« 新・私の本棚 古田 武彦 九州王朝の歴史学「国都方数千里」談義 四訂 1/2 | トップページ | 新・私の本棚 刮目天ブログ 春秋二倍年歴?つじつま合わせの空想  1/2 »

2024年8月17日 (土)

新・私の本棚 刮目天ブログ 春秋二倍年歴?つじつま合わせの空想  2/2

 春秋二倍年歴?つじつま合わせの空想・妄想だよ!(;^ω^) 2024-08-15  古代史   2024/08/16

[承前]

 「書かれたものが正しい」、つまり、陳寿の記事が正しいとの御意見ですが、ここで罵倒されているのは、纏向遺跡派を含めた現代人の「発明」であって、それを、三~五世紀人にケツを回すのは、見当違いです。纏向遺跡派を含めた現代「発明者」の間で話を付けるべきでしょう。

弥生時代の水田稲作は春に田植え、秋に収穫するわけで四季のある日本ですから一年を春と秋で二年と数えるなどあり得ません(詳細は 富永長三「不知正歳四節但計春耕秋収為年紀」について」参照)。

 高邁な御意見はともかく、三世紀の筑紫には、「弥生時代」も「日本」も存在しないので、そのような風習が「なかった」とするのは、誰にもできません。何故、神ならぬ現代人が、確信を持って断言できるのか意味不明です。

ですから倭人が二倍年歴を採用しているなどと言う妄説は、初期の古代天皇の崩年を半分にして実在天皇と考えたい現代日本人が言い出した珍解釈なのですから、逆に、記紀で異常に長命な天皇は実在しない天皇だということが分かりますよ。

 氏の「陰謀」説は、三世紀筑紫の「倭人」の知ったことではなく、纏向遺跡派の内部事情なので、そちらで解決して頂くしかありません。(書き飛ばされたのでしょうが、混乱していて、用語が混乱していて、論理が錯綜しているので、筋が通らず、壮大な古代史世界を構築している氏の論考としては、もったいない感じがします)

◯うらばなし/ホントウのはなし
 原点に戻ると、「倭人伝」に対する裴松之追記は、魚豢「魏略」の引用であり、『郡への報告が、農暦「春秋報」であり「四季報」でない』というものです。
 [裴松之曰 (魚豢)]魏略曰:其俗不知正歲四節,但計春耕秋收為年紀。
 官制は四季報であるのに、「俗」(民俗)は春秋農暦報としています。

 このあとに、人の寿命と婚姻のはなしが続いています。
 見大人所敬,但搏手以當跪拜。其人壽考,或百年,或八九十年。其俗,國大人皆四五婦,下戶或二三婦。
 単に、戸籍に少なからぬ年寄りが存在し、人寿と称して百歳まで書かれている例があるという風評(「倭人」戸籍は、発展途上なので、八十年以上遡及できない)に過ぎません。ちなみに、裴注に類似した「其俗,國大人皆四五婦」とする言い回しは、恐らく、魚豢「魏略」を引用したものなのでしょう。そして、元々は、秦代以来の遼東郡の下部機関に当然蓄積されていた「帯方郡志」の引用でしょう。何しろ、原史料は一つしか無いのです。

 参考かどうか、中世地方戸籍で、各戸に老人が多く、壮者が少ない事例があり、「倭人」でも、壮者を老人として人頭税、徴兵を免れた可能性があります。
 同様に、婦人が長大(成人)して別戸を構えると、耕地を割り当てられ納税義務が生じるので、大人の第二夫人以降として節税した可能性があります。
 陳寿は、史官として、公文書記事を「史実」として継承していますが、その真意は、紙背/行間から読み取るべきであり、後世東夷の辞書など引いても、窺い知ることなどできないのです。渡邊義浩氏に言わせると、史官は、全て二枚舌ということですが、素人としては、精々、古典文例に潜む真意を探ることしかできないのです。

◯倭人伝の真意推定
 「倭人」の国風と民俗は中国と異なり、もっともらしく書いていますが、実際は、よくわからないのです。

 私見ですが、「倭人伝」全体は、戸数、道里、方里の各記事で、中原基準で「倭人」を評価してはならないという教えに満ちていますから、ここも、そのような意図で書かれていると見るのが合理的な解釈と見えます。
 世上、新奇(古代史では絶賛)解釈で騒ぐかたが多いのですが、「思い込み」、「思いつき」ばかりで、信じるに足りないものばかりと推定しています。

◯失言回避の勧め
 刮目天氏は、正史の一篇、僅か二千字の「倭人伝」後半部の些細な記事から棒大空想を展開している論者が多いのに呆れているでしょうが、氏ほどの大家は、史料を理解できない野次馬を相手に、現代若者口調に同調しない方が良いと思います。

