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2024年7月

2024年7月27日 (土)

新・私の本棚 中島 信文 「陳寿『三国志』が語る 知られざる 驚異の古代日本」 1/3

 本の研究社 2020年1月初版 アマゾンオンデマンド書籍
私の見立て ★★★★☆ 深い知見・考察の新たな史学書 必読 2020/01/23 2024/07/27

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇総評 一部再掲
 中島信文氏は、多年工学・技術分野の実業に従事され一代を画した方であり、引退後は、当分野の古代史に関して、広く関連文献を精読し、新鮮な視野から俗説の弊を正していることに、賞賛を惜しまないものです。

 当方も、独自に考察を重ね、独自の意見を発言しています。

〇本書に対する感慨
 さて、中島氏の陳寿観、范曄観は、我が意を得たもので、このような順当な観点が今まで消し去られていたのは、嘆かわしいものがあります。国内史学界は、「纏向遺跡」高揚に邪魔な「倭人伝」への偏見が堆積し、正当な論議が埋没しています。
 出回っている史料読み替えは、現代人創作の偽書です。
 原因は、当分野の一般向け解説書が、崇范曄、罵陳寿を刷り込むため、真に受けた論客が、無批判追従するところにあると見受けます。

 そうした感慨はさておき、中島氏の論考は、中国古典史料から出発して大変貴重なものです。そう言うと、反射的に、中国史料絶対視批判が出るでしょうが、氏の論考は慎重な史料批判を経た上のものであり、安直な先人追従べったりの俗説による「魏志」崇拝/否定の二極分離とは異なるものです。
 「まず筆者の真意を読み取るべし」との文書解釈大原則を知らない無教養な俗人が徘徊しているため、くどくど前置きせざるを得ないのです。
 案ずるに、学界関係者は、先賢の言説を否定すると、学界での将来が閉ざされ生業を失うため、頑として先賢に従っていると見てとれます。これでは、本書といえども、滴水の一滴かと噛みしめるしかないのです。いくら強力に発信しても、受信機の電源が切れていたら何も伝わらないのです。
 本書を一読いただくのが始まりで、直ちに回心されることは無いとしても、世の中には、かくも本格的な主張があることを意識にとどめてほしいものです。

 ということで、ここに微力ながら中島氏への支持を表明します。

*不同意点
 取り急ぎの口上を述べた上で、私見を確認すると、行程道里の解釈で、地域の政治経済の中心と思われる伊都国から、王都『邪馬台国』の間が、当時、文書交信がほぼできない状態と交通事情とを考慮すると、両国間で密接な連携のできない遠隔に想定されているのには同意できません。精々、一日、二日の道のりだったのでは無いでしょうか。

 意見の相違は避けられない以上、論議を挑むものではないのです。ご不審なら、過去記事を確認いただきたいものです。

*当ブログにおける范曄批判について
 本件について初見の方は、以下の議論が唐突に見えると思いますので、若干捕捉します。
 「倭人伝」史料批判で、先賢諸兄姉の意見に困惑するのは、はなから、「倭人伝」編者の陳寿への反感が展開され、対照的に笵曄「後漢書」東夷列伝「倭条」編者である范曄への好感が示されていて、そうした判断の論拠が示されないまま、一種の決定事項として論議が進んでいる例が多々見られることです。しかし、課題となっているのは、「倭人伝」の解釈であって、「後漢書」倭条は、いわば、通りすがりの野次馬なのです。従って、この野次馬が、単なる野次馬なのか、陳寿の見解を克服するに足る信頼を託せるかどうか、審査を重ねる必要があると考えたものです。

 私見では、中島氏は、倭条と倭人伝の対照から、倭条が、史書としての信頼性を有しないとしていますが、当方は、別の見地から、笵曄の文筆家としての「曲筆」、華麗な修飾偏愛を、実例を根拠として、厳正に指摘しているものです。

 ご不満の方は、提示した史書を確認頂いた上で、ご自身の反論を提示いただきたいものです。くれぐれも、ご自身の思い入れ、情感を振り回した「そんな馬鹿な」的な印象批評はご勘弁ください。

*范曄批判 其の壹 「倭国大乱」の「大罪」
 私見では「倭国大乱」に文筆家たるの笵曄の大誤謬が明示されています。
 「大乱」は、単に規模の大きい[乱]でなく全く別の事象です。

 良く言う「天下大乱」が由来であり、これは、中原天下の帝国が瓦解し、新たに覇権を求めた群雄が天命を争う状態を示す、大変特別な言葉です。例えば、秦末期、咸陽に二世皇帝がいても各地の武装蜂起で、天下は覇者を見失い、最後、劉邦と項羽の両雄が争った「中原逐鹿」事態に至ります。
 従って、史官たる陳寿は、東夷王権不安定状態を単に乱れたとしているのです。笵曄の「大」は、水の沸点のような「臨界」の通過を示します。

〇文筆家、ロマンチスト 范曄
 笵曄は、史官ではなく、畢生の文筆家として「美しい」(美文)史談を書いたのであり、重大な用語へのけじめを持たず、無造作に「倭國大亂更相攻伐歴年無主」と四字句を揃えたのです。蛮夷「倭」の記事で、風聞をもとに「大乱」と書くのは天子に不敬であり史官ならもってのほかなのです。

 范曄が史官でないのはこの点に表れています。華麗な文体にこだわって正確さは二の次であることから、後漢書倭伝に信を置いてはならないのです。

                                未完


新・私の本棚 中島 信文 「陳寿『三国志』が語る 知られざる 驚異の古代日本」 2/3

 本の研究社 2020年1月初版 アマゾンオンデマンド書籍
私の見立て ★★★★☆ 深い知見・考察の新たな史学書 必読 2020/01/23 2024/07/27

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇范曄批判 其の貳  後漢書西域伝の誤謬
 ここからしばらく話しは、大変長くなりますが、論議を飛躍させたくなかったので、経過する階梯を逐一辿ることにしました。気が向いたら読んでください。
 曹魏史官と思われる魚豢は、「魏略」西戎伝編纂時、西域実情を知るすべがなかったものの、原記録に訂正を加えず、考察追記にとどめたのです。

*甘英抗命談 范曄創作の背景 (条支、大秦比定は、独創の新説)
 端的に言うと、後漢書「西域伝」は、笵曄の誤謬に基づく創作なのです。
 魏略「西戎伝」によると、西域都護副官の甘英が、漢代西域の西限であった安息国に入り、目前の大海「カスピ海」対岸の条支(海西 アルメニア王国)と南岸の大秦(安息国 メディア公国)の情報を持ち帰って大功を立てたのです。
 西戎伝では、甘英は、カスピ海東岸の「大国」、実は、地方公国である安息で情報収集した地理記事を適確に記録したのです。西戎伝は、三千字を越えて、そのうち、漢書に無い「新界」記事は千五百字近い大部の記録です。

*混乱の起源 「安息」帝国と「小安息」公国の混同
 しかし、洛陽書庫の班固「漢書」西域伝には、安息が西方数千里の彼方に国都がある巨大な大国とあり、洛陽史官が、不整合情報を書き足したので混乱したのです。かくして難解な地理記事となり、誤釈で、本来の使命であった条支、大秦に関する記事のかなりの部分が所在不明になりました。
 念のため言うと、これは、范曄にも魚豢にも責任のない、いわば、不可抗力、天災の咎めが、後世に及んでいるのです。そう、笵曄「後漢書」西域伝安息条には、中国の「典客」に相当すると思われる応接者/長老が、「小安息」と自称していたことが書き留められているのです。あるいは、メソポタミア世界を睥睨している西の国都領域と対比して、「東安」、ないしは、「東安息」と称していたかもわかりませんが、甘英が受け取った国書には、中国語の安息に相当する国号、Partiaが明記されていたので、そのような実態は、報告書に大書されなかったのでしょう。少なくとも、洛陽史官には、全く意想外だったと見えます。

 因みに、西戎伝に採用された後漢朝記録は、実態が不明な「其国」主語や、そもそも、漢文に多い主語省略の影響で、風俗、産物記事の主体が不明になっていて、あるいは、簡牘の革紐が切れた散乱による乱丁があったのか、どこの事情なのか、解釈困難で、ほとんど不可能な文書になっていますが、これもまた、范曄にも魚豢にも責任のない、いわば、不可抗力、天災の咎めが、後世に及んでいるのです。

*范曄「大秦神話」創作の由来
 解釈困難(不可能)な史料に辟易したか、博識の文章家を自負する范曄は、全知全能を傾けた苦慮の結果、西戎伝の新界情報を棄却して、甘英抗命記事の後に、行き損ねて探索できなかったはずの大秦国の風俗満載の戯画記事をでっち上げたのです。かくて、甘英、洛陽史官、魚豢、范曄と、数世紀の時と万里の距離が離れるていくままに、本来、実務本位で書かれた明快、簡潔な資料の中で誤解がはるばると成長したのです。
 後漢書では、甘英は、数千里西行の果て、シリアとされる地中海沿岸でローマ行を放棄し、虚しく遠路を引き返した戯画まで描かれているのです。

*甘英雪辱、再評価 重大な使命の正体
 甘英は、不世出の西域都護班超が副官に登用した赫々たる武人です。史官の家で史官の訓練を受けながら武人に転じた班超が異郷探査任務を課した甘英が、命を惜しんで抗命する訳はないのです。そもそも、班超が存在を知らなかった新天地大秦の冒険探査を指示するわけはないのであり、漢書が記録した西域の西の果ての「蕃客」安息、条支の国情を探査し、西域都護幕の西界同盟軍として締盟を図るのが使命の筈です。

*范曄渾身の場違いな創作
和帝永元九年,都護班超遣甘英使大秦,抵條支。臨大海欲度,而安息西界船人谓英曰:「海水広大,往來者逢善風三月乃得度,若遇迟風,亦有二歲者,故入海人皆赍三歲粮。海中善使人思土恋慕,數有死亡者。」英聞之乃止。

 これは後漢書安息国記事では場違いで無様です。「安息西界」は安息西境メソポタミアであり、当時、東地中海は、全てローマ領であったことから、不合理です。
 また、西域伝で、条支は、既知の烏弋山離の西傍であり、都城は明らかに西岸です。なお、現地の大海はカスピ海であり、数日で渡れる「大海」です。

 但し、そのような批判は、現地事情に即した記録解釈から得られるものであり、笵曄自身は、生涯行き着けない憧憬の西界に茫々たる「西海」を想定していたのであり、「大秦」の所在は明言していないのです。

 後漢書西域伝「大秦条」は、「大秦國,一名犁鞬」と書き出していて、漢書でアラル海付近にあったとされている遊牧民の小国の名を持っていたものであり、条支、安息の東北方近隣の小勢力だったと示しているのです。西戎伝では、この後に「在安息」と付記して、文脈からカスピ海南岸と示していますが、句点付けの謬りにより、甘英にとっては未知の条支西方に位置づけられてしまったのです。

 ただし、その後段に、この書き出しを裏付ける明確な記事は無いため、大秦が、実世界のイタリア半島、さらには、大西洋のような遙か西方に投影されたのは、後世人の憶測であり、漢書記事の西域最新事情すら知る術のなかった笵曄には責任はないのです。

 魚豢の手になる魏略西戎伝は、現地探査した西戎地理原情報をもとに、適確な「新界像」を描いていますが、笵曄は、後漢史官が誤解して付け足した補注を重視して、「新界像」を風聞として斥け、続いて描く大秦記事に地理情報が無い言い訳として『「船人曰」に恐れを成した甘英抗命』を創作したものと思われます。

*笵曄に「史料破壊」の過失
 どんな信念を形成していたにしろ、どんな動機があったにしろ、史書編纂において原資料を棄却して創作で埋めるのは、史官の使命、道義に反することであり、范曄が史官でないことを物語っているのです。

 また、西域傳編纂の際に、西戎伝前半の大変貴重な諸国情報を大量廃棄した手口も支持できないのです。裴松之が、魏志に補追したために、魏志本文と同様の高精度の写本継承で、今日までほぼ忠実に承継された魏略西戎伝がなければ、後世人は、西域から追い出されても不屈の意気で西域都護を復活させた後漢の偉業を知ることはできなかったのです。(後漢書には、むしろ散漫な写本継承の兆候が見えるのです)

