新・私の本棚 番外 サイト記事検討 刮目天一 「【驚愕!】卑弥呼の奴婢は埋葬されたのか?(@_@)」 1/1 補追
【驚愕!】卑弥呼の奴婢は埋葬されたのか?(@_@) 2022-06-16 2022/06/20 補充 2024/07/04, 11/08
*加筆再掲の弁
最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。
◯はじめに
本件は、兄事する刮目天氏のブログを題材にしているが、氏のご高説に異を唱えているわけではないのは見て頂いての通りである。氏を批判しているのではないので、末尾のご挨拶は省来たいところであるが、今や、本件の定番なっているので、温存している。ご了解いただきたい。
本稿は、氏が、野次馬の暴論に対する応接の際に見過ごした躓き石を掘り返しただけである。ここは、第三者の発言内容の批判であり、「倭人伝」解釈で俗説がのさばっている一例を摘発するだけである。こうした勘違いの積み重ねが、混沌たる状況/ごみの山に繋がっているから、ごみを、せめて一つでも減らしたいだけであって、他意はない。
口調がきつくなっているのは、もの柔らかに語ると、自信がないのかと侮蔑したり、偽善ぶっていると罵倒したり、されかねないので、虚勢を張っているだけである。他意はない。
◯コメント引用御免
卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
卑弥呼が死に、多数の冢が作られた、径100歩に殉葬者の奴婢100余人。
とかの意味じゃないかな。
大作は漢文の用法としては大きく作るじゃなくて多数作るの意味みたい
墳ではなく冢だから小規模な墓が多数作られたんだ。
◯部外者の番外コメント
発言者は、「改竄」記事に、野次馬の勝手放題の駄言をものしてお気軽にコメントし、刮目天氏は、そのような不規則発言を寛恕で黙過しているために、共感されていると誤解されかねないので、勿体ないことである。無礼で勝手であるが、口を挟んだ次第である。
*「徇葬」正解
原文は、「徇葬者」であり「殉葬者」と書いていない。
改竄記事を論じるは無意味であり、古代史分野に蔓延る「悪習」である。
「徇葬」は、「魏志」東夷傳では、「扶余伝」が初出のようである。正史では、先例の無い言葉の無断使用は許されないが、「倭人伝」は「扶余伝」で認知された用語の承継と見える。いや、実は、ほぼこれっきりの二例しか見当たらない。
思うに、「扶余伝」は、前世の記録が洛陽の後漢以来の公文書に書き込まれていたので、「忠実」継承するしかなかったとも見える。「倭人伝」は、近来の持ち込みであり、公文書の体を成していなかったであり、陳寿が、「伝」と言えるものに形成したものと見えるから、同列には扱えないと見える。陳寿ほどの練達の史官であるから、深慮遠望があるはずである。何しろ、現代の野次馬のように、思いつきの書き飛ばしでは、首が飛ぶのである。
一方,「殉葬」は、先例が非礼・無法である。そのようなとてつもなく「悪い」言葉を、陳寿が、大事な「倭人伝」で、深意に反し、採用することはあり得ない。
按ずるに、「徇葬」は、葬礼に伴い進むか、夜を徹して殯するか、あるいは、守墓人に任じられたか。「行人偏」の持つ意味は、そのような活動的なものである。いずれにしろ「徇葬者」は生き続ける。女王は讃えられる。
「殉」一字に、「命がけで信条を奉じる」=「殉じる」との意義もあるが、「殉葬」者は、恐らく意に沿わずとも、間違いなく命を落とす。女王は、正史に恥を曝す。大違いである。意見は人さまざまで、百人の奴婢が生きながら埋葬されたと言う見方も悲惨であるが、所定の儀式を歴てとは言え、いずれかの場所で百人が命を奪われ、遺骸が土坑まで運ばれたという暗黙の了解強制も悲惨である。当時から現代に至る読者が、そのように解釈したら、「倭人伝」は、ゴミ箱入りである。
これほど意味・意義の違う文字と取り違えるのは、「目が点」で節穴である。但し、この改竄は発言者独創とは思わない。「日本古代史奉祝」党の「倭人伝」改竄解読手法の受け売りであるから、褒められないが、時流俗風に染まっただけで非難はできない。誤解が蔓延しているのである。
