« 2024年5月 | トップページ | 2024年7月 »

2024年6月

2024年6月28日 (金)

今日の躓き石 NHKに出回る「リベンジ」病 懲りない粗相

                   2024/06/28

 今回の滞在は、「ほっと関西」(18時-19時)のちょっとした粗相なのだが、ここ数日、天下の公共放送のスポーツネタ/サッカーネタリベンジ」が出回っているので、ちゃんと見ている視聴者もいることを示したものである。それにしても、世間知らずの野球界で(公共放送と全国紙で)ようやく「リベンジ」禁句が定着しつつあるのに、時代遅れのおじさん制作とも見えないサッカー/フットボール界番組で、年代もののつまらない失言が無くならないのには、恐れ入っているのである。コンナ伝統は、滅びるべきである。

 一度、関係者でよく話し合ってほしいのだが、「リベンジ」は、中東のテロリストでもあまり言わない、罰当たりで「ど」汚いことばであり、公共放送は、次世代を担う子供達が真似しないように、せめて社内ルールとして、使用禁止を徹底して欲しいものである。この世界で子供達がどうでもいいと言われると、老い先短い老人は、二の句が継げないのであるが、言い置くことにしたので在る。

 むつかしいことを言うと、リベンジは「旧約聖書」で強く戒められている禁句であり、つまり、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教で、共通して戒められているのである。『日本人は、無信心だから平気で「リベンジ」というのだ、その証拠に「仇討ち」として、血なまぐさい復讐譚が出回っているのだ』と、世界的に蔑視されているのである。これら大宗教に見放されると、仏教徒、ヒンズー教徒は、ひ弱いのである。
 だから、子供達が海外メディアにつまらない失言をしないように、せめて、公共放送は「リベンジ」撲滅に努力して欲しいものである。「受信料を返せ」などと言わないが、ほとんど喉元まで出ているのである。

 社会人野球で「Revenge」何ちゃらというチームがあるとか、コミック、アニメ界に「Revenger」があるとか(たぶん)解消しようのない、どうしようもない不詳事が、出回っているのであるが、せめて、これ以上蔓延しないように、密かに望んでいるのである。いや、ブログで高言していて、「密かに」もないもんだが、それはあくまで、年寄りの「しゃれ」である。

以上

 

2024年6月13日 (木)

新・私の本棚 外野 ウィキ「古代史の散歩道」seit2023 1/6 補追

ウィキ 「古代史の散歩道」2023/01/28 当記事 2023/01/31 2024/06/13,06/15

*加筆再掲の弁

 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*ご注意
 ここで批判したウィキは、以下の不法な事態を是正して、ブログ形式に転換し、パクリタイトルを「新古代史の散歩道」に塗り替えているので、参照先は、宙に浮いていると思うのです。(確認する気には、ならない)
 この点、あらかじめ、ご理解頂きたいものです。

▢緒論として
2024/06/15
 いや、当方は、ただの素人に過ぎないので、別に大した意見はないのだが、それにしても、当方が提起した争点は、まことに、揚げ足取りに近い些細な点であるが、又又それにしても、鳥越氏の本論の「枕」に過ぎない部分で、鳥越氏が、不出来な総括をしている/誰かに総括させられていると見えると、かなり遠回しに示唆しているのに、通り掛かりの野次馬から憤然たる抗議を頂いたのは、予想外であった。以下の本体部分では、真面目に応対しているが、当事者でない第三者が、当方の些末な批判に対して激高しているのは、奇観と言うべきである。鳥越氏は、明らかに文献史学に於いては、専門外で、素人に近い状態であったから、いずれかの「事情通」に寄りかかったのであろうが、そのために、不出来な解説を受け売りしたと見え、当ブログとしては、「黒子」が舞台に出て来るように水を向けたのである。ということは、以下しゃしゃり出てくる論者は、鳥越氏の陰の声、ゴーストライターなのであろうか。そうでないにしても、鳥越氏には、このような雑ぱくな支持者しかいないのであろうか。氏のために、まことに勿体ないと思うのである。

◯始めに

 本件は、ブログ記事でもなく、衆知を集めるWikiの体裁であるが、実際は、一律seit2023署名であり、古代史ブログとして、論者公開したものとして批判させていただくことにした。
 因みに、本件は、誠に人を食った(パクリ)ブログタイトルであり、古手のブログ主は不満であるが、それはこの際は言わないことにする。また、ブログランキングに、ルールに明記されていて不適当である、なんちゃって「ウィキ」を登録する厚顔無恥も、ここでは言わない。事態が是正された「新古」ブログのタイトルは、誠に人を食ったものであり、まして、Wikiを居食いして、ブログにする手口も、随分すっとぼけたものであるが、ここでは論じない。

*批判と反論
 以下は、掲載記事の引用に当方の批判コメント追加であり、古典的喧嘩論法は極力受け流したが、反発は理解いただけるものと思う。
 因みに、氏は、細かく引用先を明示して公開されているが、特に意義がないと思われるので、批評の目的で引用した。

「鳥越 憲三郎」批判について
『「三国志」観~いびつな裁断』(参考文献2)と題して、「前提不明の断定で、用語不明瞭で学術書として大変不適当」(参考文献2)と書いているが、前提不明の断定とする根拠は示されていない。「(裴松之は)目方や山勘で補注行数を決めたのでは」ないというが、鳥越氏は「目方や山勘で補注行数を決めた」とはどこにも書いていない。書いてもいないことによって批判することは当を得ておらず、批判の根拠にはならない。「裴松之が数倍の分量にして補注」(鳥越(2020)、p.74)したというのは、間違っているわけではない。裴松之の注によって、『三国志』は名著になったとする評価もあるくらいである。学術的批判であるなら、どの書の何ページに書かれているなど、最低限の書き方が必要であるが、それも欠けている

 論者は、鳥越氏当人でなく、「闇代理人」であるので、趣旨理解の前提となる教養の有無が不明なので以下、順に説明する。
 「題して」と言われるが、小見出しか。タイトルではない。「前提不明の断定で、用語不明瞭で学術書として大変不適当」との引用で、本書に「前提」論拠が読み取れなければ意味不明は明らかである。無理難題は、ご勘弁いただきたい。例えば、「用語不明瞭」というのは、学術論文である以上、「多い」「少ない」などと主観的・感覚的なことを言いたてずに、せめて、「パーセント値」などで数値化すべきだというのである。至って当然の意見と思うのだが、論者にとって「当然でない」というのであれば、典型的な無教養発言であるので、ここでご退席頂きたいものである。

 鳥越氏は「目方や山勘で補注行数を決めた」とはどこにも書いていない。

 との発言は、場の流れを見損ねているのであり、これは、反論を引き出すための「揶揄」であるから原文にないのは、当然である。「裴松之が数倍の分量にして補注」(鳥越(2020)、p.74)したと明確に示唆しているように、鳥越氏は、史書の価値は「分量」と相関関係があると明確に示唆しているから、映画のトラさんにしゃれめかして「つらい」と揶揄したのである。当然、「学術的」批判ではない。
 裴注の「貢献」は、見当違いの感想と思うので、同調する鳥越氏に揶揄したのである。なにしろ、裴注は、裵松之が苦吟して一字一字書いたものでなく、文献から貼り込んだのであるから、裵松之は、ほんの一汗の手間もかけていないのである。たとえば、魚豢「魏略」「西戎伝」は、魏略同時代善本から、「西戎伝」を、云うならば一冊丸ごと貼り込んだから、陳寿「魏志」に西域伝がないのに不満の読者は、じっくり読んでいただきたいとしたものである。大事なのは、字数でなく、文書の真意ではないだろうか。
 何しろ、「西戎伝」数千字というものの、大半、と言うか、全体は、当時未刊の後漢書「西域伝」と言うべきものであり、魏志「西域伝」として利用できたと思われるのは、精々数行程度に過ぎないのであるから、これでは、陳寿にして見れば、「魏志」に収録できないという感想に至るはずである。いや、「本気で読めばわかる」という事であり、曹魏の官人であった魚豢をもってしても、この程度の「西戎伝」しか書けなかったのであるから、陳寿が、薄っぺらな魏志「西域伝」を収録するに忍びなかったのは、自然に理解できるはずである。
 とはいえ、論者のように、二千年後生の東夷であって関連資料を読んでいない野次馬には、自然な理解は無理なのだろうか。いや、魚豢は、曹魏が、後漢から天下を継承したから、後漢の功績は曹魏の功績であるという趣旨で、魏略「西戎伝」を編纂したはずだが、已に、陳寿は、その意見に与していなかったのは明確であるから、深追い無用である。
 と言うことで、論者は、当方の書いた記事の真意を察する読解力がないのに、ここまで、感情的に反発していては、無根拠の誹謗、中傷と解されるから、ご注意いただくよう申し上げているだけである。

「裴松之が数倍の分量にして補注」(鳥越(2020)、p.74)したというのは、間違っているわけではない。

 当方は、「裴松之補注が本文に数倍」の量的な(フィジカル)言い分が間違いと言うのでなく、質的な(メンタル)言い分の指摘だけである。字数を数えず、内容で勝負しろといっているのである。論者は、鳥越氏の目方論が正しいというのだから、それは、それで聞き置くしかないのである。

『三国志』は名著になったとする評価もある

 とは、何とも困った「風評」頼りである。世間は広いから、どんな極端な意見にも、当人は数えないとしても、かならず、少なくとも一名、同調者がいるというのが、古来の名言である。と言うことで、いくら声を荒げても、拙論批判の根拠とならない。主観的な批評の一例では困る。言外におっしゃっているように、「陳寿『三国志』は、裴注以前にすでに名著だったとの同時代評価が歴然としている」のである。論者は、この下りで、当方に何を伝えようとしているのだろうか。

学術的批判であるなら、どの書の何ページに書かれているなど、最低限の書き方が必要であるが、

 文の趣旨/真意の斟酌は、文脈の理解が前提であるから、部分引用は誤解の元である。特に、文意の読みがもつれるときは、本項の工夫が必要である。論者が、そうした配慮を理解できないと主張するのなら、当方としては、そうですかというしかない。説論であるが、原文の読みかじりで、原文の真意を提示したとするのは、往々にして「最低」の論拠提示と見える。お互い、子供(賈孺)ではないのだから、ちゃんと合理的な発言に努めるべきではないか。

                               未完

新・私の本棚 外野 ウィキ「古代史の散歩道」seit2023 2/6 補追

ウィキ 「古代史の散歩道」2023/01/28 当記事 2023/01/31 2024/06/13

*加筆再掲の弁

 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*ご注意
 ここで批判したウィキは、以下の不法な事態を是正して、ブログ形式に転換し、パクリタイトルを「新古代史の散歩道」に塗り替えているので、参照先は、宙に浮いていると思う。(確認する気には、ならない)
 この点、あらかじめ、ご理解頂きたいものです。

*批判と反論
承前
(引用)『南朝劉宋時代に裴松之が補注し「三国志」が成立した」との不可解な論断に続き、「今はそれも散佚した」という趣旨が、余りに唐突で、混乱しています。写本継承の過程で異同が生じたとしても、史書「三国志」は、「散佚」せず健全に継承されたとするのが妥当な見方』(引用ここまで)(参考文献3)と万年好奇心少年は批判する。ところが原文は「宋の429年に成った『三国志』であるが、今はそれも散逸した」(鳥越(2020),p.74)である。原文通りの引用をせずに書き換えて批判するのはルールに反する。裴松之が429年(元嘉6年)に執筆し、皇帝に提出した『裴松之補注版三国志』は残されていないので、散逸したと言って間違いではない。現存する最古の『三国志』(裴松之補注版)底本は 紹興年間(1131年-1162年)の刻本であって、429年の手書き原本ではない。万年好奇心少年のいう「余りに唐突で、混乱」はまったく事実に反する。万年好奇心少年の書きぶりは、世の中を惑わす批判であり、有害無益なブログといえる。

「世の中を惑わす」とは、「倭人伝」では、一女子卑弥呼が人心掌握したと賛辞と見え、盛大にお褒めにあずかったと感謝する。「批判」は、誹謗、弾劾で無い「批判」との指摘に異議は無い。「有害無益」は、論者の趣味嗜好であるから一身にとどめずお返しする。論者が、「倭人伝」論義を家業としていて、つまり、一家の生計を立てていて、当方のブログが、家業に不利益を齎しているとしたら、まことに申し訳ない。なにしろ、事の事実が分からないなかで、「全く事実に反する」のは不可能である。
 ちなみに、鳥越氏の論説の大部分は、いずれかの知恵袋からの差し入れに依存していて、文献史学者ならぬ氏自身の語彙と整合していないと見えるので、丸写しして批判するばかりでは、氏の真意を外れるかと思い、わざと「誤引用」したものでもある。
 要するに、以下に説き起こしているように、鳥越氏の内部では、冒頭で宣言した『「三国志」は、西晋史官陳寿の編纂した史書であるという認識』『正史「三国志」は、劉宋裵松之が付注した後世版であるとする認識』が混在していて、論者すら、しどろもどろなのを感じて、「鳥越氏は後者を正史として論じている」と(誤)認識したものである。
 因みに、論者から絶大な賛辞を頂くのは光栄である。以下同文である。

「史官裴松之の注釈が「大量」追加された時点で、はじめて「三国志」となったという解釈は、大変な見当違いです。」(参考文献3)と万年好奇心少年は書くが、鳥越氏はそのようなことは書いていないので、捏造した引用である。鳥越氏は解説の冒頭で「『三国志』は陳寿が・・・合計65巻として完成させたものである」(参考文献7,p.76)と書いているので、裴松之の注釈が書かれる前に『三国志』が成立していることは、説明している。その後半に「裴松之が数倍の分量にして補注し、それが宋の429年に成った『三国志』である」と、『原本三国志』と『裴松之補注版三国志』とは区別して書いているのである。つまり補注により『三国志』が初めて作られたわけではない。さらに『原本三国志』はそもそも残されていないので、裴松之が補注を入れる前の状態は誰も確認できないのである。

 まず、「同時代に「魏志」を読んだ人間がいる」のは自明なので確認を要しない。「誰も確認できない」も、非学術的で同意しがたい。現代人が、二千年近い過去を見聞できないのも自明で、当世風自虐趣味かと危ぶむものである。
 裴松之は、当時最善とされた三国志原本に「大量の」注記を行ったのであり、当然、補注前の状態は承知していた。それが、科学的な議論と思う。別に同意されなくても結構で、せめて同時代人の意図を読み取って頂きたい。
 因みに、先だって、「『三国志』は名著になったとする評価もある」とあるのは、明らかに、「裴注版」に関する風評であるが、趣旨不明である。

万年好奇心少年は「現存最古の「三国志」の最有力な巻本は、宮内庁書陵部が管理している南宋刊本ですが、第一巻から第三巻が逸失しているものの、それ以外の全巻は、健全に継承されているので、とても、散佚とは言えない」(参考文献3)と書くが、宮内庁書陵部にあるのは、「晋 陳寿、宋 裴松之註」の百衲本(紹興年間(1131年-1162年))であるから、陳寿の原本は失われている。

                                未完

新・私の本棚 外野 ウィキ「古代史の散歩道」seit2023 3/6 補追

ウィキ 「古代史の散歩道」2023/01/28 当記事 2023/01/31 2024/06/13, 06/15

*加筆再掲の弁

 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*ご注意
 ここで批判したウィキは、以下の不法な事態を是正して、ブログ形式に転換し、パクリタイトルを「新古代史の散歩道」に塗り替えているので、参照先は、宙に浮いていると思うものです。(確認する気には、ならない)
 この点、あらかじめ、ご理解頂きたいものです。

承前
 当方が「南宋刊本」としか書かなかったのは論点に関係無いからである。「晋 陳寿、宋 裴松之註」の百衲本(紹興年間(1131年-1162年))であると、論者が意味不明に指摘しているが、要らぬ紛争は、避けたかったのである。
 論者が、南宋刊本すら的確に識別できていないのは、痛々しいのである。まして「原本」の意味もあやふやなのであり、かつ、鳥越氏の認識も理解できていないので、ここで鳥越氏の代弁にしゃしゃり出るのは、僭越なのである。

 子供(賈孺)に言い聞かせるようでつらいのだが、まず、中国では、政権交代どころではない内乱がしばしば起こっていて、国宝と言うべき正史原本すら、種々の損害を被ったのは衆知である(論者が知っているかどうかは「衆知」の適否に関係しない)。但し、三国志は、正史の中でも格段に損害を受けることが少なく、少なくとも、劉宋裵松之による校訂、唐初の国家事業としての校訂、北宋期の刊刻時の大規模校訂、南宋初期の二度に亘る刊刻時の校訂と、原本継承の損害からの復元が行われていて、最も原本に近いテキストが維持されていると見るべきである。

 ところが、論者は、何も知らないままに、裵松之補追の際にそれ以前の原本が喪われたと戯言を述べていて、信用を無くしているのである。裵松之は、その時点の三国志原本に手を加えることなく、注を追記、つまり、原文はそのままで書き加えているのであり、その時点の補注前の原本テキストは確実に保存されているのである。この点は、現行刊本で「容易に」確認できるのであるから、他人に声高に主張する前に、調べ尽くすものであり、「知らない」、「記憶にない」では済まないのである。
 要するに、論者の属する学閥は、「魏志倭人伝」原本に、「邪馬臺国」と書かれていた4文字が、継承中の手違いで「邪馬壹国」と変容したとの一点に、組織の生存をかけているので、陳寿原本を読んだものは誰もいない等と、子供(賈孺)じみた発言に始まり、論者のように、宮内庁書陵局が影印本を公開している南宋「紹熙本」を、同時期に南宋で刊行された「紹興本」と全文字同一ではないと称して事態を混濁させている(のだろうか)のに巻き込まれているのである。この辺り、論者は、専門家でない素人判断で強弁するために、しどろもどろで痛々しい。

 本論では、宮内庁書陵部が継承管理しているのは、普通「紹熙本」と呼ばれているが、「南宋刊本」で十分であり、また、これは「百衲本」そのものでないとの定評がある。「紹興年間(1131年-1162年)」は、何の意味か不明で、論者の意識混乱と見える。紹興本は、紹凞本より刊行時期が早いが、テキストの信頼性に疑義があるという事で、さほど年月を経ないうちに、刊刻事業を再度行って、よりよい紹凞本を成し遂げたというものであり、要するに、論者は聞く相手を間違えたようである。
 因みに、ここは、紹凞本が現在最有力な刊本と確認するだけでなく、二千字ほどの「倭人伝」原本テキストを確定しないと議論が始められない(はず)なので、宮内庁書陵局の公開史料を提示したのである。紹興本については、印影が伝わるだけで原本が確認されていない(と思われる)ので、避けられていると言うべきである。
 つまらぬ言いがかりには、関わり合わないのが最善であるが、つい長々と「教育的指導」を施してしまった。慚愧である。

原本にどのように書かれているかを知る方法はないという意味で、「散佚」と言って差し支えない。

 論者は、独特の「字書」をお持ちのようで、「散佚」と称して、「三国志」全体が「散った」「失われた」と言いふらすのは、大いに「差し支え」がある。論者の家庭の事情は察するが、つまらない点で誤謬にこだわるのは、後世に誤った意見を伝えるので、程々にされた方がいいようである。大丈夫であろうか。何にしろ、正確に知らないことを間違ったままで高言するのは、罪作りである。
 わざわざ、このようにブログネタにして指摘するのは、論者の仲間から意図不明の誤伝/妄言が出回っているからである。中国史書の資料評価であるから、個人創作の字書は控えて、漢字字書を参照して「散佚」を解するものと思われる。何しろ、「三国志散佚」論は、途轍もない言いがかりと見える。

 史書「散佚」の好例として、関連資料で言うと、魚豢「魏略」は、善本が全く残存していないもので、史書や類書への断片的引用「佚文」が残存しているだけである。これに対比して、健全に継承されている正史が「散佚」したとは、読者に混乱を呼ぶのでは無いか。とくに、魏略佚文の「倭人伝」相当部分は、所引の際の不正確な引用に「定評」のある「翰苑」所収であって、誠に断片的である。「倭人伝」も、ゴミの山なのだろうか。

