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2024年10月

2024年10月30日 (水)

新・私の本棚 尾崎雄二郎 敦煌文物研究所蔵 『三国志』「歩隲伝」残巻に寄せて 1/3 追記

 季刊邪馬台国第18号 (1983年冬号) 2018/09/18 2019/03/09 補充 2020/05/19 2021/07/25 2024/10/30

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*初期考察の偉業
 本件は、最近論議を見かけた本資料に関する最初期の考察であることから、以下、三十五年を経て批判するものです。といっても、史料現物に臨んだ考察に大きな異議は立てられないのです。

*論説でなく所感
 当記事への批判が難しいのは、掲題の通り所感的な構想で書かれていて明確な主張が書かれていない事と途中で大きく主題を離れて巨大類書「太平御覧」の編纂時の資料取り寄せの混乱を思わせる、とこれも所感が書かれているからです。つまり、肝心の論考は些細にとどまっているのです。とはいえ、全体として、堅実な学術的な思考が窺われて敬服しているのです。

*「写真は現物ではない」「地図は現地ではない」
 但し、一点、敬意をもって批判させていただくと、尾崎氏氏は、中国で発行された学術資料である『敦煌遺書目録』に資料の写真が掲載され「現物」が見えると評していますが、「写真は現物でない」から、氏は肝心なところで失言しています。基本則を謹んで指摘するものです。とは言え、現物の「写真」では、適確な確認ができないのは、氏も自認しています。

*骨董品か、史料か
 当「遺書」(遺物文書、ここでは、歩隲伝残巻、断片)を含む敦煌「遺書」は、盗掘売却されたものを、新中国成立後に回収したもので、出土経緯は不明であり、骨董品の贋造改竄疑念がついて回るのです。その疑念自体は、念頭に置く必要があるのですが、では、何の根拠があって、そのような偽物をでっち上げたのか、ちょっと理解しがたいものがあります。
 いずれにしろ、紙質や墨質の分析確認などで、随分、適確な時代考証ができると思うのですが、そうした確認が行われた形跡はありません。お国柄なのでしょうか、例えば、資料解析しない条件で所蔵しているのかも知れません。

*文字(テキスト)の確認
 さて、尾崎氏は、「遺書」を三国志「呉志」歩隲伝と照合しつつ、文字起こしています。今日、良好なカラー写真が公開され、読解の苦労は、随分ましですが、当初読取の功績は大です。

*「周昭」小伝考
 さて、細かい異同は別として、歩隲伝末尾に追加されている周昭にまつわる記事の構成に差異があると、尾崎氏は指摘し、考察を加えています。
 当方の見るところ、引用記事は、周昭著書引用ですが、書き出し部に、周昭の信条を述べた上で、『周昭が「呉書」編纂者の一員であった』と述べた一行を加え、次行にその「呉書」(〻点 二文字反復記号を復原)に以下の記事があると述べていて、以下、三国志現存刊本とほぼ同一になっていますが、ことさら先触れされているので、周昭小伝の感が示されます。

 現行、三国志「呉志」歩隲伝は、いきなり、「呉書」ならぬ周昭著書の引用記事に入るので、当該部分は小伝の体裁は整っていないように見えます。つまり、両史料には、顕著な相違点がみられるのです。

                               未完

新・私の本棚 尾崎雄二郎 敦煌文物研究所蔵 『三国志』「歩隲伝」残巻に寄せて 2/3 追記

季刊邪馬台国第18号 (1983年冬号 2018/09/18 2019/03/09 補充 2020/05/19 2021/07/25 2024/10/30

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*些細だが重要な差異
 現行三国志「呉志」は、引用文の後に、周昭が「呉書」を編纂したと書いた行があるので、この一行が移動したというものの、行数変動はなく、実質的に同一内容で、私見では、裏打ちした巻物でも、部分的に剥がした上での差し替えは可能ですから、「遺書」の原本が、三国志「呉志」の抜き書きに、私家本とする際にこの一行を移動したという可能性も無視できないと考えます。
 この辺り「呉書」と「呉志」の原史料と推定される「呉書」が交錯しますが、氏は、この点に触れていません。

*西域異本 伝家の秘書
 以上、「遺書」は呉志異稿の断簡であり、当時、西域辺境に「呉志」異本が存在した証しとも見えます。ただし、現地に当該巻の全写本があって、一部断簡が残存したとの確証はないのです。まして、「呉志」全体、果ては、陳寿「三国志」全巻の写本があったとも思えないのです。
 なお、歩家などの関係者子孫が、抜き書きを保有した可能性はあります。確たることは判明していないのです。おそらく、「歩隲伝」写本が、歩家の末裔の家宝として珍重されていたのではないでしょうか。

*大いなる余談 太平御覽所引「魏志」
 ここで、尾崎氏は、該当部分を「太平御覧」の引用する「呉志」と比較して、現行本の記事がこれに近いと考察し、そこから余談に逸れます。
 氏は、更に、御覧所引の「魏志倭人伝」記事を、「翰苑」所引の「魏志」、「魏略」記事と比較して考察を加えていますが、当記事の本題を更に外れるので、批判を加えないのです。
 と言うことで、尾崎氏は、脱線したまま、走行を続けて、随分走ってから、復元しています。論文審査が厳格であった季刊「邪馬台国」誌でも、論考ならぬ随想であれば、余談が繁盛するのも許容されるのでしょうか。とは言え、脱線が人ごとと言えないのは、次回とします。

*遺書論回帰、慟哭
 最後に、尾崎氏は、本論に還って「遺書」は(氏が仮想した)善本の一部であり、「幾度かの校正によって、かかる善本が現行本に不当に駆逐された」と大いに悲憤慷慨したと見えます。
 この種の議論は、文献論議でしばしば見かけるとしても、仮想善本への過度の感情移入と擬人化は、学問の客観性を阻害するので厳に避けるべきと考えます。
 仮に、氏の思考を辿るとしても、いずれかの時期に生成して、遂に現行本に採用されなかった異稿は、言うならば、自然の摂理で淘汰され、帝室保存の原本が適者として生存したのであり、無用に思い入れすべきではないと考えます。まして、そのような異稿は、三国志編者陳寿が、承知の上で確定稿から割愛したものであり、2000年校正の無教養な東夷であって、三世紀当時も魏志編纂の重責を担っていたわけではない、言わば、門外漢/野次馬である論者は、陳寿「三国志」を論ずる際には、そのような細瑾、些事は、陳寿の知ったことではないと見るべきです。願わくば、文献考証の本筋を見失わないようにしていただきたいものです。

 案ずるに、世上の議論として、例えば、「三国志」なる史料に「邪馬臺国」と書かれた異本が一例でもあれば、それを論拠として、目障りな「邪馬壹国説」を駆逐できる可能性が否定できないのに、「三国志」には、ことのほか異稿が乏しい/無いために論拠を得られないことから、窮した挙げ句、「陳寿オリジナル」(?)を誰も見ていないとか、この世に存在しないとか、反則攻撃したり、途中改竄を憶測したりしかできないことに苛立っていると誤解されかねない口ぶりです。

*呉書引用の怪 
 氏が、三国志「呉志」と遺書に抜き書きされた「呉書」の区別を曖昧にしているのは不満です。
 陳寿が、呉志編纂の際に、かなりの部分で「呉書」を忠実に引用した事は確実に思われます。陳寿の見識では、東呉亡国の際に、晋朝皇帝に献呈された東呉の公式書である 「呉国志」、つまり、周昭「呉書」の完成本は、東呉史官の畢生の著作であり、三国志に収録するのが、自身の使命と感じたはずです。
 とは言え、あくまで、三国志は、各国国志の寄せ集めでなく、天下の形勢を陳寿が編纂した史書の一翼との建前なので、志」の呉書引用部にいちいち「呉書に曰」と書いてないのです。とすると、なぜ、ここだけ「呉書に曰」とする異稿があるのか、不思議です。

 そこから始まる周昭小伝の意義については、当批判の枠外なので別稿とします。

                              完

新・私の本棚 尾崎雄二郎 敦煌文物研究所蔵 『三国志』「歩隲伝」残巻に寄せて 3/3 追記

季刊邪馬台国第18号 (1983年冬号) 2018/09/18 2019/03/09 補充 2020/05/19 2021/07/25 2024/10/30

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*「呉志」との比較
 「遺書」と「呉志」を比較して、異同を確認できます。 (資料部脱落を補充)

  遺書 敦煌断簡                       三国志 呉志(改行は断簡/遺書にあわせたもの)
① 解患難書數十上權雖不能悉納其然時采其       解患難書數十上權雖不能悉納然時采其
② 言多蒙濟賴赤烏九年代陸遜為丞相猶誨育       言多蒙濟賴赤烏九年代陸遜為丞相猶誨育
③ 門生手不釋書被服居處有如儒生然門內妻       門生手不釋書被服居處有如儒生然門內妻
④ 妾服飾奢綺頗以此見譏在西陵廿年鄰敵敬       妾服飾奢綺頗以此見譏在西陵二十年鄰敵敬
⑤ 其威信性寬和得衆喜怒不刑於聲色而內肅       其威信性寬弘得衆喜怒不形於聲色而內肅
⑥ 然十一年卒子恊嗣統隲所領加撫軍將軍恊卒     然十一年卒子恊嗣統隲所領加撫軍將軍恊卒
⑦ 子璣嗣侯恊弟闡繼業為西陵督加昭武將軍       子璣嗣侯恊弟闡繼業為西陵督加昭武將軍
⑧ 封西亭侯鳳皇元年召為繞帳督闡累世在西       封西亭侯鳳皇元年召為繞帳督闡累世在西
⑨ 卒被徵命自以失職又懼有讒禍於是據城降       卒被徵命自以失職又懼有讒禍於是據城降
⑩ 於晉遣璣弟瑁詣洛陽為任晉以闡為都督西       晉遣璣與弟璿詣洛陽為任晉以闡為都督西
⑪ 陵諸軍事衞將軍儀同三司加侍中假節領交州     陵諸軍事衞將軍儀同三司加侍中假節領交州
⑫ 牧封宜都公璣監江陵諸軍事左將軍加散騎常     牧封宜都公璣監江陵諸軍事左將軍加散騎常
⑬ 侍領廬江太守改封江陵侯瑁給事中宣威將軍     侍領廬陵太守改封江陵侯璿給事中宣威將軍
⑭ 封都郷侯命車騎將軍羊祜荊州刺史楊肇往       封都郷侯命車騎將軍羊祜荊州刺史楊肇往
⑮ 赴救闡孫皓使陸抗西行祜等遁退抗陷城       赴救闡孫皓使陸抗西行祜等遁退抗陷城
⑯ 斬闡等步氏泯滅惟牓瑁紹祀                 斬闡等步氏泯滅惟璿紹祀
⑰ 潁川周昭字恭遠與韋曜華覈薛瑩並述呉書
呉書稱步騭嚴畯諸葛瑾顧邵張承曰古今賢士     潁川周昭著書稱步隲嚴畯等曰古今賢士
⑲ 大夫所以失名喪身傾家害國者其由非一然要     大夫所以失名喪身傾家害國者其由非一然要
⑳ 其大歸總其常患四者而已急論議一也爭名勢     其大歸總其常患四者而已急論議一也爭名勢
㉑ 二也重朋黨三也務欲速四也急論議則傷人爭     二也重朋黨三也務欲速四也急論議則傷人爭
㉒ 名勢則敗友重朋黨則蔽主務欲速則失德此四者   名勢則敗友重朋黨則蔽主務欲速則失德此四者
㉓ 不除未有能全也當世君子能不然者亦有   不除未有能全也當世君子能不然者亦比有
㉔ 之豈獨古人乎然論其絕異未若顧豫章諸葛使     之豈獨古人乎然論其絕異未若顧豫章諸葛使
㉕ 君步丞相嚴衞尉張奮威之為美也             君步丞相嚴衞尉張奮威之為美也

*顕著な相違点
 一見してわかるように、⑰では、「遺書」には『潁川の周昭が、(同僚であった)韋曜、華覈、薛瑩とともに「呉書」を編集した』と明記されていて、続いて、その「呉書に曰わく」と二段構えになっているのに対して、「呉志」では、単に「潁川の周昭の著書に曰わく」と 短縮、整理されていることです。当記事では、脇道なので、ここでは、相違点の指摘にとどめます。

*記号の見落とし
 「遺書」で、⑱の「〻稱步騭…」を「呉書稱步騭…」と校訂したのは、「〻」を、汚れではなく、前行末の「呉書」を二文字反復する記号と読んだものです。それで字数が合います。但し、改行した後で、省略記号で一行を起こすのが妥当かどうかは、別義です。おそらく、座右の写本原本が「達筆」の走り書きであり、そこでは、原本に立て続けに「呉書呉書」と書かれていたのを(略字体で)「呉書〻」と略記していたのであり、これを正式書体に戻す際に、処置を誤ったものと見えます。衆知の如く、写本行程は、さまざまな理由で、「誤写」が起こりうるものであり、陳寿「三国志」のような正史の帝室蔵書高貴本の写本にあたっては、それこそ百人体制で入念な校正を重ねて、誤写をほぼ絶滅させているのですが、「遺書」のように、俗世の上級写本では、時に取りこぼしがあるということでしょう。

*紹凞本「倭人伝」の瑕瑾

 ちなみに、魏志「倭人伝」では、「壹與壹與」「諸國諸國」と反復する形が二ヵ所にあり、紹凞本では、後者の例で反復二文字がなくなっています。思うに、紹凞本の元史料は、根拠としている北宋咸平刊本そのものではなく、少なくとも一度「上級写本」に移されたものであり、その際に、二字反復を「〻」に置き換えたのが、当該写本から紹凞本刊刻稿に書き戻す際に担当者が(うっかり)見落としたと思えるのです。

 少なくとも、北宋咸平刊本から直接木版を起こしたであれば、このような間違いはありえません。刊本は、このような記号を使わないからです。
 あるいは、想定している「上級写本」は、職人ではない教養人が「達筆」、つまり、草書書法の略字体で残したものであり、そこから「正式書体」に書き写した担当者が、教養不足で、省略記号を読み飛ばしてしまったのでしょうか。何しろ、「略字体」は「正式書体」と異なる体系であり、習得するには、これまた、厖大な学習が必要ですから、知識人といえども、全員が完璧に記憶していたのではないのです。恐らく、高官有司の周辺には、有能な書記官がいて、日々、高官の言動や親書の控えを書き溜めていたでしょうから、その際には、速筆第一と略字体を駆使していたのでしょう。

 巷間、「紹凞本は完璧ではない」と批判されていますが、この例は、編集記号の見落としであり、紹興、紹凞両刊本(全刊本)に共通する「仮想」誤写論議は、両刊本共通の「祖先」の文字取り違え事態を予め想定しておいて、それは別の時代、別の写本工に別の要因に起因する過誤があったからに違いない、と「予断している憶測ですから、当事例とは、特に因果関係はないものです。

 いずれにしろ、誰にも間違いはあるのであり、大事なのは、間違いを見つけて是正する仕組みを持っているということです。

 陳寿「三国志」の場合は、早々に帝室所蔵となり、写本継承の際の是正の仕組みに保護されたため、世上、むしろありふれている「異本」が少ない/無いのです。

 大唐の滅亡後の小国乱立による「五代十国」の小戦国時代を、颯爽と統一し、文治の原則を確立した北宋が、国家をあげて行った刊本事業の成果は、後に、北宋末の金軍による帝都開封陥落と文物破壊、南下による諸処刊本、版木全滅と、壊滅的な被害を受けたのです。
南遷して再興された南宋は、諸國から持ち寄られた質の高い写本を結集して、今日見られる刊本を再現する偉業を達成し、両刊本は、奇異な経過を経て併存している
ものと思います。
                                以上

2024年10月28日 (月)

倭人伝随想 5 倭人への道はるか 海を行けない話 1/3 補追

                   2018/12/04 2024/10/28
*加筆再掲の弁
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*随想のお断り
 本稿に限らず、それぞれの記事は随想と言うより、断片的な史料から歴史の流れを窺った小説創作の類いですが、本論を筋道立てるためには、そのような語られざる史実が大量に必要です。極力、史料と食い違う想定は避けたが、話の筋が優先されているので、「この挿話は、創作であり、史実と関係はありません」、とでも言うのでしょう。
 と言うことで、飛躍、こじつけは、ご容赦いただきたいのです。

*無謀な一貫航行
 結論を先に言うと、三世紀の日本列島で長距離一貫航海は無謀です。
 まずは、そうした長期航海に耐える船体はありません。船体には、漕ぎ手を入れても良いでしょう。二十人程度の漕ぎ手は中々揃わず、長期にこぎ続ける体力は無いし、派遣元も、長期間出っぱなしとは行かないでしょう。
 沿岸航行を続けるなら、一日漕いでは一休みし、疲労回復して再度漕ぐのでしょうが、そのような航行で遠距離漕ぎ続けるには、多くの寄港地が必要で、ただで滞在もできないしということになります。

 無難なのは、港、港で便船を乗り継ぐ行き方です。地元の船人が慣れた海域を、慣れた船で行くので、危険の少ない行き方です。

 問題は、全航路を乗り継ぎでつなげることが、その時点で可能かどうかと言う事です。港々を、定期的な船便が繋いでいるという設定ですから、ある程度、物資の流通が行われていなければ、船便もないのです。いや、「便船」乗り継ぎが可能にならなければ、航路はできないのです。

*無理な半島巡り
 それにしても、漕ぎ船であろうと、小型の帆船であろうと、難所続きの韓国西南部の海岸巡りは、無謀です。提唱以来久しいのですが、そのような航行があったとの報告がありません。
 もちろん、例えば一人乗りの漁船で沖に出て漁労に勤(いそ)しむことはできたでしょうが、それは、岩礁の位置を知り、潮の干満を知った漁師のみが出来るだけであり、今課題とされている二十人漕ぎ程度の喫水の深い船は、水先案内があっても、とても、無事航行することはできないと思われます。いや、命がけですから、とても、生業(なりわい)として航行出来ないという方が正しいでしょう。

*手軽な渡し舟

 とかく誤解が出回っているのですが、「倭人伝」に書かれている海の旅は、今日言う航海などではなく、手軽な渡し舟なのです。
 海に疎い中国でも、北の河水、黄河、南の江水、長江などの中下流の滔々たる流れは、架橋などできなかったので、街道を行く旅は、しばしば、渡し舟で繋いで往き来していたのです。
 渡し舟は、川の流れの向こうがわかっているので、羅針盤も、海図も要らないのです。川に魔物がいるはずもなく、渡し場が決まっていれば、往来する客に不自由はなく、生活のために、時には、日に何度でも渡るものです。
 また、いくら大河でも、その日のうちに向こう岸に着くので、寝泊まりや食事の心配はなく、随分小ぶりの軽舟で、漕ぎとの数も差ほど必要としないのです。
 また、河水(黄河)の例で言えば、中流以下の流れは、年中行事で氾濫して、黄土を溢れさせるので、両岸は、ドロ沼になっていて、川岸の津(船着き場)に下りていくのに、時には、泥橇(そり)に乗る必要があったのです。このあたりは、史記夏本紀に、禹后の巡訪として、街道を馬車で移動しても、河水を渉るには、泥橇で川岸に下り、渡船で水を渉ったと書かれているように、「陸行」に「泥行」「水行」を重ねた移動であったと書かれています。
 とは言え、漢代にそのような渡船の姿は改善され、街道を馬車や騎馬や徒歩で進んで、津に至った段階で、順次渡船に乗りこんで対岸の津に渡ったものと見えます。もちろん、津についていきなり乗りこめるわけではなく、宿泊待機したものと見えますから、津は、それぞれ反映していたものでしょう。後漢代には、官渡という津が高名であったと記録されています。
 つまり、当時、雒陽で全土を支配していた官人にとって、街道の一部が渡船で繋がれているのは常識であり、殊更書き立てるものではなかったのです。各要地の間の行程道里は、数千里と書かれていても、途中の渡船は書かれていないのは、所用日数を推定する際に物の数に入らないからです。
 「倭人伝」の道里行程記事を解釈するには、そのような常識を弁(わきま)えている必要があるのです。

 ということで、以下、少し丁寧に批判します。

*渡船談義
 渡船で言えば、例えば、半島南岸の狗邪韓国から目前の対馬に渡る船は、海流のこなし方さえできれば、さほど重装備にしなくても、手軽に渡れるのです。一日の航行で好天を狙うので、甲板は要らず、軽装備で、漕ぎ手は一航海限りの奮闘です。
 対馬と壱岐の間は激流で、多分漕ぎ手を増やした渡し舟だったでしょうが、それにしても、日々運用出来る程度の難所だったのです。
 一航海ごとに交代していたから<年々歳々、航路が維持できたのです。もちろん、便船として航路を往き来するには、積荷、船客が必要ですから、さほど繁忙していなければ、十日に一度の往来でよく、それなら、漕ぎ手は、後退しなくても維持できたのでしょう。要するに、時代相場で「槽運」稼業が成立していたのです。

                               未完

倭人伝随想 5 倭人への道はるか 海を行けない話 2/3 補追

            2018/12/04 補追 2019/01/09 2024/05/11, 10/28
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 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*難所の海

 半島南岸はとてつもなく難所続きですが、まずは、多少、乗りこなせそうに見える西岸から考えてみましょう。俗説では、「帯方郡が仕立てた海船、おそらく漕ぎ船が南下してこの西岸海域を踏破したことになります」が、そんなことはできたでしょうか。蒸しかえしですが、ここが通れなければ、南岸も通れないのです。
 現在の地図に見える多島海を漕ぎ通ることは大変難しかった(現代ことばで言うと、「不可能」の意味です)でしょう。

 どんな船でも、岩礁で船底に穴があいて浸水すると、必ず沈没します。岩礁が見えたら避けようとするのですが、見えないでは対処できません。地元の海人、漁師達は、そうした危険な場所を知っていて、陸上に目印を作り、いちはやく避けることができます。いわば、漁師の土地勘というものですが、海底が見えず土地勘もない船は、そんな海域に立ち入れないのです。
 まして、一人乗りの漁船より遙かに大きくて重い二十人漕ぎの荷船は、喫水が深く、船底が深くまで伸びて、漁船が通れる海域でも、難破するのです。

*帆船のなやみ
 さらに大規模な「小型の帆船」であれば、格段に幅が広く、喫水が深いので、もはや、漁船の土地勘は通用しないのです。安全に通行するには、海域全体で、水深を測って浅瀬になりそうな場所に目印を置くことになります。
 さらに、帆船通行が難しいのは、帆船の舵取りの困難さ(事実上不可能の意味です)にあります。わかりやすく言うと、帆船は舵の効きが遅い上に、低速航行では舵が一段ときかないので小回りがきかず、しかも、舵の効きが、帆にかかる風の力や海流に左右されるので、進路を制御するのが難しい(できない)のです。
 ということで、帆船を含めた大型の海船は、沿岸航行では基本的に直進するのです。進路を変えるには帆を下ろした帆船を手漕ぎの曳き船で押して方向転換させます。今日、大型船の入出港は、タグボートと水先案内が活躍します。

 この制約を克服するには、帆船に数十人の漕ぎ手を乗せ、入出港の際は手漕ぎで進めることになります。ますます船体が重くなり、載せられる荷物の量が減ります。ちなみに、ちなみに、古来、漕ぎ手は非戦闘員扱いです。

*不可能な使命

 それはさておき、半島西岸の「沿岸」航行は、浮揚するホバークラフトでも使わない限り、実現不可能という事がわかります。
 可能性は無限なので、絶対失敗する訳ではないのですが、官道としての便船であっても荷船であっても、途中の難破が度々あっては、使い物にならないです。
 難破と言わなくても、途中十箇所なり二十箇所なりの寄港地が一箇所でも停泊不能となると、土地不案内な漕ぎ船はそこで立ち往生し、官道が途絶するのです。

 そんなことは、帯方郡には自明だったので、そのような海上航行は採用されないどころか、一顧だにされなかったのです。

                             未完

倭人伝随想 5 倭人への道はるか 海を行けない話 3/3 補追

             2018/12/04 補追 2019/01/09 2024/05/11, 10/28
*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*南岸難関
 西岸踏破では、途中必ず何があるから、日程を決められないのですが、南岸踏破は、さらに難関と見られます。端的に言えば、この多島海を短区間の寄港を続けて乗り切ることができるのかどうか不明なのです。

*後世の海路
 遙か後世、大型の帆船で無寄港航行できるようになって、始めて、西海岸のはるか沖を通過する航海が実現したのですが、それでも、荒天による遭難は避けられず、近年、この海域で沈没船が発見されたとの報道があったのです。

 因みに、夜間航行する無寄港航海は、訓練された乗員や軍人は停泊休憩無しの航行にも耐えても、便乗する外交官や民間人には耐えがたいので、頻繁に寄港したはずです。そう、船酔いの問題もあるでしょうし。

*対馬海峡渡海
 以上の談義は、対馬海峡の渡海には、全く適用されません。
 この区間は、単に三度に分かれた渡海(渡し舟)であり、途中の海は、海流こそ激しいものの、難破させられる見えない岩礁などなく、かつ、目的地が見通せる区間であって、それぞれ区間は一日の航海で到着するのです。渡し舟は、甲板なし、船倉なし、厨房なしで良いのです。

 この航路は、代替経路がない幹線で通行量が多くて定期便が普及している「街道」であり、それぞれの港には、ゆっくり休養できる宿があり、替え船はないとしても、その区間の渡し舟を利用できるので、わざわざ専用船を仕立てて一気に漕ぎ渡る必要もなかったのです。

 街道往来の便船の漕ぎ手なら、それこそ旬(十日)に一回往復すればよいとか、無理ない日程管理ができたでしょう。

*水行十日三千里
 「倭人伝」も、この三回の渡海を総合して、休養日、天候待ちも入れて、水行十日で渡れるから三千里相当と書いといてくださいとしています。

 「水行」を、古来正解の河川行とせず、「海」(うみ)を行くものとする「邪道」(東北方向の斜め道)の読みは、別項に書評したように「中島信文氏が提唱し、当方もかねて確認していた解釈」とは一致しませんが、「倭人伝」は、中原語法と異なる地域語法で書かれているのです。それは、「循海岸水行」の五字で明記されていて、以下、この意味で書くという「地域水行」宣言です。

*見えない後日談~余談
 後世、帆船航行の初期は、なんとか西岸沖合を南下し、済州島付近から、一気に大渡海に入ったのでしょうが、だからといって、無事に未踏の航路を開拓し、乗りきれたかどうか不明です。

*高表仁伝説 2024/10/28加筆
 もっとも、初唐期の唐使高表仁は、数か月を費やした「浮海」で航路を発見し、百済を歴ずして倭に到着したようです。「浮海」とは、未知の海域を、「海図」も「羅針盤」も「水先案内」もなしに手探りで行くということであり、もし、三世紀に、魏の艦船が、当該海域を通過したという記録が残っていれば、そのような闇中摸索は必要ないのです。いや、唐使高表仁以前に、隋使として俀国に至った文林郎裴世清は、当該海域を通過したと記録されているので、その航跡を辿れば何のこともなかったはずなのですが、そのようには書かれていないのです。

 ちなみに、高表仁は、素人文官でなく、新州(広東省の一地区)刺史、現役の辺境監武官(軍人)だったので、熟練の航海士を従えて、手馴れた大型の帆船で、任地の新州から遙々(はるばる)来航したはずです。但し、『日本書紀』によると、舒明天皇4年(632年)8月に遣唐使の犬上御田耜や僧旻、新羅の送使とともに対馬に泊まっています。(Wikipedia)
 しかし、630年当時、三国が鼎立していた朝鮮半島の形勢は安定していて、新羅との関係が良好に保たれていたとみると、倭國遣唐使は、当然、安心、安全な新羅遣唐使行程を利用したはずです。もし、何らかの事情で、新羅を経由できなかったために黄海を航行したとすると、百済の海船に便乗したと見るべきですが、当時、百済は、山東半島の海港に乗り入れる権利を失っていたので、その場合、初期の遣唐使が、いかなる神業で難関を乗りこえていたか不審です。
 もし、高表仁が、「日本書紀」の記事通りに、唐使として、新羅の送使と共に倭國の遣唐使の帰国を送ったとすれば、山東半島から新羅の遣唐使航路を辿って、唐津(タンジン)に至り、以下、内陸海道を歴た上で、新羅の海港を歴て対馬に渡ったと見えます。
 唐使が、確立されていた新羅道を辿らず、新州刺史の配船で、東シナ海を横断して対馬に至ったとすれば、それは、未踏航路であり、数ヵ月を要したとしても不思議はないのですが、その場合、高表仁は、倭國遣唐使の帰路とは関係無かったことになります。

 例によって、国内史料と中国の正史のいずれを信用するかということになりますが、ここでも、国内史料は、断片的な史料を、「日本書紀」 の建前に合うように継ぎ合わせたものと見え、後続の高表仁の行状記事と併せて、信用できないことになります。

 ちなみに、朝鮮史上、高句麗、百済、新羅の三国時代と呼ばれる形勢は、640年代に動乱の時代に入り、長年仇敵であった高句麗、百済が提携して新羅の排除を図ったため、新羅は、大国大唐の支援を受けて、反撃に出た結果、百済は滅び、ついで、高句麗も滅び、660年頃に統一新羅か確立されたのですが、倭国は、百済を支援したため、統一新羅から、敵国扱いされたのですが、その結果、遣唐使の新羅道陸行も、黄海航行も不可能となり、高表仁が確立したと見える大型の帆船による東シナ海無寄港大横断に踏み切らざるを得なかったと見えるのです。

 往途の郡倭航海はこなせても、帰途の倭郡航海は、帆船といえども、海流に逆らう大渡海で至難であり、いっそ、佐世保辺りから北西帆走したかと思われます。
 そして、郡から倭に向かう航海は何とかこなせても、倭から郡に向かうときは、帆船といえども、末羅港から海流に逆らう大渡海は至難であり、いっそ、佐世保辺りから、西に向かって帆走するのではないかと思われます。 この辺り、古田武彦氏は、初唐期、有明海に帆船母港を置いて、そこから発進したのではないかと、根拠なしに想像をたくましくしています。

*まとめ
 これぐらい丁寧に説明したら、「西岸南岸一貫水行」説は、影を潜めないものかと願っています。
 

                            この項完

2024年10月21日 (月)

新・私の本棚 刮目天ブログ 「邪馬台国への道?( ^)o(^ )」1/2 追補

邪馬台国への道?( ^)o(^ ) 2024/09/26      2024/09/27 追補 2024/10/21

◯お断り
 引用されている河村哲夫氏の論考は、既に講演録の形で批判させていただいていて、ここで論議しているのは、兄事している刮目天一氏の「倭人伝」論議、特に、「倭人伝」道里行程記事論にほぼ限定した「批判」であることは、従来記事同様です。

魏志倭人伝は西晋の創業者司馬懿の功績を称揚するのが目的で書かれたものだと推理できますから、距離や戸数もかなり過大に書かれていると思います。不弥国から理数(ママ)ではなく日数表記したのは特異(ママ) の十倍水増しだと推理しています。ですから行程記事をそのまま解釈して、誰もが邪馬台国と納得する場所にはたどり着けないです。
ですから、邪馬台国の場所は考古学や民俗学成果から推理する以外にないのですが、決め手は径百余歩の急造りの冢(直径約150mの日本最大の円墳)と東側が海に面しているなどの条件ですね(^_-)-☆

 お言葉ですが、皆さん、なかなか個性豊かで、それぞれ好き勝手に/気ままに「邪馬台国」を「わが家」に取りこんでいるので、誰もが邪馬台国と納得する場所 など、最初から有り得ないのです。もっとも、当家の主義は、何処かの場所を押し付けるものではないので、話しの運びに納得できるかな、と思うだけです。

*揺れる依拠史料
 「西晋の創業者司馬懿の功績を称揚するのが目的で書かれた」とは、当時の出来事を知らないでのことと思います。既に叮嚀に「教育的指導」を出しているので、ここでは「ズル」させていただきます。倭人伝の「行程記事をそのまま解釈して、誰もが邪馬台国と納得する場所にはたどり着けない」と勿体ない早とちりの結果、べたべたの「倭人伝」不信論、改竄主義では、史学の正道を外れるので、そっぽを向かれ痛々しいのです。

 当ブログの論法では『ちゃんと論理的に書いてある「倭人伝」を、ちゃんと論理的に理解できない半人前の落第生が、揃って「正解」に納得することなどない』のは、当然なのです。

 お怒り覚悟で角を立てて言うと、モチのロン、「倭人伝」解釈に限ってのことですが、刮目天一氏は、『ものを知らない上に合理的な思考のできない、と言うか、混乱した思考に囚われている普通の「落第生」』の味方ばかりしているので、丁寧にお話の躓き石をとりあげているのです。言い古された「ほっちっち」[京童(わらべ)の戯(ざ)れ歌]で返されそうですが、王様の靴下の穴はほっとけないので、しつこく、回心を求めているのです。

 そこまで言いきった後で瞬(まばたき)すると、突然「倭人伝」記事に回帰するのは、気ままです。

*二つの異議「径百余歩」との確認
 折角なので、足を止めて、叮嚀に説き起こすことにします。「径百余歩の急造りの冢(直径約150mの日本最大の円墳)」「東側が海に面している」などの条件との提言ですが、氏の「大日本邪馬臺国」観で、解釈がズレているので、異議を唱えなければならないのです。

*「径百余歩」の確認 「平方里」、「平方歩」の正解
 「径百余歩の冢」自体は「倭人伝」記事のとおりですが、直径150㍍とする「思い込み」は、残念ながら誠実な研究者が陥りがちな陥穽です。
 原因は、中国史書を、歴史的な「常識」に立って科学的に解釈するのを怠り、現代東夷の「常識」で解釈する誤謬です。いえいえ、それは、世上に溢れる「邪馬臺国」論者が、ほぼ例外なしに墜ちる/既に墜ちて井蛙になっている「泥沼」であり、氏を個人攻撃しているのではないのです。

*中国の常識「九章算術」 古代の「必読書」
 「九章算術」なる幾何「教科書」に従うと、これは、円形用地の表現であり、数に強い陳寿の「方百歩内接円」書法と見れば、「方百歩」面積は百「平方歩」十歩(15㍍程度)角であり、内接円は直径十歩です。

 専門書「九章算術」は、「歩」、「里」を土地寸法や道里の単位と土地の「面積」単位とに共用しても読者は判別しますが、史書では「方百歩」、「方四千里」等と表記を変え、合計計算に巻きこまれるのを避けています。

 ちなみに、農地制度で「歩」は、人の歩み/歩幅/足の長さなどと関係なく、「歩」(ぶ)という測量単位であって、度量衡とは、原器のある「尺」を根拠として、一歩六尺として永久固定されています。測量単位としては、上位に、「里」があって、一里三百歩に、これまた永久固定されています。(「永久}とは、取り敢えず数世代程度、「末永く」という意味であって、数百年とか千年という話ではないのです)

*ありふれた誤解
 「倭人伝」解釈で、韓伝「方四千里」を縦横四千里架空図形とした「四方説」が「短里説」に重宝されますが、それは、別儀として、ここで言う対海「三百里」四方と一大「四百里」四方は、足し算すると、「七百里」四方ならぬ「五百里」四方になるのであり、明解な足し算が成立しないのでは、理屈に合いません。べつに複雑な計算式は要しないので、軽くお試しいただきたいものです。二次元単位である面積を、一次元単位である尺度で規定するというのが、はなから不合理なのです。
 正解では、「一歩六尺」、「一里三百歩」が普通で、一尺25㌢㍍、一歩1.5㍍、一里450㍍と明解です。(いずれも、切りの良い概数値)

*大いに冢を作る
 女王埋葬で採用されている「冢」は、「倭人伝」既出の在来工法で、近隣の通い程度の軽微さです。ただし、「大いに」としたのは、「大人」葬礼と格違いと示したのであり、参列者(徇葬者)百人です。

 準備のない急拵えなのは当然ですが、「盛大に封土した上で葺き石を延々と野越え山越え手渡しで大動員搬送する大墳丘墓」とは、根っから無縁です。一辺15㍍の敷地内なのに、巾10㍍の周濠で土饅頭を囲うなど論外です。

                                未完

新・私の本棚 刮目天ブログ 「邪馬台国への道?( ^)o(^ )」 2/2 追補

邪馬台国への道?( ^)o(^ ) 2024/09/26         2024/09/27 追補 2024/10/21

*良い歴史家
 てみじかに最近の報道を紹介すると、時代を問わない「無辺」の「歴史家」としてあまたのNHK歴史番組に連投する磯田道史氏(国際日本文化研究センター教授)は、物の寸法が10倍なら面積は100倍、体積は1000倍との不朽の真理を、今更、殊更語りますが、公共放送は、規模を追い続ける箸墓論議の提灯持ちに飽きたのでしょうか。氏は、既に晩節を意識しているのでしょうか。

 手許事例では、直径15㍍を基準とすると、150㍍では、敷地が100倍、土木工事規模は1000倍近い超大規模です。お「得意」様も超の付く粉飾は想定外でしょうから、ここは、誇張無しの現地報告と理解いただきたいのです。

 それにしても、動揺する刮目天一氏の論考で、笵曄「後漢書」「倭条」(以下「倭条」)尊重で忘れた頃の「倭人伝」回帰は、読者の視点が激しく動揺するので、不満です。

 刮目天一氏は、径150㍍の古墓(直径約150mの日本最大の円墳)が卑弥呼の冢と最終結論されているようですが、今更ながら、御再考いただけないものでしょうか。ちなみに、「日本一の大墳墓」は、三世紀時点では、大変不穏当です。

 氏は、さぞかしご不快でしょうが、「魏志倭人伝」の前段では、「其死、有棺無槨、封土作冢」と風俗(「風」「法秩序」と「俗」「民俗」)記事で明記されているので、(なぜか)「冢」が、100㍍規模の「円墳」と解釈しないといけないとすると、卑弥呼の葬礼以前に、其の地は、大人(首長)円墳葬礼が当たり前のように行われていたことになります。

 葬礼で、(整地した)地面を掘り下げて棺に入れた遺体を納めるということは、棺を埋設した上に、盛り土しては版築で突き固める行程のくり返しになり、円墳の葬礼と随分異なることになります。
 「倭人伝」の記事を無視して、「円墳」に調子を合わせて盛り土内に棺室を設けるとしたら、それは、甕棺でなく郭になるでしょう。どちらを信じればよいのでしょうか。

 ついでながら、そのように考えるなら、「古墳」は、随分以前から行われていたことになります。纏向遺跡の考古學は、そのように理解して、更に、古墳時代を前ずらししているのでしょうか。

*東方の海 地理解釈の不思議
 卑弥呼の墓の東方の「海」として、「倭地」は「倭人」なる「大海」中に散在する洲島で、各国は、それぞれの島を占めている「国邑」、つまり一千戸程度の単位にまとまった集落であり、渡海の後上陸する末羅と伊都は同じ島でも、伊都の東西南方は、不明です。

 「倭人伝」の道里行程は、郡を発し対海から伊都に「到」ります。終点と明示しているのが「到」です。まことに簡潔適確であり、伊都以降と見える、奴、不弥、投馬は、満足な報告・連絡・相談がない余計者と明記されているのです。

 奴と不弥は、伊都と地続きでも、南の投馬は、どうやら陸地が途切れたと見え、倭人伝語の「水行」で軽舟で、対岸に渡るとしても、渡し船に二十日乗り続けるのは有り得ないので、何もわからないのです。中国史料「倭人伝」のこの部分は無根拠/的外れと見える五万戸の戸数を含め、史料欠落で別扱いとされているので、後生東夷の勝手な書き込みは論外です。

 以下、南とはいえ、伊都」城内部ないしは至近に「邪馬壹国」城があると明解です。

 このあたりが、司馬懿の指示とすると何とつまらない「おっさん」(士誠小人 「孟子」)かと呆れます。帝詔で言う「中国」なる天下世界の中心から見ると、「倭人」は、天地果つるところ、萬里の彼方の蜃気楼であり、現地がどうなっていようと、正史夷蕃伝の隅っこであって、正史として何の意味もないのです。

*「倭条」の凱歌 万二千里創唱の勲功
 笵曄「後漢書」「東夷列伝」プラ下がりに過ぎない「倭条」によると、「大倭」王は「邪馬臺国」なる「城壁に囲まれた聚落」に居ると明記されていますが、城の東方近傍に渡れる「海」があるとは言えません。前世の「倭条」に郡使到来はなく、郡使が到着する以前「倭地」の地理は不明です。

 「倭条」で、樂浪郡端は、大倭を去る万二千里です。当時は、宣王司馬懿の前世であり、劉宋での笵曄「後漢書」「倭条」編纂時点では「悪辣な手口で天下を奪った果ての西晋が王族総出の内乱で滅んで中原を失い、逃亡先で再興の東晋も失地回復できずに滅んだ後に劉宋が興隆」していたのに、霞の彼方の罰当たりな司馬懿の面目を保とうとして「倭条」で過大な道里を創造したとは、怪談と思いませんか。

*余傍の国のこだわり 史料を踏み付けた二次創作
 ここで、無意味な現代地図を持ちだして「倭人伝」地理記事を二次創作していますが、折角の論証から脱線する運びの「すじ」は悪いと申し上げます。
 目下の様子では、刮目天一氏は、司馬懿の威光を忖度して、現代版の「倭人伝」を創作しているように見えますが、氏の偉才の無駄遣いのように見えます。

*丁寧な史料評価の勧め 2024/10/21
 「倭人伝」の記事を厳選された取り組みのために、「みずてん」ならずとも大事な記事まで否定されたのは勿体ないところです。「倭人伝」は、折角、天下一の司厨が手を掛け心をこめた満漢全席ですから、卓袱台(ちゃぶだい)返しせず一皿一皿、叮嚀に評価してほしいものです。お気に入らない品は、残しておけば、良いのです。
 「後漢書」編纂の一大事業(Life Work)の道半ばで投獄され、著作の完成をあきらめて、嫡子共々首を落とされた笵曄の遺作は、あくまで半人前の未完成であり、特に、先行後漢代資料のない「東夷伝」倭条は、素人目にも、笵曄として不本意な書きとばしになっているのですが、後漢書「東夷伝」倭条を偏愛する方達は、笵曄の誤謬を殊更取り立てて、范曄の歴史家としての名声を損ねているのに、気付いていないのでしょうか。

 それなら、范曄が、何の史料もないままに、「其大倭王居邪馬臺國。樂浪郡徼,去其國萬二千里,去其西北界拘邪韓國七千餘里。其地大較在會稽東冶之東,與朱崖、儋耳相近,故其法俗多同」と書き飛ばしています。
 後漢書「倭条」は、陳寿「三国志」「魏志」「魏志倭人伝」から時代設定が先行しているのですが、言わば、陳寿著書は、誤記や改竄がはびこっている「疑書」であるとして、ちゃぶ台返しで、一切合切ゴミ箱に放り込んでいるので、参考史料とできないのですが、范曄は、安易に、「楽浪郡の檄は、其の国(邪馬臺國、つまり、国王の居城)を去ること万二千里(余無し)」と言っておきながら、すかさず、「其の西北界拘邪韓國を去ること七千餘里」としていて肝心な拘邪韓國は、其の西北界という以上「倭」の一国に決まっているから、一切所在不明ですから、いくら一里450㍍と概算しても、行程道里、方位が不明では、いかにも杜撰です。
 たしかに、「倭は韓の東南大海中に在る」と言うものの、見通し範囲内でないので、楽浪郡の檄から、東南一万二千里(現代風に言うと、五千四百㌔㍍)の彼方まで、どのようにして行くことができるのか、見当もつかないのです。

*ごみ情報 2024/10/21
 蔭の声ですが、「倭人伝」で言う「郡から倭まで一万二千里」は、西晋代になって、陳寿が、時の皇帝の指示で、ご先祖様の司馬懿を顕彰するために捏造したことになっているのですから、笵曄が暴露したように、それは、後漢代に決まっていたことだというのは、どう考えれば良いのでしょうか。陳寿は、百五十年後に書かれる笵曄「後漢書」の内容を知ることができるはずはないのです。

*砕けた地図
 2024/10/21
 ということで、ここにあるのは、砕けた地図であり、ものの役に立たないのですから、笵曄が、史官であれば、これで良しとするはずが無いのです。
 笵曄「後漢書」西域伝末尾の「評語」を読むと、先行史書の束縛を離れた東西辺境、特に、西域では、笵曄は、後漢西域都督班超の副官甘英が、カスビ海東岸の安息国を訪問したという記事を、勝手に拡大解釈して、甘英は、更に西に足を伸ばして、海西の條支、さらには、数千里西方の安息王都に行きついて、遂には、玉門関から四千里の大秦に出向こうとしたかのような事実無根の虚構、と言うか、白日夢を描いていますが、東夷伝の「倭」についても、事実無根の蜃気楼を紡いでいたとみえます。西域の話しで言えば、後漢代に西の「ローマ帝国」と東の「後漢」が、ほとんど直接接触していたかのような夢物語が、長年醸されていて、一向に覚める気配が無いのですが、東夷についても、笵曄の夢物語は、不滅のようです。

*浮草物語 2024/10/21
 世間では、笵曄「後漢書」東夷列伝倭条が至高の聖典とみて、有り得ない簡牘巻物まで「復元」していますが、不審を抱いている「魏志倭人伝」を棄却する手立てとしては、随分杜撰なやり方です。
 刮目天氏が、三世紀に大日本(大倭)を見る「倭条聖典派」に帰属していないことを望むだけです。

*基本の基本 受け入れがたい真理
 諸兄姉は、「倭人伝」道里行程記事を、正始郡使の調査報告と決め込んでいるようですが、曹魏帝国が大量、高貴な下賜物を送り出すためには、行程概要と所要日数の事前申請と承認/皇帝裁可が、当然、必須の大前提なのです。

 正史は、勝手に書き上げられるものではなく、天子が嘉納した文書の積み重ねの収録なので、先ずは、正始帯方郡使の派遣上奏の際の現地地理報告が先行して、後代の正始帯方郡使の調査報告などは、先行資料の抜け落ちを補完する用途には活用できても、既に公文書となった記事は一切上書きできないので、たいした役には立たないのです。よろしく、ご確認ください。

                  臣隆誠惶誠恐,頓首頓首,死罪死罪。

                                以上

新・私の本棚 秦 政明「三国志」里程論 「市民の古代」 第15集 1/2 三掲

「三国志」における短里・長里混在の論理性 市民の古代研究会編 新泉社 1993年11月刊
 私の見立て ★★★★☆ 古田短里説の限界を示す   2020/02/16 2023/05/09 2024/10/21, 12/08

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

▢総評
 本論の掲載された冊子は、古田武彦師の古代史論に啓発された諸兄が論考を寄せた好著であり、本号まで、氏の最新論説を巻頭に、適確な編集と相まって、赫々たる成果を世に送り出していたものと思います。

 本論は、古田氏提唱の「魏晋朝短里」説、「本説」の論証において、先だって提唱されていた安本美典氏を代表的な提唱者とされていた「地域短里」説の論破を図ったものであり、今日も確たる位置を占めているのです。

 本稿の結論として、本論は、古田氏の本説に対する強い思い込みに影響され、史料解釈を外した強引な論考の「論理性」が破綻していると見られます。

*再掲の弁 2023/05/10
 本記事を、最近閲覧頂いているのに気づいたので、この機会に、補筆し、再掲したものです、趣旨には変更がありません。 

〇序論展開
 氏は、本説の提唱経緯と反論論者との間で展開された論戦を復習していますが、当然ながら、用語、表現が撓んで論議の正確な理解を妨げています。

 まずは、「韓伝・倭人伝に見える短里」としていて、仮説論証の視点をいきなり逸脱しています。また、「いまだに短里を一切認めない守旧派の専門家」を総ぐるみで指弾、排除するのは不当と見えます。守旧派の意見は、里制は国家の制度の根幹であるから、「倭人伝」の「里」が、国家制度の基幹である魏制「里」(周代以来の「普通里」)一/六程度に短く「見えても」、「短里」が公的に施行されていたとは言い切れない』との堅実な議論であり、氏の指摘は感情的で粗暴です。粗暴な意見は、声量が甲高くて、広く響いたとしても、聞き入られることは少ないのです。

