国志」、「呉国志」の三国志統一史観のもとでの史料分析は、ほぼ無意味である。

○まとめ
 当論考は、元々不確実な魏晋朝短里説の論証として、全く不十分と見える。残念ながら、魏明帝「景初初頭短里施行」仮説は、却下判定である。もちろん、ここで指摘しているのは、仮説論証過程の不備であって、仮説自体を論じたのではない。

 ただし、視点を変えて、論証批判という見地から云うと、「景初初頭短里施行」仮説は、論証以前に随分無理がある。
 国家制度としての里制変革は、具体的な実施条件まで含めた、大部の要項が必要であり、また、各地で実施したときの多大な紛糾の記録が残る。仮に実施されたと言うのであれば、それが、曹魏創業時であろうが、明帝景初時点であろうが、明確な記録が残されているはずなのである。正史に、明確な記録がないというのは、そのような制度変革は「なかった」という、堅固な証左である。
 古田武彦氏は、仮想した「短里制」の終焉として、建康で再興した東晋の復古政策によると固執しているが、長安、雒陽の公文書のほとんどを喪った後、一端、国家大業として施行していた「短里制」を、選りに選って、反逆の徒の治世下であった蜀漢、東呉の旧地で廃棄したとみるのは、どうであろうか。ちなみに、東晋創業後の国策は中原回復であり、全国は中原を含むものであるから、制度変革などとても手につかなかったと見るものである。
 また、後続の「晋書」地理志において、秦漢代以来の制度変遷を回顧している中に、そのような制度変更の形跡を一切とどめていないのも、実施されていない架空の変革と思わされるのである。

 正史「晋書」は、唐代に完稿と言っても、西晋代から続く各家晋書稿を集積しているので、晋代の「重大な史実」を書き漏らしてはいない
のである。また、「晋書」 は、「魏志」が備えていない「志」(范曄「後漢書」も、補追された「志」しかない)を完備しているので、魏晋代の記録を補完しているものと見える。

 そのように、安定した資料に基づいて確実な史観を確定すれば、「陳寿の里制換算想定」の妄想は「なかった」の一言で蛇足となり、明解である。

 古代史論で、「何かの制度変革がなかったと言うには、そのような史料がないと言うだけでは不十分だ」とする(どこか別の論議で聞いたような)抗弁が聞こえてくるが、国家制度を揺るがす制度変革が「一級史料に全く記録されていない」(明記されていない)というのは、史料批判どころか、史料の本質に反するとんでもない言いがかりであり、そのような提案には「重大な立証義務が伴う」と思うのである。

                               以上

2024年5月 5日 (日)

新・私の本棚 邪馬台国の会 第381回講演「邪馬台国」論争 三  1/10

 安本 美典            記2019/09/17 追記2020/10/06 2024/05/05
私の見立て ★★★☆☆ 古典的卓見の現状確認

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

〇始めに
 安本氏は、「邪馬壹国はなかった」なる好著で古田武彦氏の「邪馬壹国」主張を鋭く批判しましたが、以降、何も付け加わっていないのは残念です。

〇邪馬台国の会 第381回講演会(2019.7.28)
 当講演会に於いて、氏の「邪馬壹国」、「邪馬臺国」論の現時点での見解は次のように表明されています。
【日本古代史】「邪馬壹(壱)国」か、「邪馬薹(台)国」か論争 (2019.9.4.掲載) 
 同記事は、本来講演録なので、普通なら、文字起こしの誤記等はありえますが、分量からして氏の講演稿であり、サイト公開前に氏が目を通されているはずですから内容に齟齬は無いはずです。(薹はともかくとして)
 そして、ここには、氏の連年不変の持論が書かれているので、一般読者が参照可能な「当記事」に批判を加えても不当では無いと思うものです。
 講演の前半では、氏の持論を支える諸論客の所見が列記されていますが、「証人審査」、「所見批判」が尽くされてないのは、不備と思われます。
 以下、敬称、敬語表現に不行き届きが多いのは、当ブログ記事筆者の怠慢によるものであり、読者にご不快の念を与えることを申し訳なく思いますが、当ブログの芸風でもあり、ご容赦いただきたいものです。

〇三大中国史家 
 まず、中国諸氏の意見です。(三氏の著書は、いずれも拝読しています)

1.汪向栄事例
 冒頭の汪向栄氏は、書籍の内容紹介に「中日関係史の研究者として著名な著者が、中国の史書の性格を的確に捉えたうえで日本人研究者の論考を広く渉猟し、独自の邪馬台国論を展開」とあり、当時の政情不安定な中国における「邪馬台国」論が、多数の中国研究者の学究の集積でなく、氏独自の「弧説」であることを物語っているように見えます。
 特に、同書の骨格の一部が、日本側資料の日本側研究者の論考の渉猟の結果とされていることから見て、親交の深い日本側関係者の定説、俗説の影響を受けていることは、氏の論考の自由な展開を制約したものと見えます。
 そのような限界から、氏の労作『中国人学者の研究 邪馬台国』(風涛社刊、1983年)は、「一中国人学者の研究」と題すべきと考えます。氏の著書が全中国人研究者の研究の集成である」と判定する根拠は見当たらないようです。
 また、引用された氏の見解は、単に中国古代史書の文献解釈の一般論を述べるに過ぎず、本件課題である「邪馬壹国」解明に寄与しないと思います。

2.謝銘仁事例
 次いで示された謝銘仁氏の著『邪馬台国 中国人はこう読む』(立風書房刊、1983年)は、タイトル不適切は別として、古田氏の「倭人伝」行程解釈の不備を言うもので、その際に、「日本流」定説を踏襲したのは皮肉な発言かと思われます。
 また、この発言は、古田氏所説の誤解釈の究明の例としても、本件課題である「邪馬壹国」解明に寄与するものでなく、単なる雑音でしかありません。
 

                                未完

新・私の本棚 邪馬台国の会 第381回講演「邪馬台国」論争 三  2/10

 安本 美典            記2019/09/17 追記2020/10/06 2024/05/05
私の見立て ★★★☆☆ 古典的卓見の現状確認

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

3.張明澄事例
 最後に登場した張明澄氏は、当誌に倭人伝解釈議を延々連載したため、編集長安本美典氏の意向を忖度したと感じられて、証人資格に、重大この上ない疑義があると思われます。
 また、当誌上でしばしば展開された長広舌は、論考ならぬ雑情報や根拠不明の私見を権威めかしたものに過ぎず、論考はごく一般論に過ぎないと感じられます。疑わしければ実読いただきたいのです。それにしても、記事の最後に、時に披瀝される「本音」らしきものは、事態の真相をえぐって貴重な啓示となっているからです。ということで、氏の意見は、本件論証には寄与しないと推定されます。

 事実確認ですが、氏の経歴から、日本統治下の台湾で、少なくとも、「今日の小学校時代まで皇民教育を刷り込まれ、その世界観に染まっている」と推定されるので、「中国人史学者」として信を置くことが困難です。別に非難しているわけではありません。

