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2024年11月

2024年11月27日 (水)

新・私の本棚 青松 光晴 「日本古代史の謎-神話の世界から邪馬台国へ」再補 1/2

「図でわかりやすく解き明かす 日本古代史の謎」 Kindle 版
私の見立て ★★★☆☆ 凡庸 アマゾンKINDLE電子ブック   2020/05/17  補足 2022/04/22 2023/06/12 2024/03/31, 11/27

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇はじめに
 今ひとつの古代史KINDLE本ですが、出版社の編集を経ていないブログ記事集成とあって、散漫な構成が目立ちます。

*路線の謬り
 本書は、国内史書を正当化するために「倭人伝」を自陣に引き寄せる展開でこじつけが入り、歯切れが悪く、残念な言い訳も度々出て来ます。素人目にも、長老層の好む時代錯誤表現が散々目に付くので、言わずもがなの警告を流したのです。(念のため言い足すと、当ブログは、古代語彙にのめり込んでいるので、「長老」は、昔年の学識を物語る「絶賛」です。

 本書のタイトルは、著者の固執を示しているので、そうした「偏見」を掻き立てられたのかも知れません。「邪馬台国」は、笵曄「後漢書」(だけ)に登場する国名ですが、范曄「後漢書」も、関係する陳寿「三国志」「魏志」も、同国にまつわる「神話」は一切記録していません。つながりの無い概念を繋いでいるのは、氏の紡ぎ出すロマンであり、それは、「史学」とは、本来無縁の筈です。陳寿「三国志」「魏志」「東夷伝」高句麗伝では、同国が、天下りした、言わば、「天孫」であると語っているので、神話を排除しているのではないのです。
 倭人伝」物語は、真っ直ぐに語りたいものです。いや、叶わぬ願望なのですが。

*古田説追従の過誤
 氏も自認しているように、古田氏論説の追従が多いのですが、むしろ、古田氏の軽率さを安易に流用して痛々しいのです。
 その原因の一つは、氏の語彙の中途半端さです。たとえ古田氏の著書から「奇想天外」の感をえたと言っても、そのような語感は歴史的に不確定で戸惑います。この際、肯定的に捉えるとして、地上のものとは思えない破天荒な新発想と見ても、揶揄に近い語感も考えられます。

 続いて、「理工系の感性」ではついていけないと評しているのは、「出任せで感情的」との酷評でもないでしょうが、熟した言葉で応用するのでなく、初心者の未熟な言葉のまま述べて、その解釈を読者に委ねるのはもったいない話です。ことによると「理工系」きっての英才と自任する著者』の自嘲なのかも知れません。とにかく、日本語の語義解釈が甘くては、中国語解釈どころではありません。
 と言う事で、氏の理解が不出来なのに、わざわざ図示しても、何の意味もないと思います。ご自分で合理的な解釈ができていない、文章題の読み解きができない状態で、ご自身の理解/無理解を「わかりやすく」図解するなど、児戯にも画餅にもならないのです。このあたり、一度、本気で考え直していただく必要があるように見えます。

〇道里記事の目的
 道里記事が郡治からの道里と日程を、魏使派遣に先立って報告する理由ですが、要は、帝国統治の根幹である文書通信の所要日数および物資の送付日程を規定するためいわば最優先要件なのです。文書行政の国家構成では、定期報告の到着は日程厳守ですし、緊急交信は、最速かつ確実でなければなりません。
 「帝国中核部の混乱に乗じて各地諸侯が自立して二世紀を経た大帝国が一気に解体した」後漢の国家崩壊を体験した「魏武」曹操は、傘下の諸将、諸侯に、通信日数の制度化と厳守を命じのです。「厳守」は、厳罰、つまり、馘首に繋がるものです。「馘首」は、単なる、降格、更迭にとどまらず、時として、というか、しばしば、文字通り断首されるので、命がけなのです。
 余談ですが、事態は、霊帝没後に幼帝を擁立する、後漢にはお馴染みの後継者争いであり、「宦官」の跳梁を打破するために、無頼に等しい董卓の率いる西方の涼州軍閥の東都雒陽への大挙参上を許したために発生した、軍閥奪権だったのです。
 このような事態を防止するために、国法は、地方軍の大挙参上を反逆の大罪としていたのですが、目前の権力争いしか念頭になかった[外戚]が、[宦官]勢力に隷従していた帝都禁軍を打倒するために、帝都城壁を開門して、内部に巣食う違法な害獣を討滅するために、外部の無法な害獣を呼び入れた結果なのです。
 「帝国中核部の混乱」などと粋がって総括していますが、要するに、稚拙な権力争いが、稀代の暴君董卓の君臨を招いただけです。無教養で我欲しか持ち合わせていない軍人が最高権力を掴んだため、以後、「帝国」の法と秩序は失われたと言うだけであり、全土から収税する帝国の骨格は残存していた物です。
 余談はさておき、そのように中央の管理機構が動揺していた時期とはいえ、新規服属の東夷は、何よりも、最寄りの帝国拠点(帯方郡か)からの連絡日数を申告しなければならないのです。帝国の代理人たる公孫氏は、倭人領分のような極めつきの辺境では、道里の測量が不確実な上に、騎馬文書使が、行程を確実に駆け抜けられる街道が整備されているかどうか、はっきりしないので、実務要件として文書交信に要する日数を申告させたのです。この点、「倭人伝」は、倭人は牛馬を採用していないと明記して、道里から所要日数を求めることができないのを明記しているのです。
 言うまでもないと思うのですが、蛮夷伝において、そのように重大な全体所要日数を明記しない理由は、特に思い当たらないのです。

 「都」(すべて)と明記した上で総日数を開示した「都水行十日、陸行一月」の句は、そのように受け取るべきです。因みに、正史道里行程記事で定則である「都四十日」と書かなかったのは、『三度の渡海に並行する街道がなかったので「陸行」の日数が書けなかった』ことを明示、つまり、明確に示唆しているのです。冒頭で、『後段で海岸から向こう岸に渡るのを「水行」という』と予告して、明記しているから、うるさがた揃いの読者も納得するのです。
 ついでに言うと、郡から狗邪韓国まで沖合を船で行く行程が常用されていた」と「我武者(がむしゃ)らに」こじつけるとしても、所詮、正史行程記事の定則で、「船で行く行程」は許されず「並行する街道の行程」を要求されるので、結局「陸地を行く街道の所要日数を書くしか無い」のです。これで、諦めが付いたでしょうか。
 それとも、陳寿は、当時の読者に解けるはずのない謎かけをしたのでしょうか。そのような稿本を上程したら、皇帝を愚弄した罪で、一発解任、死罪でしょう。

*帆船論~未熟な知識と論義
 氏は、帆船の可能性について述べています。太古以来、中国東部「東シナ海沿岸」に、大小取り混ぜた帆船が普及していたのは、否定できません、と言うか、間違いありません。漕ぎ船だけの交易では、移動できる質量の限界があり、宝貝、珊瑚、玉や貴石などの軽量の貴重品が大半となりますから、軽舟といえども、帆掛け船は整っていたでしょう。
 また、陳寿「三国志」に登場する千人規模の兵船は、帆船以外あり得ません。時代背景を丁寧に調べずに風評や憶測で語るのは、史書筆者として半人前です。

 但し、韓や倭で帆船を言わないのは、一つには、半島西岸から九州北岸に至る経路の急流や岩礁での操船が、帆船では行き届かず難船必至だからです。
 外洋帆船は、軽舟では成り立たず、甲板、船室が伴い、厨房が不可欠なので、食料、飲料水、燃料の薪水倉庫が必要であり、又、外洋の過酷な風波に耐えため船殻の厚板化と共に、内部に肋郭を必要とし、とにかく頑丈な船殻構造として巨大化しますから、「鋼鉄製」造船器具が普及していなかったと思われる当時の韓、倭では、造船できなかったと思われます。
 また、丈夫な麻の帆布、麻の帆綱が無ければ、帆が張れません。更に言うなら、小型手漕ぎ船で往来できるような入り組んだ多島海には、数世紀後まで、操船の不自由な大型の帆船は、危険で立ち入れなかったと見えます。帆布、帆綱を含め、破損時の修復ができなければ、難船したその場で死を待つしかありませんから、帆船の航行は困難であったのです。(つまり、不可能という意味です。誤解しないように)

 その程度の学習は、先賢諸兄姉がよほど怠慢でない限り、この一世紀の間に検討済みではありませんか。

                                未完

新・私の本棚 青松 光晴 「日本古代史の謎-神話の世界から邪馬台国へ」再掲 2/2

「図でわかりやすく解き明かす 日本古代史の謎」 Kindle 版
私の見立て ★★★☆☆ 凡庸 アマゾンKINDLE電子ブック   2020/05/17  補足 2022/04/22 2023/06/12 2024/03/31, 11/27

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*渡海派兵の愚
 そういうことで、この時代の「インフラストラクチャー」(古代ローマ起源の概念であり、時代錯誤ではない)の不備、つまり、渡海輸送の隘路を知れば、「渡海派兵」発言はありえないのです。
 よって、帯方郡は、倭人救援は勿論、徴兵も考えてなかったし、大量の米の貢納も意図していなかったのです。
 その背景となる事情は、「倭人伝」に、赫赫と明記されています。 

*古代算術の叡知
 最近話題になる古代の算術教科書「九章算術」では、管内に複数の穀物供給拠点がある時は、「輸送距離が短く人馬を多く要しない」拠点から多くを求め、「遠隔で人馬を多く要する」拠点からは極力求めないようにする算法問題と解法が示されています。
 といって、税を銅銭で納めさせようとしても、韓、倭には、銅銭が通用していないので、これまた、不可能なのです。

 徴兵問題も同様です。援軍募兵は大量の軍糧が必要なのに加えて、海峡越えの大軍移動は相当な期間を要する上に、帰国時に手ぶらで帰すことはできないのですから、移動食糧が往復二倍必要です。まして、倭人には軍馬がないので、渡海徴兵は「論外」も良いところです。そもそも、言葉が通じなくては、戦場でものの役に立たないのです。
 知らないことは手を尽くして調べるべきです。余談に近い感想に無批判に追従されると、古田氏も「浅慮」を拡大投影されて不本意でしょう。先賢の論法は無批判に踏襲せず、掘り下げるべきです。

 古田流半島内行程図は、子供の落書きのような階段状行程ですが、古田氏ほどの取材力があれば、関係史料と現地地形とに照らして合理的に具体化できたはずです。

*官道移動説の密かな先例~不可解な埋没
 岡田英弘氏は、現地地理を知悉していて、帯方郡から狗邪韓国への行程は、韓国鉄道の中央線の示すように、郡からの行程は、漢江流域沿いに南下して、南漢江中流の忠州から(現在では、ダム湖に没している旧道を溯って)小白山地鞍部である鳥嶺(竹嶺)を越えて栄州で洛東江流域に下り、以下、狗邪韓国まで南下したのであろうと示唆していますです。もっとも、そのように絶妙の慧眼を示した岡田氏が、何の気の迷いか、[従郡至倭]の解釈では、[衆愚追従]でもないでしょうが、黄海南下の後、東に転じて狗邪韓国に至る「年代ものの不可能使命」を取り入れているのは、何とも、何とも残念です。
 このように、氏の時代を越えた慧眼は時に曇って氏の叡智を遮っていますが、それは、この場に限った蹉跌ではないし、どんな英哲も、全知全能、万事無謬でないのは、自然なことです。むしろ、素人目に不可解なのは、岡田氏ほどの先達が、本件では、ご自身の崇高な叡智を、意図せずとは言え、決定的に曇らせたため、陳寿の真意は地に埋もれたのです。

 同様に、この点で、古田氏を批判することはできても、古田師の所説を全否定するのは無謀であり、まして、それを言い訳に、世の不合理な海上移動説を支持するのは、絶対的に不合理です。

*登頂断念の弁
 当ブログ筆者の得意とする道里行程論で意欲を蕩尽しましたが、倭人伝」ほど誠実に調整された文書を、真っ直ぐに解釈できないようでは、混沌と言いたくなるような国内史料の解釈、考証など、満足に行くはずがないのです。氏は、世上の野次馬論者と同様で、相当の勉強不足と見えます。
 本書を充実していると見える広範な議論も、希薄な受け売りで埋められて見えます。はったり半分でも良いから、自分自身で丁寧に検証した、きっぱりした主張が必要です。
 いや、本書のあるいは中核かも知れない国内史料、考古学所見、現地地理などは、当記事筆者の倭人伝専攻宣言の圏外と敬遠した次第です。

*業界の現状 余談
 本書著者にご迷惑でしょうが、本書の評価が順当になされないのには、理由があるのです。世の中は、国内史料解釈で「目が点」の諸氏が、「倭人伝」二千字の解釈に失敗して、「史料が間違っている」「フェイク」だと声を上げているのです。
 また、「自身の持つ所在地論に反するものは、はなから間違っている」という横着な判断が横行して、そうした不動の信念に従わない「倭人伝」は、「フェイク」視されているのです。時に言う「ちゃぶ台返し」ですが、ほかにまともな史料がないのに、無謀なものです。というものの、実は、舞台裏で言い繕って、結局「倭人伝」に土下座しているのです。
 いや、釈迦に説法でしょうか。
 普遍/不変の法則として、どんな分野でも、新説、新作の九十九㌫は「ジャンク」ですが、全体として、「倭人伝」ほど実直な著作が、目立ちたがりでトンデモ主張展開の「ジャンク」記事「ジャンク」本の紙屑の山に埋もれてしまうのは、もったいない話です。

*まとめ
 折角の新刊ですが、『基本資料である「倭人伝」と従来の史料解釈を把握し、課題となっている諸事項を取り出し、それぞれに解を与える』と言う、大事で不可欠な手順が見て取れないので、既存諸説の追従としか見えないように見えてしまいます。
 また、著者が整然と理解してなければ「図示には、全く意味がない」と理解いただきたいのです。もっとも、著者の構想を図示した図がほとんど見当たりません。
 (概念)図は、読者の知識、学識次第で解釈が大きく異なるので、学術的主張に於いて論拠とすべきではないのです。図や意味不明な「イメージ」は、あくまで文書化された論理の図示という補助手段に止めるべきです。古代史分野では、読者の誤解を誘う、いい加減な図(イリュージョン)が多いので、そのように釘を刺しておきます。

追記 基礎の基礎なので、本書が依拠した無法な巷説を明記します。

 三国志の「蜀志七、裴松之注所引「張勃呉録」」に、「鴑牛(どぎゅう、*人のあだな)一日三百里を行く」とあり、三国志の時代の標準的な陸行速度は、「1日あたり三百里」だった。

 同「史料」は、そもそも、慣用句、風評であり、「三国志」本文でなければ、考証を経た史書記事でもなく、まして「魏志」でなく『別系統の「蜀志」への付注』に過ぎません。裴松之が補充したとされていますが、厳密に史料批判されたものではないので、もともと、陳寿が、一読の上、排除した史料かも知れないし、裴松之も、本件は陳寿の不備を是正する意図で補追したものではないと見えるのです。この点、世上、裴注の深意について、不合理で勝手な憶測が出回っているので、苦言を呈しておきます。

 里制は、万人衆知の上で普遍的に施行されていた国の基幹制度であり、周代以来一貫して施行された確固たる制度なので、一片の噂話で証されるべきではありません。つまり、当記事は、「三国志」の時代の国家「標準」を示すものではないのです。

 ついでに言うと、蜀は、公式には「漢」を名乗っていたのであり、劉備は、高祖劉邦以来続いていた漢の天子であり、当然、後漢諸制度を忠実に受け継いだのであり、不法にも後漢を簒奪した逆賊「曹魏」の「不法な制度」に追従することなど、天にかけて、断じてあり得ないのです。いや、曹魏にしても、禅譲により漢制をすべて継承したのであり、里制改変などの不法な制度改革を行うことはあり得ないのです。
 現に、遅くとも周代以来施行されていて、秦始皇帝が当時の中国全土に敷き詰めて、天下の根幹とした「里」制(ここで言う「普通里」)が、俄(にわか)天子の一辺の命令で改訂されることなど、「絶対に」有り得ないのです。(実行できないという意味です)

 この種の論考は、無意味であり、さっさと棄却すべきです。

                               以上

2024年11月26日 (火)

新・私の本棚 大平 裕 『古代史「空白の百五十年間」の謎を解く』 序章

卑弥呼(天照大神)から神武・崇神・応神へ (PHPエディターズ・グループ)
Kindle版 公開サンプル 一頁 短評(評価外) 2022/12/20 単行本 2021/12/06 書評2024/11/26

◯前置き
 本件は、日本古代史著作の典型的な一例でしょうが、当ブログ圏に干渉しているので託宣します。
 ご承知のこととは思いますが、「魏志倭人伝」「後漢書倭条」は現代人向け文書では無いのです。ご自身で解釋を極められないなら、先覚諸兄姉の論稿を具体的に参照して、身を委ねるべきです。
 本稿は、本書において、期間の出発点を確保する重要な序章であるので、以下のごとく、事実誤認があって、正確な確保がされていないことを具体的に指摘するものです。本書における氏の論考全体に対して総括的な批判を加えているものではありません。

*逐次解明 教育的指導の試み
 「邪馬台国」は「ヤマト <邪馬堆>国」
 もう一つは、「邪馬台(やまたい)国」論争という、不毛な論議が続いたことです。
 戦後古代史学界で大論争となったのが、「邪馬台国」問題でした

 「論議」が不毛である/あったかどうかは、氏が他人事のように断じるべきものではありません。また、『「問題」は解答を要する出題』(Question)と言うのが本義であり、本来「大論争」とは無縁の極みです。

 筆者は若い頃から、「ヤマタイコク」という呼称に強い抵抗感を持っていました。「ヤマタイコク」という呼び名は、日本語としてもそぐわない。『万葉集』『日本書紀』『古事記』にもこのような表現はないのですから、とても受け入れがたい呼称でした。よく調べてみますと、間違いのもとは、『後漢書』の編纂者が「やまと」という倭人の国名を「邪靡堆」(と)と漢字で表すところを間違え、「と」の漢字に「臺」(たい)の字を当ててしまったことです。

 あっという間の「間違い」宣言ですが、見るからに中国史料に暗い氏の未熟な私見「抵抗感」が、なにを「よく」調べて「間違い」摘発の根拠としたのか、不可解です。
 根拠の見えない指弾は、『後漢書』編纂者なる匿名「妖怪」の聞き取りで「やまと」が「邪馬臺」となったとのようです。一応、お話は伺っておきます。

 続いて、『三国志魏書倭人伝』 (以下『魏志倭人伝』 )の編纂者が、『後漢書』が伝える「臺」の字を写し間違え、「壹」(い)の字にしてしまったのです。当然『魏志倭人伝』を引用しますと、「邪馬壹」(やまい)と呼ばなくてはなりません。多くの学者は、これを単純に編纂者のミスとして、原因を追及することはありませんでした。

 氏は、「魏志倭人伝」編者なる匿名「妖怪」が、「倭人伝」編纂に際し、当時未刊と言うか影も形もない未生の「後漢書」、実は、東夷列伝の「はした」である「倭条」の伝える「臺」を「壹」に錯乱したと主張しているようにも見えますが、素人には、どうにも、氏がどうして「ミス」と断定されるのか、理解困難です。
 ついでながら、「臺」(だい)は、代用される「台」(たい)と違って「と」と発音される可能性はありません。逆に言うと、言葉も文字も知らない蕃夷が「と」を「臺」(だい)と書き立てることは不可能であり、言葉と文字に通暁している郡官人が、蕃夷の発音する「と」を「臺」(だい)と書きとめるはずが無いのです。
 氏は、ここに述べたような初歩的な認識事項に暗いために、いずれかの先賢兄姉が述べている見解を、ひたすら引き継いでいるようですが、志の壮大な構想の基点である以上、事実確認に一段と務める必要があるように感じる次第です。
 素人読者が精一杯善解しても、当ブログ記事で言う「倭人伝」と「倭条」は諸所で輻輳していて、『「倭人伝」自己参照すら不能の「多くの学者」なる「妖怪」の過去の怠惰の指弾』と見えますが、遺憾ながら趣旨不明です。「論争」では指弾対象の具体化が不可欠です。一応、お話は伺っておきます。

 氏が、論議のイロハ抜きに「妖怪」談議に耽る心境は当方の知ることではないのですが、言明された根拠は、ことごとく「間違い」と申し上げるしかないのです。どうか、このような残念な著作は撤回して、晩節を全うされるよう祈念します。

*史実誤認 ことの後先
 新参東夷は、国名、王名、居城、戸数等を東夷管理拠点たる楽浪郡に申告するのが原則ですから、「国名」は、郡が、後漢霊帝代末期ないしそれに続く一大動乱時代に、漢武帝創設の栄えある辺境守護の重責に任じていたのであり、責任を持って聞き取ったものです。欠席裁判で弾劾の范曄の知らないことです。
 高校生向きとも見える講釈は心苦しいのですが、氏は周知の事実を知らず臆測で書き進めるので、論議不要の事実を指摘せざるを得ないのです。要するに、「魏志倭人伝」編者陳寿は公文書を元に「倭人伝」を書き上げたのですが、それは「後漢書倭条」編纂に百五十年先立っています。
 かくも、読者を誘い込むために精魂込めたはずの「サンプル」が、わずかな字数の乱脈さを素人に指摘される、論議根拠の不体裁さでは、肝心の本体部が全く信用できず、全文購読の意欲が大いに削がれます。

◯まとめ 妄言多謝
 本稿は高校生も知る両史料前後関係未検証の素っ頓狂な異説です。この失態は氏が初心に復って学習するのが治癒策です。身辺の専門家にご相談いただいて再発防止策を講じて下さい。またの御来診をお待ちしています。

 長年この調子で済んでいるからには「高樹多悲風」でもないのでしょう。

 それにしても、学術書に不可欠の編集活動の見えない「書いて出し」は、本書は「出版社」不在の出版物ということでしょうか。

                                以上

私の本棚 田口 裕之 『金印は「ヤマト」と読む』 季刊「邪馬台国」131号 総括

 私の見立て ☆☆☆☆☆ いやしがたい瓦礫   2017/02/28  2020/01/15 2024/07/14, 11/26

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

□結語

 これに先立つ16回の連載で、とことんダメ出ししたはずであったが、誰でも気づくような子供じみた欠点を列記しただけで、一番大事なダメが出せていなかった。反省と自戒を込めて、総括記事として追加する。
 (なお、16回分の記事は、公開する意義は無くなったものと思うので、非公開とした。何の反応も無かったので、徒労であったということである。「つけるクスリがない」とか「Ignorance is fatal」と言いたいところだが、言わないことにしておく。)

 それは、当論文のタイトルに書かれている新説が、既に、言い古されたものであったにも拘わらず、先行する文献が適切に参照されていなかったということである。

 既に、100年を大きく超える古代史論議の中で、本当に多くの「新説」が提言されているから、現代人が思いついた「新説」の先行論文を全て検出するのは無理かも知れないが、無教養な後学の徒は、もっともっともっと謙虚になって、徹底的に調査すべきではないかと思うのである。
 また、投稿された論文が新説であるか、旧説の踏襲であるかは、論文審査の不可欠な手順と思うので、編集部の手落ちは罪深いと思うのである。論文筆者は、このような不名誉な形で名をとどめたくない筈である。

◯資料紹介
 参照資料は、次の一点であるが、そこで引用されている明治時代、ないしは、それ以前の資料は、必読書とも思われるので、知らなかったでは済まないと思うのである。
史話 日本の古代 二 謎に包まれた邪馬台国 倭人の戦い
             直木孝次郎 編   作品社 2003年刊
 「邪馬台国の政治構造」 平野邦雄
    初出 平野邦雄編 「古代を考える 邪馬台国」 吉川弘文館 1998年刊

 さて、妥当な推論かどうかは別として、書き留められている先行論文と論旨を書き出すとする。
 後漢書に見られる「倭国王帥升」記事が通典に引用された際の「倭面土」国が「ヤマト」国と読まれるべきだ』という説は、明治四十四年(1911年)に内藤湖南氏によって提唱されたものである。(明治四十四年六月「藝文」第二年第六號〕

 文語体、旧漢字で読み取りにくいだろうが、倭面土とは果して何國を指せる。余は之を邪馬臺の舊稱として、ヤマトと讀まんとするなり。と明言されていて、その後に、詩経などの用例から、太古、「倭」を「や」に近い発音で読んでいたと推定している。
 ついでだから、原点である内藤湖南「倭面土国」をPDF化した個人資料を添付する。
 
原資料に関する著作権は消滅しているが、PDF化資料に関しては、プロテクトしていないとはいえ、無断利用はご遠慮いただきたい。(まえもって連絡して欲しいとの意図である)「k_naito_yamato1911.pdf」をダウンロード

 「倭面土」国と併せて、「倭奴」国も「委奴」国も、「ヤマト」国と読むべきだ』とする説も、明治四十四年(1911年)に稲葉岩吉(君山)氏によって提唱されたものである。(明治四十四八月考古學雜誌第一卷第十二號)

 湖南氏は、後続として同様論旨の論文を準備していたが、稻葉氏の論文を見て発表を断念し、原論文を「讀史叢録」に「倭面土国」として収録する際に、付記として、『「稲葉君山君」が翌々月号に「「漢委奴國王印考」といへる 一篇を發表され、委奴、倭奴ともに、倭面土と同一にして、單に聲の緩急の差あるのみと斷ぜられたり」』と要旨を紹介しているものである。
 いや、そもそも、そのような概念は、「釈日本紀」にすでに示されているという。影印を見る限り、そのような趣旨で書かれているように見える。
 つまり、「古代史書で多数見られる倭国名の漢字表記と思われるものが、全て、ヤマトと呼ばれるべきだ」とする論旨は、数多くの先例があると言える。
 してみると、本論文の大要は、所詮、先人の説くところを踏襲/盗用していて、特に格別の考察を加えているとは見えないので、新説として独創性を頌えることはできないと思う。
 むしろ、先例を伏せて独創性を訴えたと見られる論調は、先人の功績を踏みにじるとのそしりを招きかねない。

 以上、今後の活動の際の戒めとしていただければ幸いである。

□季刊「邪馬台国」誌の不手際
 それにしても、懸賞論文としての審査に於いて、「選外佳作」、「公開不適」と判断したのに、欠点を是正せずに、稚拙な体裁のままで、多数のページをいたずらに浪費して、掲載誌を膨満させた醜態を掲載した編集部の不手際は、かなり深刻だと思うのである。

 「浪費」の一端は、行間ツメなどの当然の編集努力を怠って、それでなくても希薄な論文をさらに希薄に引き延ばして、雑誌刊行のコストを引き上げ「邪馬台国」誌の財政を悪化させた点にも表れている。雑誌編集部は、文字内容だけ吟味していればいいのではない。雑誌の紙数を勘案し、投稿者に制限を与え、必要であれば、部分を割愛して雑誌の体を保つのも、編集実務である。筆者が、指定に従わない、締め切りを守れないときは、断固落とすべきである。今回は、何ともお粗末であった。

