新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」3/16 2024
塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05 記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25
2024/01/20、 05/08, 08/02, 10/08, 10/28
*加筆再掲の弁
最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。
*「日本」錯誤 ふたたび
三世紀中原人の認識に当然「日本」はなく、「倭人伝」を読む限り「女王之所」のある「九州島」すら、その全貌は知られていなくて、「壱岐、対馬同様の海中絶島、洲島が散在する」と見られていたようです。少なくとも、冒頭の文の「倭人在帶方東南大海之中、依山㠀爲國邑」は、冷静に読むと、そのように書かれています。
氏を含めて、世上溢れる「倭人伝」解説書は、三世紀中原人の地理観とは無縁の現代地図を盛っていて、誤解を大いに誘っていますが、「倭人伝」には、そのような「地図」はくくりつけられていないのであり、二千年校正の無教養な東夷である読者諸兄姉は、「倭人伝」に書かれている地理観をそのまま受け入れなければならないのです。
ことは、三世紀の地理がどうであったかという論義でなく、「倭人伝」に書かれている行程の解釈であり、それは、編者である陳寿が依拠した史料、つまり、漢魏代を通じて雒陽官庫に蓄積された記録文書を編成して書き上げた行程記事の解釈ですが、編者は、当時の読者の知識、読解力を念頭に置いて筆を振るったのであり、当時の読者が諒解したのであるから、その前提で行程記事を解釈するというのが、合理的な解釈法と思うものです。ここでくどくど言うのは、従来の国内史家は、自身の築いた世界像に沿うように、つまり、自身の望む比定地に、自身が創造した「邪馬台国」を築き上げることを使命として、記事解釈を撓めているのが大概であり、細部に蘊蓄を傾けているために、本来簡明であった記事が「泥沼」に引きずり込まれている惨状を呈しているからです。塚田氏が、そのような「泥沼」に染まっているのでなければ幸いです。
まだ「倭人」世界がよく見えてなかった公孫氏時代の帯方縣/郡の初期認識では、「日本」ならぬ「倭人」の「在る」ところは、對海、一支、末羅あたりまでにとどまっていて、伊都が末羅と地続きらしいと見ていても、その他の国は、小島同士が連なっているのか離れているのか不明です。
要は、集団としての「倭人」は帯方東南に在って、地理概念の筈の「大海」(広大な塩水湖/塩水の流れる大河)を「倭」と捉えていて、そのような「倭」に散在する小島に存在する「国邑」と見ていたと思わせるのです。恐らく、「倭人」が楽浪郡に最初に参上した当時、伊都国が主導していたことから、郡、つまり、公孫氏遼東郡の務めは、郡から倭までの文書伝達の規定日程を確定することにあったと見えます。何しろ、魏明帝が「倭人」にたっぷりした下賜物を届けたいと思っても、何処を何日かけて移動して倭に着くのかわからなくては、道中の宿舎、人夫、便船の手配が出来ないのです。
時代が進んで、帯方郡によって「倭人伝」道里記事の構図が完成してみると、傍路諸国でも、戸数五万戸に垂ん(なんなん)とする投馬国は、さすがに、小島の上には成り立たないので、どこか、渡船で渡らざるを得ない遠隔の島と想定したという程度の認識だったのでしょう。不確かでよくわからないなりに、魏晋史官として筋を通したに過ぎないので、ここに当時存在せず、従って参照できなかった精密な地図や道里を想定するのは、勝手な「思い込み」の押しつけ、あるいは、妄想に過ぎないのです。
以上のように、古代中原人なりの地理観を想定すれば、世上の泥沼、『「倭人伝」道里行程観』は、立ち所に沈濁して清水に還るでしょう。もちろん、ここにあげる提言に同意頂ければと言うだけです。いや、以下の提言も同様に、私見の吐露に過ぎませんので、そのように理解いただきたいものです。
この地理観を知らないで、「九州島」さらには「東方の正体不明の世界にまで展開する広大な古代国家」を想定していては、「倭人伝」記事の真意を知る事はできないのが、むしろ当然です。地理観が異なっていては言葉は通じないのです。何百年論義をしても、現代人の問い掛ける言葉は、古代人に通じず、求める「こたえ」は、風に乗って飛んで行くだけです。