*笵曄「後漢書」倭傳評価の適正化
 史実を探るには、范曄「後漢書」をそのまま信じてはならないのです。
 念のため補足すると、ここで論じているのは、西域伝、東夷伝の蛮夷伝に限ったものであり、後漢書の本文である本紀と列伝(蛮夷伝を除く)には、先行諸家後漢書が編纂されていて、流布していたため、美文家といえども、内容改竄はできなかったものです。
 西域伝については、雒陽の公文書館に資料が集積されていて、魚豢「魏略」西戎伝に収容されていたのですが、後漢代史料と曹魏代資料が渾然としていたため、後漢書「西域伝」の編纂には、多大な労苦が伴ったと見えます。
 東夷伝については、後漢末期、献帝の建安年間に遼東郡太守となった公孫氏が、雒陽の混乱をよいことに、自立を図ったため、公文書上申が滞り、従って、東夷伝の編纂は、史料不足で難渋したものと見えます。
 笵曄「後漢書」倭条は、従って、雒陽公文書庫に依存できず、陳寿「三国志」魏志倭人伝に依存したものと見えます。これは、先賢諸兄姉の頓に指摘するところであり、後漢書「倭条」は、「同時代同地域の史料として信用できないもの」との評価が定着したものとみています。

                                未完

新・私の本棚 中島 信文 「陳寿『三国志』が語る 知られざる 驚異の古代日本」 3/3

 本の研究社 2020年1月初版 アマゾンオンデマンド書籍
私の見立て ★★★★☆ 深い知見・考察の新たな史学書 必読 2020/01/23 2024/07/27

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*武人甘英の面目 別視点による考証
 西域都護が重大な使命(君命)を託した副官に重大な抗命があれば、都護は皇帝に奏上し副官を誅殺したはずですが、同代史書に、かくなる無面目記事は無いのです。ことは、後世人范曄の使命誤認であり、本来の使命は大成功でないので明記されていませんが、両国との友好関係を確認したので成功の筈です。

 不名誉な武人挿話と夢物語は、ある意味、鮮やかな創作虚構であり、思うに、笵曄は武人に冷笑的です。史官の素養を棄て、武人に転じた班超への筆誅でしょうか。因みに、班超は漢書編纂者班固の実弟です。

〇范曄総評 適確な評価の試み
 私見ですが、文筆家たる范曄には、取り立てて非難すべき点はないのです。

 繰り返しますが、范曄後漢書倭伝は、行文明解でも不正確で、史書としての不備が多いので、史論に於いて無批判な踏襲は避けるべきだというだけです。主部の本紀、列伝は、先行書があって、創作はほぼ不可能だったのです。
 むしろ、先例豊富な後漢書を、あえて編纂した事情を察すべきと思います。

 南遷後、中原回復を焦った北伐、軍閥興隆で自滅した西晋を継いだ劉宋武帝劉裕麾下にあり、文帝代に皇弟重臣から閑職に左遷されたこともあって、二世紀以上前の後漢書独創の大事業に没入したと思われます。

 多分、笵曄は「オリジナリティー」偏愛なる深刻な悪癖に陥る誘惑に勝てず、遂に、史官たり得なかったものと思うのです。他人事ではないのです。

〇「沈没」余談
 些細なことですが、古い中国語で「沈」「沈没」は、水に浸かって泳ぐ様を言うのであり、「潜」と書いても、潜水とは限らないのです。

□太平御覽 地部二十三水上は、「爾雅」により水にまつわる言葉を説く。
《爾雅》曰:水行曰涉,逆流而上曰溯洄,順流而下曰溯游,亦曰沿流。
    絕流而渡曰亂。以衣涉水曰厲,由膝以下為揭,由膝以上為涉。
    渡水處曰津濟。潛行水下為泳。
 「水行」は、水(河川)を渉(わた)ることを言う。流れを遡ることを「溯洄」と言い、流れに従うことを「溯游」という。概して、流れに沿うという。水深次第で、涸れた川を渡るのは「亂」、衣類そのままの浅瀬渡りは「厲」、膝下は裾を掲げて「揭」、膝を越えると「涉」と言う。「水」の渡しは「津濟」と言う。身を沈めて進行するのは「潜」、泳ぐと言う。

 世の中には、ちょっとした川なら泳いででも渡る豪胆な人がいるようですが、中原人はほとんど金槌だったようです。所詮、泳げたらの話しです。余談御免。

 中島氏が説くように、中原人の教養の範囲で、水は、ほぼ川に決まっていますが、中原の川は、大抵、泥水、濁水なので、向こう岸で清水で身を清める必要があります。まさか着衣で泳ぎ渡る無謀な人はいないでしょうから、着替えの用意が必要です。倭地の川は清水であり、中原とは大違いです。加えて云うと、西域の河川は、多くの場合、塩っぱい塩水です。

 そうそう、金槌の身には、見通しにくい川底の深みが怖いので、命が惜しくなり、精々「揭」止まりなのです。もちろん、腰のあたりまで水が来たら、水の抵抗が大変で、川底を歩くのは大事業です。余談御免。
 因みに、河川上流、下流を、中国語で「上游」、「下游」といいます。またも余談御免。

〇最後に
 私見では、中島氏は、紙数を費やして、立論の根拠、経緯を明示しているので、後学のものは、氏の著作から着実な論考のすすめ方を含めて、大いに学べるのです。望むらくは、読者諸兄は、分厚い刷り込みや行きがかりを棄て、虚心に受け止めていただきたいものです。別に、無批判に追従しろというのではなく、私見では、それは、中島氏が、大いに嫌うはずです。

 最後に私見ですが、倭人伝」用語には、正統派の中原語だけでなく「うみ」(Sea)に親しんだ帯方/韓/倭人の言葉/用字が、かなり入っていると感じていますので、訳文の海、水解釈に対する細(ささ)やかな異論としておきます。

 私見では、陳寿は、このあたりに気づかなかったのか、気づいて干渉しなかった(述べて作らず)のか何れか不明です。史書の編纂は、新手のロマンを捻り出すものではないのであり、既に書かれた先人の知的な遺産を、小賢しい後知恵を排して、適確に史書として構築することにあるのです。

〇評に代えて
 魚豢「西戎伝」末尾の「評」に習えば、人はそれぞれの井戸に生涯閉じ込められた蛙なのです。
 この一文を読んで、多年魚豢に抱いていた不信の念は夢散したのです。現代人が、やや蛙の境地と違うとすれば、しばしば長年の時すら超えて、先人ならぬ先蛙の知恵を知り得ることです。

                                以上

新・私の本棚 番外「魏志倭人伝」への旅 ブログ版 1

邪馬台国研究の基本文献「魏志倭人伝」とその関連史書を探求する Author:hyenanopapa 2024-06-28
私の見立て 当記事限定 ★★☆☆☆ 即断の書き捨て         2024/07/01, 07/27

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに 古田史学論集批判のしっぽ
 当記事は、長年健筆を振るうブログ主(hyenanopapa 以下、筆者)の健在を示すが、筆勢まかせの即断に苦言を呈する。読み囓り論難批判の姿勢を示すため引用を掲載することを、くれぐれもご了解いただきたい。

 『古代に真実を求めて26集』を読む 谷本茂(前半部は、圏外として割愛)
7世紀、九州王朝説の立場から裴世清が訪れた先を九州王朝とする人々は、どういうわけか〝裴清の道行き文〟に触れようとしない。その最後に【既至彼都】と書いてある以上、この文の解釈は避けて通れないはずなのに、である。
 [中略]【又東至一支国又至竹斯国又東至秦王国】この文をどう読めば竹斯国が俀国の都と解釈できるのか?「邪馬壹国の史料批判」(松本清張編『邪馬臺国の常識』所収p162)で、『太平御覧』所引『魏志』の「又南水行・・・」の記事について「もう何の見まちがう文章に書き改められている」と。[中略]
 【又東至一支国又至竹斯国又東至秦王国】は「何の見まちがうこともな」く順次式に読むのだ!と古田氏は仰ってます。竹斯国は単なる通過国―
 よって、九州王朝の都は竹斯国にはありません!

◯コメント 乱文御免
 筆者は、古田氏の失言に執着していて「九州王朝」偏愛とも見える。ちなみに、古田氏が氏の著作外の呉越同舟松本清張編『邪馬臺国の常識』 で主張したのは史料解釈の基本原則である。
 『「倭人伝」道里記事解釈で文法論が言われるが、肝心なのは記事文意であり、(例えば)大部の類書「太平御覧」の編者は、自身の見識で文章を整理している』との指摘(大意)であり、これを正史蛮夷伝として編纂された「俀国伝」に押し付けるのは、古代史官ならぬ古田氏の文意を理解できていないと見える。(『邪馬臺国の常識』は、古田氏にしてみたら到底賛同できないタイトルであるが、 松本清張氏の知遇により、あえて火中の栗を拾ったものと見える)
 筆者は、古田氏の「主張」を、都合のいいところだけ読みかじりして、手頃な「読み」を造作し、自作自演で俎上両断していると見られかねない。別に古田氏に限ったことでは無いが、古代史書の解釈は、「読み」「書き」の個人の脳内への情報の入出力段階で、手違いが出るものであり、まして、脳内での理屈づけにも、勘違いはつきものであり、あまり、ぱっと見の「思い込み」に振り回されないようにしていただきたいものである。
 何れにしろ、「俀国伝」に関する古田氏の論考批判は、古田氏が自説著作を重ねたものを批判するものであり、筆者の愛読書に偏ることなく、要するに、適切な出典・文脈を、自身の責任で選ぶべきものと思う。ここは、筆者にして、ずいぶん粗雑である。

*「竹斯国比定」の否定
 筆者は、竹斯国は単なる通過国筆者の価値判断を強引に押し付けるが、「魏志倭人伝」での伊都国「到」着との明記を通過国と読み替えるのと同様であり、とは言うものの、はなから否定はしないで、根拠不明としておく。
 筆者は、『その都(みやこ)が「竹斯国」にない』と断定したが、暗に初出の「秦王国」に比定したかとも見える。ともあれ、筆者は根拠を示さず結論を投げ出していて粗雑にみえるが、言わぬが花であろうか。確か、著者は「九州王朝」を否定しているはずなのだが、ここで、どんでん返ししているとも見える。

*地図の思想 Google Map利用規程遵守
 当地図の追記が不明瞭である。利用規約を遵守し、ご自愛いただきたい。

*不適切な引用作法
 時代錯誤、お手盛りの「地図」掲示に関わらず、本論論義は断片佚文で句読点は無い。古田氏の発言ともども文脈を読みちぎって食い散らかしているので、筆者ほどの見識の方にして、誤解を避けられず、何とも不用意と見える。ご自愛いただきたいものである。

 「俀国伝」で、「魏志倭人伝」公式行程の未詳部分、(山東半島東莱以降。狗邪韓国、対海国不通過)一支国以西と竹斯国以降が補充されたのであり、「倭人伝」既出部分は、自明のこととして「倭人伝」依拠しているので、重複を避けていると見える。文林郎裴世清は、職掌柄、史書書法に厳密であるが、後生読者は隋書「俀国伝」だけ読んで迷走しているように見える。いや、遡って「倭人伝」道里記事の読解にも、かなり難があると見えるが、当書評の圏外である。

◯私見披瀝
 言葉を足すと、竹斯国が「倭人伝」到達地伊都国である』のは、「裴世清とその読者に自明である」ことから、「倭人伝」で不詳の秦王国などが、「余傍」のついでで書かれたと見える。筆者は、特段の根拠が無いままに、裴世清一行が竹斯国を通過して、さらに東進し、海岸から渡海した」と即断した」と見える。筆者は、さらに(又)臆測に耽って「道行き文」不記載の長途海行を図示された要するに、いずれも「俀国伝」には書かれていないと見て取れるはずである。筆者は、脳内の隋書「俀国伝」を幻視しているのだが、それを自覚していないのである。
 結論を急かずに、ユルユルと文意を追えば、そのように一刀両断できないのに気づいて頂けるはずである。筆者ほど博識の方が、臆測にどっぷり浸かっているのを自覚すること無く、事ごとに断定を急ぐのは不用意と見える。

