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2024年10月21日 (月)

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邪馬台国への道?( ^)o(^ ) 2024/09/26         2024/09/27 追補 2024/10/21

*良い歴史家
 てみじかに最近の報道を紹介すると、時代を問わない「無辺」の「歴史家」としてあまたのNHK歴史番組に連投する磯田道史氏(国際日本文化研究センター教授)は、物の寸法が10倍なら面積は100倍、体積は1000倍との不朽の真理を、今更、殊更語りますが、公共放送は、規模を追い続ける箸墓論議の提灯持ちに飽きたのでしょうか。氏は、既に晩節を意識しているのでしょうか。

 手許事例では、直径15㍍を基準とすると、150㍍では、敷地が100倍、土木工事規模は1000倍近い超大規模です。お「得意」様も超の付く粉飾は想定外でしょうから、ここは、誇張無しの現地報告と理解いただきたいのです。

 それにしても、動揺する刮目天一氏の論考で、笵曄「後漢書」「倭条」(以下「倭条」)尊重で忘れた頃の「倭人伝」回帰は、読者の視点が激しく動揺するので、不満です。

 刮目天一氏は、径150㍍の古墓(直径約150mの日本最大の円墳)が卑弥呼の冢と最終結論されているようですが、今更ながら、御再考いただけないものでしょうか。ちなみに、「日本一の大墳墓」は、三世紀時点では、大変不穏当です。

 氏は、さぞかしご不快でしょうが、「魏志倭人伝」の前段では、「其死、有棺無槨、封土作冢」と風俗(「風」「法秩序」と「俗」「民俗」)記事で明記されているので、(なぜか)「冢」が、100㍍規模の「円墳」と解釈しないといけないとすると、卑弥呼の葬礼以前に、其の地は、大人(首長)円墳葬礼が当たり前のように行われていたことになります。

 葬礼で、(整地した)地面を掘り下げて棺に入れた遺体を納めるということは、棺を埋設した上に、盛り土しては版築で突き固める行程のくり返しになり、円墳の葬礼と随分異なることになります。
 「倭人伝」の記事を無視して、「円墳」に調子を合わせて盛り土内に棺室を設けるとしたら、それは、甕棺でなく郭になるでしょう。どちらを信じればよいのでしょうか。

 ついでながら、そのように考えるなら、「古墳」は、随分以前から行われていたことになります。纏向遺跡の考古學は、そのように理解して、更に、古墳時代を前ずらししているのでしょうか。

*東方の海 地理解釈の不思議
 卑弥呼の墓の東方の「海」として、「倭地」は「倭人」なる「大海」中に散在する洲島で、各国は、それぞれの島を占めている「国邑」、つまり一千戸程度の単位にまとまった集落であり、渡海の後上陸する末羅と伊都は同じ島でも、伊都の東西南方は、不明です。

 「倭人伝」の道里行程は、郡を発し対海から伊都に「到」ります。終点と明示しているのが「到」です。まことに簡潔適確であり、伊都以降と見える、奴、不弥、投馬は、満足な報告・連絡・相談がない余計者と明記されているのです。

 奴と不弥は、伊都と地続きでも、南の投馬は、どうやら陸地が途切れたと見え、倭人伝語の「水行」で軽舟で、対岸に渡るとしても、渡し船に二十日乗り続けるのは有り得ないので、何もわからないのです。中国史料「倭人伝」のこの部分は無根拠/的外れと見える五万戸の戸数を含め、史料欠落で別扱いとされているので、後生東夷の勝手な書き込みは論外です。

 以下、南とはいえ、伊都」城内部ないしは至近に「邪馬壹国」城があると明解です。

 このあたりが、司馬懿の指示とすると何とつまらない「おっさん」(士誠小人 「孟子」)かと呆れます。帝詔で言う「中国」なる天下世界の中心から見ると、「倭人」は、天地果つるところ、萬里の彼方の蜃気楼であり、現地がどうなっていようと、正史夷蕃伝の隅っこであって、正史として何の意味もないのです。

*「倭条」の凱歌 万二千里創唱の勲功
 笵曄「後漢書」「東夷列伝」プラ下がりに過ぎない「倭条」によると、「大倭」王は「邪馬臺国」なる「城壁に囲まれた聚落」に居ると明記されていますが、城の東方近傍に渡れる「海」があるとは言えません。前世の「倭条」に郡使到来はなく、郡使が到着する以前「倭地」の地理は不明です。

 「倭条」で、樂浪郡端は、大倭を去る万二千里です。当時は、宣王司馬懿の前世であり、劉宋での笵曄「後漢書」「倭条」編纂時点では「悪辣な手口で天下を奪った果ての西晋が王族総出の内乱で滅んで中原を失い、逃亡先で再興の東晋も失地回復できずに滅んだ後に劉宋が興隆」していたのに、霞の彼方の罰当たりな司馬懿の面目を保とうとして「倭条」で過大な道里を創造したとは、怪談と思いませんか。

*余傍の国のこだわり 史料を踏み付けた二次創作
 ここで、無意味な現代地図を持ちだして「倭人伝」地理記事を二次創作していますが、折角の論証から脱線する運びの「すじ」は悪いと申し上げます。
 目下の様子では、刮目天一氏は、司馬懿の威光を忖度して、現代版の「倭人伝」を創作しているように見えますが、氏の偉才の無駄遣いのように見えます。