 台湾が、日本統治時代の終了により「中華民国」に復帰して以来、当地に亡命した「中華民国」は、伝統的な中国文化の継承者として、歴史研究にも注力したと見え、正史二十四史の刊行などの大事業に取り組んだとみているので、氏が、以後どのような教育を受け、研鑽に励んだかは不明です。別に記したと思うのですが、「中華人民共和国」は、中国文化の継承ではなく、文化の「革命」、つまり、古典書の廃棄に邁進したと思われるので、伝統的な歴史教育は、随分疎かになり、むしろ、滅亡が危惧されたものと懸念しています。その意味では、台湾での歴史研究は、天下で唯一の中国文化の拠点が持続されていたものと推定していますが、その点は、滅多に語られないので、以上のように臆測するしかないのです。
 因みに、日本語に堪能な中国人である張氏は、執筆時日本在住であり、これまで、国交のない「本場中国人」とどう意見交換したか不明です。

 余談はさておき、氏が、季刊「邪馬台国」誌で展開した厖大な連載記事には、本件課題の「邪馬壹国」解明に寄与する議論は示されてないと思われます。長期に亘った連載記事の全体を入手してはいないので、全文照合はしていませんが、安本氏がここに引用していない以上、そのような有意義な論議はされていないと見るものです。

〇ひとくくりのスズメたち
 安本氏は、意味ありげに「中国人学者たちの、筆をそろえての批判」と言いますが、僅か三人限りで、それぞれ学識も境遇(住居国/地域は、中国、台湾、日本混在で交流不自由)も、論調も三者三様ですから、童謡の「スズメのがっこう」でもあるまいに「おくち」ならぬ「おふでをそろえて」と書かれると、センセイがムチをふったかなと思うのです。考えすぎでしょうか。

〇「芸風批判」の弊害
 以下でも言及するかも知れませんが、小生の意見では、本記事(掲載当時)で安本氏に求められているのは、本件の課題である「邪馬壹国」の「純粋に論理的解明」であり、少なくとも、「敵手古田氏の芸風批判ではなかった」のです。
 いや、張氏が、当時(氏名の文字使いが似通っているということか )若い世代に猛烈に人気の某タレントの芸風を「世界に通用しない日本だけの人気」と批判し、「古田氏はその同類」と揶揄する、誠に意味不明の「芸風」批判を垂れ流したので、そう言わされるのです。
 以下、古代史に無縁の芸風批判にあきれかえったころ、ようよう史学論めいた論議になるので、冗長、散漫の印象を招いたのは勿体ないと思うのです。

 追記:張明澄氏は、「季刊邪馬台国」連載記事の放埒な筆致を悔悟してか、後年「誤読だらけの邪馬台国」(久保書店 ジアス・ブックス 1992)なる新書版冊子に、連載記事の学術的な部分を抜粋刊行していて、まことに、市場に蔓延している軽薄な俗論を脱した好著ですが、当講演で共々言及されていないのは残念です。(2024/05/11)

                                未完

新・私の本棚 邪馬台国の会 第381回講演「邪馬台国」論争 三  3/10

 安本 美典            記2019/09/17 追記2020/10/06 2024/05/05
私の見立て ★★★☆☆ 古典的卓見の現状確認

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

〇大家の誤字ご託宣
 そのあげく、当分野で定番化している「倭人伝」誤記論議が掲示されています。どうも、ここまで誤記がある以上、「壹」もまた誤記に決まっている』という主張らしいのですが、まことに「うさん臭い」論法で、せっかく御提言いただいても、とてもとても同感できないのです。
 そこに、下記二書の誤記論が表形式で対照して引用されています。
①藤堂明保監修『倭国伝』(『中国の古典17』学習研究社昭和60年10月15日刊)
②森浩一編『日本の古代1 倭人の登場』(杉本憲司、森博達(ひろみち)訳注、中央公論社、昭和60年11月10日刊)

1.藤堂氏事例
 藤堂氏監修本は、「太平御覧」に所引された魏志である「御覧魏志」 を劈頭に「後漢書」、「梁書」、「北史」、「隋書」の「倭伝」記事を参照して、これらがなべて「臺」を採用している以上、原典である「倭人伝」は、現在原本とされている「壹」でなく、「臺」と書いていたと判断するとしている、とのことです。
 藤堂氏は、漢字学における権威者と見かけますが、少なくとも、古代史分野における文献学の権威とは思えず、また、諸史書を羅列したため、個々の史料批判や「御覧魏志」の史料批判が、適切にされていないと見える点で大いに疑問です。

2.森浩一氏事例
 森浩一氏は、古代史分野における考古学の権威であり、従って、文献解釈は専門外と見られます。そのため、史料解釈は、杉本、森博達両氏に全面的に委ねたと思われますが、同書の記事を見る限り、というか、掲表の末項、「景初二年遣使」論で見られるように、杉本、森両氏の資料誤読と思われる難点を放置して「編著」としているので、氏の考古学分野での比類無き権威は、両氏に連座して大いに疑わしいものになったと見られます。
 何しろ、本書の挿絵は、魏皇帝の玉座の前に平伏する倭使の姿が描かれていて、世上、囂々たる非難を浴びているのです。何しろ、景初二年説、景初三年説のいずれを採用するにしろ、倭使が、魏皇帝(景初三年元日逝去の明帝曹叡、或いは、景初三年元日即位の少帝曹芳)に拝謁したとの記事は存在せず、むしろ、拝謁しなかったと見える上に、明帝の勇姿を描くのか、少帝曹芳の頼りない姿を描くのか、どちらの見解を支持するのか、重大な懸案に対して、議論を尽くすことなく醸し出した、いわば未熟な早計を読者に押しつけているのであり、後生に大きな悔いを残したと見えます。

**森博達氏編著考察 **引用開始
 景初は魏の明帝の年号であるが、ここの二年とあるのは景初三年(239)の誤りと考えられる。日本書紀に引く「魏志」と「梁書」諸夷伝の倭の条では景初三年となっている。
 当時の政治情勢を見ると景初二年までの50年間、公孫氏が遼東で勢力をもち、一時は独立して燕王と称していたので、倭国の使者は魏に行けなかった。景初二年正月になって魏は公孫淵を攻撃し、八月に至ってようやく勝利を収め、遼東から楽浪・帯方に至る地域が魏の支配下に帰したのである。景初三年に遼東、楽浪などの五郡が平洲として本格的に魏の地となって、始めて倭国の卑弥呼が直接、魏に使者を派遣できるようになった。このような政治情勢からも、この景初二年が三年の誤りであることは自明のことである。
**引用終わり

 可能性のある漢数字二と三の誤認を「実態」と「決めつける」と、他の項目と比して字数が多いが故に、一段と記事著者の欠点が露呈していると見えます。

*書紀神功紀/梁書事例
 第一の論拠として引用された書紀神功紀の魏志引用は、記事自体に重大な錯誤があることでわかるように、当記事が、もともと、同時代に存在していた魏志(依拠写本)記事の正確な引用であったことは疑わしいと思われます。
 また、冷静に見て、現存書紀写本の「三」が、武家政権下で、天皇制の正当化を図る「禁書」扱いで逼塞していたため、長年の「不安定、不規則、つまびらかでない私的な書写継承」が闇とされていた間に、必然的に伝世劣化し、誤写、改竄された可能性は、何としても否定できないと思われます。いや、当ブログ筆者は、国内史書の伝世については、門外漢ですが、誤写疑惑は当分野の定番なので書いてみただけです。
 また、後世正史の中で、よりによって、編纂過程に疑問が残る「梁書」記事が採用されているのも、うさんくさいと感じられるのです。「なべて」と、どっこいどっこいです。