                               以上

追記 2024/07/27
 肝心な意義を書き漏らしていたので、以下、追記する。
 氏は、勝手に、読み囓りの手管で「短縮改竄」しているが、丁寧に引用すると、以下の文脈が関連していると見るべきで有る。「又東至一支國又至竹斯國又東至秦王國」は、文などでは無く、断片であって、これだけで、文意を解するのは、子供じみた読みかじりである。氏のために、軽率を惜しむものである。
 ちなみに、行番号、句読点と改行は、文意を考慮したものである。
 1.又東至一支國,
 2.又至竹斯國,
 3.又東至秦王國,其人同於華夏,以為夷洲,疑不能明也。
 4.又經十餘國,達於海岸。
 5.自竹斯國以東,皆附庸於俀。

 氏は無頓着に書き飛ばしているが、ここは、1-4 行程記事四段と5 結論が書かれていると見るものではないかと思量する。特に、5.で「自竹斯國以東」とまとめているのは、2 で倭都への行程を括っているから、3 秦王国(風聞)、4 十余国を経て海岸、即ち海港に至るという報告は、落ち着いて読解していただければ、付け足しに過ぎないと理解できるはずである。ひょっとして、氏は、「又東至一支國又至竹斯國又東至秦王國」まで食い千切って、以下は無視したのだろうか。それなら、軽率の誹りを免れないと見るのである。

 言うまでもないと思うのだが、5「自竹斯國以東,皆附庸於俀。」と総括しているのは、近傍の4 「秦王國」と5 「同國から海岸に至るまでのこれも近傍の無名の十餘國」であって、あくまで揃って竹斯国の東の近隣諸国と解すべきなのである。どうやら、裴世清は竹斯国を離れていないと読むのが、同時代読者にとって自然なのである。

 当ブログでの「倭人伝」道里行程記事解釈は、とうに、確固たる結論に達していて、郡から倭に至る行程は、伊都国で完結していて、「邪馬壹国」は、伊都国の近傍にあり、郡からの使者は、伊都国で使務を終えている、それが、倭人伝の真意である、と確認しているのであり、現代風に言うなら、九州島の北部、かつ中央部にとどまっているというものである。
 倭人伝に書かれている内容を強引に引き伸ばして東方に行程を延伸するのは、原文改竄しかないという意見である。

 ここで、原文改竄する視点であれば、隋書俀国伝でも、竹斯国が到達点と認めることはできず、東方への海上行程を捏ね上げねばならないのだろうが、それは、壮大な創作であり、隋書俀国伝文献解釈とは無縁の衆生と言わざるを得ないのである。

以上


 

2024年7月12日 (金)

倭人伝の散歩道2017 序章・三国志の由来 1/4 再掲

                             2017/06/24  補追 2024/07/12

*加筆再掲の弁
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◯はじめに
 本稿執筆の契機は、「中華帝国志」  中 権謀術数篇 安能努(講談社文庫)冒頭の述解である。

 「正史「三国志」自体の記述に前後の乱れや左右の齟齬が甚だしい、ということである。例えば、あの名高い「赤壁の戦い」がそうであった。」と提起して、具体的に正史本文を引用して読み解いた上で、「以上四つの記述が明らかにした「確かな史実」は 二つだけである。
 一つは、赤壁で戦いがあった。もう一つは、曹操の魏軍が敗北したということである。曹軍が戦った相手は、劉備の蜀軍だったのか、孫権の呉軍だったのか、はたまた呉蜀の連合軍だったのかすら明らかではない。いや戦場は陸上だったか、水上だったかさえ定かではないのだ。(中略)これは正史を読む者にとっては、まことに困ったことだ。三国時代の歴史ドラマでは最大の見せ場である「赤壁の戦い」の真相が、実はよく分らないでは、まったくの興醒めである」

 「四つの記述」とは、魏書武帝(曹操)紀、呉書呉主(孫権)伝、蜀書先主(劉備)伝の三者三様の記事と、呉書周瑜伝記事である。大事なことであるが、安能氏が、「三国志」参照の際、裴注部分を除き陳寿編纂部のみ論議したのは、至当である。

 安能氏の指摘は、「三国志」なる史書は、「陳寿編纂にも拘わらず、各書の記事間に食い違いがあり、史書として不正確であるというものであり、その好例として、赤壁の戦いに関する記事間の食い違いを指摘しているものである。

 ただし、安能氏は史家でないので無理もないが、「赤壁」の戦いは三国志記事であるが、三国時代でなく、後漢(以下漢)朝事件である。赤壁時点、漢は化石(レジェンド)でなく全国政権として厳然と権勢を振るっていた。「赤壁の戦い」自体、あったのかなかったのかすら不明であるから、安能氏は不満なのである。

 後日談であるが、赤壁の十二年後、建安二十五年に漢は魏に天下を譲り、曹操の後継者曹丕が皇帝となった。これに応じて、劉備は漢を再興し、孫権は呉を興して、三国鼎立した。ここから、三国時代が始まるのである。そして、曹操は、すでに没していた。

 以下手短に述べるように、
「三国志」を構成する「魏国志」、「蜀国志」、「呉国志」は、それぞれの「国志」として独立して編纂されたものであり、最終的に「三国志」とされたものの、各国志の不整合は、史書として最低限の整合しかされていない
のである。

未完

倭人伝の散歩道2017 序章・三国志の由来 2/4 再掲

                             2017/06/24  補追 2024/07/12

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*建安十三年の世界
 曹操は、漢丞相であり、臣下であった。
 孫権は、中央政権の混乱時期に、江南に勢力を確立したが、形式的には漢朝臣下であった。
 劉備は、一時、漢高官となり、皇帝親族、皇叔と厚遇されたが、反曹陰謀に巻き込まれて亡命したので、重罪人であった。

 建安十三年、丞相曹操は、荊州劉表の平定行に出た。劉表は漢の牧であったが、中央の混乱に乗じて自立し、曹操への服従を拒否したので、征討が命じられたが、同年八月に卒した。
 曹操率いる官軍、曹軍は、劉表の死に動揺した荊州を難なく支配下に収め民政を安定させ、引き続き劉備の追跡・討伐に移った。
 劉備軍は、荊州が曹操の麾下に入ったために、配下将兵とともに逃亡したが、根拠地の無い流軍だったのである。この(仮称)劉軍は、兵力をとっても、孫権麾下の有力武将周瑜、魯粛、黄蓋らの部隊と比べて、弱体であった。とても、荊州軍を加えた曹軍に対向できるものでは無かった。

 と言うことで、劉軍が曹軍に抵抗したという魏書記事を信じるのは難しいかもしれない。

 孫権は、呉の支配者であり、軍は孫軍とでも言うのだろうか。
 赤壁の戦いは、一般には曹軍と孫軍の戦闘と解され、劉軍は孫軍に与力したと思われているように思う。
 現に、蜀書は劉軍の軍功を、呉書は孫軍の軍功を誇る記録をそれぞれ残し、それ自体は寛大にも温存されている

*曹軍「不利」
 魏書を見る限り、曹軍は、劉備をつかまえ損ねた上に自軍に疫病が蔓延したので追悼を断念し、荊州制覇を嘉としてて、軍を帰したとしている。

 筑摩書房「正史三国志」の「敗れた」は軽率な誤訳である。原文は「不利」と書いていて、これは「刀剣が切れない」という意味であり、せいぜい、孫権征伐の不首尾を言うだけで、負けたとは書いていない。

 つまり、魏書では、赤壁の敗戦など無かったのである。甚だしい敗戦の時に避けられない有力武将の多数の戦死者は出ていないのを見ても、大敗はしていないらしい。

 未完

倭人伝の散歩道2017 序章・三国志の由来 3/4 再掲

                             2017/06/24  補追 2024/07/12

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*勅命と違勅
 曹操は、皇帝でなく丞相であるから、軍事行動に勅命が必要だった。つまり、荊州遠征と大罪人劉備の征討までは勅命であるが、孫権征討の勅命は受けてないから、戦えば違勅であるというものの、曹軍から孫権攻撃の勅命を仰いだ記録はないようである。

 比較すると、司馬懿が太和二年、有力武将である孟達を、蜀への内通により討伐したときは、駐屯地から急行討伐し、その後弾劾奏上する非常手段を執っているが、この独断専行は、軍令違反であり、よほどの確信がなければできない。
 と言うことで、曹操は司馬懿と異なり謹直である。

*大敗の罪
 ついでながら、官軍が大敗を喫すると、指揮官の罪は、最悪、大逆罪に等しい大罪となり、本人の死罪だけでなく、妻子、両親、兄弟姉妹に始まる三親等以内の親族全員が連座して死罪となるから、重大な戦闘には、先立って、皇帝の勅令を仰ぎ、敗戦の責任が自分だけに降りかからないように、慎重に保身するのである。

 諸般の事情から、魏書に孫権との戦闘記録は残せなかったのであろう。

*呉書記事
 呉書には、孫権の談話とは言え、「老賊」の表現があり、これは曹操の蔑称である。
 孫権は、曹丞相を「老賊」と呼んでいたのである。呉書では「曹公」とされているが、ここには孫権の肉声が収録され、温存されている。

*国志鼎立
 三国志の各国志は、それぞれの方針で編纂されていて、三国志全巻を一貫した方針で編纂したとは限らない。しかし、それは、編纂方針の不用意な乱れでなく、確たる編纂方針である。

 参考までに手早く確認すると、三国志全体を一史書と判断した例が大半だが、舊唐書経籍志と新唐書芸文志では、「魏国志」三十巻は「正史」であるが、「蜀国志」と「呉国志」は、その他史書(偽史類)とされていたと言うことであるから、少なくとも、唐時代には、三国志全体が正史として取り扱われていたとは限らないようである。

未完

倭人伝の散歩道2017 序章・三国志の由来 4/4 再掲

                             2017/06/24  補追 2024/07/12
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◯まとめ
 以上の考察は、素人考えそのものであり、文献史学や書誌学の権威からすると、素人の勝手な憶測に過ぎないと言われそうだが、素人も素人なりに調べて、懸命に考えているのである。(別に命がけではないが)
 陳寿が、三国志全体の序文などを残していないから、そのような仮説も成立すると思うのである。
 以上は、安能氏の指摘に触発されたものであるが、原史料に戻って調査確認した上の意見であるので、当方の独自の意見とみているである。
 もちろん、全論者の全論説を全て確認したわけではないので、「知る限り」の新説と言うことにしておいていただきたい。

□余談少々
*誰が負けたのか

 愚見を付け足すと、曹軍は江水(長江、揚子江)で戦える水軍を持たないので、孫水軍と対峙したのは、荊水軍の艦と兵である
 ハリウッド映画などでは、浮かぶ要塞のような巨艦が登場するが、劉表時代には、荊水軍に下流を侵略する意図はなかったようだから、そのような巨艦を造船はしていなかったと思われる。華麗なイリュージョンである。

 それにしても、もし、赤壁で水戦があったとしたら、それは、孫水軍と荊水軍の衝突である。その水戦で、荊水軍は大敗して、艦と兵の多くを失ったかも知れないが、曹軍自体は、大した損害を受けなかったのだろう。

 もし、赤壁で曹軍本体が大被害を受けたとしたら、下流の必争地である合肥の戦いで、孫軍は、大勝を博したはずであるが、実際は、あっさり押し戻されたのである。
 周知の通り、江水下流域での魏と呉の対陣で、呉の度重なる北進攻勢が阻止され続けたのは、合肥が、頑として魏の最前線を護り続けたからである。この時、合肥が陥落していれば、魏の国勢は、大きくそがれていたはずである。

いや、これは、かなりマニアックな上に、「倭人伝」論に関係のない、余談であった。

*鼎立を超えて
 当方としては、そこにくわえて、旧遼東郡管轄地域の記事も、あえて、「魏書視点」で書き直されていないことに気づいて欲しいのである。
 何しろ、「東夷伝」は、各国志に欠けている序文を持ち、一書としての構えを備えていのである。

                                      以上

2024年7月 8日 (月)

