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2024年9月

2024年9月24日 (火)

私の意見「謝承後漢書の行方」サイト記事批判 再三掲

       2016/03/22  2020/02/15 追記 2020/06/24
   再確認 2021/03/17 LINK改訂 2021/12/22 追記 2024/04/05, 09/24

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに
 本記事は、神功皇后紀を読む会 2008.8.26 | 倭歌が解き明かす古代史(旧「神功皇后紀を読む会」通信 主宰・福永晋三)の(かなり古い)ブログ記事に対する批判である。ブログは、sfuku52とあるだけで署名は見て取れないが、福永晋三氏の書いたものであろうと言う認識である。単に、良くある軽率な判断の提示された記事を点検したものである。

 今回の追記は、時として当記事を参照する訪問者が多いことから、定期でもないが点検・補強したのである。さらに、氏のサイト移動に対応して訂正を加えた。対応が遅れて、ご不自由をかけたのであればお詫びする。

 また、今回気づいたのであるが、以後、氏は、邪馬壹國こそなかったに於いて、本記事及び先行する陳寿の見た後漢書を収録されているので、当方も、対応しなければならないのだが、氏の論議には変わりは無いと見えるので、当記事は、このまま維持することにした。

□前置き
 ネットを散策していると、いろいろな意見に出会うもので、人も知る貴重文献「翰苑」でしばしば引用されている「後漢書」は、笵曄編纂の「後漢書」ではなく、謝承の『後漢書』であったと主張しているのである。いや、思いつきの意見/放言に口を挟むのは何だが、これを、建設的な仮説と誤解する向きがあるので、一本、釘を刺すのである。
 謝承後漢書の行方  注)Yahoo!ブログが終了したため、当初掲載していたリンクを改訂した。
 当記事では、『翰苑』の証明と題して、概ね下記の論考が高々と掲げられている。
 (「翰苑」編者の)雍公叡は「謝承の『後漢書』」を『後漢書』として引用し、范曄の言わば『新・後漢書』を『范曄後漢書』の名で区別して引用していることが明らかになってきた

 これは、単なる意見、作業仮説の提言と見えず、堂々と、新発見を旗揚げされているが、氏ほど声望の高い論者は、根拠がない意見は、確たる根拠がないことを自覚した上でその旨明記された方が望ましいのではないかと思量する。

*検証の海
 当方は、一介の素人読者であるので、深読みはできず、表面的な読解で恐縮だが、「翰苑」の書法から見て、こうした決めつけは、不適当と考えるのである。と言うことで、第三者が追試可能な、明確な根拠のある「否定」の論証を試みる。

 竹内理三氏の労作書籍「翰苑」に収録された全文影印は、写本工の不手際と事後校正の不備/欠如を露呈している。当世流行りの罵倒用語では、「致命的」というのだろうが、関係者一同とうの昔に世を去っているし、また、人の生き死にを冗談の種にすべきではないと思うので、オリオン座「馬頭星雲」さながらの「罵倒の海」から身を遠ざけることにする。
 それはさておき、竹内氏の労作は、「翰苑」残巻なる古書の文献批判上、大変参考になるが、何分、「翰苑」 は奔放な書法で書かれていて、文字検索には全く不向きなので、いつもお世話になる「中國哲學書電子化計劃」で、「翰苑」の全文テキスト検索を行った。以下、()内の件数は、同サイトのデータを利用させて頂いた。

 謹んで、「中國哲學書電子化計劃」サイト関係者の多大な貢献に感謝する。

*「笵曄後漢書」と「後漢書」
 たしかに、翰苑」残巻の蕃夷部には范曄「後漢書」(7件)と「後漢書」(91件)の二種の書名が書かれている。

 班固「漢書」(55件)、司馬遷「史記」(4件)、陳壽「魏志」(14件)の正史については、いちいち編纂者を示していない。「翰苑」編纂時の編者の視点では、これら「三史」が、後世「正史」と呼ばれた公式資料となる格別の史書として認知されているから、書名だけで自明だと言うことであろう。

 因みに、ここで言う「三史」は、あくまで、范曄「後漢書」が公認される唐代中期までの評判であり、その後は、「史記」、「漢書」、「後漢書」が「三史」となり、「三国志」は、表彰台から下りたのである。念のため。

*魚豢「魏略」と「魏略」
 例えば、「魏略」について確認すると、魚豢「魏略」と「魏略」(計29件)の二種が見られる。だからといって、二種の「魏略」があったわけではない。引用資料の出典を厳密に明記するには、毎回魚豢「魏略」と書けばいいのだが、わかりきった事項を繰り返し書くのは煩雑だし、字数分の紙面を消費するので、一々律儀に書かなくてもいいと言うことで、普段は省略形の「魏略」で済ませている箇所が多いのである。高級写本とするには、全件を魚豢「魏略」に復元するだけであり、そこには、高度な技巧も学識も要らないのである。

*「後漢書」検証
 してみると、多くの箇所(98件中 91件)で、単に「後漢書」と書いているのは、既に定評の確立した笵曄「後漢書」の省略形と見るのが、一番自然な、無理のない理解、いわば、極めて妥当な「定説」ではないか。
大局的着眼を着実な実証で確保していて、定説とは、かくあるべきと言うお手本としたいものである。

唐宋代当時、既に范曄「後漢書」の文章の質の高さは評判になっていて、その華麗な文体は教養人の手本になっていたから、後世に正史、つまり、歴史文化遺産とすべき「後漢書」に選ばれたものと思われるのである。

 福永氏に代わって、当方の「否定」に対して反論したくても、「翰苑」写本断簡の蕃夷部を検索しても、謝承「後漢書」どころか「謝承」もヒットしない。要は、明示も示唆も無い、何もないのである。氏は、何らかの幻想に囚われて、かくの如き駄文を物されたと強く推定される。

 なお、本断簡における「写本工」の仕事が、職業人として信じがたいほどいい加減でも、引用出典として、原本に「謝承後漢書」と書かれているのを「後漢書」と書くような類いの誤写は、見る限り一切していないのである。本写本は、つまらない書き損ないを放置していて、書きかけで気づいたら、そのまま書き続けているのが見て取れる程である。しかし、勝手な書き端折りはしていないのである。

 当ブログ筆者は、かねてから、現存する翰苑「写本」が、「史料として色々不具合が多いものである」ことを言い立てているが、信頼できないのは、写本の工程そのものの気ままさとその後に付いてくる校正の堕落であって、「翰苑」原本の信頼度は、史料からの引用の精度に疑問はあっても、それなりに高いもの(であった)であろうと推定している。(賞賛しているのである)

 ただし、写本の出来が出来であるから、誤字脱字の山を正確に是正するのは、難易度が高いし、加えて、晩唐から五代十国、北宋初期の間に高度な進化を極めた四六駢儷体の「美文」を正確に解釈するのは、当時の「文化人」以外には、むつかしい。平たく言うと、「不可能」と思う。

 いや、福永氏が、至高の読解力の持ち主でないと主張するほど無謀ではないが、諸般の事情から見ると、事実上、単なる千数百年「後生の無教養な東夷に過ぎない」と見えるのある。氏ほどの見識の持ち主が、旧説を一切検証せずに、放置されているところを見ると、当論議は、放擲されているのではないかと推定されるのだが、いたずらに、一時の恥を、御高説の中核部に通じるものとして後世に残していらっしゃるのは、どんなものであろうか。世の中には、検証なしに氏の見解を子引き、孫引きして、泥沼に陥っている方もいらっしゃるので、過ちを正すのに遅すぎることはないと思うものである。

*翰苑の正当評価
 それにしても、史書でなく、「通典」などの上級類書でもない「翰苑」の編纂の意図が、はなから史書抜粋の厳密さを追究したものでなく、また、「翰苑」編纂者の与り知らぬこととは言え、十分な文書校正されず、少なからぬ(平たく言うと、厖大な)誤字、誤記が残されている、どう見ても杜撰な写本の断片が一本だけ残存しているので、その真意を読み取ることは、大変困難である。平たく言うと、「不可能」であるが、当世若者言葉には通じていないので、どう解釈されるか不安なのである。
 念を押すが、ここでは、当史料の文字テキストの信頼性を問題にしているのであり、「翰苑」断簡の文化財/国宝としての価値、つまり、書の芸術としての価値には、一切文句を付けていないのである。(当ブログ筆者には、批判できる見識が備わっていないので論評しないのである)

 正史は、歴代帝国の一級文化財として、ちゃちな経済性を度外視して、正確さを最善に保持すべく、北宋刊本校正時に至るまで、確実に写本継承されている。ほぼ健全に継承されたと思われる正史「三国志」記事を、陳寿を基点として二千年後生の無教養な東夷の憶測と風聞に基づく「論考」でもって覆すというのは、学問に取り組む者の姿勢として、どういうものだろうか。(平たく言うと、根本的に間違っている)
 更に言うなら、「翰苑」は、あきらかに商用のものであり、手早く世上流通していた「劣化」の進んだ二級以下の品格であった市販諸史書からの所引(早書きの抜き書き)を収集し、もっともらしい「評」を加えたものであり、「翰苑」編者の手元に届いた時点で、史料として、市販諸史書の被引用部分から遠ざかった「劣化」の進んだものだったのではないかと推定される。
 そこから、「翰苑」編者の資質にも拘わってくるのだが、同書の主要部であったと思われる薬草名鑑と比して、通常、「翰苑」残巻として露呈している名文句集、名筆集に付注する際の史料「テキスト」の所引断片に対する集中力は、当然二の次と思われ、「翰苑」は、その出発点に於いて、多大な劣化をかかえていたと推定されるのである。
 「翰苑」は、文字テキストとして、その編纂時点に於いて、その時点の原史料と同一視される程の信頼性を付与されているが、以上のように、そのような高度な信頼性は、無い物ねだりであり、現存「翰苑」残巻が示す文書行格の錯乱、散在の域を超える多発誤字の萌芽は、「翰苑」原史料所収時に、既に存在していたと推定されるのである。
 そして、現代読者が目にするのは、そのような「出発点」以降に積載された行格錯乱、誤字多発であり、もはや、「翰苑」残巻の文字テキストに対する信頼性は皆無と見えるのである。
 福永氏は、そのような「史料批判」を怠っているのではないかと危惧され、素人目にもあきらかに劣化した史料を根拠に御高説を構築されるのは、氏の見識をいたずらに疑わせるものであると云いたくなるのであるが、それでは「罵倒の海」なる泥沼にはまるので、きわどく自粛するものである。

以上

▢追記 2023/09/20
 後出であるが、「翰苑」現存断簡に関する史料批判(2023/07/09)を参照いただきたい。「翰苑」が格式正しく復元されれば、より正確に史料評価できるというものである。検証できるように、遼海叢書 金毓黻遍 第八集の所在も示している。
 いやはや、「翰苑」断簡の史料批判に不可欠とおもわれる史料が、正邪当否はともかくとして、先賢諸兄姉に一顧だにされていないのは。もったいないことである。

私の所感 遼海叢書 金毓黻遍 第八集 翰苑所収「卑彌妖惑」談義

以上

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2024年9月22日 (日)

新・私の本棚 刮目天ブログ 『「魏志倭人伝」行程記事の真相だよ(^◇^)』 1/2

「魏志倭人伝」行程記事の真相だよ(^◇^)  2019/12/12 2024/09/22
     2024/09/22, 24

◯公開コメントの弁
 当方が兄事する刮目天一氏のブログは、国内古代史に関する高度な思索に満ちていて、門外漢が口を挟むことのできるのは希なのですが、今回は、当方の孤塁を攻撃している内容なので精一杯応答することにしました。以下、とても、コメントに書ききれないし、趣旨として当ブログの防衛戦なので、ここに掲示します。よろしく、御寛恕いただけますように。