 それはさておき、「地域的短里説」は、安本氏が、ほぼ主唱したことから、広く知られ、また、妥当な説として、現に広く深く支持されているものと思われます。一部、通説派が、根拠の無い、感情的な「誇大」「誇張」節にしがみついてるのとは、一線を劃す科学的な議論とみえます。

 本説は、古田氏が、安本氏の提言に触発され、「倭人伝」の道里、里程を解釈する上で必須の作業仮説と認めたことから出発したと見られるものです。但し、古田氏が、里制は、国家制度であり、地域的な限定はありえないとの見解から、「中国全土で里制が変革された」と主張するに至ったため、次第に、里程考察のための作業仮説の域を脱して、魏晋朝の国家体系に拘わる論議となっていて、素人目にも、本来の目的である里程論の解明という目的を踏みにじって、今日に到るも収拾困難な混沌を広げているように見えるものです。

 そして、安本氏も歎いたように、いち早く提示された明確な否定論に対して、古田氏は、遂に、冷静で客観的な理解を示すことができなかったのです。そして、その遺命により、同説は、依然として保持されているのです。
 古田氏没後、古田氏の諸説は、不可侵な「レジェンド」と化し、後生訂正の可能性を排除されていて、まことに勿体ないことです。

*地域的短里説への批判
 秦氏は、当然、古田氏の主張を堅持していて、古田氏の本末転倒と見える主張を裏付ける論法に本質的な批判を課することなく推し進めているのです。

*限定的里制の提案 2024/10/21
 まず、「根本的批判」と称して、地域的短里施行を証する根拠が示されていないと断罪しますが、大きな勘違いを披瀝していて同意できません。「倭人伝」には、「郡から狗邪まで七千里」の「地域里」が明記されています。また、「倭人伝」には、郡から倭への行程記事が収録され、それぞれ付された里数がどのような里長かとの質問に対して、「地域里」を予め示して整合を確保しているのです。「論理性」などと大げさに言うことではありません。「地域里」というと、帯方郡が、漢魏制と異なる独自の里制を敷いていたと断定しているようにみえますが、それは、陳寿が、曹魏公文書に明記されていた「郡から倭まで一万二千里」なる公式記録を、いわば臨時に正当化するために編み出した「地域時代用例限定」の「里」としたものと見えます。結果として、秦代以来、中国全土に適用されていた、いわば「普通」の「普通里」(四百五十㍍程度)のほぼ一/六の七十五㍍程度の「倭人伝里」とみえる「地域里」が、「倭人伝」限りで最小限に適用されていたものと見えます。と言うのは、倭人伝に先行している
韓伝以前の東夷伝には、遡行して適用されているとはみえないのです。と言うのは、正史購読は、順次注目している「視点」が、一方向に移動するものであるから、「郡から狗邪まで七千里」の定義が、それ以前の記事に適用されることは、有り得ないのです。そして、「倭人伝」は、魏志全三十巻の巻末なので、以後の適用は考える必要がないのです。
 このような限定的な用語定義は、コンピュータープログラミングの世界では、Local、ないしは、Privateとして、規定することができ、文書全体に適用される暗黙のGlobalとは別の性質であることが明示されるのですが、それは、別に現代になって発明されたものではなく、古来、法律や契約の文書において「定義」Definitionとして行われていたものであり、三世紀に至る古代の史官には常識であったが、二千年後生の無教養な東夷には、素直に理解できないものと危惧しているものです。

 字数からも意義からも、陳寿「三国志」の中でも、編纂方針が一貫していると見られる「魏志」全体に対して、「倭人伝」は取るに足りない瑣末と見られますから、「倭人伝」記事の「地域里」をもって、魏の全体里制を示すと見るのは本末転倒です史官は、「郡から倭まで万二千里」として既定のものになっていた「倭人伝里」と「普通里」の輻輳を懸念して「地域里」を宣言していると見るべきです。
 陳寿は、当時最高の史官であり、「倭人伝」の編纂には、字数相当を遥かに超えた随分の労力と知力を注いで、「倭人伝」里と普通里の両立が保証される筆法を確立したとみるべきです。一部で固執されている「誇張」「誇大」論議は、後世、児戯に類すると言われかねないので、目だたないように撤回されることをお勧めするところですが、NHKBSの古代史番組などで高言されているのは、言わば、不滅にして周知の失言なので、どのようにして撤回されるのか、他人事ながら憂慮しているものです。

                                未完

新・私の本棚 秦 政明「三国志」里程論 「市民の古代」 第15集 2/2 三掲

「三国志」における短里・長里混在の論理性 市民の古代研究会編 新泉社 1993年11月刊
 私の見立て ★★★★☆ 古田短里説の限界を示す   2020/02/16 2023/05/09 2024/10/21

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*「受命改制」の政治思想
 ここで、秦氏は、里制は、国家制度の一部であり、「受命改制」の制詔に応じて、自動的に改変されたとしています。しかし、いずれの制詔記事を見ても、里長が(大幅に)改変された記事は見当たりません。

 里制は、国家制度の根幹であり、拠点間道里の単位にとどまらず、土地所有制度で常に参照される面積単位である「畝」に連動していて、里を一/六に短縮すれば、土地台帳の全面書き換えが必要なのです。そして、台帳の一/六換算は、当時の実務上の計算手段では、不可能です。いや、計算不能を脇に置いても、計算結果に小数端数が必然的に発生し、土地台帳書換は、国家として実施不能、亡国の失政ですが、そのような記録は一切ないのです。
 仮に、「受命改制」の号令が発せられたとしても、全国各地で、実務を行うためには、具体的な指令が必要であり、それは、そもそも、厖大な字数を費やす上に、全国に布令するためには、多数の地点に発令されねばなりません。つまり、厖大な公文書が発信され、結果として、各地の土地台帳が改訂されるため、それに要する文書は、厖大ですから、何の跡も残さないはずはないのです。

 思うに、「受命改制」の大概をなしている国家儀礼の変更は、専門家を動員し、国費を費消することにより実施できても、国家の基盤を成している土地制度改変は、国家制度に危殆を及ぼすこと無くしては不可能です。まして、仮に全国の全土地の台帳記載を書き替えられたとしても、当該農地への課税は変えられないので、農民に対して、税率の説明が付かないのです。そして、そのような制度改定は、国庫に対して何の恩恵もないのです。

 色々不審な点を述べましたが、このように実務を伴う制度改定が、何の形跡も残さなかったと主張するなら、どのようにして、そのような制度改定が為されたか、理路整然と論証する義務が、古田氏に発生していたのです。
 
*秦制の考察
 ここで、秦始皇帝の制詔が例挙されますが、合理的な解釈では、それまで各国で異なっていた諸制度を廃し、秦制度を厳格に敷衍するという宣言であり、貨幣制、度量衡も、秦制の徹底と見るべきです。秦が長年行ってきた諸制度を廃棄して秦制度に変革するのは、自身「法令」を悉く書き替える難題になり不合理なのです。
 秦制を他国に敷衍したのであれば、自国内制度は維持するので、官員を割いて諸国に派遣し、厳格に徹底すれば良いのです。

 ただし、各国においては、旧来諸制度が撤廃され、官民もろとも多大な努力で秦制に適合する桎梏に喘ぎ、それ故に、二世皇帝の治下、諸国で大規模な反乱が相次いだと見られるのです。確かに、軍縮により多数の常備軍が撤廃されて、厖大な失業軍人を吸収するのに、寿稜造成という名の雇用創出政策しかなかったとしても、思うに、このような大規模な反乱は、土地制度の改変による増税に対する農民層の不満が、初因と思われるのです。

 それはさておき、全国的な土地制度改変が、大規模な反乱決起に到るということは、後代の諸統治者に知られていましたから、そのような「改制」は、なかったと見るべきです。

〇総評
 秦氏が多大な労力を投じた史料考察は、空を切っています。『「三国志」における短里・長里混在の論理性』は、早合点の誤解です。
 本来、「地域短里」は、全国里制、「普通里」がいかなるものか、一切主張していないのを見逃しているのです。「地域短里」は、『「魏志」の特定部位で限定的に有効』という意味での「地域」であり、地理的な概念を指しているのではないのです。そして、「倭人伝」道里の解明と言う「地域」内の議論に有効との端的な主張だけであり、これを論破することに、史学論としての意義はないのです。

〇まとめ
 以上、秦氏の論考が、古田氏の論説の短所を補強しようとしたため、大変無理なこじつけを行っていることの指摘です。

 本記事公刊以来、長い年月が経過していますが、「魏晋朝短里」説、と言うか、「三国志統一里制」説が収束/終焉していないのは誠に残念です。今や、秦氏自身が、「いまだに地域短里を一切認めない守旧派の専門家」とされているのではないかと危惧するのです。

                               以上

2024年10月20日 (日)

私の本棚 番外 奥野 正男「ヤマト王権は広域統一国家ではなかった」再掲

  奥野正男     JICC出版局 1992年
私の見立て★★★☆☆        2017/05/04 2024/10/20

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*密かな正論
 本書に関して、個人的な感想を、刊行後25年を経ている現時点でことさらに申し立てるのは、端的に言えば、当ブログ筆者がこれまで国内古代史に関して不審に思っている点に、とうの昔に鋭く異議を唱えているのに共感するからである。

*銅鏡配布論批判
 著者は、1990年代初頭の学会定説に従い、「三角縁神獣鏡」が魏鏡との仮定に基づいているが、それでも、当時小林行雄氏の創唱した「山城椿井大塚山古墳の被葬者が、ヤマト王権の配下で王権が支配する各地の首長(大人/大夫)に銅鏡を配布していた」とする説に強く反論している点に共感するものである。要するに、「銅鏡配送業者の手許在庫なので、副葬されている銅鏡の数が格段に多い」とする「卓見」に同意していないのである。
 考古学の成果である発掘物の考証を「日本書紀」の著述に合わせて解釈させることに、史学として早計ではないかと疑念を呈しているとも言える。

*墳墓規模論批判
 また、現在の堺-古市-巻向の各地に配置されている大規模墳墓が、(同時代)「ヤマト」の支配者であった天皇家の墳墓であり、その権力が広く喧伝されていて、世に卓越していたことを、それぞれの墳墓の規模で表していた」とする「俗説」にも、的確な反論を加えている。

 当方は、「遺跡、遺物は、今も、厳としてそこにある」が、『その解釈を「日本書紀」の著述に合わせて案配させることは、史学として疑問がある』という見方と思うのである。つまり、史学会の良識として伝えられているように、考古学成果を文献解釈に沿わせて解釈する際には、安易な前提、安易な図式の適用を、極力避けねばならないと感じるのである。

 素人考えでは、現代学識において「心地良い」風説は、それだけ、史実を離れている可能性が高いと見えるのであるが、どうであろうか。

*学問の王道
 以上の批判は、考古学の手法に従い、各地の遺跡とそこから発掘された遺物の精査に基づく主張であるから、所謂「通説」「定説」なる通俗的な見解に反するからと言って、軽々しく退けられるべきものでないのは言うまでも無い。学会の衆智を求めて、広く議論すべきなのである。それが、王道というものである

*共感と尊敬
 こうした批判は、当ブログ筆者が、各種著作に基づいて推論を試みているのとは、主張の方向が似ていても、その次元は大いに異なるのである。(当方のレベルが低いのである)
 わざわざ言うのもヤボであるが、近来の野次馬読者の読みかじりで言いがかりを付けられると困るので念押しすると、大いに見あげているのである。当方は、素人の稚拙な(卑下しているのであって、別に卑屈になっているのではない)思考の過程で、奥野氏の高度で堅実な論考と似通った意見を、独自に提示したことに個人的な満足を感じるのみである。

*「定説」の壁慨嘆
 それにしても、このような卓説を知らないままに自説を言い立てる不遜な輩(やから)は、軽重小大は問わず賑やかで、姦(かしま)しいと言いたくなるほどであるが、表現の適否はともかくとして、かくかくたる正論が、論拠が確立されていながら、論議されることなく、「定説の壁」に阻まれて世に広まらないことを嘆くものである。

 もちろん、世上溢れている論拠の無い「思いつき」まで、ことごとく衆議すべきだというものでは無い。そこの所は、よくよく、見極めて欲しいものである。

以上

 追記:当記事に対して、思いがけず閲覧者があったので、再確認したが、特に意見に変わりはないので、再掲した。
    但し、当ブログの守備範囲である。「倭人伝」論議を外れているので、「番外」と付題した。他意はない。

2024年10月19日 (土)

15. 事鬼道 「鬼」とは何だったのか 再考

                                                         2014-10-24 18:30:00 2024/10/19, 12/08

*加筆再掲の弁
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◯始めに
 ずいぶん久しぶりですが、「倭人傳」談義の補足です。単なる思いつきですので、信用しないでください。

 「事鬼道能惑衆」
 卑彌呼自身の行いとして知られているのは、此の六文字です。
 しかし、陳壽がこの六文字に潜ませた真意はどうだったのでしょうか。倭人(委)の鬼とは何か、と深読みして、陳壽の謎を解いてみました。
 委(倭)の鬼、つまり、委鬼は、でしょう。と言うことで、こう読みなおしたものです。

 事魏、道能、惑衆。
 魏に事え、道をなし(能)、衆を率(惑)いた。
 極限まで文字を切り詰めた陳壽の漢文は、句読点の付け方で、大きく読み取れる意味が変わってくるものです。これもまた、素人考えながら、面白い一案と見て頂ければ幸いです。

 卑弥呼は、遣使に先駆けて、公孫氏健在の時点から、いち早く、魏に通じていたと言うことでしょうか。
 遙か遠隔の東夷でありながら、魏の威光に親しんで倭國を治めたことへの賞賛ながら、魏の禅譲を受けた司馬氏の晋朝では、余りに曹魏を称える筆致は避けたのでしょうか。

 一「女子」に男王の「外孫」の意を潜ませたとの解読に因んで、遅ればせながら、一ひねりしたものです。

以上

倭人伝随想 新6 倭人への道はるか 海を行かない話 1/7

2018/12/05 2018/12/07 2019/01/29 追記 2020/11/15 2022/01/16 2022/03/14~17 2024/10/19

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〇魏志「倭人伝」道里記事考察
 当記事は、魏志「倭人伝」冒頭の郡を発して倭に至る「従郡至倭」の行程は海を行かない』という話です。(狗邪から対海への「水行」を始めとする計三千里の「渡海」は除きます。当初、魏使の行程と書いていましたが、紛らわしいので、「倭人伝」の表現に戻しました 2022/03)

 当ブログは、世上の「倭人伝」論議に珍しく、後代史料に、いきなりかぶりつかずに、まず、史料批判/品定めしています。「倭人伝」解釈に後代資料を援用するのには慎重ですが、それは、「頭から信用はしない」と言うだけで、厳格な史料批判によって丁寧に裏付けを取ってから援用することまでは避けていないのです。(2020/11/15)
            現代中国語で「公里」は㌖です。古代の「里」と連動はしていません。

〇間奏曲 隋書・唐書
 「倭人伝」の後世史書の里程談義が、今回の「枕」です。
 「隋書」「俀国伝」は、其の国は百済・新羅から水陸三千里とします。古田武彦氏は、千里は新羅南端と倭北端の渡海とします。「古代は輝いていた Ⅲ」(ミネルヴァ書房刊)
 率直なところ、時に見られる『新羅南端と倭北端間の「道のり」』という解釈は、道里記事の常道に反しています。ここは、『新羅王の居城「慶州」と倭王の居処』の間の道里でなくてはならないのです。北端は、当然「対馬」であり、渡海行程の「道里」を知ることはできないのです。
 要するに、隋書「俀国伝」の筆者は、陳寿「三国志」「魏志」「倭人伝」道里記事の筆法を理解できなかったのです。そのような無法な記事は、参考にしかならないと考えるべきです。
 「舊唐書」は、隋書「俀国伝」水陸三千里を書かず、「倭は京師を去る一万四千里」としています。こちらも、陳寿「三国志」「魏志」「倭人伝」道里記事の筆法を理解できていなかったのです。
 「倭人伝」里程を維持したのか、「倭人」王城をどこに見たのか微妙なところです。

 と言うことで、本題では、以下、明確な史料を探すことにします。と言っても、「隋書」、「舊唐書」、「新唐書」は、いずれも、「地理志」を備えているので、まずは、信頼すべき史料とみて、内容を確認するわけです。
 言い足すと、これらは、別に、三世紀帯方郡の公式道里を論じているのではなく、隋唐代の公式経路の公式里程を述べているものです。

〇新唐書地理志 入四夷之路
 「新唐書」「地理志」によれば、天寶年間、玄宗皇帝が、諸蕃との交通を差配していた鴻廬卿に対して、多数の蕃国の所在と道里の実情を、余さず調査報告せよと指示したため、国を挙げて実態調査を行ったようです。

 「日本」国は絶海の地で交通がなく、東夷の最果てとして、新羅慶州(キョンジュ)が報告されています。平壌、丸都の高麗故都も、調査報告されています。この時代、往年の高句麗(高麗)のあとに、「渤海」国が半島中南部の新羅と南北対峙し、東夷の北端渤海国王城も、登場しています。
 なお、これら記事の精査、図示などは、手に余るのでご辞退申し上げます。

 追記:実態調査とは、鴻廬卿の手元にある「公式行程道里」が秦代以来の交通路を辿っていて、実際の行程道里とは異なると、皇帝の耳に届いたので、実際の行程を調べよと命じたものでしょう。まことに厖大な努力の成果と思われますから、空前絶後と言っていいでしょう。郡から倭まで一万二千里などと言う夢物語は、このあたりで鴻廬寺の記録から消えたと言う事でしょうか。もちろん、帝国書庫に鎮座している正史の訂正、改竄は、あり得ないのです。(2020/11/15)

*入四夷之路與關戍走集
 唐置羈縻諸州,皆傍塞外,或寓名於夷落。而四夷之與中國通者甚眾,若將臣之所征討,敕使之所慰賜,宜有以記其所從出。天寶中,玄宗問諸蕃國遠近,鴻臚卿王忠嗣以《西域圖》對,才十數國。其後貞元宰相賈耽考方域道里之數最詳,從邊州入四夷,通譯於鴻臚者,莫不畢紀。其入四夷之路與關戍走集最要者七:一曰營州入安東道,二曰登州海行入高麗渤海道,三曰夏州塞外通大同雲中道,四曰中受降城入回鶻道,五曰安西入西域道,六曰安南通天竺道,七曰廣州通海夷道。其山川聚落,封略遠近,皆概舉其目。州縣有名而前所不錄者,或夷狄所自名雲。

                                未完

倭人伝随想 新6 倭人への道はるか 海を行かない話 2/7

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〇新唐書地理志 入四夷之路(承前)
 四夷に至る路は七路に大分され、東夷は、一「營州入安東道」により往年の遼東郡に近い渤海湾岸営州から安東府を経るか、二「登州海行入高麗渤海道」により山東半島登州から渡海し、「高麗」即ち「高句麗」の旧地と新興「渤海」(地理的な「渤海」でなく、高句麗の後継として「新羅」と半島を南北二分した新勢力)などへの経路を経るかいずれかで、以下に引用しますが、全て、現地調査済みの具体的経路と里数です。

*營州入安東道
 營州西北百里曰松陘嶺,其西奚,其東契丹。距營州北四百里至湟水。營州東百八十里至燕郡城。又經汝羅守捉,渡遼水至安東都護府五百里。府,故漢襄平城也。東南至平壤城八百里;西南至都里海口六百里;西至建安城三百里,故中郭縣也;南至鴨淥江北泊汋城七百里,故安平縣也。自都護府東北經古蓋牟、新城,又經渤海長嶺府,千五百里至渤海王城,城臨忽汗海,其西南三十里有古肅慎城,其北經德理鎮,至南黑水靺鞨千里。

*登州海行入高麗渤海道
 登州東北海行,過大謝島、龜歆島、末島、烏湖島三百里。北渡烏湖海,至馬石山東之都里鎮二百里。東傍海壖,過青泥浦、桃花浦、杏花浦、石人汪、橐駝灣、烏骨江八百里。
 乃南傍海壖,過烏牧島、浿江口、椒島,得新羅西北之長口鎮。又過秦王石橋、麻田島、古寺島、得物島(。)千里[。]
[自](至)鴨淥江唐恩浦口。乃東南陸行,七百里至新羅王城。
 自鴨淥江口舟行百餘里,乃小舫溯流東北三十里至泊汋口,得渤海之境。又溯流五百里,至丸都縣城,故高麗王都。又東北溯流二百里,至神州。又陸行四百里,至顯州,天寶中王所都。又正北如東六百里,至渤海王城。

 鴨緑江河口部を去る一千里の唐恩浦口(仁川広域市 インチョン 旧京畿道)から新羅王城(慶州 キョンジュ)まで東南陸行七百里ですこれは、唐代玄宗期に確定された官路里程です。

 発進地である登州府は、山東半島を管轄した登州の「府」であり、半島北端に位置しました。西は渤海湾沿岸、北は半島沿岸、東/南は、郎邪から南に江東を経て、広州から南海に至るようです。
 登州から遼東半島への経路は、渤海列島に恵まれ、最初、春秋齊によって確立されたと思われます。後年、南の平壌(ピョンヤン)、漢城(ソウル)付近が良港と評価され、航行が活発になったようですが、半島西南部は見えません。

 山東半島の東の最果ての岬「成山角」には、始皇帝や徐福が訪れたという「記録」が残っています。それにしても、目前の海中の巨大な山島を無視して、徐福は、どこへ行ったのでしょうか。

 「唐書」は、「倭人伝」と大巾に時代が違うので、海船による移動を「海行」と明記し、以下、「過」「大謝島」などと通過地を列記した後「得…長口鎮」などと到着地と里程を記しています。中継地は公式経路の海港と言うことです。
 当然、『河川を行く「水行」』などはなく、河川航行する場合は「溯流し至る」などとしています。つまり、黄海を河川と見立てて、南北に航行する行程は、古来、存在しなかったのです。まして、『河川を行く「水行」』は、「倭人伝」以前では、『河川を渉る』行程であり、河川を川の流れに沿って、あるいは、遡って航行する行程ではなかったのです。

 つまり、仁川(インチョン)付近唐恩浦口から新羅王城までは、東南陸行七百里であり、世上誤解されているような「沿岸航行」する行程は、史上存在しなかったのです。

 唐恩浦口から新羅王城までは、帯方郡以来の公式街道であり、道里を、当然「道のり」と見て現代地図で推定すると、小白山(ソベクサン)を竹嶺(チュンニョン)で越えて七百里(普通里四百五十㍍)程度と見ると、かなり大雑把な概算で三百五十公里(㌖)程度と思われます。(訂正 2020/11/15)

 追記:「海行」は、山東半島登州から半島の対岸への「渡船」であって、単に、海を行くとの意味です。街道行程などではありませんが、最終的に三百里と総括されていますから、唐代の道里観は、三世紀以降の風雪によって変化していたのでしょう。(2020/11/15)

 追記:「鴨淥江唐恩浦口」は、前後関係から見て「自鴨淥江唐恩浦口」の誤写と見えます。登州から渤海王城に至る報告の傍路として挿入されているものと思われることから鴨淥江唐恩浦口から新羅慶州まで七百里と解します。(2022/10/02 一部改訂)

                                未完


倭人伝随想 新6 倭人への道はるか 海を行かない話 3/7

2018/12/05~07 2019/01/29 追記 2020/11/15 2022/01/16 2022/03/14~17 2024/05/11, 10/19

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〇新唐書地理志 入四夷之路(承前)
 いずれにしろ、鴨緑江口からの海行千里は、報告者の実測でなく、現地人の報告に基づく大雑把な推定であっても、慶州への陸行七百里は、官道として長年の実績があり、実務に基づく正確なものと見るべきです。但し、郡から狗邪まで七千里とした倭人伝「道里」は、この陸行里数とは別次元の里数ですから、「混ぜてはならない」危険なものなのです。

 実際に登州から新羅王城に赴く際は、鴨淥江河口部経由の海行一千里の大回りでなく、別資料に登場する唐津(タンジン)に直行したと見受けます。同経路は、新羅と青州の間の交易船の航路でもあります。

 慈覚大師円仁の残した「入唐巡礼行記」には、登州に「新羅館」なる新羅在外公館が設けられていたと記録されていますから、隋代から当時に至るまで、ここは新羅の仕立てた便船が往復する主経路だったのです。日本の遣唐使も、新羅との友好関係が維持されていたら、半島内陸行、海峡渡船、大陸内陸行という、安全そのもので、かつ、迅速な経路が利用できたはずです。

 ここまでに検討した唐代玄宗期の官制経路と里程は、過去に遡って推定可能な堂々たる「史実」です。この行程が、次項に登場する新羅遣唐使経路になったのは、古来、新羅街道として、郵亭、宿駅が整備され常用されていたからと思われます。新羅遣唐使の永川から忠州を経た海港への経路も、楽浪/帯方郡時代からの常用と思われます。

 新羅遣唐使は、総じて二百餘次に及び、国内経路は、従って、使節宿舎を含め一級官道整備されていたと思われ、従って、対岸の登州には新羅館もあったのです。

〇新羅遣唐使研究~従郡至狗邪韓国の推定
 一方、次ページの専修大学東アジア世界史研究センターの「新羅遣唐使研究」によると、王都慶州(キョンジュ)から中国登州へは、まず、慶北永川(ヨンチョン)骨火館に入り北上、忠北忠州(チュンジュ)褥突駅に至り、ここから、西岸海港に至り、登州に渡海します。
 伝統的な「行程」観では、慶州を発して、登州から街道を経た京師長安までの径路は、一貫して街道道里であり、途中に、渡し船の繋ぎが入るのは、たとえば、河水を渡船で渉るのと同様であり、道里記事には書かないのです。そして街道を行くのは、当然なので、わざわざ「陸行」等と筆を汚さないのです。それが、周代以来の伝統的な「行程」観なのです。
 忠州から、南漢江を漢城(ソウル)方面に辿る西北行と忠北清州(チョンジュ)から忠南牙山(アサン)への西行があります。どちらも新羅内七百里です。当ブログで常用の「普通里」概数である一里四百五十㍍で、現代単位では300公里(㌔㍍)となります。

*「倭人伝」道里記事考証
⑴魏使来貢 行程考証
 魏使が、登州から渡海して牙山に到来したとすると、上陸後は、東行して清州を経て、竹嶺(チュンニョン)鞍部で小白山(ソベクサン)分水嶺を越え、洛東江上流忠州から洛東江沿いの陸行南下が、往年の狗邪までの常道と見えます。
 「倭人伝」の道里行程記事は、遅くとも、曹魏明帝の遺詔に従い多くの下賜物を倭に届ける大事業の立案に先立ち、行程径路、経由地と所要日数が明らかでなければならないので、皇帝の手元には、記事が届いていたと見えます。つまり、郡から倭までの行程が万二千里であるという公孫氏起案の公称道里は残っていたものの、実際は、「大河ならぬ大海を渡船で渡る水行十日」を除く「本体部分」が一月という都合四十日の所要期間が知れていたので、魏使一同は、荷運び役ともども、帯方郡関係者に荷物を引き継ぐことができたのです。
 ということで、来貢した魏使の帰国後の報告は、多少書き足されたにしても、「倭人伝」の道里行程記事の主要部は、既に、皇帝の承認を得て確定していたのです。

⑵帯方郡官道 行程考証
 「従郡至狗邪韓国」として、帯方郡を発する街道/官道は、まずは東行して 北漢江上流に至り、 北漢江沿いの街道を陸行し、あるいは、一策として、既に川船往来便が確定していたとすれば、流れに沿ってすらすらと下行し、南漢江との合流部から、大勢の曳き手に助けられて遡行して、高度を稼ぎつつ南漢江中游(中流)の要地清州で合流したと見えます。
 ここで肝心なのは、古代中国語で、河川を、流れに従って、あるいは、逆らって上下するのを「水行」と言わないのです。「水行」は、あくまで、渡し船で渡ること(水行渉水:「水行」は、街道陸行の途次にあって、渡船で「水」を渉ることである)を言うのです。つまり、川船を利用したとしても、あくまで、並行する街道を、馬車ないしは騎馬で行くのが、公式行程だったのです。

⑶清州狗邪韓国官道 行程考証
 清州から狗邪韓国に至る経路は、帯方郡視点では自明であったので、「韓伝」ならぬ「倭人伝」は「歴韓国」にとどめたものと見ます。
 韓伝に書かれた当時の「国」は、街道の要点を隔壁で囲った聚落城市であって、街道を経由するには、各国の国主に過所(通行証)を呈示し、持ち物に課税されて、取り分を渡した後、次の「国」に向かうことになるのです。もちろん、魏使、ないしは、郡使は、官命で移動しているので、課税されることはないのですが、それにしても、過所を提示する必要があるのです。それが、歴韓国の意味です。

 このように、清州(チョンジュ)は、河川、街道交通の要所にあったことを反映したものと見えます。つまり、街道沿いに郵亭、宿場が繁栄し、要所の宿駅には、市(いち)が常設され、後に統一新羅繁栄の根幹、基礎となったと見えます。往年の僻地「嶺東」が、百済旧地を抑えていた時代です。
 いや、「繁栄」というのは、嶺東の地域相場であり、市場に並ぶ売り手が、常設の小屋を構えて生計を立てていたのか、市の立つ朝に、藁茣蓙でも敷いて品揃えして商売し、午後には引き払っていたのか、想像するしかないのです。世間には、この時代に、「都市」が形成されていたと白日夢に耽る方がいらっしゃるのですが、当時は、地道な者達がたむろした市の並びがあっただけであり、石積みであろうと土壁であろうと木の壁であろうと、屋根と壁のある家並みは、影も形もなかったと思われるのです。

 当時、「都市」と言う言葉があっても、それは、市場(いちば)主催者の役職であり、商工業者の住まう大きな「まち」というものではなかったのです。

                                未完

倭人伝随想 新6 倭人への道はるか 海を行かない話 4/7

2018/12/05~07 2019/01/29 追記 2020/11/15 2022/01/16 2022/03/14~17 2024/05/11, 10/19

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇新羅遣唐使研究~従郡至狗邪韓国の推定(承前)
 半島西岸の海港は、南下した高句麗が、百済との紛争に勝利して百済を南方に追いやり、一度は中国への海港として確保したものの、嶺東、つまり、半島東南部から興隆した新羅に海港を奪われ、果ては、中国との交流を深めた新羅に半島統一の大命が下って、高句麗は、百済共々亡国となったのです。
 ということで、この海港は、長年に亘り、半島西岸から山東半島への渡海の要であり、新羅からの官道として確立されていのです。
 一部史料に、新羅から、半島南岸、西岸を経て、中国に渡る経路が(誤って)図示されていることがありますが、それは、確立された街道による内陸公路新羅官道を知らずに、風評と願望に支えられた傍線航路を過大評価した作図者の大いなる勘違いであり、まことに無責任なホラ話なので、同列に見るべきではないのです。

〇遣唐使「新羅道」談義~余談
 初期の第三次遣唐使は、対馬から海を越えて慶州に入り、以下、新羅道(しらぎみち)を通ったと、日本書紀に明記されているということなので、半島内は新羅官道を通り新羅の宿駅のお世話になったものと思えます。
 多分、その時期、両国は友好関係で、新羅遣唐使に随行して官道の諸関所を楽々通過し、最後に新羅の官船に便乗できたはずです。新羅道は、内陸だけでなく、登州への渡海も含めて、新羅が管理していた経路という事です。

 官道宿舎の寝床は嵐で揺れず、新羅貴人のご相伴で、地域の新鮮な食事を愉しんだと思えます。渡海は、そこそこ大型の帆船による渡船行程であり、手慣れた運用に身を委ね、手短で難破の危険もなく、ゆったりした船室であり、揺れで転げ回ることもなく、後の遣唐使の苦難を思うと、夢のようなものだったでしょう。
 後年両国関係が険悪になってからは、そのような厚遇は受けられず、自前で「大船」を造船して、東シナ海越えに挑み、半数が難船となる難関とせざるを得なくなったものと解されます。こうして回顧すると、当時、新羅との間に「外交」関係は維持されていなかったものと見られます。(2020/11/15)

 因みに、対馬、壱岐、筑紫を歴る渡来は、魏代以来の手慣れた経路でした。

*「仮想」魏使航海記~余談
 因みに、倭人伝」談義で起用される思いつきの「作業仮説」で、三世紀に仮想されている魏使一行の沿岸航行の手漕ぎ船は、漕ぎ手の負担を軽減するために随分小型なものであって、旅人も荷物も、甲板や船室のない筏同然の渡し舟で吹きさらしであり、いくら、後年の大渡海に比べると波穏やかであっても、所詮、海が荒れているときは、小船で動揺が激しく、おちおち座っていられない、すさまじいものだったはずです。

 当然、船上泊はできないので、日々下船して休養し、乗り継ぎ、漕ぎ継ぎで、長旅となったものと仮想されます。いや、乗り継ぎであれば、船員、漕ぎ手は交替するのですが、旅人、行人は、公務で船賃はいらないものの、延々と乗りっぱなしで、道中、生きた心地がしなかったはずです。

 もちろん、大抵の中原官人は「金槌」の船酔いで、果てしない苦行であり、生死の境を行くものだったかも知れません。後世の論者は、別に実体験を迫られたわけではないので、平然と「仮想」していますが、当時の使者の視点で事態を眺めると、このような「仮想」は、数日と続かないで破綻すると見えます。

 言い足すと、「仮想」魏使は、貴重で厖大な宝物と同行であり、一体、何十艘仕立てで潮風吹きさらしの闇路を進んでいたのか、気の毒です。荷物は、一応、潮風に対して覆ったとしても、防水完璧の筈はなく、波しぶきのもたらした塩粒まみれと思われ、大丈夫だったでしょうか。

 いや、以上は、実行不可能であったことを言うための余談であり、やればできたと言うものではない、事のついでです。(2022/03/17)

                                未完

倭人伝随想 新6 倭人への道はるか 海を行かない話 5/7

2018/12/05~07 2019/01/29 追記 2020/11/15 2022/01/16 2022/03/14~17 2024/05/11, 10/18

*加筆再掲の弁
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〇「新唐書」地理志 再論
 「新唐書」地理志に見られる鴨淥江河口部を去ること一千里の仁川(インチョン)付近の海港唐恩浦口から新羅王都までの陸行七百里は、最長経路とみると、平壌(ピョンヤン)、漢城(ソウル)、清州(チョンジュ)、常州(チュンジュ)を官道で歴たとも見られます。端的な経路は、唐津(タンジン)から清州(チョンジュ)、常州(チュンジュ)を経由して、小白山地を越えたと見えます。

 経由地と思われる各地は、古来、水陸交通の便を得た要地であり、現代にも、往年の韓国諸国の王城が継がれていると思います。韓国国内地図が漢字表記でなくなった現在、韓国地名の漢字検索は困難で推測に止めますが、あくまで半島内陸行であり、これら要地を経ることのない沿岸航行ではないのは明瞭です。
 隋唐代の裴世清や高表仁の来訪は、恐らく山東半島海港から大型の帆船であり、裴世清の泗沘訪問を除き無寄港に近いと見えるので、先に挙げた官道行程とは別の話です。混同しないようにお願いします。(2020/11/15)

 因みに、韓国地名に冠した忠北、忠南、慶北は、それぞれ、忠清北道、忠清南道、慶尚北道の略称として通用しているものです。

〇半島内行程結論
 正史蛮夷伝である「倭人伝」冒頭に記録され、皇帝の承認を得た、郡から「倭人」に到る公式行程は、公式行程の基準に従い記述されていて、例外としてあえて「水行」と定義した「渡海」以外は、一切、海を行かなかったのです。
 くどいようですが、「水行」は、河川を渡船で渉(わた)る事を言うのであり、河川の流れに沿って上り下りいるものではないのです。「倭人伝」では、行程上、「大海」を渡船で渉る以外に手段がなかったので、後ほど、天下公認されている「渡船」で、大河になぞらえた大海を渡ると予告したものであり、いきなり、突然、藪から棒に、「大海」ならぬ得体の知れぬ「海」を渉ることはなかったのです。あえて言い訳すると、あえて「現実に」囚われて、そのようにして「海」を渡ることにすると、対岸の青州東莱に着いてしまうので、一生倭に着くことはないのです。これで納得していただけるでしょうか。

 航海術が格段に進歩したと思われる統一新羅時代(CE668-900頃)に遣唐使が半島内を陸行したからには、「倭人伝」の帯方郡時代(三世紀前半)も、当然、半島陸行が、唯一最善の経路であったと見るべきでしょう。なにしろ、太古以来、官道に「水行」は存在しなかったので、わざわざ「陸行」と言うことはなく、陳寿は、「倭人伝」に限り、三度の渡海を「水行」と称すると、但し書きする必要に迫られたのです。
 魏の当時も、隋、初唐期も、「倭」に到る公式経路は、帯方郡時代の官道を利用して狗邪韓国の旧地まで進み渡海するのであり、沿岸航行など、到底、到底あり得なかったのです。

*行程不明解の理由を推測
 「倭人伝」原資料を帯方話で書いた魏使提出資料は、帯方郡の報告文献なので、内陸行、各国歴訪顛末を、所要日数、移動距離と共に逐一書いたでしょうが、洛陽では、些末として省略され「乍南乍東」と減縮されたのでしょう。 このように、地理観、交通観の異なる両者の意向が合わず、まことにちぐはぐですが、語彙も文体観も違うから仕方ないのです。
 目下の最終読者は、二千年後生の無教養な東夷」である現代日本人であるので、更なる誤解は避けられず、さらには、古手の「日本人」が理解に苦しむ「当世若者言葉」の世界なので、何をか言わんやです。

追記:
〇事の発端 2022/01/16
 以上は、初出時の道里観でまとめたもので、今回、いろいろと編集したものの、目下の意見と異なる点があることをご理解ください。

 復習すると、「倭人伝」冒頭部の道里行程記事の主要部は、魏使訪問以前に書かれたと見えます。つまり、倭人を鴻臚の四夷「台帳」に登録する際に、必要項目として、国名、王名、王城名、道里、戸数などが必須であったので、倭人の申告を参考に上申したと見えます。地域概念図(旧圖)まで出したかも知れません。
 魏使派遣の際、行程概要を皇帝に事前上程する必要があり、既に記帳されていた全行程「万二千里」は、郡から狗邪韓国まで七千里、三度の渡海水行が計三千里とする事で理屈づけていて、所要日数としては、四十日程度と報告していたはずです。
 正史蛮夷伝である「倭人伝」に、現在伝わるように書かれているのは、帝国公文書にそのように記録されていたからであって、「倭人伝」編纂に際して、陳寿が、改竄したものではないのは明らかです。一部に、禍々(まがまが)しく語られている陳寿曲筆説が、見当違いの勘違いであることは明らかです。
 「俗論」派の方の好む「俗な表現」にすると「出張期間が不明では出張承認が下りない」ので、明帝没後とは言え「倭人王治まで万二千里は、『周制』に倣った僻遠の荒地を示す形式的なものである」、「所要期間は、片道四十日程度である」と言う事情は、関係者に通じていたとみるのです。
 そうでなければ、「魏志」を上程しようにも、「倭人」道里万二千里が法外な誇張と指摘されて、「倭人伝」は没になっていたはずです。ここは、ちゃんと、関係者に根回しした上の「芸術的表現」だったとみるのです。

                                未完

倭人伝随想 新6 倭人への道はるか 海を行かない話 6/7

2018/12/05~07 2019/01/29 追記 2020/11/15 2022/01/16 2022/03/14~17 2024/05/11. 10/19

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*「所要日数」談義~半分余談 2022/03/17
 ここで念押しすると、魏使として東夷の王城に派遣されるからには、「倭人」に至る「全里数」と「所要日数」は、派遣に先立って皇帝の目に届いていたに違いないのです。
 景初初頭に皇帝直轄に回収された帯方郡新任太守の趣旨としては、赴任当初に報告した「全里数」は、道中の行程里数ではなく、太古以来の伝統的書法に従い、天子の権威がかくも遠隔の地に届いているという表明だったのですが、結果として、里数が一人歩きして、途方もない遠隔地と(明帝曹叡に)理解/誤解されてしまったのです。
 慌てて、「所要日数」を示し、魏使が数ヵ月の日程で往還できる程度のものと訂正を図ったのですが、何しろ、「全里数」は、先帝明帝の御覧を経て、帝紀に記されてしまったので、書き換えすることができなかったという推定です。

 魏使出発の正始初頭、皇帝は新帝曹芳であり、先帝の詔は堅持するものの、本質的に、帯方郡以降は所要期間往復八十日の派遣と離解した上での勅命であり、片道万二千里の往還行程とは見ていなかったのです。

 街道、宿場の整備された魏の圏内でも,移動手段は、馬車、騎馬などであり、その前提で、一日の行程は、五十里が標準/必達ですから、片道「万二千里」は、片道「二百四十日」の途方も無い遠路と推定されるであり、往復、ほぼ五百日、一年半を要すると推定されるので、とても、大量の下賜物を抱えてたどり着ける場所ではないのは、誰の目にも明らかだったのです。いや、「所要日数」は、身軽な「文書使」が、騎馬で余裕を持って達成できる/しなければならない「標準/必達」日程だったのですが、牛馬の便のない「倭地」で、重荷を負った使節団と雖も、その倍の日数は要しない程度の分別はあったはずです。漢制の街道同様の路面整備がされていないとしても、「倭人」が、長年、交易財貨の搬送に常用している以上、宿場を利用して、生きてたどり着けると想定したはずです。特に、魏使が大量の下賜物を持ちこむことは、帯方郡から各地に通達され、運び手や宿の準備を厳命し、道中の街道の整備も監視していたから、重大な渋滞はなかったはずです。

 参考までに同時代の公式論議の事例を確認すると、景初の公孫氏討伐の軍議では、洛陽から遼東郡治まで道中四千里を百日行程の行軍と見た論議がされ、「往還に二百日、現地の戦闘に百日を要すると見て、計一年以内に片を付けます」との司馬懿の進言が採用され、必要な大量の糧秣が調達、輸送手配されています。肝心なのは、道里の数字ではなく、所要日数が第一とわかります。もちろん、これは、概数に基づく論議ですから、現代人が執着する一里、一日単位の精密なものではないのですが、概数だけに、大きく逸脱しない確かさを持っているのです。
 何しろ、洛陽から遼東は、秦代以来の官道であり、要所に関所や城塞が置かれて、食糧補充にも間違いはなかったのです。

 念を押すと、本稿含め、当ブログの記事は、史上唯一中原全土で通用していた「普通里」(四百五十㍍程度)を堅持し、以上のように、筋の通った(reasonable)解釈が成立しているのです。読者諸兄姉の御不興を買ったとしても、しっかり筋が通ると自負しているので、感情的な発言はご容赦いただきたい。「リーズナブル」と当世風にカタカナ書きすると「値段が安い」のと混線するので、英語を残しているのです。

 ここで補足すると、世上、川船で移動するのを「水行」と善解している向きがあるようですが、国内の河川は、概して急流であり、急傾斜ですから、荷船で遡行するのは、それ自体が途方もない苦行だったのです。なにしろ、高低差のある行程を遡るということは、積載している荷物に数倍する重量の船体を押し上げるのですから、とんでもない苦行としか言いようがないのです。筏流しに代表される河川水運は、下り舟だから成立するのであり、遡行する水運は、一部の例外を除けば、有り得ないのです。ちなみに、一部の例外というのは、安定した水量でゆるやかに流れる淀川本流くらいなのです。大抵の国内河川は、渇水期が長くて水運に適さず、かと言って、雨季は氾濫が多発するので、漢制で言う「水行」など成り立たないのです。まさか、両岸で曳き船するなどしないでしょう。
 繰り返して云うのですが、荷船の船体は、人手で担ぎ上げられるような代物ではないのです。曳き船も、牛馬が音を上げるほどでしょう。
 当時、そのようなに羽目に陥ったら、荷を下ろして、人手で、着実に運んだものと見るべきです。
 いや、念頭に置いているのは、河内湾から奈良盆地へ、大和川の急流を荷船を担いで船越するという「おとぎ話」でする

▢参考資料 専修大学東アジア世界史研究センター年報 第4号 2010年3月
 「遣唐使の経路」
 新羅の遣唐使一行は金城(慶州)を出立して永川付近の骨火館、おそらくここは新羅の王城に入る唐からの使者、また帰国する新羅の遣唐使の王都入城前に停まる施設であろうが、ここを経て忠州の褥突駅から西海岸の長口鎮あるいは唐恩浦(唐城鎮)に至って出航したであろう。ここまで約392kmの陸行である。山東半島の登州に上陸すると、新羅館に息み、青州を経て洛陽・長安に至る。このコースは新羅の遣唐使の第4期後半から5期では新羅国内の混乱と唐における山東地方の混乱を避け、遣唐使は慶州を出立すると、西南方に陸行して、全羅南道の栄山江河口付近の唐津(タンジン)から出航して楚州に上陸することになる。

▢余談 東莱談義
 新羅遣唐使談義の背景となる東莱は、中国古代では、山東半島地域です。

▢東莱郡 (中国)  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 東莱郡(東萊郡、とうらいぐん)は、中国にかつて存在した郡。漢代から唐代にかけて、現在の山東省東部の煙台市一帯に設置された。

                                未完

倭人伝随想 新6 倭人への道はるか 海を行かない話 7/7

2018/12/05~07 2019/01/29 追記 2020/11/15 2022/01/16 2022/03/14~17 2024/05/11, 10/19

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*東夷の起源
 戦国末期、西の秦と並ぶ東帝を称した齊は、長大な海岸線を利し、南海諸国、遼東、朝鮮半島との海洋交易によって栄えたのでしょう。それとも、齊がこの地に封建される以前から、東夷は、南蛮交易の海船を作り出していたのでしょうか。

 但し、海図も羅針盤も無い時代、「島影の確認できない海原を、安全に往き来する航海術はなかった」ので、齊から東夷倭人に至る「海路」、「海道」は、一切存在しなかったのです。まして、「倭人伝」の時代、そのような航海を可能とする大形の帆船を建造することは、不可能そのものだったのです。何より、大形の船体を構成する木材は、大量の鉄鋼製工具(船大工の大工道具、特に、ノコギリ)なしには造成できなかったのであり、併せて言うと、大形の帆船の原動力である強靱で風水に耐える帆布も、木綿(Cotton)江戸時代に大量栽培されるまでは
適当な材料がなく、大型の帆船など、有り得なかったのです。

 因みに、長江で荷物輸送に多用された川船は、「波浪が過酷な外洋航行」に耐えない内陸淡水面専用のものであったことは、言うまでもないでしょう。一部で、後漢宰相曹操率いる南征軍の軍勢/軍船を堂堂と押し返した、呉太守孫権の勢力、後の東呉が擁していた大型川船を、はるばる東夷の地まで回航したとの途方も無い夢想が示されていますが、物知らずの勘違いに過ぎません。
 又、正体不明の軍船は別として、長江を運行していた荷船は、悉く槽運業者の業務用船舶と乗員であり、東呉皇帝といえども、徴用して回航することなどできなかったのです。
 そうでなくても、渤海に面した各地には、多数の海船を造船する技術と資材は、十分整っていたので、態々無理な運用をする事はなかったのです。