以上

2024年11月25日 (月)

新・私の本棚 塩田 泰弘 『「魏志倭人伝」の行程と「水行十日陸行一月」について』 3

私の邪馬台国試論 - ふくおかアジア文化塾
九州を知る アジアを知る ふくおかアジア文化塾  2024/07/14
私の見立て★★★★☆ 堂々筆致。疑問点のみ 2024/11/25

◯始めに
 本稿は、長年堅実な考察を呈示されている塩田泰弘氏の最新論考であり、古代史に関し重厚な「日本通史」を刊行されている河村哲夫氏主宰サイトの掲載記事であり率直な批評に値すると考え、端緒として瑕瑾を言いたてています。

*また一コマの疑問文
 「魏志倭人伝」に記されている行程は、「郡より倭に至るには、海岸に循って水行し」となっており、「水行」から書き始められている。帯方郡からその南方面にある海外の国々に行くには、帯方郡の主要な海港である海州が出発点となる。ここが「水行」の起点であるが、その前に帯方郡治から海州までの行程がある。この行程は陸路で約860里(約74キロ)である。
 「魏志倭人伝」は、三国時代の歴史を記述したものであり、これを読む主な対象者は晋の朝廷の官人や知識人である。晋の出先機関である帯方郡内のことである帯方郡治(郡役所)から海州までの行程を「魏志倭人伝」に改めて記す必要などないのである。

 氏の誤解は、行程が「水行」から始まるとの勘違いである。史記以来の正史行程記事に「水行」がないことは、古代史書に通暁している渡邉義浩氏の確認である。従って、史官の行程記事語彙にない「水行」を不意打ちで起用すると、不法であり、厳罰であるから、ここは、行程本文でなく「従郡至倭」は郡から一路南下で倭に行くが、後出する「渡海」は、海岸循「水行」と理解いただきたいとの予告である。
 行程記事は、陸上街道に決まっているから、説明を加えずに、東南方向に街道を進むのである。司馬遷「史記」以来の正史行程記事に「水行」がないことは、一般人の知識を超えているが、先行史書である司馬遷「史記」、班固「漢書」の該当部分を検索すれば、確認できるので、渡邉氏の見解を理解できない方は、自力で検証頂けば良いのである。
 ついでに、塩田氏の誤解を正しておくと、帯方郡は、後漢代に設立された「郡」であり、現代人の思う晋の「出先機関」などではない。「魏志倭人伝」は、東夷として初見の「倭人」の身上書であり、「三国時代の歴史」などと言う異常な史書ではない。陳寿「三国志」全六十五巻の写本は、当然読者が限定されていて、「官人や知識人」などという正体不明の不特定多数の読むべきものではない。ある意味、司馬晋の国家機密に類するものである。

 そもそも、中国語で「水行」は、河水など河川を渡船で渉(わた)るのであり、中原人の知らない海(うみ)に乗り出して、沿岸で無く「沖合い」を移動することは「絶対に」有り得ない。
 二千年後生の無教養な東夷、つまり、現代日本人読者は、そんな禁則を知らないから、「普通に」「すらすらと」、「海岸に循して水行」を、「いきなり航行」と理解してしまうが、それはまたとない「誤解」であり、一発退場である。

 ついでながら、行程記事の主要部分は、郡が皇帝に報告したものであり、「郡倭万二千里」の総道里は、当然、それ以前に「郡」が策定したから、後世の陳寿は、一切関知していない。よろしくご記憶いただきたい。
 ちなみに、范曄「後漢書」東夷列伝「倭条」には、後漢霊帝期(帯方郡設立以前)の記事として、倭王の居処「邪馬臺国」は、楽浪郡を去ること万二千里と明記されている。後世の読者は、ここで「邪馬臺国」を刷り込まれるから、後代の「魏志倭人伝」の記事は、「倭条」に欠けた部分だけ補充して、相違点はゴミ箱入りである。そのため、暗黙当然の「倭条」優先教条(范曄ファースト)が、巾をきかしているのである。

 韓国西方が「海」であるから「海外」は山東半島である。見当違いである。「倭人」は、帯方南の「大海」中の山島に在るから、「海」は関係ないし、「海外」も関係しない。
 「海州」は高麗の新地名と見える。確認乞う。(魏晋南北朝以前に用例なし)

(2)「水行十日」の行程
 前述したとおり「魏志倭人伝」に記載されている数値は、約5倍に拡大して認識するように仕組まれているが、この観点から「水行十日陸行一月」を考えてみる。まず、「水行十日」である。「水行」は帯方郡(海州)から末羅国までで、この間の所要日数が「十日」ということである。

 「水行」に関する重大な誤解から、この部分以下の遠大な議論は、すべて空転である。既述のように、「水行」は、狗邪末羅間の三度の渡海を渡河に例えたものであり、渡船自体は半日仕事にしても、乗り継ぎがあるので総計十日としたのである。
 例えば、対海国北端の海港に到着しても、南下街道などないから、軽舟に乗り継ぎ、南島国治で狗邪以来の行程が一段落する。ここから南下した一大国は内陸交通で北端海港から国治に参上するだろう。
 以下、末羅国に渡海するが、上陸し国治に参上した後は、倭地の「街道」を「陸行」して伊都国に到るから、伊都国で、主要行程は完結するから、以後の主要行程に水行はない。

 と言うことで、全工程の内、規定に従う半島内行程と末羅国上陸以降の倭地行程が、当然の陸行である、半島内は魏制の街道であるから、規定で乗馬ないしは馬車によって着着と移動し、毎日、宿場で食事と寝床があるが、末盧国以降は倭地径で駕籠や輿の移動になり、移動速度は格段に低下したはずであるもちろん、伊都国に到る倭地行程は、魏制街道ではないものの、市糴(荷物輸送)の為、適時保全されていたし、野宿では無かったが、牛馬が利用されていないし、荷車も無かったと見えるから、とにかく、人手頼り、人海戦術であった。平時、郡からの文書便は、本来騎馬文書使が送り継ぐのであるが、倭地では、人手に頼るしかなかったと見える。

 だから、倭地の行程が何百里というのは、所要日数を示していないから、規定としてまるで意味がないのである。

                         以上本項の終わり

新・私の本棚 塩田 泰弘 『「魏志倭人伝」の行程と「水行十日陸行一月」について』 2

私の邪馬台国試論 - ふくおかアジア文化塾
九州を知る アジアを知る ふくおかアジア文化塾  2024/07/14
私の見立て★★★★☆ 堂々筆致。疑問点のみ 2024/11/25

◯始めに 
 本稿は、長年堅実な考察を呈示されている塩田泰弘氏の最新論考であり、古代史に関し重厚な「日本通史」を刊行されている河村哲夫氏主宰サイトの掲載記事であり率直な批評に値すると考え、端緒として瑕瑾を言いたてています。

*また一コマの疑問文
 「魏志倭人伝」に記す帯方郡から邪馬台国に至までの行程に関する記述は、上述のとおり漢字が羅列されているだけで、段落や文節の区切りなどはない。このため、どの漢字を以て次の文の始まりとするのか、どの文がどの文を受けての記述であるのかなどは読み方によって異なるのである。

 何とも感心しない。氏は、三世紀史官でない二千年後生の無教養な東夷であるから、致し方ないだろうが、ご自分の見識に引き寄せるのは感心しない。
 漢文は、古来、漢字が縦書きで続き段落や文節区切りが無い。当然、同時代「教養人」は史官書法を正解できたのではないか。後学中国人は、句読点を足し、附注解釈している。読者が白文を読めないとの逃げは、先賢兄姉の名言の引き写しで氏の責任でないとしても不出来である。釈然たる論考を望むのである。

*『「魏志東夷伝」の距離感』
 ここで、「魏志倭人伝」及び「魏志韓伝」の距離観について述べておかねばならない。「魏志倭人伝」は、帯方郡から邪馬台国までの行程について詳細な里程を記している。しかし、この里程については、信用できない、虚妄の数字であるとの批判がある。それは「魏志倭人伝」における国から国までの行程に記された里が、①魏・晋の当時の里と比べてはるかに短いこと、②「魏志東夷伝」の[中略]扶余、高句麗等の国々の国の広さや国邑間の距離等は、当時の魏・晋の里を使っていること、③「魏志倭人伝」における国から国までの里数も現在の距離に換算すると、同じ里数であっても実際の距離はまちまちであることなどがその理由となっている。

 やり玉は「風評」である。氏は、「白文」に対する私見に対し、過去多様な風評を提示するが、提示者も「風評記事」の引用もなく氏の所感だけである。読者は、塩田氏の所感に対する批判しか許されないのだろうか。
 「信用できない、虚妄の数字である」の断定的風評の根拠が不明である。
 ①魏・晋の当時の里と比べてはるかに短いこと、と断定的であるが、衆知の如く、「魏・晋の当時の里」を示す公式資料は提示されていない。
 ②「魏志東夷伝」の[中略]扶余、高句麗等の国々の国の広さや国邑間の距離等は、当時の魏・晋の里を使っていること、
 既に、「国の広さ」は里数の里と違い面積単位と明示されている。以下同文。
 ③「魏志倭人伝」における国から国までの里数も現在の距離に換算すると、同じ里数であっても実際の距離はまちまちであること
 意味不明な御意見で、現在の距離に換算とおっしゃるが、「実際の距離」も「まちまち」も、要するに当時の「里」が不明では、換算しようがない。この一点があやふやでは、論証になっていないのではないか。
 溯って、伊都国までの本行程は、一千里単位の概数であるのに「詳細な里程」とは、意味不明である。
 それにしても、これら三項目は、いずれか成立すれば、全体が有効なのだろうか、それとも、一項目が不成立の時、全体が無効なのだろうか。

*取り敢えずのまとめ
 一般論であるが、論考で提示すべき論拠は、一項目で充分であり、数多いのは、それだけ不確かと見られるのである。時に、「蛇足」と諷されるのである。
 臆測を持って風評を評価しても、結論が出るはずがない。
 ちなみに「距離感」とは、絵画などで奥行きを感じさせる技法であり、このような場で登場すると「蛇足」となりかねないので、御自愛いただきたい。
                         以上本項の終わり

新・私の本棚 塩田 泰弘 『「魏志倭人伝」の行程と「水行十日陸行一月」について』 1

私の邪馬台国試論 - ふくおかアジア文化塾
九州を知る アジアを知る ふくおかアジア文化塾  2024/07/14
私の見立て★★★★☆ 堂々筆致。疑問点のみ 2024/11/25 

◯始めに
 本稿は、長年堅実な考察を呈示されている塩田泰弘氏の最新論考であり、古代史に関し重厚な「日本通史」を刊行されている河村哲夫氏主宰サイトの掲載記事であることから、率直な批評に値すると信じて、その端緒として「瑕瑾」を言いたてています。

*「魏志倭人伝」の行程の躓き石 段落引用 (榊原英夫氏著作の誤用は[引用略]不掲載)
 次に、「魏志扶余伝」から「魏志濊伝」までの5国と「魏志韓伝」及び「魏志倭人伝」の2国の広さと戸数を比べてみる(表3、図5)[引用略]
 国の広さは、高句麗と韓を比べると、高句麗は方2000里であるのに対して韓は方4000里で2倍であるが、地図で見ると高句麗の方が広い。また、戸数と人口についてみると韓と倭は、高句麗などに比べてはるかに多い。国の広さや戸数と人口の数値も韓と倭は、その他の国に比べて、はるかに大きいことが分かる。里数と同様に5倍くらいになっているとみられる。試みに韓と倭の戸数、人口を5分の一にするとほぼ釣り合うように見える。
 ここは、世上溢れる読み囓りの揚げ足取りでないことが御理解いただけるように、段落ぐるみで引用している。一瞥すれば、氏の勘違い/躓き石が読み取れるが、もちろん、御当人は、軽々と飛び越えているつもりと見える。

*国の広さ
 肝心なのは、氏自身が、「方二千里」「方四千里」を、二倍の差異と見ている(正解している)点である。ついで、『「地図」で見て、高句麗の方が広い』と見ているのが残念である。同図が、如何なる資料を根拠に描かれているか銘記されていないので、異議のもって行き所が判然としない。先ずは、三世紀当時、「両国」の領域に関して確たる史料はないから根拠のない風評の類いと見える。中国の郡国の境界は確定しているが、東夷では戸数管理された農地以外は、大変不確かと見える。要するに、「国の広さ」を問うにしても、東夷の諸国では、農地開発が進まず、農地は、ごく一部という認識が必要である。
 と言うことで、帯方郡、楽浪郡の管理下と見える高句麗、韓国の両国すら「国の広さ」は不明で論じられないと思われる。更に言うと、「」「倭人伝」から見て、倭の「広さ」は全く不明であり、実戸数も「未確認」である以上、論じられない。この辺り、氏は、当方の言う「正解」のとば口で立ち止まっていると見える。

*「方里」は面積単位~類例のない卓見
 要するに、氏の示された『「方二千里」「方四千里」は、広さ、つまり、面積単位であり、「方四千里」は、「方二千里」の二倍の広さを示す』、「方里は面積単位」との類例のない(と見える)卓見を、再確認いただきたい。端的に言うと、榊原氏の作表を技術思想を理解しないままに取りこむのではなく、以上で指摘した『道里の「里」と面積の「方里」の混在』という不合理/誤解を理解いただきたかったものである。
 ことのついでに言うと、魏志東夷伝には「人口」など一切書かれていないので、安易な時代錯誤に染まらないように御自愛いただきたいものである。

*取り敢えずの纏め
 と言うことで、当段落の結語である「韓と倭の戸数、人口を5分の一にするとほぼ釣り合うように見える」との御意見も、韓国の戸数、人口が明記されていない以上、一段と根拠を持たないと思われ、大変残念である。

                         以上本項の終わり

2024年11月20日 (水)

新・私の本棚 刮目天一 ブログ記事公開質問への回答 補 1/3 補追

                                 初稿 2020/06/27 補充 2023/02/05, 2024/11/20
 本件、貴ブログで公開質問いただいたので、対して公開回答いたします。
 九州王朝説は古代史の躓き石だろ(^◇^)

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯始めに

 貴ブログを折に触れて拝見しているのですが、それぞれの記事の貴見の元になっている史料の「史料批判」が、大抵の場合、よくわからないので、安易な批判を避けています。要は、大抵のご意見は、どんな根拠でそのような理解に至ったかよくわからないのです。
 今回も、折角時間をとっていただいたのに、貴質問の趣旨が今ひとつわからないので、小刻みに回答いたします。

 まず、小生のブログ記事は、別に川村氏の人格攻撃でなく、また、氏の国内史料基点の論考の筋道を非難しているものでもないのです。むしろ、確たる基点から進めているにしては、事実誤認や時代錯誤が目立つので、丁寧に字数をかけて指摘しているものです。

 また、学術論であれば、批判対象の「九州王朝説」の全貌を確認した上で展開すべきです。ここは、末節である古代史書の評価基準を論難しているようですが、それは、「九州王朝説」批判と言っていいのか、大変疑問です。

 小生のいう「躓き石」は、「大丈夫」(巨漢のこと)が気づかずに踏み越えても、子供が大けがする邪魔ものを言うのです。要は、間違った、きたない言葉を、後世を担う子供達に伝えたくないから、延々と、全国紙記者や公共放送担当者に対して、うるさく警鐘を鳴らしているのです。趣旨をご理解いただけていますでしょうか。
 世人に警告するなら、どこでどう躓くのか、具体的に指摘しなければなりませんが、川村氏は、気づいてないのでしょう。

 と言うような事どもは、議論しても進まないので、隋書「俀国伝」の史料解釈に挑んでいるわけで、川村氏非難でないし、氏の信奉する諸説そのもの非難でもないことを繰り返します。

*各論展開
 と言う事で、ようやく、貴兄の見解に対応できるわけです。

*海路の愚~たっぷり、どっさりの贅沢
 まず、貴兄は、長野氏を「古代海洋技術の専門家」と崇めて、無批判で称揚していますが、在野の史論家の判断としては、賛成できません。
 掲示の新書は、小生の書評記事において、著作の論理を細かく見通した上で、延々と難点を摘出し、手厳しく『虚偽(フェイク)の塊、「全体として悪書」』と批判していて、貴兄と評価が大きくずれているので、この際、貴見に従うことはできません。
 なお、「古代海洋技術」なる無法な新語は、太古以来の典拠に無く、古代史論には、一切通用しません。用語の時代錯誤には、目立つものも、目立たないものも合わせて、くれぐれもご注意ください。言うまでもないのと思うですが、「海洋技術」自体が、何の事か意味不明でもあります。
 また、長野氏が、無造作な憶測の根拠とされている「日本書紀」は、少なくとも、当分野、つまり、中国史料の史料考察では、史料として全面的には信頼できないとして保留しているので、これもまた議論の俎上には載せられません。史料批判で門前払いです。いえ、見当違いというのですから、見当の合う国内古代史論で、十分な史料批判の上、見当が合うように補正してから、出直して頂きたいものです。

 と言う事で、折角のご批判ですが、誠に恐縮ながら、六世紀末、ないしは、七世紀初頭、瀬戸内海を、隋から渡来した帆船が易々と航行したとする根拠は、一切いただけなかったと考えます。「易々と」というのは、見たことも聞いたことも無い大型の帆船である隋使船を案内して良いほど、「万に一つの失敗もない」、と言う意味です。何しろ、隋皇帝の使者を遠路はるばる招請しようというのですから、「多分」、「恐らく」では済まないのです。
 要するに、まずは、陸上街道には、万に一つも「難船」「難破」の危険はないのに、わざわざ命がけで船に乗るのが理解できません。中原人は、山東半島までは、安全、安心な大地を行く街道行程であり、竹斯国まで(倭人伝でいう)万二千里の大半が、海船の船酔い地獄行程を、死ぬ気で、とは言え、命を全うして無事乗り切ったのに、不沈大地を離れる危険に取り組むことが理解しがたいのです。
 隋使裴世清は、武官なら、軍命達成に命をかけたかも知れませんが、堅実を旨とする(最下級)文官文林郎であり、「使命を確実に果たして、無事帰国報告することが至上命令」ですから、命(いのち)を惜しんだと思うのです。

 言うまでもありませんが、小生が述べているのは、数多くの難所があり、日々の漁で海況に慣れている地元漁師の手漕ぎの小舟ならいざ知らず「吃水が深く、幅広で、舵の効きが悪い」と知れている(東夷の目からみて、途轍もなく)大型の帆船は、無事通れない(可能性が大変高い、せいぜい、絶対安全とは言えない)というのであり、反論には、難所を残らず解消したとの明確な論証が必要です。信用できない著者(長野氏のことです)の漠たる発言や伝聞や史料を盾に取るのではなく、信じるに足る論証/論拠を提示いただくようお願いします。(いえ、「後悔日誌」でも「航海日誌」でも、具体的な文献史料を提示いただけば、それで十分なのです)

*無法な悪書~無頼派の台頭か
 因みに、長野氏への重大な難詰は、史記、漢書から魏志に至る中国「正史」に一切登場しない「海路」なる無法な用語を振り立てて、無法、無意味な推論を繰り広げている点です。善良な読者に、未検証の生煮えの作業仮説を麗々しく飾り立ててばらまくのは、無法です。
                                未完

新・私の本棚 刮目天一 ブログ記事公開質問への回答 補 2/3 補追

                                 初稿 2020/06/27 補充 2023/02/05, 2024/11/20
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 九州王朝説は古代史の躓き石だろ(^◇^)

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。


*悪書論再び
 小生は、熟読の結果、長野氏は、古代史分野において、無知で無神経な論者であると見ているのです。「正史」に「海路」が登場しないのは、当時、そのような不法な概念がなかった、つまり、「海路」制度は無かったのです。自稿批判なしに、独善を書き立てて出版したところに、「言ったもん勝ち」の悪辣さを感じたのです。
 とにかく、なぜ、魏晋代以来、官制として確立された半島内陸路を行かないのか、納得のいく説明がないのです。
 同書は、史論書として余りにも無残なので、別途書評をご確認いただきたい。

 私の本棚 長野正孝 古代史の謎は「海路」で解ける 1/9

*まぼろしの大和川遡行
 河内から大和に入る大和川遡行は、過去記事で確実に否定しているので、貴見には従えません。大和川は、漕ぎ登れる流れではないのです。勿論、帆船などは論外です。また、難所では川沿いは段差のある崖で、曳き船もできないのです。
 丁寧に言い足すと、当該河川流路は、奈良盆地西部の壺口から流下して今日で言う柏原市に至る際に、浅瀬の荒瀬を通過しているので、荷船が通過できなかったのは、周知なのです。
 ついでに言うと、もし、大和川において、淀川水系のように河川交通が成立していたとしても、急流、浅瀬のある流域で登り舟など論外なのです。何とか、下り船で何とか荷を運んだとしても、帰り船ができないので、帰途は、船を担ぎのぼることになります。繰り返しになりますが、大和川のように傾斜の厳しい渓流では、途方もなく大変な負担になります。
 もちのろん、東西両方向が下りだったら、浅瀬以外の区間では、楽勝この上もないでしょうが、この世に、両方向下り坂の道路がないのと同様、両方向が下りの船便などないのです。
 ちなみに、同地域には、船越伝説があって、難所の手前で、船ごと陸上に持ちあげ、担ぐなり、何なりして、峠越えすることになっていますが、川船と言っても、船体は相当の重量なので、人海戦術と言っても、途方もない労力です。そんな勿体ないことをしなくても、船荷を小分けして、担いで峠越えすれば、ちょっとした汗かきで済むのです。奈良盆地側がどのような状態であったか、説明がないので不明ですが、もし、小振りの川船で纏向まで運べるとしたら、好きなだけ船体を用意しておけばよいのであり、夢の「纏向運河」まで、曳き船するなり、漕ぎ登りすればよいのです。もっとも、その間、高低差のある経路を持ちあげるのは、大半が船体の負荷なのでする。ここが、下り流路だったら楽勝なのですが、二千年前も今も、纏向は高みのあるので、登り流路の水運という、もっとも、非効率的な形態とならざるを得ないのです。
 ここでも、小分けして担いで行く方が、随分、随分合理的なのです。

 敬愛する森浩一氏や直木孝次郎氏のような、実務、実証を重んじる考古学者諸賢が、貴兄と同様の大和川観に陥っているのは誠に残念ですが、諸説に誤りがあれば、率直に指摘するのが、私淑の表れと見るものです。

 持続的に実施可能な業態としては、旧流路の大和川を、河内湾から漕ぎ登った荷船は、終点柏原の波止場で荷下ろしし、そこからは「痩せ馬」部隊が、小分けした荷を背負って、けもの径(みち)ならぬ人みちを登ったでしょう。

 話しの流れに戻ると、お戯れとしか言いようのない、数百人どころではない武装軍兵が、小型の漕ぎ船に分乗し、大和川急流を漕ぎ上る図は、到底あり得ない戯画と考えます。言いくたびれるのですが、画餅ですらないのです。
 行軍に際しては、必要であれば、訓練された工兵が山林を伐採して桟道を設け、時には、船橋を敷いて、とにかく徒歩で行軍するのが、兵法の大原則であり、山があっても、軍道を切り開き、時間をかければ、乗り越えられるものなのです。そして、流れに身を浸して川を渉るのは、重大な軍律違反なのです。

*生駒暗(くらがり)峠の矢戦
 司馬遼太郎氏の少年期懐旧談で、生駒山暗峠西斜面の田んぼのあぜ道には、石鏃が結構な数埋もれていたそうですから、峠越え軍を頂上から射すくめたようです。いずれかの時代、つまり、後世に、両軍に妥協が成立して、往き来が始まったでしょうが、要するに、川筋が「通商」の道の総てでは無いのです。

*主流の木津経路
 ちと余談めきますが、近隣で漕船運航があり得るのは、傾斜も流れも緩やかな大河「淀川」水系です。小生のお勧めの進軍路は、淀川を比較的大きな船で遡行して最後は、南に木津の船溜まりに至り、以下、奈良盆地には、比較的背の低い「なら山」越えで、奈良盆地北部の後の平城京域に入るものであり、以下、起伏と川筋はあるものの、平地続きで、盆地中南部に至るのに、「特に難関は無い」というものです。特に支持者のない素人談義ですが、労少なくて功の多い妙策と勝手に見ています。
 折角のご意見を聞き流しているようで恐縮ですが、この批判を提示するまでに、それぞれの議題でかなり資料を読み込んでいるものとご理解ください。

*無縁の「邪馬台国」正当化
 次ぎに、ご教示いただいている「邪馬台国」論ですが、小生は、隋使来訪で言えば、敵の目的地は「竹斯国」であり、ここに腰を落ち着けて探偵したと隋書を読んでいるので、「倭人伝」誤記論などは、お呼びではないのです。
 因みに、隋書は、「俀国」について、「魏晋代以来中国と交流を続けていた」、つまり、「倭の後継と明記している」ので、「倭」は、変わりなく九州北部と認識していたことが明示されていると考えます。自然な流れであるので、「九州王朝説」など、本来は必要ないのです。伊都国は、蛮夷でありながら「都」を称した不敬が、北朝隋の逆鱗(げきりん)に触れて、改名したのかも知れません。

*裴世清談義
 川村氏は、隋書の「竹斯国から東に十余国を経ると海岸があるのを知った」との明快な記事を、「海岸の津(海港)から渡船に乗った」との断りもなしに途中寄港の説明もなく「長期間を経て海上移動でどことも知れない河内湾岸に着いた」と解釈していますが、これは、隋書の解釈でなく、千年後生の無教養な東夷の「創作」です。あるいは、書紀編者の政治的な創作かも知れませんが、今日支持されているのは、千年後生の無教養な東夷の誤謬です。

*信じがたい疎漏
 いわゆる「通説」の解釈では、隋使が、延々数ヵ月に上ると思われる長距離移動の顛末を、すっぽり書き漏らしたと決め込まれいますが、裴世清は、文林郎、つまり、図書館司書の役所(やくどころ)であり、職業柄、公文書を熟知していた「物書き」であったので、不用意な書き漏らしなどしないのです。まして、未踏の敵地で、何ヵ月も費やして遠路遙かに移動し、困難な寧遠任務を果たしたという一大功績を、逆粉飾して何も書かないはずがないのです。
 帰国時に、そのような疎漏を提示していたら、隋使として不行き届きと譴責され、文字通り馘首されていたはずです。当然極まることですが、隋使一行には、お目付役、監査役がいて、克明に記録を綴っていたので、正使が勝手なホラ話を書いても、通用しないのです。又、煬帝が、報告書を査読しないわけは無いのです。古代/中世の中国の叡知を侮ってはなりません。少なくとも、煬帝は、愚鈍、怠惰では無かったのです。
 ちなみに、「書紀」に記録されているところでは、裴世清は、鴻臚寺掌客」、つまり、文官として最下級の「未開で無礼な蕃夷」の世話役であって、「天子が蕃夷に国書を送るはずなど到底有り得ないのに幻の隋帝国書を持参していた」とされていますが、裴世清官位の錯誤、国書携帯の虚構は、同書の記事全体が、何らかの虚構に基づく創作であることを明示しています。
 一部で、書紀記事は、当時の権力者の指示に従って「隋書を参照して書き上げた」とする意見があるようですが、少なくとも、隋書「俀国伝」に背を向けた内容であることは明らかですから、見当違いの臆測に過ぎないのです。  