念のため確認すると、氏が今日の地図で言う「福岡平野」海岸部は、往時は、せいぜい海岸河口部の泥世界であって、到底、多数の人の「住む」土地でなかったし、当時「福岡」は存在しなかったので、論義するのは時代違いです。今日、福岡市内各所で進められている着実な遺跡発掘の状況を見ると、海辺に近いほど、掘れども掘れども泥の堆積という感じで、船着き場はともかく倉庫など建てようがなかったと見えますが、間違っているのでしょうか。
もっとも、帯方郡官人には、そのような現地地理など、知ったことではなかったのです。
余談ですが、イングランド民謡「スカボローフェア」には、「打ち寄せる海の塩水と渚の砂の間の乾いた土地に住み処を建てて、二人で住もう」と、今は別れて久しい、かつての恋人への伝言を言付ける一節がありますが、「福岡平野」は、そうした叶えようのない、夢の土地だったのでしょうか。 あるいは、波打ち際に築き上げた砂の城なのでしょうか。
コメント:国数談義
班固「漢書」の天子居処は、遙か西方の関中の長安であり、とても、東夷が手軽に行き着くものではないのです。笵曄「後漢書」の天子の住まう雒陽すら、樂浪郡から遙か彼方であり、倭の者は、精々、漢武帝以来の楽浪郡か後漢建安年間に武威を振るった遼東郡(公孫氏)の元に行っただけでしょう。
何しろ、帝国街道は、当然ながら、要所に宿駅や関所が設けられていて、「過所」(通行許可証)を持たない蛮夷は、通行できなかったのです。「もちのろん」、道中の宿駅は、ただで宿泊させてくれるわけはなく、食料や水も得られないのです。「郡」の役人が、「過所」を持って随行すればこそ、雒陽までたどり着けるのです。いや、蛮夷は、道中で、随員共々かなりの厚遇を受けたとされていますから、ますます、郡官人の同伴は、不可欠だったのです。
最後のとどめですが、もし、蛮夷が「勝手に」雒陽の鴻臚寺にたどり着いたとしても、所定の郡役人に伴われずに、つまり、事前の申請/許可無しに「勝手に」参上した蛮夷は、雒陽都城に入ることはできず、追放/排斥されるだけです。
言い直すと、古来、蛮夷の国は、最寄りの地方拠点の下に参上するのであり、同伴、案内ならともかく、単独で皇帝謁見を求めようにも、通行証がなくては道中の関所で排除されます。中国国家の「法と秩序」を侮ってはなりません。
国数の意義はご指摘の通りで、楽浪郡で「国」を名乗った来訪者の記録であり、伝統、王位継承していたらともかく、各国実態は不確かです。不確かなものを確かなものとして論ずるのは誤解です。その点、塚田氏の指摘は冷静で、至当です。 世上、滔々と古代史を語り上げる方達は、東夷の蛮人が、文字が無く、文書がない時代、数世紀に亘って、どんな方法で「歴史」を綴っていたか、説明できるのでしょうか。
《原文…従郡至倭 循海岸水行……到其北岸狗邪韓国 七千余里
コメント:従郡至倭~水行談義の収束
「水行」の誤解は、「日本」では普遍的ですが、世上の論客は、揃って「倭人伝」の深意を外していて、塚田氏が提言された「鮎鮭」の寓意にピタリ当てはまります。要するに、『「水行」は、河川を船で行く(渉る)ことに決まっている』という「自明」事項すらご存じないのでは、以下、どんなに高度な論理を駆使しても、深層から遠ざかるのみなのです。
「倭人伝」が提示している「問題」の題意を誤解して、勝手にお手盛りで、自前の「問題」(難題)を書き立て自前の解答をこじつけては、本来の正解にたどり着けないのは、当然です。 この「問題」に関して、落第者ばかりなのは「問題」が悪いからではないのです。何しろ、二千年来、「倭人伝」は「倭人伝」として存在しているのです。
「倭人伝」記事は、文字通り、「循海岸水行」であり、「(沖合に出て)海岸に沿って行く」との解釈は、陳寿の真意を見損なって無謀です。原文改竄は不合理です。ここでは「沿って」でないことに注意が必要です。
「海岸」は海に臨む「岸」、固く乾いた陸地であり、海岸に「沿って」 との「定説」の解釈に従うと、船は陸上を運行する事になります。「倭人伝」は、いきなり正史と認定されたのではなく、多くの教養人の査読を歴ているので、理解不能な痴話言と判断されたら却下されていたのです。つまり、当時の教養人が読めば、筋の通った著作だったのです。