 太古、海船が小さく、食料と飲料水の搭載量が限られて長行程に耐えなかった時代、当該地域では、莱州から半島先端の登州を経て渤海列島を経て、遼東半島に到る短期間の航行であったようです。

 後に繁栄した漢城(ソウル)付近は、当時、北方の高句麗に対抗する軍事上の拠点として重用されたものの、黄海岸に良港がない上に、後背地にも恵まれず、南方の唐津(タンジン)が文字通り、唐への海港となって繁栄したのであり、後年になって漢江扇状地が干上がって、ようやく市糴の便が生じたようです。
 と言うことで、後に、海船が長行程に耐えるようになると、登州を扇の要として、遼東半島、栄成から朝鮮半島中部の平壌、漢城へとの派生行程が生じたようです。

 古来の齊「臨菑」は、四方の交通に恵まれ、「一大集散地」(「一都會」 班固「漢書」)とされています。

 逆に、景初年間の司馬懿北伐では、派兵に先立って、青州周辺で海船を多数造船し、新造船団を駆使して、司馬懿指揮下の遼東討伐軍主力の兵站を支える食糧輸送の軍務と並行して、あるいは、密かに先立って、兵員を輸送して、楽浪・帯方両郡を平定したとされ、その記録は、後の百済攻略に活用されたと思われます。

*景初の「ヒットエンドラン」
 いや、野球の作戦である「ヒットエンドラン」は、結構古い言葉ですが、元々、andで連ねられたHit「打つ」とRun「走る」は、一つのプレーとして行われると言うだけで前後関係を示していないように、「又」の文字は、二つの軍事行動が、洛陽の作戦指令で、ほぼ同じ時期に少し離れた地域で行われたと言うことをしめすだけで、細かく前後関係を問わないということのように思います。

 因みに、野球の世界では、『「ヒットエンドラン」は「打って」から「走る」と決め付けて、それは、不正確だ」という意見が多いようですが、それは、言葉の意味を勘違いしているようです。いや、単なる素人の余談ですが。

閑話休題
 青州起点の海船起用は、遥か以前の漢武帝「朝鮮」攻撃の際の兵士輸送に採用されたので、それを機に、青州~遼東半島の航路と共に、青州から、楽浪/帯方両郡への航路が確立されたと見えます。遼東郡平定後、新造海船は、諸方に払い下げられたと見えますから、以後しばらくは、船腹に不自由はしなかったのです。(2020/11/15)

*大船の限界
 因みに、新造の青州海船は、当然、甲板と船室のある大型の帆船ですが、いかに波穏やかな渤海航行とは言え、海船は、波浪の侵入を防ぐために舷側が高くて船底/喫水は深く、航路を外れた岩礁海域は、危険この上もないので、とてもとても進入できなかったのです。
 大型の帆船は、機敏な舵取りがきかず、舵取りに漕ぎ手を備えても、手早く転進はできず、水先案内が予告しない限り、安全航行はできなかったのです。近来のタグボートのように、多数の手漕ぎ船で船腹を押して、転針したかも知れません。或いは、港内に進入せず、沖合で投錨したところに、艀が乗りつけたかも知れません。

*海路創世記
 類書「通典」の「邊防一」倭の項に「大唐貞觀五年,遣新州刺史高仁表持節撫之。浮海數月方至」とあり、初唐に半島西岸沖を「浮海」した刺史高表仁の海船は、航路の無い海域を模索して「浮海」のあげく、風待ち、潮待ちのせいか、数か月後に倭に達したと追加し、「唐会要」は魔物や奇巌と書いたので、話半分としても、手ひどく難破しかけたのでしょう。
 この際の航路開拓で、太古以来未踏」の半島西岸が中原政府の路程として確立され「海路」と呼ばれたと思うのです。かくして、後の百済征討の降伏勧告使節禰軍の派遣や百済復興勢力との白村江会戦に於いて、東莱、登州を発した大勢の水軍が、大過なく百済泗比、熊津などの内陸王城の海港に攻め寄せられたのでしょう。
 但し、百済征討後、大量の軍兵は、早々に帰還し、海峡を越えた大軍派兵と水戦は、再現不可能となったのでしょうか。新羅が唐の半島支配に抗した戦闘は、内陸戦闘であり、莱州からの派遣を要する唐の及ぶところではなかったのです。
 新羅遣唐使の派遣は、両国間の熱気の冷めた時代のことであり、西岸「海路」は無用で、暦年重用された登州に渡海したのでしょう。

 この海域に大型の帆船が堂々と往来していたとしたら、それこそ金で雇えたら、あるいは買い取ることができたら、日本の遣唐使は、東シナ海を遥かに離れた河内/大和の地で、自前で無器用に海船を設(しつら)えて、越すに越せない瀬戸の東西の難所を乗り越え、玄界灘もものともせず、文字通り決死の東シナ海越えにいどむことはなかったのです。

                              この項完

2024年10月18日 (金)

新・私の本棚 三木 太郎 『「太平御覧」所引「魏志倭国伝」について』 三掲 1/3

邪馬台国問題の論争点について  2019/02/17 補充 2022/02/18 05/30 2023/07/03 2024/10/18
私の見立て ★★★★☆ 必見 ただし難あり    「日本歴史」349号 (1977年6月)

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*総論
 氏の論考は極めて篤実で、捨てがたい卓見ですが、採用史料の評価に同意できない点を含み、多大な論考の結論であっても、同意できないのです。今さら、ここに書評するのは、氏の古典的な論考ぶりが、今でも、同様の趣旨で、少なからぬ野次馬に継承されているからです。

 陽だまりの大樹にも実生の時代があったのであり、せめて、人の手の届く低木の時代に、このようなあからさまな傷を癒やしていれば、今日の巨木になって、大きな欠陥を人目にさらすことはなかったのにと、惜しまれるのです。まことにもったいない話です。

*不吉なタイトル
 その一端は、タイトルに表れていて「魏志倭国伝」は、氏の言う「通行本」(紹凞本)の小見出しに符合せず「倭人伝」書き出しにも整合しません。論文として、最低限の考査も加えられていない表れとみられてしまいます。

*「魏略」批判欠如~「翰苑」は論外
 通行本に並列の二史料の第一、「魏略」は現存せず、他史料に引用の佚文、つまり、ひ孫引き等された断片の集成に過ぎません。(衆知の如く、魏志第三十巻の巻末に裵松之によって補注された魚豢「魏略」「西戎伝」は、伝全体の良好な写本が挿入されていて、佚文などではなく、ここで言う「魏略」批判の対象外です
 つまり、無造作に「魏略」というものの、実態は、それぞれの断片の健康状態次第であり、いずれにしても、佚文である以上、「魏略」原本の忠実な再現かどうかは、大いに疑問です。(再現の筈がないと断言しているのです)

 特に、ここで提起されている倭人伝部分の依拠する「翰苑」の所引記事は、そもそも、「翰苑」 自体が、適切に編纂された史書などではなく、「倭」関連部分に限って言えば、明白な誤解、誤記を、非常に多く含み、編纂者の資料の取扱が、不正なものではないかと大いに疑われますが、本来、原本に囚われない自由な引用と見えるので、史学の視点で言うと、大変粗雑な引用と思われます。
 早い話が、野次馬の聞き書き同然で、支離滅裂だという事です。
 三木氏が、素人目にも明らかな難点を審議しないままに、氏の論拠とするのは、むしろ失態に近いものと見えます。

*「御覧」批判欠如
 その第二、所引本は太平御覧(御覽)に引用の「魏志」です
 世上、誤解が出回っていますが、「御覧」は史書ではない類書であり、編纂時の引用、記事承継に加えて、編集が施されていて、史料の正確さに関して、全く信頼できないと言わざるをえません。
 榎一雄氏の考察によれば、「太平御覧」は、先行する複数の類書に依存したつぎはぎだらけの編纂物であり、「御覧」の最終的な編纂自体、実に数多くの所引担当者を動員した大事業と見えるので、信頼性の面で大いに疑問があります。
 榎一雄著作集 第八巻「邪馬台国」 巻末の「太平御覧に引く三国志について」に、書誌学的考察とともに、史料の精査に基づく、精緻な考察が展開されています。

 これに対して、「三國志」は、史官としての訓練を受け、史官の使命で動機づけられていた陳寿が、専念して史書として編纂して完成稿を遺し、没後の上程後は、歴代皇帝の蔵書として、適確に継承されていた、検証済みの史書です。
 後に、劉宋史官裴松之が、陳寿の編纂の簡潔さに不満な劉宋皇帝の指示で、陳寿が割愛した稗史の類いまで採り入れて補注した「裴松之補注三国志」を編纂していて、今日、この形態が、陳寿「三国志」の決定版と誤解している例が多いのですが、大変な誤解であり、「所引三国志」が、裴松之付注記事を、無造作に「三国志」本文に取り入れているのは、史料改竄の不祥事とみるべきです。

 いずれにしろ、氏の議しているのは、蟻が富士山に背比べを挑むようなものであり、それだけで、氏の奉じる史料批判の信頼性が大きく損なわれるものと見えます。

 「御覧」上程以後に限定しても、「御覧」も絶対不朽の継承が検証されているわけではなく、「三国志」同様に、北宋末、侵入金軍によって、中原から長江流域に至る全土での「諸書(経書、史書、類書)及び版木の全面的破壊」の被害を受け、南宋が、国の権威をもって、各地に遺存していた写本から原本回復を行った結果、今日の「御覧」の南宋刊本が得られたものであり、史料としての信頼性としては、少なくとも、同様の依存史料から復原されたと思われる「三国志」に対する批判と同等の批判を克服する必要があると思えます。

 国内史学界で陳腐化している、つまらない言い草の繰り返しを論じるのは、誠に鬱陶しいのですが、「太平御覧」の原本は現存せず、原本を読み通した者も現存しない』のです。そして、最良の刊本は精々南宋期のものでしかないのです。肝心なのは、南宋による復原努力の成果であり、原本が現存しないこと自体は何の根拠にもならないのです。子供の口喧嘩に似た、無意味な言説は、発言者の信用を損ねるので、慎んだ方が良いのではないかと愚考します。

 見かけない議論ですが、所引魏志に云う「耶馬臺國」は、⑴所引者の見た魏志の正確な引用なのか、⑵「邪馬壹国」(通行本由来)ないしは、⑶「邪馬臺国」(後漢書)の何れなのか、三択状態にあり、結局、より信頼性に乏しい後代史料によって、信頼性の卓越した通行本を批判しているのです。余りに、後代史料の正確さに対する信頼性が低いのです。

 素人目にも明らかな難点を審議しないままに、論拠とするのは、むしろ失態に近いものと見えます。

*両史料の信頼性評価
 まとめると、「魏略」には、かなり厳しい批判が必要であり、所引魏志(「御覧」所引魏志)にも、しかるべき史料批判が必要/不可欠であり、両史料が通行本に優越するとは(絶対に)言えません。

*先人評価~風に揺れる思い
 ちなみに、冒頭に二重引用された末松保和氏の評言は、
 所引本は、当時の三国志原本(意味不明)からの引用、要約と認めつつ、
 通行本では「侏儒国、躶国の記事を含む一節が不自然な位置と考えられ」るが、
 所引本では、「より自然と認められる位置にある」、及び
 主要国の路程などの順序が、所引本では「比較的整頓され」ているが、
 通行本は「実に支離滅裂(意味不明)
 と見た上で、所引本は、(魏志の)「本来の形」であり、所引本魏志は、通行本魏志と「系統を異にする別本」、と推定口調とは言え実質的に断定しましたが、三木氏は、前段の路程などの記述順序評価は不当と認めつつ、後段は妥当と認めているようです。(「意味不明」は、当記事での追記です)

 このあたり、論理が大きく動揺していて、とても、筋の通った推論とは見えないと申し上げざるを得ないのです。

 「所引本」に対して、史料批判、検定を受ける前から、つまり、著者の深意が知られないうちから、その記述内容について評価するのは、本末転倒の錯誤です。

                               未完

新・私の本棚 三木 太郎 『「太平御覧」所引「魏志倭国伝」について』 三掲 2/3

邪馬台国問題の論争点について  2019/02/17 補充 2022/02/18 05/30 2023/07/03 2024/10/18
私の見立て ★★★★☆ 必見 「日本歴史」349号 (1977年6月)

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*「御覽」編者の重い使命~Mission of Gravity
 「御覽」編者は、当時の教養人が一読して意味が通る滑らかな記事を書くよう指示され、その問題に時代一流の解を提示したのですが、その際、原文をいわば「誤解」して、それを、滑らかな漢文に書き上げた(書き換えた)と見るものです。
 例えば、班固「漢書」は、既に、後漢初期において用語の理解が困難であった、太古以来の古典書法を厳守していたため、古典教養の豊かな史官が、時に、一字ごとの補注が必要な難解文書であったのですから、中国古典文化復興を国家事業として取り組んだ唐代に一度、本格的な補注が進んだとはいえ、大唐が滅び、全土が混乱した五代十国の分裂期に、例えば、三国志の構文に関する理解が失われ、単に、文字の運びを所引しても、原文の真意が取り出せないようになっていたのです。

 従って、氏の史料評価は観点が交錯しています。言うならば、史料に現代人にとって読み取りやすい表面的な明快さを求めるのか、深く掘り下げて古代人の文意を発掘し明快な解釈を見出すのか、方針の違いです。

*堅実な論文構成
 提示資料の史料批判をここまでにして、本論の批判に戻ると、三木氏は、先行論考を検証する意図で、ここに、自身の論考を着実に展開していて、その点、堅実な学術論文であると感じます。

*写本継承系統複線化仮説

 氏は国内史書の写本がいくつかの写本系統で継承される過程で少なからぬ(多大な)改変が生じたことを意識してのことでしょうが、中国正史は、歴代王朝「国宝」として、厳重に管理、保全されていた「三国志」「原本」の厳正な、つまり、人員、経費、所要期間に囚われない「正確な継承」が最優先され、世上流布していたと想像される下流、派生写本の改変が、「原本」に一切遡及しない仕組みが維持されていたことを、随分軽視しているように思われます。つまり、後世史書の編者が覚束ない改変を加えても、原文は確実に維持されていたために、後世補注の限界が確認できるのです。

 河水(黄河)下流、河口原での分流に見られるように、一度、扇状地に放たれた奔流は、果てしなく分岐派生し、南北に隔たった小河口でそれぞれ海に注ぐのですが、大河の上流は依然として揺るがないのです。下流の派生を見て、上流に揺らぎを見るのは場違いな幻想です。

 引き合いに出された末松氏も、「別系統」で複数の正史原本が継承されていたと示唆し、南北朝期などの輻輳を想定したのでしょうが、中国の正統観から言って、各王朝が自己流の正史を蔵書していたとは思えないのです。特に、ここであげつらっているのは、「三国志」の中でも「魏志」末尾の細瑾に過ぎない「倭人伝」の論義であり、就中、道里行程記事を解読した上で、自己流に手を入れるなどあり得ないでしょう。素人目には、何か、壮大な神がかりを思わせるのです。

 と言うことで、当方の素人考えは、たまたま、古田武彦氏の正史観と一致しますが、前提として、通行本は正史の(同時代史料群を相対評価して)最も正確/堅実な継承と見るものです。ただし、その史料観は、しばしば揶揄されるように神聖不可侵などと言うものではないのです。
 どんな人、著作にも、欠点はあります。単に、信頼性随一の原点として共有し、その「岩盤」を基礎として、以下の議論を構築しよう
というものです。

 仮に、聡明全知の後世人が、不出来、不首尾な記事と見ても、後代視点から、正史の記事を改訂、ないしは、読替えすべきではないのです。砂上楼閣はご免です。いや、当世の現代人は、三世紀基準で言えば、無教養の東夷である以上、同時代の知識人より、時代の実相に詳しいことなど、到底あり得ないと思うのですが、現代人は、中々そう思わないようです。

*孤証の誹り
 氏は、本資料の中で通行本が孤立している、孤証であるとの主張を述べていますが、それは、先に述べたように、他の二史料に分に過ぎた信を置いているからであり、評価基準が適正でなければ、いくら適正な手順を採用しても、正確な結論、というか、信用できる判断はできないのです。

 言い方を変えれば、史料評価は、標本の数や字数の多少で左右すべきでないと思うのです。それとも、収録史書の総重量、目方で行くのでしょうか。それなら、「御覧」の大勝でしょう。

                                未完

新・私の本棚 三木 太郎 『「太平御覧」所引「魏志倭国伝」について』 三掲 3/3

邪馬台国問題の論争点について  2019/02/17 補充 2022/02/18 05/30 2023/07/03 2024/10/18
私の見立て ★★★★☆ 必見 「日本歴史」349号 (1977年6月)

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*また一つの我田引水
 残念ながら、氏は、特定の史観の学派に党議拘束されているのか、多大の議論を、一定の目的意識/使命感に背を押されて進めていて、客観的な論証から逸脱した我田引水に労力を費やしていると見え、大変痛々しいものの、少なくとも、その判断の根拠を明示しているので、学術的な錯誤とまでは言わないのです。

*傾いた道しるべ
 そういう視点で見れば、三木氏の本論への取り組みは、若干倒錯しています。
 明らかに、今回の論考は、到達点として、列記された課題を掲げて始まり、終始、そのような「青雲」を目指して道を選んでいるから、道が曲がっても躓き石があっても、ものともせずに、正義の旗を高々と掲げて、断固直進したとみるのです。

 いや、それは、氏だけではないのです。少なくとも、古代史学界では、大抵の論者がいわば天命に即して苦闘していて、そのような取り組みが、往々にして、「結論に合うように経路を撓める」経過を辿っていて、ときに、岩脈に素手で洞門を掘り抜いているのですが、大命を背負っていない素人は誠意を持って指摘するのです。
 三木氏が、先に挙げた参照資料の難点を意識外として、字面に沿って考察したのは、そのような背景からでしょう。
 燦然と輝く道しるべは、既に傾いていたのです。

 客観的な考察は、それ自体が学術的な成果ですが、課題必達型の主観的な考察は、自ら、学術的な価値を正当化できず、却って貶めているようにも見えます。いや、真摯な論考をこうして批判するのは、大変後ろめたいのですが、「曲がった」論考がなぜ曲がったか、率直な意見を呈して、学会に関わりの無い、一介の私人たる素人が、古代史学に貢献できればよいと考えるのです。

*風化した雄図
 氏が提示した以下の結論は、そのような議論を支持する論者には大いに歓迎されたとしても、氏の雄図はむなしく、本論公開時点以来、四十年を経て、依然として、単なる作業仮説に留まっています。もったいないものです。

 論争を終熄させるべき時宜を失し、執拗な風雨に正論の松明が負けるように、風化してしまったのでしょうか当素人考えブログでは、真摯な論争が途絶えたように見える現時点では、こうした三十~四十年を遡る真摯な論文が必読資料と見て、辛抱強く発掘しては、紹介旁々、持論を宣伝しているのです。

 天に届く劫火に手桶の水を柄杓(卑の字義)で手向けるに過ぎないかも知れませんが、手桶の水の微力にも、微力なりの効果があると信じているのです。

*解けない問題を解くために
 以下、掲げられた成果から見て、三木氏が掲げた下記の正否は素人目には明白ですが、どのような課題を自らに課すかは、各論者の専権事項であり、批判/論義の対象外ですから、いちいち批判は加えません。ここで批判しているのは、考察の客観性の蛇行なのです。して見ると、各項は全て本末転倒、見当違いとなりますが、ここは、そのような反駁の場ではないのです。

    三木氏の定則
as told

    1. 邪馬台、邪馬壱論争は邪馬台国の名称が正しいこと。
    2. 倭国乱の時期は霊帝光和中であること。
      中国使節は卑弥呼に拝仮したこと。
    3. 邪馬台国までの行程記事は直進的に読むこと。

 と言うものの、世上、邪馬台国論争は混迷を続けているとか、なかでも、「所在地論は、千人千様であるが悉く間違っている」とお見通しであるとか、数限りない野次馬の嘲笑罵声を浴びせていますが、それは、議論の立脚点を固めないままに当て推量を積み重ねて、ここに唱えられているような砂上の楼閣を高々と築き上げたからだと感じる次第です。

 二十一世紀、令和の時代、半世紀どころではない太古の原点に戻って、問題の読み方から考え直すべき時代が来ているように思量します。

                               完

新・私の本棚 番外 毎日新聞 【松井宏員】散歩日和 奈良凸凹編 大倭/3

(奈良県桜井市)箸墓見守るホケノ山 毎日新聞大阪夕刊 2024/10/02
私の見立て ★☆☆☆☆  暴論、暴走  2024/10/03 10/05, 10/17補筆

◯はじめに
 今回の記事は、引きつづき梅林先生が蘊蓄を垂れるお散歩話である。ただし、担当記者が御高説を曲解して、自説を述べ立てるのは大変迷惑である。

*古墳の後先(あとさき)
 聞き流せないのは、タイトルの「ホケノ山古墳」(以下、ホケノ山)と「箸墓古墳」(以下、箸墓)の後先であり、ことのついでに、この「前方後円墳」の「前方部は、後年の付け足し」という梅林氏の感想がある。
 梅林氏は、元々円墳として構築され周濠があったが、後年の追葬の際にこれを跨ぐ形で前方部が建て増しされたとの御意見のようである。ホケノ山は宮内庁治定陵墓ではないので、発掘調査を根拠とした御意見なのだろう。

 それにしても、考古学会の意見はどうなのだろうか。一夜漬けであるが、最新考証では、ホケノ山は在来工法の終幕(先)で、箸墓が、外来工法時代の端緒(後)と見える。混乱させられる。

 記者は、梅林氏の解説を無視して、『ホケノ山が、「ヒミコの墓と仮定された箸墓」の山手に、これを見おろして造成された』と見ているようだが、それでは、箸墓と三輪山の間を遮るから、ホケノ山を倭大夫難升米の墓陵と断定している梅林氏の説諭が無視されていると見える。当記事は、記者が支配しているのだろうか。

 さらに言うならば、現地取材で明らかなように、ホケノ山視点では、箸墓の背部「後円」が、西の霊山二上山を遮って興ざめである。高見したければ、檜原神社あたりまで登る必要がある。話しのスジが通っていないと見える。

*史料解釈の混迷
 地の部分、記者の見識で、難升米を女王「副官」と言うのは信を置けない。女王に副官などつかない。
 更に言うと、使節が洛陽に参上した記録はあるが、皇帝謁見とか金印と銅鏡百枚の受領は、中文の読めない誰かの勘違いだろう。誰かの勘違いが、延々と語り継がれているのは、どの世界の悪習だろうか。

 以後「外交」の場に登場と言うが、中国正史で年少天子の「外交」の場に東夷の陪臣が登場することは有り得ない。たちの悪い非科学的な「邪馬臺国」ものテレビ番組でも見たのだろうか。

*懲りない銅鏡舶載説 "Die Harder"
 梅林氏は、「ホケノ山」から特定形式の銅鏡が一枚出たのに触発されて夢物語を新作している。「卑弥呼の鏡でない」と確定した「三角縁神獣鏡」が、後代中国で「東夷の指示で特注制作した舶載鏡」とは病膏肓である。
 卑弥呼の初回遣使で、曹魏名君烈祖明帝が「倭人」に銅鏡百枚を与えると言明したのは、万二千里の遠隔地から到着した初見の褒賞であったものの、明帝没後に実際は四十日行程の地(陸路換算で二千里程度)の近場と知れ、格別の熱意を持った明帝の急逝後、「倭人」調略に手足となって奔走した腹心の毋丘儉も抹殺されたため、もはや、絶海の東夷として閑却され、先帝の遺詔は実施されたものの、以後、大量の銅鏡を贈呈するなどの厚遇は「絶対に」ありえなかった。

 さらに、正史に基づき時代考証すると、衆知の「後漢大乱」で壊滅した官制工房尚方は、暴漢董卓によって首都雒陽が廃都された際に四散、逃亡した工人の恢復を図ったものの、万全に遠いにも拘わらず、破壊された廃墟の復興に加えて、明帝が在世中に指令した新宮殿の装飾制作に忙殺されたので、もともと未曽有の異形・大径/重量の銅鏡の新作」技術は無い上に、東夷に呉れてやるような余分な銅材など無かった。
 素人の生齧りでも、陳寿「三国志」魏志翻訳文からその程度の背景は読みとれるのだから、つまらない夢から早く覚めて欲しいものである。

*最後の聖戦 2024/10/05 補筆
 そのような門外漢の作業仮説を、専門外の記者が、全国紙の紙面を壮大に費やして書き立てる意義は疑わしい。箸墓「卑弥呼」墓陵仮説を奉じている「纏向史蹟」事業の「最後の聖戦」になりかねない。
 陳寿「三国志」魏志「倭人伝」に、卑弥呼が葬られたのは、民間人と同様の「冢」、つまり、先祖以来の墓地に、古式の土饅頭を設けたとしているのを、無視しているのであるから罪深い。女王の「冢」は、父祖の墓址より一回り大きいので、親族や近隣の者だけでは足りず「徇葬者として百人ほどの力を借りた」と明記されているのを読み損ねているようである。

 「箸墓」は、冢などではなく壮大な墳墓であり、その規模は十倍どころでは無く、整地を要する用地面積比で百倍、盛り土容積比で一千倍、と見てとれる。まして、蛇足とも見える「前方」部は、計算に入っていないのである。

 原文が理解できないままに、勝手に華麗なお話を書き上げているのを、ここでは、伝統的な「画餅」(画に描いた餅)と呼ばずに「聖戦」と呼んでいるのである。


 担当記者は、私人の私見が全国紙紙面を飾ることの責任を感じるべきではないか。「歴史の鍵穴」レジェンドの轍(わだち)を踏んでは、天下の恥では無いか。いや、この場は、何の権威もない一読者の意見である。別に「神様」だと言っているのではない。

 少なくとも、これほど賑々しく自説を謳い上げるのであれば、社内で学識のある編集者の「校閲」を受けるのが、全国紙読者に対する責任ではないか。記者の俸給の水源は、善良な市井の読者の財布である。

                               以上

新・私の本棚 番外 毎日新聞【松井宏員】散歩日和 奈良凸凹編 大倭/4

大倭/4(奈良県桜井市) 時代先取り、柱が整列 夕刊総合 毎日新聞 2024/10/16 散歩日和 
私の見立て ★★★☆☆  場違いな力作 前途遼遠  2024/10/17

*始めに
 速報である。中略引用の「所引」御免。

*コメント
「時代先取り」とは、途方もないホラ話である。とんだ超能力である。
「柱穴が整列」ではないのか。

*記事所引
 辻地区の大型建物群跡は柱穴が縦軸に整然と並んでいる
 「ホケノ山と箸墓の間には大きな断絶がありますね」と梅林秀行さん。

*コメント
 そのような「深い谷」は、写真にも地図にも示されていない。不用意である。

*記事所引
 纒向の中枢は都市で、その外に古墳が並んでいるイメージだ。

*コメント
 纏向幻想(イメージ)である。三世紀当時「都市」など存在し得ない。

*記事所引
 この一画だけ地面が高くなっていて、盛り土されているのかもしれない...

*コメント
 幻想(イメージ)であるが、復元されているのは、柱穴から想定される柱である。盛り土「かも知れない」の第一感は確認されていないということか。

*記事所引
纒向遺跡の大型建物群の復元模型。

*コメント
 幻想に基づく縮尺不明の模型を「大型」と言われて困惑するだけである。

*記事所引
 ...建物の外枠に柱穴があり、伊勢神宮の正殿と構造が似ている

*コメント
 伊勢神宮が、纏向建物の後裔という指摘は新鮮である。
 建物外枠に柱穴を穿って枘(ほぞ)組みしたとは聞いていない。
 「首長」は存在したろうが、伝統される「王」かどうかは不明ではないか。

*記事所引
 方角を意識して整列した建物ができるのは飛鳥時代後期。纒向の450年後まで出てこないんですから

*コメント
 つまり、建物の軸をそろえるのは未曽有であり、それきりで滅びたのか。

*記事所引
 祭祀(さいし)に使った道具を投げ込んだ祭祀土坑や、約2800個もの大量のモモの種、国内最古のベニバナ花粉などが発見されている。

*コメント
 モモの種、ベニバナ花粉は、土坑以外のどこで発見されたのか。

*記事所引
 纒向石塚古墳...「築造年代は...箸墓より古いと思われます」と梅林さん。...いずれも卑弥呼の墓候補だという。「纒向型は...規格があったとみられます」

*コメント
 箸墓の年代が不確定である以上、他の古墳の年代も不明ではないか。何でもかでも「卑弥呼」の墓候補であれば、発掘事業は永久不滅ということか。「規格」は、技術文書であり三世紀当時ありえない。

*記事所引
 「纒向は4世紀前半、ある日突然、なくなるんです。ひょっとしたら、纒向はその後、高台に移転したのかも。」弥生時代は空白地帯だったわけだ。

*コメント
 「纏向」は、「纏向遺跡」のことと思うが、「遺跡」は移転できないのではないか。結論部で突然、「宮」が乱入して読者は混乱する。どんでん返しである。記事前半で力説したのを忘れているのだろうか。
 「弥生時代は空白地帯」とは、「空白時代」の誤記ではないのか。

*記事再確認
 纒向は東西約2キロ、南北約1・5キロという広大な面積で、その中に箸墓もホケノ山も含まれる。纒向の中枢は都市で、その外に古墳が並んでいるイメージだ。

*コメント
 要するに、「纏向」の定義が混乱しているのである。

*総評
 当記事は、署名記者の「作品」と見られるので、こうした混乱は、もったいないのである。読書欄で、若島正氏ほどの練達の著者でも、書評の短文に編集部からタップリした「赤」をいただいたという。記者の玉稿は、見放されているのかと邪推しそうである。
 それにしても、全国紙の大々的な記事は、漏れなく周到な校正がされていると期待したいところである。

                                以上

2024年10月15日 (火)

新・私の本棚 「古賀達也の洛中洛外日記」第2762話 『古田史学会報』170号の紹介 再掲

『古田史学会報』170号の紹介 百済祢軍墓誌の「日夲」 ―「本」「夲」、字体の変遷―
                 2022/06/16 2024/10/15

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに
 本項は、私淑する古賀氏のブログ記事の批判でなく、随想であることは、ご理解いただきたいものです。

*引用
 … もう一つの拙稿〝百済祢軍墓誌の「日夲」 ―「本」「夲」、字体の変遷―〟も半年ほど前に投稿したもので、順番待ちのため、ようやく今号での掲載となりました。本稿は、百済祢軍墓誌に記された「日夲」の「夲(とう)」は「本」とは別字であり、「日夲」を国名の「日本」とはできないとする批判に対する反論です。七~八世紀当時の日中両国における使用例を挙げて、「夲」の字は「本」の異体字として通用していたことを実証的に証明しました。 …

*コメント

 勉強不足の初心者が見当違いの新発見を提言するのは手ぶらで書いてすむのですが、権威と責任のある古賀氏が、丁寧に諸資料を検索して実証的に反論するのは、大変不公平と見えます。
 バリバリの私見で恐縮ですが、率直に発言させていただくと、本件は、同時代の中国史料について論考を展開する程度の教養を有した人物にとっても当然、自明の事項であり、当然「不成立」なのですが、そのような当然、自明の事項を個人的に知らないからと言って、未審査の思い付きを公然と提言すべきではないと思われるのです。

 いや、このような思い付き発言は、古代史学分野では、ありふれているので、「言ったもん勝ち」だと思っている方も多いでしょうが、まずは、とことん自己検証すべきのです。

 素人なりに調べても、「本」の字は、十の縦横書画の交点から、左下、右下への書画が始まるので、紙面で言うと、墨がうまく流れないと、四本の書画の交わるところに墨が溜まって、にじみやすいのです。あるいは、交点の一点から、二本の書画が始まるので、書き出し位置の狂いが目立ちやすいのです。

 公文書の清書などの改まった場は、名人が時間をかけて書き進めるので、そのような不始末は出ませんが、公文書の下書きや日常の信書では、余計な心配がいらない「夲」が通用/常用されていたのです。(実証は、端から不可能ですが)

 ご参考までに言うと、知る限り、現代でも日常文書では「日夲」が、むしろ普通と見えるのです。字体は「変遷」していないのです。

 本題に還ると、墓誌は石刻であり、刻工は、墓誌全体を「ボツ」にするような手違いの出にくい「夲」と刻んだのです。
 因みに、「百済祢軍墓誌」に「日夲」国号をみるのは、明らかに、早とちりの勘違いですが、既報なのでここでは論じません。

 思うに、古賀氏ほどの論客が、「七~八世紀当時の日中両国」とは、氏の見識を疑わせかねないので、ご自愛いただきたいものです。

 衆知の如く、「日本」が国号として「中国」に認知されたのは八世紀以降であり、また、当時、「中国」が国号であったかどうか、不確かと思うのであり、古代史論で「日中」は、不適切と見ます。
 ちなみに、「魏志倭人伝」に、全文引用された曹魏皇帝の帝詔では、曹魏自身を「中国」と称しているように見えますが、詔の対象は、対等の天子でなく、遥か下位、番外の蕃夷の王ですから、名乗りを上げているとは見えないのです。つまり、自身の実名を述べる場合ではないのです。

 いやはや、「思いつき」を契機に「新説」を言い立てる方は無造作で済んでも、責任を持って回答するには、大変な苦労が伴うのです。

                               以上

新・私の本棚 「古賀達也の洛中洛外日記」 第2310~4話 1/2 再掲

 明帝、景初元年(237)短里開始説の紹介(1)~(5) 2020/12/05
 私の見立て ★★★☆☆ 思い余って..言葉足らず   2020/12/13 2024/05/08, 10/15

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

□はじめに
 ここに紹介したのは、もともと古賀達也氏が「新古代学の扉」サイトに掲載した記事ですが、本来、同名ブログからの転載であり、ここではブログ記事を参照しています。ということで、批判は、両者共通のものと見ていただいて結構です。
 当ブログでは、非商用ブログの書評は、極力控えていますが、当記事は読者の批判を期待して公開されているものと思うので、率直な批判を掲載します。

○倭人伝短里説の流れ~補足の試み
 当記事のタイトル「明帝、景初元年(CE 237)短里開始説」の課題は、古田武彦氏が、第一書『「邪馬台国」はなかった』において、先行する「倭人伝短里説」に対して「三国志短里制」を説いたことから発しています。

*論争の開闢の回顧
 「倭人伝短里説」は、当時、安本美典氏が、埋もれていた「倭人伝道里記事は、帯方郡から狗邪韓国までを七千里とする里長に基づいて書かれていた」との提言を発掘しましたが、古田氏の「短里説」は、「三国志が、公式史書として編纂された以上、全巻統一里制を採用していたに違いない」との信念をもって提唱したものであり、後に、範囲を魏晋朝に限定し、それも、魏の初代文帝曹丕、後に第二代明帝曹叡が施行したとする「魏晋朝短里説」を提唱しました。

 私見では、魏朝の正史記録である陳寿「三国志」魏志に、そのような里制変更を明示した帝詔は記録されていないため、説得力に欠けるとみられています。

*実証模索~論争山積
 反面、陳寿「三国志」を全面的に用例検索して、記録上にある具体的な地名間の里数を、現在の地図上の相応する地点間の道のりと比較して、それが、普通里(四百五十㍍程度)か、1/6の短里(七十五㍍程度)かの悉皆検証が試みられていますが、論議を重ねても種々の事情で確定的な判断はできません。

 私見では、そのような検証は、地点の不確かさと記録の不確かさが重なり、6倍の差異があってすら、いずれとも言い難い状態と見えるのです。

*最新情勢2020~提言の基準
 という事で、短里制実証は、行き詰まりのようです。

 古賀氏ブログの当記事では、魏朝における里制変更は、明帝曹叡の最後の元号「景初」の冒頭と見ています。明帝は、初代皇帝文帝曹丕の漢制継承の方針を嗣ぎましたが、景初改暦に当たって、礼制、暦制を殷制に変更する帝詔を発した際に、里制を秦以前の古制に変えたとしています。
 明帝は、維新画期の「烈祖」を目論んだもののご自身の早世で水泡に帰したのです。

*消えた周制~殷暦・殷制の覚醒
 私見では、短里の議論に於いて、従来、「短里」は、殷周革命で天下の覇権を得て、封建制度で各国を統率していた周の設定した周制であり、秦始皇帝は、周制を廃して「普通里」を全帝国に統一施行したとの見解がありましたが、「晋書」地理志などによれば、秦里制は、周里制を継承したものなので、周制に復古しても里制は変わらないと見えます。
 そのため、短里は殷(商)里制との見解が生じています。但し、三世紀当時参照できたらしい殷里制史料は、今や、痕跡すら見当たりません。

 以上に紹介した古賀氏の当記事は、最新見解に基づく新見解の確立を図ったものです。氏は、「魏晋朝短里説」推進論者なので、史料の解釈、記述が撓(たわ)んでいますが、まあ、この世界は、「絶対平面」ではないので、真っ直ぐな史料解釈などないのです。その方向付けを確認するためだけに諸解釈が書かれているものと見えます。つまり、信じがたいのです。

                               未完

新・私の本棚 「古賀達也の洛中洛外日記」 第2310~4話 2/2 再掲

 明帝、景初元年(237)短里開始説の紹介(1)~(5) 2020/12/05
 私の見立て ★★★☆☆ 思い余って..言葉足らず   2020/12/13 2024/05/08, 10/15

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

○「三国志」の成り立ち~私見
 陳寿「三国志」は、三篇の国志、「魏国志」、「呉国志」、「蜀国志」をまとめたものですが、陳寿の編纂方針として、各国志の編纂方針を温存しているので、原則として、里制の統一はしていないものと見られます。

 「魏国志」(魏志)の「里」ですが、魏の明帝景初年間の記事は、当然、その時点で施行されていた里制、ここでは、当座の仮説として魏制と仮想された「短里」に基づいて書かれたと仮定されます。(当記事筆者は、「短里」と断定しているのではありません)

 その伝で行くと、後漢代の魏武曹操の記事は「普通里」のはずです。魏朝創業後、文帝曹丕の治世と景初以前の明帝曹叡の治世は、「普通里」で書かれていて、これを遡って「短里」で書くべきだとなりますが、「呉志」、「蜀志」すら是正を控えた陳寿が、たかが「道のり」表記で緻密な書き換えをしたかどうか不明です。

*換算改訂の想定
 別稿に換算書き換え仮説が提示され、その副作用として、切りの悪い計算結果を「数*里」という曖昧表現をしたと論じられています。換算の証拠として、換算されたと見られる記事は「数*里」が多く、換算不要の景初記事は「数*里」が少ないと提示されていますが、私見では、元々の概数数字を計算可能な整数で逓倍するなら、大抵の場合、概数を切りの良い数字に丸められると見えます。

 批評記事には書きませんでしたが、信頼できる統計推定には、有意と言えるだけの件数が必要で、更に、何よりも内容確認が必要です。提起されたものでは、断定的な結論どころか推定すら困難なものと思量します。
 ということで、提言は憶測に見えるのですが、いつも慎重な古賀氏は、そのような換算は、時と場合で適用しなかったこともあるとしています。
 そのように、とても論証と思えない憶測と決めつけの羅列ですが、古賀氏が、そのような論議に賛同しているのは共感できません。

*難詰 その一 土地制度改訂の難題
 当方の思い付きですが、里制を触ると、一里(三百歩)四方の土地、古法で言う「方一里」を、三頃七十五畝の面積とする秦漢代以来の(九章算術)計算公式を破壊するのです。加えて、そのような改訂は、耕作地の計量で採用される「歩」(ぶ)を、一/六に短縮し、つまり、土地台帳の記事を六倍に逓倍することを必要とするので、全国で土地台帳の全面書き換えを要するから、全土混乱どころか、実行不可能です。

*難詰 その二 里数・運賃規定改訂の難題
 また、全国運送制度の体系に干渉します。唐六典規定集には、全国各地の河川水運と付随陸運で、一日の到達里数と規定運賃が規定されていますが、これは秦漢代来の全国規定の唐代最新形です。
 魏朝体系で、それまでの一里を六里とするように里制改訂すると、各地点は固定であるから、所要日数と運賃は維持されますが、規定表は書き換えなければなりません。書き換えには、厖大な計算、つまり、人員動員と長期間の専従が必要であり、大変な労力を伴い、かつ、本務を途絶させて、官僚機構を壊滅させますが、達成しても、税収は増えない制度変更によって、全土混乱するのです。

*不思議な記録不在
 どちらも、もし、強行実施されたとすると、全国の官吏、つまり、高官から小役人に至る面々に、大変な厄介ごとを招くから、記録にも記憶にもとどまり、西晋代、陳寿の取材に、ぞろぞろと不平不満の報告が入るはずです。新朝王莽は、官僚組織や地名を復古させたための混乱を、反乱、亡国の要因とされていますが、魏志には、そのような大事件は書かれていません。
 陳寿自身は雒陽にとどまって、公文書に没頭していたとしても、必要なら「取材班」を各地に送り出すことはできるのですから、大事件の痕跡があれば把握していたはずです。それまで、何も、気づいていなかったとしてのことですが。

 周知のように、明帝曹叡は、景初年間の大規模な新宮殿造営で、人件費を節約するために洛陽官人を「通い」で大量動員し、囂々たる不平を買いました。大変な不名誉にあたるのですが、本紀には没後の工事中止を言うとともに、君子不徳の極みとする重臣の諫言を収録しています。

 里制改訂という有害無益な皇帝命令があったと仮定しても、そのような帝詔と不都合極まりない帰結について、陳寿が一切書かず、時に辛辣な付注を加える裴松之が、何も語っていないのは不審の極みです。
 つまりは、そのような天下を揺るがす暴挙はなかったから何も書かれていないのです。

 ついでながら、万事網羅する「晋書」地理志にも、「通典」にも、そのような大事件は記録されていないのです。

○甲斐なき熱弁
 古賀氏の熱弁に拘わらず、「魏晋朝短里」説は論証されてないのです。
 論証の筋の通らない話では、人は納得しないのです。

                                以上

2024年10月11日 (金)

03. 從郡至倭 読み過ごされた水行 改訂第八版 追記更新 1/3

 2014/04/03 追記2018/11/23、2019/01/09, 07/21 2020/05/13, 11/02 2023/01/28, 04/23 2024/08/21, 10/11

*加筆再掲の弁
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 八訂 「水行曰涉」として、「循海岸水行」論の決定考を書き足しました。(2/3ページ)
 五訂 またまた改訂しました。そして、更に追記しました。更に、3ページに分割しました。
 注記:後日考え直すと、当初述べた「水行」行程の見方は間違っていましたので、書き足します。
 改築、増築で、見通しが付きにくいのは、素人普請の限界と御容赦いただきたいのです。

*陸行水行論の整理
 事態輻輳の解きほぐしを試みます。(2024/08/21)
 「倭人伝」道里記事は、後漢献帝建安年間に、公孫氏が遼東の郡太守を自認したあたりに提起されたものと見えます。天子が玉座を離れて漂流するような行く手不明の時代でしたから、遼東から渡海、南下進出した青州(戦国「齊」領域)に加えて、未開の荒れ地に等しかった韓国の更に南に広大無辺と見える新世界を見出した(と速断した)公孫氏は、漢武帝創設以来、この地域を担当していた楽浪郡管内の帯方縣を強化して帯方郡とし、そのような夢の新世界である「倭人」の境地をわが物として、見失われていた東夷を広く支配する野心を抱いたのです。

 それは、二百年続いた後漢帝国の天子が、宿無し状態になるような「天下大乱」の中國世界の極東にあって、自らを「天子」とする構想であり、天子の居処である王畿から、無限とみえる万二千里の極致に、倭人の居処を置いた構想(Picture)を想像したと見えます。

*岡田英弘氏の韓国観の蹉跌 (2024/08/21)
 ちなみに、岡田英弘氏を初めとする幻像愛好家の方々は、漢武帝が、半島中部の朝鮮故地から「陸路南下」して小白山地を越えて竹嶺経路でさらに南下する半島最南端に至る交通路を創始して、嶺東地帯に真番郡を置いて郡体制を敷いたとか、それに応じて、万里の波濤を越えて、南海広州方面からの商人が「海路北上」して北九州に大挙来訪したとか、二色の経路を設けて神がかった「画餅」を描かれています。
 しかし、「現実」は厳しい/寂しいもので、「陸路南下」は、後世三世紀に至るまで「街道」とならず、「海路北上」に至っては、中世唐代になっても、大型帆船の来航が確立されていなかったとみえるのです。
 否定しがたい状況証拠として、武帝以来数世紀を経た「倭人伝」に於いてはじめて確認された行程道里は、定法に従い、(楽浪)郡を出て陸路韓国を歴て狗邪韓国の海港に至るものです。そして、そこからは、大河に見立てた「大海」に浮かぶ洲島を、軽快な手漕ぎ渡船で渡り継いで至る行程です。
 つまり、岡田氏がサラサラと描いた「幻像」は、所詮、中国中原文明に知られていなかった東夷本位の願望であったとわかるのです。ちなみに、岡田氏は、戦前/戦中の日本統治下に、韓国領域を巡訪したことから、早くから、竹嶺(鳥嶺)経路を提言されているのですが、「倭人伝」道里行程論では、確立されていたはずの陸上経路を棄てて、虚構の沿岸船上移動を採用しているとみえるのは、何とも残念なのです。所詮、手前味噌の擦り付け史官に止まっていたのでしょうか。まことに勿体ないことです。

 岡田氏の所説は、国境を越え時代を越えた大局的な御高説が多いので、初学者の学ぶべきところは多いのですが、こと東夷伝解釈では、時代考証を度外視した幻像史観に基礎を置いているので、御高説を其の儘受け入れることはできかねるのです。世界史に於いて広く時代と地域を普(あまね)く視察した岡田氏の言辞から読みとれるご自身の提言の趣旨を応用させていただくと、中国文明を学んでいない「二千年後生の無教養な東夷」の勝手な異説にとどまっているのは、残念なところです。

*閑話休題
 「倭人伝」道里行程記事の眼目である「従郡至倭」万二千里の内、半島内狗邪韓国まで七千里と明記されたのは、この間が、街道、すなわち陸上官道であり、海上や河川の航行のように、道里、日程が不確かな、つまり、無法な行程は含まれていないと確立されていたものと判断されます。一部、無学無法な(特定の)著者が、「海路」等と無効な概念を持ちこんでいますが、長安や雒陽に中心をおく古代中原帝国は、海上交通など、国家制度に取り入れていないので、「海路」、「街道」など、痴人の夢想にしか存在しないのです。
 いや、実際には、その時、その場の都合で、渡し船などで、「水」すなわち河川の「水の上」を行ったかも知れませんが、中国の制度としては、そのような規定/定義付けは、あり得ないということです。どうか、顔を洗って目を覚ましてほしいものです。

 九州島上陸後は、末羅国で、わざわざ「陸行」と明記されていることもあり、専ら陸路で倭に至ると判断されます。伊都国から後、「水行」二十日とされる投馬国は、明記されているように、行程外の「脇道」であって、当然、直行道里からも所要日数からも除きます。従って、「都合水行十日+陸行一ヵ月」の膨大な四十日行程は、伊都国ないしは投馬国から倭王治に至る現地道里、日数では「無い」のです。本記事では、全体道里万二千里に相当する所要期間と見るのです。
 誠に簡明で、筋の通った読み方と思うのですが、とうの昔に「**説」信奉と決めている諸兄姉は、既に「思い込み」に命/生活をかけているので、何を言われても耳に入らないのでは、仕方ないことでしょうか。

