新・私の本棚 青松 光晴 「日本古代史の謎-神話の世界から邪馬台国へ」再補 1/2
「図でわかりやすく解き明かす 日本古代史の謎」 Kindle 版
私の見立て ★★★☆☆ 凡庸 アマゾンKINDLE電子ブック 2020/05/17 補足 2022/04/22 2023/06/12 2024/03/31, 11/27
*加筆再掲の弁
最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。
〇はじめに
今ひとつの古代史KINDLE本ですが、出版社の編集を経ていないブログ記事集成とあって、散漫な構成が目立ちます。
*路線の謬り
本書は、国内史書を正当化するために「倭人伝」を自陣に引き寄せる展開でこじつけが入り、歯切れが悪く、残念な言い訳も度々出て来ます。素人目にも、長老層の好む時代錯誤表現が散々目に付くので、言わずもがなの警告を流したのです。(念のため言い足すと、当ブログは、古代語彙にのめり込んでいるので、「長老」は、昔年の学識を物語る「絶賛」です。)
本書のタイトルは、著者の固執を示しているので、そうした「偏見」を掻き立てられたのかも知れません。「邪馬台国」は、笵曄「後漢書」(だけ)に登場する国名ですが、范曄「後漢書」も、関係する陳寿「三国志」「魏志」も、同国にまつわる「神話」は一切記録していません。つながりの無い概念を繋いでいるのは、氏の紡ぎ出すロマンであり、それは、「史学」とは、本来無縁の筈です。陳寿「三国志」「魏志」「東夷伝」高句麗伝では、同国が、天下りした、言わば、「天孫」であると語っているので、神話を排除しているのではないのです。
「倭人伝」物語は、真っ直ぐに語りたいものです。いや、叶わぬ願望なのですが。
*古田説追従の過誤
氏も自認しているように、古田氏論説の追従が多いのですが、むしろ、古田氏の軽率さを安易に流用して痛々しいのです。
その原因の一つは、氏の語彙の中途半端さです。たとえ古田氏の著書から「奇想天外」の感をえたと言っても、そのような語感は歴史的に不確定で戸惑います。この際、肯定的に捉えるとして、地上のものとは思えない破天荒な新発想と見ても、揶揄に近い語感も考えられます。
続いて、「理工系の感性」ではついていけないと評しているのは、「出任せで感情的」との酷評でもないでしょうが、熟した言葉で応用するのでなく、初心者の未熟な言葉のまま述べて、その解釈を読者に委ねるのはもったいない話です。ことによると『「理工系」きっての英才と自任する著者』の自嘲なのかも知れません。とにかく、日本語の語義解釈が甘くては、中国語解釈どころではありません。
と言う事で、氏の理解が不出来なのに、わざわざ図示しても、何の意味もないと思います。ご自分で合理的な解釈ができていない、文章題の読み解きができない状態で、ご自身の理解/無理解を「わかりやすく」図解するなど、児戯にも画餅にもならないのです。このあたり、一度、本気で考え直していただく必要があるように見えます。
〇道里記事の目的
道里記事が郡治からの道里と日程を、魏使派遣に先立って報告する理由ですが、要は、帝国統治の根幹である文書通信の所要日数および物資の送付日程を規定するためいわば最優先要件なのです。文書行政の国家構成では、定期報告の到着は日程厳守ですし、緊急交信は、最速かつ確実でなければなりません。
「帝国中核部の混乱に乗じて各地諸侯が自立して二世紀を経た大帝国が一気に解体した」後漢の国家崩壊を体験した「魏武」曹操は、傘下の諸将、諸侯に、通信日数の制度化と厳守を命じたのです。「厳守」は、厳罰、つまり、馘首に繋がるものです。「馘首」は、単なる、降格、更迭にとどまらず、時として、というか、しばしば、文字通り断首されるので、命がけなのです。
余談ですが、事態は、霊帝没後に幼帝を擁立する、後漢にはお馴染みの後継者争いであり、「宦官」の跳梁を打破するために、無頼に等しい董卓の率いる西方の涼州軍閥の東都雒陽への大挙参上を許したために発生した、軍閥奪権だったのです。