新・私の本棚 小林 行雄 神と神を祀る者 ムラからクニへ  1/11 再掲

 日本文学の歴史 第一巻 神と神を祀る者  昭和42年5月10日刊
 ムラからクニへ  執筆者 小林行雄 (1911年8月18日 - 1989年2月2日 文学博士)
 私の見立て 全体 ★★★★☆ 学識芳醇 当コラム ★☆☆☆☆ 多々認識不足 2016/08/12 補充 2024/07/08

*加筆再掲の弁
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私見御免
 今回の題材は、古代史分野で古典的となっていた議論を取り上げているのであるが、当ブログ筆者が、こうした記事の論旨展開に異論を感じる由縁をきっちり述べるのに適例と思うので、先賢に対する不遜は承知の上で、率直に書き記すのである。

 当ブログ筆者は、今日ほど、諸情報に容易に接することが出来る時代ではなく、また、学界の主流に堂々と異論を唱える論者が、世に出ることなく陋巷に潜んでいた時代に、学界の大勢を支配していた(いる)論法を一つの事例として提起したいと思ったのである。

 というものの、当記事に提示されている「定説」と言う名の作業「仮説」そのものは過去のものとなったとしても、こうした未熟な論法は、後進の諸兄姉に承継されて健在ではないかと懸念しているものであり、半世紀前の論説といえども、真摯に批判する価値はあると思うのである。

*お断り
 言うまでもないが、当ブログ筆者は、一介の私人、素人であって、古代史学界でこのような尊大な議論を申し立てられる立場にはないのは承知しているのであるが、一読に値すると思う方は、軽く目を通して戴ければ幸いである。

*非礼と不遜
 正直、このような論説を、このようにひなびた場所とは言え、公開するのには、随分抵抗があったが、古代史分野の定説が、なぜ、非合理的、非科学的な俗説と批判されるのか、具体的に示すことが、何かの社会貢献にならないかと、書き綴ったのである。
 もっとも、このような論説を公開することで、当ブログ筆者の考古学分野での世評が悪化したとしても、当方は、一介の私人であり、失う名声も、地位もないので、意を奮って書き始めるのである。
 いや、此までのブログ記事は、全て、そうした「匹夫の勇」で支えられているのである。

 以上、もったいぶった前提を理解した上で、ご不快やお怒りは取り敢えず抑えて、自称「労作」を一通り読んでみて頂きたいのである。

未完

新・私の本棚 小林 行雄 神と神を祀る者 ムラからクニへ  2/11 再掲

 日本文学の歴史 第一巻 神と神を祀る者  昭和42年5月10日刊
 ムラからクニへ  執筆者 小林行雄 (1911年8月18日 - 1989年2月2日 文学博士)
 私の見立て 全体 ★★★★☆ 学識芳醇 当コラム ★☆☆☆☆ 多々認識不足 2016/08/12 補充 2024/07/08

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 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*冤罪払拭

 以下引用した冒頭囲み記事「『魏志』倭人伝の信頼度」を「魏志倭人伝」と言う史料の紹介でなく、タイトルに対する口吻で始めている。

 世間に通じている「魏志倭人伝」なるタイトルは、遙か後世の、多分日本人が、便宜上付けた通称であって、いくら刊本に記載されていても、陳壽が編纂した本文ではない。よって、この通称は、倭人伝の史料としての信頼性には関係ない。

 因みに、遙か後世の南宋時代の版本である所謂「紹凞本」では、「倭人」記事の直前に、一行を費やして、「倭人伝」と書かれていて、世に「倭人伝」と通称される一因と見られる。二千年間のかなりの部分、当部分に対する「栞(しおり)」として、当用写本の上部に朱書されていたのではないかと見るものであり、大変役に立っていたものと思うのである。そのような「栞」付けは、「論語」で常用されていて、段落冒頭二字によって「通称」としていたことが知れているのである。
 なぜ、執筆者が、「通称」に対して反発を示されているのか、一介の素人が否定するものではないから、「理解しがたい」と書き留めておく。
 執筆者は、「魏志倭人伝」が陳寿自身の書き残した原本で無いことを力説されたが、「魏志倭人伝」なる「タイトル」は、あくまで「タイトル」に過ぎない、史料テキストの一部でない。一読者としては、力説の意義を読み取りがたいと書きつけておく。

 ちなみに、「紹凞本」は、北宋時代咸平年間に校正、確定され、初めて木版本として刊本された「咸平本」なる貴重書が、北方民族の江水(長江)岸に至る武力侵攻/文化破壊によって、北宋ほぼ全域で、刊本にとどまらず、印刷機や版木に至るまで撲滅された事態が起きたのである。いや、北方民族は、中原に君臨していた「宋」を打倒する際に、その精神的な支柱である四書五経の「哲學」の撲滅を必須としたため、中国全域の哲學書を木版印刷の版木まで、破壊し尽くしたのである。
 但し、破壊し尽くしたのは、「中国」全土であったので、外界であり、交通疎遠な「四川」、「益州」、ほかならぬ、蜀漢の故地に温存されていた善本写本から、紹凞刊本の木版を起こしたものである。おそらく、益州には咸平刊本が齎されていなかったため一次/二次の高品質の通用写本であったから、行格、字体が、咸平刊本と全く同一でないのに加えて、若干の加筆、誤写が有ったものと見えるのである。
 南宋初期に、北宋刊本の復原を図った際に、格段に進歩した版刻技術を採用したため、行格が精細化したとともに、それまで本文と同一行格であった裴注を、一行を二分する割り注としたことにより、格段に少ない紙数で刊刻できたのである。つまり、陳寿原本と「蛇足」である裴注を視覚的に区分できたのである。
 つまり、南宋紹凞刊本は、木版刊本として北宋咸平刊本に大幅な改善を施した時代頂点の境地(State of the Art)に至ったものであり、その一環として、それまで欄外注記されていた伝名で一行を消費することができたから、「倭人伝」と書くことができたのである。つまり、「倭人伝」は、南宋以降の新世代刊本の隔世の信頼性を物語っているのである。ちなみに、南宋第一世代の「紹興本」は、伝名行を持たない旧世代である。
 執筆者は、そのような細部をご存じないままに、世間に通じている「魏志倭人伝」』なる伝名について講評されているが、少なからず、要点を外れたものと見るものである。おそらく、国内諸史料、所謂「正史」の混沌たる継承状態を見て、「魏志倭人伝」に混沌を見ているのだろうが、それは、実証されていない「思い込み」なのである。

 また、各種資料に引用される際、「魏書」、「魏志」の両様であり、別に「魏志」と呼ぶのが間違っているわけではない。時に、「魏国志」と呼ばれるものでもある。むしろ、どの刊本を、史料文献テキストの原典とするかの選択が肝心であり、「紹凞本」を基礎とする現代刊本が意義を持つのである。
 念のために言うと、史官である陳寿は、三国志を「編纂」したのであり、紀行文学を「創作」したのではないから、オリジナリティー(創作性)を狙ったものではない。
 このような余談めいた書き出しは、以下の展開と相俟って、執筆者の先入観というか、素人考えによる偏見を押しつけるものである。

 ついでにダメ出しすると、当時の言葉で、「中国」とは、魏の統治していた中原のことであり、呉、蜀は、中国を割拠していたのではなく、四夷とも呼ばれた「辺境」を支配していたと見られているのである。これは、かなり深い内容であり、あるいは、執筆者は承知の上で、現代語として使用したかも知れないが、ここは、遠慮せずに書きつけておく。

 また、魏と呉が影響を与えようとしていたのは、北鮮ではなく、中国の北辺、戦国時代の燕の故地への入り口である遼東である。ご専門ではないので、地理認識がずれていたようである。

 いや、議論の本質ではない揚げ足取りに迷い込んだようで、反省する。

未完

新・私の本棚 小林 行雄 神と神を祀る者 ムラからクニへ  3/11 再掲

 日本文学の歴史 第一巻 神と神を祀る者  昭和42年5月10日刊
 ムラからクニへ  執筆者 小林行雄 (1911年8月18日 - 1989年2月2日 文学博士)
 私の見立て 全体 ★★★★☆ 学識芳醇 当コラム ★☆☆☆☆ 多々認識不足 2016/08/12 補充 2024/07/08

*加筆再掲の弁
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*本論 承前
 本論に入ると、何にしろ、三国志魏書東夷伝倭人条(とは、史料には書かれていないように思うが)は、紀行文学ではなく、現場調査の報告文書や王朝官吏の業務記録を活用した知的、民族的記録なのである。史官たる編纂者は、原データの忠実な編纂に努め、自身の感性に従うオリジナリティは、追究してはならないのである。

 必然的に、他の史書や資料からの引用記事が大半になるのは、全知全能ならぬ史官として当然だろう。ただし、編纂する以上、史実たる公文書に基づくのが当然であり、不正確な風評や偏った筆致、果ては、実証されない創作などは、極力排除したのである。こうした編纂が、適確、確実であったことは、後年「三国志」全巻に潤沢な注釈を追加した南朝劉宋の裴松之が書き残しているところでもある。何しろ、追加された注釈は、「他の史書や資料からの引用記事」であって、陳寿が正史として不適切とみたものが大半(事実上全て)であるから、言うならば「蛇足」なのである。

 何しろ、裴松之の注(裴注)が施されたことにより、陳寿の編纂した三国志、陳寿原本は継承されなくなったのである。

*ありふれた低迷
 失礼ながら、このような無造作の断言を好む小林氏の提言は、文献考察の専門家が「三国志」を通読しての考察とは見えないのであるが、それにしても、この評価は、大きく空振っていると見える。そもそも、裴注は、「陳寿原本」のテキストに手を加えていないのであり、当初は、改行した上で追記し、のちには、行を二分割して細字で書き足す「割注」を付け足しているから、「陳寿原本」のテキストは健在であり、言わば不滅不朽と言える。裴松之の真意を察すると、先輩史官の偉業を「当然」賛嘆している後生史官であったから、皇帝の指示はあるものの、「三国志」の真価を認めた上で、裴注があくまで「蛇足」であることが明記された「三国志」を編纂したのである。

 そのような課題が控えているにもかかわらず、この囲み記事では、実際には、倭人伝の史料としての「信頼度」は語られていない。
 以下の議論で、執筆者は、倭人伝記事を細かく取捨選択して、気に入ったところだけ、採り入れているようである。

*引用開始―――
『魏志』倭人伝の信頼度
 日本の古代史に言及するものが、すぐに『魏志』倭人伝というので、そういう表題の書物か文章があると考える人があるかもしれない。しかし、これは『魏書』巻三十の「東夷伝」の一部分をさすもので、しいていえば「倭人の条」である。『魏書』もまた、晋の陳寿が選述した『三国志』の一部分である。陳寿にかぎらず、古代の中国で史書を執筆するばあいには、既存の文章をできるだけ転載するのが常道であった。したがって、『魏志』倭人伝にも、魚豢の『魏略』などから採った章が多い。特に、魏の宮廷に伝わっていた詔書や外交関係の記録なども収録しているので、その部分は信頼度が大きい。また、帯方郡から朝鮮半島南岸の狗邪韓国に行き、対馬・一支(壹岐)・末盧(松浦=唐津市)・伊都(怡土=前原町)・奴(那=福岡市)の順に進むという経路などは疑問がない。ただ邪馬台国に行くには、南へ向かって水行十日、陸行一月かかるという点になると、起点・方向・距離などの解釈によって、大和説と九州説とが対立してしまう。

 女王卑弥呼の時代の東アジア
卑弥呼が倭国の女王であった3世紀前半には,中国では北の魏、南の呉、西の蜀の国がたがいに争っていた。魏が北鮮を陸上から押さえようとすれば,呉は海上.から勧誘の手をさしのべるという状態であった。卑弥呼が魏に朝貢して破格の待遇をうけたのも,中国にそのような内部事情があったことを、一つの理由として考えることができる。

*引用終了―――

未完

新・私の本棚 小林 行雄 神と神を祀る者 ムラからクニへ  4/11 再掲

 日本文学の歴史 第一巻 神と神を祀る者  昭和42年5月10日刊
 ムラからクニへ  執筆者 小林行雄 (1911年8月18日 - 1989年2月2日 文学博士)
 私の見立て 全体 ★★★★☆ 学識芳醇 当コラム ★☆☆☆☆ 多々認識不足 2016/08/12 補充 2024/07/08

