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2024年8月

2024年8月28日 (水)

今日の躓き石 毎日新聞夕刊一面の墜落 今ひとたびの「リベンジ」蔓延

                       2024/08/28

 今回の題材は、事もあろうに、毎日新聞夕刊第一面記事である。

 当ブログの定番である「リベンジ」廃絶運動であるが、大半の場合、非難の対象は、蔓延の根源である野球界の懲りない悪習である。発生源から「ダイスケリベンジ」と言いたくなるのだが、今回は、夕刊一面の、言わば、毎日新聞の金看板に、でんと「リベンジ」がのさばっているのには恐れ入った。恐らく、署名記事を書いた新進記者は、こんな所でどつかれるとは思わなかったのだろうが、恨むなら、校閲部のチェック漏れを咎めるべきであり、逆恨みして当方を血祭りに上げるなどとわめかれても困る。こちらは、善良な定期購読者である。

 どうか、このような汚い言葉を紙面に持ち出すような失敗は、今回限りにして欲しいものである。今回の記事の取材先が、どぎたない言葉をまき散らしているのかもしれないが、そこは、「言葉の護り人」である毎日新聞記者が、やさしく指導してあげるものではないだろうか。

 丁寧に説明すると、この言葉は、世界のあちこちで繰り広げられている流血「テロ」を賛美する最悪の武器であり、中東で続く血なまぐさい報復合戦を賛美する気がないなら、慎むべきである。いや、この言葉は旧約聖書で、固く戒められているから、本来、ユダヤ教とキリスト教とイスラム教徒とが、こぞって共有する重大な戒めの筈なのだが、「天誅」、「聖戦」扱いでまかり通っているのである。幸か不幸か、日本人の大半は、そのような血なまぐさい戒めと無縁で、仇討ちの血祭りを讃えているが、そのせいで、此の国で復讐賛美の言葉が出回っているのは心有る外国人が忌み嫌っているのである。

 どうか、少なくとも毎日新聞紙面から、この忌まわしい言葉が自然消滅して欲しいものである。少なくとも、それだけは、毎日新聞が実現できるものである。それ以上は、報道人の良心の問題であるから、素人がとやかく言えるものではない。

以上

2024年8月20日 (火)

今日の躓き石 日テレプロ野球放送の「リベンジ」連発の恥さらし

                                                               2024/08/20

 今回は、異例であるが「日テレジータス」の「巨人広島」東京ドーム戦の「リベンジ」連発を見過ごせなかったのである。大学生の「同級生」呼ばわりなど、子供っぽいとして見過ごしたのである。ひょっとすると、選手自身の口癖かもしれないが、大体は、記者が言わせているものであるし、選手の幼い暴言を教育的指導するのは、メディアの専門家の責任と思うから、つまらない失言を公開して、選手の顔に繰り返し泥を塗りたくるべきでは無いと思うのである。

 当ブログは、野球界で蔓延している「リベンジ」なる汚い言葉の撲滅を切望して、痛烈な非難記事を書いているが、これまでは、批判に応える見識のある公共放送と全国紙に限定していたのである。要するに、スポーツ新聞記事や民放の中継番組は、悪性語が野放しだろうから、言っても無駄だとしていたのである。

 今回は、ほかならぬプロ野球界の盟主ジャイアンツの創立九十周年の祭典であるから、それに相応しい品格を望んでも良いだろうと感じたものである。

 くれぐれも、後世に忌まわしい言葉を継承しないように、関連メディアの是正を指導いただきたいものである。

 天下の「日テレ」に、なぜ「リベンジ」が、公序良俗に反する、撲滅すべき忌まわしい悪性語か説くことはしない。ご自覚いただいて、せめて、管理下の各メディアに今後出回らないことを祈るだけである。

以上

2024年8月19日 (月)

倭人伝随想 2 倭人暦 社日で刻む「春秋農暦」1/3 三掲

             2018/07/07  2018/11/24 2024/05/08, 08/19 
*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*随想のお断り
 本稿に限らず、それぞれの記事は随想と言うより、断片的な史料から歴史の流れを窺った小説創作の類いですが、本論を筋道立てるためには、そのような語られざる史実が大量に必要です。極力、史料と食い違う想定は避けたが、話の筋が優先されているので、「この挿話は、創作であり、史実と関係はありません」、とでも言うのでしょう。
 と言うことで、飛躍、こじつけは、ご容赦いただきたいのです。

□社日で刻む「春秋農暦」
*「社日」典拠
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
社日(しゃにち)は、雑節の一つで、産土神(生まれた土地の守護神)を祀る日。春と秋にあり、春のものを春社(しゅんしゃ、はるしゃ)、秋のものを秋社(しゅうしゃ、あきしゃ)ともいう。古代中国に由来し、「社」とは土地の守護神、土の神を意味する。春分または秋分に最も近い戊(つちのえ)の日が社日となる(後略)

 社日は、白川静師編纂の辞書「字通」にも記されています。
 社日(しゃじつ) 立春、立秋の後第五の戌の日。〔荊楚歳時記 、社日〕 (後略)

 また、「社」自体に、社日の意があるとされています。

 「荊楚歳時記」宋懍(劉宋) 守屋美都男:訳注 布目潮渢 中村悠一:補訂 東洋文庫 324

*社日随想
 雑節は、二十四節気、以下「節気」、に則っているので、社日は、太陽の運行に従っています。社日が今日まで伝わっているのは、一年を二分する「農暦」の風俗の片鱗が太古以来伝わっているということなのでしょう。

*太陰太陽暦
 月の満ち欠けで暦を知る「太陰暦」は、文字で書いた暦がない時代、月日を知るほぼ唯一の物差しでしたが、「太陰暦」の十二ヵ月が太陽の運行周期と一致していなくて、春分、夏至などの日付が変動するため、何年かに一度、一ヵ月まるごとの閏月を設けます。一般に「太陰暦」と呼ばれても、実際は、太陽の運行と結びついた「太陰太陽暦」であり、これを簡略に「太陰暦」と称しているのです。
 「八十八夜」、「二百十日」雑節が、立春節季に基づいているように、太陽の恵みを受ける稲作は、万事太陽に倣って進めなければならないと知られていたのです。
 一方、「太陰暦」は、海の干満、大潮小潮を知るためにも、広く重用されたのです。

*節気と農事
 節気は、日時計のような太陽観測で得られ、毎年異なる「太陰暦での節気」を基準として農務の日取りを決めて、社日の場で知らせたとみているのです。いや、各戸に文書配布して農暦を通達できたら、元日、年始の折にでも知らせられるでしょうが、当時、文書行政はないし。納付は、一般に文字を読めないので、実務の場で、徹底することが必要だったのです。

                             未完

倭人伝随想 2 倭人暦 社日で刻む「春秋農暦」2/3 三掲

             2018/07/07  2018/11/24 2024/05/08, 08/19 
*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*社日の決めごと
 村々の指導者は、節気を起点とした段取りを描いた絵を持っていて、そこには、例えば、代掻きの手順は何日後と決めているものです。毎年、通達された太陰暦の月日ごとの手順を決め、手配りを描くのです。
 かくして、稲作指導者は、春秋社日に参集した村々の指導者に田植え、収穫の段取りを徹底し、それが、村の指導者から家々に徹底されるのです。
 つまり、社日の場で、春の農耕の段取り、手配り、ないしは、秋の収穫の段取り、手配りが決まり、それぞれの家は、集団農耕の職能を担ったのです。
 あるいは、集落に掲示板があって、文字はなくとも、木に縄を巻くなどして、月と日を広く知らせていたかも知れません。

 以上、村落で共同作業を行う図式を絵解きしました。

*職能「国家」
 「国家」と書くと物々しいですが、中国古代史では、「国」は、精々一千戸程度の集落であって、文字の描く通り、隔壁で守られているものであり、それが、一つの「家」となっていたという程度でしかありません、現代語の巨大「国家」とは、別次元の概念ですので、よろしく、ご理解頂きたいものです。