このような事態を防止するために、国法は、地方軍の大挙参上を反逆の大罪としていたのですが、目前の権力争いしか念頭になかった[外戚]が、[宦官]勢力に隷従していた帝都禁軍を打倒するために、帝都城壁を開門して、内部に巣食う違法な害獣を討滅するために、外部の無法な害獣を呼び入れた結果なのです。
「帝国中核部の混乱」などと粋がって総括していますが、要するに、稚拙な権力争いが、稀代の暴君董卓の君臨を招いただけです。無教養で我欲しか持ち合わせていない軍人が最高権力を掴んだため、以後、「帝国」の法と秩序は失われたと言うだけであり、全土から収税する帝国の骨格は残存していた物です。
余談はさておき、そのように中央の管理機構が動揺していた時期とはいえ、新規服属の東夷は、何よりも、最寄りの帝国拠点(帯方郡か)からの連絡日数を申告しなければならないのです。帝国の代理人たる公孫氏は、倭人領分のような極めつきの辺境では、道里の測量が不確実な上に、騎馬文書使が、行程を確実に駆け抜けられる街道が整備されているかどうか、はっきりしないので、実務要件として文書交信に要する日数を申告させたのです。この点、「倭人伝」は、倭人は牛馬を採用していないと明記して、道里から所要日数を求めることができないのを明記しているのです。
言うまでもないと思うのですが、蛮夷伝において、そのように重大な全体所要日数を明記しない理由は、特に思い当たらないのです。
「都」(すべて)と明記した上で総日数を開示した「都水行十日、陸行一月」の句は、そのように受け取るべきです。因みに、正史道里行程記事で定則である「都四十日」と書かなかったのは、『三度の渡海に並行する街道がなかったので「陸行」の日数が書けなかった』ことを明示、つまり、明確に示唆しているのです。冒頭で、『後段で海岸から向こう岸に渡るのを「水行」という』と予告して、明記しているから、うるさがた揃いの読者も納得するのです。
ついでに言うと、「郡から狗邪韓国まで沖合を船で行く行程が常用されていた」と「我武者(がむしゃ)らに」こじつけるとしても、所詮、正史行程記事の定則で、「船で行く行程」は許されず「並行する街道の行程」を要求されるので、結局「陸地を行く街道の所要日数を書くしか無い」のです。これで、諦めが付いたでしょうか。
それとも、陳寿は、当時の読者に解けるはずのない謎かけをしたのでしょうか。そのような稿本を上程したら、皇帝を愚弄した罪で、一発解任、死罪でしょう。
*帆船論~未熟な知識と論義
氏は、帆船の可能性について述べています。太古以来、中国東部「東シナ海沿岸」に、大小取り混ぜた帆船が普及していたのは、否定できません、と言うか、間違いありません。漕ぎ船だけの交易では、移動できる質量の限界があり、宝貝、珊瑚、玉や貴石などの軽量の貴重品が大半となりますから、軽舟といえども、帆掛け船は整っていたでしょう。
また、陳寿「三国志」に登場する千人規模の兵船は、帆船以外あり得ません。時代背景を丁寧に調べずに風評や憶測で語るのは、史書筆者として半人前です。
但し、韓や倭で帆船を言わないのは、一つには、半島西岸から九州北岸に至る経路の急流や岩礁での操船が、帆船では行き届かず難船必至だからです。
外洋帆船は、軽舟では成り立たず、甲板、船室が伴い、厨房が不可欠なので、食料、飲料水、燃料の薪水倉庫が必要であり、又、外洋の過酷な風波に耐えため船殻の厚板化と共に、内部に肋郭を必要とし、とにかく頑丈な船殻構造として巨大化しますから、「鋼鉄製」造船器具が普及していなかったと思われる当時の韓、倭では、造船できなかったと思われます。
また、丈夫な麻の帆布、麻の帆綱が無ければ、帆が張れません。更に言うなら、小型手漕ぎ船で往来できるような入り組んだ多島海には、数世紀後まで、操船の不自由な大型の帆船は、危険で立ち入れなかったと見えます。帆布、帆綱を含め、破損時の修復ができなければ、難船したその場で死を待つしかありませんから、帆船の航行は困難であったのです。(つまり、不可能という意味です。誤解しないように)
その程度の学習は、先賢諸兄姉がよほど怠慢でない限り、この一世紀の間に検討済みではありませんか。
未完