私の本棚 7 礪波 護 武田 幸男 「隋唐帝国と古代朝鮮」2/5 補追
世界の歴史 6 2008年3月 中央公論新社 単行本 1997/1/10 (中公文庫 2014/05/22)分割再掲 020/06/17 2023/01/01 2024/02/12, 11/01
私の見立て ★★★★☆ 貴重な労作 書評対象部分 ★☆☆☆☆ 未熟な用語、安易な構成、誤解頻発
*加筆再掲の弁
最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。
*軽率な銅鏡論
その後、東夷の出土品である「景初三年銘の三角縁神獣鏡」を、さらりとこの下賜銅鏡と結びつけていますが、根拠の無い当て推量であることは明らかです。まるで、子供の思いつきと云われかねないのです。
皇帝代替わりでてんてこ舞いしているはずの「尚方」(官製工房)にとって、皇帝不在の「景初三年銘」、「新規意匠、空前の大型」銅鏡百枚新作に、喪中の景初三年に着手したとして、期限内に全量制作・出荷できたかどうか。
新型銅鏡新作とあれば、鋳型の新作までの試作と工夫、大量の銅材料の手配、尚方の人材と労力の投入が必要です。青銅を溶かす「坩堝」や溶けた青銅の湯を坩堝から注いで、鋳型に注ぎ立てるの「柄杓」も、倍近い量をこなす大型化が必要です。銅鏡工房の大改造が必要です。
加えて、銅鏡の長距離搬送に要する厳重な梱包(木箱)の制作と膨大な箱詰め梱包作業がともなう大事業です。小分けした手運びも必要なので、一枚ごとの箱詰めも必要です。大型鏡百枚新作に、大きな疑問を抱く理由です。
下賜物は、「倭人」使節がお土産で持って帰るのではないので、魏皇帝が、責任を持って、(経費一切を負担して)送り届ける必要があるのです。
途中で、帯方郡に責任を持たせるにしても、帯方郡が、担当行程を引き受けたと回答しない限り、送り出せないのです。
帯方郡は、伊都国で荷物を倭人に引き渡すとしても、倭人が受入を確約しない限り、皇帝に確約できないのです。「確約」するというのは、任務不首尾の時は、中原の「王」に匹敵する厚遇を受けている太守が、更迭されるくらいで済まないかも知れないからです。普通は、郡の高級官吏を現地に派遣して、対面して各国責任者の確約を取り付けるはずです。
と言うことで、皇帝の指示が出てから、実際に荷物が帯方郡に渡るまでに、何ヵ月かかったか不明なのです。いや、中原では、大量の荷物、主として、穀物が往き来していたので、下賜物程度で、輸送便が輻輳することはないでしょうが、帯方郡から先は、普段ほとんど荷物がないので、具体的に荷姿や荷物の目方を言って、人集め、船手配しなれければならないのです。
そして、すべての準備が整って、郡太守が首をかけても大丈夫と判断して、始めて、洛陽に報告が届いたのです。
言うまでもないでしょうが、そのような実務を通じて、「帯方郡から倭人の届け先まで、何日がかりなのか、確実に、確認されていた」と見るべきです。
と言うことで、「万二千里」が、後漢建安年間に、公孫氏が「倭人伝」を創設した際に、そそくさと書き留めた観念的なものであって、実道里と大いに異なっていることは、遅くともこの時点で、関係者に知られていたのです。
ただし、この区間を「万二千里」と承認した明帝は、とうに世を去っていて、先帝の遺命は新帝には改竄できないので、今日確認できる「倭人伝」にも、公式道里は、不朽の「万二千里」と書かれているのです。
それにつけても、根拠の確認されていない、と言うか、明らかに否定されている「定説」に安易に依拠するのは、重ね重ね軽率です。
*後年下賜の仮説
さらに、著者は、『243年の第三回の通交では「お返し」の記録がない』と嘆いています。ここに上げられた「通交」は、対等な相手(敵国)との交渉ではなく、またプレゼント交換の儀式でもないのです。また、下賜物は、献上物に対する「お返し」ではないのです。
したがって、定例の来貢への下賜は当然であり、それ故、ことさら正史に記録されていないのです。記事がないのは無事のしるし。それが、正史読者の大人(おとな)の分別というものですが「二千年後世の無教養な東夷」に大人の分別を求めるのは、無分別なのでしょうか。
むしろ、莫大な下賜物を要する「万里の賓客」は、二十年一度の来貢が精々であり、それ以上頻繁に来られると、来貢拒否になりかねないのです。つまり、勝手に押しかけると、追い返されるのです。これが「中国古代史の常識」です。
*余言のとがめ
このあたり、著者が、専門外分野で「素人」で、専門家の助言を仰がず、熟慮なしに、子供じみた所感を吐露しているのでしょうが、読者は学者先生の権威ある意見と見てしまうものです。余言の弊害は夥しいものがあります。
とにかく、古代史に、現代(二千年後生の無教養な東夷)の軽薄な価値観、手前勝手な学説を塗りたくるのは、時代錯誤と言うべき場違いであり、小賢しい考察と言うべきでしょう。
*安直な価値判断への批判
安直な素人判断は、現代人の俗耳に訴えるでしょうが、学術的な判断には、客観的考察を妨げる邪魔な雑音でしかないのです。物の価値判断は、時代、立場によって大きく異なるので、素人判断は、軽々しく高言すべきではないのです。いくら俗耳に受ける軽快な言葉で訴えて、取り巻きの賛辞を浴びても、それは、一時の虚妄であり、後世に恥をさらしかねないのです。
*虚空の「現実主義者」
著者が、張政は軍事顧問との卓見ですが、なぜか「現実主義者」と評しています。張政は、文官でなく軍官なので、その資質が表れているのでしょうか。「非現実的浪漫派」と暗に非難されているのは、誰でしょうか。
というものの、軍事顧問は、単身だったのでしょうか、百人、二百人の実戦力を連れていたのでしょうか。誰が、莫大な戦費を負担したのでしょうか。ことは、銅鏡百枚どころではないのです。
それにしても、著者は、淡々と、張政は、247年に来訪し248年に帰国した、長く見ても2年に足りない滞在と推定していますが、これは、正史記録と異なるように思われるのです。何しに来て、何をして帰ったのでしょうか。
未完
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