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2024年10月 8日 (火)

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」5/16 2024

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 
 2024/01/20、 05/08, 08/02, 10/08, 10/28

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*「心理的距離」の不審
 但し、氏の言われる七千余里は、「大体こんな程度ではなかろうか」という大雑把な心理的距離と捕えておけば済みます。との割り切りは、意味不明です。「心理的距離」というのは、近来登場した「社会的距離」の先ぶれなのでしょうか。「メンタルヘルス」の観点から、早期に治療した方が良いでしょう。おっかぶせた「大雑把な」とは、どの程度の勘定なのでしょうか。苦し紛れのはぐらかしにしても、現代的な言い訳は三世紀人に通じないのです。

 それにしても、郡~狗邪は、最寄りの郡官道であり「地を這ってでも測量できる」のです。とは言え、「倭人伝」など中国史料で、道里は、せいぜい百里単位であり、他区間道里と校正することもないのですが、それでも、正史である「魏志」で六倍近い「間違い」が、「心理的な事情」で遺されたとは信じがたいのです。中国流の規律を侮ってはなりません。

*第一報の「誇張」~不可侵定説
 私見では、全体道里の万二千里が、検証なくして曹魏皇帝明帝に報告され、御覧を得たために、以後、「綸言汗の如し」「皇帝無謬」の鉄則で不可侵となり、後続記録である「倭人伝」が辻褄合わせしたと見ます。同時代中国人の世界観の問題であり、二千年後生の無教養な東夷の好む「心理的」な距離など関係はないのです。

*御覧原本不可侵~余談
 三国志は、陳寿没後早い時期に完成稿が皇帝の嘉納、御覧を得て帝室書庫に所蔵され、以後不可侵で、改竄など到底あり得ない「痴人の夢」なのです。原本を改竄可能なのは、編者范曄が嫡子もろとも斬首の刑にあい、重罪人の著書となった私撰稿本の潜伏在野時代の「後漢書」でしょう。
 いや、世上、言いたい放題で済むのをよいことに、「倭人伝」原本には、かくかくの趣旨で道里記事が書かれていたのが、南宋刊本までの何れかの時点で、現在の記事に改竄された』という途方も無い『暴言』が、批判を浴びることなく公刊され、撲滅されることなく根強くはびこっているので、塚田氏の論考と関係ないのに、ここで指弾しているものです。

*東夷開闢~重複御免
 それはさておき、「倭人伝」道里記事の「郡から倭人まで万二千里」あたりは、後漢から曹魏、馬晋と引き継がれた(東京 首都雒陽)公文書を根底に書き上げられたので、最初に書かれたままに残っていると見たのです。
 後日、調べ直して、考え直すと、後漢末献帝建安年間は、遼東郡太守の公孫氏が、混乱した後漢中央政府の束縛を離れて、ほぼ自立していたのであり、遼東から雒陽への文書報告は絶えていたので、帯方郡創設の報せも、帯方郡に参上した「倭人」の報せも、遼東郡に握りつぶされ、「郡から倭人まで万二千里」の報告は、後漢公文書どころか、後継/承継した曹魏の公文書にも、届いていなかったと見えるのです。
 笵曄「後漢書」に併録された司馬彪「続漢紀」郡国志には、「楽浪郡帯方縣」とあって、建安年間に創設された帯方郡は書かれていないのです。当然、洛陽から帯方郡への公式道里も不明です。

 恐らく、司馬懿の征伐によって遼東公孫氏が、郡官人とともに撲滅され、郡の公文書類が、根こそぎ破棄されたのと別に、明帝の別途の指示で、楽浪/帯方両郡を、早々に皇帝直下に回収した際、両郡に残されていた公文書が、雒陽にもたらされたものと見えます。
 魚豢「魏略」は、正史として企画されたものではないので、雒陽公文書に囚われずに雒陽に保管されている東夷資料を自由に収録したものと見えますが、陳寿が、公式史料でない魏略からどの程度引用したか、不明と云わざるを得ません。史官の職業倫理から、稗史である魚豢「魏略」の引用は忌避したものと推定されるのです。

