新・私の本棚 邪馬台国の会 第381回講演「邪馬台国」論争 三 4/10
安本 美典 記2019/09/17 追記2020/10/06 2024/05/05
私の見立て ★★★☆☆ 古典的卓見の現状確認
*加筆再掲の弁
最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。
*公孫氏「遼東記事」事例
個人的な時代考証として、公孫氏の五十年間、公孫氏が後漢朝/魏朝に任じられた遼東郡太守の権威でもって適法に遮ったため倭使が魏に行けなかったのでしょう。別に、不法なことをしていたわけではないのです。
*鴻廬の苦情
蛮夷の対処は辺境太守の専権事項であり、鴻廬は、むしろ、一々蛮夷を帝都に寄越すなというものであったはずです。道中の対応はもとより、天子の面目にかけて厚遇し、随員に至るまで印綬を下賜し、時に、過分とされる下賜物を持たせる必要があるので、辺境太守が選別すべきです。
*「従郡至倭」論
そして、魏の官軍による公孫氏攻滅は景初二年八月とは言え、遼東から地理的に遠隔の帯方郡は、それ以前、同年前半に、早々に魏の支配下に入っていたと見る解釈が非常に有力です。倭使が、新任の帯方郡太守の召集に従い、急遽六月に帯方郡に参上し、曹魏明帝の督促に応じて、引き続き洛陽に赴いた可能性が非常に高いと思われます。
*帯方郡道里考証~参考情報
念のため、帯方郡道里の考証を進めるには、まず、楽浪郡道里の考証が必要です。
楽浪郡は、漢武帝が、朝鮮を廃したあとに設けた四郡の一つであり、関中の京師長安が道里の起点であったものの、実務として関東の洛陽を起点とした道里が記帳され、以後不変のものとなっていたようです。そして、一度、洛陽から楽浪郡までの公式道里が記帳されたら、以後、楽浪郡治が移動しても、道里は変えないのです。笵曄「後漢書」郡国志(司馬彪)では、「樂浪郡武帝置雒陽東北五千里」と明記されています。
「郡国志」では、帯方郡は「帯方縣」であり、後漢献帝建安年間に分郡された帯方郡の公式道里は、未定とみえます。ただし、後漢建安年間は、已に国政は宰相曹操のものだったので、遼東郡太守公孫氏は、あえて帯方郡道里を報告しなかった可能性があります。従って、単に、楽浪郡道里と同一としたものと見えます。
雒陽を発した文書使は、帯方郡太守あての文書を楽浪郡に送達した時点で、帯方郡太守に送達したと見なしたものと思われます。して見ると、「魏志」に郡国志があれば、「帯方郡考献帝置雒陽東北五千里」と書かれていたものと見えます。因みに、後世の「晋書」地理志には、各郡の戸数などが書かれているだけで、郡治の公式道里は書かれていません。
因みに、劉宋代の正史である沈約(南齊-梁)「宋書」州郡志は、「陳寿」三国志に地理志がなく、劉宋代、笵曄の刑死で継承されていたかどうか不明の「後漢書」は、仮に、公式史書として認知されたとしても、本来「郡国志」を欠いていたので、結局、既に滅亡していた楽浪/帯方両郡相当地域の道里は確定できず、逆に、建康を京師と見立てた会稽郡、建安郡の公式道里は、確実に把握していたので、これを記帳しているのです。
このあたりの変転は、話せば長いので、ここでは割愛します。
本項の結論としては、「帯方郡考献帝置雒陽東北五千里」 が、もっとも妥当な推定と見えます。
*公式経路と実務経路
古来見過ごされていますが、両郡が、魏明帝の指揮下に回収された以上、、帯方郡から中原洛陽に至る公式経路は、目前の山東半島青州に渡海上陸後、河水南岸官道を西行するので、遼東戦乱は、全く無関係と思われます。
このあたり、まことに合理的な理解が可能であり、「倭使が景初三年六月明帝没後の帯方郡に参上した」と見るのは、論外の愚行だと思うのですが、中々、不当な異議に対する正当な応答が支持されないのは、どうしても、景初三年でないと具合が悪い事情があってのことと見えます。
〇戦時の上洛経路
郡が公孫氏遼東に赴くのは、諸国王に等しい権威を持つ太守の威光によるとしても、郡から洛陽へは遼東を介しない古街道が通じていたと見るのです。史学界大勢が、帯方郡から北上して遼東郡治に着き、しかして洛陽に向けて西南転する、大変遠回りな経路に専ら信を置いているのは、素人として、大変不可解と感じるのです。正史に、そのような行程を示唆する「公式道里」が記載されているのは事実ですが、帝国の実務は、最短経路、最速の到達が最優先であり、古式蒼然たる誤解は、早々に廃棄すべきです。
以上のように、当時の政治情勢を合理的に解釈すれば、現に史料に書かれている「景初二年」を否定する異議を正当化するに足る合理的/圧倒的な論拠は、全く無いと思われます。不適切な異議は、自動的に却下されます。少なくとも、古代学界で蔓延る景初献使年に関する諸々の非科学的な俗説群は、不適切/不合理として雲散霧消するのではないかと思われます。
〇闇の中の「自明」論
資料解釈が大きく分かれる事項で、性急に自説を仮定し、無造作に「自明」と書き立てるのは、学問の徒として疑問と思われます。
「自明」は、よほどの場合に取っておく極上表現であり、「決めゼリフの安売りは自身の大安売り」です。不用意な断言で、恥を千載に残さないようご自愛いただきたいのです。
いや、ふと冷静に戻ると、景初三年が正しいと仮定しても、本題論議に直接/重大な関係はないのですが、一部の頑迷な景初三年派は、ことさら雑駁な論拠を提示して誤写頻発の件数稼ぎとしているようなので、丁寧に反論するものです。いや、ほかにも、景初三年を死守する動機はほかにもあるらしいのですが、ここでは深入りしません。
当項目以外の誤字談義は、素人がこれまでに調べた限りでも根拠不明とされるべきです。各論は、追試/審査されていないのでしょうか。
安本氏ほどの高名、高潔な論客が、麗々しく引用するものとは思えないというのが正直な所感なのです。
〇追記:
安本氏の引用に不審を感じ原著をよく読むと、当方の杉本憲司、森博達両氏への批判は一部当を得ていないので、追記の形で補正を図ります。
両氏は、「倭人伝」解釈の基本を、中華書局標点本(1982年版)を底本とし、随時校異により訂正する立場に立ち、「對馬国」は前者の見地、「邪馬臺国」、「一支国」は後世史書依拠の見地を採用していて、客観的な物証にかけるものの、一応、議論としての筋を通しています。
ただし、「東冶」校異が根拠のない推量であるように、校異の筋道はそれぞれ不安定であり、「景初二年」校異は、合理性に欠け、一段と不確かです。
未完
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