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2024年7月

2024年7月29日 (月)

新・私の本棚 丸地 三郎 「魏志倭人伝の検証に基づく邪馬台国の位置比定」 再掲 1/2

 魏の使節は帆船で博多湾に 2012年6月         2020/06/03 再掲 2023/01/12 2024/07/29
私の見立て ★★★☆☆ 玉座の細石(さざれいし)

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇はじめに
 当記事は、氏の個人サイト「日本人と日本語 邪馬台国」掲示のPDF文書であり、筆者の自信作のようなので、丁寧に読ましていただきました。正直、つまらない誤字、誤記があって評判を落とすのです。氏の台所事情もあるでしょうが、十年近く放置されているのは残念と思われます。

〇記事の旗印 匹夫の暴論にあらず
 氏の「倭人伝」論議の基本方針は、陳寿「三国志」魏志第三十巻に収録された「倭人伝」を基点として、考察を進めている点です。

*古代「浪漫」派の台頭と蚕食
 「倭人伝」論で。大変しばしば見かけますが、三世紀中国史料に対する門外漢が、「日本」古代史論を手に「倭人伝」論に侵入し、「史料批判」と称して古代「浪漫」を保全するための雑多な(泥沼)改竄の押しつけがあり、むしろ、俗耳には、学界世論の多数を占めて見えます。
 国内史料は、原本どころか権威ある公的古写本も見当たらず、「貴重な」現存写本を踏み台の「推論」が出回る「史料観」が「倭人伝」に波及するのに暗澹たる思いを禁じ得ません。まるで、異国の「トラ」さんのツイッターです。

 数を言えば、または、権威から言うと、そのような見当違いの暴論が史論を蚕食し、無批判な追従も盛んですが、氏は、そのような喧噪と無縁です。

〇苦言の弁
 ただし、それはそれ、これはこれ、氏の勘違いと思われる事項は、氏に対する敬意の表れとして、率直に指摘するものです。
⑴半島沿岸帆船航行の不合理
 氏は、なぜか、郡から倭までの行程の大半を占める韓半島行程を帆船沿岸航行と決めていて当ブログ筆者が推進する陸上行程説に反対なのです。これは、二重、三重に不合理です。
 つまり、郡の官道が海上経路であった」とする不合理と「沿岸を帆船航行できた」とする無謀な仮定が重畳して、混乱を招いています。
 氏は、文献に依拠して、三世紀黄海東部に帆船が出回っていて、帯方郡はそのような帆船を未知未踏の倭国航路に仕立てたと見ています。
 大胆不敵で、当分野で氾濫する暴論の類いですが、どんな船舶も、現代でも、未知の海域では、水先案内人が不可欠です。(海図、羅針盤があってもです)

 隋唐代使節は、月日を費やして浮海し航路開拓したと報告したから、三世紀には未踏海域であったとの証左です。

 氏は、帆船の未踏海域進出例として、バスコ・ダ・ガマをあげていますが、重大極まる偏見史観です。ガマは、「インド/アラビア/ペルシャ商船が、千年以上に亘り運用していたインド洋航路と港湾を侵略奪取した掠奪船団」の先駆けてあり、氏の史論の枕にふさわしい/似つかわしい先例と言えないのです。

*沿岸魔境
 半島西南部は、岩礁、浅瀬の多い多島海であることから、操舵の不自由な大型の帆船は入り込めませんでした。地元海人の水先案内と、それこそ、船腹に体当たりして進路を誘導する「タグボート」先駆の漕ぎ船でなければ/あっても難船必至だったから、事情通の青州船人は、帆船で南下する無茶はしなかったのです。つまり、現地の小振りの漕ぎ船なら、すり抜けられても、「大型の帆船 」は、船底や舷側が破損したものと思われるのです。つまり、沈没しないまでも、浸水して航行不能になったものと、容易に推定できます。

*確かな船足
 「倭人伝」の對海国/一支国条で、「乗船南北市糴」と書かれているように、それぞれの港から南北の隣り合った海港まで運航する便船に荷を積んだのですが、明らかに手漕ぎ船です。また、区間一船でなく、多数往来のはずです。当時、代替手段がないので活発でした。

*両島の繁栄~人身売買妄想巷の風評
 両島は、農産物不足を南北運送の船賃や関税で補い、相当潤っていたはずです。特に、對海國は、狗邪韓国で、市(いち)を立てて多大な利益を得ていたので、對海館なる倉庫管理部門を置いていたはずです。
 因みに、そのような考証を怠り、島民が人身売買で食糧を得た」なる醜悪な妄想を、公開の場で述べる「大愚者」がいますが、万が一、人を売って食を得る事を前提とすると、早晩、両島は年寄りばかりの廃墟となるのは子供でもわかります。そして、両島が荒廃すれば行船は寄港地を失い、交易は途絶します。そのような事態にならないように、「倭人」の市糴は運用されていたと見るべきです。
 そうした子供でも不合理と見抜ける成り行きを想定するとは、両島関係者は随分見くびられたものです。古代史の俗説でも「極めつきの妄説」ですが、恥知らずにも現地講演でぶちまける人がいたのです。
 古代人を侮るのは、ご自身を侮っていることになります。ご自愛ください。

 いや、これは、氏に関係ない巷の風評ですが、念のため、付記しているものです。

                               未完

新・私の本棚 丸地 三郎 「魏志倭人伝の検証に基づく邪馬台国の位置比定」 再掲 2/2

 魏の使節は帆船で博多湾に 2012年6月         2020/06/03 再掲 2023/01/12 2024/07/29
私の見立て ★★★☆☆ 玉座の細石(さざれいし)

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

⑵「野性号」の成果と限界
 「野生号」ならぬ「野性号」は、もともと、船体が設計/加工のミスで、重量過大となっていて、さらに、船体吸湿で重量が増えて難航したようですが、本来、渡し舟は、それに相応しい軽量です
 日々、難なく漕ぎ渡れなければ、業として持続できないので、無用の重装はあり得ません。それぞれの区間で運行できる軽量であり、漕ぎ手人数の想定なのです。そして、全区間を、同一船体、漕ぎ手で漕ぎ続けるものではないのです。陸上競技風に言えば、区間ごとに、一日単位で駅伝すれば良いのであり、漕ぎ手は、都度、交替すれば良いのです。
 一方、交代できない乗客は、休養無しに連日漕行されたらたまったのものではないのですから、合いの日があったはずです。もちろん、「マラソン」、あるいは、「スーパーマラソン」を、同一船体で、漕ぎ手無交代で、しかも、一定期間で漕ぎ抜けることは、論外なのです。
 本来、実験航海は、単に、何が何でも目的地に着けると実証すれば良いのでなく、実用に十分な荷物や乗客が運べることも、実証するものだったはずです。そもそも、実験航海難航の真因は、漕ぎ詰めの疲労の要素も大きいと思われるのです。それは容易に予測できることであり、なぜ、空前絶後の大航海の実証を企てたのか、意図不明と言わざるを得ないのです。
 何しろ、最大の難所区間を漕ぎ抜けて、可能性を「実証」すれば、後は、数日の休養を挟んでも良いので、全行路を完漕できるのは、実証のいらないものです。
 時代相当の配慮をすれば、渡し舟区間で別々に相応の船腹とし、適宜、漕ぎ手交代すれば、長年に亘り維持できるのです。

 いや、当時、「倭人伝」に記録されているように、盛んに南北乗船して市糴していたと言う事は、実験航海しなくても明白であり、曰わく言いがたい感想に囚われます。

 氏は、「野性号」報告が粉飾と感じたようですが、素人目には、関係者の志しを守るために「失敗」との発言を避けていますが、「実際には、このような航行は維持できない」との真意/深意を秘めつつ報告したものと見えます。一度、丁寧に読み返して頂くと良いと思います。
 それを「為せば成る」と勝手読みして、「倭人伝」論に採り入れるのは、俗耳の聞き違いですが、誰も正さないので、報告粉飾に責任が回るのです。

⑶道里論 用語の整理
 倭人伝の里数と日数は表現を工夫が必要です。現代人、つまり、二千年後生東夷の無教養なものは、里数は、「距離」、しかも、「直線距離」と決めつけて、「道里」、道の里の意義が取り違えられているから、論議がかみ合わないのです。しかし、倭人伝には、「距離」は登場しないのです。
 用語の時代錯誤は、論者にとって自滅行為です。

*「道里」の起源推定
 書かれている「道里」、二点間里数は、正史「郡国志」や「地理志」の公文書用公式数字であり、必ずしも実測と言い切れない、と言うか、大抵、実測などとしていない里数であるから、実測値復元は、端から無効です。
 まずは、全体道里「万二千里」は、公孫氏からの両郡回復早々に疾駆参内を命じた未見未知の「倭人」の王居処への道里を、新任郡太守が実際の道里と関係無い、途方もなく遠い「万二千里」と雒陽鴻廬に申告したものであり、やって来た使節から、郡の南方拠点狗邪韓国から海を跨いですぐそこと知らされ、既に皇帝の承認を得た道里申告を訂正することはできず、以後、陳寿に至る関係者が、辻褄合わせに苦労した「成果」と見られるのです。いや、そもそも、郡からの文書が「倭人」の郡との交信を代表する伊都国に届いていたので、よく調べれば、「倭人」に至る「道里」、文書送達の「所要日数」は、帯方郡に存在したのですが、新任の郡太守が、慌てて皇帝に報告したので「万二千里」とする「誤解」が伝わってしまったのです/でしょう。

〇概数論再論
*「余」の効用
 後代感覚で、「道里」、「戸数」の「余」は切捨端数付きと誤解して、足すたびに端数が積もる「妄想」が広がります。今日、概数は、小学校算数の課題ですから、子供でもわかる不合理と疑うべきです。
 端的に言うと、みな概数中心値であり、端数蓄積を考える必要はありません。
 このようなことは、時代性のない、普遍的な事項であり、かつ、専門的な内容なので、字書に、明確に書いていないことが多いのです。

*概数の範囲
 倭地内行程は、百里単位で「余」がないのですが、必ず精測したのではありません。千里単位の道里の加算では、百里単位は影響しないのです。まして、皇帝は、東夷の内部の傍路諸國への里数に関心はないのです。関心があるのは、郡から倭人に何日で連絡が取れるかという事なのです。
 是非とも、ご一考いただきたい。

 七千里と三千里の足し算で、百里単位は計算結果に影響しない端数です。
 七千里に五百里足しても七千里であり、更に六百里足しても七千里です。
 七千里は上下十㌫の範囲どころか、五千里程度から九千里程度とも思える漠然たる範囲で、百里単位の端数は大海の一滴です。
 七千里付近の五千、六千、八千、九千里がないから、そのようにとてつもなく広い範囲と見ます。

 実際の道里や戸数がわからないから、覚悟を決めて概数表示していますから、実情を知らない後世人が、史料の字面、倒立実像を見て、勝手に上下限界を想定するというのは、とてつもなく不合理なのです。
 まして、算用数字の多桁表示で、当時無視していた一里単位まで勘定するのは、深刻な時代錯誤です。算用数字は、「倭人伝」論義から、排除すべきなのです。

〇まとめ
 氏の取材範囲は、誠に豊富ですが、基礎固めとも言える得られた新規史料の「時代考証」、広義の「史料批判」が不足し、考察が迷走する点が多々見られます現代人の常識で、ほとんど二千年前の文書史料が、的確に理解できることは「あり得ない」と言う覚悟が不足/欠落しているように見えます。もったいないことです。
                                以上

2024年7月27日 (土)

新・私の本棚 中島 信文 「陳寿『三国志』が語る 知られざる 驚異の古代日本」 1/3

 本の研究社 2020年1月初版 アマゾンオンデマンド書籍
私の見立て ★★★★☆ 深い知見・考察の新たな史学書 必読 2020/01/23 2024/07/27

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇総評 一部再掲
 中島信文氏は、多年工学・技術分野の実業に従事され一代を画した方であり、引退後は、当分野の古代史に関して、広く関連文献を精読し、新鮮な視野から俗説の弊を正していることに、賞賛を惜しまないものです。

 当方も、独自に考察を重ね、独自の意見を発言しています。

〇本書に対する感慨
 さて、中島氏の陳寿観、范曄観は、我が意を得たもので、このような順当な観点が今まで消し去られていたのは、嘆かわしいものがあります。国内史学界は、「纏向遺跡」高揚に邪魔な「倭人伝」への偏見が堆積し、正当な論議が埋没しています。
 出回っている史料読み替えは、現代人創作の偽書です。
 原因は、当分野の一般向け解説書が、崇范曄、罵陳寿を刷り込むため、真に受けた論客が、無批判追従するところにあると見受けます。

 そうした感慨はさておき、中島氏の論考は、中国古典史料から出発して大変貴重なものです。そう言うと、反射的に、中国史料絶対視批判が出るでしょうが、氏の論考は慎重な史料批判を経た上のものであり、安直な先人追従べったりの俗説による「魏志」崇拝/否定の二極分離とは異なるものです。
 「まず筆者の真意を読み取るべし」との文書解釈大原則を知らない無教養な俗人が徘徊しているため、くどくど前置きせざるを得ないのです。
 案ずるに、学界関係者は、先賢の言説を否定すると、学界での将来が閉ざされ生業を失うため、頑として先賢に従っていると見てとれます。これでは、本書といえども、滴水の一滴かと噛みしめるしかないのです。いくら強力に発信しても、受信機の電源が切れていたら何も伝わらないのです。
 本書を一読いただくのが始まりで、直ちに回心されることは無いとしても、世の中には、かくも本格的な主張があることを意識にとどめてほしいものです。

 ということで、ここに微力ながら中島氏への支持を表明します。

*不同意点
 取り急ぎの口上を述べた上で、私見を確認すると、行程道里の解釈で、地域の政治経済の中心と思われる伊都国から、王都『邪馬台国』の間が、当時、文書交信がほぼできない状態と交通事情とを考慮すると、両国間で密接な連携のできない遠隔に想定されているのには同意できません。精々、一日、二日の道のりだったのでは無いでしょうか。

 意見の相違は避けられない以上、論議を挑むものではないのです。ご不審なら、過去記事を確認いただきたいものです。

*当ブログにおける范曄批判について
 本件について初見の方は、以下の議論が唐突に見えると思いますので、若干捕捉します。
 「倭人伝」史料批判で、先賢諸兄姉の意見に困惑するのは、はなから、「倭人伝」編者の陳寿への反感が展開され、対照的に笵曄「後漢書」東夷列伝「倭条」編者である范曄への好感が示されていて、そうした判断の論拠が示されないまま、一種の決定事項として論議が進んでいる例が多々見られることです。しかし、課題となっているのは、「倭人伝」の解釈であって、「後漢書」倭条は、いわば、通りすがりの野次馬なのです。従って、この野次馬が、単なる野次馬なのか、陳寿の見解を克服するに足る信頼を託せるかどうか、審査を重ねる必要があると考えたものです。

 私見では、中島氏は、倭条と倭人伝の対照から、倭条が、史書としての信頼性を有しないとしていますが、当方は、別の見地から、笵曄の文筆家としての「曲筆」、華麗な修飾偏愛を、実例を根拠として、厳正に指摘しているものです。

 ご不満の方は、提示した史書を確認頂いた上で、ご自身の反論を提示いただきたいものです。くれぐれも、ご自身の思い入れ、情感を振り回した「そんな馬鹿な」的な印象批評はご勘弁ください。

*范曄批判 其の壹 「倭国大乱」の「大罪」
 私見では「倭国大乱」に文筆家たるの笵曄の大誤謬が明示されています。
 「大乱」は、単に規模の大きい[乱]でなく全く別の事象です。

 良く言う「天下大乱」が由来であり、これは、中原天下の帝国が瓦解し、新たに覇権を求めた群雄が天命を争う状態を示す、大変特別な言葉です。例えば、秦末期、咸陽に二世皇帝がいても各地の武装蜂起で、天下は覇者を見失い、最後、劉邦と項羽の両雄が争った「中原逐鹿」事態に至ります。
 従って、史官たる陳寿は、東夷王権不安定状態を単に乱れたとしているのです。笵曄の「大」は、水の沸点のような「臨界」の通過を示します。

〇文筆家、ロマンチスト 范曄
 笵曄は、史官ではなく、畢生の文筆家として「美しい」(美文)史談を書いたのであり、重大な用語へのけじめを持たず、無造作に「倭國大亂更相攻伐歴年無主」と四字句を揃えたのです。蛮夷「倭」の記事で、風聞をもとに「大乱」と書くのは天子に不敬であり史官ならもってのほかなのです。

 范曄が史官でないのはこの点に表れています。華麗な文体にこだわって正確さは二の次であることから、後漢書倭伝に信を置いてはならないのです。

                                未完


新・私の本棚 中島 信文 「陳寿『三国志』が語る 知られざる 驚異の古代日本」 2/3

 本の研究社 2020年1月初版 アマゾンオンデマンド書籍
私の見立て ★★★★☆ 深い知見・考察の新たな史学書 必読 2020/01/23 2024/07/27

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇范曄批判 其の貳  後漢書西域伝の誤謬
 ここからしばらく話しは、大変長くなりますが、論議を飛躍させたくなかったので、経過する階梯を逐一辿ることにしました。気が向いたら読んでください。
 曹魏史官と思われる魚豢は、「魏略」西戎伝編纂時、西域実情を知るすべがなかったものの、原記録に訂正を加えず、考察追記にとどめたのです。

*甘英抗命談 范曄創作の背景 (条支、大秦比定は、独創の新説)
 端的に言うと、後漢書「西域伝」は、笵曄の誤謬に基づく創作なのです。
 魏略「西戎伝」によると、西域都護副官の甘英が、漢代西域の西限であった安息国に入り、目前の大海「カスピ海」対岸の条支(海西 アルメニア王国)と南岸の大秦(安息国 メディア公国)の情報を持ち帰って大功を立てたのです。
 西戎伝では、甘英は、カスピ海東岸の「大国」、実は、地方公国である安息で情報収集した地理記事を適確に記録したのです。西戎伝は、三千字を越えて、そのうち、漢書に無い「新界」記事は千五百字近い大部の記録です。

*混乱の起源 「安息」帝国と「小安息」公国の混同
 しかし、洛陽書庫の班固「漢書」西域伝には、安息が西方数千里の彼方に国都がある巨大な大国とあり、洛陽史官が、不整合情報を書き足したので混乱したのです。かくして難解な地理記事となり、誤釈で、本来の使命であった条支、大秦に関する記事のかなりの部分が所在不明になりました。
 念のため言うと、これは、范曄にも魚豢にも責任のない、いわば、不可抗力、天災の咎めが、後世に及んでいるのです。そう、笵曄「後漢書」西域伝安息条には、中国の「典客」に相当すると思われる応接者/長老が、「小安息」と自称していたことが書き留められているのです。あるいは、メソポタミア世界を睥睨している西の国都領域と対比して、「東安」、ないしは、「東安息」と称していたかもわかりませんが、甘英が受け取った国書には、中国語の安息に相当する国号、Partiaが明記されていたので、そのような実態は、報告書に大書されなかったのでしょう。少なくとも、洛陽史官には、全く意想外だったと見えます。

 因みに、西戎伝に採用された後漢朝記録は、実態が不明な「其国」主語や、そもそも、漢文に多い主語省略の影響で、風俗、産物記事の主体が不明になっていて、あるいは、簡牘の革紐が切れた散乱による乱丁があったのか、どこの事情なのか、解釈困難で、ほとんど不可能な文書になっていますが、これもまた、范曄にも魚豢にも責任のない、いわば、不可抗力、天災の咎めが、後世に及んでいるのです。

*范曄「大秦神話」創作の由来
 解釈困難(不可能)な史料に辟易したか、博識の文章家を自負する范曄は、全知全能を傾けた苦慮の結果、西戎伝の新界情報を棄却して、甘英抗命記事の後に、行き損ねて探索できなかったはずの大秦国の風俗満載の戯画記事をでっち上げたのです。かくて、甘英、洛陽史官、魚豢、范曄と、数世紀の時と万里の距離が離れるていくままに、本来、実務本位で書かれた明快、簡潔な資料の中で誤解がはるばると成長したのです。
 後漢書では、甘英は、数千里西行の果て、シリアとされる地中海沿岸でローマ行を放棄し、虚しく遠路を引き返した戯画まで描かれているのです。

*甘英雪辱、再評価 重大な使命の正体
 甘英は、不世出の西域都護班超が副官に登用した赫々たる武人です。史官の家で史官の訓練を受けながら武人に転じた班超が異郷探査任務を課した甘英が、命を惜しんで抗命する訳はないのです。そもそも、班超が存在を知らなかった新天地大秦の冒険探査を指示するわけはないのであり、漢書が記録した西域の西の果ての「蕃客」安息、条支の国情を探査し、西域都護幕の西界同盟軍として締盟を図るのが使命の筈です。

*范曄渾身の場違いな創作
和帝永元九年,都護班超遣甘英使大秦,抵條支。臨大海欲度,而安息西界船人谓英曰:「海水広大,往來者逢善風三月乃得度,若遇迟風,亦有二歲者,故入海人皆赍三歲粮。海中善使人思土恋慕,數有死亡者。」英聞之乃止。

 これは後漢書安息国記事では場違いで無様です。「安息西界」は安息西境メソポタミアであり、当時、東地中海は、全てローマ領であったことから、不合理です。
 また、西域伝で、条支は、既知の烏弋山離の西傍であり、都城は明らかに西岸です。なお、現地の大海はカスピ海であり、数日で渡れる「大海」です。

 但し、そのような批判は、現地事情に即した記録解釈から得られるものであり、笵曄自身は、生涯行き着けない憧憬の西界に茫々たる「西海」を想定していたのであり、「大秦」の所在は明言していないのです。

 後漢書西域伝「大秦条」は、「大秦國,一名犁鞬」と書き出していて、漢書でアラル海付近にあったとされている遊牧民の小国の名を持っていたものであり、条支、安息の東北方近隣の小勢力だったと示しているのです。西戎伝では、この後に「在安息」と付記して、文脈からカスピ海南岸と示していますが、句点付けの謬りにより、甘英にとっては未知の条支西方に位置づけられてしまったのです。

 ただし、その後段に、この書き出しを裏付ける明確な記事は無いため、大秦が、実世界のイタリア半島、さらには、大西洋のような遙か西方に投影されたのは、後世人の憶測であり、漢書記事の西域最新事情すら知る術のなかった笵曄には責任はないのです。

 魚豢の手になる魏略西戎伝は、現地探査した西戎地理原情報をもとに、適確な「新界像」を描いていますが、笵曄は、後漢史官が誤解して付け足した補注を重視して、「新界像」を風聞として斥け、続いて描く大秦記事に地理情報が無い言い訳として『「船人曰」に恐れを成した甘英抗命』を創作したものと思われます。

*笵曄に「史料破壊」の過失
 どんな信念を形成していたにしろ、どんな動機があったにしろ、史書編纂において原資料を棄却して創作で埋めるのは、史官の使命、道義に反することであり、范曄が史官でないことを物語っているのです。

 また、西域傳編纂の際に、西戎伝前半の大変貴重な諸国情報を大量廃棄した手口も支持できないのです。裴松之が、魏志に補追したために、魏志本文と同様の高精度の写本継承で、今日までほぼ忠実に承継された魏略西戎伝がなければ、後世人は、西域から追い出されても不屈の意気で西域都護を復活させた後漢の偉業を知ることはできなかったのです。(後漢書には、むしろ散漫な写本継承の兆候が見えるのです)

*笵曄「後漢書」倭傳評価の適正化
 史実を探るには、范曄「後漢書」をそのまま信じてはならないのです。
 念のため補足すると、ここで論じているのは、西域伝、東夷伝の蛮夷伝に限ったものであり、後漢書の本文である本紀と列伝(蛮夷伝を除く)には、先行諸家後漢書が編纂されていて、流布していたため、美文家といえども、内容改竄はできなかったものです。
 西域伝については、雒陽の公文書館に資料が集積されていて、魚豢「魏略」西戎伝に収容されていたのですが、後漢代史料と曹魏代資料が渾然としていたため、後漢書「西域伝」の編纂には、多大な労苦が伴ったと見えます。
 東夷伝については、後漢末期、献帝の建安年間に遼東郡太守となった公孫氏が、雒陽の混乱をよいことに、自立を図ったため、公文書上申が滞り、従って、東夷伝の編纂は、史料不足で難渋したものと見えます。
 笵曄「後漢書」倭条は、従って、雒陽公文書庫に依存できず、陳寿「三国志」魏志倭人伝に依存したものと見えます。これは、先賢諸兄姉の頓に指摘するところであり、後漢書「倭条」は、「同時代同地域の史料として信用できないもの」との評価が定着したものとみています。

                                未完

新・私の本棚 中島 信文 「陳寿『三国志』が語る 知られざる 驚異の古代日本」 3/3

 本の研究社 2020年1月初版 アマゾンオンデマンド書籍
私の見立て ★★★★☆ 深い知見・考察の新たな史学書 必読 2020/01/23 2024/07/27

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*武人甘英の面目 別視点による考証
 西域都護が重大な使命(君命)を託した副官に重大な抗命があれば、都護は皇帝に奏上し副官を誅殺したはずですが、同代史書に、かくなる無面目記事は無いのです。ことは、後世人范曄の使命誤認であり、本来の使命は大成功でないので明記されていませんが、両国との友好関係を確認したので成功の筈です。

 不名誉な武人挿話と夢物語は、ある意味、鮮やかな創作虚構であり、思うに、笵曄は武人に冷笑的です。史官の素養を棄て、武人に転じた班超への筆誅でしょうか。因みに、班超は漢書編纂者班固の実弟です。

〇范曄総評 適確な評価の試み
 私見ですが、文筆家たる范曄には、取り立てて非難すべき点はないのです。

 繰り返しますが、范曄後漢書倭伝は、行文明解でも不正確で、史書としての不備が多いので、史論に於いて無批判な踏襲は避けるべきだというだけです。主部の本紀、列伝は、先行書があって、創作はほぼ不可能だったのです。
 むしろ、先例豊富な後漢書を、あえて編纂した事情を察すべきと思います。

 南遷後、中原回復を焦った北伐、軍閥興隆で自滅した西晋を継いだ劉宋武帝劉裕麾下にあり、文帝代に皇弟重臣から閑職に左遷されたこともあって、二世紀以上前の後漢書独創の大事業に没入したと思われます。

 多分、笵曄は「オリジナリティー」偏愛なる深刻な悪癖に陥る誘惑に勝てず、遂に、史官たり得なかったものと思うのです。他人事ではないのです。

〇「沈没」余談
 些細なことですが、古い中国語で「沈」「沈没」は、水に浸かって泳ぐ様を言うのであり、「潜」と書いても、潜水とは限らないのです。

□太平御覽 地部二十三水上は、「爾雅」により水にまつわる言葉を説く。
《爾雅》曰:水行曰涉,逆流而上曰溯洄,順流而下曰溯游,亦曰沿流。
    絕流而渡曰亂。以衣涉水曰厲,由膝以下為揭,由膝以上為涉。
    渡水處曰津濟。潛行水下為泳。
 「水行」は、水(河川)を渉(わた)ることを言う。流れを遡ることを「溯洄」と言い、流れに従うことを「溯游」という。概して、流れに沿うという。水深次第で、涸れた川を渡るのは「亂」、衣類そのままの浅瀬渡りは「厲」、膝下は裾を掲げて「揭」、膝を越えると「涉」と言う。「水」の渡しは「津濟」と言う。身を沈めて進行するのは「潜」、泳ぐと言う。

 世の中には、ちょっとした川なら泳いででも渡る豪胆な人がいるようですが、中原人はほとんど金槌だったようです。所詮、泳げたらの話しです。余談御免。

 中島氏が説くように、中原人の教養の範囲で、水は、ほぼ川に決まっていますが、中原の川は、大抵、泥水、濁水なので、向こう岸で清水で身を清める必要があります。まさか着衣で泳ぎ渡る無謀な人はいないでしょうから、着替えの用意が必要です。倭地の川は清水であり、中原とは大違いです。加えて云うと、西域の河川は、多くの場合、塩っぱい塩水です。

 そうそう、金槌の身には、見通しにくい川底の深みが怖いので、命が惜しくなり、精々「揭」止まりなのです。もちろん、腰のあたりまで水が来たら、水の抵抗が大変で、川底を歩くのは大事業です。余談御免。
 因みに、河川上流、下流を、中国語で「上游」、「下游」といいます。またも余談御免。

〇最後に
 私見では、中島氏は、紙数を費やして、立論の根拠、経緯を明示しているので、後学のものは、氏の著作から着実な論考のすすめ方を含めて、大いに学べるのです。望むらくは、読者諸兄は、分厚い刷り込みや行きがかりを棄て、虚心に受け止めていただきたいものです。別に、無批判に追従しろというのではなく、私見では、それは、中島氏が、大いに嫌うはずです。

 最後に私見ですが、倭人伝」用語には、正統派の中原語だけでなく「うみ」(Sea)に親しんだ帯方/韓/倭人の言葉/用字が、かなり入っていると感じていますので、訳文の海、水解釈に対する細(ささ)やかな異論としておきます。

 私見では、陳寿は、このあたりに気づかなかったのか、気づいて干渉しなかった(述べて作らず)のか何れか不明です。史書の編纂は、新手のロマンを捻り出すものではないのであり、既に書かれた先人の知的な遺産を、小賢しい後知恵を排して、適確に史書として構築することにあるのです。

〇評に代えて
 魚豢「西戎伝」末尾の「評」に習えば、人はそれぞれの井戸に生涯閉じ込められた蛙なのです。
 この一文を読んで、多年魚豢に抱いていた不信の念は夢散したのです。現代人が、やや蛙の境地と違うとすれば、しばしば長年の時すら超えて、先人ならぬ先蛙の知恵を知り得ることです。

                                以上

新・私の本棚 番外 倉山 満 学校で習った「中国の歴史書」はデタラメばかり 1/6

日本書紀に「卑弥呼」も「邪馬台国」も出てこない本当の理由 PRESIDENT Online 2023/11/04
 私の見方 ☆☆☆☆☆ 知的なゴミ屋敷 早すぎる墓誌銘か  2024/03/16, 07/27 

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに
 当記事は、「プレジデントオンライン」記事ですが、倉山氏署名入りで編集者は無記名なので氏の著作として批判します。
 そもそも、「中国の歴史書」などと、途方もない大風呂敷を広げていて、先ずは、失笑します。氏がどんな内容を「学校」で習ったか、読者にはわかりませんから、勝手な独りよがりにはついて行けません。公開の場で喚く前にカウンセリングをお勧めします。

*新参者の咆吼
中国の歴史書「魏志倭人伝」(3世紀末)には、邪馬台国の女王・卑弥呼の名前が記されている。憲政史家の倉山満さんは「歴史の授業では『中国の歴史書が事実』と刷り込まれるが、実際は不正確な記述が多い。『魏志倭人伝』を聖典の如くありがたがる必要はない」という――。

 古代史学で言い尽くされていますが、ここには二千年後生の無教養な東夷が好む「欺瞞」と「誤解」が満ちあふれています。特に、事ごとに「実際」とする虚言癖に似て心身に負担をかけたのではないかと懸念されます。
 『中国の歴史書「魏志倭人伝」』なるものは実在しないのは公然、衆知です。陳寿編纂の史書「三国志」の「魏志」第三十巻の巻末を占める小伝「倭人伝」の小見出しは存在しますが、それも、「紹熙本」と呼ばれる有力史料に明記されています。そもそも、「魏志倭人伝」に「邪馬台国」は書かれていません。これも、衆知/公知の事実です。
 冒頭で、中国の歴史書を一刀両断すると宣言しておいて、実は、「魏志倭人伝」をなで回すだけというのは、何とも、みっともない腰砕けです。大丈夫でしょうか。
 以下、匿名のインタビューアーは、実際は、氏の著書から引用するだけで、これに対して、何の追記もしていません。

 「歴史の授業では『中国の歴史書が事実』と刷り込まれますが、実際は不正確な記述が多いのです。『魏志倭人伝』を聖典の如くありがたがる必要はない」と私見を述べ立てますが、「歴史の授業」が、保育園や幼稚園でない限り、「刷り込み」などされていないはずです。また、保育園、幼稚園は外しても、小学校の段階で、『中国の歴史書が事実』と刷り込もうとしても、感じばっかりでは、わけがわからないはずです。
 氏は、幼児期にどんな「おとぎ話」を読んだのでしょうか。真に受けるなら釈尊以来の偉人です。それより、そのような暴言を公開して取り返しのつかない向こう傷を拵える前に、入念な検証が必要ですが、本記事を読む限りでも、氏はかなりの智識/見識欠乏症なのに、躓いて転んだり鞭打たれたりして傷だらけ、痣(あざ)だらけになっても、一向に自覚していないようで、素人目にも痛々しいのです。

 「実際は不正確な記述が多い」の「多い」なるあいまい表現は根拠不明です。大抵は、一人、二人、多い程度で非科学的です。まして全二十四史対象となると、万を超える箇所が指摘できねば「多い」ことになりません。

