新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」四訂 2/16
塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05 記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25
2024/01/20、 05/08, 08/02
*加筆再掲の弁
最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。
魏志倭人伝から見える日本2 第二章魏志倭人伝の解読、分析
1 各国の位置に関する考察
a 朝鮮半島から対馬、壱岐へ b 北九州の各国、奴国と金印 c 投馬国から邪馬壱国へ
d 北九州各国の放射式記述説批判 e その他の国々と狗奴国
2 倭人の風俗、文化に関する考察
a 陳寿が倭を越の東に置いたわけ b 倭人の南方的風俗と文化
第二章、魏志倭人伝の解読、分析 [全文 ほぼ四万字]
1 各国の位置に関する考察
a 朝鮮半島から対馬、壱岐へ
《原文…倭人在帯方東南大海之中 依山島為国邑 …… 今使訳所通三十国
コメント:倭人在~「鮎鮭」の寓意
まずは、「倭人伝」冒頭文の滑らかな解釈ですが、「魏志倭人伝の解読、分析」という前提から同意できないところが多々あります。
「うっかり自分の持っている常識に従うと、同じ文字が、現代日本語と全く異なる意味を持つ場合が、少なからずあって、とんでもない誤訳に至る可能性もあります。」とは、諸外国語の中で、「中国語」は、文字の多くを受領したいわば導師であることから自明の真理であり、『「倭人伝」など別に教えて貰わなくてもすらすら読める』という根強い、度しがたい「俗説」を否定する基調です。氏の例示された「鮎鮭」の寓意は、特異な例ではなく、むしろ、おしなべて言えることです。
してみると、「国邑」、「山島」の解釈が、既に「甘い」と見えます。
氏は、このように割り切るまでに、どのような参考資料を咀嚼したのでしょうか。素人考えでは、現代「日本語」は、当時の洛陽人の言語と「全く」異なっているので、確証がない限り、書かれている文字に関して、「必然的」に意味が異なる可能性があると見るべきです。ついでに言うなら、現代中国語も、又、古代の「文語」中国語と大きく異なるものであり、「文語」の背景となる厖大な素養のない(無教養な)現代中国人の意見も、又、安直に信じることはできません。(よくよく、人柄を審査し、意見の内容を確認しない限り、「全く」信用できないという事です)
「文意を見失わぬよう、一つ一つの文字に神経を配って解読を進めなければなりません。」とは、さらなる卓見ですが、それでも、読者に「文意」を弁える「神経」がなければ、いくら苦言を呈しても耳に入らず、何も変わらないのです。大抵の論者は、ご自身の知性と教養に絶大な自信を持ってか、「鮎鮭」問題など意識せず、中国古代の史官の筆の運びを「自然に」「すらすら」と「普通に」解釈できると錯覚して堂々と論義しているのです。そういうご時世ですから、塚田氏処方の折角の妙薬も、読者に見向きもされないのでは、「つけるクスリがない」ことになります。誠に、この上もなく勿体ないことです。
コメント:「倭人伝」に「日本」はなかった
自明のことですが、三世紀当時、「日本」は存在しません。
当然、「日本」は、洛陽教養人の知るところでなく、「倭人伝」は「日本」と全く無関係です。無造作に押しつけている帯方郡最寄りの「日本」は、史学で言う「日本列島」、つまり、筑紫から纏向に至る帯状の地域を思い起こさせますが、それこそ、世にはびこる「倭人伝」誤解の始まりです。この点、折に触れ蒸し返しますが、お耳ざわりでご不快でしょうが、よろしく趣旨ご了解の上、ご容赦いただきたい。
些細なことですが、帯方郡は、氏の理解のように既知の楽浪郡領域の南部を分割した地域ではなく、後漢中平六年(189)(霊帝没年)以来遼東の地に駐屯していた遼東郡太守公孫氏が、後漢献帝建安九年(204)時点で、過去、「漢武帝が設置し以来半島方面を管理していた楽浪郡」の管轄域であっても、管理の手の及んでいない「荒地」、「郡に服属していなかった蕃夷領域」を統治すべく、それまで同地域を管轄していたと見える楽浪郡「帯方」縣を「郡」に格上げして新たに「郡」としたものです。
「郡」は、郡太守が住まう聚落、城郭、郡治であって、以前の「帯方縣」の中心県治と同位置であったとしても、支配地域の広がりを言うものではないのです。