*謎の「倭人伝」
『倭人在り、帯方郡の東南の大海の中、山島に依りて国邑をなす。
・・・・・・・
郡より女王国に至るに万二千余里。』

 この飜訳創作の由来は不明なので、刮目天氏にケツを回すことにします。

*誤解の起源 The Original Mistakes as Granted
 一番大きな問題は、「倭人伝」の用語解釈の欠落です。現代人の安易な解釈では誤解保証付きです。岡田英弘氏の提言の使い回しですが、『陳寿「三国志」「魏志」は、三世紀西晋の役人の教養に合わせた言い回しで、当時、出世に不可欠な四書五経と史記漢書二史を理解している前提で書かれているので、二千年後生の無教養な東夷に正確な理解は不可能』なのです。

*試訳・短評 Islands in the Stream
 原文は「倭人在帯方東南」、「大海之中山島依山島為国邑」であり、『「倭人」は郡の東南』「韓伝」などと共通の書き出しです。正史は、当方の本記事のように、その時の思いつきで書き飛ばしているのでなく、年月を費やして形式を整え、一字一句を吟味して推敲しているので、少なくとも、形式の一貫性を壊さない「飜訳」が望まれるのです。

 手短にまとめると、「倭人」は、流れに浮かぶ島々であって『渡し舟を乗りついでたどり着ける「近場」(ちかば)の小島に屯(たむろ)している/在る』と解されます。途次の「国邑」は、「国」と言っても中原太古の集落と同様の千戸代の聚落で「小ぶりの貧乏国揃い」と、明確に示唆されています。
 要するに、後ほど逐条形式で書かれている「万」戸の大振りな国は、狗邪以降、行程上諸国の記事(各国条)の核心をなしている「千」戸の桁を踏み外しているので、「倭人」の国勢評価で考慮すべきでないと明確に示唆されているのです。明記した行程上の国邑は確実に知られているが、行程外の「余傍の国は、国状が分からないから信用できないものの、風聞の類いでなく公文書に書かれている数字であるから、参考までに書き留めた」という趣旨が明確に示唆されています。
 つまり、「万」戸単位の戸数は、現地が戸籍台帳を元に、計算官僚総動員で合計して算出したものでないから信じてはならないのです。後に述べるように、全戸数七万戸が公孫氏の演出(Presentation)のままに明帝遺言に書かれてしまっているので、行程諸国の戸籍台帳に基づく推計との食い違いは、行程外の余傍の国々、特に、遠隔の投馬に押し付けるしかなかったと関係者の「苦心の程」を察するべきです。

*公孫氏の二千年遺産 天子の誤解
 初見では、公孫氏は、小天子として世界の中心にいる心地であり、「倭人」の所在は、遥か彼方の世界の涯ての異境と見立てて、「総勢七万戸、郡から一万二千里の彼方」と見せましたが、実は、盛大な戸数七万戸は、実務戸籍に基づかない実態不明の華燭であり、華麗な一万二千里は周制の「荒地」表現の名残であって道中の道里(道の里)を前提にしたものではなく、どちらも、公孫氏の大芝居の舞台装置だったのです。
 それが、曹魏二代皇帝曹叡が、両郡に遺存していた公孫氏の未提出報告(郡志)を、司馬懿の鈍重な軍事行動に先立ち、明帝創案の機敏な二郡恢復行動で急遽接収した帯方郡から略取して一読して気持ちよく「誤解」したから正史に載ってしまったものです。結果として、直後に、明帝が夭逝したため、「誤解」が、天子の遺言/遺命になってしまったということです。
 後年、西晋に移行してから、江東の孫氏政権東呉が降服したときは、東呉の(西晋の世界観で言う)地方史である呉書が献上され、後漢末期以来途絶えていた魏晋天子に対する報告がなされたとして雒陽公文書庫に収蔵されたのと大局的には共通であり、陳寿が、全国を把握していなかった曹魏の正史ではなく、「三国志」として編纂した背景となっているのと異なった処遇となっている背景と思われます。このあたり、公孫氏の政権は、鼎立していたと解釈されている魏呉蜀の三極に次ぐ「第四極」として認知されない一因をなしていると考えます。念のため言うと、「三國志」の解釈は同時代の世界観を踏まえるべきであって、後生東夷が、賢しらに論ずるべきではないのです。

 ちなみに、司馬懿は、遼東での軍功を糧(かて)に雒陽政局の中心に会座しようとしていたのであり、公孫氏の東夷政策の継承などまるで関心がなかったので、公孫氏の公文書記録を全て廃棄し郡高官を根こそぎにしたのです。

 「魏志倭人伝」の深意解明に勉める後生としては、「実録」の皇帝遺言は訂正が許されないので、陳寿は「倭人伝」体裁を保ちつつ、誤解が定着しないように実質的に訂正しているものと考えるのです。

*史官の本分 Mission of Gravity
 史官は、あくまで、低位の公式記録者ですが、使命に殉じて「二枚舌」で毒消ししたのです。この点は、同時代正史に造詣の深い渡邊義浩氏が説くところでもあります。要するに、史官は「史実」の記録者であるが、それは、単なる公式記録の承継ではない「編纂」の至芸を齎しているとの至言と理解します。いうまでもないですが、それは、その時/その地域の権力者などという寸毫/束の間の光芒におもねるものではないのです。

*送付案内 Shipping Advice
 景初二年六月に郡に参上した倭人大夫を、皇帝は首都雒陽に呼びつけ、帝詔、皇帝の約束として、別送下賜物目録と共に帰国させたので、曹魏の担当者は、大枚の荷物を未知の倭に届ける任務を与えられ、結構日数をかけて、雒陽倭行程と所要期間を郡に調査させたのです。それが、郡狗邪の陸上街道と以後の倭本拠伊都国までの行程所要日数に反映されました。それで初めて発送できたのは当然でしょう。
 規定すべき所要日数(水行十日、陸行一月の都合四十日)を、行程諸国道里に万二千里を相応按分した上で、遅くとも曹魏正始年間に実道里は皇帝承知の一万二千里と途方もなく異なる」と確認できていたので、蕃夷接客の実務に慣れていた鴻臚卿としては、当時、境界を接していた匈奴、鮮卑のように凶暴、貪欲でない貧乏東夷の「倭人」の接客は、分相応の二十載一貢ぐらいの「厚遇」で良かろうと言う趣旨だったと見えるのです。
 それは後日の話しとして、実務は着着と進み、遥か辺境の狗邪海港では、郡治からの早馬での予告通りに到着した荷物を順次渡船に積んで送り出したのです。早馬のできない海上は、狼煙台で連絡したでしょう。

*綸言汗の如し Like His Majesty's Sweat
 なにしろ、先に寸評したように、至高の天子烈祖たらんとしていた曹叡は景初三年元日に逝去して明帝と諡(おくりな)され、先帝の遺言は「実録」に書き込まれて、一切訂正できなかったのです。もちのろん陳寿は明帝遺言を否定することはできないので、深意を行間にこめたのです。

                               未完

新・私の本棚 刮目天ブログ 『「魏志倭人伝」行程記事の真相だよ(^◇^)』 2/2

「魏志倭人伝」行程記事の真相だよ(^◇^)  2019/12/12 2024/09/22
     2024/09/22

*ゴルディアスの結び目 問題と正解
 史官が綾なす行間にこめた深意は、丁寧にほぐさないと解けないのです。アレキサンドロス三世伝説の「ゴルディアスの結び目」解決のように、一刀両断したのでは、綾なす織り紐は分断され、失われてしまうのです。

*「岡田失言」の長い、長い残影 短評
 と言うことで、岡田英弘氏の軽率な失言に拘わらず、郡倭行程は「都」(すべて)「水行十日陸行一月」計四十日とされて「倭人伝」に訂正記録され、岡田氏創作の隠謀は、司馬懿も陳寿も知らないことで、全く無関係です。

*幻の敵
 すぐに分かることですが、陳寿の「魏志」編纂時、司馬懿は亡く、司馬懿の敵であった曹氏は一掃され、東呉孫氏も滅亡し、思惑不要だったのです。

*攪乱作戦の歴史
 こうした見解は、史学の常識ですが、そう解釈を確定すると、郡倭行程が伊都国で完結するので、「畿内」説論者が寄って集(たか)って、偽情報(Fake news)をばらまいて、攪乱、保身していると見えるのです。

*幻の権力者、有り得ないドロドロ沼
 陳寿は、当時の権力者「凡愚/老妄の晩節の初代武帝と後継暗君/盆暗(ぼんくら)二代恵帝」の意見/支持を仰ぐことなく、官撰史書編纂に最善を尽くしたのです。諸葛亮由来の「鞠躬尽瘁」(きっきゅうじんすい)です。貴兄もドロドロ沼から抜けて冷水(Clear water)洗顔でお肌を引き締めることを勧めます。

◯刮目天氏曰わく、
 「魏志倭人伝」のこの四百字ほどの行程記事は、とどのつまり「東夷の大国、倭の女王国は帯方郡の東南の方向の海上のおよそ万二千里も離れた遠い島ですよ。」ということでした。その後の倭の風俗記事の中に「女王国は魏のライバルの呉を圧迫する、その東方海上に在るんですよ。」と陳寿はそれとなく書いています。当時半島を支配していた公孫氏を滅ぼして、倭国を手なずけた司馬懿(しばい)とその部下の帯方郡太守劉夏(りゅうか)たちが魏の朝廷の人々に最も伝えたかった内容なのです。
行程記事は、女王様が統治する気の遠くなるほど遠い東夷のエキゾチックな国にどうやって行くのかと、司馬懿のライバルの曹爽(そうそう)派閥の人たちにも疑念が出ないように、一応具体的な方角や里程・日数を述べたに過ぎないということです。以下略

◯倭人伝の真意推定
 刮目天氏の推定は、右往左往して失神寸前で、正解から遠ざかっています。
 孤見ですが、「倭人伝」全体は、戸数、道里、方里の各記事で、牛馬労役に欠ける「倭人」を中原基準で評価してはならないという教え/示唆に満ちています。

◯結語
 陳寿は、司馬氏の皇帝誅殺隠蔽を非難されますが、魏志明帝紀に『三年春正月丁亥,太尉宣王還至河內,[中略]執其手謂曰:「吾疾甚,以後事屬君,君其與爽輔少子。吾得見君,無所恨!」宣王頓首流涕。』とあり、後に少帝曹芳を廃位した司馬懿の河内の空涙(そらなみだ)が記録されています。「河内」は、首都雒陽界隈のことであり、大阪河内ではありません。司馬懿が、来阪して河内音頭を踊ったなどと「新世紀」の新説を唱えないでください。(grin)

 魏志に謀反人毋丘儉の列伝はあっても、「宣王伝」はありません。
 一方、蜀志には、不朽の力作「諸葛亮伝」があります。

                臣隆誠惶誠恐,頓首頓首,死罪死罪。

                               以上

新・私の本棚 番外 毎日新聞【松井宏員】散歩日和 奈良凸凹編 大倭/2

散歩日和 奈良凸凹編 大倭/2(奈良県桜井市)卑弥呼に重なる伝説 毎日新聞大阪夕刊 2024/9/18
私の見立て ★★★☆☆  場違いな力作 前途遼遠  2024/09/22

◯はじめに
 今回は、前回の既存史料貼り合わせを離れ、梅林氏の御高説を、記者が伝道していると見える。継ぎ接ぎ感は薄れても、氏の話の筋が揺らいでいて、頼りない。「散歩」が散漫では困る。ちゃんと「レジュメ」を踏んで欲しい。

◯記事引用御免 字数制限のため、中略...多用失礼。
 国道側から近付いていく。古墳の森...。古墳には...周濠...がよく見られる...

 記者の放言と見えるが。それにしても、矢継ぎ早の「古墳」が揺らぐ。一つ目は目前の箸墓、二つ目は地域の「古墳」一般か。「良く見られる」と言うが、箸墓に「周濠」はなかったのか。随分不用意である。

「手前が前方ですね。当時の人は、この大きさにびっくりしたでしょうね」と梅林秀行さん。全長約280メートルのサイズ...

