倭人伝随想 2 倭人暦 社日で刻む「春秋農暦」2/3 三掲
2018/07/07 2018/11/24 2024/05/08, 08/19
*加筆再掲の弁
最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。
*社日の決めごと
村々の指導者は、節気を起点とした段取りを描いた絵を持っていて、そこには、例えば、代掻きの手順は何日後と決めているものです。毎年、通達された太陰暦の月日ごとの手順を決め、手配りを描くのです。
かくして、稲作指導者は、春秋社日に参集した村々の指導者に田植え、収穫の段取りを徹底し、それが、村の指導者から家々に徹底されるのです。
つまり、社日の場で、春の農耕の段取り、手配り、ないしは、秋の収穫の段取り、手配りが決まり、それぞれの家は、集団農耕の職能を担ったのです。
あるいは、集落に掲示板があって、文字はなくとも、木に縄を巻くなどして、月と日を広く知らせていたかも知れません。
以上、村落で共同作業を行う図式を絵解きしました。
*職能「国家」
「国家」と書くと物々しいですが、中国古代史では、「国」は、精々一千戸程度の集落であって、文字の描く通り、隔壁で守られているものであり、それが、一つの「家」となっていたという程度でしかありません、現代語の巨大「国家」とは、別次元の概念ですので、よろしく、ご理解頂きたいものです。
大勢の手配りが必要なのは、田植えと収穫時だけであって、それ以外の時は、それぞれの家で決めて良いから、稲作は年がら年中団体行動というわけでは無いはずです。
さらには、後世のように、それぞれの家が、農暦と農作の要諦を掌握していれば、自主的に稲作できるでしょうが、それにしても、村落各家に職能を割り振ることによって、村落の一体感を保つ効用が絶大だったのです。
*「春秋農暦」の意義
かくして、年二回の大行事を定めて農暦画期としましたが、この制を素人なりに「春秋農暦」と呼ぼうとしているのは、学術的な「二倍年暦」という用語が、その由来を語らないからです。
*陳寿の編纂意図~後生東夷の臆測
三国志編者陳寿は、「蜀漢」成都付近で生まれ育ちましたが、蜀に「春秋農暦」がなかったためか、農暦を知らず、長じて移住した晋都洛陽附近は、ほぼ麦作地帯で稲作風俗がなく、陳寿は、遂に春秋農暦の年二回の社日ごとの加齢の概念を知らなかったので魏略記事の意義が理解できず割愛したのかも知れません。あるいは、中原教養人である皇帝以下の読書人に理解されないことを懸念して、割愛したのかも知れません。
当初稿では、そのように独りごちていましたが、以下、加筆しました。(2024/08/19)
あるいは、元々、蜀の「春秋農暦」には加齢が結びついていなくて、それが、長江を下って、会稽付近に伝わり、更に、戦国「齊」なる東夷の世界を歴て、最終的に「日本列島」に定着したとも思えますが、いずれかの段階で、「俗」が変化したのかもわかりません。いずれにしても、文献には書き継がれていないので、後生東夷の臆測に過ぎません。
ちなみに、「齊」の海港東莱から目前の海中山島に筏ででも渡って、一旦は、今日言う「朝鮮半島」に定着を試みたのでしょうが、洛東江が深い渓谷を刻みこんでいたため、水田稲作の根幹である灌漑水路が確保できず、水田農地開発が不可能であったため、北上経路の各地に比べて気温が低いこともあって、定住を断念し、温暖な海南の地に移住したとも見えます。遥か後世に至るまで、嶺東と呼ばれた弁韓/弁辰の地は、食糧生産が乏しく馬韓の地と比べて、貧困の地位に甘んじたのです。
それは、後漢末期の献帝建安年間に、遼東公孫氏が不毛の地に郡制を敷こうと帯方郡を設けたとき「荒地」と呼んだので明らかなように、小白山地の彼方は、太古以来、文明の届かない荒れ地だったのです。
帯方郡が、小白山地を越える竹嶺経路を開鑿し、郡治から狗邪に至る官道を開設したので、初めて、弁辰鉄山から郡治への鉄材輸送が開始し、この経路を利用して、海南倭地からの産物が到着するようになったので、洛東江渓谷に文明の光明が届いたのです。
嶺東貧寒は、三世紀時点でも明らかで、郡から海津である狗邪に至る長い道程に、目覚ましい「韓国」は書かれていないのです。
「倭人伝」に「倭地温暖」と書かれているように、暗黙の「韓地寒冷」とあわせて、韓地不毛、倭地豊穣の図が描かれているのですが、お目にとまりましたでしょうか。
*裴松之付注の意義
陳寿「三国志」に付注した裴松之は、長江下流の建康に退避した南朝「劉宋」の人で、稲作風俗(「風」法制と「俗」民俗)を知っていたので、倭人寿命記事に関する陳寿の見落としに気づきましたが、本文改訂は許されないので、魏略記事を付注し、示唆したのでしょう。
倭人伝に春秋農暦が明記されていないのは、魏使を務めた帯方郡の士人が「春秋農暦」育ちであったため、当然とみたためであり、魚豢「魏略」も、特記まではできなかったのでしょう。
・補筆 2024/08/19
但し、当然、魚豢「魏略」の採用した帯方郡志は、陳寿の薬籠中にあり、無用の蛇足と見て割愛したものと見ることができます。陳寿は、締め切りに追われて書き殴っていたのでなく、来る日も来る日も着々と推敲を重ねに重ねた上で「割愛」したのであり、裵松之は、皇帝の指示もあって、余計なお世話でゴミ記事を復活したとも見えますが、遥か遙か後世で、神のごとき明察を可能とされている後世東夷としては、陳寿本文と裴注とを分別して解釈することを求められているのです。
未完
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