新・私の本棚 笛木 亮三 「卑弥呼の遣使は景初二年か三年か」新版 2/3 再補追
「その研究史と考察」 季刊 邪馬台国142号 投稿原稿 令和四年八月一日
私の見立て ★★★★☆ 丁寧な労作 ★☆☆☆☆ ただしゴミ資料追従の失策 2023/01/26 2023/08/30 2024/10/12
*加筆再掲の弁
最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。
*⑺ 二郡平定について~余談付き
ここで、氏は、各論者の情勢批評を長長と連ねた後、突如として、筑摩本の東夷伝翻訳文に帰り、「公孫氏を誅殺」した。『「さらに」ひそかに兵を船で運んで』の「さらに」を「そのあとに」と決め込むが、それは翻訳文を「曲解」している「誤解」である。権威のある日本語辞書を参照して頂ければ、「さらに」には、「そのあとに」の意味と「それと別に」の二つの意味があると書かれているはずである。
原文の「又」が、両様の意味を持っているから、筑摩本の翻訳者は、両様に解することができるように、大いに努力したものと見えるが、いかんせん、無学無教養の読者が、辞書を引かずに、先入観の思い込みで、小賢しく解釈を限定するとは予想していなかった見なかったようで勿体ないことである。
要するに、当記事における「又」の真意は、文脈によって解するべきであり、真摯な研究者は、安直な「思い込み」を排するべきなのである。
いや、これは氏の責任ではないが、「二千年後生の無教養な東夷」の語彙で古代中国史書を「普通に」解釈する際の陥穽の一つであり、多くの論者は、陥穽/泥沼にどっぷり浸かっていても気づかないのである。善良な読者には、避けがたい陥穽であり、笛木氏のように実直な論者は、世上に蔓延している誤謬を拡散しないように多大な労力を強いられるのである。もったいないことである。
*⑻ 景初中は何年
率直なところ、氏は、本筋に関係ないところで時間を費やしているが、それを善良な読者に押しつけないで欲しいのである。「魏明帝景初」は二年年末で終わり、景初三年は皇帝の冠のない一年であるから、深入りしてもしょうがない。陳寿が「景初中」としているのは、それで十分だからである。「魏志」は、本職の史官である、陳寿が責任を持って、全力を投じて編纂したから、「二千年後生の無教養な東夷」は、つまらないヤジを入れないことである。
*⑼ 遼東征伐(年表)
正直言って、このように空白の多い年表は読む気になれない。
*⑽ 遼東征伐の陽動作戦と隠密作戦
随分長々しいが意義がよくわからない。言うべきことは既に述べた。
*⑾ 公孫氏の死は何月か
正直、これだけ分量を費やす意義が理解できないから、口を挟まない。
*⑿ 景初三年?の呉による遼東進出
本項では、無理な議論が続いている。呉は、魏の暦を参考にしたのだが、明帝没後の変則運用をどこまで、理解して追従したか不明である。そもそも、東呉が、どこまで、魏明帝の景初暦に追従したかについても、疑問を禁じ得ない。氏は、若干混乱しているようだが、無理のないところである。他の論者も、解釈が泳いでいて、泳いだ解釋を振り回すから、困ったものなのである。
私見では、景初三年、公孫氏の滅亡後、呉船が遼東に到来して、漁村の男女を拐帯したと見える。それとも、曹魏は、女性を兵としていたのだろうか。
*⒀ 帯方太守の更迭
本項も、本稿における意義がよくわからないから、口を挟まない。
*過分な待遇 2024/10/12 補充
末尾で、「過分な待遇」と勝手に評しているが、未曽有の大帝たらんとした明帝が、蛮族の跳梁で逼塞した西域でなく、新境地、遠隔萬里の東夷「倭人」の到来を盛大に祝ったとしても何も不思議はない。「二千年後生の無教養な東夷」が、天子の所業を軽々に揶揄すべきではない。