 魏明帝の景初年間、司馬懿の遼東征伐に、「又」(日本語で言う「さらに」)、並行してか前後してか、魏は、皇帝明帝の詔勅をもって、楽浪/帯方両郡に新太守を送り込み、遼東郡配下の二級郡から皇帝直轄の一級郡に昇格させ、帯方郡に東夷統轄の権限を与え、韓倭穢の参上を取り次ぐことを認めたので、その際、帯方郡に所蔵されていた各東夷の身上調査が報告されたのです。楽浪帯方両郡が遼東郡に上申した報告書自体は、公孫氏滅亡の際に一括廃棄されていましたが、控えが「郡志」として所蔵されていたのです。ちなみに、遼東郡の下部組織であったとはいえ、一片の帝詔で両郡太守を更迭し、新任太守を送り込んで皇帝直属とすることができたのです。武力を要しない無血回収であり、まさしく「密かに」と形容されるものでした。

 つまり、「従郡至倭万二千里」とは、この際に、帯方郡新太守が、魏帝に奏上した新天地に関する報告です。文字通り、東夷開闢です。この知らせを聞いた明帝は、「直ちに、倭人を呼集して、洛陽に参上させよ」と命じたのに違いないのです。
 但し、新太守は、倭人に対して即刻参上の急使を発したものの、郡記録から、郡から倭に至る文書使は四十日相当で到着すると知って「従郡至倭万二千里」が実行程の道里でないと知り、皇帝に重大な誤解を与えた責任を感じて苦慮したはずです。

 つまり、「従郡至倭万二千里」は、遼東郡で小天子気取りであった公孫氏が、自身の権威の広がりを、西域万二千里まで権威の広がった「漢」に等しいと虚勢を張ったものであって、これは、周制で王畿中心の天子の威光の最外延を定義したものに従っただけであり、実際の行程道里と関係無しの言明であり、公孫氏自体、倭まで、実際は、せいぜい四十日程度の行程と承知していたことになるのです。
 万事、景初帯方郡に生じた混乱のなせる技だったのです。これは、一応筋の通ったお話ですが、あるいは、公孫氏以前の桓帝、霊帝期に「倭人」が参上して、その時点で東夷を統轄していた楽浪郡が、道里、戸数などを事情聴取したものの雒陽に報告しなかったとも見えます。何れにしろ、女王共立以前、女王国は存在せず、伊都国が「倭人」を統轄していたものの「大倭王」が居城に君臨していた可能性もあり、後漢書「東夷列伝」倭条は、そのような体制を示唆しているとも見えますが、何しろ、史官ならぬ笵曄の言い分は、あてにはなりません。
 
 原点に帰ると、陳寿は、魏志」を編纂したのであり、創作したのでは「絶対に」ないのです。公文書史料が存在する場合は、無視も改変もできず、「倭人伝」道里行程記事という意味では、より重要である所要日数(水陸四十日)を書き加えることによって、不可侵、改訂不可となっていた「万二千里」を実質上死文化したものと見るのです。
 因みに、正史に編纂に於いて、過去の公文書を考証して先行史料に不合理を発見しても、訂正せずに継承している例が、時にあるのです。班固「漢書」西域伝安息伝に、そのような齟齬の顕著な例が見られます。
 現代人には納得できないでしょうが、太古以来の史料作法は教養人常識であり、倭人伝」を閲読した同時代諸賢から、道里記事の不整合を難詰されてないことから、正史に恥じないものとして承認されたと理解できるのです。後世の裴松之も「万二千里」を不合理と指摘していないのです。