 「聖典」と称しますが、何のことか、一凡人には思い至りません。それは、仏経典なのか、旧約聖書なのか、コーランなのか、何れにしろ、それぞれの宗教の信者でも、聖典に書かれていることが「歴史的事実」と信じて「有り難がっている」のは、ごく少数派に過ぎないはずです。これもまた、裏付けのない非科学的な意見です。
 アニメの街角が「聖地」と称されるなら、アニメ自体が「聖典」かも知れません。倉山氏の意識は、大部混濁しているようです。
 もちろん、氏が、「魏志倭人伝」なる二千字史料を「ありがたがる必要はない」と称するのは「私見」ですが、適度の批判は許されると思います。

 以下、引用は、適法な参照引用です。

※本稿は、倉山満『嘘だらけの日本古代史』(扶桑社新書)の一部を再編集したものです。

                            未完

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*加筆再掲の弁
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*承前
 率直なところ、「嘘だらけ」と自嘲しているのは「日本古代史」で、当ブログの圏外なので、本来は「猫またぎ」なのですが、当記事は、まるで関係のない「中国の歴史書」の個人的な読書観を打ちだしていて、具体例を予告している「腰巻き」共々、出版社に良心はないのかと危惧されます。「再編集」とは、不適切な字句に修正がある良心的な掲載かと期待しますが、裏切られたようです。これでは、子供達に間違った意見を押し付けないように「X」表記が必要と見えます。

*空疎な悲憤憤慨
「中国の歴史書に書かれてあることが事実」なのか
仁徳天皇を教科書で教えないなど、けしからん。
仁徳天皇といえば世界最大の古墳を造ったと私などの世代では習ったものですが、今は誰のお墓か分からんという理由で、「大仙古墳」とのみ記されます。三十代で塾講師を始めた時、「なんじゃこれは? 仁徳天皇陵は、どこに行った?」と絶句したのを思い出します。

 どんな世代か不明ですが、まさか、戦前派ではないでしょうね。随分の記憶力に感心します。「誰のお墓か分からん」などと、子供のような放言は信じられないのです。いや、氏は、自信があるのでしょうが、根拠不明の子供じみた体験に基づくご意見を賑々しく著書に書き込むのは、読者に対して迷惑ではないのでしょうか。

こういう「科学」を名乗れば何をやっても許されると信じている連中を、私は「素朴実証主義者」と呼んでおちょくっていました。「素朴」と書いて「クソ」と読みます。

 「連中」などと自嘲/謙遜いただいた上に、自虐/戯言めいたご意見を囀りまくる「素朴」な自爆発言は見ていて気の毒です。氏は、「天にツバキする」との諺を知らないのでしょうか。氏の全身は、自爆の汚物に塗れていて、とても近づくことができません。

確実な事実だけを取り出そうとしている気なのでしょうが、物語(ストーリー)が無いので、何を言っているかわかりません。歴史(ヒストリー)は物語なのですから、「何を基準に事実を描くか」が無く、思い付きで事実を羅列しても何もわかりません。

 「歴史(ヒストリー)は物語」というのは、「わかりません」との泣き言たれと合わせて、軽薄な私見であって、他人に主張するには、何の根拠にもなりません。「歴史」は、中華文明三千年の成果であって、生煮えのカタカナ語(ヒストリー)なぞ書かれていないのです。氏のように、泥まみれの取れたて「思い付き」を、貧しい認識/幼い感情論で書き殴る醜態を繰り広げていては、なにも伝わらないのです。

こんな教科書で習っていたら、「中国の歴史書に書かれてあることが事実」と刷り込まれるのは確かでしょうが。

 これは、氏の自作自演かとも見えます。何しろ、中国二十四正史に、日本に関する記事は、はしたなので、この告発は、空を切っている冤罪です。そのような「刷り込み」は、可能なのでしょうか。氏は、誹謗/弾劾されている中国歴史書で、「歴史」「事実」が、何なのか、まるで知らないでいるのでしょうか。

                            未完

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*無意味な「倭人伝」批判
「魏志倭人伝」は単なる参考資料
その中国の歴史書で有名なのが、邪馬台国の女王・卑弥呼が出てくる「魏志倭人伝」です。その「魏志倭人伝」自体が卑弥呼から五十年後に書かれた、近代史家なら参考資料にもしないような、五次資料くらいの代物なのですが。

 ここで、ようやく、具体例が登場します。中国古代史料を門外漢で無教養な「近代史家」(自画自賛か?)が論じるのは無謀です。「魏志倭人伝」を「五次資料」と「絶賛」するのは意味不明です。一、二次と、どうやって数えたのか、と意味不明の暴言です。問題は、取り次ぎ回数では無いのです。物知らずの無教養な東夷、地下数千㍍の「五次人物」がなにを言うかという感じです。二千年後生の無教養な東夷の「近代史家」(自称か?)など屁の突っ張りにもならないのです。
 ちなみに「有名」なのは、二千年後生の無教養な東夷だけで、別に、中国二十四史の中で、目立つわけでもない、わずか二千字なのですが、どうして、「有名」だと思い込んだのでしょうか。

 ちなみに、この時代の「国内記録」は、一切残って「ない」ので、わずか二千字の「魏志倭人伝」が、二千年後生の無教養な東夷に「聖典」扱いされるのは、むしろ順当です。つまり、実在する確実な史料を根拠にするのは当然です。表現放棄は、「無能な著作者の最後の隠れ穴」ですが、しっぽ丸見えです。何しろ、「ないもの」は、論じようがない」のです。

実は『日本書紀』は誠実に取り組んでいます。しかも、「魏志倭人伝」の引用を、よりによって「神功皇后紀」にぶっ込んでいます。「あっちの国では、こういうふうに記録されているんだけど……」という戸惑い炸裂の紹介の仕方です。

 「日本書紀」を無造作に擬人化していますが、同書は、単独の編集者の創作でなく、当然、複数の編集者が多様な元資料を組織的編集体制でつきあわせたものですから、「誠実」にと力んだかどうか知ったことではないのです。神がかりというか、憑きものというか、「見てきたような」法螺話横溢です。空っぽな脳の炸裂は悲惨です。
 氏の書き物は、終始、文章が泳ぎまくり踊りまくりで、意味不明なのも困ったものです。「当惑」などと子供じみた泣き言を云う場合ではないのです。いや、「当惑」は、後世の凡人の片言ですから、ここで批判しては「筆の汚れ」なのでした。よく、「炸裂」を洗い清めることにします。御自分の粗相は、御自分で尻拭いして欲しいものです。

『日本書紀』の、神功皇后三十九年、四十年、四十三年の記事を、ご紹介しましょう。 以下、衆知なので省略

 書紀の当該部分は、「魏志」から原文を引いて校正すると「間違いだらけウソまみれ」です。時代の叡知を集めた「日本書紀」編纂後のやっつけ仕事と見えます。史料原文を引用された方は、恥さらしに泣いているでしょう。「晋起居注」引用漏れも痛いところです。
 ともあれ、すべて「日本書紀」の責任であって「魏志倭人伝」には、何の関係も無いことでしょう。「なんての」氏の心身は、大丈夫ですか。

身も蓋も無いことを言うと、ヤマト王権とは何の関係も無い北九州の族長が魏に「私が倭の王様です」と名乗って、向こうが真に受けて信じた、とすれば筋は通ってしまうのですが。

 「ヤマト王権」が正体不明で何の意味もありませんが、どうして、何の関係も無いと断言できるのか不思議です。もっとも、氏の視点は、股覗きの天地倒錯で、北九州の「族長」が、尊重されていたのであり、当方の蛮族は、眼中になかったと見る方が、正解でしょう。
 「身も蓋も」不要で氏の心身は大丈夫でしょうか。ちなみにここは、恥知らずにも太古のネタパクりです。

 ちなみに、「倭人」が最初に交信したのは、中国の東方の辺境で、漢/後漢代以来、蛮夷の対応に慣れていた楽浪郡なのですから、「倭人伝」には、「倭人」は帯方東南に居て、大海中の山島に国邑を結んでいる、北九州に展開した小国の集まり』と正確に理解されていたのです。「ヤマト王権」など、まるで見えていなかったのです。筋がすらりと通るでしょう??

 えっ、お客さん、そんなことも、知らなかったのですか?? 「もぐり」じゃないですか。


                            未完

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*根拠のない(無自覚の)妄想

これ、何の根拠もない妄想でもなく、足利幕府と持明院統の朝廷に楯突いて九州を占拠していた後醍醐天皇の皇子である懐良親王が明に使いを送って、「私こそ日本の支配者だ」とかナントカ嘘八百億を並べたら、マヌケにも皇帝も政府も信じたという、明確な史実が残っているのです。

 なぜ、三世紀を考証するのに、千年以上後の明史を参照するのか。氏の心身は、大丈夫でしょうか。「明確な史実」とおっしゃるのは、中国史書の中で、「明史」がお気に入りなのでしょうか。それにしても、中国史料の読解ができていないのはともかく、国内の南北朝対峙の事態が、正確に書けないのは、氏の資質を大いに疑わせるものです。「九州を占拠していた後醍醐天皇」というものの、終生天子であった先帝は、叛徒を恨みつつ、とうに崩御していたはずです。
 マヌケにも皇帝も政府も信じたと能天気なことを言っていますが、 蕃夷の奏上は、そのまま史実として記録に留めるのが、中國の蕃夷あしらいだったのです。皇帝も政府(日本政府のことか)も、べつに、蛮夷の申し立てを、そのまま信じたわけではないのです。
 エッ、そんなことも知らないで書いたのですか。

*「億万」という世界
 ちなみに、余談ですが、中国では、太古以来、「億」とは極力書かずに、走り書きしやすい「万万」と書いたものです。字画がやたら多いと、日常の実務で不便ですからね。中国本土では、簡体字になって「亿」と書きやすくしてしまったので、今や、「億」が生きているのは、日本と台湾正体字ぐらいだけのようです。
 と言うものの、グローバルで云うと、数字単位の発達の遅れた3桁単位の欧米諸国には、「億」に相当する単位が無いので大変不便であり、4桁単位で「億」「亿」のある「東アジア」諸国は、一歩進んでいるのです、
 エッ、そんなこと知らなかったというのですか。

*史書を書いたのは誰か~余談
 なお、中国史書は、皇帝の著作物ではありません。特に、魏志倭人伝は、当時の「権力者」(だれのこと?)の知ったところでなく、まして、「政治文書」(何のこと?)などではありません。何かの誤解/妄想でしょう。
 「中華皇帝」(だれのこと?)の「意図」(何のこと?)を知ることなど、現在、過去、未来の誰もできないし、そのような試みは、時間の無駄です。いや、氏か物好きで、とにかく時間つぶししたいのなら、勝手にしていただいて「大丈夫」です。いや、氏のことを身の丈一丈(少なくとも、八尺、2.5㍍越え)の大男だと「セクハラ」表現しているのではないのです。

*無意味な余談
明智光秀は「阿奇知」、秀吉の記述もデタラメ…
魏志倭人伝どころか、例えば戦国時代の記述にしても中国の記述はメチャクチャです。

 中国史で「戦国時代」というと、秦始皇帝の天下統一に先立つ時代です。ちゃんと、勉強してほしいものです。以下、本筋と関係ないので省略
 「インテリジェンス以前の問題」は、白日夢の寝言なのでしょうか。意味不明です。要するに、当記事の内容がいい加減なのは、持ち込んだ日本人の責任なのです。「中国人には漢字の倭人発音は、一切できない」ので、人名表記は南蛮人宣教師の意見かも知れません。
 なにしろ、(野蛮な)南蛮人の言葉には、日本語の美点である柔らかいガ行「鼻濁音」がないので、本国報告は「信長」は、“NOBUNANGA”、「長崎」は、“NANGASAKI”と、固い野蛮なガ行でなく、多少似通って聞こえる“NGA”などでお茶を濁しているのです。
 いや、その辺りは、南蛮人の文書で察することができるのですが、南蛮人の居なかった倭人伝時代の帯方郡官吏が、どのようにして、「倭人」語を、当時の中国語の漢字音に取り入れたかは、正確なところは、誰にも分からないのです。

 後世、百済人は、漢字のふりがなにできる表音文字を工夫していたのですが、中国から、漢字をそのまま学ばないのは不法として厳禁されてしまったので、百済には、庶民の漢字学習を助ける「ふりがな」は発生しなかったのです。その点、東夷の果ての日本は、中国の監視が、比較的緩かったので、百済の迫害の教訓を生かして、ひっそりと庶民も習い覚えることのできるかな交じりの書き言葉を発達させたのです。

 して見ると、結局、いい加減なのは、ものを知らない氏の態度です。

人や地域の名称は音にあてこまれているだけ
中華帝国の正史は「皇帝の歴史」ですから、皇帝から周辺に行けば行くほど不正確と呼ぶのもおこがましいほど、不真面目になっていきます。

 「皇帝の歴史」とは、何の話なのか趣旨不明です。多分、「不(真)面目」の書き損ないでしょうか。中国の「法と秩序」をとことん甘く見ている氏の心身の健康は、本当に大丈夫でしょうか。

「魏志倭人伝」とか、後から出てくる「宋書倭国伝」「隋書倭国伝」を必要以上に、ましてや聖典の如くありがたがる必要はありません。

 また、「ありがたがる」ことを卑しんでいますが、謙虚に資料に直面することはできないのでしょうか。いや、氏は、巧妙に、これら資料は「必要なだけ」ありがたがると、逃げています。誰が、「必要以上」と言えるのか、誠に不可解です。「聖典の如く」の馬鹿馬鹿しさは既報です。
 それにしても、誰に習ったのか、支離滅裂で無様な罵倒筆法です。

ただし、だからといって「魏志倭人伝」が百パーセント嘘だということにはなりません。漢字表記は、特に人や地域の名称は音にあてこまれているだけですから、解釈の可能性は広いのです。

 『「魏志倭人伝」が百パーセント嘘』とは、未検証の新説です。『「魏志倭人伝」は嘘ばっかり』というのが『通説』ではないでしょうか。もっとも、どちらも、実現不能/検証不能な妄想/暴言と言えます。

                            未完

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*承前
 「漢字表記は、特に人や地域の名称は「音」にあてこまれているだけですから、解釈の可能性は広いのです」と「誠実な」発言です。凡そ「可能性」は、無限に、限界不明に広がるものなので、「広い」と刻まれると愕然とします。氏の心身は、時に、健全化するのでしょうか。小見出しの「だけ」は大見得の逃げ口上と見えます。

我が国の正史である『日本書紀』には、「邪馬台国」も「卑弥呼」も登場しませんが、「邪馬台国(やまたいこく)」と「倭国(やまとこく)」は音が似ていますし、「卑弥呼(ひみこ)」と「姫御子(ひめみこ)」も音が似ています。

 蕃夷に「正史」は無いので、中国に知られると死罪ものです。
 「音が似ている」との暴言は、なぜそう思うのか、カウンセリングが必要です。
 丁寧に言うと、後漢書に登場した「邪馬臺国」は、「邪馬台国」と字が違い、発音も違うのですが、その程度のことも知らないでいるのでしょう。三世紀当時、「倭国」をヤマトコクと発音することはないのです。「姫御子」は、三世紀当時の史料に存在しません。好き放題に書いていて、誰も止めないのが不思議です。出版界に職業的な良心は存在しないのでしょうか。

完全に嘘ではなく、魏志倭人伝に登場する人物に相当するような誰かが日本列島にはいたかもしれない、という、そのくらいの仮説は立てることができるでしょう。
 「不完全な嘘」など、何の役にも立たないでしょう。因みに、臆測では「仮説」は立てられないのです。せいぜい勉強してください。

日本書紀を無視して、「中国の歴史書」を絶対視する違和感

 二千年前の異文化著作に「違和感」がないなら神懸かりです。氏の偏愛する「絶対視」は、時代錯誤の漫談用語です。

受験生が丸暗記させられる用語を羅列します。
・漢書地理志 =漢の時代。楽浪郡の向こうで倭は百くらいの国に分かれていた。
・後漢書東夷伝=後漢の時代。光武帝に挨拶に来た倭奴国王に金印をあげた。
・魏志倭人伝 =三国時代。倭の邪馬台国の女王卑弥呼に親魏倭王の金印をあげた。
・宋書倭国伝 =南北朝時代。宋に五人の倭王が次々と挨拶に来た。
・隋書倭国伝 =隋の時代。倭の多利思比孤(タリシヒコ)が生意気な挨拶をした。

 氏の創作はともかく掲示されているのはいい加減な史書名とそれに続く「字句」であって、「用語」等ではありません。随分いい加減で、すべて誤解に過ぎません。「金印をあげた」と五人の倭王訪宋と俀国王訪隋挨拶新説連発には失笑します。

ふう~ん。飛ばして次。三国時代の中国は、魏・呉・蜀に分かれていました。日本列島から一番近いのが、魏です。「魏志倭人伝」には、魏の明帝が卑弥呼に対して「汝を親魏倭王として、金印・紫綬を与えよう」という勅を発したということが書かれています。

 そのようなことは一切書かれていません。「おねむ」の時間でしょうか。

*書紀聖典化の徒労
これも何回か紹介しましたので、次。さっさと本節の主題です。
江戸時代から繰り返される「倭の五王」の議論
日本の歴史学者は、「讃・珍・済・興・武」がどの天皇にあてはまるかを必死になって研究しています。別に戦後歴史学の弊害でも何でもなく、江戸時代からあんまり進歩せず。どうみても、系図が合いません。さすがにこればかりは、『日本書紀』の系図は間違いだと言い出す愚かな学者がいないところが、古代史学者の良識でしょう。近代史だとそのレベルのやらかしが日常ですから。

 当然、史料として確立されていない「書紀」の記事に、悉く疑念を呈するのが学問の道ですから、氏のように、何も知らない門外漢の生かじりで「愚かな学者がいない」とは、知らない者の強みから来る天下無敵の自爆発言ですが、氏の自爆はここまでに多発していて、今更言うことはないのです。
 何故、誰も教えてあげないのか、不思議です。
                            未完

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日本書紀に「卑弥呼」も「邪馬台国」も出てこない本当の理由 PRESIDENT Online 2023/11/04
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*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*承前
ただ、雄略天皇が「武」に当たるのは間違いないとして、逆算してその前の時代を考察しているのです。 中略

 「雄略天皇が「武」に当たるのは間違いない」との「仮説」は、書紀崇拝者に聞き心地が良いので信奉されていますが、「間違いない」とは、何かの勘違いでしょう。本当に、本当に間違いないのなら、とうに全て解決しているはずです。解決しないのは、「仮説」が間違っているからではないでしょうか。普通の時代考察は、そのようにして、脆弱な仮説を淘汰して進化するものです。
 いや、別に、人の生き死にに関することではないので、冷徹に見きわめるべきです。
 「中国の史書絶対視の歴史観」が、どこのどなたのことか不可解ですが、中国史家が東夷「書紀」を全篇確認完全否定とは見当違いでしょう。
 「書紀」の継承について評すると、古来、平安時代までは「聖典」扱いされていたのか考証がされていませんが、鎌倉時代以後の武家の時代は「危険思想」、禁書扱いで考証されず丸ごと「トンデモ本」扱いされたと見えます。

中略  特に、第二十一代雄略天皇は超狂暴な天皇として描かれます。 中略 本当でないなら、何のためにこんな話を書くのでしょうか。

 ご質問には返事できませんが、所感は同感です。

 このあたりの氏の「超」「グロ」嗜好には関与しませんが、それを公開するのは勘弁して欲しいものです。当然の生理現象でも、公衆の面前ではご勘弁いただきたい。

*無知/無理解なのは誰か
「わからない」に向き合う態度が欠けている
別に『日本書紀』と中国の史書、どちらかが百パーセント信用できて、もう一方を無視して良いなどとは言っていません。本当の事は「わからない」に向き合う態度が必要なのではないか、と言っているだけです。これは日本古代史だけではなく、すべての歴史学者のあるべき態度でしょうし、歴史学以外のいろんなことでも大事な心構えだと思っています。

 氏には、ご自身の専門分野である「憲政史」なる耳慣れない「学」に付いて、ご託宣を述べる権利があるとして、「古代史」について、素人の聞きかじりをご講義いただくのは、ご遠慮いただきたいところです。
 まして、すべての歴史学者に神がかりを述べるなど、僭越の極みでしょう。思いあがりは程々にして、周囲の方とも相談して、取りかえしのつかないことに成らないよう、ご自愛いただきたいものです。

◯終わりに
*蓼食う虫
 それにしても、著者の拙(つたな)い筆を暴露するという扶桑社新書のすさんだ営みがプレジデントオンラインに活写されていて、一冊の新書の杜撰な紹介を公開したので、関係者に対する世上の信頼性が一斉に低下するのは、見事です。

 古来、途方もない新説も繰り返し説けば、百人に一人の賛同者が得られるとの箴言があり、氏の例は、筆勢さえあれば、五十万部は売れるという例のようです。「蓼食う虫も好き好き」という事です。

 ちなみに、蓼の(おそらく)ひどい味も、虫に味覚はないので食べて種をばらまく虫がいます。それで蓼は世代を超えて生き続けます。むしろ、(おそらく)独特の匂いで鳥や虫を遠ざけて、一部の虫に好まれることで、互いに生き続けているかも知れません。進化の妙でしょう。

*蝦蟇の油
 締めめいたことを云うと、氏は、無自覚/無知の強みで、断言/誹謗をくり返していますが、いずれ、知識を身につけた後は「蝦蟇の油」の例え同様、ご自身の醜態に恥じ入るしかないでしょう。勿体ないことです。

                            以上

新・私の本棚 番外「魏志倭人伝」への旅 ブログ版 1

邪馬台国研究の基本文献「魏志倭人伝」とその関連史書を探求する Author:hyenanopapa 2024-06-28
私の見立て 当記事限定 ★★☆☆☆ 即断の書き捨て         2024/07/01, 07/27

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに 古田史学論集批判のしっぽ
 当記事は、長年健筆を振るうブログ主(hyenanopapa 以下、筆者)の健在を示すが、筆勢まかせの即断に苦言を呈する。読み囓り論難批判の姿勢を示すため引用を掲載することを、くれぐれもご了解いただきたい。

 『古代に真実を求めて26集』を読む 谷本茂(前半部は、圏外として割愛)
7世紀、九州王朝説の立場から裴世清が訪れた先を九州王朝とする人々は、どういうわけか〝裴清の道行き文〟に触れようとしない。その最後に【既至彼都】と書いてある以上、この文の解釈は避けて通れないはずなのに、である。
 [中略]【又東至一支国又至竹斯国又東至秦王国】この文をどう読めば竹斯国が俀国の都と解釈できるのか?「邪馬壹国の史料批判」(松本清張編『邪馬臺国の常識』所収p162)で、『太平御覧』所引『魏志』の「又南水行・・・」の記事について「もう何の見まちがう文章に書き改められている」と。[中略]
 【又東至一支国又至竹斯国又東至秦王国】は「何の見まちがうこともな」く順次式に読むのだ!と古田氏は仰ってます。竹斯国は単なる通過国―
 よって、九州王朝の都は竹斯国にはありません!

◯コメント 乱文御免
 筆者は、古田氏の失言に執着していて「九州王朝」偏愛とも見える。ちなみに、古田氏が氏の著作外の呉越同舟松本清張編『邪馬臺国の常識』 で主張したのは史料解釈の基本原則である。
 『「倭人伝」道里記事解釈で文法論が言われるが、肝心なのは記事文意であり、(例えば)大部の類書「太平御覧」の編者は、自身の見識で文章を整理している』との指摘(大意)であり、これを正史蛮夷伝として編纂された「俀国伝」に押し付けるのは、古代史官ならぬ古田氏の文意を理解できていないと見える。(『邪馬臺国の常識』は、古田氏にしてみたら到底賛同できないタイトルであるが、 松本清張氏の知遇により、あえて火中の栗を拾ったものと見える)
 筆者は、古田氏の「主張」を、都合のいいところだけ読みかじりして、手頃な「読み」を造作し、自作自演で俎上両断していると見られかねない。別に古田氏に限ったことでは無いが、古代史書の解釈は、「読み」「書き」の個人の脳内への情報の入出力段階で、手違いが出るものであり、まして、脳内での理屈づけにも、勘違いはつきものであり、あまり、ぱっと見の「思い込み」に振り回されないようにしていただきたいものである。
 何れにしろ、「俀国伝」に関する古田氏の論考批判は、古田氏が自説著作を重ねたものを批判するものであり、筆者の愛読書に偏ることなく、要するに、適切な出典・文脈を、自身の責任で選ぶべきものと思う。ここは、筆者にして、ずいぶん粗雑である。

*「竹斯国比定」の否定
 筆者は、竹斯国は単なる通過国筆者の価値判断を強引に押し付けるが、「魏志倭人伝」での伊都国「到」着との明記を通過国と読み替えるのと同様であり、とは言うものの、はなから否定はしないで、根拠不明としておく。
 筆者は、『その都(みやこ)が「竹斯国」にない』と断定したが、暗に初出の「秦王国」に比定したかとも見える。ともあれ、筆者は根拠を示さず結論を投げ出していて粗雑にみえるが、言わぬが花であろうか。確か、著者は「九州王朝」を否定しているはずなのだが、ここで、どんでん返ししているとも見える。

*地図の思想 Google Map利用規程遵守
 当地図の追記が不明瞭である。利用規約を遵守し、ご自愛いただきたい。

*不適切な引用作法
 時代錯誤、お手盛りの「地図」掲示に関わらず、本論論義は断片佚文で句読点は無い。古田氏の発言ともども文脈を読みちぎって食い散らかしているので、筆者ほどの見識の方にして、誤解を避けられず、何とも不用意と見える。ご自愛いただきたいものである。

 「俀国伝」で、「魏志倭人伝」公式行程の未詳部分、(山東半島東莱以降。狗邪韓国、対海国不通過)一支国以西と竹斯国以降が補充されたのであり、「倭人伝」既出部分は、自明のこととして「倭人伝」依拠しているので、重複を避けていると見える。文林郎裴世清は、職掌柄、史書書法に厳密であるが、後生読者は隋書「俀国伝」だけ読んで迷走しているように見える。いや、遡って「倭人伝」道里記事の読解にも、かなり難があると見えるが、当書評の圏外である。

◯私見披瀝
 言葉を足すと、竹斯国が「倭人伝」到達地伊都国である』のは、「裴世清とその読者に自明である」ことから、「倭人伝」で不詳の秦王国などが、「余傍」のついでで書かれたと見える。筆者は、特段の根拠が無いままに、裴世清一行が竹斯国を通過して、さらに東進し、海岸から渡海した」と即断した」と見える。筆者は、さらに(又)臆測に耽って「道行き文」不記載の長途海行を図示された要するに、いずれも「俀国伝」には書かれていないと見て取れるはずである。筆者は、脳内の隋書「俀国伝」を幻視しているのだが、それを自覚していないのである。
 結論を急かずに、ユルユルと文意を追えば、そのように一刀両断できないのに気づいて頂けるはずである。筆者ほど博識の方が、臆測にどっぷり浸かっているのを自覚すること無く、事ごとに断定を急ぐのは不用意と見える。

                               以上

追記 2024/07/27
 肝心な意義を書き漏らしていたので、以下、追記する。
 氏は、勝手に、読み囓りの手管で「短縮改竄」しているが、丁寧に引用すると、以下の文脈が関連していると見るべきで有る。「又東至一支國又至竹斯國又東至秦王國」は、文などでは無く、断片であって、これだけで、文意を解するのは、子供じみた読みかじりである。氏のために、軽率を惜しむものである。
 ちなみに、行番号、句読点と改行は、文意を考慮したものである。
 1.又東至一支國,
 2.又至竹斯國,
 3.又東至秦王國,其人同於華夏,以為夷洲,疑不能明也。
 4.又經十餘國,達於海岸。
 5.自竹斯國以東,皆附庸於俀。

 氏は無頓着に書き飛ばしているが、ここは、1-4 行程記事四段と5 結論が書かれていると見るものではないかと思量する。特に、5.で「自竹斯國以東」とまとめているのは、2 で倭都への行程を括っているから、3 秦王国(風聞)、4 十余国を経て海岸、即ち海港に至るという報告は、落ち着いて読解していただければ、付け足しに過ぎないと理解できるはずである。ひょっとして、氏は、「又東至一支國又至竹斯國又東至秦王國」まで食い千切って、以下は無視したのだろうか。それなら、軽率の誹りを免れないと見るのである。

 言うまでもないと思うのだが、5「自竹斯國以東,皆附庸於俀。」と総括しているのは、近傍の4 「秦王國」と5 「同國から海岸に至るまでのこれも近傍の無名の十餘國」であって、あくまで揃って竹斯国の東の近隣諸国と解すべきなのである。どうやら、裴世清は竹斯国を離れていないと読むのが、同時代読者にとって自然なのである。

 当ブログでの「倭人伝」道里行程記事解釈は、とうに、確固たる結論に達していて、郡から倭に至る行程は、伊都国で完結していて、「邪馬壹国」は、伊都国の近傍にあり、郡からの使者は、伊都国で使務を終えている、それが、倭人伝の真意である、と確認しているのであり、現代風に言うなら、九州島の北部、かつ中央部にとどまっているというものである。
 倭人伝に書かれている内容を強引に引き伸ばして東方に行程を延伸するのは、原文改竄しかないという意見である。

 ここで、原文改竄する視点であれば、隋書俀国伝でも、竹斯国が到達点と認めることはできず、東方への海上行程を捏ね上げねばならないのだろうが、それは、壮大な創作であり、隋書俀国伝文献解釈とは無縁の衆生と言わざるを得ないのである。

以上


 

2024年7月24日 (水)

新・私の本棚 前田 晴人「纒向学研究」第7号『「大市」の首長会盟と…』1/4 補充

『「大市」の首長会盟と女王卑弥呼の「共立」』 「纒向学研究」 第7号 2019年3月刊
私の見立て ★★☆☆☆ 墜ちた達人 2022/01/15 2022/05/30 2023/07/08, 12/21 2024/07/24

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇はじめに
 「纒向学研究センター」は、桜井市教育委員会文化財課に所属する研究機関であり、文化財課の技術職員全員がセンター研究員に任命されているということである。本記事は、「纒向学研究センター」の刊行した研究紀要『纒向学研究』第7号掲載記事の批判である。リンク先は、同誌全体のPDFであるが、個別記事へのリンクは用意されていないので、ご容赦いただきたい。また、「纏向学」は、桜井市の登録商標であるが、本稿のように、参照目的で表記するのは商標権侵害に当たらないと思量するので、特に許可を求めていない。

*総評
 率直なところ、文献史学の達人が、達人芸で「墜ちる」という図式なのだろうか。とは言え、
 深刻な問題は、用史料の由来がばらばらで、用語、構文の素性が不揃いでは、考証どころか読解すら大変困難(実質上、不可能)ということである。文献解読の肝は、それを書いた人物の真意を察することであり、そのためには、その人物の語彙を知らねばならないのである。当ブログ筆者は、なんとか、陳寿の真意を知ろうとして模索するのが精一杯であり、引きこもらざるを得ないのである。

 特に、国内古代史史料は、精々、倭人伝から見て数世紀後世の東夷作文であり、また、漢文として文法、用語共に破格なはず、至難な世界と思うのである。氏が、自力で読み解いて日本文で書くのは、凡人の及ばぬ神業である。言うまでもないが、中国史書の編者は、国内古代史史料を見ていないので、統一しようがないのである。

*第一歩の誤訳~取っつきの「躓き石」
 たとえば、「女王卑弥呼が景初3(239)年に初めて魏王朝に使節を派遣した」と主張されているが、原文が景初二年であるのは衆知である」から、これは端から誤訳である。氏が、中国史料を文献考証しようとされるなら、肝心なのは「揺るぎない原典の選定」である。検証無しに、世上の俗信、風説文書を引用するのは、お勧めできない「よそ見」と見える。

 以下、大量の史料引用と考察であるが、大半が倭人伝論「圏外」史料であり、(中国)古代史史料以外に、大変不確かと定評のある「三国史記」と共に、真偽不明と思われる大量の国内史料が論じられているが、それぞれの文献史料は、それぞれ固有の用語で書かれているので、字面だけで「普通に」理解することなど、夢物語であるが、氏は、そのような難題に、何のこだわりも無く取り組んでいると見える。つづいて、「文字史料」との括り付けが大変困難な「纏向史蹟」出土物の考古学所見、「纏向所見」が、現代日本語と思われる用語で書かれているようである。その間には、大きな格別の異同があると見えるのだが、氏は、むしろ淡々と述べられている。
 言うまでもないと思うが、「纏向史蹟」出土物に文字史料は皆無であり、墳墓には、「中国」に従属している「蛮王」の葬礼に必須かと思われる墓誌も墓碑銘もないから、異国の「文字史料」との括り付けに終始しているのであり、この点、「纏向史蹟」の時代考証に、大きな減点要素になっているのは、周知と思うのだが、滅多に言及されないので、あえて念押しするものである。
 と言うことで、当ブログ筆者の見識の圏内であって当ブログで論じることのできる文献は少ないが、できる範囲で苦言を呈する。

