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2024年11月 4日 (月)

私の本棚 39 木佐 敬久 『かくも明快な魏志倭人伝』 2 水行論 補追

冨山房インターナショナル 2016/2/26
 私の見立て★★★★☆ 必読の名著  2016/03/05 2019/07/21 補筆・整形のみ 2024/11/02, 04, 21 補追少々

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*不審な韓国陸行回避
さて、今回本書を一回通読して不審なのは、帯方郡からの行程で韓国を迂回航行する話である。(「倭人傳」関係書籍で、なんでも一度は批判する気質の本ブログ著者が、本書ほど、躓かなかった書籍はまれであることを、あわてて書き足すのであるが)

 著者は、古田氏の韓国内陸行説を丹念に吟味した上で却下し、従来評価の低かった沖合航行説を採用しているのである。

*不審な「水行」回避
 ただし、別項で紹介した中島信文氏の著作に示された内陸水行説には言及していないので却下の論拠は不明である(コメントに従い訂正)

 提示されている論考は、朝鮮半島の西部南部沿岸を通過する際、難所である多島海部を大きく迂回した無寄港と読めるが、後ほど説き起こされているような当時最強の海船で可能であったとしても、このような行程が魏朝の公式行程となったとは思えないと言うのが、当方の正直な感想である。

 当時の航海術でも、日中の航行で遠く沖合を行くことにより海難を避けられただろうが、夜間航行は不可能だったと思うのであるがいかがだろうか。帆船であれば、帆を下ろして海流に任せるのだろうか。未知の魔界でそのような無謀な航法を取ると、遅かれ早かれ難船するので、不可能と言ったのである。
 三国志にも、少し先行した時期の記事として、遼東の公孫氏領から江南の東呉領まで航行する際に、敵領である山東半島の沖合を迂回して黄海深く航行して乗り切ろうとした事例があるが、結局、見つかってしまったようである。

 著者は、曹魏明帝曹叡が、公孫氏討伐に先だって、兵員輸送を目的として、多数の海船、即ち、帆船を造船するように青州などに指示したと言うのだが、それは、遼東に渡る行程が、渡船に近い安全な航海であり、それによって、直ちに朝鮮半島西部および南部沿岸の多島海の航行術、すなわち、「各地の岩礁等の位置と干満潮勢に通暁した各地の水先案内を要し、しかも、吃水の深い大型船舶に不可能な機敏な操船が不可欠であり、そして、失敗すれば命取りの難船必須の海域」全体を通じた安全な帆船航路が開通したとは、到底思えないのである。常識に反した提言には、明確な論拠を提示する必要があるように思う。

 山東半島から朝鮮半島、具体的には遼東半島ないしは帯方郡岸に向けた黄海渡海は、太古以来の既知の航路であっても、朝鮮半島西部および南部沿岸の航路は、それまで忌避されていた、いわば海図のない危険な海であり、帆船の進歩により沖合を航行可能となったというのと実際に沿岸航路を往来するのとでは、天地程の大きな差があると思うのである。木佐氏に珍しく、空論に踊らされているので無ければ幸いである。(2019/07/21)

 もちろん、いずれにしろ、史料に明記はされていない、憶測の多い議論なので、簡単に「明快な」結論が出ないと思うのである。
 以上は、実際的な難点であるが、それ以外に、文献資料としての難点がある。

*歴韓国談義
 軽い前振りから言うと、倭人傳では「韓國を歴る」(韓國)と言っているが、「韓國」は陸上を指し、沿岸と言えども海域は韓國ではないと思うのである。「某国を経る」と言えば、「同国国王の居城を経る」以外に有り得ないと見るのである。

 特に、「韓伝」を読む限り、半島南部は韓国でなく「倭」の領域である可能性があるとされている。もし、沿岸航行が内陸国を歴るとの解釈に固執するのであれば、半島南部の帰属が明記されていないのが不審である。「倭人伝」専攻という当方の守備範囲の半ば域外/圏外であるが、どうにも割り切れないのである。(2019/07/21)  

 次に、三国志と共に秦漢時代から魏晋南北朝時代までの書籍用例で、海洋航行を水行とした例は希少、と言うか、例外的な用例を除いて、ほぼ無いのであり、「水行」は河川航行に決まっているのである。(この点、当方の見過ごしによる速断、浅慮であり、収拾に苦労しているのである。2019/07/21)
 もちろん、世上素人考えが渦巻いているように、海洋航行であっても、経路や所要日程が明確な沿岸航路の場合は、「水行」と呼んだかも知れない。しかし、正史に類する公式史書には、明確な規定無しに、そのような用語誤用は許されないはずである。
 先ほど述べた難点と重複するのだが、本書で想定されているような長距離無寄港の沖合航行は、風次第で、経路や所要日程んがはっきりしないものになる。また、「倭人傳」が沖合航行を書いていると解するには、途中の目標、特に、南下から東進に転換する大事な目処が立っていないのは不審である。これでは、後に航路を再訪することができない。
 と言うことで、日常にあっては、文書通信の所要日数を知り、緊急事態にあっては、派遣軍の現地到着までの日数と兵站への要求を知るために必要な行程が不明確では、正史の外夷傳の道里行程部に記載することはできないのではないか。