 因みに、『「都合水行十日+陸行一ヵ月」の四十日行程 』とする解釈は、根拠のある一解であり、筋の通った「エレガント」な解と見ていますので、この解釈自体に、根拠の無い難癖を付けるのは、批判には当たらないヤジに過ぎません。感情的な「好き嫌い」を聞いても仕方ないので、論理的な異議に限定頂きたいものです。また、当ブログは、一部に見られるように公的機関の提灯持ちを「任務」としているものではないので、「百害あって一利なし」などと、既存権益を疎外するものと難詰されても、対応しようがないのです。

 巷間喋々されるように「水行なら十日、陸行なら一月」とか、「水行十日にくわえて、陸行なら一日」とか、お気楽な改竄解読は、さらに原文から遠ざかっているので、無意味なヤジに過ぎず、確たる証拠がない限り、本稿では、論外の口出しとして門前払いするものです。

 当ブログでの推定は、榎一雄師が注力した、いわゆる「放射行程説」に帰着していると見て取れるかも知れませんが、当ブログは、特定の学派/学説に追従するものでなく、あくまで『「倭人伝」記事の解釈』に基づいているのです。もちろん、特定の学派/学説を否定する意図で書いているのでもありません。敢えて、大時代な言い回しを採ると、脇道によらない「一路直行」説とでも呼ぶものでしょう。
 何しろ、「放射行程説」 は、素直に読める「直線行程」説を意固地に拒否する鬱屈、屈折した異論」と一部硬派の論客から揶揄され、いうならば「ジャンク」扱いで「ゴミ箱」に叩き込まれて、正当な評価を受けていないのですから、一度、出直した議論を提案するしかないのです。

*陳寿道里記法の確認
 このような考慮に値しない雑情報を「整理」すると、全体の解釈の筋が通ります。つまり、全行程万二千里の内訳として、「陸行」は総計九千里、所要日数は都合三十日(一月)となり、郡から狗邪韓国までの陸上街道を七千里として臨時に定義された「倭人伝」道里』によると、一日あたり三百里と、切りの良い数字になり、一気に明解になります。
 一方、「従郡至倭」行程の内訳としての「水行」は、専ら狗邪韓国から末羅国までの渡海行程十日と見るべきです。「水行」三千里の所要日数を十日間とすれば、一日あたり三百里となり、「陸行」と揃うので、正史の夷蕃伝の道里・行程の説明として、そう読めば明解になるという事です。
 視点を変えれば、渡海行程は、一日刻みで三度の渡海と見て、前後予備日を入れて、計十日あれば確実に踏破できるので「水行十日」に相応しいのです。勘定するのに、別に計算担当の官僚を呼ばなくても良いのです。

 「倭人伝」の道里行程記事の「課題」、つまり「問題」(question)は、「従郡至倭」の所要日数の根拠を明解に与えると言うことなので、史官としては、与えられた「課題」を、与えられた史料を根拠に、つまり、改竄も無視もせずに、正史の書法で書き整えたことで大変優れた解を与えたことになります。
 当時、このような編纂について、非難を浴びせていないことから、陳寿の書法は、明解なもの、妥当なものと判断されたと見るべきです。

 ちなみに、陳寿は、帯方郡が、不法な里制を敷いていたと非難しているのでは無く、公孫氏が起案して曹魏皇帝が受け入れた「従郡至倭」「万二千里」と言う行程道里であるから、これが、曹魏としての公式見解であり、曹魏明帝の景初年間に実地確認された「現地まで四十日」という実務的な行程日数に当てはめた物であり、下地に上塗りした構成と絵解きすれば、するりと明解になるということです。
 「倭人伝」記事を、陳寿が、成立時期も由来も異なる幾つかの原資料(Urtext)を幾つかの層で重積したものと見る史料観は、このあとも持ち出されることを予告しておきます。

*道里行程検証再開
 郡からの街道を経て狗邪韓国に至った道里は、ここに到って「始めて」倭の北界である大海の北岸に立ち、海岸を循(たて)にして渡海するのです。

 最終的な見解(2024/10/08)としては、河水を越える際には、渡船で「水行」するという千年ものの頑固な固定観念が形成されていて、現代風に言うと、「デフォルト」、暗黙の既定条件だったので、陳寿は、『「水行」は、古来「河水」を渉る渡船ですが、ここでは「大海」を渉る渡船なのです』と断り書きを入れているのです。一部で出回っている風聞のように、帯方郡からいきなり海岸に降りて「渡船」に乗ると、現代人の感覚では、黄海対岸の東莱に着いてしまいますが、読者として想定されている洛陽人士は、先行する「韓伝」で、韓国の東西は「海」(「かい」辺境の魔界)、残る南が「倭」、すなわち「大海」と知らされているので、そんな見当違いで無法な発想は浮かばないのです。いや、われながら無駄話が過ぎたようですが、「ここはツッコミを入れるところではないのですよ、客人。」

閑話休題
 狗邪韓国から末羅国に至る行程は、「始めて」渡海し、「又」渡海し、「又」渡海すると、三段階が順次書かれていて、全体として中原で河川を渡る際と同様であり、ここでは、大海」の中の島、州島を利用して、飛び石のように、手軽に、気軽に船を替えつつ渡るので、まるで「陸」(おか)を行くように、「水」(大海の流れ)を行くのであり、道里は、単純に、切りの良い千里を割り当てて明解に書いているのです。地の果てに行く行程は、細々書いてもしかたないのです。
 ここでは、敢えて、又、又と重ねることにより、行程は、渡海の積み重ねで、末羅国迄の通過点を越え、「陸行」で伊都国に「到る」と明快です。ここが、目的地ですから、そこから先の「余傍」の国は、ほんの添え物であり、麗筆で一撫でした後、伊都国の近場に女王の「居処」があると書かれているものです。女王は、「親魏倭王」と煽(おだ)てられていますが、礼節を知らない蕃王であり、史官によって正史記事に書かれているからには、世上誤解されているような格式高い「京都」「王都」「宮都」とは、金輪際無縁なのです。それが、班固が、「漢書」西域伝で確立した語法なのです。

 各渡海を一律「千里」と書いたのは、所要「三日」に相応したもので、予備日を入れて「切りの良い」数字にしています。誠に整然としています。都合、つまり、総じて、或いは、なべて「水行」は「三千里」、所要日数「十日」で、簡単な割り算で一日三百里と、明解になります。諄(くど)いようですが、この区間は「並行する街道がない」ので、『「水行」なら十日、「陸行」するなら**日』とする記法は、はなから成り立たないのです。頑固な方に対しては、「それなら、渡船と並行して、海上を騎馬で走る街道を敷くのですか」と揶揄するのですが、どうも、寓話を解しない方が多くて困っているのです。
 
 とにかく、倭人伝道里行程記事が、範とした班固漢書「西域伝」に見られない程、細かく、明解に書いたのは、行程記事が、官用文書送達期限規定のために書かれていることに起因するのです。それ以外の「実務」では、移動経路、手段等に異なる点があるかも知れません。つまり、曹魏正始中の魏使の訪倭行程は、随分異なったかも知れませんが、「倭人伝」は、それ以前に、「倭人」の紹介記事として書かれたのであり、魏使の出張報告は、道里行程記事に反映されていないのです。

 何しろ、明帝の下賜した大量、かつ、貴重な荷物を送り出すには、発進前に、「道中の所要日数の確認」と「経由地の責任者の復唱」が不可欠であり、旅立つ前に、「万二千里の彼方の果てしない旅路だ」などではなく、何日後にはどこに着くか、はっきりした見通しが立っていたのです。
 もちろん、事前通告がないと、正始魏使のような多数の来訪に、宿舎、寝具、食料、水の準備ができず、又、多数の船腹と漕ぎ手の準備、対応もできないのです。どう考えても、行程上の宿泊地、用船の手配は、事前通告で完備していたし、確認済であったはずです。

 また、当然、各宿泊地からは、魏使一行到着の報告が、騎馬文書使が速報していたのです。中国の文書行政を甘く見てはなりません。
 「魏使が帰国報告しないと委細不明」などは、「二千年後生の無教養な東夷」の臆測に過ぎません。

 これだけ丁寧に説き聞かせても、『「倭人伝」道里行程記事は、郡使の報告書に基づいている』と決め込んでいて、そのようにしか解しない方がいて、これも、苦慮しているのです。つけるクスリがない」感じです。
 
 誤解の仕方は、各位の教養/感性次第で千差万別ですが、本論で論じているのは、「倭人伝」道里行程記事の要点は、郡を発した文書使の行程/所要日数を規定したものであると言うだけであり、半島西岸、南岸の沿岸で、飛び石伝いのような近隣との短距離移動の連鎖で、結果として、物資が全経路を通して移動していた可能性までは完全に否定していないという事です。事実、この地域に、さほど繁盛していないものの何らかの交易が行われていた事は、むしろ当然でしょう。
 ただし、この地域で日本海沿岸各地の産物が出土したからと言って、此の地域の、例えば、月一の「市」に、るか東方の遠方から多数の船が乗り付けて、商売繁盛していた、と言う「思い付き」は、成り立ちがたいと思います。今日言う「対馬海峡」を漕ぎ渡るのは、死力を尽くした漕行の可能性があり、「重荷」を載せて、長い航路を往き来するのは、無理だったと思うからです。

 ちなみに、ここでいう「重荷」は、一部無教養の野次馬が言うような「比重」(Specific Gravity)の大きい荷物ではないのです。金銀の貴金属、貴石、宝石、準宝石、珊瑚などの貴重品は、概して、比重20を越える「金」(Real Gold)を除けば、10にも及ばない比重ですが、とにかく、少量で多くの対価を得られるので、むしろ、優先して運んだものです。何しろ、漕ぎ手が感じるのは、荷物の総重量であり、かさばらない貴重な荷物は、むしろ歓迎というか、メシの種だったのです。

 そして、肝心なことですが、とかく想定されやすい「米穀」は、大量に運ばないと意義がないので、渡船で運ぶのは、それこそお荷物だったのです、また、「乗客」も、嵩張って目方が張るので、海峡越えの兵馬の輸送は、手こぎの渡船では成り立たないのです。世上、三世紀当時の海峡越えに、当時地域に存在しなかった、したがって、来航もしなかった大型の帆船を想定して論議する傾向がありますが、夢想の上に仮説を構築するのは、徒労と思われます。

閑話休題
 ここで問われているのは、経済活動を行い続ける「持続可能」な営みであり、冒険航海ではないのです。順当に考えるなら、「一大国」が要(かなめ)となった交易が繰り広げられていたでしょうが、それは、「倭人伝」道里行程記事の目的である「従郡至倭」審議とは別義であり、地域の一大国であったという国名に跡を留めているだけです。
 海峡を越えた交易」と言うものの、書き残されていない古代の長い年月、島から島へ、港から港を小刻みに日数をかけて繋ぐ、今日の視点で見れば、本当にか細く短い、しかし、持続的な活動を維持するという逞しい、「鎖」の連鎖が、両地区を繋いでいたと思うのです。
 いや、ここでは、時代相応と見た成り行きを連ねる見方で、倭人伝の提示した「問題」に一つの明解な解答の例を提示したのであり、他の意見を徹底排除するような絶対的/排他的な意見ではないのです。

 水行」を「海」の行程(sea voyage)とする読みは、後記のように、中島信文氏が、「中国古典の語法(中原語法)として提唱し、当方も、一旦確認した解釈」とは、必ずしも一致しませんが、私見としては、「倭人伝」は、中原語法と異なる地域語法で書かれているとおもうものです。それは、「循海岸水行」の五字で明記されていて、以下、この意味で書くという「地域水行」宣言/定義です。

 史官は、あくまで、それまでに経書や先行二史(「馬班」、司馬遷「史記」と班固「漢書」)に先例のある用語、用法に縛られているのですが、先例では書けない記事を書くときは、臨時に用語/用法を定義して、その文書限りの辻褄の合った記事を書かねばならないのです。念のため言い足すと、「倭人伝」は、「魏志」の巻末記事なので、ここで臨時に定義した字句は、本来、以後無効です。
 「蜀志」「呉志」は、別史書なので、「魏志」の定義は及ばないのです。その意味でも、「倭人伝」が「魏志」巻末に配置されているのは、見事な編纂です。

 この点は、中島氏の論旨に反していますが、今回(2019年7月)、当方が到達した境地を打ち出すことにした次第です。

 教訓として、文献解釈の常道に従い、「倭人伝」の記事は、まずは、「倭人伝」の文脈で解釈すべきであり、それで明快に読み解ける場合は、「倭人伝」外の用例、用語は、あくまで参考に止めるべきだ」ということです。

 この点、中島氏も、「倭人伝」読解は、陳寿の真意を探るものであると述べているので、その点に関しては、軌を一にするものと信じます。

 追記:それ以後の理解を以下に述べます。

未完

03. 從郡至倭 読み過ごされた水行 改訂第八版 追記更新 2/3

 2014/04/03 追記2018/11/23、2019/01/09, 07/21 2020/05/13, 11/02 2023/01/28, 04/23 2024/08/21, 10/11

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

 八訂 「水行曰涉」として、「循海岸水行」論の決定考を書き足しました。(2/3ページ)
 おことわり: またまた改訂しました。そして、更に追記しました。更に、3ページに分割しました。
 注記:後日考え直すと、当初述べた「水行」行程の見方は間違っていましたので、書き足します。
 改築、増築で、見通しが付きにくいのは、素人普請の限界と御容赦いただきたいのです。

*「従郡至倭」の解釈 (追記 2020/05/13)
 魏志編纂当時、士人である教養人に常識、必須教養であった算術書籍「九章算術」では「従」は「縦」と同義であり、「方田」で考察している「田」(農地)の「方」、つまり「広さ」を論じるとき、農地幅方向を「廣」、縦方向を「従」としています。これは、矩形に近い例であって、台形、平行四辺形の応用例題が示されていて、最後には、現代風に言う円周率を三と近似した例題も示されていますが、広く「方田」と題されているのは、ここでは、「方」は、面積の意味なのです。
 つまり、従郡」とは、郡から見て、つまり、郡境を基線として縦方向、ここでは、南方に進むことを示していると考えることができます。いきなり、街道が屈曲して西に「海岸」に出るとは、全く書いていないのです。
 「二千年後生の無教養な東夷」である現代人は、史官の必須教養を学んでいないので、トンチンカンな理解をしてしまいがちですが、いわば、古代人の小中学校に入門するつもりで、謙虚に学ぶ必要があるのです。

 続く、「循海岸水行」の「循」は「従」と同趣旨であり狗邪韓国の海岸を基線として縦方向、つまり、軽快な渡船で大海を渡って南方に、対岸に向かうことを、ここ(「倭人伝」)では、以下、特に「水行」と呼ぶという宣言、ないしは、「新規用語の定義」(definition)と見ることができます。
 追記「水行曰涉」として、「循海岸水行」論の決定考を書き足しました。ということで、趣旨が一部変更されていますが、原文を温存します。

 つまり、「通説」という名の素人読みでは、これを、いきなり進むと解していますが、正史の道里行程記事で典拠に無い新規用語である「水行」を予告無しに不意打ちで書くことは、史官の文書作法(さくほう)に反していて、いかにも、高貴な読者を憤慨させる不手際となります。
 順当な解釈としては、これを道里行程記事の不法な開始部と見ずに、倭人伝独特の「水行」の定義句と見ると、不可解ではなく明解になります。つまり、道里行程から外せるのです。

*自明当然の「陸行」 (追記 2020/05/13)
 と言う事で、中国史書として自明なので書いていませんが、帯方郡から狗邪韓国の行程は、明らかに郡の指定した官道を行く「陸行」だったのです。陳寿の編纂時点まで、古典書籍、及び先行「馬班二史」に公式の街道「水行」の前例がなかったので、自明、当然の「陸行」で、狗邪韓国まで進んだと解されるのです。
 以下、臨時に採用した「水行」という名の「渡海」行程に移り、末羅国に上陸すると、限定的な「水行」の終了を明示するために、敢えて「陸行」と字数を費やしているのです。

*「水行」用例確認 2024/08/21
 ちなみに、中国古代史の最高の権威とされる渡邊義浩氏は、「水行」を行程道里に起用した例は、太古に至るまで存在しないと事実上明言しています。いや、氏は、司馬遷「史記」夏本紀の禹の伝記記事を取り上げていますが、書かれているのは、禹后が船で河水を移動(行)したという説明に過ぎず、「陸行」は車に乗った、「泥行」は橇に乗ったというのに合わせたものであり、陸に道(街道)があったとしても、河に道はなく、まして、陸と河の間の泥に道はないので、氏にしては不用意な引用とみえます。
 また、ここでも、「水」は、河水、つまり、黄河のことであるのは明らかであり、重ねて不用意な紹介と見えます。
 或いは、氏は、実際には、正史の道里記事に、「泥行」、「陸行」、「水行」は存在しないと示唆/事実上明言しているのかも知れません。要するに、明言/断定に等しいのですが、字面だけ舐めている/読み囓っているかたには読み取れないとも思われます。要するに、史学者は、単に事実を書き綴るものではなく、いい意味で二枚舌であり、真意は文脈/行間から賢察するべきだという訓戒にもみえます。

*水行曰涉 2024/10/08
 行程記事の「水行」から視野を広げて、河川を移動する用例/定義を調べると、「太平御覽」地部二十三に引用された、漢代編纂とされる類語辞典「爾雅」によると「水行曰涉」河川を渡船で渉ることを「水行」と言うと明快です。「爾雅」は、陳寿の座右の書であったと思われるので、「倭人伝」解釈では、むしろ、必読の出典書と思われます。

 時に引き合いに出される唐六典の「水行」は、漢語の語彙が大きく乱れた後世唐代以降の文献記事ですから、雒陽教養人が健在であった西晋代に編纂された「魏志倭人伝」の解釈では、ずいぶん下位に位置するものです。

 ちなみに、「爾雅」では、同項に続いて、「逆流而上曰溯洄,順流而下曰溯游,亦曰沿流」とあり、川の流れに従う移動と逆らう移動は、それぞれ「溯洄」,「溯游」ないしは「沿流」であって、全く異なる用語です。これら「溯洄」、「溯游」ないしは「沿流」なる規定用語でなく、「水行」と書いたと言うことは、それが、河流方向の移動ではないことを明示しているものとみられます。

 してみると、禹后の「水行」は、「河水の対岸に渡る渡船移動を示した」ものとみえます。もちろん、河水に並行して街道があって、車に乗れるのであれば、不安定な川船で河水を上下して移動することなど、必要ないのです。なにしろ、司馬遷が史記を書いたのは、漢武帝代ですから、まさしく、「爾雅」の語彙が健在だったわけであり、してみると、禹后の「水行」は川に沿った移動ではないことが明快です。
 かくして、陳寿が、「循海岸水行」と書いたのは、海岸から、大河に比喩された『「大海」の流れを渉る』意味であったことが明解になるのです。従来、陳寿が、慣用句である「水行」に新たな定義を加えたという提言を述べ、中島信文氏からは、「無理」であると叱責されていましたが、話の筋として改善されたと思うので、ご了解いただけるのではないかと、愚考する次第です。
 当然、三世紀当時の読書人は、「爾雅」を典拠とする陳寿の語法を諒解したものと見え、劉宋史官裴松之も諒解したと見えます。と言うことで、二千年後生の無教養な東夷の陥る錯誤は、本来、全く関係なかったのです。

 渡邊義浩氏の隠喩に深く感謝する次第です。

*閑話休題
 本題に戻ると、「倭人伝」が実際に示している「自郡至倭」行程は、最後で「都合、水行十日、陸行一月(三十日)」と総括しているのです。

*誤解の殿堂
 ついでながら、先に言及したように陸行一月を一日の誤記とみる奇特な方もいるようですが、皇帝に上申する史書に「水行十日に加えて陸行一日」の趣旨で書くのは、読者を混乱させる無用な字数稼ぎであり、窮余の一策として、強引にこじつけられている「陸行一日」は、「十日」単位で集計している長途の記事で、書くに及ばない瑣末事、はしたとして抹消されるべきものです。一方、「水行十日」は、当然、切りのいい日数にまとめた概算であり、所用日数として、平時の文書連絡の許容日数を示すという性質からすると、最悪でも十日あれば大丈夫とする感覚が盛り込まれているはずです。でないと、しょっちゅう「失期」、遅参が発生して関係者に厳罰を科することになるので、郡として、余裕を見込んだ日程設定で避けるものなのです。このあたり、よく、数字の意義を見極めて欲しいものです。
 いずれにしろ、数字に強く、かつ、そのような実務の襞まで知り抜いている天下随一の史官は、つまらない桁違いのはしたなど書くものではないのです。

 結構、学識の豊富な方が、苦し紛れに、そのような「子供じみた」と言われかねない「言い逃れ」に走るのは勿体ないところです。当史料が、至高の皇帝に上申される厖大な史書「魏志」の末尾の一伝だということをお忘れなのでしょうか。ここは、途中で投げ出されないように、くどくど言い訳するので無く、明解に書くものと思うのです。

 と言う事で、郡から倭まで、三角形の二辺を経る迂遠な「海路?」に一顧だにせず、一本道をまっしぐらに眺めた図を示します。これほど鮮明でないにしても、「倭在帯方東南」を、図(ピクチャー picture)として感じた人はいたのではないでしょうか。現代風に言う「空間認識」の絵解きです。当地図は、Googleマップ/Google Earthの利用規程に従い画面出力に、許容されている追記を施したものです。漠然とした眺望なので、現代地名はさておき、二千年近い以前の古代も、ほぼ同様だったと見て利用しています。

 本図は、先入観や時代錯誤の精密な地図データで描いた画餅「イメージ」で無く、仮想視点とは言え、現実に即した見え方で、遠近法の加味された「ピクチャー」なので、行程道里の筋道が明確になったと考えています。「倭人伝」曰わく、「倭人在帯方東南」、「従郡至倭」。
 但し、重複を厭わずに念押しすると、中原の中華文明は、「言葉で論理を綴る」ものであり、当世風の図形化など存在しなかったのです。
Koreanmountainpass00
未完

*旧記事再録~ご参考まで
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 以下の記事では、帯方郡から狗邪韓國まで船で移動して「韓国」を歴たと書かれていると見るのが妥当と思います。
 「循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國」
 従来の読み方ではこうなります。
 「循海岸水行、歴韓國乍南乍東、到其北岸狗邪韓國」
 終始「水行」と読むことになります。
 しかし、当時の船は、渡船以外は沿岸航行であり、朝出港して昼過ぎに寄港するという一日刻みの航海と思われますが、そのような航海方法で、半島西南の多島海は航行困難(公的な行程となり得ない)という反論があります。なにしろ、陸上街道があるのに、そのように悠長で、不安定で、まして、危険な行程は、官制郵便に利用できないのは、少し説明すれば、子供にも納得させられる明白な事項と思います。

 別見解として、『「水行」は、帯方郡から漢城附近までの沿岸航行であり、以下、内陸行』との読み方が提示されています。この読み方で著名なのは、古田武彦氏です。
 これに対して、(実は、早計な誤解なのですが)曹魏明帝の下賜物の輸送経路と見た場合、(山東半島から帯方郡に到着したと思われる)船便が「上陸して陸行すると書かれてない」という難点と合わせて、魏使は、高貴物を含む下賜物の重荷を抱えての内陸踏破は至難、との疑問が呈されています。特に、銅鏡百枚の重量は、木組みの外箱を含めて相当なものであり、牛馬の力を借りるとしても、半島内を長距離陸送することは困難との意見です。
 このような視点は、「倭人伝」道里行程記事は、魏使、ないしは、帯方郡官人使節、正史使節の帰国報告に基づいているとする意見によるものですが、ここまで何度も説明したように、「倭人伝」道里行程記事は、明帝没後の正史使節の派遣以前に、新帝曹芳に対して、郡を発して倭に至るという「公式道里」を説明するために書かれたものであり、当然、正史使節の行程記事ではないのです。

 ちなみに、陸上行程は、牛馬、車輌が、必要なだけ動員できる上に、山路では、小分けして人海戦術でこなすという実務的な解法が予定されているので、輸送容量の限界は、事実上存在しないのです。また、宿駅ごとに交替して送り継ぐので、輸送距離が長いことは、否定的な要素には、全くならないのです。
 海上輸送の場合、便船は限られているので、増強することは困難であり、また、漕ぎ手の疲弊もあって、延々たる長旅になるのは、目に見えています。恐らく、論者は、別世界、後世の大型の帆船の揚々たる船便を想定しているのでしょうが、多島海続きで、しかも、船荷の乏しい海域に、大型の帆船などありえないのです。「倭人伝」の半島行程論議には、時代錯誤、実務無視のホラ話が繁昌していますが、文献無視の「遺物/遺跡考古学者」や後世の「物知らずの夢想家」が巾をきかす事態は、解消してほしいものです。(2024/08/21)

*厳然たる訓戒
 これでは板挟みですが、中島信文 『甦る三国志「魏志倭人伝」』 (2012年10月 彩流社)は、厳然たる訓戒を提示しています。具体的には、次の読み方により、誤読は解消するのです。 
 「循海岸、水行歴韓國乍南乍東、到其北岸狗邪韓國
 つまり、帯方郡を出て、まずは西海岸沿いに南に進み、続いて、南漢江を遡上水行して半島中央部で分水嶺越えして洛東江上流に至り、ここから、洛東江を流下水行して狗耶韓国に至るという読みです。

 大前提として、中国古典書法で、「水行」は、河川航行であり、海上航行では「絶対に」ない、というとの定見が提起されていて、まさしく、「水行」を、海(うみ)に直結している諸説論者は、顔を洗って出直すべきだという、厳然たる訓戒ですが、諸兄姉には、なかなか、顔を洗わない方が多いようです。

*追記 2023/04/23:
 ここでは、「循海岸」を「沿海岸」と同義と解し、「海辺を離れて内陸の平地を、海岸と並行して街道を進む」と解釈しているのであり、海船での移動を「水行」と呼ぶという「不法な」誤読を、鮮やかに回避しています。

 河川遡行には、多数の船曳人が必要ですが、それは、各国河川の水運で行われていたことであり、当時の半島内の「水行」で、船曳人は成業となっていたのでしょうか。
 同書では、関連して、色々論考されていますが、ここでは、これだけ手短に抜粋させていただくことにします。

 私見ですが、古代の中国語で「水」とは、河水(黄河)、江水(長江、揚子江)、淮水(淮河)のように、もっぱら河川を指すものであり、海(うみ)は、「海」を指すものです。これは、日本人が中国語を学ぶ時、日中で、同じ漢字で意味が違う多数の例の一つとして学ぶべきものです。
 まして、「倭人伝」は、二千年前に書かれた高度に専門的な文書(文語文)であり、今日、通用している口語寄りの中国語文とは、大いに異なるものなのです。
 手短に言うと、古代史書において、「水行」は河川航行に決まっている』との主張は、むしろ自明であり、かつ合理的と考えます。
 
 ただし、中島氏が、「海行」が、魏晋朝時代に慣用句として使用されていたと見たのは、氏に珍しい早計で、提示された用例は、陳寿「三国志」記事とは言え、「陳寿」が編纂していない「呉志」記事なので、魏志「倭人伝」用語の先行用例とするのは、不適当と考えます。

 同用例は、「ある地点から別のある地点へと、公的に設定されていた経路を行く」という「行」の意味でも無いのです。是非、再考いただきたいものです。

*追記2 2023/04/23: 
 「呉志」(呉国志)は、東呉の史官が、東呉を創業した孫権大帝の称揚の為に書き上げた国史であり、言うならば「魏志」(魏国志)には場違いな呉の用語が持ち込まれているのです。「呉志」は、東呉降伏の際に晋帝に献上され、皇帝の認証を経て、帝国公文書に収蔵されていたものであり、「三国志」への収録の際に、孫堅~孫策~孫権三代とそれ以降の「皇帝」称号廃却は別として、改変、改竄は許されなかったのです。もちろん、「魏志」の記事に「呉志」を引用することも許されなかった、と言うか、そのような引用は、あり得なかったのです。
 つまり、「魏志」(魏国志) 倭人伝用語の先行用例検索では、「呉志」(呉国志) 、「蜀志」(蜀国志) は、除外すべきなのです。このさい言い足すと、現行刊本で、三国志の陳寿原本に補追されている裵松之付注記事も、陳寿が採用したわけでは無いので、用例とすべきでは無いのです。なにしろ、陳寿が参照したかどうかすら不明なのです。

 この点の誤解は、古来、裴松之以下の後世史家が、揃いも揃って陥った陥穽であり、「二千年後生の無教養な東夷」である当世国内史家が陥ったとしても、無理のないところですが、諸兄姉に於いては、原点に立ち返って冷静に考えていただければ、ことの見極めのつくものと考えます。
 そのような編纂方針が顕著なのは、後漢末、献帝建安年間の曹操南征時に生じた、俗に言う「赤壁の戦い」に関する各国志の食い違いですが、それぞれの「国志」が、各国の公文書に厳格に基づいて編纂されていて、陳寿が「三国志」を統一編纂していないことから生じたものです。

未完

03. 從郡至倭 読み過ごされた水行 改訂第八版 追記更新 3/3

 2014/04/03 追記2018/11/23、2019/01/09, 07/21, 2020/05/13, 11/02 2023/01/28, 04/23, 2024/08/21, 08/25

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

 八訂 「水行曰涉」として、「循海岸水行」論の決定考を書き足しました。(2/3ページ)
 おことわり: またまた改訂しました。そして、更に追記しました。更に、3ページに分割しました。
 注記:後日考え直すと、当初述べた「水行」行程の見方は間違っていましたので、書き足します。
 改築、増築で、見通しが付きにくいのは、素人普請の限界と御容赦いただきたいのです。

*郡から狗邪韓国まで 荷物運び談義 追記 2020/11/02
 「魏志倭人伝」に書かれた郡から狗邪韓国への行程は、騎馬文書使の街道走行を想定して著(ちょ)していますいますが、実務の荷物輸送であれば、並行する河川での荷船の起用は、むしろ自然なところです。河川交通が並行していれば、と言うことです)
 と言う事で、倭人伝」の行程道里談義を離れて、荷物輸送の「実態」を、重複覚悟で考証してみます。
 以下、字数の限られたブログ記事でもあり、現地発音を並記すべき現代地名は最小限とどめています。また、利用の難しいマップの起用も遠慮していますが、安易な思いつきでなく、関係資料を種々参照した上での論議である事は書いておきます。

 なお、当経路は、本筋として、当時、郡の主力であったと思われる遼東方面からの陸路輸送を想定していますから、素人考えで出回っているような、わざわざ黄海岸に下りて、不確かな荷船で、沖合を南下する事は無く、当時、最も人馬の労が少ないと思われる経路です。
 公式の道里行程とは別の実務経路として、黄海海船で狗邪韓国方面に向かう荷は郡に寄る必要は無いので、そのまま漢江河口部を越えた海港で荷下ろしして陸送に移したものと見えます。黄海海船は、山東半島への帰り船の途に着きます。

 当然ですが、黄海で稼ぎの多い大量輸送をこなす重厚な海船と乗組員をこのような閑散航路に就かせるような無謀な輸送はあり得ないのです。まして、さらに南下する閑散航路は、「細かい舵の効かない大型の帆船の苦手とする浅瀬、岩礁が多い」、回避のために、水先案内を同行させた上で、細かく舵取りを強いられる海難必死の海域ですから、結局、帆船と言いながら、舵取りのための漕ぎ手を多数乗せておく必要があるのです。また、地域ごとに水先案内人が必須です。
 三世紀当時は、海図も羅針盤もないので、岩礁の位置はわからない、船の位置はわからないでは、岸辺に近づくのは、危険どころか確実な破滅の道となりかねないのです。

 因みに、舵による帆船の転進は、大きく迂回はできても、小回りがきかず、特に、入出港時のように船足が遅い状態では、ほとんど舵が効かないので、入出港の際には、漕ぎ手の奮闘で転進する必要があるのです。今日でも、大型船舶の入出港の際には、小型ながら推進力の強い曳き船(タグボート)が、船腹に頭突きでもするように船首を押し付けて、転進させるのが普通なのです。
 つまり、漕ぎ船と同様、寄港地を跨ぐ連漕は効かず、細かい乗り継ぎ/漕ぎ手交代が不可欠となります。

 と言うことで、半島航路に大型の帆船は採用されず、軽舟の乗り継ぎしか考えられないのであり、それでも、難破の可能性が大変高い、命がけのものと考えられます。
 以上、代案として評価しましたが、少なくとも、貴重で重量/質量のある公用の荷物の輸送経路として採用されないものと見えます。ちなみに、輸送の常識中の常識ですが、荷物は、人手で運べるように小分けして梱包してあるので、全体重量は、特に問題にならないのです。まして、一部素人論者がゴチャゴチャ騒いでいる荷物の「比重」など、全く関係しないのです。

*郡から漢江(ハンガン)へ
 推定するに、郡治を出た輸送行程は、東に峠越えして、北漢江流域に出て、川港で荷船に荷を積むまでの陸上輸送区間があったようです。郡の近辺なので、人馬の動員が容易で、小分けした荷物を人海戦術で運ぶ「痩せ馬」部隊や驢馬などの荷車もあったでしょう。そう、駿馬は、気が荒くて荷運びに向かないし、軍馬として貴重なので、荷運びは驢馬か人手頼りだったものと思われます。とかく「駄馬」の語感が悪いのですが、重荷を運ぶのは「荷駄馬」が、大量に必要だったのです。

 後世大発展した漢江河口の広大な扇状地は、天井川と見られる支流が東西に並行して黄海に流れ込み、南北経路は存在していなかったと思われます。(架橋などあり得なかったのです)つまり、郡から南下して漢江河口部に乗り付けようとしても、通れる道がなく、また、便船が乗り付けられる川港も海港もなかったのです。
 南北あわせた漢江は、洛東江を超えると思われる広大な流域面積を持つ大河であり、上流が岩山で急流であったことも加味されて、保水力が乏しく、しばしば暴れ川となっていたのです。
 郡からの輸送が、西に海岸に向かわず、南下もせず、東に峠越えして北漢江上流の川港に向かう経路が利用されていたと推定する理由です。
 いや、念のため言うと、官制街道の記録を確認したわけでもなく、この辺りは、現地地形、河勢を見た推定/夢想/妄想/願望/思い付きの何れかに過ぎません。

*北漢江から南漢江へ
 北漢江を下る川船は、南漢江との合流部で、「山地のすき間を突き破って海へと注ぐ漢江本流への急流部」を取らずに、南漢江遡行に移り、傾斜の緩やかな中流(中游)を上り、上流(上游)入口の川港で陸に上り、以下、一千㍍を超え、冬季には、積雪凍結の小白山地越えの難路に臨んだはずです。
 漢江河口部から本流を遡行して、南北漢江の合流部まで遡ったとしても、そこは、山地の割れ目から流れ出ている急流であり、舟の通過、特に遡行が困難です。(実際上「不可能」という意味です)
 と言う事で、途中の川港で陸上輸送に切り替え、小高い山地を越えたところで、南漢江の水運に復帰したものと思われます。何のことはない、陸上輸送にない手軽さを求めた荷船遡行は、合流部の急流難関のために難航する宿命を持っていたのです。
 合流部は、南北漢江の増水時には、下流の水害を軽減する役目を果たしていたのでしょうが、水運の面では、大きな阻害要因と思われます。

 公式行程とは別に、郡からの内陸経路の運送は北漢江経由で水運に移行する一方、山東半島から渡来する海船は、扇状地の泥沼(後の漢城 ソウル)を飛ばして、その南の海港(後世なら、唐津 タンジン)に入り、そこで降ろされた積み荷は、小分けされて内陸方面に陸送されるなり、「沿岸」を小舟で運ばれたのでしょう。当然、南漢江経路に合流することも予想されます。但し、それは「倭人伝」に記述された道里行程記事とは、「無縁」です。

 世上、「ネットワーク」などとわけのわからない時代錯誤の呪文が出回っていますが、三世紀当時、主要経路に人員も船腹も集中していて、脇道の輸送量は、ほとんど存在しなかったのですから、縦横に拡張された編み目など存在しないのです。カタカナ語を導入するというのは、付き纏っている後代概念を引きずり込むことであり、早く言えば「時代錯誤」、ゆっくり言えば、その時代なかった「画餅」を読者に押し付けているのです。要するに、読者を騙しているのではないかと、懸念されるのです。考古学界の先賢は、当時存在していなかった言葉を持ち込むのは、好ましくない(駄目だ)と戒めているのです。
 因みに、当時山東半島への渡海船は、比較的大容量ですが、渡海専用、短区間往復に専念していたはずです。つまり、船倉や甲板のない、むしろ現代人が想像する船舶というより筏に近いものであったと考えられます。遼東半島と山東半島を結ぶ最古の経路ほどの輸送量は無かったものの(半島南部にあたる)韓国諸国の市糴を支えていたものと見えます。

*南漢江上游談議
 と言うことで、南漢江上流(上游)の話題に戻ると、漢江中流部(中游)は闊達であり、山間部から流下する多数の支流を受け入れているため、増水渇水が顕著であり安定した水運が困難であり、特に、南漢江上流部は、急峻な峡谷に挟まれた「穿入蛇行」(せんにゅうだこう)や「嵌入曲流」を形成していて、水運に全く適さなかったものと思われます。
 従って、漢江中流から上流に移る移行部にあって、後背地となる平地のある適地(忠州 チュンジュ)に、水陸の積み替えを行う川港が形成されたものと思われます。現代にいたって、貯水ダムが造成されて、上流渓谷は貯水池になっていますが、それでも、往時の激流を偲ぶことができると思います。
 そのような川港は、先に述べた黄海海港からの経路も合流している南北交易の中継地であり、山越えに要する人馬の供給基地として、大いに繁盛したはずです。そのような既存の要路を避けて大きく迂回する海岸沿いの「航路」は、はなから、「画餅」にすらならず問題外なのです。

*竹嶺(チュンニョン)越え
 小白山地の鞍部を越える「竹嶺」は、遅くとも、二世紀後半には、南北縦貫街道の要所として整備され、つづら折れの難路ながら、人馬の負担を緩和した道筋となっていたようです。何しろ、弁辰鉄山から、両郡に鉄材を輸送するには、どこかで小白山地を越えざるを得なかったのであり、帯方郡が責任を持って、地域諸国に命じて街道宿駅を設置し、維持していたものと見るべきです。
 後世と違い、漢江流域は、時に蔑称とされる「嶺東」と呼ばれる開発途上地域であり万事零細な時代ですから、盗賊が出たとは思えませんが、かといって、官制宿駅を維持保全するには、周辺の小国に負担がかかっていたのでしょう。ともあれ、帯方郡は漢制郡であったので、郡治に治安維持の郡兵を擁し、魏武曹操が確立した「法と秩序」は、辺境の地でも巌として守られていたとみるべきです。

*弁辰鉄山考 2024/08/25
 ついでながら、世上、「弁辰鉄山」を重要視する意見がありますが、それなら、韓濊倭の採掘、輸送に任せていたわけはなく、然るべき担当官を置いて厳重に監督していたはずですが、そのような形跡はなく、単に、倭に向かう海津(海港)が特記されないままに狗邪韓国が書かれているだけですから、帯方郡として「倭人」に鉱山管理全般を「委託」していたものとみえます。何しろ、韓には、主体となるべき「弁韓」国は存在せず、濊は、渾然たる未開の集団だったので、「委託」できるのは、「倭人」であったとみえるのです。
 海峡を越えた「倭人」は、当時、韓国側が手漕ぎの渡船による交通/輸送の両面で隘路に近い状態なので、鉱山産物の取得に限界があり、また、軍事的にも、進出、支配が明らかに不可能だったので、実質的に、帯方郡御用達の鉱山監督の役目を果たしていたものと見えます。
 くり返しますが、「弁辰鉄山」が重要であれば、帯方郡は同地に鉄山管理を使命とした「縣」を設けなければならないのですが、竹嶺越えの経路を隔てた「遠隔縣」は、弱小帯方郡にとって維持不可能で、はなから、そのような意図はなかったと見えます。要するに、大した問題では無かったのです。また「倭人」による占拠は、問題外であったと見えるのです。

*閑話休題
 「竹嶺」越えは、はるか後世、先の大戦末期の日本統治時代、黄海沿いの鉄道幹線への敵襲への備えとして、帝国鉄道省が、多数の技術者を動員した京城-釜山間新路線(中央線)の峠越え経路であり、さすがに、頂部はトンネルを採用していますが、その手前では冬季積雪に備えた、スイッチバックやループ路線を備え、北陸・東北地方の豪雪地帯の山岳路線で鍛えた積雪、寒冷地対応の当時最新の鉄道技術を投入し、全年通行を前提とした高度な耐寒設備の面影を、今でも、しのぶ事ができます。
 と言う事で、朝鮮半島中部を𠂆(えい)状に区切っている小白山地の南北通行は、歴史的に「竹嶺」越えとなっていたのです。
 それはさておき、冬季不通の難はあっても、それ以外の季節は、周辺から呼集した労務者と常設の騾馬などを駆使した峠(日本語独特の漢字)越えが行われていたものと見えます。

*荷運びの日常
 言葉や地図では感じが掴めないでしょうが、峠と言っても南北対称ではなく「片峠」であり、南側はなだらかです。今日、「竹嶺」の南山麓(栄州 ヨンジュ)から「竹嶺ハイキングコース」が設定されています。こちら側は、難路とは言え難攻不落の険阻な道ではないのです。要するに、栄州側は、山頂までの緩やかな短い登坂であり、山頂付近で荷を交換して降りてくるので、むしろ気軽な半日仕事だったのです。

*洛東江下り
 峠越えして栄州に降りると、以下の行程は、次第に周辺支流を加えて水量を増す大河 洛東江(ナクトンガン)の水運を利用した輸送が役に立った事でしょう。南漢江上流(上游)は、渓谷に蛇行を深く刻んだ激流であり、とても水運を利用できなかったので、早々に、陸上輸送に切り替えていたのですが、洛東江は、さほど蛇行の形跡がないものの深く侵食が進んでいて、傾斜が緩やかになっていたのでかなり上流まで水運が行われていたようです。必然的に、川岸が険しい段丘なので、船荷の積み降ろしが困難であったようです。
 以下、特に付け加える事は無いようです。
 洛東江は、太古以来の浸食で、中流部まで、川底が大変なだらかになっていて、また、遥か河口部から上流に至るまでゆるやかな流れなので、あるいは、曳き船無しで遡行できたかもわかりません。ともあれ、川船は、荒海を越えるわけでもないので、軽装、軽量だったはずで、だから、遡行時に曳き船できたのです。もちろん、華奢な川船で海峡越えに乗り出すなど、とてもできないのです。適材適所という事です。

 因みに、小白山地は、冬季、北方からの寒風を屏風のように遮って、嶺東と呼ばれる地域の気候を緩和していたものと思われます。九州北部が比較的温暖なのは、長く伸びた朝鮮半島の山並みが、シベリアの冬将軍の猛威を緩和するからだと思われますが、それは、本項では余談です。

 というものの、嶺東は、洛東江が深い河谷を刻んでいたために、流域の灌漑は困難であり、大規模な水田稲作が成り立たなかったようです。寒冷な気候とあいまって、食料生産は不振だったようです。

 参考までに、日本統治時代の現地視察報告を見ると、二十世紀に到っても、嶺東では、水田稲作がほとんど普及していなかったと言う事です。つまり、先行していた高麗時代と朝鮮王朝時代に、嶺東地域は冷遇されて、十分な土木/治水工事がされていなかったため、農業生産は低迷していたようなのです。日本統治下では、途方もないと見える巨額の国費を注ぎ込んで、半島全域の鉄道、国道整備、電力電信網の確立、義務教育の普及による人的資源の振興等、近代化の前提となる「インフラストラクチャ」整備、さらには、住民福祉の向上が進んだはずですが、それまで長年放置されていたので、にわかに開発を進めることはできず、依然として地域の発展が遅れていたとみえます。義務教育の普及という点で、伝統的な漢文専科では、初頭教育が不可能なこともあって、日本語のかな文字教育を進めたのですが、蛮夷の俗の押しつけということで、識者の反感を買ったようです。また、欧米の近代科学思想の導入は、日本語教科書導入が不可欠だったのですが、これは、伝統的な中国文化の否定として、これも、識者の反感を買ったようです。こうした意見は、とかく韓国から非難されるので、ひっそり書き留めておくのに留めたいところです。

*代替経路推定
 と言う事で、漢江-洛東江水運の連結というものの、漢江上流部の陸道は尾根伝いに近い難路を経て竹嶺越えに至る行程の山場であり、しかも、積雪、凍結のある冬季の運用は困難(不可能)であったことから、あるいは、もう少し黄海よりに、峠越えに日数を要して山上での人馬宿泊を伴いかねない別の峠越え代替経路が運用されていたかもわかりません。何事も、断定は難しいのです。
 このあたりは、当方のような異国の後世人の素人(二千年後生の無教養な東夷)の愚考の到底及ばないところであり、専門家のご意見を伺いたいところです。

 因みに、当記事をまとめたあと、岡田英弘氏の著作を拝見すると、氏は、半島南北交通が竹嶺(鳥嶺)越えで確立されていたと卓見を示されているのですが、なぜか、郡使の訪倭行程を、俗説の海上行程と見立てていて、失望させられたものです。氏は、鉄道ファンなら誰もが憧れるであろう「中央線」乗車を達成できなかった「怨」を抱いていたのかも知れません。

以上

2024年10月 8日 (火)

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」1/16 2024

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05 記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 
 2024/01/20、 05/08, 08/02, 10/08, 10/28

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*三,四,五訂の弁
 当記事は、16ページの長尺に、書き足しがあって、結構字数が多いのですが、そこそこ閲覧頂いているようなので、少しばかり書き足して、三訂版としました。いくら書いても、いくら閲覧があっても、世間の「俗説」が減らなければ、とは思うのですが、手桶から柄杓一杯の水を打てば、打たないより世の中が潤うと思うので、微力を尽くすことにしました。

 なお、塚田氏は、2024年4月10日水曜日付けブログ記事「魏志倭人伝から見える日本のPDFファイル改定」において、今回の改訂は、Pdfファイルの再構築であって、内容の改訂に及んでいないとの趣旨を表明されているので、御言葉に甘えて、原文確認を控えています。勘違いがあれば、御容赦いただきたいものです。
 又、氏が、CO-PILOTによるご自身氏名の検索で理解されたように、読み囓りした文字列を意味ありげに連ねるAI技術には、閉口しているので、間違いなく人間である当ブログ筆者は、古来の文章解釈の手順を堅持していることを明言します。いや、筋の通った論義を展開することのできない事例の多い「NI」(自然知能)に比べると、大部改善されている/躓き石が減っているのですが、比較評価の対象が誤っていると見えるのです。

*五訂のポイント
 五訂のポイントとして、 3/16頁で展開していた「水行」論義の「結論」が挙げられます。
 今回は、渡邊義浩氏から、行程用語としての「水行」の起源は、司馬遷「史記」夏本紀の禹の「行脚記事」に遡るまで存在しないとの保証をいただいたところから出発しています。結論を言うと「行脚記事」に書かれているのは、街道上を車で移動する「陸行」のみが「行程」であり「水行」は、対岸の街道に至る渡船であって「行程」ではないとの解釈に「到着」したものです。

 このように、史記により「水行」とは陸行移動の繋ぎの渡船を言う』(爾雅)と、漢代に明確に定義されていたので、「魏志倭人伝」道里行程記事の冒頭の「循海岸水行」は、「大海」を「大河」に見立てたと予告したものの大局として読者に周知であり、したがって、渡船で対岸に渡ることが自明であったことが明らかになったのです。もちろん、行程は街道移動しかないので、郡を出たら一路南下するのは、当然自明ですから、書かれていないのです。