そもそも、辺境で侵掠/強奪を業(なりわい)とする蛮俗を制圧する策の一つとして、多額の贈答で飼い慣らすのは、東夷制圧の戦略でしばしば用いられているところである。
笵曄「後漢書」は、後漢公文書に取材した記事で、以下の大事件を述べているが、これは、当然、陳寿の熟知した「史実」であり、当然、当時の読者にとって、常識であったので、ことさら蒸し返していないのである。
*小論「東夷戦国志」 2024/10/13
後漢光武帝代の遼東太守祭肜(さいゆう)は、匈奴と連携して侵入する鮮卑を制圧する際に、最初は、痛撃して敗走させ塞外に追い出したが、のちに、鮮卑大都護偏何を帰順させて匈奴を討つように求め、潤沢な上納物(貂裘と好馬)を遥かに超える大量の下賜物を与えたので、鮮卑は匈奴の左翼を大破し北方の覇権を獲得したため、後漢は多額の奨金(二億七千萬銭)を年貢として与えて辺境の安寧を確保した。ただし、覇権を握った鮮卑は、隣接する高句麗、烏丸等の諸夷を威圧したが、後漢の辺境警備の弱体化を見据えて増長し、かつての匈奴に代わる北虜と化したのであるが、各部族を懐柔して離間させ、時には、討伐させた烏丸東夷伝記事は、「東夷戦国志」と言うべきで興味深いが、それは、ここで言うものではない。
ちなみに、陳寿は、東夷伝序文で、長年匈奴が殷盛を極めて、武帝が国庫を傾ける絶大な派兵を行って威信を損ねたが、後漢は財貨を注いで匈奴を敗退させたと言いつつ、匈奴が去った後に烏丸、鮮卑、そして高句麗が勃興して、北辺の脅威は、一向に解消していないことを諷している。そのような背景のもと、明帝の「倭人」厚遇が、全くの失当ではないことを示しているのである。それは、「倭人」が賑々しく献上した「貧相」な供物によって示唆されているのである。
要するに、曹魏明帝は、帯方郡から略取した「倭人」身上書の形勢を真に承けて、「万二千里の彼方」で侵掠の可能性がなく、大軍を擁することのできる豊穣な「七万戸の超大国」と早合点したので、早々に雒陽に倭使を呼びつけ、細(ささ)やかな「倭人」として分相応の貢物に対して、蔵ざらえした下賜物を大盤振る舞いし、服属を確保したのである。あわよくば、「倭人」の大軍を動員して東夷を制圧し、長年の憂いを取り除けるかもしれないと感じたのかもしれない。
このような厚遇は、別に異例でないし、過分でもなく、明帝の粗忽は「倭人」の作為に因るものではなかったから、世上、「海老鯛」とか「朝貢貿易」とか、外野の見当違いのヤジなど気にしないことである。
「過分」と書くのは、評者の品性が皇帝に比べて浅ましいからである。(念のため言うと、天子に比べて品性を評価されるのは、ある意味絶賛なのである)
本項で、笛木氏は、三世紀当時の魏朝皇帝の価値観を軽蔑しているようだが、それは、公孫氏の遼東郡に於ける東夷管理体制を、後先構わずぶっ潰した「司馬懿の感性」に通じる/同様に「粗野な」ものである。明帝没後、少帝曹芳が同様な野心を持っていたとは、到底思えない。(司馬懿に比して粗野とは、絶賛である)現に、魏晋朝の遼東政策は早々に破綻して、朝鮮半島北部の楽浪郡旧地は、遼東郡に君臨した公孫氏の軛(くびき)を脱して台頭した東アジア最古参、「古狸」高句麗に乗っ取られるのである。実に、秦始皇帝が遼東郡を創設して以来の壮大な東夷管理がおおきく退潮したのである。
謝辞:本小論において、佐藤鉄章「隠された邪馬台国 ついにつきとめた卑弥呼の都」(サンケイ出版 1979年5月)巻末の「三国志」巻三十烏丸・鮮卑・東夷伝 全訳文(裵松之補注の魚豢「魏略」西戎伝は除く)を参考とした。先賢の絶大な労苦に感謝する。
ということで、氏の論理は、現代の高みの見物から筋が通っても、明帝没後の雒陽参上ではまるで平仄が合わないのである
未完
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