 せめて、揚げ足を取られないように、ご自愛いただきたい。

              臣隆誠惶誠恐,頓首頓首,死罪死罪。

                               以上

« 新・私の本棚 古田 武彦 九州王朝の歴史学「国都方数千里」談義 四訂 1/2 | トップページ | 新・私の本棚 刮目天ブログ 春秋二倍年歴?つじつま合わせの空想  1/2 »

倭人伝随想」カテゴリの記事

新・私の本棚」カテゴリの記事

コメント

研鑽を積まれた漢籍の先達が、わざわざ素人考えのブログを題材に取り上げていただくとは、まことに汗顔の至りでございます(;^ω^)
折角レヴューしていただいたので、この機会を逃してはもったいないと思い、ご指摘の内容の中で理解が及ばない点を頭の悪い生徒にかみ砕くようにして教えていただけると幸いです。

「トンデモ」タイトル「春秋二倍年歴?」で混乱させて申し訳ありません。「春秋二倍歴説」というところを、手が滑ってしまい違和感を感じられたのかと思います。早速、誤解を与えないように表題を訂正いたしました。

「日本書紀が春秋二倍年歴説をはっきりと否定していますよ。
春と秋で2年とかぞえるなら天皇紀は1年おきに春・夏の記事と秋・冬の記事になるはずですが、そうはなっていませんよ。1年は12ケ月としています。」という最後のまずい文章が誤解を生んでしまったようです。
に対して、
>「書紀」編者は「二倍年暦」を否定してないと見受けます。

もう少し丁寧に書くならば、太陰太陽暦において加えられる閏月を入れると一年が13ケ月になることもあるのはおっしゃるとおりですが、閏月を含んでも、含んでいなくても一年は太陽暦の一月から十二月で表記されるということです。ただし閏月の場合、閏〇月と書かれ〇月が二度出てくるとおもいます(;^ω^)

たとえば春秋二倍歴ならば初めの春夏年は一月から六月の記事が記され、次の秋冬年も一月から六月の記事としてもいいのです。あるいは秋冬年であることを示すために翌年は七月から十二月の記事が書かれ、また次の春夏年は一月から六月の記事だけ、その次の秋冬年は七月から十二月の記事だけの繰り返しになるはずです。

しかし日本書紀はそのようにはなっておらず、前年の春の記事の翌年にも春の記事が存在します(たとえば、神武天皇紀即位元年「辛酉の年春一月一日、天皇は橿原宮にご即位になった。・・・・二年春二月二日、天皇は論功行賞を行われた。」と翌年も春の記事が見られます)。また同じ年で春の記事と秋の記事が見られます(たとえば、同じく神武天皇紀の中で「戊午の年、春二月十一日・・・・・秋八月二日、兄猾(エウカシ)と弟猾(オトカシ)を呼んだ」と同じ年の中で春と秋の記事が存在します)。

このように日本書紀は春秋二倍歴に基づいて記述されていないので、「書紀編者の知ったことではない」のですが、結果として日本書紀が春秋二倍年歴説をはっきりと否定しているということなのです。この点を追加修正いたしました。

『 「二十四節気」は、太陽の運行に従って定義されるものであり、春分、秋分、夏至、冬至を始め、年間二十四回の節目を太陰暦の月々に重複しないように配置するのは、難題でしたから、東夷の知るところではなかったのです。要するに、「正月」と「二十四節気」は、連動していないのです。』
これはおっしゃるとおりだと思います。

「それに対して、倭人は春と秋でそれぞれ一年と数える二倍年歴を使用しているというのは、書かれたものが正しいはずなので、つじつま合わせで発明された全くの珍解釈なのです。」

ここは言葉を省略し過ぎて誤解されやすい表現と思いますので、初代から第十六代仁徳天皇までの崩御年の表を追加し、文章も以下のように少し追加修正いたしました。

「それに対して、倭人は春と秋でそれぞれ一年と数える春秋二倍歴を使用しているという説によって、百歳を超えるあり得ない年齢の天皇でも、日本書紀に書かれたいることは正しいはずなので、半分の年齢にすればおかしくない年齢になると考えたのでしょう。しかし、上で説明したとおり、つじつま合わせで発明された魏略の文章の珍解釈なのです。」

『高邁な御意見はともかく、三世紀の筑紫には、「弥生時代」も「日本」も存在しないので、そのような風習が「なかった」とするのは、誰にもできません。何故、神ならぬ現代人が、確信を持って断言できるのか意味不明です。』