 「手前が前方」なら奧は後方か。末尾で「後円部」と書いていて、この場の失言をそのまま引用されては、論者として粗雑である。
 文字起こしの時に、引用部を追加すれば、つまらない揚げ足取りはされないのだが、梅林氏は、本記事を校正しなかったのだろうか。古来、記者の聞き取りが粗雑なのは、学界の常識と思うのだが、梅林氏は、考古史学会に属していないので、言いっぱなしで安穏としているのだろうか。
 当時、メートル表記も「サイズ」もなかった。「全長」実測したのだろうか。

 宮内庁は被葬者を...モモソヒメ...として陵墓指定している。―
 孝霊天皇は実在しないと考えられているからモモソヒメも実在の人ではないが、...神性を持つシャーマン的なところが卑弥呼と重なる...

 「モモソヒメも実在の人ではない」との断定はどんなものか。当時、『神と結婚するという神性を持つ「シャーマン」』など生齧りの言葉はなかったから、「卑弥呼」に重なるかどうかわかるはずがない。記者は、神がかりなのか。宮内庁書陵部」誹謗は、止めたのか。

 「古墳は鍵穴の形だけでなく、...」...日本書紀は、大坂山の石を...手渡しで運んだ、という。...フィクションではないのかもしれない。

 「古墳」の「鍵穴」とは、往年の毎日新聞名物コラムか。「フィクション」が意味不明だが、記者は、書紀「偽書」説なのか。趣旨不明である。

 「実は幅10メートルくらいの周濠跡...外堀がため池と化した...その先で交差するのが、いにしえからある上ツ道だ。...

 巾十㍍程度の「周濠」は何なのか。ため池」は纒向川から取水し貯水、水分する灌漑施設を計画造成したのではないか。「周濠」は「ため池」か。言葉が乱れていて、眩暈しそうである。
 意味不明の「交差」物「上ツ道」造成は、「いにしえ」と茫漠としているが、要するに箸墓造営以前か以後か。大事な事項である。

 「...箸墓は一から盛り土している。...」。...外堀になった可能性もある。
 ...「手前の大きな石が...」...十数キロを運ばれてきたのか。

 「外堀」談議ばかりで、幻の「内堀」はさておき、「箸墓」の石積みは、僅か十数キロの玄武岩一個で足りず数トンではないか。十数キロの岩を手渡しで「運ばれてきた」、いや、「運ばれていらっしゃった」はずもない。

 ...卑弥呼説もある箸墓古墳。被葬者をどう見るか? 「それ以前とは比較にならない巨大な力を持った人物...巨大な墓...で新しい仕組みを作ろうとしたのか。...モモソヒメの伝説には卑弥呼の...イメージが投影された...

 氏の論理を追うにも「箸墓」遺跡と「卑弥呼」は異次元で同一視できない。「それ以前」と言うが「倭人伝」で卑弥呼は父祖を鬼神として事えたのであり、自身を鬼神に擬えるとは不遜である。「巨大な」力は数値化できるのか。
 「巨大な墓」で「新しい仕組みを作る」とは何のお呪いか見当もつかない。
 古代に「プロジェクションマッピング」で「イメージ」(画像)投影ができたとは考えられない。「倭人伝」に「卑弥呼」「画像」は、一切書かれていない。
 記者は、「散歩」の道すがら、実景を見ずになにを見ていたのだろうか。

◯まとめとして
 記者は、座学無しの「散歩がてら」、聞き歩き/眺め歩きとスナップショット撮影の取材行で、梅林発言をすらすら理解したのだろうか。神がかりなのだろうか。
 それにしても、記者も梅林氏も、「魏志倭人伝」を誤解し続けではないか。

                               以上

2024年9月17日 (火)

新・私の本棚 番外 毎日新聞【文化財のあした】「邪馬台国 畿内説の現在... 

...日本初の都市? 纒向遺跡の遺構」 毎日新聞大阪朝刊12版文化面 2024/09/15
私の見立て★★★★☆ 文化面相応の堂々筆致。疑問点少々のみ 2024/09/16,09/22, 10/02

◯おことわり
 読みかじりでないのを部分引用で示したが、字数制限しているので、...中略記号 御免。

*記事引用
 纒向遺跡は3世紀初めに突如として出現し、4世紀初めまで営まれた大規模集落遺跡だ。...水田などが発見されておらず...日本初の「都市遺跡」...を象徴するような遺構が2009年に見つかった。
 ...3世紀前半の大型建物跡(南北19・2メートル、東西12・4メートル)が発見された。...周辺で同時代の遺構は確認されておらず、...纒向遺跡の特徴として...外部から搬入された土器の割合が高い...
 ただし、纒向遺跡の範囲は南北約1・5キロ、東西約2キロに及び、1970年代に始まった発掘調査は遺跡範囲の約2%しか終えて...いない。
 畿内説を裏付けるものとして、纒向遺跡の区域内にある巨大前方後円墳「箸墓(はしはか)古墳」(全長280メートル)の存在が大きい。国立歴史民俗博物館は...箸墓古墳の築造年代を...240~260年代と発表した。卑弥呼が亡くなったとされる248年に近く、卑弥呼の墓とみる研究者は多い。

◯コメント 全国紙の一般読者対象記事とみるので周知事項は御免。
*初歩的な指摘
 素人考えで、「纏向」が「日本」の萌芽と見るなら、「日本初」は別の意味になる。「奈良盆地初」なのか、筑紫も入る「日本列島初」のか。

*食糧事情
 農地遺構が未出土としても、何か食料を持続して手に入れなければ、生きられない。高名な磯田氏が、NHK番組で突如開示した提言の「略奪」は、たまたま一度は成果が出ても、何度も出撃してはいられない。
 「都市」は現代用語とみるが、食料生産を二の次にして商業立国しようにも、鉱工業資源が無ければ、食料は手に入らない。集落単位でも、鍛冶職人など、売るものが無くて食料は買えない。
 農地も市場(いちば)も見つかっていないと言うが、当てはずれ/見当外れか。

*全貌画定のなぞ

 「纏向遺跡」全貌を、発掘進度ゼロの時点で、「南北約1・5キロ、東西約2キロ」と画定した根拠は不明である。最初から、「遺跡」の全貌を想定していたとしか思えないのだが、見あげたものである。当時、既に、子々孫々発掘事業を担保する絵を描いたのだろうか。

 「周辺で同時代の遺構は確認されておらず」とあるが、では、周辺の「遺跡」では、何が発見されていて、その関連は、どうなっているのか。
 「纏向遺跡」指定領域の内部に「三世紀前半の大型建物跡」「遺構」が発生する以前は、どんな有り様だったのか。井の中の蛙ではないのだろうか。井戸の「外部」は、どうなのか。

 「建物遺構」が、何か得体の知れないものの「象徴」なら、首長居処、兵舎、食料庫は、何処にあったのか。
 事の成り立ちを考察してみると、「箸墓」は墓地であり、当時「荒れ地」だった「遺跡」の纒向川対岸に、随分、先だって造成されたのではないかとも思われる。

*「外来」土器のなぞ
 「外部から搬入された」と言うが、「外部」のものがタダのはずがない。普通に仕入れたのが、地域の「市場」で売買されていたと思われる。大物土器類を税納入したのなら、木簡荷札が出土するはずである。
 「人と物の往来」の街道遺跡は出土したのか。三世紀、纏向付近の南北径路は山沿いの「山辺の道」だけで、「纏向」水郷に南北街道はなかったはずである。
 「倭人伝」で当時牛馬役務はないから、全て「痩せ馬」なる人の背で運んだはずである。でなければ「纏向遺跡」の遺構に牛舎や馬小屋があったはずである。

 以上、遺跡遺物考古学門外漢の素朴な疑問に答えていただければ、幸いである。

*畿内説の裏付け
 「畿内説を裏付ける」と言うが「巨大前方後円墳...が大きい」とあるのは苦笑である。「畿内説」は古墳の巨大さしか言う事がないのだろうか。

*卑弥呼の冢 考察~「余談」記録された史実 2024/09/22,10/02 補充
 「魏志倭人伝」によれば、卑弥呼を埋葬した「冢」は、大型墳丘墓どころか「大塚」ですらなく、在来の土饅頭に類するものとされていて、ずいぶん小ぶりと思われる。大型墳丘墓の外形寸法の1/10程度であり、用地面積は1/100程度、用土は1/1000程度に収まるから、周到な計画で、広範囲に指示を出す必要のある大規模な土木事業でなく、先祖以来の墓地の増設工事であり、担い手としては、近隣の少人数の「通い」でよいから、別に急拵えしなくても短期間に出来上がるものになる。
 そうした順当な史料解釈を無視/排除して、大型墳丘墓だとしている理由が分からない。前提として、盛大に荒れ地を整地して、壮大に盛り土して、手堅く版築で突き固め、さらに、葺き石を遠隔地から大量に取り寄せて盛り土を保護するとか、埋葬のために、盛り土を改めて掘削して槨室を設けるとか、「倭人伝」を離れて迷走していることについて、判断が示されていない。
 「倭人伝」に還ると、在来の埋葬であれば、先祖以来の埋葬地で、甕棺に収めた遺骸を土中に収め、盛り土して、奴婢百人で徇葬することになる。つまり、少人数で埋葬、封土を含めた葬礼を行ったとある。
 女王府は、千人程度で運営していたとあるが、公共工事には動員しないのが常識であるから、周辺の農民に鋤鍬(すきくわ)持参の動員をかけることになったとしても、農作業に支障を及ぼさない短期間の「通い」で済んだと想定される。
 「倭人伝」は、女王に敬意を表して「大いに葬礼を執り行った」としているが、薄葬を厳命した曹魏武帝、文帝の訓示が生きていた時代、蕃夷の王が、伝統を破壊する/蕃夷の分に過ぎる、途方もなく大規模な造成を行ったのであれば、厳重な叱責の言葉が書かれたはずである。現に「魏志倭人伝」に書かれているのは、簡潔・明解な記事であるのは、そのようなとんでもないことが起こらなかったからではないかと思われる。

*「径百歩」の考証
 ここでは、これまで等閑(なおざり)にされていた「径百歩」考証を試みるものである。ようするに、三世紀に書かれた呉代史書が、どのような意味で書かれたか、手短に追及するものである。
 「魏志倭人伝」が、ここに、ほぼ初めて起用した、つまり、中国史書で滅多に見かけない「径百歩」は、ある意味、純然たる土木用語であり、直径十歩程度の「円冢」の敷地が、方百歩(百平方歩)縦横十歩程度であると報告したものである。たてよこそれぞれ十五㍍程度であって、直径十歩 の土饅頭を収めるに十分であるが、環濠を設ける必要などない。これにより、どの程度の規模の工事であり、どの程度の資材を必要とし、どの程度の労力を要したか、というか、言うに足る規模の工事で無かったと専門家が、容易に推定できるのであるから、正史夷蕃伝の記事としては、このような簡潔な記事でよいのである。
 かくして、一筆書きで「冢」の形状と土木工事の規模が把握でき、おさえに、百人程度が葬礼に専従したと示しているのが、まことに、異境の王の慎ましい墓容を示していて、筋の通った合理的な筆致であり、総合して正史夷蕃伝として、適確と思うものである。

 まして、「巨大前方後円墳」の余地はない。それが、陳寿が記録しようとして、現実に記録されている東夷の「史実」である。

 以上、陳寿「三国志」「魏志倭人伝」は、周到な編集が行われているので、「読みかじり」で自己流の書換など出来ないのである。

 「魏志倭人伝」が、当時「中国」の支配者であった司馬氏に忖度して、「巨大墳丘墓」を、卑俗な土饅頭に縮小したのであり、それが、いつかどこかで、「倭人伝」に改竄・記入されたと強弁する方がいらっしゃるのなら、その旨明言されるべきであろう。また一つ、陳寿繚乱説が増える。
 
 それにしても、「倭人伝」ほど素姓の確かな二千年ものの史料を、年代ものの盆栽のように「ちまちま」丹精して手入れするのは、程々にした方が良いのではないか。いや、これは、当記事の批評を、かなりはみ出しているが、御容赦いただきたい。