 一般論であるが、用例確認は、小数の「価値あるもの」を念入りに誠意をこめて精査するべきである。用例の捜索範囲を広げるとともに、必然的に、欠格資料が混入し、そこから浮上する不適格な「用例」が増えるにつれ、誤解、誤伝の可能性が高くなり、それにつれ、疑わしい史料を「無批判」で提示したという疑惑を獲得して、結局、意に反して論拠としての信頼性は急速に低下するのである。要するに、対象用例の「数」が増えるほどに評価が低下するので「効率」は、負の極値に向かうのである。結局、通りすがりの冷やかしの野次馬に、重要性の低い資料の揚げ足を取られて、氏が、ご不快な思いをするのである。
 言い方を変えると、一群の資料に低品質のものが混入していたら、資料全体の評価が地に墜ちるのである。つまり、そのような低質の史料を採用した「論者の見識」が、容赦なく低評価されるのである。ご自愛頂きたい。

 要するに、用例は、厳選、検証された高品質の「少数」にとどめるべきであり、「精選」の努力を惜しまないようにお勧めする
 論考の信頼性は、引用史料の「紙数」や「目方」で数値化される/できるものではないと思うものである。古代史では、そのような、基本的科学的な/質量的な数値評価が見失われているようである。

*パズルに挑戦
 要は、「纏向所見」の壮大な世界観(歴史ロマン/神話)と確実な文献である「倭人伝」の堅実な世界観の懸隔を、諸史料の考察で懸命に埋める努力が見えるが、多年検証され倭人伝」の遥か後世の国内史料を押しつけておいて、後段で敷衍するのは迷惑/子供だましと言わざるを得ない。まるで、子供のおもちゃ遊びである。
 氏が提示された「倭人伝」の世界観は、諸説ある中で、当然、纏向説に偏した広域国家が擁立されているようである。
 倭国の「乱」は、「列島の広域、長期間に亘る」と拡大解釈されている例がみられる。
 倭人伝」に明記の三十余国は、主要「列国」に過ぎず、他に群小国があったとされている拡大解釈までみられる。
 しかし、事情不明、音信不通、交通絶遠の諸国であり、国名が列記されているだけで、戸数も所在地も不明の諸国が「列国」とは思えない。まして、それら諸国が畿内に及ぶ各地に散在して、その東方は「荒れ地」だった』とは思えない。
 委細不明であるが、日本列島各地に、大なり小なり聚落が存在していたはずである。「中国」の基準では、それらが「郡」に対して名乗りを上げていたら、「国邑」と認められるのであり、一切関わりなければ、無名にとどまるのである。

 当時の交通事情、交信事情から見た政治経済体制で「列国」は、多分、行程上の「對海/對馬」「一大」「末羅」「伊都」止まりと思われる。名のみ艶やかな「奴国」「不彌國」「投馬国」すら、朝廷に参勤していたとは見えないのである。丁寧に言うと、諸国の「往来」、同時代語で言う「周旋」が徒歩に終始する交通事情、即ち、文書通信が存在しない交信事情としたら、と見えるのだが、その点に言及されないようである。

 ジグソー「パズル」の確実な「ピース」が、全体構図の中で希薄な上に、一々、伸縮、歪曲させていては、何が原資料の示していた世界像なのかわからなくなるのではないか。他人事ながら、いたましいと思うのである。

*「邪馬台国」の漂流
 先に点描した情勢であるから、私見では、倭人伝」行程道里記事に必須なのは、対海国、一大国、末羅国、伊都国の四カ国である。
 余白に、つまり、事のついでに、奴国、不弥国、そして、遠絶の投馬国を載せたと見る。「枯れ木も山の賑わい」である。
 「行程四カ国」は、「従郡至倭」の直線行程上の近隣諸国であるから、万事承知であるが、他は、詳細記事がないから圏外であり、必須ではないから、地図詮索して比定するのは不要である。(時間と手間のムダである)そう、当ブログ筆者は、「直線最短行程」説であるから、投馬国行程は、論じない。

 氏は、次の如く分類し、c群を「乱」の原因と断罪されるが、倭人伝」に根も葉もない(書かれていない)推測なので意味不明である。氏の論議は、「倭人伝」から遊離した「憶測」が多いので素人はついて行けないのである。
a群 対馬国・一支国・末盧国・伊都国・奴国・不弥国
b群 投馬国
c群 邪馬台国・斯馬国・己百支国・伊邪国・都支国・弥奴国・好古都国・不呼国・姐奴国・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国・鬼国・為吾国・鬼奴国・邪馬国・躬臣国・巴利国・支惟国・烏奴国・奴国

 「邪馬台国」を「従郡至倭」行程のa群最終と見なさず、異界c群の先頭とされたのは不可解と言うより異様である。いろいろな行きがかりから、行程記事の読み方を「誤った」ためと思われる。
 以下、氏は、滔々と後漢状勢と半島情勢を関連させて、さらに滔々と劇的な「古代浪漫」を説くが、どう見ても、時代感覚と地理感覚が錯綜していると見える。そのような「法螺話」は、陳寿に代表される真っ当な史官があてにしないはずである。いや、全ては、氏の憶測と見えるから、氏の脳内心象では、辻褄が合っているのだろうが、第三者は、氏の心象を見ていないから、客観的に確認できる「文章」からは、単なる混沌しか見えない。

*混沌から飛び出す「会盟」の不思議
 氏は、乱後の混沌をかき混ぜ、結果として、纏向中心の「首長会同」が創成されたと主張されているように見えるが、なぜ経済活動中心の筑紫から忽然と遠東の纏向中心の「政治的(?)」活動に走ったのか、何も語っていらっしゃらない。
 本冊子で、他に掲載された遺跡/遺物に関する考古学論考が、現物の観察に手堅く立脚しているのと好対照の「空論」と見える。当論考も、「思いつき」でないことを証するには、これら、これら寄稿者の正々たる論考と同等の検証が必要ではないかと思われる。検証された論考に対して根拠無しに「空論」と言う「野次馬」がいたら、公開処刑しても許されると思うのである。
 ここでは、基礎に不安定な構想を抱えて、遮二無二拡張するのは、理論体系として大きな弱点であり、「若木の傷は木と共に成長する」という寓話に従っているようであると言い置くことにする。

                                未完

新・私の本棚 前田 晴人「纒向学研究」第7号『「大市」の首長会盟と…』2/4 補充

『「大市」の首長会盟と女王卑弥呼の「共立」』 「纒向学研究」 第7号 2019年3月刊
私の見立て ★★☆☆☆ 墜ちた達人 2022/01/15 2022/05/30 2023/07/08, 12/21 2024/07/24

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*不可解な東偏向~ただし「中部、関東、東北不在」
 最終的に造成した全体像も、『三世紀時点に、「倭」が九州北部に集中していたという有力な仮説を変形した』咎(とが)が祟っている。いや、そもそも、それを認めたら氏の望む全体像ができないが、それは、「倭人伝」のせいでなく氏の構想限界(偏見)である。

 「魏志倭人伝」は、西晋代に、中国史官陳寿が、中国読者/皇帝のために、新参の東夷「倭人」を紹介する「伝」として書かれたのであり、中国読者の理解を越えた文書史料では無いのである。

*不朽の無理筋
 氏の構想の暗黙の前提として、「諸国」は、書面による意思疎通が可能であり、つまり、暦制、言語、法制などが共通であり、当然、街道網が完備して、「盟主が、書面で月日を指定して召集すれば、各国首長が纏向朝廷に参集する」国家制度の確立が鉄の規律と見える。
 しかし、それは「倭人伝」にない「創作」事項であり、言わば、氏の自家製(手前味噌)「倭人伝」であるが、氏は、そのような創作に耽る前提として、どのように史料批判を実行された上で、広域古代国家の結構を構築され受け入れたのであろうか。

 氏は、各国元首が纏向の庭の朝会で鳩首協議と書かれているから、これは「朝廷」と見なされるのであるが、そのような美麗な「朝廷」図式が、どのようにして実現されたとお考えなのだろうか。
 氏が昂揚している「纏向所見」は、本来、考古学所見であるから、本来、氏名も月日もない遺物の制約で、紀年や制作者の特定はできないものである。そこから、「倭人伝」を創作した過程が、素人目には、今一つ、客観的な批判に耐える立証過程を経ていないように見えるのである。

*承継される「鍋釜」持参伝説
 例によって、諸国産物の調理用土器類が、数量不特定ながら「たくさん」出土していることから、「纏向所見」は、出土物は数量不特定ながら、 「大勢」で各地から遠路持参し、滞在中の煮炊きに供したと断定しているように見えるが、それは同時代文書記録によって支持されていない以上、関係者の私見と一笑に付されても抵抗しがたいように見える。あるいは、出土物に、各地食物残渣があって、個別の原産地の実用が実証されているのだろうか。あるいは、土器に文字の書き込みがあったのだろうか。当ブログ筆者は、門外漢であるから、聞き及んでいないだけかもしれないので、おずおずと、素朴な疑問を提起するだけである。

 私見比べするなら、各国と交易の鎖がつながっていて、随時、纏向の都市(といち)に、各国の土鍋が並んだと言う事ではないのだろうか。「たくさん」が、ひょっとして、数量が「たくさん」と言うのが、千、万個でもでも、何十年どころか、一世紀、二世紀掛けて届いたとみて良いのである。良い商品には、脚がある。呼集しなくても、「王都」が盛況であれば、いずれ各地から届くのである。

*「軍功十倍」の伝統~余談
 各地で遺跡発掘にあたり、出土した遺物の評価は、発掘者、ひいては、所属組織の功績になることから、古来の軍功談義の類いと同様、常套の誇張、粉飾が絶えないと推定される。これは、年功を歴たと見える纏向関係者が、テレビの古代史論議で「軍功十倍誇張」などと称しているから、氏の周辺の考古学者には常識と思い、ことさら提起しているのである。
 三国志 魏志「国淵伝」が出典で、所謂「法螺話」として皇帝が軍人を訓戒している挿話であり、まじめな論者が言うことではないのだが、「有力研究機関」教授の口から飛び出すと、「三国志の最高権威」渡邉義浩氏が、好んでテレビ番組から史書の本文に「ヤジ」、つまり、史料に根拠の無い不規則発言を飛ばすのと絡まって、結構、世間には、この手の話を真に受ける人がいて困るのである。「良い子」が真似するので、冗談は、顔だけ、いや、冗句の部分に限って欲しいものである。

*超絶技巧の達成
 と言うことで、残余の史料の解釈も、「纏向所見」の世界観と「倭人伝」の世界観の宏大深遠な懸隔を埋める絶大な努力が結集されていると思うので、ここでは、立ち入らないのである。史料批判の中で、『解釈の恣意、誇張、歪曲などは、纏向「考古学」の台所仕事の常識』ということのようなので、ここでは差し出口を挟まないのである。
 要は、延々と展開されている論議は、一見、文字資料を根拠にしているようで、実際は、纏向世界観の正当化のために文字資料を「駆使」していると思うので、同意するに至らないのである。但し、纏向発「史論」は、当然、自組織の正当化という崇高な使命のために書かれているのだから、本稿を「曲筆」などとは言わないのである。
 因みに、庖丁の技は、素材を泥付き、ウロコ付きのまま食卓に供するものではないので、下拵えなどの捌きは当然であり、それをして、「不自然」、「あざとい」、「曲筆」、「偏向」などと言うべきでは無いと思うのである。何の話か、分かるだろうか。

*空前の会盟盟約
 氏は、延々と綴った視点の動揺を利用して、卑弥呼「共立」時に、纏向にて「会盟」が挙行されたと見ていて、私案と称しながら、以下の「盟約」を創作/想定されている。史学分野で見かける「法螺話」と混同されそうである。

本稿の諸論点を加味して盟約の復原私案を提示してみることにする。
 「第一の盟約」―王位には女子を据え、卑弥呼と命名する
 「第二の盟約」―女王には婚姻の禁忌を課す
 「第三の盟約」―女王は邪馬台国以外の国から選抜する
 「第四の盟約」―王都を邪馬台国の大市に置く
 「第五の盟約」―毎年定時及び女王交替時に会同を開催する

 五箇条盟約」は、「思いつき」というに値しない、単なる「架空の法螺話」なので「復原」は勘違いとみえる。なかったものは、復元しようが無い。
 要するに、陳寿を起点にすると、「二千年後生の無教養な東夷」による個人的な創作とされても、物証が一切無い以上、反論しがたいのである。その証拠に、各項目は、非学術的で時代錯誤の普段着の「現代語」で書き飛ばされている。勿体ないことである。古代人が、このような言葉遣いをしていたと思っておられるのだろうか。

 考古学界の先人は、学術的な古代史論議に、当時の知識人が理解できない「後世異界語」は交えるべきでないとの至言を提起されているが、どうも、氏の理解を得られていないようである。

 真顔に戻ると、当時、官界有司が盟約を文書に残したとすれば、それは、同時代の漢文としか考えられないのである。その意味でも、ご高説は、「復原」には、全くなっていないのである。困ったものだ。

                                未完

新・私の本棚 前田 晴人「纒向学研究」第7号『「大市」の首長会盟と…』3/4 補充

『「大市」の首長会盟と女王卑弥呼の「共立」』 「纒向学研究」 第7号 2019年3月刊
私の見立て ★★☆☆☆ 墜ちた達人 2022/01/15 2022/05/30 2023/07/08, 12/21 2024/07/24

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*時代錯誤の連鎖
 氏は、想像力を極めるように、女王となった卑彌呼が、新たな王制継承体系を定めた」とおっしゃるが、周知のように「倭人伝」にそのような事項は、明記も示唆もされていない。つまり、ここに書かれているのは、史料文献のない、当然、考古学の遺物考証にも関係ない、個人的な随想に過ぎないのである。

 真剣に考えればわかるはずなのだが、卑弥呼は、「一女子」、即ち、男王と「男王の娘が嫁いだ婚家での外孫」という親族関係の絆が明記されていて、氏の夢想するような「新たな王制継承体系」など、示唆すらされていないのである。そもそも、巫女、つまり、祖霊に仕える「墓守」として不婚の身分であった卑弥呼が、何故、後継者を選ぶ体制を築いたのか、不可解もいいところである。
 「共立」すら、男王の家男王の娘が嫁いだ婚家の妥協から自然に生み出されたものと見えるから、それを持って画期的とするのは、大変な考え違いであろう。要するに、氏は、根拠とすべき「倭人伝」を適確に解釈するのに不可欠な「教養」を有さず、自前の、お手盛り物語を創作しているのではないかと危惧されるのである。
 本誌は、「纏向学研究」と銘打たれているから、前田氏の示された創作は、個人的なものでなく多くの支持を集めているのだろうが、「纏向学の達人」として令名を馳せるのは、前田氏である。

 だれも、ここに示された前田氏の提言に対して、素人目にも明らかな当然の批判を加えていないようだから、この場で、率直に苦言を呈するのである。他意はない。

 以下、前田氏の提言として、「盟約」が提起されているが、現下に、「コメント」として異議提示できるのは、困ったものである。

「第一の盟約」―王位には女子を据え、卑弥呼と命名する
 コメント 「命名」は、当人の実の親にしか許されない。
   第三者が、勝手に実名を命名するのは、無法である。
   卑弥呼が実名でないというのは詭弁である。皇帝に上書するのに、実名を隠すことは許されない。大罪である。
   併せて言うと、陳寿がことさらに「女子」と書いた意味が理解されていない。
   古典的には、「女子」とは、国王のむすめ(女)が、嫁ぎ先で産んだ孫娘(子)、つまり、「外孫」である。
   中国古代史では、常識であるが、氏は、ご存知ないようである。

「第二の盟約」―女王には婚姻の禁忌を課す

 コメント 女王の婚姻禁忌は、無意味である。
   女王は、端から、つまり、生まれながら生涯不婚の訓育を受けていた「巫女」と推定される。
   当時の上流家庭は、早婚が当然であるからそうなる。王族子女となれば、ますます、早婚である。
   ほぼ例外無しに配偶者を持っていて、恐らく、婚家に移り住んでいるから、婚姻忌避など手遅れである。
   中国古代史では、常識であるが、氏は、ご存知ないようである。

「第三の盟約」―女王は邪馬台国以外の国から選抜する

 コメント 『「邪馬台国」以外から選抜』と決め付けるのは無意味である。
   要するに、諸国が候補者を上げ「総選挙」するのであろうか。奇想天外である。
   新規独創は、史学で無価値である。
   となると、「邪馬台国」はあったのか。大変疑問である。「倭人伝」原文を冷静に解釈すると、女王共立後に、
   その居処として「邪馬壹国」を定めたと見える。
   つまり、天下第一の巫女である女王「卑彌呼」が住んだから「邪馬壹国」と命名されたとも見え、女王以前、
   いずれかの国王が統轄していた時代、殊更「大倭王」の居処として「邪馬臺国」を定めていたと解される
   笵曄「後漢書」倭条記事と整合しなくても、不思議はない。
   どのみち、笵曄は、「倭条」を「根拠となる確たる史料のない臆測」として書き残したように見える。
   いずれにしても、漢制では天子に臣従を申し出たとしても「伝統持続しない王は臣従が許されない」
   王統が確立されていなければ、単なる賊子である。代替わりして、王権が承継されなかったら前王盟約は反古
   では、「乱」「絶」で欠格である。蕃王と言えども、権威の継承が必須だったのである。
   当然、共立の際の各国候補は、厄介な親族のいない、といっても、身分、身元の確かな、つまり、
   しかるべき出自の未成年に限られていたことになる。誰が、身元審査したのだろうか。
   

「第四の盟約」―王都を邪馬台国の大市に置く
コメント 「王都」は、「交通の要路に存在する物資集散地」であり、交通路から隔離した僻地に置くのは奇態である。
   因みに、東夷に「王都」はあり得ない。氏は、陳寿が「倭人伝」冒頭に「国邑」と明記した主旨がわかって
   いないのではないか。史官は蛮夷に「王都」を認めないし、読者たるうるさがたが、そのような不法な概念を
   認めることもない。
   そもそも、「大市」なる造語が不意打ちで、不審である。
   氏の造語では無いのだろうが、古代史文書で、「市」(いち)は、多くの人々が集い寄って「売買」する
   盛り場であり、國邑にある市は天下一の盛況であったろうが、氏が想定されているような「都市町村」なる
   聚落の大小階梯で最大の「都」(もっとも大きなまち)に次ぐ「市」(おおきなまち)とは、異なる
   言葉/概念なのである。
   朝、多数の庶民が集い来たり、昼には、それぞれの居宅に引いてしまう「市」は、王の行政の中心とは
   なり得ないのである。

   率直なところ、氏は、『当時信頼に足る史料は「魏志倭人伝」だけである』と理解した上で、『そこに提示
   された概念を理解し、その基礎の上に、自己流、つまり、無教養な蛮夷の言葉/概念を形成しないと、
   客観的に、つまり、同時代「中国」人に理解されない』という謙虚な自覚を出発点とすべきでは無いだろうか。

   言うまでもないが、氏が依存している時代錯誤の世界観は、氏の独創では無く、「多数の」「史学者」に
   共通の理解だろうが、だからといって、意味不明な用語の泥沼を形成しているという指摘は
免れ得ないと思う。
   (2024/01/10追記)


「第五の盟約」―毎年定時及び女王交替時に会同を開催する
コメント 毎年定時(?時計はあったのか)会同は無意味である。
   筑紫と奈良盆地の連携を言うなら、遠隔地諸国からの参上に半年かかろうというのに随行者を引き連れて連年
   参上は、国力消耗の悪政である。せめて、隔年「参勤交代」とするものではないか。
   女王交替時に会同を開催すると言うが、君主は「交替」できるものではない。天子は、更迭、退位できるもの
   でもない。
   女王の生死は予定できないので、「交替」時、各国は不意打ちで参上しなければならない。
   通常、即日践祚、後日葬礼である。揃って、大半の各国国主は、遅参であろう。
   あるいは、そのような、突然の交替を避けるために女王に定年を設けるとしたら、前女王は、どう「処分」
   するのか。
   王墓が壮大であれば、突然造成するわけにはいかないから、長期計画で「寿陵」とすることになる。
   回り持ちの女王、回り持ちの女王国であれば、墓陵造成はどうするのだろうか。
   以上、ざっと疑問を呈したように、随分ご大層な「結構」であるが、文書化できない時代に、どのように法制
   化し、布告し、徹底したのだろうか。どこにも、なぞり上げるお手本/ひな形はない。

*不朽の自縄自縛~「共立」錯視
 総じて、氏の所見は、先人の「共立」誤解に、無批判に追従した自縄自縛と思われる。
 「共立」は、古来、二強の協力、精々三頭鼎立で成立していたのである。両手、両足指に余る諸国が集った総選挙」など、一笑に付すべきである。陳寿は、倭人を称揚しているので、前座の東夷蛮人と同列とは、「倭人伝」の深意を解しない、無教養な不熟者の勘違いである。
 先例としては、周の暴君厲王放逐後の「共和」による事態収拾の「事例」、成り行きを見るべきである。
 「史記」と「竹書紀年」などに描かれているのは、厲王継嗣の擁立に備えた二公による共同摂政(史記)あるいは、共伯摂政(竹書紀年)である。未開の関東諸公を召集してなどいない
 陳寿は、栄えある「共和」記事を念頭に「共立」と称したのが自然な成り行きではないか。東夷伝用例を漁りまくって手に馴染む事例を拾い食いするでは無く、真に有意義な事例を、捜索すべきではないか。

*会盟遺物の幻影
 「会盟」は、各国への文書術浸透が「絶対の前提」であり「盟約」は、締盟の証しとして金文に刻されて配布され、配布された原本は、各國王が刻銘してから埋設したと見るものである。となると、纏向に限らず各国で出土しそうなものであるが、「いずれ出るに決まっている」で済んでいるのだろうか。毎年会同なら、会同録も都度埋設されたはずで、何十と地下に眠っているとは大胆な提言である。

 歴年会同なら「キャンプ」などと、人によって解釈のバラつく、もともと曖昧なカタカナ語に逃げず、「幕舎」とでも言ってもらいたいものである。数十国、数百名の幕舎は、盛大な遺跡としていずれ発掘されるのだろうか。それとも、強制収容所に収監したのだろうか。
 もちろん、諸国は、「幕舎」など設けず、「纏向屋敷」に国人を常駐させ、「朝廷」に皆勤し、合わせて、不時の参上に備えるものだろう各国王は、継嗣を人質として「纏向屋敷」に常駐させざるを得ないだろう。古来、会盟服従の証しとして常識である。

*金印捜索の後継候補
 かくの如く、「会盟」「会同」説を堂々と宣言したので、当分、宝捜しの大規模発掘作戦の省庁予算は確保したのだろうか。何しろ、「出るまで掘り続けろ」との遺訓(おしえ)である。いや、先哲(レジェンド、大御所)が健在な間は「遺訓」と言えないが、お馴染みの「まだ纏向全域のごく一部しか発掘していない」との獅子吼が聞こえそうである。

*「会盟」考察
 氏に従うと、「会盟」主催者は、古典書を熟読して各国君主を訓育教導し、羊飼いが羊を草原から呼び集めるように「会盟」に参集させ、主従関係を確立していたことになる。つまり、各国君主も、古典書に精通し、主催者を「天子」と見たことになる。
 かくの如き、壮大な「文化国家」は、文書記録も文書通信も存在しない時代に、持続可能だったのだろうか。

 繰り返して言うので、あごがくたびれるが、それだけ壮大な遠隔統治機構が、文書行政無しに実現、維持できたとは思えない。文書行政が行われていたら、年月とともに記録文書が各地に残ったはずであるが、出土しているのだろうか。記録文書が継承されたのなら、なぜ、記紀は、口伝に頼ったのだろうか。

 いや、本当に根気が尽きそうである。

                              未完

新・私の本棚 前田 晴人「纒向学研究」第7号『「大市」の首長会盟と…』4/4 補充

『「大市」の首長会盟と女王卑弥呼の「共立」』 「纒向学研究」 第7号 2019年3月刊
私の見立て ★★☆☆☆ 墜ちた達人 2022/01/15 2022/05/30 2023/07/08, 12/21 2024/07/24

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*「神功紀」再考~場外「余談」による曲解例示
 俗に、『「書紀」「神功紀」追記で遣魏使が示唆されるものの本文に書かれていない』理由として、「魏明帝への臣従を不名誉として割愛したとされる例がある」ように仄聞するが、そのような「言い訳」は、妥当なものかどうか疑問である。
 素人門外漢の目には、「書紀」本文の編纂、上覧を歴た後に、こっそり追記したと見るのが順当のように思われる。何しろ、「書紀」原文は現存せず、「書紀」原文を実見した者も現存しないので、臆測に頼らざるを得ないのである。また、現存する写本が武家政権の監視下、どのような承継をされたのかも、一切不明なのである。仄聞するに、武家政権である各将軍/幕府統治者は、天皇家を正当な支配者として説き聞かされている「書紀」は、幕府転覆の教義を秘めた聖典となりかねないので、固く封印していたと見えるのであり、一種の「禁書」とされていたと見えるのである。

 景初使節は、新任郡太守の呼集によって、中原天子が公孫氏を討伐する(景初二年説)/した(景初三年説)という猛威を、自国に対する大いなる脅威と知って、急遽帯方郡に馳せ参じ、幸い連座を免れ、むしろ「国賓」(番客)として遇されたから、後日、「国内」には「変事に援軍を送る」同盟関係を確立した』とでも、美しく言い繕って報告すれば、別に屈辱でもなんでもないのである。

 ここに敢えて取り上げた「割愛」説は、神功紀の現状の不具合を認識しつつ実在しない原記事を想定する改訂談義の例であり、言わば「神功紀」の新作を図ったので、当時の状況を見過ごしてこじつけているのである。当記事外の「余談」で前田氏にはご迷惑だろうが、世間で見かける纏向手前味噌である。
 因みに、「書紀」には、「推古紀」の隋使裴世清来訪記事で、隋書記事と要点の記述が大いに異なる、しかも、用語の誤解をドッサリ詰め込んだ「創作」記事を造作した前例(?)があるので、「書紀」に書かれているからそのままに信じるわけにはいかないのである。
 いや、これは、余談の二段重ねであり、当事者でない前田氏をご不快にしたとしたら、申し訳ない。

 繰り返すが、(中国)「史書」は、「史書」用語を弁えた「読者」、教養人を対象に書かれているから、「読者」に当然、自明の事項は書かれていない。「読者」の知識、教養を欠くものは、限られた/不十分な知識、教養で、「史書」を解してはならない。
 それには、当ブログで折々触れている「東夷の漢語学習の不出来に起因する用語の乖離」も含まれているから、東夷の新作用語頼りで「史書」を理解するのは、錯誤必至と覚悟しなければならないのである。

*閑話休題~会盟談義
 卑弥呼擁立の際に、広大な地域に宣して「会盟」召集を徹底した由来は、せいぜいかばい立てても「不確か」である。後漢後期、霊帝以後は、「絶」、不通状態であり、景初遣使が、言わば魏にとって倭人初見なので、まずは、それ以前に古典書を賜ったという記事はない。遣使のお土産としても、四書五経と史記、漢書全巻となると、それこそ、トラック荷台一杯の分量であるから、詔書に特筆されないわけはない。
 折角、国宝ものの贈呈書でも、未開の地で古典書籍の読解者を養成するとなると、然るべき教育者が必要である。「周知徹底」には、まず知らしめ、徹底、同意、服従を得る段取りが欠かせないのである。とても、女王共立の会盟には、間に合わない。

 後年、唐代には、倭に仏教が普及し、練達の漢文を書く留学僧が現れたが、遥か以前では、言葉の通じない蕃夷を留学生として送り込まれても何も教えられない。と言うことで、三世紀前半までに大規模な「文化」導入の記録は存在しない。樹森の如き国家制度を持ち込んでも、土壌がなければ、異郷で枯れ果てるだけである。

*未開の証し
 因みに、帝詔では、「親魏倭王」の印綬下賜と共に、百枚の銅鏡を下賜し、天朝の信任の証しとして各地に伝授せよとあり、「金文や有印文書で通達せよと言っているのではない」倭に文字がないことを知っていたからである。
 蛮夷の開化を証する手段としては、重訳でなく通詞による会話が前提であり、次いで、教養の証しとして四書五経の暗唱が上げられている。この「火と水の試錬」に耐えれば、もはや蕃夷でなく、中国文化の一員となるのである。
 と言うことで、「倭人伝」は「倭に会盟の素地がなかった」と明記している。「遣使に遥か先立つ女王擁立の会盟」は、数世紀の時代錯誤と見られる。

 もちろん、以上の判断は、氏の論考に地区の文物出土などの裏付けがあったとは想定していないので、公知の所見を見過ごしたらご容赦頂きたい。

〇まとめ
 全体として、氏の「倭人伝」膨満解釈は、氏の職責上避けられない「拡大解釈」と承知しているが、根拠薄弱の一説を(常識を越えて)ごり押しするのは、「随分損してますよ」と言わざるを得ない。
 これまで、纏向説の念入りな背景説明は見かけなかったが、このように餡のつまった「画餅」も、依然として、口に運ぶことはできないのである。所詮、上手に餡入りの画を描いたというに過ぎない。

 諸兄姉の武運長久とご自愛を祈るのみである。 頓首。

                                以上

 追記:本記事公開後、前田 晴人氏が物故されていることを知ったが、記事全体に修正の必要はないと信じる。学問の世界で、率直な批判は、最上の賛辞と信じているからである。

2024年7月17日 (水)

新・私の本棚 榊原 英夫「邪馬台国への径」 提言 完結版 1/8

「魏志東夷伝から邪馬台国を読み解こう」(海鳥社)2015年2月刊 
私の見立て ★★★★★ 総論絶賛、細瑾指摘のみ 2024/06/23, 07/17

◯始めに 資料引用のお断り
 以下に掲示する2表は、批評の目的で資料の一部を引用する著作権法に適法な引用であることを念のため申し添えておきます。
 近来、下記表Ⅳ―2の韓伝項を削除した改変引用/盗用の例があり、著作権侵害に当たるので、殊更掲示したものです。
 私見では、これら2表は、榊原氏により、著作権の存在しない公知資料である正史陳寿「三国志」「魏志」東夷伝を精査した仮説を集約したのは、氏独特の用語も含め氏の著作物であり、公開の時点で著作権が成立しています。
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 したがって、これを単なる公知の数値(複数)を羅列した作表として一部を切り取って自論の根拠に利用するのは、「盗用」以外の何物でも無いと思うのですが、世上、一定の技術思想で構成された作表を「データベース」として斟酌せずに利用している例を、あえて事を荒立てて指摘しているものです。

◯総論
 ここに掲げる小論は、榊原氏が進めた論考に対して、素人が異論をはさむ形式をとっていますが、あくまで、榊原氏が構築された論考に絶大な敬意を表したものであり、端的に言うと、榊原氏が、「在来の「通説」が陥った陥穽の克服のために、資料原典に遡って考察する視点から、本書で冷静に展開されている」貴重な論考が、『実際は在来「通説」が陥った誤謬を踏襲している』点を具体的に指摘し、異論を提示していることを予告しているものです。

*理念の動揺
 手短に言うと、本書の「帯」に書かれている『「魏志倭人伝」偏重の視点を戒め、「魏志倭人伝」が編纂者である陳寿の意向で教戒の書とされているため、意図的に組み込まれた「暗号」で造作されている』という「倭人伝陰謀説」と言われかねない主張が、榊原氏の『「予断」と「偏見」を排する』という理念にそぐわないと思われるので、考えなおしていただこうとする次第です。

 私見では、世上の「通説」(の陥っている陥穽)は、陳寿が想定した「読者」の備えるべき教養を備えていない後生読者が、自家製の「予断」と「偏見」を抱えて読解しようとした齟齬の発現であり、遡行して是正しないと、所詮同じ道を辿るものと感じる次第です。
 後段で、具体的な「予断」の是正を図っているので、ご理解頂きたいものです。決して、高度な理念をどうこう言っているのではないものです。

 と言うことで、苦言を書き始めましたが、以下、一般「読者」に論じる姿勢としたため、視点、口調が一転し、時として「読者」の不勉強を誹るのは、容易に想定される反論を予め克服しているものであり、決して、榊原氏の無教養を誹っているのではない点を御理解頂いた上で、読み進んでいただくことを御願いします。

                                未完

新・私の本棚 榊原 英夫「邪馬台国への径」 提言 完結版 2/8

「魏志東夷伝から邪馬台国を読み解こう」(海鳥社)2015年2月刊 
私の見立て ★★★★★ 総論絶賛、細瑾指摘のみ 2024/06/23, 07/17

*異論の展開
 以下、氏の論考に異論を述べますが、批判的な意見に、氏が同意されるか反対されるかは、氏の意向次第です。氏は、私の息子でも孫でもなく、私の言うことを聞く義務はありません。わらべ唄で言う「ほっちっち」です。
 ともあれ、異論の背景として、以下の論点で、氏と意見を異にすることを明言しておきます。文体が、断定的なのは時の勢いで、他意はありません。