 くわしくは。当該ページを確認いただきたいものです。ただし、本記事は、あくまで、塚田敬章氏のサイト記事玉稿の書評であり、今回も、改訂と言うより、追記の形を取っているので、話の筋がすこしもたついていますが、取り敢えず、私人の論稿としては、特に混乱しているとは見えないので、このままで公開としました。

▢はじめに
 塚田敬章氏のサイトで展開されている古代史論について、その広範さと深さに対して、そして、偏りの少ない論調に対して、かねがね敬服しているのですが、何とか、当方の絞り込んでいる「倭人伝」論に絞ることにより、ある程度意義のある批判ができそうです。

 いや、今回は三度目の試みで、多少は、読み応えのある批判になっていることと思います。当ブログで連綿として展開している「書評」は、別の著者/著作の批判記事ですが、実際は、『未熟な論者が、適切な指導者に恵まれなかったために、穴だらけの論説を「でかでか」と公開してしまった事態を是正したいためにひたすらダメ出ししている』例が多いのです。「未熟」は、何時の日か、陽光を見出して、熟することを期待しているものですが、それは、よそごとであり、本件は、一代を築いた先賢に対して、敬意を抱きつつ、あえて批判を加えているものであり、歴然と異なっているものと思います。

 言うまでもないと思うのですが、当記事は、氏の堂々たる論説の「すき間」を指摘しているだけで、当記事での一連の指摘が単なる「思い付き」でないことを示すために、かなり、かなり饒舌になっていますが、それだけの労力を費やしたことで、格別の敬意を払っていることを理解いただけると思うものです。とかく批評記事で饒舌になると、広げた風呂敷のほころびを言い立てられて「損」をすると思われるでしょうが、当方は、専門家でなく「素人」なので「利」を求めているわけではないからして、特定の営利集団から「百害あって一利なし」と指弾されても、むしろ本望なのです。

 塚田氏は、魏志倭人伝の原文をたどって、当時の日本を検証していくのに際して、造詣の深い「国内史料に基づく上古史」論から入ったようで、その名残が色濃く漂っています。そして、世上の諸論客と一線を画す、極力先入観を避ける丁寧な論議に向ける意気込みが見られますが、失礼ながら、氏の立脚点が当方の立脚点と、微妙に、あるいは、大きくずれているので、氏のように公平な視点をとっても、それなりの「ずれ」が避けられないのです。いや、これは、誰にでも言えることなので、当記事でも、立脚点、視点、事実認識の違いを、できるだけ客観的に明示しているのです。また、氏の意見が、「倭人伝」の背景事情の理解不足から出ていると思われるときは、くどいように見えても、背景説明に手間を惜しんでいません。

 どんな人でも、「知らないことは知らない」のであり、当ブログ筆者たる当方の自分自身で考えても、「倭人伝」の背景事情を十分納得したのは、十年近い「勉学」の末だったのです。対象を「倭人伝」に限り、考察の範囲を「道里」里程論に集中しても、それだけの時間と労力が必要だったのです。というような、事情をご理解いただきたいものです。

 長文の記事から批判を読み囓って、片々をつまみ上げ/取り出して、「失礼、冒瀆」と悲憤慷慨、怒髪天を衝く向きには、いくら諄々と説いても、主旨が通じないかも知れませんが、当記事は、少なくとも「三顧の礼」なのです。

 また、氏の「倭人伝」道里考察は、遙か後世の国内史料や地名継承に力が入っていますが、当記事では、「倭人伝」の考察は、同時代、ないしは、それ以前の史料に限定する主義なので、後世史料は、言わば「圏外」であり、論評を避けている事をご理解頂きたいと思います。

 そういうわけで、揚げ足取りと言われそうですが、『三世紀に「日本」は存在しない』との仕分けを図っています。丁寧に言うと、三世紀当時、交通、輸送、交信の維持できた範囲は、徒歩で、せいぜい数日の範囲内のほんの近場であり、海山を隔てた地域との「遠距離恋愛」ならぬ「遠距離締盟」、「遠距離征伐」は存在しなかったと断定される以上、「日本」なる後代概念は存在しなかった/時代錯誤という見方です。もし、今述べたような批判が不成立だというご意見であれば、十分な論拠を持って批判頂きたいものです。
 ちなみに、古代史学の大家上田正昭氏は、時代錯誤の原因となる「日本」の使用を限定し、前史時代については「日本列島」と括弧付きで示すことを提言されています。いかがなものでしょうか。

 このように、論義の有効範囲と前提条件を明確にしていますので、通り掛かりの野次馬のかたが異議を提示される場合は、それを理解した上お願いします。
 なお、氏が折に触れて提起されている史料観は、大変貴重で有意義に感じるので、極力、ここに殊更引用することにしています。

〇批判対象
 ここでは、氏のサイト記事の広大な地平から、倭人伝道里行程記事の考証に関するページに絞っています。具体的には、
 弥生の興亡、1 魏志倭人伝から見える日本、2 第二章、魏志倭人伝の解読、分析
 のかなり行数の多い部分を対象にしています。(ほぼ四万字の大作であり、言いやすい点に絞った点は、ご理解頂きたい)

〇免責事項
 当方は、提示頂いた異議にしかるべき敬意を払いますが、異議のすべてに応答する義務も、異議の内容を無条件で提示者の著作として扱う義務も有していないものと考えます。
 とはいうものの氏の記事を引用した上で批判を加えるとすると、記事が長くなるので、引用は、最低限に留め、当方の批判とその理由を述べるに留めています。ご不審があれば、Pdf文書化が整っている氏のサイト記事と並べて、表示検証頂いてもいいかと考えます。

                           未完

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」2/16 2024

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05 記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 
 2024/01/20、 05/08, 08/02, 10/08, 10/28

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

魏志倭人伝から見える日本2 第二章魏志倭人伝の解読、分析
 1 各国の位置に関する考察
  a 朝鮮半島から対馬、壱岐へ    b 北九州の各国、奴国と金印  c 投馬国から邪馬壱国へ
  d 北九州各国の放射式記述説批判  e その他の国々と狗奴国
 2 倭人の風俗、文化に関する考察
  a 陳寿が倭を越の東に置いたわけ  b 倭人の南方的風俗と文化

第二章、魏志倭人伝の解読、分析 [全文 ほぼ四万字]
1 各国の位置に関する考察
  a 朝鮮半島から対馬、壱岐へ
《原文…倭人在帯方東南大海之中 依山島為国邑 …… 今使訳所通三十国

コメント:倭人在~「鮎鮭」の寓意
 まずは、「倭人伝」冒頭文の滑らかな解釈ですが、「魏志倭人伝の解読、分析」という前提から同意できないところが多々あります。
 「うっかり自分の持っている常識に従うと、同じ文字が、現代日本語と全く異なる意味を持つ場合が、少なからずあって、とんでもない誤訳に至る可能性もあります。」とは、諸外国語の中で、「中国語」は、文字の多くを受領したいわば導師であることから自明の真理であり、『「倭人伝」など別に教えて貰わなくてもすらすら読める』という根強い、度しがたい「俗説」を否定する基調です。氏の例示された「鮎鮭」の寓意は、特異な例ではなく、むしろ、おしなべて言えることです。
 してみると、「国邑」、「山島」の解釈が、既に「甘い」と見えます。

 氏は、このように割り切るまでに、どのような参考資料を咀嚼したのでしょうか。素人考えでは、現代「日本語」は、陳寿が読者として想定した当時の洛陽教養人の言語と「全く」異なっているので、確証がない限り、書かれている文字に関して、「必然的」に意味が異なる(可能性がある)と見るべきです。ついでに言うなら、現代中国語も、又、古代の「文語」中国語と大きく異なるものであり、「文語」の背景となる厖大な素養のない(無教養な)現代中国人の意見も、又、安直に信じることはできません。(よくよく、人柄を審査し、意見の内容を確認しない限り、「全く」信用できないという事です)

 「文意を見失わぬよう、一つ一つの文字に神経を配って解読を進めなければなりません。」とは、さらなる卓見ですが、それでも、読者に「文意」を弁える「神経」がなければ、いくら苦言を呈しても耳に入らず何も変わらないのです。大抵の論者は、ご自身の知性と教養に絶大な自信を持ってか、「鮎鮭」問題など意識せず、中国古代の史官の筆の運びを「自然に」「すらすら」と「普通に」解釈できると錯覚して堂々と論義しているのです。そういうご時世ですから、塚田氏処方の折角の妙薬も、読者に見向きもされないのでは、「つけるクスリがない」リスクになります。誠に、この上もなく勿体ないことです。

コメント:「倭人伝」に「日本」はなかった
 自明のことですが、三世紀当時、「日本」は存在しません。
 当然、8世紀冒頭あたりに始めて東夷から表明された「日本」は洛陽教養人の知るところでなく、倭人伝」は「日本」と全く無関係です無造作に押しつけている帯方郡最寄りの「日本」は、史学で言う「日本列島」、つまり、筑紫から纏向に至る帯状の地域を思い起こさせますが、それこそ、世にはびこる倭人伝」誤解の始まりです。この点、折に触れ蒸し返しますが、お耳ざわりでご不快でしょうが、よろしく趣旨ご了解の上、ご容赦いただきたい。

 些細なことですが、帯方郡は、氏の理解のように既知の楽浪郡領域の南部を分割した地域ではなく、後漢中平六年(189)(霊帝没年)以来遼東の地に駐屯していた遼東郡太守公孫氏が、後漢献帝建安九年(204)時点で、過去、「漢武帝が設置し以来半島方面を管理していた楽浪郡」の管轄域であっても、管理の手の及んでいない「荒地」、「郡に服属していなかった蕃夷領域」を統治すべく、それまで同地域を管轄していたと見える楽浪郡「帯方」縣を「郡」に格上げして新たに「郡」としたものです。
 「」は、郡太守が住まう聚落、城郭、郡治であって、以前の「帯方縣」の中心県治と同位置であったとしても、支配地域の広がりを言うものではないのです。

 因みに、帯方郡が設立された動機は、半島南部の「韓」「濊」のさらに南にあるとわかった「倭」の新境地を監督するためと見えます。丁寧に言うと、それまで、楽浪郡領域南端にあって東夷管理の実務に当たっていた「帯方縣」を格上げして、東夷と折衝する面目/権限を与えたものであり、別に、遼東郡に並ぶ同格の一級の郡としたものでは有りません。

 帯方郡は、万事、遼東郡に報告し指示を仰いでいたのですが、公孫氏は、東夷事情を後漢皇帝に報告していなかったのですから、「倭人」のことは、後漢中央政権の知るところではなかったと見えるのです。笵曄「後漢書」に収録された司馬彪「続漢書」「郡国志」は、楽浪郡管内に「帯方縣」を記載していて、帯方郡は存在しません。つまり、笵曄「後漢書」に帯方郡は存在しないのです。
 世上、なぜか評価の高い笵曄「後漢書」が、根拠史料がないのに、東夷列伝に「倭」の条を追記した意図は不明ですが、楽浪郡から倭に至る行程道里が明記されていないのは、その辺りに原因がありそうです。楽浪郡は、郡に至る道里を申告させる権限と義務があり、明らかに、笵曄は、楽浪郡の公式記録を参照していないのです。

 というものの、笵曄「後漢書」において倭から楽浪郡の檄まで「万二千里」と書いているのは、奇々怪々です。世上、「倭人伝」に書かれている「郡から倭まで万二千里」を、魏代の創作、或いは、西晋史官陳寿の史料改竄の結果としている説がありますが、後漢書記事が同工異曲となっているのは、後漢書東夷列伝の信頼性を損ない、正確さを疑わせるものと見えます。
 閑話休題。帯方郡太守の俸給(粟)も、軍兵の食い扶持も、帯方郡内の賄いというものの、実際は、公孫氏の裁量範囲だったのです。

*「幻の帯方郡」論義
 言い過ぎがお気に障ればお詫びするとして、帯方郡を発していずれかの土地に至ると言うのであれば、その出発点は、帯方郡の文書発信窓口ですから、ほぼ郡治中心部となります。南方の「荒れ地」は、関係ないのです。
 ついでに、正史の記録を確認/復習すると、後漢献帝治世の建安年間当時、遼東公孫氏が当地域を所領として自立同然であり、帯方郡を設立したとの通知は行われていなかったようです。つまり、郡治の位置は、公式に後漢献帝居処であった許昌に届け出されていなくて、帯方郡が雒陽から何里とされていたかという「公式道里」は不明です。ですから、雒陽から「倭人」まで何里という公式道里は、当然、不明なのです。

 なお、帯方郡の母体であった楽浪郡について言えば、武帝の設置時に公式道里が設定されて、それ以来、楽浪郡の所在の移動には、全く関係なく保持されていたのです。つまり、後漢代初頭、東夷所管部門であった楽浪郡の(洛陽からの)「公式道里」は、笵曄「後漢書」に収容された司馬彪「続漢書」「郡国志」に記載されているものの、それは、漢代以来国家制度の一部として不可侵の状態で固定されていたものであり、実際の「道里」、つまり、街道を経た「道のり」との関連は、かなり疑わしいのです。

 一案としては、帯方郡は、楽浪郡の直属の配下であったので、雒陽から楽浪郡に届いた文書は、その時点で至近の帯方郡に届いたと解釈していた可能性があります。つまり、後漢書「郡国志」が更新されていたとすると、事実上、雒陽から帯方郡までの公式道里は、楽浪郡までの公式道里と同一であったと解釈して良いと思われるのです。楽浪郡自体、漢武帝が創設して公式道里が設定され、それ以降郡治の異動があったとしても、公式道里は不変であった
わけですから、帯方郡公式道里設定の際に、改めて、雒陽からの街道道里を測量などしなかったのは、むしろ当然と見えます。
 「魏志」には、志部がないので、帯方郡の公式道里は不記載ですが、陳寿としては、単に「郡」と書くことで両郡の雒陽からの公式道里は共通であると示唆していると思えます。

*後漢書「倭条」の不条理
~2023/07/24
 くり返しになりますが、雒陽から新設帯方郡に至る「道のり」は、笵曄「後漢書」「郡国志」に記録が残っていないのです。それどころか、「郡国志」には「帯方縣」と書かれているだけで、帯方郡は載っていないのであり、後漢献帝の時代の公文書に「帯方郡」は存在しないので、笵曄の視点から言うと、帯方郡の所在は、本来幻なのです。言い換えると、笵曄が「倭条」を書いた/創作した時、その手元には、確たる公文書史料がなかったと言う事を証しています。(要するに「倭条」は、笵曄の創作だということです)
 「倭人伝」の対象である両郡郡治の所在が、今日に至るも不明/不確定なのは、そうした事情によるものなのです。一部論者は、勝手に帯方郡治を漢城(ソウル)としていますが、三世紀初頭、漢城は、未だ地盤の固まらない、橋梁のかけられない沖積地だったので、堅固な城壁を必要とし多数の郡兵を常設する郡治は、楽浪郡同様に半島中央の高地にあったと見られます。
 復習すると、帯方郡の雒陽からの公式道里は、それ以前の「帯方縣」が、楽浪郡の公式道里に従属していた以上、分郡しても、同一道里、つまり、「雒陽から五千里」であったと見なすことができます。一方、「倭人伝」道里記事に示されている「従郡至倭」は、公孫氏が「倭人」を受け入れた時点の遼東郡志(公文書記録)に依拠しているとすると、遼東郡、ないしは、楽浪郡と伊都国を示していると解釈するのが順当なところです。
 このあたり、当時の時代背景を精査しないと読み解けないとみるのが「正論」のはずなのですが、世上、ご自身の(限られた、僅少な)知識で「すらすら」解釈している「楽天的」論者が多いので、議論が「通説」の波打ちによって大きく撓められていると見えるのです。幸い、いくら撓んでも、「折れる」事のない心を保っていれば、時を経て「通説」が風化すれば「正論」が回復するとみたいものです。

 念のため言うと、陳寿は、雒陽に所蔵されていた、後漢から引き継がれた魏代「公文書」を「随時」閲覧することができたので、公孫氏が、帯方郡創設の際に所在地/(雒陽からの)「公式道里」を洛陽/献帝に報告していれば、皇帝の批准を得た「公文書」となっていて、三国志「魏志」の編纂の際に利用できた/利用するしかないのですが、「倭人伝」には、そのような「公文書」記載の帯方郡に至る「公式道里」は参照されていません。遼東公孫氏は、東夷に関して後漢献帝のもとに報告していなかったことは、陳寿「魏志」に明記されていますが、帯方に関しては、後漢代の事件でありながら、郡の設立すら許都の献帝に報告されていなかったということです。(細かく言うと、その時点で、統轄部門である鴻臚が、雒陽にあったのか、許都にあったのか、確認は困難と思います)
 恐らく、公孫氏時代の「倭人」文書は、景初二年八月とされる司馬懿の遼東討伐の際に全て破壊され、辛うじて、事前に魏明帝の指示によって楽浪/帯方郡から回収した「地方郡文書」郡志が、魏の支配下の洛陽に届き、皇帝の承認を得て、魏の公文書に記載されたものと見えます。

 以下、論義が一部、重複していくのですが、笵曄「後漢書」東夷列傳の倭に関する断片記事「倭条」は、後漢公文書史料の裏付けのない憶測、ないしは、本来利用が許されない魏公文書の盗用ということになりますが、魏公文書の実物は、陳寿没後の西晋末、北方民族による雒陽討滅の際に喪われたと思われるので、百五十年程度後世である劉宋の文筆家笵曄は、一次史料である魏公文書そのものを見ることはできなかったと見えます。
 と言うことで、笵曄「後漢書」東夷列伝の中で「倭条」は正当な史料根拠を持たないので、そこに書かれている記事は「信用できない」ということになります。正確な記事もあるかも知れないが、裏付けがないので、「倭人伝」記事を訂正する、ないしは、記事ないしは解釈を追加する論拠とできないということです。ご理解いただけたでしょうか。

*東方「倭種」談義
 「倭条」には、「倭人伝」で、女王居所の「南方」にあると明記され、熱暑とも見える風土、習慣などが詳述された「狗奴国」の印象を利用して、「倭」の東方にある「拘奴国」が創作されていますが、景初年間に帯方文書を回収し、倭使の参上を受入、正始年間(240-249)には「倭」に魏使を送った魏代においてすら詳細不明だった東方「倭種」が、後漢建安年間(196 - 220)、つまり、景初/正始年間の五十年以前に、樂浪郡に国使を送って、国名を申告していたと言うのは、「倭人伝」に対して、何とも壮大な異論となります。
 笵曄「後漢書」「倭条」全体が、根拠の無い創作幻像としたら、その一部である「拘奴国」は、「史実」、つまり、「後漢公文書記録」の反映ではないと見るものでしょう。あえて、同意いただけないとしたら、明確な根拠を持って否定していただくよう、お願いします。

 さらに言うと、笵曄と同時代の裴松之が魏志に付注した際、帯方郡道里とみえる「万二千里」に関する付注をしていないことから、笵曄「後漢書」編纂時点において、帯方郡の所在/公式道里は不明だったことになります。因みに、その時点では、山東半島から朝鮮半島への行程は、劉宋の勢力外であり、また、先だって辺境を管理していた帯方郡は、楽浪郡共々滅亡していたので、劉宋から現地情報を確認することは不可能だったのです。

コメント:大平原談義
 自明のことですが、倭人伝」の視点、感覚は、三世紀中原人のものであり、二千年後生の無教養な東夷である「我々」の視点とは対立しているのです。この認識が大事です。因みに、なぜか、ここで「北方系中国人」などと、時代、対象不明、意味不明の言葉が登場するのは、誤解の始まりで不用意です。論ずべきは、三世紀、洛陽にたむろしていた中原教養人の理解なのです。むしろ、「中国」の天下の外に「中国人」は、一切存在しないので、あえて、域外に進出していた「中国」人を論ずるなら、後世語で「華僑」とでも言うべきでしょう。
 因みに、氏の言う「大平原」は、どの地域なのか不明です。モンゴル草原のことでしょうか。もう少し、不勉強な読者のために、言葉を足して頂かないと、理解に苦しむのです。

                                未完

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」3/16 2024

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 
 2024/01/20、 05/08, 08/02, 10/08, 10/28

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*「日本」錯誤 ふたたび
 三世紀中原人の認識に当然「日本」はなく、倭人伝」を読む限り「女王之所」のある「九州島」すら、その全貌は知られていなくて、「壱岐、対馬同様の海中絶島、洲島が散在する」と見られていたようです。少なくとも、冒頭の文の「倭人在帶方東南大海之中、依山㠀爲國邑」は、冷静に読むと、そのように書かれています。

 氏を含めて、世上溢れる「倭人伝」解説書は、三世紀中原人の地理観とは無縁の現代地図を盛っていて、誤解を大いに誘っていますが、「倭人伝」には、そのような「地図」はくくりつけられていないのであり、二千年校正の無教養な東夷である読者諸兄姉は、「倭人伝」に書かれている地理観をそのまま受け入れなければならないのです。
 ことは、三世紀の地理がどうであったかという論義でなく、「倭人伝」に書かれている行程の解釈であり、それは、編者である陳寿が依拠した史料、つまり、漢魏代を通じて雒陽官庫に蓄積された記録文書を編成して書き上げた行程記事の解釈ですが、編者は、当時の読者の知識、読解力を念頭に置いて筆を振るったのであり、当時の読者が諒解したのであるから、その前提で行程記事を解釈するというのが、合理的な解釈法と思うものです。ここでくどくど言うのは、従来の国内史家は、自身の築いた世界像に沿うように、つまり、自身の望む比定地に、自身が創造した「邪馬台国」を築き上げることを使命として、記事解釈を撓めているのが大概であり、細部に蘊蓄を傾けているために、本来簡明であった記事が「泥沼」に引きずり込まれている惨状を呈しているからです。塚田氏が、そのような「泥沼」に染まっているのでなければ幸いです。

 まだ「倭人」世界がよく見えてなかった公孫氏時代の帯方縣/郡の初期認識では、「日本」ならぬ「倭人」の「在る」ところは、對海、一支、末羅あたりまでにとどまっていて、伊都が末羅と地続きらしいと見ていても、その他の国は、小島同士が連なっているのか離れているのか不明です。
 要は、集団としての「倭人」は帯方東南に在って、地理概念の筈の「大海」(広大な塩水湖/塩水の流れる大河)を「倭」と捉えていて、そのような「倭」に散在する小島に存在する「国邑」と見ていたと思わせるのです。恐らく、「倭人」が楽浪郡に最初に参上した当時、伊都国が主導していたことから、郡、つまり、公孫氏遼東郡の務めは、郡から倭までの文書伝達の規定日程を確定することにあったと見えます。何しろ、魏明帝が「倭人」にたっぷりした下賜物を届けたいと思っても、何処を何日かけて移動して倭に着くのかわからなくては、道中の宿舎、人夫、便船の手配が出来ないのです。

 時代が進んで、帯方郡によって「倭人伝」道里記事の構図が完成してみると、傍路諸国でも、戸数五万戸に垂ん(なんなん)とする投馬国は、さすがに、小島の上には成り立たないので、どこか、渡船で渡らざるを得ない遠隔の島と想定したという程度の認識だったのでしょう。不確かでよくわからないなりに、魏晋史官として筋を通したに過ぎないので、ここに当時存在せず、従って参照できなかった精密な地図や道里を想定するのは、勝手な「思い込み」の押しつけ、あるいは、妄想に過ぎないのです。

 以上のように、古代中原人なりの地理観を想定すれば、世上の泥沼、『「倭人伝」道里行程観』は、立ち所に沈濁して清水に還るでしょう。もちろん、ここにあげる提言に同意頂ければと言うだけです。いや、以下の提言も同様に、私見の吐露に過ぎませんので、そのように理解いただきたいものです。

 この地理観を知らないで、「九州島」さらには「東方の正体不明の世界にまで展開する広大な古代国家」を想定していては、「倭人伝」記事の真意を知る事はできないのが、むしろ当然です。地理観が異なっていては言葉は通じないのです。何百年論義をしても、現代人の問い掛ける言葉は、古代人に通じず、求める「こたえ」は、風に乗って飛んで行くだけです。

 念のため確認すると、氏が今日の地図で言う「福岡平野」海岸部は、往時は、せいぜい海岸河口部の泥世界であって、到底、多数の人の「住む」土地でなかったし、当時「福岡」は存在しなかったので、論義するのは時代違いです。今日、福岡市内各所で進められている着実な遺跡発掘の状況を見ると、海辺に近いほど、掘れども掘れども泥の堆積という感じで、船着き場はともかく倉庫など建てようがなかったと見えますが、間違っているのでしょうか。
 もっとも、帯方郡官人には、そのような現地地理など、知ったことではなかったのです。

 余談ですが、イングランド民謡「スカボローフェア」には、「打ち寄せる海の塩水と渚の砂の間の乾いた土地に住み処を建てて、二人で住もう」と、今は別れて久しい、かつての恋人への伝言を言付ける一節がありますが、「福岡平野」は、そうした叶えようのない、夢の土地だったのでしょうか。 あるいは、波打ち際に築き上げた砂の城なのでしょうか。

コメント:国数談義
 班固「漢書」の天子居処は、遙か西方の関中の長安であり、とても、東夷が手軽に行き着くものではないのです。笵曄「後漢書」の天子の住まう雒陽すら、樂浪郡から遙か彼方であり、倭の者は、精々、漢武帝以来の楽浪郡か後漢建安年間に武威を振るった遼東郡(公孫氏)の元に行っただけでしょう。
 何しろ、帝国街道は、当然ながら、要所に宿駅や関所が設けられていて、「過所」(通行許可証)を持たない蛮夷は、通行できなかったのです。「もちのろん」、道中の宿駅は、ただで宿泊させてくれるわけはなく、食料や水も得られないのです。「郡」の役人が、「過所」を持って随行すればこそ、雒陽までたどり着けるのです。いや、蛮夷は、道中で、随員共々かなりの厚遇を受けたとされていますから、ますます、郡官人の同伴は、不可欠だったのです。
 最後のとどめですが、もし、蛮夷が「勝手に」雒陽の鴻臚寺にたどり着いたとしても、所定の郡役人に伴われずに、つまり、事前の申請/許可無しに「勝手に」参上した蛮夷は、雒陽都城に入ることはできず、追放/排斥されるだけです。

 言い直すと、古来、蛮夷の国は、最寄りの地方拠点の下に参上するのであり、同伴、案内ならともかく、単独で皇帝謁見を求めようにも、通行証がなくては道中の関所で排除されます。中国国家の「法と秩序」を侮ってはなりません。

 国数の意義はご指摘の通りで、楽浪郡で「国」を名乗った来訪者の記録であり、伝統、王位継承していたらともかく、各国実態は不確かです。不確かなものを確かなものとして論ずるのは誤解です。その点、塚田氏の指摘は冷静で、至当です。 世上、滔々と古代史を語り上げる方達は、東夷の蛮人が、文字が無く、文書がない時代、数世紀に亘って、どんな方法で「歴史」を綴っていたか、説明できるのでしょうか。

《原文…従郡至倭 循海岸水行……到其北岸狗邪韓国 七千余里

コメント:従郡至倭~水行談義の収束
 「水行」の誤解は、「日本」では普遍的ですが、世上の論客は、揃って「倭人伝」の深意を外していて、塚田氏が提言された「鮎鮭」の寓意にピタリ当てはまります。要するに、『「水行」は、河川を船で行く(渉る)ことに決まっているという「自明」事項すらご存じないのでは、以下、どんなに高度な論理を駆使しても、深層から遠ざかるのみなのです。
 「倭人伝」が提示している「問題」の題意を誤解して、勝手にお手盛りで、自前の「問題」(難題)を書き立て自前の解答をこじつけては、本来の正解にたどり着けないのは、当然です。 この「問題」に関して、落第者ばかりなのは「問題」が悪いからではないのです。何しろ、二千年来、「倭人伝」は「倭人伝」として存在しているのです。

 「倭人伝」記事は、文字通り、「循海岸水行」であり、「(沖合に出て)海岸に沿って行く」との解釈は、陳寿の真意を見損なって無謀です。原文改竄は不合理です。ここでは「沿って」でないことに注意が必要です。

 「海岸」は海に臨む「岸」、固く乾いた陸地であり、海岸に「沿って」 との「定説」の解釈に従うと、船は陸上を運行する事になります。「倭人伝」は、いきなり正史と認定されたのではなく、多くの教養人の査読を歴ているので、理解不能な痴話言と判断されたら却下されていたのです。つまり、当時の教養人が読めば、筋の通った著作だったのです。

 「循海岸水行」が、場違い、勘違いでないとしたら、「水行」は、以下の道中記に登場する『並行陸路のない「渡海」』概念を、適確に「予告」しているものと見るものではないでしょうか。見方を変えれば、既存の用語では書けないので、「この場限りの用語定義」ということになります。

*冒頭課題で、全員落第か
 世上、「倭人伝」道里記事の誤解は許多(あまた)ありますが、当記事が、正史の公式道里の鉄則で、陸上の街道を絶対の前提としている事を見過ごしています。いわば、二千年後生の無教養な東夷に蔓延っている「沿岸水行」は、二重の意味で初心者の度しがたい「思い込み」による誤解による「落第」であり、「落第」に巻き込まれるのを免れているのは「循海岸水行」を意味不明として回避している論者だけのように見えます。
 つまり、「郡から狗邪韓国まで七千里、郡から末羅国までは、これに三千里を足して一万里」と見ている「賢明な論客」だけが、「落第」を免れています。
 誤解を正すと、後世南朝宋代ないしは唐代に至る中原教養人の用語で「水行」は、河水(黄河 中流)江水(長江、揚子江)など大河を荷船の帆船が行くのであり、古典書は「海を進むことを一切想定していない」のです。これは、中原人の常識なので書いていません。と言うことで、この点の誤解を基礎にした世上論客の解釈は、丸ごと誤解に過ぎません。ほぼ、全員が「一発落第」ですから、例外的な「賢明な論客」以外は、全員落第で、試験会場はがら空きです。(「後世南朝宋代ないしは唐代に至る」は、五訂の追記事項 2024/10/09)
 以下、訂正記事有り。

*水行、陸行再考/訂正
 2024/10/08
 この点は、三國志の至上の権威であり、併せて、笵曄「後漢書」全巻通釈の不朽の偉業を遂げている渡邊義浩氏の説くところでもありますが、氏は、高次の歴史家であるので、卒読すると誤解しかねないので、よくよく真意を噛みしめる必要があります。

 つまり、氏は、中国史書の旅程記事で、陸行、水行と並記しているのは、史記夏本紀に溯るまで皆無としています。(渡邊義浩 「魏志倭人伝の謎を解く」中公新書2164)当然ながら、ここでは、西晋史官陳寿の語彙を確認しているのは、言うまでもないでしょう。
 「陸行乘車,水行乘船,泥行乘橇,山行乘檋。」(司馬遷「史記」巻二 夏本紀)
 御言葉ですが、原文を精査すると、そこに書かれているのは、禹后の河水沿岸遍歴であり、「陸行」、「水行」、「泥行」、「山行」と列記されているものの、街道の行程も示されていなければ水上の行程も示されていないので、旅程記事などではないのです。渡邊氏も、これは「故事」としていて、説話の類いであり史実とは見ていません。
 素人考えを言わして頂くと、「泥行」で水岸で陸地と水流の間の泥を橇で移動するとおっしゃられても、それは旅程なのですかと、問い返すものではないでしょうか。思うに、「泥行」は陸地と水流の間の移動は橇に乗る(行く)ということでしかないのです。
 なにしろ、俗信に拘わらず、高貴な存在は、自らの脚を土や泥に脚を下ろして移動することは、一切できないので、移動するには何かに乗らねばならないとして、それぞれの「行」の乗り分けを示しているのです。「水行」で言えば、水流に足を乗せたら、忽ち水没するので、移動どころか溺死するのですから、船に乗らざるを得ないのです。

 ということで、文書解釈の常識に従うと、当文書は、漢魏西晋代を通じ、「水行」などという旅程表示は一切存在しなかったことを示しているのです。
 と言うことで、当ブログ筆者の持論が、図らずも裏付けられたことになります。なにしろ、全史書を通読解釈するなど、素人のできることではないので、顕学の証言は、何物にも代えがたい論拠となります。
 ちなみに、「魏志倭人伝」に「水行」と新規概念が書かれているのは、依拠した原史料に「水行」と書かれていたためと推察されていますが、それは、当該資料が示されていない以上、根拠のない憶測でしかありません。渡邊氏ほどの顕学にしては、不用意な発言です。

 念のため言うと、古典書にある「浮海」とは、当てなく海を進むことを言うのであり、「水行」が示唆するような道しるべのあるものではないのです。又、時に提起される紛らわしい「呉志」用例ですが、渡邊氏が明言されているように「水行」用例ではないので、棄却されます。

*水行曰涉 2024/10/08
 また、行程記事の「水行」から視野を広げて、河川を移動する用例/定義を調べると、太平御覽 地部二十三に引用された、漢代編纂とされる類語辞典「爾雅」によると「水行曰涉」、つまり、河川を渡船で渉ることを「水行」と言うと明快です。
 時に引き合いに出される唐六典の「水行」は、漢語の語彙が大きく乱れた後世唐代以降の文献記事ですから、雒陽教養人が健在であった西晋代に編纂された「魏志倭人伝」の解釈では、ずいぶん下位に位置するものです。

 ちなみに、同項に続いて、「逆流而上曰溯洄,順流而下曰溯游,亦曰沿流」とあり、川の流れに従う移動と逆らう移動は、それぞれ「溯洄」,「溯游」ないしは「沿流」であって、「水行」とは全く異なる用語です。これら「溯洄」、「溯游」ないしは「沿流」なる規定用語でなく、「水行」と書いたと言うことは、それが、河流方向の移動ではないことを明示しているものとみられます。

 してみると、前に述べた禹后の「水行」は、「河水の対岸に渡る渡船移動を示した」ものとみえます。もちろん、水に並行して街道があって、車に乗れるのであれば、不安定な川船で河水を上下して移動することなど必要ないのです。なにしろ、司馬遷が史記を書いたのは、漢武帝代ですから、まさしく「爾雅」の語彙が健在だったわけであり、してみると、「水行」は川に沿った移動ではないことが明快です。
 かくして、陳寿が「循海岸水行」と書いたのは、海岸から、大河に比喩された『「大海」の流れを渉る』意味であったことが明解になるのです。当然、三世紀当時の読書人は、陳寿の語彙を熟知していたので、二千年後生の無教養な東夷の陥る錯誤は、全く関係なかったのです。

 渡邊義浩氏の隠喩に深く感謝する次第です。

*「時代常識」の確認
 そもそも、皇帝使者が、「不法」な海上船舶交通を行うことはないのです。一言以て足るという事です。その際、現代読者の一部が軽率に口にする「危険」かどうかという時代錯誤の判断』は、一切関係ないのです。
 あえて、「不法」、つまり、国法に反し、誅伐を招く不始末を、あえて、あえて、別儀としても、「危険」とは、ケガをするとか、船酔いするとか人的な危害を言うだけではないのです。行人、文書使である使者が乗船した船が沈めば、使者にとって「命より大事な」文書、書信が喪われ、あるいは、託送物が喪われます。そのような不届きな使者は、たとえ生還しても、書信や託送物を喪っていれば、自身はもとより、一族揃って連座して、刑場に引き出されて、文字通り首を切られるのです。自分一人の命より「もの」を届けるという「使命」が大事なのです。
 因みに、当時の中原士人は、「金槌」なので、難船すれば、水死必至なのです。

*後世水陸道里~圏外情報 
 後世史書の記事なので、「倭人伝」道里記事の解釈には、お呼びでないのですが、後世、南朝南齊-梁代に編纂された先行劉宋の正史である沈約「宋書」州国志に、会稽郡戸口道里が記載されていて、「戶五萬二千二百二十八,口三十四萬八千一十四。去京都水一千三百五十五,陸同」、つまり、京都建康から、水(道 道里)一千三百五十五(里)、陸(道 道里)も同様」との「規定」から、一見、船舶航行を制度化したと見えますが、長江、揚子江の川船移動の「道のり」とこれに並行する陸上移動の「道のり」とは「規定」上、同一とされていたのがわかります。
 ここで言う、「水道」は、陸上街道「陸道」と対比できる河川行程を言うのであり、後世、「日本」で海峡等を誤称した「水道」でなければ、もちろん、飲料水などを、掛樋や鉛管で供給する「水道」でもありません。諸兄姉の愛顧されている漢和字典に、この意味で載っていなくても、古代(中国)に於いて、そのように書かなかった証拠にはなりません。ご注意下さい。
 
 両経路/行程を、例えば、縄張りで測定して五里単位で同一とした筈はなく、推測するに、太古、陸上街道を千三百五十五里と「規定」したのが、郡治の異同に拘わらず、水陸の差異も関係無しとして、水道(河川交通)に「規定」として適用されていたことがわかります。
 要するに、「倭人伝」道里は、当時意味のなかった測量値でなく「規定」であるというのも、理解いただけるものと思います。

 補足すると、「並行街道がない」というのは、『「騎馬の文書使が走行できる」とか「武装した正規兵が隊伍を組んで行軍できる」とか「四頭立ての馬車が走行できる」などの要件「全長に亘って」満たす「街道」』が設置、維持できなかった/されていなかったと言うだけであって、崖面に桟道を設けるなどの苦肉の策で細々と荷役する「禽鹿径」が存在したという可能性は否定していないと言うか、否定しようなどないのです。

                                未完

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」4/16 2024

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 
 2024/01/20、 05/08, 08/02, 10/08, 10/28

*加筆再掲の弁
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*重大な使命~Mission of Gravity
 使者が使命を全うせずに命を落としても、文書や宝物が救われたら、留守家族は、使者に連座するのを免れて、命を長らえるだけでなく、褒賞を受けることができるのです。陸送なら書信や託送物が全滅することはないのです。

 以上、別記事で延延と述べた論旨をここに敷延しているのは、「循海岸水行」の誤解が蔓延しているので、殊更丁寧に書いたものです。
 因みに、「沿岸航行」が(大変)「危険」なのは、岩礁、荒磯、砂州のある海岸沿いの沖合を百千里行くことの危険を言うのです。一カ所でも海難に遭えば、残る数千里を無事であっても、一撃で破船、落命するのです。
 ついでに言うと、海上では、強風や潮流で陸地に押しやられることがあり、そうなれば、船は抵抗できず難船必至なので、出船は、一目散に陸地から遠ざかるのです。
 これに対して、後ほど登場する海峡「渡海」は一目散に陸地を離れて前方の向こう岸を目指すのであり、しかも、通り過ぎる海の様子は、岩礁、荒磯、砂州の位置も把握していて、日々の潮の具合もわかっていて、しかも、しかも、日常、渡船が往来している「便船」の使い込んだ船腹を、とことん手慣れた漕ぎ手達が操るので、危険は限られているのです。その上、大事なことは、大河の渡船であれば、万一、難船しても両岸から救援できるのです。恐らく、周囲には、漁船がいるでしょうから、渡船は、孤独ではないのです。
 このあたりの先例は、班固「漢書」、及び魚豢「魏略」西戎伝の「二文献」に見てとることができますが、文意を知るには、原文熟読が必要なので、誰でも、すらすらとできることではありません。
 しかして、海峡渡海には、代わるべき並行陸路がないので、万全を期して、そそくさと渡るのです。
 ついでに言うと、渡し舟は、朝早く出港して、その日の早いうちに目的地に着くので、船室も甲板も厨房もなく、水や食料の積み込みも、最低限で済むのです。身軽な小船、軽舟なので、その分荷物を多く積めるのです。

*橋のない川
 そもそも、中原には橋のない川がざらで、渡し舟で街道を繋ぐのが常識で、僅かな渡河行程は、道里行程には書いていないのです。
 東夷が、海を渡し船で行くのは、千里かどうかは別として、一度の渡海に一日を費やすので、三度の渡海には十日を確保する必要があり、陸上行程に込みとは行かなかったから、本来自明で書く必要のなかった「陸行」と区別して、例外表記として「水行」と別記したのです。

*新規概念登場~前触れ付き
 念押しを入れると、「循海岸水行」は、『以下、例外表記として「渡海」を「水行」と書くという宣言』なのです。
 因みに、字義としては、『海岸を背にして(盾にとって)、沖合に出て向こう岸に行く』ことを言うのであり、「彳」(ぎょうにんべん)に「盾」の文字は、その主旨を一字で表したものです。(それらしい用例は、「二文献」に登場しますが、寡黙な現地報告から得た西域情報が「二文献」に正確に収録されているかどうかは、後世の文献考証でも、論義の種となっています)
 ということで、水行談義がきれいに片付きましたが、理解いただけたでしょうか。

 要は、史書は、不意打ちで新語、新規概念を持ちだしてはならないのですが、このように、先だった宣言で読者に予告した上で、限定的に、つまり、倭人伝の末尾までに「限り」使う「限り」は、新語、新規概念を導入して差し支えないのです。何しろ、読者は、記事を前から後に読んでいくので、直前に予告され、その認識の残っている間に使うのであれば、不意打ちではないということです。

*新表現公認
 その証拠に、「倭人伝」道里記事は、このようにつつがなく上覧を得ていて、後年の劉宋史官裴松之も、「倭人伝」道里行程記事を監査し、格別、指摘補注はしてないのです。
 ここで、正史たるべき倭人伝」で「水行」が史書用語として確立したので、後世史家は、当然のごとく使用できたのです。例えば、沈約「宋書」「洲郡志」は、劉宋代の会稽の地理記事として、「去京都水一千三百五十五,陸同」、つまり、京都建康までの行程として常用されるのは「水道」であるが、並行して、「陸道」があり、道里は共通であると簡明です。恐らく、東呉時代も同様であったのでしょうが、曹魏に報告はなかったので「魏志」に地理記事はなく、また、東呉の史書「呉書」に地理記事があったとしても、「魏志」にない地理記事は採用されなかったものと見えます。沈約は、しきりに、三国志に地理記事がないことを歎いていますが、つまり、同様の記事は、後世、補充したものと見えます。

*「従郡」という事
 「従郡至倭」と簡明に定義しているのは、古来の土地測量用語に倣ったものであり、「従」は、農地の「幅」を示す「廣」と対となって農地の「縦」「奥行き」の意味であり、矩形、長方形の農地面積は、「従」と「廣」の掛け算で得られると普通に教えられたのです。(出典「九章算経」)
 「従郡至倭」は、文字通りに解すると、帯方郡から、縦一筋に倭人の在る東南方に至る、直線的、最短経路による行程であり、いきなり西に逸れて海に出て、延々と遠回りするなどの「迂回行程」は、一切予定されていない』のです。
 念押ししなくても、塚田氏も認めているように、郡から倭人までは、総じて南東方向であり、その中で、「歷韓國乍南乍東」は、「官道に沿った韓国を歴訪しつつ、時に進行方向が、道なりに、東寄りになったり、南寄りになったりしている」と言うだけです。解釈に古典用例を漁るまでもなく、時代に関係ない当たり前の表現です。

コメント:里程談義~弾劾法廷
 因みに、塚田氏は「三国鼎立から生じた里程誇張」との政治的とも陰謀説とも付かぬ「俗説」を理性的に否定していて、大変好感が持てます。文献解釈は、かくの如く「合理的」でありたいものです。
 岡田英弘氏なる高名な先哲が、ご自身が折に触れて批判している「二千年後生の無教養な東夷」であることを自覚せず、「三国志」に書かれていない「陰謀」を「創作」して、「西晋代の陳寿が、後漢代の記録にまで遡って、魏朝の記録に干渉/改竄/捏造し、あり得ない道里記事をでっち上げた」と弾劾しているのと大違いです。

 子供の口喧嘩(賈豎争言)でもあるまいに、「高名な先哲」は、弾劾には「証拠」提出の上に「弁護」役設定が不可欠であり、『根拠の実証されていない一方的な非難/弾劾は「誣告」とよばれる重罪である』のを見落としているのですから、氏の厳正な姿勢には、深甚なる賛辞を呈します。

                                未完

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」5/16 2024

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 
 2024/01/20、 05/08, 08/02, 10/08, 10/28

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*「心理的距離」の不審
 但し、氏の言われる七千余里は、「大体こんな程度ではなかろうか」という大雑把な心理的距離と捕えておけば済みます。との割り切りは、意味不明です。「心理的距離」というのは、近来登場した「社会的距離」の先ぶれなのでしょうか。「メンタルヘルス」の観点から、早期に治療した方が良いでしょう。おっかぶせた「大雑把な」とは、どの程度の勘定なのでしょうか。苦し紛れのはぐらかしにしても、現代的な言い訳は三世紀人に通じないのです。

 それにしても、郡~狗邪は、最寄りの郡官道であり「地を這ってでも測量できる」のです。とは言え、「倭人伝」など中国史料で、道里は、せいぜい百里単位であり、他区間道里と校正することもないのですが、それでも、正史である「魏志」で六倍近い「間違い」が、「心理的な事情」で遺されたとは信じがたいのです。中国流の規律を侮ってはなりません。

*第一報の「誇張」~不可侵定説
 私見では、全体道里の万二千里が、検証なくして曹魏皇帝明帝に報告され、御覧を得たために、以後、「綸言汗の如し」「皇帝無謬」の鉄則で不可侵となり、後続記録である「倭人伝」が辻褄合わせしたと見ます。同時代中国人の世界観の問題であり、二千年後生の無教養な東夷の好む「心理的」な距離など関係はないのです。

*御覧原本不可侵~余談
 三国志は、陳寿没後早い時期に完成稿が皇帝の嘉納、御覧を得て帝室書庫に所蔵され、以後不可侵で、改竄など到底あり得ない「痴人の夢」なのです。原本を改竄可能なのは、編者范曄が嫡子もろとも斬首の刑にあい、重罪人の著書となった私撰稿本の潜伏在野時代の「後漢書」でしょう。
 いや、世上、言いたい放題で済むのをよいことに、「倭人伝」原本には、かくかくの趣旨で道里記事が書かれていたのが、南宋刊本までの何れかの時点で、現在の記事に改竄された』という途方も無い『暴言』が、批判を浴びることなく公刊され、撲滅されることなく根強くはびこっているので、塚田氏の論考と関係ないのに、ここで指弾しているものです。

*東夷開闢~重複御免
 それはさておき、「倭人伝」道里記事の「郡から倭人まで万二千里」あたりは、後漢から曹魏、馬晋と引き継がれた(東京 首都雒陽)公文書を根底に書き上げられたので、最初に書かれたままに残っていると見たのです。
 後日、調べ直して、考え直すと、後漢末献帝建安年間は、遼東郡太守の公孫氏が、混乱した後漢中央政府の束縛を離れて、ほぼ自立していたのであり、遼東から雒陽への文書報告は絶えていたので、帯方郡創設の報せも、帯方郡に参上した「倭人」の報せも、遼東郡に握りつぶされ、「郡から倭人まで万二千里」の報告は、後漢公文書どころか、後継/承継した曹魏の公文書にも、届いていなかったと見えるのです。
 笵曄「後漢書」に併録された司馬彪「続漢紀」郡国志には、「楽浪郡帯方縣」とあって、建安年間に創設された帯方郡は書かれていないのです。当然、洛陽から帯方郡への公式道里も不明です。

 恐らく、司馬懿の征伐によって遼東公孫氏が、郡官人とともに撲滅され、郡の公文書類が、根こそぎ破棄されたのと別に、明帝の別途の指示で、楽浪/帯方両郡を、早々に皇帝直下に回収した際、両郡に残されていた公文書が、雒陽にもたらされたものと見えます。
 魚豢「魏略」は、正史として企画されたものではないので、雒陽公文書に囚われずに雒陽に保管されている東夷資料を自由に収録したものと見えますが、陳寿が、公式史料でない魏略からどの程度引用したか、不明と云わざるを得ません。史官の職業倫理から、稗史である魚豢「魏略」の引用は忌避したものと推定されるのです。

