新・私の本棚 石井 謙治 「古代の船と航海の歴史」 再掲 2/2
石井 謙治 「古代の船と航海の歴史」 歴史読本臨時増刊 「渡来人は何をもたらしたか」新人物往来社 1994年9月刊
私の見立て ★★★★★ 当記事に限定 瑕瑾ある卓見 2020/11/12 2024/05/28
*加筆再掲の弁
最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。
*遣唐使新羅道談義
新羅道は、半島東南部の王治慶州(キョンジユ)から北上し、小白山地を竹嶺で越えて、西に黄海岸に降り、漢江河口部南方の通称唐津(タンジン)海港を経た山東半島渡航の途次であり、慶州~唐津間を要所の驛亭を経る安全/確実な陸道としたのに拘わらず、氏は、頭から西岸沖合航行と決めてかかっています。
半島史素人にも、第三次遣唐使時点、西海岸南方は概して百濟支配下でしたが、肝心の漢江河口部南方には、新羅が戦い取っていて海港を設けていたと窺えます。つまり、西海岸沖合航行で百濟海港に寄港する行程なら「新羅道」と呼ばれることはないのです。
因みに、半島西海岸中部から「大陸」に渡るには、海上行程の短い漢江河口部南方が唯一の適地であり、それ以外の土地からの渡海は、行程が長期化するため、不可能だったのです。あるいは、山東半島側には、新羅公館が設けられ、百濟船の入港を武力排除していた可能性もあるのです。いずれにしろ、当時、同航路は、新羅の独占、排他状態であり、新羅は頑強だったのです。尤も、遼東半島との往来は、依然として、高句麗が頑健に死守していたので、港湾は、新羅、高句麗の「呉越同舟」だったともみえます。
*新羅の国威の根源
新羅は、古来、南下する高句麗とこれを排除する百済との武力の狭間を、多大な犠牲を払ってこじ開けて自国領を確保し、中国に認知されるに至ったので、独占した海港の権益を損なう試みには断固実力行使したはずです。
と言う事で、丁寧に時代考証すると、氏の唱える北路観は、憶測に過ぎず、はなから間違っています。氏は、慶州唐津間行程が陸上街道で、唐津から山東半島渡海船は新羅船では、和船の出る幕が無いので、意識外にしたようですが、先入観に囚われた論考は勿体ないものです。南方からの和船参入はあり得ないのです。
*沖合航行談義
因みに、氏の「北路」は、特に難路ではないので、航路に熟知した現地「パイロット」(操縦士でなく水先案内)を想定していますが、当然、航路全般に通暁した案内人はいないので、寄港地毎に案内人が交代したはずです。これは、港港と「条件交渉」すればいいので、地元は、入港料や水、食糧の補給代に多額の関税もあり、商売として成立すれば維持できたはずです。
結局、出発地政権と新羅、百濟両国の関係を、「日鮮関係」と時代錯誤の概念で括るのは随分粗雑です。百済と新羅の怨恨を無視されているのは、感心しません。
◯百済新羅抗争
古来、漢江河口部に在ったとされる百濟の王治漢城ですが、史上知られる高句麗長寿王時代の南下攻勢で漢城は陥落し、王族は全滅して、百濟は亡国で要地を奪われ、南遷して、旧都回復目指し反撃角逐していたところ、東方嶺東の僻地から興った新羅が、小白山地越えで貿易最適地を奪ったので、百濟は再度の失地回復を国是としていて、南部でも小白山地を挟んだ新羅との東西紛争であり、両国の和解はあり得なかったのです。
*「北路」航海記欠落
氏は、遣唐使記録に「北路」航海記がないと歎きますが、新羅道陸行は、新羅使随行の臣従の体で、とても、実態を書き残せなかったのです。
氏は、天平八年(736)の遣新羅使の半島東海岸への航海記を提示していますが、近隣外洋航海と見受けます。恐らく、筆者、読者ともども、内陸住民で海を知らなかったため、ことさら感動、特記したのでしょう。
◯まとめ~半島内陸行の裏付け
と言う事で、新羅慶州から漢江沿岸部の海港唐津への陸道は、倭人伝時代以来、確立された公道で迂遠で危険な沖合航行はなかったのです。
これは、『帯方郡から狗邪韓国まで「陸行」』の当然とは言え、強力な支援です。
氏にしたら、新羅道陸行説は、不倶戴天の敵、すなわち「天敵」なのでしょうのが、結果として、「倭人伝」行程道里解釈の順当な解釈を妨げ、国内古代史解釈に長く暗雲を投げたので、まことに罪深いのです。
以上
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