                                以上

2024年9月14日 (土)

新・私の本棚 仁藤 敦史 「卑弥呼と台与 倭国の女王たち」 1/2

 山川出版社 日本史リブレット001 2009年10月刊
 私の見立て★★★☆☆ 癒やしがたい「屈折史観」 2024/09/14

◯はじめに
 氏は、文学博士であり、本書刊行時には、国立歴史民俗博物館(歴博)教授であったとされている。歴博を代表する論者と見られることから、氏が推敲を尽くした本書に対して遠慮の無い批判が可能と見たものである。つまり、本書に示された、氏の見識に対して、疑念を投げ掛ける批判も許されると思うのである。本書の論考は、多くの部分で、陳寿「三国志」「魏志倭人伝」に基づくはずであり、氏の解釈に疑問が存在するが、氏は大半の点で付注を避けたので、氏の解釈を率直に批判する。

*年長不嫁(仮称)
 最初の例として、卑弥呼は「歳をとっても夫はもたず」と評されている。これは、年代ものの原文誤解と思われるが、氏は根拠を明示しない。また、以後の論考で、この解釈は援用されない。ちなみに、ここに勝手に掲示した「年長不嫁」(仮称)は、范曄「後漢書」東夷伝倭条の創作である。
 「一般的」には、「年已長大」「無夫婿」の解釈のようであるが、順当な解釈では「成人した」「配偶者はいない」と解すべき「事実報告」が随分野放図に意訳されている。どうも、近作NHKテレビ番組で俗耳に訴える「卑弥呼」大王神話に不可欠な「恣意」であるから、回心しようがないようである。
 中国史料として前後文脈を解釈すると、卑弥呼は男王の娘が嫁ぎ先で産んだ「女子」(外孫)であり、幼時から「巫女」として祖霊に耳を傾け、当然生涯不婚の身分であった。年稚(わかく)して「女王」に共立され、景初遣使に近い時期の年頭に十五歳になって成人したが、出自が釣り合いを保っていたために、両家にとって女王の中立性を保証していたと見える。ついでながら言うと、有力者の娘は、年若くして嫁ぐものであり、成人時に未婚の可能性は無いに等しいから、生来、不婚の「巫女」として「家」を守っていたと見るものではないか。

 僅かな字数であるが、氏は、組織伝来の時代考証の欠けた無教養な「読み」に依拠し、一種「職業災害」(Occupational Hazard)と言われかねないが。疾病でなく健康保険対象外である。(つけるクスリが無い)

*「少有見者」
 「女王となってから人前に姿を現さず」というのは、一種、誤解であり、正しくは「女王として朝見することは少なかった」のである。近親と生活を共にしていたし、奴婢とも顔を合わせていたのである。
 但し、当今NHKテレビ番組が暴露した全身を曝した御前会議の獅子吼などありえない。同番組は、高名な歴博松木教授の監修とされるが、仁藤氏は局外だろうか。組織変節に諫言しないのでは氏の学術上の良心は何処かと嘆くしかない。

*「屈折史観」の悲喜劇
 以下、本著は、全体としては、氏の良識が反映された快著であるが、党議拘束されているためか、倭人伝の「史料批判」が屈折していてもったいない。良識が折れたら、「火熨斗」で折り目を正すものではないかと思われる。
 三世紀当時、史書編纂は中国のみであり蛮夷に史書はない。「優良」などと納まらず、謙虚に「倭人伝」を取り入れ、謙虚に批判すべきかと思われる。
 また、「三国志」魏書にのみ東夷伝が存在する点に、年代もののもったいを付けているが、要するに曹魏にしか東夷伝の原資料が調っていなかったのである。三国鼎立と言うものの、後漢の文書管理部局を受け継いだのは、禅譲で天下を受け継いだ曹魏だけであり、東呉は、あくまで、後漢の地方政権であって、天下を有さず、蜀漢は後漢後継を謳っても、天下を把握する文書管理部局は存在せず、天子の行状を「実録」に日々書き留める史官もいなかった。当然、中国として、外夷を管理する鴻廬も存在していない。すなわち、呉書、蜀書に、外夷伝がないのは当然である。曹魏の関知しない外夷公式来貢は、雒陽公文書にないから魏書に採用されることは無い。
 中国史料の解釈は、中国の常識、教養に従うべきであり、二千年後生の無教養な東夷が寄って集(たか)って「小田原評定」するものではないのではないか、と素人は愚考する。

                               未完

新・私の本棚 仁藤 敦史 「卑弥呼と台与 倭国の女王たち」 2/2

 山川出版社 日本史リブレット001 2009年10月刊
 私の見立て★★★☆☆ 癒やしがたい「屈折史観」 2024/09/14

*退路無き文献論
 氏は、苦し紛れに/戯れに、陳寿「三国志」のテキストが南宋刊本までしか遡れないと言うが、それは、素人考え、大きな考え違いである。

*時代錯誤させる「ルーツ」乱入
 氏は、古代史に何の因縁もない俗語「ルーツ」まで持ち込んで論旨を混濁させるが、「ルーツ」は、アフリカから拐帯され米国に売り飛ばされた黒人の末裔が、遥か後世になってアフリカの地を訪ね、先祖の後裔と邂逅した物語であり、氏のような良識の体現者が持ち出すべき言葉ではない。

*「ソース」談議
 ことが「ソース」、原典探索であれば、陳寿没後百五十年の南朝劉宋史官裴松之が、当時健在であった民間風評まで含めて史料考証の上、蛇足めいた冗語を、ヤボを承知で付加したことを見落としている。なにしろ、後漢書決定版を半ば以上まで完成していた范曄を、皇帝廃絶の隠謀に加担したと一家連坐して処刑し未完稿を没収して私蔵した「取り巻き」を重用していた劉宋文帝の勅命であるから、清濁併せて、山ほど補追して、三国志完成の栄誉を望んだ皇帝の宿願を叶えて見せるしかなかったのである。
 ちなみに、范曄は、後漢書「志部」編纂を共著者に附託し「志部」は完稿状態にあったのだが、范曄受難を知ったことから、連坐を恐れて、志部完成稿を隠匿し遂(おお)せたということである。おかげで、范曄は、正史として肝要な志部編纂を怠ったとの汚名まで被ったが、それは、裴松之の三国志補追の価値を損なうものではない。裵松之注(裴注)は、劉宋時点で、西晋崩壊を越えて継承された陳寿原文と峻別できるので、堅持しているのである。
 さらにちなみに、北宋以前の「三国志」善本は、裴注挿入の際に改行していて、南宋以降の諸本のように、本文の一行を二分して、半分の文字で記入する「割注」はしていないようである。「割り注」は、写本工にたいへんな負担/労力をかけ、また、誤写の原因となるので、常用されていなかったと見るものである。世上、高級写本以外は、略字を常用していたとの説が唱えられているようなので、ますます、「割注」は、南宋以後の木版による刊本時代の産物と見えるのである。もっとも、刊本が登場しても、地方への配付はなかったはずであり、依然として、写本が行われていたものであるから、以上の理窟は、絶対的なものではないのである。
 誤解が出回っているので是正を図ると、三國志の同時代最高のものは、あくまで、写本謹製のものであり、世間に誤写本が出回っても、影響を受けずに継承されたものと考えるべきである。

*有り得ない「同一」願望
 勿論、陳寿原本と現存刊本が完全に同一のはずはないが、テキストとしての一貫性を克明に検証すべきである。年代ものの子供だましの冗談は休み休みにして欲しいものである。

*付け足しの「邪馬壹国」論
 氏は、ここまで放念していた「邪馬壹国」を論じるが、遙か後世「三史」と尊重されたのを根拠に後漢書「邪馬臺国」を崇拝するのは、勿体ない。御自愛いただきたいものである。ちなみに、「臺與」は「倭人伝」にも「倭条」にもない「絵空事」である。
 つい先ほど、生齧りの「ルーツ」まで持ちだして、三国志「魏志倭人伝」の岩盤の如きテキストに喧嘩を売ったのに対して、一転、范曄「後漢書」東夷列伝倭条を崇拝する不当さに気が回らないのだろうか。
 ちなみに、范曄「後漢書」は、劉宋文帝が、范曄を斬首して、その時点の未定稿を押収したものであり、当然、確定稿でない仮普請であり、范曄原本は、もともと存在しない。氏は、どう考えて、范曄「後漢書」東夷伝「倭条」を、無謬聖典と崇拝するのだろうか。
 史料考察に原本確認は要らない、氏の豊かな常識で、自覚いただけるはずである。
 ちなみに、ここで信頼性を問われているのは、范曄「後漢書」全般でなく、東夷伝の端っこの「倭条」であり、氏の史料批判を逃れているのが不思議である。

*夢幻の東夷世界
 以降、公孫氏時代を含めた遼東・東夷形勢が綴られるが、氏の限界なのか原資料の混乱なのか、楽浪郡の混乱期、東夷倭人の雒陽参上が論じられる。卑弥呼の生まれる遙か以前の後漢中平年間に「卑弥呼」の使者が参上したという仮定は、無謀と言われかねない。
 『「倭人伝」によれば』と称して、卑弥呼が、二世紀後半に倭の乱を平定したしているのはとんだ神がかりである。「倭人伝」が確実に述べているのは、景初から正始にかけて、それ以前に年少にして女王に就職した卑弥呼が、成人(数えで十五歳か)に達したことであり、半世紀時間錯誤されている卑弥呼の出生を、はるばる遡らせているのは、むしろ滑稽である。俗に「卑弥呼」襲名説まで担がれている。そのため至って普通な言葉である「年長大」を、強引に老婆説としている。やんぬるかな(已矣乎)。
 「倭奴国」の後漢光武帝参詣以後、定期的貢献の記録が乏しいのに、突如、公孫氏時代になって殺到したのが、不審ではないのだろうか。

 要するに、氏の周囲には、厳格に史料批判されていない後世史料/創作文芸がのさばっているのであり、それを担ぎ出すのは、氏の見識を疑わせるものである。「倭人伝」解釈は氏の圏外なのだろうが、氏の批判精神が休眠して、祖霊のお告げに対して口移し状態にあるのは、困ったものである。

◯結語
 以上は、あくまで当ブログの見識の限界/圏内である。やたらと調子のよい「倭女王評判記」などは、部外者の知るところではない。

                                以上

2024年9月13日 (金)

新・私の本棚 KATS.I ブログ =水行20日、水行10日...  2稿 完

陸行1月の呪縛= 後漢書東夷傳(その2)-禾稻麻紵ー(ママ) 2024-09-08
私の見立て ★★★★☆ 前途遼遠  2024/09/13

◯逐条審議辞退の弁
 前回記事は、異議の随時提起でしたが、今回は総論とします。
 当方の范曄「後漢書」東夷伝倭条范書(以下、范書「倭条」)観は既に述べていますが、重複を承知で書き留めてみます。

*結論予告
 当方は、范書「倭条」は、全虚報であり、陳寿「三国志」魏志倭人伝(以下、陳書「魏志倭人伝」)と対峙させるべきではないと主張します。

*史料欠落の弥縫策~年代ずらしの秘法
 范曄は、後漢書掉尾に范書「倭条」を構想したが、原史料の欠落のため、献帝建安年間以降の「魏志倭人伝」原資料を、年代移動して創造的に埋めたと見えます。

*時代史料の欠落
 念のため言うと、范書「倭条」の光武帝、安帝本紀「倭」記事は、別史書袁宏「後漢紀」にも記載があるので、当記事の対象外です。
 同時代、まだ、後漢洛陽の東夷管理が健在であり、楽浪郡から鴻臚に万二千里の東夷から貢献があったとの報告があれば皇帝から賞されますが、そのような画期的な記事は、孝霊帝本紀、考献帝本紀から欠落しています。要するに、范書「倭条」は「虚報」なのです。