                                未完

新・私の本棚 刮目天一 ブログ記事公開質問への回答 補 3/3 補追

                                 初稿 2020/06/27 補充 2023/02/05, 2024/11/20
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 九州王朝説は古代史の躓き石だろ(^◇^)

 *加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*隋使の達成すべき使命
 仮定として中国側が、俀国を「九州北部の手近な場所でなく、遠隔の地と見ていた」のなら、其の地に至る行程を書き漏らすのは、皇帝への抗命であり、他ならぬ「煬帝」に対してそのような抗命をしては、「ただでは済まない」のです。最悪、使節団一同全員死罪であり、皇帝の意向次第では全員の妻子も皆殺しになるのですから、裴世清一行は無意味な抗命などせず、着実に使命を果たしたのです。隋書を原文に忠実に解釈するというのは、そこまで突き詰めることです。

*川村氏論考への感慨
 以上、丁寧に書いたので、できたら川村氏ご自身の批判を受けたい位です。
 ただし、川村氏は、日本書紀という国内史料を、深く、深く読み込んで、そのように解釈すると、とうの昔に決めて鉄壁不動の信念としているので、その理路に従うなら、そのような隋書解釈が正しいことになるのですが、小生は、隋書、さらには、「倭人伝」しか論じていないので、川村氏の国内史料規準の隋書解釈には同意できないのです。小生の論は、その辺りを承知の上で、事実誤認、時代錯誤を説いています。
 就中、論戦での批判対象誤認について、気づいていただきたいのです。

◯苦言・諫言
 最後に、貴兄は、「文献にあることをバカ正直」に信じることを強いことばで蔑視されますが、この手の発言は、たっぷり「おつり」が帰ってくるので損だと思います。一度、慎重に考え直していただければ幸いです。
 「まずは」文献読解に努め、外部資料は厳格な史料批判を経るというのが、素人の学ぶ道として古代史学の唯一の正道と思いますので、ご意見には同意しかねます。貴兄が、持論の古代史浪漫を絶対視して、邪魔になる議論は、何から何まで棄却するというのでは、中々諫言もできないのです。

*安本氏見解観~言葉の継承について
 そうそう、途中で、安本美典氏の「倭人伝から奈良大和への原語継承についての学術的見解」を転送されていますが、安本氏の新著と被引用書を読む限り、安本氏は、自任されているように、史学者、つまり、あくまで学問の徒であるから、確実な根拠なしに断言せず、(私見ですが)「三世紀九州の言葉と後世の大和の言葉が、遠大な距離と数世紀の時間を経て、文字記録に頼らずに繋がっていると見たら、依拠されている論議が正しいと判断できる」との趣旨による、条件付きの大変慎重な見解と思います。誠に士誠と言うべき学究の姿であり、安本氏の賛嘆すべき本領と見えます。(別記事あり)
 貴兄は、安本氏の発言を「引用してない」ので、斯くなる私見は、的外れかも知れませんが、憶測するに、安本見解のパッと見にとらわれて、前提条件をすっ飛ばしていているように見え、厳密な引用ではないものと思量します議論は、貼り付けた著書表紙の惹句では示せないのです。

 世にある「馬頭(ばとう)星雲」を無難に避ける方法が見当たらなかったので、回答が遅れましたが、貴兄の指摘を受けて、すぐさま同書を買い込んで念入りに読んだ上の意見です。貴兄にとって不愉快な言い回しになったとしたら、それは、小生の文章表現の至らぬせいであり、御寛恕下さい。この程度の論者と見限って、諦めてください。

*最後に
 以上、貴兄の心情と食い違うので、ご不快かも知れませんが、少なくとも、古代史分野では、「文献」を深く理解するのが、第一歩であり、たとえ、不快な見解でも、いちどは、死んだ気にでもなって、説き伏せられてみることが必要かと思います。

 自分はどうかと言われそうですが、守り切れない自戒の言葉とお考えください。当方は、一介の電気技術者骨董品で、史学専門家ではなく、あちこちで「素人」と触れ回っているので、くれぐれも誤解しないでいただきたいものです。

                                以上

                  臣隆誠惶誠恐,頓首頓首,死罪死罪。

2024年11月12日 (火)

新・私の本棚 井上 よしふみ 季刊邪馬台国137号 「卑弥呼の墓は朝倉の山田にあった」 1/1 三新

【総力特集】邪馬台国論争最前線 
私の見立て ☆☆☆☆☆ 不得要領意味不明のジャンク   2020/01/30 2024/01/27, 02/27, 10/21, 11/11 

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇駆け抜け書評
 筆者は、幻覚境にあるのか、意識が穴だらけ、躓き石だらけなのか、栄えある記念号の誌面を汚しています。言い方がきついのは、自著の提灯持ちの商用文」と見られるからです。合わせて、このようなお粗末な「エッセイ」(論文)を審査せずに生のまま掲載している編集部に警鐘を鳴らしたいからです。

〇粗雑な用語管理 「論外不作」の態
 大事な冒頭部分、枕で、著者の粗雑さが露呈しています。「初見」、つまり、「国内史料初出」とぶちかまして、いきなり「書紀」「斉明天皇条」(斉明紀?)で誤記/誤解奮発です。朝倉山・朝倉社と書きつつ、直後、『朝倉に朝倉山と朝倉神社が「ない」』と断言です。「朝倉社」が神社かどうか証されていないのに無頓着なのでしょう。

 そもそも、「朝倉に」なる朝倉はどこなのでしょうか。また、何かが「ない」とは、何を根拠に言うのでしょうか。どんな資料を引いたのでしょうか。捜索範囲の記録にないと言っても、実際に「なかった」と言うには、随分証拠不十分なのです。また、初見の「草書殺字」は、井上氏の「理論」に初対面の読者には、殺生です。
 これで当エッセイはゴミ箱入りです

*意味不明、独りよがりの地名談義
 と言うことで、読者をほったらかしの地名談義は、当ブログでは「全然無視」です。

*混迷の「魏志倭人伝」「撰述」談義
 何がそうさせたのか、「倭人伝」談義は支離滅裂です。「本文」とわざわざ言う意味が不審です。「固有名詞」に出所不明の発音を当てはめた「借字」と言うものの、初見の「借字」は、新参の読者にして見ると趣旨不明であり、「倭人伝」冒頭の「帯方」と「韓国」は、どこから来た借字なのか、なぜ、公式と思える著名地名に対して誤字山積というのか、理解困難(不能)です。

 なぜ、「倭人伝」が『最初から「正史」と思われがち』と談じたか,「ガチ」で不可解ですが、誰も、一片の「倭人条」が「正史」であるはずがないと思うでしょう。すくなくとも、最初の陳寿「三国志」は、裴注以前であるから簡潔であったとしても、山成す大部であり、皇帝が上覧後に『「座右」に置いたはずはない』というか、せいぜい、置いたかどうか知るすべはありません。貴重な国宝的な原本は、公開の場に放置すべきものではないはずだからです。
 また、どの時点から「倭人伝」二千余字が正史とされたかの解明もありません。当時、陳寿「三国志」全巻は、司馬遷「史記」全巻、班固「漢書」全巻に列なる、第三の正史の全巻とされていただけであり、世間に出回るべきものでなく特に、混同を避けるために「正史」と定義する必要もなかったでしょう。

 因みに、陳寿生家は蜀地であり曹魏首都雒陽付近にはありません。随分杜撰な校正です。

*一日にして成らず
 「楷書が隋、唐で正式書体になった」のありがたいご託宣は、一応聞き置くとして、隋初から唐末まで四世紀あまりあるので、どの時点か、明記してほしいものです。
 また、何をもって楷書「未確立」と決め付けるのかよくわかりませんが、公的(?)に確立されていないだけで、紙上筆書が普及すると共に、楷書前身書体が実用に供されたかと愚考します。なお、公式史書は「実用書」などでは絶対にないのです。「当時の資料は一切現存せず、当時の資料を読んだものも誰も現存しないので、確認しようがない」と言うのは、古代史学界で出回っている惹き句なのですが、当ブログ筆者は、それなりの見識を持っているので、とてもついていけないのです。

*陳寿遭難
 三国志編纂四年間は、途方も無い勘違いでしょう。魏志、呉志、蜀志、それぞれ、構想~編纂完了は別々であり、また、陳寿が全ての書記を行ったとは思えないのです。特に、大半が呉史官の手になる呉書の編纂期間は、知るすべがないのです。
 もちろん、三国志編纂は、陳寿が一人でやってのけたものではないのですから、人海戦術で手分けして取り組めば、期間短縮はできたとしても、最終段階は、陳寿がその手で書き付けていく以外に無いので、五年どころか十年かかっても不思議はありません。云うまでもありませんが、陳寿は任官していたので、在職していた担当部署に「出勤」しないと、給与(粟)を受け取れなかったものです。
 編纂の間、不眠不休で、国志編纂に専念/没頭/苦吟していたわけではないのです。氏は、どのような日々を送られているか知りませんが、官吏は用務繁多なのです。
 陳寿が草書らしき「達筆」で草稿を綴ったとすれば、誤字解消に十分対策を講じたでしょう。また、行間に意を込めた自筆稿を自身で誤読するとは思えないのです。史官をそんなに見くびるものではありません。

 「邪馬台国」談義で、許慎「説文解字」の引用に当時存在しないアルファベット表記は重大な錯誤でしょう。まして、カタカナ表記は愚の骨頂です。

*卑弥呼の墓 掃き溜めの鶴か
 最後、唐突に「卑弥呼の墓」比定ですが、こんな雑駁なエッセイで発表するような半端な事項ではないはずです。勿体ないことです。
 数万、数十万(多い、少ないでは、余りにも不明瞭で議論にならないので、数値らしきものを提示します)の関係者が頼りにしている筈の「畿内説」纏向王宮説の大楼閣が根底から覆る主張です。まるで、中東古代の英雄サムソンの神殿崩しの荒技です。ここで示されたように、半人前の論者が「大楼閣」に喧嘩を吹っかけても、相手にされずにゴミ箱入りになるか、お呪い代わりに桃種満載の土坑に放り込んでいただけるか、たぶん前者が分相応でしょう。
 ちなみに、「卑弥呼の墓」 は、「魏志倭人伝」に、一切書かれていない時代錯誤です。書かれているのは、小規模な「冢」(ちょう)、あるいは「つか」であり、「倭人伝」記事で見る限り、せいぜい、直径15㍍程度の小ぶりな土饅頭です。一方、NHKもお気に入りの「畿内説」纏向王宮説の大楼閣は、 所謂「前方後円墳」であり、縦方向200㍍に及びそうですから、寸法比で10倍以上、用地面積で、150倍程度、労力の指標になる用土の要領で言うと、2000倍にもなる大差ですから、比較などできないという所でしょうか。
 卑弥呼の「冢」の探索に関しては、これら両極端の中央と言うか、所謂「前方後円墳」直径150㍍程度の円墳という有力な提言があり、用土で言うと、1000倍程度ですが、近来、有力な論者である刮目天一氏が、候補となる大規模な円墳を提言しています。
 井上氏の思いつきは、どの分類に属するのか不明であり、単に、所在地を提唱されても、せいぜい、ゴミ箱入りが精々でしょうか。

 今回は、折角タイトルに提示したものの、延々と導入部で与太話を流し続けたので、読者の意識はそっぽを向いていて、この場で何を主張しても、またもや夢想かと解釈され、お話として多少面白くても、とても信用できないどころか、まともに耳を傾ける気にならないのです。其の意味では、自滅エッセイでしょう。

〇結語
 やはり、本エッセイは、選外佳作どころか立派な「論外不作」であり、読者が本誌の該当ページを不良品として送りつけたら、版元は、品質保証として、その分返金すべきものでしょう。いや、ただの冗談ですが。

 念のため言うと、本号の各記事は、ここまで徹底的に無残な出来ではありません。本号全体の評価は、私見では★四個なので、安心して購入してください。

                                以上

2024年11月 9日 (土)

新・私の本棚 番外 英雄たちの選択 追跡!土偶を愛した弥生人たち~1/2

 縄文と弥生をつなぐミステリー 2019/12/04 NHK BSプレミアム
*私の見立て ★★★★☆ 旧悪を雪ぐ好番組     2019/12/19, 2024/11/09

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

□駆け足批評
 いや、当番組の展開は、あまりに画期的なので、当方の感想をそのまま公開して良いかどうか大変迷ったのです。いや、番組全体の流れに大きな異論はありません。あくまで、隅っこをつつくだけです。

*NHK軽率史観の是正
 まずは、従来のNHK歴史関連番組で展開されていた素っ頓狂な呪文が述べられています。「大陸から伝わった水田稲作と青銅器・鉄器を特徴とする弥生文化が、瞬く間に、縄文文化を席けんして、弥生時代が到来したというのが、これまでの通説でした。」これは、NHK自身の解説の丸写しです。(NHKの著作物の適法な引用です)

 いくら何でも、こんな馬鹿げた「通説」がいつまでも通用するわけはないので、これは、NHK制作陣の妄想でしょう。自分で妄想を描いて自分で揉み消すのもおかしな話ですが、マスメディアというのは、そう言うものです。

*磯田流早とちり連発
 例えば、高名な磯田道史氏が、MCとして教科書の図示を嘲笑していますが、とんだ見識違いです。縄文時代から弥生時代への移行が、「一本の線」で区切られていておかしいと言いますが、画面で見る限り、描かれているのは結構太い線であり、それを、百年の幅とみるか、千年の幅とみるか、いずれにしろ、結構な期間を要したという表現であり、作意がちゃんと読み取れないとしたら、是非、小学校から勉強をやり直してもらいたいものです。
 氏は、江戸時代の古文書の考察で大を成していますが、図やグラフの見方は、小学校以来、随分やり残しているということです。
 因みに、グラデーションなどと気取っても、地域によって大差があるのですから、合理的に塗りようがないのです。大事なのは、読み解く方の知性であり、図形認識には、感性も要求されるのです。

*ものの交流は双方向
 それはさておき、対照時代の世相について、西から東への文明の流れしか見ていなかったというのは軽率です。西から東にものが流れるだけでは、世の中は成立しません。ものが流れるのは、交易の長い鎖を伝うのであり、一つ一つの流れは、何かと何かの交換で成り立っていたのです。
 つまり、西から東に銅器が流れるとしたら、対価として何かが逆方向に流れたとみなければなりません。経済学はなかったし、価値観は、時代地域で異なったとしても、物の道理としてただでは何も得られないのです。いや、見合った価値と双方が認めない限り、その場で相対での交換が成立しないのです。
 その一つが安産のお守りであったろうし、他にも、遺物として残らなかった何かがあったろうというものです。それにしても、古代史談義で、ネットワークとは、素っ頓狂でけったいな話です。問われたのは、どうやって知り、どうやって移動したかというのですがね。

*NHK歴史観治癒の妙薬
 そういう意味では、今回の番組は、従来のNHK歴史番組によって視聴者に植え付けられていたであろう安直な史観を、少しでも健全なものに戻すのかも知れません。子供も見ているのですからね。

                                未完

新・私の本棚 番外 英雄たちの選択 追跡!土偶を愛した弥生人たち~2/2

 縄文と弥生をつなぐミステリー 2019/12/04 NHK BSプレミアム
*私の見立て ★★★★☆ 旧悪を雪ぐ好番組     2019/12/19, 2024/11/09

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

□浮かび上がる合理的な考古学史観
 以下は、言うならば、行間、紙背から浮かび上がる古代史の史観です。

*まほろば史観絶賛
 弥生文化博物館秋山浩三副館長の意見が炸裂します。「近畿は西日本と別だ」発言は、日本全土が、瞬時一様に時代を歴たとの「通説」に堂々と異を唱えます。いや、話題は河内圏であり、奈良~河内圏一帯一路で近畿と括っていると思いますが、奈良盆地は、西の河内圏との間の山地が防壁となるまほろば/壺中天で、西方との交流が乏しく、さらに「別」、つまり、西日本全般の進歩から随分取り残されていたとみられるのは承知で断言したと見るのです。
 ここで、弥生と縄文の平和共存と一口に片づけていますが、弥生で紛争が起きるのは、稲作の水争い、土地争いですから、稲作に手を染めていない縄文人は弥生人と抗争することは少ないのです。それを全近畿の後代まで敷衍するのは不審です。

*九州先進説確認
 次に、九州北部の進展について、歴博教授にして古墳考古学の権威と目されている専門家松木武彦氏から駒澤大学教授寺前直人氏と連携でそそくさと発言があり、九州北部は外来船舶で文物流入が多く進展が急で、抗争が多くなったと総括した所から、先の断言の史観が裏付けられます。
 それにしても、中国などからの外来文物が、天地の果てと言える近畿まで伝搬するには、数か月、数年、十数年、数百年の時が必要なのは自明ですから、先の発言も、宜(むべ)なるかなと思われます。

*唐突な九州行き詰まり説
 さらに、九州で水田耕作の平地が限定され抗争を招いたとしていますが、壱岐、対馬の耕作地事情を良田不足と明記している「倭人伝」が、末羅国上陸後は、一切そのような泣き言を書いていないのを見ても、三世紀当時、北九州に耕作地不足は見えなかったと思えます。人口過密で粗暴な心理状態になるとは途方もない言いがかりです。案ずるに、玄界灘沿岸の後背地として、筑後、有明海沿岸もあり、成長限界は先と思われます。因みに両地区は山地で隔てられてはいません。
 卒爾ながら、人口増加は、土地の風土、特に農作の好不調に左右されていて、食料不足であれば、人口増加は抑制されると見えるのです。

*隠された憶測で断定思考~乞う ご再考
 それとも、松木教授は、専門外の中国正史の解釈で遅れを取っているのか、「倭人伝」戸数記事の俗読み派で、倭地全体を、どうも十五万戸程度らしいと勝手に目算したためでしょうか。合理的な解釈では、北九州に拡がる倭地全体は、せいぜい七万戸らしいと「明記」されているとの読みもあり、俗読み派の目算のほぼ半分となるのです。戸籍不備の遠隔地である投馬国が、期せずして最大になっていて、これは、どうやら、域外の四国、中国らしいとの疑惑が拭えない上に、戸籍不備では、どうも五万戸らしいかな、という程度のものですから、これも、憶測の根拠にすらならないのです。それにしても、「倭人伝」に対して不審を掻き立てる戦略のはずが、なぜ、戸数についても怪しげな異説を持ち出すのか。不可解です。
 冷静に考えて、「倭人伝」に従うならば、「倭人」諸国は、中国太古の「国邑」並で千戸代の小ぶりな集落であると明記されていて、そのような国状と、数万戸の戸数は、明らかに整合しないのですから、その点を言いたてて、七万戸という想定戸数は、信用できないと考えるのが、適正な史料批判と見えるのです。目先の論争で有利になるために、史料解釈の視点を左右に動揺させるのは、信用を無くすのではないでしょうか。
 口に出せない憶測で、強固な推定を行うのは、時間感覚の混沌も含めて、身勝手な主張と思います。一度、根底から考えなおしていただく方が良いでしょう。失礼ですから、「不勉強」とは言いませんが、そのような事情は承知のはずの松木教授が、断定的に三世紀ならぬ、遙か以前の時代の耕作地不足を言うのが不審です。おそらく、神がかりで口走ったのではないかと思われます。かたや、近畿が平穏なのは、当時覆い隠しようのなかった過疎状態の故でしょうか。それにしても、大問題としたいのは、端から出遅れていて、進展もはっきりと遅い近畿は、いつ、どのようにして九州を追い越したのでしょうか、と言う素人の質問です。

*奈良湖と竹ノ内峠
 仄聞するに、同時期の奈良盆地は、西南部に湖沼が残存し、まとまった耕作地が取れなかったようです。更に進歩が遅れても不思議はありません。現に、巻向地区の公道は、まずは河川氾濫で起伏の激しい低地を避け、山地下部の等高線沿いに曲折の多い「山辺の道」が設けられように見えるのです。時代の進行で、奈良湖は干上がり、纏向(遺跡)付近の平地は、多数の労力を投入して均されたでしょうが、それはいつのことだったのでしょうか。(三世紀当時、現地は、生きた古代集落で、「遺跡」でなかったと愚考するのですが、頑固に「遺跡」呼ばわりする方がいらっしゃるので、追従しています)

 また、素人の限られた見聞でも、奈良盆地から西方への街道は幾つか存在したと門外漢にも知られています。
まずは、幾重にも重なったつづら折れで竹ノ内峠を越えた経路です。最初の古代街道は、そうでもしなければ、荷を背負って越えられない、途方もない山越え難路だったのです。俗説では、地図上の直線距離だけ見て、容易な輸送路と称している例が少なからずありますが、一度、提唱者自ら、そこそこの荷を背負って、早朝発進の前提で、登坂の容易さを実証いただきたいものです。
 別の俗説が決め付けているように、大和川沿いに適当な沢道がずらりとあれば、同地域で最初の公的街道に起用されたでしょうが、古代も今も、現場には騎馬走行できるような道どころか、普通の体力の人が難なくたどれるような道は、作れない(かった)のです。
 つまり、古代の大和川を上り下りする河川運送もなかったのです。渓流の遡行には、側道からの曳き船が不可欠であり、漕ぎ手が何人いようと自力で名うての早瀬の急流を遡行することなどできなかったのです。こちらの俗説も、提唱者自ら、実証漕行されたらいかがでしょうか。

 従来、遺跡、遺物に年代が書かれていないことから、考古学界としては、(西)日本全般の進歩をほぼ同一歩調とみていたようですが、その拘束が解かれると斬新な史観が見えてきます。

 いや、以上のような個人的な番組解釈を公開すると、発言者に不都合が生じるかとも思ったのですが、報道は報道であり、学問的な論証はされていないので、当方も、個人的な感想として提示するものです。

*まとめ
 本番組は、行間、紙背を含めて、NHKが、久々に報道機関としての機能を全開にした好番組と見るのです。

 これを契機として、当方の受信料も受けとっていただいているはずの公共放送ですから、たちの悪い全国一律紙芝居は、ご勘弁いただきたいものです。

                               以上

2024年11月 8日 (金)

新・私の本棚 ブログ批判 刮目天一 「卑弥呼の墓はどこ?」(続報)1/3 補追

私の見立て ★★★☆☆ 奮闘真摯 初掲2024/07/06 *当家2024/07/16, 11/08

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇外野見解の弁
 国内古代史分野で麗名の刮目天氏にはさぞかしご不快と存じますが、中国史料解釈のドロ沼での苦闘を見ていられなくて、口を挟んで支援しようとしているものです。

*部分引用御免
卑弥呼の墓の場合、何故「塚をたくさん作った」が間違いなのかをもう少し捕捉します。この場合、奴婢の墓まで言及する理由がないからです。倭女王卑弥呼の墓の説明なのです。もしも墓域に奴婢が葬られていても、墓域の大きさまで説明する必要はないので、「径百余歩」は女王卑弥呼の塚の大きさだと分かるのです。つまり直径約150mの円墳が卑弥呼の墓ということになります。その中に奴婢が入っていようがいまいがです。径には「さしわたし」という意味があっても、冢(ちょう)は土で覆った塚のことで、径百余歩とあれば円形の塚のサイズですから直径のことですね。もしも長方形の墓ならば、縦・横のサイズを書くか、正方形ならば方百歩と書くはずでしょう(^_-)-☆

*外野コメント
 横からくちばしを挟(さしはさ)む無作法をお許しください。
 論敵氏は、決め付け話法で「用例を無視して勝手な解釈をする」とご高説を賜っていますが、提示用例は「多数の、つまり、複数の造船所に指図して盛大に造船する事例」であるから、ことさらに「数多く」と解釈できても、現下の事例は「女王」の掛け替えのない「冢」を造墓する話ですから、粗製乱造できないのです。要するに、提案いただいたのは、話が揃っていない「無効な用例」です。造成対象は一個の「冢」ですから、「数多く」との解釈は、自動的/決定的に排除されます。
 文意読み不足の「用例」談議は空転です。

 また、「女王」葬で「徇葬」者は参加者でしょう。俗に「殉葬」と改竄読みして、さらに「百人埋殺」と読むのを好む野蛮な「改竄派」が結構いらっしゃいますが、同時代史書から「殉死」は礼制に反すると排斥されていますから、浅慮早計でしょう。
 勝手に「用例」を創造する文章芸術は場違いです。野蛮な「改竄派」に、当ブログは、自己防衛以外の場合は、極力関与しないので、おやすみになっている方を邪魔しないように、しずかに退席されることをお勧めします。

 外野席からの応援になったでしょうか。

*「太平御覧」所引「倭人伝」談議~余談
 些か余談ですが、失敗例であげやすいのは「太平御覧」所引「倭人伝」(所引魏志)です。
1.女王死大作冢殉葬者百餘人
 所引担当「所引者」の文書考察が未熟で「殉葬者百餘人」はお粗末です。豊富な史料を参照する現代研究者は、「徇葬」が原文と確認できますが、大唐滅亡、長安混乱後の五代時代初期「所引者」は、時代相応の劣悪な級外写本に頼ったと見えます。

2.又南水行十日陸行一月至耶馬臺國
 それ以前、道里行程記事で、「所引者」は、「魏志倭人伝」記事での「到伊都国」と行程括りに気づかず、「又」の連打で、子供じみたべたべた解釈に陥っています。
 果ては、「又南水行十日陸行一月至耶馬臺國戶七萬女王之所都其置官曰…其屬小國有二十一皆統之女王」と書いて、投馬国からさらに南に「耶馬臺国」があると「明解」です。「所引者」は、先行史書の西域、東夷などの夷蕃伝の道里行程記事の知識に欠けていたので、後で「周旋五千里」と参照される主行程五国わき道として書かれて戸数の「はけ口」になっていた余傍「三国」の峻別/見わけができていなかったと見えます。
 一級史料である「魏志倭人伝」の編纂者は、減縮して「邪馬壹国」行程を維持したのに対して「所引者」は「耶馬臺國」と劣化した「級外写本」に頼ったと見えます。