1.「倭人伝」道里記事の由来について
 榊原氏は、倭人伝に展開されている道里行程記事が、正始年間に倭に派遣された使節(正史遣倭使)の紀行文に基づくと見ているようですが、大筋として誤解であると考えます。遣倭使は、帯方郡太守の責務として、大量の下賜物/宝物を携えて皇帝の見解を辺境蕃王に伝える使節として派遣されるから、出発に先立ち、派遣先の素性と道里行程、つまり、所要日数(所要費用)の裁可を得ているはずです。道里行程は、既に確定していたと見ます。

 公孫氏遺物の「万二千里」を真に承ければ、一日四十里として三百日、十ヵ月かかりますが、宝物を、そのような途方もない遠隔地に、安直に送り出せません。して見ると、その段階で、道中四十日程度と知れていて、四十泊の宿泊/通過地と目的地から了解書信が届いていたと見ます。帰り道は空荷でも所要日数は大きく変わらないから、全日程概要は知れていたのです。

 「倭人」厚遇を厳命した先帝は逝去し、「明帝」諡号で、「倭人」は後ろ盾を喪いました。先帝違命の厚遇は並の厚遇に鎮静化したと見えます。

 本筋に戻ると、正始遣倭使は、派遣に先立ち計画を上申し、帰国報告もしましたが、報告済事項は先帝の印璽で公文書であり、書き足せても、訂正、改竄は出来ず、「従郡至倭」「万二千里」公式道里は「不可侵」でした。
 ということで、遣倭使の記録は、現地風俗(「法制度」と「習俗」を言う)記録や遠隔地に関する風聞の類いは収録されても、基本的な道里は維持されたのです。

2.陳寿の「編纂」について 余談
 氏が、『陳寿が「倭人伝」記事を一から創作した』と見ていると読み取れるのを契機とさせていただきますと、『史官の務めは、後漢、曹魏以来雒陽に継承されている公文書、即ち、「史実」を忠実に集成するのが本分である』から、当時の読書人は、その基準で「倭人伝」を査読し「倭人伝」「陳寿原本」[裴注以前の「本」(Edition)]は、正史に値すると認定したのです。

 ここで確認しておくと、陳寿の編纂に於いて、創作・風評の類いは、最低限と見るべきです。それは、周代以来厳然と継承された史官の責務ですから、全ての『倭人伝論』は、ここから始まるべきです。いや、これは、氏の意見を憶測しているので無く、当分野論客は、陳寿「三国志」「魏志倭人伝」が、持論による利益を妨げるものとして、支持論は、『聖典化』陰謀と曲解して、はなから喧嘩腰で論義する向きがあります。
 陳寿の立場は、二千年後生の無教養な東夷の知りうるところではないので、政治的と見える勝手な決めつけは、恥ずべき蛮習と思うべきです。ということで、あとがきで榊原氏が斥けた議論に、ついつい過剰に反応しましたが、今少し辛抱いただきたいのです。

 言い方を少し変えてみると、世の中には、「魏志倭人伝」が所属陣営の経営に対して「邪魔でしょうがない」から、寄って集って策戦会議し、不注意な改変から意図的な改竄に至るまで、高度な創意工夫をこめて陳寿「いじめ」に励む玄素名士が多く、榊原氏ほどの学識も、世間の義理に。多少は、影響されたかもしれないと思います。いや、軽率な決め付けは失礼します。

                                未完

新・私の本棚 榊原 英夫「邪馬台国への径」 提言 完結版 3/8

「魏志東夷伝から邪馬台国を読み解こう」(海鳥社)2015年2月刊 
私の見立て ★★★★★ 総論絶賛、細瑾指摘のみ 2024/06/23, 07/17

*陳寿擁護の序奏
 古代史官「史記」司馬遷、「漢書」班固、「漢紀」荀悅、後漢紀「袁宏」の生き様を見れば、辛うじて天命を全うした陳寿の厳正さが見えるはずです。
 現代「玄素名士」は、なべて言うと、二千年後生、無教養の東夷のものであって、三世紀の事象に御自分の(現代風の)自然な/普通の倫理観/処世術を投影していて、殆どの場合、陳寿の死生観/使命感/史官像が見通せていなと思えます。
 (当方は、世間の義理に迫られていないので、ついつい、何事も、不躾になってしまうことをお詫びします)(初稿時、あとがき未読)

 冷静に見れば、陳寿は、「権力者」(誰?)に、無節操に阿(おもね)る(どうやって?)のでなく、史官の『憲法』である「述べて作らず」に殉じていた(とことん拘っていた)とわかるはずです。勿論、冷静に見ることが出来なければ、耳に蓋をしていただければ結構です。

 いや、あわてて言い添えると、これは、榊原氏著作の批判でないのは御理解いただけると思います。どこかの「野次馬」(結構数が多い)のことです。榊原氏だけでなく、とばっちりがかかった人には、申し訳ないと謝るしかありませんが、何しろ、無力な孤軍であるので、御容赦いただきたいです。

3.韓伝「方四千里」について
 榊原氏は、「方四千里」が韓国領域の形状/寸法を示すと判断し、(三世紀にない)現代地図から判断して、その「里」は、ほぼ80㍍程度と裁断しています。しかし、「方四千里」が、幾何学的判断を示したとするのは早計と思われます。
 当時、地形図はなかったから、半島南半、韓半島の地形は知られていなかったと思われます。「東夷伝」では「海中山島」であり、それが離島、州島でなく地続きとわかるのです。その認識に対して、現代人から見て正確、しかし、当時の地理観にない地図を示すのは、錯覚を誘うものであり感心しません。
 当記事は、少なくとも氏の言う「距離感/観」の埒外であり、道里計算表からの撤回をお勧めします。ともあれ表Ⅳ―1から、韓伝を除外できます。

 私見を蒸し返すと、「倭人伝」の「郡から倭まで」の行程は、読者が望まない、益体もない「なぞなぞ」でなく、その場で読み解ける明快なものと見るべきものではないでしょうか。であれば、道里記事に「方四千里」などと異次元の数字を見出し、幾何学的な解釈でこれを「道里」の足し算計算に混ぜ込むのは、高貴な読者に喧嘩を売っていると取られかねないのです。
 普通に考えると、「道里」計算に紛れ込まないように、異次元とわかる「方里」の数字を混ぜていると見るものでしょうか。
 道里計算は、郡から狗邪韓国に到る街道七[千里]に、以下、三度に渡る渡海水行の三[千里]の一桁数値の足し算で、その場で暗算できる程度ですから、当時の読者は表形式になっていなくても、アッサリ諒解し通過したはずです。

 蒸しかえしですが、陳寿は、本筋行程に、込み入ったわき道が入り込まない書法を工夫しているのです。なにしろ、史官は、実務本位の下級官であり、「聖職者」でもなければ「預言者」(神の代弁者)でもないのです。いかに、明快に文字表記するかに注力していたのです。

*苦言の予告
 以下、本著に示された榊原氏の労作の相当な部分の空転を指摘するのは、たいへん心苦しいのですが、あえて苦言を呈すると予告しておきます。

                                未完

新・私の本棚 榊原 英夫「邪馬台国への径」 提言 完結版 4/8

「魏志東夷伝から邪馬台国を読み解こう」(海鳥社)2015年2月刊 
私の見立て ★★★★★ 総論絶賛、細瑾指摘のみ 2024/06/23, 07/17

*「方里」排除の序奏~詳細後出
 「方里」の意義/意味については、末尾で論じてますが、本質を云えば、「道里」は一次元数値であるのに対して、「方里」は異次元の二次元数字と明記されたとみるものでしょう。異次元数値は、加算できないのです。
 氏は、マトリックス作表されていますが、「東夷伝の2点間距離」と銘打ちながら、「道里」と異次元の「方里」が混在して、縦方向の加算計算ができず、計算表の意味を成さないことに気付かれていないのでしょうか。

4.「循海岸」水行~東夷に普通の躓き石
 大前提ですが、正史記事鉄則として、当記事は郡治を出発して陸上街道を「南下」と決まっています。(大半の)読者がこの大前提に気づかないのは、(大半の)読者が必要な教養を持たない無資格者ということです。いくら(大半の)読者が研究者の大半であろうと権威者であろうと、人数が多かろうと構成比が高かろうと、当記事の指摘を目にして回心しないなら無資格者です。
 それはさておき、榊原氏は、陳寿が『帯方郡官道を行く行人/文書使が、行程基点の郡治から西に海岸に出る「陸行」を記事から割愛して、いきなり「沿岸」航行する破天荒な記事を書いた』と誤解しています。陳寿も、二千年後生の無教養な東夷が、誤解と強行するとは思わなかったはずです。
 あえて言うなら「倭人伝」は、郡から狗邪韓国にいたる行程が、時に東に、時に南に向かうと明記しているのに、無断西行は不法です。

 中国で、本来「水行」は河川流に沿った航行に決まっている一方、史官が遵守する書法では、行程道里は並行している「陸行」道里を登録するので、史書に「水行」道里記事は存在しないのです。
 渡邊義浩氏が、この点を間接的に断言しています。(「魏志倭人伝の謎を解く」(中公新書 2164)(2012)pp.132) 司馬遷「史記」夏本紀にある禹后の「寓話」しか先例らしきものが見当たらず、この記事は、「寓話」なので、先例とならないということが示されています)
 なにしろ、先例が存在しないことを立証するのは、大変困難(事実上不可能)なので、笵曄「後漢書」、及び、陳寿「三国志」を読破し、通暁した先賢の断言は、代えがたいものがあります。

 これに反して、『先例の無い 「水行」、それも無法な「海上航行」を、無警告で起用するのは、読者を欺瞞することになり、論外である』ことを見過ごしておられ方が大半と見えます。もちろん、海上に「道」は無く船上に道里はないのです。陸上に漢制街道が存在するにも拘わらず、「水行」「七千里」と書くことはできないのです。

 郡治を出て陸上街道行程は、一路、従(縦)、南下ですが、それでは、狗邪韓国の海岸に達したときに、「大海」、つまり、しょっぱい「塩水の流れる大河」を渡る行程が不意打ちになるので、事前に中原街道で大河を渡船で渡るように「海岸を循(たて)にして大海を渡ることを水行という」と予告定義したのです。
 そして、狗邪韓国の海岸、海津で「始めて」渡船に乗り(大海を)渡海する(ことになる)と書いています。併せて言うと、ここで「其の北岸」は、直前の「倭」、山島の在る「大海」の北岸ということです。まことに、明解です。

 郡から狗邪韓国海岸まで断じて「水行」しないことは自明ですが、ここは陸上行程と決まっているので「水行しない」とは書かないのです。

 陳寿は、正史の行程道里記事として、前代未聞、未曽有として、短い区間で前例のない「洲島」、つまり、大河の中州の「中の島」を飛び石伝いする三度の渡海水行を含む道里行程記事を、誤解のないように明解に書いたと読み取っていただければ幸甚です。もちろん、異例の「渡海水行」は、一回千里と決めた/規定したから測量してないのは自明です。
 ついでに念押しすると、船に乗って大河を流れに沿って行くことを「渡る」と言う事はありません。正史解釈以前の常識です。
 念のため書き重ねると、これは、景初初頭に明帝に報告された行程です。

                                未完

新・私の本棚 榊原 英夫「邪馬台国への径」 提言 完結版 5/8

「魏志東夷伝から邪馬台国を読み解こう」(海鳥社)2015年2月刊 
私の見立て ★★★★★ 総論絶賛、細瑾指摘のみ 2024/06/23, 07/17

5.対海国、一大国の「方里」談議~詳細後出
 氏は、両国に附された「方◯◯里」を魏使/郡使の踏査測量由来と見ていますが両島道里は渡海水行千里と早々に確定していて、後日踏査測量したとは見えません。「方里」が幾何学的判断とするのは早計と思われます。
 未知の東夷に到る行程がどのようであっても、高貴な読者が容易に理解できるように明解に分別するのが、史官の務めと見えるのですが、とかく、「乱」を求める方が多いようです。
 なお、三度の渡海それぞれ千里と切りの良い千里単位の道里に百里桁の端数を付け足すのは無効です。
 両島「方里」は、「道里」では誤算/邪魔物です。
 両島「方里」は、現代地図から見てとれて、俗耳に好まれますが、韓伝「方七千里」と同様一次元「道里」と別次元で、合算するのは不合理の極みです。

 表Ⅴ―2は、狗邪韓国から末羅国までの「水行」三千里のはずが、郡から狗邪韓国の迂回水行七千里を含め計万里と不都合です。一方、㋐㋑㋒の陸行、ありえない隠れ「水行」を、無法に勘定したとしても、陸行が不足して、到底一月とみえず不穏です。

 本項で言うと、㋐㋑㋒の陸行は、無意味と断定されます。

 この程度の齟齬は、一瞥で見て取れると思いますが、氏は、古田武彦氏の論議の手触りの良いところだけ取り上げているようにも見えます。

6.「水行」「陸行」仕分け/分別について
 氏は、几帳面に行程を切り分け、「水行十日陸行一月(三十日)」の明細を論じていますが、「倭人伝」は、郡治から王治の所要日数初出であり、読者の教養/見識を考慮として煩瑣を避け、明快に分別されていたものと思われます。

 氏は、表中に当時存在しなかった算用多桁数字、小数、SI単位を避け最低限の有効数字としましたが「千里」単位概数との明示が賢明と思われます。
 小論では、「陸行」第一段階が、郡から狗邪韓国まで七[千]里「水行」第二段階が、狗邪韓国から末羅国まで三[千]里「陸行」第三段階が、末羅国から「陸行」と書いた後、伊都国まで(地理、道路状況、牛馬の有無が不明)の倭地 二[千]里の三段階、計[万]二[千]里としています。
 水行三千里、陸行九千里と明快です。

*郡倭「万二千里」の起源
 これは、行程の実際の道里と関係無く、後漢献帝建安年間に公孫氏が最初に「倭人」を東夷として受け入れた際に、遠隔地として郡治から王治まで万二千里としたものであり、景初二年に曹魏明帝が楽浪/帯方郡を「密かに」接収し、道里を(誤解)承認したおかげで、明帝遺詔とされたものです。

 辻褄合わせで、「郡から狗邪韓国は七千里、狗邪韓国から末羅国は三千里」と按分されましたが、郡倭万二千里の残渣である末羅国から陸行の倭地二千里の「距離観」は不明瞭です。所詮、千里、二千里刻みで計数教育された官人は、概数帳尻は問えないと了解していたと見えます。

 結局確認できたのは、一度明帝が公布した「万二千里」の綸言は、遺詔とあって、遂に是正できなかったという台所事情です。

 「倭人伝」に、実務に即した「都(都合)水行十日陸行一月(三十日)」が追記されました。日数明細はないが、それぞれ一日三百里と見て陸行九千里は三十日、水行三千里は十日と読者に検算できる大雑把な辻褄合わせでした。

 ちなみに、郡から狗邪韓国までは、騎馬移動/馬車移動の宿場完備の官道ですが、末盧国上陸以降は、牛馬のない未整備「禽鹿径」で「詳細不明」であり、倭地の二千里は、道里から所要日数を見当がつけられません。

 おそらく、公孫氏に身上を示した時点では、末盧以降は不明であったと思われます。見当がつけられない行程は、本来、「倭人伝」に書く必要もなかったのです。

                                未完

新・私の本棚 榊原 英夫「邪馬台国への径」 提言 完結版 6/8

「魏志東夷伝から邪馬台国を読み解こう」(海鳥社)2015年2月刊 
私の見立て ★★★★★ 総論絶賛、細瑾指摘のみ 2024/06/23, 07/17

*不朽の「公式道里」
 後世、大唐玄宗皇帝は、郡国志や地理志の「蛮夷に至る行程道里」が、実態と異なると「激怒」して実態調査を命じましたが、膨大な人員期間を費やした調査で公式道里が「訂正」されなかったのは言うまでもありません。
 復習すると、「倭人伝」道里行程記事は、陳寿の責任編集で明快に成形されたと見るべきでありパッと検算できるのが、編纂の妙技と言うべきでしょう。

番外 「戸数」について 余談
 かねて力説の通り、倭地には、労役を助ける牛馬がないので、各戸は、人力で耕作し納税は少ないので「良田」でないのです。近場の対海国と一大国は「良田」が少ないと苦境を述べますが以南諸国も大差ないと知れています。

*「倭人」の評価
 次の二項目は、「倭人」の納税力/派兵力評価が困難と示しています。
 其人壽考、或百年、或八九十年。各戸は労働力にならない年寄りが多い。
 其俗、國大人皆四五婦、下戶或二三婦。各戸は、労働力に乏しい女が多い。
 「倭人伝」行程諸国はなべて千戸代が、各国の実力です。

*「倭人」は、お構いなし
 ちなみに、中国では、秦漢代以来銭納で、全国から京師/東都/首都に銅銭が届いたのです。韓濊倭は銅銭がなくて物納であり、「倭人」は、渡船海峡越えで不可能とみられます。「倭人」は郡に服属せず、郡制非適用と見えます。

*先進の韓国、未開の「倭人」
 韓国の郡支配地は、戸籍/土地制度で戸数確定のはずですが、地力は「方里」表記です。先進の馬韓を含め農地が散在、空洞化した荒地と見えます。
 国内諸兄姉の議論は、現地事情を度外視した時代錯誤「人口論」で激昂の例がありますが、史官は、実務に即した記事としていたのです。

*正史の嘘の皮
 「史実」は、泥まみれで混沌でも、真っ黒い「史実」を真っ白な「嘘の皮」でくるむのが史官の至誠でしょう。「倭人伝」に陰謀論のぺてん仕掛けは論外でも、読者に苦痛を与えないためには、程々の技巧が必要でしょう。

*盗用の顰(ひそ)み
 当記事は、氏の好著の核心部に異論を挟むので、言及を避けていた点が多いのですが、氏の労作である表Ⅳ―2を部分引用/改造盗用して論拠とした論考が見られたので、あえて、火中の栗を拾ったものです。氏の比定地論の邪魔にはならないと思いますが、ご不快の念を与えたとすれば、陳謝します。
*急遽追記  第Ⅺ章 女王卑弥呼の生涯
 榊原氏が、掉尾を飾る卑弥呼小伝表Ⅺ―四において、「倭人伝」以外の不確かな資料に依拠して生年を六十年前進させたのは武断に過ぎます。景初二年遣使の際「年長大」つまり、「成人となった」とする普通の解釈を放棄して七十九歳と断じるのは同時代最有力用例に背いています。文脈から見て、女子王となって以来、数年程度とみるのが妥当です。是非ご再考いただきたい。

◯まとめ 陳謝と深謝
 そして、当方は、氏が、「魏志東夷伝」里数記事について、世上の予断偏見を排して考証されたおかげで、道を迷わずに済んだことに深謝します。
 願わくば、榊原氏ご自身から、本稿に提示した異議に対するご高評により御鞭撻いただければ、幸いです。

                                以上

新・私の本棚 榊原 英夫「邪馬台国への径」 提言 完結版 7/8

「魏志東夷伝から邪馬台国を読み解こう」(海鳥社)2015年2月刊 
私の見立て ★★★★★ 総論絶賛、細瑾指摘のみ 2024/06/23, 07/17

□当ページは、余談です。
*魚豢「魏略」西戎伝 安息記事紹介
國出細絺。作金銀錢金錢一當銀錢十。
有織成細布,言用水羊毳,名曰海西布。此國六畜皆出。水[羊毳]或云非獨用羊毛也,亦用木皮或野繭絲作,織成氍毹、毾㲪、罽帳之屬皆好,其色又鮮于海東諸國所作也。又常利得中國絲,解以爲胡綾,
山出九色次玉石,一曰青,二曰赤,三曰黃,四曰白,五曰黑,六曰綠,七曰紫,八曰紅,九曰紺。今伊吾山中有九色石,即其類。

[羊毳]補填は、当ブログの独自提案。

*安息国の冨

 魚豢「魏略」西戎伝は、劉宋史官裴松之によって、「魏志東夷伝」の付録として、当時、健在であった「西戎伝」善本をそっくり収録したものであり、俗に言うような「佚文」や「短縮所引」などではありません。但し、正史西域伝の形式にはなっていないので、参考とするべきものです。
 内容は、後漢代、西域都督が健在な時期の記録てあり、魏代記録は、殆ど含まれていません。後漢代後期、西域都督を維持できず撤退したためであり、西域は、粗暴で略奪志向の大月氏/貴霜国に支配され、その西方の友好国「安息国」とは、ほぼ「絶」状態だったのです。
 ここに示したのは、安息国らしい大国の風俗記事の一部です。銀貨、金貨が通用し、多彩な「宝石」(貴石、準宝石)、「準宝石」を中心とする貴重な鉱物資源、畜産、羊毛絨毯・壁掛けなど豊富であり、中国産の絹織物の仲介に加えて、中国産絹布を解(ほぐ)した絹糸に、野繭から採れた絹糸や彩り豊かな羊毛を交えて織り上げた水羊毳が「海西布」として好評(高く売れた)のようです。国土は、砂漠、塩水湖、荒地と過酷な風土であり、それだけに、太古のアケメネス朝時代以来整備されていた街道を活用した通商で稼ぐ商人気質は、今日まで継承されているようです。
 安息国は、東西貿易に加えて、アラビア半島、ペルシャ湾、天竺(インダス川流域)との交易が盛んで、ローマ帝国を凌ぐ富裕さと見えますが、仇敵大月氏に阻まれて、その時期、西域都督経由の交遊が途絶えたのです。
 安息国は、後に、莫大な財宝をローマ帝国に奪われ、ついで波斯(ササン朝)にイラン高原覇権を奪われて、衰亡したのですが、魏晋政権は何も知らなかったでしょう。
 超大国波斯(ペルシャ)にササン朝が興隆しましたが、先立つ商業大国安息と違い、武力で領土拡大を進め、巻き起こった波斯の大挙東進で、大月氏/貴霜勢力は、消し飛んでしまったのです。但し、中国は、依然として南北分裂し、北朝も、後期は東西に分裂して、西域に於いて主導権を獲れなかったのです。

*「西域伝」割愛の背景 一説
 あるいは、このような記事を魏志に掲載すると、そのような無尽蔵とも思える富裕な「西域」と比較して、誠に細やかで貧しい「倭人」が誹りを受けるので、魏代に格別の成果のなかった「西域」蛮夷伝を割愛したと見えます。
 曹魏明帝は、後漢以来の西域都督の頽勢を見ていて、東夷振興で新たな栄光を築こうとしていたのかも知れません。誠に余談です。

*笵曄「後漢書」「西域伝」
 西晋崩壊、東晋南方逃避を承けた南朝劉宋の高官であった笵曄は、政変によって閑職に追われた後、それまで諸家「後漢書」が乱立、不備に終わっているのに着目し、諸家「後漢書」の統一集成に挑みました。本紀、諸臣列伝までは、先行諸書から精選して一流史書にしたのですが、「西域伝」と「東夷伝」に関しては、後漢霊帝没後以降の原史料(公文書)散逸による苦戦が見て取れます。魚豢「魏略」を頼りにしながら、文章家として盗用と言われないよう「しっぽ」を隠していますが、それは、史官ならぬ小人の勘違いです。

 特に、原史料皆無に近い「東夷列伝」倭条は、知る人ぞ知る改竄記事連発で、一段と嘆かわしいのです。

                                未完

新・私の本棚 榊原 英夫「邪馬台国への径」 提言 完結版 8/8

「魏志東夷伝から邪馬台国を読み解こう」(海鳥社)2015年2月刊 
私の見立て ★★★★★ 総論絶賛、細瑾指摘のみ 2024/06/23, 07/17

追記 本書のあとがきの陳寿「魏志」評を、ご参考まで部分引用します。

あとがき[中略]
 さて、私は本書を書き進める中で『三国志』の撰者・陳寿の執筆態度について、幾度となく感心させられ、かつ驚かされもしました。
 その一つは、語彙の使い方が極めて厳密であること、最も重要な帯方郡から倭国の首都・邪馬台国までの路程に関して三重に説明を施すなど、読者(晋朝皇帝及び司馬氏を始めとする晋朝の貴顕諸士)に事実(東北アジア及び倭国の実態)が正確に伝わるようにとの細心の配慮がなされていることです。[中略]
 六朝宋の文帝の命を受けて元嘉六(四二九)年に『三国志注』を完成させた斐松之は、陳寿が撰した『三国志』について、「叙述は観るべきものがあり、記事はおおむね明瞭正確である」と評しています。裴松之が評したとおり、陳寿の『三国志』とりわけ『魏志倭人伝』を含む『魏志東夷伝』の記述は「明瞭正確」を旨としていると思います。
 その二つは、『魏志東夷伝』の『韓伝』『倭人伝』における距離観を通常の五倍程度にまで拡大することによって、かつては孔子が憧れ、現状(『三国志』撰述当時)にあっては晋朝(司馬氏)の正当性を担保すべき倭地域について、はるか遠方の理想郷として描くという前代未聞の驚くべき手法を採用していることです。
 この対応は陳寿の独断であろうと思われますが、[中略]それは若い時から傾倒してきた儒教に精神的な源泉を求めることができるのではないかと思います。[中略]

コメント御免
 余談ですが、「前代未聞」、「陳寿の独断」は、早計と思われます。
 陳寿が「若いときから傾倒してきた儒教」とありますが、儒教は士人の必須素養としても、傾倒したかどうかは不明です。時代英傑曹操、劉備、諸葛亮は、儒教の徒とは見えません。海鳥社編集子のような練達の編集者であれば、修飾句減縮を助言されるものと思いますが、上手の手から水が漏れたのでしょうか。

 とはいえ、保守派論客の影響で陳寿に不適切な先入観を抱いているのではないかと懸念したことをお詫びしますが、当「あとがき」に気づいた時点で、先行する記事の調整に手が回っていない点、ここで不明をお詫びします。

*補追 方里談議 など (一里四百五十㍍の普通里前提)  (2024/07/17)
 「倭人伝」道里記事の対海国「方四百里」一大国「方三百里」は、共に、一里四方「方里」を単位とする農地面積であり、対海国で見ると、二十里(九㌔㍍)四方と「現代人が現代地図から見て取れそうな嶼面積」に比して、随分些細ですが、時代相応の根拠である土地台帳「方歩」を集計した「実力」なのです。

 加えて、「良田」は戸の成人男女が牛犂で耕すものなので、牛耕不能などの理由があれば規定収穫が得られず「良田」失格です。これは、東夷伝の高句麗「方二千里」、韓国「方四千里」も同様です。どちらの国も山谷が多く農地僅少なのです。

 史官の深意/真意は、東夷諸国は、平地が乏しく中原と比べ税収が格段に少ない」という提示なのです。帝国の辺境で領土を拡大するのは、計算上は国力が拡大するので、その時は好ましいように評価され、軍人にとって恰好の「お手柄」ですが、実際に「郡」を構えて「独立採算」評価すると、領地が、閑散、貧困、零細の「荒地」であって、郡太守の高給(粟 ぞく)すらまかなえず、現代風に言うと「赤字経営」となるので、早急な撤収を迫られるのです。漢武帝時代の半島四郡体制は、武帝の失政事例であり、国家財政の破綻に拍車をかけたことが、魏晋代文官の熟知するところだったのです。

 史官は、曹魏草創の「名君」と自負していた明帝は、いわば「中国」の失地回復、新境地獲得となる東夷諸国の招請に大いに期待しましたが、早世によって雄図は空しく頓挫したと傷ましく書き止めるかたわら、司馬晋に権力が移行した直後に「魏志」を編纂した陳寿は、東夷諸国の実体を冷静に眺め、武帝の失政の再現となりかねなかったと示唆しているのです。いわば、史官の本領である「二枚舌」ですが、本紀での顕彰と東夷伝での批判は、手の内にあったのです。

閑話休題
 「四百里四方」(十六万平方里)と「三百里四方」(九万平方里)を「両国外寸」と見た場合、加算して二十五万平方里、「五百里四方」であり、「方里」加算が成立しないのです。つまり、両国外寸と見た のが、誤謬なのです。土地台帳で「方歩」が集計できないのは不合理です。商売にならないのです。

 東夷伝独得の「方里」は、同時代に図りようのない、図る意義も認められない島嶼面積を、神のごとき架空鳥瞰で地図上で目測し、ざっくり「方形」近似したとき、「見て取れた気がする」ようであり、「一里七十五㍍短里」の有力な根拠とする例が散見されますが、合理的な根拠無き援用は、ひたすら不合理です。 (2024/07/17)

                                以上

2024年7月12日 (金)

倭人伝の散歩道2017 序章・三国志の由来 1/4 再掲

                             2017/06/24  補追 2024/07/12

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに
 本稿執筆の契機は、「中華帝国志」  中 権謀術数篇 安能努(講談社文庫)冒頭の述解である。

 「正史「三国志」自体の記述に前後の乱れや左右の齟齬が甚だしい、ということである。例えば、あの名高い「赤壁の戦い」がそうであった。」と提起して、具体的に正史本文を引用して読み解いた上で、「以上四つの記述が明らかにした「確かな史実」は 二つだけである。
 一つは、赤壁で戦いがあった。もう一つは、曹操の魏軍が敗北したということである。曹軍が戦った相手は、劉備の蜀軍だったのか、孫権の呉軍だったのか、はたまた呉蜀の連合軍だったのかすら明らかではない。いや戦場は陸上だったか、水上だったかさえ定かではないのだ。(中略)これは正史を読む者にとっては、まことに困ったことだ。三国時代の歴史ドラマでは最大の見せ場である「赤壁の戦い」の真相が、実はよく分らないでは、まったくの興醒めである」

 「四つの記述」とは、魏書武帝(曹操)紀、呉書呉主(孫権)伝、蜀書先主(劉備)伝の三者三様の記事と、呉書周瑜伝記事である。大事なことであるが、安能氏が、「三国志」参照の際、裴注部分を除き陳寿編纂部のみ論議したのは、至当である。

 安能氏の指摘は、「三国志」なる史書は、「陳寿編纂にも拘わらず、各書の記事間に食い違いがあり、史書として不正確であるというものであり、その好例として、赤壁の戦いに関する記事間の食い違いを指摘しているものである。

 ただし、安能氏は史家でないので無理もないが、「赤壁」の戦いは三国志記事であるが、三国時代でなく、後漢(以下漢)朝事件である。赤壁時点、漢は化石(レジェンド)でなく全国政権として厳然と権勢を振るっていた。「赤壁の戦い」自体、あったのかなかったのかすら不明であるから、安能氏は不満なのである。

 後日談であるが、赤壁の十二年後、建安二十五年に漢は魏に天下を譲り、曹操の後継者曹丕が皇帝となった。これに応じて、劉備は漢を再興し、孫権は呉を興して、三国鼎立した。ここから、三国時代が始まるのである。そして、曹操は、すでに没していた。

 以下手短に述べるように、
「三国志」を構成する「魏国志」、「蜀国志」、「呉国志」は、それぞれの「国志」として独立して編纂されたものであり、最終的に「三国志」とされたものの、各国志の不整合は、史書として最低限の整合しかされていない
のである。

未完

倭人伝の散歩道2017 序章・三国志の由来 2/4 再掲

                             2017/06/24  補追 2024/07/12

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*建安十三年の世界
 曹操は、漢丞相であり、臣下であった。
 孫権は、中央政権の混乱時期に、江南に勢力を確立したが、形式的には漢朝臣下であった。
 劉備は、一時、漢高官となり、皇帝親族、皇叔と厚遇されたが、反曹陰謀に巻き込まれて亡命したので、重罪人であった。

 建安十三年、丞相曹操は、荊州劉表の平定行に出た。劉表は漢の牧であったが、中央の混乱に乗じて自立し、曹操への服従を拒否したので、征討が命じられたが、同年八月に卒した。
 曹操率いる官軍、曹軍は、劉表の死に動揺した荊州を難なく支配下に収め民政を安定させ、引き続き劉備の追跡・討伐に移った。
 劉備軍は、荊州が曹操の麾下に入ったために、配下将兵とともに逃亡したが、根拠地の無い流軍だったのである。この(仮称)劉軍は、兵力をとっても、孫権麾下の有力武将周瑜、魯粛、黄蓋らの部隊と比べて、弱体であった。とても、荊州軍を加えた曹軍に対向できるものでは無かった。

 と言うことで、劉軍が曹軍に抵抗したという魏書記事を信じるのは難しいかもしれない。

 孫権は、呉の支配者であり、軍は孫軍とでも言うのだろうか。
 赤壁の戦いは、一般には曹軍と孫軍の戦闘と解され、劉軍は孫軍に与力したと思われているように思う。
 現に、蜀書は劉軍の軍功を、呉書は孫軍の軍功を誇る記録をそれぞれ残し、それ自体は寛大にも温存されている

*曹軍「不利」
 魏書を見る限り、曹軍は、劉備をつかまえ損ねた上に自軍に疫病が蔓延したので追悼を断念し、荊州制覇を嘉としてて、軍を帰したとしている。

 筑摩書房「正史三国志」の「敗れた」は軽率な誤訳である。原文は「不利」と書いていて、これは「刀剣が切れない」という意味であり、せいぜい、孫権征伐の不首尾を言うだけで、負けたとは書いていない。