因みに、帯方郡が設立された動機は、半島南部の「韓」「濊」のさらに南にあるとわかった「倭」の新境地を監督するためと見えます。丁寧に言うと、それまで、楽浪郡領域南端にあって東夷管理の実務に当たっていた「帯方縣」を格上げして、東夷と折衝する面目/権限を与えたものであり、別に、遼東郡に並ぶ同格の一級の郡としたものでは有りません。
帯方郡は、万事、遼東郡に報告し指示を仰いでいたのですが、公孫氏は、東夷事情を後漢皇帝に報告していなかったのですから、「倭人」のことは、後漢中央政権の知るところではなかったと見えるのです。笵曄「後漢書」に収録された司馬彪「続漢書」「郡国志」は、楽浪郡管内に「帯方縣」を記載していて、帯方郡は存在しません。つまり、笵曄「後漢書」に帯方郡は存在しないのです。
世上、なぜか評価の高い笵曄「後漢書」が、根拠史料がないのに、東夷列伝に「倭」の条を追記した意図は不明ですが、楽浪郡から倭に至る行程道里が明記されていないのは、その辺りに原因がありそうです。楽浪郡は、郡に至る道里を申告させる権限と義務があり、明らかに、笵曄は、楽浪郡の公式記録を参照していないのです。
というものの、倭から楽浪郡の檄まで「万二千里」と書いているのは、奇々怪々です。世上、「倭人伝」に書かれている「郡から倭まで万二千里」を、魏代の創作、或いは、西晋史官陳寿の史料改竄の結果としている説がありますが、後漢書記事が同工異曲となっているのは、後漢書東夷列伝の信頼性を損ない、正確さを疑わせるものと見えます。
閑話休題。帯方郡太守の俸給(粟)も、軍兵の食い扶持も、帯方郡内の賄いというものの、実際は、公孫氏の裁量範囲だったのです。
*「幻の帯方郡」論義
言い過ぎがお気に障ればお詫びするとして、帯方郡を発していずれかの土地に至ると言うのであれば、その出発点は、帯方郡の文書発信窓口ですから、ほぼ郡治中心部となります。南方の「荒れ地」は、関係ないのです。
ついでに、正史の記録を確認/復習すると、後漢献帝治世の建安年間当時、遼東公孫氏が当地域を所領として自立同然であり、帯方郡を設立したとの通知は行われていなかったようです。つまり、郡治の位置は、公式に皇帝居処であった許昌に届け出されていなくて、帯方郡が雒陽から何里とされていたかという「公式道里」は不明です。ですから、雒陽から「倭人」まで何里という公式道里は、当然、不明なのです。
なお、帯方郡の母体であった楽浪郡について言えば、武帝の設置時に公式道里が設定されて、それ以来、楽浪郡の所在の移動には、全く関係なく保持されていたのです。つまり、後漢代初頭、東夷所管部門であった楽浪郡の(洛陽からの)「公式道里」は、笵曄「後漢書」に収容された司馬彪「続漢書」「郡国志」に記載されているものの、それは、漢代以来国家制度の一部として不可侵の状態で固定されていたものであり、実際の「道里」、つまり、街道を経た「道のり」との関連は、かなり疑わしいのです。
*後漢書「倭条」の不条理~2023/07/24
加えて、楽浪郡から新設された帯方郡に至る「道のり」は、笵曄「後漢書」「郡国志」に記録が残っていないのです。それどころか、「郡国志」には「帯方縣」と書かれているだけで、帯方郡は載っていないのであり、後漢献帝の時代の公文書に「帯方郡」は存在しないので、笵曄の視点から言うと、帯方郡の所在は、本来幻なのです。言い換えると、笵曄が「倭条」を書いた/創作した時、その手元には、確たる公文書史料がなかったと言う事を証しています。(要するに「倭条」は、笵曄の創作だということです)
「倭人伝」の対象である両郡郡治の所在が、今日に至るも不明/不確定なのは、そうした事情によるものなのです。一部論者は、勝手に帯方郡治を漢城(ソウル)としていますが、三世紀初頭、漢城は、未だ地盤の固まらない、橋梁のかけられない沖積地だったので、堅固な城壁を必要とし多数の郡兵を常設する郡治は、楽浪郡同様に、半島中央部にあったと見られます。
もっとも、帯方郡の雒陽からの公式道里は、それ以前の「帯方縣」が、楽浪郡の公式道里に従属していた以上、分郡しても、同一道里、つまり、「雒陽から五千里」であったと見なすことができます。一方、「倭人伝」道里記事に示されている「従郡至倭」は、公孫氏が「倭人」を受け入れた時点の遼東郡志(公文書記録)に依拠しているとすると、遼東郡、ないしは、楽浪郡と伊都国を示していると解釈するのが順当なところです。
