新・私の本棚 伊藤 雅文「検証・新解釈・新説で魏志倭人伝の全文を読み解く」三掲補追
- 卑弥呼は熊本にいた! - (ワニプラス) (ワニブックスPLUS新書) – 2023/2/8
私の見立て ★★★★☆ 丁寧な論考を丁寧に総括した労作 但し、難点持続 2023/02/11, 06/30 2024/04/16, 05/08, 06/11-12
*加筆再掲の弁
最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。
◯始めに~新解釈・新説に異論あり
本書は、「倭人伝」考察に関して、麗筆で知られる筆者の最新作であり、これまで、氏の論説で、唯一致命的とされていた「倭人伝」改竄説が、控え目になっているが撤回されてないのは、依然として「重大な難点」と見える。
「重大な難点」を癒やせない筆者の論説は、折角の労作が全体として疑念を抱かれるので、大変損をしていると見える。ご自愛頂きたいものである。
当然の事項であるが、本稿は、氏の売り物である「卑弥呼は熊本にいた!」提言を非難しているものではない。
*難点列挙
1.原文改竄~始まりも終わりも無い混沌
氏は、原文の由来を明らかにしていないが、「対馬国」と書いているので、陳寿「三国志」紹興本によるものと見える。いくら新書でも、史料を明記するのは、常識と見えるが、いかがなものか。
いずれの刊本に依拠するにしても、陳寿「三国志」の原文は「邪馬壹国」であるので、これを(異説・私見が支配的とは言え)「私見」により「邪馬台国」と改竄するのは、信用を無くすのであり不用意である。本書は、冒頭から「邪馬台国」と書き進んでいて、原本依存でなく、正体不明の現代語訳で書き換えているとも見える。
ご自分に都合のよいように「現代語訳」を捏ね上げて、それに依拠して論じるのであれば、もはや誰の批判も受け付けない「独善」「至高」の境地であるから、俗人がとやかく言えるものではないということなのか。
ともあれ、このあたりの批判は、「邪馬台国」派の史料改竄に対する「税金」のようなものであり、逃げられないものと覚悟すべきである。
2.「道里」の曲解/正解~余計な廻り道
氏は、前書などで、独創の新説として、「道里」を、「倭人伝」の「新語」と紹介するが、古来「道里」は、常用されていたのである。「新語」を正式史書に、不意打ちで採用しては、史官として不用意として処断されるものと見える。重大な認識不足である。
氏は、本書によって、『「道里」は魏晋代新語』との手前味噌を排して原本に回帰したのであり、当然とは言え、「道里」は「道」の「里」との当然の理解/結論に至ったのを祝し、ご同慶の至りである。
3.道里/行程について~下読みしないことの不毛
氏は、「倭人伝」の道里行程を、『魏使(郡使)の報告によるもの』と根拠なく予断されているしかし、普通に解釈すると、正始魏使が下賜物を帯行して訪倭の使命に発するには「行程全所要日数を予定する」必要があり、「都水行十日、陸行一月」は「魏使派遣以前に皇帝に報告されていた」と見るものではないだろうか。所要日数不明、あるいは、全道里万二千里だけでは魏使派遣は不可能だったと見るものである。
何しろ、行程上の諸国に、到達予定とその際に所要労力、食料などの準備が必要であることを予告し、了解の確約を得る必要があるから、「全行程万二千里」との情報、狗邪韓国まで七千里などの大雑把な道里次第では難題は解決しないのである。いや、当然極まることだから、記録されていないだけで、ちょっと考えれば、他に選択肢はないのである。
当時の事情を推察するのだが、正始魏使からすると後年の「倭人伝」編纂の際には、「全道里」万二千里が、何らかの事情で、実際の道里に関係なく公認されていたために是正不能であり、部分道里を按分して設定せざるを得なくなり、制度上の欠落を補足するために、実態に合わせて、『全所要日数、都合「水行十日、陸行一月」』を書き込んだと見えるのである。帯方郡の言い訳としては、倭地には、馬車も騎馬連絡もないから、文書使は徒歩連絡のみであり、道里だけでは実際の所要日数が分からないので、別途精査したということになる。
下読みすれば、景初年間には、そのような訂正された道里行程記事が既に記録されていたのが、後年になって、西晋史官である陳寿の編纂によって補正されて「倭人伝」記事となったと見ることができる。案ずるに、後年劉宋の裴松之が「魏志倭人伝」の道里行程記事に異を唱えていないのは、そのような記事が史書として筋が通っていたからであり、結局、陳寿が認めた内容で良しとしたのである。以上が、当ブログ筆者の考える筋書きである。
長大な一連の記事が「従郡至倭」と書き出されているように、本来、道里行程記事は、通過諸国を列挙した後、最終目的地「伊都国」に「到る」(到達する)のが「要件」であったと思われる。まことに、基本に忠実な素直な解釈と思うのだが、氏は、「あまのじゃく」趣味なのだろうか。
