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2024年8月 2日 (金)

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」四訂 6/16

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 
 2024/01/20、 05/08, 08/02

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*柔らかな概数の勧め
 氏は、厳密さを求めて、一里430㍍程度の想定のようですが、古代史では、粗刻みの概数が相場/時代常識なので、厳密、精密の意義は乏しく、50㍍刻みの「450㍍程度」とすることをお勧めします。
 して見ると、一歩(ぶ)は150㌢㍍程度(1.5㍍)、一尺(しゃく)は25㌢㍍程度(1/4㍍)で、暗算できるかどうかは別として、筆算も概算も、格段に容易です。

 魏志「倭人伝」の道里では、「有効数字」が、一桁あるかないかという程度の、大変大まかな漢数字が出回っていますが、このあたりは、漢数字で見ていないと、尺、歩、里に精密な推定が必要かと錯覚しそうです。
 少し落ち着いて考えていただいたらわかると思いますが、25㌢㍍の物差は、結構精密に制作できますが、150㌢㍍の物差は、大変制作困難であり、450㍍の物差は、制作不可能です。せいぜい、縄で作るくらいです。
 手短に言うと、尺は、物品の商取引に広く利用されていますが、歩(ぶ)は、農地の検地や建物敷地の測量やなどに利用されるので、尺とは、別次元の単位であり、まして、里は、里程以外では、広域の農地面積統計に利用されるくらいで、ほとんど、実測されることはなかったと見えます。つまり、里は、その時点の「尺」を原器として、六倍に三百倍を重ねて構成されたものでなく、概念として保持されていたものと見えますから、一々、計量史的に考察する必要は乏しいものと見えます。
 いずれにしろ、古代史に於いて、大まかでしか調べのつかなかったことを、現代感覚で厳格に規定するのは、無謀で、時代錯誤そのものです。

原文…始度一海 千余里 至対海国 所居絶島 方可四百余里……有千余戸……乗船南北市糴

コメント:始度一海
 誤解がないように、さりげなく、ここで始めて、予告通り「海」に出て一海を渡ると書いています。先走りして言うと、続いて、「又」、「又」と気軽に書いています。要するに、この地点までは海に出ていないと明記しています。狗邪韓国で、初めて、海岸、つまり、海辺の崖の上から対岸を目にするのです。
 復習すると、氏の「水行」の解釈は俗説の踏襲であり同意できません。いわゆる「沿岸水行」説に従うと、後で、水行陸行日数の辻褄が合わなくなるのです。また、進行方向についても認識不足を示しています。「倭人在帯方東南」であり、暗黙で東西南北の南に行くのが自明なので書いてないのです。氏は、史官の練達の文章作法を侮っているようで不吉な感じがします。

*史官集団の偉業
~陳寿復権
 そういえば、世間には、陳寿が計算に弱かったなど、欠格を決め付けている人がいます。多分、ご自身の失敗体験からでしょうか倭人伝」は、陳寿一人で右から左に書き飛ばしたのではなく、複数の人間がそれぞれ読み返して、検算、推敲しているので、陳寿が数字に弱くても関係ないのです。

 他に、世間には、「陳寿は海流を知らなかったために、渡海日程部の道里を誤った」と決め付けた例もあります。
 当時言葉のない「海流」は知らなかったとしても、しょっちゅう経験していた渡し舟は、川の流れに影響されて進路が曲がるのを知っていたし、当人が鈍感で気付かなくても、編者集団には、川船航行に詳しいものもいたでしょうから、川の流れに浮かぶ小島と比喩した行程を考えて海流を意識しないはずはないのです。

 史官は、集団で編纂を進めたのであり、個人的な欠点は、埋められたのです。
 渡し舟での移動行程を、実里数に基づいているとみた誤解が、無理な「決め付け」を呼んでいるようですが、直線距離だろうと進路沿いだろうと、船で移動する道里は計りようがないし、計っても、所詮、一日一渡海なので、千里単位の道里には、千里と書くしかないので、全く無意味なのです。
 無意味な事項に精力を注いで、時間と労力を浪費するのは、一日も早く、これっきり、これが最後にしてほしいものです。

 陳寿は、当代随一の物知りで早耳であり、鋭い観察眼を持っていたと見るのが自然でしょう。計数感覚も地理感覚も人並み以上のはずです。物知らずで鈍感で史官は務まらず、無知/無能な史官の替わりはいくらでもいたのです。多分氏は、いずれかの「現代語訳」を手にして書いているのでしょうが、これでは、論者としての信用を無くすだけです。ご自愛ください。