 大勢の手配りが必要なのは、田植えと収穫時だけであって、それ以外の時は、それぞれの家で決めて良いから、稲作は年がら年中団体行動というわけでは無いはずです。

 さらには、後世のように、それぞれの家が、農暦と農作の要諦を掌握していれば、自主的に稲作できるでしょうが、それにしても、村落各家に職能を割り振ることによって、村落の一体感を保つ効用が絶大だったのです。

*「春秋農暦」の意義

 かくして、年二回の大行事を定めて農暦画期としましたが、この制を素人なりに「春秋農暦」と呼ぼうとしているのは、学術的な「二倍年暦」という用語が、その由来を語らないからです。

*陳寿の編纂意図
~後生東夷の臆測
 三国志編者陳寿は、「蜀漢」成都付近で生まれ育ちましたが、蜀に「春秋農暦」がなかったためか、農暦を知らず、長じて移住した晋都洛陽附近は、ほぼ麦作地帯で稲作風俗がなく、陳寿は、遂に春秋農暦の年二回の社日ごとの加齢の概念を知らなかったので魏略記事の意義が理解できず割愛したのかも知れません。あるいは、中原教養人である皇帝以下の読書人に理解されないことを懸念して、割愛したのかも知れません。

 当初稿では、そのように独りごちていましたが、以下、加筆しました。(2024/08/19)
 あるいは、元々、蜀の「春秋農暦」には加齢が結びついていなくて、それが、長江を下って、会稽付近に伝わり、更に、戦国「齊」なる東夷の世界を歴て、最終的に「日本列島」に定着したとも思えますが、いずれかの段階で、「俗」が変化したのかもわかりません。いずれにしても、文献には書き継がれていないので、後生東夷の臆測に過ぎません。
 ちなみに、「齊」の海港東莱から目前の海中山島に筏ででも渡って、一旦は、今日言う「朝鮮半島」に定着を試みたのでしょうが、洛東江が深い渓谷を刻みこんでいたため、水田稲作の根幹である灌漑水路が確保できず、水田農地開発が不可能であったため、北上経路の各地に比べて気温が低いこともあって、定住を断念し、温暖な海南の地に移住したとも見えます。遥か後世に至るまで、嶺東と呼ばれた弁韓/弁辰の地は、食糧生産が乏しく馬韓の地と比べて、貧困の地位に甘んじたのです。
 それは、後漢末期の献帝建安年間に、遼東公孫氏が不毛の地に郡制を敷こうと帯方郡を設けたとき「荒地」と呼んだので明らかなように、小白山地の彼方は、太古以来、文明の届かない荒れ地だったのです。
 帯方郡が、小白山地を越える竹嶺経路を開鑿し、郡治から狗邪に至る官道を開設したので、初めて、弁辰鉄山から郡治への鉄材輸送が開始し、この経路を利用して、海南倭地からの産物が到着するようになったので、洛東江渓谷に文明の光明が届いたのです。
 嶺東貧寒は、三世紀時点でも明らかで、郡から海津である狗邪に至る長い道程に、目覚ましい「韓国」は書かれていないのです。
 「倭人伝」に「倭地温暖」と書かれているように、暗黙の「韓地寒冷」とあわせて、韓地不毛、倭地豊穣の図が描かれているのですが、お目にとまりましたでしょうか。

*裴松之付注
の意義
 陳寿「三国志」に付注した裴松之は、長江下流の建康に退避した南朝「劉宋」の人で、稲作風俗(「風」法制と「俗」民俗)を知っていたので、倭人寿命記事に関する陳寿の見落としに気づきましたが、本文改訂は許されないので、魏略記事を付注し、示唆したのでしょう。

 倭人伝に春秋農暦が明記されていないのは、魏使を務めた帯方郡の士人が「春秋農暦」育ちであったため、当然とみたためであり、魚豢「魏略」も、特記まではできなかったのでしょう。

・補筆 2024/08/19
 但し、当然、魚豢「魏略」の採用した帯方郡志は、陳寿の薬籠中にあり、無用の蛇足と見て割愛したものと見ることができます。陳寿は、締め切りに追われて書き殴っていたのでなく、来る日も来る日も着々と推敲を重ねに重ねた上で「割愛」したのであり、裵松之は、皇帝の指示もあって、余計なお世話でゴミ記事を復活したとも見えますが、遥か遙か後世で、神のごとき明察を可能とされている後世東夷としては、陳寿本文と裴注とを分別して解釈することを求められているのです。

                             未完

倭人伝随想 2 倭人暦 社日で刻む「春秋農暦」3/3 三掲

             2018/07/07  2018/11/24 2024/05/08, 08/19 
*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*殷(商)遺風
 白川静師が殷(商)風俗と見た春秋社日は、私見では、長江下流域(後の呉越)から海岸沿いに伝わったようです。社日は稲作のための農暦であるから、その時期に稲作は商の旧邦、後の戦国齊の地に伝わっていたと見られます。

*商風廃絶

 当ブログ筆者は、のちに、旧邦であった商の一部が、西域の富を求めて中原に攻め上って武力国家を創業し、これが世紀を経て成長して天下を把握した殷(天邑商)となったと見ていますが、殷は、乾燥した中原に適さない稲作風俗を失ったようであり、殷を打倒した周は遊牧文化を持っていたので、その制はなかったようです。
 このため、中原に展開された華夏文明は、東方を「夷」とみて、その文化を排したもののように思われますが、あくまで、東都洛陽を発端とした浸透であり、鄙の民俗を根こそぎ書き替えるには至らなかったようです。

 再確認すると、殷(商)「文化」を承継したとされている周は、西戎に属する異文化を擁していたものであり、水田稲作とは、ほぼ無縁であったため、「春秋加齢」を、必ずしも周制としていなかったように見えます。

*「二倍年暦」談義

 後代、春秋時代の斉、魯を起源とする諸史料を中心に、年暦に殷の遺風「二倍年暦」が偲ばれるということですが、ここでは触れません。
 (例えば、「古賀達也の洛中洛外日記」ブログ「二倍年暦」に発表。
http://koganikki.furutasigaku.jp/koganikki/category/the-double-year-calendar/)
 先賢諸兄姉の足跡、特に、寄せられた毀誉褒貶を察すると、一つには、「二倍年暦」を字面だけ見て「誕生日に一気に二歳加齢する」と即断した野次馬が多いように見られるので、安直な誤解を正したいとして書いたものです。

*伝来の背景想到
 一方、齊から倭への伝来は、どうであったかは不明ですが、風俗、つまり「法と秩序を示す[風]及び世俗の有り様を示す[俗]の複合」の大系が伝わったようであり、集落ごとなど大所帯の移住があったと見られます。ただし、移住の実態としては、山東半島東莱から、目前の海中山島、後の馬韓南部への移住があった後、更に南方の海中山島の地に移住したと考えれば、冒険航海を必要としないので、いずれかの時代に、家財、種苗、蚕の種などを抱えた移住が行われたと思われますが、もちろん、これは、憶測であり、特に論証されたものではないのです。

 移住の時期次第ですが、殷後期以降で文字が存在していれば、ことは、「風俗」と言う必要はなく、端的に、文書記録を携えて「文化」移住したのではないかと思われます。となれば、後の戦国齊での稲作「文化」のかなりの部分が、暦制も含めて忠実に再現されたと思うのです。但し、移住後、商「文化」がどの程度継承されたかは不明です。

*謝辞
 以上、拙論の手掛かりとして、白川静師の著書を参考にさせて頂いたことに深く感謝するものです。白川静師は、漢字学の分野で比類無い業績を残されていますが、甲骨文字、金文などの古代文字史料を隈無く精査したことによる中国古代、殷周代の民俗、文化に関する思索も、大変貴重なものであり、拙論にその出典を逐一付記すれば、付記が本文を圧すると思われます。

