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2024年11月 2日 (土)

私の本棚 7 礪波 護 武田 幸男 「隋唐帝国と古代朝鮮」1/5 補追

世界の歴史 6 2008年3月 中央公論新社 単行本 1997/1/10 (中公文庫 2014/05/22)分割再掲 020/06/17 2023/01/01 2024/02/12, 11/01
 私の見立て ★★★★☆ 貴重な労作 書評対象部分 ★☆☆☆☆  未熟な用語、安易な構成、誤解頻発

〇始めに 「古代朝鮮」論
 本書の主たる守備範囲は、「隋唐帝国」ですが、時代を遡った「古代朝鮮」が付随し、後半部が本論筆者の守備範囲に及んでいます。

*倭人伝考察
 第2部 朝鮮の古代から新羅、渤海へ 武田幸男
 「10 高句麗と三韓 帯方郡と卑弥呼」に、魏志「倭人伝」に関連しそうな考察が展開されているので、ページをめくる手が止まるのです。

*景初三年皇帝拝謁仮説

 著者(武田氏)は、景初遣使が天子に拝謁したものの下賜物は目録を渡されたものと解します。
 当然、氏は、景初三年一月一日に明帝が死亡した史実は、ご承知ですから、ひょっとして年少の新帝曹芳が、喪中を顧みず接見したのでしょうか。どのような根拠で、「拝謁」、「接見」を得たと断定しているのか不可解です。

*「画餅」ならぬ餅作り
 因みに、下賜品目の細かい様子は別として、これだけ多種多量の品物を、倭使の僅かな一行で持って帰れというのは、途方も無い無理難題です。倭人の手土産でわかるように、限られた人数の一行なので、全員が背負える荷物は、とても、僅かなものです。
 当然、大勢の担ぎ手を付けて、少なくとも、まずは、帯方郡太守の治所まで送り届けなければなりません。そのためには、道中の宿駅に、担ぎ手大勢を手配するよう指示して送り継ぐように手配し、山東半島莱州から帯方郡の海港までは、普段往来している海船を必要な数だけ予約し、確保しておくよう指示しなければならないのです。但し、それは、魏朝の治世下なので、洛陽から書面で命令すれば、確実に実行されます。その時点、中国は、「法と秩序」の世界だったのです。
 先だった、後漢献帝期、中国の国家統治体制が瓦解寸前で、中央の統制が行き届かず、遼東太守公孫氏が、域外の山東半島の戦国「齊」領域まで支配していましたが、そのような拡大政策は、献帝建安年間後期に曹操の権力掌握が進んで、公孫氏を威圧したので、あっさり撤回され、文帝、明帝と続いた曹魏の治世下では、魏朝の支配が確立していたのです。と言うことで、ここは、官道整備が完備していて、山島半島の海津東莱で、下賜物を船積みするまでは事務的に進んだのです。

 そこから先は、帯方郡太守の責任ですが、この地域は、明帝が派遣した新任太守の支配下であり、公孫氏の手の届く範囲ではないのですが、それにしても、帯方郡太守が、以下、倭まで送り届けできることが確認されていなければならないのです。
 洛陽の方から、一方的に期限を指定してしまうと、遅延した場合に、きつく処罰しなければならなくなるので、まずは、郡の請け合う期限を聞かなければなりません。

 各地への連絡に騎馬の文書使を使うとしても、帯方郡から先は、前例のない緊急事態なので即答は得られず、特に、狗邪韓国以南は、渡船の果てに、街道未整備の未開地なので、いくら期限厳守の曹魏制度で急使を往来しても、すべて確約を得て発送できるまでに、少なくとも半年はかかりそうです。「畿内説」の顔を立てようにも、半年どころか一年たっても確答が得られるとは、とても思えないのですが、流すことにします。

 いくら、宮廷倉庫の滞貨一掃でも、それぞれ、倭まで荷運びできるように、それぞれ荷造りしなければなりません。手土産に、飴玉を持たせるようには行かないのです。とにかく、今日言いつけて、明日発送とは行かないのです。