 つまり、魏書では、赤壁の敗戦など無かったのである。甚だしい敗戦の時に避けられない有力武将の多数の戦死者は出ていないのを見ても、大敗はしていないらしい。

 未完

倭人伝の散歩道2017 序章・三国志の由来 3/4 再掲

                             2017/06/24  補追 2024/07/12

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*勅命と違勅
 曹操は、皇帝でなく丞相であるから、軍事行動に勅命が必要だった。つまり、荊州遠征と大罪人劉備の征討までは勅命であるが、孫権征討の勅命は受けてないから、戦えば違勅であるというものの、曹軍から孫権攻撃の勅命を仰いだ記録はないようである。

 比較すると、司馬懿が太和二年、有力武将である孟達を、蜀への内通により討伐したときは、駐屯地から急行討伐し、その後弾劾奏上する非常手段を執っているが、この独断専行は、軍令違反であり、よほどの確信がなければできない。
 と言うことで、曹操は司馬懿と異なり謹直である。

*大敗の罪
 ついでながら、官軍が大敗を喫すると、指揮官の罪は、最悪、大逆罪に等しい大罪となり、本人の死罪だけでなく、妻子、両親、兄弟姉妹に始まる三親等以内の親族全員が連座して死罪となるから、重大な戦闘には、先立って、皇帝の勅令を仰ぎ、敗戦の責任が自分だけに降りかからないように、慎重に保身するのである。

 諸般の事情から、魏書に孫権との戦闘記録は残せなかったのであろう。

*呉書記事
 呉書には、孫権の談話とは言え、「老賊」の表現があり、これは曹操の蔑称である。
 孫権は、曹丞相を「老賊」と呼んでいたのである。呉書では「曹公」とされているが、ここには孫権の肉声が収録され、温存されている。

*国志鼎立
 三国志の各国志は、それぞれの方針で編纂されていて、三国志全巻を一貫した方針で編纂したとは限らない。しかし、それは、編纂方針の不用意な乱れでなく、確たる編纂方針である。

 参考までに手早く確認すると、三国志全体を一史書と判断した例が大半だが、舊唐書経籍志と新唐書芸文志では、「魏国志」三十巻は「正史」であるが、「蜀国志」と「呉国志」は、その他史書(偽史類)とされていたと言うことであるから、少なくとも、唐時代には、三国志全体が正史として取り扱われていたとは限らないようである。

未完

倭人伝の散歩道2017 序章・三国志の由来 4/4 再掲

                             2017/06/24  補追 2024/07/12
*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯まとめ
 以上の考察は、素人考えそのものであり、文献史学や書誌学の権威からすると、素人の勝手な憶測に過ぎないと言われそうだが、素人も素人なりに調べて、懸命に考えているのである。(別に命がけではないが)
 陳寿が、三国志全体の序文などを残していないから、そのような仮説も成立すると思うのである。
 以上は、安能氏の指摘に触発されたものであるが、原史料に戻って調査確認した上の意見であるので、当方の独自の意見とみているである。
 もちろん、全論者の全論説を全て確認したわけではないので、「知る限り」の新説と言うことにしておいていただきたい。

□余談少々
*誰が負けたのか

 愚見を付け足すと、曹軍は江水(長江、揚子江)で戦える水軍を持たないので、孫水軍と対峙したのは、荊水軍の艦と兵である
 ハリウッド映画などでは、浮かぶ要塞のような巨艦が登場するが、劉表時代には、荊水軍に下流を侵略する意図はなかったようだから、そのような巨艦を造船はしていなかったと思われる。華麗なイリュージョンである。

 それにしても、もし、赤壁で水戦があったとしたら、それは、孫水軍と荊水軍の衝突である。その水戦で、荊水軍は大敗して、艦と兵の多くを失ったかも知れないが、曹軍自体は、大した損害を受けなかったのだろう。

 もし、赤壁で曹軍本体が大被害を受けたとしたら、下流の必争地である合肥の戦いで、孫軍は、大勝を博したはずであるが、実際は、あっさり押し戻されたのである。
 周知の通り、江水下流域での魏と呉の対陣で、呉の度重なる北進攻勢が阻止され続けたのは、合肥が、頑として魏の最前線を護り続けたからである。この時、合肥が陥落していれば、魏の国勢は、大きくそがれていたはずである。

いや、これは、かなりマニアックな上に、「倭人伝」論に関係のない、余談であった。

*鼎立を超えて
 当方としては、そこにくわえて、旧遼東郡管轄地域の記事も、あえて、「魏書視点」で書き直されていないことに気づいて欲しいのである。
 何しろ、「東夷伝」は、各国志に欠けている序文を持ち、一書としての構えを備えていのである。

                                      以上

2024年7月 8日 (月)

新・私の本棚 小林 行雄 神と神を祀る者 ムラからクニへ  1/11 再掲

 日本文学の歴史 第一巻 神と神を祀る者  昭和42年5月10日刊
 ムラからクニへ  執筆者 小林行雄 (1911年8月18日 - 1989年2月2日 文学博士)
 私の見立て 全体 ★★★★☆ 学識芳醇 当コラム ★☆☆☆☆ 多々認識不足 2016/08/12 補充 2024/07/08

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

私見御免
 今回の題材は、古代史分野で古典的となっていた議論を取り上げているのであるが、当ブログ筆者が、こうした記事の論旨展開に異論を感じる由縁をきっちり述べるのに適例と思うので、先賢に対する不遜は承知の上で、率直に書き記すのである。

 当ブログ筆者は、今日ほど、諸情報に容易に接することが出来る時代ではなく、また、学界の主流に堂々と異論を唱える論者が、世に出ることなく陋巷に潜んでいた時代に、学界の大勢を支配していた(いる)論法を一つの事例として提起したいと思ったのである。

 というものの、当記事に提示されている「定説」と言う名の作業「仮説」そのものは過去のものとなったとしても、こうした未熟な論法は、後進の諸兄姉に承継されて健在ではないかと懸念しているものであり、半世紀前の論説といえども、真摯に批判する価値はあると思うのである。

*お断り
 言うまでもないが、当ブログ筆者は、一介の私人、素人であって、古代史学界でこのような尊大な議論を申し立てられる立場にはないのは承知しているのであるが、一読に値すると思う方は、軽く目を通して戴ければ幸いである。

*非礼と不遜
 正直、このような論説を、このようにひなびた場所とは言え、公開するのには、随分抵抗があったが、古代史分野の定説が、なぜ、非合理的、非科学的な俗説と批判されるのか、具体的に示すことが、何かの社会貢献にならないかと、書き綴ったのである。
 もっとも、このような論説を公開することで、当ブログ筆者の考古学分野での世評が悪化したとしても、当方は、一介の私人であり、失う名声も、地位もないので、意を奮って書き始めるのである。
 いや、此までのブログ記事は、全て、そうした「匹夫の勇」で支えられているのである。

 以上、もったいぶった前提を理解した上で、ご不快やお怒りは取り敢えず抑えて、自称「労作」を一通り読んでみて頂きたいのである。

未完

新・私の本棚 小林 行雄 神と神を祀る者 ムラからクニへ  2/11 再掲

 日本文学の歴史 第一巻 神と神を祀る者  昭和42年5月10日刊
 ムラからクニへ  執筆者 小林行雄 (1911年8月18日 - 1989年2月2日 文学博士)
 私の見立て 全体 ★★★★☆ 学識芳醇 当コラム ★☆☆☆☆ 多々認識不足 2016/08/12 補充 2024/07/08

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*冤罪払拭

 以下引用した冒頭囲み記事「『魏志』倭人伝の信頼度」を「魏志倭人伝」と言う史料の紹介でなく、タイトルに対する口吻で始めている。

 世間に通じている「魏志倭人伝」なるタイトルは、遙か後世の、多分日本人が、便宜上付けた通称であって、いくら刊本に記載されていても、陳壽が編纂した本文ではない。よって、この通称は、倭人伝の史料としての信頼性には関係ない。

 因みに、遙か後世の南宋時代の版本である所謂「紹凞本」では、「倭人」記事の直前に、一行を費やして、「倭人伝」と書かれていて、世に「倭人伝」と通称される一因と見られる。二千年間のかなりの部分、当部分に対する「栞(しおり)」として、当用写本の上部に朱書されていたのではないかと見るものであり、大変役に立っていたものと思うのである。そのような「栞」付けは、「論語」で常用されていて、段落冒頭二字によって「通称」としていたことが知れているのである。
 なぜ、執筆者が、「通称」に対して反発を示されているのか、一介の素人が否定するものではないから、「理解しがたい」と書き留めておく。
 執筆者は、「魏志倭人伝」が陳寿自身の書き残した原本で無いことを力説されたが、「魏志倭人伝」なる「タイトル」は、あくまで「タイトル」に過ぎない、史料テキストの一部でない。一読者としては、力説の意義を読み取りがたいと書きつけておく。

 ちなみに、「紹凞本」は、北宋時代咸平年間に校正、確定され、初めて木版本として刊本された「咸平本」なる貴重書が、北方民族の江水(長江)岸に至る武力侵攻/文化破壊によって、北宋ほぼ全域で、刊本にとどまらず、印刷機や版木に至るまで撲滅された事態が起きたのである。いや、北方民族は、中原に君臨していた「宋」を打倒する際に、その精神的な支柱である四書五経の「哲學」の撲滅を必須としたため、中国全域の哲學書を木版印刷の版木まで、破壊し尽くしたのである。
 但し、破壊し尽くしたのは、「中国」全土であったので、外界であり、交通疎遠な「四川」、「益州」、ほかならぬ、蜀漢の故地に温存されていた善本写本から、紹凞刊本の木版を起こしたものである。おそらく、益州には咸平刊本が齎されていなかったため一次/二次の高品質の通用写本であったから、行格、字体が、咸平刊本と全く同一でないのに加えて、若干の加筆、誤写が有ったものと見えるのである。
 南宋初期に、北宋刊本の復原を図った際に、格段に進歩した版刻技術を採用したため、行格が精細化したとともに、それまで本文と同一行格であった裴注を、一行を二分する割り注としたことにより、格段に少ない紙数で刊刻できたのである。つまり、陳寿原本と「蛇足」である裴注を視覚的に区分できたのである。
 つまり、南宋紹凞刊本は、木版刊本として北宋咸平刊本に大幅な改善を施した時代頂点の境地(State of the Art)に至ったものであり、その一環として、それまで欄外注記されていた伝名で一行を消費することができたから、「倭人伝」と書くことができたのである。つまり、「倭人伝」は、南宋以降の新世代刊本の隔世の信頼性を物語っているのである。ちなみに、南宋第一世代の「紹興本」は、伝名行を持たない旧世代である。
 執筆者は、そのような細部をご存じないままに、世間に通じている「魏志倭人伝」』なる伝名について講評されているが、少なからず、要点を外れたものと見るものである。おそらく、国内諸史料、所謂「正史」の混沌たる継承状態を見て、「魏志倭人伝」に混沌を見ているのだろうが、それは、実証されていない「思い込み」なのである。

 また、各種資料に引用される際、「魏書」、「魏志」の両様であり、別に「魏志」と呼ぶのが間違っているわけではない。時に、「魏国志」と呼ばれるものでもある。むしろ、どの刊本を、史料文献テキストの原典とするかの選択が肝心であり、「紹凞本」を基礎とする現代刊本が意義を持つのである。
 念のために言うと、史官である陳寿は、三国志を「編纂」したのであり、紀行文学を「創作」したのではないから、オリジナリティー(創作性)を狙ったものではない。
 このような余談めいた書き出しは、以下の展開と相俟って、執筆者の先入観というか、素人考えによる偏見を押しつけるものである。

 ついでにダメ出しすると、当時の言葉で、「中国」とは、魏の統治していた中原のことであり、呉、蜀は、中国を割拠していたのではなく、四夷とも呼ばれた「辺境」を支配していたと見られているのである。これは、かなり深い内容であり、あるいは、執筆者は承知の上で、現代語として使用したかも知れないが、ここは、遠慮せずに書きつけておく。

 また、魏と呉が影響を与えようとしていたのは、北鮮ではなく、中国の北辺、戦国時代の燕の故地への入り口である遼東である。ご専門ではないので、地理認識がずれていたようである。

 いや、議論の本質ではない揚げ足取りに迷い込んだようで、反省する。

未完

新・私の本棚 小林 行雄 神と神を祀る者 ムラからクニへ  3/11 再掲

 日本文学の歴史 第一巻 神と神を祀る者  昭和42年5月10日刊
 ムラからクニへ  執筆者 小林行雄 (1911年8月18日 - 1989年2月2日 文学博士)
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*本論 承前
 本論に入ると、何にしろ、三国志魏書東夷伝倭人条(とは、史料には書かれていないように思うが)は、紀行文学ではなく、現場調査の報告文書や王朝官吏の業務記録を活用した知的、民族的記録なのである。史官たる編纂者は、原データの忠実な編纂に努め、自身の感性に従うオリジナリティは、追究してはならないのである。

 必然的に、他の史書や資料からの引用記事が大半になるのは、全知全能ならぬ史官として当然だろう。ただし、編纂する以上、史実たる公文書に基づくのが当然であり、不正確な風評や偏った筆致、果ては、実証されない創作などは、極力排除したのである。こうした編纂が、適確、確実であったことは、後年「三国志」全巻に潤沢な注釈を追加した南朝劉宋の裴松之が書き残しているところでもある。何しろ、追加された注釈は、「他の史書や資料からの引用記事」であって、陳寿が正史として不適切とみたものが大半(事実上全て)であるから、言うならば「蛇足」なのである。

 何しろ、裴松之の注(裴注)が施されたことにより、陳寿の編纂した三国志、陳寿原本は継承されなくなったのである。

*ありふれた低迷
 失礼ながら、このような無造作の断言を好む小林氏の提言は、文献考察の専門家が「三国志」を通読しての考察とは見えないのであるが、それにしても、この評価は、大きく空振っていると見える。そもそも、裴注は、「陳寿原本」のテキストに手を加えていないのであり、当初は、改行した上で追記し、のちには、行を二分割して細字で書き足す「割注」を付け足しているから、「陳寿原本」のテキストは健在であり、言わば不滅不朽と言える。裵松之の真意を察すると、先輩史官の偉業を「当然」賛嘆している後生史官であったから、皇帝の指示はあるものの、「三国志」の真価を認めた上で、裴注があくまで「蛇足」であることが明記された「三国志」を編纂したのである。

 そのような課題が控えているにもかかわらず、この囲み記事では、実際には、倭人伝の史料としての「信頼度」は語られていない。
 以下の議論で、執筆者は、倭人伝記事を細かく取捨選択して、気に入ったところだけ、採り入れているようである。

*引用開始―――
『魏志』倭人伝の信頼度
 日本の古代史に言及するものが、すぐに『魏志』倭人伝というので、そういう表題の書物か文章があると考える人があるかもしれない。しかし、これは『魏書』巻三十の「東夷伝」の一部分をさすもので、しいていえば「倭人の条」である。『魏書』もまた、晋の陳寿が選述した『三国志』の一部分である。陳寿にかぎらず、古代の中国で史書を執筆するばあいには、既存の文章をできるだけ転載するのが常道であった。したがって、『魏志』倭人伝にも、魚豢の『魏略』などから採った章が多い。特に、魏の宮廷に伝わっていた詔書や外交関係の記録なども収録しているので、その部分は信頼度が大きい。また、帯方郡から朝鮮半島南岸の狗邪韓国に行き、対馬・一支(壹岐)・末盧(松浦=唐津市)・伊都(怡土=前原町)・奴(那=福岡市)の順に進むという経路などは疑問がない。ただ邪馬台国に行くには、南へ向かって水行十日、陸行一月かかるという点になると、起点・方向・距離などの解釈によって、大和説と九州説とが対立してしまう。

 女王卑弥呼の時代の東アジア
卑弥呼が倭国の女王であった3世紀前半には,中国では北の魏、南の呉、西の蜀の国がたがいに争っていた。魏が北鮮を陸上から押さえようとすれば,呉は海上.から勧誘の手をさしのべるという状態であった。卑弥呼が魏に朝貢して破格の待遇をうけたのも,中国にそのような内部事情があったことを、一つの理由として考えることができる。

*引用終了―――

未完

新・私の本棚 小林 行雄 神と神を祀る者 ムラからクニへ  4/11 再掲

 日本文学の歴史 第一巻 神と神を祀る者  昭和42年5月10日刊
 ムラからクニへ  執筆者 小林行雄 (1911年8月18日 - 1989年2月2日 文学博士)
 私の見立て 全体 ★★★★☆ 学識芳醇 当コラム ★☆☆☆☆ 多々認識不足 2016/08/12 補充 2024/07/08

*加筆再掲の弁
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*ムラからクニへ=場違いな議論
 本書は「日本文学の歴史」であり、当巻は、日本文学の揺籃時代、まだ、文字記録のなかった時代の人の想いを語ろうとしているのである。
 当記事の章題を信じるならば、ここには、それまで、今日の日本という国家の形成過程で、後世国土となる領域に、ばらばらに、つまり、時には離散していたムラが、三世紀前半の中国との文化交流を契機に、次第に発展的に結集して、クニとなる姿が描かれているものと期待するのだが、実際は、そうした筋書きは書かれていない。

 ここで、執筆者は、「邪馬台国」の「中国」(魏朝)との交信を取り上げざるを得なかったようで、けっこうページ数の大半を費やしていると見えるが、本書の語りの中では、違和感を感じさせる。また、いわば、剪定によって枝を刈り摘める手業が見えるのである。

 つまり、この時代の「日本文化」を探る上で、同時代の文章資料として、ほぼ唯一の魏志倭人伝が厳然と聳(そび)えているので、できることならこれを何とか手元に取りこんで、出来ないときは難癖を付けて排除して、以下、本ブログ筆者がしきりにぼやいているように、あたかも盆栽を丹精するが如く、執筆者の意のままの形に仕上げて、持論の一部としようとしているように見えるのである。

*史観の押しつけへの反発
 「そのころ日本において最高の地位をしめていた邪馬台国」と書かれている「日本」という「時代錯誤」の言葉を、読者が現代風に解釈すると、本州島、四国島、九州島を支配する邪馬台国を想定してしまうのである。
 つまり、あからさまにではないが、三世紀当時、既に広大な国土に、統一された古代国家が成立していたと理解しないといけないと思わされてしまう。
 しかし、執筆者が想定しているのは、現在の奈良県の南部と北部をのぞいた中部、「中部大和」を短縮した「中和」に存在したと仮定される「中和」政権と、九州北部の「筑紫」に存在したと仮定される「筑紫」政権とを想定し、二択問題としつつ、おとなの姿勢で断言を避けながら、いずれかの国が、当時の中国の中核部を支配していた魏朝と交信したと想定されることを述べている。

 ただし、当ブログ記事では、邪馬台国名称の議論を避けると共に、筑紫の倭国と中和の倭国が、同等の選択肢であるとの先入観を避けたいので、取り敢えずは、邪馬台国とか、「邪馬台国**説」とか言わないことにする。
 馴染みにくい呼称で、面倒と思うが、「地域ブランド」に影響されるのを避けたいのである。

*重大な分岐点
 筑紫倭国が魏に遣使したと想定すると、その勢力が現在の福岡県内にとどまっていても十分であり、それは、あくまで小ぶりでムラに近いクニである。
 一方、中和倭国が魏に遣使したと想定することは、中和倭国は、現在の奈良県から大阪府を皮切りに、後世で言う中国路を全面的に支配して、ついには、筑紫まで支配している必要があり、つまり、中和倭国は、ムラに近いクニなどではなく、これらの遠大な経路を含む広大な領域を強力に支配する強大な「古代国家」を想定していることになる。
 ことは、所在地に迷うだけの二者択一ではなく、国家像の大きな違いを含んでいる重大な選択の分岐点なのである。

 そうした重大な選択の分岐点を選択しないままに、「魏志倭人伝」記事の信頼性をあげつらっているのは、考古学が科学の一分野として存在するのであれば、感心したものではないのである。

未完

新・私の本棚 小林 行雄 神と神を祀る者 ムラからクニへ  5/11 再掲

 日本文学の歴史 第一巻 神と神を祀る者  昭和42年5月10日刊
 ムラからクニへ  執筆者 小林行雄 (1911年8月18日 - 1989年2月2日 文学博士)
 私の見立て 全体 ★★★★☆ 学識芳醇 当コラム ★☆☆☆☆ 多々認識不足 2016/08/12 補充 2024/07/08

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 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*主観的な史料評価と採否
 「倭人伝」記事に対する評価は、執筆者の心の揺れに応じて、うねっているようである。

 官吏の名称を卑狗とか卑奴母離とかの文字で表記しているのが、ヒコやヒナモリという昔を伝えたものとすれば、当時の言語がのちの彦・夷守という日本語と同一であったことを証明する重要な材料になる。
コメント ここでは、壮大な仮説の証拠として援用されているのである。

 このほか、「魏志」倭人伝は、倭国の風俗習慣や産物などについても、詳しく言及しているが、かなり想像をまじえたものとみられるから、いまは引用を避けておきたい。
 ただし、かりにその報告がかなり正確なものであったとしても、『魏志』倭人伝の記事は、撰者である陳寿や、彼が参考にした『魏略』を編纂した魚篆が、想像をまじえて作文した部分を含んでいるので、そのまま全面的に信頼することはできない。
 『魏書』東夷伝の執筆にあたって、陳寿は『魏略』の文章をしばしば借用した。しかも、原文に多少の変更を加えたので、真実から遠ざかる結果になった部分ができた。
コメント と言う具合に、執筆者の気に入らない部分には、主観的な理由を付けて、容赦なく排除する方針なのである。
 こうした判断は、全面的な断言となっていないので、当方は、批判しても否定は出来ないのだが、こうした当てこすりは、学術論考では、感心しないのではないかと思うのである。

 また、素人目には、「そのまま全面的に信頼することはできない。」というのは、史料に対する態度として、極めて健全であり、むしろ。肯定的な意見と見る。よって、一見否定形の構文は、かなり信頼性の高い史料への評価と見られ、そのような史料の一部を信頼できないとして除外する際には、的確な根拠の元にそのような判断が示されるべきものと思う。

*推定無罪原則
 話の筋がこんがらかったようなので、真っ直ぐに言い直すと、当ブログ筆者の愚考するに、倭人伝」は、同時代史料としてほぼ唯一のものである以上、部分的であろうと、故なくして排除すべきではないと考えるものである。
 また、執筆者が、史書の編纂にあたって「編者が個人的な想像を交えて創作した」などと譏っているのは、根拠のない憶測であり、執筆者ほどの学識、識見の持ち主がとるべき態度とは思えない。三世紀、西晋の史官は公人であり、当時最高の専門的な教養を有する職務に付いていたのであるから、「個人的な想像」などと、二千年後生の無教養な島夷と同列に貶める発言は、控えていただきたいものである。

 率直なところ、素人論者の身の程を弁えず、執筆者の姿勢を批判するのは誠に僭越の極みなのだが、上のような史料評価というか「断罪」は、相当明確な根拠が無い限り、考古学者として避けるべきと考える。
 現世の浮き世の法の裁きがそうであるように、例えどのような嫌疑を受けても、法の裁きが下るまでは、無罪と推定されるのである。

*弁護でなく、摘発でなく、適切な批判
 ここまで、手厳しい意見になってしまったが、それは、「倭人伝」に対して、合理的でない理不尽な非難を示されていることから来るもので有り、執筆者の高名にふさわしい適切な史料批判が行われていたら、ここまで反発しないのである。

未完

新・私の本棚 小林 行雄 神と神を祀る者 ムラからクニへ  6/11 再掲

 日本文学の歴史 第一巻 神と神を祀る者  昭和42年5月10日刊
 ムラからクニへ  執筆者 小林行雄 (1911年8月18日 - 1989年2月2日 文学博士)
 私の見立て 全体 ★★★★☆ 学識芳醇 当コラム ★☆☆☆☆ 多々認識不足 2016/08/12 補充 2024/07/08

驚きの銅鏡配布中心
 魏志倭人伝非難が溢れる記事中で、大きな意義を感じることなく、大変興味を惹かれたのは、「魏志倭人伝」と実は関係の薄い「三角縁神獣鏡」の同笵鏡配布に関する議論である。

 但し、「三角縁神獣鏡」が、倭国の貢献に対する女王への進物として、魏からもたらされたものかどうかは別義である。
 ここで展開されているのは、遺物の発掘状態から、「三角縁神獣鏡」の配布の中心が、木津川にのぞむ椿井の大塚山古墳山城国附近にあったことを示唆する図が示されていて、興味を惹かれるのである。

*古代街道の萌芽
 図示された銅鏡の配布中心は、今日で言う新幹線や高速道路の経路に近く、古代に於いても何らかの街道の通過点、交通の要衝であったとの、可能性を示しているもののように思う。

 ここで、「街道」と言うのは、単に道路が続いているだけでなく、要所要所に『宿場』の役を果たす集落があって、物資を運ぶものが、大量食料を持参せず、やすやすと物資の運送や人員の移動が出来たというものである。

 そのように物流や交通の要衝にあって、「三角縁神獣鏡」のような貴重な、後年の言い方で云えば、高価な財貨物の配布の中心を支配していたものは、独立した権力を持つ地方勢力だったはずで有り、当時としては、かなり遠隔の中和倭国の支配下にあって、単に、その指示に従って「三角縁神獣鏡」の配布を担当しただけだという議論は、物の道理に反していて信じがたいのである。

追記 2024/07/08
 しかも、三世紀後半の時点で、街道整備が無く、まして、文書行政国家を維持できる文字教育、計数教育などの素養を備えた官僚が各地に配置されていたことが実証されていないのであれば、銅鏡を配付して地方勢力を臣従させるなど、ありえない夢想と思われるのである。どうも、数世紀、時代錯誤しているのではないかと苦言を呈したいのである。
 言うまでもないが、近隣勢力との間で、人の交流による相互交流はあったはずであり、また、近隣に始まる地域間交易は、当然存在していたであろうから、山河を越えて銅鏡は「伝えられていた」であろうが、それは、遠隔支配等と言うものではなかったはずである。
 いわゆる「三角縁神獣鏡」の配布中心が、木津川にのぞむ椿井の大塚山古墳(山城国)附近にあったと見えるのは、単に、同地の地方勢力が、淀川/木津川水系を支配していて、自然、銅鏡交易の頂点に位置していたと見えるからではないか。「金持ち」ならぬ「鏡持ち」だから、「金蔵」ならぬ「鏡蔵」を立てたものではないかと見える。
 いや、素人考えばかりで失礼する。

決まらない決めぜりふ
 論考の常として、次第に根拠を積み上げて、最後に決定的な判断を提示するものであるが、ここでは、最後の決めぜりふで、「『魏志』倭人伝の虚言」と囲み記事を提示している。
 氏は、中国史書の専門家でないために、語彙がずれているが、「虚」とは「外見」であり、最も尊重されるものである。「中身」がどうこう言うのは、読みの浅い無教養な読者の泣き言に過ぎないのである。
 要は、史官であった陳寿を「嘘つき」と罵っているのである。そのように手厳しく指弾するのであれば、少なくとも、読者が戸惑わない程度に明解に、余程念入りに根拠を明示する必要がある。

 史官の務めは、史実を伝えることであるとともに、本紀や列伝の主題を整えるものであり、ある意味、二千年後生の無教養な東夷から「二枚舌」、「嘘つき」と誹られかねないのだが、それは、無教養の咎であって、史官の罪では無い。

 以下に引用する囲み記事は、見出しの激烈さの割に、内容は説得力が乏しい。本文で、既に闊達に取捨選択している事への言い訳なのだろうが、適例を示しているとは思えない。

未完

新・私の本棚 小林 行雄 神と神を祀る者 ムラからクニへ  7/11 再掲

 日本文学の歴史 第一巻 神と神を祀る者  昭和42年5月10日刊
 ムラからクニへ  執筆者 小林行雄 (1911年8月18日 - 1989年2月2日 文学博士)
 私の見立て 全体 ★★★★☆ 学識芳醇 当コラム ★☆☆☆☆ 多々認識不足 2016/08/12 補充 2024/07/08, 07/11

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

『魏志』倭人伝の虚言
 『魏書』東夷伝の執筆にあたって、陳寿は『魏略』の文章をしばしば借用した。しかも、原文に多少の変更を加えたので、真実から遠ざかる結果になった部分ができた。特に『魏略』も『魏書』も、日本列島が朝鮮から南方へ長くのびていると想像していたので、中国の長江以南の地方や、海南島の風俗をもって、日本人のばあいも同様であろうと推断してしまった。つぎにあげるのは、そういう疑問の多い部分を抜きだしたものである。

 男子はおとなも小供もみな文身をしている。文身をするのは、海中にもぐって魚や貝を採る時に、大魚や水鳥におそわれるのを防ぐためである。文身をするところは国によって違いがある。

 着ている衣服は、布の中央に穴をあけて頭をつっこむだけである。稲や麻を作り、桑を植え蚕を育てて絹織物も織る。その地には牛・馬・虎・豹・鵲が生息していない。武器としては矛・盾・木弓を使用し、矢尻には鉄鏃か骨鏃をつけている。

*頷けない、躓く例証
 この囲み記事でまず躓くのは、「『魏略』も『魏書』も、日本列島が朝鮮から南方へ長くのびていると想像していた」との断定であるが、そのような証拠となる同時代史料はないと思われるし、補足説明もない。

コメント 2024/07/11
 「魏略」は、曹魏史官の有力者であった魚豢が、官人として編纂したものであるから、当然、曹魏天子を讃え、叛徒である、蜀漢、東呉を貶めたものである。つまり、当時、関中に侵攻して暴威を振るっていた諸葛亮は、官軍に大いなる被害を与えた、許しがたい賊徒として記録されていたのである。陳寿が、そのような曹魏正統の世界観で書かれた「魏略」から「魏志」記事を盗用したというのは、とんでもない誣告/言いがかりと言える。その際、「原文に多少の変更を加えた」と罵倒されては、たまるまいと思うのである。小林氏は、どんな根拠でそのような暴言を言い散らしたのだろうか。もっとも、小林氏は、論理的に不明瞭な「多少」なる逃げ口上を弄しているが、非科学的で氏の名声を穢しているのである。
 陳寿にしたら、魚豢「魏略」に記録されているのは、風聞、虚偽であり、「多少の変更」など、笑止である。陳寿は、史官であるから、曹魏公文書から引用するのが本分であり、風聞資料を取り込むなど、論外である。

 加えて、「魏略」は、公撰史書となることが無かったので、厳格な写本が行われることは維持できず、急速に劣化、散逸したと見えるのであるから、裵松之が、魚豢「魏略」西戎伝の全文を魏志第三十巻末尾に補追したことにより、部分的に善本が継承されたのを唯一の例外として、不正確、疎略な所引断片が残存しているのを「魏略」と称して論ずるのは、まことに不適当である。
 ちなみに、小林氏は、業界悪習で、「魏略」、「魏書」を擬人化して弄んでいるが、問うべきは、資料テキストであって、編者の粗忽をあげつらうべきでは無い。特に、陳寿は、原史料を尊重しているから、「魏志倭人伝」に示されているのは、原史料の世界観である。

 また、「『倭人伝』なる素性のよくない盆栽」の剪定屑を二例並べているが、どこがどう気に入らなくて、なぜ、どんな風に剪定・排除したのか示されていない。

*黥面・文身
 一例目の黥面・文身に関する下りについて 執筆者は、「大人も子供も、身体に文字を入れている」と理解しているが「男子無大小皆黥面文身」という原文の誤解ではないかと思われる。もちろん、そのような日本語訳を提供したものの責任であるが、最終責任は、執筆者にあると思うのである。

 「男子」は、当時の規準とは言え、「成人男性」のことであるし、「大小」と言うのは、身体の大小ではないし、もちろん、大人と子供を言うのではない。おそらく、身分の高い者と低い者を総称しているのである。「倭人伝」で「大人」と云うとき、それは、「おとな」の意味でも無ければ、「大男」(大丈夫)の意味でも無いはずである。


*南下の効果

 二例目の「着ている衣服は」の下りは、ますます剪定・排除した意図がわからない。古代の風俗は、各地でまちまちであったはずだから、一律に、この描写の適否を言い立てることは出来ないのではないかと愚考する。
 案ずるに、比較的温かい、と言うか、夏蒸し暑い中和であれば、両脇が空いている貫頭衣は、涼しくて良いのではないか。
 この辺り、氏の本意が不明なので、批判が及び腰になるが、不適切な翻訳文といえども、氏の玉稿とした以上、氏に最終責任があると見えるのである。

 ちなみに、古代以来衆知の筈なのだが、中和地域から南下すると、次第に高度が上がることもあって、冬季は寒冷が募り、降雪もあって、とても、貫頭衣では過ごせないと思われる。「南寒北温」と粗忽な造語で言いたてたくなるほどである。もちろん、今日、河内地域と比較して、奈良盆地内は、歴然と冬季の気温が低いのも、ご記憶いただきたい。
 おそらく、南下すれば、一律に気温が上がるという素朴な世界観が、無造作に流用されているのかもしれないが、当ブログは、そのような憶測の面倒まではみないのである。