 しかし、拙論は、論考でなく、出典に立脚した、あるいは、啓発された随想であることは明示しているので、一々書名を注記しておりません。

 この際の処置について、無作法をお詫びすると共に、拙論の趣旨を一考頂ければ幸いです。

                             この項完

2024年8月17日 (土)

私の本棚 図説検証 原像日本 2 大地に根づく日々 水野 正好 更新 1/2

 古代人と神々 水野 正好 (第5段に相当 表記なし) 旺文社 1988年
 私の見立て★☆☆☆☆ 神がかりの荒技 2017/02/10 補充再掲 2020/06/27 教育的指導追加 2024/08/17

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに
 「図説検証原像日本」シリーズは、編集委員として、陳舜臣、門脇禎二、佐原眞と大物を据えた意欲的な取り組みであり、豊富な図版と多くの筆者の論考をを大型本五冊に収容した大著です。
 今回、古書店から購入したとは言え、図版資料としての重要性は絶大です。
 但し、記事部分は担当者の見識で書かれているので、しばしば躓かされます。今回は、丁寧に考え違いを教え諭しているので、

*「倭人伝」談義に重大な異議あり
 ということで、目下関心を持って読み進んでいるのは、古代記事なのですが、当段筆者の古代世界観の一端が、次の段落に明示されています。

 政治を反映する青銅器
 翻って『三国志』の魏志東夷伝倭人条によれば、日本は倭国(わ)、王都は邪馬台国(やまと)とされる。そして、九州の対馬(つしま)・一支(いき)・末廬(まつら)・伊都(いと)・奴(な)・不弥(ふみ)の諸国を統轄し、魏使等と倭国王、王都間の連繋をとる機構として「大率」が置かれている。言うまでもなく邪馬台国は大和であり、大は後世の太宰府に相当する機構である。こうした倭国の機構に対応する形で、青銅器の世界が展開している。倭国中枢の邪馬台国が直接統轄する範囲に銅鐸が分布し、大率なり率に統轄を委ねている範囲に銅矛が分布するのである。

 つまり、著者は、文献資料である「魏志倭人伝」の自分流の解釈、言い方によれば、手前勝手なこね回し、に合わせて、青銅器の分布を解釈するという態度をとっていますが、要するに、自分流の青銅器分布解釈に合わせて、文書資料を読みこなしているのですから、これは、遺物考古学者の論考の進め方として「本末転倒」でしょう。
 按ずるに、所属組織の機関決定をなぞっているのでしょうが、それは、ご自身とご家族の平安のために余儀なく辿っている天下御免の「禽鹿径」(裏道)としても、学門の本道を大きく逸脱しているのではないかと、懸念するものです。

*教育的指導
 2024/08/18
 僅かな行数字数に、重大な文献史料誤解の連発であり、どこのどなたの創作なのか、念の入った「落第答案」がさらし者になっているのは、創刊というか悲惨というか、何とも、言いつくろいに苦労するのです。せめて、原文を提示して、そこに解釈を自己責任で塗りつけたという形式にすれば、「思いつき」の素朴な発露と見てあげることが出来るのですが、改竄文書を立て付けの悪い素人普請で投げ出されては、是正のすべがありません。
 冒頭の一文を例にすると、中国で三世紀に書かれた陳寿「三国志」「魏志」東夷伝には、「倭人伝」と明記された一伝がありますから、これを「倭人条」と呼ぶのは、一種の仮説に過ぎません。魏志倭人伝によれば、三世紀に「日本」は存在しない、東夷倭人に「王都」は存在しない、まして、「邪馬臺国」、ならぬ「邪馬台国」は、一切存在しないのは、天下周知の事実ですから、ここに書かれているのは、二千年後生の無教養な東夷に二次創作と見るものではないでしょうか。
 以下、勢いに任せて難詰します。
 勝手に「大率」なる官人を創造して、それは、後世の太宰府に相当すると、気軽に断定していますが、太宰府は、数世紀後世に設けられた地方組織・機構であり、その時点で、成文法が成立、公布されていたものであり、文書送達の街道が完成していたとみなされます。して見ると、そのような体制整備が影も形もない時代に、近隣諸国に対して運用されていた官である、「倭人伝」に書かれている「一大率」なる官名とは不釣り合いです。勿論、「倭人伝」の編者は、太宰府など知ったことではないので、つじつまが合わないのは、不勉強で取りこぼしたのか、承知の上で道を外したのか、とにかく後世東夷の責任です。
 転じて、「言うまでもなく」と同族でだけ通じるお呪いをして、「邪馬台国」が倭であると、大胆な神懸かっている創作を進めていますが、当時の氏神に帰依していない部外者にも理解できる論証を必要としています。これでは、「カルト」教義のようだと書きかけたら、陰の声でもないのですが、「敬意」を示せと空耳がしたので、ちゃんと、「お」を付けて、『お「カルト」』のようだと言い直したいところです。

*遠隔統治の夢物語 2024/08/18
 北九州視点から蜃気楼の彼方の位置不詳の『「邪馬台国」は「倭人伝」に登場しないが、日本列島西部を包括支配していた』との言いのがれは絶妙好辞ですが、現代風に言うと、遠隔の地に在って、外交、軍事、租税、祭事の大権を保持している機構は、主権国家であり、文書行政の整った「太宰府」体制とは、全く異なった独立国と見るものでしょう。
 ちなみに、班固「漢書」西域伝に依れば、漢武帝代に派遣された百人の漢使節は、カスピ海東岸の「安息国」居城で、長老と折衝したところ、長老は、二万の常設軍を供えた要塞で、東方の大月氏の侵掠に備えているが、漢との「外交」については、西方数千里の国都の指示を仰ぐ必要があるとの回答を得て待機し、國王の親書を受けた長老が、漢使、つまり、漢帝の代理人である西域都督の使者と締盟したと明記されているのです。
 安息国は、法制と文書使制度が完備していて、東方辺境の軍事都督は、外交権限はもっていなかったが、文書で「王都」の勅許を求め、国王代理として締盟できたわけです。(漢書西域伝で、安息国は、唯一、漢に匹敵する文明国と認められていて、「王都」の呼称を与えられているのです)
 魏志倭人傳を編纂した陳寿は、当然、班固「漢書」西域伝安息条を知悉していたわけですから、伊都国王が、遠隔の「倭王」から委任された西方都督であったのなら、そのように、権限委任の手続きを明記した上で、従って、伊都国王に信書を提示した上で、代理人と締盟したと書くものです。そのような記事は一切ありませんから、伊都国王は、帯方郡から見て、所定の権力を保持している統治者であり、外交代権を行使する際に必要とされている女王の信任は、対面、面談で確認していたと明記されているのに等しいのです。

 素直に考えればわかるはずですが、班固「漢書」に示された安息国のように、成文法に基づく文書行政が確立されていれば、一片の書面で、遠隔地の代表者に指令を送り、必要があれば、馘首することが出来ますが、全て対面、口頭の世界で、そんなことはできるはずがないのです。せめて、中国太古のように、金石文として盟約を交わすことが出来れば、印綬の公布で、身分証明ができれば、全権を委任した使者の派遣で、強権を振るうことができるでしょうが、ないないづくしの三世紀に、どのような神業で広域支配できたか、論証は、至難ではないでしょうか。

 古来曰わく、言うのはタダ、言ったもん勝ちと言うことでしょうか。まるで、無学な野次馬の放言と誤解されかねない不用意な書きぶりであり、であり、「夜郎自大」でもないでしょうが、痛々しいものがあります。
 
*閑話休題
 それにしても、著者の脳裏に反映されている「政治」は、どの時代のどの国の言葉なのでしょうか。ちと、時代錯誤丸出しの粗雑な言い回しです。

 以前、自身が盆栽と化した著者が、資料を丹精して盆栽を仕立てていると揶揄しましたが、本記事もその一例です。「自縄自縛」と言いかけるのですが、少しは、趣(おもむき)のある言い回しを採ったものです。