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*ムラからクニへ=場違いな議論
 本書は「日本文学の歴史」であり、当巻は、日本文学の揺籃時代、まだ、文字記録のなかった時代の人の想いを語ろうとしているのである。
 当記事の章題を信じるならば、ここには、それまで、今日の日本という国家の形成過程で、後世国土となる領域に、ばらばらに、つまり、時には離散していたムラが、三世紀前半の中国との文化交流を契機に、次第に発展的に結集して、クニとなる姿が描かれているものと期待するのだが、実際は、そうした筋書きは書かれていない。

 ここで、執筆者は、「邪馬台国」の「中国」(魏朝)との交信を取り上げざるを得なかったようで、けっこうページ数の大半を費やしていると見えるが、本書の語りの中では、違和感を感じさせる。また、いわば、剪定によって枝を刈り摘める手業が見えるのである。

 つまり、この時代の「日本文化」を探る上で、同時代の文章資料として、ほぼ唯一の魏志倭人伝が厳然と聳(そび)えているので、できることならこれを何とか手元に取りこんで、出来ないときは難癖を付けて排除して、以下、本ブログ筆者がしきりにぼやいているように、あたかも盆栽を丹精するが如く、執筆者の意のままの形に仕上げて、持論の一部としようとしているように見えるのである。

*史観の押しつけへの反発
 「そのころ日本において最高の地位をしめていた邪馬台国」と書かれている「日本」という「時代錯誤」の言葉を、読者が現代風に解釈すると、本州島、四国島、九州島を支配する邪馬台国を想定してしまうのである。
 つまり、あからさまにではないが、三世紀当時、既に広大な国土に、統一された古代国家が成立していたと理解しないといけないと思わされてしまう。
 しかし、執筆者が想定しているのは、現在の奈良県の南部と北部をのぞいた中部、「中部大和」を短縮した「中和」に存在したと仮定される「中和」政権と、九州北部の「筑紫」に存在したと仮定される「筑紫」政権とを想定し、二択問題としつつ、おとなの姿勢で断言を避けながら、いずれかの国が、当時の中国の中核部を支配していた魏朝と交信したと想定されることを述べている。

 ただし、当ブログ記事では、邪馬台国名称の議論を避けると共に、筑紫の倭国と中和の倭国が、同等の選択肢であるとの先入観を避けたいので、取り敢えずは、邪馬台国とか、「邪馬台国**説」とか言わないことにする。
 馴染みにくい呼称で、面倒と思うが、「地域ブランド」に影響されるのを避けたいのである。

*重大な分岐点
 筑紫倭国が魏に遣使したと想定すると、その勢力が現在の福岡県内にとどまっていても十分であり、それは、あくまで小ぶりでムラに近いクニである。
 一方、中和倭国が魏に遣使したと想定することは、中和倭国は、現在の奈良県から大阪府を皮切りに、後世で言う中国路を全面的に支配して、ついには、筑紫まで支配している必要があり、つまり、中和倭国は、ムラに近いクニなどではなく、これらの遠大な経路を含む広大な領域を強力に支配する強大な「古代国家」を想定していることになる。
 ことは、所在地に迷うだけの二者択一ではなく、国家像の大きな違いを含んでいる重大な選択の分岐点なのである。

 そうした重大な選択の分岐点を選択しないままに、「魏志倭人伝」記事の信頼性をあげつらっているのは、考古学が科学の一分野として存在するのであれば、感心したものではないのである。

未完

新・私の本棚 小林 行雄 神と神を祀る者 ムラからクニへ  5/11 再掲

 日本文学の歴史 第一巻 神と神を祀る者  昭和42年5月10日刊
 ムラからクニへ  執筆者 小林行雄 (1911年8月18日 - 1989年2月2日 文学博士)
 私の見立て 全体 ★★★★☆ 学識芳醇 当コラム ★☆☆☆☆ 多々認識不足 2016/08/12 補充 2024/07/08

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*主観的な史料評価と採否
 「倭人伝」記事に対する評価は、執筆者の心の揺れに応じて、うねっているようである。

 官吏の名称を卑狗とか卑奴母離とかの文字で表記しているのが、ヒコやヒナモリという昔を伝えたものとすれば、当時の言語がのちの彦・夷守という日本語と同一であったことを証明する重要な材料になる。
コメント ここでは、壮大な仮説の証拠として援用されているのである。

 このほか、「魏志」倭人伝は、倭国の風俗習慣や産物などについても、詳しく言及しているが、かなり想像をまじえたものとみられるから、いまは引用を避けておきたい。
 ただし、かりにその報告がかなり正確なものであったとしても、『魏志』倭人伝の記事は、撰者である陳寿や、彼が参考にした『魏略』を編纂した魚篆が、想像をまじえて作文した部分を含んでいるので、そのまま全面的に信頼することはできない。
 『魏書』東夷伝の執筆にあたって、陳寿は『魏略』の文章をしばしば借用した。しかも、原文に多少の変更を加えたので、真実から遠ざかる結果になった部分ができた。
コメント と言う具合に、執筆者の気に入らない部分には、主観的な理由を付けて、容赦なく排除する方針なのである。
 こうした判断は、全面的な断言となっていないので、当方は、批判しても否定は出来ないのだが、こうした当てこすりは、学術論考では、感心しないのではないかと思うのである。

 また、素人目には、「そのまま全面的に信頼することはできない。」というのは、史料に対する態度として、極めて健全であり、むしろ。肯定的な意見と見る。よって、一見否定形の構文は、かなり信頼性の高い史料への評価と見られ、そのような史料の一部を信頼できないとして除外する際には、的確な根拠の元にそのような判断が示されるべきものと思う。

*推定無罪原則
 話の筋がこんがらかったようなので、真っ直ぐに言い直すと、当ブログ筆者の愚考するに、倭人伝」は、同時代史料としてほぼ唯一のものである以上、部分的であろうと、故なくして排除すべきではないと考えるものである。
 また、執筆者が、史書の編纂にあたって「編者が個人的な想像を交えて創作した」などと譏っているのは、根拠のない憶測であり、執筆者ほどの学識、識見の持ち主がとるべき態度とは思えない。三世紀、西晋の史官は公人であり、当時最高の専門的な教養を有する職務に付いていたのであるから、「個人的な想像」などと、二千年後生の無教養な島夷と同列に貶める発言は、控えていただきたいものである。

 率直なところ、素人論者の身の程を弁えず、執筆者の姿勢を批判するのは誠に僭越の極みなのだが、上のような史料評価というか「断罪」は、相当明確な根拠が無い限り、考古学者として避けるべきと考える。
 現世の浮き世の法の裁きがそうであるように、例えどのような嫌疑を受けても、法の裁きが下るまでは、無罪と推定されるのである。

*弁護でなく、摘発でなく、適切な批判
 ここまで、手厳しい意見になってしまったが、それは、「倭人伝」に対して、合理的でない理不尽な非難を示されていることから来るもので有り、執筆者の高名にふさわしい適切な史料批判が行われていたら、ここまで反発しないのである。

未完

新・私の本棚 小林 行雄 神と神を祀る者 ムラからクニへ  6/11 再掲

 日本文学の歴史 第一巻 神と神を祀る者  昭和42年5月10日刊
 ムラからクニへ  執筆者 小林行雄 (1911年8月18日 - 1989年2月2日 文学博士)
 私の見立て 全体 ★★★★☆ 学識芳醇 当コラム ★☆☆☆☆ 多々認識不足 2016/08/12 補充 2024/07/08

驚きの銅鏡配布中心
 魏志倭人伝非難が溢れる記事中で、大きな意義を感じることなく、大変興味を惹かれたのは、「魏志倭人伝」と実は関係の薄い「三角縁神獣鏡」の同笵鏡配布に関する議論である。

 但し、「三角縁神獣鏡」が、倭国の貢献に対する女王への進物として、魏からもたらされたものかどうかは別義である。
 ここで展開されているのは、遺物の発掘状態から、「三角縁神獣鏡」の配布の中心が、木津川にのぞむ椿井の大塚山古墳山城国附近にあったことを示唆する図が示されていて、興味を惹かれるのである。

*古代街道の萌芽
 図示された銅鏡の配布中心は、今日で言う新幹線や高速道路の経路に近く、古代に於いても何らかの街道の通過点、交通の要衝であったとの、可能性を示しているもののように思う。

 ここで、「街道」と言うのは、単に道路が続いているだけでなく、要所要所に『宿場』の役を果たす集落があって、物資を運ぶものが、大量食料を持参せず、やすやすと物資の運送や人員の移動が出来たというものである。

 そのように物流や交通の要衝にあって、「三角縁神獣鏡」のような貴重な、後年の言い方で云えば、高価な財貨物の配布の中心を支配していたものは、独立した権力を持つ地方勢力だったはずで有り、当時としては、かなり遠隔の中和倭国の支配下にあって、単に、その指示に従って「三角縁神獣鏡」の配布を担当しただけだという議論は、物の道理に反していて信じがたいのである。

追記 2024/07/08
 しかも、三世紀後半の時点で、街道整備が無く、まして、文書行政国家を維持できる文字教育、計数教育などの素養を備えた官僚が各地に配置されていたことが実証されていないのであれば、銅鏡を配付して地方勢力を臣従させるなど、ありえない夢想と思われるのである。どうも、数世紀、時代錯誤しているのではないかと苦言を呈したいのである。
 言うまでもないが、近隣勢力との間で、人の交流による相互交流はあったはずであり、また、近隣に始まる地域間交易は、当然存在していたであろうから、山河を越えて銅鏡は「伝えられていた」であろうが、それは、遠隔支配等と言うものではなかったはずである。
 いわゆる「三角縁神獣鏡」の配布中心が、木津川にのぞむ椿井の大塚山古墳(山城国)附近にあったと見えるのは、単に、同地の地方勢力が、淀川/木津川水系を支配していて、自然、銅鏡交易の頂点に位置していたと見えるからではないか。「金持ち」ならぬ「鏡持ち」だから、「金蔵」ならぬ「鏡蔵」を立てたものではないかと見える。
 いや、素人考えばかりで失礼する。

決まらない決めぜりふ
 論考の常として、次第に根拠を積み上げて、最後に決定的な判断を提示するものであるが、ここでは、最後の決めぜりふで、「『魏志』倭人伝の虚言」と囲み記事を提示している。
 氏は、中国史書の専門家でないために、語彙がずれているが、「虚」とは「外見」であり、最も尊重されるものである。「中身」がどうこう言うのは、読みの浅い無教養な読者の泣き言に過ぎないのである。
 要は、史官であった陳寿を「嘘つき」と罵っているのである。そのように手厳しく指弾するのであれば、少なくとも、読者が戸惑わない程度に明解に、余程念入りに根拠を明示する必要がある。

 史官の務めは、史実を伝えることであるとともに、本紀や列伝の主題を整えるものであり、ある意味、二千年後生の無教養な東夷から「二枚舌」、「嘘つき」と誹られかねないのだが、それは、無教養の咎であって、史官の罪では無い。

 以下に引用する囲み記事は、見出しの激烈さの割に、内容は説得力が乏しい。本文で、既に闊達に取捨選択している事への言い訳なのだろうが、適例を示しているとは思えない。

未完

新・私の本棚 小林 行雄 神と神を祀る者 ムラからクニへ  7/11 再掲

 日本文学の歴史 第一巻 神と神を祀る者  昭和42年5月10日刊
 ムラからクニへ  執筆者 小林行雄 (1911年8月18日 - 1989年2月2日 文学博士)
 私の見立て 全体 ★★★★☆ 学識芳醇 当コラム ★☆☆☆☆ 多々認識不足 2016/08/12 補充 2024/07/08, 07/11

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

『魏志』倭人伝の虚言
 『魏書』東夷伝の執筆にあたって、陳寿は『魏略』の文章をしばしば借用した。しかも、原文に多少の変更を加えたので、真実から遠ざかる結果になった部分ができた。特に『魏略』も『魏書』も、日本列島が朝鮮から南方へ長くのびていると想像していたので、中国の長江以南の地方や、海南島の風俗をもって、日本人のばあいも同様であろうと推断してしまった。つぎにあげるのは、そういう疑問の多い部分を抜きだしたものである。