 もし、一部で言われている「新作」説で言うように、前例のない意匠で大型の銅鏡を一から新作するとしたら、試作確認やら、銅材料の手配やらで、これは、新宮殿の飾り物制作で忙殺されていた尚方ですから、百枚制作する期間自体を度外視しても、一、二年かかりそうなものです。このあたり、明快に書いていないのは、恐らく、渋滞したからでしょう。

 「画餅」は、さらさらと書き上げられても、実際に手に取れる、食することができる、腹持ちする「餅」を作るには、厖大な手順段取りが必要なのです。著者は、そのような実際面は気にせずに、あり得ない図式を「心地良く」思い描いているようですが、素人が考えても、一行で片付く物でないことは、すぐにわかるのです。 

*安易な生口解釈追随
 生口は、「捕虜ないしは奴隷」と安易な「定説」追随が明らかとなっています。ここでは、深入りしませんが、大変不可解/不条理で、常識的に信じがたいと申し上げておきます。曹魏は、文字を知らない蛮夷を、教育・指導し、奴婢として訓練しても、しょうがないのです。古来、使い走りなどの雑務をこなす「官奴」には、事欠かないのです。まして、蛮人の戦争捕虜など、物騒です。
 「鳥は宿る木を選ぶ」のですが、氏は、命をかけられるほど確かな木を選んだのでしょうか。

*的外れの出超評価
 著者は、景初遣使下賜物を魏側の「出超」と評していますが、ことは共通通貨に基づく売買でなければ、物々交換の交易でもないので、時代錯誤、見当違いの低俗、つまり、子供みたいな評価です。丁寧に言うと、古代の王朝は、朝貢などの際の「貿易」の収益は、ほぼ関知していなかったので、蛮夷の来貢で、儲けを取る気は無いのです。
 要するに、どうしても損得評価したいのであれば、献上物と下賜物の魏朝での「時価」を「総合」すれば、交易と評価したときの収支が推定できますが、ことは、まるっきり交易ではないので、無意味な議論です。

 倭人側としては、献上物の価値(コスト)評価には、危険を冒して遠路はるばる持参した運送費や使節の出張費といった膨大な「経費」を考慮するし、魏朝側としては、帝国の威光を遠隔地に広げるという「広告宣伝」が絶大であるのを考慮すれば、下賜物の価値が変わってきます。そもそも、天朝は物産豊富であり、買い求めるものは何もないのです。
 ついでに言うと、倭人には貨幣がないので、金額評価は、まるっきり不可能なのです。
 こうして、氏は、単純な「物」の価値評価の埒外の評価を適用していますが、それぞれ「主観」であり、どうしても正当、公平な価値評価とならないのです。
 誰の入れ知恵か知りませんが、もっと、まともな理屈を言える方の知恵を借りるべきでしょう。

*大盤振舞い
 それにつけても、魏朝下賜物は、その時ことさらに設えたのでなく、恐らく漢王朝以来の宮廷倉庫在庫品であり、後漢末期の長安遷都騒動に伴う略奪を免れた貴重品としても、あえて現代風に言うと、アウトレット(在庫処理)の大盤振舞いかと思いますが、一度限りのものであることは言うまでもありません。

*万里の賓客
 とは言え、周代以来の制度として蛮夷受け入れ/接待部門である鴻廬に示された規準では、万二千里の遠隔の新来蛮夷は、最大限の賓客厚遇を施すことになっているので、後世人は、到底理解できない過分の処遇と見るのでしょうが、それは、二千年後世の無教養な東夷の早とちりに過ぎないのです。
 時の天子曹叡は、漢代は勿論、祖父武帝曹操、実父文帝曹丕を越える絶大な偉業を示そうとしていたので、一段と厚遇されたものと見るのです。

*拭いがたい時間錯誤
 「二千年後生の無教養な東夷」の浅薄な「価値観」を無思慮に古代に塗りつけるのは、はなから時代錯誤であるし、ここで述べられた「出超」評価は、先に丁寧に短評を試みたように、現代の合理的な経済原理を踏まえた評価でもないのです。何とも、子供じみた浅薄な放言であり、著作の価値を下げてしまうと言わざるを得ないのです。
 とかく、たちの悪い「失言」ほど、猿まね発言が出回るので、誠に、罪深い事、限りない発言なのです。この場で罵倒に近い「好意的な」評価をお届けするのは、誠に世評の高い、無限に影響力のある著者だからです。