コメント:對海国談義
 暢気に、「対馬国」を百衲本は「対海国」と記しています。前者は現在使用されている見慣れた文字で、違和感がないとおっしゃいますが、氏とも思えない不用意な発言です。史書原本は「對海國」ないし「對馬國」であり、「見なれない」文字です。

 氏は、不要なところで気張るのですが、「絶島」は、「大海(内陸塩湖)中の山島であっても、半島でない」ことを示すだけです。逆に言うと、単に海中山島と言えば、半島の可能性が高いのです。山東半島から北を眺めたとき目に入るのは、海中山島、東夷の境地であり、朝鮮/韓を半島と思い込むのは、後世人の早合点であり、ある意味、誤解となりかねないのです。

 ご想像のような「絶海の孤島」を渡船で渡り継ぐなどできないことです。気軽に渡り継げるのは、流れに浮かぶ中之島、州島です。
 因みに、倭人伝道里記事の報告者は、対海国から一大国の渡船が、絹の綾織りのような水面「瀚海」を渡ったとしているので、波涛などでなく、穏やかな渡海であったと実体験を語っているものと思わせます。

*大海談義~余談 2023/07/25
 「大海」も、大抵誤解されています。倭人伝では、西域に散在の内陸塩水湖の類いと見て「一海」としているのです。「二大文献」の西域/西戎伝では、「大海」には、日本人の感覚では「巨大」な塩水湖「カスピ海」(裏海)も含まれていて、大小感覚の是正が必要になります。
 くれぐれも、「大海」を「太平洋」(The Pacific Ocean)と決め付けないことです。そもそも、対馬海峡も日本海も、太平洋ではありません。
 むしろ、現代地図で言うと、東西の瀬戸の隘路に挟まれた「燧灘」が、いちばん「大海」の姿に近いものです。何しろ、塩っぱくて飲めない「塩水湖」なのです。ただし、燧灘は、九州北部にあるわけではなく、考証がむつかしいところです。
 琵琶湖は、淡水湖なので端から落第です。宍道湖は、塩水湖ですが、対岸が見えないほどに大きくないので、外れます。となると、後は、有明海ぐらいになりますが、有明海は、筑紫を呑み込むほどではないので、疑問です。

 結局の所、三世紀当時、景初二年時点で、帯方郡から見て、対馬海峡の海水面がどこまで広がっていたか、皆目分からなかったから、現代地図を見ても、その視界は窺えず、伊都国の向こうは臆測しかできなかったと見るものでしょう。「倭人伝」の地理情報が理解しがたいのは、書いている方が、現地情報をよくわかっていなかったからなのです。そして、二千年後生の「うみの子」である東夷現地人が、自分の豊富な土地勘で補おうとしても、それは、帯方郡官人すら知らない異次元の世界なので、見当違いになるのです。

 それにしても、東夷伝を読む限り、「大海」が韓国の東西にある「海」(かい)と繋がっているとの記事はなく、どうやって、海から大海の北岸に至るのかも不明です。現地地図など見ず、「倭人伝」の文字情報だけで陳寿の深意を窺えば、明記されている事項を読み損なう「誤解」は発生しないのです。(いや、地図など見るから誤解すると言えます)
 
 「倭人伝」の後半になると、魏使や帯方郡官人の伊都国や狗奴国の訪問記などの後日情報が収録されていると見えますが、それは、曹魏明帝里没後の記事であり、当時、在世中の曹魏明帝曹叡の上覧を経て、公文書庫に収録されていた道里行程記事部分の文書は、改竄/修正が許されていなかったので、精々、コンシーラーでお化粧するように、つまり、糊塗するように補筆する程度でしかできなかったのです。