 鳥越氏は、「翰苑」所引の「魏略」佚文の史料批判無しに、陳寿「魏志」倭人伝は、魚豢「魏略」を写したものと称しているが、受け売りとしても鳥越氏ほどの高名な論者にしては、不用意/不都合である。そのような不合理まで指摘すると厖大になるので、武士の情けで、初稿では割愛したのである。所詮、本項は、ブログなる身辺雑記の書評稿公開であり、これを「学術的」論考並に審査されても、恐縮/困惑するだけである。まして、論考審査するのが不出来な者ではどうしようもない。
根拠をもって、そう言っていただければ良いのである。べつに「完璧」(玉の至宝に瑕疵一つない)というものではない。
 世上噂されている諸兄姉の判断の根拠は風の如く不明であるから、当方の意見を述べただけだけである。別に排他的に論じているわけでは無い。論者の生業を妨げる意図はない。

万年好奇心少年の主張は単なる言いがかりである。

 「単なる」「言いがかり」とおっしゃる意味が分からないが、拙論は「孤」つまり「隣」の無い一論であるから、「単なる」かも知れないし、事の取っつきを求めた「口切り」であるから「言いがかり」かも知れないが、それでどうしたというのか、一向に通じない。
 大事なのは、鳥越氏の唱えたと見える史料観が一方的であり、売り言葉にこたえると、高名な論者にしては、ずいぶんいい加減な言いがかりなので、反論による是正が必要だという意見であるから、内容についてご意見を頂きたいのである。

「鳥越氏は解説の冒頭で「『三国志』は陳寿が・・・合計65巻として完成させたものである」(参考文献7,p.76)と書いているので、裴松之の注釈が書かれる前に『三国志』が成立していることは、説明している。その後半に「裴松之が数倍の分量にして補注し、それが宋の429年に成った『三国志』である」と、『原本三国志』と『裴松之補注版三国志』とは区別して書いているのである。」

 僅かな間に、鳥越氏の筆が踊り『三国志』の定義が転々としていて、前後で意味が変わっているのである。

                                未完

新・私の本棚 外野 ウィキ「古代史の散歩道」seit2023 4/6 補追

ウィキ 「古代史の散歩道」2023/01/28 当記事 2023/01/31 2024/06/13, 06/15

*加筆再掲の弁

 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*ご注意
 ここで批判したウィキは、以下の不法な事態を是正して、ブログ形式に転換し、パクリタイトルを「新古代史の散歩道」に塗り替えているので、参照先は、宙に浮いていると思うものです。(確認する気には、ならない)
 この点、あらかじめ、ご理解頂きたいものです。

*解釈変調
 ここで、論者は、鳥越氏の解説を不規則に修飾しているが、原文を普通に、そのまま解釈すると、『裴松之が補注して成った「三国志」』と断定しているのであり、鳥越氏が『三国志』と論じているのは、裴注の付されたもので有ることは明解ではないか。このあたり、鳥越氏の文意が読み取れないのであれば、もう少し謙虚に論じるものと思う。
 論者が『』で規定したという事は、学術的に『原本三国志』と『裴松之補注版三国志』が区別されるとの主張のようであるが、ここは、鳥越氏の著書の考察であるから、本書から用例を提示頂きたいものである。文脈中で語義が動揺しているのを無視して、特定の部分だけ囓り取るのは、形式的には『ルール』にそっているのだろうが、じつは、『曲解』につながるものであり、フェアではないと思う。

「どのような「新しい」陳寿が知らなかった史料が発見されたのか根拠不明です。むしろ、陳寿がそれらの史料を審議した上で、採用せず割愛、ゴミ箱入りにしたと見えます。実地に判断すべきなのです。」(参考文献4)と万年好奇心少年は書く。その陳寿の知らない史料とは、たとえば王粲他編『漢末英雄記』、習鑿歯著『漢晋春秋』」、『魏武故事』、虞溥著『江表伝』などが挙げられよう。「陳寿がそれらの史料を審議した上で、採用せず割愛、ゴミ箱入りにした」(参考文献4)と万年好奇心少年が書くのは根拠がない断定である。

 当方は、鳥越氏が主張される『「新しい」、陳寿が知らなかった史料が発見された』なる(根拠の無い)断定に義を投げかけただけであり、根拠の無い断定に根拠をあげて反論することなど、誰にも出来ないのである。分量として原典に数倍する」と明言していることから、文字数による評価は不合理と、重ねて指摘しているだけである。
 ちなみに、陳寿が、史官として尊重した史料は、後漢/曹魏の政府機関が残した「公文書」であり、巷説、風評の類いは、仮に一瞥したとしても、採用せず、割愛したと見るべきであるから、そのように「断定」したと見るものである。何事にも例外はあるだろうが、だからと言って、陳寿が無原則の編纂を多年行ったというのは、無茶というものである。
 以上の見解は、鳥越氏が、氏の著作に示された民俗学見識に基づく考古学の視点見識を傾けて反論されたのであれば、再考するものであるが、通り掛かりの野次馬の生齧りの意見には、耳を貸す義務は無いとも言える。本稿は、それでも、あえて耳を貸しているものである。そのために、論者と同一の地平に引きずり下ろされて、不満であると言い置くことにする。

 ちなみに、裴注の中でも、魏志第三十巻の末尾に追加されている魚豢「魏略」魏略「西戎伝」は、相当する「魏志」「西域伝」が存在しないから、0字に対して4000字余りが付注されていて、分量比は計算不能である。

 陳寿の一世紀半後生である劉宋史官裴松之が参照した史料は、ほぼ全件批判されているから、陳寿が知らなかった「新しい」史料は、皆無ではなく当然あり得るとしても、全体として、陳寿が、熟読吟味の上不要と考えて「没」にした史料が少なからずある大半であるという主張自体は、十分に合理的であると考える。それら史料は、陳寿が棄却したと見ても独断ではないだろう。陳寿が棄却した史料をゴミ箱から拾い出して付け足したと見える裴注は、ゴミがゴミであると明示した上での補注であり、別に、「三国志」に対して何かを付け加えたものとは言えないのではないか。いや、論者自身が熟読してそのように理解したというなら、一件一件明示して批判頂きたいものである。

 それにしても、論者は、どのような資格で当方が意見を書く行為を「根拠が無い断定」と断定するのであろうか。意見を書く行為自体は、憲法で保障された言論の自由と思うものである。大丈夫でしょうか。

笵曄「後漢書」東夷列伝倭条の創成~余談
 たぶん、論者は、意識的に包み隠しているのだろうが、西晋は、陳寿の没後ほどなく、内乱で荒廃し、北方民族に首都雒陽を攻略されて、滅亡したのである。西晋皇帝は、捕虜となって流刑地で客死、王族も討伐されて、辛うじて、一名の王族が、江南の建康に逃れたのである。これが、「禅譲」であれば、皇帝は退位しても首都は維持され、政府機関も維持されるから、膨大な政府文書も継承されるから、そこから、新たな史書が登場する可能性があるかもしれないが、異民族に略奪された亡国から、公文書全体が移動されるはずはなく、最低限の公文書が非常持ち出しで南遷したにとどまったのである。
 つまり、建康で成立した東晋には、三国志「魏志」に新たな史料を齎される可能性はなかったのである。いや、それは、魏志として確立された正史に付いて言うのであって、蜀漢、東呉の地は、西晋崩壊の被害を免れたから、地方史料が齎された可能性はあるが、もともと、陳寿の編纂時に、充分史料渉猟を行い、選別していたから、特に事態に変わりはなかったと見えるのである。
 余談であるが、雒陽公文書庫の崩壊は、後漢書編纂に大きな打撃であったが、既に、有力な後漢書が編纂されていたので、これら先行後漢書の記事を斟酌すれば、笵曄も、雒陽公文書無しに一流の後漢書を編纂できたのである。但し、後漢の末期、遼東公孫氏が東夷を管理していた時代は、公孫氏から、雒陽に報告が届いていなかったので、当時、後漢献帝の建安年間、新たに設置された帯方郡の報告は、一切雒陽に届いていなかったのである。このため、笵曄「後漢書」東夷列伝の倭条は、本来欠落していたのである。笵曄は、史官としての訓練を経ていない文筆家であったので、平然と創作記事で埋めたのである。以下に述べる陳寿の「史官魂」と対比頂きたいものである。

*中国史官たる陳寿の使命感~余談
 そもそも、基本に立ち返ると、陳寿は、帝国内の文書担当の手で書き上げられ、承認を得て奏上され、然る可く皇帝の承認を得た「公文書」こそが「史実」で、これを正確に後世に残すのが使命と考えていた「史官」である。「述べて作らず」である。
 「魏志」東夷伝、特に「倭人伝」に関して、「史実」に不備がない限り、当時、雒陽に継承されていた「公文書」を(忠実に)引用したと見るべきである。これは、基本の基本であるので、異論があれば、根拠を提示頂きたいものである。世上、勝手な決めつけがまかり通っているが、史官は、風評の類いを拾い食いすることは(絶対に)ないのである。これは、高名な渡邉義浩氏が明言されているのであり、確固たる反証がなければ、そのまま拝聴すべきである。

*陳寿「偏向」観のもたらす天下大乱~余談
 また、渡邉氏が、下記麗書の第五章「邪馬台国の真実」の劈頭でぞろりと漏らしている「偏向」であるが、氏の真意を離れて、一部で大受けして、一人歩きしているように見える。
 西晋代の「正義」は司馬晋にあるから、魏志「倭人伝」のどこがどう「正義」を踏み外し「偏向」しているのか、悉にご教授いただかないと、が「偏向」のない史実なのか、素人にはわからないのである。
 渡邉氏は、「倭人伝」が「三国志」がもつ「偏向」を「共有」していると意味不明なご託宣であるが、普通に解すると、「倭人伝」が「三国志」全体と対等の権限を有しているのであり、とんだ「倭人伝」独立宣言であり、たかが、司馬懿の簒奪を正当化するために、『「三国志」が、そして、「倭人伝」が書かれた』という御意見には従いかねるのである。
 なにしろ、「三国志」中の「呉志」は、曹魏の統治を受け入れずに自立していた東呉の史官が編纂した「正史」であり、同様に自立していた蜀漢の「正史」である「三国志」中の「蜀志」は、三国鼎立の史実を後世に伝えるために、陳寿が、死力を尽くして工作し、蜀漢遺民に編纂させた史書であるから、「三国志」全体に通じる「正義」は、ありえないのである。して見ると、「倭人伝」は、そのような「大乱」に巻き込まれず、干渉を受けず、孤高の存在「小正史」であるとも見える。字数は、まことに少ないが、それ故に意義は深いというのが、渡邉氏の示唆と思える。
 渡邉氏は、下記新書に於いて、政策的に言い回しを整えて、「三国志」の「虚構」(外見:そとみ)を整えているように見えるのである。これは、「偏向」とは言えないが「お化粧」に見えるのである。言うまでもないが、公の場に登場するのに、「お化粧」するのが当然であり、素顔をさらすのは、不名誉であり、失礼なのである。
 渡邉義浩「魏志倭人伝の謎を解く」(中公新書2164)は、新書版として最高峰の史学解説書であるが、堅実な史学書としての高貴さと世上の「倭人伝」論の混沌に棹さす/悪乗りする強引さが混在している。
 ここに挙げたような高度の名言がウロコのままで供されるので、世上、いいとこ取りの読みかじりがWikipediaなどに紹介されて「邪馬台国論」の泥沼を沸かせているのである。素人としては、ちゃんと捌いて盛り付けてほしいと思うものである。

*「翰苑」審査~最善史料紹介
 「翰苑」残簡倭伝部の魚豢「魏略」所引は、偶々(正確と検証されていない)引用文が編者の手元にあったと考えられる。「翰苑」編纂者は「史実」の正確な継承を任務としなかったので、正確性の程は疑問である。その証拠に、「翰苑」は粗雑、つまり、行格が乱れ、乱丁がのさばり、加えて、度外れて低級な誤記、誤写の校正漏れが、ぞろぞろと濃厚に散乱し、何よりもそれが「校正/訂正されていない」事が「翰苑」残簡史料批判のほぼ全てである。そのように破綻した写本である「翰苑」所収「魏略」佚文は、一切「信じてはいけない」と言うべきである。「翰苑」残簡は、校訂された最善史料で史料批判すべきである。
 翰苑 遼東行部志 鴨江行部志節本 *出典:遼海叢書 金毓黻遍 第八集 「翰苑一巻」 唐張楚金撰 據日本京都帝大景印本覆校 
 自昭和九年八月至十一年三月 遼海書社編纂、大連右文閣發賣 十集 百冊 (中國哲學書電子化計劃

 これも、余談であるが、一部にある「魏略」私撰論は、とんだ言いがかりである。当時、部外者が公文書庫に立ち入って渉猟するのは死罪であったから、魏略」編纂は、曹魏史官たる魚豢に許容されていたと見るべきである。

 ここで、自明事項を端的に言うと、何事も例外はあり、「例外があることが強固な論証であるという意見もある」ことを指摘しておく。

                                未完

新・私の本棚 外野 ウィキ「古代史の散歩道」seit2023 5/6 補追

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*ご注意
 ここで批判したウィキは、以下の不法な事態を是正して、ブログ形式に転換し、パクリタイトルを「新古代史の散歩道」に塗り替えているので、参照先は、宙に浮いていると思うものです。(確認する気には、ならない)
 この点、あらかじめ、ご理解頂きたいものです。

ウィキ 「古代史の散歩道」2023/01/28 当記事 2023/01/31

*「延喜式」談義
「道里記事の「水行」、「陸行」の日数、月数を、「延喜式」の旅費規定に示された旅程日数から考察して、九州北部から大和に至る道里として、おおむね妥当としています。論証不備は、素人目にも明らかで、子供じみた書き飛ばしです。」(参考文献6)と万年好奇心少年は書く。鳥越氏は説明に「延喜式」を使っているが、古代の移動のための日数の推定に「延喜式」を使うことは許されると考える(参考文献7,p.93,105)。当時は歩くか、海路を取るしか手段のない時代であるから、交通手段を定めれば、要する移動日数に大きな違いはないと考えることは可能であろう。鳥越氏は「延喜式」は論証のために出したのではなく、疑問点を解釈するために、提示しているのである。万年好奇心少年はそれを曲解して批判している。

 論者は、声高々と指導されるが、当方は素人の「一少年」なので「許す」とか言えるわけがない。「合理的でない」、「論拠にならない」(のではないか)と言うだけである。論者は、鳥越氏共々、軽々に「当時」を論じ「歩くか、海路を取るしか手段」と、時代錯誤の「移動手段」を説くが、三世紀になかった「交通手段」と「延喜式」の依拠するできたての「交通手段」には、相当な違いがあると見るのが「当然」ではないか。「交通手段を定めれば」と言いのがれしているが、ないものをどう定めるのか。「そこから始めるべきだ」というのは、論者を、子供扱いしていることになるのだろうか。当方は、「少年」並の物知らずと自称しているのに、なぜ、どんな自信があって、居丈高にもたれかかるのだろうか。

 論者は「大きな違いはないと考えることは可能」と巣穴に逃げるが、三世紀に筑紫と纏向を繋ぐ公的「交通手段」は存在しなかったと「考える」のが合理的と思われるから、まずは、「存在した」ことを証するのに続いて、日数道里を、具体的に証した上で、そのような仮定を適用するべきかと思われる。早い話が、歩いて長距離を移動して目的地に生きてたどり着けるのは、途中に食料と水を提供し、寝床を提供する「宿駅」が、設置されているからである。つまり、食料と水が用意されている必要がある。七百年を経た十世紀には、街道があって旅人が往来していたろうが、七百年前の三世紀に、そのような制度があったかどうか、途轍もなく不確かなのである。
 恐らく、「倭人伝」で行程が書かれている伊都国から狗邪韓国に以北一路逆行する「周旋(往途)五千里」の四ヵ国は、道里が短く、所要日数も、せいぜい数日程度であったろうから、宿舎は置けたろうが、「倭人伝」に明記されていると称されていない(言わば)「仮想」纏向までの「仮想」行程を、実体のある宿舎で埋め尽くすことは「想定」できなかったと見える。そうで無いなら、何年頃に、宿舎が整ったと書かれているべきである。論者は、高度な「曲解」をお家芸としているようだが、素人には無縁である。

 繰り返して明言するが、当方は、一介の素人論者であるから、「許す」だのどうの処断する立場にない。ただ、「そのような大雑把な論義は、不適当/不合理でないか」と素人考えを述べているだけである。また、素人であるから、「学術的」に適法か不法かと詰問しているのではない。素人が、どうすればうまくできるか、「ずぶの素人にもわかるように教えていただきたい」と言うことだけである。これで、お耳に入っただろうか。

 いや、当方は、「倭人伝」道里行程主幹部は九州島内北部という前提であり、徒歩でも往来できたろうというのである。渡し舟も在ったのである。だから、「倭人伝」に道里行程の記事が続いているのである。難儀な強弁は必要ないので、無理なことは無理なこと。例えば、筑紫から纏向らしい地区までの東西交通は、六世紀あたりまで、明らかに街道未開通だったから、別にどうでも良いが、誠意を持って批判したのである。
 誤解があるといけないので補足すると、「倭人伝」には、『狗邪韓国から南下した渡船行程が末盧国で上陸し、当然の陸路で伊都国、そして近場の「邪馬壹国」に着く』と書いているだけで、伊都国から、奴国、不弥国、投馬国を経由するとは書いていない』のである。
 むしろ、陳寿は、誤解を避けるために、連絡の取れていない、脇道の余計な国と明記しているのである。いや、明記されていると認めると、九州で話が付いてしまうので、わやわやと誤解を書き立てているが、普通に考えれば「七百年後にならないと交通手段が整わない纏向に、三世紀に何の説明も無しに行く」というのが、途方も無い無理なのである。
 それはそれとして、今挙げたような「普通」の解釈を排除するために、とにかく、論者は、三世紀の東西交通手段を、まずは立証する義務があると自覚頂きたいのである。ホラ話を大声で怒鳴られても、同意はしないのである。因みに、隣近所の村と往き来して、物の売り買いをしていたのまで「なかった」というのではない。日帰り程度であれば、大層な宿場は要らないのである。そのような小規模な商いでも、順次くり返せば、いい「もの」は地の果てまでとどくのである。
 そう、わざわざ云うのも鬱陶しいのだが、「延喜式」に当然のこととしてご提案の規定が載せられたのは、各地に街道と宿場ができて、規定するだけで用が足りたからである。それ以前に、くわしい手引きが出回っていたと思うのだが、それは、三世紀、ないしは直後のことではなく、要するに、数百年をかけて徐々に整備されたのであろう。異国の諺であるが、「ローマは一日にして成らず」。

*「延喜式」の超時代効力談義
 論者の論法は、諸処に疑問が生じる。
 本件で、鳥越氏は97ページで、「三国志」に見る水行・陸行の記事は、役所の公的な旅費規程に基づくものであったとわかる。と、途方も無い断言を行っている。「三國志」で、並行陸行街道が存在しない水行旅程が登場するのは「倭人伝」の渡海船だけである。それとも、鳥越氏は、何か別の「三国志」を見たのであろうか。
 丁寧に言うと、上記引用を文字通り普通に解すると、鳥越氏は、三世紀の編纂者陳寿が、遙か後世の日本の「延喜式」の「役所」旅費規程に依拠して、折しも編纂していた「三国志」原本を較正したと主張していることになる。誤解/曲解の余地は、全くない。
 因みに、「延喜式」は、(恐らく唐代に、遣唐使、留学生によって)中国から盗用した古代国家制度「律令」の細則として、十世紀に策定、公布されたのであり、Wikipediaによれば、「『延喜式』原本は現存せず、室町・戦国期の古写本もほとんど散逸した。」とあり、国家要件時代は兎も角、武家政権時代に正しく書写継承されたと見えず、遡って、三世紀に伝来した証拠も全く無い。論者は、原本が存在しない史料は、一切信用しない方針かと愚考するが、賢人は豹変、つまり、その場その場で意見が変わるのだろうか。

*不明瞭表現の指摘
 当方は、鳥越氏にそのような手ひどい非難を浴びせる趣旨ではなく、全体的な読書感想として、鳥越氏が「倭人伝」の道里行程記事は、「延喜式」の旅費規程に依拠解釈すべきだと主張されたのに対した批判である。引用が不正確としても、鳥越氏の唱えている「倭人伝」考察の要点に疑問があると言っている。なにしろ、「多い」「大きい」「重い」の表現を極力避けたのである。当方の趣旨を理解頂ければ良いので、別にご意見を変えて欲しいというものでも無い。
 当方の内心を「曲解」と断定されている点だが、どうして、論者は、当方の内心を読み取れるのだろうか」古典的な反論を想定すると、「どうして、当ブログ筆者は、論者が当ブログ筆者の内心を読み取れないとわかるのだろうか」となる。これは、いくらでも反論を応酬し続けられるのだが、ここでは割愛する。因みに、「曲解」は、本来「知的な曲芸解釈」の妙技である。「カーテンコール」にこたえて再言した。拍手。