意見は人によって異なると思い込んでいる人が結構多いから、「絶対必須要件」と言い募る人がいそうであるが、「要件」だけで重い断定表現であるからこれに四文字を付け足して強調するのは、一種自罰行為なのである。つまり、そのような時代錯誤の多重強調表現を好む人は、丁寧な文章解釈が弱いということを自認/高言していることになるのである。いや、これは「余談」であるから無視していただいて結構である。
而して、陳寿は、「要件」の後年補足の体で、「最終目的地を発して四囲に至る記事」を貼り込んだと見ると、もっとも筋が通るのである。筋が通らない解釈を好まれる方には、「倭人伝」の有力な同時代読者である皇帝や有司/高官は、面倒くさい理屈は不要であり、さっさと結論を示せと言うだけだったはずであると申し上げるまでである。陳寿には、二千年後生の無教養な東夷の好む紆余曲折に富む記事を書く動機は、全く無かったのである。
その解釈を妨げるのは、俗耳に好まれている『「正始魏使が伊都国、奴国、不弥国、投馬国を経て邪馬壹国に至る」行程を順次踏破して、その記録が「倭人伝」に道里行程記事として記録されている』という「もっともらしい」というか「胡散臭い」というか、どうにも据わりの悪い「解釈」であるが、「道里行程記事は、魏使行程記録でない」と善解すれば、論者の面子は保たれ、恥の上塗りになるような異議は回避される。
「倭人伝」道里行程記事談義は別記事に譲るが、諸処の記事で明らかである。むしろ、「行程最終地が邪馬壹国(女王の居処)であり、そこに到るまでに、(傍線行程と明記している)奴国、不弥国、投馬国を順次通過した」との頑固な「思い込みが、順当/妥当な大局解釈を牢固として阻止している」と見える。いや、「業界の大勢がそのように決め込んでいる」から、論者が「大勢」に染まっていたとしても、別に恥ではない。勘違いに気がつくかどうかである。いや、所属組織の君命で「通説」を断固死守しているとしたら、もはや、治癒の目処は無い(つけるクスリが無い)とも言える。
事程左様に、解釈以前の下読みが、曲解/正解の岐路である。
ちなみに、当ブログは、「多い」「少ない」の不明瞭/あいまい/感覚的な評言は、極力避けているのであり、ここで言う「大勢」は、俗耳に好まれているという趣旨でしかない。
4.論争の原点(第6章)~無残な改竄説提起
ここまで、高い評価を続けていたのだが、最後に、氏の愛蔵する「改竄説」の「魔剣再現」である。結局、氏が、「倭人伝」道里行程記事を適確に解釈できない混乱状態にあるという自嘲状態を自己流に解消するために、混乱の責任を原典改竄に押しつける「付け回し」である。まことに勿体ないので、氏自身で、共犯関係を清算するように「猛省」頂きたいものである。
◯道里行程記事の新解紹介~私見 2023/06/30,2024/06/12
一連の書評で、批判だけで当方の見解を述べるのを避けているのは、聞く気が無いと思われる相手に「本気で」論じるのは、キリスト教の聖人が飛ぶ鳥に説法する姿を思い出させて、面倒くさかったもので有るが、本件では、氏の読者も含めて、幾許かの「説法」を試みようかと感じたものである。ほんの気まぐれである。
「倭人伝」道里行程記事は、「末羅国での上陸以降の倭地の陸行行程の様子がはっきり分かっていない時点で書かれた」と見るのが、妥当と思われる。記事は、狗邪韓国から倭地に至る「周旋五千里」について、洲島、つまり、大海の流れに浮かぶ中之島を飛び飛びに渡ると書いているが、末羅国以降は、公式道里として異例の「陸行」と明記している以上、陸続きと見るのが至当であるが、不確かにとどめているのだから、末羅国から伊都国への「末伊五百里」は、大変、大変不確かなのである。
郡から倭までは、「郡倭万二千里」の行程であり、郡から末羅国までは、行程を加算して一万里としか書かれていないから、だれが暗算しても「二千里」が残るのである。
千里単位で云うと、十二[千里]から十[千里]を減じると、二[千里]が残るが、千里単位の概数計算であるから、100里に始まり5,000里に至りそうな許容範囲のどこに落ち着くかは、皆目わからないのである。何しろ、三度の渡海は、全て、一[千里]で仕切っているが、街道道里は示されていないから、道里は一切不明であり、したがって、概数計算すら成立しないのである。
その点を回避したものとして、安本美典氏は、現在の地図上に、明記されている道里を加算して十[千里]である末羅国の図上推定位置を中心に、郡から狗邪韓国までの「郡狗七[千里]」から推定した半径二[千里]の円を、ある程度の不確かさの幅を持って描く手法で「邪馬台国」の存在確率の高い同心円範囲を描いている。要するに、氏の図上推計は、確たる根拠があると見える「郡狗七[千里]」を道里行程記事の「原器」、「物差」と見るものであり、誠に、理性的な判断であると賛辞を呈するものである。