それにしても、発言者は、普通は「大いに」と解される「大作」を、どこでゴミを拾い食いしたのか「漢文の用法としては大きく作るじゃなくて多数作る」「みたい」とは、何かの中毒のようであるが、要するに、沢山の意味が考えられるのを承知の上で、「発言者」の好みで、と言うか、「ガチャ」で、そのように解したらしい。誠に、残念である。
いや、個人の好き好きは、色々あってもいいが、とても、とても、刮目天氏のように寛容な方は別として、普通の論者は、一々つきあいかねるのである。漢文の解釈は、その「文脈」において、どう解釈するのが最善であるかという果てしない「考察」の果てに見きわめるものであり、(二千年後生の無教養な東夷)の中でも一段と半人前の発言者の個人的な好みなぞ、何の役にも立たないのである。
因みに、笵曄は、後漢書「東夷列伝」扶余伝で、陳寿の東夷伝の諸国条記事と軌を一にしつつ、つまり、敷き写ししつつ「殺人殉葬」、「殉葬」と宿痾の誤字/誤解症例を残している。もって瞑すべし。(要するに、後漢書「東夷列伝」は、後漢代公文書を着実に参照しているので無く、范曄創作/誤解を、多々含んでいるのであるが、最終校正、決定版確立以前の段階で、范曄が、大逆罪に連坐して投獄され、死罪に処せられたため、未完成の范曄「後漢書」は、校正の行き届かないままに、劉宋皇帝に没収され、皇帝私物とされてしまったので、諸処に欠点を抱えていても、どうしようもないのである。戯れ事であるが、笵曄「後漢書」は、現在、過去に渉って、誰も読んだものはいないのである。他にもあるが、圏外なのでここでは論じない)
ついでに言うと、周知の「太平御覧」は、「魏志曰とした所引」段で、「女王死,大作冢,殉葬者百餘人。」としていて、魏志原文の「卑彌呼以死,大作冢,徑百餘步,徇葬者奴婢百餘人」の読み囓り、誤字入りになっている。この通り「太平御覧」は、史料として「並」以下の低質のものなのである。
*「冢」の正解模索 2024/10/21, 11/08 補充
刮目天氏は、丁寧に辞書に頼るが、まずは、原史料で最前用例を文脈ぐるみで探索すべきと愚考する。漢字一字単位の読みかじりは、余程注意しない勘違いに陥るのである。
今回のように、二千年後生の無教養な東夷が、気軽に文字を差し違えて/読み替えて「誤解」を発明するのも、その症例である。読替えの「可能性」は無限にあっても、原文の正確な解釈は、一種しか存在しないのである。つまり、このような場合、多数決は無意味なのである。
読者は、自身の語彙で解明できなければ、「魏志」第三十巻の巻子/冊子の最前用例を遡り、わからないときは座右の「魏志」の山を手繰る。
四書五経は元より、「漢書」、「史記」など山々の大著を倉庫から荷車で引き出させるのは、陳寿の手落ちとなり不合理である。そうならないように、陳寿は、その場で確認できる用例を書き込んで伏線を敷いている。ここで、藤堂明保氏の名著「漢字源」は、三世紀当時には、まだ存在しないと戯言する。
「倭人伝」の「冢」は、事前の大家(首長)葬礼紹介で、「遺骸を地中に収めた後、冢として封土する」との趣旨で書いてあり、いかにも、身内による埋葬と思われて、近隣を動員した土木工事とは書いていない。
発言者は、根拠不明の「漢文用例」を参照したらしく、「徑百歩」の範囲に、「お一人様」用の「冢」を百基造成したようにも読める、あいまいな言い方で笑い飛ばしているが、誠に不謹慎である。
女王の身の回りの世話をしていた百人の罪のない人々の首を刎ねるのも、無残な話しであるが、それにしても、一人一人の遺骸を丁重に甕棺に収め、百基の墓穴を掘って葬るのは、土饅頭で済ますとしても、数が多いので、途方も無い工事である。だれが百人を埋葬するのだろうか。奴婢には、それぞれ家族が居ただろうに、なんとも、無慈悲なことである。
ついでに、「通説」に付随していると思われる誤解を正すと、すくなくとも、「倭人伝」に書かれている「奴婢」、「婢」は、単なる公務員であって、別に、「奴隷」となっているわけではない。女王の身の回りの世話をしていた百人の罪のない人々と書いたのは、故ないことではない。「婢千人自侍」とあるのは、官吏、使人、「官奴」とでもいうか、雑用係も多かったはずであり、それぞれ、粟(俸給)を得てそれぞれ家計を支えていたと見えるのである。女王の葬礼で首を切ってその辺りに埋めるなど、ありえないのであり、「倭人伝」には、そのような凶行は描かれていないのである。