*露呈した欠落事項
 蕃夷は、中国辺境郡太守治所に身上書を上程し服属を申し出ます。必要事項は、国名、国王名、国王居城名、居城に至る行程道里、戸数、口数、国内城数であり、粗品で誠意を見せれば、相当の手土産と印綬をもらえます。
 行程道里は、郡太守発文書が何日で蕃夷の王の手元に届くかという実務上重要な規定であり、服属の証しであって、誇張などありえないのです。
 范書「倭条」には、国王居城名だけであり、国王名不明、戸数不明、行程道里も公式申告無しであり、後漢末期に「倭」は、正式参上していないと分かるのです。
 して見ると、范書「倭条」に物々しく書かれた「倭国大乱」とか「女王共立」は、「おとぎ話」です。出所は、百五十年以前の陳書「魏志倭人伝」の不出来な節略であり、范書「倭条」は、史料として考慮すべきでない「ジャンク」として、はなから排除されるべきなのです。

*検証の方法―精読あるのみ
 たとえば、今回論じられた范書「倭条」民俗記事ですが、明らかに、陳書「魏志倭人伝」帯方官人現地報告の節略、当世流行りの「読みかじり」であり、深意を解しないまま、やっつけ仕事で短縮しています。これを、要件を取り出した「要約」というなら、それは、とんでもない勘違いと言わざるを得ません。

*結論 范書「倭条」廃絶の時 再挑戦の勧め
 貴兄の集中力をもってすれば、今少しの点検で拙速さが読み取れるはずです。もっとも、そのような范書「倭条」考察は、上田正昭氏以来、諸兄姉が上程しているので、貴兄が復習する意義は疑問です。
 貴兄の掲げる考察は、先ずは不確かな史料を排除して、原点と言うべき、「魏志倭人伝」解釈の第一歩から再挑戦されることをお勧めします。

*「後漢書倭条聖典主義」の妖怪
 併せて、一部論者が、范書「倭条」の瑕疵を新規事項と見誤る「後漢書倭条聖典主義」の妖怪に踊らされないように、ご注意申し上げる次第です。
 以上、敢えて、心ないとも言われかねない苦言を申し上げました。

                                以上

*追記
 前回記事でも述べましたが、当記事だけ取り出して、范曄「後漢書」について、全面的に否定的であると解釈されると不本意なので、少々補足します。
 笵曄は、史官としての訓練を受けたわけではないので、史官の職業倫理に縛られていない文筆家だったのです。
 と言うものの、既に世に出ている諸家後漢書の史書としての品格に疑問を持ったので、いわば、身命を賭して、あるべき「後漢書」の実現を図ったのですが、ご承知の通り、後漢二百年の厖大な公文書は北方異民族の侵入で洛陽が陥落したために失われ、笵曄は、先行後漢書と民間史書の山から、范曄「後漢書」の完成を目指したのです。その成果が、今日読むことのできる明晰、流麗な范曄「後漢書」となったのです。
 惜しいことに、完成以前に、笵曄が時の皇帝の排除を企てたとする陰謀に連坐し、一族連座して刑死したので、ついに完成に至らなかったのです。未完成の顕著な原因として、范曄が「志」部編纂を委嘱した文筆家に対して、劉宋皇帝側近が提出を命じたが、范曄「後漢書」に無関係として、シラを切り通して隠匿したため、范曄「後漢書」は、南朝梁の劉昭が 別史書で補填するまで志」部を欠く未完成の史書だったのです。
 つまり、范曄「後漢書」は、まだまだ未完成であり、諸処に不備が想定されているのです。なかでも、先行諸「後漢書」に欠けていたと思われる蛮夷伝は、西域、東夷ともども、范曄にしては不出来な物になっていますが、これも、当人に責めを負わせるべきでなく、いわば、穴あきの残った仮普請、二級品であったとしても責められないのです。

 この点で見ると、陳寿「三国志」は、「権力者」なる妖怪から干渉を受けることなく、史官として最善の推敲を尽くして、完成稿としたものです。存命中に上程の機会を得られなかったものの、史書の完成度では、范曄「後漢書」と別格の一級品なのです。

以上

新・私の本棚 KATS.I ブログ =水行20日、水行10日...  1/3

陸行1月の呪縛= 後漢書東夷傳(その1)-會稽東冶ー(ママ) 2024-07-27
私の見立て ★★★★☆ 前途遼遠  2024/09/09-13

□はじめに
 范曄「後漢書」(以下、范書)東夷列伝「倭条」飜訳の根拠は不明ですが、素人目にも誤訳と勘違いが多いので、背景説明を惜しまずに指摘します。
 飜訳は、渡邊義浩氏訳等を参照された方が良いと思います。

◯本文質疑 傍線は、原ブログ記事引用
倭在韓東南 大海中依山島為居 凡百餘國 自武帝滅朝鮮 使驛通於漢者三十許國 (劉攽曰使驛按當作譯説巳見上)
*倭は韓の東南にある。広大な海の中の山深い島によりそって居住している。

◯誤解の起源 (「よりそって居住??」)
 「倭」は、漢代東夷管轄楽浪郡から「韓」の東南に在るのでしょう。漢武帝「朝鮮」討伐時、韓国は未形成ですからこれは後漢末情勢です。ただし、魏武曹操が統治した後漢献帝建安年間を除外するので、遼東郡太守に公孫氏の時代、帯方郡を設けて韓濊倭を管轄した時期は書かれていない(はず)です。

◯魏志倭人伝「大海」・「水行」考
 記事解釈で、氏は、おそらく、現代辞書を優先しているため、早々に、大きく脱輪しますが、現代研究者の大半に共通した思い違いです。
 班固「漢書」(以下、班書)西域伝により「大海」は内陸塩水湖です。班固、陳寿の知識外の現代語「瀬戸内海」は、本来、中四国、備讃瀬戸、芸予諸島が囲む、現在燧灘と呼ばれる海域の「内海」であり、「大海」と見えます。

 余談はさておき、陳寿は、陳寿「三国志」(以下、陳書)「魏志倭人伝」の郡から倭に至る「従郡至倭」行程を読書人向けに書きこなして、塩水海流と言えども、「大河」(河水、黄河中流)渡船同様と示して、無用の警戒心を解いています。この比喩は、西域で言えば、途上の沙漠「流沙」、「砂の川」の中洲(オアシス)が浮かんでいるのと同様で、共に「瀚海」を有しています。

 古典書の用語、用例を極めた中島信文氏は、「海」は、現代的地理概念「うみ」(英語Sea,米語Ocean)でなく、「中国」四囲の異界「海」(かい)と峻烈ですが、陳書は至近の班書に従い「大海」は塩水湖と見えます。

 また、陳書で、韓の東西は「海」ですが南は「倭」即ち「大海」と峻別し、韓倭間は、塩水大河の洲島を、順次渡り継ぐとの解釈が順当と愚考します。

*「水行」の有り得ない不正解
 「陳書」では、「従郡至倭」で、並行陸路のない狗邪・対海軽舟渡船を河水渡船に見立てた上で、史記禹后記事まで遡っても官道行程記事に用例皆無である「水行」を、新たに「魏志倭人伝」限定で定義したのです。
 以上、陳寿は、「魏志倭人伝」道里行程記事で、未聞の用語を不意打ち起用して読書人の不信を買わないように長途の官道行程を規定したのであり、就中、安全な陸上路程が並行・確立しているのに、危険無類の海船行程など、到底有り得ないのですが、後生東夷は、苦し紛れに妄想を巡らすのです。

◯范曄なる偉大な井蛙
 陳寿の没後、「西晋」は、内乱の果てに北方異民族に天子を誅され、亡命王族が東呉旧地建康に「東晋」を再建しましたが、漢代由来公文書庫が散佚して、後生范曄は半人前の教養であり、范書「倭条」不都合は斟酌すべきです。

 范曄中文解釈は、陳寿と異なり、史官訓練を受けず、史官教養に富む老師も得られず、太古以来の史官用語で書かれた「班書」読解は困難と見えます。

                                未完

新・私の本棚 KATS.I ブログ =水行20日、水行10日...  2/3

陸行1月の呪縛= 後漢書東夷傳(その1)-會稽東冶ー(ママ) 2024-07-27
私の見立て ★★★★☆ 前途遼遠  2024/09/09-13

◯現代風地理観の危殆
 ということで、「大海」を「広大な海」と解するのは、現代風地理観の押し付けであり、「倭人伝誤解症候群」の兆候とも言える重大な時代錯誤です。
 ちなみに、「山島」は、山が島となって「大海」中に在り、漢代、戦国齊領域の山島半島から対岸朝鮮半島をみたものです。以下、この調子です。

◯東夷変遷
 太古以来の「東夷」が中国(華夏)文化に属して「齊」となって以降、「東夷」は東方異境に放逐され、魯の偉人孔子が筏で浮海しようとしたのも、秦始皇帝が「東海」の果てに見たのも山東半島対岸の朝鮮半島と見えるのです。
 歴史的に、朝鮮は「燕」に続く半島北部で、同南部は「齊」の影響下です。

*凡そ100國である。
*武帝が衛氏朝鮮を滅ぼしてから(紀元前108年)、漢の都に通じる宿駅に使者を派遣したのはおおおそ30國であった。

 ここで「漢」は、東夷を管轄していた楽浪郡(宿驛)であり、「倭」は、後漢代東京雒陽まで遣使したわけではありません。范書で廃都長安は無意味です。

*(劉攽(1019年ー1068年)曰く、使譯を使驛と記述したのは他にも見られる。)

 「作譯」とは、考証の上、「驛」字を「譯」に書き換えたという事です。

◯世世傳統の怪
國皆稱王 世世傳統 其大倭王居邪馬臺國 (按今名邪摩堆音之訛也)
樂浪郡徼 去其國萬二千里 去其西北界拘邪韓國七千餘里也
其地大較在會稽東冶之東 與朱崖儋耳相近 故其法俗多同
*すべての國には王と称するものがいる。王は代々受け継がれている。
*その大倭王は、邪馬臺國に居住している。

 范曄は、原史料を読解できず迷走しています。漢制王自称は論外で、正史東夷伝倭条に書くと史官が断罪されます。世襲国主だけが「蕃王」なのです。

◯「邪馬臺国」創世
 漢(楽浪郡)の通達先は大倭王「邪馬臺国」城ですが、粗雑な所引の国名が正確とは考えにくいのです。併せて、「大倭」の由来は不明です。

◯「国邑」の由来
 「城」は、字形通り、四周土壁城郭の集落であり、「國」と書く以上、「国王」は常備軍を擁しますが、そのような王制の根拠は与えられていません。
 陳書は「倭人」居処は「國」ならぬ太古「国邑」は島嶼で城郭は無くとも無法でなく、戸数は万戸に及ばないとしています。國王伝統は数国のみです。

 時代考証すると、范書は、史料に、全く忠実でなく、現代風に言うと、「創造的」と見えます。(倭条に限ったはなしです)

 陳寿原本が皇帝至宝となり、時代最高の人材による綿密な校正が重ねられた「陳書」に対して、劉宋皇帝が、刑死范曄の未定稿を接収したため唐代まで閑却された「范書」は、全く、同列で評価することはできないのです。

〇范曄不遇
 以上、范曄は、史官基礎教養に欠け、綿密な史料解読を謬り、西晋滅亡時、基本資料の多くが失われたため、范書「倭条」は、依拠資料のない臆測を続けますが、范書西域/東夷伝が、仮普請で乱れているのは范曄の責任ではないのです。後生読者は、未完の紙書を遺した范曄の無念を忖度すべきです。