 倭人伝を持ち出す以上、勝手な解釈を展開すべきではありません。まずは、独善を押しつける「日本」表記です。三世紀当時どころか、はるか後世の八世紀冒頭まで、「日本」は存在しなかったのです。また、当時蛮夷の王は、「王都」と称することを許されてなかったのです。勿論、地理概念の大和も存在せず、青銅器世界の展開も、手前味噌の概念なのです。

*文献史料の操作
 もし、ご自身の学究の手順として、文献を優先・先行させるのなら、各地で出土した青銅器を、先入観のない客観的な目でつぶさに観察、計測、分析したのと同じ客観的な目で文献を読み、科学的な目で史料批判すべきです。

*独自解釈の押しつけ
 古田武彦氏の古典的指摘を確認するまでもなく、「倭人伝」の倭王の居処は邪馬壹国であり、邪馬台国は後漢書由来です。その国が、僻遠のヤマトという説も有力ですが、九州北部にあったとする有力な学説が存在しています。
 文献解釈が分かれている中、一方にのみ依拠して自分流の解釈に固執し、文献に書かれている文字を自身解釈で書き換え、それに基づいて青銅器に反映されているとする「政治」を説くのは、科学的な態度といえないのです。

 つまり、ここに書かれた自己流倭国構造は一つの仮説であり、不確かな世界観に基づく文献解釈、不安定な仮説に基づいて、青銅器の意義づけを解釈するのは、仮説の正否以前の問題として学問の正しい手順を外れています。
 そのような不適切な論法を、原文献を参照できない一般読者に押しつけるべきではないと思うのです。

*Mythの剽窃
 よく見かける悪弊なので、個人的な意見ではないのでしょうが、中国で書かれた資料を、二千年後世の無教養な東夷の見当違いの解釈にこじつけて書き換えて、それを、もっともらしく著作にするのは、同時代人、後世人に対して、重大な悪弊を残しているものと見えます。考古学者として、恥じることのない、適確な著作を期待したいのです。
 既に、いずれかの組織の決定事項になっているので、異議を挟むことが許されていないのでしょうか。それなら、せめて、このような「Myth」(一神教信者が、異教の教義に対して投げつける蔑称)を誰が提唱したのか、功績を明らかにすべきでしょうか。「剽窃」は、創唱者の知的財産権を侵害する重罪だと思うのです。

                              未完

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私の本棚 図説検証 原像日本 2 大地に根づく日々 水野 正好 更新 2/2

 古代人と神々 水野 正好 (第5段に相当 表記なし) 旺文社 1988年
 私の見立て★☆☆☆☆  2017/02/10 補充再掲 2020/06/27 2024/08/17

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*戦国難民考
 ちなみに、水野氏は、中国の戦国時代のおそらく末期、秦による全国統一の際、中国北部の燕から、亡国から逃れた多数の人々が朝鮮半島を南下し、大海の彼方の日本列島に渡来したとみています。不明瞭なので、個人責任で明確化しています。
 燕が滅んだのは、BCE222年ですが、すでに他の諸国は、悉く秦に侵略されているので、燕の王族や貴族が逃げるなら、選択肢は、いずれも夷蕃で、北方の匈奴の世界でなく、温和な朝鮮半島を選んでも不思議はないのです。それにしても、家族一同移住できたのは貴族階級であり、従って、単なる逃亡でなく、中原世界で通用していた中国文化を持ち込んだ亡命と見ているのでしょう。

*遺らなかった文化資産
 それなら、定着地で中国語を語り、漢文を書き記し、中国「文化」の種をまいたものと思うのです。そのためには、木や竹から簡牘を作り、筆と墨を作り、持ち込んだ豊富な書籍に親しみ、時に応じて文筆活動したはずです。衣類も、中国のものとして、麻などの種子を栽培したはずです。
 断髪、文身、黥面は論外です。生食は禁忌です。牛肉、狗肉が必要です。
 祭礼として、家族の祖先をまつることも当然です。これは、中国文化の根幹です。家を守るという事は、「姓」を墨守します。中国の暦から切り離されても、月日の経過を年代記に書き綴り、また、墓碑や家系図を残したはずです。
 「文化」とは、固持すべき必須要件を持ち、かつ、それを支える多くの要素を持つものです。単なる民俗、習慣の集合体ではないのです。

 それにしても、古代遺跡で、中国南方の影響は、稲作や氏神祭礼などが多く継承されていて、北方風俗の伝播は、まことに目立たないように見えますが、素人の錯覚でしょうか。
 燕の「文化」は、大地に溶け込んで、伝来風物なる微かな断片だけが遺ったのでしょうか。

*文化幻想
 著者は、「縄文文化が消え弥生文化が広がった」と無造作に言い放つのですが、文字なき社会に文化も文明もないのです。「文化」は、確固たる漢語であり、後世日本人が、勝手に言い崩すのは、ありふれた、無教養の語彙錯誤です。
 亀卜談義がありますが、「筆者は、「亀卜の趣旨がわからないと逃げます」しかし、占いたい趣旨を書き込んだ上で亀卜し、神の回答である割れ目解釈するのが、亀卜であり、託宣には、確立された解釈法があったはずです。
 そのためには、亀卜文字の大系が必要です。殷(商)は、卜辞の解釈に適用するために漢字を創出したと言われています。ついでに言うと、易の筮竹も、易経に基づく解釈がなければ、託宣できません。いずれも、文化の一部です。

*憶測の集成
 「弥生文化」の開花に、「中国文化」の流入を説く割には、「文化」に即した具体的な物証、論証が欠けているのです。遺物考古学にしては、域外の話題なのでしょうが、ちと、不勉強に過ぎます。なお、記事に於いて依拠した文献史料も、明示されていません。憶測の堆積でないでしょうが、かなり疑問に感じます。

◯まとめ
 念のため言うと、不満の対象は、不確かな文献解釈への無批判の依存であり、遺跡、遺物の実見による「純然たる」考古学的考察に、素人が口を挟むものではないのです。文献解釈を、時代同定に持ち込まざるを得ないとしたら、安易に俗耳に訴える「定説」に無批判に追従するのではなく、自律的な史料批判を怠るべきではありません。

 もし、遺物考古学が、定説に追従して定見としたら、逆に、そのような遺物考古学定見を根拠として定説が強化され、混迷が深まるのです。
 いや、現に深まっているのですが、その責任の過半は、遺物考古学界の無定見な追従姿勢にあるのです。
 本書に署名されている諸賢は、後世に名声を残したいと思われているのでしょうが、これでは、後世の批判を浴びる標的となっていると言わざるを得ません。

 毎度のことですが、以上は、一個人、素人の意見ですから、断言調で展開していても、別に絶対視されるべきと確信しているわけではないのです。ひたすら、晩節を穢すことが無いよう、ご一考いただきたいというだけです。

                               以上

新・私の本棚 刮目天ブログ 「春秋二倍年歴?つじつま合わせの空想」1/2

 春秋二倍年歴?つじつま合わせの空想・妄想だよ!(;^ω^) 2024-08-15  古代史 2024/08/16, 8/19 

◯はじめに
 かねて、奔放な発想に私淑している刮目天氏ですが、概して、「日本古代史」論議なので、口を挟まないようにしていますが、今回は、当方が専念している「倭人伝」解釈の補足説明が必要と見えるので、ご高説に異議を唱えるということで、無礼にも氏のご高説に対し講釈を垂れさしていただいています。

◯都度対応
 「春秋二倍年歴?」から混乱します。誰がいつ言い出したのか調べようもない「トンデモ」タイトルです。存在しない新説の否定は不可能です。

日本書紀が春秋二倍年歴説をはっきりと否定していますよ。
春と秋で2年とかぞえるなら天皇紀は1年おきに春・夏の記事と秋・冬の記事になるはずですが、そうはなっていませんよ。1年は12ケ月としています。