陳寿は、博識無上の史官であるから、そのような大惨劇は、用意に想定できたはずであるが、敬意をもって描いていたはずの女王の小伝を、そのような暴虐で締めくくったのだろうか。随分、疑問の絶えない解釈である。
そのような遺跡は先例があったのだろうか。無責任な放言は、それ以上取り合わずに、ゴミ箱に棄てることにすべきである。
*卑弥呼の「冢」を求める探索
本論の女王封土の場合は、多少大がかりであるが、まずは、奴婢百人では、到底直径百五十㍍の「円墳」は造成できない。
直径150㍍の「円墳」は、直径15㍍の「冢」を規準とすると、用地面積は、100倍であり、到底、先祖以来の墓地におさまらず、女王の居処である「国邑」内に納まらない。また、各戸の耕作している農地をつぶすわけにも行かない。どこか、未開の土地に、墓地を造成するしかないのである。
仮想されている「円墳」は、盛土の所要量が「冢」の千倍にも達するから、用土の調達にも苦労するのである。俗説では、丘陵地を開鑿したと言うが、その場合は、一旦大量の用土を脇にどけておいて、平坦に整地した領域を掘り下げて、そこに棺を納めた上で、どけておいた用土を盛り上げたことになる。
用土は、積層して版築で固めるから、女王の遺骸を踏み付けていくことになる。具体的な墳墓葬礼を想定して書き連ねていて、嫌気が差してくるのだが、そのような葬礼は未曽有であろう。後世の墳丘墓は、あきらかに、生前造成の寿陵であり、盛土内に墓室を設けていて、王の遺骸は、大抵の場合、水平方向に移動して墓室内に収容され、入口は、封印されたはずである。つまり、「冢」とは、成り立ちが、まったく違うのである。
つまり、10倍規模となった墳丘墓は、もはや、「冢」と呼べないのであり、つまり、卑弥呼の「冢」は、徑百五十㍍の「円墳」でなかったのである。
以上、論証が終わる。
もちろん、「倭人伝」には「墳」と書かれていないから、そのような不合理は、はなから排除されているのである。
「径百余歩」は、おおざっぱな概数表現であるから、実際は、直径八十歩程度という可能性もある。些細なことであるが、直径が8掛けであれば、用地面積は、ほぼ2/3になり、用土、つまり、盛土の労力は、半分以下になる。盛土/封土は、墓地の位置を示すためなので、版築で固める必要もなければ、石葺きす必要もない。五十年、百年経って、盛土が失われたとしても、その時代まで、女王が尊崇を集めていたら、補修できる程度の規模である。
そんな風に考察した上で、文献の真意に従った「径百歩」(直径十五㍍)は、「普通の解釈」と合わないが、ここではこれ以上は論じない。
*追記 2024/10/21
この際、労を厭わずに補足説明するとこういうことである。
「徑百歩」なる表記は、正史に類例が見られないので、古代の幾何教科書「九章算術」に戻って、深意を探る必要がある。
先ず、基本となっているのが、「方田」である。ここは、耕作地を、手っ取り早く測量して、その場でかけ算して面積を算出する方法であり、まずは、対象となる田(耕作地であり、水田は想定されていない)の従廣(縦横)を「歩」(ぶ)単位で測量し、掛け合わせて面積を得る計算例(問題と解答)が収録されているが、面積の単位は、そのまま「歩」である。つまり、土地の外形を示す長度単位と同じ「歩」であるが、専門書では混同されないとしても、実用上では混同されやすいので、正史などでは「方百歩」と表示とするのである。
素人考えであるが、田の縦横を計測して面積計算し記帳するだけであれば、「度量衡」単位である「寸・尺・丈」を適用すれば名解であり、なぜ、一歩六尺などと計算困難な単位を採用しているのか、不審なのである。
要するに、歩は、頃、畝に連なる「面積系」単位と並行して太古以来運用されていたため、「度量衡」との連係のためだけに、一歩六尺の換算が確保されていたと見えるのである。
ちなみに、「歩」(ぶ)は、人の歩幅と誤解されるが、実際は関係なく、単に一歩が六尺となっている。簡易表記として、一尺25㌢㍍、一歩1.5㍍として話を進めるが、実際上、概数を使用しても特に問題は無い。
さて、例えば「方百歩」は、現代風に言うと面積100平方歩であり、「方」は図形の形状を言うのでなく、「面積」という意味を示している。
つまり、一辺十歩十五㍍の正方形も、直径十二歩十八㍍の円形も、ほぼ同じ面積「方百歩」になる。