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 安本 美典            記2019/09/17 追記2020/10/06 2024/05/05
私の見立て ★★★☆☆ 古典的卓見の現状確認

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*公孫氏「遼東記事」事例
 個人的な時代考証として、公孫氏の五十年間、公孫氏が後漢朝/魏朝に任じられた遼東郡太守の権威でもって適法に遮ったため倭使が魏に行けなかったのでしょう。別に、不法なことをしていたわけではないのです。

*鴻廬の苦情
 蛮夷の対処は辺境太守の専権事項であり、鴻廬は、むしろ、一々蛮夷を帝都に寄越すなというものであったはずです。道中の対応はもとより、天子の面目にかけて厚遇し、随員に至るまで印綬を下賜し、時に、過分とされる下賜物を持たせる必要があるので、辺境太守が選別すべきです。

*「従郡至倭」論
 そして、魏の官軍による公孫氏攻滅は景初二年八月とは言え、遼東から地理的に遠隔の帯方郡は、それ以前、同年前半に、早々に魏の支配下に入っていたと見る解釈が非常に有力です。倭使が、新任の帯方郡太守の召集に従い、急遽六月に帯方郡に参上し、曹魏明帝の督促に応じて、引き続き洛陽に赴いた可能性が非常に高いと思われます。

*帯方郡道里考証~参考情報
 念のため、帯方郡道里の考証を進めるには、まず、楽浪郡道里の考証が必要です。
 楽浪郡は、漢武帝が、朝鮮を廃したあとに設けた四郡の一つであり、関中の京師長安が道里の起点であったものの、実務として関東の洛陽を起点とした道里が記帳され、以後不変のものとなっていたようです。そして、一度、洛陽から楽浪郡までの公式道里が記帳されたら、以後、楽浪郡治が移動しても、道里は変えないのです。笵曄「後漢書」郡国志(司馬彪)では、「樂浪郡武帝置雒陽東北五千里」と明記されています。
 「郡国志」では、帯方郡は「帯方縣」であり、後漢献帝建安年間に分郡された帯方郡の公式道里は、未定とみえます。ただし、後漢建安年間は、已に国政は宰相曹操のものだったので、遼東郡太守公孫氏は、あえて帯方郡道里を報告しなかった可能性があります。従って、単に、楽浪郡道里と同一としたものと見えます。
 雒陽を発した文書使は、帯方郡太守あての文書を楽浪郡に送達した時点で、帯方郡太守に送達したと見なしたものと思われます。して見ると、「魏志」に郡国志があれば、「帯方郡考献帝置雒陽東北五千里」と書かれていたものと見えます。因みに、後世の「晋書」地理志には、各郡の戸数などが書かれているだけで、郡治の公式道里は書かれていません。
 因みに、劉宋代の正史である沈約(南齊-梁)「宋書」州郡志は、「陳寿」三国志に地理志がなく、劉宋代、笵曄の刑死で継承されていたかどうか不明の「後漢書」は、仮に、公式史書として認知されたとしても、本来「郡国志」を欠いていたので、結局、既に滅亡していた楽浪/帯方両郡相当地域の道里は確定できず、逆に、建康を京師と見立てた会稽郡、建安郡の公式道里は、確実に把握していたので、これを記帳しているのです。
 このあたりの変転は、話せば長いので、ここでは割愛します。
 本項の結論としては、「帯方郡考献帝置雒陽東北五千里」 が、もっとも妥当な推定と見えます。

*公式経路と実務経路
 古来見過ごされていますが、両郡が、魏明帝の指揮下に回収された以上、、帯方郡から中原洛陽に至る公式経路は、目前の山東半島青州に渡海上陸後、河水南岸官道を西行するので、遼東戦乱は、全く無関係と思われます。
 このあたり、まことに合理的な理解が可能であり、倭使が景初三年六月明帝没後の帯方郡に参上した」と見るのは、論外の愚行だと思うのですが、中々、不当な異議に対する正当な応答が支持されないのは、どうしても、景初三年でないと具合が悪い事情があってのことと見えます。

〇戦時の上洛経路
 郡が公孫氏遼東に赴くのは、諸国王に等しい権威を持つ太守の威光によるとしても、郡から洛陽へは遼東を介しない古街道が通じていたと見るのです。史学界大勢が、帯方郡から北上して遼東郡治に着き、しかして洛陽に向けて西南転する、大変遠回りな経路に専ら信を置いているのは、素人として、大変不可解と感じるのです。正史に、そのような行程を示唆する「公式道里」が記載されているのは事実ですが、帝国の実務は、最短経路、最速の到達が最優先であり、古式蒼然たる誤解は、早々に廃棄すべきです。

 以上のように、当時の政治情勢を合理的に解釈すれば、現に史料に書かれている「景初二年」を否定する異議を正当化するに足る合理的/圧倒的な論拠は、全く無いと思われます。不適切な異議は、自動的に却下されます。少なくとも、古代学界で蔓延る景初献使年に関する諸々の非科学的な俗説群は、不適切/不合理として雲散霧消するのではないかと思われます。

〇闇の中の「自明」論
 資料解釈が大きく分かれる事項で、性急に自説を仮定し、無造作に「自明」と書き立てるのは、学問の徒として疑問と思われます。
 「自明」は、よほどの場合に取っておく極上表現であり、「決めゼリフの安売りは自身の大安売り」です。不用意な断言で、恥を千載に残さないようご自愛いただきたいのです。

 いや、ふと冷静に戻ると景初三年が正しいと仮定しても、本題論議に直接/重大な関係はないのですが、一部の頑迷な景初三年派は、ことさら雑駁な論拠を提示して誤写頻発の件数稼ぎとしているようなので、丁寧に反論するものです。いや、ほかにも、景初三年を死守する動機はほかにもあるらしいのですが、ここでは深入りしません。

 当項目以外の誤字談義は、素人がこれまでに調べた限りでも根拠不明とされるべきです。各論は、追試/審査されていないのでしょうか。

 安本氏ほどの高名、高潔な論客が、麗々しく引用するものとは思えないというのが正直な所感なのです。

〇追記:
 安本氏の引用に不審を感じ原著をよく読むと、当方の杉本憲司、森博達両氏への批判は一部当を得ていないので、追記の形で補正を図ります。
 両氏は、「倭人伝」解釈の基本を、中華書局標点本(1982年版)を底本とし、随時校異により訂正する立場に立ち、「對馬国」は前者の見地、「邪馬臺国」、「一支国」は後世史書依拠の見地を採用していて、客観的な物証にかけるものの、一応、議論としての筋を通しています。
 ただし、「東冶」校異が根拠のない推量であるように、校異の筋道はそれぞれ不安定であり、「景初二年」校異は、合理性に欠け、一段と不確かです。