                                未完

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コメント

中島信文様
 ご指摘に感謝します。
 短い返事で言うと、「呉志」は、東呉の史官の諸作を収録しているので、当ブログ筆者たる小生が提言しているように、陳寿は、史官の本分に忠実であり、既に皇帝の御覧を得ている(と思われる)文献記事は、史書用語として不適切でも「改竄」しなかったという見方が簡明でしょう。ご承知のように、東呉編纂の「呉書」は、東呉亡国の際に、降服の徴として晋帝に献呈されています。そのような「呉書」には、魏武曹操や文帝曹丕、明帝曹叡を罵倒する発言が諸所に引用されていますが、魏晋史官の筆は入っていません。
 少し丁寧に言うと、「呉志」の「海行」用例は、陳寿によって道里行程記事として公式に記述されたものではないのです。用語/用例として「見当違い」とは言いませんが、倭人伝の文献解釈上、考慮に値しない「細瑾」と見ています。つまり「倭人伝」には「海行」はないのですから、当記事では「門前払い」です。
 言うなら、古代史書は完璧ではないはずですから、細かいアラはあるものです。ここに陳寿の編纂のアラがあったとしてても倭人伝全体の評価が揺らがないように、後世東夷人の素人論考にアラがあっても、論考全体に累が及ぶものではないでしょう。
 本記事は、当ブログの地の記事でなく、塚田氏の厖大な見解吐露で、人ごととしてほっておけない難点を指摘したのです。塚田氏ご自身が小論に反論されるのならともかく、第三者が口を挟むのは、どんなものかとも思います。いや、成り行きで、口を挟んだ例はありますが、別に褒めてもらいたいものではないのです。
 小生が、延々と書き連ねたのは、塚田氏の所説の批判が目的ではなく、そちこちで「俗説」の愚を覆すのが、主眼であり、しばしば、塚田氏批判より、俗説非難が目立っています。ということで、「羊頭狗肉」になっていますが、個人、素人の書評としては、中々のものと自負しています。倭人伝論で言うなら、氏の心情的な「邪馬台国」「大和」論は、もっての外と言いたいところですが、本音を吐露するのは控えています。むしろ、氏の論考の最初で最大の敵は、この心情的「大和」説ですが、それは、ご自身が納得しない限り、再考いただけるものではないので避けているものです。
 そうでなくても、古代史の世間、特に纏向関係者には、すっ裸の王様が多いので、相手していられませんが、塚田氏の着眼、視野には、むしろ賛同する点が多いのです。(しつこいまで、そう書いているはずです)
 因みに、本論の主張は、倭人伝は、中国史書であり、中国史官が中国皇帝のために編纂したのだから、まずその視点で論ずべきであり、国内史学界の通念である「国内古代史への異界の侵入者」、「厄介な遺物」、「忌まわしい朝敵」と見るべきではないということです。そのような国内古代史風土は、貴兄もご承知のはずなので、貴コメントへの返信としては、さぞかし、お耳ざわり、ご不快でしょうが、誰も理解/支持してくれないので、自分で自分を褒めているのです。
 因みに、小論を、古田武彦氏の里程論への批判なき追随と見ているのは、大きな考え違いです。小論は、古田氏の里程論に関する提言を「魏晋朝短里説」を含め、過去の記事で、ほぼ全面的に否定しています。そう読めなかったでしょうか。
 また、小生が、「行」が官制上の行程道里の用語と解していることも見落とされているようです。さらに、倭人伝やおける「水行」は、中原にない長途の渡海を、正史に表現するための便法だったと解釈している点も、ご理解いただいていないようです。
 ついでに言うなら。倭人伝記事は、現地に「大海」、つまり、西域の裏海に匹敵するような巨大な内陸塩湖(salt lake)があるとして記述を開始しているので、以下の「海」は、英国英語のseaでも米国英語のoceanでもないのです。
 以上は、貴兄と世界観が違うので致し方ないところですが、黙殺は非礼なので、反論させていただいています。
以上


>中島 信文さん
>
>  豊田様 お久しぶりです。塚田氏のサイトは私も以前に読んでおりまして問題も多いと思いましたが、貴方の論で抜け落ちているのは、『三国志』「呉志」では、「海行」という文句が出てきております事に対して全く認識や論議がなされていないという事があります。貴方の論(古田論の継承)は陳寿は「水行」も海(SEA)の航海を含むと考えていたとして展開しておりますが、『三国志』においては「陸行」と「水行」、そして、「海行」という文句を陳寿は使い分けています。この点を全くあなた様が無視することは残念ですね。それと「水行」や「陸行」、「海行」のおける「行」とい文字の認識が単なる「行く」という意味の認識だけというのが気になりますね。古代中国の「行」は意外と奥深いですから。
> 

  豊田様 お久しぶりです。塚田氏のサイトは私も以前に読んでおりまして問題も多いと思いましたが、貴方の論で抜け落ちているのは、『三国志』「呉志」では、「海行」という文句が出てきております事に対して全く認識や論議がなされていないという事があります。貴方の論(古田論の継承)は陳寿は「水行」も海(SEA)の航海を含むと考えていたとして展開しておりますが、『三国志』においては「陸行」と「水行」、そして、「海行」という文句を陳寿は使い分けています。この点を全くあなた様が無視することは残念ですね。それと「水行」や「陸行」、「海行」のおける「行」とい文字の認識が単なる「行く」という意味の認識だけというのが気になりますね。古代中国の「行」は意外と奥深いですから。
 

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