*舊唐書 萬四千里談義~余談
 因みに、後世の舊唐書「倭国」記事は「古倭奴國」と正確に理解した上で、「去京師一萬四千里」、つまり京師長安から万四千里として、「倭人伝」道里「万二千里」を魏晋代の東都洛陽からの道里と解釈、踏襲しているのであり、正史の公式道里の実質を物語っています。
 つまり、倭人道里は、実際の街道道里とは関係無く維持されたのです。
 もちろん、「倭国」王城が固定していたという保証はありません。具体的な目的地に関係なく、蕃王居処が設定されて以後「目的地」が移動しても、公式道里は、不変なのです。

 逆に言うと、当初、公孫氏が「従郡至倭」万二千里と設定した後、出発点が、遼東郡、または、楽浪郡から帯方郡に代わったとしても、到着先が、伊都国(倭国)から、女王国(倭国)に代わって、國王の治所が変動しても、それぞれ、公式道里には一切反映しないのです。舊唐書編者は、倭王之所までの行程道里は、当時の首都雒陽であったに違いないとの高度な解釈をしたのかも分かりません。何しろ、倭人伝以来、唐代までの間には、天下の西晋が、北方異民族によって滅亡して、雒陽が破壊蹂躙され、辛うじて南方に逃避した東晋の権威は、以下継続した南朝諸国に引き継がれたものの、北朝隋が南朝陳を破壊蹂躙したので、唐代以降の「倭人伝」道里記事の解釈が、正当なものでなくなっていた可能性はあるのです。

*「歩」「里」の鉄壁「尺」は、生き物
 「尺」は、度量衡制度の「尺度」の基本であって、時代の基準とされていた遺物が残されていて、その複製が、全国各地に配布されていたものと見えます。そして、「歩」(ぶ)は、「尺」の六倍、つまり、六尺で固定だったのです。世上、「歩」を、歩幅と身体尺と見ている向きがありますが、それは、素人考えであって、根拠のない想定に過ぎないのです。
 何しろ、度量衡単位は、日々市場での取引に起用されるので、商人が勝手に変造するのを禁止する意味で、市場で使われている「尺」の検閲と共に、定期的に、「尺」の更新配布を持って安定化を図ったのですが、政府当局の思惑かどうか、更新ごとに、微細な変動があり積み重なって、「尺」が伸張したようです。
 但し、度量衡に関する法制度には、何ら変更はないのです。何しろ、「尺」を文書で定義することはできないので、以下に述べた換算体系自体は、何ら変更になっていないのです。

*「歩」の鉄壁
 基本的に、耕地測量の単位は「里」の三百分の一である「歩」(ぶ)です。
 「歩」は、全国各地の土地台帳で採用されている単位であり、つまり、事実上、土地制度に固定されていたとも言えます。皇帝といえども、「歩」を変動させたとき、全国各地の無数の土地台帳を、連動させて書き換えるなど、できないことなのです。(当時の下級吏人には、算数計算で、掛け算、割り算は、実際上不可能なのです)
 また、各戸に与えられた土地の面積「歩」に連動して、各戸に税が課せられるので、土地面積の表示を変えると、それにも拘わらず税を一定にする、極めて高度な計算が必要となりますが、そのような計算ができる「秀才」は、全国に数えるほどしかいなかったのです。何しろ、三世紀時点で、計算の補助になるのは、一桁足し算に役立つ算木だけであり、掛け算は、高度な幾何学だったのです。

*「ハードル」ならぬ「鉄壁」
 世に言う「ハードル」は、陸上競技の由来で、軽く跨いで乗り越えられるものであり、苦手だったら迂回して回避するなり、突き倒し蹴倒しして通れば良いのですが、「鉄壁」は、突き倒す/突き破る/突き除けることも、乗り越え/飛び越えることもできず、ただ、呆然と立ちすくむだけです。解釈の分かれる「ハードル」でなく、「バリヤー」とでも言うのでしょうか。ちなみに、進路を塞ぐのは、腰のあたりに、バー(Bar 横棒)をおけば十分であり、文明社会では、バーがあれば、乗りこえることも潜ることも許されないので、不法な侵入を阻止できるのです。

