魏志天問 1 東治之山~見落とされた史蹟の由来 三掲 4/4
2013/12/22 再掲 2021/03/12 2021/12/19 2024/10/07
*加筆再掲の弁
最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。
陳壽は、吟味の上で、公文書飼料を取り入れる正統派の執筆姿勢であり、漢朝儀礼の典範である漢官儀は、史官としての座右の書としていたと考えます。
よって、陳壽が「会稽東治」と書いたときは、会稽郡東冶県のことは考えもせず、会稽東治之山を想起していたと思われます。皇帝を含めた同時代読者も、当然、漢官儀を知っていたと思われます。 時折触れるように、陳壽の執筆時点から笵曄の執筆時点である南朝劉宋に到る間には、西晋末の大動乱で、洛陽の西晋朝書庫は散逸し、漢官儀も劉宋に継承されていなかった可能性があります。
会稽山近郊に生まれた笵曄には、禹の事績はなじみ深かったはずで、漢官儀を知ってさえいれば、「会稽東治」に深い感慨を持ったのでしょうが、実際は、劉宋高官の土地勘から「東冶」県と読んでしまったのでしょう。
それだけで止まっていれば三国志の継承記事にとどまり、笵曄の不見識は知られずに済んでいたのに、ついつい才気が走って、後漢書倭人記事の最後に「会稽東冶県」と書いて、早合点の証拠を残しています。
以上は、当方の勝手な推定であって、「漢官儀」には、元々「東冶之山」と書いてあったのかも知れませんが、それは当記事の論議に関係のない些事です。
とにかく、素人が気づくような史料考察に対して、寡聞ながら、当否を論じた意見を見たことがないので、ここに掲示するものです。
以上
*「漢官儀」 成都本
追記 2021/03/12
ついでに言うと、素人考えでは、禹の「東治」は、治世の終わりに近づいた大禹が、四方で「会稽」した中で、順当に終わった(と思われる)「西治」、「北治」、「南治」に当たる三方は継承されず、直後に大禹が崩御したことから、東方、つまり、「東治」が継承されたと見えるのです。特に、難点は無いと思うので、一言述べたものです。
再追記 2024/10/08
再追記ですが、禹は、東治だけで、他の三方では会稽などしなかったというのが、正しい史料解釈と考え直したものです。
ついでに言うと、素人考えでは、禹の「東治」は、治世の終わりに近づいた大禹が、四方で「会稽」した中で、順当に終わった(と思われる)「西治」、「北治」、「南治」に当たる三方は継承されず、直後に大禹が崩御したことから、東方、つまり、「東治」が継承されたと見えるのです。特に、難点は無いと思うので、一言述べたものです。
再追記 2024/10/08
再追記ですが、禹は、東治だけで、他の三方では会稽などしなかったというのが、正しい史料解釈と考え直したものです。
再追記ですが、三国鼎立時代、東呉孫政権は、独立国家として行政を行っていて、曹魏に報告などしていなかったので、東呉管内である会稽郡の行政区画の変動、東冶県の新設などは、曹魏に一切史料が残っていないのです。陳寿は、曹魏の雒陽公文書庫を参照して魏志を編纂したので会稽郡東冶県の事情を書くことは、無かったのです。
ちなみに、遥か南の海南島は、漢代から知られていて、班固「漢書」にその地理が書かれていたので、東呉の情報欠落に関係なく、儋耳朱崖事情を書き込むことができたのです。
古田武彦氏は、第一書『「邪馬台国」はなかった』の会稽東治論義で、陳寿が魏志倭人伝編纂において、呉志の会稽郡行政区画の異動情報を参照して、当時、東冶県を含む会稽郡南部が、建安郡として分郡していたことから、「会稽郡東冶県」は、存在しなかったとの論理を組み立てていますが、正しくは、当該情報は、陳寿の魏志編纂にあたって依拠した曹魏公文書に書かれていなかったというのが、学術的に正しい判断です。
大局的に意義のない些末事ですが、古田師の提言に瑕疵を見つけるために、「倭人伝」史学の重鎮渡邊義浩氏まで担ぎ出して、些末事の追求に意義を感じている諸兄姉に、叮嚀な対応を行っているわけです。
以上
ちなみに、遥か南の海南島は、漢代から知られていて、班固「漢書」にその地理が書かれていたので、東呉の情報欠落に関係なく、儋耳朱崖事情を書き込むことができたのです。
古田武彦氏は、第一書『「邪馬台国」はなかった』の会稽東治論義で、陳寿が魏志倭人伝編纂において、呉志の会稽郡行政区画の異動情報を参照して、当時、東冶県を含む会稽郡南部が、建安郡として分郡していたことから、「会稽郡東冶県」は、存在しなかったとの論理を組み立てていますが、正しくは、当該情報は、陳寿の魏志編纂にあたって依拠した曹魏公文書に書かれていなかったというのが、学術的に正しい判断です。
大局的に意義のない些末事ですが、古田師の提言に瑕疵を見つけるために、「倭人伝」史学の重鎮渡邊義浩氏まで担ぎ出して、些末事の追求に意義を感じている諸兄姉に、叮嚀な対応を行っているわけです。
以上
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良い論文ですね。あなたも述べているように、素人が気づくような史料考察に対して、現在の東洋史学者、特に『三国志』の専門家、『三国志』の最高権威とみられている渡邉義浩氏などが、全く「魏志倭人伝」の内容についての正しい考察ができないことは残念でなりませんし、日本の文系学問の低俗さを嫌というほど感じます。中国では『三国志』の中の「魏志倭人伝」というのはほとんど文人に取り上げらることもなく現在に至りますが、その影響下にある渡邉義浩氏などはまともに「魏志倭人伝」を読んでいないで日本の国学者の訳を借用していることが良く理解できますね。それと、渡邉義浩氏というのは陳寿という史書家の評価を自分ではしないで清時代の陳寿悪評価を単に借用しており、残念ですが、『三国志』の専門家というのは多くの問題がありますね。
投稿: N.N | 2021年3月14日 (日) 20時13分