新・私の本棚 ブログ批判 刮目天一 「卑弥呼の墓はどこ?」(続報)2/3 補追
私の見立て ★★★☆☆ 奮闘真摯 初掲2024/07/06 *当家2024/07/16, 11/08
*加筆再掲の弁
最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。
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*外野コメント 承前
一級史料は、読者に計算させない配慮なのですが、級外史料が読めなかった「所引者」は、戸数不明の泡沫諸国と千戸単位の諸国と二萬、五萬の二国、そこに、正体不明の七萬を足して、総計十四萬戸とも十五萬戸とも不明の「巨大な蜃気楼」を映し出しています。
これは、半ば余談ですが、九州説に反対する論議の最後の拠り所は、「そのような140,000戸に垂ん(なんなん)とする大国は、北九州地域に絶対収まらない」と言う「伝家の宝刀」であり、以上に示したように順当に解釈すると、その「拠り所」は、雨散霧消して蜃気楼ほどの存在感もないのです。
陳寿が、そんな「騙し討ちの記事」を提出したら、三世紀の高貴な読者に叱責されたところです。既定総戸数七萬戸を温存しつつ『牛馬がいないから各戸農地は狭小で、また末羅から狗邪の「水行」軽舟は米穀輸送できない』と明示して、倭人諸国に対して、郡からの食料供出が及ばないようにしましたが、千年後生「所引者」は、そんな台所事情を知るはずもなく、幸い、「所引者」の誤解の副産物で、投馬、耶馬臺二国が遠方に比定されたことから、食料徴発の懸念は薄らいでいます。
これは、半ば余談ですが、九州説に反対する論議の最後の拠り所は、「そのような140,000戸に垂ん(なんなん)とする大国は、北九州地域に絶対収まらない」と言う「伝家の宝刀」であり、以上に示したように順当に解釈すると、その「拠り所」は、雨散霧消して蜃気楼ほどの存在感もないのです。
陳寿が、そんな「騙し討ちの記事」を提出したら、三世紀の高貴な読者に叱責されたところです。既定総戸数七萬戸を温存しつつ『牛馬がいないから各戸農地は狭小で、また末羅から狗邪の「水行」軽舟は米穀輸送できない』と明示して、倭人諸国に対して、郡からの食料供出が及ばないようにしましたが、千年後生「所引者」は、そんな台所事情を知るはずもなく、幸い、「所引者」の誤解の副産物で、投馬、耶馬臺二国が遠方に比定されたことから、食料徴発の懸念は薄らいでいます。
このように、二件の誤解釈は世上溢れる名解釈の由来ですが、陳寿の「魏志倭人伝」上申以来千年近い乱世が介在し、「所引者」は、適確に史書解釈できないようです。
一体に、原本確定後に、史官の教養が維持・継承できなかった乱世が数世紀に亘ったため、原本テキストの解釈は経年変化で失われ、読みかじりが蔓延ったようです。時代を隔てると加速度的に誤解が増えると認識する必要があります。
「魏志倭人伝」の場合、直後の劉宋史官裴松之すら、ほぼ同一行文と思われる魚豢「魏略」以外に有効な別資料を持たなかったのですが、さらに数世紀を経た無教養な「御覽」の「所引者」は暗闇を進む風情であったと見えます。史料批判に精通した方に言うまでもないでしょうが、裵松之と同時代の笵曄「後漢書」東夷列伝「倭条」は、根拠となる資料が不確かで空白となっていて、笵曄は、陳寿「三国志」魏志東夷伝から趣向を凝らして転記しているほどです。基本の基本ですが、笵曄「後漢書」東夷列伝「倭条」は、よほど精査した上でなければ、「魏志倭人伝」と対比することはできないのです。
◯「径百歩」の一説 (百歩[ぶ]は面積単位)
刮目天氏は、怜悧なかたですから、「径百歩」について、現代幾何学風の解釈を提示しています。