                                未完

新・私の本棚 外野 ウィキ「古代史の散歩道」seit2023 6/6 補追

ウィキ 「古代史の散歩道」2023/01/28 当記事 2023/01/31 2024/06/13

*加筆再掲の弁

 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*ご注意
 ここで批判したウィキは、以下の不法な事態を是正して、ブログ形式に転換し、パクリタイトルを「新古代史の散歩道」に塗り替えているので、参照先は、宙に浮いていると思うものです。(確認する気には、ならない)
 この点、あらかじめ、ご理解頂きたいものです。

*内乱考 (**改行追加)
 鳥越氏の記述にもいくつか問題点がある。
 (1)鳥越氏は三角縁神獣鏡が出土するのは、4世紀以降と書くが(参考文献7,p.133)、実際は愛知県犬山市東之宮古墳出土の三角縁三神二獣鏡(京都国立博物館蔵)は3世紀である(参考文献8)。また造営時期は3世紀後半頃と推定されている前期前方後円墳の黒塚古墳からは33面の三角縁神獣鏡が出土し(参考文献9)、これらは成分分析により中国鏡と推定されている(参考文献10)。したがって三角縁神獣鏡を否定するのは事実誤認である。
 (2)卑弥呼の時点では「当時はまだ古墳時代に入ってないから(墓は)方形周溝墓であったとみてよい」(参考文献3,p.138)と鳥越氏は書くが、西暦250年前後に箸墓古墳は築造されている。これはほぼ証明されている。したがって、卑弥呼の墓は前方後円墳ではないという断定はできない。
 『卑弥呼の墓を「前方後円墳」と勝手に決めつける一部の意見』と万年好奇心少年は書く(参考文献7)が、これも正確ではない。

*とんだ内輪もめの火の粉
 ここで、論者は突如、当方の鳥越氏論調批判を離れて、二件に渡って不思議な「私見」を掲げ、鳥越氏を批判する。当方は、高名な鳥越氏の著書批判が目的で、無名論者の私見批判の動機はないが、身に振る火の粉と理解いただきたい。
 ちなみに、「推定」つまり、個人的見解を重ねて置いて、「事実誤認」と断定するのは、意味不明と云っておく。以下、「断定はできない」(有力な推定であるという意味か)とか、「正確ではない」とか、言い散らしていて、論理を辿ろうとすると眩暈がしてくる。
 後者について云うと、当方が「勝手に決めつける一部の意見」と論者に逃げ道を残していると意見を表明しているのに対して、その「意見」が「正確」かどうか、誰に判定できるのか、不可思議である。どうも、論者は、明確な根拠をもたずに、私見を振り回して場当たりに非難しているようである。いや、別に非難しているのではない。誰でも、視点の動揺はあるが、それがバレないように努力しているはずなのである。

*国内考古学談義の乱入
 当方は、「倭人伝」論義専攻で、「倭人伝」の卑弥呼「冢」(ちょう:封土、土饅頭)論は、「倭人伝」自体の用例にしたがっている。これに対して、論者は、『世上出回っている「前方後円墳」比定は、「倭人伝」の文献解釈上不可能である』との主張である。つまり、論者は、遺跡考古学の視点から、つまり、門外漢の文献解釈で、卑弥呼「冢」を箸墓に誘導しようと参考文献連発である。
 一方、当プログの見解は「倭人伝」列国は九州島内としているので、卑彌呼冢が纏向付近と言う議論は、「端から無関係」であり、何を言われても圏外である。無縁の衆生である。(中国製銅鏡論は、見当違いで論外だが、武士の情けで不問)
 よそごとながら、論者は、頑強な卑弥呼冢「前方後円墳」論者のようであるが、我田引水で論証/論拠が絶無である点を、自覚/理解いただきたいものである。何しろ、論者は、史書としての「倭人伝」を理解できていないのである。

 ちなみに、論者は、文脈から囓り取った『卑弥呼の墓を「前方後円墳」と勝手に決めつける一部の意見』なる一般論を「正確でない」と断じているが、一般論が正確か不正確か、誰に言えるのだろうか。当ブログの真意は、通説に紛れ込もうとしている「誤謬」への非難であり,当人は謹んで自認するが、ここには、そのような意見は、文字として書かれていないのである。これに対して「正確でない」と断定するのは、根拠の無い偏見を吐露しているに過ぎない、のではないか。

*余談~神頼み
 素人目には、連年の強弁の積み重ねで公費による発掘/科学鑑定が進んだが、「倭人伝」の解明が未達成で、積年の泥沼は、地に足のついていない架空論義である。
 それとも、纏向の全域発掘を辞さない」卑弥呼金印探しで、全て京大文学部以来連論と続く「纏向遺跡考古学」の力で、文献解釈の泥沼を突き抜けて一発で解決すると神頼みしているのだろうか。
 所属する陣営がそれぞれあれば、それぞれ意見が食い違うのは仕方ないが、万事の基礎部分で無理をしているのは、素人目には、痛々しいのである。ほっとけば良いのに、余計なことを言うのは、当事者の転帰に期待している。

*私見の奔流
 端的に言うと、「西暦250年前後に箸墓古墳は築造されている。これはほぼ証明されている。」とは、一部論者の極めつきの「私見」であって、「証明」にほど遠い状態と見受ける。そのような「私見」によって、合理的な意義を否定するのは、独りよがりと言わざるを得ない。私見者が何人いても私見に過ぎない。いくら「大勢」でも、である。
 以下略する。

 引用出典 seit2023 古代史の散歩道

                               以上

2024年6月11日 (火)

新・私の本棚 伊藤 雅文「検証・新解釈・新説で魏志倭人伝の全文を読み解く」三掲補追

- 卑弥呼は熊本にいた! - (ワニプラス) (ワニブックスPLUS新書) – 2023/2/8
私の見立て ★★★★☆ 丁寧な論考を丁寧に総括した労作 但し、難点持続 2023/02/11, 06/30 2024/04/16, 05/08, 06/11-12

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯始めに~新解釈・新説に異論あり
 本書は、「倭人伝」考察に関して、麗筆で知られる筆者の最新作であり、これまで、氏の論説で、唯一致命的とされていた「倭人伝」改竄説が、控え目になっているが撤回されてないのは、依然として「重大な難点」と見える。
 重大な難点」を癒やせない筆者の論説は、折角の労作が全体として疑念を抱かれるので、大変損をしていると見える。ご自愛頂きたいものである。
 当然の事項であるが、本稿は、氏の売り物である「卑弥呼は熊本にいた!」提言を非難しているものではない。

*難点列挙
1.原文改竄~始まりも終わりも無い混沌
 氏は、原文の由来を明らかにしていないが、「対馬国」と書いているので、陳寿「三国志」紹興本によるものと見える。いくら新書でも、史料を明記するのは、常識と見えるが、いかがなものか。

 いずれの刊本に依拠するにしても、陳寿「三国志」の原文は「邪馬壹国」であるので、これを(異説・私見が支配的とは言え)「私見」により「邪馬台国」と改竄するのは、信用を無くすのであり不用意である。本書は、冒頭から「邪馬台国」と書き進んでいて、原本依存でなく、正体不明の現代語訳で書き換えているとも見える。
 ご自分に都合のよいように「現代語訳」を捏ね上げて、それに依拠して論じるのであれば、もはや誰の批判も受け付けない「独善」「至高」の境地であるから、俗人がとやかく言えるものではないということなのか。
 ともあれ、このあたりの批判は、「邪馬台国」派の史料改竄に対する「税金」のようなものであり、逃げられないものと覚悟すべきである。

2.「道里」の曲解/正解~余計な廻り道
 氏は、前書などで、独創の新説として、「道里」を、「倭人伝」の「新語」と紹介するが、古来「道里」は、常用されていたのである。「新語」を正式史書に、不意打ちで採用しては、史官として不用意として処断されるものと見える。重大な認識不足である。
 氏は、本書によって、「道里」は魏晋代新語』との手前味噌を排して原本に回帰したのであり、当然とは言え、「道里」は「道」の「里」との当然の理解/結論に至ったのを祝し、ご同慶の至りである。

3.道里/行程について~下読みしないことの不毛
 氏は、「倭人伝」の道里行程を、『魏使(郡使)の報告によるもの』と根拠なく予断されているしかし、普通に解釈すると、正始魏使が下賜物を帯行して訪倭の使命に発するには「行程全所要日数を予定する」必要があり、「都水行十日、陸行一月」は「魏使派遣以前に皇帝に報告されていた」と見るものではないだろうか。所要日数不明、あるいは、全道里万二千里だけでは魏使派遣は不可能だったと見るものである。
 何しろ、行程上の諸国に、到達予定とその際に所要労力、食料などの準備が必要であることを予告し、了解の確約を得る必要があるから、「全行程万二千里」との情報、狗邪韓国まで七千里などの大雑把な道里次第では難題は解決しないのである。いや、当然極まることだから、記録されていないだけで、ちょっと考えれば、他に選択肢はないのである。
 当時の事情を推察するのだが、正始魏使からすると後年の「倭人伝」編纂の際には、「全道里」万二千里が、何らかの事情で、実際の道里に関係なく公認されていたために是正不能であり、部分道里を按分して設定せざるを得なくなり、制度上の欠落を補足するために、実態に合わせて、『全所要日数、都合「水行十日、陸行一月」』を書き込んだと見えるのである。帯方郡の言い訳としては、倭地には、馬車も騎馬連絡もないから、文書使は徒歩連絡のみであり、道里だけでは実際の所要日数が分からないので、別途精査したということになる。
 下読みすれば、景初年間には、そのような訂正された道里行程記事が既に記録されていたのが、後年になって、西晋史官である陳寿の編纂によって補正されて「倭人伝」記事となったと見ることができる。案ずるに、後年劉宋の裴松之が「魏志倭人伝」の道里行程記事に異を唱えていないのは、そのような記事が史書として筋が通っていたからであり、結局、陳寿が認めた内容で良しとしたのである。以上が、当ブログ筆者の考える筋書きである。

 長大な一連の記事が「従郡至倭」と書き出されているように、本来、道里行程記事は、通過諸国を列挙した後、最終目的地「伊都国」に「到る」(到達する)のが「要件」であったと思われる。まことに、基本に忠実な素直な解釈と思うのだが、氏は、「あまのじゃく」趣味なのだろうか。
 意見は人によって異なると思い込んでいる人が結構多いから、「絶対必須要件」と言い募る人がいそうであるが、「要件」だけで重い断定表現であるからこれに四文字を付け足して強調するのは、一種自罰行為なのである。つまり、のような時代錯誤の多重強調表現を好む人は、丁寧な文章解釈が弱いということを自認/高言していることになるのである。いや、これは「余談」であるから無視していただいて結構である。
 而して、陳寿は、「要件」の後年補足の体で、「最終目的地を発して四囲に至る記事」を貼り込んだと見ると、もっとも筋が通るのである。筋が通らない解釈を好まれる方には、「倭人伝」の有力な同時代読者である皇帝や有司/高官は、面倒くさい理屈は不要であり、さっさと結論を示せと言うだけだったはずであると申し上げるまでである。陳寿には、二千年後生の無教養な東夷の好む紆余曲折に富む記事を書く動機は、全く無かったのである。

 その解釈を妨げるのは、俗耳に好まれている『「正始魏使が伊都国、奴国、不弥国、投馬国を経て邪馬壹国に至る」行程を順次踏破して、その記録が「倭人伝」に道里行程記事として記録されている』という「もっともらしい」というか「胡散臭い」というか、どうにも据わりの悪い「解釈」であるが「道里行程記事は、魏使行程記録でない」と善解すれば、論者の面子は保たれ、恥の上塗りになるような異議は回避される。
 
 「倭人伝」道里行程記事談義は別記事に譲るが、諸処の記事で明らかである。むしろ、「行程最終地が邪馬壹国(女王の居処)であり、そこに到るまでに、(傍線行程と明記している)奴国、不弥国、投馬国を順次通過した」との頑固な「思い込みが、順当/妥当な大局解釈を牢固として阻止している」と見える。いや、「業界の大勢がそのように決め込んでいる」から、論者が「大勢」に染まっていたとしても、別に恥ではない。勘違いに気がつくかどうかである。いや、所属組織の君命で「通説」を断固死守しているとしたら、もはや、治癒の目処は無い(つけるクスリが無い)とも言える。
 事程左様に、解釈以前の下読みが、曲解/正解の岐路である。
 ちなみに、当ブログは、「多い」「少ない」の不明瞭/あいまい/感覚的な評言は、極力避けているのであり、ここで言う「大勢」は、俗耳に好まれているという趣旨でしかない。

4.論争の原点(第6章)~無残な改竄説提起
 ここまで、高い評価を続けていたのだが、最後に、氏の愛蔵する「改竄説」の「魔剣再現」である。結局、氏が、倭人伝」道里行程記事を適確に解釈できない混乱状態にあるという自嘲状態を自己流に解消するために、混乱の責任を原典改竄に押しつける「付け回し」である。まことに勿体ないので、氏自身で、共犯関係を清算するように「猛省」頂きたいものである。

◯道里行程記事の新解紹介
~私見 2023/06/30,2024/06/12
 一連の書評で、批判だけで当方の見解を述べるのを避けているのは、聞く気が無いと思われる相手に「本気で」論じるのは、キリスト教の聖人が飛ぶ鳥に説法する姿を思い出させて、面倒くさかったもので有るが、本件では、氏の読者も含めて、幾許かの「説法」を試みようかと感じたものである。ほんの気まぐれである。
 「倭人伝」道里行程記事は、末羅国での上陸以降の倭地の陸行行程の様子がはっきり分かっていない時点で書かれた」と見るのが、妥当と思われる。記事は、狗邪韓国から倭地に至る「周旋五千里」について、洲島、つまり、大海の流れに浮かぶ中之島を飛び飛びに渡ると書いているが、末羅国以降は、公式道里として異例の「陸行」と明記している以上、陸続きと見るのが至当であるが、不確かにとどめているのだから、末羅国から伊都国への「末伊五百里」は、大変、大変不確かなのである。
 郡から倭までは、「郡倭万二千里」の行程であり、郡から末羅国までは、行程を加算して一万里としか書かれていないから、だれが暗算しても「二千里」が残るのである。
 千里単位で云うと、十二[千里]から十[千里]を減じると、二[千里]が残るが、千里単位の概数計算であるから、100里に始まり5,000里に至りそうな許容範囲のどこに落ち着くかは、皆目わからないのである。何しろ、三度の渡海は、全て、一[千里]で仕切っているが、街道道里は示されていないから、道里は一切不明であり、したがって、概数計算すら成立しないのである。
 その点を回避したものとして、安本美典氏は、現在の地図上に、明記されている道里を加算して十[千里]である末羅国の図上推定位置を中心に、郡から狗邪韓国までの「郡狗七[千里]」から推定した半径二[千里]の円を、ある程度の不確かさの幅を持って描く手法で「邪馬台国」の存在確率の高い同心円範囲を描いている。要するに、氏の図上推計は、確たる根拠があると見える「郡狗七[千里]」を道里行程記事の「原器」、「物差」と見るものであり、誠に、理性的な判断であると賛辞を呈するものである。

 但し、私見では、氏の提言は、場違いな、現代的推計手法を採用しているので、古代史史料に対して適用すると、一抹の蹉跌が避けられないと見るのである。特に、「郡倭万二千里」は、実測里数に基づくものでなく、周制以来、辺境に天子の威光が及んでいる様を述べるものとして、公孫氏が記録に留めたものであり、そのような概念的な万二[千里]を按分した帳尻の二[千里]が、記事に「明記」された桁外れの五[百里]とどう関係するのか、正直のところ、わからないのである。道里行程記事の[千里]単位の記事は、なべて「余里」と、あえて付記していることで念押しされているように、端数である[百里]のけたの数字は、桁外れて意味がないのである。 
 してみると、道里行程記事の末羅国以降は、魏の街道道里制度の全く届いていない地域なので、折角の「原器」も利用できないと見るものである。して見ると、「末伊五百里」は、百里程度より遠く最大五千里程度まで届きそうな可能性が否定できないと見るものである。何れにしろ、概数計算の端(はし)たであるから、この五百里には、道里としての意味が「ない」のである。

 要するに、按分の基点が「従郡至倭」「万二千里」であるが、これは、明らかに、街道道里ではなく、天子の威光の届く果ての「荒地」という「趣旨」で公孫氏が書き留めていたものが、公孫氏が司馬懿に討伐されて記録類が一切破壊される以前に、明帝が勅命で樂浪/帯方両郡を無血回収して両郡文書を入手した際、公孫氏の「趣旨」を知らない新任郡太守が明帝にそのまま上申したものであり、言わば、意図せざる「誤報」が、明帝に,倭人が万二千里の彼方に実在しているとする「世紀の誤解」を齎したと見えるのである。
 当ブログ著者が、最近到達した明快な見解であるが、要するに、陳寿はそのような「誤報」の背景を承知していたが、景初三年元日に急逝した明帝が残した文書は神聖不可侵であり、これを温存しつつ実務に不可欠な到達日数を書き込んだと見るものである。
 不確かな推定の積み重ねであるが、概算計算の妙で、いわば、ゆるゆるの箍をはめていたという推定である。

 またもや念押しすると、道里行程記事を滑らかに読み解くと、「従郡至倭万二千里」の最終目的地「倭」は、後漢末期献帝建安年間の初見段階では伊都国だったのであり、後に「女王」共立という画期的な事件の後に創設されたと見える、末尾に追記された「邪馬壹国」/「女王国」は、初期記事の行程の圏外なので、伊都国からの道里は書かれていないとも見えるのである。
 一説では、「女王国」は、伊都国の国王居処の間近で、数里程度であったので、割愛したという。別の一説では、「邪馬壹国」は自立できないので、伊都国の隔壁集落(国邑)の内部に包含されて、存在していたとみている。
 国内史論で、しばしば誤用されている「宮都」は、本来、「宮」(帝都城郭の一角である「小部屋」)を囲う「都」城/城壁の意味であり、そのように正解すると、「邪馬壹国」は、「城内城」と解されるのであるが、国内史学論者には、受け入れがたい解釈と思われる。結局、「倭人伝」は、三世紀中原史官が、同時代の読書人の理解に適した用語、文体で書いたものであるから、しばしば誤解されて当然である。

 別の一説では、周秦漢魏晋官制では、郡から送達された文書は、伊都国の受信箱に届いた時点で、女王が査収したと解釈されていたので、伊都国が文書便/行人の行程終着点という。この場合、「女王国」への道里が「多少」遠くても、官制上関係無いから離れていても問題ないと言える。
 人によっては、それなら道里を勘定しないで纏向遺跡まで文書が届くというかも知れないが、言下に否定できないとしても、さすがに、一か月以上かかりそうな遠距離交信は、論外と見るものではないかとはいえ、そのような極論を紹介したあとで、さらりと熊本説を提示すれば、抵抗が少ないかと見える。いや、さすがに半ば冗談である。

 以上の筋道をたどれば、伊都国の位置は、末羅国の概して南方であるというものの、遠くは、日田、久留米のあたりまで包含できるという解釈が可能であり、「邪馬壹国」は、そこから先なので、先ほどの論理に近い理由付けすれば、無残な原文改竄説に固執しなくても「邪馬台国熊本」説は堂堂と維持できるのである。未だ未だ間に合うから、次書で堂堂と撤回されたらいかがであろうか。
 その際、伊都国から、奴国、不弥国、投馬国の「余傍三カ国」への行程は、わき道であるから、勘定しない』と迷妄の根源を絶ちきる必要があるのは、言うまでもない。道里行程記事が錯綜するのは、「余傍三カ国」がぶら下がっているからである。錯綜の根源を絶てば、明快になるが、それが、魏志「倭人伝」道里行程記事の本旨/真意なのである。

◯まとめ~ダイ・ハーデストか
 折角の畢生の好著の最後に、年代物の「倭人伝」改竄説を呼び込み、因縁の「躓き石」でどうと倒れている。
 1~3の見過ごし、勘違いは、年代物の誤謬とは言え、難なく是正ができるが、4は、容易に是正できない重大なものである。理屈を捏ねても望む結論に繋がらないために、無法な後づけに逃げているので、「病膏肓」「最上級のダイハード」(Die Hardest)である。