 南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月官有…可七萬餘戶
 「所引者」は、まことに無教養で、班固「漢書」の読解を怠っていて、三世紀当時、蛮王に「都」はない』のに気づかないで、水行十日陸行一月が(投馬国から)女王居処までの所要日数と勘違いしたのです。誤謬積層です。「倭人伝」道里行程記事の真意は、「到伊都国」との括りに着目して、郡から倭まで「水行十日陸行一月」と見るのが明快であり、見なければ、陥穽に落ちるのです。この分岐点は、ことさら丁寧に評価すべきでしょう。「所引者」は、一つの重大な失敗事例であり、この際の失敗事例を克服することが、正解への「明るい」道なのです。
 さらに、「可七萬餘戶」の主体が理解できず、「戶七萬」が「耶馬臺國」の戸数と誤解しています。ここでも誤謬積層です。要するに、「所引者」は、奴国二萬、投馬五萬」で「併せて総戸数七萬」との陳寿の「概数計算の明解な論理」「明るい」道しるべを見過ごしています。

                                未完

新・私の本棚 ブログ批判 刮目天一 「卑弥呼の墓はどこ?」(続報)2/3 補追

私の見立て ★★★☆☆ 奮闘真摯 初掲2024/07/06 *当家2024/07/16, 11/08

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*外野コメント 承前
 一級史料は、読者に計算させない配慮なのですが、級外史料が読めなかった「所引者」は、戸数不明の泡沫諸国と戸単位の諸国と二萬、五萬の二国、そこに、正体不明の七萬を足して、総計十四萬戸とも十五萬戸とも不明の「巨大な蜃気楼」を映し出しています。
 これは、半ば余談ですが、九州説に反対する論議の最後の拠り所は、「そのような140,000戸に垂ん(なんなん)とする大国は、北九州地域に絶対収まらない」と言う「伝家の宝刀」であり、以上に示したように順当に解釈すると、その「拠り所」は、雨散霧消して蜃気楼ほどの存在感もないのです。

 
陳寿が、そんな「騙し討ちの記事」を提出したら、三世紀の高貴な読者に叱責されたところです。既定総戸数七萬戸を温存しつつ『牛馬がいないから各戸農地は狭小で、また末羅から狗邪の「水行」軽舟は米穀輸送できない』明示して、倭人諸国に対して、郡からの食料供出が及ばないようにしましたが、千年後生「所引者」は、そんな台所事情を知るはずもなく、幸い、「所引者」誤解の副産物で、投馬、耶馬臺二国が遠方に比定されたことから、食料徴発の懸念は薄らいでいます。

 このように、二件の誤解釈は世上溢れる名解釈の由来ですが、陳寿の「魏志倭人伝」上申以来千年近い乱世が介在し、「所引者」は、適確に史書解釈できないようです。
 一体に、原本確定後に、史官の教養が維持・継承できなかった乱世が数世紀に亘ったため、原本テキストの解釈は経年変化で失われ、読みかじりが蔓延ったようです。時代を隔てると加速度的に誤解が増えると認識する必要があります。

 「魏志倭人伝」の場合、直後の劉宋史官裴松之すら、ほぼ同一行文と思われる魚豢「魏略」以外に有効な別資料を持たなかったのですが、さらに数世紀を経た無教養な「御覽」の「所引者」は暗闇を進む風情であったと見えます。史料批判に精通した方に言うまでもないでしょうが、裵松之と同時代の笵曄「後漢書」東夷列伝「倭条」は、根拠となる資料が不確かで空白となっていて、笵曄は、陳寿「三国志」魏志東夷伝から趣向を凝らして転記している
どです。基本の基本ですが、笵曄「後漢書」東夷列伝「倭条」は、よほど精査した上でなければ、「魏志倭人伝」と対比することはできないのです。

◯「径百歩」の一説 (百歩[ぶ]は面積単位)
 刮目天氏は、怜悧なかたですから、「径百歩」について、現代幾何学風の解釈を提示しています。
 
 ということで、ここでは、御不快を恐れず、真っ向から、論理的な提案を進めています。
 先ずは、古代の数学教科書で、官人を目指すための必須科目であった「九章算術」から見て、「方百歩」は、一辺一歩の方形面積「方歩」を銘記しています。ただし、「九章算術」 は、専門書であることから、単に「歩」(ぶ)と書くだけであり、現代風にいうと「百平方歩」と、文脈から判断できるのですが、御理解いただけますでしょうか。
 つまり、
「径百歩」は、「方百歩」用地内の円形「冢」と見え、三文字であって、現地の用地、冢墓計測に適確な寸鉄表現と見えます。陳寿は「物書き屋」ですが、現地報告書に「書き記されていたであろう」情景を、三文字に凝縮し見事な文飾と見えます。その場にいなくても理性的に考察すれば、精確に理解できるのです。
 ついでながら言い足すと、卑弥呼の冢は、単なる土饅頭であり周辺に水壕など設けていないのです。これは、国内流の壮大な墳丘墓が、宏大極まる水壕を持っているのと別世界の墓制です。
 言うまでもなく、刮目天氏は、国内流の水壕付き墳丘墓を想定しているのではないのですから、以上は、少々言いすぎになりますが、外野席も多少意識して、敢えて、言い過ぎに踏みこんでいるのです。

 あたりまえのことを言いたてるのも、外野席向けの言いぐさです。外野席が想定する立地条件で言うと、現地は、ため池を必要とする少雨地帯であり、宏大な水壕を維持するためには、給水、排水の用水路が必要であり、また、取り巻く水壕から墓地内への浸水を防ぐためには、厳重に遮水土手が必要なのです。これが、南方の熊野山地に近い地域であれば、年間を通じて、ある程度の水量が得られるでしょうが、そのような好条件を離れた地理条件は無視できません。なお、盛り土した上に墓室を設ける構想なら、浸水の予防は不要かも知れませんが、それは、地下に棺を埋葬する「冢」の定義を外れるので、史官の文章として不都合なのです。
 そのような、重大な欠格事由を除いても、ますます、宏大な土木工事が必要であり、そのような未曽有の大事業が行われたとは、一切書かれていないのです。いや、世上の墳丘墓派は、聞く耳を持たないでしょうが。

 但し、以上の解釈に従うと、女王の冢は、せいぜい直径15㍍(冢の直径は、度量衡系で十歩)となりますから、お気に召さないかたが大変多いでしょう。

 「倭人伝」先行段落で、「冢」は「封土」、小振りの土饅頭と明記されているので、高貴な読者には、女王の「冢」は、質素な蕃王に相応しい、手ごろな大きさと予告された記憶が真新しいのです。つまり、「物々しい用例検索」は要らず、史官によって端的に「薄葬」が賞賛されていることになります。「物々しい用例検索」となると、荷車で書庫から先例資料の山を引き出すのですが、肉体労働は官奴がこなすにしても、大部の史書「巻物」を繰(く)って、用例を検索するのは、高貴な読者に対して過酷と云われかねないので、妥当な策としては、読者の知恵袋が即答できるものに留めるか、直前に、ほどのよい伏線を敷くものなのです。

因みに、「方百歩」を一辺百歩の方形と見る架空の単位系
は、面積が「辺」の数値の二乗に比例する』ので、加算計算による集計ができず、土地台帳の実務に「まったく」適さないのです。算木による一桁数値の計算が大半であった時代、用地/農地台帳の面積積算ができないのでは、ものの役に立たないのです。

*方里伝説確認
 復習すると、「倭人伝」道里記事に見られる対海国「方四百里」、一大国「方三百里」は、どちらも、一里四方の「方里」を単位とする面積表現であり、両国が、土地台帳の「方歩」を集計したものと見えます。当然、どちらも、一里四百五十㍍の普通里ですが、現代地図上で見ると、些細なものに過ぎません。要するに、両国の占める島嶼では、農地として耕作できる土地が希少であり、かつ、公称している戸数に比べて、割り当てられる農地が狭い為、想定されている収穫が少ないことを示しているのです。「良田」とは、割り当てられた農地を、戸の構成員、主として成人男女が牛犂で耕す前提ですから、牛耕できないなどの理由があれば、「良田」に規定された収穫ができないということになります。

 これは、東夷伝の高句麗「方二千里」、韓国「方四千里」に付いても同様であり、普通里で集計すると、農耕地は全領域のごく一部にしかならないと主張しているのです。
 隣国である韓国は、山岳、渓谷がたいへん多いので、灌漑の可能な農地が少なく、したがって水田稲作が成立しがたく、即ち、収穫が獲れないのです。
 水田稲作は、農地を言わば流水で洗浄して連作障害を除いているので、連年稲作が可能ですが、灌漑が不十分で水田稲作ができない場合、陸稲で稲作を連年続けると、いずれは病害が起きるのです。その意味でも、韓国といえども、灌漑が不十分な農地の収穫は、大いに制限されるのです。要するに、樂浪、帯方両郡は、中原諸郡と比べると、面積あたりの収穫、つまり、税収が格段に少ないと示しているのです。

 いや、刮目天氏は、ほぼ国内専科なので余り関心はないでしょうが、「方歩」「方里」の定義を精確に確認すると、地域「短里説」すら生存できなくなるので、世間では中々受け入れられ
ないのですが、少なくとも、韓国の「方七千里」を、一辺七千普通里の「方」と読み取って、宏大な領域を想像するのは、却下していただいた方が良いのですが、それが、卑弥呼の「冢」の「徑百歩」に及んでくると、意義を唱えざるを得ないのです。

*「卑弥呼墓所」の一説
 当方の密かな意見は、偶々、古田武彦氏と遭遇していて、須玖岡本遺跡の「熊野神社」説です。墳丘墓でなく「封土」であったものの、ひっそりと残され、手厚く思慕されたので、末永く後世に残ったものと見えます。おそらく「卑弥呼」が、子供時代から巫女を務めた氏神の境内に安らかに眠っていると見えます。
 ということで、刮目天氏の持論に大きく逆らうのですが、女王の「冢」は、150㍍級の堂々たる円丘でなく直径15㍍程度の「少し大きな土饅頭」と思うものです。この程度であれば、近隣の手伝い、徇葬百人程度で十分と見えます。石積み無しでも風雨は凌げそうです。
  当ブログは、主として、『「魏志倭人伝」の正確な評価による単機能専門論議』の場所であり、「卑弥呼墓所」の比定には、特に深くこだわっているものではないのです。

                                未完

新・私の本棚 ブログ批判 刮目天一 「卑弥呼の墓はどこ?」(続報)3/3 補追

私の見立て ★★★☆☆ 奮闘真摯 初掲2024/07/06 *当家2024/07/16, 11/08

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯曹魏の薄葬改革
 曹魏創業者曹操は「宰相」だったので、当然、没後造墓ですが、生前の指示に従い墓所を秘したのです。文帝は、天子として即位したので、生前造墓の「寿陵」を薄葬とし、大規模な動員は控えよとしています。そのような曹魏の墓制に従うと、明帝曹叡に遣使した女王の墓は、魏制に従い慎ましいものであったとみるべきです。
 先に挙げた曹操、曹丕の薄葬指示は、霊帝没後に破綻した後漢の礼制に対する重大な非難なのです。霊帝没後、西方涼州から蹶起した董卓は、雒陽周辺の後漢諸帝と王族の墳墓を暴(あば)いて、遺骸を放りだし副葬されていた宝物を奪い、後漢帝都雒陽を棄て、長年廃墟となっていた長安に遷都したのです。
 曹操は、その時期、墓泥棒に手を染めたこともあるようですが、壮大な墳墓、豪華な副葬品など無意味と知っていたので、自身の墓址については、薄葬とし、かつ、墓所を秘すように指示したのです。曹操墓所は、現代に「発見」されましたが、さすがに、二千年の期間に侵入者があって、若干の副葬品は奪われても、大規模な破壊的盗掘を免れたようです 。方や、西晋司馬一族の墓所は北方異民族によって破壊され、南朝諸王朝の王墓も、隋の南朝討伐の際に破壊されて、結局、曹魏草創期の墓所しか残っていないのです。

*大規模墳丘墓の非礼~ゴミ箱予備軍
 以上の見方でわかるように、三世紀の「中国」、つまり、「中原」に「天子」であった曹魏の礼制では、墳丘墓の造成は、礼に反するものだったのです。
 ということで、壮大な墳丘墓は、曹魏の墓制改革を知らない後漢時代の遺風/蕃風であり、所詮、「中国」を知らない蛮夷の慣わしだったのです。東夷の墳丘墓時代、中原は、数世紀に及ぶ戦乱のただ中であり、いわば、国が破れて散乱していたのですが、宗教という点で言えば、南北両朝とも、仏教が支配的であり、中後在来の礼制、墓制は、退潮していたと思われますが、それにしても、古来、春天の時節に祭天礼の場とされる「円丘」を、あろうことか半球状の「墳墓」にして、更に、秋天の時節に祖霊をまつる「方丘」を括り付けるなど、東夷の蛮行は特にとがめ立てされなかったということです。
 長年、東夷として独自の世界を構築していた百濟と高句麗は、始祖が天下りした創世神話を持っていて、自尊心を高揚していたのですが、大唐が天下を平定したときは、分裂時代に横行した履歴もあって、天子を踏み付けにしかねない「敵国」とみなされ、撲滅されたのです。
 世間には、大規模墳丘墓は、威勢の誇示であったと早合点しているかたが結構多いのですが、魏晋代の「中国」文化/世界観から見て、始皇帝、漢武帝に連なる「非礼」なのです。大唐に討伐されなかったのは、高句麗、新羅、百済の壁が守ったのであり、また、後ればせながら、墳丘墓を撤回したからでもあります。
 いや、ちょっと余談が過ぎたようですが、この項目は、目障りとしたら読み流していただきたいものです。

*引用ふたたび
そして、重要なのは、何度も言いますが、魏志倭人伝の卑弥呼の墓にピッタリの三柱山古墳があり、その周囲に様々な卑弥呼の関連物や伝承があるからなのですよ。(^_-)-☆
だから、他に卑弥呼の墓の有望な候補はあるのですかと最初にお聞きしたのですよ。あれば、比較検討すれば、どちらが有望か分かりますから(;^ω^)
それから、書かれたものと事実(考古学や民俗学などの成果)に違いが存在する場合は事実に従うべきです。文書は政治的な目的で真実が書かれていない場合もありますから。

追加コメント
 ”事実(考古学や民俗学などの成果)”を、ことさらに規定した論義は、刮目天語に従えという御指示でしょうが、同意できません。

 歴史学(historical sciences)が扱うのは、時の彼方に消え失せた太古の「事実」に関する太古の報告や推測の文書記録であり、失われた「事実」を知ることは「絶対に」できないのです。特に、二千年前には民俗学も考古学もなかったので、古代史料を、そのような現代概念で調べても、刮目天氏のおっしゃる「事実」は、知るすべがないのです。そして、遺物/遺跡考古学は、文字史料もなく、墓誌も、墓碑もない墳丘墓では無力なのです。

 この辺りの誤認を考察の基点と置かれていては、いくら明晰な頭脳をもってしても、史学「問題」(question)に、題意を見通す解答(answer)を出すことはできないのです。いや、当方は、刮目天氏の信条に異を唱えているのではなく、率直な疑問を呈しているだけです。

 ちなみに、古代史官にして見たら、「政治的な目的」など、二千年後生の無教養な東夷の造語など知ったことではないので「馬の耳に念仏」でしょう。当代随一の「浪漫派」史家と尊敬している刮目天氏には、三世紀史官の同時代に通じる言葉で、論証に挑んでほしいものです。

◯まとめ
 以上、あまり援護にならないコメントでしょうが、「倭人伝」は、三世紀当時、唯一無二の文書史料であり、「万策尽きた」上の原文改竄の前に、科学的、合理的な解釈のもとに、史料批判を尽くしていただければ幸いです。
 
                        余言無礼御免 頓首頓首 以上

新・私の本棚 番外 サイト記事検討 刮目天一 「【驚愕!】卑弥呼の奴婢は埋葬されたのか?(@_@)」 1/1 補追

【驚愕!】卑弥呼の奴婢は埋葬されたのか?(@_@) 2022-06-16  2022/06/20 補充 2024/07/04, 11/08

*加筆再掲の弁

 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに

 本件は、兄事する刮目天氏のブログを題材にしているが、氏のご高説に異を唱えているわけではないのは見て頂いての通りである。氏を批判しているのではないので、末尾のご挨拶は省来たいところであるが、今や、本件の定番なっているので、温存している。ご了解いただきたい。

 本稿は、氏が、野次馬の暴論に対する応接の際に見過ごした躓き石を掘り返しただけである。ここは、第三者の発言内容の批判であり、「倭人伝」解釈で俗説がのさばっている一例を摘発するだけである。こうした勘違いの積み重ねが、混沌たる状況/ごみの山に繋がっているから、ごみを、せめて一つでも減らしたいだけであって、他意はない。

 口調がきつくなっているのは、もの柔らかに語ると、自信がないのかと侮蔑したり、偽善ぶっていると罵倒したり、されかねないので、虚勢を張っているだけである。他意はない。

◯コメント引用御免

卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
卑弥呼が死に、多数の冢が作られた、径100歩に殉葬者の奴婢100余人。
とかの意味じゃないかな。
大作は漢文の用法としては大きく作るじゃなくて多数作るの意味みたい
墳ではなく冢だから小規模な墓が多数作られたんだ。

◯部外者の番外コメント
 発言者は、「改竄」記事に、野次馬の勝手放題の駄言をものしてお気軽にコメントし、刮目天氏は、そのような不規則発言を寛恕で黙過しているために、共感されていると誤解されかねないので、勿体ないことである。無礼で勝手であるが、口を挟んだ次第である。

*「徇葬」正解 
 原文は、「徇葬者」であり「殉葬者」と書いていない。
 改竄記事を論じるは無意味であり、古代史分野に蔓延る「悪習」である。
 「徇葬」は、「魏志」東夷傳では、「扶余伝」が初出のようである。正史では、先例の無い言葉の無断使用は許されないが、「倭人伝」は「扶余伝」で認知された用語の承継と見える。いや、実は、ほぼこれっきりの二例しか見当たらない。

 思うに、「扶余伝」は、前世の記録が洛陽の後漢以来の公文書に書き込まれていたので、「忠実」継承するしかなかったとも見える。「倭人伝」は、近来の持ち込みであり、公文書の体を成していなかったであり、陳寿が、「伝」と言えるものに形成したものと見えるから、同列には扱えないと見える。陳寿ほどの練達の史官であるから、深慮遠望があるはずである。何しろ、現代の野次馬のように、思いつきの書き飛ばしでは、首が飛ぶのである。

 一方,「殉葬」は、先例が非礼・無法である。そのようなとてつもなく「悪い」言葉を、陳寿が、大事な「倭人伝」で、深意に反し、採用することはあり得ない。
 按ずるに、「徇葬」は、葬礼に伴い進むか、夜を徹して殯するか、あるいは、守墓人に任じられたか。「行人偏」の持つ意味は、そのような活動的なものである。いずれにしろ「徇葬者」は生き続ける。女王は讃えられる。

 「殉」一字に、「命がけで信条を奉じる」=「殉じる」との意義もあるが、「殉葬」者は、恐らく意に沿わずとも、間違いなく命を落とす。女王は、正史に恥を曝す。大違いである。意見は人さまざまで、百人の奴婢が生きながら埋葬されたと言う見方も悲惨であるが、所定の儀式を歴てとは言え、いずれかの場所で百人が命を奪われ、遺骸が土坑まで運ばれたという暗黙の了解強制も悲惨である。当時から現代に至る読者が、そのように解釈したら、「倭人伝」は、ゴミ箱入りである。

 これほど意味・意義の違う文字と取り違えるのは、「目が点」で節穴である。但し、この改竄は発言者独創とは思わない。「日本古代史奉祝」党の倭人伝」改竄解読手法の受け売りであるから、褒められないが、時流俗風に染まっただけで非難はできない。誤解が蔓延しているのである。
 それにしても、発言者は、普通は「大いに」と解される「大作」を、どこでゴミを拾い食いしたのか「漢文の用法としては大きく作るじゃなくて多数作る」「みたい」とは、何かの中毒のようであるが、要するに、沢山の意味が考えられるのを承知の上で、「発言者」の好みで、と言うか、「ガチャ」で、そのように解したらしい。誠に、残念である。
 いや、個人の好き好きは、色々あってもいいが、とても、とても、刮目天氏のように寛容な方は別として、普通の論者は、一々つきあいかねるのである。漢文の解釈は、その「文脈」において、どう解釈するのが最善であるかという果てしない「考察」の果てに見きわめるものであり、(二千年後生の無教養な東夷)の中でも一段と半人前の発言者の個人的な好みなぞ、何の役にも立たないのである。
 因みに、笵曄は、後漢書「東夷列伝」扶余伝で、陳寿の東夷伝の諸国条記事と軌を一にしつつ、つまり、敷き写ししつつ「殺人殉葬」、「殉葬」宿痾の誤字/誤解症例を残している。もって瞑すべし。(要するに、後漢書「東夷列伝」は、後漢代公文書を着実に参照しているので無く、范曄創作/誤解を、多々含んでいるのであるが、最終校正、決定版確立以前の段階で、范曄が、大逆罪に連坐して投獄され、死罪に処せられたため、未完成の范曄「後漢書」は、校正の行き届かないままに、劉宋皇帝に没収され、皇帝私物とされてしまったので、諸処に欠点を抱えていても、どうしようもないのである。戯れ事であるが、笵曄「後漢書」は、現在、過去に渉って、誰も読んだものはいないのである。他にもあるが、圏外なのでここでは論じない)

 ついでに言うと、周知の「太平御覧」は、「魏志曰とした所引」段で、「女王死,大作冢,殉葬者百餘人。」としていて、魏志原文の「卑彌呼以死,大作冢,徑百餘步,徇葬者奴婢百餘人」の読み囓り、誤字入りになっている。この通り「太平御覧」は、史料として「並」以下の低質のものなのである。

*「冢」の正解模索 2024/10/21, 11/08 補充
 刮目天氏は、丁寧に辞書に頼るが、まずは、原史料で最前用例を文脈ぐるみで探索すべきと愚考する。漢字一字単位の読みかじりは、余程注意しない勘違いに陥るのである。
 今回のように、二千年後生の無教養な東夷が、気軽に文字を差し違えて/読み替えて「誤解」を発明するのも、その症例である。読替えの「可能性」は無限にあっても、原文の正確な解釈は、一種しか存在しないのである。つまり、このような場合、多数決は無意味なのである。
 読者は、自身の語彙で解明できなければ、「魏志」第三十巻の巻子/冊子の最前用例を遡り、わからないときは座右の「魏志」の山を手繰る。
 四書五経は元より、「漢書」、「史記」など山々の大著を倉庫から荷車で引き出させるのは、陳寿の手落ちとなり不合理である。そうならないように、陳寿は、その場で確認できる用例を書き込んで伏線を敷いている。ここで、藤堂明保氏の名著「漢字源」は、三世紀当時には、まだ存在しないと戯言する。

 「倭人伝」の「冢」は、事前の大家(首長)葬礼紹介で、「遺骸を地中に収めた後、冢として封土する」との趣旨で書いてあり、いかにも、身内による埋葬と思われて、近隣を動員した土木工事とは書いていない。
 発言者は、根拠不明の「漢文用例」を参照したらしく、「徑百歩」の範囲に、「お一人様」用の「冢」を百基造成したようにも読める、あいまいな言い方で笑い飛ばしているが、誠に不謹慎である。
 女王の身の回りの世話をしていた百人の罪のない人々の首を刎ねるのも、無残な話しであるが、それにしても、一人一人の遺骸を丁重に甕棺に収め、百基の墓穴を掘って葬るのは、土饅頭で済ますとしても、数が多いので、途方も無い工事である。だれが百人を埋葬するのだろうか。奴婢には、それぞれ家族が居ただろうに、なんとも、無慈悲なことである。

 ついでに、「通説」に付随していると思われる誤解を正すと、すくなくとも、「倭人伝」に書かれている「奴婢」、「婢」は、単なる公務員であって、別に、「奴隷」となっているわけではない。女王の身の回りの世話をしていた百人の罪のない人々と書いたのは、故ないことではない。「婢千人自侍」とあるのは、官吏、使人、「官奴」とでもいうか、雑用係も多かったはずであり、それぞれ、粟(俸給)を得てそれぞれ家計を支えていたと見えるのである。女王の葬礼で首を切ってその辺りに埋めるなど、ありえないのであり、「倭人伝」には、そのような凶行は描かれていないのである。

 陳寿は、博識無上の史官であるから、そのような大惨劇は、用意に想定できたはずであるが、敬意をもって描いていたはずの女王の小伝を、そのような暴虐で締めくくったのだろうか。随分、疑問の絶えない解釈である。
 そのような遺跡は先例があったのだろうか。無責任な放言は、それ以上取り合わずに、ゴミ箱に棄てることにすべきである。

*卑弥呼の「冢」を求める探索
 本論の女王封土の場合は、多少大がかりであるが、まずは、奴婢百人では、到底直径百五十㍍の「円墳」は造成できない。
 直径150㍍の「円墳」は、直径15㍍の「冢」を規準とすると、用地面積は、100倍であり、到底、先祖以来の墓地におさまらず、女王の居処である「国邑」内に納まらない。また、各戸の耕作している農地をつぶすわけにも行かない。どこか、未開の土地に、墓地を造成するしかないのである。
 仮想されている「円墳」は、盛土の所要量が「冢」の千倍にも達するから、用土の調達にも苦労するのである。俗説では、丘陵地を開鑿したと言うが、その場合は、一旦大量の用土を脇にどけておいて、平坦に整地した領域を掘り下げて、そこに棺を納めた上で、どけておいた用土を盛り上げたことになる。
 用土は、積層して版築で固めるから、女王の遺骸を踏み付けていくことになる。具体的な墳墓葬礼を想定して書き連ねていて、嫌気が差してくるのだが、そのような葬礼は未曽有であろう。後世の墳丘墓は、あきらかに、生前造成の寿陵であり、盛土内に墓室を設けていて、王の遺骸は、大抵の場合、水平方向に移動して墓室内に収容され、入口は、封印されたはずである。つまり、「冢」とは、成り立ちが、まったく違うのである。
 つまり、10倍規模となった墳丘墓は、もはや、「冢」と呼べないのであり、つまり、卑弥呼の「冢」は、徑百五十㍍の「円墳」でなかったのである。
 以上、論証が終わる。
 
 もちろん、「倭人伝」には「墳」と書かれていないから、そのような不合理は、はなから排除されているのである。
 「径百余歩」は、おおざっぱな概数表現であるから、実際は、直径八十歩程度という可能性もある。些細なことであるが、直径が8掛けであれば、用地面積は、ほぼ2/3になり、用土、つまり、盛土の労力は、半分以下になる。盛土/封土は、墓地の位置を示すためなので、版築で固める必要もなければ、石葺きす必要もない。五十年、百年経って、盛土が失われたとしても、その時代まで、女王が尊崇を集めていたら、補修できる程度の規模である。