ということで、ここでは、御不快を恐れず、真っ向から、論理的な提案を進めています。
先ずは、古代の数学教科書で、官人を目指すための必須科目であった「九章算術」から見て、「方百歩」は、一辺一歩の方形面積「方歩」を銘記しています。ただし、「九章算術」 は、専門書であることから、単に「歩」(ぶ)と書くだけであり、現代風にいうと「百平方歩」と、文脈から判断できるのですが、御理解いただけますでしょうか。
つまり、「径百歩」は、「方百歩」用地内の円形「冢」と見え、三文字であって、現地の用地、冢墓計測に適確な寸鉄表現と見えます。陳寿は「物書き屋」ですが、現地報告書に「書き記されていたであろう」情景を、三文字に凝縮し見事な文飾と見えます。その場にいなくても理性的に考察すれば、精確に理解できるのです。
ついでながら言い足すと、卑弥呼の冢は、単なる土饅頭であり周辺に水壕など設けていないのです。これは、国内流の壮大な墳丘墓が、宏大極まる水壕を持っているのと別世界の墓制です。
ということで、ここでは、御不快を恐れず、真っ向から、論理的な提案を進めています。
先ずは、古代の数学教科書で、官人を目指すための必須科目であった「九章算術」から見て、「方百歩」は、一辺一歩の方形面積「方歩」を銘記しています。ただし、「九章算術」 は、専門書であることから、単に「歩」(ぶ)と書くだけであり、現代風にいうと「百平方歩」と、文脈から判断できるのですが、御理解いただけますでしょうか。
つまり、「径百歩」は、「方百歩」用地内の円形「冢」と見え、三文字であって、現地の用地、冢墓計測に適確な寸鉄表現と見えます。陳寿は「物書き屋」ですが、現地報告書に「書き記されていたであろう」情景を、三文字に凝縮し見事な文飾と見えます。その場にいなくても理性的に考察すれば、精確に理解できるのです。
ついでながら言い足すと、卑弥呼の冢は、単なる土饅頭であり周辺に水壕など設けていないのです。これは、国内流の壮大な墳丘墓が、宏大極まる水壕を持っているのと別世界の墓制です。
言うまでもなく、刮目天氏は、国内流の水壕付き墳丘墓を想定しているのではないのですから、以上は、少々言いすぎになりますが、外野席も多少意識して、敢えて、言い過ぎに踏みこんでいるのです。
あたりまえのことを言いたてるのも、外野席向けの言いぐさです。外野席が想定する立地条件で言うと、現地は、ため池を必要とする少雨地帯であり、宏大な水壕を維持するためには、給水、排水の用水路が必要であり、また、取り巻く水壕から墓地内への浸水を防ぐためには、厳重に遮水土手が必要なのです。これが、南方の熊野山地に近い地域であれば、年間を通じて、ある程度の水量が得られるでしょうが、そのような好条件を離れた地理条件は無視できません。なお、盛り土した上に墓室を設ける構想なら、浸水の予防は不要かも知れませんが、それは、地下に棺を埋葬する「冢」の定義を外れるので、史官の文章として不都合なのです。
そのような、重大な欠格事由を除いても、ますます、宏大な土木工事が必要であり、そのような未曽有の大事業が行われたとは、一切書かれていないのです。いや、世上の墳丘墓派は、聞く耳を持たないでしょうが。
そのような、重大な欠格事由を除いても、ますます、宏大な土木工事が必要であり、そのような未曽有の大事業が行われたとは、一切書かれていないのです。いや、世上の墳丘墓派は、聞く耳を持たないでしょうが。
但し、以上の解釈に従うと、女王の冢は、せいぜい直径15㍍(冢の直径は、度量衡系で十歩)となりますから、お気に召さないかたが大変多いでしょう。