 因みに、ここで言う「歩」(ぶ)は、耕作地の測量単位であって、終始一貫して、ほぼ1.5メートルであり、世上の誤解の関わらず、人の「歩」幅とは連動していないのです。そして、個別の農地の登録面積は、不変なのです。
 言い換えると、「歩」は、本質的に面積単位であり、度量衡に属する尺度ではないのです。

 史料に「歩」と書いていても、解釈の際に、『耕作地測量という「文脈」』を無視して、やたらと広く用例を探ると、這い上がれない泥沼、出口の見えない迷宮に陥るのです。世上の「歩」論義は、歩幅に関する蘊蓄にのめり込んでいて、正解からどんどん遠ざかっているのです。

*里の鉄壁
 道里」の里は、固定の「歩」(ぶ、ほぼ1.5㍍)の三百倍(ほぼ450㍍)であり、「尺」(ほぼ25㌢㍍)の一千八百倍であって、永年固定だったのです。
 例えば、雒陽の基準点から遼東郡治に至る「雒陽遼東道里」は、秦始皇帝の郡創設時に国史文書に書き込まれ、始皇帝の批准を得たから、以後、改竄、改訂は、できないのです。もし、後漢代にそのような行程道里が制定され、後漢郡国志などに記録されたら、魏晋朝どころか、それ以降の歴代王朝でも、そのまま継承されるのです。そのような公式道里の里数ですから、そこに書かれている一里が、絶対的に何㍍であるかという質問は、実は、全く意味がないのです。「洛陽遼東道里」は。不朽不滅なのです。

 因みに、それ以外にも、「里」の登場する文例は多々あり、それぞれ、太古以来の「異なる意味」を数多く抱えているので、本論では、殊更「道里」と二字を費やしているのです。異なる意味の一例は、「方三百里」などとされる面積単位の「方里」です。よくよくご注意下さい。
 三世紀当時、正史を講読するほどの知識人は「里」の同字異義に通じていたので、文脈から読み分けていたのですが、二千年後生の現代東夷の無教養人には、真似できないので、とにかく、丁寧に、文脈、つまり前後関係を読み取って下さいと申し上げるだけです。

 「倭人伝」は、三世紀の教養人陳寿が、三世紀の教養人、例えば晋皇帝が多少の努力で理解できるように、最低限の説明だけを加えている文書なので、そのように考えて解読に取り組む必要があるのです。三世紀、教養人は「中原中国人」で、四書五経の教養書に通じていたものの、現代人は、日本人も中国人も無教養の蛮夷なのです。別に悪気はないのです。(余談ですが『曹魏第二代皇帝明帝後継曹芳は、ホンの子供であったので、「教養人」と言えず、陳寿と同時代の晋恵帝司馬衷は、暗君で有名なので、これまた「教養人」と言えない』のですが、ここは、皇帝の個人的資質を言っているものではないのです)

*短里制度の幻想
 どこにも、一時的な、つまり、王朝限定の「短里」制など介入する余地がありません。
 天下国家の財政基盤である耕作地測量単位が、六分の一や六倍に変われば、戸籍も土地台帳も紙屑になり、帝国の土地制度は壊滅し、さらには、全国再検地が必要であり、それは、到底実施できない「亡国の暴挙」です。因みに、当時「紙屑」、つまり、裏紙再使用のできる公文書用紙は、大変高価に買い取り/流通されたので、今日思う「紙屑」とは、別種の、むしろ高貴な財貨だったのです
 中国史上、そのような暴政は、最後の王朝清の滅亡に至るまで、一切記録されていません。
 まして、三国鼎立時代、曹魏がいくら「暴挙」に挑んだとしても、東呉と蜀漢は、追従するはずがなかったのです。いや、無かった事態の推移を推定しても意味がないのですが、かくも明快な考察内容を、咀嚼もせずに、とにかく否定する論者がいるので、念には念を入れざるを得ないのです。

                                未完

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