 主旨不明瞭ですが、普通の言い方とすると「書紀」編者は「二倍年暦」を否定してないとのご託宣と見受けます。裴注版「倭人伝」を承知で否定するなら、明解に書いたはずです。「春秋二倍年歴」は、現代新説であり、書紀編者の知ったことではないのです。つまり、わざわざ否定するはずがないのです、
 「倭人伝」は三世紀筑紫であり、ご提案は数世紀後の「纏向史蹟」新説であり、辻褄が合わないのは、全て「後世」側の責任です。
 ちなみに、当時の暦には閏月があり、一年十二ヵ月とは限らないのです。

「魏志倭人伝」裴松之注に「魏略ニ曰ク、其ノ俗正歳四節ヲ知ラズ、但、春耕秋収ヲ計ツテ年紀ト為ス」とあります。

 要するに、裴松之が魚豢「魏略」を所引したのですが、それが陳寿が棄却した意見が陳寿の真意を示すとは、凡愚の素人には、とんと見当がつきません。

「正歳四節」つまり、中国最初の夏王朝に起源のある「正月から始まる四季のまつり」のことを倭人は知らず、四季のある日本では人々の活動は春耕秋収がひとつのサイクルですから、「倭人は春と秋の祭祀によって一年としている」という話なのです。

 「倭人」の者が中国太古の制度を知らないのは、当然ではないでしょうか。
 「春秋農暦」は、中国由来の水田稲作の基本なので、南朝劉宋の裴松之は承知で窘(たしな)めたのでしょうが、稲作地帯の蜀漢育ちの陳寿は知っていても、雒陽人には通じないと見て割愛したと見えます。
 中国で制定・運用されていた太陰太陽暦は、大変複雑で、正歳、つまり、月の満ち欠けを刻んで作られた太陰暦の二十四ヵ月のどの月を「正月」にするかは、以後、殷暦、周暦を、秦始皇帝も変え、天子の公布についていくしか無いのです。
 閏月を追加しないと正月の位置がずれてしまうので、これも高度な計算の産物なのです。
 繰り返しますが、一年は、十二ヵ月ではないのです。

 特に、景初から正始にかけての改暦は複雑怪奇です。そして、当時、遙か西方のローマで採用されていた「ユリウス暦」(ガイウス・ユリウス・カエサルが指導したとされる)太陽暦は、全く知られていなかったのです。但し、二十四節気は、中国太古以来の太陽観測に基づき、日食予測までできた高精度の「天文学」の成果であり、そのような科学を知らない東夷の知るところではないのです。

 ということで、「二十四節気」は、太陽の運行に従って毎年定義されるものであり、春分、秋分、夏至、冬至を始め、年間二十四回の節目を太陰暦の月々に重複しないように配置するのは難題でしたから、東夷の知るところではなかったのです。要するに、「正月」と「二十四節気」は、連動していないのです。丁寧に言うと、「正月」は太陰暦の制度であり、これに対して、「二十四節気」は、太陽の運行に基づく、言わば「太陽暦」の制度ですが、当時、太陽暦が運用されていたわけではないのです。

*水分(みずわけ)~余談
 ということで、「二十四節気」は、年間の農作業を、太陽の運行に従って決めるという合理的、崇高な制度です。遙か遙か後世の「日本」でも、太陰暦の世界に「八十八夜」、「二百十日」(にひゃくとおか)が継承されているので、月日で伝えることのできない農事暦(こよみ)に関して尊重されていたとわかるのです。何しろ、地域集団が揃って行うのであり、年に二回、聚落総会で日程徹底するのは、もっともなことです。
 特に、田植えの際の「水分」は、集落間の諒解が無いと大事件になるので、各集落が集う氏子総会の場で、一日刻みで決定する必要があるのです。全くの私見ですが、「卑弥呼」の「卑」は、天からの恵みの雨粒を受けて「水分」する「柄杓」であり、巫女である卑弥呼の「水分」は、全集落に支持されていたように「倭人伝」から読み取れます。してみると、卑弥呼は水神に事(つか)えていたのであり、太陽神とは別のおつとめとなりますが、余り強調すると粛正されかねないので、ここでひっそり呟くだけにしておきます。

それに対して、倭人は春と秋でそれぞれ一年と数える二倍年歴を使用しているというのは、書かれたものが正しいはずなので、つじつま合わせで発明された全くの珍解釈なのです。

                               未完

新・私の本棚 刮目天ブログ 「春秋二倍年歴?つじつま合わせの空想」2/2

 春秋二倍年歴?つじつま合わせの空想・妄想だよ!(;^ω^) 2024-08-15  古代史   2024/08/16

[承前]

 「書かれたものが正しい」、つまり、陳寿の記事が正しいとの御意見ですが、ここで罵倒されているのは、纏向遺跡派を含めた現代人の「発明」であって、それを、三~五世紀人にケツを回すのは、見当違いです。纏向遺跡派を含めた現代「発明者」の間で話を付けるべきでしょう。

弥生時代の水田稲作は春に田植え、秋に収穫するわけで四季のある日本ですから一年を春と秋で二年と数えるなどあり得ません(詳細は 富永長三「不知正歳四節但計春耕秋収為年紀」について」参照)。

 高邁な御意見はともかく、三世紀の筑紫には、「弥生時代」も「日本」も存在しないので、そのような風習が「なかった」とするのは、誰にもできません。何故、神ならぬ現代人が、確信を持って断言できるのか意味不明です。他人の所説の聞きかじりにかぶれるのでなく、貴兄のご賢察を伺いたいものです。

ですから倭人が二倍年歴を採用しているなどと言う妄説は、初期の古代天皇の崩年を半分にして実在天皇と考えたい現代日本人が言い出した珍解釈なのですから、逆に、記紀で異常に長命な天皇は実在しない天皇だということが分かりますよ。

 氏の「陰謀」説は、三世紀筑紫の「倭人」の知ったことではなく、纏向遺跡派の内部事情なので、そちらで解決して頂くしかありません。論議が、いつの間にか、「現代日本人」にすり替えられているのは、貴兄にしては麺用です。(書き飛ばされたのでしょうが、混乱していて、用語が混乱していて、論理が錯綜しているので、筋が通らず、壮大な古代史世界を構築している氏の論考としては、もったいない感じがします)

◯うらばなし/ホントウのはなし
 原点に戻ると、「倭人伝」に対する裴松之追記は、魚豢「魏略」の引用であり、『郡への報告が、農暦「春秋報」であり「四季報」でない』というものです。
 [裴松之曰 (魚豢)]魏略曰:其俗不知正歲四節,但計春耕秋收為年紀。
 官制は四季報であるのに、「俗」(民俗)は春秋農暦報としています。

 このあとに、人の寿命と婚姻のはなしが続いています。
 見大人所敬,但搏手以當跪拜。其人壽考,或百年,或八九十年。其俗,國大人皆四五婦,下戶或二三婦。
 単に、戸籍に少なからぬ年寄りが存在し、人寿と称して百歳まで書かれている例があるという風評(「倭人」戸籍は、発展途上なので八十年以上遡及できない)に過ぎません。ちなみに、裴注に類似した「其俗,國大人皆四五婦」とする言い回しは、恐らく、魚豢「魏略」を引用したものなのでしょう。そして、元々は、秦代以来の遼東郡の下部機関に当然蓄積されていた「帯方郡志」の引用でしょう。何しろ、原史料は一つしか無いのです。

 参考かどうか、中世地方戸籍で、各戸に老人が多く壮者が少ない事例があり、「倭人」でも、壮者を老人として人頭税、徴兵を免れた可能性があります。
 同様に、婦人が長大(成人)して別戸を構えると耕地を割り当てられ納税義務が生じるので、大人の第二夫人以降として節税した可能性があります。
 陳寿は、史官として、公文書記事を「史実」として継承していますが、その真意は、紙背/行間から読み取るべきであり、後世東夷の辞書など引いても、窺い知ることなどできないのです。渡邊義浩氏に言わせると、史官は、全て二枚舌ということですが、素人としては、精々、古典文例に潜む真意を探ることしかできないのです。