「倭人伝」先行段落で、「冢」は「封土」、小振りの土饅頭と明記されているので、高貴な読者には、女王の「冢」は、質素な蕃王に相応しい、手ごろな大きさと予告された記憶が真新しいのです。つまり、「物々しい用例検索」は要らず、史官によって端的に「薄葬」が賞賛されていることになります。「物々しい用例検索」となると、荷車で書庫から先例資料の山を引き出すのですが、肉体労働は官奴がこなすにしても、大部の史書「巻物」を繰(く)って、用例を検索するのは、高貴な読者に対して過酷と云われかねないので、妥当な策としては、読者の知恵袋が即答できるものに留めるか、直前に、ほどのよい伏線を敷くものなのです。
因みに、「方百歩」を一辺百歩の方形と見る架空の単位系は、『面積が「辺」の数値の二乗に比例する』ので、加算計算による集計ができず、土地台帳の実務に「まったく」適さないのです。算木による一桁数値の計算が大半であった時代、用地/農地台帳の面積積算ができないのでは、ものの役に立たないのです。
*方里伝説確認
復習すると、「倭人伝」道里記事に見られる対海国「方四百里」、一大国「方三百里」は、どちらも、一里四方の「方里」を単位とする面積表現であり、両国が、土地台帳の「方歩」を集計したものと見えます。当然、どちらも、一里四百五十㍍の普通里ですが、現代地図上で見ると、些細なものに過ぎません。要するに、両国の占める島嶼では、農地として耕作できる土地が希少であり、かつ、公称している戸数に比べて、割り当てられる農地が狭い為、想定されている収穫が少ないことを示しているのです。「良田」とは、割り当てられた農地を、戸の構成員、主として成人男女が牛犂で耕す前提ですから、牛耕できないなどの理由があれば、「良田」に規定された収穫ができないということになります。
これは、東夷伝の高句麗「方二千里」、韓国「方四千里」に付いても同様であり、普通里で集計すると、農耕地は全領域のごく一部にしかならないと主張しているのです。
隣国である韓国は、山岳、渓谷がたいへん多いので、灌漑の可能な農地が少なく、したがって水田稲作が成立しがたく、即ち、収穫が獲れないのです。
水田稲作は、農地を言わば流水で洗浄して連作障害を除いているので、連年稲作が可能ですが、灌漑が不十分で水田稲作ができない場合、陸稲で稲作を連年続けると、いずれは病害が起きるのです。その意味でも、韓国といえども、灌漑が不十分な農地の収穫は、大いに制限されるのです。要するに、樂浪、帯方両郡は、中原諸郡と比べると、面積あたりの収穫、つまり、税収が格段に少ないと示しているのです。
いや、刮目天氏は、ほぼ国内専科なので余り関心はないでしょうが、「方歩」「方里」の定義を精確に確認すると、地域「短里説」すら生存できなくなるので、世間では中々受け入れられないのですが、少なくとも、韓国の「方七千里」を、一辺七千普通里の「方」と読み取って、宏大な領域を想像するのは、却下していただいた方が良いのですが、それが、卑弥呼の「冢」の「徑百歩」に及んでくると、意義を唱えざるを得ないのです。
*「卑弥呼墓所」の一説
当方の密かな意見は、偶々、古田武彦氏と遭遇していて、須玖岡本遺跡の「熊野神社」説です。墳丘墓でなく「封土」であったものの、ひっそりと残され、手厚く思慕されたので、末永く後世に残ったものと見えます。おそらく「卑弥呼」が、子供時代から巫女を務めた氏神の境内に安らかに眠っていると見えます。
ということで、刮目天氏の持論に大きく逆らうのですが、女王の「冢」は、150㍍級の堂々たる円丘でなく直径15㍍程度の「少し大きな土饅頭」と思うものです。この程度であれば、近隣の手伝い、徇葬百人程度で十分と見えます。石積み無しでも風雨は凌げそうです。 当ブログは、主として、『「魏志倭人伝」の正確な評価による単機能専門論議』の場所であり、「卑弥呼墓所」の比定には、特に深くこだわっているものではないのです。
未完
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