                                未完

*祭肜(さいゆう)小伝 2024/11/01
 祭肜は、光武帝代の遼東郡太守であり、Wikipediaに小伝が見られる。
 41年(建武17年)、祭肜は光武帝にその有能を見込まれて、遼東太守に任じられた。[中略]45年(建武21年)秋、鮮卑が1万騎あまりで遼東郡に侵入すると、祭肜は数千人を率いてこれを迎撃し、[中略]鮮卑は敗走して、塞外に追い出された。[中略]鮮卑の大都護の偏何を帰順させた。祭肜は偏何に匈奴を討つよう求め、偏何は匈奴の左伊秩訾部を討ってその首級を持って遼東郡を訪れた。その後、匈奴と鮮卑は攻撃しあうようになり、匈奴は衰弱して後漢にとっての北方の脅威は軽減された。

 帰順は、一種の服属であり、鮮卑は、貂毛皮、駿馬などを献上し、光武帝は、潤沢な下賜物を与えると共に、厖大な歳費を与えたのである。
 匈奴は、秦代以来、北方の憂いであり、始皇帝は、長城を設けると共に皇太子扶蘇
と蒙恬将軍に三十万の兵を与えて、匈奴などの脅威に対抗し、漢高祖は、大軍を率いて親征したが、逆襲を受けて敗勢に至ったため、匈奴に兄事する盟約を結んで、歳貢を献じ、漢武帝が国力を傾けて、大規模な侵攻を収めたが、絶滅させるに至らず、漢の衰退と共に、匈奴が勢力を回復したのであり、後漢を再興した光武帝にとって、不十分な国力で、匈奴を打倒する戦略が求められていたのである。
 つまり、多年に亘る匈奴との角逐で「夷をもって夷を討つ」高度な戦略が求められたのである。
 とはいえ、以後、匈奴を排除して台頭した鮮卑は、増長して、後漢魏晋を通じて、北方の憂いとなったのである。但し、鮮卑は、多数の部族に分かれたとは言え、時に、特定部族を率いた代表者が、毛皮や駿馬を貢献して服属を申し出ては、王の印綬を賜って忠誠を誓い周辺部族の平定を図り、時に、反抗・侵掠して、遼東方面を混沌とさせていたのである。
 ただし、後漢献帝の建安年間、公孫氏が遼東郡太守に着任して武力を振るったことにより、遼東郡周辺態は、漸く沈静化していたのである。
 ということで、曹魏明帝が与えた「倭人」に対する処遇は、特に、異例の厚遇というものではなかったということである。

 陳寿は、蕃夷に篤く酬いて懐柔する政策には懐疑的であったとも見えるが、それは、二千年後生の無教養な東夷 。魏志の「評」に曰く、「魏の時、匈奴はようやく頽勢に向かったが、代わって、鮮卑、烏丸、そして、東夷が隆盛を迎えた、つまり、四夷は不変のものではない」と達観しているのである。

 史官は、明言できなかったとしても、二千年後生の無教養な東夷の素人の意見では、かくの如き秦漢代以来の東夷風雲録を振り返っても、後漢末以降の公孫氏の東夷統御は見事であり、三国鼎立状況で頓挫していた曹魏は、公孫氏に、気前よく燕王、東夷都督の称号を与えて、高句麗、烏丸、鮮卑を統御させればよかったのである。なにしろ、孫氏は、曹魏に人質を入れていて、形式的には、曹魏天子に服従していたのであるから、所謂「外交辞令」で充分だったのである。

 それを、何を勘違いしてか、大軍を動員して公孫氏を討伐して、鉄壁の東夷統御を灰塵に帰したため、高句麗、新羅、百済の三国体制を成立させ、「倭人」など雲の彼方に飛んでしまったのである。誠に、明帝曹叡は暗君であり、その走狗として、遼東が灰塵に帰する蛮行を行った司馬懿も、極め付きの愚人だったのである。

以上

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