 魏明帝の景初年間、司馬懿の遼東征伐に、「又」(日本語で言う「さらに」)、並行してか前後してか、魏は、皇帝明帝の詔勅をもって、楽浪/帯方両郡に新太守を送り込み、遼東郡配下の二級郡から皇帝直轄の一級郡に昇格させ、帯方郡に東夷統轄の権限を与え、韓倭穢の参上を取り次ぐことを認めたので、その際、帯方郡に所蔵されていた各東夷の身上調査が報告されたのです。楽浪帯方両郡が遼東郡に上申した報告書自体は、公孫氏滅亡の際に一括廃棄されていましたが、控えが「郡志」として所蔵されていたのです。ちなみに、遼東郡の下部組織であったとはいえ、一片の帝詔で両郡太守を更迭し、新任太守を送り込んで皇帝直属とすることができたのです。武力を要しない無血回収であり、まさしく「密かに」と形容されるものでした。

 つまり、「従郡至倭万二千里」とは、この際に、帯方郡新太守が、魏帝に奏上した新天地に関する報告です。文字通り、東夷開闢です。この知らせを聞いた明帝は、「直ちに、倭人を呼集して、洛陽に参上させよ」と命じたのに違いないのです。
 但し、新太守は、倭人に対して即刻参上の急使を発したものの、郡記録から、郡から倭に至る文書使は四十日相当で到着すると知って「従郡至倭万二千里」が実行程の道里でないと知り、皇帝に重大な誤解を与えた責任を感じて苦慮したはずです。

 つまり、「従郡至倭万二千里」は、遼東郡で小天子気取りであった公孫氏が、自身の権威の広がりを、西域万二千里まで権威の広がった「漢」に等しいと虚勢を張ったものであって、これは、周制で王畿中心の天子の威光の最外延を定義したものに従っただけであり、実際の行程道里と関係無しの言明であり、公孫氏自体、倭まで、実際は、せいぜい四十日程度の行程と承知していたことになるのです。
 万事、景初帯方郡に生じた混乱のなせる技だったのです。これは、一応筋の通ったお話ですが、あるいは、公孫氏以前の桓帝、霊帝期に「倭人」が参上して、その時点で東夷を統轄していた楽浪郡が、道里、戸数などを事情聴取したものの雒陽に報告しなかったとも見えます。何れにしろ、女王共立以前、女王国は存在せず、伊都国が「倭人」を統轄していたものの「大倭王」が居城に君臨していた可能性もあり、後漢書「東夷列伝」倭条は、そのような体制を示唆しているとも見えますが、何しろ、史官ならぬ笵曄の言い分は、あてにはなりません。
 
 原点に帰ると、陳寿は、魏志」を編纂したのであり、創作したのでは「絶対に」ないのです。公文書史料が存在する場合は、無視も改変もできず、「倭人伝」道里行程記事という意味では、より重要である所要日数(水陸四十日)を書き加えることによって、不可侵、改訂不可となっていた「万二千里」を実質上死文化したものと見るのです。
 因みに、正史に編纂に於いて、過去の公文書を考証して先行史料に不合理を発見しても、訂正せずに継承している例が、時にあるのです。班固「漢書」西域伝安息伝に、そのような齟齬の顕著な例が見られます。
 現代人には納得できないでしょうが、太古以来の史料作法は教養人常識であり、倭人伝」を閲読した同時代諸賢から、道里記事の不整合を難詰されてないことから、正史に恥じないものとして承認されたと理解できるのです。後世の裴松之も「万二千里」を不合理と指摘していないのです。

*舊唐書 萬四千里談義~余談
 因みに、後世の舊唐書「倭国」記事は「古倭奴國」と正確に理解した上で、「去京師一萬四千里」、つまり京師長安から万四千里として、「倭人伝」道里「万二千里」を魏晋代の東都洛陽からの道里と解釈、踏襲しているのであり、正史の公式道里の実質を物語っています。
 つまり、倭人道里は、実際の街道道里とは関係無く維持されたのです。
 もちろん、「倭国」王城が固定していたという保証はありません。具体的な目的地に関係なく、蕃王居処が設定されて以後「目的地」が移動しても、公式道里は、不変なのです。

 逆に言うと、当初、公孫氏が「従郡至倭」万二千里と設定した後、出発点が、遼東郡、または、楽浪郡から帯方郡に代わったとしても、到着先が、伊都国(倭国)から、女王国(倭国)に代わって、國王の治所が変動しても、それぞれ、公式道里には一切反映しないのです。舊唐書編者は、倭王之所までの行程道里は、当時の首都雒陽であったに違いないとの高度な解釈をしたのかも分かりません。何しろ、倭人伝以来、唐代までの間には、天下の西晋が、北方異民族によって滅亡して、雒陽が破壊蹂躙され、辛うじて南方に逃避した東晋の権威は、以下継続した南朝諸国に引き継がれたものの、北朝隋が南朝陳を破壊蹂躙したので、唐代以降の「倭人伝」道里記事の解釈が、正当なものでなくなっていた可能性はあるのです。

*「歩」「里」の鉄壁「尺」は、生き物
 「尺」は、度量衡制度の「尺度」の基本であって、時代の基準とされていた遺物が残されていて、その複製が、全国各地に配布されていたものと見えます。そして、「歩」(ぶ)は、「尺」の六倍、つまり、六尺で固定だったのです。世上、「歩」を、歩幅と身体尺と見ている向きがありますが、それは、素人考えであって、根拠のない想定に過ぎないのです。
 何しろ、度量衡単位は、日々市場での取引に起用されるので、商人が勝手に変造するのを禁止する意味で、市場で使われている「尺」の検閲と共に、定期的に、「尺」の更新配布を持って安定化を図ったのですが、政府当局の思惑かどうか、更新ごとに、微細な変動があり積み重なって、「尺」が伸張したようです。
 但し、度量衡に関する法制度には、何ら変更はないのです。何しろ、「尺」を文書で定義することはできないので、以下に述べた換算体系自体は、何ら変更になっていないのです。

*「歩」の鉄壁
 基本的に、耕地測量の単位は「里」の三百分の一である「歩」(ぶ)です。
 「歩」は、全国各地の土地台帳で採用されている単位であり、つまり、事実上、土地制度に固定されていたとも言えます。皇帝といえども、「歩」を変動させたとき、全国各地の無数の土地台帳を、連動させて書き換えるなど、できないことなのです。(当時の下級吏人には、算数計算で、掛け算、割り算は、実際上不可能なのです)
 また、各戸に与えられた土地の面積「歩」に連動して、各戸に税が課せられるので、土地面積の表示を変えると、それにも拘わらず税を一定にする、極めて高度な計算が必要となりますが、そのような計算ができる「秀才」は、全国に数えるほどしかいなかったのです。何しろ、三世紀時点で、計算の補助になるのは、一桁足し算に役立つ算木だけであり、掛け算は、高度な幾何学だったのです。

*「ハードル」ならぬ「鉄壁」
 世に言う「ハードル」は、陸上競技の由来で、軽く跨いで乗り越えられるものであり、苦手だったら迂回して回避するなり、突き倒し蹴倒しして通れば良いのですが、「鉄壁」は、突き倒す/突き破る/突き除けることも、乗り越え/飛び越えることもできず、ただ、呆然と立ちすくむだけです。解釈の分かれる「ハードル」でなく、「バリヤー」とでも言うのでしょうか。ちなみに、進路を塞ぐのは、腰のあたりに、バー(Bar 横棒)をおけば十分であり、文明社会では、バーがあれば、乗りこえることも潜ることも許されないので、不法な侵入を阻止できるのです。

 因みに、ここで言う「歩」(ぶ)は、耕作地の測量単位であって、終始一貫して、ほぼ1.5メートルであり、世上の誤解の関わらず、人の「歩」幅とは連動していないのです。そして、個別の農地の登録面積は、不変なのです。
 言い換えると、「歩」は、本質的に面積単位であり、度量衡に属する尺度ではないのです。

 史料に「歩」と書いていても、解釈の際に、『耕作地測量という「文脈」』を無視して、やたらと広く用例を探ると、這い上がれない泥沼、出口の見えない迷宮に陥るのです。世上の「歩」論義は、歩幅に関する蘊蓄にのめり込んでいて、正解からどんどん遠ざかっているのです。

*里の鉄壁
 道里」の里は、固定の「歩」(ぶ、ほぼ1.5㍍)の三百倍(ほぼ450㍍)であり、「尺」(ほぼ25㌢㍍)の一千八百倍であって、永年固定だったのです。
 例えば、雒陽の基準点から遼東郡治に至る「雒陽遼東道里」は、秦始皇帝の郡創設時に国史文書に書き込まれ、始皇帝の批准を得たから、以後、改竄、改訂は、できないのです。もし、後漢代にそのような行程道里が制定され、後漢郡国志などに記録されたら、魏晋朝どころか、それ以降の歴代王朝でも、そのまま継承されるのです。そのような公式道里の里数ですから、そこに書かれている一里が、絶対的に何㍍であるかという質問は、実は、全く意味がないのです。「洛陽遼東道里」は。不朽不滅なのです。

 因みに、それ以外にも、「里」の登場する文例は多々あり、それぞれ、太古以来の「異なる意味」を数多く抱えているので、本論では、殊更「道里」と二字を費やしているのです。異なる意味の一例は、「方三百里」などとされる面積単位の「方里」です。よくよくご注意下さい。
 三世紀当時、正史を講読するほどの知識人は「里」の同字異義に通じていたので、文脈から読み分けていたのですが、二千年後生の現代東夷の無教養人には、真似できないので、とにかく、丁寧に、文脈、つまり前後関係を読み取って下さいと申し上げるだけです。

 「倭人伝」は、三世紀の教養人陳寿が、三世紀の教養人、例えば晋皇帝が多少の努力で理解できるように、最低限の説明だけを加えている文書なので、そのように考えて解読に取り組む必要があるのです。三世紀、教養人は「中原中国人」で、四書五経の教養書に通じていたものの、現代人は、日本人も中国人も無教養の蛮夷なのです。別に悪気はないのです。(余談ですが『曹魏第二代皇帝明帝後継曹芳は、ホンの子供であったので、「教養人」と言えず、陳寿と同時代の晋恵帝司馬衷は、暗君で有名なので、これまた「教養人」と言えない』のですが、ここは、皇帝の個人的資質を言っているものではないのです)

*短里制度の幻想
 どこにも、一時的な、つまり、王朝限定の「短里」制など介入する余地がありません。
 天下国家の財政基盤である耕作地測量単位が、六分の一や六倍に変われば、戸籍も土地台帳も紙屑になり、帝国の土地制度は壊滅し、さらには、全国再検地が必要であり、それは、到底実施できない「亡国の暴挙」です。因みに、当時「紙屑」、つまり、裏紙再使用のできる公文書用紙は、大変高価に買い取り/流通されたので、今日思う「紙屑」とは、別種の、むしろ高貴な財貨だったのです
 中国史上、そのような暴政は、最後の王朝清の滅亡に至るまで、一切記録されていません。
 まして、三国鼎立時代、曹魏がいくら「暴挙」に挑んだとしても、東呉と蜀漢は、追従するはずがなかったのです。いや、無かった事態の推移を推定しても意味がないのですが、かくも明快な考察内容を、咀嚼もせずに、とにかく否定する論者がいるので、念には念を入れざるを得ないのです。

                                未完

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」 6/16 2024

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 
 2024/01/20、 05/08, 08/02, 10/08, 10/28

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*柔らかな概数の勧め
 氏は、厳密さを求めて、一里430㍍程度の想定のようですが、古代史では、粗刻みの概数が相場/時代常識なので、厳密、精密の意義は乏しく、さしあたっては、50㍍刻みの「450㍍程度」とすることをお勧めします。
 して見ると、一歩(ぶ)は150㌢㍍程度(1.5㍍)、一尺(しゃく)は25㌢㍍程度(1/4㍍)で、暗算できるかどうかは別として、筆算も概算も、格段に容易です。
 初心者の中には、中国制度の「里」を、国内制度の旧「里」、約四㌔㍍と勘違いしている方もあるので、氏にはくどいと思われるくらい言い募っているのです。ご容赦ください。

 魏志「倭人伝」の道里考証では、世上、「有効数字」が、一桁あるかないかという程度の、大変大まかな漢数字に対して、㍉㍍単位にまで及びそうな精密な算用数字が出回っていますが、が出回っていますが、このあたりは、漢数字で見ていないと、尺、歩、里に精密な推定が必要かと錯覚しそうです。
 少し落ち着いて考えていただいたらわかると思いますが、25㌢㍍の物差は、結構精密に制作できますが、その六倍、150㌢㍍の物差は、大変制作困難であり、その三百倍450㍍の物差は、制作不可能です。後年であれば、縄か巻き尺で作るくらいです。
 手短に言うと、尺は、物品の商取引に広く利用されていますが、歩(ぶ)は、農地の検地や建物敷地の測量やなどに利用されるので、尺とは、別次元の単位であり、まして、里は、里程以外では、広域の農地面積統計に利用されるくらいで、ほとんど、実測されることはなかったと見えます。
 つまり、里は、『その時点の「尺」を原器として六倍に三百倍を重ねて構成された』ものでなく、概念として保持されていたものと見えますから、一々、計量史的に考察する必要は乏しいものと見えます。
 いずれにしろ、古代史に於いて、大まかでしか調べのつかなかったことを、現代感覚で厳格に規定するのは、無謀で、時代錯誤そのものです。

原文…始度一海 千余里 至対海国 所居絶島 方可四百余里……有千余戸……乗船南北市糴

コメント:始度一海
 誤解がないように、さりげなく、ここで始めて、予告通り「海」に出て一海を渡ると書いています。先走りして言うと、続いて、「又」、「又」と気軽に書いています。要するに、この地点までは海に出ていないと明記しています。狗邪韓国で、初めて、海岸、つまり、海辺の崖の上から対岸を目にするのです。
 復習すると、塚田氏の「水行」解釈は俗説の踏襲であり同意できません。いわゆる「沿岸水行」説に従うと、後で、水行陸行日数の辻褄が合わなくなるのです。また、進行方向についても認識不足を示しています。「倭人在帯方東南」であり、暗黙で東西南北の南に行くのが自明なので書いてないのです。氏は、史官の練達の文章作法を侮っているようで不吉な感じがします。

*史官集団の偉業
~陳寿復権
 そういえば、世間には、陳寿が計算に弱かったなど、欠格を決め付けている人がいます。多分、ご自身の失敗体験からでしょうか倭人伝」は、陳寿一人で右から左に書き飛ばしたのではなく、複数の人間がそれぞれ読み返して、検算、推敲しているので、陳寿が数字に弱くても関係ないのです。

 他に、世間には、「陳寿は海流を知らなかったために、渡海日程部の道里を誤った」と決め付けた例もあります。
 当時言葉のない「海流」は知らなかったとしても、街道陸行の途次で、しょっちゅう経験していた渡し舟は、川の流れに影響されて進路が曲がるのを知っていたし、当人が鈍感で気付かなくても、編者集団には、川船航行に詳しいものもいたでしょうから、川の流れに浮かぶ小島と比喩した行程を考えて海流を意識しないはずはないのです。
 史官は、集団で編纂を進めたのであり、個人的な欠点は、埋められたのです。
 渡し舟での移動行程を「実里数に基づいている」とみた誤解が、無理な「決め付け」を呼んでいるようですが、直線距離だろうと進路沿いだろうと、船で移動する道里は計りようがない」し、計っても、所詮、「一日一渡海なので、千里単位の道里には、千里と書くしかない」ので、精緻な推測は、無意味なのです。
 無意味な事項に精力を注いで、時間と労力を浪費するのは、一日も早く、これっきり、これが最後にしてほしいものです。

 陳寿は、当代随一の物知りで早耳であり、鋭い観察眼を持っていたと見るのが自然でしょう。計数感覚も地理感覚も人並み以上のはずです。物知らずで鈍感では史官は務まらず、無知/無能な史官の替わりはいくらでもいたのです。多分氏は、いずれかの「現代語訳」を手にして書いているのでしょうが、これでは、論者としての信用を無くすだけです。ご自愛ください。

コメント:對海国談義
 暢気に、「対馬国」を百衲本は「対海国」と記しています。前者は現在使用されている見慣れた文字で、違和感がないとおっしゃいますが、塚田氏とも思えない不用意な発言です。史書原本は「對海國」ないし「對馬國」であり「見なれない」文字です。

*後生東夷のための「大海」入門 序章
 氏は、不要なところで気張るのですが、「絶島」は「大海(内陸塩湖)中の山島であっても、半島でない」ことを示すだけです。逆に言うと、単に「海中山島」と言えば、現代風に言えば「半島」の可能性が高いのです。山東半島から北を眺めたとき目に入るのは、海中山島、東夷の境地であり、朝鮮/韓を半島と思い込むのは、衛星地図などが意識にしみこんでいる後世人の早合点であり、ある意味、誤解となりかねないのです。念押しすると、「大海」は、現代人が錯覚するような「広々とした海」の意味でなく、西域で見なれている塩水湖の「ちょっと大きいの」という意味です。
 ご想像のような「絶海の孤島」を渡船で渡り継ぐなどできないことです。気軽に渡り継げるのは、流れに浮かぶ中之島、州島です。
 因みに、倭人伝道里記事の報告者は、対海国から一大国の渡船が、絹の綾織りのような水面「瀚海」を渡ったとしているので、波涛などでなく穏やかな渡海であったと実体験を語っているものと思わせます。

*大海談義~余談 2023/07/25
 「大海」は、大抵誤解されています。「倭人伝」では、西域に散在の内陸塩水湖の類いと見て「一海」としているのです。「二大文献」の西域/西戎伝では、「大海」には、日本人の感覚では「巨大」な塩水湖「カスピ海」(裏海)も含まれていて、大小感覚の是正が必要になります。
 くれぐれも、「大海」を「太平洋」(The Pacific Ocean)と決め付けないことです。そもそも、対馬海峡も日本海も太平洋ではありません。
 むしろ、現代地図で言うと、東西の瀬戸の隘路に挟まれた「燧灘」が、いちばん「大海」の姿に近いものです。何しろ、塩っぱくて飲めない「塩水湖」なのです。ただし、燧灘は、九州北部にあるわけではなく、考証がむつかしいところです。
 琵琶湖は、淡水湖なので端から落第です。宍道湖は、塩水湖ですが、対岸が見えないほどに大きくないので外れます。となると、後は、有明海ぐらいになりますが、有明海は、筑紫を呑み込むほどではないので、疑問です。

閑話休題
 結局の所、三世紀当時、景初二年時点で、帯方郡から見て、対馬海峡の海水面がどこまで広がっていたか、皆目分からなかったから、現代地図を見ても、その視界は窺えず、伊都国の向こうは臆測しかできなかったと見るものでしょう。「倭人伝」の地理情報が理解しがたいのは、書いている方が、現地情報をよくわかっていなかったからなのです。そして、二千年後生の「うみの子」である東夷現地人が、自分の豊富な土地勘で補おうとしても、それは、帯方郡官人すら知らない異次元の世界なので、見当違いになるのです。

 それにしても、東夷伝を読む限り、「大海」が韓国の東西にある「海」(かい)と繋がっているとの記事はなく、半島西岸沖合を航行する説の方は、どうやって「海」から「大海」の北岸に至ると構想されているのか不明です。現地地図など見ず、「倭人伝」の文字情報だけで陳寿の深意を窺えば、明記されている事項を読み損なう「誤解」は発生しないのです。(いや、地図など見るから誤解すると言えます)
 
 「倭人伝」の後半には、魏使や帯方郡官人の伊都国や狗奴国の訪問記などの後日情報が収録されていると見えますが、それは、曹魏明帝没後の追加記事であり、景初末年当時、在世中の曹魏明帝曹叡の上覧を経て、公文書庫に収録されていた道里行程記事部分の文書は、後代の改竄/修正が許されていなかったので、精々、コンシーラーでお化粧するように、つまり、糊塗するように補筆する程度でしかできなかったのです。

                                未完

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」7/16 2024

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 
 2024/01/20、 05/08, 08/02, 10/08, 10/30 2025/01/09

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*「方里」「道里」の不整合
 たいへん長くなるので、詳細は略しますが、「方里」表現は、その国/領域の(課税)耕作地の面積集計であり、「方里」は「道里」と別種単位と見るものです。要は、信頼すべき史料を順当に解釈すると、そのように適切な「解」に落ち着くのです。この順当/適切な解釈に、心理的な抵抗があるとしたら、それは、その人の知識が整っていないからです。現代風に云うと「メンタル」不調です。

 塚田氏が想定されている「方里」理解は、古田武彦氏が、第一書『「邪馬台国」はなかった』で提起し、結構多くの論者の賛同を得ている解釈に発しているようですが、その様な解釈から得られる「一里百㍍程度」の解釈が「短里説」論者に、誠に心地よいので、そこで文献深意に迫る健全な解釈が頓挫し、一方では、塚田氏のように不都合と決め付ける解釈が出回るのです。情緒と情緒の戦いでは、合理的な解釋が生まれるはずがないのです。
 「方里」の深意に迫る解釈は、まだ見かけませんが、少なくとも、審議未了とする必要があるように思います。

*「倭人伝」再評価
 「倭人伝」は、陳寿を統領とする史官達が長年推敲を重ねた大著であり、低次元の錯誤は書かれていないと見るところから出発すべきです。
 「一つ一つの文字に厳密な定義があって、それが正確に使い分けられており、曖昧に解釈すれば文意を損なうのです」とは、また一つの至言ですが、氏ご自身がその陥穽に落ちていると見えます。

 そして、「魏志韓伝」に、次の記述があります。
《原文…国出鉄……諸市買皆用鉄如中国用銭

コメント:産鉄談義

 まず大事なのは、魏では、秦漢代以来の通則で、全国統一された穴あき銅銭が、国家経済の基幹となる共通通貨なのに、韓、濊、倭は、文明圏外の未開世界で、およそ「銭」がないので、当面、鉄棒(鉄鋌)を市(いち)の相場基準に利用したということです。

 漢書に依れば、漢朝草創期には、秦朝から引き継いだ徴税体制が躍動していて、全国各地で、農民は、居住地で収穫物を売却した上で、得られた銅銭で税を地域の領主に納めました。穀物を上納する「物納」でなく「銭納」により、各地の領主から順送りに上納、集成された厖大な銭が、長安の「金庫」に山を成していたということです。高祖劉邦に続く、文帝、恵帝の時代は、内外の兵事が絶え、治安が安定し、財政が潤沢だったので、国庫の銭は使い切れずに眠っていたと書かれています。ちなみに、各地で収穫された穀物は、大量の貨物として輸送業者によって、収穫の乏しい中原に集中され、東都洛陽の入り口にあたる洛口倉なる巨大な食料庫には、大量の穀物が山を成していたようですが、それは、また、別の話です。

 戦国時代の諸国分立状態を統一した秦朝が、短期間で、全国隅々まで、通貨制度、銭納精度を普及させ、合わせて、全国に置いた地方官僚が、戦国諸国の王侯貴族、地方領主から権限を奪って「皇帝ただ一人に奉仕する集金機械に変貌させた」ことを示しています。

 農作物の実物を税衲されていたら、全国の人馬は、穀物輸送に忙殺され、皇帝は「米俵」の山に埋もれていたはずです。もちろん、北方の関中、関東は、人口増加による食糧不足に悩まされ食糧輸送は、長年に亘り帝国の基幹業務となっていましたが、それでも、銭納が確立されていて、食糧穀物輸送は、各地の輸送業者に対して統一基準で運賃を割り当てる制度が成立していたのです。(「唐六典」に料率表が収録されていますが、秦代以来、何らかの全国通用の運賃基準が制定されていたはずです
 それはさておき、共通通貨がなければ、市(いち)での取引は、ことごとく物々交換(等価交換)の相対取引であり、籠とか箱単位の売り物で相場を決めるにしても、大口取引では、何らかの協定をして価格交渉するしかなく、とにかく通貨がないのは大変不便です。

 それでも、東夷で、銅銭無しに市(いち)が運用できたのは、倭韓東夷では商いの量が圧倒的に少なかったという趣旨です。逆に言うと、商いの量が多ければ、銭がないと取引が成り立たないと言うことでもあります。又、銭がなければ、商取引は、相対決済であり、遠隔地まで売り物を担いで行くことはできないのです。

 いずれにしろ、東夷では、現代の五円玉では追いつかない数の大量の穴あき銭が必要であり、それが大きな塊の鉄鋌で済んだというのが当時の経済活動の規模を示しています。
 ここで立ち止まって、東夷傳の末尾で、韓、濊、倭が、産鉄を得ていたと言いながら、陳寿が、「倭に銭が無い」と言っているのは、倭人」諸国から、税を取り立てたくても、渡船で農作物を徴収するしかないので、実行不可能だと述べているのです。

《原文…又南渡一海千余里……至一大国 方可三百里……有三千許家

コメント:邪馬壹国改変
 氏は、妙な勘違いをしていますが、南宋刊本以来「倭人伝」原本には、「邪馬壹国」と書かれていて、どこにも「邪馬台国」、正しくは「邪馬臺国」などと改変されてはいないのです。
 因みに、氏が提示されているように、ほとんど見通せない、直線距離も方角も知りようのない海上の絶島を、仮想二等辺三角形で結ぶなどは、同時代人には、夢にも思いつかない発想(イリュージョン)であり、無学な現代人の勘違いでしょう。

*地図データの不法利用疑惑 余談
 当節、「架空地理論」というか、『衛星測量などの成果を利用した地図上に、実施不可能な直線/線分を書き込んで、図上の直線距離や方角を得て、絶大な洞察力を誇示している』向きが少なからずありますが、史実無根もいいところです。当時の誰も、そのような視野や計測能力を持っていなかったのであり、まことに「架空論」です。因みに、二千年近い歳月が介在しているので、現代の地図データ提供者の許諾する保証外のデータ利用であり、どう考えても、「地図データの利用許諾されている用法を逸脱している」と思われますから、権利侵害であるのは明らかです。

 塚田氏は、「架空 地理論」に加担していないとは思いますが、氏が独自に得た地図データを利用していると立証できない場合は、「瓜田に沓」の例もあり、謂れのない非難を浴びないように「免責」されることをお勧めします。

コメント:又南渡一海
 結局、両島風俗描写などは、高く評価するものの、壱岐の三百里四方、対馬下島の四百里四方という数字は過大です」と速断していますが、それは、先に「方里」談義として述べたように原文の深意を理解できていないための速断」と理解いただきたいのです。
 塚田氏の折角の怜悧な論理も、前提部分に誤解があれば、全体として誤解とみざるを得ないのです。氏自身、「方里」の記法が正確に理解できていないと自認されている以上、そこから先に論義を進めるのを保留されることをお勧めする次第です。
 要するに「方三百里」を「三百里四方」と解釈した時点で、既に陥穽に墜ちているのであり、一歩下がって出直すのが正解です。
 既に書いたように、陳寿は、当時の最高の知識人として、東夷伝で「方里」を書いたのであり、「道里」の「里」と異次元の単位を起用していると明記されているのですから、そのような理解が必要です。「異次元」とは、「方里」は、現代風に言うと現地の農地面積を「平方里」と同様の面積系の二次元単位で示したものであり、道「里」は、距離/尺度系の一次元単位なので、大小比較や算数計算できないという意味です。
 ちなみに、対海国の「方四百里」は、同国の土地台帳の農地面積を集計すると、大凡(おおよそ)一辺二十里(900㍍程度)の方形に相当する(だろう)ということであり、全国のほとんどが山地であって「良田」は稀少であるという記事と整合するものです。全土の数㌫程度しか農地が取れない国土の面積など、何の役にも立たないのです。
 そのような国勢表明は、帯方郡からの課税を軽減しようとする「正当な」努力であり、銭納不可能であるという条件と合わせて、ますます、「倭人」の零細さを強調しているのです。これが、陳寿の深意です。

                                未完

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」8/16 2024

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 
 2024/01/20、 05/08, 08/02, 10/08, 10/30 2025/01/09

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*對海國談義
 前項の語りと重複しますが、対海国「方里」談義で、南北に広がった島嶼の南部の「下島」だけを「方四百里」として「對海國」の国力を表現すると言い繕うのは、「重ね重ね不合理」です。帯方郡が皇帝に対する上申書でそのように表現する意義が「一切」見られないのです。

 繰替えしになりますが、山林ばかりで農地として開発困難(不可能)な土地の広さを「誇示」して何になるのでしょうか。「對海國」の国力は、課税可能な戸数で示されていて、本来、それだけで十分なのです。

 因みに、東夷伝で先行して記載されている高句麗の記事も、「山川峡谷や荒れ地が多く、国土の大半が耕作困難と知れている」高句麗を「方里」で表現する意図が、理解困難なのです。「東夷傳」に記載されているということは、東夷の国力評価に際して、「方里」に何らかの意義は認められていたのであり、恐らく、高句麗以南を管理していた公孫氏遼東郡の独特の管理手法が、「東夷伝」原資料に書き込まれていたものと見えます。
 といって、今さら、遼東郡の深意を知ることは困難です。後世人としては、「敬して遠ざける」のが無難な策と考えます。
 私見では、東夷諸國、特に「倭人」は、先帝明帝が思い込んでいた、公孫氏の上申内容が示す「無限遠の豊穣な理想郷」は虚構で、手近の荒れ地であり、概して不毛の素寒貧であるため、帯方郡は郡として成立しがたいと明記しているように見えます。特に、「倭人」は、輸送交通手段が、三度の渡船に依存していて、しかも、銅銭が通用していないので、銭納はできず、かと言って、穀物の物納は物理的に不可能という無惨な状態を上申しているのですが、受け入れがたい方も多いでしょう。

*東夷伝の誤解~岡田英弘氏の幻想序曲 2025/01/09
 中國近代史の解釈で高名な岡田英弘氏は、中國古代について熱弁を振るっていて、「漢武帝が朝鮮国を討滅して半島に置いた四郡の一郡は、半島東南部と倭を結ぶ交通路を確立し、九州北部には、中国商人の帆船が来航していた」と想定しています。さらには、後漢光武帝に参見した「倭奴国」は順当に国力が勃興して、倭人伝時代には、「遠く九州北部から瀬戸内海北岸を網羅して河内湾岸に至る列国が成立していた」との壮大な構想/倭人世界像を描かれていますから、ここに提言したまことに小ぶりの世界像は、論外として一発却下でしょうが、賛成できかねるのです。

 そのような世界像が、古代に実在していれば、各地に盛大に遺跡が展開していたでしょうし、そうした遺跡が互いに盛大に交易していたとすれば、各地遺跡に莫大な遺物が埋蔵されたことでしょう。当然、そのような交流は、文書交換せずには成立しないので、各地で文書遺物が出土するでしょう。また、物的な交流には、通貨が不可欠なので、大量の銅銭が出土するものでしょう。

 しかし、当方が知る限り、後漢光武帝期から曹魏明帝期の数世紀に亘る期間、中國側に倭から来航した形跡は、後漢明帝期に百六十人の生口が渡来したという、根拠薄弱な笵曄「後漢書」東夷列伝倭条の片々たる記事だけであり、漢倭交流の遺物は、国内遺跡にも見えないのです。また、博識で、秦漢代以来の楽用語文書の大海に精通していた陳寿は、そのような目覚ましい史実があれば、知らないはずはなく、知っていれば公孫氏の遺物である「倭人伝」に零細「倭人」を描きだすことは無かったのです。

 ちなみに、「九州北部から瀬戸内海北岸を網羅して、河内湾岸に至る列国」は、「倭人伝」の小国列記の趣旨に反した、言わば浅慮の「誤解」に過ぎないのですから、まことに壮大な砂上楼閣と見えるのですが、岡田氏の熱烈な追随者は、激昂するのでしょうか。

閑話休題
 郡から倭に至る主行程上の各国は、隔壁代わりの海に囲まれた「居城」であって、戸数で農地面積を示す標準的な「国邑」と表現されているので、想定しているような方里表現は、本来、無意味なのですから、わざわざ、良田なしとした對海國に対して「以下同文」でなく、ゆるやかに不毛を呈しているのは、意味があると介すべきではないでしょうか。よろしく、御再考いただきたい。

*両島市糴談義
 「誤解」は、両島の南北市糴の解釈にも及んで、「九州や韓国に行き、商いして穀物を買い入れている」と断じますが、原文には、遠路出かけたとは書いていないのです。ほんのお隣まで出向いて「市場」で食料などを仕入れて帰還したと見るものでしょう。
 そのように「誤解」すると、一部史学者が、現地まで出向いて、「因縁を付けた」ように、食糧不足で貧しい島が、何を売って食糧を買うのかという詰問になり、島民を人身売買していたに違いないとの、とんでもない暴言に至るのです。おっしゃるとおりで、手ぶらで出向いて売るものがなければ、買いものはできないのです。

*当然の海港使用料経営
 素直に考えれば、両島は、南北に往来する市糴船の重要/不可欠な寄港地であり、当然、多額の入出港料が取得できるのであり、早い話が、遠方まで買い付けに行かなくても、各船に対して米俵を置いて行けと言えるのです。
 山林から材木を伐採/製材/造船して市糴船とし、南北市糴の便船とすれば、これも、多額の収入を得られることになります。入出港に、地元の案内人を必須とすれば、多数の雇用と多額の収入が確保できます。
 両島「海市」(うみいち)の上がりなど、たっぷり実入りはあるので、出かけなくても食糧は手に入るのです。
 むしろ、独占行路の独占海港ですから結構な収益があったとみるのが常識であり、非常識にも「人身売買」などと公序良俗に反する発言を公開の席でまき散らして、後世に至る恥を曝す前に辿るべき大人の解釈です。
 当時、狗邪韓国が、海港として発展したとは書かれていないので、自然な成り行きとして、狗耶海港には對海國の商館と倉庫があり、警備兵が常駐して、一種、治外法権を成していたと見えます。狗耶が倭の北岸と呼ばれた由縁と見えます。

*免税志願
 ただし、標準的な税率を適用されると戸数に比して、良田とされる標準的農地の不足は明らかであり、食糧難で苦しいと「泣き」が入っていますが、それは、郡の標準的な税率を全面的に免れる免税を狙ったものでしょう。魏使は商人ではないので、両島の申告をそのまま伝えているのです。また、漕ぎ船運行と見える海峡渡船で大量の米俵を送るなどもともとできない話なので、對海、一大両国が欠乏しているのに、さらに南の諸国から取り立てるのは、金輪際無理という事です。

 まして、中原の「戸数」は、各戸の牛犂などの畜力耕作を前提にしていて、農地の割り当ては、「戸」内に、ある程度の成人耕作者、兄弟を想定しているので、各戸の耕作地面積が、それなりに宏大だったのですが、倭地では、牛馬が労役に起用されていなかったので、中国基準で農地を割り当てることができなかったのです。つまり、例えば、一大国の戸数から計算される耕作地面積と収穫量は、中国基準の数分の一程度と推定されるのです。
 つまり、「倭人伝」に示されている戸数は、ほとんど意味のないものだったのです。
 特に、奴国と投馬国の万戸単位の戸数は、とんだ法螺話であり、それぞれ両国が申告したものでなく、最初に、公孫氏が全国戸数七万戸と報告してしまったものを、傍国の不明な戸数に押し込めてしまったものと見えます。

 このあたり、文書行政が存在せず、全国に戸籍が整備されていない上に、各地の戸数を足し算計算する計算官僚もいないのですから、「万戸」台の戸数は、途方もない法螺話に過ぎないのです。

 因みに、後年の東国での戸籍簿を見ると、国内史料でいう口分田は、戸籍上の成人男女個人に、猫の額のような土地を割り当てたものであって、それは、ほぼ人力耕作という実態から、むしろ、妥当なもののように見えるとされています。

 国内古代史料が、中国基準の「戸数」で無く、東夷基準の「人口」を採用しているのは、そのような耕作実態の差異を踏まえたものであり、「倭人伝」が本来辻褄の合わない中国制度を、懸命に採り入れていたのとは、大きな違いがあります。

 ちなみに、のちの記事では、「倭人」各戸は、甚だしく高齢化している上に、数多くの寡婦を扶養しているので、それぞれ、労働力として予定できず、頭数が多いことが、むしろ負担につながっているとの深刻な見解も書き込まれているので、一段と「倭人」の国力評価は、地に墜ちているのです。

b、北九州の各国。奴国と金印
《原文…又渡一海千余里至末盧国有四千余戸……東南陸行五百里到伊都国……有千余戸 東南至奴国百里……有二万余戸東行至不弥国百里……有千余家

コメント:道里行程記事の締め
 ここまで、道里論と関わりの少ない議論が続いたので、船を漕ぎかけていましたが、ここでしゃっきりしました。
 倭人伝は伊都国、邪馬壱国と、そこに至るまでに通過した国々を紹介した記録なのですと見事な洞察です。
 私見では、倭人伝」道里記事は、「魏使の実地行程そのものでなく」、魏使の派遣に先立って、行程概略と全体所要日数を皇帝に届けた「街道明細の公式日程と道里」と思いますが、その点を除けば、氏の理解には同意します。

 但し、氏自身も認めているように、ここには、議論に収まらない奴国、不弥国、投馬国の三国が巻き込まれています。小論では、三国は官道行程外なので道里を考慮する必要はないと割り切っていますが、氏は「魏使が奈良盆地まで足を伸ばした」と、予め、特段の根拠無しに決め込んで考証を進めているので、三国、特に投馬国を通過経路外とできないので、割り切れていないようです。結論を先に決めておいて、そこに、史料考察をつなぎ込むのは「曲解」、「こじつけ」の端緒であり、まずは、原史料を、着実に解釈するところから出発すべきと思量します。この「決め込み」は、氏の考察の各所で、折角の明察に影を投げかけています。
 史料の外で形成した思い込みに合わせて、史料を読み替えるのは、資料改竄/捏造/曲解の始まりではないかと、危惧する次第です。
 このあたり、「倭人伝」の正確な解釈により、行程上の諸国と行程外の諸国/傍国を読み分ける着実な読解が先決問題と考えます。

 氏が、全体として、こじつけ、読替えなどを創出する無理な解決をしていない点は感服しますが、議論に収まらない奴国、不弥国、投馬国の三国は、倭人伝に於いて『「余傍の国」と「明記」されている』と理解するのが、順当としていただければ、随分、単純明快になるのです。

 「金印」論は、後世史書范曄「後漢書」に属し「圏外」として除外します。倭人伝」道里行程記事に直接関連する論義では無いので、割愛するのですが、おかげで、史料考証の労力が大幅に削減できます。

*要件と添え物の区別
 氏自身も漏らしているように、「倭人伝」道里行程記事は、後世の魏使が通過した国々を紹介した記録が、当初提出された代表的な諸国行程を列記した記録に「付け足された」と見るものではないでしょうか。
 氏は、投馬国への水行行程の考察に多大な労苦を払ったので「余傍」記録を棄てがたかったのかも知れませんが、肝心の「倭人伝」には、行程外の国は余傍であり、概略を収録するに留めた」と明記されている事を、冷静に受け止めるべきでしょう。
 五万戸の大国「投馬国」に至る長期の行程の詳細に触れず、現地風俗も書かれていないのに、勝手に、気を効かして記録の欠落を埋め立てるのは、「倭人伝」の深意を解明してから後のことにすべきと思うのです。そのため、当記事では、余傍の国に言及しません。
 とにかく、考慮事項が過大と感じたら、低優先度事項を一旦廃棄すべきです。

                                未完

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」9/16 2024

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 
 2024/01/20、 05/08, 08/02, 10/08, 10/30 2025/01/09

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

c、投馬国から邪馬壱国へ
《原文…南至投馬国水行二十日……可五萬余戸
 南至邪馬壱国 女王之所都 水行十日陸行一月……可七万余戸

コメント:戸数談義
 「魏志」で戸数を言うのは、現地戸籍から集計した戸数が現地から報告されていることを示します。要するに、何れかの時点で、「倭人」が郡に対して服従の前提で、内情を吐露したと示していることになります。
 と言いきったのは、早計でした。

・公式道里・戸数~「倭人伝」の基礎 2025/01/09
 「倭人伝」は、後漢献帝建安年間の大乱期に遼東郡太守を自認した公孫氏が、形骸化していた後漢朝に縛られずに事実上自立していた際に、お手盛りで、「郡から萬二千里の遠隔地に七萬戸を有する」という公式道里・戸数を有する空前の東夷大国を祭りあげたものとも見えるのです。公孫氏が「倭人伝」を報告していなかったので、後に、曹魏二代皇帝明帝曹叡が、楽浪帯方両郡を公孫氏傘下から剥奪し皇帝直轄にした時に、初めて「倭人伝」が報告され、これを明帝が承認したので、「郡から萬二千里の遠隔地に七萬戸を有する」が、中国の歴史に加わったのです。
 近来の誤解に関係なく「歴史」は、書換も削除上書きもできないので、「倭人伝」の公式道里・戸数は、不可侵のものとなったのです。

閑話休題
 戸数は、本来一戸単位で集計するものですが、東夷は戸籍未整備で概数申告ですから、千戸、万戸単位でも、ほとんど当てにならず、投馬国は「可」五万余戸であり、交通不便な遠隔余傍の国の戸数などは、責任持てないと明言しています。
 となると、「可七万余戸」の主旨が不審です。俗説」では女王居所邪馬壹国の戸数と見ますが、「倭人伝」の用いた太古基準では「国邑」「王之治所」に七万戸はあり得ないのです。

 殷(商)・西周代、「国」は、数千戸止まりの隔壁聚落です。秦代には、広域単位として「邦」が使われたようですが、漢代の史書記事では、漢高祖劉邦に僻諱して、「邦」は根こそぎ「國」に書き換えられたので、二種の「國」が混在することになり、後世読者を悩ませたのです。「倭人伝」は、古来の「国」に「国邑」を当てたように見受けます。ともあれ、「倭人伝」には、太古の「国」と同時代の「国」が同居しているので、文脈に応じて見分けた上で、気を確かに持って「国」の意味を個別に吟味する必要があります。

*「数千」の追求
 因みに、「倭人伝」も従っている古典記法では、「数千」は、本来、五千,一万の粗い刻みで五千と千の間に位置する二千五百程度であり、千単位では、二、三千のどちらとも書けないので、「数千」と書いているものです。
 とかく「大雑把に過ぎる」と非難される倭人伝の数字ですが、『史官は、当時の「数字」の大まかさに応じた概数表記を工夫し、無用の誤解が生じないようにしている』のです。

*戸数「七万戸」の由来探し
 また、中国文明に帰属するものの首長居城の戸数が不確かとは不合理です。諸国のお手本として戸籍整備し一戸単位で集計すべきなのです。
 そうなっていないということは、倭人伝」に明記された可七万余戸は、可五万余戸の投馬国、二万余戸の奴国に、千戸単位、ないしはそれ以下のはしたの戸数を(全て)足した諸国総計と見るべきなのです。(万戸単位の概数計算で千戸単位の端数は、無意味なのです)

*「余戸」の追求~不滅の「俗説」への訣別/哀惜
 塚田氏が適確に理解されているように、「余戸」というのは、「約」とか「程度」の概数表現とみられます。先行論考は「餘」の解釈で大局を見誤っている例が山積していて、歎いていたところです。

 つまり、(投馬)五万余と(奴)二万余を足せば、「ピッタリ」七万余であり、その他諸国の千戸単位の戸数は、桁違いなので計算結果に影響しないのです。まして、戸数も出ていない余傍の国は、戸数に応じた徴税や徴兵の義務に対応/適応していないので、全国戸数には一切反映されないと決めているのです。
 俗説」では、「余」戸は、戸数の端数切り捨てとされていますが、それでは、倭人伝」内の数字加算が端数累積で成り立たなくなるのです。そもそも、実数が把握できていないのに戸数区分ができるというのは、不合理です。漠然たる中心値を推定していると見るのが、合理的な解釈です。

 また、帯方郡に必要なのは総戸数であり、女王居所(国邑)の戸数には、特段の関心がないのです。俗説の「総戸数不明」では、桁上がりの計算を、皇帝有司の高貴な読者に押しつけたことになり、記事の不備を非難されるのは明らかであり、「倭人伝」が承認されたと言うことは、そのような解釈は単なる誤解という事です。
 七万余戸に対する誤解は、随分以前から定説化していますが、かくの如き明白極まりない不合理が放置されているのは不審です。
 案ずるに、「奴国」二萬、「投馬国」五萬、「邪馬臺國」七萬戸を足しあわせると十五萬戸となるから、九州北部に存在できないのが好ましい方々が、頑として、不退転の決意で、命懸けで、不合理な「俗説」にこだわる』からで、これは学術論でなく子供の口喧嘩のこすい手口のように見えます。つまらないこじつけに拘ると、大事な信用を無くすのです。さぞかし名残惜しいことでしょうが、早々に撤回した方が良いでしょう。先賢の賢察は捨て去ることができないというなら、宝物庫にしまい込んで、門外不出とすれば、角が立たないでしょう。

 いえ、以上の談議は、塚田氏の論稿に対して批判しているのではないのです。当ブログの先例の如く、塚田氏論稿の批判に托して、余談を展開しているのです。よろしく、ご了解ください。

                                未完

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」10/16 2024

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 
 2024/01/20、 05/08, 10/08, 10/30

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

d、北九州各国の放射式記述説批判
コメント:断てない議論
 氏は、投馬国に関して、通らない筋を通そうとするように、延々と論考を進められました。当方の議論で、本筋に無関係として取り捨てた部分なので、船を漕ぎかけていましたが、ここでしゃっきりしました。
 私見では、氏の読み違いは、まずは、投馬国からかどうかは別として、いずれかの『中間点から邪馬壹国に至る最終行程を、端(はな)から「水行十日、陸行三十日(一月)」、即ち、「水陸四十日」行程と認めている』点であり、そのような予断が、ここまで着実に進めていた考察が大きく逸脱する原因となっています。そして、そのような逸脱状態で、強引に異論を裁いているので、傾いているのは異論の論点か、ご自身の視点か、見分けが付かなくなっているようです。

 ご自身で言われているように、女王が交通の要所、行程の要と言うべき伊都国から「水陸四十日」の遠隔地に座っていて伊都国を統御できるはずがないのです。当時は、文字/文書がなく、報告連絡指示復唱には、ことごとく高官往復が必須であり、それでも意思疎通が続かないはずです。
 そのような「巨大な不合理」をよそごとにして、先賢諸兄姉が「倭人伝」解釈をねじ曲げるのは、痛々しいものがあります。要するに、いわゆる「通説」が描き出している壮大な「広域古代国家」像は、三世紀の世界に金輪際存在できないのです。
 してみると、「広域国家」の権力闘争で血塗られた戦いが「長年」続く(「倭人伝」に全く存在しない)「大乱」も、全くあり得ないのです。

 それはそれとして、明解な解釈の第一段階として、都合「水行十日、陸行一月」、つまり、水陸四十日」は郡からの総日程と見るべきです。そもそも、「倭人伝」に求められているのは、郡から発した文書に対して何日で倭から回答があるかという厳格な業務基準なので、それは、「倭人伝」に明記されていなければならないのです。

