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2024年10月28日 (月)

倭人伝随想 5 倭人への道はるか 海を行けない話 3/3 補追

             2018/12/04 補追 2019/01/09 2024/05/11, 10/28
*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*南岸難関
 西岸踏破では、途中必ず何があるから、日程を決められないのですが、南岸踏破は、さらに難関と見られます。端的に言えば、この多島海を短区間の寄港を続けて乗り切ることができるのかどうか不明なのです。

*後世の海路
 遙か後世、大型の帆船で無寄港航行できるようになって、始めて、西海岸のはるか沖を通過する航海が実現したのですが、それでも、荒天による遭難は避けられず、近年、この海域で沈没船が発見されたとの報道があったのです。

 因みに、夜間航行する無寄港航海は、訓練された乗員や軍人は停泊休憩無しの航行にも耐えても、便乗する外交官や民間人には耐えがたいので、頻繁に寄港したはずです。そう、船酔いの問題もあるでしょうし。

*対馬海峡渡海
 以上の談義は、対馬海峡の渡海には、全く適用されません。
 この区間は、単に三度に分かれた渡海(渡し舟)であり、途中の海は、海流こそ激しいものの、難破させられる見えない岩礁などなく、かつ、目的地が見通せる区間であって、それぞれ区間は一日の航海で到着するのです。渡し舟は、甲板なし、船倉なし、厨房なしで良いのです。

 この航路は、代替経路がない幹線で通行量が多くて定期便が普及している「街道」であり、それぞれの港には、ゆっくり休養できる宿があり、替え船はないとしても、その区間の渡し舟を利用できるので、わざわざ専用船を仕立てて一気に漕ぎ渡る必要もなかったのです。

 街道往来の便船の漕ぎ手なら、それこそ旬(十日)に一回往復すればよいとか、無理ない日程管理ができたでしょう。

*水行十日三千里
 「倭人伝」も、この三回の渡海を総合して、休養日、天候待ちも入れて、水行十日で渡れるから三千里相当と書いといてくださいとしています。

 「水行」を、古来正解の河川行とせず、「海」(うみ)を行くものとする「邪道」(東北方向の斜め道)の読みは、別項に書評したように「中島信文氏が提唱し、当方もかねて確認していた解釈」とは一致しませんが、「倭人伝」は、中原語法と異なる地域語法で書かれているのです。それは、「循海岸水行」の五字で明記されていて、以下、この意味で書くという「地域水行」宣言です。

*見えない後日談~余談
 後世、帆船航行の初期は、なんとか西岸沖合を南下し、済州島付近から、一気に大渡海に入ったのでしょうが、だからといって、無事に未踏の航路を開拓し、乗りきれたかどうか不明です。

*高表仁伝説 2024/10/28加筆
 もっとも、初唐期の唐使高表仁は、数か月を費やした「浮海」で航路を発見し、百済を歴ずして倭に到着したようです。「浮海」とは、未知の海域を、「海図」も「羅針盤」も「水先案内」もなしに手探りで行くということであり、もし、三世紀に、魏の艦船が、当該海域を通過したという記録が残っていれば、そのような闇中摸索は必要ないのです。いや、唐使高表仁以前に、隋使として俀国に至った文林郎裴世清は、当該海域を通過したと記録されているので、その航跡を辿れば何のこともなかったはずなのですが、そのようには書かれていないのです。