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 安本 美典            記2019/09/17 追記2020/10/06 2024/05/05
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〇書誌学談義 追加2020/10/06
 そのあと、忽然と「慶応大学の尾崎康教授」なる方が紹介されますが、素人の調べでは、氏は随分以前に同大学教授職を離れたと思われますから、そのような自己紹介はしていないと思われます。
 というような、つまらないアラ探しはさておき、ここで書誌学の権威たる氏が述べたのは、「古田氏が、紹凞本は三国志現存刊本中最上であると決め込んでいる」との世評を受けたご託宣であり、書誌学上、南宋刊本「紹凞本」は、先行した「紹興本」への後追いの民間刊刻であり、由緒正しい官刻である先行紹興本が、紹凞本に優ると書誌学の見地から、予断を持った上で、以下論じています。

 書誌学では、そのように解されるのが順当でしょうが、個人的には、南宋が多額国費を投じた、赫々たる官刻正史(紹興本)に重複する短期後追いの刊刻大事業(紹凞本)を、特段の意義無しに成したと思えないのです。

 氏は、当然書誌学の見地から、史記に始まる正史宋元代刊本について、刊本の質を論じていて、当然、その一環として陳寿「三国志」に精緻な考察を加えているものであり、本来、魏志第三十巻の巻末に収録された「小伝」である「倭人伝」の当否は、些末事、研究対象外でしたが、何らかの事情で、その点を特に精査することを求められ、ことさらに、このような書誌学的「紹凞本」評価をものしたようです。

〇評価の実態~隔絶した善本継承の確認
 言うまでもないのですが、尾崎氏は、書かれている内容を評価したのであり、書誌学的見地から「紹凞本」を毀損して「紹興本」を絶賛しているわけではないのです。所詮、両刊本共に、南宋代の刊刻時以来数世紀に亘る版木に対する経年変化のために、部分補修あるいは一部更新などを歴て、現代に継承されていて、大局的には、「三国志」は、正史の中に在って、異例と言うべき高度な継承を維持しているのであり、むしろ、「個別の資料に於いて、微視的に解析すると、書物に個体差がある」事が述べられているように見えます。
 そして、肝心なことですが、氏の暗黙の知識としては、『陳寿「三国志」は、南朝劉宋期の裵松之による付注の際の原本校勘、北宋による初回刊刻、つまり、版木作りの際の校勘、さらには、南宋による復元刊刻の際の校勘というように、その時点の帝室原本と高官や地方愛書家などの所蔵する良質写本を照合して校勘する大事業が展開されていて、二千年近い期間を通じて、異本の発生が、他の正史諸史と比較して、隔絶して抑制されていた』というものと思われます。
 さのため、陳寿「三国志」には、世の正史に付きものの「異本」、「異稿」が、事実上存在しないので諸本を照合して原文を考察する「愉しみ」が得られないという嘆きが書かれますが、そのような初歩的校勘は、とうの昔に終わっているという事です。大魚を求めるべき漁場は、別の海に求めるべきです。

〇誤記、誤写の事実無根確認
 ということで、極めて誤写されやすいと「憶測」されている『「壹」が「臺」と文字化けしている』資料は、一切露呈していないのです。

〇動機不順の懸念
 世の中には、自説の裏付けにならない「結果」しか出せない研究は、無意味な研究と断じる方がいますが、要は、『所望の「結果」が出せない研究に金は出さん』という迫力が感じられて、薄ら寒いものがあります。
 あるいは、「結果」が得られなければ、全国各地の発掘活動が衰弱し、開発による遺跡破壊が進むと警鐘を鳴らす向きもありますが、筋違いと見るものです。安本美典氏が、宗教論争と危惧する形勢がほの見えています。

 因みに、以上の尾崎氏の意見は、季刊「邪馬台国」誌連載記事の総括ですが、尾崎氏は、張明澄氏と異なり、学究の士ですので、支援者に忖度することなく、その金言は、信ずるに足るとみるものです。

***追加終了
                                未完

新・私の本棚 邪馬台国の会 第381回講演「邪馬台国」論争 三  6/10

 安本 美典            記2019/09/17 追記2020/10/06 2024/05/05
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〇井上光貞事例
 続いて、井上光貞氏の席上談話が延々と引用されています。
**引用開始**
 東京大学の日本史家、井上光貞氏は、『論争邪馬台国』(1980年、平凡社刊)の中で、松本清張氏の問いに答え、次のように述べておられる。
「(邪馬壱国が本当であるというのは)、ぼくは結論的には、古田さんの思い過しであるという結論です。その理由は、古田さんの論拠の根底に原文主義がある、原文通りに読めというんです。ところが問題は、原文とは何ぞやということであります。原文というのは、『魏志』は三世紀に書かれたものですが、そのときの原文、これはないのであります。だから原文原文といっているのは非常に古い版本ということである。しかし古い版本は原文ではないのであります。校訂ということを学者はやるわけであります。おそらく古文をなさる方もいらっしゃるだろうと思いますが、それはいろんな写本やなんかから、元のそれこそ原物はどうであったかということを考えるために、いろんな本を校合して、元を当てていくわけです。これが原文に忠実なのでありまして、たまたまあった版本だの、後の写本に忠実であるということは、原文に忠実ということとは違うんだということですね。

これは非常に基本的なことなのであります。ところが古田さんはそこのところが何かちょっと違っているんじゃないか。これは学問の態度の問題であります。これだけいえばもう私はほとんど何にもいう必要はないのであります。」

「たとえば『三国志』は三世紀の末頃に出来て……これ、末のいつであるかということは問題だけども、まあ三世紀の末だろうと思われる。一方、いちばん古い版本は、……南宋の本で十二世紀なんですね。その間、本としては九世紀の隔(へだ)たりを持ってる。本としてはその間に今日のところ何もないわけです。写本はもとよりのこと、版本もそれだけの距離を持ってるわけです。ところがその間にいくつも逸文というものがある。それを途中で読んだ人の記録というのがあるわけです。

そういう意味からいって、途中で読んだ人の記録を見ると、やはり大きいのは『後漢書』だと思います。『後漢書』も、もちろん原文が残っているわけではないのですけれども、……『後漢書』のあの記事は明らかに『三国志』を見ているわけですけれども、そこにはちゃんと『邪馬台国』『台』と書いている。『後漢書』が出来たのは五世紀でありますが、それが『台』と書いているとすると、『後漢書』の編者のみた『三国志』の『魏志』の『倭人伝』には『台』と書いてあったととるのがすなおな見方です。」
*引用終わり*

〇古田氏史料観の当否
 冒頭で、井上氏は、古田氏の「邪馬壹国」論に秘められた根底は、要するに単純素朴な「原文」主義に過ぎない』とした上で、『陳寿「三国志」の三世紀原文は存在しないから、遡って原文を確立した上で議論すべき』と高度な一般論を持ち出します。

 大局的にはおっしゃる通りですが、素人の率直な意見としては、大変疎漏な見解と見えます。ご意見は理性的ですが、『佚文や類書、そして、不遇時代の続いた笵曄「後漢書」は、当然、原本そのままではない』という公平な考察が疎かになっていると思います。
 更に言うなら、正史たる陳寿「三国志」(裴注本)は、歴代皇帝の至宝として、写本継承されるときも、多数の高位の人材が投入され、高度で組織的な管理が行われて史料テキストの劣化が抑制されているのに対して、提示されている諸史料は、所詮、人材、資材、所要期間に制約のある「業務」で処理されているので、格段に、誤記、誤写の危険性が高まっているものです。くり返して念押しすると、笵曄「後漢書」は、反逆者として斬首された笵曄の遺品から、どのように名誉回復され、有力「後漢書」として、南朝遺物から北朝に回収され、遂に、章懐太子によって、正史として称揚されたか、其の経過の大半は、不明瞭なのですから、陳寿「三国志」鉄壁の信頼性と比すべきもないのです。