「循海岸水行」が、場違い、勘違いでないとしたら、「水行」は、以下の道中記に登場する『並行陸路のない「渡海」』概念を、適確に「予告」しているものと見るものではないでしょうか。見方を変えれば、既存の用語では書けないので、「この場限りの用語定義」ということになります。
*冒頭課題で、全員落第か
世上、「倭人伝」道里記事の誤解は許多(あまた)ありますが、当記事が、正史の公式道里の鉄則で、陸上の街道を絶対の前提としている事を見過ごしています。いわば、二千年後生の無教養な東夷に蔓延っている「沿岸水行」は、二重の意味で初心者の度しがたい「思い込み」による誤解による「落第」であり、「落第」に巻き込まれるのを免れているのは「循海岸水行」を意味不明として回避している論者だけのように見えます。
つまり、「郡から狗邪韓国まで七千里、郡から末羅国までは、これに三千里を足して一万里」と見ている「賢明な論客」だけが、「落第」を免れています。
誤解を正すと、後世南朝宋代ないしは唐代に至る中原教養人の用語で「水行」は、河水(黄河 中流)江水(長江、揚子江)など大河を荷船の帆船が行くのであり、古典書は「海を進むことを一切想定していない」のです。これは、中原人の常識なので書いていません。と言うことで、この点の誤解を基礎にした世上論客の解釈は、丸ごと誤解に過ぎません。ほぼ、全員が「一発落第」ですから、例外的な「賢明な論客」以外は、全員落第で、試験会場はがら空きです。(「後世南朝宋代ないしは唐代に至る」は、五訂の追記事項 2024/10/09)
以下、訂正記事有り。
*水行、陸行再考/訂正 2024/10/08
この点は、三國志の至上の権威であり、併せて、笵曄「後漢書」全巻通釈の不朽の偉業を遂げている渡邊義浩氏の説くところでもありますが、氏は、高次の歴史家であるので、卒読すると誤解しかねないので、よくよく真意を噛みしめる必要があります。
つまり、氏は、中国史書の旅程記事で、陸行、水行と並記しているのは、史記夏本紀に溯るまで皆無としています。(渡邊義浩 「魏志倭人伝の謎を解く」中公新書2164)当然ながら、ここでは、西晋史官陳寿の語彙を確認しているのは、言うまでもないでしょう。
「陸行乘車,水行乘船,泥行乘橇,山行乘檋。」(司馬遷「史記」巻二 夏本紀)
御言葉ですが、原文を精査すると、そこに書かれているのは、禹后の河水沿岸遍歴であり、「陸行」、「水行」、「泥行」、「山行」と列記されているものの、街道の行程も示されていなければ水上の行程も示されていないので、旅程記事などではないのです。渡邊氏も、これは「故事」としていて、説話の類いであり史実とは見ていません。
素人考えを言わして頂くと、「泥行」で河水岸で陸地と水流の間の泥を橇で移動するとおっしゃられても、それは旅程なのですかと、問い返すものではないでしょうか。思うに、「泥行」は陸地と水流の間の移動は橇に乗る(行く)ということでしかないのです。
なにしろ、俗信に拘わらず、高貴な存在は、自らの脚を土や泥に脚を下ろして移動することは、一切できないので、移動するには何かに乗らねばならないとして、それぞれの「行」の乗り分けを示しているのです。「水行」で言えば、水流に足を乗せたら、忽ち水没するので、移動どころか溺死するのですから、船に乗らざるを得ないのです。
ということで、文書解釈の常識に従うと、当文書は、漢魏西晋代を通じ、「水行」などという旅程表示は一切存在しなかったことを示しているのです。
と言うことで、当ブログ筆者の持論が、図らずも裏付けられたことになります。なにしろ、全史書を通読解釈するなど、素人のできることではないので、顕学の証言は、何物にも代えがたい論拠となります。
ちなみに、「魏志倭人伝」に「水行」と新規概念が書かれているのは、依拠した原史料に「水行」と書かれていたためと推察されていますが、それは、当該資料が示されていない以上、根拠のない憶測でしかありません。渡邊氏ほどの顕学にしては、不用意な発言です。
念のため言うと、古典書にある「浮海」とは、当てなく海を進むことを言うのであり、「水行」が示唆するような道しるべのあるものではないのです。又、時に提起される紛らわしい「呉志」用例ですが、渡邊氏が明言されているように「水行」用例ではないので、棄却されます。
*水行曰涉 2024/10/08
また、行程記事の「水行」から視野を広げて、河川を移動する用例/定義を調べると、太平御覽 地部二十三に引用された、漢代編纂とされる類語辞典「爾雅」によると「水行曰涉」、つまり、河川を渡船で渉ることを「水行」と言うと明快です。