                                未完

新・私の本棚 KATS.I ブログ =水行20日、水行10日...  3/3

陸行1月の呪縛= 後漢書東夷傳(その1)-會稽東冶ー(ママ) 2024-07-27
私の見立て ★★★★☆ 前途遼遠  2024/09/09-13

*(これは今の名である邪摩堆の音の訛りである。)
 これは、范書原文でなく付注です。後出史料で、原本否定など無法です。

◯「万二千里」のホントウの起源
*楽浪郡の境界からその國(邪馬臺國)へ行くには12、000里である。

 楽浪郡檄(つまり、大倭王と交信する帯方縣)は、大倭王居城を去る万二千里との公式定義です。
 范書によれば楽浪郡(帯方縣)倭間の公式道里万二千里(余里無し)は後漢代規定で、「陳書」はこれを踏襲したので、責任はないのです。
 范書倭条は、陳寿の知り得なかった何らかの原史料に依拠しているとの解釈になります。蕃夷は、服属の際に、王名、国名、城名、城数、道里、戸数、口数を申告する義務があるので、文書通信の所要日数が不明とは途方もないことです。ちなみに、新規参上、服属の蕃夷は、金印(青銅印)とふんだんな下賜物をいただくのですが、何も書かれていないのは、不審です。

*楽浪郡の境界からその國(邪馬臺國)の西北の境界である拘邪韓國へ行くには7、000里である。

 正確には、楽浪郡檄(大倭王と交信する帯方縣)は、其の国の西北境である拘邪韓國を去る七千余里ですが、拘邪韓國(誤写)は韓国でなく倭です。
 帯方郡成立は後漢献帝建安年間で、范書には書かれていません。随分、いい加減ですが、無校正の書き飛ばしだったのでしょうか。

*その地(倭)は概ね會稽東冶の東にある。
*倭、會稽東冶と朱崖儋耳(海南島にあった珠崖郡、儋耳郡)はそれぞれ近いので、この3箇所の規律や風習は多くが同じである。

◯范書錯乱
 この部分は意味不明です。「魏志倭人伝」では、夏王族が亡命先で蕃夷の習俗に染まったと嘆じたとして、「会稽東治」、読者に衆知の禹后故事と結びつけますが、范書「倭条」は、無意味な「会稽東冶」を唱えます。
 「陳書」「魏志倭人伝」は「その地」風俗の後、海南島に近いと記しますが、これは南方の狗奴国紹介と見えます。後ほど倭地は(寒冷な帯方郡と比して)温暖と述べ、別地域と分かります。それにしても、范曄は原史料の所引で、記事の要点をごっそり取りこぼしています。

 范曄は史料誤解の上、「東治」を会稽「東冶」と作ったのですが、会稽郡の遙か南方に「東冶」のない後漢期であり、笵曄は、時代錯誤に陥っています。

 范書は、意味不明な「会稽東冶」の後、「海南島」に近いから法俗は似たものと言い放って、原文と乖離して雒陽ならぬ建康風に書き換えたと見えます。
 このあたり、范書は原史料文意を理解できないまま、後日を期していたのでしょうが、其の急死によって(不本意な)未完稿が遺されたと見えます。

 陳書では、禹后故事の会稽東治之山「会稽山」であり、陳寿は、三国東呉の内部で曹魏の知らない会稽郡東冶縣を知るはずもなく、従って錯解しなかったのです。范曄は陳寿の百五十年後生(後生まれ)で、「魏志倭人伝」の抜き書き/所引を元に書いたので、走り書きに伴う抜けや誤写が発生したと見えます。この推測は誰にも否定できません。(教養ある諸兄姉に向かって、賛成しろと言っているのではないのです)

 范書「東夷伝倭条」を「倭伝」と無謬聖典視しても、誤写誤解は不可避です。信奉者から天誅を受けそうですが、恐れてばかりいられないのです。

 ご指摘の「魏志」王朗伝「東冶」は、禹后会稽「東治」故事に関係ないゴミで、どさ回りの范曄ならともかく、東京雒陽官人の陳寿の知ったことではないのです。「大行は細瑾を顧みず」
 陳寿は、「魏志」編纂に「呉書」を参照せず、「魏志倭人伝」論議で、「呉書」は「参考」に留めるべきです。

◯最後に
 掲載地図は、端的に言うと時代錯誤の悪用であって、読者に偏見を押し付け、学術的に無意味です。善良な読者の誤解を誘うので撤回をお勧めします。

                               以上

2024年9月 6日 (金)

新・私の本棚 番外 毎日新聞 【松井宏員】散歩日和 奈良凸凹編 大倭/1 1/3

散歩日和 奈良凸凹編 大倭/1(奈良県桜井市)「歴史の鍵穴、纒向遺跡」毎日新聞大阪夕刊4版[特集ワイド]2024/9/4
私の見立て ★★★☆☆  場違いな力作 前途遼遠  2024/09/05-09

◯はじめに 「歴史の鍵穴」の遺産
 大見出しで「歴史の鍵穴」とあって、往年の専門編集委員が連発したトンデモ記事を引き継いでいるのかと一瞬身構えた。どん詰まりには、吉野山金峯山寺に吉野宮があって、厳冬・極寒にめげずに、持統天皇ご一行が行幸を重ねたと途方もないホラ話に墜ちていた。今日ロープウェイしかない登山路を、女帝を担いだ一行が駆け下りて韋駄天帰館、そして...という次第であきれ果てたものであった。

 当時、典型的な老害で、誰も専門編集委員にだめ出ししなかったと見える。天下の毎日新聞が、墜ちたものだと呆れた。同記事だけでなく、継続記事の「カシミール3D」権利侵害も、未解決である。ちなみに、「7」と書いているように、同様の不合理な地図妄想は、毎日新聞の記事として、延々と続いていたのである。当時も今も、その点では、なんの進歩もないのである。一蓮のブログ記事は削除していないから、興味のある方は、検索で発見できるはずである。
 毎日新聞 歴史の鍵穴 地図幻想批判 7 吉野宮の悲劇 1/2 再掲
 それにしても、素人目にも明らかな、曰く付きの粗雑な比喩が、堂々と継承されるとは、もったいないことである。

 なお、今回の記事に、罰当たりな吉野宮談義は出てこないし、掲示されている地図は、今日の国土地理院データに基づく現代地図としているので、重大な侵害は回避しているように見える。但し、れでは、古代の地形、特に河川の水脈が不明であるから、古代遺跡の解説図の用をなしていない。当たり前の話しだが、JR桜井線や国道169号の路線は、特に参考にならない。むしろ、梅林氏が確固たる信念としていると見える「東海方面」への交通を強く示唆する近鉄大阪線が割愛されているのは不審である。

 紙面掲載された桜井市立埋蔵文化財センター提供の立体地図は、同記事を見る限り、データ出典など一切不明であり、方位、縮尺、高度が不明である。当然、詳細な測量データに基づいた科学的な「ジオラマ」であるから、それぞれの時点でどのような傾斜になっていたのか、どの程度の流速で流下していたのか、緻密な解析が行われているはずである。また、縄文時代以来の長大な時間経過に渡る「微高地」形成史が騙られているはずである。さらには、大型建物群や箸墓の造成時の交通/物流について、堅実な考証がされているはずである。
 それにしても、掲示されているのは、部分図であり、しかも、立体画像ではないので、高低差の見て取れない。物の役に立たない単なる参考イメージである。それにしても、折角の立体図が、作りっぱなしで埋もれているのは、税金の無駄遣いと言われかねない。まことに勿体ないことである。

 同地図は、毎日新聞サイトのウェブ記事からは割愛されていて、ここで述べた批判は空振りである。要するに、桜井市立埋蔵文化財センターの諒解のない無断掲示だったようである。全国紙の報道として、もっての外ではないか。
 とはいえ、折角多額の公費を投じた地図が、世に知られないまま埋もれているのは、公費の浪費である。それとも、いずれかの場で公開されて居ねるのだろうか。そうであれば、無礼をお許しいただきたいものである。

*本文批判
 ヤマト王権発祥の地はどこか? 有力視されているのは纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)だ。弥生時代後期に、奈良盆地南東部に突如出現する大規模遺跡で、しかも一角には最初の巨大前方後円墳の箸墓(はしはか)古墳を擁する。[中略]三輪山の西に位置する遺跡や古墳を訪ねる。
 [中略]築造年代がぴったりはまることから、卑弥呼の墓とみる研究者は多い。ただし、纒向には箸墓より古い前方後円墳がいくつもある。[中略]

*揺動する論旨
 「ヤマト王権」は当ブログ圏外で、いつどこの発祥か知るところでない。また、「纏向遺跡」の定義が、記事の末尾に至るも不明である。現代考古遺跡ではないのか。二世紀に「遺跡」だったと言うことか。墳丘墓を含むのか。その場その場で表現が揺らぐ。
 出典不明の地図で「遺跡」の範囲が明示されるが、誰が、どのようにして範囲の境界を見定めたか示されていない。ここまでの連載記事で、東海方面への交通路を示唆するように示されていた近鉄大阪線が図示されていないのも、首尾一貫せず、記事趣旨に背を向けているのも、いかがわしいと言われそうである。
 どうやら、通称「纏向遺跡」の一部が「史跡指定」されているようである。もっと、その辺りを公知のものとすべきでは無いかと思われる。

*根拠不明の古墳築造年代推定
 「2009年に国立歴史民俗博物館が放射性炭素年代測定により、箸墓古墳の築造年代を240~260年代と発表した。」と言うが、「歴博」は、何の根拠と権威で「発表」したのだろうか。いずれかの公的機関に委託して「年代測定」報告を得たというのだろうが、それは、二千年過去の二十年範囲に限定できる信頼性を確証されているのか。「築造年代」は、どんな根拠で特定されたのか。科学技術の分野で当然の検証が、すっぽり抜けているように見えるのは、どんなものか。そして、毎日新聞が、そのような杜撰な考古学界活動を支持しているように見えるのは、どんなものか。善良な一介の納税者としては、多額の国費の費消について、克明な会計監査を御願いしたいものである。

 比較対照されている「魏志倭人伝」は、二千年を経て、綿密に年代考証されているが、「歴博」は、どんな確証で、卑弥呼の「冢」、小ぶりな土饅頭が、所謂「巨大前方後円墳」であったと主張しているのか。まことに、不審である。それとも、「魏志倭人伝」誤記説にこだわっているのだろうか。「魏志倭人伝」に信を置かないのであれば、卑弥呼の実在すら疑わしく没後の葬礼も信じがたいとなる。笵曄「後漢書」東夷列伝倭条の簡牘巻物「レプリカ」に続いて、陳寿「三国志」魏志倭人伝の国産化に挑むのであろうか。

*果てし無き風評論議
 記事は、「ぴったりはまる」とするが、ドロ沼にはまっているのではないか。
 賛同している研究者が「多い」とは、百人か、千人か。箸墓より古いとは、どうやって年代測定したのか。いくつもとは、何個のことか。ドロ沼である。以上、権威ある全国紙として、責任を持てるご説明をいただきたいものである。野次馬古代史マニアの言いたい放題の私見ではないのである。

                                未完

新・私の本棚 番外 毎日新聞 【松井宏員】散歩日和 奈良凸凹編 大倭/1 2/3

散歩日和 奈良凸凹編 大倭/1(奈良県桜井市)「歴史の鍵穴、纒向遺跡」毎日新聞大阪夕刊4版[特集ワイド]2024/9/4
私の見立て ★★★☆☆  場違いな力作 前途遼遠  2024/09/05-09

 ただ、大型建物群や箸墓をはじめとする古墳群を持つ纒向遺跡[中略]

 大型建物群や古墳群を持つ「纒向遺跡」』とは、錯綜・混乱している。ここは、「遺跡」論議ではなかったか。「特徴」は出ず、遺跡大小が問われて見える。

纒向遺跡の範囲
 (1)弥生後期に突然出現
 100年代末~200年代初めに現れ、[中略]4世紀前半に消滅する。

 意味不明の紀年である。普通に考えると、100年代は、101年から110年であるから、100年代末は110年であるが、当時、誰が、キリスト教紀元(ユリウス暦か)を、そこまで精密に知っていたのだろうか。西暦を、古代史に持ち込まざるを得ないとして、普通に書くとすると、二世紀中に出現し四世紀に入ってほどなく消滅したということか。なにも文書記録はないのだから、五十年、百年程度でも過剰な精度かもしれない。
 「範囲出現」は、ペンの滑りとして、遺跡構造物は、一日にして出現しない。多くの人々の労苦の成果である。廃墟となっても消滅はしない。活発な扇状地なら世紀を経ずして堆積土砂に埋もれるだろうが、ここは、そのような大河、奔流の流域ではないのである。埋もれるまでに随分な年月を要したはずである。だれか、地形変動の記録をとっていたのだろうか。それにしても、墳丘墓は、「消滅」などしていない。用語の混乱で、錯乱したのだろうか。