 氏の不評は、道連れにされている「熊本」にも、「くまモン」にも、大いに不幸である。

                                以上

新・私の本棚 番外 伊藤 雅文 ブログ 「邪馬台国と日本書紀の界隈」補追 1/5

「倭人伝をざっくり読んでもやっぱり邪馬台国は熊本!?」 2021/06/25
私の見立て ★☆☆☆☆ 論旨瞑々、覚醒期待  初回2021/07/15 再掲 2024/06/11

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

個人ブログ批判の弁
 個人ブログの批判は、事実誤認の指摘と建設的な意見を除き、遠慮するようにしていますが、氏の場合は、単なる素人論客ではなく、既に、商用出版物*を刊行していて、いわば、業として収益を得ているので、著作に対して責任があり、読者側からの率直な批判を拒否できないと思量します。
 ちなみに、当ブログの方針は、論者の所在地比定に、一切干渉しないものなので、無理に保身しなくても問題ないのです。

 *「邪馬台国は熊本にあった!」!~「魏志倭人伝」後世改ざん説で見える邪馬台国~ (扶桑社BOOKS新書) 当ブログにて批判済み

◯ 過去多難、前途多難
 私の邪馬台国熊本説の根幹をなすのは「魏志倭人伝後世書き換え説」です。
 『邪馬台国は熊本にあった!』を書いた時には「魏志倭人伝後世改ざん説」という名称にしていましたが、どうも「改ざん」という言葉が悪意のあるものというイメージが強く、説の内容にそぐわないものに思えてきました。

 「イメージ」など意味不定なカタカナ語に逃げているが、要するに、ご自分でかってな用語をばらまいて、飛んだ恥をかいている事態を認識していないのだろう。こちらには、何を言っているのか、一向に意味が通じないのですが、同時代に「正史」の記事を改竄、別に変造~改作、すり替え、偽作と、どう言っても同じですが、要は皇帝蔵書を破壊するのは、極刑ものの大罪(一族皆殺しもの)であったから「犯意」は否定できない、と言うか、しても仕方ない、誰も弁護しないので、それで断罪のすべてです。「悪意」は、法律用語であり、人によって解釈が大きく分かれるので、まじめな。つまり、ギャグに使う以外では、避けた方が無難です。

 氏ほど堂々の確信者が、自説の「根幹」をはぐらかすのは、それ自体不誠実です。また、史学論争の基本ルールとして、「イメージ」と称して、個人的な「印象」を読者に押しつけるのはご勘弁いただきたい。氏が、陳寿の深意を解した上で築いた世界観なら、一見、一読の価値がありますが、自家製の妄想の「自分褒め」は、無意味です。論考は、認知された語彙で、論理的組み立てて、要するに「言葉」で展開いただきたい。

 そこで、YouTube動画を作成したのを機に、「書き換え説」に改めました。
 「魏志倭人伝後世書き換え説」はこのようなものです。
 不彌国から投馬国経由で邪馬台国に至る行程が、陳寿が280年代に撰述した『三国志』魏志倭人伝では具体的な里数で書かれていた。
 しかし、宋の時代、430年代に『後漢書』が登場すると、後漢書の誤認によって邪馬台国の観念的な位置が大きく南へ移動してしまった。
 そこで、その後の『三国志』写本の際に、両者の整合性をとるために、具体的な里数が抽象的な日数に書き換えられてしまった。
 その詳細な経緯は、以前に本ブログでも説明しました。

 氏自身の「根幹」表明なので、真剣な批判に値するものとして、以下、できるだけ丁寧に論じます。因みに、ご自身の主張の「根幹」を「ようなものと」は、何とも、けったいな物言いで、氏の本質的な弱点を「自画自賛」(現代用語として使いました)しているもののように見えます。

*取り敢えずの疑問点~つっこみ
1.「不彌国から投馬国経由で邪馬台国に至る行程」が書かれていたと断定するのは、あくまで、氏の創作であり、論拠が不明なので論議の対象外です。
  また、「倭人伝」記事の「本来の内容」は、誰も知らない氏の空想の産物であり、論議の第一段階として不適切極まりないのです。

2.「観念的な位置」の意味が意味不明です。笵曄「後漢書」は、史書であるから人格を持たず、従って、「誤認」、すなわち、ものごとを理解も誤解もする能力はないのです。論考を書くときには、場違いな比喩や擬人化は控えるものです。
 また、厳密に言うと、「邪馬台国」は、笵曄「後漢書」に登場するだけで、笵曄「後漢書(編者?)の創作」であるから、どこに位置させようと編者笵曄の勝手です。
 史料の時系列から言うと、笵曄「後漢書」が、先行史料を踏まえて、「其大倭王居邪馬臺國」「樂浪郡徼,去其國萬二千里」、即ち「楽浪郡の檄は、其の国、つまり、大倭王の居処である邪馬臺国を去ること万二千里」と特定したのが最初であり、陳寿「三国志」「魏志」「倭人伝」で「自郡至女王國萬二千餘里」と書いたのですから、「後漢書」から「魏志」まで、「観念的」には何も変わっていないのです。このあたり、もう少し、だけにでも理解できるような用語、表現で、「丁寧に」説明する必要があるでしょう。

                                未完

新・私の本棚 番外 伊藤 雅文 ブログ 「邪馬台国と日本書紀の界隈」補追 2/5

「倭人伝をざっくり読んでもやっぱり邪馬台国は熊本!?」 2021/06/25
私の見立て ★☆☆☆☆ 論旨瞑々、覚醒期待  初回2021/07/15 再掲 2024/06/11

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*取り敢えずの疑問点~つっこみ 承前
3.『三国志』後代写本の際に、氏の解釈する『後漢書の「創作」に合わせて三国志が「改竄」された』というのは、動機の存在しない「大罪」です。この「改竄」によって、利益を得るものがいないから、犯罪は発生しようがないのです。
 「三国志」写本の際と言っても、いつ、どこで、誰が、誰のために写本するのか、不明です。
 「両者」、「抽象的な」日程と意味不明な文字を費やす意味がわかりません。

*流通写本の対処不明
 明らかに、「改竄」計画は劉宋以降ですが、劉宋代の改竄計画を、誰が、後世王朝で実行したのでしょうか。その間、裴松之によって念入りに校正、補注された「三国志」裴注本は、着々と写本複製され世に広がっていたのです。

*実行不能な改竄使命
 時の皇帝の蔵書である「三国志」同時代原本は、天下に一冊しかない貴重書であるから、厳重保管されていて、通りがかりに改竄することなどできません。
 氏は、「そこから写本を起こす際に、改竄、つまり、すり替えを行った」と言うつもりらしいのですが、同時代の「学者」から慎重に人選された関係者が分担して行う大事業に介入して史料をすり替えることなど不可能です。

*露見必至/斬首必至
 よしんば、何かの曲芸で改竄写本を作成しても、官制写本の全文校閲で露見するのです。よしんば、権威者の校閲の目を逃れ、つまり、校閲に手落ちがあって、原本と明らかに異なる改竄写本が世に出ても、原本は健在であり、次回写本時には、本来の記事が世に出ます。
 また、改竄写本が世に出れば、当然、当時、南北両朝各地で、「改竄」前写本と照合されるので、悪は露見するのです。

*族滅不可避の大罪
 とことん遅くとも、この時点で前回写本時のすり替えが露呈し記録されている関係者一同が尋問に曝され、程なく「犯人」が特定、処刑され、親族は連坐して族滅され、家系は断絶し、改竄写本に由来する三国志は、残らず廃棄されます。

*意味不明の大罪
 総じて言うと、そのような改竄は、不可避的に是正され無意味です。中国古代国家の「法と秩序」を侮ってはならないのです。

*証拠提示の義務
 視点を変えて、学問上の論証の常識として、原本改竄というとびきりの異常事態が行われたと主張するなら、いつ、どのようにして発生したか論証する必要があります。それがなければ、ただの「ごみ」新説でゴミ箱直行です。せめて、当時こうすれば実現可能だったとの「おとぎ話」が必要です。

*史官の使命~史書の継承
 この件で、実際に肝心なのは、史官の立場を取る関係者は、資料を漏らさず追求して史書記事を書き上げるのが命がけの責務であり、噂話や勝手な造作で、本来の記事を書き換えることは、一切ないのです。
 いずれの時代も、真摯な史官は、最善を尽くして、時に身命を賭して執務したのであり、二千年後生の無教養な東夷が、現代人の死生観や倫理観を押しつけてはならないのです。

                                未完

新・私の本棚 番外 伊藤 雅文 ブログ 「邪馬台国と日本書紀の界隈」補追 3/5

「倭人伝をざっくり読んでもやっぱり邪馬台国は熊本!?」 2021/06/25
私の見立て ★☆☆☆☆ 論旨瞑々、覚醒期待  初回2021/07/15 再掲 2024/06/11

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*迷走ふたたび~泥沼の称揚
中略 倭人伝の原史料は、魏の使い、帯方郡使の報告書だという説が有力です。具体的には240年に来倭した梯儁の一行が想定できますが、その報告書に倭人伝が引用した行程記事などが書かれていたと考えて考察をスタートします。

 考察の前段となる「仮定」は、どのようにも勝手に設定でき、他人からの批判を排除できると思っている論者もいますが、肝心なのは、合理的な仮定であることを確認、検証したことが必要です。なぜなら、後方で考察の根幹を覆され、議論の全体が、一切灰燼に帰するのでは批判が徒労に陥るのです。
 ここで言うと、倭人伝の「行程道里記事」が、魏使の報告書の内容を元にしているという仮説は、誰にも全否定できない仮説ですが、どの部分がどうかという史料批判無しに採用できない、思い付きに過ぎません古代史分野に漂う、掟のない泥沼に染まらないことを祈ります。

*不可解な「前提」
 前提条件は2つです。
〈前提1〉帯方郡使は方角を間違えない
 これは古代中国の天文学の知識があれば、まず間違えることはなかったと思います。[中略]

 この「前提条件」と勿体ぶって言う第一の「思い付き」が主旨不明です。「古代中国の天文学の知識」などと、気休めのおぞましい「おまじない」を唱えなくても、小中学生程度の簡単な理科知識があれば、南北、東西の方位は、容易にわかるのです。

*子供の世界
 要は、広場に棒を一本立てて、棒の影の推移を見ていれば、影の一番短くなったときの太陽の方位が、真南であり、その時の影の方位が真北です。見つかった南北線に、コンパス代わりの縄と棒で垂線を立てれば東西です。「天文学」や「幾何学」は、不要です。東西南北が明確なら精度などいらないのです。
 単純明快ですから、夷蕃も東西南北は、遥か昔から知っていてあちこちに表示されたのです。帯方郡も洛陽も関係無いのです。漢字も数字も要りません。確か、縄文遺跡にも、日時計はあったはずです。

 いや、これほど単純明快な事項が語られないのは、「日本自大主義」古代史分野の独自事情を思わせるのです。この成り行きは、氏の責任ではないのですが、くれぐれも、とまる木、依拠「説」を間違えないでほしいものです。

 これと関連して、当時の帯方郡使や魏の人は、そもそも倭地を南に長く延びた土地だと認識していたという説もあり[中略]畿内説の根拠ともされます。

 氏の読解力限界で誤解されていますが、倭人伝のキモは、「倭人は帯方東南に在り」と明記された世界観です。現代人の勝手な思い付き、実質的な史料改竄は相手にしないことです。まして、酔余でもないでしょうか、子供じみた思い付きを「根拠」とする学説は、いくら、権威めいた魔法の外套をかむっても、内実は児戯に等しいのです。
 どれほど「遠い」か、「長い」かの混乱は、畿内「説」が創作したのですが、このような不合理な改竄を唱える動機は、常人の理解を超えているのです。何しろ、九州島自体、東西より南北が「長い」のですから、このような畿内「説」説話は、世人を愚弄していることになります。

*畿内説の推す使命感
 「畿内説」なる俗説派が、遮二無二推し進めている道里行程事解釈は、
1  「倭人伝」には、「邪馬台国」とその所在が書かれている。
2  「邪馬台国」は、「ヤマト」、つまり、後のヤマトに違いない。
と言う二段階の子供じみた、つまり、論拠の無い「思い込み」(の蔓延、拡散)です

                                未完


新・私の本棚 番外 伊藤 雅文 ブログ 「邪馬台国と日本書紀の界隈」補追 4/5

「倭人伝をざっくり読んでもやっぱり邪馬台国は熊本!?」 2021/06/25
私の見立て ★☆☆☆☆ 論旨瞑々、覚醒期待  初回2021/07/15 再掲 2024/06/11

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*「畿内説」と言う名の巨大な俗説の泥沼戦術
 つまり、氏は、『「倭人伝」方位が間違いと主張「しなければならない」』と、崇高な使命感の命じるままに論議しているのであり、氏の理解は本末転倒で、他にも、誤記、誤解の類いが山積し、順当な史料解釈が成立しない泥沼の惨状です。
 太古以来、中国文明が至上の課題として守ってきた、歴史記録の厳正さを、真っ向から踏みにじりますが、倭人伝と「俗説」の比較なのでしょうか。
 古来、「自大」観と言われる「思い込み」が、徘徊しているのです。亡霊でなく「生き霊」なる「妖怪」に、氏も取り憑かれているのでしょうか。

*俗説支援の徒労
 しかし、これもありえない話だと思います。
 梯儁たちは[中略]、邪馬台国まで足を運んだのは明らかです。[中略]梯儁たちが本当に東へ向かって水行陸行したのであれば、報告書に「東」と書くはずです。[中略]九州北岸から南へ水行陸行したのだと思います。

 この思い付きは、史料解釈を離れた思い込みと決め込みの連鎖で、なにも論証できていないのです。

*戸数の幻影
〈前提2〉虚偽の戸数は記さない
 魏志倭人伝は、行程記事とともに経由国の戸数を記しています。対馬国から邪馬台国まで、合計で15万余戸となっています。

1.氏の道里行程記事の解釈には、思い込みから来る誤解が散在、いや山積しています。
 對海~倭の諸国で、奴国、不弥国、投馬国を経由国と決め込み、それ故それら戸数が記録されているとするのは、改竄前「記事」が迷走しているのでしょうか。それなら、奴国、不弥国、投馬国の国情が書かれているはずだし、里数も必要ですから、必要/必須な記事が脱落しているのは、主行路の経由国でなく、ついでに書いた傍路ということです。
 普通に読むと、そのように明解なのですが、なぜ、無理矢理、投馬国経由と言い立てるのでしょうか。俗説「畿内説」は、投馬国経由としないと、議論から排除されるので、石に齧り付いてでも、そのように強弁するのですが、そのような「余傍」無視の投馬国経由論は、「熊本」説には、邪魔でしかないように見えるのです。よくよく考え直した方が良いように見えます。

2.最終目的地である女王居所、居城の戸数が七、八万戸と書かれているというのは、「倭人伝」の本旨に沿わない思い付きに過ぎないのです。
 要するに、「倭人伝」に必須である倭の全戸数は「十五万戸とは書かれていない」のです。それとも、皇帝は、足し算計算を迫られたのでしょうか。書いていないことを論義するのは、空論の端緒としても、お粗末です。
 そもそも、倭人伝冒頭で、「倭人」は、太古の「國邑」であり、せいぜい数千戸台の隔壁集落であると、総括して見通しを付けているのに、女王の居処が、伊都国を遙かに超えた巨大な集落国家としているとしたら、それは、冒頭の総括を裏切るものであり、読者を騙したことになるのです。皇帝が魏志を投げ返さずに、嘉納したからには、そのような「だまし討ち」はなかったと言う事です。
 もちろん、ここで決定づけているのは、道里行程記事の結句までのことであり、倭国の法制、風土、民俗、王の居処概説などの部分まで、ひっくるめて言うものではありません。
 いずれにしろ、氏の論義は、「北九州に、十五万戸の国家は存在し得ない」との「畿内説」論者の強引な提言に無批判に追従しているように見えます。普通の解釈は、そのような読替えを不合理と否定するもののように思うのです。『帰謬法』です。
 そこまで言わなくても、全戸数の過半数を占める巨大な投馬国の所在が不明、戸数も、あやふやというのは、筋が通らないのですが、余傍遠隔の蕃夷で調べが行き届いていないとひっそりと説明されていて、いわば、風評が報告されてしまって、訂正の効かない「屑情報」と示唆しているわけですから、全行程一万二千里の「屑情報」とともに、正史の陰に静かに成仏させるべきなのです。

*無意味な外部資料導入~俗説派の悪足掻きに追随
[中略]弥生時代の日本[ママ]の人口[ママ]についてはまだ流動的[ママ]なようですが、歴史人口学[ママ]の鬼頭宏氏の研究では59万人という数字[ママ]が示されています。その半数が30国の連合体である女王国[ママ]にいて、さらにその半数が対馬国から邪馬台国までの9か国にいた[ママ]としても、約15万人[ママ]にしかなりません。しかし、一方で倭人伝の原史料が梯儁らの報告書だとすると、彼らが虚偽の報告をしたとは考えられないのです。

 勝手に、氏の内面世界の表明ですが、時代、地域の隔たった別世界の言葉と概念が、三世紀史料の解析にドンと投入されて、眩暈しそうです。その果てに、「流動的」「人口」なる異世界の概念を読者押しつけて、さらに、誰も見たことのない魏使の「報告」を想定し、その果てに、魏使が、戸数を捏造したとか云々するのは、「捏造」を越えて「冤罪」としか言いようがありません。
 鬼頭宏氏がどのような研究の果てに、引用されているような「数字」を案出されたか不明ですから、氏に対する批判は不可能です。引用者に批判をぶつけるしかないのです。

 丁寧に説明すると、まずは、「日本」が成立する数世紀以前で、文字史料の一切存在しない三世紀当時の「日本」は、どこがどうなっていたのか、全く不明ですから、誰も考察しようがないのです。
 また、「人口」が、どんな対象を言うのか不明ですから、論じようがないのです。現代で云う「人口」は、戸籍に登記されている国民の数ですから、根拠は明らかですが、三世紀当時には、戸籍が無かったのは明らかですから、数えようがないのです。現代であれば、出世届で新生児の戸籍が「必ず」作成されるので、緻密に数えようがあるのですが、くり返して云うと、当時にそのような戸籍制度はないので、数えようがありません。
 子供時代に死んでしまうことが多いので、新生児の平均余命として「平均寿命」を推定するのも、不可能であり、無意味です。意味があるとしたら、耕作に動員できる成人男子の人数であり、それは、軍務に動員可能な人数として計算できるので、「口数」として意義が認められるのですが、三世紀当時、各戸の所帯構成は不明ですから、戸数がわかっても、口数は推定しようがないのです。
 確かに、帯方郡、楽浪郡については、「戸数」「口数」の記録が残っているので、一戸あたりの「口数」を計算できますが、「倭人」の所帯は、大家に於いては、複数の妻を擁していた、下戸でも、中には、複数の妻を擁しているものがいると書かれているだけであり、明らかに、帯方郡管内とも、核家族が前提である中国本土とも、家族構成が異なるので、何の参考にもならないとみるべきです。

 各戸は、耕作地の割り当てを受けて、農事に勤(いそ)しみ、収穫物を貢納する前提ですが、「倭人」は、牛馬を使役しないので、全て、人力となるから、素各戸の耕作可能な土地面積がどのように設定されているか不明です。何しろ、大家族なので、夫婦二人と子供数人分の土地では、収穫不足で、飢え死にしかねないのです。まして、遠隔疎遠で実情不明の投馬国では、どのように戸籍が設定されているか、まったく不明なのです。それで、「五万戸」とは、どうやって記帳して集計しているのでしょうか。信用できないというものではないでしょうか。

 一方、対海国から伊都国にいたる行程諸国「四ヵ国」は、明らかに、戸籍が記帳されていて、帯方郡に報告されているので、家族制度も、同等かとも思えます。とは言え、全国七万戸の一部に過ぎないので、中々参考にならないのです。

 鬼頭宏氏は、恐らく、後生の律令制度時代の「戸籍」資料から推計しているのでしょうが、確か、成人男子、女子に対して、規定の農地を口分田として支給していたはずであり、当然、夫婦としての口分田面積が算定されているのでしょうが、それは、「四ヵ国」の各戸の農地面積と比較して多いのでしょうか、少ないのでしょうか。三世紀に、帯方郡から通達され、一大率が徹底していた土地制度が、なぜ、「日本」に継承されていないのかも不審です。要するに、あきらかに、後世「日本」の戸籍から推計される「人口」に対して土地制度も家族制度も異なるのに、倭人伝に引用された「戸数」から倭人諸国の「人口」を類推するのは、非科学的なのですが、鬼頭宏氏は、どのように考証されているのでしょうか。