このあたり、当時の時代背景を精査しないと読み解けないとみるのが「正論」のはずなのですが、世上、ご自身の(限られた、僅少な)知識で「すらすら」解釈している「楽天的」論者が多いので、議論が「通説」の波打ちによって大きく撓められていると見えるのです。幸い、いくら撓んでも、「折れる」事のない心を保っていれば、時を経て「通説」が風化すれば「正論」が回復するとみたいものです。
念のため言うと、陳寿は、雒陽に所蔵されていた、後漢から引き継がれた魏代「公文書」を「随時」閲覧することができたので、公孫氏が、帯方郡創設の際に所在地/(雒陽からの)「公式道里」を洛陽/献帝に報告していれば、皇帝の批准を得た「公文書」となっていて、三国志「魏志」の編纂の際に利用できた/利用するしかないのですが、「倭人伝」には、そのような「公文書」記載の帯方郡に至る「公式道里」は参照されていません。遼東公孫氏は、東夷に関して後漢献帝のもとに報告していなかったことは、陳寿「魏志」に明記されていますが、帯方に関しては、後漢代の事件でありながら、郡の設立すら許昌の献帝に報告されていなかったということです。(細かく言うと、その時点で、統轄部門である鴻臚が、雒陽にあったのか、許昌にあったのか、確認は困難と思います)
恐らく、公孫氏時代の「倭人」文書は、景初二年八月とされる司馬懿の遼東討伐の際に全て破壊され、辛うじて、事前に魏明帝の指示によって楽浪/帯方郡から回収した「地方郡文書」が、魏の支配下の洛陽に届き、而して、明帝の存命中がどうかは不明として、とにかく、皇帝の承認を得て、魏の公文書に記載されたものと見えます。
以下、論義が一部、重複していくのですが、笵曄「後漢書」東夷列傳の倭に関する断片記事「倭条」は、後漢公文書史料の裏付けのない憶測、ないしは、本来利用が許されない魏公文書の盗用ということになりますが、魏公文書の実物は、陳寿没後の西晋末、北方民族による雒陽討滅の際に喪われたと思われるので、百五十年程度後世である劉宋の文筆家笵曄は、一次史料である魏公文書そのものを見ることはできなかったと見えます。
と言うことで、笵曄「後漢書」東夷列伝の中で「倭条」は正当な史料根拠を持たないので、そこに書かれている記事は「信用できない」ということになります。正確な記事もあるかも知れないが、裏付けがないので、「倭人伝」記事を訂正する、ないしは、記事ないしは解釈を追加する論拠とできないということです。ご理解いただけたでしょうか。
*東方「倭種」談義
「倭条」には、「倭人伝」で、女王居所の「南方」にあると明記され、熱暑とも見える風土、習慣などが詳述された「狗奴国」の印象を利用して、「倭」の東方にある「拘奴国」が創作されていますが、景初年間に帯方文書を回収し、倭使の参上を受入、正始年間(240-249)には「倭」に魏使を送った魏代においてすら詳細不明だった東方「倭種」が、後漢建安年間(196 - 220)、つまり、景初/正始年間の五十年以前に、樂浪郡に国使を送って、国名を申告していたと言うのは、「倭人伝」に対して、何とも壮大な異論となります。
笵曄「後漢書」「倭条」全体が、根拠の無い創作幻像としたら、その一部である「拘奴国」は、「史実」、つまり、「後漢公文書記録」の反映ではないと見るものでしょう。あえて、同意いただけないとしたら、明確な根拠を持って否定していただくよう、お願いします。
さらに言うと、笵曄と同時代の裴松之が魏志に付注した際、帯方郡道里とみえる「万二千里」に関する付注をしていないことから、後漢書編纂時点において、帯方郡の所在/公式道里は不明だったことになります。因みに、その時点では、山東半島から朝鮮半島への行程は、劉宋の勢力外であり、また、先だって辺境を管理していた帯方郡は、楽浪郡共々滅亡していたので、劉宋から現地情報を確認することは不可能だったのです。
コメント:大平原談義
自明のことですが、「倭人伝」の視点、感覚は、三世紀中原人のものであり、二千年後生の無教養な東夷である「我々」の視点とは対立しているのです。この認識が大事です。因みに、なぜか、ここで「北方系中国人」などと、時代、対象不明の意味不明の言葉が登場するのは、誤解の始まりで不用意です。論ずべきは、三世紀、洛陽にたむろしていた中原教養人の理解なのです。むしろ、「中国」の天下の外に「中国人」は、一切存在しないので、あえて、域外に進出していた「中国」人を論ずるなら、後世語で「華僑」と言うべきでしょう。
因みに、氏の言う「大平原」は、どの地域なのか不明です。モンゴル草原のことでしょうか。もう少し、不勉強な読者のために、言葉を足して頂かないと、理解に苦しむのです。
未完
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