 そんな風に考察した上で、文献の真意に従った径百歩」(直径十五㍍)は、「普通の解釈」と合わないが、ここではこれ以上は論じない。

*追記
 2024/10/21
 この際、労を厭わずに補足説明するとこういうことである。
 「徑百歩」なる表記は、正史に類例が見られないので、古代の幾何教科書「九章算術」に戻って、深意を探る必要がある。

 先ず、基本となっているのが、「方田」である。ここは、耕作地を、手っ取り早く測量して、その場でかけ算して面積を算出する方法であり、まずは、対象となる田(耕作地であり、水田は想定されていない)の従廣(縦横)を「歩」(ぶ)単位で測量し、掛け合わせて面積を得る計算例(問題と解答)が収録されているが、面積の単位は、そのまま「歩」である。つまり、土地の外形を示す長度単位と同じ「歩」であるが、専門書では混同されないとしても、実用上では混同されやすいので、正史などでは「方百歩」と表示とするのである。
 素人考えであるが、田の縦横を計測して面積計算し記帳するだけであれば、「度量衡」単位である「寸・尺・丈」を適用すれば名解であり、なぜ、一歩六尺などと計算困難な単位を採用しているのか、不審なのである。
 要するに、歩は、頃、畝に連なる「面積系」単位と並行して太古以来運用されていたため、「度量衡」との連係のためだけに、一歩六尺の換算が確保されていたと見えるのである。
 ちなみに、「歩」(ぶ)は、人の歩幅と誤解されるが、実際は関係なく、単に一歩が六尺となっている。簡易表記として、一尺25㌢㍍、一歩1.5㍍として話を進めるが、実際上、概数を使用しても特に問題は無い。
 さて、例えば「方百歩」は、現代風に言うと面積100平方歩であり、「方」は図形の形状を言うのでなく、「面積」という意味を示している。
 つまり、一辺十歩十五㍍の正方形も、直径十二歩十八㍍の円形も、ほぼ同じ面積「方百歩」になる。
 しかし、土地区分で円形は扱いにくいので、土地台帳には、一辺十歩の四辺形に内接する円形の「方田」を「徑百歩」と記帳したのではないかと見られるのである。つまり、「徑百歩」の「冢」は、太古以来の墓制として、まずは、一辺十歩の土地を縄張りした後、その中にある程度の余裕をみて、土地を掘り下げて棺を収めた上で、円形の盛り土をしたと見ると、筋が通るのである。盛り土の外周に環濠を設けると、その分、冢が小さくなるが、「倭人伝」には、環濠や石葺きなどは一切書いていない。
 結論を示すと、女王の「冢」は、先祖以来の墓地の一隅の一辺15㍍程度の方形の土地に設けられた円形の封土であり、女王の世話をしていた奴婢千人の中から百人ほどが集まって、短期間に造成、埋葬したと読めるのである。それが、「倭人伝」記事の流れに沿っているのである。

*「方里」の是正 2024/10/21
 いよいよ、話しの締まりがなくなったが、「倭人伝」にみられる「方三百里」等は、面積表示なので、敢えて、方形に当てはめると、縦六十里、横五十里の土地である。狭くみえるかもしれないが、これは、実際に農地となって耕作されている土地であり、個々の農地は、測量されて記帳されているから、誇張はされていないのである。全土(測量不能に近い)のごく一部に過ぎないのであるが、土地台帳の数字を集計するだけなので、「やればできる」範囲の手間である。以下、委細、別記事に譲る。

*まとめ~用語審議の原則提言
 末筆ながら、用語解釈の基本として、原文起点とし、「最前用例最尊重」の黄金律を提起したい。別に、陳寿を崇拝しているのでも無ければ、趣旨不明のおまじないを唱えているのでも無い。文書起草の不変の原則を述べているだけである。部外者で、専門家の手順を理解できない野次馬は、早々に退場する方がいいのである。
 謙虚に原点に戻ると、粗忽/粗相を避け文章の深意に至るには、文脈の斟酌も、とてつもなく重要である。「倭人伝」論では、失敗例が山積しているので、そう思うのである。

                  余言無礼御免 頓首頓首  以上

2024年11月 6日 (水)

新・私の本棚 御覧所収 謝承「後漢書」佚文 史料批判の試み 1/2 再掲

        2020/07/25 2020/08/30 2022/11/23 2024/11/06

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇概要
 謝承「後漢書」史料批判である小論に於いて、同書には、東夷伝がないと評したところ、以下の史料を根拠に、「東夷伝を備えていた」とみるとのコメントがあり、ポツポツ書きためて反論を試みたものです。

 端的に言うと、同資料は、そのような主張の論拠とならないとの結論であり、以下、考証内容を述べています。

〇史料解釈の原則確認
 史料には、確たる根拠を持って編纂され、適確に継承され、厳密に審査された「一級史料」と、それ以外の雑史料があり、雑史料は厳重な史料批判を要するのです。史料批判されていない雑史料は「ごみ」であり、一級史料批判に参加させてはならないのです。

〇御覧所収記事(御覧記事)
太平御覧 時序部十八に次の記事があります。(中国哲学書電子化計劃)
臘:
謝承《後漢書》曰:第五倫,母老不能之官,至臘日,常悲戀垂涕。
      又曰:沛國陳咸為廷尉監,王莽篡位,還家杜門不出。莽改易漢法令。及臘日咸常言,我先祖何知王氏之臘乎?
又《東夷列傳》曰:三韓俗以臘日家家祭祀。
 俗云:臘鼓鳴,春草生也。

 当記事は、類書(百科全書)「御覧」編纂者が発掘した佚文を掲示し「時序」、年間の季節風物などを記した「時序部」の「臘」なる項目の用例、故事を書き出したものと見えます。

〇臘(ろう)の意義~参考まで
 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 部分引用御免
 [略]臘とは本来、中国において冬至の後の第三の戌の日(臘日)に行なう、猟の獲物を先祖百神に供える祭り(臘祭)の意味である「略」

〇御覧記事解釈
 論者は、謝承『「後漢書」「東夷列傳」』と解しますが、その見方は根拠の無い憶測と見えます。「御覧」で、「又」は、同原典内の小区分か、外部資料か、一定してないので、『「後漢書」「東夷列傳」』との根拠となりません。

 文脈から、謝承「後漢書」は、『外部資料「東夷列傳」』を引用したと思われます。一旦「三韓俗」とし、「又云」でなく「俗云」と書く文脈は不確かです。むしろ、記事全体が、謝承「後漢書」記事であり、東夷用例として『外部資料「東夷列傳」』を挿入したとも見えます。
 つまり、「後漢書曰云々」、「又曰云々」、「又東夷列傳曰云々」の三段構成、あるいは、「俗云云々」を加味した四段構成かとも見えます。要するに、何が何やらわからないのです。

 いや、普通に考えると、この三行は、「謝承後漢書曰」云々に続く「又曰」云々は、引き続き、「(謝承後漢書)「又曰」云々」とあるものが省略されたとしても、依然として「臘」に関する記事なので、「謝承後漢書」としては、別項を立てたとも見うるということです。

〇孤証、それとも不在証明
 そもそも、「東夷列傳」なる夷蕃[伝]が、謝承「後漢書」に備わっていたら、後出史書、類書に多数引用されるはずですが、このように、類例のない孤証となっています。謝承「後漢書」は、東呉系の編纂なので、蛮夷伝には、当時交流が活発であった豊富な西域伝を収録していたはずですが、裴松之が、陳寿「三国志」魏志付注の際に引用したのは、専ら、全文引用した魚豢「西戎伝」だけであり、(存在していれば)先行史料として尊重されたはずの謝承「後漢書」西域伝の引用が皆無なのは、まことに不審です。

 結局、謝承「後漢書」に、夷蕃伝は、全方位で存在していなかったのではないかと見えるのです。と言っても、魏晋代の後漢書稿に蛮夷伝が欠けていても、それは、謝承「後漢書」だけの欠落ではないので、元々、全体として、論議の種になるような蛮夷伝はなかったのでしょう。

 因みに、諸家の中で、袁宏「後漢紀」は、ほぼ全体が継承されていますが、同書は、「列伝」の無い短縮史書であり、東夷伝がないのは、むしろ当然です。また、謝承「後漢書」は、東呉孫権政権下の著作なので、東夷は「圏外」だったのです。

                                未完

新・私の本棚 御覧所収 謝承「後漢書」佚文 史料批判の試み 2/2 再掲

        2020/07/25 2020/08/30 2022/11/23 2024/11/06

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇書かれなかった後漢東夷伝
 後漢書原史料として、後漢東夷管理記録(公文書)が存在していたとは思えません。(個人の感想です。念のため)
 半島南部の荒地を領分とする帯方郡創設時期は、曹操が君臨していた献帝建安九年(CE204)頃とされます。当時、霊帝没後の「大乱」の期間は、後漢の帝国支配は瓦解していて、遼東郡太守公孫氏は、後漢に臣従しつつも自立していたため、帯方郡の東夷管理を後漢帝国に報告していなかったのです。それも無理からぬ所で、皇帝献帝は、雒陽を廃都して遷都した長安が内紛によって混乱したため、長安を脱出して放浪する事態に至っていましたが、曹操が献帝を自陣営の本拠であった鄴城(邯鄲)、ついで、許昌に収容して、後漢皇帝の指令を発信して、大国秩序の再構築を図ったものですが、雒陽、長安には、後漢政府機関が残存していて、それぞれ、皇帝の命令を発信し、各地の勢力は、雒陽、長安、鄴、許昌のいずれが帝国の本拠地なのか、混乱していたようです。ということで、遼東郡太守としては、いずれの「皇帝」居処に従うべきか、決めかねていたようにも見えます。ということで、曹魏が成立し、文帝曹丕が、曹魏皇帝こそ天子であり「雒陽」が「首都」であると宣言しても、大乱が一応収束したものの、東呉、蜀漢の自立は続いていて、混乱は続いていたと見えます。
 したがって、後漢献帝期における東夷に関する後漢公文書は、霊帝没後の混乱のため、秩序だって集成/整備されていなかったと見られます。
 いろいろ考えあわせましたが、謝承後漢書は、「東夷列伝」を持たず、従って、各書は、東夷伝を語る場合、別史料を引用したとみる解釈が、一番据わりが良いようです。

 後漢及び曹魏の政府文書を把握していたと見える陳寿「三国志」魏志によれば、景初二年の司馬懿の遼東討滅で、郡公文書は焼却され、郡官人は全滅しましたが、それに先だって無血開放されたと見える帯方郡に、公孫氏東夷管理記録が存在し、新任太守によって、以後の東夷管理に活用されたようです。

〇范曄「後漢書」東夷伝の由来
 一々考証内容は書きませんが、范曄は、「後漢書」「東夷伝」(倭条を含む)において後漢後期事情を語るに際して、魚豢「魏略」東夷伝と陳寿「三国志」魏志東夷伝の使えそうな記事を、後漢代にずり上げて採用していると見られます。要するに、限りなく捏造に近い、改竄と思われます。好意的に考えると、范曄は、陳寿「三国志」東夷伝が、曹魏公文書でなく帯方郡伝来文書に依存しているのに気付いて、帯方郡ならぬ遼東郡の後漢代文書を想像したものとも見えます。
 要するに、景初の司馬懿遼東討伐の混乱期に、始めて「倭人」が参上したのではなく、先立つ後漢献帝の建安年間に、遼東郡太守公孫氏が、「倭人」を、言わば新来の東夷として認知したものと考察して、それに合わせて、史料を再編したものと見えるのです。つまり、史料の欠落を、時代ずらし、記事補填などの曲芸で埋めたのです。別稿で、范曄が、西域伝に対して行った曲芸を考証しています。
 後漢書「東夷伝」は、ここまでに書いたように、ほぼ欠落していた史料を「美文」で造作して補填したと見えるので、よほど丁寧に考証を加えない限り、史料として採用できないと考えられます。何しろ、欠落していたわけですから、本来の後漢書東夷伝、中でも倭条(倭伝)は存在せず、当該佚文を范曄後漢書と対照して校正することはできないのです。

 思うに、論議している「東夷列傳」は、謝承後漢書編纂時に、後漢公文書から編纂された「東夷列傳」なる列伝、つまり、銘々伝として存在したようであり、魚豢「魏略」も、陳寿「三国志」魏志も、そのような「東夷列傳」を承知していたかも知れませんが、史書として公認されなかったため継承されず、早期に散佚したようです。
 陳寿「三国志」魏志「評」も、雒陽の関係部局が編纂した「西羌伝」の存在は示唆していても、「東夷伝」は、認識していないと明記されていますから、そのような公文書は存在しなかったのです。

〇「佚文」の扱い
 以上論じたように、当該「佚文」をもって、原文が失われている謝承「後漢書」に「東夷列傳」があったとするのは、余りに軽率です。

 正史解釈にあたって、外部資料を参照する際には、まずは、厳密な史料批判の上で、考慮に値する資料かどうか判断すべきです。当然至極の原則ですが、国内視点の古代史学では、(中国)公式史書(正史)の考察に際して、大抵無視/放念されているので、素人考えで指摘するものです。
 具体的に云うと、謝承後漢書自体の写本断簡が提示されたのならともかく、一片の佚文で史料解釈を撓めるべきではありません。

〇『七家後漢書』の解釈
 汪文台『七家後漢書』は、当時残存していた諸所から各後漢書佚文を広く収集した労作であり、下記佚文が収録されていますが、依然として「東夷列傳」を謝承「後漢書」の一伝とする根拠とはならないと見えます。あるいは、太平御覧から用例を収集したものかと見えます。

 《東夷列傳》一(曰):一 (三)韓俗以臘曰(日)家家祭祀。俗云:臘鼓鳴、春草生也

〇結論
 結論として、氏の意見は、史料批判も史料考証も不十分であり、当方の意見を変えるには及びません。

 『七家後漢書』は、悪く言えば、低質の残滓をかき集めたものであり、その努力に感謝するものの、史料として採用するには、まずは厳重な史料批判が必要という事に変わりはありません。

〇念押し
 そもそも、類書である「太平御覧」の記事は、大部の類書の編纂についして収集された「所引」史料の集成であって、原資料の最善写本の正確な引用などではなく、不確かな史料であるので、検証しない限り正史の記事を覆すに足るだけの信頼は置けないと見るものです。信頼を置けない資料に引用された佚文は、悪材料が重責、山積しているので、一切参照すべきではありません。

                                以上

今日の躓き石 毎日新聞の野蛮な野球記事 社会人野球に汚名

                            2024/11/06

 今回の題材は、11月5日付毎日新聞大阪朝刊第14版のスポーツ面を飾る、第7日を迎えた社会人野球日本選手権2回戦の戦評である。ところが、なぜか敗者に罵声を浴びせる記事が紙面をかざっていて、たいへん不愉快だった。

 「NTT東 また力負けとは、敗者を鞭打つ心ない見出しである。ここまで言われるということは、余程弱小チームなのだろうがそれにしても、折角本大会まで進出したのだから、褒め伸ばししてやるべきではないかと思うのである。主催紙は、勝者、敗者それぞれに見どころを探し出して、大会の盛り上げを心がけるものではないのだろうか。
 記事は、NTT東日本が、2年前にやられた仕返しで、今回は血の復讐「リベンジ」を企てていたというのである。この「リベンジ」は、あきらかに中東でくり返されている復讐の仁義なき戦いであって、時にいやらしく言い逃れる「ダイスケリベンジ」ではないのであろう。
 そんな下劣な根性だから負けるのだと訓辞を垂れているのであろうか。

 いや、大会出場の目的が、優勝でなく2回戦で仇を討つ事では、いくら思いが強くても、志が低いから負けてもしかたないとも言える。それはそれとして、スポーツ面一面を飾る記事で、それを「力負け」とは、記者殿は、何様のつもりなのだろうか。

 それにしても、天下の毎日新聞に忌まわしい、汚らわしい「リベンジ」を書き飛ばす記者がいるとは、情けないのである。毎日新聞朝刊のスポーツ面は、子供達の眼にも触れるはずである。撲滅すべき「リベンジ」を、次世代読者に蔓延するとは、どんなものか。これでは、野球界から、この言葉が消えないわけである。「ダイスケ」ひとりが極悪人というわけではないようである。

 以上の難詰は、手厳しいかもしれないが、全国紙署名記事記者に求められるものは、それなりに苛酷なのである。記者は、別に一人きりで放任されているのではないはずである。チームワークで、恥を雪いで欲しいものである。と言うものの、決して、一講読者に「リベンジ」など目指さないでほしいものである。

以上
 

2024年11月 4日 (月)

私の本棚 38 木佐 敬久 『かくも明快な魏志倭人伝』 1 長大論 補追

冨山房インターナショナル 2016/2/26
 私の見立て★★★★☆ 必読の名著  2016/03/05 2019/07/21 補筆・整形のみ 2024/11/02, 04 補追少々

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯始めに
 当ブログ筆者は、世界の片隅で、細々と、と言うか、ぼそぼそと持論を公開しているのだが、今回は、世上に「倭人伝」について、当方と同じ読み方をしている人を見つけて、ついつい、財布を空にして買い込んでしまったのである。
 こうしてみると、書籍の売り文句である惹句は、的を射たときには、強力な販促武器になるのである。
 近来、古代史関係新書に粗暴な惹き句を見て購入欲を殺がれたり、店頭で、つい、粗暴な惹き句に眼を瞑(つぶ)って購入して、内容がそれ相応だったために後悔したりしているが、今回は、惹句を信じて良かったと思うのである。

 ここに紹介するのは単行本なので、新書数冊に匹敵する出費であるが、古代史に健全な関心を持っている方は、必読というべき良書である。これまで得られなかった、得がたい知見を得られるはずである。もちろん、賛同するかどうかは、読者の自由である。

*共感する「長大」論
 さて、ご託が長引いたが、今回採り上げるのは、巻末付近で書かれている長大論である。以前、著者の見解の端緒は、いずれかの場で発表/公開/引用されていたと記憶している。
 著者は、まことに堅実に陳寿「三国志」の「長大」を拾い出し、男性と女性の違いを踏まえた上で、卑弥呼は十代で女王に共立されたという推定に至っているまた、「倭人伝」に描かれている姿は、二十代の若々しい姿であるとも推定している。
 当方の辿った論理の道筋を、別の人がすでに極めていて、ほぼ同じ結論に至っていたというのは、はるか後塵を拝するものとして、大変名誉なことと感じる。

*あえてアラ探し
 あえていうと、次の点を指摘できると思う。
 余りにも自明なので、大抵省略されるが、陳寿「三國志」に限らず史書に書かれている年齢は、誕生時に一歳となっていて、元日に揃って加齢する「数え」年齢である。つまり、現代の年齢に換算するには、一歳、ないしは、二歳を引かねばならないと言うことである。
 また、当時の考えでは、人は十五歳で子供時代を脱して、個人として社会に認知されるのであり、「女子」と呼ばれる人は、十五歳を過ぎていると言うことである。

 でありながら年齢を書かずに、「女子」と形容したのは、臆測の極みであるが、『陳壽の手にした史料には、倭人の二倍年歴(春秋加齢というべきか)で「三十歳」と書かれていて、かつ、その後に「いまや成人となった」との記事が続いていたからではないか』とも思われる。
 陳壽は、倭人のいう卑弥呼の年齢に不審を覚えたが、事実確認ができなかったので、筆を加えず年齢表示を避けたのではないかと憶測する。ここは、何にも書かれていないので、一読者の憶測である。

 因みに、壹与の継承の時は、すでに、対外的な年齢表記が中国風になっていたのであろう。数えで十三歳が倍年歴であれば、実年齢は、6.5歳、満年齢で5歳になってしまう。これは、幼帝である。

 「女子」と書いた理由を、別途推定
し、すでにブログ記事に書いたのを復習すると、...
*「女子」は「外孫」~絶妙好辞 
 視点を、直前に登場した「男王」とすると、「女子」は、その娘の子供とも読める。
 簡単に言うと< この文脈では、「女子」は「孫」(まご)であるが、大抵の場合のように、娘が嫁ぎ先で子を産んでいれば、自身にとって「外孫」(そとまご)である。ただし、字面でわかるように、この記事での「女子」は、外孫女児に限る。かくして、漢字二文字で二重の意味をかねさせた謎かけが解ける。嫁ぎ先が有力な家、氏族であれば、生まれた子は、二大勢力を強い絆で結びつけていることになる。
 しばらく誰が首座に就くか紛糾したため、水争いや漁場争いの調停者がいなくなって、それぞれの季節毎に紛糾したが、有力な二家が両家の当主にとって孫に当たる後継者を共に王に立てることに同意すれば、それこそ、時の氏神であり、そうした紛糾は起こらないと悟ったものである。

 女王は、「季女」(戦国齊では、末娘)であって、その家の定めとして、生涯不婚で家の祭祀を主催すると定められていたから、若くして(幼くして)神事に従事していたようであるが、祖霊に仕えて託宣を聞く手段として亀卜を行っていたとすると、発生した亀裂の形(文字)を適確に読み取らなければならない。そのために、中国の殷(商)時代以来の伝統として、亀裂の形を甲骨文字として、つまり、漢字として読み取る訓練を受けていたのではないかと憶測するのである。
 してみると、この女子は、若くして(幼くして) 甲骨文字の漢字が読めたのではないかと思われる。そうであれば、巫女が若年であっても、その亀卜託宣に対する衆人の信頼は深かったものと思われる。いや、もちろん、これは勝手な憶測である。根拠は無い。

 因みに、女王が結婚するとして、すでに二大勢力の親族となっているので、それ以外の家から婿を探さねばならない。それでは、二家の権力の均衡が崩れてしまう。まして、女王が、第三の家に嫁ぐことは、女王の権威を損なう。かくして、女王は独身を保つのである。ただし、もともと、生涯不婚の神職に従事していたから、そのようなことは、覚悟していたとも思われる。

 さて、最後に再確認すると、
 漢帝国では、先帝の子供以下の世代から新帝が擁立され、そのため、幼帝/少帝がしばしば擁立されているが、卑弥呼は、そうした幼帝/少帝ではなかったし、女児、女孩、嬬子でもなかった。また、そのような際、多くの場合、先帝の未亡人が、皇太后、皇帝の母として後見したが、この場合は、そうした承継ではな、両三家の「共立」だったから、先帝夫人は登場しないのであろう。

*「長大」の語義確認
 ここで、「長大」は、共立後に成人に達したと言うことであり、文字通り「長大」とは「成人」、「人となる」と言う意味である。「成人である」という意味ではない。違いがわかれば幸いである記事の書かれた年或いは前年の年頭に成人となった」という感慨を示していると見るものでは無いか。
 これは、三国志時代の用例確認は当然であるが、同時代の史書袁宏「後漢紀」考献帝紀に、後漢代末期の挿話として提示されている雒陽人士の会話で、「長大」は「成人となる」ことと明示されているので、古典書を用例確認する必要のない当然の解釋であったとわかるのである。
 ちなみに、「長大」は、化石古語/死語などではなく、現代中国語でも生きているようである。(2024/11/04 補充)

 今回は、同感の意を込めた自慢話である。

以上 

私の本棚 39 木佐 敬久 『かくも明快な魏志倭人伝』 2 水行論 補追

冨山房インターナショナル 2016/2/26
 私の見立て★★★★☆ 必読の名著  2016/03/05 2019/07/21 補筆・整形のみ 2024/11/02, 04, 21 補追少々

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*不審な韓国陸行回避
さて、今回本書を一回通読して不審なのは、帯方郡からの行程で韓国を迂回航行する話である。(「倭人傳」関係書籍で、なんでも一度は批判する気質の本ブログ著者が、本書ほど、躓かなかった書籍はまれであることを、あわてて書き足すのであるが)

 著者は、古田氏の韓国内陸行説を丹念に吟味した上で却下し、従来評価の低かった沖合航行説を採用しているのである。

*不審な「水行」回避
 ただし、別項で紹介した中島信文氏の著作に示された内陸水行説には言及していないので却下の論拠は不明である(コメントに従い訂正)

 提示されている論考は、朝鮮半島の西部南部沿岸を通過する際、難所である多島海部を大きく迂回した無寄港と読めるが、後ほど説き起こされているような当時最強の海船で可能であったとしても、このような行程が魏朝の公式行程となったとは思えないと言うのが、当方の正直な感想である。

 当時の航海術でも、日中の航行で遠く沖合を行くことにより海難を避けられただろうが、夜間航行は不可能だったと思うのであるがいかがだろうか。帆船であれば、帆を下ろして海流に任せるのだろうか。未知の魔界でそのような無謀な航法を取ると、遅かれ早かれ難船するので、不可能と言ったのである。
 三国志にも、少し先行した時期の記事として、遼東の公孫氏領から江南の東呉領まで航行する際に、敵領である山東半島の沖合を迂回して黄海深く航行して乗り切ろうとした事例があるが、結局、見つかってしまったようである。

 著者は、曹魏明帝曹叡が、公孫氏討伐に先だって、兵員輸送を目的として、多数の海船、即ち、帆船を造船するように青州などに指示したと言うのだが、それは、遼東に渡る行程が、渡船に近い安全な航海であり、それによって、直ちに朝鮮半島西部および南部沿岸の多島海の航行術、すなわち、「各地の岩礁等の位置と干満潮勢に通暁した各地の水先案内を要し、しかも、吃水の深い大型船舶に不可能な機敏な操船が不可欠であり、そして、失敗すれば命取りの難船必須の海域」全体を通じた安全な帆船航路が開通したとは、到底思えないのである。常識に反した提言には、明確な論拠を提示する必要があるように思う。

 山東半島から朝鮮半島、具体的には遼東半島ないしは帯方郡岸に向けた黄海渡海は、太古以来の既知の航路であっても、朝鮮半島西部および南部沿岸の航路は、それまで忌避されていた、いわば海図のない危険な海であり、帆船の進歩により沖合を航行可能となったというのと実際に沿岸航路を往来するのとでは、天地程の大きな差があると思うのである。木佐氏に珍しく、空論に踊らされているので無ければ幸いである。(2019/07/21)

 もちろん、いずれにしろ、史料に明記はされていない、憶測の多い議論なので、簡単に「明快な」結論が出ないと思うのである。
 以上は、実際的な難点であるが、それ以外に、文献資料としての難点がある。

*歴韓国談義
 軽い前振りから言うと、倭人傳では「韓國を歴る」(韓國)と言っているが、「韓國」は陸上を指し、沿岸と言えども海域は韓國ではないと思うのである。「某国を経る」と言えば、「同国国王の居城を経る」以外に有り得ないと見るのである。

 特に、「韓伝」を読む限り、半島南部は韓国でなく「倭」の領域である可能性があるとされている。もし、沿岸航行が内陸国を歴るとの解釈に固執するのであれば、半島南部の帰属が明記されていないのが不審である。「倭人伝」専攻という当方の守備範囲の半ば域外/圏外であるが、どうにも割り切れないのである。(2019/07/21)  