 男子はおとなも小供もみな文身をしている。文身をするのは、海中にもぐって魚や貝を採る時に、大魚や水鳥におそわれるのを防ぐためである。文身をするところは国によって違いがある。

 着ている衣服は、布の中央に穴をあけて頭をつっこむだけである。稲や麻を作り、桑を植え蚕を育てて絹織物も織る。その地には牛・馬・虎・豹・鵲が生息していない。武器としては矛・盾・木弓を使用し、矢尻には鉄鏃か骨鏃をつけている。

*頷けない、躓く例証
 この囲み記事でまず躓くのは、「『魏略』も『魏書』も、日本列島が朝鮮から南方へ長くのびていると想像していた」との断定であるが、そのような証拠となる同時代史料はないと思われるし、補足説明もない。

コメント 2024/07/11
 「魏略」は、曹魏史官の有力者であった魚豢が、官人として編纂したものであるから、当然、曹魏天子を讃え、叛徒である、蜀漢、東呉を貶めたものである。つまり、当時、関中に侵攻して暴威を振るっていた諸葛亮は、官軍に大いなる被害を与えた、許しがたい賊徒として記録されていたのである。陳寿が、そのような曹魏正統の世界観で書かれた「魏略」から「魏志」記事を盗用したというのは、とんでもない誣告/言いがかりと言える。その際、「原文に多少の変更を加えた」と罵倒されては、たまるまいと思うのである。小林氏は、どんな根拠でそのような暴言を言い散らしたのだろうか。もっとも、小林氏は、論理的に不明瞭な「多少」なる逃げ口上を弄しているが、非科学的で氏の名声を穢しているのである。
 陳寿にしたら、魚豢「魏略」に記録されているのは、風聞、虚偽であり、「多少の変更」など、笑止である。陳寿は、史官であるから、曹魏公文書から引用するのが本分であり、風聞資料を取り込むなど論外である。

 加えて、「魏略」は、公撰史書となることが無かったので、厳格な写本が行われることは維持できず、急速に劣化、散逸したと見えるのであるから、裴松之が、魚豢「魏略」西戎伝の全文を魏志第三十巻末尾に補追したことにより、部分的に善本が継承されたのを唯一の例外として、不正確、疎略な所引断片が残存しているのを「魏略」と称して論ずるのは、まことに不適当である。
 ちなみに、小林氏は、業界悪習で、「魏略」、「魏書」を擬人化して弄んでいるが、問うべきは、資料テキストであって、編者の粗忽をあげつらうべきでは無い。特に、陳寿は、原史料を尊重しているから、「魏志倭人伝」に示されているのは、原史料の世界観である。

 また、「『倭人伝』なる素性のよくない盆栽」の剪定屑を二例並べているが、どこがどう気に入らなくて、なぜ、どんな風に剪定・排除したのか示されていない。

*黥面・文身
 一例目の黥面・文身に関する下りについて 執筆者は、「大人も子供も、身体に文字を入れている」と理解しているが「男子無大小皆黥面文身」という原文の誤解ではないかと思われる。もちろん、そのような日本語訳を提供したものの責任であるが、最終責任は、執筆者にあると思うのである。

 「男子」は、当時の規準とは言え、「成人男性」のことであるし、「大小」と言うのは、身体の大小ではないし、もちろん、大人と子供を言うのではない。おそらく、身分の高い者と低い者を総称しているのである。「倭人伝」で「大人」と云うとき、それは、「おとな」の意味でも無ければ、「大男」(大丈夫)の意味でも無いはずである。


*南下の効果

 二例目の「着ている衣服は」の下りは、ますます剪定・排除した意図がわからない。古代の風俗は、各地でまちまちであったはずだから、一律に、この描写の適否を言い立てることは出来ないのではないかと愚考する。
 案ずるに、比較的温かい、と言うか、夏蒸し暑い中和であれば、両脇が空いている貫頭衣は、涼しくて良いのではないか。
 この辺り、氏の本意が不明なので、批判が及び腰になるが、不適切な翻訳文といえども、氏の玉稿とした以上、氏に最終責任があると見えるのである。

 ちなみに、古代以来衆知の筈なのだが、中和地域から南下すると、次第に高度が上がることもあって、冬季は寒冷が募り、降雪もあって、とても、貫頭衣では過ごせないと思われる。「南寒北温」と粗忽な造語で言いたてたくなるほどである。もちろん、今日、河内地域と比較して、奈良盆地内は、歴然と冬季の気温が低いのも、ご記憶いただきたい。
 おそらく、南下すれば、一律に気温が上がるという素朴な世界観が、無造作に流用されているのかもしれないが、当ブログは、そのような憶測の面倒まではみないのである。

*原文参照
 今倭水人好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾。

 小林氏は、「魏志倭人伝」の原文を掲示すること無く、意図不明の「飜訳」を持って論じているが、翻訳者の誤解が連鎖していて、惨憺たるものである。「海中にもぐって」と書いているが、原文は、「倭の水人(川漁師)は、しばしば河川に踏み込んで、水中に(半身を浸けて)屈み込む」と書いている。あくまで、浅瀬で、安全に魚蛤を捕っているのである。つづいて、文身の由来が述べられているが、川漁師が大魚を恐れたかどうかは、かなり疑わしい。言うまでもないが、ここに書かれている「大魚水禽」は、河川のものであり、海とは無縁である。この辺り、中国語の理解に難のある翻訳者が、執拗に誤訳しているのをまともに受け止めているのは、まことに残念である。
 誤訳以前に、「今」で始まるこの下りは、「現地」報告であるから、陳寿は、身をもって体験し証言しているのでは無い。報告者は、自分が、海辺にいるのか、川辺にいるのか、自覚していないはずはないのである。自信がなければ、「水」(水を味わえばわかることである)
 被服は「貫頭衣」として中原の文明に即していない「胡服」と言う積もりなのだろうが、史官は、蛮夷庶民の服装についてとやかく言うものではない。大事なのは、絹織物の産地で有ったということである。蚕を育て、絹糸を得て綾織りとするのは、極めて高度な技術の産物であり、中国に於いては、門外不出、禁輸とされていたのに、なぜ、倭人が、高度な絹織物産業を持っていたのか、不思議では無いのだろうか。考古学者としては、出土遺物を根拠に論じて欲しいものである。

 と言うことで、小林氏は、ここに書かれたこと全てを、陳寿の創作と非難しているようであるが、そのような不合理な弾劾は、確たる証拠無しには、審議できないと見るものである。

未完

新・私の本棚 小林 行雄 神と神を祀る者 ムラからクニへ  8/11 再掲

 日本文学の歴史 第一巻 神と神を祀る者  昭和42年5月10日刊
 ムラからクニへ  執筆者 小林行雄 (1911年8月18日 - 1989年2月2日 文学博士)
私の見立て 全体 ★★★★☆ 学識芳醇 当コラム ★☆☆☆☆ 多々認識不足 2016/08/12 補充 2024/07/08

*加筆再掲の弁
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*国内伝承との食い違い
 ちなみに、書紀などの国内史書で、黥面文身や貫頭衣の記事が見当たらないとしたら、書かれている風俗は、国内史書が取材した中和の風俗ではないと言うことではないだろうか。 「倭人伝」の記事は、史書固有の字数制約で極度に切り詰められているが、それ故に、衆知自明の字句は削除され、重要な事項が残されたはずである。

 従って、字句が一見断片的であっても、この時代、既に、養蚕や絹織物があったというのは、技術の前提として、織機も渡来していたのではないかと思量する。絹織物が業として成り立つということは、最終製品の機織りの機材と技術まで、伝来していたと見るものと思うのである。また、山野に自生する楮などを利用する製紙技術の萌芽もあったのではないか。
 中和に、このような遺物の出土がないとしたら、それは、記録したものが、中和に来ていなかったという傍証になるのではないかと愚考する次第である。

 いずれも、記録者がウソ(虚言)を書いたとか、編纂者が想像で書き募ったとかの論拠で、確証なしに早計に否定すべきものではないと愚考するものである。染色、柄織などの技術を感じさせる、高度な絹織物である錦織が倭国から魏朝に献上されたと記録されているのであるから、遺物が出土していなくても、当時現地に「あった」のであろう。

*「盆栽」が形づくる「盆栽」 Silent sculpture
 こうしてみると、この記事の全体のかなりの部分が、倭人伝批判と倭人伝依拠のまだらな塗り分けで彩れていて、肝心の、『ムラからクニへ』の絵解きは見られないのである。
 しかも、ここで試みられているように、議論の根拠とすべき史料の本質を霞ませるように色々言葉を費やしているが、所詮、そのような議論は、史料を自分流に整形したもので論じているのだから、それは、史料の適切な利用と遠い、勝手な「剪定」になるのである。

 つまり、倭人伝」の内容の、持論に全く合わない部分を剪定し、多少合わない部分は、時間をかけて望む方向にたわませるのであるから、出来上がったものは、執筆者の望む形になっているだろうが、丹精込めた盆栽、いわば、時間をたっぷりかけた丹念な彫塑芸術であっても、科学として求められている自然界の植生の忠実な複写とは異なっているのである。

 言うならば、古代史学界の大家の持論というのは、歴史の実相を追究するものではなく、好ましい形で持論が形成されるまで時間を惜しまず丹精して、最終的に自身の望みの姿を作り出すものだから、遠くから眺めると、執筆者ご自身が一つの盆栽となっているのである。

 このように、「盆栽が盆栽を形づくっている図」は、歴史科学の科学としての本筋からは遠いように思うのである。

未完

新・私の本棚 小林 行雄 神と神を祀る者 ムラからクニへ  9/11 再掲

 日本文学の歴史 第一巻 神と神を祀る者  昭和42年5月10日刊
 ムラからクニへ  執筆者 小林行雄 (1911年8月18日 - 1989年2月2日 文学博士)
私の見立て 全体 ★★★★☆ 学識芳醇 当コラム ★☆☆☆☆ 多々認識不足 2016/08/12 補充 2024/07/08

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

 以下、少し余談めいた感慨を述べたい。

概数論~大家の勘違い
 執筆者の経歴を拝見すると、若くして工学部系の学問を修められているので、その頃に、理工系の思考を身につけておられたものと思うのだが、考古学の分野に志されて文学部(考古学は、文学部に属する)に転じられたので、理工系の感覚が鈍ったのではないかと、憶測している次第である。
 と言うのは、と言うのは、記事中で、中国の史家が、百、千単位の概数で語ることに対して、大雑把であるとの非難を示されていることである。
 具体的に言えば、戸数、そして、道里の表記を指しているものと思うのだが、これらの数字は、概数で論ずるしか無いもので有り、言うならば、有効数字二桁程度のデータであれば、概数で語るのが正しいのである。

*概数の正当さ
 今日の科学的社会でも、建築業者が住宅設計するときは㍉単位であっても、近所を案内するときは、㍍単位で距離を語るであろうし、例えば、大阪から博多に新幹線で移動するときは、百㌔㍍、十㌔㍍の概数で語るはずである。

 元に戻ると、郡から狗耶韓国までの七千里は、「倭人伝」に於いて、適正な概数単位は、千里単位であるし、各国の戸数は、見る限り、千戸単位という適正な概数単位となっていると思うのである。いや、韓伝を見ると、百戸単位かも知れないが、それは、元々のデータの精度も関係していのである。因みに、帯方郡管内の戸数は、一戸単位で集計できたことが知られている。
 それこそ、今日でも、経理関係の計算、銭勘定は、一円単位の正確さを要求される。例え、一兆円規模(十二桁以上)であってもである。世界が違うのである。

 調べれば、新大阪博多間の鉄道路線長は、㌢㍍、さらには、㍉㍍単位で示せるだろうが、そんな高精度の数字は、今日に至っても、普段の生活には意味が無いのである。意義があるのは、運賃の設定であろうが、乗客にとって、べつに関心の無い正確さである。
 また、目的地までの直線距離は、地図上で㍍単位で出せるとしても、歩いて行く道のりを実測して、そんな高精度では示せないのである。それこそ、道のどちら側を歩くかで㍍単位の差が出る。