 かくして、「女王之所」は伊都国から指呼の間に在り、恐らく、伊都国王の居所と隣り合っていて、揃って外部隔壁に収まっていたと見るべきです。それなら、騎馬の文書使が往来しなくても、「国」は、討議できるのです。「諸国」は、月に一度集まれば良く、その場で言いたいことを言い合って裁きを仰げば良いのであり、戦って言い分を通す必要はないのです。どうしても、妥協が成立しないときは、女王の裁断を仰げば、「時の氏神」が降臨するのです。
 中国太古では、各国邑」は、二重の隔壁に囲まれていて、内部の聚落には、国王/国主の近親親族が住まい、その郷(さと)に臣下や農地地主が住まっていて、本来は、外部隔壁内で、一つの「国家」、国と言う名の家族が完結していたと見られるのです。
 要するに、「倭人伝」で、伊都国は、中国太古の「国邑」形態であり、千戸単位の「戸数」が相応しいのです。ここまで、對海、一大、末羅と行程上の国々は、いずれも、山島の「国邑」で、「大海」を外郭としていることが、山島に「国邑」を有していると形容されていたのですが、それは、伊都国に及んでいて、遠隔の奴国、不弥国、投馬国は音信不通で実体不明という言い訳で別儀であって、女王国にも及んでいるのです。

 それに対して、余傍の国」は国の形が不明で、「国邑」と呼ぶに及ばず、戸籍も土地台帳もなく、戸数が、度外れて大雑把になっていると見えるのです。丁寧に言うと、ここで論じているのは、陳寿の眞意であり、帯方郡の報告書原本を、中原人に理解しやすいように、内容を仕分けしていると見るものです。何しろ、全戸数「七万余戸」の前提と行程の主要国が一千戸単位の「國邑」とをすりあわせると、「余傍」で事情のわからない二国に「七万戸」を押しつけるしかなかったと見えるのです。
 と言うように話の筋が通るので、二千年後生の無教養な東夷の倭人末裔が「中国史書の文法」がどうだこうだという議論は、はなから的外れなのです。

*これもまた一解
 といっても、当方は、氏の見解を強引とかねじ曲げているとか、非難するつもりはありません。いずれも一解で、どちらが筋が通るかというだけです。それにしても、氏ほど冷徹な方が、この下りで、なぜ言葉を荒げるのか不可解です。
 氏は、突如論鋒を転換して、『「伊都国以降は諸国を放射状に記したので、記述順序のわずかな違いからそれを悟ってくれ。」と作者が望んだところで、読者にそのような微妙な心中まで読み取れるはずはないでしょう。』と述べられたのは、誠に意図不明です。陳寿は、延々と「倭人伝」論議を繰り返している二千年後生の無教養な東夷を対象に書いたわけではないのです。
 陳寿の「読者」は、氏の想定する「読者」とは、別次元の知性の持ち主なのです。作者ならぬ編者である陳寿は、あまたかどうかは別として、有意義な資料を幅広く採り入れつつ、取捨選択できるものは取捨して編纂することにより「倭人伝」に求められる筋を明示したのであり、文法や用語の揺らぎではなく文脈を解する「読者」、つまり、同時代知識人に深意を伝えたものなのです。この程度の謎かけは皇帝を始めとする同時代知識人「読者」には「片手業」であり、そのような特別な「読者」に分かるか分からないか、二千年後生の無教養な東夷が心配することでは無いと思うのです。

 因みに、私見ですが、「倭人伝」道里記事の解釈で、一字の違いは「読者」に重大な意義を伝えているのであり、それを「わずかな違い」と断罪するのは、二千年後生の無教養な東夷の思い上がりというものです。氏自身が、正史史料は、凝縮された知的財産権であり、一字一句が重大な意味を持っているという趣旨の発言をされているので、ここで、そのような卓見を廃棄するのは、不可解です。
 陳寿は、何かの片手間に「倭人伝」を書き飛ばしたのではなく、精魂を傾けて多大な年月、日時を費やして推敲を繰り返したのであり、それこそ、安易な決めつけで否定できるものではないと思うのです。これに対して、どうしても、不可避不愉快な結論を受け入れられない二千年後生の無教養な東夷が窮地に陥って、陳寿の人格攻撃まで繰り出している醜態が見えるのです。塚田氏が、そのような輩と席を同じくしているのでないと信じる次第です。

*先入観が災いした速断
 『放射式記述説は、常識的には有り得ない書き方を想定して論を展開しているわけで、記録を残した人々の知性をどう考えているのでしょうか。文献の語る所に従い、歩いて行くべきなのに、先に出した結論の都合に合わせ、強引に解釈をねじ曲げる姿勢は強く非難されねばなりません。』というのも、冷徹な塚田氏に似合わない無茶振り、強弁であり、同意することはできません。

 「常識的にあり得ない」とは、どこの誰の常識でしょうか。「記録を残した人の知性」とは、その人を蔑んでいるのでしょうか。二千年後生の無教養な東夷と当記事で揶揄されている遥か後世人が、そのような深謀遠慮を察することは「不可能」ではないでしょうか。
 多くの研究者は、「文献の語る所」を理解できないから、素人考えの泥沼に陥って、混乱しているのではないでしょうか。
 そして、氏は、どのような具体的な根拠で、放射式記述説のどの部分を、どのように否定しているのでしょうか。誠に、不穏当で、氏ほどの潤沢な見識、識見にふさわしくない断定です。

 当ブログでは、論者の断定口調が険しいのは、論者が、論理に窮して悲鳴を上げている現れだ」としていますが、氏が、そのような「最後の隠れ家」に逃げ込んでいるのでなければ、幸いです。

 何度目かの言い直しですが、当時の「読者」は、『文字のない、牛馬のない「未開」の国で、途方も無い遠隔地の「女王国」から「伊都国」を統制することなどできない』と明察するはずであり、「倭人伝」の主題は「伊都国のすぐ南に女王国がある」という合理的な「倭人」の姿と納得したから「倭人伝」はこの形で承認された』と解すべきなのです。
 「古代国家」(古代史論の場では、かなり不穏当/不都合な用語ですがご容赦ください)運営には、緊密な連携が存在すべきであり、存在しないと連携そのものが、そもそも成立しないし、維持できないので、「伊都国」と「女王国」の間に、『「水行二十日」などと「倭人伝」独特の「渡船、即ち水行」との表示すら踏み外して、所要日数が不明瞭/長大で、行程明細の不明な道中が介在する』などは、端からあり得ないとみるべきなのです。

 当ブログの主張が有ろうと無かろうと、曹魏明帝の遺詔に従い雒陽から大量の下賜物を発送する際には、目的地までの所要日数が確認されていることが不可欠であり、行程各地への到着に要する日数が全て確認されていたと見るものでしょう。伊都国までの到着に要する日数が四十日という報告が要点であり、正体不明の投馬国に至る行程が不明確なのは「行程は同国を通過しない」と重ねて明記されていると解すべきでしょう。

*伊都国 「有千餘戶」考~余談
 「倭人伝」冒頭で語られているように、以下、行程記事に語られる主要国は、太古、中原諸国の萌芽状態であった「国邑」と同様の姿であり、精々、千戸台の「国」であって、但し、倭人の場合は、孤島には周囲に「都城」を設けていないとされています。あるいは、伊都国は、周囲に、都城ないしは隔壁を持っていて、「女王国」は、伊都国の保護下にあったとも見えます。

 因みに、伊都国が、「倭人」全体を支配する行政機構を備えていたと推定すると、同国住民の大半は「官吏」(奴婢)であり、粟(給与)を支給される国家公務員であるので、「戸」として耕作地を割り当て収穫に課税することは有り得ないので、古代史料でいう「戸数」「口数」、現代風に言う「世帯数」、「成人人口」の対象外であり、そのため、伊都国の「戸数」有千餘戶は、現代人の予想外に僅少なのです。併せて言うなら、「官吏」は、当然ながら、税務以外の労務、軍務も課せられることはないのです。これは、曹魏明帝曹叡が、三国鼎立の戦時にも拘わらず、雒陽に新宮殿を造営とした際に首都官人を勤労動員したために、高官から、異例で不法極まりないとする「諫言」が呈されたことからもわかるのです。そのように、明帝曹叡の愚行は、確実に書き残されているのです。

 言うまでもないと思いますが、「千」と「萬」は、まったく異なった字形であり、数として、一ケタ違うので、うっかり書き間違えることは有り得ないのです。

閑話休題
 伊都国以降に、不弥国と共に書かれている奴国、投馬国は、数万戸を擁する巨大な「国」であり、明らかに「国邑」定義を外れていると思われますが、倭人伝道里記事の要点ではないので、投馬国行程の明細不詳とともに、深入りしていないものと見えます。

 それらは、反論しようのない強力無比な状況証拠であり、感情的な反証では、確固たる「状況証拠」は、一切覆せないのです。

 一度、冷水を含んでから、ゆるりと飲み干し、脳内の温度を下げて、穏やかな気分で考え直していただきたいものです。

                                未完

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」11/16 2024

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 
 2024/01/20、 05/08, 08/02, 10/08, 10/30

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*自縄自縛
 「先に出した結論の都合に合わせ、強引に解釈をねじ曲げる姿勢」とは、お言葉をそっくりお返ししたいものです。誰でも、どんな権威者でも、自分の思い込みに合うように解釈を撓(たわ)めるものであり、それに気づくことができるのは、自身の鏡像を冷静に見る知性の持ち主だけです。
 「放射行程説の自己流解釈の破綻」について、氏の自己診断をお聞かせいただきたいものです。論争では、接近戦で敵を攻撃しているつもりで、自身の鏡像を攻撃している例が、ままあるのです。所謂「おつり」が帰って来る状態なのです。

 素人目には、「倭人伝」記事は、正始魏使の実行程報告と「早計で見立てた」(勘違いした)上で、「正始魏使は投馬国経由」との根拠の無い「決め込み」が、明察の破綻の原因と見えます。大抵の誤謬は、ご当人の勝手な思い込みから生じるものなのです。
 いや、それ以前に、「倭人伝」道里記事は、下賜物を抱えた正始魏使の現地報告とみる定説/通説の「先入観」が災いしているのですが、多分お耳には入っていないでしょうから、ぼやいておくことにします。

 当時、多数の教養人が閲読したのに、東夷の国の根幹の内部地理である伊都国-投馬国-女王国の三角関係が、洛陽人にとって明らかに到達不能に近い遠隔三地点であって、非常識で実現不能と見えるように書いている」わけはないのです。
 すべて、この良識に基づく『結論』を踏まえて、必要であれば、堂々と乗り越えていただく必要があるのです。それは、「良識」に基づく推定を覆す論者の重大極まる使命です。

*報告者交代説の意義
 因みに、氏は、これに先立って、伊都国から先の書き方が変わっているのに気づいて、「伊都国を境に報告者が交代しています。」と断言していますが、それしか、合理的な説明が思いつかないというのなら、結局「思い込み」というものです。
 単純な推定は、伊都国~奴国以降は、「必要がないので細かく書いていない」という「倭人伝」道里記事の古来の解釈であり、直線的な解釈は、是非ともご一考の余地があると思います。確かに、そのような論義は、正始魏使が女王国に至っていない」との軽薄な論義に繋がっていて、とかく軽視されますが、要は、「奴国から投馬国までの国には行っていないように読める(読めないことは無いとは言いきれない)」というのに過ぎないのです。

 当ブログの見解では、倭人伝」道里記事は、正始魏使派遣以前に皇帝に報告されたものであり、正始魏使が行ったとか行っていないとかは、記事に反映されていないと明快に仕分けしているので、残るのは、簡単な推定だけです。

 ちなみに、当ブログ記事筆者の意見では、「倭人伝」道里記事は、郡から倭に至る「公式道里」を書いたものであり、正始魏使発進の際の前提情報であって、正始魏使の帰朝報告は、道里行程行程記事に反映していないものと見ます。何しろ、大量の下賜物を抱えている正始魏使が、下賜物を抱えて、内陸の帯方郡郡治に参上し、謹んで、下賜物送達の任務を、帯方郡の官人に引き継いだと言うことが書かれていないこと自体、解釈上不都合と見えるのですが、それは、滅多に言及されないのです。つまり、ここまで正始魏使と称していたのは、実は、正始郡使と見えるのです。郡太守は、魏朝高官ですが、天子の代理でなので、郡使が、「親魏倭王」なる蕃王が全権を委任した「倭大夫」なる列侯と対等に渡り合っても、別に不法ではないのです。

 あえて言うなら、伊都国起点で書かれている、奴国、不彌國、投馬国の行程は、後日の「付け足し」とみても良いようと思われます。公式道里の明細で、諸国「条」は、要件を備えているのに、これら三国の「条」は、要件を欠いて、略載にとどまって許されているのは、要するに、行程道里外なので、重要視されていなかったためと思われます。
 と言うことで、本項の趣旨では、伊都国から先の記事は、後日追記された「余傍」なので、書法が異なっていると見るもので、あるいは、郡は伊都国を対等の立場の全権大使として交信、往来していたと見えるのです。

 以上は、「倭人伝」から読み取れる真意の一案であり、氏に強要するものでは有りませんが、ご一考いただければ幸甚と感じるものです。

*道里行程の最終到着地
 「倭人伝」道里記事を精査すると、對海國以降の倭人諸国記事で、伊都国は「到る」と「到達を明記されている」のに対して、以下の諸国は「又」「至る」として、「到達明記を避けている」ので、伊都国が、道里行程記事の最終目的地という見解です。
 要するに、「倭人伝」記事には伊都国は、郡の送達文書の受領者であり郡使が滞在する現地公館の所在地と明記されている」ので、郡太守の交信相手、つまり、現代風に言う「カウンターパート」は伊都国王と言うことが、陳寿によって明記されていると見るものです。
  これを、氏がなぜか忌避する「放射行程説」なる論義と対比すると、実は、伊都国と女王居所の間は至近距離であったので、行程道里を書き入れていないという「伊都・女王」至近関係説になるのです。一つの隔壁の中に、二つの「国邑」隔壁が同居していた可能性もあります。ただし、厳密に言うと、伊都国以降は「行程外」なので「放射行程」説の否定は意味を成さないのです。いや、榎一雄師の所説の根拠は、当時、伊都国が地域の政治・経済中心であったというものであり、本説は、むしろ其の延長線上にあるものと考えます。
 この議論は、投馬国を必要としないので、恐らく、氏のお気に召さないとしても、ここで挙げた仮説は、基本的に氏のご意見に沿うものと考えます。

 なお、前記したように、倭人伝」道里記事は、「正始魏使発進に先だって書かれている」ので、「魏使/郡使の実際の道中を語るものではない」のですから、魏使/郡使が卑弥呼の居処に参上したかどうかは、この記事だけでは不明です。

*「時の氏神」
 私見では、「倭人」は、もともと、氏神、つまり、祖先神を共有する集団であり、次第に住居が広がったため、国邑が散在し分社していったものと見ています。本来、各国間の諍いは、國王の意を承けた総氏神が仲裁するものであり、それが成立しなくなったとき、「物欲」を持たない女王の裁きが起用されたものと見るのです。もちろん、女王の「出張」には限界があるので、女王の宿る「神輿」を送り出したり、所定の巡回地を「御旅所」として、女王がお出ましになって、当該地域の仲裁事を受けたのかも知れません。倭人伝の断片的な記事を想像力で膨らますとしても、この程度にしたいものです。
 一度、年代もので、正解につながらないと立証されて久しい「思い込み」を脇にどけて、一から考え直すことをお勧めします。

e、その他の国々と狗奴国
原文…自女王国以北 其戸数道里可得略載 其余旁国遠絶 不可得詳
 次有斯馬国……次有奴国 此女王境界所盡

コメント 余傍の国
 国名列記の21カ国は、当然、帯方郡に申告したもの、つまり、倭人の名乗りです。中国人に聞き取りができたかというのは別に置くとしても、三世紀の現地人の発音は、ほぼ一切後世に継承されていないので、今日、名残を探るのは至難の業です。(不可能という意味です)
 当時の漢字の発音は、ほぼ一字一音で体系化していて「説文解字」なる発音字書に随えば、精密な推定が可能ですが、蛮夷の発音を、固定された発音の漢字で正確に書き取るのは、ほぼ不可能であり、あくまで、大雑把な聞き取りと意訳の併用がせいぜいと見えます。
 「九州北部説」によれば、後世国内史料とは、地域差も甚だしいと見えるので、「十分割り引いて解釈する必要」があると考えます。(割り引きすぎて、「タダ」になることもあり得ます)
 そのように、塚田氏も承知の限定を付けるのも、最近の例として、古代語分野の権威者が深い史料解釈の末に、倭人伝時代の「倭人語」に対して「定則」を提唱されたものの、『時間的、地理的な隔絶があるので、かなり不確定な要因を遺している「仮説」である』と提唱内容の限界を明言されているのですが、そのような配慮にも拘わらず、「定則」の仮説』を「定説」と速断して、自説の補強に導入した論者が多々みられるので、念には念を入れているものです。
 現代人同士で、文意誤解が出回っている』というのも、誠に困ったものですが、更なる拡大を防ぐためには、余計な釘を打たざるを得ないと感じた次第です。塚田氏にご不快の念を与えたとしたら、申し訳なく思います。

*言葉の壁、文化の壁~余談
 「至難」や「困難」は、伝統的な日本語文では、「事実上不可能」に近い意味です。塚田氏は、十分承知されているのですが、読者には通じていない可能性があるので、本論では、またもや念のため言い足します。ちなみに英語のdifficultは「為せば成る」チャレンジ対象と解される可能性があり、英日飜訳には、要注意です。

*カタカナ語汚染~余談
 いや、事のついでに言うと、近来、英単語の例外的な用法が「気のきいた」カタカナ語として侵入し、大きな誤解を誘っているのも、国際的な誤解の例として指摘しておきます。
 ほんの一例ですが、「サプライズ」は、本来、「不快な驚き」とみられるのであり、現代日本語の「ドッキリ」に近いブラック表現です。野球の試合で、殊勲のあった選手がインタビューを受けている時に、背後から大量の氷水をぶっかけるのが、選手本人にとって嬉しいはずがないのですが、「サプライズ扱い」されているように見受けるのです。
 「うれしい」驚きは、誤解されないようにわざわざ言葉を足して「プレゼントサプライズ」(Pleasant Surprise うれしいサプライズ)とするのですが、無教養な「現地人」の発言に飛びついて誤解を広めているのは、嘆かわしいものです。
 少なくとも、世間のかなりの人に強い不快感を与える表現を無神経に触れ回る風潮は、情けないと感じている次第です。カタカナ語ではないのですが、多くの読者/視聴者に不快感を与えるに決まっている「とりはだ」「やばい」など、顰蹙語ほどはびこるのは、世も末と言うことかと年寄りは思うのです。

 まあ、「Baby Sitter」を「ベビーシッター(Baby Shitter 赤ちゃんうんち屋?)」とするのも、かなり顰蹙ものなのに、そこから無理に約めて「シッター」(Shitter) うんち屋さん」と人前で口にできない尾籠な言葉に曲げてしまうのよりは、まだましかも知れません。今や、「シッター」が一人歩きして、世間のかなりの人に、強い不快感を与える表現を無神経に触れまわっているのを目にすると、「現代語」に染まりたくないと切望する次第です。
 単に「子守り」さん(Nannie)といえば良いのであり、古風な英語になれている方は「乳母」の意味が先に浮かんで、嫌われたのでしょうが、現代米国では、共稼ぎの家庭で子守りする役回りの若い女性(しばしば不法滞在移民)がそのように呼ばれている例が多いのです。
 他にも、同様の誤用は、多々ありますが、キリがないので以上に留めます。

 以上、あくまで余談ですから、その主旨で諒解いただけたらさいわいです。

                                未完

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」12/16 2024

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 
 2024/01/20、 05/08, 08/02, 10/08, 10/30

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*更なる余傍の国
 なお、里程記事などで言う女王国以というのは、道里記事の主行程諸国のことであり、南北方向に並んでいると明記されていて、奴国、不弥国、投馬国という後付けの余傍の国を除き、對海國、一大国、末羅国、伊都国の四ヵ国に限定されている」直前提示の行程は一路南下なので逆順を正すと「伊都国、末羅国、一大国、對海國」 を示していることが自明です。自明事項は、明記されていなくても、誤解の余地なく示唆されていれば、明記と等しいのです。

 ということで、奴国、不弥国、投馬国に加えて、一連の名前だけ出て来るその他の諸国は、「倭人伝」の体裁を整える添え物なのです。各国名は、帯方郡に参上したときの名乗りでしょう。その証拠に、行程も道里も戸数も国情も一切書かれていません。また、当然なので書いていませんが、「国」のまとめ役「国主」はいても「国王」はいないのです。
 中国側からみると、「国王」が伝統、継承されないということは、「国」として、いくら固く約束しても、あくまで個人との約束であり、世代を超えて長続きしはないのであり、郡から見ると水面に浮かぶ泡沫(うたかた)ということになります。

 「倭人伝」では、「王」の伝統が不確かな状態を「乱」と形容していますが、どの程度深刻な状態なのかは不明です。「倭人伝」では、「王」の権威が揺らぐ事態の深刻さを、中原基準で誇張気味に示していますが、「女王」が臣下に臨見することが希』では、大した権威は発揚できず、そのような「王位」が、戦乱で争奪されるとは見えないのです。
 倭人は、恐らく、渡来定住以来分家を重ねたとは言え、長年にわたる親戚づきあい、氏子づきあい、縁結びであり、季節の挨拶や婚姻で繋がっていて、内輪もめはあっても小さいなりに纏まっていたものと見えます。なにしろ、商業が未発達では、互いに争い、奪い合うものは、大してなかったと見えるのです。
 因みに、後ほど、女王は、もとより狗奴国王と不和と書かれていますが、推測すると、親戚づきあいしていて、遂に、互いの位置付けに合意できなかった程度とみられます。本来「時の氏神」が仲裁するべき内輪もめなのですが、狗奴国王と氏神たる女王の不和は、仲裁できる上位の権威がないので、それこそ、席次の争いが解決できなかったことになります。

 念には念を入れると、魏朝公式文書、つまり、皇帝に上申する公文書資料に必要なのは、郡から女王国に至る行程諸国であり、他は余傍、「枯れ木も山の賑わい」でいいのです。もっとも、国名だけを頼りに所在地をあて推量する趣味の方が多いので、ここは口をつぐむことにします。

《原文…其南有狗奴国 …… 不属女王

*「狗奴条」の起源
 水野祐氏の大著「評釈 魏志倭人伝」の提言によれば、この部分は、南方の狗奴国に関する記事の起源であり、九州北部に不似合いな亜熱帯風の風土、風俗描写、隣り合ったのに近い南方と見える狗奴国に関する記事と納得できるので、当ブログでは、水野氏の提言に従います。

*衍文対応
《原文…自郡至女王国 萬二千余里
 この文は、狗奴条の趣旨に適合しないので、本来、前文に先だって、道里行程記事を総括していたものと見えます。按ずるに、小国列記の末尾に狗奴国を紹介したものと見たようですが、狗奴国は、女王国に「不属」なので、「狗奴条」を起こすものです。

*狗奴条の展開
 以上に述べた理由により、この部分の南方亜熱帯めいた記事は、九州中南部の狗奴国の描写と見直します。報告者は、後年の張政一行と思われます。従来の解釈になれた方は、一度席を立って、顔を洗って、座り直して、ゆっくり読みなおすことをお勧めします。くれぐれも、画面に異物を投げつけないように、ご自制下さい。
 念のため言い添えると、後世文書である范曄「後漢書」東夷列伝「倭条」は、なにかの誤解で、「自女王國東度海千餘里至拘奴國」と誤記しているために、「倭人伝」に書かれた「狗奴国」が、東方千里の彼方に在ったと解する方がいるのですが、「誤解」「誤記」は、ゴミとして土坑に棄てるのが正しい対応です。

2、倭人の風俗、文化に関する考察
a、陳寿が倭を越の東に置いたわけ
《原文…男子無大小 皆黥面文身 自古以来 其使詣中国 皆自称大夫
《原文…夏后少康之子封於会稽……沈没捕魚蛤文身亦以厭……尊卑有差

コメント:更なる小論
 叮嚀に進めるとして、甲骨文字は「発見」されたのではなく、商(殷)代に「発明」されたのです。なお、甲骨文字遺物の大量出現以前、「文字」が一切用いられていなかったとは、断定できません。
 甲骨文字のような、厖大で「複雑な形状の文字」体系が採用されるまでには、長期の試行期間があったはずであり、その間、公文書の一部に使用されていたと思われるのですが、後世に残された商代遺物は、ほぼ亀卜片のみであり、それ以外は、臆測にとどまるのです。
 要するに、亀卜片状の亀裂を記録して、意味を持った「漢字」としたものなので、千差万別であり、そのため膨大な漢字が存在しているのです。もちろん、簡明な文字も多数あって、それは、漢字の基礎として活用されたでしょうが、それでは、数万字と漢字の数が多いことを説明しきれないと思われます。いや、つまらない余談でした。

 と言うことで、初期の「漢字」は、商王が命じた亀卜によって得られた甲骨の亀裂から、得られた「神意」を読み解き、「字書」を蓄積したことから、長年を歴て形成されたものであり、人の保有する「文字」を神意に押しつけたものとは言えないのです。後代、「漢字」の形成に幾つかの法則が見出され、「説文解字」が集大成され、それが、今日常用される正字「書体」にまで反映しているとされていますが、「説文解字」編纂時に知られていなかった甲骨文字遺物の発見と解析により、「漢字」創生期の多大な労苦が、始めて解明されたと見えるのです。この部分は、漢字学権威である白川勝師の教えによるものです。

 因みに、「夏后」は後代で言う「夏王」です。夏朝では、後代で言う「王」を「后」と呼んでいたのです。商(殷)は、夏を天命に背いたものと見たので「后」を退け、「王」を発明したと見えます。以後、「后」は、「王」の配偶者となっています。当時の教養人の常識であり常識に解説はないのです。
 ついでながら、「倭人伝」に示されているのは、倭人」の境地は、禹后が会稽/会計した「会稽山」、つまり、「東治之山」なる小ぶりの「丘」の遥か東の方と言うだけであり、「越」云々は、見当違い/後世創作です。ご留意ください。

                                未完

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」13/16 2014

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 
 2024/01/20、 05/08, 08/02, 10/08, 10/30

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*沈没論義~末羅国条に寄せて
 言うまでもないのでしょうが、中国語で「水」は、あくまで河川であり、「好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之」と言うのは、川漁のことなのです。
 古代中国語で、「沈没」は、せいぜい、腰から上まで水に浸かるのを言うのであり、水中に潜ることではないのです。因みに、中国士人は汗や泥に汚れるを屈辱としていたので、川を渡るのも裾を絡げる程度が限度で、半身を水に浸す「泳」や「沈」「没」の恥辱は、断じて行わないのです。当時の中原士人は、大半が「金槌」で「泳」も「沈」 も、自死です。深みにはまらなくても、転ぶだけで「致命的」です。
 逆に言うと、当時の貴人、士人が、「泳」「沈」「没」するのは、自身の身分を棄てて、庶人、ないしはそれ以下に身を落とすことを言うのです。沓を濡らすのすら、問題外だったでしょう。

 因みに、当時の韓国は、概して、冬季の気温が低いので、夏季以外の「沈没」は、低体温症で死ぬものだったでしょう。
 記事の主旨は、倭の漁民は、海に近い河川の浅瀬に岩を積んで魚を誘い込み、或いは、岸辺の溜まり場に踏みこんで、住み処を探り、手籠のようなもので掬い取っていたと言うことでしょう。
 俗説では、海女が海中に潜水して、「魚鰒」を捕らえていたという誤解がはびこっていますが、現代の潜水具を駆使しても、すばしこい「魚鰒」を手取りするなど、ほぼ不可能であり、当時は、水中メガネも、するどいヤスも存在しなかったので、どうやって、そのような形で生業をやり遂げていたのか、不可解です。現代海女(海人ではなく)は、素潜りで海中に潜水して、海底にかじりついてるアワビなどを「採取」するのですから、ますます、古代の川漁とはほど遠いのです。
 ちなみに、九州北部の河川の河口部には海水と真水が成層した汽水域があって、鰻(うなぎ)が好む条件なので、竹籠のようなもので掬い取る漁法が行われていたのでしょう。ほかにも、鰻捕りの漁具があったでしょうから、郡の官人には、神業のように見えたのでしょう。ここまで、「鰻」(うなぎ)を、ウナギと決め込んでいますが、「倭人伝」のこの部分の記述者が、「鰻」(うなぎ)ドジョウを識別していたのかどうかも不確かであり、或いは、もう少し取り組みやすいドジョウやアナゴのことを「魚鰻」と称した可能性もあり、何とも、掴み所のない話ですが、無理のない話としては、汽水域に近い下流域の浅瀬で、漁民が浅瀬に浸かって漁に励んで、目だった釣果を上げていたという風に理解すれば良いと思います。潜水漁法で、すばしこいウナギを手づかみにしていたとする白日夢よりは、随分健全な推定でしょう。

 ちなみに、たまたま、ウナギ漁は、末羅国条に書かれていますが、対海国でも一大国でも、そうした漁師が存在したでしょう。釣魚が書かれていないので、そのように思うのです。ちなみに、当時、まだ、鵜飼いは行われていなかったようです。行われていれば、倭人伝に書かれていたことは間違いないところです。

《原文…計其道里 當在会稽東治之東

*道里再確認~「道」無き世界 2023/01/18
 「其道里」は、記事の流れから、『郡から狗邪韓国まで「七千里」としたときの「万二千里」の道のり』という事であり、中国側の「万二千里」ではないことは承知です。むしろ、会稽の地が、洛陽から万二千里であるなどとは、誰も、全く思ってもいないのです。まして、魏、西晋代は、雒陽から東呉の領分であった東冶県までの陸上道里は、知られていなかったので、だれが考えても、対比することなどできないのです。とんだ、誤解の例でしょう。

 因みに、後世、劉宋正史である「宋書」州郡志によれば、東冶県が収容された新設建安郡は「去京都水三千四十,並無陸」、つまり、時の京都(けいと)建康までの官道といっても、「陸」、つまり「陸道」は通じていなくて、「水」、つまり「水道」で三千四十里となっています。会稽郡治から東冶県に至る整備された陸上街道は存在しなかったとみるべきです。
 念のため言い添えると、陸上街道と認められる「街道」は、騎馬の文書使が疾駆でき、四頭立て馬車が往来できる整備された官道であり、所定の間隔で、関所、宿場があり、宿泊、食料と水に加えて、替え馬の提供まで用意されていることを言うのです。そのような街道整備ができていれば、宿場間の文書通信が確保され、官営の郵便夫が縦横に疾駆して、帝国のいわば文書行政を支える動脈となるのです。
 案ずるに、京都建康と建安郡の間には、崖面に桟道が設けられていた区間が存在したものの街道として整備されていなかったものと見えますが、人手で細々とつなぐ部分があれば、全体として「陸道」と認められず、従って、道里が定義できなかったと見えます。
 ちなみに、南朝時代以前の東呉時代、並行陸路が貫通していなくても、河川交通は活発であり、「水三千四十 (里) 」は、公式道里として認められていたことを示しています。

 三国志「呉志」に「地理志」ないし「郡国志」があれば、そのように書かれたものと推定されますが、当時、曹魏の支配下になかった建安郡に関する魏朝公文書が無い以上、「魏志」に建安「郡国志」は書けないし、当然「呉志」にも書けなかったのです。唐代に編纂された晋書「地理志」に、なぜ書かれていないのかは、唐代編纂者の意向に関わるので意味不明です。

 水野祐氏の大著「評釈 魏志倭人伝」の提言によれば、この部分は、九州北部伊都国までの行程諸国ではなく、南方の狗奴国に関する記事と言うことなので、先ほどの道里論の「万二千里」は適用されず、「俗説」は「三国志」全体を探っても書かれていない架空の道里に基づいていることになります。
 「倭人伝」に還ると、「(周知の)会稽東治之山から見て、狗奴国は漠然と東の方向」になるらしいというに過ぎないことになります。道里を明記されている伊都国については、言及していないことになりますが、当然、漠然と東の方となるものと思われます。

*不可視宣言~存在しなかった呉書東夷伝~余談
 大体、魏の史官にしたら、東呉の領域内である会稽郡東冶県の具体的な所在は皆目不明であり、一方、漢代以来知られていた南方の史蹟「会稽東治之山」から見た、所在不明の「倭人」なる僻遠の東夷王之居処など、わかるはずもなく、知る必要もないと言われかねないのです。いや、だれが何をしても、到底東呉との関係は見えないのに、なぜ、臆測を言い立てるのか、と言う事でもあります。

 古来、そのような南方に「倭地」が延びていれば、東呉領は、ほんの対岸だから、狗奴国ないしは書かれていない周辺の南方異国が連盟しようとした/実際に連盟したという「夢想譚」がもて囃されることがありますが、「三国志」は、東呉が降伏の際に献上した韋昭「呉書」が、ほぼそのまま「呉志」となっているように、東呉が狗奴国と連携していれば「呉書」に書かれていて、臆測など必要がなかったのです。
 因みに、「呉書」に、南蛮伝、西域伝、東夷伝がなかったのは、ほぼ間違いなく、「俗説」は臆測を担ぎすぎと見えます。(担ぎすぎは、誉め言葉としていません。念のため )いや、そのようなことは、二千年前から、周知なのですが、倭人伝」道里記事が、間違いだらけだ』と言うためだけに、担ぎ出されているようです。

コメント:倭地温暖
 再確認すると、魏使の実態は、帯方官人であり、大陸性の寒さを体感したかどうか不明です。また、雒陽は寒冷地とは言えないはずです。もちろん、床下で薪を焚いて家屋を温める「暖房」が必要な帯方郡管内、特に、小白山地付近の冬の寒さは格別でしょう。因みに、「倭地温暖」と形容されて、浸す境地と異なり、奈良県奈良盆地南部、吉野方面は、冬季の寒さがかなり厳しいので、気軽に肌脱ぎ/水遊びなどできないのです。

*夜間航海談義
 ここで、塚田氏が持ち出すのは、千二百年後の「フロイス書簡」ですが、主旨が理解困難です。いずれにしろ、当該時代には、羅針盤と六分儀、そして、即席の海図を頼りの外洋航海であれば、夜間航行も不可能ではなかったでしょうが、何も文明の利器のない太古の「日本人」は、命が惜しいので、明るいうちに寄港地に入り、夜間航行などと無謀なことはしないのです。いずれが現地事情に適しているかは、視点次第です。

 因みに、三世紀時点、磁石は全くなく、当然、船の針路を探る高度な羅針盤は、存在しません。また、三世紀の半島以南には、まともな帆船もなかったのです。何しろ、当時の現地事情では、帆布、帆綱などに不可欠な強靱な麻や木綿(Cotton)が採れないのです。また、巨大な木造船を造りたくても、鋭利な鋼(はがね)のノコギリもカンナもないのでは、軽量で強靱な船体は造れず、夢想されているような帆船の横行は、無理至極の画餅です。少なくとも、現地では、数世紀、時間を先走っているのです。

*貴人と宝物輸送隊の野宿
 ついでながら、魏使は高位の士人なので、軍兵と異なり「野宿」とか軍人並の「キャンプ」「野営」など「絶対に」しないのです。それとも、魏使といえども、一介の蕃客扱いだったのでしょうか。氏の想像力には敬服しますが、文明国のありかたを勘違いしてないでしょうか。貴重な宝物を託送された魏使の処遇とは思えないのです。まして、国家の郵亭制度が、無防備の「野宿」に依存するはずがないのです。
 因みに、当時の中国に外交は無いので「外交官」は存在しません。魏使一行は、軍官と護衛役の兵士、合わせて五十人程度と文官ならぬ書記役です。つまり、魏使一行が、延々と、果てしない野道を長駆移動することなど、到底あり得ないのです。
 当然、宿舎を備えた街道で、日の高い内に当日の宿に入り、食事を済ませて、早々に床に就いたはずです。貴人が、強行日程で疾駆することなどないのです。

コメント:方位論の迷走
 この部分は漫談調で失笑連発です。氏の読み筋では、魏使は、大量の宝物を担いできているので「小数の魏使」だけに絞れるはずがないのです。何かの勘違いでしょうか。道里記事は、言わば、文書使の必達日程ですから、簡潔であり、無駄な遠足、行楽ではないのです。
 因みに、中国の史料で「実測万里」は登場しません。氏は、しばしば、中国文化を侮っていますが、魏使には、当然ながら書記官/記録係がいて、日々の日誌を付けていたし、現地方位は、現地が確認していないとしたら、一日あれば自身で確認できるので、間違うことは「絶対に」ないのです。もちろん、帯方郡からの指示で、現地方位は、日々的確に知らされたものと思われます。
 大勢の論客諸兄姉が、中国文化を侮っていますが、遅くとも周代には、天文観測が定着していて、日食予測もできていたので、手ぶらでできる東西南北を誤ることなどないのです。

コメント:誤解の創作と連鎖~余談
 引き続き、とんだ茶番です。魏使は、現地に足を踏み入れておきながら、帯方郡から遥かに遠い、そして、暑い南の国だと思い込んだ」とは、不思議な感慨です。想定した遠路が謬りという事でしょうか。氏は、魏使一行が、大量の荷物を抱えていたことを失念されたようです。
 そもそも、雒陽出発時には、主たる経由地の到着予定は知らされていたのであり、それだから、大量の下賜物を届けるという任務が成立したのです。行き当たりばったりでできる任務ではないのです。

 なお、半島南部と九州北部で気温は若干違うでしょうが、だからといって、九州が暑熱というものではありません。単に「倭地温暖」というに過ぎません。この点は、次ページの新規追加コメントで詳解します。

 以下、「会稽東治」の茶番が続きますが、年代物の妄説なので、「ここでは」深入りしないことにします。

*吉野寒冷談義~余談
 因みに、奈良盆地南端の吉野方面は、むしろ、河内平野南部の丘陵地帯と比べて低温の「中和」、奈良盆地中部と比して、さらに一段と寒冷であり、冬季は、降雪、凍結に見舞われます。
 塚田氏は、奈良県人なので、釈迦に説法でしょうが、世上、吉野方面は地図上で南にあるので温暖だと勘違いして後世、吉野に離宮を設け、加えて、冬の最中に平城京から吉野の高地に大挙行幸したと信じている方がいて、唖然としたことがあるので、一般読者のために付記した次第です。

 率直な所、いくら至尊の身とは言え、吉野の山中で、食糧、燃料の調達が可能とは思えず、耐寒装備も乏しかったはずなので、雪中行幸の随員一行に、かなりの凍死者や餓死者が出ても不思議はないのです。纏向や飛鳥に詳しい諸兄姉が、そうした凍死行記事にダメ出ししなかったのが不思議です。毎日新聞の高名な専門編集委員が、そのような不出来な思いつきで紙面を飾ったのは、無鑑査、無診査で、書いたまま全国紙紙面に掲載されるという途方もない特権に奢っていたのですが、大変なことですが、現にあったことなので、「前車の覆るは後車の戒め」として、何事も、思い込みにこだわらず、十分な「ダメ出し」をお勧めするのです。この下りは、纏向付近の記事として、誠に、誠に見当違いなのです。

                                未完

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」14/16 2024

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 
 2024/01/20、 05/08, 08/02, 10/08, 10/30

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

コメント:無意味に「ごみ」資料斟酌
 氏は、味不明の「固定観念」で想像を巡らしていますが同感できません。
 顕著な例として、原史料に明記されている「東治」を「東冶」に改竄するのは、文献考証として不用意で論外です。まして、原文記事を改竄して「思い込み」に沿えさすのは、百撓不折とは言え、重ねて論外です。
 この部分の地理考証は、素人目には、無意味な茶番です。

コメント:地理感覚迷走
 氏は、随分誤解していますが、当時の「中国」は現代のベトナムまで伸びていたので、「中国東南海岸部」は、会稽郡の南部を遙かに超えています。また、会稽郡東冶県を含む南部は、早々に分郡して会稽郡から分離しましたから、当時の会稽は、古来の会稽そのものと見えます
 いや、そんな細かいことに立ち入る必要は、まるでないのです。どのみち、「魏志」「倭人伝」論で、曹魏の管轄外の東呉領域であった「会稽郡東冶県」がどうのこうのというのは、全くの的外れですから、陳寿が、「魏志倭人伝」に採用するはずがないのです。確かに、陳寿「三国志」「呉志」には、会稽郡の郡県制移動の経緯が記録されていますが、逆に言うと、当時、そのような異同は、曹魏に一切報告がなかったと言う事です。

 古田武彦氏は、第一書『「邪馬台国」はなかった」に於いて、既に、陳寿が「呉志」記事から会稽郡の異同を把握していたから、建安郡分郡以降、「会稽東冶」と言う事はなかった』としていますが、「魏志倭人伝」編纂の際に、『東呉降服の際に西晋皇帝に献呈された「呉志」(呉書)』を参照することは、到底あり得ないので、正確に言うと、「倭人伝」の道里記事で「会稽東冶」と言う事は、無法だ』と言うだけです。これもまた、古田武彦氏の些細な勘違い/瑕瑾と言うべきですが、氏の議論の本筋を誤りと言うようなものではないのは、言うまでもありません。
 なお、「会稽」は、郡領域全体を指すものではなく郡治を言うものです。古代中国の常識を無視してはなりません。

 ついでながら、当記事では、伊都国以降の「余傍の国」は、除外していますので、議論する必要はないのです。

*「食卓」の振る舞い
 当時の中国では、食卓はあったものの、まだ、手づかみが多かったと思うので、別に、手づかみを野蛮と言っているのではないのです。むしろ、籩豆は、中国古代の礼にかなっているもののようです。「文化」は、中国の礼にしたがっていることを言うので、無文の国は圏外です。

コメント:『邪馬壹国を九州に置く』

 曲がりくねった言い回しで、氏は、何を言ったのでしょうか。
 参照している「混一彊理図」は文化財として美術的な意義はあっても、この場では「史料価値のないバチもの」であり、まして、遙か後世の産物なので「倭人伝」考証に無用の「ごみ」(ジャンク)であり、さっさと却下すべきです。とうに博物館入りの「レジェンド」(骨董品)と思うのですが、なぜ、場違いの実戦に担ぎ出されるのか、気の毒に思います。

*風評混入
 ついでに評された後世の流着異国人が、どのような地理認識をしていたか、地名認識の検証も何もされていないので、風評以下の確かさすら怪しいのです。また、南方と見える「出羽」が、実際はどこにあったのか、全く不明です
 氏は「史料批判」「証人審査」を一切せず、持ち込まれた風評を、提供者の言いなりに、いいように受け取っているのでしょうか。食品見本の偽物食品にかぶりつくような蛮勇は、真似したくてもできません。まことに、まことに、不審です。

                                未完

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」15/16 2024

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 
 2024/01/20、 05/08, 08/02, 10/08, 10/30

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*狗奴条の起源(再掲/重複)
 水野祐氏の大著「評釈 魏志倭人伝」の提言によれば、この部分は、南方の狗奴国に関する記事の起源であり、九州北部に不似合いな亜熱帯風の風土、風俗描写南方と見える狗奴国に関する記事と納得できるので、当ブログでは、水野氏の提言に従います。

b、倭人の南方的風俗とその文化~狗奴国査察記録
原文…其風俗不淫……貫頭衣之種禾稲紵麻……
 其地無牛馬虎豹羊鵲 兵用矛盾……
 竹箭或鉄鏃或骨鏃 所有無與儋耳朱崖同

 再確認したように、この部分は、正始魏使の報告のさらに後年、恐らく、多数の軍兵(数百名か)を伴ったと見える張政の長期とも見える派遣、滞倭時の「狗奴国」査察記録/報告書の収録と見えます。
 その地を、「会稽東治」、つまり、高名な史蹟である会稽山に例えた後、亜熱帯とも見える南方的「民俗」を「儋耳朱崖」、つまり、遙か南方の海南島と近郊の狗奴国を比較したところで、狗奴条は完結したと見えます。

 もちろん、狗奴国に「文字」はないので、「文化」は、見当違い、失当です。ご注意下さい。また、「風俗」と言いながら、現地の法制、刑罰など「風」に関する記事が貧弱なのも気がかりです。塚田氏にしては、中国語の教養不足が気になります。

*郡による「和解」~当然至極な帰着
 言うまでもないでしょうが、狗奴国は、帯方郡の指導に反して、女王への反抗を続けたとは見えないので、両勢力は「和解」したものと見えます。現地勢力の抗争が現地勢力によって和解できないときは、上位に当たる郡が、権力を振るって「和解」させるのであり、それが、郡の東夷管理の主務なのです。

*「倭地条」~「温暖」境地の紹介
《原文 倭地温暖……穿中央為貫頭 男子耕農……山多麖麈……食飲用籩豆 手食
 本条は、世上言われているように、正始魏使の現地査察記録/報告と見えますが、注目すべきなのは、「倭地温暖」の形容です。つまり、厳冬と言える帯方郡の冬季風土と比べて温暖、ほんのり温かいというものであり、「狗奴国条」のように、亜熱帯というものではないのです。

コメント:幻の食卓
 氏は、隋書俀国伝の「民俗」記事を、あたかも、七世紀初めの飛鳥時代の飛鳥「民俗」と思い込んでいるようですが、圏外なので論評しません。(不用意に「風俗」と書いていましたが、古代史で、「風俗」は、「風」法制と「俗」習慣の総合なので、「民俗」としました)

《原文…其死有棺無槨 封土作冢……挙家詣水中澡浴 以如練沐

コメント:封土作冢
 ここは、後出の卑弥呼葬送の段取りと重なるのですが、無造作に読み飛ばして入るのは、もったいないところです。「封土作冢」とは、棺を地中に収めた後、土で覆い封じて盛り土の「冢」とするとの意味であり、墓誌もなく石塚ともせず、簡素なものとわかります。また、周辺住民の労力で比較的短期間に完工する規模であり、故人(大人、すなわち首長)の没後に着手、施行して、程なく埋葬できた程度と思量します。墓地は、代々の域内墓地であり、盗掘などの及ばないものであったと見受けます。過度な副葬品などないということです。
 ここで、「倭人伝」の「冢」を明記しているので、後の卑弥呼の冢について、簡潔に書けるのです。史官の至芸でしょう。

《原文…其行来渡海詣中国……謂其持衰不勤 出真珠青玉……有獼猴黒雉
《原文…其俗挙事行来…… 視火坼占兆 其会同 …… 人性嗜酒
 魏略曰 其俗不知正歳四節 但計春耕秋収 為年紀
《原文…見大人所敬 …… 其人寿考或百年或八九十年

コメント:加齢談義
 「暦や紀年を持たない倭人に、正確な年齢が解るのかと裴松之が首をかしげた」とあるのですが、氏の弁舌力が余ってか、古代人の心理を深読みする例がままあります。素人としては、塚田氏は、三世紀中国語の読解に不用意な点があるはずなのに、遺された史料から、よく、劉宋代の裴松之の意見がわかるものだ、神がかりだと感心しています。
 私見では、陳寿が史料として採用しなかった「魏略」にこのような表現があるから、補追した方が良いのではないかとの提言」のように見えます。
 古来、毎年元日に全員揃って加齢する習わしであるから、別に年齢を数えることに不思議はなく、文字がなく「暦」や記録文書がなくても、何か目印でも遺していれば、自身や肉親の年齢はわかるのです。
 これは、春秋の農事祝祭に因んで、それぞれ加齢したとしても同様です。そのような習慣があれば、そのように記憶されるまでです。「二倍年暦」などと言うと、元日に二歳ずつ加齢する「稚拙な」誤解を招きますが、「春秋加齢」とでも説明すれば、余計な誤解は無いでしょう。現代でも、民間企業では、往時、四月から上期、十月から下期と6ヵ月単位で会計決算して、それぞれ一期と数える例があったので、その際には、結果として一年に二期進むことになっていたのです。別に驚くほどのことは無いように思います。

 因みに、東夷が年月日を知らないでは、郡の諸制度に服属させることが困難なので、中国の暦制を指示したと見るものではないでしょうか。なんにしろ、正月に年賀に来いと言っても、いつが正月か分からなくては従いようがないのです。