 次に、三国志と共に秦漢時代から魏晋南北朝時代までの書籍用例で、海洋航行を水行とした例は希少、と言うか、例外的な用例を除いて、ほぼ無いのであり、「水行」は河川航行に決まっているのである。(この点、当方の見過ごしによる速断、浅慮であり、収拾に苦労しているのである。2019/07/21)
 もちろん、世上素人考えが渦巻いているように、海洋航行であっても、経路や所要日程が明確な沿岸航路の場合は、「水行」と呼んだかも知れない。しかし、正史に類する公式史書には、明確な規定無しに、そのような用語誤用は許されないはずである。
 先ほど述べた難点と重複するのだが、本書で想定されているような長距離無寄港の沖合航行は、風次第で、経路や所要日程んがはっきりしないものになる。また、「倭人傳」が沖合航行を書いていると解するには、途中の目標、特に、南下から東進に転換する大事な目処が立っていないのは不審である。これでは、後に航路を再訪することができない。
 と言うことで、日常にあっては、文書通信の所要日数を知り、緊急事態にあっては、派遣軍の現地到着までの日数と兵站への要求を知るために必要な行程が不明確では、正史の外夷傳の道里行程部に記載することはできないのではないか。

 古田氏の説である韓國内陸行であれば、経路と道里は帯方郡が已に把握していると思われるので、倭人傳に事細かく書くに及ばないのである。
 また、中島氏の提唱する河川航行による韓国内行程も、当時常用されていた交通/輸送手段であろうから、これも、帯方郡が已に把握していると思われる。

*倭人伝の地域用語定義
 ただし、(二千年後生の無教養な東夷には)、倭人伝は、冒頭で「循海岸水行」、つまり、海岸沿いの船舶移動を「水行」と規定している(この点、当方の見過ごしによる速断、浅慮であり、収拾に苦労しているのである。 2019/07/21)ように見えるので、以下、「水行」には、河川航行は含まれていないと見られるのも、一度考えていただきたいものである。
 それはさておき。「韓國飛ばし」海路行程は、ここに書いていないので何処にも記録されていないのである。

 以上の思索を歴て、当ブログ著者は、一度は中島氏が提唱する、韓國内は河川航行による水行であるとする仮説に賛成した。今般、中島氏の所説を脇に置いたため、旧記事を見て変心と批判されることがあるが、素人の浅知恵、見過ごしを革めるのも、又、一つの進歩であり、旧説への固執が過ぎると、自縄自縛で閉塞するので、多少気にしつつ変心するのである。

 因みに、もし、帯方郡から狗邪韓國に至る経路を、不法にも、韓國沿岸(沖合)を歴て海上航行するのであれば、当時の用語では、「浮海」と言うと考えるのである。
 陳寿「三国志」魏志「東夷傳」で、司馬懿は、公孫氏討伐作戦の一環として、山東半島から、ひそかに(海路)楽浪、帯方に迫ったと書かれている。そこには、「倭人傳」の道里行程記事以外で使用例のある「渡海」と書いても「海行」と書いていないし、()で補った「海路」は、現代人になじみがあると言っても、はるか後世に発生した新語であり、当時は、「ない」言葉であった。(楽浪帯方両郡回収は、「又」と前置きされているように、司馬懿の遼東攻略と別に行われた軽微な軍事行動であるので、修正した)
 もちろん、以上は、一読者の勝手な推測であって、断定口調で語っていても、別に、断定しているわけではない。有力な選択肢があると言うことを明らかにしたいだけである。

この項完

*原点確認 2024/11/02
 本件に関する最終的な見解は、別稿に記したが、ここでは、概要を略記する。(つもりであったが、長くなった)

*行程記事の要件
 陳寿「三国志」「魏志」「倭人伝」冒頭の道里行程記事の主管部は、新来の「倭人」を曹魏明帝に上申報告する際に提示されたものであり、正史の定例に従い、外夷の管理拠点である楽浪郡を発して、蕃王の居城に至る文書通信に使用する街道の行程紹介であり、したがって、郡を発して南端の狗邪韓国に至る官道行程は、当然、自明の陸上街道であるから、ほぼ省略されている。

*「水行」の導入
 「水行」は、太古以来、官道行程の道程を示す用語として起用されたことはないので、用語の原義にかえって、渡し船による渡河/渡海の意味で新たに用いられたものであり、記事冒頭で予告した上で、狗邪韓国からの三度の渡海に、本来限定した上で、例外的に起用されたものである。「倭人伝」には、渡海を意味する「水行」でもって黄海を横行する記事は存在しない。

 時に参照される司馬遷「史記」夏本紀の禹后巡訪記事は、単に、「陸上を移動する際は、乗馬や徒歩でなく馬車に乗って移動した」と確認したものであり、対岸に渡る際は、川沿いの泥地を橇で「泥行」して河岸に出た上で、渡し船で「水行」して対岸に渡ったと絵解きしたものであって、決して、舟で河流を上下したとは書いていないのである。古代、「水行」は、渡船で渉ることに限定されていたことから、そのように明解である。渡邉義浩氏は、太古以来、史書の行程記事で、「水行」は書かれていないと明解である。
 氏は、中国史書の旅程記事で、陸行、水行と並記しているのは、史記夏本紀に溯るまで皆無と明解です。(渡邊義浩 「魏志倭人伝の謎を解く」中公新書2164)
 「陸行乘車,水行乘船,泥行乘橇,山行乘檋。」(司馬遷「史記」巻二 夏本紀)
 原文を精査すると、そこに書かれているのは、禹后の河水沿岸遍歴であり、「陸行」、「水行」、「泥行」、「山行」と列記されているものの、街道の行程も示されていなければ、水上の行程も示されていないので、旅程記事などではないのであり、渡邊氏も、これは「故事」としていて、説話の類いであり史実とは見ていないと解すべきである。つまり、中国史書の旅程記事で、「水行」は、史記夏本紀に溯るまで皆無 と明示されているのである。
 そこで、素人の拙い用例漁りを中断して、用語審査の原点に還るのである。(2024/11/04 補充)

 太平御覽 地部二十三に引用された、漢代編纂とされる類語辞典「爾雅」によると「水行曰涉」、つまり、河川を渡船で渉(わた)ることを「水行」と言うと明快です。まさしく、夏本紀用例に整合している。ついでながら、河川の流れを上下移動するのは、順行は、「溯游」ないしは「沿流」、遡上は、「溯洄」と書き分けられていて、漠然と「水行」と言うような無謀な用語ではない。
 「倭人伝」で言えば、狗邪韓国から対海国へは、一海を渡るとしていて、これを「大海」なる塩水が流れる「大河」を渉ると見立れば「水行」である。この際は、並行陸道がないのでやむを得ないから、「循海岸水行」と予告定義すれば、史官の裁量であり、郡を出て街道を行くと予定されている行程が、予告無しにいきなり海中に突入するなど、論外であるから、三世紀当時の編者も読者も想定しないものであった。
 郡治を発して狗邪韓国に到る官道は、漢魏制に基づく整備された街道であり、所定の間隔で、宿駅、すなわち宿場、関所がおかれていて、街道は、馬車や騎馬文書使が往来できる基準を満たしているのが、官制で当然であるから特記していないまでである。

 後年の正始魏使が下賜物を担いで通過した行程は、重複するので記録されていないのである。が、山東半島から大型の帆船で発して、半島沖合いを廻遊して北九州の海港に至ったというのは、何の根拠も無い不合理な夢想に過ぎないので、当稿では審議しない。

 行程道里記事の結末に附された「都水行十日、陸行一月」は、治を発して倭王の居城に至る行程が、「渡海水行十日以外は、陸上街道の移動三十日であり、総じて、都(すべて)四十日以内に収まる」ことを明記しているものであり、そのように、所用日数が明確であったから、曹魏は、下賜物を送り届ける使節を発進させたのである。
 要するに、当記事は、倭王の居城に到る行程を端的に上申したものであるから、解釈に選択肢があるように見えても、端的明解な選択肢を選ぶのが順当かつ合理的(エレガント)である。
 
 同記事が起草、上申された時点では、「郡」は、雒陽からの行程道里が知られていた楽浪郡であり、「倭」王の居城は、行政組織を備えた従前の伊都国であり、両拠点間の所用日数は、「帯方郡」から「女王国」と代表者居処が代わっても、規定上維持されたと見える。

南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月」は、正始夷蕃伝の本文であるから、蕃王に「所都」と尊称を与えるのは不法であり、当然、「南至邪馬壹國女王之所」「都水行十日陸行一月」と自動的に句読されるのである。してみると、ここは、全所要日数を総括したと解されるべきなのである。「倭人伝」行程道里記事に、全所要日数が明記されているのは、必然であるので、そのように解するのが、最も明解なのである。
 仄聞するに、古代史の権威であった上田正昭氏は、「水行十日陸行一月」で全日程を記述するのは、先行諸文献に例がないから、採用できないと批判されていたが、見た通り、これは、文脈として順当な字句であるから、「先行例のない異例のもの」とする批判は当を得ていないと思量するものである。
 以上、氏の労作を批判する以上、最低限の論拠を提示する義務があると考えて、長談義に及んだものである。

以上

*カタカナ語全廃提案 初稿への追記
 さて、本書で提示された論考の大局でもなければ細目でもない、蛇足の極みであるが、苦言めいたものを呈したい。
  著者は、深い教養をお持ちだから、世俗的な勘違いとは無縁であろうが、当ブログ筆者は、本書に「インフレ」なるカタカナ語が登場することに不満である。古代に、カタカナ語がなかったための違和感もあるし、現代でも、ある言葉がインフレ状態にあると言うことがどんな事態を指すのか、一般人の教養では、専門的な比喩を理解するのが困難と懸念するのである。
 「インフレ」は、一般人の日常感覚で言えば、物の値段が上がることなのだが、ここで比喩されているのは、通貨価値が途方もなく下がった結果、高額紙幣が市中に多数出回る図式だろう。
 
極度なインフレ昂進の世相を示すときに良く映像化されるのが、大量の紙幣をちり紙か何かのように束にして買い物しているさまである。諸賢には自明なのだろうが、凡俗がそれと気づくには時間がかかると懸念されるのだが、それは、著者の本意ではないと思うのである。

 安直な情報発信が常態化した結果、「究極」表現が大安売りされて、日常会話にまで血なまぐさい復讐が徘徊する世の中である
ことは、折に触れて痛感するので、ご指摘の「インフレ」事態は、むしろ陳腐化していると思うが、それにしても、本書内の「インフレ」は本書の品格にふさわしくないので、今後の著作においては、是非、他に言いようがないか、ご再考いただきたい。
 素人考えでは、「大安売り」と言えば良いのではないかと思うのである。いや、古代史の著書は、「カタカナ語」厳禁とするのが最善と思うのである。

以上

2024年11月 2日 (土)

新・私の本棚 棟上 寅七 『槍玉その68「かくも明快な魏志倭人伝」』1/3 追捕

  木佐敬久 著 冨山房 2016年刊
「新しい歴史教科書(古代史)研究会」「棟上寅七の古代史本批評 ブログ」2021.5.06からの転載 
 私の見立て ★★★★☆ 必読の名批評 2021/10/29 補充 2022/10/11 2024/02/22-26、 11/01

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*お断り2 2024/02/22追記
 下記お断りが若干不明瞭なので、言い足すことにしました。
 本稿の背景は、『「倭人伝」道里行程記事』 に書かれている「郡から倭まで万二千里」の里数は、郡から蛮夷の中心地までの道里を概念として万二千里と「見立てた」ものであり、当時、樂浪/帯方郡で施行されていた里制とは連動していなかったという提言です。よろしく、ご確認ください。

*お断り   2024/01/20
 本記事は、棟上/木佐両氏の「倭人伝」道里行程記事の共通の認識に沿って書かざるを得ないのですが、当ブログ筆者は、意見を異にしているので、時に応じて、差し出口を挟むことをお断りしておきます。
 つまり、『「倭人伝」道里行程記事』は、漢/魏代の蛮夷伝の前提として、「倭人」が漢/魏の東夷管理拠点であった楽浪郡に最初に参上した際の公式設定を示したものであり、「従郡至倭」は、漢/魏の拠点「郡」から「倭人」の国主に対する公式文書使往来/周旋の行程道里、つまり、「官道を騎馬の文書使が往来」するものであり、当然、「陸上街道の最善日程を基本としている」との見解です。つまり、帯方郡から発進する文書使は、半島内を官道に従い一路南北方向に移動するものであり、「大幅な迂回経路であって日程が不安定な船舶移動」は、「はなから論外」というものです。
 本記事は、そのような差し出口を控えて書いたため、大変歯切れが悪くなっていますが、二年余り模索した結果、やはり、冒頭でお断りしておくべきだと感じたので、ここに追記しています。

◯ 番外書評の弁
 本記事は、古代史関係書籍の批評を多数公開されている棟上寅七氏の最新書評について所感を述べたものです。題材は、「倭人伝」の行路に関して木佐敬久氏の『かくも明快な魏志倭人伝』の「古代史本批評」です。
 但し、文中で、生野真好氏の著書に言及しているので込み入っています。

 当記事は、棟上寅七氏の威を借りて、つまり、冒頭の異議は控えて、「倭人伝」冒頭の道里行程記事に関する思索を試みていますが、古来、「騎虎(寅)の勢い」では、寅の背から落ちると、たちまち、虎の餌食になってしまうので、身震いしながら書いたものです。
 と言いつつ、氏の書評をサカナに、私見を述べ立てていますが、氏の名声に便乗して、多少は私見を広めようという趣旨なので、ご容赦頂きたいものです。

*ご託宣
 『私にとっての読後感は「かくも不明快な倭人伝解釈」でした。』とあります。
 主として、倭人伝冒頭の「従郡至倭」行程の道里、特に、半島行程について、木佐氏の船舶移動説を(完全)否定したものです。便乗、騎虎発言ですが、ブログ筆者たる小生も同意見です。
 小生であれば「従郡至倭」に続く「循海岸水行」なる語法の「海岸に沿って水行する」への読替えが、正史語法として不法として「一発退場」とするのですが、氏は丁寧に面倒をみています。
 つまり、原文解釈を曲げて「沿岸でなくかなり沖を航海した」ことの不合理の指摘は、やり過ごしていて、そのように進んで来ておきながら、『狗邪韓国に寄ってから対海国へ行くのに、長い船旅の後「はじめて海を渡る」という表現はありえない』と痛打しています。
 それに、「韓国を歴るに」についての古田師の説明(沖合通過では不歴の非礼となる)を無視している点にも切り込んでいます。

 棟上氏は、「近現代の大型の船舶でも、時に半島西岸の多島海で沈没事故を起こすので、三世紀当時の海域を、素人の「思い込み」で夜間停泊せずに無装備で航海する危険性を船舶航行の「専門家」に聞くべきだ」としています。まことに至当な提言であり、ぜひ、耳を傾けていただきたいものですが、世間では、「専門家」に古代船舶の的確な情報を伝えずに、「思い込み」への同調を強要している例もあり、耳を傾けるふりをしていても、耳栓をしていては、正しい意見が耳に入らない、脳に届かないものかと、不埒な意見を禁じ得ないのです。

 かたや、木佐氏は「当時の帆船を復元して実験航海したい」などと戯言をものしていますが、棟上氏からの痛烈な批判として、単に、無謀な冒険航海の意義を否定するのではなく、信頼できる専門家の意見を聞くべきだ」との「教育的指導」は、さすがの卓見で、同感します。
 因みに、三世紀当時、半島南部以南の海域に帆船は存在しなかった、つまり、黄海を経て狗邪韓国まで結ぶ帆船経路は存在しなかったとの定説があり、存在しなかったものの復元は「論外」と見えます。

 本記事は、以下、別の話題に逸れますが、単なる余談などではなく、重大な話題なので、お付き合いすることにします。

◯論争の経歴 生野真好氏との論争回顧
 棟上氏は、半島西海岸南下説を唱えた生野真好氏と論争した経験を述べています。二重引用になりますが、行数が十分あるので、曲解はないものと思い、ここに再録します。御両所に無断で恐縮ですが、建設的な批判を心がけているので、ご容赦いただきたいものです。

*生野氏著書引用
 『生野真好氏は次のように書きます。
【当時の魏の海船のことはよくわからないが、呉には600~700人乗りの四帆の大型帆船があったことが、呉の万震撰『南州異物志』にある。また、『三国志』「呉志江表伝」に孫権が「長安」と号した3000人乗りの大船を、とある。ただし、これはすぐに沈没した。
 また、呉の謝宏は、高句麗に使者として派遣されたが、その答礼品として馬数百匹を贈られた。しかし、「船小にして、馬80匹を載せて還る」とある。何艘で行ったかはわからないが、1艘とするなら馬が80頭も乗るのであるから相当大きな船であったことになる。しかもそれすら「小さな船」と言っているのは興味深い。

                                未完

新・私の本棚 棟上 寅七 『槍玉その68「かくも明快な魏志倭人伝」』2/3 追捕

  木佐敬久 著 冨山房 2016年刊
「新しい歴史教科書(古代史)研究会」「棟上寅七の古代史本批評 ブログ」2021.5.06からの転載 
 私の見立て ★★★★☆ 必読の名批評 2021/10/29 補充 2022/10/11 2024/02/22-26、 11/01

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*生野氏著書引用 続き
 それに、史記によれば漢の武帝が楼船を造ったとあるが、「高さ10丈、旗幟をその上に加え、甚だ壮なり」とある。三国時代の約300年前に、すでにこれだけの造船技術を中国は持っていたのである。
 その武帝は、朝鮮征伐の際、5万もの兵を船で朝鮮半島に送りこんでいる。「楼船将軍楊僕を遣わし、斉より渤海に浮かぶ。兵5万。」 この時には山東半島から渤海を横断して朝鮮半島西海岸に着岸している。この海上ルートは、前漢時代には開かれていたことになるし、魏の明帝も楽浪・帯方を奪回した時は「密かに船を渤海に浮かべた」とある。
 以上のことを参考にするなら、魏使一行の乗った船は相当大きな船であったと思えるし、黄河河口域から博多湾まで10日で来ることができた可能性もある。現在の帆船であれば、一日の航行距離は、150~200km以上は可能である。黄河河口域から博多湾までは、約1800~2000km程度であるから、数字上は10日程での航行は可能ということになる。こと帆船に限るなら、3世紀と現在とでそれほど大きな差があったとも思えない。】』
*生野氏著書引用 終わり

*コメント~2024/02/26
 ここで、第三者が口を挟むのは、無作法で筋違いなのですが、生野氏の史料考証は、ちと(大幅に)脱線しています。

 漢武帝の朝鮮侵攻で、山東半島から浮海、つまり、新造船で漠然と渡海したと書いておかれながら、生野氏は、大胆かつ無法にも、正始魏使一行の用船は、黄河(河水)河口部から渤海/黄海を長途南下して博多湾に至ったと見ているのです。つまり、司馬懿軍団すら迂回/回避した河水河口部扇状地の(存在したはずも無い)海港から帆船で船出するというのは、不合理そのものと見えます。
 直前に、明帝の指示で帯方郡を接収したときは、新造船で山東半島から浮海した、つまり、目前、至近の帯方郡海港に、軽快な渡船で渡ったとされているのですから、このように確立されていた渡船航路を利用しないで遥かに迂回するのは、なんとも不可解なのです。
 結局、山東半島に寄港するわけですから、何とも、不可解な白日夢と見えるのです。途上で、たいへんな迂回であり、海流に抗するため、操船が至難となる狗邪韓国、対海国を経由するのも不可解です。時に批判されるように、半島南岸沖を東行するのであれば、四周に海港のある一大国に直接入港すれば、帆船の航行が、たいへん容易なのですが、そのような考慮もされていません。

 このような「現実離れ」「史料離れ」した時代考証が、両氏の間で論義されていないのは、通りすがりの野次馬にしてみると、何とも、これまた不可解です。
 
*コメント~「江表伝」史料審査
 棟上氏の見解を差し置いて、史料考証からみたコメントは以下の通りです。
 以下、生野氏著書引用が正確と仮定し、引用文における読み取れる限りの不備を指摘します。

 まず、陳寿「三国志」「呉志」に「江表伝」なる列傳はなく、「呉志」に裴松之が付注した「江表伝」を誤解したものと思われます。
 Wikipedia記事を参考にすると、【『江表伝』(こうひょうでん)は、西晋虞溥編纂の呉史書である。晋室南渡の後、虞溥の子の虞勃が東晋元帝に『江表伝』を献上し、詔して秘書に蔵したという。孫呉事績を、編年体「伝」形式を念頭にしつつ、記述したものと思われる。『旧唐書』「経籍志」に「江表伝五巻、虞溥撰」とあり、五代の乱世を経た北宋期には散佚して、書物の全容は全く不明である。】要約、補追は、当プログ筆者の責に帰すものである)

 当記事は、用語から「江表伝」 は、 魏晋視点で書かれたと速断していますが、用語は、晋代、ひょっとすると、東晋代に是正された可能性が高いとみえます。後出のように「江表伝」は、魏武曹操敗北を、後年、東呉視点で「粉飾」した東呉寄り史書とみるのが順当と思われます。
 「江表伝」の散佚ですが、陳寿「三国志」「呉志」の裴注に「江表伝」の独自記事が引用され、当該部分は現在も健在です。「書物の全容は全く不明」とは、凝りに凝った表現ですが、無用の誤解を招くものであり、同記事の信頼性を大いに下げています。全容はともかく、裴注に採用された部分は、ちゃんと「正史」の一部として継承されています。
 このあたりは、素人集団の寄せ書きであるWikipediaの限界ですが、特に誤謬と言うほどでもないので、訂正・寄稿は控えています。

 但し、「江表伝」は、陳寿が検証して「呉志」本文に採用したものではないので、裴注による追加記事としては、「三国志」本文と同様に扱うことはできません。

*裴注「江表伝」補追の意義~余談
 「江表伝」上梓は陳寿没後なので、陳寿は其の内容を知らなかったのは明白であり、韋昭が主管していた東呉史官は、「呉書」編纂時に、史官の見識でこれに相当する史料を採用しなかったから、ここに復習すると『東呉史官が編纂し東呉滅亡時に晋に提出され、時の西晋皇帝が嘉納し、西晋公文書となった、東呉史官韋昭の編纂になる「呉書」』が、「三国志」「呉志」に充当されても、「三国志」に「江表伝」相当記事は不在だったようです。もちろん、陳寿は、「三国志」編纂に際し、後漢魏代に洛陽に於いて所蔵された公文書資料/ここでは韋昭「呉書」を援用することに努めているのであって、「呉志」に収録されていない野史、風評に類する史料は、史実でないとして参照しないのですから、陳寿は、「江表伝」同様の野史/稗史が存在していたとしても、仮に、そのような内容を目にしたとしても、「三国志」に採り入れることはなかった/できなかったのです。
 そのような史官の編纂方針は、後生史官である裴松之の理解するところであり、そのため、裴松之は、劉宋文帝の諮問に応じた「三国志」補完の勉めの一環として、「江表伝」から、他の史書にない東呉寄りの視点の「偏向・曲筆」記事を、「蛇足」覚悟で「補追」したようです。念のため言い重ねると、裵松之は、決して、「三国志」が不備だという趣旨/視点からではなく、ご指示に従い「彩り」/蛇足を加えたように見えます。
 このあたりは、あまり見かけない意見でしょうが、ご一考頂きたいものです。

 と言うことで、世に言う裴注補追記事の評価は、かなり割り引く必要があります。厳しく言うと、裴注補追記事は、大半が蛇足で、「三国志」本文の充実には、何ら寄与していないと思われます。
 もちろん、裴松之は、陳寿「三国志」が、「正史」として遇するに値する著作と認めた上で、あえて「明らかに蛇足と見て取れる低俗な史料まで補追して見せた」ものと見えます。何しろ、ご指示に背く補追として劉宋文帝の激怒を買うと、文字通り馘首されるので、少なくとも、皇帝の体面を保って見せたと見るものです。
 後年、名君文帝の怒りを買って左遷された范曄が、任地で密かに後漢書を編纂していたところ、「笵曄が皇帝に対する大逆罪の陰謀に関与した」として投獄して死罪に処すと共に、編纂中の後漢書を接収するという弾圧事態が起こり、笵曄「後漢書」は、編纂の途次、未完稿の状態で終わったという後日談があるのをみると、裴注勅命の際にも、文帝の勘気が示されていたと見えますから、裵松之の補注編纂は、薄氷を踏むものであったかも知れません。ちなみに、後漢書「志部」は、共著者の手許で完成状態にあったのですが、范曄に連坐して処刑するのを恐れた共著者が、土中に埋没隠匿し、そのために、「志部」は失われたとされていますが、史官ならぬ私撰の文筆家であった范曄も、史官につきものの弾圧を免れなかったことを示しています。

 世上、陳寿「三国志」が簡潔に過ぎ、不備であるとして、裴注をもって「三国志」が完成した』とまで勝手に言い足して主張する方が珍しくないようですが、素人目には、「三国志」は、陳寿原本が、史書/正史として完成形』と見るのであり、先行する万巻の大著である司馬遷「史記」、班固「漢書」を尊重しつつ、後漢献帝が、 それぞれの得失を見た上で「座右の名著として備えるに適した簡要な史書」として勅撰した筍悦「漢紀」(前漢紀)』を参考に、三国鼎立という時代状勢の制約を踏みしめて、鋭意編纂したものです。
 「三国志」の陳寿稿(遺稿)は、決して、未完稿で無く、時節を得れば、西晋皇帝の上覧を仰ぐべく決定稿、上申稿を遺して没したのですから、同時代最高の史官が完成形と自負した「三国志」陳寿原本に適確な評価を与えるべきでしょう。少なくとも、当時の史官の使命感を知ることのない「二千年後生東夷の無教養」な素人が、したり顔でとやかく言うべき事項ではないのです。

 そして、裴松之は、劉宋文帝を代表とする同時代「建康」読書人の偏見によって「三国志」が、陳寿の意に反する形態に改竄される危機を見事乗り越えた』ものとみるのです。

                                未完

新・私の本棚 棟上 寅七 『槍玉その68「かくも明快な魏志倭人伝」』3/3 追補

  木佐敬久 著 冨山房 2016年刊
「新しい歴史教科書(古代史)研究会」「棟上寅七の古代史本批評 ブログ」2021.5.06からの転載 
 私の見立て ★★★★☆ 必読の名批評 2021/10/29 補充 2022/10/11 2024/02/22-26、 11/01

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*コメント 続き
 このように、文献としての史料評価は、わずかな用語を浚える/囓り取るのでなく、文献として内容を熟読、吟味した後に提示すべきです。これは、Wikipediaの情報源としての限界/短足です。何しろ、現今のWikipediaは、陳寿「三国志」に対する後世の誹謗、中傷を積極的に収集した感があり、「曲筆/偏向の好事例」と見えますから、「客観的な判断には、利用しがたい」のです。なぜ、この場で、陳寿を弾劾しているのか、動機不純ではないかと不審なのです。