 つまり、書かれている数字が細かいほど、桁数が多いほど、データの精度が高いというのは、素人考えの誤解であって、工学・実用の徒は学業の一環として適切な判断を習っているはずなのだが、若き日に工学を学んだ執筆者の健全な感性は、学界の世俗の垢に染まって撓んだのだろうか。
 いや、現実世界では、実務に長けた技術者ほど、合理的思考をどこかに忘れて、神がかりの思考に陥りやすいのであるが、それは別義である。

 僭越ながら、当記事で、概数概念の無理解に関して批判を繰り返しているのは、執筆者の工学の徒としての初心を、執筆者に成り代わって適用したつもりなのである。

未完

新・私の本棚 小林 行雄 神と神を祀る者 ムラからクニへ 10/11 再掲

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私の見立て 全体 ★★★★☆ 学識芳醇 当コラム ★☆☆☆☆ 多々認識不足 2016/08/12 補充 2024/07/08

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*大家の危機
 本書執筆時、まだ、執筆者は数えで六十歳前と思うのだが、既に、学界で最高峰の名声と権威を有した大家であり、深い尊敬を集めていて、玉稿のアラ探し、ダメ出しなど、畏れ多くて誰も引き受けなかったのだろう。
 しかし、上であげた指摘は、つまらない雑感の表明であり、執筆者の定見の不可欠な基礎をなすものでもなんでもないので、その旨、誰かがさりげなく指摘して、記事から削除すれば良かったのである。もったいない話である。
 そのせいで、遙か後世になって、素人にアラ探しされるのは、ご本人には不本意と思うが、世の習いというものだろう。

 こうしてみると、どんな学問分野でも、大家とは安泰な境地ではなく、陥穽の淵に臨んでいるように思うのであるが、当ブログ筆者のように、一介の私人、まるでやせていない「やせ蛙」には、無縁の危機でもある。せいぜい、ほっといてくれと叱られるのであろう。

*総括
 この章記事を全部読み通しても、なぜ、角川書店が、出版社として全力を挙げて編纂した「日本文学の歴史」と銘打った大著の「ムラからクニへ」の章で、このように、趣旨を外れた「魏志倭人伝」批判が展開されたのか、よくわからない。

以上

 

未完

新・私の本棚 小林 行雄 神と神を祀る者 ムラからクニへ 11/11 再掲

 日本文学の歴史 第一巻 神と神を祀る者  昭和42年5月10日刊
 ムラからクニへ  執筆者 小林行雄 (1911年8月18日 - 1989年2月2日 文学博士)
私の見立て 全体 ★★★★☆ 学識芳醇 当コラム ★☆☆☆☆ 多々認識不足 2016/08/12 補充 2024/07/08

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*更なる余談
 以下、更なる余談である。あちこち探し回っていると、ぞろぞろと余談が流れよってくるのである。言うまでもなく、随想であって、何かを主張する意図で書き留めたものではない。

*倭国温暖 常春の楽園
 「倭人伝」で、亜熱帯かと思わせる温暖さが強調されている点については、「東夷伝」の史料としての構成を見るべきである。遙か、扶余、高句麗、韓と続いているが、概して寒冷地である。三韓南部は別として、「東夷伝」の読者になじみ深いのは、西域、匈奴、烏丸の居住地の乾燥、そして、高句麗、楽浪、帯方の冬の厳しさと思われる。

 半島から南へ三度の渡海で到着した倭国は、それまでの韓諸国と異なり、一年を通じて温暖であり、夏の暑さは、むしろ、華南の湿潤な亜熱帯風土を思わせると言いたかったのであろう。

*追記 2024/07/08
 このような温暖で湿潤な風土であれば、日射に恵まれていることと併せて、水田耕作でそこまでの諸東夷に比べて格段に豊富な収穫を得られる風土を示唆しているのである。「理科」の授業で教わったはずであるが、植物は、降り注ぐ陽光から得られる熱エネルギーによって、大気中の二酸化炭素と灌漑水を結合させて炭水化物として固定していて、その成果が稔りとして収穫されるのであり、陽光と水は、稔りの源と認識されていたのである。

 そのような豊穣さは、倭国の戸数に示されている。戸数の多さから知れる人口の多さは、農業収穫の多さの反映で有り、倭国は豊穣の地と頌えているのである。東夷伝に「方里」として示されている各国農地面積を見ていくと、「高句麗」や「韓国」の農地の希薄さが示されていて、大海の中之島、「洲島」である「対海国」、「一大国」すら、それぞれ、これら大国の十分の一程度の「方里」を示していて、それでもなお、農地に乏しいと歎いているのだから、「伊都国」以降の本土諸国の豊穣さが甚大と見えるのである。

 こうした水田稲作の効用は、それまでの中原人の常識では不毛の辺境とされた「蜀漢」や「東呉」の豊穣さに通ずるものがあったのではないか。「三国志」で描かれる中原諸勢力の抗争では、元々さほど豊穣ではなかった土地柄に対して、農民の徴兵による耕作放棄が進んでいて、備蓄まで費消するような食糧不足が講じて、戦闘継続を不可能にするほど、飢餓が蔓延していたのを思い起こす。

水野 祐 評釈 魏志倭人伝 (雄山閣 新装版 平成十六年)
 水野氏の考証によれば、倭人伝風俗記事の区分は、定説では難があって、誤解を招いていると提唱している。
 其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。自郡至女王國萬二千餘里。男子無大小皆黥面文身。自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。夏後少康之子封於會稽、斷發文身以避蛟龍之害。今倭水人好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾。諸國文身各異、或左或右或大或小、尊卑有差。計其道里、當在會稽東治之東。其風俗不淫、男子皆露紒、以木綿招頭。其衣橫幅、但結束相連、略無縫。婦人被發屈紒、作衣如單被、穿其中央、貫頭衣之。種禾稻、紵麻、蠶桑、緝績、出細紵、縑綿。其地無牛馬虎豹羊鵲。兵用矛楯木弓。木弓短下長上竹箭或鐵鏃或骨鏃。所有無、與儋耳硃崖同。
 要するに、この部分は、後年、帯方郡使が、南方の狗奴国の踏査を行った際の報告書を、従前の倭国記事に挿入したものであり、その際の手違いにより、自郡至女王國萬二千餘里の直後に挿入したため、二千年後生の東夷に理解しがたい事態になっているが、文脈の流れは、明確だというのが、水野氏の意見である。つまり、この部分は、南下して温暖の地に至ったものと見える。

計其道里、當在會稽東治之東とあるように、
「女王国からさらに南下した道里を加算すると」と言う判断が示されているのは見逃せないところです。また、風土、風物が、儋耳硃崖同、と評されるように、瘴癘の風土を示しているのも見逃せないと言える。

 続いて、「倭地温暖」で始まる本来の風俗記事が続くが、火を通していない食采、生菜が書かれている。中原では、西方から流下している川水の生活排水による食材汚染は、非加熱調理は、論外だったのであり、日常、火気のない生菜は、とても、瘴癘のものではない。また、香辛料を用いないのでは、生菜の劣化は、足速であったと見えるのである。それでも、要するに、手早く食べてしまえば問題ないという風土であったことが示されている。つまり、瘴癘に至らない「温暖さ」であったと見えるのである。

 総じて言うと、女王国から南下すると暑熱の土地柄であるとか、西方に会稽東治の故事の史誌を感じるとかも、奈良盆地では、とても感じ取れないものと思量される。

 按ずるに、小林氏が依拠した「倭人伝」解釈は、単に字面を追うだけの皮相的な解釈であり、僅かな掘り下げで、不都合さを露呈するものと思われるが、一切掘り下げないで、難局を駆け抜けているものと見える。

以上

*献上品と下賜品
 これも珍しいことではないのだが、執筆者は、景初の初回遣使の成り行きについて解説する際に、「献上品と下賜品とは、右のように量・質ともに、はなはだしくふつりあいである。それは魏が大国の威勢を誇示しようとしたものか、あるいは、呉に対抗するために東辺の無事を願って、日本の懐柔をねらったものか、その真意は『魏志』の撰者も明らかにしていない。」と慨嘆して、量・質ともに、はなはだしくふつりあいとご高評を戴いているが、古代に於いて、弱小な蛮易と中華大国との価値観は、まったく隔絶したものであり、はるか後世の第三者、つまり、二千年後生の無教養な東夷がとやかく言うべきものではない。「夜郎自大」の故事を別にすれば、大国の威勢は、誇示しなくても、来訪者が目を開いていれば、いやでも見て取れるのである。
 大体が、当時の朝貢に対する下賜物としては、「卑弥呼個人への贈物」なる、初回貢献限定の大量の下賜物を除けば、異例な厚遇ではないと考えるものである。もちろん、当時の貨幣価値でどうかなど、二千年後生の東夷には、わかるはずもないのだが、中国人の感じる価値の数倍、数十倍、...に感じられたのではないか。

 それこそ、中国側にすれば、「奇貨居くべし」。大当たりすれば、何百倍の見返りもある、大変な効果となったのではないか。いや、それにしても、天下最大の富裕極まりない超大国が、遠東萬里の貧乏蛮夷に賄(まいない)して懐柔しようとしたとか、零細な蛮夷に、天子すら一撃を憚る南方の大国東呉に一撃を期待するとか、滅相も無い話ではないか。皇帝には、秀才揃いの有司が控えていたのであり、二千年後生の無教養な東夷に揶揄われるような愚行はありえないはずである。
 先賢の名家が、そんな下らないことを書き立てるのは、小林氏の晩節を貶めるものではなかったかと、危惧するのである。

 宝物ともいえる財貨物が列記されているものの、ことさらに新規制作したものではなく、宮廷の宝物庫の在庫処分であったはずである。別記事に書いたように、当時の魏朝財政は、稀代の浪費癖を発揮した第三代曹叡の暴政で、破綻寸前の火の車だったという。何しろ、新宮殿の造成に、首都の官人を動員するなど、掟破りの暴挙に勤しんだことが書かれているのである。戦時下に於いて、新宮殿の飾り物に使わなければ、武器制作に欠かせないはずの青銅(金)であるから、大量の新作銅鏡に浪費することなどありえなかったはずである。天子が蛮夷に饗応して百枚の銅鏡を新作するなど、到底ありえないのである。
 とにかく、このあたりの機微は、これぐらい言い尽くさないと、二千年後生東夷の現代人にわかるはずはないのである。

 言うまでもないが、皇帝の詔書は複写できても、天子の「真意」は、表明も記録もされないから、いくら史官が望んでも、いや、偉大な後世人が望んでも、わからないものは書き残しようがないのである。率直なところ、余計なお世話である

 先賢に対して、大した言い様と憤慨される方もあるだろうが、変に遠慮して当たり前のことを言わなかったために、このような不適切な放言として後世に伝わってしまったのであり、身辺のどなたかが是正されていたらと思うだけである。

2024年7月 7日 (日)

私の意見 倭人伝「循海岸水行」審議 補追 完成版 1/1 2024

初稿 2021/04/05 新稿 2024/07/07, 07/26

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

▢完結の弁
*古田武彦
:解釈の払拭 
 本考は、古田武彦氏の審議に異議を唱えて「循海岸水行」の更なる追求を試みたものですが、左氏伝 昭 23に用例を求め、「山に循て南す」の注を「山に依りて南行す」と解する点から出発しています。

 しかし、今般、そのような開始点が誤っているかも知れないと考え、出なおしを図ったものです。要するに、これは、魏志第三十巻巻末の蛮夷伝「倭人伝」の冒頭部分の行文が不明瞭であるとして、古典書籍に典拠を求めているのですが、課題の行文が官制街道の行程を書いているのに対して、引用文例として漠たる紀行文を呼び出しているものであり、まことに、場違いで不適切な選択とみられます。
 古田氏が、そのような不適切な「用例」を摘出しているのは、要するに、多大な努力にも拘わらず、適切な引例が見いだせていなかったことを物語っているのです。