◯倭人伝の真意推定
 「倭人」の国風と民俗は中国と異なり、もっともらしく書いていますが、実際は、よくわからないのです。

 私見ですが、「倭人伝」全体は、戸数、道里、方里の各記事で、中原基準で「倭人」を評価してはならないという教えに満ちていますから、ここも、そのような意図で書かれていると見るのが合理的な解釈と見えます。
 世上、新奇(古代史では絶賛)解釈で騒ぐかたが多いのですが、「思い込み」、「思いつき」ばかりで、信じるに足りないものばかりと推定しています。

◯失言回避の勧め
 刮目天氏は、正史の一篇、僅か二千字の「倭人伝」の些細な記事から棒大空想を展開している野次馬論者が多いのに呆れているでしょうが、氏ほどの大家は、史料を理解できない野次馬を相手に、現代若者口調に迎合しない方が良いと思います。後世、粗雑な論議として批判されるのは、刮目天氏の所論であって、責任の付け回しはできないのです。せめて、揚げ足を取られないように、ご自愛いただきたいものです。

              臣隆誠惶誠恐,頓首頓首,死罪死罪。

                               以上

2024年8月 2日 (金)

新・私の本棚 古田 武彦 九州王朝の歴史学「国都方数千里」談義 四訂 1/2

 第四章 新唐書日本伝の史料批判  ミネルヴァ書房 2013年3月刊
私の見立て ★★★☆☆ 当記事範囲 功罪相半ばの卓見 2020/11/09
 改定2021/01/11 再訂 2021/01/12,01/31,07/22,2022/09/26 2024/04/13, 08/02, 09/28

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

□はじめに
 本書は、章末に[注]、巻末に人名、事項索引を備え、専門書の体が整っています。学術書として十分な校訂を経ているという事です。なお、本稿は、1991年4月刊原著の復刊、確定稿の資料批判です。

◯一字の解釈考
 新唐書「日本伝」は、改国号記事の後、次のように書きます。(句点一部解除)
 使者不以情故疑焉又妄夸 其国都方数千里
 「東アジア民族史 2」(平凡社 東洋文庫 小林秀雄他 訳注)は「国都は、数千里四方であると誇大に偽っている」としていて、定説めいています。対して古田氏の読みは、(其国)「都(すべて)方数千里なり」で画期的です。

*誤解の是正 [概数表記割愛御免]
 (後生東夷、つまり、無邪気な現代日本人にとって)自然に読めてしまう「国都」「方数千里」解釈は、すぐわかるように、文としての意味が通らず、途方もない見当外れなのです。
 何しろ、正史として編纂された新唐書「日本伝」で、「国都」の所在地も城名も書かずに「方数千里」と広大さを語るのは、正史たる史書として法外です。「新唐書」は、個人の思いつきの産物でなく、衆知の結集ですから、本来、そのような不体裁はあり得ないのです。つまり、後世中国史家の句読が「都」(すべて)錯誤に陥っているのです。
 加えて、東夷夷蛮の国の王の居処を、「国都」と尊称するのは、漢代の伝統が途絶えたと見える唐代としても不敬の極みで、ここでも、解釈が齟齬しています。
 古典書を、「先入観に囚われて軽率に誤読する」のは、千年後生の無教養な東夷だけの特技ではないのです。

 是正は、「其国都」「方数千里」とする誤解を止め、「其国」「都方数千里」と正解するという是正策です。つまり、「其国都」が「方数千里」』ではなく、『「其国」が「都(すべて)方数千里」』と読みなおすのが妥当で、以下、普通に意味が通るのです。比較的意味の通りやすい「日本語」に飜訳するなら、「都合」とするところですが、「読み下し」では、限界を超えた感じもします。

 とはいえ、東夷が「国都」などと自称するのは「自国」が「大唐」と対等だと反っくり返っていることになり、叱責を受けるべきものですが、中国側の鴻廬、つまり、異人受入部門は、蛮夷の文書を取り次ぐ際には、原文のまま取り次げという指示でもあるようですが、中国史書に取り出されてみると、異様に見えます。

 あえて、蛮夷が自称した「国都」を、国内史料風に国の「京都」(けいと)と解すると、例えば、平城京が、一辺数千里の正方形を満たしているという意味であり、鴻廬からすると、「おまえ、自分の言っている意味がわかっているのか」と言う事になりますが、来訪している行人、使節は、ただの子供の使いですから、何と言われても返事のしようがないのです。まして、いや、これは、「国土」の書き間違いなどと言い逃れはできないのです、何しろ、国書には、蕃夷の国王の印璽が押されているから、一切、訂正できないのです。
 先賢諸兄姉から、その辺りの事情について説明がないので、当否はともかく、素人考えでそのように解するしかないのです。

 何しろ、千年後生無教養な東夷と自覚して、本能のままに「自然に」読むのでなく、丁寧に、其の「深意」を読み解く、高度に知性的な努力が必要なのです。

 そして、古田氏の採用した『「方里」が正方形一辺の里数を示している』とする「方里」解釈には、難があります。但し、話が長いので、別稿に譲ります。

◯舊唐書記事参照
 「舊唐書」「倭国伝」の「日本国条」は、「又云其国界、東西南北各数千里」であり、「方里」も「国都」も書かず、順当な記述です。編纂者の古典教養が偲ばれます。いくら「蕃人の国書をそのまま取り次ぐべし」と言われても、物には限界があるのです。

 「舊唐書」を是正したと言う触れ込みの「新唐書」の「日本」伝が、冒頭の「東西五月行、南北三月行」の記事で矩形/方形領域を描きながら、天皇系譜記事と「日本」国号起源報告の後、面積表現として「方里」を申告したとしたら意図不明です。因みに、隋書では、俀国は道里を知らないと書いているのです。

*古典史書用語の復旧
 ここまで確認した限りでは、新唐書は、『漢魏晋の「方里」と「都」の規律を復旧した』と見えますが、理解した上で適確に再現したかどうかは、不明です。何しろ、後世句読で、時代最高の権威者が其の原則を失念しているのですから、あくまで、勝手とは言え、有力な仮説という事です。

*藩王に国都なし
 班固「漢書」以来の正統派正史は、漢蕃関係古制として、蕃王の居を「都」と称しません。
 国内の「王」治所を「都」と呼ぶことすらないから、遥か格下の蕃王、藩王が、其の居処を「都」と称するのは、死に値する僭越です。

 というものの、西晋が、ほかならぬ蕃夷の侵攻軍による首都雒陽滅亡によって、中原を喪失して以降、つまり、漢蕃関係崩壊以後、北方蛮族から出て中原を占有した北魏、東魏、西魏、北周、北齊の北朝系王朝は、四夷は、ことごとく蛮夷たる自身の輩(ともがら)、共に「客」であったもの同士という共感からか、蕃王の居を「都」と称しましたが、全土を統一した隋、唐は、中華正統意識から、漢蕃関係を古制に復旧したようです。

 てみじかに言うと、正史用語の語義は著者の世界観に左右されるのです。従って、新唐書は、漢魏晋の「方里」と「都」で書かれているものと見えます。

*おことわり
 以上は、大変高度な審議なので、国内史料に長年慣れ親しんでいる方々には、俄(にわか)に信じがたいかも知れませんが、当ブログ筆者たる当方は、こじつけや飛躍のない、順当な論考と考えています。また、後述するように「倭人伝」の道里行程記事の明快な解釈に繋がるものです。

 以上、九章算術」及び関係論考、さらには、正史、ないしは準ずる史書である司馬遷「史記」大宛伝、班固「漢書」西域伝、袁宏「後漢紀」、魚豢「魏略」西戎伝、そして、范曄「後漢書」西域伝の関連記事を一応通読した上での「素人考え」の意見ですので、ご理解の上、反論があれば、具体的に指摘いただければ幸いです。