 古田氏の説である韓國内陸行であれば、経路と道里は帯方郡が已に把握していると思われるので、倭人傳に事細かく書くに及ばないのである。
 また、中島氏の提唱する河川航行による韓国内行程も、当時常用されていた交通/輸送手段であろうから、これも、帯方郡が已に把握していると思われる。

*倭人伝の地域用語定義
 ただし、(二千年後生の無教養な東夷には)、倭人伝は、冒頭で「循海岸水行」、つまり、海岸沿いの船舶移動を「水行」と規定している(この点、当方の見過ごしによる速断、浅慮であり、収拾に苦労しているのである。 2019/07/21)ように見えるので、以下、「水行」には、河川航行は含まれていないと見られるのも、一度考えていただきたいものである。
 それはさておき。「韓國飛ばし」海路行程は、ここに書いていないので何処にも記録されていないのである。

 以上の思索を歴て、当ブログ著者は、一度は中島氏が提唱する、韓國内は河川航行による水行であるとする仮説に賛成した。今般、中島氏の所説を脇に置いたため、旧記事を見て変心と批判されることがあるが、素人の浅知恵、見過ごしを革めるのも、又、一つの進歩であり、旧説への固執が過ぎると、自縄自縛で閉塞するので、多少気にしつつ変心するのである。

 因みに、もし、帯方郡から狗邪韓國に至る経路を、不法にも、韓國沿岸(沖合)を歴て海上航行するのであれば、当時の用語では、「浮海」と言うと考えるのである。
 陳寿「三国志」魏志「東夷傳」で、司馬懿は、公孫氏討伐作戦の一環として、山東半島から、ひそかに(海路)楽浪、帯方に迫ったと書かれている。そこには、「倭人傳」の道里行程記事以外で使用例のある「渡海」と書いても「海行」と書いていないし、()で補った「海路」は、現代人になじみがあると言っても、はるか後世に発生した新語であり、当時は、「ない」言葉であった。(楽浪帯方両郡回収は、「又」と前置きされているように、司馬懿の遼東攻略と別に行われた軽微な軍事行動であるので、修正した)
 もちろん、以上は、一読者の勝手な推測であって、断定口調で語っていても、別に、断定しているわけではない。有力な選択肢があると言うことを明らかにしたいだけである。

この項完

*原点確認 2024/11/02
 本件に関する最終的な見解は、別稿に記したが、ここでは、概要を略記する。(つもりであったが、長くなった)

*行程記事の要件
 陳寿「三国志」「魏志」「倭人伝」冒頭の道里行程記事の主管部は、新来の「倭人」を曹魏明帝に上申報告する際に提示されたものであり、正史の定例に従い、外夷の管理拠点である楽浪郡を発して、蕃王の居城に至る文書通信に使用する街道の行程紹介であり、したがって、郡を発して南端の狗邪韓国に至る官道行程は、当然、自明の陸上街道であるから、ほぼ省略されている。

*「水行」の導入
 「水行」は、太古以来、官道行程の道程を示す用語として起用されたことはないので、用語の原義にかえって、渡し船による渡河/渡海の意味で新たに用いられたものであり、記事冒頭で予告した上で、狗邪韓国からの三度の渡海に、本来限定した上で、例外的に起用されたものである。「倭人伝」には、渡海を意味する「水行」でもって黄海を横行する記事は存在しない。

 時に参照される司馬遷「史記」夏本紀の禹后巡訪記事は、単に、「陸上を移動する際は、乗馬や徒歩でなく馬車に乗って移動した」と確認したものであり、対岸に渡る際は、川沿いの泥地を橇で「泥行」して河岸に出た上で、渡し船で「水行」して対岸に渡ったと絵解きしたものであって、決して、舟で河流を上下したとは書いていないのである。古代、「水行」は、渡船で渉ることに限定されていたことから、そのように明解である。渡邉義浩氏は、太古以来、史書の行程記事で、「水行」は書かれていないと明解である。
 氏は、中国史書の旅程記事で、陸行、水行と並記しているのは、史記夏本紀に溯るまで皆無と明解です。(渡邊義浩 「魏志倭人伝の謎を解く」中公新書2164)
 「陸行乘車,水行乘船,泥行乘橇,山行乘檋。」(司馬遷「史記」巻二 夏本紀)
 原文を精査すると、そこに書かれているのは、禹后の河水沿岸遍歴であり、「陸行」、「水行」、「泥行」、「山行」と列記されているものの、街道の行程も示されていなければ、水上の行程も示されていないので、旅程記事などではないのであり、渡邊氏も、これは「故事」としていて、説話の類いであり史実とは見ていないと解すべきである。つまり、中国史書の旅程記事で、「水行」は、史記夏本紀に溯るまで皆無 と明示されているのである。
 そこで、素人の拙い用例漁りを中断して、用語審査の原点に還るのである。(2024/11/04 補充)