*渡邊義浩:盤石の「確信」
 ここで、盤石の用例探索を行った渡邊義浩氏の確信が続くのです。但し、()は、当ブログ筆者の補充したもの。
 氏の名著「魏志倭人伝の謎を解く」(中公新書 2164)(2012)pp.132に於いて氏は、(大意)(古代史に通暁した)中国史家(渡邊氏がその好例)が「水行」「陸行」と言う表現で想起するのは、特定の記事であり、念のため確認したところ、(晋書)陳寿伝に掲げられた陳寿の読書範囲では、史記夏本紀だけであったと述べています。 
 つまり、陳寿が「魏志倭人伝」の道里記事を書きだしたとき、『街道道里として参照できた「水行」用例は皆無であった』と証言されているのです。史官たる陳寿が、魏志蛮夷伝の倭条で道里記事を書くとき参照できる「水行」記事がなかったと言う事は、「水行」記事を創唱するには、何らかの定義を示して「水行」を予告することを求められるのです。特に、「水行」の名目で海上を行くことは、夏本紀の用例と絶対的に齟齬しているので、ますます、そのような記事は、いきなり書くことができなかったということです。と言うことで、これまで、当ブログで述べてきた「水行定義」説は、渡邊氏の権威によって確信を強めたということです。「徳不孤必有隣」(論語‐里仁)とあるように、支持者は、いつか見いだせるのです。

 ちなみに、街道道里は、当然、自明として馬車で移動するから、冒頭では「陸行」と明記しないのであり、後に、狗邪韓国の海岸で海船に乗り、「水行」である三度の渡海を終えて末羅国で上陸したときに「陸行」と書いたものの到着地である伊都国で、いったん決着するのであり、後に追加された三国の「わき道」の掉尾の投馬国記事で「水行」と挿入しているものの、これは投馬国記事限りです。
 かくして、本来の行程記事に戻った「南至邪馬壹國女王之所」は、当然、千里どころか、百里にも及ばない端(はした)と見える短距離の「陸行」であり、最終的に行程記事の結尾なのです。

 「邪馬壹國」は、曹魏成立後の女王共立の結果書き足されたと見えます。郡の文書使は、伊都国で待機し「邪馬壹國」には赴いていないように書かれていますが、郡と伊都国の間の書信のやりとりで、日数が起算/記録されるのは、伊都国の文書担当が刻字した時点であり、伊都国君主の署名はともかく、女王の御璽の必要でない交信では、この間の行程も所要日数も、実務に関係しないのです。

 渋い言い分ですが、末羅国で上陸した後の「陸行」は中国制度の「街道」でなく、そこまでの記事で明記された「禽鹿径」であって、本来の「道」ではないのです。
 そこまで精巧に組み立てられた行文を厳密に読み取れないとしても、それは、史学者として訓練されていない後生読者を咎められるものでも無いのです。

*異議提起
 ここで渡邊義浩氏が提起された下記用例について、素人考えを述べます。
 《史記》《夏本紀》 陸行乘車,水行乘船,泥行乘橇,山行乘檋
 ここに書かれた四件の「行」の解釈ですが、「陸行」、「水行」、「泥行」、「山行」の四種の街道を公的な交通手段として定義したものではなく、禹后が移動手段として、四種の労役を得たと「寓話」を示したかと愚考します。何にしろ、「陸行」は、遥かなる後年、殷(商)という征軍志向の次世代を経て、周なる「法と秩序」による文書統治に至ったとして、街道として整備されたとしても、「橇で泥を行く交通手段は絶えて制度化されなかった」と見えます。現に「倭人伝」の道里記事に「泥行」も「山行」も登場しません。ここで言う「行」は、「道」、「路」に言い替えることのできない、別種の概念と見えます。

--旧稿再掲---
〇はじめに
 「倭人伝」道里行程記事の冒頭に置かれた「循海岸水行」の追加審議です。

〇「循海岸水行」用例審議
 古田氏は、第一書『「邪馬台国」はなかった』ミネルヴァ書房版 174ページで、「倭人伝」道里行程記事の「循海岸水行」の「循」の字義解釈の典拠として左氏伝 昭 23から用例を求め、「山に循て南す」の注で「山に依りて南行す」と解しています。「循」は「依る」または「沿う」と解した上で、幾つかの用例を「三国志」に求めて暫し詮索の後、「海岸に沿う」と解しています。
 氏の解釈は、陳寿が、敢えて「循」と書いた真意を解明していない点で同意できませんが、それは別としても、旗頭とした古典典拠は、陳寿が依拠していた「左氏伝」ですから、「左氏伝」用例が妥当であれば、その一例を本命として絞るべきと考えます。

〇諸用例の参照
 「魏志」用例は、数稼ぎでもないでしょうが、用例の趣旨が明瞭でないので、揚げ足取りされるなど審議の邪魔になるだけで、まことに感心しないのです。但し、読者に対して公正な態度を示す意義はあるのかも知れません。とは言え、「枯れ木も山の賑わい」とは行かないのです。
 なお、当方は、以下のように、古田氏の「左氏伝」読解は、ずいぶん甘いと感じます。

〇字義の確認
 まず、「依」の字義は、白川静氏の辞書「字統」などの示すように「人」が「衣」を身に纏い、背に「衣」を背負っている様子を言います。
 ここで、山に「依る」は、山を「背負う」比喩と解されます。一方、「山」は、山嶺、山並みではなく屹立峰(孤峰)ですから、「山」に「沿う」経路行程は想定しがたく、山を「背負って」進む行程と察するのです。

 当用例により語義解釈すると、倭人伝の「循海岸水行」の深意は、「海岸を背負って海を渡ることを水行という」と解して無理はないと思います。何しろ、史官たるものが、わざわざ「循」を起用したのには、格別の意義があると考えたものです。端的に言うと、眼前に対岸があって、軽快な渡船で航行することを言うものです。

 別稿で、「循」は、海の崖を盾にして、つまり、前方に立てて、行くものと解釈しましたが、趣旨というか進路方向は同様なので、一票賛成票を得たものと心強くしています。

*「用例」批判について
 2024/07/26
 すこし視点を変えてみると、諸兄姉の「沿海岸水行」解釈は、少なからず、原義を外れているのではないかと懸念するものです。行程記事に前例のない「海岸」、つまり「岸」ですが、夏本紀先例で言うと、これは、あくまでも「陸」の一部であり、そこから「陸行」せずに「水」に入るには「泥」によって想到される中間部を過ぎることになります。そのように、当時通用していた地理概念を組み立てると、「海岸」に「沿って」移動するということは不可能であり、陳寿は、「循海岸水行」によって、そのような不合理な概念を説いているのでは無いことが明らかです。むしろ、字句の原点に戻り、「海岸」、即ち、陸地の端に立って、水に向かって進んでいくと述べているのであり、当時の読者の教養に反しないように言葉を選んで、後ほど現れる「渡海」を端的に予告していると読むものではないでしょうか。
 敢えて言うと、諸兄姉の「用例」解釈は、登用されている字句が、御自身の「常識」に従っているという「思い込み」に依存しているのであり、「用例」をそのように受け止めるのが合理的ではないのではないかという「用例」批判を欠かしてはならないと見るものです。

*用語定義ということ
 このように見ると、倭人伝では、「水行」は河川航行でなく、「渡海」を「水行」と明確に、但し厳密に限定的に「指定」(用語定義 definition)しています。「倭人伝」「指定」であり、巻末までの限定です。つまり、倭人伝の道里行程記事で、「水行十日」は、狗邪韓国から末羅国までの渡海、計三千里です。「水行」一日三百里と、まことに明解です。

〇用語定義の必要性~私見
 誤解されると困るのですが、当ブログで辛抱強く説明しているように、古典的な用語定義に従うと、川であろうと海であろうと、渡し舟の行程は陸行の一部ですが、はしたなので所要日数も道里も書かないと決まっているので、狗邪韓国から末羅国までの渡し舟の行程道里、数千里、数日は、勘定しようがないのです。
 つまり、「倭人伝」を正史記事とするには、適確に注釈しないと成立しないのですが、陳寿が編み出したのは、「倭人伝」記事で本来必要のない、河川航行「水行」を「渡海」に当てる「用語定義」(Definition)だったのです。これは、今日では、法律文書、契約文書、コンピュータープログラム文書、特許明細書に代表される技術文書など、論理性、整合性を必須とされる文書で、挙って継承され、採用されている実務に即した文章作法であり、まことに合理的な書法と考える次第です。

*投馬国水行の検討
 余談
 因みに、当ブログの理解では、投馬国への「水行二十日」は、後日の追い書きであり、全行程万二千里、倭地周旋、つまり、伊都国から狗邪韓国にいたる五千里の圏外なので、二十日全部が渡海なのか、一部が渡海で全体が二十日なのか、何とも判定できません。脇道なので、詳しくは不明である、と言うことでしょう。
 丁寧に言うと、全国七万戸の大半を占める五万戸の大国への道程が、あやふやなのは信じがたいのです。また、それほどの大国の戸籍が不備で、全戸数が、五万戸らしいと言うのでは、郡に対して申し開きのできない失態と思われるのですが、「倭人伝」では、その点を、一大率による指導監督を怠っていて、一切追求していないのです。二万国らしい奴国と併せて、まるで、水平線に漂う蜃気楼のようです。

〇諸用例の意義~少数精鋭最上
 古田氏が追加した魏志用例は、ここで言う「海岸」と「水行」のような方位付けが明解で無いので、「循」が「沿って」の意味に使われた用法と愚考します。「背にして」と「沿って」の両義を承知で書いたのではないようです。

 思うに、三国志の魏志(魏書、魏国志とも言う)は、陳寿が全てを記述したものではなく、大筋は参照した魏朝公文書、つまり、史官が日々整備していた公式記録文書に従っているので、魏朝官人の語法で描かれています。従って、左氏伝の典拠を意識していないことも想定されるのです。
 用例は、厳選したいものです。できれば一例が最上です。

維持された収束
▢「海岸に沿って」行かない理由~再掲
 当ブログの見解では、「従郡至倭」の道里行程は明確に書かれていて、官制の通り、官道を直線的に目的地まで進むが、狗邪韓国から末羅国までは、唯一無二の移動手段である渡し舟に乗る必要があり、これを限定的に「水行」と分類し、残りは、当然の「陸行」と分類した行程としているのです。末羅国からは、「陸行」と明記されていて、傍路の投馬国行程は、この際圏外として、一路、陸行なのです。整然たるものです。話すと長いのですが、全体構想があっての独断です。

 海岸に「沿って」行くとの解釈を棄却すべき理由として、海岸陸地に沿った移動は、浅瀬や岩礁に確実に行き当たることによります。そのような危険のため、船は、ほぼ例外なく、港を出ると直ちに陸地を離れて沖合に出て、海図などで安全と確認できない限りは、陸地に近づかないのです。以上は、別に訓練経験がなくても、少し関連情報を調べるだけで、容易に理解できる安全航海の策ですが、聞く耳を持たない人が多いのです。

追加見解 2024/07/07
 先賢の言として、「海岸」とは、海の見える崖上の陸地であり、「海岸に沿って進む」街道とは、あくまで、陸上街道に決まっているとのご託宣です。河水について考えればわかるように、河岸とは、陸上の土地であり、川船に乗るには、泥をかき分けて降りていく必要があります。
 その先は、渡船に乗るのか、便船で流れにしたがうのか逆らうのかということになります。この辺り、中原の交通では常識ですが、「倭人伝」道里記事では、全く前例のない「水行」によって海船に乗るというのであれば、事前説明が無いと、読者には、何のことかわからないのです。
 当ブログでは、これは、そのような途方もない記事ではなく、後段で、大河ならぬ、流沙ならぬ、大海の流れを、見なれた渡船で渡るのを予告しているという見解であり、無用の紛糾無しに「倭人伝」の行程を末羅国での上陸に繋ぐ、整然とした、滑らかな手段と見ているのです。

*結語ふたたび
 そのために、苦労して説得記事を重ねているのですが、まだ、納得された方はいないようです。その最大の障壁が、冒頭の「循海岸水行」の誤釈と思うので、一度、「自然に、滑らかに」丸呑みするのでなく、一字一字審議していただきたいと思ったものです。

                                以上

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