逆にそういう風習があったかも知れないと考える根拠はいったい何でしょうか?裴松之が引用した魚豢「魏略」のこの記事は二倍歴を言っているのではないことをすでに説明しました。ですから二倍歴を主張するのなら別の根拠が必要です。
二倍歴を主張される方よりは積極的ではないですが、『「なかった」と断言できない』とおっしゃるのは現代人は弥生時代を生きていないから断言できないことでしょうか。しかし、有名な文句を思い出します。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」です。いつの時代も人々の生活のサイクルは太陽と月の運行や植生の状況など環境の変化の観察によって決めていたはずです。そのことは断言していいと思います。四季がはっきりしている日本列島では水田稲作の弥生人は一年(だいたい十二ケ月)がワン・サイクルで年中行事が定められていたはずです。そうではないという証拠があれば知りたいところです。
春秋二倍歴説は、根拠とする魏略の文章は間違った解釈ですので、他に根拠があるのなら別ですが、現状でそのような証拠はありませんから、断言してもいいかと思います。いや~、あるかも知れないというのは全く理解できません。

しかも、日本書紀の中で神代そして神武天皇から始まる人代の記述はほとんど創作だということは考古学や民俗学の成果から分かっています。それを踏まえると、人代で百歳を超える高齢の天皇を登場させた意味は何なのか?日本の歴史を単に古く見せたいという理由だけでは説明できないようです。編纂者にあの世で聞いてみたいですね(#^.^#)

ご意見を頂ければ幸いです。有難うございました。また、これに懲りず、いろいろとお教えください(;^ω^)

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 新・私の本棚 古田 武彦 九州王朝の歴史学「国都方数千里」談義 四訂 1/2 | トップページ | 新・私の本棚 刮目天ブログ 春秋二倍年歴?つじつま合わせの空想  1/2 »

お気に入ったらブログランキングに投票してください


2024年10月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

カテゴリー

  • YouTube賞賛と批判
    いつもお世話になっているYouTubeの馬鹿馬鹿しい、間違った著作権管理に関するものです。
  • ファンタジー
    思いつきの仮説です。いかなる効用を保証するものでもありません。
  • フィクション
    思いつきの創作です。論考ではありませんが、「ウソ」ではありません。
  • 今日の躓き石
    権威あるメディアの不適切な言葉遣いを,きつくたしなめるものです。独善の「リベンジ」断固撲滅運動展開中。
  • 倭人伝の散歩道 2017
    途中経過です
  • 倭人伝の散歩道稿
    「魏志倭人伝」に関する覚え書きです。
  • 倭人伝新考察
    第二グループです
  • 倭人伝道里行程について
    「魏志倭人伝」の郡から倭までの道里と行程について考えています
  • 倭人伝随想
    倭人伝に関する随想のまとめ書きです。
  • 動画撮影記
    動画撮影の裏話です。(希少)
  • 古賀達也の洛中洛外日記
    古田史学の会事務局長古賀達也氏のブログ記事に関する寸評です
  • 名付けの話
    ネーミングに関係する話です。(希少)
  • 囲碁の世界
    囲碁の世界に関わる話題です。(希少)
  • 季刊 邪馬台国
    四十年を越えて着実に刊行を続けている「日本列島」古代史専門の史学誌です。
  • 将棋雑談
    将棋の世界に関わる話題です。
  • 後漢書批判
    不朽の名著 范曄「後漢書」の批判という無謀な試みです。
  • 新・私の本棚
    私の本棚の新展開です。主として、商用出版された『書籍』書評ですが、サイト記事の批評も登場します。
  • 歴博談議
    国立歴史民俗博物館(通称:歴博)は歴史学・考古学・民俗学研究機関ですが、「魏志倭人伝」関連広報活動(テレビ番組)に限定しています。
  • 歴史人物談義
    主として古代史談義です。
  • 毎日新聞 歴史記事批判
    毎日新聞夕刊の歴史記事の不都合を批判したものです。「歴史の鍵穴」「今どきの歴史」の連載が大半
  • 百済祢軍墓誌談義
    百済祢軍墓誌に関する記事です
  • 私の本棚
    主として古代史に関する書籍・雑誌記事・テレビ番組の個人的な読後感想です。
  • 纒向学研究センター
    纒向学研究センターを「推し」ている産経新聞報道が大半です
  • 西域伝の新展開
    正史西域伝解釈での誤解を是正するものです。恐らく、世界初の丁寧な解釈です。
  • 邪馬台国・奇跡の解法
    サイト記事 『伊作 「邪馬台国・奇跡の解法」』を紹介するものです
  • 陳寿小論 2022
  • 隋書俀国伝談義
    隋代の遣使記事について考察します
無料ブログはココログ