*原文参照
 今倭水人好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾。

 小林氏は、「魏志倭人伝」の原文を掲示すること無く、意図不明の「飜訳」を持って論じているが、翻訳者の誤解が連鎖していて、惨憺たるものである。「海中にもぐって」と書いているが、原文は、「倭の水人(川漁師)は、しばしば河川に踏み込んで、水中に(半身を浸けて)屈み込む」と書いている。あくまで、浅瀬で、安全に魚蛤を捕っているのである。つづいて、文身の由来が述べられているが、川漁師が大魚を恐れたかどうかは、かなり疑わしい。言うまでもないが、ここに書かれている「大魚水禽」は、河川のものであり、海とは無縁である。この辺り、中国語の理解に難のある翻訳者が、執拗に誤訳しているのをまともに受け止めているのは、まことに残念である。
 誤訳以前に、「今」で始まるこの下りは、「現地」報告であるから、陳寿は、身をもって体験し証言しているのでは無い。報告者は、自分が、海辺にいるのか、川辺にいるのか、自覚していないはずはないのである。自信がなければ、「水」(水を味わえばわかることである)
 被服は「貫頭衣」として中原の文明に即していない「胡服」と言う積もりなのだろうが、史官は、蛮夷庶民の服装についてとやかく言うものではない。大事なのは、絹織物の産地で有ったということである。蚕を育て、絹糸を得て綾織りとするのは、極めて高度な技術の産物であり、中国に於いては、門外不出、禁輸とされていたのに、なぜ、倭人が、高度な絹織物産業を持っていたのか、不思議では無いのだろうか。考古学者としては、出土遺物を根拠に論じて欲しいものである。

 と言うことで、小林氏は、ここに書かれたこと全てを、陳寿の創作と非難しているようであるが、そのような不合理な弾劾は、確たる証拠無しには、審議できないと見るものである。

未完

新・私の本棚 小林 行雄 神と神を祀る者 ムラからクニへ  8/11 再掲

 日本文学の歴史 第一巻 神と神を祀る者  昭和42年5月10日刊
 ムラからクニへ  執筆者 小林行雄 (1911年8月18日 - 1989年2月2日 文学博士)
私の見立て 全体 ★★★★☆ 学識芳醇 当コラム ★☆☆☆☆ 多々認識不足 2016/08/12 補充 2024/07/08

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*国内伝承との食い違い
 ちなみに、書紀などの国内史書で、黥面文身や貫頭衣の記事が見当たらないとしたら、書かれている風俗は、国内史書が取材した中和の風俗ではないと言うことではないだろうか。 「倭人伝」の記事は、史書固有の字数制約で極度に切り詰められているが、それ故に、衆知自明の字句は削除され、重要な事項が残されたはずである。

 従って、字句が一見断片的であっても、この時代、既に、養蚕や絹織物があったというのは、技術の前提として、織機も渡来していたのではないかと思量する。絹織物が業として成り立つということは、最終製品の機織りの機材と技術まで、伝来していたと見るものと思うのである。また、山野に自生する楮などを利用する製紙技術の萌芽もあったのではないか。
 中和に、このような遺物の出土がないとしたら、それは、記録したものが、中和に来ていなかったという傍証になるのではないかと愚考する次第である。

 いずれも、記録者がウソ(虚言)を書いたとか、編纂者が想像で書き募ったとかの論拠で、確証なしに早計に否定すべきものではないと愚考するものである。染色、柄織などの技術を感じさせる、高度な絹織物である錦織が倭国から魏朝に献上されたと記録されているのであるから、遺物が出土していなくても、当時現地に「あった」のであろう。

*「盆栽」が形づくる「盆栽」 Silent sculpture
 こうしてみると、この記事の全体のかなりの部分が、倭人伝批判と倭人伝依拠のまだらな塗り分けで彩れていて、肝心の、『ムラからクニへ』の絵解きは見られないのである。
 しかも、ここで試みられているように、議論の根拠とすべき史料の本質を霞ませるように色々言葉を費やしているが、所詮、そのような議論は、史料を自分流に整形したもので論じているのだから、それは、史料の適切な利用と遠い、勝手な「剪定」になるのである。

 つまり、倭人伝」の内容の、持論に全く合わない部分を剪定し、多少合わない部分は、時間をかけて望む方向にたわませるのであるから、出来上がったものは、執筆者の望む形になっているだろうが、丹精込めた盆栽、いわば、時間をたっぷりかけた丹念な彫塑芸術であっても、科学として求められている自然界の植生の忠実な複写とは異なっているのである。

 言うならば、古代史学界の大家の持論というのは、歴史の実相を追究するものではなく、好ましい形で持論が形成されるまで時間を惜しまず丹精して、最終的に自身の望みの姿を作り出すものだから、遠くから眺めると、執筆者ご自身が一つの盆栽となっているのである。

 このように、「盆栽が盆栽を形づくっている図」は、歴史科学の科学としての本筋からは遠いように思うのである。

未完

新・私の本棚 小林 行雄 神と神を祀る者 ムラからクニへ  9/11 再掲

 日本文学の歴史 第一巻 神と神を祀る者  昭和42年5月10日刊
 ムラからクニへ  執筆者 小林行雄 (1911年8月18日 - 1989年2月2日 文学博士)
私の見立て 全体 ★★★★☆ 学識芳醇 当コラム ★☆☆☆☆ 多々認識不足 2016/08/12 補充 2024/07/08

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

 以下、少し余談めいた感慨を述べたい。

概数論~大家の勘違い
 執筆者の経歴を拝見すると、若くして工学部系の学問を修められているので、その頃に、理工系の思考を身につけておられたものと思うのだが、考古学の分野に志されて文学部(考古学は、文学部に属する)に転じられたので、理工系の感覚が鈍ったのではないかと、憶測している次第である。
 と言うのは、と言うのは、記事中で、中国の史家が、百、千単位の概数で語ることに対して、大雑把であるとの非難を示されていることである。
 具体的に言えば、戸数、そして、道里の表記を指しているものと思うのだが、これらの数字は、概数で論ずるしか無いもので有り、言うならば、有効数字二桁程度のデータであれば、概数で語るのが正しいのである。

*概数の正当さ
 今日の科学的社会でも、建築業者が住宅設計するときは㍉単位であっても、近所を案内するときは、㍍単位で距離を語るであろうし、例えば、大阪から博多に新幹線で移動するときは、百㌔㍍、十㌔㍍の概数で語るはずである。

 元に戻ると、郡から狗耶韓国までの七千里は、「倭人伝」に於いて、適正な概数単位は、千里単位であるし、各国の戸数は、見る限り、千戸単位という適正な概数単位となっていると思うのである。いや、韓伝を見ると、百戸単位かも知れないが、それは、元々のデータの精度も関係していのである。因みに、帯方郡管内の戸数は、一戸単位で集計できたことが知られている。
 それこそ、今日でも、経理関係の計算、銭勘定は、一円単位の正確さを要求される。例え、一兆円規模(十二桁以上)であってもである。世界が違うのである。

 調べれば、新大阪博多間の鉄道路線長は、㌢㍍、さらには、㍉㍍単位で示せるだろうが、そんな高精度の数字は、今日に至っても、普段の生活には意味が無いのである。意義があるのは、運賃の設定であろうが、乗客にとって、べつに関心の無い正確さである。
 また、目的地までの直線距離は、地図上で㍍単位で出せるとしても、歩いて行く道のりを実測して、そんな高精度では示せないのである。それこそ、道のどちら側を歩くかで㍍単位の差が出る。

 つまり、書かれている数字が細かいほど、桁数が多いほど、データの精度が高いというのは、素人考えの誤解であって、工学・実用の徒は学業の一環として適切な判断を習っているはずなのだが、若き日に工学を学んだ執筆者の健全な感性は、学界の世俗の垢に染まって撓んだのだろうか。
 いや、現実世界では、実務に長けた技術者ほど、合理的思考をどこかに忘れて、神がかりの思考に陥りやすいのであるが、それは別義である。

 僭越ながら、当記事で、概数概念の無理解に関して批判を繰り返しているのは、執筆者の工学の徒としての初心を、執筆者に成り代わって適用したつもりなのである。

未完

新・私の本棚 小林 行雄 神と神を祀る者 ムラからクニへ 10/11 再掲

 日本文学の歴史 第一巻 神と神を祀る者  昭和42年5月10日刊
 ムラからクニへ  執筆者 小林行雄 (1911年8月18日 - 1989年2月2日 文学博士)
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*大家の危機
 本書執筆時、まだ、執筆者は数えで六十歳前と思うのだが、既に、学界で最高峰の名声と権威を有した大家であり、深い尊敬を集めていて、玉稿のアラ探し、ダメ出しなど、畏れ多くて誰も引き受けなかったのだろう。
 しかし、上であげた指摘は、つまらない雑感の表明であり、執筆者の定見の不可欠な基礎をなすものでもなんでもないので、その旨、誰かがさりげなく指摘して、記事から削除すれば良かったのである。もったいない話である。
 そのせいで、遙か後世になって、素人にアラ探しされるのは、ご本人には不本意と思うが、世の習いというものだろう。

 こうしてみると、どんな学問分野でも、大家とは安泰な境地ではなく、陥穽の淵に臨んでいるように思うのであるが、当ブログ筆者のように、一介の私人、まるでやせていない「やせ蛙」には、無縁の危機でもある。せいぜい、ほっといてくれと叱られるのであろう。

*総括
 この章記事を全部読み通しても、なぜ、角川書店が、出版社として全力を挙げて編纂した「日本文学の歴史」と銘打った大著の「ムラからクニへ」の章で、このように、趣旨を外れた「魏志倭人伝」批判が展開されたのか、よくわからない。

以上

 

未完

新・私の本棚 小林 行雄 神と神を祀る者 ムラからクニへ 11/11 再掲

 日本文学の歴史 第一巻 神と神を祀る者  昭和42年5月10日刊
 ムラからクニへ  執筆者 小林行雄 (1911年8月18日 - 1989年2月2日 文学博士)
私の見立て 全体 ★★★★☆ 学識芳醇 当コラム ★☆☆☆☆ 多々認識不足 2016/08/12 補充 2024/07/08

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*更なる余談
 以下、更なる余談である。あちこち探し回っていると、ぞろぞろと余談が流れよってくるのである。言うまでもなく、随想であって、何かを主張する意図で書き留めたものではない。

*倭国温暖 常春の楽園
 「倭人伝」で、亜熱帯かと思わせる温暖さが強調されている点については、「東夷伝」の史料としての構成を見るべきである。遙か、扶余、高句麗、韓と続いているが、概して寒冷地である。三韓南部は別として、「東夷伝」の読者になじみ深いのは、西域、匈奴、烏丸の居住地の乾燥、そして、高句麗、楽浪、帯方の冬の厳しさと思われる。

 半島から南へ三度の渡海で到着した倭国は、それまでの韓諸国と異なり、一年を通じて温暖であり、夏の暑さは、むしろ、華南の湿潤な亜熱帯風土を思わせると言いたかったのであろう。

*追記 2024/07/08
 このような温暖で湿潤な風土であれば、日射に恵まれていることと併せて、水田耕作でそこまでの諸東夷に比べて格段に豊富な収穫を得られる風土を示唆しているのである。「理科」の授業で教わったはずであるが、植物は、降り注ぐ陽光から得られる熱エネルギーによって、大気中の二酸化炭素と灌漑水を結合させて炭水化物として固定していて、その成果が稔りとして収穫されるのであり、陽光と水は、稔りの源と認識されていたのである。

 そのような豊穣さは、倭国の戸数に示されている。戸数の多さから知れる人口の多さは、農業収穫の多さの反映で有り、倭国は豊穣の地と頌えているのである。東夷伝に「方里」として示されている各国農地面積を見ていくと、「高句麗」や「韓国」の農地の希薄さが示されていて、大海の中之島、「洲島」である「対海国」、「一大国」すら、それぞれ、これら大国の十分の一程度の「方里」を示していて、それでもなお、農地に乏しいと歎いているのだから、「伊都国」以降の本土諸国の豊穣さが甚大と見えるのである。

 こうした水田稲作の効用は、それまでの中原人の常識では不毛の辺境とされた「蜀漢」や「東呉」の豊穣さに通ずるものがあったのではないか。「三国志」で描かれる中原諸勢力の抗争では、元々さほど豊穣ではなかった土地柄に対して、農民の徴兵による耕作放棄が進んでいて、備蓄まで費消するような食糧不足が講じて、戦闘継続を不可能にするほど、飢餓が蔓延していたのを思い起こす。

水野 祐 評釈 魏志倭人伝 (雄山閣 新装版 平成十六年)
 水野氏の考証によれば、倭人伝風俗記事の区分は、定説では難があって、誤解を招いていると提唱している。
 其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。自郡至女王國萬二千餘里。男子無大小皆黥面文身。自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。夏後少康之子封於會稽、斷發文身以避蛟龍之害。今倭水人好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾。諸國文身各異、或左或右或大或小、尊卑有差。計其道里、當在會稽東治之東。其風俗不淫、男子皆露紒、以木綿招頭。其衣橫幅、但結束相連、略無縫。婦人被發屈紒、作衣如單被、穿其中央、貫頭衣之。種禾稻、紵麻、蠶桑、緝績、出細紵、縑綿。其地無牛馬虎豹羊鵲。兵用矛楯木弓。木弓短下長上竹箭或鐵鏃或骨鏃。所有無、與儋耳硃崖同。
 要するに、この部分は、後年、帯方郡使が、南方の狗奴国の踏査を行った際の報告書を、従前の倭国記事に挿入したものであり、その際の手違いにより、自郡至女王國萬二千餘里の直後に挿入したため、二千年後生の東夷に理解しがたい事態になっているが、文脈の流れは、明確だというのが、水野氏の意見である。つまり、この部分は、南下して温暖の地に至ったものと見える。

計其道里、當在會稽東治之東とあるように、
「女王国からさらに南下した道里を加算すると」と言う判断が示されているのは見逃せないところです。また、風土、風物が、儋耳硃崖同、と評されるように、瘴癘の風土を示しているのも見逃せないと言える。

 続いて、「倭地温暖」で始まる本来の風俗記事が続くが、火を通していない食采、生菜が書かれている。中原では、西方から流下している川水の生活排水による食材汚染は、非加熱調理は、論外だったのであり、日常、火気のない生菜は、とても、瘴癘のものではない。また、香辛料を用いないのでは、生菜の劣化は、足速であったと見えるのである。それでも、要するに、手早く食べてしまえば問題ないという風土であったことが示されている。つまり、瘴癘に至らない「温暖さ」であったと見えるのである。

 総じて言うと、女王国から南下すると暑熱の土地柄であるとか、西方に会稽東治の故事の史誌を感じるとかも、奈良盆地では、とても感じ取れないものと思量される。

 按ずるに、小林氏が依拠した「倭人伝」解釈は、単に字面を追うだけの皮相的な解釈であり、僅かな掘り下げで、不都合さを露呈するものと思われるが、一切掘り下げないで、難局を駆け抜けているものと見える。

以上

*献上品と下賜品
 これも珍しいことではないのだが、執筆者は、景初の初回遣使の成り行きについて解説する際に、「献上品と下賜品とは、右のように量・質ともに、はなはだしくふつりあいである。それは魏が大国の威勢を誇示しようとしたものか、あるいは、呉に対抗するために東辺の無事を願って、日本の懐柔をねらったものか、その真意は『魏志』の撰者も明らかにしていない。」と慨嘆して、量・質ともに、はなはだしくふつりあいとご高評を戴いているが、古代に於いて、弱小な蛮易と中華大国との価値観は、まったく隔絶したものであり、はるか後世の第三者、つまり、二千年後生の無教養な東夷がとやかく言うべきものではない。「夜郎自大」の故事を別にすれば、大国の威勢は、誇示しなくても、来訪者が目を開いていれば、いやでも見て取れるのである。
 大体が、当時の朝貢に対する下賜物としては、「卑弥呼個人への贈物」なる、初回貢献限定の大量の下賜物を除けば、異例な厚遇ではないと考えるものである。もちろん、当時の貨幣価値でどうかなど、二千年後生の東夷には、わかるはずもないのだが、中国人の感じる価値の数倍、数十倍、...に感じられたのではないか。

 それこそ、中国側にすれば、「奇貨居くべし」。大当たりすれば、何百倍の見返りもある、大変な効果となったのではないか。いや、それにしても、天下最大の富裕極まりない超大国が、遠東萬里の貧乏蛮夷に賄(まいない)して懐柔しようとしたとか、零細な蛮夷に、天子すら一撃を憚る南方の大国東呉に一撃を期待するとか、滅相も無い話ではないか。皇帝には、秀才揃いの有司が控えていたのであり、二千年後生の無教養な東夷に揶揄われるような愚行はありえないはずである。
 先賢の名家が、そんな下らないことを書き立てるのは、小林氏の晩節を貶めるものではなかったかと、危惧するのである。

 宝物ともいえる財貨物が列記されているものの、ことさらに新規制作したものではなく、宮廷の宝物庫の在庫処分であったはずである。別記事に書いたように、当時の魏朝財政は、稀代の浪費癖を発揮した第三代曹叡の暴政で、破綻寸前の火の車だったという。何しろ、新宮殿の造成に、首都の官人を動員するなど、掟破りの暴挙に勤しんだことが書かれているのである。戦時下に於いて、新宮殿の飾り物に使わなければ、武器制作に欠かせないはずの青銅(金)であるから、大量の新作銅鏡に浪費することなどありえなかったはずである。天子が蛮夷に饗応して百枚の銅鏡を新作するなど、到底ありえないのである。
 とにかく、このあたりの機微は、これぐらい言い尽くさないと、二千年後生東夷の現代人にわかるはずはないのである。

 言うまでもないが、皇帝の詔書は複写できても、天子の「真意」は、表明も記録もされないから、いくら史官が望んでも、いや、偉大な後世人が望んでも、わからないものは書き残しようがないのである。率直なところ、余計なお世話である

 先賢に対して、大した言い様と憤慨される方もあるだろうが、変に遠慮して当たり前のことを言わなかったために、このような不適切な放言として後世に伝わってしまったのであり、身辺のどなたかが是正されていたらと思うだけである。

2024年7月 7日 (日)

私の意見 倭人伝「循海岸水行」審議 補追 完成版 1/1

初稿 2021/04/05 新稿 2024/07/07, 07/26

*加筆再掲の弁
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▢完結の弁
*古田武彦
:解釈の払拭 
 本考は、古田武彦氏の審議に異議を唱えて「循海岸水行」の更なる追求を試みたものですが、左氏伝 昭 23に用例を求め、「山に循て南す」の注を「山に依りて南行す」と解する点から出発しています。

 しかし、今般、そのような開始点が誤っていると考え、出なおしを図ったものです。要するに、これは、魏志第三十巻巻末の蛮夷伝「倭人伝」の冒頭部分の行文が不明瞭であるとして、古典書籍に典拠を求めているのですが、課題の行文が官制街道の行程を書いているのに対して、引用文例として漠たる紀行文を呼び出しているものであり、まことに、場違いで不適切な選択とみられます。
 古田氏が、そのような不適切な「用例」を摘出しているのは、要するに、多大な努力にも拘わらず、適切な引例が見いだせていなかったことを物語っているのです。

*渡邊義浩:盤石の「確信」
 ここで、盤石の用例探索を行った渡邊義浩氏の確信が続くのです。但し、()は、当ブログ筆者の補充したもの。
 氏の名著「魏志倭人伝の謎を解く」(中公新書 2164)(2012)pp.132に於いて氏は、(大意)(古代史に通暁した)中国史家(渡邊氏がその好例)が「水行」「陸行」と言う表現で想起するのは、特定の記事であり、念のため確認したところ、(晋書)陳寿伝に掲げられた陳寿の読書範囲では、史記夏本紀だけであったと述べています。 
 つまり、陳寿が「魏志倭人伝」の道里記事を書きだしたとき、『街道道里として参照できた「水行」用例は皆無であった』と証言されているのです。史官たる陳寿が、魏志蛮夷伝の倭条で道里記事を書くとき参照できる「水行」記事がなかったと言う事は、「水行」記事を創唱するには、何らかの定義を示して「水行」を予告することを求められるのです。特に、「水行」の名目で海上を行くことは、夏本紀の用例と絶対的に齟齬しているので、ますます、そのような記事は、いきなり書くことができなかったということです。と言うことで、これまで、当ブログで述べてきた「水行定義」説は、渡邊氏の権威によって確信を強めたということです。「徳不孤必有隣」(論語‐里仁)とあるように、支持者は、いつか見いだせるのです。

 ちなみに、街道道里は、当然、自明として馬車で移動するから「陸行」と明記しないのであり、後に、狗邪韓国の海岸で海船に乗り、「水行」である三度の渡海を終えて末羅国で上陸したときに「陸行」と書いたものの到着地である伊都国で、いったん決着するのであり、後に追加された三国の「わき道」の掉尾の投馬国記事で「水行」と挿入しているものの、これは投馬国記事限りです。かくして、本来の行程記事に戻った「南至邪馬壹國女王之所」は、当然、千里どころか、百里にも及ばない端(はした)と見える短距離の「陸行」であり、最終的に行程記事の結尾なのです。
 「邪馬壹國」は、曹魏成立後の女王共立の結果書き足されたと見えます。郡の文書使は、伊都国で待機し「邪馬壹國」には赴いていないように書かれていますが、郡と伊都国の間の書信のやりとりで、日数が起算/記録されるのは、伊都国の文書担当が刻字した時点であり、伊都国君主の署名はともかく、女王の御璽の必要でない交信では、この間の行程も所要日数も、実務に関係しないのです。

 渋い言い分ですが、末羅国で上陸した後の「陸行」は中国制度の「街道」でなく、そこまでの記事で明記された「禽鹿径」であって、本来の「道」ではないのです。
 そこまで精巧に組み立てられた行文を厳密に読み取れないとしても、それは、史学者として訓練されていない後生読者を咎められるものでも無いのです。

*異議提起
 ここで渡邊義浩氏が提起された下記用例について、素人考えを述べます。
 《史記》《夏本紀》 陸行乘車,水行乘船,泥行乘橇,山行乘檋
 ここに書かれた四件の「行」の解釈ですが、「陸行」、「水行」、「泥行」、「山行」の四種の街道を公的な交通手段として定義したものではなく、禹后が移動手段として、四種の労役を得たと「寓話」を示したかと愚考します。何にしろ、「陸行」は、遥かなる後年、殷(商)という征軍志向の次世代を経て、周なる「法と秩序」による文書統治に至ったとして、街道として整備されたとしても、「橇で泥を行く交通手段は絶えて制度化されなかった」と見えます。現に「倭人伝」の道里記事に「泥行」も「山行」も登場しません。ここで言う「行」は、「道」、「路」に言い替えることのできない、別種の概念と見えます。

--旧稿再掲---
〇はじめに
 「倭人伝」道里行程記事の冒頭に置かれた「循海岸水行」の追加審議です。

〇「循海岸水行」用例審議
 古田氏は、第一書『「邪馬台国」はなかった』ミネルヴァ書房版 174ページで、「倭人伝」道里行程記事の「循海岸水行」の「循」の字義解釈の典拠として左氏伝 昭 23から用例を求め、「山に循て南す」の注で「山に依りて南行す」と解しています。「循」は「依る」または「沿う」と解した上で、幾つかの用例を「三国志」に求めて暫し詮索の後、「海岸に沿う」と解しています。
 氏の解釈は、陳寿が、敢えて「循」と書いた真意を解明していない点で同意できませんが、それは別としても、旗頭とした古典典拠は、陳寿が依拠していた「左氏伝」ですから、「左氏伝」用例が妥当であれば、その一例を本命として絞るべきと考えます。

〇諸用例の参照
 「魏志」用例は、数稼ぎでもないでしょうが、用例の趣旨が明瞭でないので、揚げ足取りされるなど審議の邪魔になるだけで、まことに感心しないのです。但し、読者に対して公正な態度を示す意義はあるのかも知れません。とは言え、「枯れ木も山の賑わい」とは行かないのです。
 なお、当方は、以下のように、古田氏の「左氏伝」読解は、ずいぶん甘いと感じます。

〇字義の確認
 まず、「依」の字義は、白川静氏の辞書「字統」などの示すように「人」が「衣」を身に纏い、背に「衣」を背負っている様子を言います。
 ここで、山に「依る」は、山を「背負う」比喩と解されます。一方、「山」は、山嶺、山並みではなく屹立峰(孤峰)ですから、「山」に「沿う」経路行程は想定しがたく、山を「背負って」進む行程と察するのです。

 当用例により語義解釈すると、倭人伝の「循海岸水行」の深意は、「海岸を背負って海を渡ることを水行という」と解して無理はないと思います。何しろ、史官たるものが、わざわざ「循」を起用したのには、格別の意義があると考えたものです。端的に言うと、眼前に対岸があって、軽快な渡船で航行することを言うものです。

 別稿で、「循」は、海の崖を盾にして、つまり、前方に立てて、行くものと解釈しましたが、趣旨というか進路方向は同様なので、一票賛成票を得たものと心強くしています。

*「用例」批判について
 2024/07/26
 すこし視点を変えてみると、諸兄姉の「沿海岸水行」解釈は、少なからず、原義を外れているのではないかと懸念するものです。行程記事に前例のない「海岸」、つまり「岸」ですが、夏本紀先例で言うと、これは、あくまでも「陸」の一部であり、そこから「陸行」せずに「水」に入るには「泥」によって想到される中間部を過ぎることになります。そのように、当時通用していた地理概念を組み立てると、「海岸」に「沿って」移動するということは不可能であり、陳寿は、「循海岸水行」によって、そのような不合理な概念を説いているのでは無いことが明らかです。むしろ、字句の原点に戻り、「海岸」、即ち、陸地の端に立って、水に向かって進んでいくと述べているのであり、当時の読者の教養に反しないように言葉を選んで、後ほど現れる「渡海」を端的に予告していると読むものではないでしょうか。
 敢えて言うと、諸兄姉の「用例」解釈は、登用されている字句が、御自身の「常識」に従っているという「思い込み」に依存しているのであり、「用例」をそのように受け止めるのが合理的ではないのではないかという「用例」批判を欠かしてはならないと見るものです。

*用語定義ということ
 このように見ると、倭人伝では、「水行」は河川航行でなく、「渡海」を「水行」と明確に、但し厳密に限定的に「指定」(用語定義 definition)しています。「倭人伝」「指定」であり、巻末までの限定です。つまり、倭人伝の道里行程記事で、「水行十日」は、狗邪韓国から末羅国までの渡海、計三千里です。「水行」一日三百里と、まことに明解です。

〇用語定義の必要性~私見
 誤解されると困るのですが、当ブログで辛抱強く説明しているように、古典的な用語定義に従うと、川であろうと海であろうと、渡し舟の行程は陸行の一部ですが、はしたなので所要日数も道里も書かないと決まっているので、狗邪韓国から末羅国までの渡し舟の行程道里、数千里、数日は、勘定しようがないのです。
 つまり、「倭人伝」を正史記事とするには、適確に注釈しないと成立しないのですが、陳寿が編み出したのは、「倭人伝」記事で本来必要のない、河川航行「水行」を「渡海」に当てる「用語定義」(definition)だったのです。これは、法律文書、契約文書、コンピュータープログラム文書、特許明細書に代表される技術文書など、論理性、整合性を必須とされる文書で、挙って継承され、採用されている実務に即した文章作法であり、まことに合理的な書法と考える次第です。

*投馬国水行の検討
 余談
 因みに、当ブログの理解では、投馬国への「水行二十日」は、後日の追い書きであり、全行程万二千里、倭地周旋、つまり、伊都国から狗邪韓国にいたる五千里の圏外なので、二十日全部が渡海なのか、一部が渡海で全体が二十日なのか、何とも判定できません。脇道なので、詳しくは不明である、と言うことでしょう。
 丁寧に言うと、全国七万戸の大半を占める五万戸の大国への道程が、あやふやなのは信じがたいのです。また、それほどの大国の戸籍が不備で、全戸数が、五万戸らしいと言うのでは、郡に対して申し開きのできない失態と思われるのですが、「倭人伝」では、その点を、一大率による指導監督を怠っていて、一切追求していないのです。二万国らしい奴国と併せて、まるで、水平線に漂う蜃気楼のようです。

〇諸用例の意義~少数精鋭最上
 古田氏が追加した魏志用例は、ここで言う「海岸」と「水行」のような方位付けが明解で無いので、「循」が「沿って」の意味に使われた用法と愚考します。「背にして」と「沿って」の両義を承知で書いたのではないようです。

 思うに、三国志の魏志(魏書、魏国志とも言う)は、陳寿が全てを記述したものではなく、大筋は参照した魏朝公文書、つまり、史官が日々整備していた公式記録文書に従っているので、魏朝官人の語法で描かれています。従って、左氏伝の典拠を意識していないことも想定されるのです。
 用例は、厳選したいものです。できれば一例が最上です。

維持された収束
▢「海岸に沿って」行かない理由~再掲
 当ブログの見解では、「従郡至倭」の道里行程は明確に書かれていて、官制の通り、官道を直線的に目的地まで進むが、狗邪韓国から末羅国までは、唯一無二の移動手段である渡し舟に乗る必要があり、これを限定的に「水行」と分類し、残りは、当然の「陸行」と分類した行程としているのです。末羅国からは、「陸行」と明記されていて、傍路の投馬国行程は、この際圏外として、一路、陸行なのです。整然たるものです。話すと長いのですが、全体構想があっての独断です。

 海岸に「沿って」行くとの解釈を棄却すべき理由として、海岸陸地に沿った移動は、浅瀬や岩礁に確実に行き当たることによります。そのような危険のため、船は、ほぼ例外なく、港を出ると直ちに陸地を離れて沖合に出て、海図などで安全と確認できない限りは、陸地に近づかないのです。以上は、別に訓練経験がなくても、少し関連情報を調べるだけで、容易に理解できる安全航海の策ですが、聞く耳を持たない人が多いのです。

追加見解 2024/07/07
 先賢の言として、「海岸」とは、海の見える崖上の陸地であり、「海岸に沿って進む」街道とは、あくまで、陸上街道に決まっているとのご託宣です。河水について考えればわかるように、河岸とは、陸上の土地であり、川船に乗るには、泥をかき分けて降りていく必要があります。
 その先は、渡船に乗るのか、便船で流れにしたがうのか逆らうのかということになります。この辺り、中原の交通では常識ですが、「倭人伝」道里記事では、全く前例のない「水行」によって海船に乗るというのであれば、大量の事前説明が無いと、読者には、何のことかわからないのです。
 当ブログでは、これは、そのような途方もない記事ではなく、後段で、大河ならぬ、流沙ならぬ、大海の流れを、見なれた渡船で渡るのを予告しているという見解であり、無用の紛糾無しに「倭人伝」の行程を末羅国での上陸に繋ぐ、整然とした、滑らかな手段と見ているのです。

*結語ふたたび
 そのために、苦労して説得記事を重ねているのですが、まだ、納得された方はいないようです。その最大の障壁が、冒頭の「循海岸水行」の誤釈と思うので、一度、「自然に、滑らかに」丸呑みするのでなく、一字一字審議していただきたいと思ったものです。

                                以上

2024年7月 5日 (金)

新・私の本棚 河村 哲夫 講座【西日本古代通史】「邪馬台国論争のいま」Ⅰ 壹臺 1/2 再掲

 アイ&カルチャ天神 講座 【西日本古代通史】資料平成26年8月5日
私の見立て ★★★★☆ 沈着な道里論評    2020/09/22 補記 2022/08/29 2024/04/04, 07/05

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

〇はじめに
 今般、若干の事情があって、河村氏の講演資料を(有償にて)提供戴いたので、学恩に報いるために、以下、冒頭部分の批判を試みたものです。
 案ずるに、氏の本領は国内古代史分野にあり、以下引用する中国史料文献考証は、第三者著作から採り入れたものと思われますが、素人目にも、検証不十分な原資料を、十分批判せずに採り入れていると見えるので、氏の令名を穢すことがないよう、敢えて、苦言を呈するものです。
 なお、当部分は、氏の講演全二十四回のごく一部に過ぎない瑕瑾なので、軽く見ていただいて結構です。
 また、「邪馬臺国」が、実は、「邪馬壹国」を後漢書が誤解したものが引き継がれたものであったとしても、氏の講演、著作の全貌を些かも毀傷するものではないことは、ご理解いただけるものと考えます。あくまで、学術的な論証手法の瑕瑾を指摘しているだけです。

〇「邪馬台国か邪馬壱国か」
引用 第9回『魏志倭人伝』を読む
①倭の国々 1、『魏志倭人伝』

⑴邪馬台国か邪馬壱国か
①「邪馬台国」ではなく「邪馬壱国」が正しいとする説がある(古田武彦氏)