 井上氏といえども「全知全能」でない以上、専門外の分野の論議には介入を控え、専門家に委ねるべきと思います。案ずるに、国内史学界では、文献史学と遺跡/遺物考古学の二大分野の間には、分厚いあぜ道があって、互いに相手の領域に踏み込まないという「仁義」が定着していると見られるので、井上氏が、御自ら、中国史書の解釈について、蘊蓄を傾けたのには、正直驚愕したものです。いや、著書執筆の際には、中国史書解釈について「専門家」にしかるべく諮問し、然してその答申に随うものでしょうが、講演会に続く座談会では、ご自身の見識に頼らざるを得ないので、若干覚束ない発言になっても、しかたないと見えるのですが、このように、第三者に引用されてみると、氏の権威に陰が差してしまうのではないかと危惧するのです。
 要するに、この部分は、筆者の念入りの推敲と専門家による編集を経た出版物である著書の引用でなく、散漫な席上談話の書き起こしなので、このような重大な論考に引き合いに出すのは、大変不都合なものと考えます。

 そこ(笵曄「後漢書」)にはちゃんと『邪馬台国』『台』と書いている。『後漢書』が(…)『台』と書いているとすると、『後漢書』の編者(笵曄)のみた(…)『倭人伝』には『台』と書いてあったととるのがすなおな見方です。」 と井上光貞氏が、素朴な、むしろ、子供じみた/素朴な、非学術的な「感想」を述べたところを、安本氏は、手っ取り早い論拠として持ちだしていて、「まことに失礼」と思うのですが、どんなものでしょうか。

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 安本 美典            記2019/09/17 追記2020/10/06
私の見立て ★★★☆☆ 古典的卓見の現状確認

〇日本史権威の「素人考え」
 案ずるに、日本史の権威である井上光貞氏は国内史書に対する態度として、「史書には必ず複数の有力な異本があるから、特定の現存版本に決め込まず、諸本を照合して本来の形態を見出すべきである」と教え諭されているように見えます。
 しかし、国内史書ならぬ、中国正史である「三国志」は、陳寿の没後、西晋朝の命で、遺された確定稿を書き写して官撰史書として上申し、西晋帝室書庫に収納して以来、各王朝が代々国宝に準ずる扱いで厳格管理されたこともあり、二千年近い期間を歴た今日、残存する諸刊本に異本が極めて少ないと思うのです。

 恐らく、どこかの「三国志」異本に「邪馬臺国」とあるだろうから、はなから「邪馬壹国」に決め込まず、どちらが正しいか決めなさい』と言う大人の教えでしょうが、氏の予断に反して「邪馬臺国」と書く「三国志」異本は、一切存在しないので、諸々の異本を糾合して照合校勘しても、結論は変わらないと思います。この程度の素人考えはとうにお見通しで、言い間違えたのでしょうか。

〇佚文(逸文)考
 ここで、俗耳に浸透している「佚文」が導入されますが、ここに示された井上光貞氏の慧眼は深遠なものがあります。
 後世編纂された「類書」である太平御覧、翰苑などの「所引」魏志は、当時、今日言う厳密な引用を意図したものでなく、不確かな佚文に依拠する不確かなものとの明解な意見と思われます。氏として、格別の意義を表明したものであり、卒読せず、深甚な教訓をかみしめるべきでしょう。

 結局、三国志現行刊本に揃って書かれている「邪馬壹国」を「邪馬臺国」の誤写とする論拠は提示できなかったと見えます。
 井上光貞氏は、そのような瑣末の論証を史学の本分と見ていなかったと思えるので、引用の談話を不首尾と解するのは、随分失礼かと思います。

〇范曄考批判
 井上光貞氏の笵曄「後漢書」論に考察を加えてみると、氏は、南朝劉宋の范曄が、高官在任中に「三国志」善本を実見して忠実に書き取ったとは想定してないようです。高官特権で帝室書庫に入り浸りになっても、書庫に山積の史書経書の中で、ことさら、皇帝蔵書の「三国志」の書写に没頭したと思えないということのようです。
 所詮、代理人に史書佚文を求めさせたと思われます。あるいは、後年、配所の閑職にあって、任地に持ち込んだ山なす蔵書から「佚文」を作成させたかと見ます。なお、范曄は「佚文」の不確かさは承知していたはずです。
 当時、笵曄が、身命を賭して編纂に没頭した「後漢書」編纂の資料と言えば、地理的に後漢全土、時間的に二世紀にのぼる厖大なもので在野資料も多く、魏朝事象「邪馬臺国」に関し、格別の綿密な原文考証を行ったという証拠は無いと思います。
 井上光貞氏の高度な識見は、「大局に酔って具体を忘れるな」との戒めと信じるものです。

〇古田氏の信条の確認
 因みに、素人考えでは、古田氏の主張は、「現に目前にある史料、便宜上原文というものを、まずは基本として読むべきだ」という、まことに至当な主張であり、はなから立証されていない誤記、誤写を書き足した、でっち上げ史料をもとに議論すべきではない」という当然、至極な意見のように思えます。

                                未完

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 安本 美典            記2019/09/17 追記2020/10/06 2024/05/05
私の見立て ★★★☆☆ 古典的卓見の現状確認

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

〇「原文」考 歴史観の清掃
 案ずるに、そのようにして新作されたでっち上げ史料は、現代人の著作物であり、陳寿の編纂した著作物ではありませんから、かくなるでっち上げ史料を陳寿の著作物として、その良否、正邪を議論するのは、当の陳寿に対して、大変無礼かと思われます。

 例えば、方は、一介の素人ですが、自身の著作物を、別人が盗用改竄して、当方の名で論じられるとしたら、とんでもない不法行為です。(現代風に言うと、著作権および著作人格権の侵害ですが、年月を経て著作権が消滅しても、剽窃、盗用は、許されません)

 ということで、ここまで読んだ限りでは、安本美典氏が堂々と論陣を展開した論拠は、ことごとく不適格ないしは不適当と思われます。つまり、論証の要諦を失していると思うものであるがどうでしょうか。

〇安本氏見解の総括
 本稿では、論議の総括として、以下のように表明されています。本題に関する主旨に変化はないものと思うので、当記事を論評します。
 個別項目に追記としてコメントを入れたことに対して、ご不快の方がいれば、申し訳なく思いますが、これが当ブログの芸風です。

**引用と追記**
 私の考えをまとめると、次のようになる。
(1)三世紀『三国志』原本をみた人はだれもいない。三世紀の原本は、存在していないのである。

コメント:失礼ながら、素人目にも、隙だらけの主張と見えます。
 氏が論拠とされている諸史料もまた、原本は存在せず、現存の「人」は誰も見ていません。(「みた人はだれもいない」とは、軽率な言いそこないと思われます。少なくとも、陳寿自身は見ているはずです)
 あら探しは置くとして、本項は、氏ほどの論客が、重大な議論の冒頭に掲げる論拠として有効とは思えません。本来、冒頭には、本項だけで論議を終結できるような決定的事項が掲げられるべきではないでしょうか。年月で熟成したはずの議論なので、万人がそのように期待して聞き入ったはずです。