 太平御覽 地部二十三に引用された、漢代編纂とされる類語辞典「爾雅」によると「水行曰涉」、つまり、河川を渡船で渉(わた)ることを「水行」と言うと明快です。まさしく、夏本紀用例に整合している。ついでながら、河川の流れを上下移動するのは、順行は、「溯游」ないしは「沿流」、遡上は、「溯洄」と書き分けられていて、漠然と「水行」と言うような無謀な用語ではない。
 「倭人伝」で言えば、狗邪韓国から対海国へは、一海を渡るとしていて、これを「大海」なる塩水が流れる「大河」を渉ると見立れば「水行」である。この際は、並行陸道がないのでやむを得ないから、「循海岸水行」と予告定義すれば、史官の裁量であり、郡を出て街道を行くと予定されている行程が、予告無しにいきなり海中に突入するなど、論外であるから、三世紀当時の編者も読者も想定しないものであった。
 郡治を発して狗邪韓国に到る官道は、漢魏制に基づく整備された街道であり、所定の間隔で、宿駅、すなわち宿場、関所がおかれていて、街道は、馬車や騎馬文書使が往来できる基準を満たしているのが、官制で当然であるから特記していないまでである。

 後年の正始魏使が下賜物を担いで通過した行程は、重複するので記録されていないのである。が、山東半島から大型の帆船で発して、半島沖合いを廻遊して北九州の海港に至ったというのは、何の根拠も無い不合理な夢想に過ぎないので、当稿では審議しない。

 行程道里記事の結末に附された「都水行十日、陸行一月」は、治を発して倭王の居城に至る行程が、「渡海水行十日以外は、陸上街道の移動三十日であり、総じて、都(すべて)四十日以内に収まる」ことを明記しているものであり、そのように、所用日数が明確であったから、曹魏は、下賜物を送り届ける使節を発進させたのである。
 要するに、当記事は、倭王の居城に到る行程を端的に上申したものであるから、解釈に選択肢があるように見えても、端的明解な選択肢を選ぶのが順当かつ合理的(エレガント)である。
 
 同記事が起草、上申された時点では、「郡」は、雒陽からの行程道里が知られていた楽浪郡であり、「倭」王の居城は、行政組織を備えた従前の伊都国であり、両拠点間の所用日数は、「帯方郡」から「女王国」と代表者居処が代わっても、規定上維持されたと見える。

南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月」は、正始夷蕃伝の本文であるから、蕃王に「所都」と尊称を与えるのは不法であり、当然、「南至邪馬壹國女王之所」「都水行十日陸行一月」と自動的に句読されるのである。してみると、ここは、全所要日数を総括したと解されるべきなのである。「倭人伝」行程道里記事に、全所要日数が明記されているのは、必然であるので、そのように解するのが、最も明解なのである。
 仄聞するに、古代史の権威であった上田正昭氏は、「水行十日陸行一月」で全日程を記述するのは、先行諸文献に例がないから、採用できないと批判されていたが、見た通り、これは、文脈として順当な字句であるから、「先行例のない異例のもの」とする批判は当を得ていないと思量するものである。
 以上、氏の労作を批判する以上、最低限の論拠を提示する義務があると考えて、長談義に及んだものである。

以上

*カタカナ語全廃提案 初稿への追記
 さて、本書で提示された論考の大局でもなければ細目でもない、蛇足の極みであるが、苦言めいたものを呈したい。
  著者は、深い教養をお持ちだから、世俗的な勘違いとは無縁であろうが、当ブログ筆者は、本書に「インフレ」なるカタカナ語が登場することに不満である。古代に、カタカナ語がなかったための違和感もあるし、現代でも、ある言葉がインフレ状態にあると言うことがどんな事態を指すのか、一般人の教養では、専門的な比喩を理解するのが困難と懸念するのである。
 「インフレ」は、一般人の日常感覚で言えば、物の値段が上がることなのだが、ここで比喩されているのは、通貨価値が途方もなく下がった結果、高額紙幣が市中に多数出回る図式だろう。
 
極度なインフレ昂進の世相を示すときに良く映像化されるのが、大量の紙幣をちり紙か何かのように束にして買い物しているさまである。諸賢には自明なのだろうが、凡俗がそれと気づくには時間がかかると懸念されるのだが、それは、著者の本意ではないと思うのである。

 安直な情報発信が常態化した結果、「究極」表現が大安売りされて、日常会話にまで血なまぐさい復讐が徘徊する世の中である
ことは、折に触れて痛感するので、ご指摘の「インフレ」事態は、むしろ陳腐化していると思うが、それにしても、本書内の「インフレ」は本書の品格にふさわしくないので、今後の著作においては、是非、他に言いようがないか、ご再考いただきたい。
 素人考えでは、「大安売り」と言えば良いのではないかと思うのである。いや、古代史の著書は、「カタカナ語」厳禁とするのが最善と思うのである。

以上

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ご指摘に感謝。

 中島信史ではなくて、中島信文ですよね。

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