コメント これは古田氏の説でなく、「三国志」現存史料は、全て「邪馬壹国」(壱)との客観的事実を述べている。この「客観的事実」を否定して「邪馬台国」とする強固な論証は皆無である。原点の取り違えと見える。
 ちなみに、字形の混同を言うのに、略字を使うのは、もったいないものである。
 もちろん、一般向けの講演演題の用字は、制限があるのは理解しているが、ことは、歴史的文書の取り違いに関する学術的な論義であり、いずれか、初期の段階で、正字を提起して、以後正字で論議するのが、講演者の務めと見える。

引用 ・現存する最古の南宋(一一二七~一二七九)時代の『三国志』のテキストには「邪馬壱国」と記されている。
※陳寿が3世紀末頃に著した『魏志倭人伝』の原本そのものは失われている。

コメント 古代史書の残存原本は、例外無しに皆無である。取り立てて言う事ではない。
 ちなみに、「魏志倭人伝」は、陳寿「三国志」魏志第三十巻なる史書の巻末に近い一部分に過ぎないので、「原本」などと言い募るのは、失当である。

引用 ②その他の文献
『魏略』の逸文、『梁書』『北史』『翰苑』『太平御覧』などには、「邪馬台国」と記されている。

コメント 「魏略の佚文」は、氏の指摘の通り、原本でも正統な写本でもない。実見できる「翰苑」は、史書でなく、明らかな誤写/誤記山積の「断簡」、破損した資料断片であり、参照できる善本が存在しないから、正確なテキストであるかどうか検証できず、したがって信じることができない。
 これまで、「偽書」論は提起されていないが、いずれかの「書家」が、美術資料として想定復原した可能性も考えられるほどである。中国では、古典書を偽って覆刊することが絶えないが、「翰苑」断簡に対する史料批判は、どこまで行われているのだろうか。素人は、ものを知らないので、素朴な疑問を禁じ得ないのである。
 少なくとも、史料として評価するためには、文書校正によってあり得るテキストを復原した上で、「所引」史料として論ずるべきである。そこに書かれていると見える「魏略」佚文は、別系統史料と較正して、正確な原文を確認することができない。
 どちらの見地から判断しても、「翰苑」断簡であって、史料としては、考慮に値しないごみ(ジャンク)である。ジャンク史料に書かれていると見えるテキストは、棄却されるものである。

 「太平御覧」は、類書と呼ばれる「百科全書」であり、史書としての厳密な編纂がされていない。従って、低質の「史料」と言わざるを得ない。時代考証によれば、南北朝の分裂時代を統一した世界帝国「大唐」が滅亡したあとの「五代十国」の分裂期に、中国の後継を自負した王朝が、大唐分裂後に散乱した重要資料の集成を図ったものであり、数度の集成の果てに、全国統一を再現した宋(北宋)が、「太平御覧」として完成形としたものであるから、いずれの時代にどのような編集が成されたか不明の場合は、確たる信頼を置くことはできない。端的に言うと、「太平御覧」が所引した「資料断片」は、当時のどのような継承されていたか不明の「正史」の断片でなく、いずれかの時代に所引された「資料断片」の所引であると思われるから、所引の正確さは、問うべきものであって、問うすべがないと思える。
 結論として、「御覽所引魏志」は、「魏志」の正確な引用とみるのが困難と見える。

 「梁書」、「北史」は、公式史書と見なされているが、不確かな後世多重孫引きによる編纂と思われ、信ずるに足りない。少なくとも、厳密な史料批判によって、史料としての信頼性を検証した上で、俎上に列するべきである。

 考慮に足る後世史書は、先行する諸家後漢書に依拠した笵曄「後漢書」本紀、列伝部、「本体部」である。但し、「東夷列伝」倭条は、依拠した原史料が不明であり、「本体部」と同列に見ることはできない。
 笵曄「後漢書」「西域伝」は、確たる史料が想定できる安息国、及びそれより以西の辺境に関して、造作を行っていることが明瞭であり、それ以外の「本体部」と同等の信頼を置くことができないものと思われる。

引用 ※これらはいずれも現存する南宋時代の『三国志』よりも成立が古い。

コメント 「三国志」は、「南宋時代」の新規著作ではなく三世紀に編纂された史書であり、どの参考資料よりも「成立が古い」。

 各資料/史料の現存刊本は、いずれも、南宋以降のものである。概して、南宋紹興年間に開始された古典書復刻大事業で、順次全面的な校訂、版刻を行ったのであり、言わば「同期生」である。
 その時点で絶滅していた「翰苑」は、例外で、由来不明の原本は疾うに消失していて、唯一、ただ一個だけの「断簡」が混乱した状態で生存しただけである。
 このあたり、苦し紛れの理屈づけが混乱して、誰かが、何か、素人臭い勘違いをしたようである。そして、言いだした以上、頑強に固執しているように見受けられる。
 そのような他愛ない勘違いを、無批判に継承していては、見識を疑われるだけである。

引用 ③したがって南宋時代の『三国志』が、台を壱と誤植してしまった可能性が高い

コメント 南宋時代の『三国志』 、つまり、「三国志」の南宋刊本は、ページごとに木版を彫っていて、活字植字ではないので、「誤植」つまり、近現代の出版産業における活版職人の活字拾い間違いは、原理的/物理的にあり得ない。もちろん、「三国志」に人格はなく、自分で自分を植字することもない。「頭上注意」である。
 二種刊本のうち、「紹興本」は、南宋草創期の紹興年間に、天下最高の衆知を集めて、北宋末の大動乱で全滅した北宋刊本を『刊本から起こされた数種の」良質の写本』をもとに復元して、言わば、決定版と言える「本」を確定し、南宋の官営印刷工房を駆使して刊行したものである。
 南宋刊本の木版を彫った刻工は、少なからぬ数の実名が残されていることでわかるように、南宋代の天下最高の専門職人であり、誤刻が露見すれば厳罰に処されるから、万全を期して厳重に校正したのである。

 以上に示した南宋刊本の際は、大勢の専門家が作成した決定稿をもとに、刻工が正確無比に木版を彫ったのであり、無謀な誤写は、もし、発生したとすれば、北宋刊本以前と見るしかない。ただし、それ以前の写本は、陳寿遺稿/決定稿を写本して西晋皇帝程に上程して嘉納され帝室書庫に収蔵されて以来、時代時代最高の人材を結集して写本を継承したものであり、それら写本は、繰り返し照合して、誤写の発生を極限まで減らしていたものであるから、凡そ、史書の写本継承に於いて、最善のものであったと見られる。

 巷説は、【三世紀に「三国志」の上程後、誤写が発生した、つまり、百五十年後の范曄「後漢書」で見る「邪馬臺国」が、後に改竄された】というようである。
 笵曄と同時代の裴松之は、皇帝の命で、当時帝室で所蔵していた「三国志」の校訂と付注に取り組んだのである。
 東晋南遷時の混乱で三国志原本に不安があったのかも知れないが、まずは、帝室所蔵以外の上質写本をも呼集して、原本を基準として、校正したと見える。「上質」写本に、無残な改竄があれば、摘発され、是正されたはずであるが、裴松之は、そのような異常事態を一切述べてない。つまり、南朝劉宋代、「三国志」原本は、ほぼ、完全無欠であったと見るべきである。

引用 ※そもそも「臺」と「壹」は字形が似ている。『魯魚の誤り』という言葉があるが、両者は誤植の起きやすい字といえる。

コメント あくまで、時代最高の写本が、素人臭い手口で行われ、校正されていなかったという仮定を持ち込んだ「タラレバ」の憶測でしかない。因みに、誤写の可能性が二千分の一であって、「倭人伝」を通じて一字程度であっても、氏が、官制写本工程の綿密さを想定することなく、漠然と「起きやすい」と憶測すれば、それは、神がかりで「起きやすい」のであろうか。意見は人によって異なるものであるが、氏は、誰に学んで、この意見を「伝言」板に書き残しているのだろうか。繰り返すが、事は、近代の印刷工房の植字工の手違いという「誤植」問題ではない。「現実」に即して判断すべき事項と思われる。

 因みに、正史の写本、刻本は、厳格に実施される国家事業であるから、「誤認されやすい」字は、関係者が、一段と厳重に確認するので、むしろ、誤認は発生しがたい。当然、自明であるが、無視されている事が多い/大半/事実上全て、であるので、念押しするものである。

 但し、「正史」官制写本工程以外の緩やかな写本は、氏が指摘するように誤写は「稀少であっても絶無ではない」から、むしろ、列挙された史料の所引、つまり、抜き書きによる編纂に使用されたものが、「魏志」の正確な写本であったという証拠はない」、つまり、国宝であった「原本」から直接写本/所引する以外、信頼性の低下した通行写本に依存するから、所引された簡牘が編集者の手許に届いた時点で、誤写が発生している可能性は、極めて高いと見るものではないか。

 そのように拙(つたな)い憶測を根拠とした「証拠」に基づいて、現に存在する南宋刊本に現に書かれている文字を否定するのは、相当な検証を経た「証拠」に指示されない限り、非科学的な恣意に過ぎない。

                                未完

新・私の本棚 河村 哲夫 講座【西日本古代通史】「邪馬台国論争のいま」Ⅰ 壹臺 2/2 再掲

 アイ&カルチャ天神 講座【西日本古代通史】資料 平成26年8月5日
私の見立て ★★★★☆ 沈着な論評    2020/09/22 補記 2022/08/29 2024/04/04, 07/05

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

⑴邪馬台国か邪馬壱国か  承前
引用 ④「邪馬壱国」と記しているのは、いずれも十二世紀以降の文献ばかり

コメント 「刊本、つまり、木版出版は宋代でありそれ以前は写本継承である」から、「十二世紀以降の文献」と決め付けるのは、理窟が外れていて、見当違いの誤解である。このような子供じみた主張に追従していると、氏の見識が疑われるのである。

引用 ⑤「臺(台)」は神聖至高の文字ではない
陳寿の『三国志』にも、牢獄とか、死体置き場といった意味で「臺」の字が使われている。魏から見て敵国に当たる呉の国の君主孫権の父親である孫堅のあざなは「文臺」である。神聖な文字を、死体置き場や敵国の人間の表記に使ってもよいが、未開の友好国に使ってはいけないというルールは見当たらない。

コメント 当時の「ルール」(用語の時代錯誤)は、史書などに一切書き残されていないから、氏の見聞範囲に見当たらなくても不思議はない。
 「三国志」と大雑把に指摘しているが、東呉創業者孫堅を記録しているのは、東呉の史官が書き、陳寿が用語に干渉しなかった「呉書」による「呉志」であり「魏志」ではない。「三国志」では、孫権は、呉主、つまり、地方首長であり、また、地方首長が字を名乗るとき、古典書典籍も含めて、その時点での自身の見識で選んだのであり、「孫堅」存命時には未だ存在しない魏朝が後世定めたと思われる「貴字」を回避する理由はない。何かの勘違いであろう。論拠にならない。
 それ以外の指摘は、文献考証の鉄則に従い、個々の当該文字用例の出現場所と文脈(前後関係)で判断すべきである。(時間と労力を要する作業である)そもそも、二千年後生の無教養の東夷(筆頭は古田武彦氏である)が、西晋史官の教養を、ぞろぞろとあげつらうのは、はなから無謀である。

*「臺」の意義
 「春秋左傳」なる(陳寿を含めた)史官必読の権威典拠によれば、「臺」は、天子の下にぶら下がる十階級の身分の最低格である。「倭人」を未開であるが周礼を知っている格別の蕃夷と密かに敬した陳寿が、その女王の居処に、「邪馬臺」と蔑称の中でも最低の蔑称を呈するはずが無い。少なくとも、周代以来の史官伝統を継承していた魏晋代教養を有する陳寿は、そのような愚を犯さなかったとほぼ断言できるのである。もっとも、「未開の友好国」は、二千年後生の無教養な東夷の時代錯誤の錯覚に過ぎず、当時そのような蕃夷はあり得ない。

 魏は天下唯一の正統政権であって、呉は後漢の臣下でありながら後継政権に背いた「叛賊」に過ぎず、もちろん「国」などではなく、魏と対等の「敵」ではない。
 そのような不法な存在を敵国」と称するのは、古代史学に相応しくないし、「友好国」共々、氏の時代錯誤の世界観の弊害と見える。と言っても、中国古代史史料は、氏の本領ではないので、素人めいた言葉遣いに陥っていると見える。(講演を行うなら、聴衆への責任があるので、誰かにダメ出しして貰うべきではないだろうかと愚考する)

 本項で言うと、確かに、「神聖至高」は、誰が言い出した知らないが、素人目にも、不適当な用語で、しかも、言いすぎであり、また、「三国志」全体で通用するとは言えないし、古田氏も、そのような主張はしていないはずである。

 お互いに、枝葉末節を力んで論議するのは、学問の本筋を外れているように見える。

引用 ⑤結論:以上より「邪馬臺国」が正しい。

コメント 各種の主張を列記したが、それぞれ、未検証にとどまり、確たる論証になっていない。飛躍して「以上より」で結論に結びつけるのは、余りに性急で、氏の見識に疑いを投げかけるものであり、勿体ない。

引用 それを現在は簡略文字で「邪馬台国」と表記している。

コメント 「現在」とは、「古代史界」(実態不明)の大勢(実態不明)を言うのだろうが、論証なしで表記していること自体は「自明」である。氏は、それが、妥当かどうか検証したかったと思われるが、以下述べるようにそれは不要と思う。ちなみに「簡略文字」は、意味不明の造語とみられる。簡体字、略字などに属するというのは、考え違いである。
 いうまでもないが、「台」は、本来「臺」と別の由来の文字(正体字)であり、安直に代用してはならないが、太古以来、しばしば代用されているだけである。「邪馬台国」なる表記は「ヤマト」と発音することを否定しきれないために一部論客に偏愛されているが、国号として名乗ったのであれば「邪馬臺國」であり、古来「ヤマト」と発音したという論証は見かけない。論理の綱渡りだが、渡り切った論者はいるのだろうかと、素朴な意見を提示する。

〇まとめ
 と言う事で、当ブログ筆者は、素人なりの見識と知識を駆使して、河村氏の「邪馬臺國」説を追尾し、反論して時間と労力を費やしたのである。

〇論争停戦の勧め
 古代史分野は、「倭人伝」二千文字の中の壱文字の話題で随分盛り上がるが、ここにあげられているような無意味な根拠で力説するのは、氏の古代史に関する見識に疑念を投げかけるものであり、随分勿体ないと思われる。(俗な言い方をすると、「余計なことを言うと信用をなくす」と言う事であり、下手すると、論争相手の失笑を買うことになりかねない)
 氏ほどの学識であれば、この話題は飛ばして【本講演は「邪馬台国」(略字)で進める】と「宣言」するのが好ましいように思う。「ここだけ宣言」すれば、混沌、無面目の国名論議がなくなるので、聴衆も随分気が楽になる。
 ちなみに、ChatGPTに代表される「聞きかじり」引用手法で摘まみ食いされると、「ここだけ宣言」は、取りこぼされるので、誤解の可能性が高くなる。 

                                以上

2024年7月 4日 (木)

新・私の本棚 河村 哲夫 講座【西日本古代通史】「邪馬台国論争のいま」Ⅱ 道里 1/3 三改

 アイ&カルチャ天神   資料 平成26年8月5日
私の見立て ★★★★☆ 沈着な道里論評  2020/09/24 補記 2022/08/29 2024/04/04, 07/04

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

〇はじめに
 今般、若干の事情があって、河村氏の講演資料を(有償にて)提供戴きましたので、学恩に報いるために、以下、部分批判を試みたものです。

 要するに、最近、倭人伝道里議論で、帯方郡から投馬国への道里が水行二十日と書かれているという迷解釈が浮上して、提唱者不明、提唱媒体不明の、いわば典型的な「フェイクニュース」が、某古代史ブログで論評され、趣旨理解に苦しんで、事の発端を確かめようとしたもので、未解明です。

 因みに、講演資料は、河村氏が、道里行程論諸説にメスを入れ、短評を賦したもので、全て論議に価する一説と評価してはいないと見られます。
 氏の論評は概して妥当であり、世に知られることなく埋もれている論考を当ブログで紹介する目的で(適法な)抜粋引用にコメントを付したものです。

 当部分は、氏の講演全二十四回のごく一部に過ぎず、倭人伝に基づく行程道里談義に限定です。引用の抜粋、要約文責は、当ブログ筆者に帰します。

〇第9回『魏志倭人伝』を読む 倭の国々
2、倭人
⑴倭人がはじめて登場する中国の正史『漢書』地理志、⑵この文章が書かれた文脈、⑶『漢書』の注目すべき個所、⑷『山海経』海内北経、⑸その他
3.狗邪韓国と倭との関係
4.狗邪韓国から倭国へ
⑴対馬 ⑵壱岐 ⑶末慮国 ⑷伊都国 ⑸奴国
結論:以上の国々については、ほとんどの学者、研究者が一致している。

コメント  「風評」記事の誹りを避けるためには、「ほとんどの学者、研究者が一致している」と主観的な発言を避け、検証可能な項目を明記すべきです。素人の限られた見聞でも、百花斉放となっているように見受けます。それとも、氏の書卓には、氏自身の論考が積み上げられているだけなのでしょうか。

⑹不弥国
⑺投馬国
①(続いて)南、水行二十日で投馬国に至る。
・水行起点に不弥国と伊都国の両論がある。帯方郡起点説もあるようである。
結論:『魏志倭人伝』だけではその位置を特定することはできない。

コメント この点で、本来、最優先であげられるべき「韓地陸上移動」説に言及していないのは、まことに不用意であり、残念です。
 出所不明で追試できない帯方郡起点説に、この点で言及したのは、余りに不用意に思います。感心しません。
 後記するように、論外の思い付きは、氏の見識で決然と棄却すべきです。

⑻邪馬台国

①(続いて)南、邪馬台国に至る。女王の都するところである。水行十日、陸行一月。

コメント 別の記事で論じているので、重複になりますが、道里記事の根底を定めるものなので、手短に述べます。
 倭人伝は、公式史書「魏志」の一章である「東夷伝」の小伝であり、三世紀に編纂された「魏志」に於いて魏朝皇帝の「首都」は「雒陽」と定義されていて、東夷の蕃王である女王の居処に「都」を冠することはあり得ないのです。つまり、「所都」と句読点付けして、「都する所」と解するのは、間違いという事です。
 従って、「都」は、順当に、「都(都合)水行十日、陸行一月」と、総所要日数を記し、道里記事の結末としたと解するべきです。
 この意見は、ごく一部の論者に知られているだけであり、「総選挙」すると大敗するでしょうが、学術論で言うと、「エレガント」な解の端緒としています。

②不弥国までは何里、何里と距離できたものが、投馬国と邪馬台国では突然日数表示になる。これが一つの謎である。

㈠〈伝聞説〉 諸説㈠~㈩は当ブログの追加。「問題点」は、河村氏の表現、短評。
問題点・・『魏志倭人伝』によれば、魏使は長期滞在し邪馬台国の政変に関与した形跡もあり、邪馬台国に行ってないとするのは否定的に解する。

コメント 「否定的」との意見が、出所不明の誤解に巻き込まれていて、感心しません。そもそも、「否定的」とは、このような文脈で使用すべき現代語ではないのです。

㈡〈千三百里=水行二十日+水行十日+陸行一月とする説〉
・のちに帯方郡から邪馬台国まで一万二千(里)との記述がある。郡から不弥国まで七千、千、千、千、五百、百、百と里数を足すと一万七百(里)であり、残りは千三百(里)となる。これが、投馬国水行二十日と邪馬台国水行十日、陸行一月を足した日数に相当する距離になる。
問題点・・日数がかかりすぎる。

コメント 本説は、単なる思い付きに過ぎず、そのような提言は、「提案者」に立証義務が課せられているのであって、氏が、代弁すべきではないと考えます。
 こじつけを正当化する論義は、時間の無駄です
 「倭人伝」は、三世紀の史官陳寿が、皇帝初め洛陽の読書人に上程し高評を仰ぐべく心血を注いだものなので、解くに解けない判じ物でなく、少考して解に至る手頃な「問題」であり、明快な解の得られない「難問」ではないはずです。

                                未完

新・私の本棚 河村 哲夫 講座【西日本古代通史】「邪馬台国論争のいま」Ⅱ 道里 2/3 三改

 アイ&カルチャ天神   資料 平成26年8月5日
私の見立て ★★★★☆ 沈着な道里論評  2020/09/24 補記 2022/08/29 2024/04/04, 07/04

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

⑻邪馬台国  承前
㈢〈六百里=水行二十日+水行十日+陸行一月とする説〉

・不弥国までの七百里に対馬と壱岐の一辺四百里と三百里の七百里を加え、残る不弥、投馬、邪馬台の六百里を、水行と陸行2ヵ月かけることになる。
問題点・・さらに日数がかかりすぎる。

コメント 趣旨不明、意味不明です。門前払いすべきです。

㈣〈投馬国水行二十日と邪馬台国水行十日陸行一月は別々とする説〉

問題点・・苦肉の策問

コメント また一つの「趣旨不明、意味不明。門前払い 」です。

㈤〈放射状説〉
・伊都国から先は伊都国を起点にして、奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国へ別々の道をたどる「放射式読み方」説。
問題点・・恣意的解釈

コメント 当説は、ほぼ榎一雄氏創唱のようです。なお、蛮夷伝の道里行程記事で、蕃王王治などの地域中心を終着点/始発点とみて、地域内の行路の扇の要とする「放射状」記述とするのは、班固「漢書」西域伝で前例のある「正史」書法であり、氏は、そのような定則を見過ごしているようです。そのために、榎一雄師という知識、見識に富む識者の意義深い提言を、十分考証することなく等閑に付しているのは、河村氏ほどの学識の持ち主にしては、不審です。
 ついでながら、およそ、あらゆる論考は、すべて、ご自身の論説を補強する論拠を収集、構築するものであり、いわば、「恣意」の固まりなのです。氏は、「恣意に過ぎる」とおっしゃりたいのでしょうが、「恣意的」となると、肯定的な評価なのか、否定的な評価なのか、意味不明で、読者は困惑するのでは無いでしょうか。もっとも、「恣意過ぎ」というと、現代若者ことばでは絶賛なので、一段と混乱しますが、どうでしょうか。

㈥〈選択的道程説〉
・水行なら二十日で、陸行なら一月、所要日数は二十日あるいは一月との説。
問題点・・文法的に問題あり。

コメント また一つの趣旨不明、意味不明。門前払いです。根拠の不確かな文法論議でなく、厳密な時代考証で評価されるべきです。
 ついでながら、伝統的な史学用語では、「問題」は、出題者が提出して、解答を求めているものであり、読者は、困惑します。

〈一日誤記説〉
・九州説では、陸行一月はかかりすぎだから、一日の間違いだとする。

コメント また一つの趣旨不明、意味不明。門前払いです。とても、学術的な論義とは思えません。「永久追放」ものの失格発言です。

〈方角修正説〉
・畿内説では、日数はあっているが、方角の南は東の間違いだとする。
㈦、㈧ 問題点・・恣意的読み替え

コメント ㈦、㈧ 共に、「単なる勝手な言い逃れであり、棄却すべきである」という点は、同感です。

㈨〈公休説〉
問題点・・公務員的発想

コメント 論外の児戯。「公休日」、「お役所仕事」、「接待漬け」など、論者の妄想、願望、公務員への私怨、偏見が拡大投影されています。公的研究機関の研究者は、基本的に公務員待遇であり、つまり、研究者の大半を蔑視する見解は、意味もなく敵を作っているものと見えます。
 当然ながら、論議は論理的に行うべきであり、現代人の見当違いの感情論を持ち出すべきではありません。いうまでもなく、魏使は、監査役付きです。曹操規準を見くびってはなりません。できの悪い、すべり放しの漫談ネタでしょうか。

㈩〈虚数説〉
・一万二千里というのは、まったくでたらめな虚数である。
・松本清張は『古代史疑』において、一万二千里は、漠然と遠い地域を指す場合にしばしば用いられた数字で実測ではないとする。その例として、『漢書西域伝』の大宛、烏弋、安息、月氏、康居道里が、「揃って長安から万二千里前後とは、明らかにいいかげんである」と断じている。
問題点・・陳寿は歴史を書こうとしている。

コメント 「まったくでたらめな」「虚数」は、数学の重大な原義を見損なった、まことに粗忽な罵倒です。
 この点が河村氏のご意見なのか、いずれかの風聞であるかは不明ですが、取り敢えず、「でたらめ」が神託であるとの論義は、後述します。
 また、松本清張氏の見解は、多忙を極めた文筆家が、寸暇を惜しんで書きためたものであり、歳月を味方にした古代史学者ではないので、兎角、性急な武断に走ることがあり、ここでも、論議の段取りが無理になっているようです。単に、帳尻合わせの「虚構」と云えば良かったのです。

 西域諸国道里は「万二千里」の「規準」に纏わり、例示されている諸国は、現地では、千里と離れてない塩梅の隣国であり、書かれている道里は、西域都護が得た百里単位の里数に即しているのであり、決してデタラメではありません。(筍悦「前漢紀」安息道里は、万二千六百里)
 清張氏の正鵠を得た着眼/発想には、ここでも脱帽しますが、以下の詰めが甘いのは、人気作家として多忙を極めたからでしょうか。補佐役に恵まれず独走したと見られます。陳寿は、計算の合わない「しくじり」は、何としても避けたはずです。

 「問題点」として、物々しくあげられている「陳寿は歴史を書こうとしている」と言うのは、現代用語を真に受けるとすると、誠に至言ですが。何が「問題」なのか、理解に苦しみます。ひょっとして、陳寿に対して、自己流の同時代歴史の著作を創作しようとしたと断罪しているのでしょうか。随分言葉足らずで、特に、「歴史」の意味付けが、軽薄な現代言葉に染まっているのかと疑われます。

 河村氏の意見を推定し、反論すると、陳寿は「規準」を熟知の上で、筋の通る数字を書いたのです。現代人の(欲ボケ)感性で批判してはなりません。魏志編纂を委嘱されていたとは言え、編纂した史書に皇帝以下の読者が納得しないと、解任/解雇で済めばまだしも、果ては、家族ともども「馘首」、刑死なので、全ての記事が真剣勝負です。

*「魏志」西域伝談議 余談
 因みに、「魏志」「西域伝」に関する当ブログ筆者の意見は、陳寿は、班固「漢書」西域伝に心服していて、これに付け加えるべき業績がなかったという理由から、「魏志」西域伝を割愛したと見るのです。何しろ、魏代、蜀漢の北伐で、関中平原以西は、魏の支配下になかったので、魏代「西域」は、はなから虚構だったのです。そして、三世紀当時、その点に関して、特段の非難がなかったところから見て、そのような西域観は、時代の読者の支持、ないしは、黙認を得ていたと見るものです。
 この意見は、陳寿が、後世の笵曄「後漢書」の底本となった、同時代の各家「後漢書」を参照していたとの見解/思い込みを、完全に否定するものではありません。むしろ、後漢代後半の桓帝、霊帝以降の東夷事績が、後漢公文書にほとんど記録されていなかったことを前提に、「魏志」東夷伝を集成したと見るものです。

                               未完

新・私の本棚 河村 哲夫 講座【西日本古代通史】「邪馬台国論争のいま」Ⅱ 道里 3/3 三改

 アイ&カルチャ天神   資料 平成26年8月5日
私の見立て ★★★★☆ 沈着な道里論評  2020/09/24 補記 2022/08/29 2024/04/04, 07/04

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

「魏志倭人伝」における一里
・漢代の一里はだいたい400㍍。これを帯方郡から邪馬台国までの一万二千里にあてはめると4800㌔㍍。これでは日本列島をはるかに飛び越してしまう。
・「誇張説」・・旅費の過大請求のため。
・「短里説」・・・・中国本土確認できない。
・「地域的短里説」・・『魏志倭人伝』における一里は、おおむね90㍍であり、理由は分からないが、それなりの一貫性を保っている。
結論::『魏志倭人伝』には、正確な部分もそうでない箇所もある。従って、、是々非々で検討するしか道はない。逆に言えば『魏倭人伝』のみで結論は出せない。日本文献や考古学成果など、総合的・多角的なアプローチが必要。

コメント ぞろりと陳列された所説は、それぞれ、確証の無い一説であり、いわば、「思いつき」に属するものですから、提案者に、重大な立証責任が課せられているのですが、未だ、評価するにたる「立証」は、提示されていないものとみられます。
 先ずは、秦漢魏制の「普通里」は、450㍍程度であり、これは、議論の余地のない史実です。道里記事の後に付された国名列記と狗奴国言及の後の「自郡至女王國萬二千餘里」なる行文を「普通里」と仮定すると、伊都国の至近と解釈される「女王国」が論外の遠隔になるということから、この仮定が「不成立」で有ることは、誰の目にも明らかです。いわゆる「帰謬法」で、即決否定されるべきものですが、にも拘わらず、陳寿が「倭人伝」に書き留めたのは、そのように書かれた「史実」、つまり「公文書」が魏から晋に承継されていて、史官として、改訂も排除もできなかったことを示しています。そのような背景を確認した上で、以下、提示頂いた論義を、順次検証/評価すべきであると思量します。
 「誇張説」は(正確な)実測値が存在したとの妄想(推定、憶測、願望)に基づいています。
 正確な行程も道里も確認されていない時点ですから、「誇張」などできるはずがないのです。つまり、当提言は過去の遺物と言うべきです。
 「短里」は、魏晋朝で国家制度として実施された証拠が全く存在しないので、無法な強弁です。(里制は、国政の根幹に関わるので、改訂があれば、全国に告知する必要があり、記録に残らないことはあり得ないのです)
 「地域的短里説」は、さらに、魏晋朝国家制度に関する無謀な思いつきであり、文献証拠は存在しません。単なる逃げ口上に過ぎないのです。(当ブログ筆者も、批判をやり過ごす隠れ家にしていましたから、その点に関しては、逃げられないのです)

 後漢献帝建安年間から、曹魏明帝景初年間に到る期間、東夷に対して権限を有していた遼東郡は、秦始皇帝が、全国制度の一環として創設したものであり、始皇帝が、周制や戦国各国の地方制度を全廃して統一施行した秦律に基づく「法と秩序」の敷かれた堂々たる「郡」であり、原器配布により徹底した「度量衡」制度に始まり、農政の根拠である「歩」(ぶ)を歴て、街道測量の原寸である里制に至るまで換算係数が明示されていて、厳密/厳格に「普通里」制度が施行され維持されていたとみるべきです。(晋書「地理志」などで容易に確認できるように、秦代以来、一歩(ぶ)は、六尺であり、一里は、三百歩であるから、概算値で確認すると、一尺が25㌢㍍であれば、一歩は150㌢㍍、1.5㍍であり、一里は450㍍となります)
 その後、朝鮮国が一時横行しましたが、同国は漢帝国の臣下であり、従って、漢制に基づく「普通里」を敷いていたと見るべきです。ということで、後漢末期に、公孫氏が、勝手に遼東郡太守に就職したとき、楽浪郡が依託された半島南部と海南の東夷は、秦漢制「普通里」を敷いていたと見るべきです。楽浪郡が依託されていた所領の南部の荒地を分郡された帯方郡は、当然、秦漢魏の三代を貫いて各帝国の全土に施行されていた「普通里」を敷いていたと見るのであり、にも拘わらず、帯方郡管内に限り、いわゆる「短里」が通用していたと主張するには、確固たる公的文書が必要/不可欠です。
 一歩は、農地測量の面積単位であり、全国各地で運用されていた土地台帳の記事を変更することは不可能なので、事実上、固定されていたのです。「いわゆる短里」を施行するには、一里を、切りの良い五十歩とする必要があり、これは、計算上、75㍍程度となります。しかし、そのように短縮した里を施行すると、全国各地で、槽運(船舶運賃)、陸運(陸送運賃)の区間規定と運賃規定を、里数を六倍にしながら運賃を維持するよう、多大な計算を伴う変換の必要があり、全国各地で厖大な計算業務が発生します。当然、天子の元に報告が届き、公文書記録が発生しますから、当然、史官たる陳寿は「魏志」に収録すべきです。時に論じられるように、司馬氏の名誉/不名誉を計らって、衆知の記事を割愛するとは思えないのですが、どうでしょうか。
 また、後世、「普通里」回帰の際に晋書に明記されるだけでなく、通典などの記録文書にも、そのような大事件は明記されます。為政者が行った国事は、何らかの形跡を残すのです。
 
 議論を本筋に戻すと、倭人伝」道里行程記事の解釈で確実なのは、『「倭人伝」道里行程記事が、首尾一貫して短里らしき里長で書かれている事を否定できない』だけであり、文献としては「倭人伝」が孤証です。

 なお、「倭人伝」が、同時代の同地域の道里の「唯一の文献記録」ですから、他に信頼できる史料が提示できるはずがありません。現実逃避、先送りは、徒労の繰り返しであり、後世に申し送りするのは「非科学的」で賛同できません。