 いずれにしろ、ここで論義しているのは、捉えようのない現代風の「人口」でなく、古代の統治に不可欠な「戸数」なので、議論の風向きを変える必要があります。

 「倭人伝」が依拠していると見える中国制度では、「戸」は、地域支配者が、各戸に耕作地を割り当て、耕作と収穫物納税の義務を与える制度に組み込んだというものであり、具体的には、「戸籍」と土地台帳によって、精度の高い管理を行ったものです。つまり、戸籍台帳、土地台帳は、帳簿であって、当時/当地域としては、高度な制度なので、蛮夷の世界では、整っていない方が普通だったのです。
 韓国諸国は、古来、中国式の管理制度が整備されていた先進地域なので、戸籍台帳が完備していて、「戸数」集計だけでなく、「口数」、つまり、成人男性の人数を、一の位まで計算することが可能であったので、提出される概数は、実数を丸めたものと理解できるのです。
 これに対して、戸籍の整備されていない蛮夷では、大抵、実数が不明なので、首長が自主的に申告したものです。つまり、「戸数」は、主要国を除き、実数をもとにしていないので、誠に、誠にいい加減なのです。まして、加算計算すらまともにできなかった世界ですから、万戸の数字は、全く、当てにならないのです。
 冷静に見ればわかるように、ある程度根拠があると見られる主要国の千戸単位の戸数と、根拠不明の万戸単位の大きな国の戸数を、同列に扱うのは、無謀と言うべきであって、「流動的」などと自嘲して済むものではないのです。要するに、わからないことはわからないと言うべきです。それが、科学的な思考です。
 鬼頭宏氏の推定は、後世、恐らく律令時代に、管内全国で、戸籍を作成し維持していた時代の情報をもとにしているのであり、三世紀の戸数の推定に参照するのは、無謀の極みというものです。
 因みに、「考えられない」のは、伊藤氏が、三世紀人でなく魏使でもないことを考えれば、理屈になりません。また、報告を「虚偽」と言うのは、正確な戸数統計が存在したとの仮定に基づいているので、これも思い付きに過ぎません。現代的な概念を、無造作に二千年の過去に投影するのは、無謀です。
 なぜ、このように書いたか、もう少し、三世紀人の視点に歩み寄って、倭人伝の真意を詮索すべきでしょう。いや、「日本」古代国家観に芯まで染まった俗説派の方は、聞く耳を持たないでしょうが。

 全面的に伊藤氏の責任では無いとは言え、何も論証できない、思い付きの羅列は、無批判に追随していく「氏の非論理性」を示すに過ぎません。

 と言って、次のような独創的な「国見」談義は、根拠の無い、場違いな時代錯誤の空想に過ぎません。「戸数」論議の出だしを誤ったツケが、とんでもない辻褄合わせに繋がっているのは、残念です

[中略]おそらく調査隊は山上の見晴らし台のようなところから目視で戸数を調べたと思います。そして、彼らが虚偽の報告をするとは考えられません。正しい数字を報告するのが彼らの使命だからです。[中略]

 因みに、正しい「戸数」は、民家の数を数えて済むものではなく、地域首長が作成した戸籍/土地台帳の集計で得るしかないのですが、それにしても、それは、首長が、服従の証しとして申告/誓約するものであり、それが「公式戸数」であって、虚偽も何もなく、逆に「正しい数字」は、存在しないです。氏は、何か、途方も無い幻想にひたっているようですが、所詮、時代錯誤の妄想に類するものです。
 真面目な話、三世紀の東夷の世界で、地域を見渡す「山上の見晴らし台」など、あるはずがないのです。目視で戸数を調べる技法は、どこにも書かれていません。まさしく、見てきたような、なんとやらです。生玉子は、飛んでこないのでしょうか。

 ついでながら、「倭人伝」記事が、「帯方郡使梯儁一行の訪倭の際の現地取材の結果」とするのは、何かの勘違いでしょう。
 「郡から倭までの行程道里」、つまり「郡倭道里」は、後漢献帝の建安年間に、公孫氏が遼東郡を占拠した際に、楽浪郡から上申されたものであり、総戸数も、同時に申告されたのに間違いはないところです。但し、時は、後漢末期の乱世なので、倭人の実体の速報は公孫氏止まりだったのです。
 曹魏景初年間早々に明帝が勅命を発して、樂浪、帯方両郡を、公孫氏の配下から切り離して直命とし、帯方郡からの報告により「倭人」を知ったことから、明帝が、新任郡太守に対して、「倭人」の疾駆、参上を厳命したものですから、帯方郡は、倭人が「郡倭道里」万二千里の彼方でなく、韓国の南に渡海した近場であり、精々四十日程度で連絡できると報告したものですから、明帝の予めの指示の通り、上洛に対して、所定の大量の下賜物を仮受するという判断が下されたのです。
 もっとも、その時点で、「倭人」招請を厳命した皇帝曹叡は逝去していて、明帝と諡されていたのであり、明帝は、存命中についに真相を知ることができなかったのです。そして、明帝が生前に、配下の官吏に対して、万二千里彼方の「倭人」にかくかくの礼物を下賜せよと指示したので、皇帝亡き後も、遺命として達成されたのです。もちろん、倭人伝に収録された明帝の帝詔は、直筆ではないので、倭大夫難升米が手にしたのは、帝詔の写しと礼物の目録だったのです。

 つまり、帯方郡使梯儁一行は、時が熟したのち、山島半島東莱から渡船でとどいた下賜物を携えて、四十日程度の想定で街道を南下する旅に出る事ができたのです。当然、道中の諸国からは、ご一行の受入体制ができていると確認連絡が届いていたのです。現地に着いてから、便船を手配したり、一行の食い扶持とねぐらを手配したり、うろうろと市場調査したりしたら、日が暮れるというか年が暮れてしまい、一行は、異境の土に帰っていたでしょう。伊都国で留まり、伊都国王が、女王の名代として、礼物と帝詔を受け取ったのです。(女王之居処が、遥か彼方の場合にも、使節の任務は、伊都国で達成されるという「救済策」です)

 よく考えて見れば、誰でも、実務の手際は納得できるものと思います。但し、それでは、一行は、九州島を出ることが出来ないので、懸命に、原文を改竄して、行程の実体不明とする戦術が横行しているのです。少し考えればわかるように、大量で高貴な下賜物を送り届ける旅程は、雒陽出発以前に、一点の疑問もなく解明されていたと見るべきです。

 ちなみに、曹魏明帝は、景初三年元旦に急逝したので、上洛した倭使と会見できたかどうか不明であり、まして、「郡倭道里」が、公孫氏が記帳した万二千里ではないことを知ったかどうかは、実のところ不明です。いずれにしろ、天子として「郡倭道里」万二千里との報告を確認したと公文書に記録されたので、以後、綸言訂正はできなかったのです。
 魏志を編纂した陳寿は、史実、つまり、公文書記録を記録する使命に殉じていたので、「郡倭道里」万二千里を確認しつつ、実際に所要日数「水行十日陸行一月」を明記するという難業に挑んだのです。
 
*講釈師ばりの名調子
 引用漏れになった「攻撃」云々は「古田武彦風」ですが、帯方郡が、服属した倭に対して郡に出兵を命じても、まずは、狗邪韓国までが十日かかりそうな三度の乗り換え渡海であり、十六人程度の手漕ぎ船で載せることができるのは、精々一船数名程度(荷物持参)であり、大軍派兵は、無理で問題外です。
 なにしろ、当ブログの解釈に従っても、郡の出兵命令が倭に着くのに水陸行で四十日、郡に回答が着くのは折り返し四十日ですから、それだけで八十日かかり、渡船の容量を超えた大軍の「水行」は、海峡渡海の順番待ちの厖大な日数を要するのに加えて、そもそも、倭が派兵に要する軍兵呼集、全軍整列、装備糧食支給を考えると、全軍が、帯方郡太守に伺候するのに半年かかっても無理はありません。何しろ、戸数記事はあっても、各戸一名の兵を出せたかどうか不明であり、倭人に、即応可能な常備軍があったとの記事はないのです。
 まして、郡が韓国の叛乱平定に、倭人の援兵を求めるとしても、途上が反乱諸国では、援兵の出しようがありません。古田氏が時に陥る的外れな提言ですが、別に、氏の提言の根幹を成しているものではないので、笑って見過ごすべきものです。「よい子は、真似しないように」ご注意頂きたいものです。
 自由な発想はそれ自体結構ですが、裏付けの取れない発想/思いつきの「新説」は、タダの夢物語に過ぎないのです。
 要するに、倭人各国の戸数申告は、郡の威光を示す名目に過ぎないと思われます。

                                未完

新・私の本棚 番外 伊藤 雅文 ブログ 「邪馬台国と日本書紀の界隈」補追 5/5

「倭人伝をざっくり読んでもやっぱり邪馬台国は熊本!?」 2021/06/25
私の見立て ★☆☆☆☆ 論旨瞑々、覚醒期待  初回2021/07/15 再掲 2024/06/11

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*倭人伝記事要件と由来
 いろいろ長談義になったので、ここに手短に復習すると、魏志で、倭人伝にまず要求されるのは、蕃国の徴税や徴兵の根拠となる「全戸数」明記であり、新参蕃夷の服属を申告の際に、「全戸数」を皇帝に報告したと見るものです。行程道里である「従郡至倭」万二千里がこれに継ぐものであり、国別戸数は雑記事に過ぎないので、後日でも良いのです。また、全行程日数(都水行十日陸行一月、都合四十日) は、実務の視点から追記されたものですが、既に皇帝が承認した全行程万二千里は、改竄、是正ができなかったものと見えます。意味が、わからなければ、沈黙して頂きたいものです。
 最初に全戸数と所要全日数を申告したうえで、使節が派遣がされたとみるべきです。因みに、未開で文字を知らず、大多数が十を越える数、ひょっとしたら、四を超える数を数えられない、百千を超える桁の加算計算もまともにできない非文明国の戸数の実数集計など、その場ではできないのです。
 因みに、これは、概算推計であって虚偽ではありません。実数不明では、改竄しようはないのです。投馬国戸数は、「可」ですから、五万戸と称しても、万戸単位すら不確かです。

*戸数論の不明
 氏は、以下、三世紀倭に存在しないデータの解釈で、夢物語を展開しますが、「根幹」に大きな誤りがあっては、結論が合理的かどうか評価できないのです。いや、以上は、世上の俗説であり、氏の創案ではないのですが、麗々しく思い付きを上梓するなら俗説の無批判な追随はご勘弁いただきたいものです。

*こじつけの結論に到着
[中略]このように、ざっくりと倭人伝の方角と国の規模を考えたとしても、
奴国=福岡平野 投馬国=筑紫平野 邪馬台国=熊本平野
 つまり、邪馬台国は熊本にあったとしか考えられないと思っています。

 氏も自覚されているように、最終的に位置比定してみると、方角も、里数も、日数も、戸数も、まことに大雑把な推定なので改竄など一切不要です。「倭人伝」解釈に、二千年後生の東夷の半人前の思い付きを持ち込む「不退転の覚悟」で取り組んでいるのなら、実行不可能な史書改竄など唱えなくても、「熊本」説は、難なく提唱できるでしょう。
 何しろ、郡使の終着地は伊都国で、女王の居処である「邪馬壹国」への道里は、「軍事機密」でも無いでしょうが、伏せられているので、そこが、熊本付近であって、数日を要したとしても、「倭人伝」と齟齬を来すわけではないのです。いや、もっと言うなら、伊都国から邪馬壹国まで、一年かかるとしても、それ自体は、「倭人伝」と齟齬を来すわけではないのです。ちゃんと、逃げ道は遺されているのです。

 伊藤氏は、唯一資料たる「倭人伝」の記事改竄により論争上の「禁句」、「禁じ手」を解放したので、毒をくらわばなんとやら、原文を好きなように想定すれば良く、なぜ、ちまちました改竄を言い立てるのか不思議です。
 「しか考えられない」と言うのは個人信条なので、なんなとご自由にと言うところですが、知識不足で信条堅固を言うのに、どんな意義があるのか不明です。ざっくり」が、史料解釈無視、言いたい放題、書きたい放題という意味としたら、ここでは批判できないのですが。

◯地図の「だまし絵」
 因みに、当時の地形である海岸線、川筋などが、ここに表示した「改竄地形」通りとの保証は一切ないのです。「原図」をどの条件で使用許諾されたか不明ですが、あくまで許諾されたのは、現代地形データとしての利用であり、三世紀の地形論に利用することは、保証どころか許諾もされていないはずです。まして、勝手な改竄は論外、違法利用の筈です。つまり、資料偽造になります。
 また、単に、細かい字で、『地図は、地図でなく、漠然たる「イメージ」であって、「実際の地形と関係ありません」』と断りするとしても、読者が古代実図と錯覚するのは間違いありません。食品表示にならうなら「イメージ」には、「あくまで参考であり、実際とは違います」の明確な但し書きが必須と思います。あわせてご自愛頂きたい。

 氏のお絵かき図形も、当時存在しなかったから、全体として、これは、氏の書いた戯画に過ぎず、倭人伝記事の解釈論議、つまり、誰もが同一の史実と解釈して論議する場に通用しないのは明らかです。古来、個人によって解釈が大きく異なる図形情報は、論理に採用されず、全て、言葉によって定義され、論じられていたのですから、戯画の安直な利用は、いい加減に脱却すべきです。つまり、現代に公知の解釈によって現代知識人を説得するのに限定されるべきです。
 世上には、古代史論に場違いな精密地図を掲載している事例は少なからずあるのを見聞きしているので、氏も、そうした悪習に無批判に追従したかも知れませんが、「ペテンをそれと知らずに真似しても同罪」と言われるだけです。特に、商用出版物に利用するには、勝手な解釈は許されないと感じます。

 以上、率直に難点を指摘したので、再考いただければ幸いです。

                                以上

2024年6月 8日 (土)

新・私の本棚 番外 NHKスペシャル よみがえる邪馬台国 全三回 1/5 再掲

 番組放送年 1989年 NHKオンデマンドサービス(有料)で視聴可能
 私の見立て★★★★☆ 必見    2019/01/13   補充 2020/03/11 2024/06/07

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

番組概要

主な出演者 森本哲郎、山田亜樹、高島忠平
番組詳細 吉野ヶ里遺跡の墳丘墓から権力者を埋葬したカメ棺が見つかり、その中から王権の象徴ともいえる銅剣や管玉などが出土した。美しい装飾が施された銅剣や当時の東アジアでは最高級のガラス製の管玉である。これらの出土品の持ち主は誰だったのか。はたして、どこからもたらされたものなのか。専門家たちが銅剣や管玉の成分を分析したり、当時と同じ製法で復元を試みたり、科学的に検証しながら出土品のルーツを探る。
語り:葛西聖司    この動画・静止画の番組放送年 1989年


よみがえる邪馬台国
第一回 発掘・吉野ヶ里遺跡
第二回 追跡・倭国の大乱
第三回 検証・女王卑弥呼の都


□総評~殿堂入りの傑作

 取り敢えず、全体を流し見した感じですが、古代史専門家が、物だけでなく、遺跡の全貌をもとに豊富な知識と見識を語っていて、大変貴重です。
 以下、当世番組を批判していますが、要するに、今回紹介する35年前の古典・名番組と比較して、ずいぶん劣化していることを批判しているのであって、当番組を批判しているのではないのです。

*失われた高い品格~私見
 別項で、近年の番組を批判しましたが、部外者が聞きかじりで、先人の考察を無視して、好き勝手に論じるのが大変不愉快で、当方には当番組の誠実さがありがたいのです。
 最近のNHK番組は俗受け狙いで、古代史屋さんや古代史ファンの素人をかり集め、現代言葉でコメントするバラエティー番組化し、誤解を拡大再生産していると見えます。
 ここで見識を披瀝した諸兄の業績は残っていると思われますが、古代史分野では先人の成果を継承しないのでしょうか。

 番組紹介もすでに現代化していて、「当時の東アジアでは最高級」と吹いています。当時「東アジア」などないし、ない世界のすべての品物を比較してこれが最高級と知りうるはずがないのです。この言葉は、当時の人の想いを知ろうとしない現代人の自己満足です。

*大衆迎合の是非~私見
 大衆迎合は、それ自体悪くないのですが、勿体ぶった言葉へのすり替えで古代を見る目をゆがめさせてはならない」と思うのです。
 古代史番組は、現代人が古代人に学ぶものであり、勝手に現代人の浅知恵をぶちまけるべきではないでしょう。何しろ、相手には一切聞こえないのですから。いや、これは、三十年後の番組制作姿勢への批判です。

総評
 肝心の番組内容ですが、昭和末期、平成初頭の番組であり、今日のように、低コストで手軽なドローン空撮でなく、ヘリ、ないしは、軽量飛行機でしょうが、発掘間もない吉野ヶ里遺跡の全景をたっぷり拝見できるのは貴重です。

 また、各種遺物は、堅実な考古学知見で考察されています。

                               総評完

新・私の本棚 番外 NHKスペシャル よみがえる邪馬台国 全三回 2/5 再掲

 番組放送年 1989年 NHKオンデマンドサービス(有料)で視聴可能
 私の見立て★★★★☆ 必見    2019/01/13   補充 2020/03/11 2024/06/07

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

よみがえる邪馬台国 第一回 発掘・吉野ヶ里遺跡
*「吉野ヶ里」遺跡概観

 遺跡整備される前の現地の様子が空から確認でき、発掘現場の生の声が聞けるのはありがたいのです。

*偶然の賜物
 安本美典氏によれば、佐賀県が当地域に工業団地を造成する際に、山麓は遺跡を包含している可能性が高いので、遺跡のないと思われる地帯を発掘調査したら、予想に反して二十五㌶に及ぶ大遺跡が出現して、関係者は大パニックに陥った。とのことです。して見ると、今後とも、遺跡有望地帯に発掘の手が伸びることは、一切ないのでしょうか。

*虚心の徳
 全体に、当遺跡関係者は、先入観なしに虚心に発掘した様子が窺えて好感が持てるのです。
 遺物の究明に際して、謙虚に諸機関、企業の協力を仰いでいるのも、当然とは言え、見事に思えます。案ずるに、高島忠平氏を初めとする発掘関係者諸兄が、「何かを掘り出して見せないとダメだ」というような余計な切迫感をもっていなかったためと思われます。
 奇跡は、不意に訪れるものです。

*物資渡海
 ちなみに、出土した貴重な三物資のうち、銅剣が、半島西部の後の百濟相当地域の南部、今日の忠清南道(略称 忠南)から到来したとは自然な見解ですが、それと別に長江(揚子江)河口近くから到来した鉄や長沙から到来したガラスの到来ルートが、北に渤海を大きく迂回した陸上ルートで図示されているのは残念です。当然、山東半島(莱州)から、身軽な渡船で目前の忠南に着いたと見るべきでしょう。このあたりの誤解は、後世まで頑固に引き継がれていて、諸考察を謬らせているのが、残念です。

 九州と忠南は、多少日数はかかっても、直接、つまり、楽浪/帯方郡を介することなく交信・往来ができたでしょうから、銅剣産地から南方の鉄やガラスも共に手に入れたと見れば、三者三様の交易ルートを探す必要がなくなります。
 吉野ヶ里住民が、万里の異郷と交流、交易する必要はないので、巨大商社の幻像を見る必要がなくなります。

 ちなみに、三物資の到来は、おそらく、忠南から東に竹嶺で山地越えしてから洛東江沿いに南下して半島南岸に達し、半島南岸、対馬、壱岐、九州の三区間をそれぞれ渡海する便船で南下したのでしょう。
 それなら、『極めつきの難所であって一貫航行など「はなから不可能」である半島西岸、南岸の多島海』を通らなくてよいので大変安全・確実なのです

 そのような交易路が想定できるので大変ありがたい絵解きでした。後に、弁辰産鉄の楽浪郡納入や弁辰からの文書通信のために、駅逓を備えた帯方郡官道が成立したと見ることができるのです。

*現地現場は宝の山
 と言うことで、この回の教訓は、現場に近いところには、宝物が転がっているという事です。本物の現場には、もっと沢山あったかも知れませんが、大抵、細かい、ささやかなものは押し入れの奥に引っ込んでいるのです。

 言うまでもないですが、この当時、大陸産物は道の果ての吉野ヶ里に集まり、東方には時間をかけて交易の鎖を順次渡って、年月をかけて滲出するので、この時代、各地に同等の豊かさはなかったでしょう。