                                       未完

新・私の本棚 古田 武彦 九州王朝の歴史学「国都方数千里」談義 四訂 2/2

 第四章 新唐書日本伝の史料批判  ミネルヴァ書房 2013年3月刊
私の見立て ★★★☆☆ 当記事範囲 功罪相半ばの卓見 2020/11/09
 改定2021/01/11 再訂 2021/01/12,01/31,07/22,2022/09/26 2024/04/13, 08/02, 09/28, 12/08

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*短里制実施例と解釈
 古田氏は、
 『「方数千里」は、「日本」の領域(面積)を示す幾何学的な矩形/方形の表現であり、現在知れている日本列島の地形から判断して、一里四百五十㍍の「普通里」、つまり、古来通用している「里」でなく、魏晋代に通用していた「普通里」の六分の一の「短里」七十五㍍(と古田氏が提起している)が整合する
 と説きました。(四百五十㍍、七十五㍍は、当ブログの発案した概数値)
 古田氏の所説で魏晋朝限りだったはずの「短里」が、遙か後世の新唐書に援用されたとの主旨ですが、以下の通り、論拠が整っていないものと見えます。
 古田氏の論考に従って、考察を進めるとするとして、なぜ「倭」継承を嫌った「日本」が、中国魏晋代独特の古制と見なされている「短里」を持ちだしたか、まことに不可解です。漠然とした国界だけで国の形が不確かなのに、「方数千里」を「数千里四方」と解するのも不可解であり、これを、単に「誇大」と見たのは古典知識に欠けた鴻廬寺掌客の浅慮、短慮と思うのですが、史官は、史実の記録として、公文書記録の通りに書いたのでしょう。
 何しろ、当時、どこにも、現代知られているような地形、道里が正確に見て取れる「地図」は存在しないので、「国界」、つまり、国の形と広がりは、知りようがなかったのです。

 因みに、魏志「烏丸東夷伝」の数カ国記事の「方数千里」は、いずれも、中原の土地制度の通用しない、また、地形不明な辺境国の国力を表示したものであり、いずれにしろ、それぞれの「国」の正確な領域、形と広がりは知られていなかったのです。
 かといって、領域の知られていそうな比較的近隣の諸国に「方里」を適用した記事は、三国志でも、韓伝、倭人伝以外に無いので、「方里」の検証は、不可能なのです。
 と言うことで、不可能な検証の論議は無駄なので、一旦は、「理解不能」を暫定的結論として先に進みます。

 因みに、魏志「東夷伝」の関係記事は、後漢末期から魏明帝景初年間まで、遼東太守として、「小天子」の威光を展開していた公孫氏の「郡志」(郡公文書) の反映と見えるので、同時代他地域に同様の事例を見出すのは、困難(不可能)なはずです。景初年間、司馬懿の討滅で遼東郡文書は全滅したのですが、いち早く、皇帝命で楽浪、帯方両郡が、平和裏に接収され公孫氏時代、両郡に控えとして収蔵されていた郡志が魏帝のもとに回収できたものと見えます。

*「倭」に対する誤解払拭~余談
 少し離れますが、正史記事とは言え、「倭」が悪い文字と解するのは、東夷蛮人の誤解、と言うか、勝手なこじつけであり、今さら、古代人を教え諭す術はないのですが、それにしても、現代論者諸兄姉の通説、風説追従の様(さま)は、安直に過ぎると考えます。

 もともと、無教養な「倭の言い立て」を記録したのでしょうが、後に正史記事を書くに際して、史官は、鴻廬寺掌客の受け答えが不合理、不正確と見えても、訂正はできず、そのまま正史記事にしたと見えます。
 東夷の後裔の素人でも、中国語の古典書では、倭はめでたい文字と解されていたと知っているので、ここでも、「上覧を経た公式記録文書は(明らかに誤伝でも)訂正できない」という、厳格な正史編纂方針が窺えるのです。むしろ、古典書以来の定則に反する「反則」となる蛮人の意見を「蛮人の不見識を示すために」ことさら記したものと見えます。世上好まれている「春秋の筆法」とまで言うものではないでしょうが。
 このように、正史に書かれているからと言って、史官が「正しい」と確認した内容でないことはあり得るのです。ちゃんと、文脈、前後関係から、真意を読み取るべきです。一度、考えてみていただきたいのです。 

*「方里」解釈への異議
 『「方*里」を、「正方形一辺*里」の幾何学図形と見なす』とする解釈例がありますが、そのような面積数値の使われた由来、根拠が不明です。面積は、辺の自乗で読者の理解を超えて増倍し収拾が付かなくなるのです。その仮説に従うと「方四千里」は、「方四百里」の両辺を十倍しているので面積は「方四百里」の百倍になるのです。
 私見では、「方里」は、国内戸籍/土地台帳情報に基づく「農地面積総計」であり、また、「数千里」は、少なくとも、東夷伝の概数語法の定則から「二、三千里」と見ています。
 基本的に、「五千里」は、一万里に到る千里代の十進範囲を四分割する程度の概数で「五千里」程度と思います。つまり、(「千」)、「二/三千」、「五千」、「七/八千」、「一万」という感じです。現代では、あまり見かけない大雑把な概数観ですが、それが時代相応とする合理的な意見に対して、現代人の「素直」な感情的な解釈を適用していては、時代人の真意を知ることはできないでしょう。

 こうした概数表示の初歩的な常識からして、「数千里」は 二,三千里の意です。その倍に当たる五千里程度を、無造作に数千里とするのは、流石に、余りに大まかすぎます。五千里に近ければ、「常識的」には「五千余里」と書くものでしょう。
 恣意で概数表記解釈を撓めるのは、古代史学界の因習の一つに見えます。

 つまり、各地方の検地担当者が、一戸ずつの農地面積を「頃、畝」で書き留めたものを集計して得た「頃、畝」を、四百五十㍍程度と見られる「普通里」に即して、一里四方の面積、現代風に言うと平方里である「方里」に換算した統計数字と見えます。

*追記:2022/09/26
 最新の見解として、魏志「東夷伝」の「方里」は、当時の遼東郡太守公孫氏が、後漢、魏の統制が及ばないのを良いことに自立していた時代に、勝手に各国列伝を編纂したものと思われる「独自制度」であり、そのため、中原諸国、諸郡制度と異なる東夷諸国の国力指標として運用していたものであり、帯方郡にその写しが残されていたものが、早期に魏帝の命で帯方郡が接収された際に、新任太守から魏帝に提出されたと見えます。皇帝御覧を得て公文書に綴じ込まれたら、以後、訂正できないのです。
 それ故、陳寿が、高句麗、韓、対海、一大の列伝に於いて、魏帝の公文書を参照したものと思われるのです。

 例題は、国(農地)としては、魏志東夷伝の韓国(方四千里)より狭く/弱小であり、高句麗(方二千里)より少々広く/富裕であることになります。もっとも、以上の解釈は「倭人伝」基準ですから、魏晋朝史官の文法(書法のこと)を継承したかどうか不確かな唐代文書が、これを正しく継承したかどうか、それが、「新唐書」に正しく継承されたかどうか、やや/かなり不安が残ります。

*試算の試み
 領域農地を「方二千五百里」(二千五百平方里)と見れば、一辺五十里、二十五㌔㍍四方の範囲であり、その程度の戸籍整備範囲と見えます。
 「方二千五百里」は、常用単位で万畝(ムー)程度であり、一戸あたり五十畝と見ると(あくまで憶測です)二万戸に相当しますが、どの程度の領域がわからないので、それが多いとも少ないとも言えないのです。何しろ、中国の農政は、各戸が役牛を保有していて、牛犂を曳かせて耕す前提なので、もし、唐書の時代、依然として、倭人伝並みに「牛馬なし」、つまり、人力農耕であれば、中国の常識は通用しないのです。又、倭国の家族制度が、中国と異なる大家族、三世代同居であれば、これまた、中国の常識は通用しないのです。
 はっきりしているのは、戸数や方里と収穫量や動員可能兵力は、堅固な「相関関係」があるということだけです。一方、領域内の土地であっても、耕作者に割り当てられていない、割り当てようのない、従って、測量・記帳されていない未開地、荒れ地の面積など、何の意味もないのですから、「方里」等と正史が記録するわけはないのです。