(2)現存『三国志』の版本は、十二世紀以後のものである。『三国志』の成立から、十二世紀まで、およそ、九百年の歳月が流れている。

コメント:衆知、自明の客観的事実の表明であり、特に意見はありません。一項を建てる意義は無いと見えます。全ての史料は、世に出た時点から、経時変化(加齢)を避けられないのですが、史学の場では、加齢劣化の「質と量」が大事なのです。

(3)十一世紀よりまえの史料で、女王国の名を、「邪馬壹(壱)国」と記すものは、一切ない。

コメント:「十一世紀よりまえの史料」とは、原文がその時代に書かれたというだけであり、その原文が確実に伝わってないので無意味です。それとも、当時の正本が、たまたま、まだ見つかってないと言うことでしょうか。神がかりになりますね。

                                未完

新・私の本棚 邪馬台国の会 第381回講演「邪馬台国」論争 三  9/10

 安本 美典            記2019/09/17 追記2020/10/06 2024/05/05
私の見立て ★★★☆☆ 古典的卓見の現状確認

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

〇安本氏見解の総括~承前
(4)福岡県太宰府市、太宰府天満宮に伝来する『翰苑』の九世紀写本は、卑弥呼の宗女の名を「壹與(壱与)」ではなく、「臺與(台与)」と記し、その都を記すのに、「馬臺(台)」と、「臺(台)」の字を用いている。これは、十二世紀以後の版本と異なっている。

コメント:「翰苑」は、前項の例外と見えますが、衆知の如く、「善本」、つまり、良質の写本ではないので、精査すれば論拠に不適格であることは明確です。
 ちょっと困るのは、この「翰苑」現存断簡に見える用字/用語が誰のものか、不明確だと言うことです。雍公叡の付注、張楚金の正文、いずれかの史書の引用、どれであるかで、判断は変わります。どうも、史書ならぬ「翰苑」は、史書原文の用字を必ずしも維持していないようですから、論拠として不適格ではないでしょうか。
 それに先立ち、「翰苑」写本断簡の史料批判がされていませんが、同断簡は、明らかに、九世紀写本時点の「翰苑」原文に忠実とは思えません。「誰も原本を見たひとがない」ので、厳密な議論はできませんが、断簡に多数見られる明らかな誤写、誤記は、当史料が、原本と厳密に照合・校正された正確なものでなく、粗忽に所引された佚文であることを示していると見えます。
 原本ないしは忠実な複製品(レプリカ)であれば、論証資料に採用できますが、低劣な写本や佚文は、単なる参考資料に留めた方が良いのではないでしょうか。
 但し、このような論法は、当方が、かねて「倭人伝」現存刊本に対する批判手法として不適格と批判しているものですから、いわば、諸刃の剣であるかも知れませんが、それは、お互い様ではないでしょうか。
 また、「翰苑」の仮想原本は、写本の際の修飾が避けられず、引用資料の忠実な引用でないと思われます。何しろ、同断簡は、「翰苑」全巻でなく、断簡に過ぎず、また、現存唯一の史料ですから比較検証できず、以上の判断は検証困難であることは否定できないと思われます。佚文扱いが妥当でしょう。
 因みに、「翰苑」を史書史料として評価するためには、早い段階で校訂を加えて、誤字、乱丁を解消し史書形式で復刻した良質史料の評価が不可欠であると見ますが、これまで、見過ごされているのは大変残念です。
 翰苑 遼東行部志 鴨江行部志節本 *出典:遼海叢書 金毓黻遍 第八集 「翰苑一巻」 唐張楚金撰 (loginが必要)
 據日本京都帝大景印本覆校 自昭和九年八月至十一年三月 遼海書社編纂、大連右文閣發賣 十集 百冊

(5)いま、三世紀の女王国名は「邪馬臺(台)国」宗女の名は、「臺与(台与)」であったと仮定してみる。そして、九世紀~十一世紀の間に、誤写、または、誤刻がおきたのだと、考えてみる。現行『三国志』版本に、「邪馬壹(壱)国」「壹與(壱与)」とあるのは、誤写、または、誤刻によって生じたと考えてみる。

コメント:仮定の設問は「お好きになさい」と言うところです。

(6)このように考えると、『後漢書』『梁書』『北史』『隋書』『通典』『翰苑』などに「臺(台)」の字が用いられている事実を、古田説よりも、はるかに、簡明に説明できる。(古田氏は、『後漢書』などに、「臺」の字があらわれる理由を、つぎのように説明する。すなわち、五世紀になり、南北朝の対立、五胡十六国の出現という時代になって、「臺(台)」の字は、各国の都の名に用いられるようになり、「臺」の字の性質は、変わってきた。したがって、五世紀になって成立した『後漢書』に、「邪馬臺国」が出現してもふしぎはない------。しかし、この古田説では、三世紀に「邪馬壹国」であった女王国の名を、『後漢書』が、とくに、「邪馬臺国」に改変しなければならなかった理由が、十分に説明されていない。三世紀の女王国の名が「邪馬壹国」であるならば、『後漢書』も、それを記すのに、「邪馬壹国」と記すのが、自然ではないか。)

                                未完

新・私の本棚 邪馬台国の会 第381回講演「邪馬台国」論争 三 10/10

 安本 美典            記2019/09/17 追記2020/10/06 2024/05/05
私の見立て ★★★☆☆ 古典的卓見の現状確認

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

〇安本氏見解の総括~承前
(6)承前

コメント:この項は、独立項でなく前項の続きとみても、趣旨不明です。
 「自然ではないか」と()内で論じて主語不明ですが、本項で何を主張しているのか不明です。()内は飛ばしてよい「はした」とみるものと思うのです。それにしても、前々項までの論理性が消失して不可解です。古田氏の「後漢書」読みを見損ねたのでしょうか。後漢書」は、「後漢代の大倭王の居処」を「邪馬臺国」と称しています。
 ついでながら、「南北朝の対立」、「五胡十六国」は、時間的に前後していますが古田氏記述の引用とも見え、だれに誤記の責任があるのか不明です。

(7)(a)さまざまな現象・事実がある。(b)いま、ある仮説を真とすれば、そのさまざまな現象・事実がうまく説明される。(c)それゆえ、その仮説を真とみる理由がある。以上は、ドイツのヒルベルトの説いた公理論(「公理論」については、拙著『「邪馬壹国」はなかった』参照)以後、アメリカの C・S・パース、ノーウッド・R・ハンスンなどによって発展させられ、現代の科学方法論の主流となりつつある見解である。

コメント:この項は、一段と趣旨不明です。ことは、史料解釈における歴史観・考察技法の議論ではないと思うのです。
 安本氏が、同時代史学論者の啓発を図る趣旨であれば良いのですが、ごくごく一般論として、三世紀「東アジア」の世界観を論ずるのに、ここに描かれた論は、時代、文化が大きく異なる、無効な議論ではないでしょうか。
 