 後漢末期の献帝建安年間、「宰相曹操が、荊州討伐後に巡行し東呉に服属を促した」ときの「赤壁」での対決で、東呉の偽降による火攻めで大敗したという「江表伝」独自記事が裴注で補追されたために、「呉志」が「江表伝」依存の東呉自慢話に堕したと見えて、史書としては、はなから信用できない状態になっているのと同様です。「魏志」が、曹操撤退と粉飾/糊塗しているのと同様の意味で、「呉志」は、曹操大敗と言いたいところだったのでしょうが、「呉志」本文には大した東呉戦果は書いていないのです。
 「三国志演義」は、話を盛り上げるために、随分「粉飾」(厚化粧)を加えているのですが、元ネタは、裴注が拾い上げた「江表伝」なる、敗軍の負け惜しみに過ぎないのです。

コメント終わり

*時代錯誤の帆船起用への批判
 棟上氏は、生野氏の数字頼みの論証が、科学的・論理的な風体を示しながら、現代の帆船の航行速度を三世紀の船にあてはめる絶大な不都合を呈していると指摘していますが、これは、生野氏が、適切な専門家に適切な相談をしていないことを指摘しているものと見えます。言うならば、ご自分の夢物語/法螺話を無責任に放言されている」事への非難であり、素人目にも、反論できない失態と見ます。

 ついでながら、生野氏が起用した船体の大小は、時代と報告者の世界観で大きく変動し、現代読者の世界観も不確かなので、史学論では厳として避けるべき冗句ですいや、事は、船体の大小に始まり、人数の多寡などにも及ぶのであり、論考の展開に於いて、不明瞭な発言は厳に慎みたいものです。

 ここで、「大小」表現を、「不明瞭」と言うのは、このような粗雑な表現で論議を煽るのは、読者によってどんな数値を想起するか一定しないどころか、無法なほど差異があるので、著者と読者の想定する(ここでは)「船体」が食い違うことから、議論が転覆することを難詰しているのです。現に、後段でも言及される「後生」研究者には、現代風の多段マストの近代大型船の画像を掲示して、魏使の用船と見立てて論議を進めている例があるので、「明瞭」な主張を求めているのです。

 とはいえ、前ほど述べたように、氏のホラ話を真に承けて、『「倭人伝」の行程記事を、魏使が山東半島から大型の近代的な帆船で堂々と航海したとみて、道中情景を仮想している初学者がある』ことから、大声で否定せざるを得ないのです。

 続いて、棟上氏は、「野性号」実験航海情報を点検していますが、残念ながら、同航海は、学術的なものでなく、客観的な最終評価がされていないことを見過ごされたように見えます。要は本筋の議論ではない道草なのです。むしろ、同海域で、帆船による往来が存在しなかったと見極める方が随分「明快」です。

 続いて、棟上氏は、本記事の核心と言える至言を提示されています。
 「海に不慣れな魏使一行が貴重な贈り物を持って船に何日ものるか、韓半島には虎が生息していたのですが、それを防ぐ軍勢と共に山道を取るか、答えは見えているのではないでしょうか。当然陸路でしょう。

コメント
 生野氏記事の引用は、棟上氏の文責ですが、造船は地場の船大工が行うものだから、造船業のない土地では、いくら号令をかけても造船は不可能です勿論、船材大量調達も大問題です。魏の造船、呉の造船など、殊更言うのも無駄です。長江河口部に海水淡水両者の造船業があっても、それ以外の造船業は、「魏志」に登場する長江支流漢水の川船造船、山東半島など渤海岸の海船造船でしょうか。
 いずれにしろ、造船業は、それぞれの土地の地場のものであり、特定の帝国に属するものではありません。

 ちなみに、棟上氏の裁断は明解で、皇帝の命令で貴重な贈り物を大量に抱えた魏使が、剣呑な海船で行くわけはない。堅固な陸路に決まっているとの趣旨は、まさしく、一刀両断の「名刀」です。問題は、斬られた方がそれと気づかないことです。

 おっしゃるように、野獣の危険などは、兵士が護衛すれば良い」のであり、仮に野獣の被害を受けても、人馬補充すればいいから、陸路が当然です。何しろ、野獣は下賜物を持ち去ったりすることはないのです。海船は、難破が付きものであり、嵐の沖合で難波したら、誰も助けにいけないのです。そして、帰らぬ人々は別としても、海の「もずく」ならぬ藻屑となった財宝は、誰にも取り戻せないのです。

 因みに、棟上氏は、しきりに、海に不慣れな中原人たる「魏使」とおっしゃいますが、実質は、黄海の海況に通じた青州東莱、ないしは帯方郡の関係者が運用したのでしょうが、それにしても、実際は、沖合航海は無謀なものとして、頭から却下されていたでしょうから、手近な黄海対岸への渡し舟と狗邪~對海~一大~末羅の手慣れた渡し舟の運用が全てであったものですから、何も恐れるものではなく、中原で見なれている州島(中ノ島)への渡し舟と大差ないとしたものでしょう。要するに、生野氏はじめ多数の夢想家の言う「延々と半島沖の多島海を、南北ないしは東西する大航海」は、儚い白日夢でしょう。「覚めない夢はない」、「明けない夜はない」と思いたいのですが、いかがでしょうか。

 要するに、皇帝の文書、帯方郡使の文書、さらには、皇帝下賜の土産物を、こうした沖合航海の不慣れな船便に托すのは、不法なものだったのです。不法な行いの処罰は、斬首です。重罪に連坐すれば、家族も命を落とします。
 冒頭に明記したように、『「倭人伝」道里行程記事は、陸路による半島内の文書使往来を描いた』ものであり、後世の魏使到来の記録などでは無いのです。山裾の散歩道の出発点で大きな陥穽に落ちて、あるいは、躓き石で転倒して、それに気づかないようでは、以下の考察は、無意味なのですが、気づいている方は希なので、ここに無礼承知で指摘するしかないのです。

コメント追記 2022/10/11
 生野氏の「帆船論」へのコメントを書き足します。
 生野氏は、無頓着に、何も知らない素人の強み三世紀の帆船も現代の帆船も大差ないと軽率に武断していますが、とんでもない話です。まずは、三世紀当時は、海図も羅針盤も無く、レーダーも、深度計もなかったので、一度沖に出れば、現在地を知るすべがなく、また、安全な進路を見定めることもできなかったのです。もちろん、周辺海域の天候を知るすべもないから、それこそ、台風と言えども、出くわすまで知るすべがなかったのです。
 また、入出港時のような舵取りは、帆船の操船/舵取りでは対応できなかったので、タグボートなど存在しない古代では、多数の漕ぎ手を乗せて、櫂捌きで転針するしかなかったのです。当たり前のことを、素人がことさら指摘するのも僭越なのですが、舵で帆船を転進するのは、ある程度航行速度があってのことであり、入港直前で、徐行しているときは、ほとんど舵が効かないので、漕ぎ手の力技に頼るしか無かったのです。
 それにしても、岩礁や浅瀬も、位置を知らなければ、避けようがないので、結局、それぞれの港に通暁した水先案内の指示に従うしか無かったのです。
 また、現代の帆船は、向かい風でも帆の操作で推進力を得る技術を備えていて、極端な無風条件以外は前進することができるのですが、三世紀の帆船は、そのような高度な構造も、操船技術を有していなかったから、風向きが悪いと身動きできなかったのです。
 つまり、航行速度以前に解決すべき難題が山積しているのです。
 付け加えるなら、現地海域が、大型の船舶の航行可能な状態であったかどうかも調査が必要です。操船の不自由さを置くとしても、船底が閊えず両舷も楽に通過できる「航行路」は、小型の船が、ごく希に往き来するだけの辺地では、全く知られていなかったはずです。

 棟上氏の指摘通り沿岸を遠く、遠く離れて、岩礁や浅瀬を十分に避けて、こわごわ帆走するにしても、塩っぱくて飲めない塩水の上では、数日のうちに接岸上陸しなくては水が切れるので、どこかで岸に近づく必要があるのですが、どうやって、海図の無い海で、安全な進行を見いだせるのか不可解です。
 こうした事情は、ずぶの素人でも、耳学問、ネット学問で学習する事ができるのですから、著書で、このような暴論を吹き撒ける前に、専門家の意見を聞くべきなのです。いや、これは、生野氏の無謀な著書に対する批判であり、棟上氏をとやかく言っているのではないのです。

 因みに、冒険航海の諸氏は、そのような帆船の不合理を承知していて、手漕ぎ船として、多少大きめ、重めとは言え、「漕ぎ手の力技で操船不可能ではない」「小船」に、地域海況に詳しい「水先案内人」(パイロット)を乗せ、案内された既知の安全な進路で進んで、天気予報も受信し、ほぼ毎日入港して、食糧と水の補給とともに、可能な限り陸上で休養し、現地の水先案内人と交代する「実用的な安全航海」に挑んだと見えます。全員帰還できたのには、立派な理由があったのです。当然ですが、古代船を再現した帆船で同航路を突破しようとした例は、見受けません。恐らく、遭難必至とみているのでしょう。

 何しろ、想定されている数百㌔㍍に及ぶ危険連続の航海途上で、一度でも難船難破すれば、それで全てお仕舞い、人も、宝物も、海の「モズク」、ならぬ「もくず」ですから、冗談抜きで「必死」、棟上氏の言う「剣呑」、つまり、鋭利な剣を喉に呑み下すのに匹敵する確実な「危険」です。皇帝の下賜物を届ける重大な使命であれば、万が一にも失敗すれば、大使以下の「責任者」は、「責任」を取らされて、自分だけでなく、妻子、家族まで連座して、公開の場で刑死して、晒し者になるので、惜しいのは、自分の命だけではないのです。

 ここで、もし、「極めて困難」と書かれていたら、それは「絶対不可能」と解すべきであり、信念を持って、決然と断行すれば、きっとできるに違いない」というような楽天的な意味ではないのです。地点別の危険度を㌫で評価して加算しても、所詮百㌫が天井なのですが、一度遭難すればお仕舞いなので、そのような稚拙な数値化には、まるで意味はないし、これは、「リスク」などと、戯けて誤魔化せるものではないのです。

 冒頭にお断りしたように、この種の議論は、論外の泥沼に踏み込んでいるので、いくら誠意を持って論じても「明快」には成らないのです。

コメント終わり

 以下、木佐氏の諸国比定論批判になりますが、当ブログの専攻範囲の「圏外」なので割愛します。

*棟上氏の総括~引用
 根本的には古田師がよく言っていらしたように、いろいろ我が郷土こそ邪馬台国と主張されるが、考古学的出土品のことについて抜けていてはダメ、と指摘されています。この木佐説も同じです。同じ時期にすぐ近くに「須玖岡本遺跡」など弥生銀座と称される地域がなぜ倭人伝に記載されていないのか、という謎が木佐説では説明できていません。できないからの無言でしょうけれど。
 折角の大作ですが、俳句の夏井先生が古代史の先生だったら、この作品は「シュレッダー」でしょう。  以上

*棟上氏の総括~引用終わり
 「書き止め」の上、謹んで公開します。(陳寿結語の引用です)
 ついでながら、周回遅れ、後追いの素人読者の所感では、古田武彦氏第一書『「邪馬台国」はなかった』では、邪馬壹国所在地は、須玖岡本遺跡地域が推定されていて、同遺跡は、邪馬壹国の墓所であり、卑弥呼の冢は軽微な土饅頭であって、当遺跡を見おろす熊野神社に守られているのであろうとしています。 2024/11/04 補充

 誠惶誠恐頓首頓首死罪死罪謹言

                                完

新・私の本棚 木佐 敬久 『かくも明快な魏志倭人伝』 再論・再掲

冨山房インターナショナル 2016/2/26
 私の見立て★★★★☆ 必読の名著 2019/01/06記 2019/07/20 2020/04/30 改訂追記 2024/11/02, 11/21 補追少々

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯始めに
 木佐氏好著の書評は以前に公開していますが、現時点解釈で述べてみます。

*行程論
 当方の不満は、本書がタイトルで「明快」と言いつつ、延々と旅程解釈に紙数を費やした点であり、今回も早々にご遠慮しました。
 端的に言うと、皇帝上申の倭国志に、読み飛ばしの効かない煩雑な行程を載せるのは、読解困難で解答のない「問題」提示であり、単なる嫌がらせで、場違いと思われます。
 本来、余計な道草を省けば明快な解答が浮かび上がる記事(問題)と見るのです。

*直行の勧め
 つまり、伊都からの本行程は、倭王居処直行で、直後数国は傍路と見ます。奴国の所在を含め、自郡至倭行程記事には、寄り道に過ぎないのです。かって、氏は、「倭人伝」旅程批判で、郡倭は「水行十日、陸行一ヵ月」の総日程と述べて広く賛同を得ていましたが、本書では、その明快さが崩れています。また、半島西岸南岸の船旅想定が賢察に漏れたとは、もったいないことです。

*年長大論(別稿あり)
 卑弥呼「年長大」の俗説批判には、大いに賛同します。氏とは別に近辺史料から用例を検出し、ほぼ同様の観測に達したので我が意を得た所です。
 古田氏が起用した「呉志」曹丕用例ですが、孫権が高官諸葛瑾に対し、即位時三十才超の曹丕を青二才と評した記事は、呉朝史官の筆(呉書)であり、魏志なら曹丕、曹叡に不敬ですが、陳寿は「呉志」諸葛伝として温存しています。
 と言うことで、呉志」用例は、むしろ、法外な難詰であり、俾彌呼の年齢形容に持ち出すのは、不適当と考えるものです。そして、当用例を除けば、「年長大」は、ほぼ、成人となる、例えば、十八才となるとの意味です。

*FAQならぬFAC(良くあるコメント)
 因みに、この件の議論を公開すると、毎回、用例を全部調べて書けとコメントされますが、史書用例はよく調べてよく読んでいて、異論を脇に置くだけの根拠を公開しているので、ちゃんと読んでからコメントしてほしいものです。

 むしろ、世上の各論者は、用例識不足であり、卑弥呼老魔女説など、古くさい「バチもの」先入観で文献解釈を曲げている、曲芸ならぬ「曲解」の例と思われます。
 なお、「年長大」なる著名な成句は、(中国語)辞書に幾つかの意味が提示されていて、子細に読むと、ここにあげた解釈を排除できないと知るはずです。
 当時、王族女子は早婚で、十五才までに縁づくから、倭女王は「共立後成人して、(当然)夫婿を持たない」との記事の深意を察するべきです。
 季刊「邪馬台国」誌連載の「倭人伝」解釈論考で大いに名を馳せ、戦前/戦中の皇民教育の日本語素養と戦後修めた中国語の教養を共に有している張明澄氏が屡々注意喚起しているように、陳寿は、辺境帯方郡の書き役の、時に中原教養人の常識を外れる文章を温存していて、古典用例は、必ずしも倭人伝の文脈の意義を越えて適用すべきものではないのです。

 そして、里数や水行に関する「倭人伝」提言の如く、「三国志」「魏志」用例すら絶対ではないのです。

*戸数概数論
 ついでのように、氏は、晋書ばりに、戸数可七万餘戸を総戸数と論じていますが、ここは直感ではなく、適確に論評して欲しところです。

 「可」「餘」に対する適確な評価、つまり、萬戸単位の前後を含みうる大変、大変おおざっぱな概数であり、千戸以下の端数は、萬戸単位計算に影響しないとの定見がはっきり示されていないので、萬餘戸(奴国)、可五萬餘戸(投馬国)の二大国に、他国戸数を足したとき、可七萬餘戸に収まらない、との定評(FAC)を克服できないため、一般読者に賛同されないのです。
 素人が愚考するに、大局理解には細部を読み飛ばす勇気が必要でしょう。

*まとめ
 以上のように、凡俗は好著の瑕瑾をつつくしかないのです。

                            以上

私の本棚 43 木佐 敬久 『かくも明快な魏志倭人伝』 3 東治論 補追

冨山房インターナショナル 2016/2/26
 私の見立て★★★★☆ 必読の名著  2016/03/09 2019/07/21 補筆・整形のみ 2024/11/02、 11/21 補追少々

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯始めに
 ここでは、木佐氏著作を肴に、東治論、つまり、340ページから展開されている会稽東治に関する議論を、我流で捏ねている。

 木佐氏は、かなり力を入れて、古田氏所説との差異を強調しようとしているが、こと本件では、別に、論旨がかぶっても、食い違っても、どうと言うことはないと思うのである。目的は「東治」が妥当との主張である。
 それにしても、この部分の木佐氏の書きぶりは、特に不出来だと思うさりげなく、 「夏の本拠であった長安」と書いているが、夏の本拠は、黄河下流域の河南省洛陽市付近と見られているようである。何かの勘違いであろうか。

 その後、性急に「別に会稽で治績を行ったわけではない」と断じているが、所詮伝説の世界であり、詳細な記録が残っているわけではないので、断言しても仕方ないことである。
 また、古田氏が禹の東治を「創作」したとしているが、別にその創作が間違いとか言うことではない。繰り返して言うように、ことは伝説の世界である。真相は全くわからないので、言うならば、史書は全て創作されているのである。

 いや、ついつい、禹の伝説を掘り下げる動きに巻き込まれてしまったが、肝心なのは、「東治」という、例のない言葉が三國志の原文かどうかという議論ではないのだろうか。

*会稽東治乃山
 ここで、小論の趣旨は、「会稽東治」はあったというものである。
 禹が、異郷で夷蕃の諸侯を集めた一種の「会盟」で覇者として振る舞ったという「伝説」は、あくまで「伝説」としての意義を認めるしかないのである。
 この会盟は、覇者の威光は名目としても、実際は、江水(黄河)圏と長江(揚子江)圏の同盟が締結されたとみるが、こうした事績で大事なのは名目/面目であり、してみると、禹の治世の最後を飾る偉大な業績なのである。
 小論は、禹が諸侯を集めて会盟したことこそが「東治」である、とみるものであるが、別に、排他的な議論でないので、こういう見方もあると思っていただければ幸いである。

 さて、禹の不朽の偉業を記念し永遠に、つまり、末代まで記録するのが、会稽という地名なのだが、低湿地であったと思われる周辺地域に小高く盛り上がった、目立たない小山であるが、「会稽」は、本来この山のことだったと思うのである。
 そして、禹が東治した山なので、「東治乃山」と呼ばれたと思うのである。
 全くの思いつきの余談であるが、会稽山は、日本で言えば、「禹」神社のご神体となるものである。全くの憶測もいいところだが、禹は会稽山に葬られたのではないかと、ふと思うほどである。

*史料渉猟
 余談はさておき、「東治乃山」は正史に登場しないので、小論の創作と思われそうだが、これは、後漢時代に、(前漢)漢王朝の典礼などを書き留めた「漢官儀」の記事を引用した「水経注」および「太平御覧」の記事として残っている。「漢官儀」自体は散佚したようであるが、両書を初めとした引用から復元されたようである。

 太平御覧 州郡部三 6 敘郡:
 應劭《漢官儀》曰:
 秦用李斯議,分天下為三十六郡。凡郡:(中略)
 或以號令,禹合諸侯大計東冶之山會稽是也。(
以下略)
 これは「東冶之山」ではないかと突っ込みが入りそうだが、実際は、諸史料、諸写本を眺めると「東冶之山」、「東治乃山」の二種の表記が残っている。この二者択一は排他的であり、文脈で判断するしかない。

*文脈判断
 後漢建安年間に大成されたと思われる「漢官儀」の上記記事は、秦始皇帝時代の宰相李斯事績として語られているが、「東冶」縣は、遙か後世の漢武帝時代において、滅亡した閩越国の跡地に、後漢初頭に設けられたのであるから、漢官儀」の会稽郡由来に「東冶」が書き残されるはずはなく、「東治乃山」と考えてほぼ間違いないのである。

 以上のように、「東治山」と呼ばれるべき理由は見出せても、「東冶之山」と呼ばれるべき理由は、全く見出せないので、これは、「東治山」が元々の文字と判断するのである。

 ということで、「会稽東治」は、会稽東治之山の呼び名であったと言える。

*范曄後漢書
 次に登場するのが、笵曄「後漢書」蛮夷傳の「会稽東冶縣」という言葉遣いである。
 會稽海外有東鯷人,分為二十餘國。
 又有夷洲及澶洲。
 傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海,求蓬萊神仙不得,
 徐福畏誅不敢還,遂止此洲,世世相承,有數萬家。人民時至會稽市。
 會稽東冶縣人有入海行遭風,流移至澶洲者。
 所在絕遠,不可往來。

*三国志呉書呉主伝
 この点を考察するときに参照すべきは、後漢書に先行する「三國志」記事である。
 《吳主傳》
 遣將軍衞溫、諸葛直將甲士萬人浮海求夷洲及亶洲。
 亶洲在海中,長老傳言秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人入海,求蓬萊神山及仙藥,止此洲不還。世相承有數萬家,其上人民,時有至會稽貨布,
 會稽東縣人海行,亦有遭風流移至亶洲者。
 所在絕遠,卒不可得至,
 但得夷洲數千人還。

 この記事は、まず、呉主孫権が)將軍衞溫などを派遣して、東海の異郷から徴兵しようとしたというものであり、一万人もの将兵の派遣の背景として、秦始皇帝時の徐福の亶洲渡海について触れた後、会稽東縣の亶洲にまつわる故事を描いものである。
 ただし、「会稽東縣」とは、余り見ない言葉である。

 思うに、当時の会稽郡は、陸上、河川航路、沿岸航路、全ての面で交通至便で、経済活動の盛んな臨海地域の東部諸県を、現代で言う「経済特区」として特別扱いしていて、会稽郡治の管轄から外して会稽東部都尉の支配地域としていたのである。
 おそらく、東部都尉の管轄する諸縣を「会稽東縣」と称していたのではないかと想像するのである。(後に、東部諸縣は、「臨海郡」として分離独立する
 東呉が全国制覇していれば、このような施策は、正史にでかでかと記録されただろうが、亡国の悲しさ、多くの事業が、記録から割愛されたのである。

 以上の記事は、何の断りもなく書き連ねているから、これら故事は、当代記事と同じ土地にまつわるものであり、この「会稽」は、会稽山付近を指すものと見るべきである。

*范曄の勘違い
 ということで、笵曄は、「後漢書」編纂の際に、「東夷傳」のない「呉志」から、「魏志」が書き漏らした記事を発掘したのはいいのだが、文章を改善するときに、勘違いして「會稽東縣」を「會稽東冶縣」と書き換えてしまったとみるのである。
 そして、この部分で、会稽東冶県という字面を確信したため、「倭条」冒頭付近で「魏志」の誤記を正して、「会稽東冶」と書いたようである。
 要するに、范曄「後漢書」の「会稽東冶」は笵曄の勘違いの産物である。そして、この勘違いの影響は、後続史書に引き継がれるだけでなく、先行する魏志倭人傳の解釈を狂わせることにもなったのである。笵曄は文章家として絶品であるが、才気の走りすぎでみすみす「高度な誤記」を出しているのである

 後漢書は、守備範囲からやや外れるので干渉しないとして、ここでは、三國志に関してだけ言えば、呉書(志)にも魏書(志)にも、会稽東冶(縣)という言葉はないとみるのである。

 以上は、論断でなく、推断であるので、こういう見方もあると理解いただければ幸いである。

以上

私の本棚 7 礪波 護 武田 幸男 「隋唐帝国と古代朝鮮」1/5 補追

世界の歴史 6 2008年3月 中央公論新社 単行本 1997/1/10 (中公文庫 2014/05/22)分割再掲 020/06/17 2023/01/01 2024/02/12, 11/01
 私の見立て ★★★★☆ 貴重な労作 書評対象部分 ★☆☆☆☆  未熟な用語、安易な構成、誤解頻発

〇始めに 「古代朝鮮」論
 本書の主たる守備範囲は、「隋唐帝国」ですが、時代を遡った「古代朝鮮」が付随し、後半部が本論筆者の守備範囲に及んでいます。

*倭人伝考察
 第2部 朝鮮の古代から新羅、渤海へ 武田幸男
 「10 高句麗と三韓 帯方郡と卑弥呼」に、魏志「倭人伝」に関連しそうな考察が展開されているので、ページをめくる手が止まるのです。

*景初三年皇帝拝謁仮説

 著者(武田氏)は、景初遣使が天子に拝謁したものの下賜物は目録を渡されたものと解します。
 当然、氏は、景初三年一月一日に明帝が死亡した史実は、ご承知ですから、ひょっとして年少の新帝曹芳が、喪中を顧みず接見したのでしょうか。どのような根拠で、「拝謁」、「接見」を得たと断定しているのか不可解です。

*「画餅」ならぬ餅作り
 因みに、下賜品目の細かい様子は別として、これだけ多種多量の品物を、倭使の僅かな一行で持って帰れというのは、途方も無い無理難題です。倭人の手土産でわかるように、限られた人数の一行なので、全員が背負える荷物は、とても、僅かなものです。
 当然、大勢の担ぎ手を付けて、少なくとも、まずは、帯方郡太守の治所まで送り届けなければなりません。そのためには、道中の宿駅に、担ぎ手大勢を手配するよう指示して送り継ぐように手配し、山東半島莱州から帯方郡の海港までは、普段往来している海船を必要な数だけ予約し、確保しておくよう指示しなければならないのです。但し、それは、魏朝の治世下なので、洛陽から書面で命令すれば、確実に実行されます。その時点、中国は、「法と秩序」の世界だったのです。
 先だった、後漢献帝期、中国の国家統治体制が瓦解寸前で、中央の統制が行き届かず、遼東太守公孫氏が、域外の山東半島の戦国「齊」領域まで支配していましたが、そのような拡大政策は、献帝建安年間後期に曹操の権力掌握が進んで、公孫氏を威圧したので、あっさり撤回され、文帝、明帝と続いた曹魏の治世下では、魏朝の支配が確立していたのです。と言うことで、ここは、官道整備が完備していて、山島半島の海津東莱で、下賜物を船積みするまでは事務的に進んだのです。

 そこから先は、帯方郡太守の責任ですが、この地域は、明帝が派遣した新任太守の支配下であり、公孫氏の手の届く範囲ではないのですが、それにしても、帯方郡太守が、以下、倭まで送り届けできることが確認されていなければならないのです。
 洛陽の方から、一方的に期限を指定してしまうと、遅延した場合に、きつく処罰しなければならなくなるので、まずは、郡の請け合う期限を聞かなければなりません。

 各地への連絡に騎馬の文書使を使うとしても、帯方郡から先は、前例のない緊急事態なので即答は得られず、特に、狗邪韓国以南は、渡船の果てに、街道未整備の未開地なので、いくら期限厳守の曹魏制度で急使を往来しても、すべて確約を得て発送できるまでに、少なくとも半年はかかりそうです。「畿内説」の顔を立てようにも、半年どころか一年たっても確答が得られるとは、とても思えないのですが、流すことにします。