 大事なことなので再確認すると、「戸数」が通用するのは、倭に於いて、中国の戸籍制度に基づき各戸に所定の農地が割り当てられていたとの前提に沿うものであり、既に、「魏志倭人伝」において、倭地には牛馬がないので、「各戸の耕作面積は、中国の制度に沿うものではない、つまり、戸数から、税収は計算できないと明記して、免税を期している」のです。いや「明記」というものの、それは、訓練を受けた史官だけが読み取れるものであり、新唐書の編纂史観も、原史料の報告者も、そのような高度に専門的な事項を、もはや承知していなかったとも思えます。
 要するに「倭人伝」の常識は「新唐書」の非常識かも知れないということです。正史における「用語一貫」という安易な楽天的志向による用例依拠は、避けねばならないのです。 

〇倭人伝道里記事への波及
 本記事は、近来、古賀達也氏が提起した『「南至邪馬壹國女王之所 都水行十日陸行一月」を「女王之所都」と解するのは誤解であり、「都云々」は、(「都合云々」、)つまり「すべて水行十日陸行一月」の意と解すべきであるとの倭人伝」解釈を支持する一件と思われます。なお「都合云々」 は、当ブログの追記。

 倭人伝」道里行程論、里程論の長年の論議に於いて、大変意義深い、画期的な提言と思うのですが、余り反響がないのが残念です。目立たない提言ですが、実は、この提言を認めると行程記事の目的地が、九州島内から出られなくなるのであり、いわば、畿内説に引導を渡す議論なので、いわば「命がけ」で黙殺されるのでしょうか。

 いや、国内史学界では、古田氏の著書を始め、中国史学界で無法な「倭都」「王都」が氾濫しているので、「都水行十日陸行一月」は表面化を許されず、長く潜伏しているのかも知れません。

 因みに、古代史の泰斗であり、当ブログ筆者が深く尊崇する上田正昭師は(今般の「都」の新解釈は抜きで)「水行十日陸行一月」は総日数表示という解釈/提言に対して、史学に於いて、自身の論議を進めるのに都合がよいと言うだけで肯定的に評価するのは、正しい態度ではない。用例、前例の確保が不可欠であると苦言を呈されていたように思います。当解釈を加味して、それでも、証拠不十分と仰るかどうか、上田師のご意見をお伺いしたかったところです。

 因みに、このような定則の提言に対して、散発の例外用例を指摘して異議とする向きがありますが、特に、人文科学、歴史学の分野では、いかなる定則にも例外は存在する(例外があるのが、定則の正しい根拠である)というのが古来の常識であり、また、用例解釈は、厳密に文献批判して考証してから取り上げるべきだということも、安易に手抜き(ズル)してはならないと考えるものです。
 むしろ、唐代の常識が、遙かに歴史を遡上する魏晋代に、既に常識であったかどうかの「時代考証」が先行すべきでしょう。

 倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説(1)
                                以上

私の意見 古代史随想「掌客」にみる日本書紀独特の世界観 補筆版 再掲

                 2020/01/17  補充再公開 2020/06/29 2024/08/02
◯概要
 色々調べてみましたが、国内史料の「掌客」は何らかの勘違いと見えます。

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*「客」に関する誤解
 六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津、是日以飾船卅艘迎客等于江口、安置新館。於是、以中臣宮地連烏磨呂・大河內直糠手・船史王平、爲掌客

 これは、日本書紀の推古天皇十六年(CE608)六月十五日の記事です。
 記事では、江口に三十艘の飾り船を連ねて、来航停泊していた「客」、ここでは隋使裴世清を出迎え、難波津新館に招じ入れたということです。現代人ならずとも、「客」は国賓、賓客と誤解しそうです。
 宮地連、大河內直、船史王平の三名は同格の「掌客」、客接待役でした。栄誉ある職務に任じられたという趣旨で書かれている記事のように見えますが、後ほど判明するように、掌客は、外国使節応対の高位職ではなく、隋制に照らすと、国内官位に相応しくない下級職なのです。当然、上級職は、高位であり「掌客」などではないのです。

*漢蕃関係と鴻臚
 中原諸王朝を総称して「漢」と言うと、「客」は漢蕃関係の用語で外夷訪問者です。隋官制は、遠く秦漢代から着々と継承されていて、一般に「蛮夷」と称される異民族諸国の使節として来訪の蕃人を「客」と言うのです。

*書紀の世界観
 それはそれとして、書紀は、東夷視点なのか誤解なのか、隋使を夷蛮扱いしています。隋制の趣旨を理解した上であれば辛辣で、「漢蕃」ならぬ「和蕃」だったのかも知れません。隋使が、蛮人に「客」扱いされたと知れば激怒し、皇帝にその旨報告したでしょう。

*掌客の職務
 見識豊富な現代論客でも、「隋唐代に、使節行人は「掌客」が常態で、隋代にその記録がないのは、煬帝により「掌客」職が廃止されていたためだ」との解釈が見られますが、勘違いというものでしょう。
 よく時代状況を見てみると、隋煬帝は、蕃客所轄の鴻臚(寺)の「客」応対部署を、典客署から典蕃署に改称したものの、担当者「掌客」を「掌蕃」に変えたという記録はありません。細かいことは良いから、役所の看板に「客」などとは目障りだという事ではなかったかと思われます。皇帝お目見えどころか、昇殿すら叶わぬ下っ端の職名など、どうでも良かったのでしょう。
 そうして、四夷受入窓口を大幅に拡充した煬帝が、蕃客対応に経験豊富な実務担当者を一挙に解任することはないのです。史料解釈は、念入りに時代考証して判断すべきです。いや、この事例だけでの戒めというわけではありませんが。

 隋の厖大な官制を知るはずがない遣隋使が、目前に現れて役職を名乗り接待し、宮廷儀礼に肝心な作法を指南してくれた親切な隋掌客を、てっきり高官に違いないと判断したとしたら、それは、早計な誤解によるものです。鴻廬掌客は、夷蕃使節応対の実務/雑務担当の最下級職であり、行人、つまり、帝国の外交官として皇帝の代理を務めるべき役職にはほど遠いのです。

 諸兄は、隋使の役職について、国内史料に鴻廬掌客と書いてあるのを優先しているようですが、隋書には文林郎と明記されていて、隋使の役職は、隋書を信じるべきであると考える次第です。誤記も誇張も春秋の筆も、一切関係ないのです。
 因みに、隋使は、皇帝の名代を背負っているのであり、自身の下級職名を名乗るはずがないのです。これは、時代考証するまでもない、当然の事項と考えます。

*未開行路開拓の功
 そのような背景で、鴻廬寺掌客ならぬ「文林郎」裴世清が、下級官人の身で、東夷俀国に派遣されたのは、一つには、公文書に通じた教養人であり、皇帝の名代にふさわしいという事と、行路未検証・未踏の絶海の俀国が、まことに危険と見えたためで、いわば、生還を期していない人選でしょう。

 現に、数十人の使節便船は、地域空前の大帆船でしたが行路、寄港地が不確かなため、百済海人の指導を得て黄海を乗り切ったようです。煬帝には、国書で「天子」を自称する不遜な東夷討伐の抱負があったのかも知れません。

 世上、魏代に半島沿岸航路を見てとる方(かた)が残存していますが、これもまた時代物の誤解と言うべきです。既知行路なら、隋書は、細々(こまごま)と書かないのです。
 後年、唐水軍が百済制圧の際に、行路開拓に苦労しなかったのは、この際の裴世清の功績によるものでしょう。

◯まとめ
 魏晋代以来の交流記録、さらには、初回遣隋使の報告を元に、隋の官制を丁寧に調べていれば、掌客に関する誤解は避けられたはずです。いや、書紀記事がこのように伝えられているという事は、史上、誰も、この点に気づかなかったのでしょうか。素人には、知るすべがありません。

                                 完

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