 (2)とにかく大きい
 東西約2キロ[中略]にわたり、後の藤原宮、平城宮、平安宮より大きい。

 定義が混乱している「遺跡」の範囲と比較したのは、平地に整地された条坊構造の城市の内部の一角である。山麓の扇状地で大規模墳墓を包含する(とも言われている)「纏向遺跡」(領域範囲が皆目不明だが)の面積とは、まるで別物/異次元であり、子供の口げんか(賈孺争言)でもないから、どっちが大きいか比べられない。つまらない御国自慢に付き合っていられない。

 (3)外来系(大和以外)の土器が多い
 出土土器の約15~30%にのぼり、[中略]外来系土器の49%が東海で、山陰・北陸17%▽河内10%▽吉備7%――と続く。

 「範囲」談議と見えない。真意不明の「ヤマト」を持ちだして、内外を仕切っているが、これら地区名は、随分後世に定義されたはずであるから、三世紀当時には、意味を持たないのである。要するに、纏向集落の権力者にとって、これらの地域は、権力圏外、異国だったと主張しているのだろうか。

*内外区分の不確かさ 2024/09/09
 ちなみに、素人考えをお許しいただけるなら、纏向遺跡の「大王」が、「東海」系の出自であったとしたら、歴史上のその時点で、「東海」は「纏向遺跡」に包含されていた、あるいは、その逆で、この地は、「東海」と言うことになるから、どちらの見方をしても、「外来」の定義を外れているように見られる。そのような形勢では、当然、東海系の土器制作技術が渡来しているだろうから、その場合も、「外来」の定義を外れているように見られる。

 (4)農耕の形跡がない
 弥生集落は鍬(くわ)や鋤(すき)が出土し、中でも田畑を耕す鍬が多いが、纒向は土木工事に使う鋤が圧倒的に多く、田畑はほぼなかった。

 「範囲」談議と見えない。弥生集落は、水田稲作で生計を立てたと理解している。論者は、「纏向遺跡」は弥生集落遺跡ではないと決め付けて、農地らしき場所を避けて発掘しているのではないか。長年に亘り、卑弥呼金印発掘に身命を賭したから無理ないと思うが、「農耕の形跡がない」と断定していいものか。

*にわか扇状地と潤沢な纏向渓流の幻想
 「纒向遺跡は、纒向川の扇状地に[中略]全く前触れもなく出現するんです」。[中略]纒向の立体地図を見ると、幾筋もの川と川の間の微高地を利用しているのがわかる。

 何の根拠があって、太古のことを物々しく断定しているのか不明である。基本的な考察に立ち返ると、「扇状地」は、河川分流の砂礫堆積物の積層であり、本来、堅固な地盤を要する大形建物の造成は困難である。また、河流に交差する「径」が造成困難であり、物資の輸送/人員の移動が困難である。現地は、三輪山山麓の扇状地なら砂礫が多く保水できず灌漑が困難である。ついでに言うと、現地は、雨季の河川氾濫で知られている。ため池兼用の環濠無しでは灌漑も治水もならない。大規模聚落は、極めて困難である。
 むしろ、纒向川は三輪山麓に扇状地など形成せず、既存の平地を削って渓谷を形成して流下していたように見えるのではないか。それなら、西方の巨大な沼地が次第に埋まって、今日の盆地西部の低地帯に至ったと見える。
 要するに、太古、前史時代以来、長期間を要した地形形成のはずであるが、3世紀時点でもどのように形成されたかという根拠はあるのだろうか。全域で、出土物の放射性炭素法検定を実施した上で言っているのだろうか。それとも、現代巫女に頼った神がかりなのだろうか。

 提示の現代地図からは、纒向川がJR巻向駅方面に北流していたと見て取れない。物の役に立っていない。

*「纒向の立体地図」公開回避の怪 2024/09/06, 07
 「纒向の立体地図」は、紙面掲載されたもののウェブ記事に表示されていないので、多額の費用を投じたと思われる「立体地図」の単なる紹介画像を評価しようがない。夕刊紙面の(不出来な)画像から判断すると、氾濫蛇行の果てに形成されたとみえる、河流に遮られた中洲状の堆積地に、どのようにして、かくも壮大な「遺跡」が造成されたか、想像を絶している。通常、地盤が不安定な、災害多発地域に「大型建物」など構想しないはずである。
 常識的に考えて、渓流の浸食、扇状地の堆積何れにしろ、タップリした水量で、滔々たる流速が無ければ、形成されないものであり、表示されているような、湿原とも見える「水郷」風景は、大河淀川の中下流を見ている感がある。
 ということで、紙面から見て取れる水郷地帯を「復元」した根拠を伺いたいと思うものである。

 根拠が確かと思えない「立体地図」 に多額の公費を投じる以上は、多年の宏大な発掘成果に基づいた考証が提案されたものと見えるのである。是非、御公開頂きたいものである。

 ちなみに、別の機関で別途作成された動画では、堂々たる大運河の水運が描かれている。絵を描いて誤魔化すのは、不合理である。

                                未完

新・私の本棚 番外 毎日新聞 【松井宏員】散歩日和 奈良凸凹編 大倭/1 3/3

散歩日和 奈良凸凹編 大倭/1(奈良県桜井市)「歴史の鍵穴、纒向遺跡」毎日新聞大阪夕刊4版[特集ワイド]2024/9/4
私の見立て ★★★☆☆  場違いな力作 前途遼遠  2024/09/05-09

纒向はどんな遺跡だった?  大型建物群、ホケノ山古墳、箸墓古墳

 「どんな遺跡だった」かは、文法、時制無視の悪文である。二千年前「纏向」は「遺跡」でなく、かくかくたる建物と墳墓であったと見える。一方、現地に大形建物群は現存/遺存せず、柱穴から画餅が描かれている。墳丘墓は、或いは復元され、或いは、放置されていて、「遺跡」と呼べるかもしれない。

*「都市」無き世界の「性格」不良
 「田畑がないということは、食料は外から供給されていた。[中略]大和以外の地域の人々が恐らく定住しており、列島規模で纒向を目指していた。多種多様な人が集まる都市的性格が強かったと思いますね」

 氏は、恐らく、人々の「性格」分析を図ったのではなく、現代で言う「都市」(とし)の性格(意味不明)をうかがわせる地域聚落(とは言っていないが)を臆測したのだろうが、どうも、「都市」(「とし」は、とても大きなまち。例えば、100万都市)なる時代錯誤の代物が当時存在したと主張しているわけではないようである。この部分は、別人の妄想のようである。「魏志倭人伝」の叡知に頼るなら、迷うことなく、普通に「纏向国邑」と呼べるのだが、中国語を解せず新語を発明する習性が、国内古代史の用語を錯綜させているから、普通の理解は通らないのかもしれない。

 当時、電話も高速道路も電車も学校もない。食糧供給機構など存在しない。水道も、新聞、テレビもない。「多種多様」とは、今日言う「多様性」の事か。

 それにしても、「纏向国邑」に、食料や薪炭の集散市場(いちば)「都市」(といち)なるライフラインはあったのか。なかったとしたら、飢餓が蔓延するのは避けられない。傷ましいことである。ともあれ、氏は、別人の新書の悪例のように墳丘上の「公設市場」の幻影は見ていない。ここは、悪例と比較すると健全である。

 都市と共に、箸墓という巨大前方後円墳が[中略]突如出現する。[中略]

 それにしても、「大和以外の地域の人々が恐らく定住しており、列島規模で纒向を目指」すとは、夢想より妄想に近いと言われそうである。いや、当時の人口統計は、一切存在しないから、何処の人が住んでいたか知る方法はない。「恐らく」などと呪文を振らなくても、否定されることはないのは明らかである。ちなみに、ここまで、「大和」がどこを指すのか不明であるから、一段と、なんの「恐れ」もないのである。それにしても、食料供給源と想定されている「外」も、「以外」も、意味不明である。言うまでもなく、記者が書き上げた地の部分はともかく、「発言引用」は、この発言にとどまらず、その場限りのものと思われるから、全体として、場当たりな憶測であるのは明らかである。ことさら「恐らく」と逃げを打つ意図が不穏である。

 列島規模」と言う方(かた)も言う方(かた)だが、担当記者先生が、口頭でレクチャーを受けて、問いかえしもせずに玉稿として、堂々と天下の毎日新聞の紙面に書かれると、目が眩んで朦朧としてくる。古代纏向に人口爆発があったという御高説の根拠も不明である。言うまでもないが、当時、「箸墓」などという名付けなどされていなかった。原稿推敲どころか、ホロ酔い「酔稿」なのだろうか。

 「いずれの要素も弥生時代の奈良盆地には見られず、[中略]一気にジャンプしています。その要因は外部の力だったのかもしれません」

 ここで乱入している「弥生時代の奈良盆地」も、趣旨不明である。現代で言う「奈良盆地」なる地形は、湖沼の枯渇などは関係なく、時代を通じて不変と見える。その場その場で、言い替えるのは、口から出任せの印象を与え、信用を無くすだけである。
 既存の文章を囓り取りしているため、「要素」、つまり、必須の構成要件が明言されてないのは、たいへん胡散臭い。「ジャンプ」しようにも、踏切板が不明ではどうしようもない。まして、「外部」陰謀説は、けったいである。列島は、纏向政権の支配下であったのではないのか。何処に、外敵が居たのだろうか。

 結局、氏の持説らしい「ヤマト王権東海起源」説の捏ね上げであるが、根拠は、遺跡遺物の「土器」に東海由来と見えるものが多いという事なのである。
 日用「土器」は、雑貨「商品」であるから「ある」ところから「ない」ところに、自然に流れ着いたと見る方が自然ではないか。それとも、東海勢力の兵団が、大挙進入して纏向に居着いたのか。もっと、普通の言い方で、わかりやすく主張できないものか。

 同様の言い方で言うと、楯築の特殊器台は、雑貨「商品」なのか聖器/祭器なのかはともかくとして、何とか渡来したかもしれないし、楯築の集団が大挙進入したとも見える。拘わっていたのは、先ほどまで氏が述べていた「地域勢力」であって、地理概念である「地域」などでないのは当然である。用語を動揺させて、読者の眩暈(めまい)を誘うのでなく、口を慎むべきである。

【松井宏員】

 ■人物略歴 梅林秀行(うめばやし・ひでゆき)さん
 京都高低差崖会崖長。京都ノートルダム女子大非常勤講師。フィールドワークを通じて都市の歴史を研究する。[中略]

◯まとめ
 要するに、本記事は、考古学者ならぬ博物学者である梅林氏の素人考古学談議を、素人ならぬ新聞記者が、専門家としての技巧を尽くして、一般読者向けに文書化したものと見える、全体を通じた視点、用語の動揺は、梅林氏の「私見」のうろ覚えの口頭発言の用語、論理の乱れによるものなのか、複数の別人の個性的な所見の混入したものなのか、松井記者の見識に基づく勝手な書換なのか、善良な読者を苦しめるものである。

 例えば、目前の「遺跡」と古代の「地域集落」が、どう関連するのか、その場その場で動揺し、混濁しているのでは、眩暈が生じて卒読に堪えない。

*ご注意 2024/09/06
 当初、紙面掲示された「纏向遺跡の立体地図」について論評していたが、ウェブ版では削除されているので、記事本文に対してコメントしている。当然、取材時に撮影許可を得ていたはずなのだが、なぜ削除されたか趣旨不明である。多額の公費を投資して制作された「立体地図」の単なる紹介の公開を憚る意図が不明である。