 いくら、宮廷倉庫の滞貨一掃でも、それぞれ、倭まで荷運びできるように、それぞれ荷造りしなければなりません。手土産に、飴玉を持たせるようには行かないのです。とにかく、今日言いつけて、明日発送とは行かないのです。

 もし、一部で言われている「新作」説で言うように、前例のない意匠で大型の銅鏡を一から新作するとしたら、試作確認やら、銅材料の手配やらで、これは、新宮殿の飾り物制作で忙殺されていた尚方ですから、百枚制作する期間自体を度外視しても、一、二年かかりそうなものです。このあたり、明快に書いていないのは、恐らく、渋滞したからでしょう。

 「画餅」は、さらさらと書き上げられても、実際に手に取れる、食することができる、腹持ちする「餅」を作るには、厖大な手順段取りが必要なのです。著者は、そのような実際面は気にせずに、あり得ない図式を「心地良く」思い描いているようですが、素人が考えても、一行で片付く物でないことは、すぐにわかるのです。 

*安易な生口解釈追随
 生口は、「捕虜ないしは奴隷」と安易な「定説」追随が明らかとなっています。ここでは、深入りしませんが、大変不可解/不条理で、常識的に信じがたいと申し上げておきます。曹魏は、文字を知らない蛮夷を、教育・指導し、奴婢として訓練しても、しょうがないのです。古来、使い走りなどの雑務をこなす「官奴」には、事欠かないのです。まして、蛮人の戦争捕虜など、物騒です。
 「鳥は宿る木を選ぶ」のですが、氏は、命をかけられるほど確かな木を選んだのでしょうか。

*的外れの出超評価
 著者は、景初遣使下賜物を魏側の「出超」と評していますが、ことは共通通貨に基づく売買でなければ、物々交換の交易でもないので、時代錯誤、見当違いの低俗、つまり、子供みたいな評価です。丁寧に言うと、古代の王朝は、朝貢などの際の「貿易」の収益は、ほぼ関知していなかったので、蛮夷の来貢で、儲けを取る気は無いのです。
 要するに、どうしても損得評価したいのであれば、献上物と下賜物の魏朝での「時価」を「総合」すれば、交易と評価したときの収支が推定できますが、ことは、まるっきり交易ではないので、無意味な議論です。

 倭人側としては、献上物の価値(コスト)評価には、危険を冒して遠路はるばる持参した運送費や使節の出張費といった膨大な「経費」を考慮するし、魏朝側としては、帝国の威光を遠隔地に広げるという「広告宣伝」が絶大であるのを考慮すれば、下賜物の価値が変わってきます。そもそも、天朝は物産豊富であり、買い求めるものは何もないのです。
 ついでに言うと、倭人には貨幣がないので、金額評価は、まるっきり不可能なのです。
 こうして、氏は、単純な「物」の価値評価の埒外の評価を適用していますが、それぞれ「主観」であり、どうしても正当、公平な価値評価とならないのです。
 誰の入れ知恵か知りませんが、もっと、まともな理屈を言える方の知恵を借りるべきでしょう。

*大盤振舞い
 それにつけても、魏朝下賜物は、その時ことさらに設えたのでなく、恐らく漢王朝以来の宮廷倉庫在庫品であり、後漢末期の長安遷都騒動に伴う略奪を免れた貴重品としても、あえて現代風に言うと、アウトレット(在庫処理)の大盤振舞いかと思いますが、一度限りのものであることは言うまでもありません。

*万里の賓客
 とは言え、周代以来の制度として蛮夷受け入れ/接待部門である鴻廬に示された規準では、万二千里の遠隔の新来蛮夷は、最大限の賓客厚遇を施すことになっているので、後世人は、到底理解できない過分の処遇と見るのでしょうが、それは、二千年後世の無教養な東夷の早とちりに過ぎないのです。
 時の天子曹叡は、漢代は勿論、祖父武帝曹操、実父文帝曹丕を越える絶大な偉業を示そうとしていたので、一段と厚遇されたものと見るのです。

*拭いがたい時間錯誤
 「二千年後生の無教養な東夷」の浅薄な「価値観」を無思慮に古代に塗りつけるのは、はなから時代錯誤であるし、ここで述べられた「出超」評価は、先に丁寧に短評を試みたように、現代の合理的な経済原理を踏まえた評価でもないのです。何とも、子供じみた浅薄な放言であり、著作の価値を下げてしまうと言わざるを得ないのです。
 とかく、たちの悪い「失言」ほど、猿まね発言が出回るので、誠に、罪深い事、限りない発言なのです。この場で罵倒に近い「好意的な」評価をお届けするのは、誠に世評の高い、無限に影響力のある著者だからです。

                                未完

*祭肜(さいゆう)小伝 2024/11/01
 祭肜は、光武帝代の遼東郡太守であり、Wikipediaに小伝が見られる。
 41年(建武17年)、祭肜は光武帝にその有能を見込まれて、遼東太守に任じられた。[中略]45年(建武21年)秋、鮮卑が1万騎あまりで遼東郡に侵入すると、祭肜は数千人を率いてこれを迎撃し、[中略]鮮卑は敗走して、塞外に追い出された。[中略]鮮卑の大都護の偏何を帰順させた。祭肜は偏何に匈奴を討つよう求め、偏何は匈奴の左伊秩訾部を討ってその首級を持って遼東郡を訪れた。その後、匈奴と鮮卑は攻撃しあうようになり、匈奴は衰弱して後漢にとっての北方の脅威は軽減された。

 帰順は、一種の服属であり、鮮卑は、貂毛皮、駿馬などを献上し、光武帝は、潤沢な下賜物を与えると共に、厖大な歳費を与えたのである。
 匈奴は、秦代以来、北方の憂いであり、始皇帝は、長城を設けると共に皇太子扶蘇
と蒙恬将軍に三十万の兵を与えて、匈奴などの脅威に対抗し、漢高祖は、大軍を率いて親征したが、逆襲を受けて敗勢に至ったため、匈奴に兄事する盟約を結んで、歳貢を献じ、漢武帝が国力を傾けて、大規模な侵攻を収めたが、絶滅させるに至らず、漢の衰退と共に、匈奴が勢力を回復したのであり、後漢を再興した光武帝にとって、不十分な国力で、匈奴を打倒する戦略が求められていたのである。
 つまり、多年に亘る匈奴との角逐で「夷をもって夷を討つ」高度な戦略が求められたのである。
 とはいえ、以後、匈奴を排除して台頭した鮮卑は、増長して、後漢魏晋を通じて、北方の憂いとなったのである。但し、鮮卑は、多数の部族に分かれたとは言え、時に、特定部族を率いた代表者が、毛皮や駿馬を貢献して服属を申し出ては、王の印綬を賜って忠誠を誓い周辺部族の平定を図り、時に、反抗・侵掠して、遼東方面を混沌とさせていたのである。
 ただし、後漢献帝の建安年間、公孫氏が遼東郡太守に着任して武力を振るったことにより、遼東郡周辺態は、漸く沈静化していたのである。
 ということで、曹魏明帝が与えた「倭人」に対する処遇は、特に、異例の厚遇というものではなかったということである。

 陳寿は、蕃夷に篤く酬いて懐柔する政策には懐疑的であったとも見えるが、それは、二千年後生の無教養な東夷 。魏志の「評」に曰く、「魏の時、匈奴はようやく頽勢に向かったが、代わって、鮮卑、烏丸、そして、東夷が隆盛を迎えた、つまり、四夷は不変のものではない」と達観しているのである。

 史官は、明言できなかったとしても、二千年後生の無教養な東夷の素人の意見では、かくの如き秦漢代以来の東夷風雲録を振り返っても、後漢末以降の公孫氏の東夷統御は見事であり、三国鼎立状況で頓挫していた曹魏は、公孫氏に、気前よく燕王、東夷都督の称号を与えて、高句麗、烏丸、鮮卑を統御させればよかったのである。なにしろ、孫氏は、曹魏に人質を入れていて、形式的には、曹魏天子に服従していたのであるから、所謂「外交辞令」で充分だったのである。

 それを、何を勘違いしてか、大軍を動員して公孫氏を討伐して、鉄壁の東夷統御を灰塵に帰したため、高句麗、新羅、百済の三国体制を成立させ、「倭人」など雲の彼方に飛んでしまったのである。誠に、明帝曹叡は暗君であり、その走狗として、遼東が灰塵に帰する蛮行を行った司馬懿も、極め付きの愚人だったのである。

以上

2024年11月 1日 (金)

私の本棚 7 礪波 護 武田 幸男 「隋唐帝国と古代朝鮮」2/5 補追

世界の歴史 6 2008年3月 中央公論新社 単行本 1997/1/10 (中公文庫 2014/05/22)分割再掲 020/06/17 2023/01/01 2024/02/12, 11/01
 私の見立て ★★★★☆ 貴重な労作 書評対象部分 ★☆☆☆☆  未熟な用語、安易な構成、誤解頻発

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*軽率な銅鏡論
 その後、東夷の出土品である「景初三年銘の三角縁神獣鏡」を、さらりとこの下賜銅鏡と結びつけていますが、根拠の無い当て推量であることは明らかです。まるで、子供の思いつきと云われかねないのです。
 皇帝代替わりでてんてこ舞いしているはずの「尚方」(官製工房)にとって、皇帝不在の「景初三年銘」、「新規意匠、空前の大型」銅鏡百枚新作に、喪中の景初三年に着手したとして、期限内に全量制作・出荷できたかどうか。

 新型銅鏡新作とあれば、鋳型の新作までの試作と工夫、大量の銅材料の手配、尚方の人材と労力の投入が必要です。青銅を溶かす「坩堝」や溶けた青銅の湯を坩堝から注いで、鋳型に注ぎ立てるの「柄杓」も、倍近い量をこなす大型化が必要です。銅鏡工房の大改造が必要です。
 加えて、銅鏡の長距離搬送に要する厳重な梱包(木箱)の制作と膨大な箱詰め梱包作業がともなう大事業です。小分けした手運びも必要なので、一枚ごとの箱詰めも必要です。大型鏡百枚新作に、大きな疑問を抱く理由です。

 下賜物は、倭人」使節がお土産で持って帰るのではないので、魏皇帝が、責任を持って、(経費一切を負担して)送り届ける必要があるのです。
 途中で、帯方郡に責任を持たせるにしても、帯方郡が、担当行程を引き受けたと回答しない限り、送り出せないのです。
 帯方郡は、伊都国で荷物を倭人に引き渡すとしても、倭人が受入を確約しない限り、皇帝に確約できないのです。「確約」するというのは、任務不首尾の時は、中原の「王」に匹敵する厚遇を受けている太守が、更迭されるくらいで済まないかも知れないからです。普通は、郡の高級官吏を現地に派遣して、対面して各国責任者の確約を取り付けるはずです。

 と言うことで、皇帝の指示が出てから、実際に荷物が帯方郡に渡るまでに、何ヵ月かかったか不明なのです。いや、中原では、大量の荷物、主として、穀物が往き来していたので、下賜物程度で、輸送便が輻輳することはないでしょうが、帯方郡から先は、普段ほとんど荷物がないので、具体的に荷姿や荷物の目方を言って、人集め、船手配しなれければならないのです。
 そして、すべての準備が整って、郡太守が首をかけても大丈夫と判断して、始めて、洛陽に報告が届いたのです。
 言うまでもないでしょうが、そのような実務を通じて、「帯方郡から倭人の届け先まで、何日がかりなのか、確実に、確認されていた」と見るべきです。

 と言うことで、万二千里」が、後漢建安年間に、公孫氏が「倭人伝」を創設した際に、そそくさと書き留めた観念的なものであって、実道里と大いに異なっていることは、遅くともこの時点で、関係者に知られていたのです。
 ただし、この区間を「万二千里」と承認した明帝は、とうに世を去っていて、先帝の遺命は新帝には改竄できないので、今日確認できる「倭人伝」にも、公式道里は、不朽の「万二千里」と書かれているのです。
 それにつけても、根拠の確認されていない、と言うか、明らかに否定されている「定説」に安易に依拠するのは、重ね重ね軽率です。

*後年下賜の仮説
 さらに、著者は、243年の第三回の通交では「お返し」の記録がない』と嘆いています。ここに上げられた「通交」は、対等な相手(敵国)との交渉ではなく、またプレゼント交換の儀式でもないのです。また、下賜物は、献上物に対する「お返し」ではないのです。

 したがって、定例の来貢への下賜は当然であり、それ故、ことさら正史に記録されていないのです。記事がないのは無事のしるし。それが、正史読者の大人(おとな)の分別というものですが「二千年後世の無教養な東夷」に大人の分別を求めるのは、無分別なのでしょうか。

 むしろ、莫大な下賜物を要する「万里の賓客」は、二十年一度の来貢が精々であり、
それ以上頻繁に来られると、来貢拒否になりかねないのです。つまり、勝手に押しかけると、追い返されるのです。これが「中国古代史の常識」です。

*余言のとがめ
 このあたり、著者が、専門外分野で「素人」で、専門家の助言を仰がず、熟慮なしに、子供じみた所感を吐露しているのでしょうが、読者は学者先生の権威ある意見と見てしまうものです。余言の弊害は夥しいものがあります。
 とにかく、古代史に、現代(二千年後生の無教養な東夷)の軽薄な価値観、手前勝手な学説を塗りたくるのは、時代錯誤と言うべき場違いであり、小賢しい考察と言うべきでしょう。

*安直な価値判断への批判
 安直な素人判断は、現代人の俗耳に訴えるでしょうが、学術的な判断には、客観的考察を妨げる邪魔な雑音でしかないのです。物の価値判断は、時代、立場によって大きく異なるので、素人判断は、軽々しく高言すべきではないのです。いくら俗耳に受ける軽快な言葉で訴えて、取り巻きの賛辞を浴びても、それは、一時の虚妄であり、後世に恥をさらしかねないのです。

*虚空の「現実主義者」
 著者が、張政は軍事顧問との卓見ですが、なぜか「現実主義者」と評しています。張政は、文官でなく軍官なので、その資質が表れているのでしょうか。非現実的浪漫派」と暗に非難されているのは、誰でしょうか。
 というものの、軍事顧問は、単身だったのでしょうか百人、二百人の実戦力を連れていたのでしょうか誰が、莫大な戦費を負担したのでしょうか。ことは、銅鏡百枚どころではないのです。
 それにしても、著者は、淡々と、張政は、247年に来訪し248年に帰国した、長く見ても2年に足りない滞在と推定していますが、これは、正史記録と異なるように思われるのです。何しに来て、何をして帰ったのでしょうか。

                               未完

私の本棚 7 礪波 護 武田 幸男 「隋唐帝国と古代朝鮮」3/5 補追

世界の歴史 6 2008年3月 中央公論新社 単行本 1997/1/10 (中公文庫 2014/05/22)分割再掲 020/06/17 2023/01/01 2024/02/12, 11/01
 私の見立て ★★★★☆ 貴重な労作 書評対象部分 ★☆☆☆☆  未熟な用語、安易な構成、誤解頻発

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*手軽な書き替えの弊害
 このように見ると、本書では、一連の事象を、現代の読者がするりと呑み下せるように滑らかに書き均しています。これは、よく見られる原文書き換えの手口です。魏志「倭人伝」全体が、このように滑らかに読み取れるとすれば、世上の議論は発生しなかったでしょう。まことにめでたいことです。

*さんざめくよそごと
 それ以外にも、著者は、諸処で余言を紛れ込ませて、さながら、ウグイス張りの廊下を歩く感じで、騒々しいことおびただしいのです。

*好太王嫌い~三韓視点の押しつけか~余談
 例えば、346ページにご託宣があります。当ブログの守備範囲外ですが、個々では、口を挟むことにしました。
 『とくにただ「好太王」というならば、それは内容のない美称だけの略称になってしまいます』

 「内容のない」と得々と説きますが、実は趣旨不明です。著者のような二千年後生の無教養な東夷の「素人考え」は求められていないのです。「好太王」は、自国の国土を拡大し国勢を高めた王と言い表していて、立派に「実質」のある美称です。後世局外者が、小賢しくしゃしゃり出る余地はないのです。
 何よりも「好太王」は「広開土王」と同一人物であることが自明です。してみると、著者は、この三文字略称が気に障るのですが、何かその過去に解きがたいトラウマ?でもあるのでしょうか。
 好意的に解釈すると「広開土王」と呼ぶ方が、字面に、領土拡大の業績が明示されているから好ましいと思いますが、そのために、世に広がっている簡明な「好太王」の通称を貶める必要はないと思います。
 とにかく、何でもないところで、何故著者が激高するのか不可解です。安手の韓流ドラマに「食あたり」したのでしょうか。

*韓流正史の怪
 続いて正史「三国史記」と書いていますが、いつから、「三国史記」は「正史」になったのでしょうか。まことに不可解です。
 「正史」は、中国の文化に基づいて書かれた中国の史書であり、蛮夷が一外国(蛮夷の国の意味)に過ぎない「自国」について書き記した史書を勝手に正史と称しても、「正史」と呼べないのです。これは「律令」も同様であり、蛮夷が「律令」、「正史」を策定するのは、蕃王が自身を「天子」に擬し、「中国」始め、三韓等々、悉くを蛮夷とするので、万死に値する大罪なのです。

 筆者が、三韓に感情移入して、韓地天下の世界観を懐胎して主観が替わって、「三国史記」を「正史」と呼ぶなら、「中国」も「日本」も無学の野蛮人となりますが、筆者は、そのような主観遷移の表明を意図しているのでしょうか。

*私見の奔流
 以上のように、中国「正史」の権威と思えない筆者が、長年の学究生活を通じてその身にまとった揺るぎがたい世界観が、当歴史書物に無遠慮にせり出してくるのが、客観的で誠実な学術書を求める読者には場違いなのです。

 いや、つい、本論筆者の私見が前に出てしまいましたが、「私見を押しつけるのは偏向」と戦闘的な著者が書いているのを見て口が滑ったのです。
 当方は一私人であり、ここに何を書いて私見を押しつけようとしても、世間に一切定見として通用しないのですが、威者が公刊物で私見を振り回すのは、偏見の押しつけでしょう。

                               未完

私の本棚 7 礪波 護 武田 幸男 「隋唐帝国と古代朝鮮」4/5 補追

世界の歴史 6 2008年3月 中央公論新社 単行本 1997/1/10 (中公文庫 2014/05/22)分割再掲 020/06/17 2023/01/01 2024/02/12, 11/01
 私の見立て ★★★★☆ 貴重な労作 書評対象部分 ★☆☆☆☆  未熟な用語、安易な構成、誤解頻発

*カタカナ語の乱用~不可解な逃げ腰非難
 本書は、もともと、「世界の歴史」叢書の一巻ですから、中国以外、古代以外の概念が登場しても、ある程度許容すべきかも知れませんが、それは、あくまで対象地域、時代に対して、度しがたい時代錯誤とならないように、慎重に布石した上のことと見えます。

 本書の「高句麗と三韓」「帯方郡と卑弥呼」と題された部分で、それは顕著です。
 「彼女の素性」は、と物々しく書き出して、「周知のとおり」と子供じみた前振りに続いて、「鬼道につかえるシャーマン」と「倭人伝」登場者の誰一人として理解できない言葉を貼り付けているのが、その端緒です。古代では、素性(Who)は、家系・出自であり、それを書かずに戯言を書くのは、子供じみています。

 もちろん、当時「シャーマン」なぞ存在しないので、不審です。他にも、目障りなカタカナ語は、「タイミング」、「ズバリ」があり、英語起源とは限らない「下品」極まりない、本書にふさわしくない、子供じみた言葉は、本来、書籍編集段階での書換が望ましいのです。

 続くページには、「今の世界経済と比較にならない」と普通の社会人にはわけのわからない前置きに続いて、カタカナ語ならぬ、「出超」なる、本書にふさわしくない、子供じみた「片言」です。ひょっとして、「出禁」と取り違えたのかと思えます。(「出超」については、先走って、念入りに論破しています)

*「ネットワーク」の泥沼
 続いて、深刻な「ネットワーク」が登場します。
 著者によれば、半島には、(意味不明な)「ネットワーク」が棲息している/跳梁跋扈していることになっていて、ことわりなしに「幹線ネットワーク」、「情報ネットワーク」が登場しますが、あきらかに古代史料に書かれていない勝手極まりない妄想であり、それが、ここでだけ引用された「倭人伝」道里記事の勝手な解釈に塗りつけられていて、一体、何のことやら、闇の中に落とされて、そこに、意味不明な「国際性」、「国際ネットワーク」が投げつけられて、誠に困惑するのです。氏は、何処の誰に向かって、仲間内でしか通用しない創作符牒のようなものをばらまいているのでしょうか。

*「帯方郡通交ネットワーク図」の怪
 どうにも説のつかない、絵解きが提示されますが、どう見ても「実施不可能な経路」の「一本道」のいたずら書きであり、しかも、「ネット」(正味/編み目)も「ワーク」(作業/動作)も提案されていないのです。重ねて、「幹線」とか、何とか言われても、古代にないものは「なかった」のです。それは、「ブロードバンド」と賢そうに書き足されても、改善されないのです。まさか、首都圏の通勤電車なみに、ひしめき合っていたのでしょうか。
 230102
 「韓伝」「倭人伝」に書かれていないと思われる韓国に関する憶測を紙上展開しているのにも困惑します。
 陳寿「三国志」「魏志」「東夷伝」記事で、「倭人」交通/輸送に関係しそうなのは、弁辰鉄山から、両郡に鉄材が納入されていたとの記事であり、当然、郡として半島を騎馬ないしは馬車荷車で踏破できる街道を設置し、馬匹による荷物運びを運用していたとわかるのですが、それは、ここには書かれていません。つまり、所定の距離に関所/宿場があって、馬蹄の打ち据えにも対応していたということです。(まさか、馬草鞋履きではないでしょう)「視れども見えず」と言うことでしょうか。
 それとも、この一路貫徹で、「半島周回海上輸送」を主張しているのでしょうか。一本道で「ネットワーク」が構築できると信じているのでしょうか。「病膏肓に入る」、つけるクスリの無い迷妄かと見えます。

                      未完
 

私の本棚 7 礪波 護 武田 幸男 「隋唐帝国と古代朝鮮」5/5 補追

世界の歴史 6 2008年3月 中央公論新社 単行本 1997/1/10 (中公文庫 2014/05/22)分割再掲 020/06/17 2023/01/01 2024/02/12, 11/01
 私の見立て ★★★★☆ 貴重な労作 書評対象部分 ★☆☆☆☆  未熟な用語、安易な構成、誤解頻発

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*「普通」「自明」の街道「網」
 陸上街道は、船便乗り継ぎの五、六倍速いし、難破して海の藻屑ならぬモズクになることもないし、荷物が重ければ小分けで送れるし、第一、駅伝なら、途中でつまみ食いされる可能性もないのです。騎馬文書使は、甲板を疾駆して時間を稼いだのでしょうか。ご冗談でしょう。

 本題に還って、この部分は、本来「倭人伝」に無縁の主張であり、前後の記事と照合しても、場違いのように見えます。なぜ、場違いな記事をはめ込んだのでしょうか。結局、この部分は、不出来な、本書にふさわしくない子供じみた提言を聞かされるに過ぎないのです。

*「地図の思想」「無図の思想」
 要は、著者に、「ネットワーク」(敢えて言うなら、ここでは、交通網)の概念が「まるっきり」ないのが、歴然としています。図にもっともらしく描かれているのは、半島南岸、西岸を通って北に抜ける一本の航跡らしいもの「だけ」で、諸韓国どころか帯方郡も通っていません。そして、そのあと、目前の山東半島にそっぽを向いてどこに北上するのか、不思議です。とにかく、「ネット」(網)になっていないのに、何を言うかということです。
 もちろん、史料にこのような図はないし、図が書けるような経路、停泊地列挙もないから、これは氏の私見なのでしょうか。お戯れにも程があります。台になっている白地図は、どこかの誰かが、現代データで書いた図版でしょうが、データ利用の許諾は得ているのでしょうか。現代データは正確としても、現地の地理として三世紀に此の通りだったという保証はありません。地名、国名の根拠もありません。氏が独自にこね上げたとして、どんな根拠があるのでしょうか。とにかく、重症です。

 丁寧に言うなら、三世紀当時このように地図は存在しないから、基本資料である陳寿「三国志」「魏志」「東夷伝」は、このような図を一切想定していません。史料編纂に参照されていない図版で、編纂者の深意にどのように到達するのか、誠に、不思議です。普通に考えると、見当違いの絵解きです。

 存在しなかった地図を無視して、記事の字面を追うと、倭人」使節は、狗邪韓国から内陸道を北上し、途次、諸韓国に礼を尽くしつつ、帯方郡太守の元に参上したと「すらすら」と読めるのであって、図示のように、「三国志」「魏志」「東夷伝」に一切指示のない、つまり、韓国に属しない海上の移動などではなかったと見えます。

*「反省会」のお勧め
 一度、よくよく、著者の身内で読み合わせした方が良かったのではありませんか。
 これでは、辰王と卑弥呼が時代を共にし交信していたかも知れない」という、『史料に影も形も無い、両者の生存した時代も整合しないと見える「小説的夢想」』であり、古代史論では、場違いで、「思いつき」と言うにも値しない、とんだ恥曝しです。どこかで、楽しい読み物でも拾い食いしたのでしょうか。小説なら、其の場限りの創作を試みても許されますが、本書のように、一般読者に氏の私見を麗々しく押しつけるのは、困ったものです。
 氏の影響を受けてかどうか、確かではありませんが、某書には、司馬懿が卑弥呼を「知っていた」という臆測が示されていて、太古以来、男女が互いに相「知る」という事は、「臥所(ふしど)をともにする」という事であり、誠に、意味深長で恐れ入ります。ちなみに、同書では、両者の間は、帯方郡太守が取り持ったと示唆されていて、まことに色っぽいのですが、史学界では、かくのごとき、18禁の話題が飛び交っているのでしょうか。

閑話休題
 と言うことで、追加として考察を試みましたが、随分杜撰です。

◯まとめとして
 古代史を学ぼうとしている読者が、氏に求めるのは、当時の人々が何を考えていたか、当時の人々に理解できる可能性のある言葉を今の言葉で語ることであり、氏の子供じみた夢想を聞きたいわけではないのです。

 いや、ここで氏の失態を書き立てるのは、氏ほどの名声があるからには、その著作は、後学のかたが、無批判で追従する/していると懸念さるからです。特に、中央公論社の全集となれば、即座に殿堂入り、「レジェンド」の彼岸の方と見えるのが、気がかりなのです、

 恐らく、氏の支持者は、氏に遠慮なく諫言できなかったのでしょうが、結果として、氏の晩節を穢しているのは勿体ないと思います。

                               以上

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