私の意見 古代史随想「掌客」にみる日本書紀独特の世界観 補筆版 再掲
2020/01/17 補充再公開 2020/06/29 2024/08/02
◯概要
色々調べてみましたが、国内史料の「掌客」は何らかの勘違いと見えます。
*加筆再掲の弁
最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。
*「客」に関する誤解
六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津、是日以飾船卅艘迎客等于江口、安置新館。於是、以中臣宮地連烏磨呂・大河內直糠手・船史王平、爲掌客。
これは、日本書紀の推古天皇十六年(CE608)六月十五日の記事です。
記事では、江口に三十艘の飾り船を連ねて、来航停泊していた「客」、ここでは隋使裴世清を出迎え、難波津新館に招じ入れたということです。現代人ならずとも、「客」は国賓、賓客と誤解しそうです。
宮地連、大河內直、船史王平の三名は同格の「掌客」、客接待役でした。栄誉ある職務に任じられたという趣旨で書かれている記事のように見えますが、後ほど判明するように、掌客は、外国使節応対の高位職ではなく、隋制に照らすと、国内官位に相応しくない下級職なのです。当然、上級職は、高位であり「掌客」などではないのです。
*漢蕃関係と鴻臚
中原諸王朝を総称して「漢」と言うと、「客」は漢蕃関係の用語で外夷訪問者です。隋官制は、遠く秦漢代から着々と継承されていて、一般に「蛮夷」と称される異民族諸国の使節として来訪の蕃人を「客」と言うのです。
*書紀の世界観
それはそれとして、書紀は、東夷視点なのか誤解なのか、隋使を夷蛮扱いしています。隋制の趣旨を理解した上であれば辛辣で、「漢蕃」ならぬ「和蕃」だったのかも知れません。隋使が、蛮人に「客」扱いされたと知れば激怒し、皇帝にその旨報告したでしょう。
*掌客の職務
見識豊富な現代論客でも、「隋唐代に、使節行人は「掌客」が常態で、隋代にその記録がないのは、煬帝により「掌客」職が廃止されていたためだ」との解釈が見られますが、勘違いというものでしょう。
よく時代状況を見てみると、隋煬帝は、蕃客所轄の鴻臚(寺)の「客」応対部署を、典客署から典蕃署に改称したものの、担当者「掌客」を「掌蕃」に変えたという記録はありません。細かいことは良いから、役所の看板に「客」などとは目障りだという事ではなかったかと思われます。皇帝お目見えどころか、昇殿すら叶わぬ下っ端の職名など、どうでも良かったのでしょう。
そうして、四夷受入窓口を大幅に拡充した煬帝が、蕃客対応に経験豊富な実務担当者を一挙に解任することはないのです。史料解釈は、念入りに時代考証して判断すべきです。いや、この事例だけでの戒めというわけではありませんが。
隋の厖大な官制を知るはずがない遣隋使が、目前に現れて役職を名乗り接待し、宮廷儀礼に肝心な作法を指南してくれた親切な隋掌客を、てっきり高官に違いないと判断したとしたら、それは、早計な誤解によるものです。鴻廬掌客は、夷蕃使節応対の実務/雑務担当の最下級職であり、行人、つまり、帝国の外交官として皇帝の代理を務めるべき役職にはほど遠いのです。
諸兄は、隋使の役職について、国内史料に鴻廬掌客と書いてあるのを優先しているようですが、隋書には文林郎と明記されていて、隋使の役職は、隋書を信じるべきであると考える次第です。誤記も誇張も春秋の筆も、一切関係ないのです。
因みに、隋使は、皇帝の名代を背負っているのであり、自身の下級職名を名乗るはずがないのです。これは、時代考証するまでもない、当然の事項と考えます。
*未開行路開拓の功
そのような背景で、鴻廬寺掌客ならぬ「文林郎」裴世清が、下級官人の身で、東夷俀国に派遣されたのは、一つには、公文書に通じた教養人であり、皇帝の名代にふさわしいという事と、行路未検証・未踏の絶海の俀国が、まことに危険と見えたためで、いわば、生還を期していない人選でしょう。
現に、数十人の使節便船は、地域空前の大帆船でしたが行路、寄港地が不確かなため、百済海人の指導を得て黄海を乗り切ったようです。煬帝には、国書で「天子」を自称する不遜な東夷討伐の抱負があったのかも知れません。
世上、魏代に半島沿岸航路を見てとる方(かた)が残存していますが、これもまた時代物の誤解と言うべきです。既知行路なら、隋書は、細々(こまごま)と書かないのです。
後年、唐水軍が百済制圧の際に、行路開拓に苦労しなかったのは、この際の裴世清の功績によるものでしょう。
◯まとめ
魏晋代以来の交流記録、さらには、初回遣隋使の報告を元に、隋の官制を丁寧に調べていれば、掌客に関する誤解は避けられたはずです。いや、書紀記事がこのように伝えられているという事は、史上、誰も、この点に気づかなかったのでしょうか。素人には、知るすべがありません。
完
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