しかし、土地区分で円形は扱いにくいので、土地台帳には、一辺十歩の四辺形に内接する円形の「方田」を「徑百歩」と記帳したのではないかと見られるのである。つまり、「徑百歩」の「冢」は、太古以来の墓制として、まずは、一辺十歩の土地を縄張りした後、その中にある程度の余裕をみて、土地を掘り下げて棺を収めた上で、円形の盛り土をしたと見ると、筋が通るのである。盛り土の外周に環濠を設けると、その分、冢が小さくなるが、「倭人伝」には、環濠や石葺きなどは一切書いていない。
結論を示すと、女王の「冢」は、先祖以来の墓地の一隅の一辺15㍍程度の方形の土地に設けられた円形の封土であり、女王の世話をしていた奴婢千人の中から百人ほどが集まって、短期間に造成、埋葬したと読めるのである。それが、「倭人伝」記事の流れに沿っているのである。
*「方里」の是正 2024/10/21
いよいよ、話しの締まりがなくなったが、「倭人伝」にみられる「方三百里」等は、面積表示なので、敢えて、方形に当てはめると、縦六十里、横五十里の土地である。狭くみえるかもしれないが、これは、実際に農地となって耕作されている土地であり、個々の農地は、測量されて記帳されているから、誇張はされていないのである。全土(測量不能に近い)のごく一部に過ぎないのであるが、土地台帳の数字を集計するだけなので、「やればできる」範囲の手間である。以下、委細、別記事に譲る。
*まとめ~用語審議の原則提言
末筆ながら、用語解釈の基本として、原文起点とし、「最前用例最尊重」の黄金律を提起したい。別に、陳寿を崇拝しているのでも無ければ、趣旨不明のおまじないを唱えているのでも無い。文書起草の不変の原則を述べているだけである。部外者で、専門家の手順を理解できない野次馬は、早々に退場する方がいいのである。
謙虚に原点に戻ると、粗忽/粗相を避け、文章の深意に至るには、文脈の斟酌も、とてつもなく重要である。「倭人伝」論では、失敗例が山積しているので、そう思うのである。
余言無礼御免 頓首頓首 以上
« 新・私の本棚 御覧所収 謝承「後漢書」佚文 史料批判の試み 1/2 再掲 | トップページ | 新・私の本棚 ブログ批判 刮目天一 「卑弥呼の墓はどこ?」(続報)3/3 補追 »
「新・私の本棚」カテゴリの記事
- 新・私の本棚 大平 裕 『古代史「空白の百五十年間」の謎を解く』 第一章 2/2(2024.11.27)
- 新・私の本棚 大平 裕 『古代史「空白の百五十年間」の謎を解く』 第一章 1/2(2024.11.27)
- 新・私の本棚 大平 裕 『古代史「空白の百五十年間」の謎を解く』 序章(2024.11.26)
- 新・私の本棚 塩田 泰弘 『「魏志倭人伝」の行程と「水行十日陸行一月」について』 3(2024.11.25)
- 新・私の本棚 塩田 泰弘 『「魏志倭人伝」の行程と「水行十日陸行一月」について』 2(2024.11.25)
「倭人伝新考察」カテゴリの記事
- 新・私の本棚 新版[古代の日本]➀古代史総論 大庭 脩 2/2 再掲(2024.04.20)
- 新・私の本棚 新版[古代の日本]➀古代史総論 大庭 脩 1/2 再掲(2024.04.20)
- 新・私の本棚 岡田 英弘 著作集3「日本とは何か」 倭人伝道里 新考補筆(2023.04.07)
コメント
« 新・私の本棚 御覧所収 謝承「後漢書」佚文 史料批判の試み 1/2 再掲 | トップページ | 新・私の本棚 ブログ批判 刮目天一 「卑弥呼の墓はどこ?」(続報)3/3 補追 »
ご無沙汰しています。いつも勉強させていただいて、有難うございます。折角取り上げて頂いた拙ブログも、今思い出すと無知を絵に描いたような内容でしたが、知らぬは一生の恥ですので、ご指摘に感謝いたします。なお、卑弥呼の円墳については、やはり急造りのために単に土を盛り上げただけですので、ご心配のとおりかなり流れています。でも千八百年近く経過しても形を留めていました。その東側にある卑弥呼の父の円墳「奥城古墳」は時間をかけてしっかりと造られていたようで、現在でも展望台として使われていますから驚きます。また、色々とご指摘いただけると有り難いです。どうぞよろしくお願い致します。
投稿: 刮目天 一(はじめ) | 2022年6月26日 (日) 23時13分