〇総評として
 以上のように、当記事は、期待に反して安本氏旧論の蒸し直しで、不変の信念は健在なものの、当方の私見を変えるものではありませんでした。
 当方の理解は、たかが「邪馬壹国」論、「壹」の一文字に関してすら、古田氏の至極当然の主張、つまり、「倭人伝に関する史学論議は、まずは、現存史料を基礎/基点として議論すべきである」という提言を遂に否定できなかったとみます。
 安本氏ほどの論客が、決定的な論証が行き届かず、古田氏自身の個人資質に関する根拠不明の風評を大量に起用して誤記論を展開したのは、控え目に言っても、安本氏の器量不足を思わせ、失礼ながら勿体ないのです。

 手厳しい論難と取られるかも知れませんが、斯界の最高峰たる安本氏に要求される基準はとてつもなく高いのです。つまり、当稿は、氏に対する当方の絶大なる敬意の表れです。記事字数を見て察していただきたいものです。
 以上が、当講義録に対する誠実、かつ、率直な批評です。

*終結宣言の提案
 かねてより安本氏が表明されているように、論争は、当事者全てが終結に納得しない限り終結しないのです。まずは、安本氏から、不毛の事態の終結を提案いただければ、時を経ずして、天下を揺るがし続けている「邪馬台国」論は、平和裏に終熄するものと感じています。

 書き漏らしましたが、「翰苑」は、翰林院、すなわち、皇帝の関係する文書を司る役所であり、用語、表現を典拠のある、そして、美麗な表現とできるよう、選りすぐりの文例を集める、と言う趣旨のように思います。「翰苑」そのものは、帝室の物ですが、教養人がお手本とする愛読書であったようです。
                              以上

2024年5月 1日 (水)

倭人伝の散歩道 2017 東夷伝 評の読み方 三掲

               2017/09/20 補正2020/12/20 2023/01/15 2024/05/01,05/03
*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯はじめに
 「評」は、東夷伝「倭人伝」末尾に書かれていて、本来、東夷伝の一部と解すべきなのですが、大抵の「倭人伝」論では、忘却されています。

*評釈
 当方は、四十一字の字数に惑わされず、「評」として書かれた(重たい)意義を伝えたいのです。
 まことに、つたない解釈ですが、以下に私訳/試訳と所感を述べます。

*原文 (句読点等は、中国哲学書電子化計劃による)
 評曰:史、漢著朝鮮、兩越,東京撰錄西羗。魏世匈奴遂衰,更有烏丸、鮮卑,爰及東夷,使譯時通,記述隨事,豈常也哉!

私訳:
 評して言う。司馬遷「史記」と班固「漢書」は、朝鮮と両越を著し、東京(東漢/魏の洛陽)は西羌を撰錄した。魏の世に匈奴は遂に衰え、更わって烏丸、鮮卑があり、加えて東夷が使訳し時に通じたので事に随い変化を記述した。

*所感
 ここに書かれているのは、魏による司馬懿の公孫氏討伐、遼東平定によって拓かれた東夷新知識を記録した「倭人伝」が、中華文明史上に燦然と輝く史書であるとの自信/自負です。「魏志」掉尾の東夷伝は、画期的に意義深いので、冒頭に序文が書かれ、末尾に東夷伝に付された「評」が書かれたと見るべきです。

 念のため言うと、陳寿の時代、范曄「後漢書」は百五十年先ですから、影も形もないので、評価しようがないのですが、「東京撰録西羌」と言及しているということは、公式史書に近い存在として、史記「大宛伝」、漢書「西域伝」、そして、荀悦「漢紀」の西域記事に続く、後漢「西羌伝」が、鴻臚の文書記録から、「撰録」が編纂され、非公式に関係者に回付されていたということです。想うに、限られた分量とは言え、「蔡侯紙」(記録用紙)に恐らく、早書きの略字体で墨書した(簡牘巻物に比べて、圧倒的に細身で軽量の)読み物が存在したと思われます。
 魏の世に匈奴が衰え、代わって烏丸、鮮卑が書かれ、東夷から使者が来ましたが、四夷は早足で推移するから、都度書き留めねばならない、との慨嘆と思えます。

 陳寿の理解では、後漢代、特に、末期には、「東夷交流にさしたる事績の記録はなかった」ということです。(後漢献帝建安年間は、曹操の治世下にあったので、「魏志」の範囲と見なされているのです)また、暗黙の意見として、後漢末期から魏代にかけて、「西域交流にさしたる事績の記録はなかった」と言う事でもあります。

 後漢・魏・西晋の三世紀近い期間の洛陽三代(CE 25-316)を通じて、四夷来貢の度に鴻廬が歓待し礼物を渡し印綬を施した事例は、容易に書き尽くせないほど多かったはずですが、蛮夷応対の実務を担当した鴻臚の文書に、全て記録されていたのですが、史官が「本紀」に加えて、「夷蕃列伝」を著するのは、帝詔公布、使節往来など大事件があったときなのです。このように、陳寿は、慎重に言葉を選んで、寸鉄言としています。

*「三国志」の行程~考察追記 2024/05/04
 荀悦「漢紀」30巻は、後漢献帝(在位 CE 189-220)の諮問による正史に準じる官撰史書であるから、禅譲によって皇帝書庫を継承した魏朝に継承されていたはずであり、これに続く史書として、袁宏「後漢紀」30巻が編纂されたものと見えます。つまり、漢代四百年の「両漢紀」(全60巻)を残したものであり、言わば、漢朝最後の皇帝が、漢朝自叙伝として企劃し後に完成されたものとすれば、同代史の様式が示されているものと見えます。

 班固「漢書」は、高祖劉邦が天子となって以降二百年に及ぶ「歴史」の記録であり、歴代皇帝の伝記である「本紀」12巻に、高官有司の「列伝」70巻を加え、更に、資料集である「表」8巻・「志」10巻を追加して、「歴史記録」100巻の偉業を整えましたが、後漢献帝にして見ると、漢書を意のままに閲覧できるというものの、全巻(大量100巻の巻物)を身辺に置いて随時紐解くことなどできなかったので、座右の書を求めたものと見えるのです。

 陳寿が「三国志」の全容を構想した際に、言わば、漢朝創業者である高祖劉邦が最初に全天下を制覇し、代々伝統した、つまり、子々孫々に継承させた偉業を、最後の献帝劉協が、前後各30巻として構想したのを一つの規範としたと見えるのです。
 して見ると、陳寿は、漢書に続く史書としては、「魏書」30巻(最終的に、「本紀」4巻、「列伝」26巻)が構想の原点であったと見えるのです。以後、「列伝」に蛮夷伝をどれ程書き加えるかと模索した結果、「魏書」「西夷伝」は割愛し、「東夷伝」は、魏書の担当すべき、後漢献帝期以降、曹魏終焉に至る期間に、「評」が示唆しているように、画期的な事象が、雒陽に収蔵された公文書に記録されているので、これを、魏書巻末に「烏丸東夷伝」を設け、就中、魏朝が、東夷の極限の「倭人」を「親魏倭王」として中国の周縁に属させたという功績を明記したと見えるのです。
 ただし、魏朝「曹魏」は、遂に、天下を全て服させることができなかったことから、晋朝(西晋)に降服した東呉が公式史書として献上した韋昭「呉書」を、天子の承認を得た公文書として扱うことにより、蜀漢公式史書「蜀書」を受忍する先例を設け、最終的に、「魏志(魏書)」30巻、「蜀志(蜀書)」15巻、「呉志(呉書)」20巻の計65巻から成る「三国志」の体裁を整えたものと見えます。