*山一の道~私見
 当ブログでは、北九州から東方には、南下した日田から東に大分の海岸に出て、そこから、軽快な渡船で渡れる三崎半島を経由する経路を提唱していて、以下、伊豫の山を一路走っている中央構造線に導かれて、大鳴門の海岸に出る完全陸上経路を想定しているのです。
 よくいわれる、瀬戸内海東西航行の難所克服は関係無いのです。特に、関門海峡を通らないのは、当時、堅固な木造船が存在しなかったから、通行できなかったというものであり、大鳴門まで出ると、喧伝される明石海峡、鳴門海峡の難所を回避しているので、三世紀、ないしは、それ以前の交通路として、特に論証の必要のない、安全・確実な経路と見ているのです。

                            この回完

新・私の本棚 番外 NHKスペシャル よみがえる邪馬台国 全三回 3/5 再掲

 番組放送年 1989年 NHKオンデマンドサービス(有料)で視聴可能
 私の見立て★★★★☆ 必見    2019/01/13   補充 2020/03/11 2024/06/07

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

よみがえる邪馬台国 第二回 追跡・倭国の大乱
*冗談半分
 この回は、仰々しく二千年の眠りから覚めた吉野ヶ里王国、などと、前振りをして開始します。NHKらしからぬ空騒ぎです。
 「倭」「國」「大」「亂」の屏風を背景に議論されますが、当時は慎重で、「倭人伝」に「倭國大亂」と書いてあったなどとは言いません。典拠は「中国史料」と言いよどんでいますが、「倭人伝」は、ほぼ唯一の資料としたから、よくよく聞けば、正確な発言になっています。但し、典拠が笵曄「後漢書」東夷列伝倭条と言わないのは、天下の公共放送の教養番組としては、不出来です。
 当時との見解として、鉄鏃の戦闘時の優位点は、限定的であり、とても決定的でなかったという所に落ち着いて冷静です。

◯不毛な人口論/建設的な異論~私見
 番組中で、興味深いのは、こうした「天下大乱」を左右したのは、それぞれの勢力の人口だったとする判断です。ちと、安直ではないでしょうか。
 似た発言として、最近の新聞報道で蔓延る(はびこる)、スポーツの勝負は体格、体力(フィジカル要因)で決まるとする不気味な風潮があります。体格、体力の数値は、計量可能というものの、短期間の努力で強化できるのは、筋力、そして、それを支える呼吸器、循環器なので、下馬評で叩かれてもどうしようもないのです。スポーツには、体格、筋力で勝負がつくものもあるでしょうが、それなら、身体検査でメダルを決めれば良いのです。大抵のスポーツは、技術、戦略、そして、気力まで含めて競われているのです。いや、単なる例え話ですが。

 余談はさておき、当番組は、推定した勢力範囲内の推定した「人口」を、あたかも確定したもののように図示して勝敗を決めつけていますが、余りに軽薄です。往々にして、歴史上の敗者は、自滅した例が多いのです。
 憶測でしかない、浅薄な数値データを安直に採り入れるのは、子供じみていて、感心しないのです。

*倭人伝の精確さ-精確な検証

 ちなみに、三世紀当時、「倭人」世界で、当てになりそうなのは、對海國、一大国、末盧国、伊都国の行程上の四ヵ国の「戸数」であり、他に書かれている奴国、投馬国の「戸数」は、数万戸という途方もない数字である上に、この二国は、行程外の遠隔地で事情が不明なので、当てにならないと明記されているので、全国七万「戸」は、何とも、参考にならないのです。
 その上、四ヵ国の戸数は、あくまで、各戸に所定の耕作地を割り当てるという中國土地制度のものであり、後世日本国内で施行されていた「成人男子、女子、それぞれに口分田を与える」と言う制度ではないので、これまた、参考にならないのです。

 ちなみに、帯方郡に対して「戸数」を申告するという事は、各戸から徴税して帯方郡に上納することを想定しているものであり、倭人には通貨制度がないので、それは、言わば七万戸相当の「米俵」の山を納入することを示しています。そのような大量の積み荷を、海峡を越えて、狗邪韓国の海岸に届けることなど不可能ですが、先ずは、輸送可能と言われかねない行程四ヵ国の戸数を、各国戸籍に基づいて申告し、さらに、對海國、一大国は、痩せた田地しかなく、他国の支援で餓死を免れているという泣き言で、免税を勝ちとっていたものと見えます。
 何しろ、狗邪韓国から末羅国の間は、「水行」と言っても、並行する陸路がないので、街道として無効と明記されている上に、倭地の「禽鹿径」は、荷車の通れない論外の道と明記されているので、物納不可能とだめ押ししているのです。
 ちなみに、倭人伝に虚構を求める論者は、「倭人」の総戸数を十四万戸とこじつけている論義がありますが、以上の「真意」を取りこぼしている拙攻であり、ここでは、論義しないことにしています。
 さらに重大なのは、「倭人」は、牛馬の労役がないので各戸の耕作能力が貧しいのも明記されているので、結果として、四ヵ国の「戸数」は、国力、つまり、担税力の指標として役に立たないとわかるのです。
 後の議論にも出て来るでしょうが、「魏志倭人伝」の編纂にあたって、陳寿は、「倭人」の地は、郡を去ること万二千里とか戸数七万戸とか、公孫氏が報告していても、半島南方の州島、小島であって、各国数千戸程度の國邑でしかない上に、産物に乏しい「痩せ地」であることを明示しているのであり、二千年後生の無教養な東夷は、史官の真意を汲み取った上で、字句の解釈にあたるべきなのです。

*西域大国の肖像 2024/06/16
 裴注で補追された魚豢「魏略」西戎伝に登場する万二千里の果ての大国は、六畜(牛、馬、羊、鶏、狗(食用犬)、猪(豚))全てを豊かに算出し、法田(ホータン)と違って「玉」こそ産しないものの貴石、準宝石に富み、色彩豊かな羊毛糸を多用した絨毯織が盛んで、さらには、中国産の絹織物を解(ほぐ)して、特産で在る野生繭の糸や色鮮やかな羊毛糸と織り交ぜた多彩な「水羊毳」なる特産物を「海西布」と称して商うなど、まことに、全土悉く宝の山と言うべき大国であり、国内には、金貨、銀貨が流通していて、南方海産の珊瑚、玳瑁を始め、ここには書ききれない多彩な品目を商い、しかも、広大な国土に街道を張り巡らして、文書行政が完備している法治国家であり、当然、皮革紙に横書きする文字大国であるなど、東夷と対比すれば、燦然たる記録が用意されていたのですが、陳寿は、恐らく、そのような漢代西夷事績を明示すると、曹魏明帝が誇らしく遺詔を書き残した「倭人」が色褪せるので、西域での新規蛮夷の招請という事績に厳選すると、西域における曹魏の実績は皆無に近いことを露呈しないために、空疎な「西域伝」を割愛したものと見えます。他の場所でも触れていますが、魏略「西戎伝」の佚文ならぬ善本を熟読すれば、陳寿の割愛に同意できるものと見ています。

 それにしても、奈良盆地に「倭人」政権を主張される方は、纏向遺跡に中国制の土地制度の遺跡を発掘されているのでしょうか。あるいは、中国式の戸籍簡牘を発掘しているのでしょうか。来訪、検察したはずの帯方郡士人は、七万戸、あるいは、十四万戸の大国を実見したとして、寛容極まる免税を許可しないでしょう。

*北枕の台頭

 興味深い発言は、墓制の地域ごとの違い、俗に言う地域性であり、それぞれの地域政権に地域葬制が整っていた裏付けとなります。俗に、これを地域「文化」圏と言いますが、「文化」とは文書によって継承、展開されるものであり、文字のない時代は「風俗」圏とでも呼ぶしかないところです。
 それはさておき、葬制の「枕」が、今日の近畿圏と中国地方では、北枕であり、北部九州と四国では、東西枕になっていたというのは、意義深い指摘です。結局、北枕が全国制覇したという趣旨なのでしょうか。

*纏向の飛び地
 後に発掘される纏向の大型建物は、その敷地が、東西基線で縄張りされたとされていますから、これは、東西枕風俗に属するものであり、後の飛鳥時代以降の大型建物が、南北基線で縄張りされていて北枕風俗と見えるのと、別の風俗圏に属していたことになります。

 先に挙げた遺跡地図に現れてないということは、纏向遺跡を構成した勢力は、一時的な東西風俗であり、飛び地のようなものであったかと思われます。

                              この回完

新・私の本棚 番外 NHKスペシャル よみがえる邪馬台国 全三回 4/5 再掲

 番組放送年 1989年 NHKオンデマンドサービス(有料)で視聴可能
 私の見立て★★★★☆ 必見    2019/01/13   補充 2020/03/11 2024/06/07

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

よみがえる邪馬台国 第三回 検証・女王卑弥呼の都
*躓く「枕」~補充
 この回は、九州説を支持していた門脇禎二氏と畿内説を支持していた坪井清足氏の談話を枕に開始します。
 本篇の冒頭、いきなり誤解が露呈していて「楽浪郡」が語られています。当番組では伏せられていた後漢書を見てしまったのでしょう。
 「行程記事をそのまま読むと」と言う語りは、説明不足で軽率です。読解できずにベタに書き出すと、と言うべきです。当時の公文書ですから、倭人伝の語法を理解すれば、明快に読み解けるはずです。過去、諸先賢が理解できないから、自分自分の語法で勝手に書き替えて来たものです。

 以下、過去の誤読例が面々と繰り返されますが、とにかく「論義を混沌とさせて持続したい、子々孫々に至るまでメシの種にしたい」という願望が醸しだしている「泥沼」なのですが、ここでも、明解な解明を遠ざける高度な創作が続いています。

 何しろ、冒頭の解説で、帯方郡を出た行程が、いきなり西に向かって黄海岸に出るという誤解が台頭していますが、「倭人伝」には、そのような行程は書かれていないのです。続いて、何の気なしに、海岸沿いに南下することが描かれていますが、地図を見る限り、そのような航行では、忽ち難船してしまい、まるで、「倭人伝」が自滅行程を書いているように見ていますが、それは、解釈を誤っているとみるべきです。このような難局に陥った場合、「帰謬法」と言う考え方では、それは、そこまでの見方が進路を誤っていることを示ししているのだから、始発点に戻って考えなおすべきだということになっているのです。
 ところが、番組の解説では、南岸沿いの「架空の行程」にこだわって、わざわざ狗邪韓国まで乗りつけて、改めて、對海国に向かって南下する絵としていますが、そこまでの悠然たる船旅が、突如、必死の海峡越えとなり、辻褄が合わず、何とも、無理難題になっています。

 世間では、ここまで大勢として一致して妥当な推定とされているとしていますが、完全な読み違いが、正論を押しつぶして大勢に支持されているのは、寄って集(たか)って誤解して「倭人伝」が、いい加減だと責任を押しつけているのであり、何とも困ったものです。これでは、何百年経っても、正解に到らないわけです。

*両説並走
 坪井氏は、畿内説は「考古学の所見」に依存すると正直に解説しています。要するに、「倭人伝」を「畿内説」に合わせて削り直していることが露呈していますが、それを云うと身も蓋もないので、ここでは、声を潜めておきます。

 門脇氏は、九州説に転じて「変節漢」と顰蹙を買ったと述解しますが、畿内説では、三世紀当時、近畿から北九州を支配していたとされるのに、六、七世紀の統一国家形成まで、途方もない歳月を要したことを説明できないと感じたようです。我が意を得たのですが、畿内説陣営から、適格な回答がないようです。古代史学界には、建設的な仮説/異論/異議に対する反応は顰蹙だけあって学術的な論争は成立しないのでしょうか。
 坪井氏は、「考古学の所見」では、三世紀遺物出土が乏しい九州説に不利としますが、衆知の如く、遺物年代はあくまで熟慮の上の「推定」であり、いかに大勢に支持されても、決定打でないと想われます。
 また、坪井氏は、行程記事末尾の「水行十日、陸行一月」は投馬国から南に王都行きと解釈すると南方に突き抜けるから、これは、東方畿内だと押していますが、そのような道里行程記事解釈は、伝統的な我流解釈に依存していて異論必至で、決定打ではないのです。先ほど述べたように、「思い込み」に従うと不合理な結論に至るというのは、「思い込み」を考え直す契機であり、視野を広げこだわりを棄てて、謙虚にら考え直すべきなのです。
 当たり前のことですが、三世紀に陳寿が書いた記事は、当時の読者が納得する、筋の通った「真意」がこめられていると見るべきであり、頭から、「現代日本人」の「常識」で読解くのは「誤解」の可能性を含んでいるのです。

 要するに、坪井氏の言う「考古学の所見」は、専門外とは言え、自説に心地良い、軽率な文献解釈を丸呑みして根拠としているのであれば、是非再考いただきたいものです。

*鬼(神)道とシャーマン
 ハン氏(韓国国立中央博物館館長)は、鬼道(「鬼神道」は後漢書)を論じて、今日で言う「シャーマン」とも思われるが、「シャーマン」は地域ごとに異なるので一概に論じるべきでない、と卓見を述べて、「シャーマン」が古代に生きていたような時代倒錯の戯れ言をきつくたしなめています。

*即刻参詣の檄
 終盤になって、坪井氏は、「倭人」が大陸の情報を承知していて、使節を適確に派遣したと驚いています。伝統的に、女王を「神がかった諜報通」と見ているようですが、ことはそんなに超絶的な成り行きでなかったでしょう。公孫氏傘下から魏帝直轄に代わった帯方郡の新任太守から、専用文書便が街道を駈け、即刻出頭の厳命が届いたと見るのが順当ではないでしょうか。

 即刻と言っても、万二千里などと見当違いの道里を言いたてたりせず、測定済みの往復所要期間、つまり、片道「水行十日、陸行一月」を四十日と見て、往復八十日を前提として出頭期限を切ってあり、「遅参すれば討伐する」と断言したでしょうから、大陸(遼東)事情を知らなくても、降って湧いた指示でも、国王以下打ち揃って恐懼して、取るものも取りあえず身軽な使節を送り出したのでしょう。それなら、普通の君主に出来る普通の、つまり、最善対応なのです。

*遠すぎる畿内
 余談ですが、この日数では到底畿内に辿り着かないので、日数稼ぎに苦労しているようですが、それでは、郡は、所要期間を知らなかったことになります。水行二十日の投馬国の向こうに四十日行程を置く年代ものの読み解きで、ボロ隠しをしているようですが、細かく詮索すると、逃げ道がなくなるので、武士の情けで、追及を控えます。いや、当ブログ筆者は、古風な者なので「遠すぎる」は、誉め言葉ではないのです。

 「倭人伝」の景初二年の「二」の字に横線を足して景初「三」年に日延べしても、使節は郡に辿り着けないでしょう。まして、韓国海岸を「水行」したら景初年間には着かないでしょう。蒸し返しですが、坪井氏の主張による「遠隔の畿内で半島情勢を察知した」というのはね心地よい響きであっても、あくまで、根拠の無い神がかりです。

                                未完

新・私の本棚 番外 NHKスペシャル よみがえる邪馬台国 全三回 5/5 再掲

 番組放送年 1989年 NHKオンデマンドサービス(有料)で視聴可能
 私の見立て★★★★☆ 必見    2019/01/13   補充 2020/03/11 2024/06/07

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

よみがえる邪馬台国 第三回 検証・女王卑弥呼の都 承前
*戦時参詣
 郡指令は峻烈でも、文書便で、召集状とともに送達された帯方郡太守の過所(通行証)を携えて官道を進めば、途中の諸韓国の関所で止められたり、関税をむしられたりすることもなく、官道宿舎の寝床と食事は保証され、当然、官道通行の安全も保証され、官道の道祖神、道しるべや里程標もあって、道に迷うこともなく、とにかく、安心して旅することができたはずです。

*召集呼応
 これが、呼ばれてもいないのに、紛争地帯に勝手に参上したのであれば、宿舎の手配はされないどころか、それこそ、戦場に飛び込む可能性もあれば、不時の、つまり無許可の郡詣でとして公孫氏に捕まる懸念もあったでしょうし、国書や貴重な土産物の心配どころか、使節の身の安全が覚束ないのです。それは、余りに無謀でしょう。
 魏朝官制は、宿駅が、代え馬、宿舎、食糧の供給とともに、関所の役も担っているので、暢気な方が言うように、土地勘があれば、道道をどんどん進んでいける生やさしいものではなかったのです。まして、路銀、つまり、銭の持ち合わせがないと、何も購えないのです。また、言葉が通じない、異様な風体の面々では、最寄りの県治、つまり、県の役所に突き出されていたでしょう。
 当時、既に千年に亘って、文明国家が運営されていたということを忘れてはなりません。

*雒陽参上
 雒陽でも、事前に帯方郡の文書が届いていて、鴻廬卿は万事調整済みだったでしょう。帯方郡からの行程は、山東半島莱州に渡海するのは、郡の便船で難なくこなしても、西に向かう官道は、当然厳戒下にあり、青州刺史などの認可のもと、郡役人が同伴しなければ無事に着かなかったでしょう。道中の宿舎手配なども、文書使(メッセンジャー)が各関所に伝えた刺史の指示あればこそです。
 繰り返しますが、当時、既に千年に亘って、文明国家が運営されていたということを忘れてはなりません。

*曹操遺訓
 このような高速大量の文書通信を常識とした体制は、魏武曹操が、後漢建安年間に、宰相、魏公、魏王などの至高の地位にあって、特に厳命して確立した、全国支配のための行政機構だったのです。当然、魏帝国は、この制を継承しています。
 因みに、これは、別に曹操の独創ではなく、殷周代の太古以来、歴代帝国の根幹だったのですが、後漢献帝期の最初の十年の小戦国状態で、箍が外れて無法状態になっていたので、これを復旧したものです。この期間、少帝劉協は、荒廃した帝都長安から脱出し、支援者なしに飢餓状態で漂泊していたので、後漢帝国は皇帝を欠いて、事実上瓦解していたのです。
 とかく悪評の目立つ曹操ですが、さすらいの後漢皇帝劉協を、収容、保護して、雒陽圏を中心に後漢を秩序のある国家として復旧しようと苦闘したのです。結局、皇帝の地位に就くことはなかったのですが、武力統一だけでなく、古来の文化を復元し、また、国家統治の大系を弁えて、中原に帝国の形を確立したので、跡を継いだ文帝曹丕による魏朝設立後、遡って武帝と諡されたのですが、本来、「文」の人だったのです。
 そのような官道文書通信の制度により、それまで、地の果ての茫洋たるものとされていた辺境蛮夷の姿(イメージ)が、いわば、文字で書かれた絵姿(ピクチャー)になって、雒陽まで届いたのです。

*洛陽到着
 それはさておき、使節一行は、洛陽に着いたとは言え、先だって、定められた手順、役割に従い実務が進んで帝詔梗概と下賜物概要が決まっていて、皇帝に奏上し、帝詔に御璽を得次第、使節に引き渡すはずだったでしょう。
 時に、詔を皇帝自筆と誤解して、その堂々たる筆致からこれは明帝曹叡の筆と決め付ける人がありますが、当然代筆です。皇帝の詔ともなれば、古典を適確に引用して、風格と教養を示す必要があるので、これは、古参の専門家の役どころです。因みに、詔の玉璽も、皇帝当人が押すものではなく、専門家の役どころです。皇帝の手になるのは署名のみです。
 当時、「倭人」の招請を格別の熱意で進めていたのは、明帝曹叡ですが、事の半ば、景初三年元旦に逝去したので、事態は、尻すぼみになっていきますが、取りあえず、帝国宝物の蔵ざらえという事もあって、下賜物送達は、粛々と進められたのです。

*明帝曹叡と忠臣毋丘儉~私見
 稀代の名君曹叡は、初代文帝曹丕が後漢献帝の禅譲を受け、言わば、後漢の風化した天下を引き継いだことに批判的であり、自身で「烈祖」の廟号を唱え、王宮の新規建設に並んで、未踏の東夷の参上を漏って、新規の天下を築くものと自負していたようです。
 それが、景初三年元日の皇帝急逝により、新宮殿建設は頓挫し、「倭人」の処遇は、雒陽に参上している使節の顕彰とすでに用意されていた下賜物の送付までは帝国の体面を保つために維持されたものの、それ以後は、次第に冷淡な扱いとなって行ったものと見えます。
 ひとつには、先帝の東夷顕彰の意向を支持していた毋丘儉が、司馬懿の台頭で勢力を喪い、ついには、少帝曹芳が廃位されるに及んで、反乱を起こして討伐されたため、帯方郡を足場にした「倭人」高揚は、霧散したのです。
 陳寿は、明帝曹叡の壮図を支えた毋丘儉の忠誠を「魏志」に潜ませたと言えます。なにしろ、「魏志」に「司馬懿」伝はなく、ただ、ひっそりと「毋丘儉伝」が刻み込まれているのです。