但し、私見では、氏の提言は、場違いな、現代的推計手法を採用しているので、古代史史料に対して適用すると、一抹の蹉跌が避けられないと見るのである。特に、「郡倭万二千里」は、実測里数に基づくものでなく、周制以来、辺境に天子の威光が及んでいる様を述べるものとして、公孫氏が記録に留めたものであり、そのような概念的な万二[千里]を按分した帳尻の二[千里]が、記事に「明記」された桁外れの五[百里]とどう関係するのか、正直のところ、わからないのである。道里行程記事の[千里]単位の記事は、なべて「余里」と、あえて付記していることで念押しされているように、端数である[百里]のけたの数字は、桁外れて意味がないのである。
してみると、道里行程記事の末羅国以降は、魏の街道道里制度の全く届いていない地域なので、折角の「原器」も利用できないと見るものである。して見ると、「末伊五百里」は、百里程度より遠く最大五千里程度まで届きそうな可能性が否定できないと見るものである。何れにしろ、概数計算の端(はし)たであるから、この五百里には、道里としての意味が「ない」のである。
要するに、按分の基点が「従郡至倭」「万二千里」であるが、これは、明らかに、街道道里ではなく、天子の威光の届く果ての「荒地」という「趣旨」で公孫氏が書き留めていたものが、公孫氏が司馬懿に討伐されて記録類が一切破壊される以前に、明帝が勅命で樂浪/帯方両郡を無血回収して両郡文書を入手した際、公孫氏の「趣旨」を知らない新任郡太守が明帝にそのまま上申したものであり、言わば、意図せざる「誤報」が、明帝に,倭人が万二千里の彼方に実在しているとする「世紀の誤解」を齎したと見えるのである。
当ブログ著者が、最近到達した明快な見解であるが、要するに、陳寿はそのような「誤報」の背景を承知していたが、景初三年元日に急逝した明帝が残した文書は神聖不可侵であり、これを温存しつつ実務に不可欠な到達日数を書き込んだと見るものである。
不確かな推定の積み重ねであるが、概算計算の妙で、いわば、ゆるゆるの箍をはめていたという推定である。
またもや念押しすると、道里行程記事を滑らかに読み解くと、「従郡至倭万二千里」の最終目的地「倭」は、後漢末期献帝建安年間の初見段階では伊都国だったのであり、後に「女王」共立という画期的な事件の後に創設されたと見える、末尾に追記された「邪馬壹国」/「女王国」は、初期記事の行程の圏外なので、伊都国からの道里は書かれていないとも見えるのである。
一説では、「女王国」は、伊都国の国王居処の間近で、数里程度であったので、割愛したという。別の一説では、「邪馬壹国」は自立できないので、伊都国の隔壁集落(国邑)の内部に包含されて、存在していたとみている。
国内史論で、しばしば誤用されている「宮都」は、本来、「宮」(帝都城郭の一角である「小部屋」)を囲う「都」城/城壁の意味であり、そのように正解すると、「邪馬壹国」は、「城内城」と解されるのであるが、国内史学論者には、受け入れがたい解釈と思われる。結局、「倭人伝」は、三世紀中原史官が、同時代の読書人の理解に適した用語、文体で書いたものであるから、しばしば誤解されて当然である。
別の一説では、周秦漢魏晋官制では、郡から送達された文書は、伊都国の受信箱に届いた時点で、女王が査収したと解釈されていたので、伊都国が文書便/行人の行程終着点という。この場合、「女王国」への道里が「多少」遠くても、官制上関係無いから離れていても問題ないと言える。
人によっては、それなら道里を勘定しないで纏向遺跡まで文書が届くというかも知れないが、言下に否定できないとしても、さすがに、一か月以上かかりそうな遠距離交信は、論外と見るものではないか。とはいえ、そのような極論を紹介したあとで、さらりと熊本説を提示すれば、抵抗が少ないかと見える。いや、さすがに半ば冗談である。
以上の筋道をたどれば、伊都国の位置は、末羅国の概して南方であるというものの、遠くは、日田、久留米のあたりまで包含できるという解釈が可能であり、「邪馬壹国」は、そこから先なので、先ほどの論理に近い理由付けすれば、無残な原文改竄説に固執しなくても「邪馬台国熊本」説は堂堂と維持できるのである。未だ未だ間に合うから、次書で堂堂と撤回されたらいかがであろうか。
その際、『伊都国から、奴国、不弥国、投馬国の「余傍三カ国」への行程は、わき道であるから、勘定しない』と迷妄の根源を絶ちきる必要があるのは、言うまでもない。道里行程記事が錯綜するのは、「余傍三カ国」がぶら下がっているからである。錯綜の根源を絶てば、明快になるが、それが、魏志「倭人伝」道里行程記事の本旨/真意なのである。
◯まとめ~ダイ・ハーデストか
折角の畢生の好著の最後に、年代物の「倭人伝」改竄説を呼び込み、因縁の「躓き石」でどうと倒れている。
1~3の見過ごし、勘違いは、年代物の誤謬とは言え、難なく是正ができるが、4は、容易に是正できない重大なものである。理屈を捏ねても望む結論に繋がらないために、無法な後づけに逃げているので、「病膏肓」「最上級のダイハード」(Die Hardest)である。
氏の不評は、道連れにされている「熊本」にも、「くまモン」にも、大いに不幸である。
以上
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