 以上、あくまで、一介の素人の個人的な意見にすぎませんが、当人としては、陳寿の推敲の曲折を辿ったものと感じています。

*追記
 因みに、世の中には、この「評」が、「倭人伝」の不出来さを自認している』と解し、是を根拠として、『「魏志倭人伝」が、史書として拙劣である』と論じ立てている人がいるようですが、それは物知らずの勝手読みです。早々に、退場頂きたいものです。
 陳寿は、太古以来の史官の系譜を嗣いで「魏志」を書いた「自負心」/「使命感」を持ち、つまらない「評」を載せるはずがないのです。当世良く見られる個人的「レポート」の締めではないのです。

 史料は、先ずは、史料自身の文脈で読むべきです。二千年後生の無教養な東夷が、溢れるばかりの「無知、無教養」から廉恥心に欠ける視点で解釈するのは、論外です。

 因みに、当記事は、神の目で見て「評」が適切な評価であると言うのではありません。陳寿が、どういう趣旨で、何を書いたかと言っているのです。
 もちろん、個人の意見は、当人に固有なので、以上の趣旨に同意できないとして、それは当人の勝手です。

 時には、自明のことを明言したいのです。

                               以上

*再追記 2024/05/02
 恐らく、読者諸兄姉は了解されていると思うのですが、上記「追記」の動機は、『この「評」が、倭人伝の不出来さを自認していると解する人』と限定しているように、「何が何でも陳寿が大変不出来な文筆家だったと言い立てる」「野次馬」の「売り言葉」に対する「買い言葉」であり、当ブログ筆者が、ついつい、尊大な「陳寿像」を立ててしまったことは、コメント子の苦言を待つまでもなく、言いすぎであることは承知しています。ただし、陳寿は、当然、三国志の編纂という大事業について、「自信」というか「自負心」を抱いていたのであり、この点は、私見とは言え、別に誇張では無いと思います。
 また、コメント子が「自画自賛」の本来の意義を介しておられるかどうか不明なので、くどくど弁明すると、当ブログは「古代史」語法に還っているので、念のため説明する異にします。
 つまり、古来、「画工」は一種の職人であり、「文化」の下位に属するものなので、「画工」が、現代の観点で絶世の芸術家であっても、「画」は、経書でも、漢詩でもなければ、詩経でもなく、「文」として認められるためには、「讃」が伴わなければ、と言うか、「讃」を主役として、一歩引かなければ、世評を得られなかったという事態を、「自画自賛」に擬(なぞらえ)たものなのです。
 つまり、史書は、あくまで、記録文書の集約であり、史官は、文筆家としてでなく、文書職人としてしか評価されないので、「評」の形式で、感慨を述べたと見るのです。
 コメント子が、小文の文脈展開を軽視して、文章断片をかじりとって批評する「読みかじり」の風潮に染まっていなければ、さいわいです。

 

毎日新聞 歴史の鍵穴 批判 2014/10 再掲

                      2014/10/15 2024/05/01

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯始めに
 歴史学者諸賢の学説は、拝聴することにしているのだが、毎日新聞(大阪)夕刊文化面の連載記事『「歴史の鍵穴」 難波津と安積山 紫香楽宮を挟んで両極端』は、ちょっと/猛然と暴走したように見えるので、指摘させていただきたい。
 いや、これまでも、「歴史の鍵穴」氏が展開する牽強付会の意味付けには、ちらちら/毎度毎度首をかしげていたのだが、世間に良くあることなので、見過ごしていたものであるが、今回は、あんまりにも、あんまりなのである。

*首尾不明の迷走
 本日の記事の導入は、宮町遺跡で発掘された木簡の両面に書かれている難波津の歌と安積山の歌の読まれた舞台の位置が、地理的に対極の関係にあるという説である。
 また、記事の最後の部分の導入は、8世紀中期当時の都である紫香楽の宮から見て、難波津は南西の地の果て(断定)であり、安積山は北東の地の果てに近いと書き、記事を締めにかかっている。

 しかし、掲載されている地図を見るまでもなく、大阪湾岸の難波津が「地の果て」とは、何とも、不思議な見方で、とても同意できないのである。
 確かに目前に海はあるが、つい、その向こうには、別の陸地があるのは、漁民には衆知であり、また、一寸、北に寄って、今日言う山陽道を西へひたすら辿れば、下関あたりまで延々と陸地であり、そこで海にぶつかるとは言え、すぐ向こうに九州の大地がある。

 いくら、遙か1200年以上昔の事とは言え、大抵の漁民は、その程度の知識を持っていたはずであり、況んや、漁民達より深い見識を有する都人(みやこびと)は、難波津が地の果てなどとは思っていなかったはずである。

 「専門編集委員」ともなれば、無検閲で自筆記事を掲載できるのだろうが、この程度の中学生でもわかる不審な言い分を載せるのは、どうしたことだろう。

 ここで提示されている地図を見ると、確かに安積山は、遙か北東遠隔の地であり、到達に数ヵ月かかるから、現地確認など思うもよらず、ここが地の果てと言われても、同時代人は反論できなかったろうが、難波津は、せいぜい数日の行程であり、ほん近間である。
 これらの二地点を、対極というのは、字義に反するものである。

 また、大局的に見ると言うことは、さらに縮小した地図を見ることが想定されるが、そうしてみれば、難波津は紫香楽宮のすぐ隣である。ますます、字義から外れてくる。

 斯界の権威が自信のある自説をはるばると敷衍しようとするのは当然としても、なぜ、ここまで、遠慮のない言い方をすると、こじつけの域を遙かに超えた無理な見方をするのか、理解に苦しむのである。 

 今回の記事の説が成立しなくても、前回までの議論に影響はないように思うのである。 

 都の東西に対極があるとする見方に固執するのであれば、安積山が大体このあたりとして、難波津は、地図の左にはみ出して、下関や博多あたりが、距離として適地である。実は、九州に難波津を想定しての発言なのであろうか。
 また、南西という方角にこだわるなら、宇和島あたりであろうか。それとも、いっそ都城か。
 対極をともに想定地に固定維持すると、都は、近畿にとどまることはできず、飛騨高山か飛騨古川あたりに、紫香楽宮の位置をずらさねばなるまい

 そうした、無理に無理で重ねる作業仮説が否定されて退場すると、木簡の裏に二つの歌が並べて書かれていたからと言って、同時代人が、両者の舞台を、地理的な対極に想定していたとは言えない、と言う至極当たり前の意見に至るのである。
 「回答の選択肢から、可能性の無いものを取り除くと、残されたものが、正解である」と古人は述べている。宜なるかな。

 これほど、素人目にも明らかな齟齬であるから、「専門編集委員」と言えども、PCソフトに相談するだけでなく、発表以前に、生きた人間、それも、経済的に利害関係のない人間の率直な意見を仰ぐべきではなかったかと思うのである。

以上

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