 以上、当然の事項が余り知られていないので、番組批判の枠を大きく踏み越えて、殊更力説したものです。

*掉尾言
 以上、それぞれの回での難点と思える点を延々と批判したのは、俗論的な決めつけに対するものであり、番組全体は、後年のIT紙芝居や勝手な素人談義などではなく、ちゃんと出席の専門家によって議論されていて、まことに妥当な構成です。

                               完

2024年6月 5日 (水)

資料紹介「唐會要」 其の1 概論 再掲

 2014/01/29  再掲 2024/06/05

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯旧ログ再掲のお断り
 当記事は、なにしろ十年前の拙作ですので、再掲する気はなかった、と言うか、完全に忘れていたのですが、旧ログを総浚えしている動きがあるので、念のため、点検して、再掲しているのです。

*はじめに
 まずなにより、唐會要は、史書として書かれたものではないので、史実に関する厳密さに欠けることは心得ておくべきでしょう。
 中国の分類によれば、「政書」と呼ばれる資料群に属するものであり、「政書」は、その編纂形態により、各王朝ごとに分割記述された「斷代會要體」と通史として記述する「通代會要體」とに大別されます。
 言うまでもなく、「唐會要」は、唐王朝について記述された「斷代會要體」です。一方、「通典」、「通志」は、政書の中で、「通代會要體」に分類されます。
 つまり、唐會要」は、「通典」、「通志」と同様の性質を持った資料です。

 「唐會要」は、今日伝えられている形としては、清朝時に編纂された「四庫全書」収録のものが規範となると思われます。
 続いて、其の「倭国」、「日本國」記事ですが、「旧唐書」と比較して、人名の書き誤りを含めて、誤伝の多いものになっています。
 元々の資料に誤りが多かったのか、継承転記の際の誤りかはわかりませんが、記事の信頼性は大きく損なわれていると考えます。
 従って、全書百巻に及ぶ其の全貌が、宋時代の編纂時から、四庫全書収録まで、遺漏無く伝えられたものではないと思われます。

*編者紹介
 ここで、維基百科に基づき編者王溥の履歴を確認します。
 王溥(922-982年)、字齊物、諡文獻は、五代後漢乾祐元年(948)科挙状元(進士第一位)となり秘書郎に任官し、五代後周太祖、世宗、恭帝の三代の宰相を勤め、北宋太祖が幼帝恭帝から禅譲を受けて宋朝を創立するのを支持したため、太祖の下で宰相を勤めた。
 ただし、北宋太祖趙匡胤は、皇帝として親政し、宰相の実権を奪ったので、王溥は、自宅に所蔵した万巻の蔵書を元に、専ら史書の編纂に当たったと云うことである。
 乾德二年(964年)宰相を辞し、太平興国七年(982年)死亡。

 以上の経歴から見て、秘書郎として任官した上に、長く宰相の職責にあったので、唐代以来の実録、起居注などの公式資料の写本を入手して、自宅に所蔵することも可能であり、著作に大いに活用したものと思われます。
 又、それら資料は、王溥の死後は、王溥の著作と共に継承され、それら資料が旧唐書などの史書編纂に利用されたものと思われます。

 以上、「唐會要」の記述が、「旧唐書」に幅広く利用されていると共に、王溥が典拠として参照した資料を「旧唐書」編者が参照利用したと思われます。このため、類似した記述が散見されるのでしょう。

 なお、「唐會要」は、テキスト全文が維基文庫に収録されていますが、清朝四庫全書収録の「唐會要」の影印版と比較すると、文字の異同だけでなく、「倭國」記事の建中元年、貞元十五年、永貞元年の三項が脱落しているのは、テキストとして利用する際には注意が必要です。
 維基文庫は、ボランティアの絶大な努力によって、膨大な原典がテキスト入力されているものです。なにぶん、活字印刷物の読み取りと異なって、OCRの助けの殆ど得られない手仕事であるので、万全でないことは仕方ないことですが、一方、そのような限界を承知の上で維基文庫のテキストに依存して論考することも、また、ある程度仕方ないことなのでしょう。

以下、短評に続く

一部修正 (2014/1/29、6/30)

資料紹介「唐會要」其の2 短評と記事紹介 再掲

 2014/01/29  再掲 2024/06/05

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*史料短評
 「唐會要」記事については、以下の短評を記すのににとどめます。
 「倭國」は、冒頭に、「在新羅東南」と書かれているので、九州に存在していたことが明記されているものと考えます。笵曄「後漢書」同様の筆致であり、同書の地理志記事から判断して九州北部が有力となります。
 「日本國」は、冒頭に「倭國」の別種と書かれているので、少なくとも、二つの政権が区別されて書かれていることは明らかです。
 いずれの記事も、飛ばし読みの時に、最低限目にとまって欲しいことが頭書されているので、「と書いたが、実は..」というどんでん返しはないものです。
 「日本國」記事では、引き続いて国名由来と移行経緯について、解釈が併記されています。つまり、遅くとも両国記事編纂時点では、「倭國」が消滅して「日本國」が存在していることが示されています。

 さて、第一の解釈では、先記されている倭國に対して、東の方角、日の出る方向にあるので「日本」と名乗ったと書かれています。この解釈で云えば、九州北部地域の東方に当たる中国から近畿の地域が最有力となります。
 付け足しの解釈では、「倭國」が、『自國名の字面が悪いので「日本」と改名したと表明した』と書かれています。あるいは、『「日本」は小国であったものが、倭國を併呑したと表明した』と書かれています。
 このように色々書かれているのは、編纂者は、「倭國」がどうして「日本國」になったか、筋の通った説明を聞けなかった/見いだせなかったので、元々あった記録をそのまま採用するようにしたものと思われます。蕃夷と対応した鴻臚のものは、蛮夷の言い分をそのまま紹介するよう命じられているので取り次いだのであり、「唐会要」の編者も、何も見解を示していないものです。
 とはいうものの、結論無しの紹介記事なので、最初に紹介された解釈が有力であり、また、後に紹介された解釈と共存できるので、そのまま書かれているものと考えます。
 推測ですが、中国側が「自然」な解釈を示したのに対して、日本使節が頑として同意しなかったので併記されたものと見たいところです。
 一部論者は、「唐會要」の両国記事は、「倭國」と「日本國」が、同一政権ないしは政権系列の時系列上の改名したとの記事であるとの見解を公開していますが、どうも、早計であり、実際は、錯綜の観を避けることなく併記されたままであり、当記事の論旨をそのように明解に解釈するのは無理なように思います。
 また、政書の性格上、正史の記事を校勘する際に厳密な史料として利用できないのと相まって、早合点することなく慎重に取り扱うことが必要です。

*和紙の起源
 因みに、「倭國」記事の建中元年項の蠒(メイ)は、銘仙のようなきめ細かい絹布のようです。倭国使節は、中国人が見たこともないような滑らかな紙に書翰/覚書を記していたと云うことです。
 おそらく、これは、「倭国」が、山野の植物を利用して、純白で滑らかな「和紙」を実用化していたものであり、中国で古来王侯の使用していた帛書と呼ばれる書記用絹布を再現していたのでしょう。紙の実用化以来一千年近くたって、高貴な帛書は、使用する習慣もなく、帛書の実物も地上から消滅して久しいので、王溥のような教養豊かな、宰相職の高官にも、見当が付かなくなっていたのでしょう。
 なにしろ、中国の製紙法は、蔡侯紙というものであり、衣類のぼろなどから採取した繊維を漉き上げていたので、「純白で滑らかな」「和紙」とは、別物だったのでしょう。

*資料編
 以下は、添付した影印本の記事を文字起こししたものです。
 その際、最善の注意と努力をはらいましたが、脱落、誤字等が存在しないことを保証するものではないので、添付した影印版を確認の上、ご利用いただきたいのです。
 倭國 (第九十九巻)
 古倭奴國也。在新羅東南。居大海之中。
 世與中國通。其王姓阿每氏。設官十二等。俗有文字。敬佛法。
 椎髻無冠帶。隋煬帝賜衣冠。令以錦綵為冠飾。衣服之制頗類新羅。腰佩金花長八寸。左右各數枚。以明貴賤等級。
 貞觀十五年十一月使至。太宗矜其路遠。遣高表仁持節撫之。
 表仁浮海。數月方至。(注 自雲路經地獄之門。親見其上氣色蓊鬱。又聞呼叫鎚鍛之聲。甚可畏懼也)
 表仁無綏遠之才。與王爭禮、不宣朝命而還。由是復絕。
 永徽五年十二月。遣使獻琥珀瑪瑙。琥珀大如斗。瑪瑙大如五升器。
 高宗降書慰撫之。仍云。王國與新羅接近。新羅數為高麗百濟所侵。若有危急。王宜遣兵救之。
 倭國東海嶼中野人有。耶古。波耶。多尼三國。皆附庸於倭。北限大海。西北接百濟。正北抵新羅。南與越州相接。
 亦頗有絲綿。出瑪瑙。有黃白二色。其琥珀好者云海中湧出。
 咸享元年三月。遣使賀平高麗。爾後繼來朝貢。
 則天時、自言其國近日所出。故號日本國。
 蓋惡其名不雅而改之。
 大歷十二年。遣大使朝楫寧、副使總達來朝貢。
 建中元年。又遣大使真人興能判官調楫志自明州路。奉表獻方物。真人興能盡其官名也。風調甚高善。書翰其本國紙似蠒緊滑、人莫能名。
 貞元十五年。其国有二百人浮海至揚州市易還。
 永貞元年十二月。遣使真人遠誠等來朝貢。
 開成四年正月。遣使薛原朝常嗣等來朝貢。
Toukaiyou_wakoku_1
Toukaiyou_wakoku_2
 日本國 (第百巻)
 倭國之別種。
 以其國在日邊、故以日本國為名。
 或以倭國自惡其名不雅、改為日本。
 或云日本舊小國、吞併倭國之地。
 其人入朝者、多自矜大、不以實對。故中國疑焉。
 長安三年。遣其大臣朝臣真人來朝、貢方物。
 朝臣真人者、猶中國戶部尚書。冠進德冠。其頂為花、分而四散。身服紫袍。以帛為腰帶。
 好讀經史、解屬文。容止温雅。則天宴之、授司善卿而還。
 開元初。又遣使來朝。因請士授經。
 詔四門助教趙元默、就鴻臚教之。乃遺元默濶幅布。以為束脩之禮。題云白龜元年調布。
 人亦疑其偽為題。所得賜賚。盡市史籍。泛海而還。
 其偏使朝臣仲滿、慕中國之風、因留不去。改姓名為朝衡。歷仕左補闕、終右常侍安南都護。
Toukaiyou_nihonkoku
この項 終り

2024年6月 4日 (火)

今日の躓き石 毎日新聞スポーツ面の「リベンジ」再来 順当な番狂わせか

                       2024/06/04

  今日の題材は、毎日新聞 大阪・河内面だから、地方ネタとして読み流そうかと思ったが、全国紙の(地域面)一面だから、ちゃんと敬意を表すことにした。もちのろん、「大ガス リベンジ勝利」と敵性/毒性語を紙面に書き出して、多くの読者に、毎日新聞が「リベンジ振興会」に属していると誤解され、日常会話で乱用が進むという、徹底的な害毒があるから、一言申し上げたのである。当ブログでお馴染みの指摘であるので、背景説明は省略する。

 合わせて、同記事が報道の基本に反している点も、指摘して良いのではないかと感じて、批判する次第である。
 「大阪ガス株式会社」は、創業以来120年近い歴史を有し、「主に京阪神をエリアとする一般ガス事業者」であるから全国営業していないが、「大阪ガス硬式野球部」は、都市対抗野球大会 出場28回、優勝1回(2018年)社会人野球日本選手権大会 出場26回、優勝3回(2019年、2021年、2023年)の赫赫たる実績を挙げている名門チームである。近年で云えば、地元の阪神タイガースに、能見篤史(投手)、近本光司(外野手)等の名手を送り込んでいる。(Wikipediaによる)
 「大ガス」(ダイガス)は、「日本一のガス会社を想定した社名通称」ではなく、「大阪ガス硬式野球部」の通称と思うが、ここだけ切り取れば、「毎日新聞」が、「大阪ガス」に泥を塗っているという印象を受けかねないのである。

 それはさておき、「大ガス」の野球部が、前回の近畿地区予選で特定チームに負けたことに遺恨をもって、血祭りに上げることを標榜/公言していたとは思わない。一種「フェイクニュース」ではないか。
 当記事で、地域面記者は、(地域面)一面のトップ見出しで、この勝利を謳い上げている。本大会優勝どころか、まだ、代表に決定したわけでもない。「大ガス」が、ほんの通過点である近畿地区予選で一勝したことを、これだけでかでかと取り上げているのを目にすると、「ニュースバリュー」を勘違いしているのではないかと思うのである。いや、誤報とは言いきれないから、クビを傾げただけである。
 古来、「人が犬を噛めばニュース」というように、野球の報道でも、新聞は予想外の番狂わせ(upset)を報道するものであり、強豪チームが順当に勝ち進んだ、それも「第4代表決定トーナメント4回戦」に一段勝ち上がったというのでは、ニュースになるものではないと思うのだが、いかがだろうか。
 担当記者が、たまたまものを知らないで書いたとしても、3人連名であるから、揃って、不出来と言うことになったしまうし、その不出来が、そのまま紙面を飾るようでは、全国紙の沽券に関わるのではないか、と思う次第である。

以上

2024年6月 2日 (日)

新・私の本棚 番外 NHK「誕生 ヤマト王権~いま前方後円墳が語り出す」1/4 三訂

私の見立て ★☆☆☆☆ 粗雑な仮説の粗雑な紹介 誤報 2021/03/28  改訂 2021/07/23 2024/06/02

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇 はじめに~NHK番組批判の弁
 今回は、NHK番組の批判ですが、下一の報道機関である公共放送NHKが、古代史分野一機関の粗雑な仮説を、十分検証せずに番組制作した点に批判の重点があります。以下、番組進行順に、即席の批判を積み重ねたので確認いただければ幸いです。(素人著作の批判とは別世界です)

〇NHK番組紹介~NHKサイトより引用
 私たちが暮らす日本という国はどのように誕生したのか。神話の世界と歴史的事実をつなぐのが全国に4700基ある前方後円墳だ。今、最新の科学技術を使った研究から、新発見が続いている。番組では最初に築造されたと考えられている巨大前方後円墳の「箸墓古墳」の謎の解明を出発点に、それを築いたヤマト王権が一体どのように誕生し、日本列島の姿を変えていったのかに迫ってゆく。出演:松木武彦(国立歴史民俗博物館教授)ほか

〇粗雑極まる「タイトル」設定
 この番組紹介を見ると、まず「前方後円墳が語り出す」と言う怪奇現象に驚き、チャンネルを間違えたかと思うのです。二千年前に造成され、半ば放置されていた遺跡が今、声を上げて語り出すなら、現代人が陰に隠れた子供だましのお化け屋敷です。河内の古墳群の近傍は、うるさくてしょうがないでしょう。いずれにしろ、公共放送が、教養文化番組として製作すべきタイトルではありません。
 どうも、当番組は、国立歴史民俗博物館(歴博)宣伝番組のようで、タイトルも持ち込みかも知れませんが、NHKは視聴者からの受信料で運営される公共放送ではないのでしょうか。妖怪が、しゃしゃり出てきたら、先ず、「名を名乗れ」というものではないでしょうか。
 以上のように不吉な番組紹介を越えて番組を視聴しましたが、特定の団体に奉仕する内容は目を覆わせるもので受信料返せと言いたいものでした。

 因みに、雑踏となっている先入観を離れてタイトルを見ると、「ヤマト王権」は、「前方後円墳」の萌芽と成長に伴って台頭したという主張だけであり、これは、遺跡、遺物に基づく多数の研究者の合議体による「実直な考古学考察」に連携しているので、特に異論を述べる筋合いはないのです。いわば、鉄壁のご高説なのです。
 ところが、『そのような「実直な考古学考察」定説を奔放に変形して、その萌芽を、倭人伝の描く三世紀にずり上げ、「ヤマト王権」の成長発端を、大幅にずり上げた無理がたたっている』のです。
 学界全体で築きあげた考察は、同様の過程を経て、つまり、同様の時間をかけて、同様の合議体で審議して、初めて改訂できるものではないでしょうか。 

〇 無批判、無検証の危うさ
 一番問題なのは、この番組には、従順な聞き役しか出てこないで、長々と「歴博」の勝手な(検証されていない)主張を無批判に踏襲することです。特に論敵「九州説」の主張を、勝手に代弁して揶揄していることは、公共放送による論争報道のありかたとして、論外です。よく言う(勝って当然の)独り相撲です。
 「歴博」と言うと公平な視点で運営されていると解されがちですが、多額の運営費用と有能な人材を投入して「纏向説」を高揚している「畿内派本山」と見えるのです。

 さらに言うと、番組が、世上論議が渦巻いているC14年代判定の「歴博お手盛り」の無謀な見解を無批判で採用するのは不穏です。本来、自然科学技術による客観的な判定であるべきものが、歪んでいると否定的に評されるのは、つまり「歴博」が存在意義をかけた独自判定で、念入りに判定者に圧力をかけたものと思われます。判定に要する最先端機器の、高額の運転費用を、意に染まない判定結果であれば、費用支払いに疑義を呈する、と言うか、次回以降の判定依頼を「考慮」するという言外の圧力は、むしろよく見かけるものであり、別に驚くものではないのですが、この事例では、ちょっとあからさまな形で露呈したようです。(安本美典氏の考察を参考にしていますが、自分なりに分析した物です)

〇 粗雑な科学見識、大時代の内部闘争
 ニューオンが「見えない素粒子」とは珍妙な意見で、「見える」素粒子などありません。子供だましでなく、「科学的」に述べて欲しいものです。
 「殴り込み」など、反社会的団体風言動がそのまま出回っているのは、「畿内説」陣営内の不穏な動きを暴露しています。そして、それを、視聴者にぶつけるのは、NHKの品性を疑わせます。チェックなしなのでしょうか。

〇 甘い判断
 因みに、松木教授は、軽く、箸墓が卑弥呼の墓なら、女王国は纏向しかあり得ない」と断じます。それ自体、軽率で非論理的な、無用の断言です。畿内説論者でも、箸墓は「倭人伝」に書かれている卑弥呼の墓ではないことが明確だから、むしろ、宗女「壹與」の墓であろう」とする論者が見えます。浅慮早計で、立脚点を間違えているようです。
 続いて、三世紀文献、中国史書「魏志倭人伝」に従えば「九州説」も成立する」とは、けったいな独善です。
 先の「女王国」誘致発言とともに、伝統の「倭人伝」改竄戦略から撤退、転進したのでしょうか。このあたり、自陣営の過去の発表との整合が審査されていないようで、さらに、番組司会者から過去番組との関連に対して何の質問もないのが、奇っ怪です。

                                未完

新・私の本棚 番外 NHK「誕生 ヤマト王権~いま前方後円墳が語り出す」2/4 三訂

私の見立て ★☆☆☆☆ 粗雑な仮説の粗雑な紹介 誤報 2021/03/28  改訂 2021/07/23 2024/06/02

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇 「ヤマト」王権~「文化」の詐称
 ヤマト王権が、七世紀あたりに、律令制度を敷いたのは、遣隋使、遣唐使の持ち帰った知識によるものであり、従ってそれ以前には何も法制がなかったと見ているはずです。
 各地にほかの「文化」があったと誤解を述べますが、文字の無い世界に文書はないから「文化」はなく、単なる、風俗習慣です。その証拠に、文書記録が皆無で、何も伝わっていません。

〇 粗雑な列島展望
 さらりとごまかしていますが、筑紫、北九州に太陽の女神の信仰はなかったと言う主旨が述べられています。これほど重大な仮説をどさくさ紛れに開陳するのは、胡散臭い物がありますが、倭人伝に、「太陽の女神」は、一切登場しないのです。何を主張しているのでしょうか。

 そして、「列島最大」と言いますが、関東、東北はどうなっていたのか。いずれも重大な提言に説明がありません。仰々しい四千を越える墳丘墓の検証はなく、大半は「箸墓」論議です。奈良盆地内の他遺跡の考察も、ほとんどありません。まことに、胡散臭い自家製新説です。