*丁寧な史料評価の勧め 2024/10/21
 「倭人伝」の記事を厳選された取り組みのために、「みずてん」ならずとも大事な記事まで否定されたのは勿体ないところです。「倭人伝」は、折角、天下一の司厨が手を掛け心をこめた満漢全席ですから、卓袱台(ちゃぶだい)返しせず一皿一皿、叮嚀に評価してほしいものです。お気に入らない品は、残しておけば、良いのです。
 「後漢書」編纂の一大事業(Life Work)の道半ばで投獄され、著作の完成をあきらめて、嫡子共々首を落とされた笵曄の遺作は、あくまで半人前の未完成であり、特に、先行後漢代資料のない「東夷伝」倭条は、素人目にも、笵曄として不本意な書きとばしになっているのですが、後漢書「東夷伝」倭条を偏愛する方達は、笵曄の誤謬を殊更取り立てて、范曄の歴史家としての名声を損ねているのに、気付いていないのでしょうか。

 それなら、范曄が、何の史料もないままに、「其大倭王居邪馬臺國。樂浪郡徼,去其國萬二千里,去其西北界拘邪韓國七千餘里。其地大較在會稽東冶之東,與朱崖、儋耳相近,故其法俗多同」と書き飛ばしています。
 後漢書「倭条」は、陳寿「三国志」「魏志」「魏志倭人伝」から時代設定が先行しているのですが、言わば、陳寿著書は、誤記や改竄がはびこっている「疑書」であるとして、ちゃぶ台返しで、一切合切ゴミ箱に放り込んでいるので、参考史料とできないのですが、范曄は、安易に、「楽浪郡の檄は、其の国(邪馬臺國、つまり、国王の居城)を去ること万二千里(余無し)」と言っておきながら、すかさず、「其の西北界拘邪韓國を去ること七千餘里」としていて肝心な拘邪韓國は、其の西北界という以上「倭」の一国に決まっているから、一切所在不明ですから、いくら一里450㍍と概算しても、行程道里、方位が不明では、いかにも杜撰です。
 たしかに、「倭は韓の東南大海中に在る」と言うものの、見通し範囲内でないので、楽浪郡の檄から、東南一万二千里(現代風に言うと、五千四百㌔㍍)の彼方まで、どのようにして行くことができるのか、見当もつかないのです。

*ごみ情報 2024/10/21
 蔭の声ですが、「倭人伝」で言う「郡から倭まで一万二千里」は、西晋代になって、陳寿が、時の皇帝の指示で、ご先祖様の司馬懿を顕彰するために捏造したことになっているのですから、笵曄が暴露したように、それは、後漢代に決まっていたことだというのは、どう考えれば良いのでしょうか。陳寿は、百五十年後に書かれる笵曄「後漢書」の内容を知ることができるはずはないのです。

*砕けた地図
 2024/10/21
 ということで、ここにあるのは、砕けた地図であり、ものの役に立たないのですから、笵曄が、史官であれば、これで良しとするはずが無いのです。
 笵曄「後漢書」西域伝末尾の「評語」を読むと、先行史書の束縛を離れた東西辺境、特に、西域では、笵曄は、後漢西域都督班超の副官甘英が、カスビ海東岸の安息国を訪問したという記事を、勝手に拡大解釈して、甘英は、更に西に足を伸ばして、海西の條支、さらには、数千里西方の安息王都に行きついて、遂には、玉門関から四千里の大秦に出向こうとしたかのような事実無根の虚構、と言うか、白日夢を描いていますが、東夷伝の「倭」についても、事実無根の蜃気楼を紡いでいたとみえます。西域の話しで言えば、後漢代に西の「ローマ帝国」と東の「後漢」が、ほとんど直接接触していたかのような夢物語が、長年醸されていて、一向に覚める気配が無いのですが、東夷についても、笵曄の夢物語は、不滅のようです。

*浮草物語 2024/10/21
 世間では、笵曄「後漢書」東夷列伝倭条が至高の聖典とみて、有り得ない簡牘巻物まで「復元」していますが、不審を抱いている「魏志倭人伝」を棄却する手立てとしては、随分杜撰なやり方です。
 刮目天氏が、三世紀に大日本(大倭)を見る「倭条聖典派」に帰属していないことを望むだけです。

*基本の基本 受け入れがたい真理
 諸兄姉は、「倭人伝」道里行程記事を、正始郡使の調査報告と決め込んでいるようですが、曹魏帝国が大量、高貴な下賜物を送り出すためには、行程概要と所要日数の事前申請と承認/皇帝裁可が、当然、必須の大前提なのです。

 正史は、勝手に書き上げられるものではなく、天子が嘉納した文書の積み重ねの収録なので、先ずは、正始帯方郡使の派遣上奏の際の現地地理報告が先行して、後代の正始帯方郡使の調査報告などは、先行資料の抜け落ちを補完する用途には活用できても、既に公文書となった記事は一切上書きできないので、たいした役には立たないのです。よろしく、ご確認ください。

                  臣隆誠惶誠恐,頓首頓首,死罪死罪。

                                以上

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