 既に述べた気がするのですが、過去の「倭人伝」に対する誹謗中傷は、とにかく、「倭人伝」の道里行程記事が、自説、つまり、「奈良方面説」の所在地比定に「大変邪魔」、「百害あって一利なし」の「天敵的存在」なので、陣営として、寄って集(たか)って、根拠薄弱な「異論ごっこ」を繰り広げていて、言うならば、「焦土作戦」、「泥沼作戦」を繰り広げていたものと見えます。
 その「作戦」(campaign)副産物であり、どんな途方も無い比定地であっても、原文を拡大解釈するとか、原文改竄説を言い立てるとかで、混乱を掻き立てていれば、疑わしくとも否定はできないとの風評を形成しているのです。

 現に、河村氏の論考も、各説を陳列し論評するだけで多大な労力を費やされていて、依然として議論の混乱を維持しているような印象に巻き込まれているのは、勿体ないところです。さらには、多数の暴論を棄却するために、売り言葉に買い言葉とばかり、乱暴な言質を取られています。
 以上の難儀を、解消するには、「倭人伝」を時代考証の原典とし、異議を唱えるためには、提言者が重大な立証責任を課せられているという認識が必要見るものです。但し、それは、学界の大勢を占めている「泥沼作戦」に真っ向から対峙するので、余程の覚悟が必要なのです。
 当ブログは、微力ながら事態の整頓に挑んでいるのですが、なかなか、耳を貸してもらえないのです。

 ここで一言提言すると、倭人伝」のことは「倭人伝」に聞くしかないのです。つまり、「倭人伝」に「郡から狗邪韓国まで七千里」とする「道里」で書くと明確に宣言されている以上、それ以降は、そのように解すべきなのです。また、文章解釈は、中国古代の史官の意図を理解して進めるものであり、河村氏が後記しているような現代人の思い付きを押しつけるのは、後回しにすべきであると思うのです。

 ちなみに、河村氏の提言されている「日本文献や考古学成果など、総合的・多角的なアプローチが必要 」との指摘は、まことに含蓄の有るものですが、「日本文献」は、三世紀に編纂された「倭人伝」から、遙かに後世に創出された文献であり、また、「考古学成果」は、絶対年代を確定するデータを持たないので文献とは言えず、あくまで、漠たる参考に留めるべきと思量します。くれぐれも、本末転倒の陥穽に陥らないことを祈ります。

5、邪馬台国は何カ国の連合か

コメント 当ブログの圏外。別に30国でも31国でも、道里行程論議には、何の問題もありません。
     議論を攪乱させるので、当分保留にして、後回しにしたいものです。

6、邪馬台国の周辺諸国について
⑴『魏志倭人伝』には、「女王国より以北はその戸数と道里を略載できるが、その余の傍国は遠絶していて詳らかにはできない」として、二十一か国の国名だけを挙げている。

コメント この解釈は、原文の文意を離れて事態を混乱させているので、考えなおしていただきたいものです。
 先ずは、原文を掲示しますが、行文論義は少し後になります。
 自女王國以北其戶數道里可得略載其餘旁國遠絕不可得詳

・再考懇望 
 氏は、有識者であるので、余計な付け足しは不要ですが、一般読者のために念押ししますが、「考えなおしていただきたい」とは、熟考の上、「意見を変えていただきたい」と懇願しているものです。別に、「もう一度同じ事を考えても、意見は変わらない」という回答を求めているのではなのです。
 それはさておき、具体的に言うと、「倭人伝」原文は、当時最高峰の記録者、史官の労作であるので、短文であっても、大変端的な意味がこめられているのであり、当ブログは、世上読み違いが横行しているのを歎いているものです。以下、私見を連ねますが、別に同意いただけなくても、当方に何の「損」もないのです。

 ちなみに、氏の用語は、「周辺」を当該領域の一部とする正統な語義に従っているものですが、世上、「周辺」は領域の外部とする語義を採用している向きも少なからずあるので、ここは、無用の誤解を避ける意味で、用語を変えるのが賢明と感じます。

*「以北」と「余傍」
 「以北」が、女王国を含むか含まないかとする論義は、取り敢えず外しておきます。
 行文解釈の基本が疎かになっている方が多いので、当然自明のことを物々しく述べますが、「女王国より以北」と「その余の傍国」は、ここまでに登場した諸国を取り上げているのであり、読者が眼にしていない後出する「二十一ヵ国」に触れているものではないのです。
 これで、大部議論が明確になるのです。「泥沼作戦」推進派の方には、さぞかしご不快と思いますが、暫く、お静かに願います。
 「女王国より以北」とは、直前までの行文で、郡を出て以来ほぼ一路南下してきた経路上の諸国について述べているのです。といっても、ここは、「倭人伝」ですから、狗邪韓国以北は、当然除外されます。して見ると、それらの国名は、まだ机上に開いている倭人伝文書を見ればわかるので、重複列記を避けて簡潔に留めているのですが、逆順に北上して、伊都国、末羅国、一大国、対海国の全て/都合四ヵ国であることは、想定されている読者には「自明」です。
 ちなみに、「列国」と称すれば明確なのですが、「列国」は、皇帝/天子に列(つら)なるという意味であり、蛮夷の国に許されないので、「倭人伝」に於いては避けざるを得ないのですが、当ブログ筆者は、史官の修行をしていない二千年後生の東夷の無教養なものなので、時に筆が滑ることがあるのは、ご容赦頂きたいものです。

 「その余の傍国」とは、其処までの道里行程記事に名を挙げられているが、行程外、つまり、四ヵ国以外の国(四ヵ国は含まれない)のことです。この一句でも、奴国、不弥国、投馬国が、行程外であることが、念押しされているのです。これほど丁寧に念押しされているのに、解釈が、あらぬ方、「余傍」に迷い込むのは、まことに残念です。くり返しますが、この時点で読者が眼にしていない。行程道里不明、国状不明の後出「二十一ヵ国」に触れているものではないのです。

 「余の傍国」の代表は、投馬国です。「倭人」随一の五万戸の大国としながら、正確な道里行程も戸数も報告していません。それでは、女王、つまり、女王に任じた魏朝に対して「無礼」、「死罪」ですから、「遠絶」「不詳」「余傍」と「逃げ口上」を貼り付けて、譴責を避けたのです。
 思うに、前世、倭人に東夷としての登録時に、調べの付かないままに「全国七万戸」と、早々に登録してしまったため、後年、現地事情が分かってきて、「倭人伝」をまとめる際に、「余の傍国」として、奴国二万戸、投馬国五万戸を辻褄合わせにつけ回しただけであり、両国に関する実質は不詳というか、不明なのです。

*「倭人伝」の冷静な筆致 書き足し2024/07/04
 「倭人伝」冒頭で、「倭人」の「国」は、漢代以来の王族が統治する「小帝国」とも言うべき巨大な領域国家でなく、「國邑」、つまり、殷周代の黄土高原に散在していた「邑」と同様の存在であり、ただし、中原太古「國邑」は、城壁に囲まれた自立/戦闘聚落なのに対して、「倭人」現代「國邑」は、海上の離ればなれの島(複数)に、それぞれ孤立していたので、防衛のための城壁が無いという説明が付いているのです。「中国」即ち中原を制している曹魏-司馬晋の常識では、「國邑」に城郭が無いのは、被服、食餌など共に野蛮そのものですが、「東夷」である「倭人」は、周代の古風を備えていると、庇い立てているものです。
 「國邑」は、別の言い方では「里」(さと)であり、数百戸に始まって、せいぜい、数千戸に過ぎないのです。「倭人伝」の主要国は、そのように「國邑」の一言で見事に定義されているので、当時の読者に、それ以上の説明は不要だったのです。
 「倭人」の諸国は、せいぜい千戸代止まりの「國邑」であり、それなりの農地を伴っているものの、互いに争うことは、実際上不可能だったのは、読者が招致していた殷周代、太古の様相に列なるものであり、陳寿は、史官の博識を生かして、手短に、読者の博識に訴えたものですが、二千年後生の無教養な東夷は、博識ではないので、誤解に誤解を重ねて、夢想に耽っていると見えるのです。
 端的に言うと、牛馬を農耕に動員できない「倭人」の世界では、各戸の耕作する農地は、中原の数分の一であり、従って、戸籍/地券制度を敷いているわけでもないので、戸数をもとに収穫量を計算しては、途方も無い過大評価になるのですが、それが、苛税につながらないように、冷徹な陳寿は、諸処に「二枚舌」を駆使して、明帝の熱狂と読者の誤解を、冷水を浴びせることなく、静かに冷ましているのです。

 この点、全道里万二千里の辻褄合わせと同様、「前世」、つまり、後漢献帝期から曹魏明帝期までの「倭人事情混乱時代」に「誤って登録されてしまった」報告内容が、時の王朝の「公式記録」になって、「禅譲」の際に、前世の記録は、全て受け継ぐという大原則があるので、西晋史官たる陳寿には、承継された「公式記録」は、削除も改竄もできないのです。
 そのため、「倭人伝」の記事において、別の観点からの記事を書くことによって、誤解の拡散を鎮めようとしたものと見えます。当時の読者は、陳寿の苦肉の策を見過ごすことにしたようですが、後世読者は、そうした「大人の事情」に気づかず「誤解」を募らせたようです。

 因みに、「遠絶」とは、もちろん、ここまでに「連」「絶」の形容に登場したような地理的な距離の問題、地続きか離島かの形容だけでなく、女王に対する臣下としての報告がなく、そのため、指示も届いていないという意味であり、服属していても臣下でなく、もちろん、同盟なども存在しないという趣旨と見た方が無難です。離島であるということは、「倭人伝」で定義したての「水行」、つまり、渡し舟で大海の流れを渡るという行程が的確です。
 「水行二十日」とは、途中に渡船があり、行程全体として二十日であると見れば、恐らく、暫時南下して、日田から中央構造線沿いに東に向かう道程が示唆されていて、佐多岬半島に渡る、手軽な渡船が示唆されていると推定できるように思いますが、なにしろ、よくわからないとされているので、確信は出来ません。
 「倭人伝」全体の帳尻として、「邪」、つまり、「東北方向」に駆ける馬体を想定できる「投馬国」に、過剰な戸数を押し付けたとみるのが、余傍の国に相応しい冷静な判断と思われます。

*閑話休題 
 何れにしろ、帯方郡を歴て、中原天子に提出され、後世に残る文書ですから、まるっきりの思い付きではないのです。ちなみに、「でたらめ」とは、サイコロを転がしたり、筮竹で占ったりすることを言うのでしょうか。何れにしろ、神託を仰ぐのであり、現代の不信心ものの意見とは、自ずと異なるのです。

 念のため言うと、ここまでの行文は、景初初頭に帯方郡が、魏明帝の派遣した新太守の元に、つまり、魏帝直轄に回収された時点に書かれたものと見え、「倭人伝」の最終稿時点では、「余傍の国」の実相は知れていたでしょうが、遡って訂正、加筆することはなく、いわば、時系列に従って公文書に綴じ込まれたままになっているのです。

 ということですが、御理解いただけるでしょうか。要するに、陳寿が想定していたのは、中国の教養を踏まえた気ままな読者であり、そのような、いわば短気な読者に理解できるような単純、明快な「出題」だったと見るべきではないでしょうか。

 総合すると、女王の臣下は、対海国から伊都国までの「女王国以北の」少数精鋭であり、これら「列国」については、戸数の明細を得ていて、 女王国での朝議に参列しているかどうかは別として、それぞれ官を配置し「刺史」の巡回監察/行政指導/係争審判の巡回判事や日常の「文書」交信によって密接な連絡を取っていて、組織的、かつ、綿密な経営が存在したという意味でもあります。そうです。女王国以北の「列国」は、当時最先端の文書行政が始動していたのであり、計算能力も育ち始めていたのであり、そうでなければ、市糴を管理するとか、便船の運用日程を周知するなど、実務が回らなかったと見えるのです。(言うまでもなく、単なる私見です)

⑵これらの国々については、名前以外の情報が一切ないので、この記事だけで最終の結論を得ることは不可能に近いが、筑後川右岸の佐賀県地方にかなり近い郡名が見受けられる。

コメント 東夷の「名前だけの国々」は、形式として国名列記しているだけで、それぞれの実態が不明なのは、韓伝で例示されているように、むしろ当然であり、改めて言うまでもないのです。なにしろ、伊都国には郡使が到来しているので、地理、風俗は知られていたのですが、見ていない地域のことは、当然、風聞以外は、分かっていなかったのです。それを殊更「言い訳」したのは、奴国、不弥国、投馬国について、一見重要視しているように見せつつ、詳しく書かないからです。「言い訳」には、存在意義があるのです。

 「不可能に近い」と言い切りつつ、現代に伝承されている現地地名を重用する余人の憶測を認めるのは、あるいは、氏の保身なのでしょうか、感心しませんが、この当たりは当ブログの圏外ですので、深入りしません。

7、狗奴国はどこにあったか

コメント 当ブログの圏外です。
 ついでなので、余計な「思いつき」を述べると、列国行程が、ほぼ一路南下しているので、「狗奴国」は、伊都国の南方、さほど遠からぬ方向/所在に有るものと思量します。当時の交通事情を拝察すると、精々、数日の徒歩旅程と見えます。そうでなければ、不和になりようがないのです。

 以下の講演内容は、氏の見識を物語る豊穣なものであり、総じて秀逸ですが、「倭人伝」道里記事解釈の足元を、地べたを舐めるように精査して、泥沼の侵入を排除するという当ブログの不可能使命/守備範囲を外れるので論評しません。また、慎重に管理されている当文書の著作権に関わるので、引用もいたしません。あしからず。

〇まとめ
 世上言われているように、「倭人伝」の道里解釈は百人百様の誤解、迷走であって、コメントに値しない「ジャンク」、「フェイク」の山です。言いたい放題の風潮が行き渡っているので、更なる「ジャンク」、「フェイク」 が募るものなので、いい加減に入山制限しないと、真面目な論客は、毎日山成す「ジャンク」、「フェイク」 に忙殺されるのです。

 河村氏に求められるのは、こうした無面目の混乱の中から、屑情報/偽情報を早々に論破して棄却し、検討に値する「説」だけを称揚することだと思うのです。

 それにしても、氏の「放射状行程仮説」嫌いは、どういう由来なのでしょうか。まことに残念です。

                                以上

2024年7月 3日 (水)

新・私の本棚 番外 ブログ記事 makoto kodama「古田案は水行主体の行路でも成り立つのか?」再掲

 邪馬台国探訪 makoto kodama「古田案は水行主体の行路でも成り立つのか?」2023-02-05
私の見立て ★☆☆☆☆ 論旨混沌、意図不明             2023/02/11 補充 2024/07/03

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯始めに
 勝手な言いがかりと言われないように、(ほぼ)全面引用です。教育的指導のための資料利用は、著作権の対象外です。
 しつこく言いたてるのは、氏の論説が、論拠不明の勝手な弾劾/言いがかりになっていると思われるからです。
 自説を高言するとき、言葉遣いに慎重であるべきなのは、当然ですが、特に、第三者を糾弾するなら、不明瞭な言葉遣いは、とことん避けるべきです。お釣りがタント返ってくるからです。

*引用とコメント
引用 
Makotokodama

コメント 滅多に見られない「非凡」でしょうか。出典不明の県境入り白地図なども、三世紀に存在しないので、とことん無意味です。
 末羅国~投馬国が万余里、図で帯方郡~末羅国と同様に意味不明の表示ですが、由来は不明です。主張した人間を批判すべきです。
 末羅国~邪馬台国 陸行一月、二千里は、根拠の無い思いつきであり、論外です。

 薩摩国、都万国は、当記事の議論には無意味です。未知の南西諸島に投馬国を置く思いつきは「非凡」な神がかり/言いがかりで、問題外です。

引用 古田案(邪馬台国へ至る南水行十日陸行一月の起点を帯方郡に置く)の場合、
古田氏の言う魏使団に韓国内や対馬と壱岐内を陸行させる説は前回指摘した如く、一切成り立ちませんが、この発想を使った説には他に魏使団に韓国内を陸行させず、上の図のように、水行主体に邪馬台国への道程を辿る説もあります。

コメント 「案」か「説」かは別儀として、ここで読み取れていたのに、後ほど失念するのは、奇怪です。
 第一書『「邪馬台国」はなかった』で「邪馬台国」を否定した古田氏に「邪馬台国」と言わせるのは、前回同様、随分難儀です。
 古田氏は、魏の官吏でないし、二千年過去の「魏使団」に「陸行させる」ことはできず、他の論者も同様です。いや、論者の中には、地図上の行程は、実際の行程を示したものでなく、概念に過ぎないと称している例もあります。氏は、誰のどの図示を理解の上で引き写しているのでしょうか。
 ちなみに、古代史史書で「魏使団」の使用例は見つからなかったので、意味不明の現代東夷の「造語」として扱うことになるのですが、氏の独創であれば、無断使用をお詫びします。なお、方位、縮尺の不明もあって、何の役にも立たないものと思量します。
 「道程を辿る」とは、重ねて意味不明です。氏の独創であれば、無断使用をお詫びします。「上の図」は、単なる概念図であり、現代地図の連携は存在しないので、「辿る」などと言うのは、なにかの誤解でしょう。
 又、倭人伝道里記事を「魏使団」の実道程と見る「仮説」は、古田氏ならずとも、大半の論者に共通して同意していて、ほぼ定説と化しているようですが、倭人伝を丁寧に考証すれば分かるように、単なる早計の勘違いで無効な臆測です。「倭人伝」の記事は、それこそ、郡から伊都国までの「道程」を「文字」だけで示したものであり、概念図どころか「イメージ」も関係ないのです。
 と言うものの、古田氏が主張していない「発想」を、お手盛りで古田氏に塗りつけるのは無茶ですよ。 

引用 しかし、この説の場合には、投馬国へ至る南水行二十日の起点を何処に置くかが問題となります。

コメント 誰がどこで唱えたか分からない、勝手な思い込みと見える「説」の論義は無駄です。投馬国に至る行程の始点は、榎一雄説は伊都国、古田説は不弥国と立説しています。この場の思いつきとは、格が違うのです。
 又、以下で自認しているように、 古田氏の言う「水行十日、陸行一月」は、投馬国に関係ないので何の「問題」も成立しないので、「解答」は存在しないのです。つまり、貴論は、勿体振っていても、実質の無い空文であり、全体として空振りです。大丈夫ですか。

引用 
仮にその起点を邪馬台国と同じ帯方郡に置いたなら、帯方郡―末魯国が水行十日だから、末魯国―投馬国は残り水行十日となるが、帯方郡―末魯国と末魯国―投馬国は同じ萬余里だから、投馬国は沖縄辺りに置かざるを得なくなり、薩摩国(鹿児島)や都万国(西都)のような、九州本土内に置くことはまず不可能です。

コメント 何か、しきりに呪文を唱えていますが、それにしても、「邪馬台国と同じ帯方郡」とは、これまた「非凡」です。「起点」は、南北どちらに置く想定なのでしょうか。「末魯国―投馬国は同じ萬余里」ですが、 「同じ」筈はないので、自説として主張するには論拠が必要です。

 倭人伝全道里 都合「水行十日、陸行一月」の「水行十日」は、狗邪韓国~末羅国三度渡海で満腹で、これ以上消化できません。少し説明すれば小学生でも分かると推定される理屈です。(実際に「ピカピカの」小学一年生に問い掛けたら「わからん」と返事があるでしょうが、ここは、そういう言い方ではないのです)全道里の勘定に入っていない投馬国を、ここに投げ出しても解決しません。

引用 いずれにしても、邪馬台国へ至る南水行十日陸行一月の起点を帯方郡に置く説は、古田氏が単に自説に都合良く距離を合わせる為に思いついただけと思われ、何の根拠もない説なのだから、どう頑張っても成り立ちようがありません。


コメント 根拠が読み取れないのは、視力の問題なので不問とします。理解することができないのなら、自白して受刑すべきです。
 「古田案」と矮小化しながら「説」とは「猛省」したのでしょうか。
 古田氏の動機はご推察通り(と思われ)でも、動機の否定は論争上無意味です。
 「何の根拠もない説」に荷担して、「頑張って」いるのは、偉業というか功徳というか。

引用 
つまり、深く考えもせず、単に自説に都合が良いからとして、安易にこの考えを自説に取り入れている論者の方々は、猛省する必要があると思うのであります。

コメント 自分の論説に都合の良い知恵を採り入れるのは、誰でもすることです。考えが深いか浅いかは、他人の知ったことではないのです。ご自分の頭のハエを追うべきでしょう。
 とはいえ、無数とも見える各説の論者の「自説」を一括で断罪できるとは、神のごとき明察です。いつ、万巻の書を読破したのでしょうか。
 全体に情感豊かな書き飛ばしで文章が泳いでいますが、論義は論理的に進めたいものです。「猛省」は、当人の勝手ですが、仮に「する」と感じたら、し過ぎることはないのです。
 当稿が、手厳しく皮肉になっているのは、凝り固まった思考をほぐせるように熱いお灸を据えているのです。不謝(鍼灸治療に謝礼は不要)。

                              以上

新・私の本棚 番外 サイト記事 M・ITO 邪馬台国と日本書紀の界隈 1/3 三掲

『三国志』「魏志倭人伝」後世改ざん説の可能性を考える〈1〉 2018-02-27
私の見立て ★☆☆☆☆ 論旨瞑々、覚醒期待  2018/05/29 2018/11/25 2022/11/19補筆 2024/07/03

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*コメント
 通常、商用出版物でないサイト記事批判は、よほどでない限り公開しないのですが、今回も例外としました。

 サイト記事のトップで、「邪馬台国熊本説」の中核をなすのが、「魏志倭人伝」後世改ざん説と明言されていて商用出版物に次ぐ位置付けとします。
 「邪馬台国熊本説」自体は、史料である「倭人伝」の一解釈ですから、それ自体は、個人の思いつきであって、他人がとやかく言えるものではないのですが、その中核として採用している正史改竄、差し替え論については、途方もなく大きな誤解を持ち出しているので強く批判せざるを得ないのです。

*批判の主旨
 タイトルを「可能性を考える」としていますが、ここに主張されているのは、ご自身の主張を裏付ける「特定の記事改竄」が行われたが、原資料を含めてその証拠は消されているとの決めつけであり、その「特定の記事改竄」が、「邪馬台国熊本説」を成り立たせるのに欠けている「証拠」の重責を背負っているのだから、大変な暴論なのです。

 氏が高々と掲げている「邪馬台国熊本説」が、山成す所説の群れから抜きんでて、世上の考慮に値するとしたら、そのような強引なこじつけは要らないはずです。所在地のこじつけは、世上溢れている「誤記」「誤写」「曲筆」論を起用すれば、世間並に支持されて良いはずです。

 ということで、ここで取り上げる「魏志改竄説」(改竄は、後世でないとできないのです)とは、聞くからに暴論で、国志権威とされる古代史家の「古代史家全員嘘つき」説に匹敵する暴論と聞こえて辟易しそうです。

*権威者の神事(かみわざ)考 
 ちなみに、「暴論」と断言してしまうのは、水掛け論になるので、穏当な言い方を取ると、「古代史家全員二枚舌」説であり、要するに、史官を天職としている者達は、史実を忠実に書き取る「舌」と与えられた「使命」(mission)に従って「てごころ」を加える「舌」とを使いこなしているという趣旨なのでしょうが、真意を潜ませているので、これもまた、「二枚舌」の神事(かみわざ)ということでしょうか。

 それはそれとして、どんな史料も、歴史上、絶対内容が変化していないという絶対的な保証はないから全体が信用できないと言われると、信用できる史料は一つもないとなります。要するに、二千年後生の無教養な東夷としては、「史官」と「史官」の筆の至芸を知悉している権威者の「二枚舌」を承知して読まねばならないということのように見えます。

 権威者ならぬ素人の立場としては、「本件における学問的態度は、(「前提」を覆すに足る)確証がない限り正史史料は、適確に管理、継承されているとする前提を堅持して議論を進める」というものです。「推定有効」、つまり、決定的に無効とされない限り有効と見るものです。無効を主張する者は、確固たる証拠を提示しなければなりません。立証義務というものです。
 どんな史料も、「改竄の可能性を絶対的に否定できない」という主義の確固たる証拠を提示するのは、不可能でしょう。まず、自身の手元証拠が、改竄されてないという証拠を確立しなければならないのですから、自己攻撃が不可欠の前提になっています。

 また、自己の主張を保って、既存の主張を理解していないままに全て排斥する「排他的」な論証は、全論客を敵に回す攻撃であり、余程の覚悟が必要であり、視点の定まらない安易な類推は控えたいものです。

*論考の確認
 同サイトの論法は、次のようなものと思われます。

    1. 敦煌残簡は、呉国志「特定部」の写本である。
    2. 残簡の特定部相当部は、特定部と行文が一部異なる。
    3. 残簡特定部は、写本時の国志写本を正確に写し取っている。
    4. 現存刊本は、敦煌残簡以降に改竄されたものである。

 しかし、この段階的論証は、以下順次述べるように確実なものとは言えません。むしろ、可能性薄弱、と言うか、「皆無」と思われますから、諸説を覆すことのできるものではないと思われます。

*個別確認1
 1.は、基本的な論証が欠けています。
 著者は、残簡特定部が、「呉国志」(韋昭「呉書」との混同を避ける)の特定部と同様記事であったことから、敦煌残簡は、呉国志の写本と速断していますが、これは有力な推定であっても断定できないのです。残簡には、「呉国志」の一部であることを示す編集事項が書かれていないと考えます。基本的な論証が欠けているというのは、論拠とならないという事です。論拠「不正」です。
 そのような「不正」論拠に基づいて提示される論義は、はなから無効であり、以下の論義は不要とも言えます。


                                      未完

新・私の本棚 番外 サイト記事 M・ITO 邪馬台国と日本書紀の界隈 2/3 三掲




『三国志』「魏志倭人伝」後世改ざん説の可能性を考える〈1〉 2018-02-27
私の見立て ★☆☆☆☆ 論旨瞑々、覚醒期待  2018/05/29 2018/11/25 2022/11/19補筆 2024/07/03

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*個別確認1 まとめ
 残簡記事が、誰も知らない、誰も知り得ない「史実」を正確に記録しているかどうかは、本論に無関係であり、倭人伝が問い掛けている「問題」でもありません。論点がそっぽを向いています。

 また、敦煌残簡が、「呉国志」以外の史料、例えば、韋昭編纂の「呉書」稿、あるいは、私的史稿を写した可能性は、否定も肯定もできないものです。裴注が見当たらないのも、その傍証です。

 正体不明、由来不明の史稿残簡が、「呉国志」と異なる構文としても、何かを証明するものではないのです。

*個別確認2
 2.の論証は、物証の示すとおりです。だからといって、何かを証明するものではありません。

*個別確認3

 3.「残簡は、その時点の国志写本を正確に写し取っている」とは、時点の「呉国志」時代原本が確認できない以上、検証不能です。
 つまり3の論証は、論者の私的な推定に過ぎません。
 残簡作成者が参照した写本の正確な書写を指示されていたかどうかも不明です。孫氏政権の功臣事歴を、個人的な目的で綴り上げたかもわかりません要は何もわからないのです。

*巻紙談義~余談
 残簡は、明らかに巻紙に書き込まれたものであり、行当たりの字数が一定していません字数(行格)を揃えるのは、正確な写本の基礎であり、それが守られていないということは、厳格な写本がされていないことを物語っています。
 それにしても、国志写本が、当初、巻紙だったのか、冊子だったのかは断言できません。

 後漢朝末期の混乱期間に洛陽周辺の紙業も大いに混乱したと思われ、国志編纂時に定寸単葉紙が大量に調達できたかどうか不明です。慣用表現とは言え、国志が巻表示なのも、重視すべきでしょう。つまり、当時、帝室書庫に厳重保管されていた国志写本は門外不出とは言え、巻物形式であった可能性が高いと思われ、敦煌残簡が巻物形式であること自体は、不審の原因とはならないようです。
 国志各巻は、長巻物と予想され、残簡上に写本上必要と思われる目印が見られないのは、若干、否定的な要素です。
 なお、写本、刊本が、袋綴じの単葉紙になったのは、遅くみると、北宋咸平年間の木版刊本時と思われます。巻紙は印刷できないためです。

*改竄重罪
 当代最高写本工まで巻き込む「正史改竄」は、以後の写本に引き継がれても、世にある写本は書き替えられないので、いずれ露見します。「正史改竄」は皇帝に対する大逆罪であり、最高の重罪で、関係者一同とともにその一族の連座処刑もあり得るので、同志を得られず、実現不能と思量します。
 それにしても、それほど大がかりな改竄を、あえて、どこの誰が 企画し、命がけで 実施したのでしょうか。露見すれば、共犯者も同罪であり、事情を知らない協力者も、又、同罪です。家族まで巻きこんで、一族絶滅となりかねないのです。共犯として連座するのを免れるには「密告」するしかないので、到底秘密を守れないのです。

 くり返しになりますが、そのようにしてまで「倭人伝」記事を改竄するのは、なぜなのでしょうか。

                       未完

新・私の本棚 番外 サイト記事 M・ITO 邪馬台国と日本書紀の界隈 3/3 三掲

『三国志』「魏志倭人伝」後世改ざん説の可能性を考える〈1〉 2018-02-27
私の見立て ★☆☆☆☆ 論旨瞑々、覚醒期待  2018/05/29 2018/11/25 2022/11/19補筆 2024/07/03

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*個別確認4
 4の主張は、3.までの推定が根拠を確立できていないため、根拠のない暴論となっています。
 丁寧に言うと、かりに、推定されている事態が起こって、敦煌残簡以後に(呉国志)特定部の改竄があったと証明する証拠が得られたしても、それは、国志の別の部分に改竄が行われたという確たる根拠にはならないのです。当然自明のことなので、大抵は書き立てませんが、読者が鈍感かも知れないので、念入りに書きます。
 この部分の結論として、国志に「改竄」が行われたという確実な証拠は「全く存在しない」と断定されます。

*誤解列記
 写本、刊本時の皇帝僻諱を改竄の事例としていますが改竄の定義をご存じないようです。僻諱は、特定文字の置き換えなどで皇帝実名などを避けるだけであり、氏の好む「改竄」によって文意を変える意図でなく、刊本ならぬ私的写本で僻諱が適用されたかどうかも、全巻確認しない限り不明です。

 また、裴注を改竄の事例としていますが、これも、改竄の定義を外れた暴言です。紹興本、紹凞本などの刊本現存品は、本文の半分の文字を使用して、一行二分割する割注であり、素人目にも、本文との区分が可能ですが、元来、裴注は、改行して新たに書き出されていて、見わけが付いていたものです。
 丁寧に説明すると、陳寿原本が継承された劉宋代を越えて、長く続いた簡牘巻物時代は、各行各条に正確に書写するのがせいぜいであったのです。一本の簡牘に二行書き込むのは、メダカを三枚おろしするような曲芸に近いものであり、裴注にしばしば見られるような長文の注記を誤写無しに書き上げるような神業は存在しなかったのです。これは、北宋咸平本にも見られていて、現存の南宋刊本に於いて、初めて一行を二分する割注が導入されたのです。何しろ、刻本では、時代最高の職人が版木に刻みこめば、以後、正確に印刷されていくので、大幅に紙数を減らせる割注が当然になっていますが、別に当然ではないのです。

 何れにしろ、裴注追記は、陳寿が決定稿とした原文/本文と区別されていて、原文を書き替えることはありません。
 世上、『裴注が正史「三国志」の一部であると誤解した途轍もなく不出来な論義』が底辺にあるので、氏も、ついついつられて追従したかも知れませんが、追従するのは先行者の審査を経た上で、「奈落落ち」の道連れを避けるものです。善良な読者を、自身の誤謬の道連れにするのは、何としても、回避してほしいものです。

*用語混乱
 「改竄」、「善意」、「悪意」などの法律用語を、日常感覚で書き連ねるのは、まことに不用意であると考えます。

*類推の主張
 視点を反転して、国志に一切改竄が無かったと断定する絶対的な証拠は無いから改竄の可能性を認めるべきだと力説されているようですが、それは、とてつもない考え違いです。
 漠然たる一般論であれば、根拠不確かな推定を押し出さなくても、単なる思いつきの主張として、存在を赦されるものです。
 ところが主張されているのは、特定の部分で特定の内容の改竄があるとの具体的主張であり、それは、確証を持って正しく主張しなければ、単なる暴言だということです。

 1-4のような不確かな/棄却されるべき推定の積み重ねを確証とみているということは、学術的な論証に対する判断能力が欠けているということであり、著者に対する評価が、大きく低下するものです。

*助言
 と言うことで、このように無法な論法は、大変損ですよ、と忠告するものです。

 所説を主張したいのであれば、正攻法で論証すべきです。世に、曲芸的と揶揄される主張はごまんとありますが、論理の曲芸は、褒め言葉ではなくて、欺瞞の類いとして、排斥されているのです。

 おそらく、著者は、嫌われても良いからと苦言を呈してくれる友人をもっていないと思うので、ここに、とびきりの苦言を書き記したのです。

                        完

                        

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