時に引き合いに出される唐六典の「水行」は、漢語の語彙が大きく乱れた後世唐代以降の文献記事ですから、雒陽教養人が健在であった西晋代に編纂された「魏志倭人伝」の解釈では、ずいぶん下位に位置するものです。
ちなみに、同項に続いて、「逆流而上曰溯洄,順流而下曰溯游,亦曰沿流」とあり、川の流れに従う移動と逆らう移動は、それぞれ「溯洄」,「溯游」ないしは「沿流」であって、「水行」とは全く異なる用語です。これら「溯洄」、「溯游」ないしは「沿流」なる規定用語でなく、「水行」と書いたと言うことは、それが、河流方向の移動ではないことを明示しているものとみられます。
してみると、前に述べた禹后の「水行」は、「河水の対岸に渡る渡船移動を示した」ものとみえます。もちろん、河水に並行して街道があって、車に乗れるのであれば、不安定な川船で河水を上下して移動することなど必要ないのです。なにしろ、司馬遷が史記を書いたのは、漢武帝代ですから、まさしく「爾雅」の語彙が健在だったわけであり、してみると、「水行」は川に沿った移動ではないことが明快です。
かくして、陳寿が「循海岸水行」と書いたのは、海岸から、大河に比喩された『「大海」の流れを渉る』意味であったことが明解になるのです。当然、三世紀当時の読書人は、陳寿の語彙を熟知していたので、二千年後生の無教養な東夷の陥る錯誤は、全く関係なかったのです。
渡邊義浩氏の隠喩に深く感謝する次第です。
*「時代常識」の確認
そもそも、皇帝使者が、「不法」な海上船舶交通を行うことはないのです。一言以て足るという事です。その際、『現代読者の一部が軽率に口にする「危険」かどうかという時代錯誤の判断』は、一切関係ないのです。
あえて、「不法」、つまり、国法に反し、誅伐を招く不始末を、あえて、あえて、別儀としても、「危険」とは、ケガをするとか、船酔いするとか人的な危害を言うだけではないのです。行人、文書使である使者が乗船した船が沈めば、使者にとって「命より大事な」文書、書信が喪われ、あるいは、託送物が喪われます。そのような不届きな使者は、たとえ生還しても、書信や託送物を喪っていれば、自身はもとより、一族揃って連座して、刑場に引き出されて、文字通り首を切られるのです。自分一人の命より「もの」を届けるという「使命」が大事なのです。
因みに、当時の中原士人は、「金槌」なので、難船すれば、水死必至なのです。
*後世水陸道里~圏外情報
後世史書の記事なので、「倭人伝」道里記事の解釈には、お呼びでないのですが、後世、南朝南齊-梁代に編纂された先行劉宋の正史である沈約「宋書」州国志に、会稽郡戸口道里が記載されていて、「戶五萬二千二百二十八,口三十四萬八千一十四。去京都水一千三百五十五,陸同」、つまり、京都建康から、「水(道 道里)一千三百五十五(里)、陸(道 道里)も同様」との「規定」から、一見、船舶航行を制度化したと見えますが、長江、揚子江の川船移動の「道のり」とこれに並行する陸上移動の「道のり」とは「規定」上、同一とされていたのがわかります。
ここで言う、「水道」は、陸上街道「陸道」と対比できる河川行程を言うのであり、後世、「日本」で海峡等を誤称した「水道」でなければ、もちろん、飲料水などを、掛樋や鉛管で供給する「水道」でもありません。諸兄姉の愛顧されている漢和字典に、この意味で載っていなくても、古代(中国)に於いて、そのように書かなかった証拠にはなりません。ご注意下さい。
両経路/行程を、例えば、縄張りで測定して五里単位で同一とした筈はなく、推測するに、太古、陸上街道を千三百五十五里と「規定」したのが、郡治の異同に拘わらず、水陸の差異も関係無しとして、水道(河川交通)に「規定」として適用されていたことがわかります。
要するに、「倭人伝」道里は、当時意味のなかった測量値でなく「規定」であるというのも、理解いただけるものと思います。
補足すると、「並行街道がない」というのは、『「騎馬の文書使が走行できる」とか「武装した正規兵が隊伍を組んで行軍できる」とか「四頭立ての馬車が走行できる」などの要件を「全長に亘って」満たす「街道」』が設置、維持できなかった/されていなかったと言うだけであって、崖面に桟道を設けるなどの苦肉の策で細々と荷役する「禽鹿径」が存在したという可能性は否定していないと言うか、否定しようなどないのです。
未完
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