 そして、節気ごとに来いというなら、太陽運行に基づく高度な概念である二十四節気を教えておかねばなりません。

*識字力、計数力~地域住民管理
 百に近い数字まで適確に認識するには、当時としては大変高度な教育訓練が必要です。一般住人が、幾つまで数えられたか不明ですが、三、五(片手)、十(両手)までが精々という者が大半の可能性があります。氏の示唆に拘わらず、各人が自身の年齢をちゃんと数えられたという保証はありません。現代でも、義務教育が十分行き届いていない国、地域では、十を超えると数えられない例が珍しくはないのです。
 恐らく、聚落の首長が、「住民台帳」めいた心覚えを所持していて、その内容を参照して、世間話として回答したのでしょう。戸籍調べは、徴兵、徴税の前提であり、容易に本音を漏らすものではないのです。
 何にしろ、計数管理は、郡として、早い段階で教育していたものと思われます。そうでないと、戸数を知ることは到底できないのです。

*戸籍を偽る
 例えば、戸籍上に老人が多く若者が少ないとすれば、戸数に比べて動員可能人員が随分少なく担税能力が低いことになり、徴兵、徴税が緩和されます。「未開、無文と言っても、無知ではない」ので、首長(しゅちょう)を侮ってはなりません。
 寡婦(未亡人)は、遺児ともども、親族が養わなければなりませんから、戸籍上、親族の男性の第二、第三夫人としたかも知れません。戸籍上の扶養家族が多ければ、税は減免されるものと思われますから、多妻制度と見えたのかもしれません。

 言うまでもないですが、陳寿は、そのような「悪知恵」は、充分承知の上で、「倭人伝」を編纂したのです。對海國と一大国の記事で、「良田がない」ので、飢えているので、課税を容赦してほしいと泣きを入れているのと、同じ趣旨と見えます。牛馬を労役に供していないので、農耕が捗らず、結果として収穫が限られると書いたのも、同趣旨でしょう。誠に、首尾一貫しています。要するに、「倭人」は、総じて貧困で有り、課税も徴兵もできないと申告しているのを伝えているものと見るのです。

*明帝の誤解考~余談
 曹魏明帝は、帯方郡を通じて、「倭人」の身上を知った際、万二千里の彼方に在って、七万戸を擁し、芳醇で兵力に富んだ国と判断して、頑強であった匈奴を、ほぼ打倒した新興の鮮卑に、光武帝代に厚遇したのを想起しての厚遇ですが、陳寿は、そのような厚遇は、現地事情が分かってみると、とんだ誤解であったことを明示して、後世の教訓としたものと見えるのです。
 鮮卑初見では、貂などの貴重な毛皮に加えて、貴重な駿馬を上納していて、それなりに豊かな物産を誇示していたので、厖大な奨金も妥当と見えるのですが、「倭人」の場合は、細(ささ)やかな進物に、堂々たる厚遇ですから、明帝の見当違いと見て取れるのが、史官の筆の冴えです。

 ちなみに、鮮卑を厚遇して匈奴の駆逐を図ったのは、光武帝代の史実ですから、雒陽東京の史官が既に「後漢書」稿として編纂していたものであり、陳寿が、魏志東夷伝の末尾に付した「評」をみても、その後、鮮卑が興隆して匈奴が衰退したのは、単に東夷の代替わりであると評しているところから、陳寿は、そのような光武帝の偉業は、一時の光芒であって、後漢末には鮮卑が北方の患いになっていたことを批判しているように読み取れます。
 各所に、密かにちりばめられた「警句」から、「倭人伝」に込められた史官の真意を理解いただきたいものです。諸兄姉が信じようと信じまいと、中国史官の書法を踏まえた「倭人伝」理解は、そのようなものなのです。世上、陳寿が、編纂時の権力者であった司馬氏に媚びて、「倭人」参上を司馬晋の創業者宣帝司馬懿の功績として書き留めたという解釈は、以上に示した史官の真意を見過ごした、まことに軽率なものであり、ここでは、「二千年後生の無教養な東夷」の浅知恵による誤解と判断しています。

                               未完

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」16/16 2024

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 
 2024/01/20、 05/08, 08/02, 10/08, 10/31

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*誰の報告?
 言うまでもないですが、ここで色々言っているのは、現地で言葉が通じる者達であり、当時、ごく一部の上流家族を除けば、戸籍がない上に、苗字も名前もわからないものが多くいて、そう言うものたちの本当の年齢は、当然わかるはずがありません。
 また、当時は、幼児や小児が亡くなる例が多かったので、現代風の平均寿命(零歳新生児の平均余命)は、全く無効と思うのです。当然、「人口」も意味の無い概念であり、正しくは、「口数」ないしは「人頭」として勘定するものでしょう。要するに、地券を与えられて農地耕作を許可され/命じられ、収穫物の貢納を命じられている「成人男性」を数えるものなのです。

*場違いな引き合い
 倭人」の首長達は、ここで引き合いに出された「アンデス」や「コーカサス」を知らないので、文句を言われても困るのです。あえていうなら、このような後世、異世界概念は、編者たる陳寿の知らない事項なので「倭人伝」の深意に取り込まれているはずは(絶対に)ないのです。私見では、古代史論には、同時代に存在しなかった用語、概念は、原則的に最小限に留めるべきと信じているものです。

 そうでなくても、世上、俗耳に訴える「新書」類には、時代錯誤の用語解釈が蔓延していて、まるで躓き石だらけの散歩道ですが、ここで、善良な読者が躓いて転んでも、いている当人には痛くも痒くもないので、論考を書き出す際には、登山道のつもりで足ごしらえして立ち向かうしかないのです。細々と口うるさい理由をご理解いただけたでしょうか。

*魚豢「魏略西戎伝」賛~余談 知られざる西域風雲録
 因みに、魚豢「魏略」は、魏末晋初に公開され、長く貴重な史書として珍重されたのですが、正史ではなかったので、千数百年の間に、写本継承の必須図書から外れて散佚し、完本は現存せず、諸史料への(粗雑な)引用/佚文が残っています。佚文は、引用時点の所引過程で謬りや改編が発生しやすい上に、所引先の写本過程での誤写が、正史など完成写本と比べて格段に頻発しているので、魚豢「魏略」の本来の姿を留めているか、大いに疑わしいものです。顕著な例が、所謂「翰苑」現存断簡所引の「魏略」でありほとんど史料として信用できる部分が見られない始末です。
 ただし、魚豢「魏略」「西戎伝」は、全くの例外です。裴松之が、陳寿「三国志」の附注に際して、陳寿が『意義のある記事が無いとして割愛した魏志「西域伝」』の代用として注釈無しに丸ごと補注しているので、魏志刊本の一部として、古代史書の中でも類例のない完全に近い形で現存しています。魏略「西戎伝」を侮ってはなりません。

 と言う物の、曹魏は、西域経営から撤退していた後漢を継承しているので、特筆すべき事項はほとんど存在せず、魏略「西戎伝」は、実質的に、後漢書「西戎伝」であって、記事の大半は、亀茲に「幕府」を開いた後漢西域都護の活動を記録しています。
 後世の笵曄「後漢書」西域伝によると、後漢明帝、章帝、和帝期の西域都督班超が、前漢武帝時に到達した西域極限の「安息」東部木鹿城(Merv)に、副官甘英を都督使節として百人規模の大使節団を派遣しています。
 安息の東部主幹「安息長老」は、イラン高原全体を支配していたパルティア(Parthia)国王から、漢との外交関係締結を委任されていて、遙か西方メソポタミアの王都「クテシフォン」は、漢使の到着地である木鹿城メルブ要塞から五千里の彼方でしたが、東西街道と騎馬文書使の往来で運用していたので、甘英は、後漢洛陽から二万里の地点を、西域都護の勢力圏の「西域極限」と再確認できたのです。

 復習ですが、班固「漢書」「西域伝」は、諸蕃王の居処を、一切「都」と呼んでいませんが、中華文明に匹敵すると認めた文明大国「安息国」には、例外中の例外として、蕃王居城と隔絶した「王都」なる至高の尊称を与えているのです。
 と言っても、これは、漢代公文書を収録した後漢代史官班固の基準であり、後世、さらには、東夷の基準とは、必然的に異なるので、安直に参照するのは、誤解の元です。
 何にしろ、殷周代以来の古典語法で書かれた班固「漢書」の用語は、唐代教養人に不可解であったため、隋~初唐の学者顔師古は、班固「漢書」地理志への付注で、ほとんど一文字ごとに「飜訳」記事を書き付けていて、如何に漢字の解釈が深遠であるか示しています。当然ですが、そのように附注/飜訳された古代史書は、一般的に現代中国人には読解不能なのです。ある意味、日本人と大差ないという事もできます。

閑話休題
 安息国は、かって大月氏の騎馬軍団に侵略されて国王が戦死するなど打撃を受け、以後二万の大兵力を国境要塞メルブに常設していましたから、西域都護班超は、後漢の西域支配に常習的に反抗する大月氏(貴霜国)を、両国の共通の敵として挟撃する軍事行動を提案したものと見えます。(どこかで聞いた話しです)但し、安息国は、商業立国であり、取引相手を敵に回す対外戦争を自制していたので、漢安同盟は成立しなかったようです。
 安息国、「パルティア」が、西方メソポタミアの「王都」クテシフォンに於いて繁栄を極めたため、西方のローマ(共和制時代から帝政時代まで)の執拗な侵略を受け、都度撃退していたものの、敵国ローマがシリア(レバノン)を準州として、駐屯軍四万を置き侵攻体制を敷いていたため、既に二万の常備軍を置いている東方では、無用の紛争を起こす気はなかったものと思われます。
 安息国にとって、周辺諸国は顧客なので、常備軍を厚くして侵略に出ることは、ほとんどなかったのです。この点、先行するアケメネス朝のペルシャが、隔絶して富有の身でありながら、西方の貧困弱小のギリシャに度々侵攻したのと「国是」が異なっていたのです。
 といって、凶暴と思わせるほど果断な行動力で、西域に勇名が轟いていた後漢西域都督班超」を敵に回すことのないよう、また、独占している東西交易の妨げにならないよう、如才なく応対したようです。まさに、二大大国の「外交」だったのです。

 つまり、班超の副官甘英は、軍官として威力を発揮することはなかったものの、外交使節としての任務を全うし、つつがなく西域都督都城に一路帰参したのです。

*笵曄不信任宣言~ふたたび、みたび
 笵曄は、後漢書「西域伝」で、「漢代西域史料には誇張があって、西方進出を言い立てているが、実際には、安息までしか行っていない、条支(アルメニア)にすら行き着いていない」と達観していますが、一方、甘英が、遙か西方、大秦に至る海港に望んだが、長旅を恐れて引き返した」と創作しています。
 安息は、西方の大海カスピ海の手前「海東」であり、確かに、甘英は「大海」対岸の「海西」条支(アルメニア)には行き着いてないのです。笵曄によって正体不明の大秦を目指したとされている地中海東部は数千里の難路の果てであり、カスピ海沿岸から遠くメソポタミアに至る領域を支配していたパルティア(安息)は、「東方の異国である後漢の武官が、西方の王都を越えて、4万の駐屯軍を置いていて臨戦状態である敵国ローマの領分にまで進むことを許可することは、絶対にあり得ないのです。
 要するに、現代に至るまで、「大秦 ローマ説」なる根強い誤解をまき散らしていますが、范曄自身は、そのような意図はなかったはずです。なにしろ、「大秦」は、漢代以来、中国西域付近から、匈奴などの攻勢に怯えて、西方への流浪を重ねていた弱小国家「莉軒」が、「中国」紛いの異名を唱えただけです。ところが、後漢西域史料の混乱で、安息国に本来与えられていた大量の「風俗」(法制「風」と民俗「俗」)記事が、大秦に充てられたため、実態と隔絶した幻の巨大国家とされてしまったものです。

 当時、地中海岸の大国シリアは、長らくローマの準州であり、時のローマは、帝制に移行してもメソポタミア制覇の国是は変わらず、シリア総督の下、数万のローマ軍が常駐し、公然と、『往年の大敗で三頭の一角マルクス=リキニウス=クラッススを敗死させ万余の兵士を戦時捕虜として東部国境メルブまで配流して終生東方の外敵に備えさせた「パルティア」』への復仇と世界の財貨の半ばにも及ぶその「財宝」の奪取を期していたのですから、漢使にそのような敵との接触を許すはずがないのです。
 また、班超の副官が、そのような西方進出を「使命」としていたのなら、『武人は、万難を排して「使命」を全うする』のであり、正当な理由無しに「使命」を回避することは死罪に値する非命なのですが、甘英が帰任後に譴責を受けた記録はなく、もちろん、斬刑に処せられたことも記録されていないのですから、もともと、そのような進出の命令/使命は「なかった」のです。
 笵曄は、ここで、先行史書の縛りの少ない西域伝」に対して、明らかに史料(魚豢「西戎伝」)にない「創作」を施したのであり、これは、笵曄の遺した夷蕃伝は、史実を忠実に記録した史料として信ずることができない」ことを証しているものです。

 と言うことで、ここまで続いた余談は、実は、笵曄「後漢書」東夷列伝「倭条」が、史実を忠実に記録した史料として信ずることができないと断罪する理由を示しているのです。
 当ブログ筆者は、著名な諸論客と違って、思いつきを、確証無しに大言壮語することはないのです。 

*魏志「西域伝」割愛の背景
 このように、遥かな「大海」カスピ海岸まで達した後、英傑班超の引退に伴い後漢西域都護は名のみとなったものの、魏略「西戎伝」は、後漢盛時の業績を顕彰し、粗略な所引の目立つ范曄「後漢書」西域伝を越えて、地理情報の的確さと加えて、同時代西域事情の最高資料と世界的に評価されています。そして、続く魏晋朝期、西域都護は、歴史地図上の表記だけで形骸化していたのです。
 恐らく、後漢撤退後の西域西部は、「大月氏」の遺産である騎馬兵団を駆使する「貴霜」掠奪政権が跳梁跋扈するままになっていたと思われますが、魏略「西戎伝」は、そのような頽勢は記録していないのです。
 ということで、結論として、陳寿の魏志編纂にあたって、「西域伝」は、書くに値する事件が無かったため、謹んで割愛されたのです。「西域伝」を書くと、曹魏/司馬晋の無策を曝け出すことになるので、むしろ、書かないことにしたと見えます。それが、「割愛」の意味です。

《原文…其俗国大人皆四五婦……尊卑各有差序足相臣服
 以下略

*まとめ
 長大な批判文に付き合って頂いて恐縮ですが、単なる批判でなく建設的提言を精一杯盛り込んだので、多少なりとも読者の参考になれば幸いです。
 一語だけ付け足すとすると、「倭人伝」は中国正史の一部であり、先行二史を越えて、有能怜悧な陳寿が生涯かけて取り組んだ畢生の業績なのに「国内古代史論の邪魔になる」(百害あって一利なし)と言って根拠の無い誹謗と汚名を背負い込まされ、果ては、後世改竄の嵐に襲われているのが、大変不憫なのです。

*自由人宣言
 当記事の筆者は、無学無冠の無名人ですが、誰に負い目もないので、率直な反論記事を書き連ね、黙々と、支持者を求めているのです。

*個人的卑彌呼論~「水」を分けるひと 最後の余談
 思うに、女王卑弥呼の「卑」は、天の恵みである慈雨を受けて、世の渇きを癒やすために注ぐ「柄杓」(ひしゃく)を示しているのであり、卑弥呼は、人々の協力を得て「水」を公平に「分け」、普く(あまねく)稲の稔りを支える力を持っていたのですが、不幸にして、今に伝えられていないのです。
 一年を通じて、北の夜空には、天の柄杓が見えるので、卑弥呼は「北斗」の人(Woman with a Dipper)かもしれないのです。
 「卑」の字義解釈は、白川静氏の「字通」などの解説から教示を受けたものです。「卑」の字義から出発して、卑弥呼が「水分」(みずわけ)の神に仕えたと見るのは、筆者の孤説の最たるもので、誰にもまだ支持されていません。

 いろいろ訊くところでは、卑弥呼の神性を否定すると、「卑弥呼が太陽神を体現している」との解釈から、天照大神の冒瀆として攻撃されるようなので、これまでは公言を避けたものです。年寄りでも、命は惜しいのです。ことのついでに言い足すと、「倭人伝」にも「倭条」にも、「倭人」が太陽神を崇拝していたとの記事もなければ、「卑弥呼」か、太陽神に事えていたとの記事もないのです。
 私見ですが、卑弥呼は、あくまで現世の生身の人であり、神がかりも呪術もなく、「女子」(男王の外孫)にして「季女」(末娘)として、生まれながらに託されていた一族の「巫女」としての「務め」に殉じたとみているのです。恐らく、陳寿も、ほぼ同様の見方で、深い尊敬の念を託していたと見るのです。
 倭人伝」には、卑弥呼その人の行動、言動について、ほとんど何も書かれていないわけですから、人は、自身の思いを好き放題に仮託しているのです。もし、以上に述べたこの場の「卑弥呼」像が、読者のお気に入りの偶像に似つかわしくなくても、それはそれでほっておいて頂きたいものです。少なくとも、武人として、庶民を戦争に駆り立てたというのは、言いがかりであり、断固反対するものです。
 ここで、司馬遷「史記」夏本紀をみると、治水のために十三年諸國を行脚した禹の行動は「致孝于鬼神」と簡にして要を極めているので、陳寿が卑弥呼に与えた「鬼神に事える」とは父祖の霊に孝を尽くす至高の行為と尊重した寸鉄句と分かるのです。
 
 以上、平地に乱を求めるような発言と見えるかもしれませんが、別に、無学無冠の当ブログ筆者の言うことを聞けと押し付けているのではないのです。「ほっちっち」です。本論著者は、何を言い立てられても、論者の「思い」には入れないので、寛大な理解を願うだけです。

                                以上

魏志天問 1 東治之山~見落とされた史蹟の由来 三掲 1/4

                   2013/12/22  再掲 2021/03/12 2021/12/19 2024/10/07
*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇再掲載の弁
 今般、NHK BSPの「邪馬台国サミット 2021」([BSプレミアム] 2021年1月1日(金) 午後7~9時 NHKオンデマンドで公開中)なる特番で、世上、三国志の最高権威とみられている渡邉義浩氏が「中華書局本」という出典を隠したままで、倭人伝の「会稽東治」が正しくは「会稽東冶」であったという一種の「フェイクニュース」を高言していて、番組上で反論がなかったので、ここに、素人の調べた意見を再掲するものです。ひょっとすると、使い回しされそうなので、一連の記事を再公開します。

〇原記事
 下の記事は、魏志倭人傳に関する「素人考え」の疑問に「素人考え」の解を並べていくものです。伝聞、風評を極力減らすために、色々史料探索していますが、素人の悲しさで、調べや思いが行き届いていない点があれば、ご容赦ください。

 天問1は、
 「会稽東治」は、陳壽が参照した資料に、禹の事績の場として「東治之山」と書かれていたのが根拠であり、会稽山の位置を示したものであって、会稽郡東冶県の位置を示したものではない、のではないか、
 と言うものです。

 中國哲學書電子化計劃(中国哲学書電子化計画)では、大変ありがたいことに、太平御覧の全文をテキスト検索ができます。いや、全収録史料の全文テキスト検索ができます。(画像収録は目下進行中であり、この部分は未収録のようです)
*YES OR NO
 ちなみに、当質問は否定疑問となっているので、日本語の「はい」肯き、「いいえ」否定が、英語では、[NO]否定、[YES]肯きになると言う、文化の亀裂が表沙汰になる質問形なのですが、古田武彦氏始め、日本語の肯定「はい」は、英語で無条件に「Yes」だと勘違いしている方が多いので、ここに苦言を呈しておきます。
 とある一日、太平御覧で「東冶」を検索すると、興味深い文例が提示されました。
〇「太平御覧」 州郡部三 6 敘郡: 
應劭《漢官儀》曰: 秦用李斯議,分天下為三十六郡。凡郡:
 或以列國,陳、魯、齊、吳是也。
 或以舊邑,長沙、丹陽是也。
 或以山,太山、山陽是也。
 或以川源,西河、河東是也。
 或以所出,金城城下有金,酒泉泉味如酒,豫章章樹生庭中,雁門雁之所育是也。
 或以號令,禹合諸侯大計東冶之山會稽是也。
 京兆,絕高曰京。京,大也;十億曰兆,欲令帝京殷盈也。
 左輔右弼,蕃翊承風也。張掖,始開垂,張臂掖也。

 この部分は、秦漢代の中国の広域行政区画である「州」「郡」に関連する記事を連ねています。
 ここに提出されたのは、應劭「漢官儀」から太平御覧への引用で、「郡名」の起源、由来の記事を再録しています。
 その後段に、大要下記の意味が書かれています。(中国語は専門ではないので、誤解があればご容赦ください)

 (郡名には)号令に由来するものがある。(会稽郡は)禹が諸侯を合わせて大計した「東冶之山」から会稽と命名された。
 禹が諸侯を集めた山は、それ以前の名前を書いていない場合が多く、せいぜい「苗山」,「茅山」,「防山」などと称していますが、ここでは、たぶん固有名詞でなく「東冶之山」と書かれています。
 一瞬、会稽東冶の裏付け史料かと錯覚しそうです。速断せずに、ご注意下さい。本項後出の論議で、「東冶之山」は「東治之山」の誤解と断じています。「東冶」は漢代新作の地名なので、秦始皇帝宰相李斯が提言することはないのです。

 「漢官儀」編者應劭は、後漢高官で、三國志武帝記(曹操傳)にも登場する著名人であり、後漢書には列伝を建てられています。

*「帝京」談義 2021/12/19
 ついでながら、漢代は、皇帝居処「長安」を、「京兆」と命名したことから、「帝京」の呼称の発祥が見えます。さらについでながら、当時の大数は、十 百 千 萬の後も、十進で連なっていて、十萬を[億]と言い、十億を[兆]、十兆を「京]と言ったことが示されています。当時の[京]は、千万だったのです。
 転じて、[京]は、途方もなく大きな数とされ、天子の威光で「千万」に発展するとの展望を表して、天子の居処を「京」と称していたようです。もっとも、日本語は、それぞれの時点の中国語の用例を採集して、東夷の用語としているので、必ずしも、時点時点の中国の用語に追随しているわけではないのは、周知の筈です。

 いや、今日でも、伝統的な「正体字」文化を遵守する台湾では、日常の世界では、字画の多い「億」を避けて「万万」と言う事は珍しくないのです。一方、簡体字なる略字に[堕して]いる「中国」では、「億」は「亿」なので、直接表示しているものと推定される。

                                    未完

魏志天問 1 東治之山~見落とされた史蹟の由来 三掲 2/4

                   2013/12/22  再掲 2021/03/12 2021/12/19 2024/10/07
*加筆再掲の弁
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〇應劭「漢官儀」[承前]
 應劭「漢官儀」は、後漢最後の皇帝劉協(献帝)が、帝都洛陽から強引に拉致/遷都された長安から東還し、曹操の保護下に許に宮廷を再現しようとしたとき、王朝を構成する高官の官位と位置付け、宮廷儀礼の内容などを示す資料が、散逸していたため、代々高官で儀礼に通じていた應劭が、関連資料を渉猟して集約し、上申したものと言うことです。

 後漢末期、(三国志演義の超悪役で)有名な董卓の暴政で、帝都洛陽は破壊されて、皇帝以下の洛陽住民が、前漢末、新朝の廃絶後の後漢朝洛陽遷都により、廃都として200年近く残骸放置されて荒れ野原となっていた長安への移動を強制されたことから、後漢朝宮廷の書庫は大半が放置、廃棄され、宮廷要員の多くは、強制移動を免れても、追放か、逃散かしていたものです。

 應劭が献帝に漢官儀を献呈した時は、全10巻構成であったようですが、西晋崩壊時の異民族侵入、洛陽破壊などの影響で散逸し、あるいは、短縮版が横行して混乱していたものを、後世になって再構成したものが、「漢官六種」などに収録されています。

 史料の信頼性を確認するために、苦労して引用元を探しましたが、應劭「漢官儀」の影印版(PDF)は、中國哲學書電子化計劃から辿って、「漢官六種」PDFテキストに辿り着くことができます。

*應劭「漢官儀」
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 ここで確認した應劭「漢官儀」は、上下二巻が収録されていて、中国語素人の目では当該記事の場所を探すのに大変苦労しましたが、上巻に記載されています。なお、記載内容は、太平御覧に引用の通りです。

                                                    未完

魏志天問 1 東治之山~見落とされた史蹟の由来 三掲 3/4

                   2013/12/22  再掲 2021/03/12 2021/12/19 2024/10/07
*加筆再掲の弁
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〇「水経注」所引 應劭「漢官儀」
 因みに、應劭「漢官儀」の当該部分は、太平御覧以外に、水經注にも引用されていて、史料の裏付けとなっています。

*水経注 四庫全書版
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 各資料の成立時期等を確認すると、
  •  漢官儀  後漢建安元年(196年)成立と伝えられています。
  •  水經注  酈道元撰 北魏代の地理書です。延昌4年(515年)頃成立と伝えられています。
  •  太平御覧 李昉等による奉勅撰、北宋太平興国8年(983年)頃成立と伝えられています。
 ここで、太平御覧と水經注は、清朝勅撰の四庫全書に収録されているので、確実な資料と確認できますが、漢官儀は、散逸による記事の不安定さも影響してか、四庫全書には収録漏れです。

 漢官儀には、太平御覧と水經注とに引用されていることが注記されていますが、当然、これは後世の書き込みです。おそらく、散逸した漢官儀の復元の際に、太平御覧と水經注が利用されたものと推定されます。この点は、「東冶之山」の信頼度評価にも影響します。何事も、簡単に結論を出さずに、色々考え合わせる必要があるということです。

〇成都異稿本「漢官儀」
 別資料として、早稲田大学図書館の古典籍データベースに収録されていて、大事な異稿です。

 出版書写事項:民国2[1913] 存古書局, 成都
 叢書の校集:孫星衍(1753-1813)  覆校:劉沢溥
 尊経蔵本  唐装 仮に「成都本」と呼ぶことにします。
 驚いたことに、成都本では「或以號令,禹合諸侯大計東治之山會稽是也。」です。

 資料継承の跡をたどってみると、水經注(北魏)、太平御覧(北宋)と、別時点で漢官儀を引用した資料が、揃って「東冶之山」としているので、多数決原理に従うなら、清朝時代の漢官儀復元編纂時の元資料も、そのように書いていた可能性が高いのです。と言うことは、成都本の校訂段階で、「東治之山」と校勘、訂正した可能性が高いということになります。
 史料考証は、多数決でなく、論理的な判断によるものだという教えのようです。

 訂正の理由は推定するしかないのですが、「東冶之山」では主旨不明であり、「東治之山」なら禹が東方統治した山、との妥当な意味が読み取れるので、合理的な判断からの校訂かとも思われます。

 当然、成都本の撰者も、歴史上の一時期に会稽郡東冶県が存在したことは知っていたと思われますが、「東冶県」の由来は、後漢成立時に、単に二字地名とするために「東冶」としたという説があり、秦の宰相李斯が、各郡を命名した際に存在しなかった地名ですから、無関係とみるべきです。

 現代は、校正不在のゴミ情報が、とにかく多数飛び回っているので、「治」、「冶」の混同例は、まま見られますが、本来、二つの文字は、意味が大きく異なるので、権威ある資料では、まず、混同されることはないのです。

 陳壽「三國志」の書かれたのは、まさしく、後漢最後の皇帝に「漢官儀」が献上されて関係者に流布した直後であり、また、許で再構築された後漢朝書庫は、順調に魏晋雒陽に継承されたと思われます。

                           未完

魏志天問 1 東治之山~見落とされた史蹟の由来 三掲 4/4

                   2013/12/22  再掲 2021/03/12 2021/12/19 2024/10/07

*加筆再掲の弁

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*三国志における「漢官儀」
 陳壽は、吟味の上で、公文書飼料を取り入れる正統派の執筆姿勢であり、漢朝儀礼の典範である漢官儀は、史官としての座右の書としていたと考えます。 
 よって、陳壽が「会稽東治」と書いたときは、会稽郡東冶県のことは考えもせず、会稽東治之山を想起していたと思われます。皇帝を含めた同時代読者も、当然、漢官儀を知っていたと思われます。
 時折触れるように、陳壽の執筆時点から笵曄の執筆時点である南朝劉宋に到る間には、西晋末の大動乱で、洛陽の西晋朝書庫は散逸し、漢官儀も劉宋に継承されていなかった可能性があります。

 会稽山近郊に生まれた笵曄には、禹の事績はなじみ深かったはずで、漢官儀を知ってさえいれば、「会稽東治」に深い感慨を持ったのでしょうが、実際は、劉宋高官の土地勘から「東冶」県と読んでしまったのでしょう。
 それだけで止まっていれば三国志の継承記事にとどまり、笵曄の不見識は知られずに済んでいたのに、ついつい才気が走って、後漢書倭人記事の最後に「会稽東冶県」と書いて、早合点の証拠を残しています。

 以上は、当方の勝手な推定であって、「漢官儀」には、元々「東冶之山」と書いてあったのかも知れませんが、それは当記事の論議に関係のない些事です。

 とにかく、素人が気づくような史料考察に対して、寡聞ながら、当否を論じた意見を見たことがないので、ここに掲示するものです。
以上

*「漢官儀」 成都本
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追記 2021/03/12
 ついでに言うと、素人考えでは、禹の「東治」は、治世の終わりに近づいた大禹が、四方で「会稽」した中で、順当に終わった(と思われる)「西治」、「北治」、「南治」に当たる三方は継承されず、直後に大禹が崩御したことから、東方、つまり、「東治」が継承されたと見えるのです。特に、難点は無いと思うので、一言述べたものです。

再追記 2024/10/08
 再追記ですが、禹は、東治だけで、他の三方では会稽などしなかったというのが、正しい史料解釈と考え直したものです。
 再追記ですが、三国鼎立時代、東呉孫政権は、独立国家として行政を行っていて、曹魏に報告などしていなかったので、東呉管内である会稽郡の行政区画の変動、東冶県の新設などは、曹魏に一切史料が残っていないのです。陳寿は、曹魏の雒陽公文書庫を参照して魏志を編纂したので会稽郡東冶県の事情を書くことは、無かったのです。
 ちなみに、遥か南の海南島は、漢代から知られていて、班固「漢書」にその地理が書かれていたので、東呉の情報欠落に関係なく、儋耳朱崖事情を書き込むことができたのです。

 古田武彦氏は、第一書『「邪馬台国」はなかった』の会稽東治論義で、陳寿が魏志倭人伝編纂において、呉志の会稽郡行政区画の異動情報を参照して、当時、東冶県を含む会稽郡南部が、建安郡として分郡していたことから、「会稽郡東冶県」は、存在しなかったとの論理を組み立てていますが、正しくは、当該情報は、陳寿の魏志編纂にあたって依拠した曹魏公文書に書かれていなかったというのが、学術的に正しい判断です。

 大局的に意義のない些末事ですが、古田師の提言に瑕疵を見つけるために、「倭人伝」史学の重鎮渡邊義浩氏まで担ぎ出して、些末事の追求に意義を感じている諸兄姉に、叮嚀な対応を行っているわけです。

                                            以上

2024年10月 7日 (月)

毎日新聞 歴史の鍵穴 地図幻想批判 2 松山の悲劇 三掲

 私の見立て☆☆☆☆☆           2015/10/21 再掲 2024/04/17, 10/07
 =専門編集委員・佐々木泰造

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに
 毎日新聞夕刊文化面に月一の連載コラム「歴史の鍵穴」と題した記事が掲載されていて、どうも、専門編集委員佐々木泰造氏の執筆がそのまま掲載されているらしいことについて、一度触れたような気がする。

 全国紙専門編集委員の玉稿なので、校正の手を経ていないのだろうが、天下の名門毎日新聞にしては、随分不出来な記事になっていると思うのである。以下あげつらうのは、大概が、作文技法の不備であるので、誰か常識ある人がダメ出ししてあげた方がいいのではないだろうか、と思うのである。それとも、怖くて批判めいたことを言えない方なのだろうか。

 と言うことで、高名な著者の重要な記事と位置付けされているようなので、失礼を顧みず、あえて遠慮なく書いていくのである。

*松山の悲劇
 当記事では、愛媛県松山市北部の白石(地名)海岸の50メートルほど沖合にある巨石に関する論考であり、人工物の可能性について思索を巡らされたようである。

*「人工物」の可能性?
 まず抜けているのが、「人工物」の意味の掘り下げである。まさか、3Dプリンターで岩石を出力したとは思えないから、岩石自体は「自然物」なのだろう。どこを捉えて「人工物」と想定しているのか、明解に語っていないのは、不行き届きである。
 さて、「人工物」の範囲であるが、元々巨石の配置はこうなっていて、周囲の邪魔者を取り除いただけで「人工物」としたのかとも思われる。日本国内に限っても、奇岩の類いは無数にあって、人が言う「見立て」は珍しくないのである。

*大小不明の「巨石」
 当記事は「巨石」と言うだけで、外寸が書かれていない。
 「推定で100トンを超える巨石が五ツ」とあるのだが、 それぞれが100トン超なのか、五個の総重量が100トン超なのか、趣旨不明である。
 また、「三ツ石」というのは、目に留まるのが三個と言うことなのだろうが、あえて五個全体を人工物というのか、見える三個が人工物というのか、趣旨不明である
 と言うことで、対象物の観察記事が不備では、論説記事として不備ではないのかな。
 このあたりは、技術者的根性からの余計な突っ込みと言うことで片付く問題ではないだろう。人文科学者だって、データ重視のはずである。

*当地は どこ?
 後段の論説によれば、「白石の鼻 巨石群はトーナル岩」であり「当地の石」とあるが、飛鳥の亀石と並記して「当地」とくくっているから、「それぞれ」と前振りしてはいても、両者共に共通した当地、飛鳥の岩石かと一瞬思ってしまう。指示代名詞が宛先不明となるようでは、不出来な作文であるそして、肝心のトーナル岩が、「当地の石」と軽く流しただけで、元々この場所、この位置にあったものなのかどうかは推測すらされていない。

*この地は どこ?
 続いて、「この地には戦国時代から江戸時代の城の石垣がある」と書き出しているが、飛鳥の話が挟まっているから、「この地」がどこか見えなくなっている。指示代名詞が宛先不明となるようでは、不出来な作文である。

*高浜城幻想
 いずれにしろ、松山市の外縁部(はずれ)と思われる「この地」に城の石垣があったとは意外な意見である。松山城は(7世紀の視点から言うと)遙か内陸の山城である。年後の江戸時代初期であれば、「この地」から遙か松山城まで巨石を運んだとしても不思議はないのだが、この記事で問われているのは、7世紀の話である。時間錯誤ではないか。視点が大きく揺らぐようでは、不出来な作文である。

*時代超絶 海中工事
 ここで問われるのは、17世紀に巨岩を地上を遠距離運送することの可能性では無く、7世紀に巨岩を精密な構想通りに積み上げる海中/海濱工事が可能であったかどうかと言うことである。
 少なくとも一個の「巨石」 を、足場の固まっていないこの場で、この角度に積み上げたと主張すると、すかさず反論が予想される。そのような海中/海濱工事は人海戦術ではできないのである。
 千年後の江戸時代でも、周囲を埋め立てて海を乾上げた後、大規模な足場を作り、大勢で綱を引いて持ち上げるという「陸上工事」にしない限り不可能なのである。巨石の原産地からここまで陸上輸送する重労働を抜きにしての話である。

*場違いな高取、飛鳥
 なぜか、時代も状況も異なる飛鳥の石を高取城に転用した挿話が語られているが、それとこれとは、わけが違うのである。視点が大きく揺らぐようでは、不出来な作文である。

*括れない結末
 このように、この記事の筆者は、類推のあてにもならない事項をだらだらと紛れ込まして、読者を煙に巻こうとしているが、肝心の事項を語らないので、不信感を煽るだけである。

松山市 熟田津
 「熟田津は松山市内にあった」と名言が出て来るが、現代の松山市の行政区画は、7世紀には存在していなかったので、当面の議論に関係ない言葉遣いである。
 そして、ここが大事なのだが熟田津は後世文書に出てこず地名も残っていないはずである。(残っていれば推定は必要ないはず)

*斉明の船 停泊
 続いて、「斉明の船」「停泊」と簡単に片付けているが、時の権力者が単身で移動するはずはなく、五百人以上の大団体だったはずである。
 小舟一隻だけのはずはなく、そして、停泊と称し船をとどめて済むものでもなく、当然上陸するものであり、全体として大々的な「行幸」となったはずである。
 停泊というものの、一介の地方港の停泊場所では到底足りず、これも、問題になったはずである。
 そのように大船団を二カ月(?)受け入れるのには、陸上の宿舎(仮宮殿)建設、盛大な饗応(食料、飲料提供)を含めて、地元にとって大規模な、途方もない物入りであったと思われる。
 
 ついでに、派遣軍の現地徴用、軍船の随行まであったとすると、これは、世紀の大事業であったものと思われる。

 総合して、現地当事者にとっては呪わしい天災と言うべきものであったと思うのだが、なぜ、それほどの一大事に関してしっかりした記録が残っていないのだろうか。

*二ヵ月の大祭祀
続いて、筆の一振りで、何らかの祭祀を行った可能性があると漠然と言い立てているが、誰の意見なのだろうか。
二ヵ月になんなんとする祭祀が、重大な派遣軍の戦勝祈願とすると、どの神社のどの祭神の祭祀なのか、なぜ、本拠地でなく、このような遠隔地で行ったのか。伊予の祭神大三島神社から神官を呼び立てたのだろうか。なぜ、大三島で祭祀を行わなかったのか。

*虚構疑惑の由来
 とにかく、なぜ記録が残っていないのか、疑問山積である。少なくとも、斉明天皇が戦勝を期して祭祀を執り行ったのであれば、何も記録が残っていないというのは、おかしな話である。

*九州統治拠点 新設計画
 そこから、筆が弾んで、九州を統治する拠点として何か大規模な構造物が「計画されたと推定」しているが、動詞に主語がない素人くさい不備は言い立てないとしても、計画は計画であり遺構を残さないから、何か建物が建てられたのではないだろうか。当記事は、何が計画されたか語らず、計画がどうなったかも、語ってはいない。
 素朴な疑問として、それまで、九州は誰がどのようにして統治していたのだろうか。太宰府政庁跡では、7世紀より以前の遺構が発掘されていると言うことだが、それは、何だったのだろうか。
 そして、大規模な派遣軍が大敗して、そのあとはどうなったのだろうか。なぜ、そうした国家の一大事が、的確に記録されていないのだろうか

 一筆の余談がもとに、当記事の主題とまるで関係ない疑問が陸続とわき起こるのである。ホラ話に罪あり。結局、この部分は、何のために、何を求めて書き綴ったのか意図不明である。

*可能性の追求?
 斯くのごとき、華麗な余談の果て、記事の締めで、唐突に、「可能性を探ってみる価値は大いにある」と宣言されているが、それでなくても手薄な資金と労力は、別の方面に使った方が良いように思われる。ご提案の趣旨は、関連自治体へのプレゼンテーションなのだろうが、言下に却下されるべきものだろう。
 いや、筆者は、「可能性」と言う単語の意味を把握していないようなので、クドクドと書き足したのである。
 それが「実現の難易度」という意味であれば、それは、既に述べたように、机上の推定だけで速戦即決。「実行不可能」で「しまい」である。
 それがその時点で、起こりえたことで在るかどうかと言うことであれば、これも、速戦即決。「有り得ない」の一言でしまいである。
 どちらも、確定的にありえない「可能性」、つまり、自明の「不可能性」である。
 何か実現の方法があるだろうかという思考実験であれば、別に、人手も、物も、金もかからないから、お好きなようにと言うだけである。くれぐれも、他人を煩わせないことである。そして、全国紙の紙面で、個人的な夢想をまき散らさないことである。
 いや、当記事以降、「夢想」が延々と展開されて、都度ダメ出しする羽目になったのである。何とも、困ったお方である。

 と言うことで、最初に書いたように、当連載記事は、高名な著者の重要な記事と位置付けされているようなので、あえて遠慮なく書いているのだが、全体として散漫な印象が募るのは、所定の字数を埋めるためかと思われる冗句(道草)が多いからである。ポイントを絞れば、1/3の字数でまとめられたはずである。

 因みに、当ブログ筆者は、れっきとした愛媛県人であるので、我が郷土の古代史に関しては、大いに興味があり、意味のあるものであれば、後押ししたいと思っているのだが、このように筋の通らない提言には、断固として同意できないのである。

 後日談ではあるが、本件放談を、毎日新聞の権威に惑わされてか、真に承けている方がいらっしゃったので、一段と批判の必要を感じたのである。

以上

私の所感 遼海叢書 金毓黻遍 第八集 「翰苑」所収「卑彌妖惑」談義 更新

               2023/07/09 2023/09/23 史料参照/評価追加 更新 2024/10/07

*加筆再掲の弁

 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*翰苑史料評価更新のお勧め

 以下、「中国哲學書電子化計劃」所蔵「翰苑」史料を参照する。太宰府天満宮所蔵「翰苑」断簡の影印を、百年近い過去の時点で、丹念に校訂/校勘しているので論考で参照すべきものと思われる。

 翰苑 遼東行部志 鴨江行部志節本
*出典:遼海叢書 金毓黻遍 第八集 「翰苑一巻」 唐張楚金撰
 據日本京都帝大景印本覆校 
 自昭和九年八月至十一年三月 遼海書社編纂、大連右文閣發賣 十集 百冊

卑彌妖惑翻葉群情臺與幼齒方諧眾望
後漢書曰 安帝永初元年有倭面上國王師升等獻生口百六十人願請見至 桓靈間倭國大亂更相攻伐歷年無主 有一女子名曰卑彌呼 事鬼神道能以妖惑眾於是共立為王 宗女臺與年十三為王 國中遂定其國官首曰支馬次曰彌馬升次曰彌馬僕次曰奴佳鞮之也
按宗女以下漢書未載

 当ブログにて世上の「卑弥娥惑」との解釈が不適切であると述べているが、実は、百年近い昔に校訂済みであった。不明をお詫びする。

 「翰苑」記事部分は、「後漢書」と称しているが、笵曄「後漢書」「東夷列伝」倭条所引である。世上、「倭伝」と称しているが、「伝」の体裁をなしていないので、単に「倭条」と呼ぶことにする。
 内容は、ほぼ「倭条」構文となっているが、末尾は、笵曄「後漢書」を「漢書」と呼び捨てていて味わい深い。

 「翰苑」編者は、配下書生に蔵書「後漢書」から卑彌呼に因む所引を命じて得た本文を書き出したものの、「漢書」(笵曄「後漢書」)に「宗女」以下の字句はない(書き落としている)ので、陳寿「三国史」魏志倭人伝から所引して繋ぎ合わせて復元したと察している。要するに「漢書」(笵曄「後漢書」倭条)所引に続いて、断りなく「魏志」を所引しているが、「翰苑」編者は、原典が「倭人伝」に移っているのを隠蔽しているようである。あるいは、当時の常識として、笵曄「後漢書」東夷伝倭条と陳寿「三国史」魏志倭人伝のつながった創作資料を、「漢書」倭国条と称していたのかもしれない。時には、これを「魏志曰」として流用していたのかもしれない。
 後世正史や類書に、笵曄「後漢書」倭条の「邪馬臺国」が横行して「邪馬壹国」が見えない原因は、このあたりの(杜撰な)編纂手法にあるように思える。百科全書の類いである「類書」の内容が、厖大な分野に渡り、史料としてみると遠大な年月を包括しているから、手っ取り早いやり口に出したとしても、咎められないのである。「倭人伝」の考察にあたって肝要なのは、類書や後代資料を、正史と同一の信頼性を有する厳密な資料と見ないことである。手短に言うと、史学の基本の基本として、史料批判、資料審査が不可欠なのである。

 世上、「翰苑」断簡写本が、安直に、上級史料として参照されているのを見ると、素人なりに苦言を呈したくなるのである。

憑山負海鎮馬臺以建都
後漢書曰 倭在韓東南大海中依山島為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使譯通於漢者三十許國國皆稱王 其大倭王居邪馬臺國樂浪郡徼去其國萬二千里 其地大較在會稽東冶之東與珠崖儋耳相近
魏志曰  倭人在帶方東南大海之中依山島為國邑 炙問倭地絕在海中洲島之山 或絕或連周旋可五千餘里四面俱抵海 自營州東南經新羅至其國也
按炙問以下魏志未載
 「倭条」、「倭人伝」に続いて、不明の後代史料から「自營州東南經新羅至其國也」と所引した上で、「炙問」(参問)以下は「魏志」に無いと決め付けている。この部分は、現存刊本で確認できるものであり、何かの勘違いだろうか。それとも、この部分は、「後漢書」の記載漏れだというものだろうか。浅学には、判別できない。

 魏志「東夷伝」韓伝を見ると、栄州から黄海を南下して其の国に至るには、馬韓の遥か沖合を通過して、耽羅で東に針路を転じて、弁韓、辰韓の沖合を通過するものであり、それらの地域には、百済も新羅も存在しない。
 「新羅」は、唐代に成立した統一新羅のことかもしれない。その時点では、帯方郡は消滅しているから新羅を経由するというのかもしれない、しかし、「経新羅至其国」というからには、唐津(タンジン)で上陸して整備された新羅道を通過して、新羅の王都慶州(キョンジュ)に参上した上で、南下して対馬、壱岐を歴るという意味と見える。「翰苑」編者にしては、近年のことなので、追、書き足してしまったかもしれない。そういう編集者なのである。

 それにしても、後漢書「倭条」所引に依拠して「其大倭王」は「邪馬臺國」に居す、と決め付けていて、魏志「倭人伝」に明記されている「邪馬壹国」を無視している。
 ここでは、後漢書(暗黙、当然の笵曄「後漢書」)「倭条」と魏志(陳寿「三国志」)「倭人伝」が、区別されているように見えるが、「魏志曰」の後半は、錯乱していて落第答案になっている。
 ここでも、編者は、苦言を呈しているだけで、是正していない。史料の厳密さには、トンと無関心だったと見える。

*まとめ
 現代研究者諸兄姉は、原典確認/史料批判を怠らないが、「翰苑」所引編集担当者は、何ともぞんざいで、「三史」笵曄「後漢書」所引の不足を魏志「倭人伝」で補填する姿勢である。

 全体として、当時の諸事情も有ってのことであろうが、手軽な流通写本に依拠して、同時代に帝室等に継承されていた貴重書/最善本を原典確認しなかったため、資料錯誤に陥ったと見え、寓話「伝言ゲーム」の誤写累積を、図らずも露呈していると見える。

*史料再評価の提言
 諸兄姉は、後世正史や類書の「邪馬臺国」が、同時代の「魏志」から所引されたと断じているようだが、以上に露呈している後世正史や類書の編纂過程の雑然さにお気づきで無いようである。少なくとも杜撰史料は、それ相応な史料評価が先決と思う。

 当然極まりないと思うのだが、国宝級の貴重書として厳正に写本継承された現存刊本「魏志」と粗雑な所引佚文を同等評価するのは、深刻な勘違いではないかと思量するものである。
 貴重書の末裔である現存刊本に誤伝がある(無欠点ではない)ことは間違いない/否定できないが、「厳正」や「厳密」とほど遠い、無造作、粗略な「野良写本」「走り書き所引」の成れの果ての粗雑史料と同列に扱うのは、科学的な態度ではないと思うものである。

 世上、侃々諤々の論義に勤しんでいる諸兄姉は、後世の非難を浴びないように、よくよく考え直して頂きたいものである。

                               以上

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