新・私の本棚 刮目天ブログ「魏志倭人伝」行程記事の真相だよ(^◇^) 1/2
「魏志倭人伝」行程記事の真相だよ(^◇^) 2019/12/12 2024/09/22
2024/09/22, 24
◯公開コメントの弁
当方が兄事する刮目天一氏のブログは、国内古代史に関する高度な思索に満ちていて、門外漢が口を挟むことのできるのは希なのですが、今回は、当方の孤塁を攻撃している内容なので精一杯応答することにしました。以下、とても、コメントに書ききれないし、趣旨として当ブログの防衛戦なので、ここに掲示します。よろしく、御寛恕いただけますように。
*謎の「倭人伝」
『倭人在り、帯方郡の東南の大海の中、山島に依りて国邑をなす。
・・・・・・・
郡より女王国に至るに万二千余里。』
この飜訳創作の由来は不明なので、刮目天氏にケツを回すことにします。
*誤解の起源 The Original Mistakes as Granted
一番大きな問題は、「倭人伝」の用語解釈の欠落です。現代人の安易な解釈では誤解保証付きです。岡田英弘氏の提言の使い回しですが、『陳寿「三国志」「魏志」は、三世紀西晋の役人の教養に合わせた言い回しで、当時、出世に不可欠な四書五経と史記漢書二史を理解している前提で書かれているので、二千年後生の無教養な東夷に正確な理解は不可能』なのです。
*試訳・短評 Islands in the Stream
原文は「倭人在帯方東南」、「大海之中山島依山島為国邑」であり、『「倭人」は郡の東南』と「韓伝」などと共通の書き出しです。正史は、当方の本記事のように、その時の思いつきで書き飛ばしているのでなく、年月を費やして形式を整え、一字一句を吟味して推敲しているので、少なくとも、形式の一貫性を壊さない「飜訳」が望まれるのです。
手短にまとめると、「倭人」は、流れに浮かぶ島々であって『渡し舟を乗りついでたどり着ける「近場」(ちかば)の小島に屯(たむろ)している/在る』と解されます。途次の「国邑」は、「国」と言っても中原太古の集落と同様の千戸代の聚落で「小ぶりの貧乏国揃い」と、明確に示唆されています。
要するに、後ほど逐条形式で書かれている「万」戸の大振りな国は、狗邪以降、行程上諸国の記事(各国条)の核心をなしている「千」戸の桁を踏み外しているので、「倭人」の国勢評価で考慮すべきでないと明確に示唆されているのです。明記した行程上の国邑は確実に知られているが、行程外の「余傍の国は、国状が分からないから信用できないものの、風聞の類いでなく公文書に書かれている数字であるから、参考までに書き留めた」という趣旨が明確に示唆されています。
つまり、「万」戸単位の戸数は、現地が戸籍台帳を元に、計算官僚総動員で合計して算出したものでないから信じてはならないのです。後に述べるように、全戸数七万戸が公孫氏の演出(Presentation)のままに明帝遺言に書かれてしまっているので、行程諸国の戸籍台帳に基づく推計との食い違いは、行程外の余傍の国々、特に、遠隔の投馬に押し付けるしかなかったと関係者の「苦心の程」を察するべきです。
*公孫氏の二千年遺産 天子の誤解
初見では、公孫氏は、小天子として世界の中心にいる心地であり、「倭人」の所在は、遥か彼方の世界の涯ての異境と見立てて、「総勢七万戸、郡から一万二千里の彼方」と見せましたが、実は、盛大な戸数七万戸は、実務戸籍に基づかない実態不明の華燭であり、華麗な一万二千里は周制の「荒地」表現の名残であって道中の道里(道の里)を前提にしたものではなく、どちらも、公孫氏の大芝居の舞台装置だったのです。
それが、曹魏二代皇帝曹叡が、両郡に遺存していた公孫氏の未提出報告(郡志)を、司馬懿の鈍重な軍事行動に先立ち、明帝創案の機敏な二郡恢復行動で急遽接収した帯方郡から略取して一読して気持ちよく「誤解」したから正史に載ってしまったものです。結果として、直後に、明帝が夭逝したため、「誤解」が、天子の遺言/遺命になってしまったということです。
後年、西晋に移行してから、江東の孫氏政権東呉が降服したときは、東呉の(西晋の世界観で言う)地方史である呉書が献上され、後漢末期以来途絶えていた魏晋天子に対する報告がなされたとして雒陽公文書庫に収蔵されたのと大局的には共通であり、陳寿が、全国を把握していなかった曹魏の正史ではなく、「三国志」として編纂した背景となっているのと異なった処遇となっている背景と思われます。このあたり、公孫氏の政権は、鼎立していたと解釈されている魏呉蜀の三極に次ぐ「第四極」として認知されない一因をなしていると考えます。念のため言うと、「三國志」の解釈は同時代の世界観を踏まえるべきであって、後生東夷が、賢しらに論ずるべきではないのです。
ちなみに、司馬懿は、遼東での軍功を糧(かて)に雒陽政局の中心に会座しようとしていたのであり、公孫氏の東夷政策の継承などまるで関心がなかったので、公孫氏の公文書記録を全て廃棄し郡高官を根こそぎにしたのです。
「魏志倭人伝」の深意解明に勉める後生としては、「実録」の皇帝遺言は訂正が許されないので、陳寿は「倭人伝」体裁を保ちつつ、誤解が定着しないように実質的に訂正しているものと考えるのです。
*史官の本分 Mission of Gravity
史官は、あくまで、低位の公式記録者ですが、使命に殉じて「二枚舌」で毒消ししたのです。この点は、同時代正史に造詣の深い渡邊義浩氏が説くところでもあります。要するに、史官は「史実」の記録者であるが、それは、単なる公式記録の承継ではない「編纂」の至芸を齎しているとの至言と理解します。いうまでもないですが、それは、その時/その地域の権力者などという寸毫/束の間の光芒におもねるものではないのです。
*送付案内 Shipping Advice
景初二年六月に郡に参上した倭人大夫を、皇帝は首都雒陽に呼びつけ、帝詔、皇帝の約束として、別送下賜物目録と共に帰国させたので、曹魏の担当者は、大枚の荷物を未知の倭に届ける任務を与えられ、結構日数をかけて、雒陽倭行程と所要期間を郡に調査させたのです。それが、郡狗邪の陸上街道と以後の倭本拠伊都国までの行程所要日数に反映されました。それで初めて発送できたのは当然でしょう。
規定すべき所要日数(水行十日、陸行一月の都合四十日)を、行程諸国道里に万二千里を相応按分した上で、遅くとも曹魏正始年間に「実道里は皇帝承知の一万二千里と途方もなく異なる」と確認できていたので、蕃夷接客の実務に慣れていた鴻臚卿としては、当時、境界を接していた匈奴、鮮卑のように凶暴、貪欲でない貧乏東夷の「倭人」の接客は、分相応の二十載一貢ぐらいの「厚遇」で良かろうと言う趣旨だったと見えるのです。
それは後日の話しとして、実務は着着と進み、遥か辺境の狗邪海港では、郡治からの早馬での予告通りに到着した荷物を順次渡船に積んで送り出したのです。早馬のできない海上は、狼煙台で連絡したでしょう。
*綸言汗の如し Like His Majesty's Sweat
なにしろ、先に寸評したように、至高の天子烈祖たらんとしていた曹叡は景初三年元日に逝去して明帝と諡(おくりな)され、先帝の遺言は「実録」に書き込まれて、一切訂正できなかったのです。もちのろん、陳寿は明帝遺言を否定することはできないので、深意を行間にこめたのです。
未完
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