                                以上

2024年9月 5日 (木)

毎日新聞 歴史の鍵穴 地図幻想批判 7 吉野宮の悲劇 1/2 再掲

  大海人皇子の吉野宮 天智の宮の真南か
 私の見立て☆☆☆☆☆ 飛んだ早合点   2016/11/17 再掲 2024/04/17, 09/05 

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに
 いや、懲りない(Die-hardest)というか、まだまだ(Yet yet more)と言うか、何というか、また、とんでもない記事が出てしまった。専門編集委員殿は、御自分の論説の破綻を全然然理解していないようだ。

*不吉な開始
 今回は、タイトルからして不吉である。「大海人皇子の吉野宮」と所有格で書かれているが、天皇でも無いものが「吉野宮」を所有できないのは自明である。明らかに「斉明天皇の吉野宮」とでも呼ぶしか無いものである。

*不当なこじつけ
 それにしても、積年の地図妄想が昂じたのだろうか、突然、権威ある全国紙の権威ある専門編集委員によって高らかに「吉野の宮」に比定された金峯山寺も大変な迷惑である。現在は、一見すると仏教寺院のような寺号であるが、山岳信仰から発した修験道の本山であり、俗世から離れた修験道の精進潔斎の修行の場であったと信じるものである。

 それが、実は、齊明女帝の行幸先として創設されて供宴の場などに供されていた、持統女帝は、三十三回も金峯山寺を訪れていたなどは、ありえないのではないか。俗世の悪を逃れていたはずの精進潔斎の場が、天皇家の建てた場での天皇家の御用であった、つまり、俗世の取り付いた不浄の場であったのを隠していたことになる。とんでもない言いがかりではないかと危惧する。

*酷冷の山上
 因みに、金峯山寺は山上にあり、冬季の気象は酷寒と言うべきだろう。南に行くほど温暖な外界と異なり、奈良盆地南端の吉野界隈は、南に行くほど、高度が募るので、寒冷地になる。
 現地に到る行程の急峻さを言うと、電車は急勾配を登れないので、近鉄吉野線は麓で終点であり、ロープウェイに乗り換えなければ登れない。当然、古代に於いて食料や水の搬入は至難の労苦である。

 歴史的事実として「金峯山は中国で書かれた『義楚六帖』(九五四年)にも「未だかって女人が登ったことのない山で、今でも登山しようとする男は三ヶ月間酒・肉・欲色(女性)を断っている」と記されていると指摘しているサイトもある。
 いや、当ブログ記事は、修験道に於ける女人禁制の是非を論じているのではなく、歴史的事実を指摘しているだけであると理解頂きたい。「大峯山・山上ヶ岳の女人禁制はどうして生まれたか?」: 山人のあるがままに 

 同記事の筆者たる専門編集委員は、いずれかの安穏な書斎で、PC/MACの操作でこの場所を見つけて、温々とした書斎で意気揚揚と記事を仕上げたのであろうが、現地は、ぼちぼち冬支度に勤しんでいるはずである。
 いや、定説となっている下界の「宮滝」の地すら、冬季は、露天の水たまりが凍結するような世界である。こればっかりは、現地体験してから書いていただきたかったものである。

*「決めつけ」の宮滝を棄てた「決めつけ」
 それにしても、日本書紀の記事の不確かさを知りながら、書紀に書かれている「吉野宮」は、現代地名の吉野にあったに違いないと強引に決めつけ、河川交通の便がありそうに見える定説の宮滝の比定地を捨てて、険阻な山中の金峯山寺に比定するという姿勢自体、無理の塊である。
 修験道の場ということ自体、交通の便がないことは自明であり、今日の交通事情を見ても、観光名所でありながら、近鉄特急が乗り入れているのは山麓附近で終点であり、以下、吉野ロープウェーで100メートルあまりを上るのである。

 そのような場所に、持統天皇が時期をかまわず33回(天皇在位期間中の「行幸」は31回とのことだが)も行幸するとは、どういうことなのだろうか。天皇の行幸は、一人二人の話ではなく、五十人、百人で済まない関係者ご一行の到来である。まして、高貴な身分の方は、背負ってでも登らないといけないのである。

*不可能な強行軍
 また、今回の記事を信じるなら、齊明天皇は、三月一日の吉野の宮での供宴の後、当然一泊したはずであるが、三月三日には、飛鳥まで(直線距離で15㌔㍍というものの、直線で移動する道がないのだから、この数字自体に大した意味はないのだが)帰り着いただけでなく、道を改めて(直線距離で70㌔㍍というものの、この数字自体に大した意味はないのだが)近江に着いたというのである。
 ちなみに、(当時知られていない)太陽暦の西暦年に、太陽暦と月日がずれている陰暦(当時現役の暦制だから、旧暦というのは間違っているが)(旧暦)の月日を繋ぐ「愚」は、とんでもない時代錯誤であり、記事の権威をぶちこわすが、この際追究しない。

 さて、一日35㌔㍍は、平坦な道路で健脚の成人男性が、手ぶらであれば、何とか踏破可能だろうが、道だけとっても、曲折起伏険阻の困難があって、実感は、何倍にも達する筈だが、当方の手元には資料が乏しいので、よくわからない。どのような交通手段、運搬手段で、一行は、両地点間を移動したのだろうか。当初書き漏らしていたが、女帝以下の貴人は、徒歩や乗馬の筈はなく、馬車、牛車、輿などで移動したはずであるから、一段と、行程は難渋したはずである。牛馬は、蹄鉄を打っていたのだろうか。強行軍を、乗り継ぎなしに乗りきったのだろうか。疑問が絶えないのである。

 以上、えらそうに書いてきたが、別に、現地に行って自分の目で見て、踏破したわけではなく、つまり、現場を実体験していないので恐縮だが、Google Map などのネット情報と一般常識に基づいて思索したものである。

 ということで、ちょっと考えただけでも、とんでもないお話であるが、時代背景や修験道の来歴の考察もなしに、金峯山寺に「吉野の宮」に比定する私見が、そのまま毎日新聞の専門編集委員のご高説として紙面に載っているのである。
 試練ならぬ試錬で叩かれ鍛えられた記事は信用できるが、軽率な思いつきで書き立てられ、批判されていない記事は、信用できないのである。

 個人的な発想であれば、何をどう考えようと個人の自由かも知れないが、全国紙の文化面にここまで執拗に自説を書き連ねるというのは、どんな神経、倫理観なのか不思議である。

 「専門編集委員」の特権で、記事内容について無審査で掲載しているのだろうが、「専門編集委員」の記事は、毎日新聞社の記事である。毎日新聞社の名声にドロを塗るような記事を延々と掲載している意義は、一介の定期購読者として理解できない。

未完

 

毎日新聞 歴史の鍵穴 地図幻想批判 7 吉野宮の悲劇 2/2 再掲

  大海人皇子の吉野宮 天智の宮の真南か
 =専門編集委員・佐々木泰造
 私の見立て☆☆☆☆☆ 重大な権利侵害の疑い   2016/11/17 再掲 2024/04/17, 09/05

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯本論
 当連載の問題点の内、執拗なものは、毎回同一症状なので、本来は、またやっている程度で済むのだが、それでは、書いていてたまらないので、ちょっとずつ視点を変えて指摘するのである。それにしても、どう言えば、理解できるのかと困惑しているのである。
1.プログラムの権利侵害
 今回も、当記事で「カシミール3D」を引き合いにしているが、プログラム作者の権利を侵害していないだろうか。
 プログラム作者は、現代の環境、つまり、国土地理院の地図・地形データなど、動作確認済みのデータを使用する際には、表示対象となっている地形を正確に表示するように努めたはずである。(当然果たすべき機能として、暗黙の保証がされているのである)しかし、誰が考えても、それ以外の条件については、何の保証もできず、従って、責任もとれないはずである。

 いかなる地図データもない7世紀について、現時点の地図データを適用して地図化することは、「カシミール3D」の保証外と言うか論外であろう。また、地図上の遺跡、遺構の位置については、さらに明らかに「カシミール3D」の保証外である。

 つまり、プログラム作者の保証できないような利用方法でありながら「カシミール3D」で作図したと表明して、読者が、記事の主張は(信頼性に定評のある)「カシミール3D」で確認済みだから根拠がある、と誤解させるのは、欺瞞行為であろう。

 まして、ここに示されているような使用方法は、「カシミール3D」のいわば改造に類するものであり、改造されたプログラムの動作結果に「カシミール3D」の名を冠して表示するのは、プログラム作者の権利の重大な侵害と思う。

 従って、常識で考えればわかるのだが、この記事で示されている図や距離、角度の数値は、同記事筆者である専門編集委員が「勝手に」、つまり、記事筆者が自己の責任の基に勝手に取り出したものであり、その旨明記して、「カシミール3D」に責任がないこと、つまり、「免責」を明記しなければならないと思うのである。

2.データベースの権利侵害 
 「カシミール3D」は、自身の地図・地形データを持たず、何れか動作確認済みの地図・地形データを利用するものであるが、ここまでの連載記事に、地図・地形データ提供者の表示がないのは、まず第一に不当なものと考える。

 記事に掲載された地図、角度、距離などが、データ提供者の地図・地形データを利用したことが書かれていない上に、そのデータ以外のデータ、つまり、遺跡遺構の位置など、追加した部分の地図・地形データ提供者が書かれていないのである。

 さて、データ提供者が提供している地図・地形データは、言うまでもなく現時点のものであり、その正確さについては、地図・地形データ提供者が責任を持って保証しているものと信ずる。

 現代の地図データの信頼性は、測定時と現在の間については、校正され、ある範囲内の精度が保証されていると思うのだが、古代地形については、その時点で測定していないから、地図データがなく、保証できないのが当然である。
 現時点の地図・地形データを古代に適用して勝手に古代の地図を描くのは、地図・地形データの時間要素の改造にあたり、誠に勝手な使用であり、現代の地図・地形データ提供者が提供しものだと暗に表明するのは、地図・地形データ提供者の権利の侵害である。

 現在まで連載記事の地図などに使用されたのは、おそらく国土地理院の地図・地形データだから正確なものと読者が想像すると、読者は、国土地理院は、現在の地図・地形データが7世紀にそのまま適用できると保証したと勘違いしてしまうのである。

 過去の批判でも言ったのだが、当記事で「カシミール3D」を使用しているとだけ言って、その後、0.1度単位の高精度の数字を得たと書くと、それは、「カシミール3D」が、精度というか信頼性を保証していて、記事筆者は、それを信じて書いた、となってしまうのである。計算結果の数字が間違っていたら、それは、「カシミール3D 」ないしは影に隠れている国土地理院の責任になってしまうのである。誠に、無責任な態度である。

 常識で考えればわかるのだが、この記事で示されている図や距離、角度の数値は、記事筆者たる専門編集委員が「勝手に」、つまり、自己の責任の基に勝手に取り出したものである旨明記して、地図・地形データ提供者、おそらく、国土地理院に責任がないこと、免責を明記しなければならないと思うのである。

 以上を総括すると、一連の記事は、古代遺構が地図上で直線上にある、などの地図上の数値データによる判断だけを論拠にしているから、それらの数値データが科学的な根拠を持たない、いわば、記事筆者のお手盛りの捏造データであるとしたら、これまでの連載で提示されたすべての仮説が捏造となる。とんでもない話である。

 毎日新聞は、科学的な根拠の提示されていない、妄想としか言えない記事をなぜ、延々と掲載し続けるのだろうか。専門編集委員の名の下に掲載された記事について、毎日新聞社が責任をもつというのはも当然の理窟に思える。

 当方は、個人の誤りは当人が自力で気づいて訂正しない限り解決しないという考え方をしているから、「自力で気づいて」くれるように、毎回穏やかに綴っていたが、その気配はなく、今回は、また一つ当方の忍耐の限界を超えたようである。遂に、プログラム作者やデータ提供者の権利侵害、つまり、犯罪行為だと指摘せざるを得ないところに来ているのである。

以上

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