 ちなみに、高表仁は、素人文官でなく、新州(広東省の一地区)刺史、現役の辺境監武官(軍人)だったので、熟練の航海士を従えて、手馴れた大型の帆船で、任地の新州から遙々(はるばる)来航したはずです。但し、『日本書紀』によると、舒明天皇4年(632年)8月に遣唐使の犬上御田耜や僧旻、新羅の送使とともに対馬に泊まっています。(Wikipedia)
 しかし、630年当時、三国が鼎立していた朝鮮半島の形勢は安定していて、新羅との関係が良好に保たれていたとみると、倭國遣唐使は、当然、安心、安全な新羅遣唐使行程を利用したはずです。もし、何らかの事情で、新羅を経由できなかったために黄海を航行したとすると、百済の海船に便乗したと見るべきですが、当時、百済は、山東半島の海港に乗り入れる権利を失っていたので、その場合、初期の遣唐使が、いかなる神業で難関を乗りこえていたか不審です。
 もし、高表仁が、「日本書紀」の記事通りに、唐使として、新羅の送使と共に倭國の遣唐使の帰国を送ったとすれば、山東半島から新羅の遣唐使航路を辿って、唐津(タンジン)に至り、以下、内陸海道を歴た上で、新羅の海港を歴て対馬に渡ったと見えます。
 唐使が、確立されていた新羅道を辿らず、新州刺史の配船で、東シナ海を横断して対馬に至ったとすれば、それは、未踏航路であり、数ヵ月を要したとしても不思議はないのですが、その場合、高表仁は、倭國遣唐使の帰路とは関係無かったことになります。

 例によって、国内史料と中国の正史のいずれを信用するかということになりますが、ここでも、国内史料は、断片的な史料を、「日本書紀」 の建前に合うように継ぎ合わせたものと見え、後続の高表仁の行状記事と併せて、信用できないことになります。

 ちなみに、朝鮮史上、高句麗、百済、新羅の三国時代と呼ばれる形勢は、640年代に動乱の時代に入り、長年仇敵であった高句麗、百済が提携して新羅の排除を図ったため、新羅は、大国大唐の支援を受けて、反撃に出た結果、百済は滅び、ついで、高句麗も滅び、660年頃に統一新羅か確立されたのですが、倭国は、百済を支援したため、統一新羅から、敵国扱いされたのですが、その結果、遣唐使の新羅道陸行も、黄海航行も不可能となり、高表仁が確立したと見える大型の帆船による東シナ海無寄港大横断に踏み切らざるを得なかったと見えるのです。

 往途の郡倭航海はこなせても、帰途の倭郡航海は、帆船といえども、海流に逆らう大渡海で至難であり、いっそ、佐世保辺りから北西帆走したかと思われます。
 そして、郡から倭に向かう航海は何とかこなせても、倭から郡に向かうときは、帆船といえども、末羅港から海流に逆らう大渡海は至難であり、いっそ、佐世保辺りから、西に向かって帆走するのではないかと思われます。 この辺り、古田武彦氏は、初唐期、有明海に帆船母港を置いて、そこから発進したのではないかと、根拠なしに想像をたくましくしています。

*まとめ
 これぐらい丁寧に説明したら、「西岸南岸一貫水行」説は、影を潜めないものかと願っています。
 

                            この項完

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コメント

  当方は体を壊して以降に、理系でありながらあなたと同様に古代史を始めて「蘇る三国志「魏志倭人伝〉-新「邪馬台国」論争への道」(彩流社:あなたの評価基準では★四個で残念ですが。苦笑)を出版してから12年以上が経ちました。この間、後世に正しい日本古代史や古代朝鮮半島史を残そうと頑張ってきましたが、あなたの論評活動を見ていると人間の業の奥深さと執念、人間というのは変わらないもの、自己否定がなかなかできないものだなと常に思うところがございますねー。 
 「*水行十日三千里」という説を述べて、『 「倭人伝」も、この三回の渡海を総合して、休養日、天候待ちも入れて、水行十日で渡れるから三千里相当と書いといてくださいとしています』とは自説に拘り、涙が出てくる文面ですね。この文はあなた様には良い論評もありあなた様は理系で当方と同類と尊敬の念もありますが、何かわびしさも感じるな~。
 **それはそうと、話は変わりますが、当方も老いてきており人生を回顧することが多くなりましたし、また、書く意欲が薄れて来ています。ですから、あなた様には最後の御礼だけは述べておきたいと思いまして、ここに記しました。あなたの活動には常に励まされたことは確かですよ。

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