私の本棚 43 木佐 敬久 『かくも明快な魏志倭人伝』 3 東治論 補追
冨山房インターナショナル 2016/2/26
私の見立て★★★★☆ 必読の名著 2016/03/09 2019/07/21 補筆・整形のみ 2024/11/02、 11/21 補追少々
*加筆再掲の弁
最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。
◯始めに
ここでは、木佐氏著作を肴に、東治論、つまり、340ページから展開されている会稽東治に関する議論を、我流で捏ねている。
木佐氏は、かなり力を入れて、古田氏所説との差異を強調しようとしているが、こと本件では、別に、論旨がかぶっても、食い違っても、どうと言うことはないと思うのである。目的は「東治」が妥当との主張である。
それにしても、この部分の木佐氏の書きぶりは、特に不出来だと思う。さりげなく、 「夏の本拠であった長安」と書いているが、夏の本拠は、黄河下流域の河南省洛陽市付近と見られているようである。何かの勘違いであろうか。
その後、性急に「別に会稽で治績を行ったわけではない」と断じているが、所詮伝説の世界であり、詳細な記録が残っているわけではないので、断言しても仕方ないことである。
また、古田氏が禹の東治を「創作」したとしているが、別にその創作が間違いとか言うことではない。繰り返して言うように、ことは伝説の世界である。真相は全くわからないので、言うならば、史書は全て創作されているのである。
いや、ついつい、禹の伝説を掘り下げる動きに巻き込まれてしまったが、肝心なのは、「東治」という、例のない言葉が三國志の原文かどうかという議論ではないのだろうか。
*会稽東治乃山
ここで、小論の趣旨は、「会稽東治」はあったというものである。
禹が、異郷で夷蕃の諸侯を集めた一種の「会盟」で覇者として振る舞ったという「伝説」は、あくまで「伝説」としての意義を認めるしかないのである。
この会盟は、覇者の威光は名目としても、実際は、江水(黄河)圏と長江(揚子江)圏の同盟が締結されたとみるが、こうした事績で大事なのは名目/面目であり、してみると、禹の治世の最後を飾る偉大な業績なのである。
小論は、禹が諸侯を集めて会盟したことこそが「東治」である、とみるものであるが、別に、排他的な議論でないので、こういう見方もあると思っていただければ幸いである。
さて、禹の不朽の偉業を記念し永遠に、つまり、末代まで記録するのが、会稽という地名なのだが、低湿地であったと思われる周辺地域に小高く盛り上がった、目立たない小山であるが、「会稽」は、本来この山のことだったと思うのである。
そして、禹が東治した山なので、「東治乃山」と呼ばれたと思うのである。
全くの思いつきの余談であるが、会稽山は、日本で言えば、「禹」神社のご神体となるものである。全くの憶測もいいところだが、禹は会稽山に葬られたのではないかと、ふと思うほどである。
*史料渉猟
余談はさておき、「東治乃山」は正史に登場しないので、小論の創作と思われそうだが、これは、後漢時代に、(前漢)漢王朝の典礼などを書き留めた「漢官儀」の記事を引用した「水経注」および「太平御覧」の記事として残っている。「漢官儀」自体は散佚したようであるが、両書を初めとした引用から復元されたようである。
太平御覧 州郡部三 6 敘郡:
應劭《漢官儀》曰:
秦用李斯議,分天下為三十六郡。凡郡:(中略)
或以號令,禹合諸侯大計東冶之山會稽是也。(以下略)
これは「東冶之山」ではないかと突っ込みが入りそうだが、実際は、諸史料、諸写本を眺めると「東冶之山」、「東治乃山」の二種の表記が残っている。この二者択一は排他的であり、文脈で判断するしかない。
*文脈判断
後漢建安年間に大成されたと思われる「漢官儀」の上記記事は、秦始皇帝時代の宰相李斯事績として語られているが、「東冶」縣は、遙か後世の漢武帝時代において、滅亡した閩越国の跡地に、後漢初頭に設けられたのであるから、「漢官儀」の会稽郡由来に「東冶」が書き残されるはずはなく、「東治乃山」と考えてほぼ間違いないのである。
以上のように、「東治之山」と呼ばれるべき理由は見出せても、「東冶之山」と呼ばれるべき理由は、全く見出せないので、これは、「東治之山」が元々の文字と判断するのである。
ということで、「会稽東治」は、会稽東治之山の呼び名であったと言える。
*范曄後漢書
次に登場するのが、笵曄「後漢書」蛮夷傳の「会稽東冶縣」という言葉遣いである。
會稽海外有東鯷人,分為二十餘國。
又有夷洲及澶洲。
傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海,求蓬萊神仙不得,
徐福畏誅不敢還,遂止此洲,世世相承,有數萬家。人民時至會稽市。
會稽東冶縣人有入海行遭風,流移至澶洲者。
所在絕遠,不可往來。
*三国志呉書呉主伝
この点を考察するときに参照すべきは、後漢書に先行する「三國志」記事である。
《吳主傳》
遣將軍衞溫、諸葛直將甲士萬人浮海求夷洲及亶洲。
亶洲在海中,長老傳言秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人入海,求蓬萊神山及仙藥,止此洲不還。世相承有數萬家,其上人民,時有至會稽貨布,
會稽東縣人海行,亦有遭風流移至亶洲者。
所在絕遠,卒不可得至,
但得夷洲數千人還。
この記事は、まず、(呉主孫権が)將軍衞溫などを派遣して、東海の異郷から徴兵しようとしたというものであり、一万人もの将兵の派遣の背景として、秦始皇帝時の徐福の亶洲渡海について触れた後、会稽東縣の亶洲にまつわる故事を描いたものである。
ただし、「会稽東縣」とは、余り見ない言葉である。
思うに、当時の会稽郡は、陸上、河川航路、沿岸航路、全ての面で交通至便で、経済活動の盛んな臨海地域の東部諸県を、現代で言う「経済特区」として特別扱いしていて、会稽郡治の管轄から外して会稽東部都尉の支配地域としていたのである。
おそらく、東部都尉の管轄する諸縣を「会稽東縣」と称していたのではないかと想像するのである。(後に、東部諸縣は、「臨海郡」として分離独立する)
東呉が全国制覇していれば、このような施策は、正史にでかでかと記録されただろうが、亡国の悲しさ、多くの事業が、記録から割愛されたのである。
以上の記事は、何の断りもなく書き連ねているから、これら故事は、当代記事と同じ土地にまつわるものであり、この「会稽」は、会稽山付近を指すものと見るべきである。
*范曄の勘違い
ということで、笵曄は、「後漢書」編纂の際に、「東夷傳」のない「呉志」から、「魏志」が書き漏らした記事を発掘したのはいいのだが、文章を改善するときに、勘違いして「會稽東縣」を「會稽東冶縣」と書き換えてしまったとみるのである。
そして、この部分で、会稽東冶県という字面を確信したため、「倭条」冒頭付近で「魏志」の誤記を正して、「会稽東冶」と書いたようである。
要するに、范曄「後漢書」の「会稽東冶」は笵曄の勘違いの産物である。そして、この勘違いの影響は、後続史書に引き継がれるだけでなく、先行する魏志倭人傳の解釈を狂わせることにもなったのである。笵曄は文章家として絶品であるが、才気の走りすぎでみすみす「高度な誤記」を出しているのである。
後漢書は、守備範囲からやや外れるので干渉しないとして、ここでは、三國志に関してだけ言えば、呉書(志)にも魏書(志)にも、会稽東冶(縣)という言葉はないとみるのである。
以上は、論断でなく、推断であるので、こういう見方もあると理解いただければ幸いである。
以上
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