〇 不穏当な「ルーツ」論援用
 箸墓の「ルーツ」が各地に窺えるとは、「職人を大挙拉致し、奴隷として駆使した」との主旨でしょうか。
 造墓は大規模な技術集団を必要とし、技術を結集しようにも、言葉の問題以外にも設計図が読めなければどうにもなりません。職人拉致談義は、「ルーツ」と言う(語源に戻ると、大変)不穏当な用語のせいばかりでもありませんが、「神がかり」よりは、まだまともな考察です。

〇 箸墓造営論
 箸墓は、石積みで覆われたとして、倭人伝で、卑弥呼の墓は、「冢」、つまり土饅頭であり、巨大なものは作れません。考証の齟齬でしょうか。
 王墓造成には、まず、候補地を決めて縄張りし、一大土木工事、それも、未曾有のものを施行しなければなりません。
 当然、多数の労力を長期間動員するので宿舎と食料が必須です。それは、国家として保有している官人、食料庫の他に設けなければなりません。期間中に必要な石材や材木を倉庫に貯めねばなりません。などなど、厖大、広大な建設現場が必要で、国家の中枢を離れたところに設けるものです。
 つまり、墳丘墓は、国の王宮などから、相当離れた場所に設けざるを得ないのです。王宮は、南の飛鳥や北の平城京あたりとも思えます。
 一部に、卑弥呼は、筑紫で君臨していましたが、晩年に畿内方面に移住し、そこで没して、墳丘墓に埋葬されたという「奇説」を聞いたことがあります。(「奇説」は、伝統的用法であり、褒め言葉です。念のため

 素人考えですが、こうした異論をすっ飛ばすとは、松木教授は余りに太平楽ではないかと思われます。それとも、良い度胸をしているのでしょうか。

〇急遽否定された武力統一
 ここで、松木教授は、従来の「定説」を覆して、ヤマト王権は、武力統一なしの合意国家と言います。学界を揺るがしかねない大転換ですが、纏向派は、いつ、どのような論議を経て、転進したのでしょうか。

 文書のない時代、列国が対話、談合するとしたら、話す言葉は不統一の筈であり、どうやって意思疎通し、合意ができたのか、合意の文書記録をどのように残したのか、まことに不思議です。近隣同士なら、日頃の近所づきあい、口頭対話で折衝が進められますが、離隔していて季節の挨拶しかできなければ、当然疎遠であり、まして、往来しようにも片道数ヵ月かかっては、新年の挨拶も粗略になりがちで、いつまで経っても、ほぐれる一方で固まるはずのない天下です。
 いや、そもそも、当時の交通事情を想定すると、遠隔地の国と喧嘩することも、同様に困難なので、中国戦国時代の秦国の取った「遠交近攻」の政策が賢明なのです。文書通信があり、街道での往来が容易であった先進国でも、隣り合っていればこそ喧嘩して争うことができたのです。
 「合意」と称して諸公は騙せても、配下は国益を損なう合意に納得しないはずです。武力で威圧しなくては、手前勝手な契約を押しつけることはできないのです。
 古代、漢武帝が、西域諸国の服属を求めて、百人規模の使節団を各地に送り込みましたが、服属どころか、使節団を一度ならず皆殺しにして、高価な手土産を奪い取った例が珍しくないのです。武力無くしては「説得」できません。

                                未完

新・私の本棚 番外 NHK「誕生 ヤマト王権~いま前方後円墳が語り出す」3/4 三訂

私の見立て ★☆☆☆☆ 粗雑な仮説の粗雑な紹介 誤報 2021/03/28  改訂 2021/07/23 2024/06/02

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇 空疎な「広域」観 
 つまり、互いに十分知り合えない「疏」状態では、広域国家も広域連携も幻想であり、飾り立てても空疎です。最近まで、畿内は「野蛮な」周辺地域と交流がなくて平和だったとの説が聞こえましたが、空耳だったのでしょうか。

〇「倭国乱」の真意~後漢書「大乱」の放棄
 むしろ、健全なのは、倭人伝に「倭国乱」とあっても、実際に戦ったのではないとする見解です。これに対して、当ブログの守備範囲外ですが、記紀に多数見られる戦闘や殺戮の記事は、全て虚構というのでしょうか。

〇 「文化」「伝統」の蹉跌
 「文化」と「伝統」と言いますが、「伝統」は、先祖以来の氏族構成に従う「王位」継承を言うのであり、また、文字のない「文化」の融合などあり得ないのです。

〇 気象学「新説」の暴走
 続いて、突如、気象学ご託宣ですが、標本採取場所の気象災害は、妥当な見解でしょうが、広域災害を断じるのはどうでしょうか。
 ヤマト盆地が災害を受けにくかったとは不思議です。盆地は、降水量が少ないものの、東の山並みからの急峻な渓流で、多雨期には、出水、氾濫があったと推定されます。その意味では、大型建物を高床にしたのはもっともですが、一般人の住家は、どう水害対策したのでしょうか。
 いや、唐古・鍵遺跡のように、二世紀にわたって環濠が維持されていたとする見方は理解できるのですが、纏向に広域の環濠は見当たらず、用水路が目立つだけです。
 して見ると、近隣の唐古・鍵遺跡などの伝統考古学に基づく時代考証も必要ではないでしょうか。ヤマト盆地に、纏向しか無かったわけではないはずです。
 古道「山辺の道」は山腹を等高線で結び纏向扇状地に降りてないのです。巨大な湖沼の存在した低湿地が、次第に乾燥したのは、雨量が少なかったからではないのでしょうか。要するに、ヤマト盆地の時代推移すら、手軽に説明できるものではないと思うのです。

 因みに、余り語られないのですが、奈良盆地を南下して、吉野方面に進むと、冬季の寒冷は厳しく、纏向から赴いて越冬するのは、無理なのです。中には、吉野の高台に「吉野宮」を見る幻視客がいますが、高台で一段と厳しい寒冷地であり、纏向人は、冬季、屋内でも水がめが凍り付く気候に耐えられないと考えます。
 南に向かうと気候が温暖になると決め込んでいては、万事地図次第で、地に足の着いた時代考証が、根っからできていないのです。「歴博」は、土地勘一切無しで、地図上の線引きで迷走する事例が多発しているのですが、関係者は、誰も現地確認していないのでしょうか。

〇 天下中心幻想
 ヤマト盆地は、「交通の要」であったと言いますが、四囲を山並みで守られた「壺中天」(まほろば)という古来の見方は、どうなったのでしょうか。纏向付近の世界観であって、飛鳥や平城京付近は、山並みに近いので、隔離された感じはさほどではないかも知れませんが、いずれにしろ、全体として、固く閉ざされた環境と見た方が、当時の「まほろば」秘境的世界観として適確なような気がします。

 いずれにしろ、河川交通が無いに等しく、陸上交通も、街道網が発達していたとは見えないし、あったとの立証が試みられていない以上、壺中天が「交通の要」とは、 言いたい放題のホラ話のように聞こえます。言うだけなら、「自由」で「ただ」ですから、言いっぱなしにしたのでしょうが、公共放送の教養番組の場なのをお忘れなのでしょうか。NHKは、一切、番組内容を審査しないのでしょうか。

 大規模な研究組織に研究員が多数いれば、中には、自説で全組織を支配するような極端な思い付きを述べ立てる方もあるでしょうが、織全体で構築、維持してきた考古学理論全体の整合性は、吟味しないのでしょうか。
 古来、新説の99㌫は、思い付きだけで根拠を持たない「ごみ」説に過ぎないのです。長年の定説を転覆させるような「新説」は、千年に一度でしょう。

 「日本」の前史時代を終えた時代、河内側からの峠越えの物流が至難で、大和川遡行も不可能事であったので、淀川・木津川水運に至便の平城京を設営したのを見落としています。さらには、平城京建都の最中に、北の木津付近に水運に適した恭仁京を設営しようとしています。奈良盆地が、交通至便というのは、空文だったとわかります。

 どさくさ紛れにも程があって、纏向から大阪湾に通じる大運河などという極大幻想が出回っていて、その一点だけで空論とわかります。傾斜地に運河を設ける絵空事は、不可能事と明らかです。実験不要の自明事項です。また、当時の河内平野は、奈良盆地から流入する大和川と南河内から流下する石川が合流後直ちに分岐展開して北に流れ、安定した「水運」など不可能だったとみられます。

〇 東京一極集中の弊~時代錯誤依存症
 ここで、松木教授は、纏向は現代の東京のような「首都」と言い張ります。またも神がかったようですが、時代錯誤の塊です。
 現代の東京は、法治国家であって、統治機構が集中していて、企業本社が集中し、離島も含め遠隔地に及ぶ全国から、人材に加えてカネや資源が流入してくるのであり、別に自然現象ではありません。
 そのような現代社会機構と歴史の霞の彼方の古代纏向の仮想政権は、どこが共通でしょうか。不思議です。聞き役から、当然質問がありそうですが、台本にないのでしょうか。

 纏向には、当然、文書記録も法秩序もなかったのです。「国家」を運用するために財務機能はあったとして、通貨制度がないのに、どう計算して帳尻を合わせたのでしょうか。どこに、警視庁や高裁に相当する司法機関があったのでしょうか。法はなくても罪と罰はあったのでしょうか。とても、類推できるものではありません。

*首都の由来 2024/06/02
 「首都」の語義解釈もいい加減で、当時にあっては、と言うか、言葉として通じたとしても、精々大きい「街」に過ぎないのです。
 あるいは、各地に存在する「都」(まち)の、頂点に立っているに過ぎないのです。陳寿「三国志」魏志によれば、後漢末の混乱を経て、転々と天子の居処が移動したために「国都」が乱立したのを整理するために、雒陽が「首都」であると宣言した故事があるのですが、松木教授は、中国史に対して無教養なのでしょうか。
 素知らぬ顔で、現代語を持ち込んで、時代錯誤を引き起こしているのは、中国古代文書の教養に乏しい纏向説の論議に良く見ますが、それにしてもまずい手口です。

〇 「一都会」再現
 いや、現代語と言っても、若者言葉では、「都」は、大きな街(まち)の語感になっていると聞いています。俗に言う、「人、物、金」を、磁石が「鉄くず」を吸い付けるように集めているとも見えます。実は、太古、「都」とは、「人、物、金」が一ヵ所に都(すべて)会する集散地、「一都会」という意味だったようですが、いわば、言葉が先祖返りしているようにも見えます。

〇 王者葬列幻想
王の死にあたって、各地から多数が参集したといいますが、それほど多数の人間が、どのようにして、一斉に旅することができたのか説明がありません。どんな方法で告知して、期限厳守で出席を命じたのでしょうか。このような場合、遅参は死罪と決まっていましたから、何をおいても参集したことになるのですが、そのような「葬制」を、どんな仕掛けで押しつけたのでしょうか。

 三世紀当時、街道未整備で、従って、満足な宿舎はなく、宿舎がなければ食料や水はありません。現地調達としても、何を対価として賄い、物乞いせずに辿り着けると想定していたのでしょうか。焼き物のような器物は、町々の市での順送りで「一人歩き」して長距離移動しても、人は、日々何かを食べて、日々歩かなければなりません。そのような「犠牲」を、どんな仕掛けで押しつけたのでしょうか。

 三世紀当時、遠国からの参集者に過大な負担を押しつけないとしたら、各地の沿道では、公務の旅人には、無償で食事を与え、宿所を供じるとしなければなりません。どうやって、それを補償したのでしょうか。そもそも、太古、道の宿などあったのでしょうか。何しろ、遠隔地もあるので、沿道を通じて、そのような制度を維持するのは、当時としては、厖大な負担になるのですが、なぜ、負担を強いられて、反抗しなかったのでしょうか。

 三世紀に、国家制度の裏付けがある、宿駅の完備した古代街道が各地に通じていて、公務の旅人は、身一つで移動できた」と主張されるなら、是非とも証拠を示していただきたいものです。

                                未完

新・私の本棚 番外 NHK「誕生 ヤマト王権~いま前方後円墳が語り出す」4/4 三訂

私の見立て ★☆☆☆☆ 粗雑な仮説の粗雑な紹介 誤報 2021/03/28  改訂 2021/07/23 2024/06/02

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇 虚構の葬列~絵空事で済まない考証
 いや、(予定していない)逝去で、急遽工事に着手しても、墳丘墓の造成には五年、十年かかるから、参列者の準備期間はあったでしょうが、遠隔地から、手弁当、つまり、道中の食料を背負ってやって来て、帰国の途は、どうしたのでしょうか。
 三世紀に、参集する人々一人一人を、そのような命がけの旅に駆り立てたのは何なのでしょうか。それぞれ、故郷では、そこそこの地位にあったもののはずです。何のために、何を求めて、半年、一年、家族を放棄して、異国に出向くものでしょうか。それでも、万難を排して生きて帰国しなければならないのです。

 これほど壮大な儀式を、手順書なしにしてのけるのは人間技と思えません。いや、番組ではCGによって軽々と壮大な儀式を描き出していますが、ご自分で手書きで、全人物を描き込んでみれば、絵空事を見せるのも、結構労力を要することがわかるはずです。各人が肉体を備え、故郷に家族のいる生きた人間であれば、絵空事どころではないのです。
 文献がなくても、各人の労苦は、容易に想到できるのではないでしょうか。

〇 「お墨付き」漫談
 ここで、纏向論者から「お墨付き」の比喩が出ましたが、文字も紙もないので、書き付けの「お墨付き」はあり得ないし、江戸時代ではないので武家諸法度などは無く、「お墨付き」には、何の裏付けもありません。「お墨付き」の類いの漫談は、そろそろ卒業して欲しいものです。いつまでも、留年を重ねて、すねかじりをされては、天下に迷惑を流すのです。

〇 「ネットワーク」漫談
 ここで「ネットワーク」なる時代錯誤が持ち出されます。聞き手の質問がありませんが、古代史論で何を言いたいのか理解に苦しみます。なぜ、問い返さないのでしょうか。聞き手は、たっぷり説明されて、丸ごと理解したのかも知れませんが、古代史に興味を集中している視聴者には、何もわからないのです。

 簡単に考証すると、「ネットワーク」のそれぞれの「節」は、送られてきた情報とエネルギーがあって生存できるのです。道路がなく文書がないと、全て、有能な使者の「野駆け」頼りであり、物品の輸送も、人手頼りです。と言うことで、「網細工」は実現できません。漁網であれば抜け放題です。
 要は、各地勢力は、まばらに点在していただけで、密接な連携などできたはずは無いという、冷静な理解が必要です。
 むしろ、「点と線」と、松本清張氏の名作のタイトル(著作権?)に抵触する、古典的な比喩が出てくるのです。古代史分野では、時代を問わず、「ネットワーク」は禁句にしたいものです。

 何がどうだったのか、皆目わからない古代の様相を描くのに、自分でも理解できていないカタカナ言葉を使うのは、二重の時代錯誤です。
 そんなたわごとは、少なくとも、古代史論議では、ご勘弁頂きたいのです。借り物の言葉は、早く貸し元に返して、自分の理解した言葉で語るべきです。自分のネタで漫談してほしいものです。

〇 華麗な画餅
 松木教授は、締めくくるように、見てきたような借り物の纏向絵図を持ち出しますが、ここまで丁寧に説いてきた考古学の道筋を無視して、怒濤の虚像を描くのです。ご自分で考証したのでもないのに、無検証、無批判なので借り物なのです。
 因みに、古来、「画に描いた餅」、「画餅」の比喩があります。空腹を抱えた身に、食べられない画餅は、ご勘弁いただきたいのです。いくら、きれいに描いても食えないものは食えません。まずは、ご自分で味見してから、視聴者に勧めたらどうでしょうか。

〇 冷静な時代考証
 最後に、横合いから良心的な意見が提示されて、巨大墳丘墓は、設計図が必須であり、設計図を駆使できる共通基盤が不可欠であるとしています。墳丘墓に実寸図面は使用できませんし、実現には、当時としては厖大な縮寸計算か、現場での作図が必要です。当然、幾つかの技術者集団が巡訪して、できる限り口頭で技術移管したと思うのです。もっとも、文字も紙文書も無い時代、「設計図」は、どこに書かれたのでしょうか。
 考古学分野で、実際のあり方を踏みしめていた森浩一師の実直な論議はどこに消えたのでしょうか。長年の纏向派の論議の基盤を覆す、掌を返すような転進は無残に見えます。

〇 古典派考古学希求
 ここまで控えていましたが、「纏向博士」と時に揶揄された石野博信師は、多年に亘る考古学学究から得た広範、多岐の遺跡、遺物に根ざした考察が根底にあり、確たる考察に裏付けられた信念を感じさせましたが、今回聞いた松木教授の歴史浪漫に漬け込んだ「浪漫派」論議は、浪漫溢れる巨大な「ヤマト王権」誕生の三世紀幻図に引き摺られて、理念無くして意見が動揺し、素人には信じがたいのです。

〇 無目的なブレゼンテーション
 それにしても、この番組を、一人舞台、独り相撲としたのは、誰に向けた提案(プレゼン)なのでしょうか。少なくとも、当方は、こんなメシは食いたくないと思うのです。
 ひょっとすると、過日の「邪馬台国サミット2021」で、不振であったことに対する「意趣返し」でしょうか。それなら、物量主義でしてのけた華麗な「プレゼン」でなく、検証と試錬を重ねた丁寧な論議が必要ではないでしょうか。それは、NHKが論じるべきではないでしょうか。

 善良な視聴者、納税者としては、「金返せ」と言いたいところです。
                                以上

« 2024年5月 | トップページ | 2024年7月 »

お気に入ったらブログランキングに投票してください


2025年1月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

カテゴリー

  • YouTube賞賛と批判
    いつもお世話になっているYouTubeの馬鹿馬鹿しい、間違った著作権管理に関するものです。
  • ファンタジー
    思いつきの仮説です。いかなる効用を保証するものでもありません。
  • フィクション
    思いつきの創作です。論考ではありませんが、「ウソ」ではありません。
  • 今日の躓き石
    権威あるメディアの不適切な言葉遣いを,きつくたしなめるものです。独善の「リベンジ」断固撲滅運動展開中。
  • 倭人伝の散歩道 2017
    途中経過です
  • 倭人伝の散歩道稿
    「魏志倭人伝」に関する覚え書きです。
  • 倭人伝新考察
    第二グループです
  • 倭人伝道里行程について
    「魏志倭人伝」の郡から倭までの道里と行程について考えています
  • 倭人伝随想
    倭人伝に関する随想のまとめ書きです。
  • 動画撮影記
    動画撮影の裏話です。(希少)
  • 古賀達也の洛中洛外日記
    古田史学の会事務局長古賀達也氏のブログ記事に関する寸評です
  • 名付けの話
    ネーミングに関係する話です。(希少)
  • 囲碁の世界
    囲碁の世界に関わる話題です。(希少)
  • 季刊 邪馬台国
    四十年を越えて着実に刊行を続けている「日本列島」古代史専門の史学誌です。
  • 将棋雑談
    将棋の世界に関わる話題です。
  • 後漢書批判
    不朽の名著 范曄「後漢書」の批判という無謀な試みです。
  • 新・私の本棚
    私の本棚の新展開です。主として、商用出版された『書籍』書評ですが、サイト記事の批評も登場します。
  • 歴博談議
    国立歴史民俗博物館(通称:歴博)は歴史学・考古学・民俗学研究機関ですが、「魏志倭人伝」関連広報活動(テレビ番組)に限定しています。
  • 歴史人物談義
    主として古代史談義です。
  • 毎日新聞 歴史記事批判
    毎日新聞夕刊の歴史記事の不都合を批判したものです。「歴史の鍵穴」「今どきの歴史」の連載が大半
  • 百済祢軍墓誌談義
    百済祢軍墓誌に関する記事です
  • 私の本棚
    主として古代史に関する書籍・雑誌記事・テレビ番組の個人的な読後感想です。
  • 纒向学研究センター
    纒向学研究センターを「推し」ている産経新聞報道が大半です
  • 西域伝の新展開
    正史西域伝解釈での誤解を是正するものです。恐らく、世界初の丁寧な解釈です。
  • 資料倉庫
    主として、古代史関係資料の書庫です。
  • 邪馬台国・奇跡の解法
    サイト記事 『伊作 「邪馬台国・奇跡の解法」』を紹介するものです
  • 陳寿小論 2022
  • 隋書俀国伝談義
    隋代の遣使記事について考察します
無料ブログはココログ