新・私の本棚 ブログ批判 刮目天一 「卑弥呼の墓はどこ?」(続報)3/3 補追
私の見立て ★★★☆☆ 奮闘真摯 初掲2024/07/06 *当家2024/07/16, 11/08
*加筆再掲の弁
最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。
*加筆再掲の弁
最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。
◯曹魏の薄葬改革
曹魏創業者曹操は「宰相」だったので、当然、没後造墓ですが、生前の指示に従い墓所を秘したのです。文帝は、天子として即位したので、生前造墓の「寿陵」を薄葬とし、大規模な動員は控えよとしています。そのような曹魏の墓制に従うと、明帝曹叡に遣使した女王の墓は、魏制に従い慎ましいものであったとみるべきです。
先に挙げた曹操、曹丕の薄葬指示は、霊帝没後に破綻した後漢の礼制に対する重大な非難なのです。霊帝没後、西方涼州から蹶起した董卓は、雒陽周辺の後漢諸帝と王族の墳墓を暴(あば)いて、遺骸を放りだし副葬されていた宝物を奪い、後漢帝都雒陽を棄て、長年廃墟となっていた長安に遷都したのです。 曹操は、その時期、墓泥棒に手を染めたこともあるようですが、壮大な墳墓、豪華な副葬品など無意味と知っていたので、自身の墓址については、薄葬とし、かつ、墓所を秘すように指示したのです。曹操墓所は、現代に「発見」されましたが、さすがに、二千年の期間に侵入者があって、若干の副葬品は奪われても、大規模な破壊的盗掘を免れたようです 。方や、西晋司馬一族の墓所は北方異民族によって破壊され、南朝諸王朝の王墓も、隋の南朝討伐の際に破壊されて、結局、曹魏草創期の墓所しか残っていないのです。
*大規模墳丘墓の非礼~ゴミ箱予備軍
以上の見方でわかるように、三世紀の「中国」、つまり、「中原」に「天子」であった曹魏の礼制では、墳丘墓の造成は、礼に反するものだったのです。
ということで、壮大な墳丘墓は、曹魏の墓制改革を知らない後漢時代の遺風/蕃風であり、所詮、「中国」を知らない蛮夷の慣わしだったのです。東夷の墳丘墓時代、中原は、数世紀に及ぶ戦乱のただ中であり、いわば、国が破れて散乱していたのですが、宗教という点で言えば、南北両朝とも、仏教が支配的であり、中後在来の礼制、墓制は、退潮していたと思われますが、それにしても、古来、春天の時節に祭天礼の場とされる「円丘」を、あろうことか半球状の「墳墓」にして、更に、秋天の時節に祖霊をまつる「方丘」を括り付けるなど、東夷の蛮行は特にとがめ立てされなかったということです。
長年、東夷として独自の世界を構築していた百濟と高句麗は、始祖が天下りした創世神話を持っていて、自尊心を高揚していたのですが、大唐が天下を平定したときは、分裂時代に横行した履歴もあって、天子を踏み付けにしかねない「敵国」とみなされ、撲滅されたのです。
長年、東夷として独自の世界を構築していた百濟と高句麗は、始祖が天下りした創世神話を持っていて、自尊心を高揚していたのですが、大唐が天下を平定したときは、分裂時代に横行した履歴もあって、天子を踏み付けにしかねない「敵国」とみなされ、撲滅されたのです。
世間には、大規模墳丘墓は、威勢の誇示であったと早合点しているかたが結構多いのですが、魏晋代の「中国」文化/世界観から見て、始皇帝、漢武帝に連なる「非礼」なのです。大唐に討伐されなかったのは、高句麗、新羅、百済の壁が守ったのであり、また、後ればせながら、墳丘墓を撤回したからでもあります。
いや、ちょっと余談が過ぎたようですが、この項目は、目障りとしたら読み流していただきたいものです。
いや、ちょっと余談が過ぎたようですが、この項目は、目障りとしたら読み流していただきたいものです。
*引用ふたたび
そして、重要なのは、何度も言いますが、魏志倭人伝の卑弥呼の墓にピッタリの三柱山古墳があり、その周囲に様々な卑弥呼の関連物や伝承があるからなのですよ。(^_-)-☆
だから、他に卑弥呼の墓の有望な候補はあるのですかと最初にお聞きしたのですよ。あれば、比較検討すれば、どちらが有望か分かりますから(;^ω^)
それから、書かれたものと事実(考古学や民俗学などの成果)に違いが存在する場合は事実に従うべきです。文書は政治的な目的で真実が書かれていない場合もありますから。
追加コメント
”事実(考古学や民俗学などの成果)”を、ことさらに規定した論義は、刮目天語に従えという御指示でしょうが、同意できません。
歴史学(historical sciences)が扱うのは、時の彼方に消え失せた太古の「事実」に関する太古の報告や推測の文書記録であり、失われた「事実」を知ることは「絶対に」できないのです。特に、二千年前には民俗学も考古学もなかったので、古代史料を、そのような現代概念で調べても、刮目天氏のおっしゃる「事実」は、知るすべがないのです。そして、遺物/遺跡考古学は、文字史料もなく、墓誌も、墓碑もない墳丘墓では無力なのです。
この辺りの誤認を考察の基点と置かれていては、いくら明晰な頭脳をもってしても、史学「問題」(question)に、題意を見通す解答(answer)を出すことはできないのです。いや、当方は、刮目天氏の信条に異を唱えているのではなく、率直な疑問を呈しているだけです。
ちなみに、古代史官にして見たら、「政治的な目的」など、二千年後生の無教養な東夷の造語など知ったことではないので「馬の耳に念仏」でしょう。当代随一の「浪漫派」史家と尊敬している刮目天氏には、三世紀史官の同時代に通じる言葉で、論証に挑んでほしいものです。
◯まとめ
以上、あまり援護にならないコメントでしょうが、「倭人伝」は、三世紀当時、唯一無二の文書史料であり、「万策尽きた」上の原文改竄の前に、科学的、合理的な解釈のもとに、史料批判を尽くしていただければ幸いです。
余言無礼御免 頓首頓首 以上
« 新・私の本棚 番外 サイト記事検討 刮目天一 「【驚愕!】卑弥呼の奴婢は埋葬されたのか?(@_@)」 1/1 補追 | トップページ | 新・私の本棚 ブログ批判 刮目天一 「卑弥呼の墓はどこ?」(続報)2/3 補追 »
「新・私の本棚」カテゴリの記事
- 新・私の本棚 大平 裕 『古代史「空白の百五十年間」の謎を解く』 第一章 2/2(2024.11.27)
- 新・私の本棚 大平 裕 『古代史「空白の百五十年間」の謎を解く』 第一章 1/2(2024.11.27)
- 新・私の本棚 大平 裕 『古代史「空白の百五十年間」の謎を解く』 序章(2024.11.26)
- 新・私の本棚 塩田 泰弘 『「魏志倭人伝」の行程と「水行十日陸行一月」について』 3(2024.11.25)
- 新・私の本棚 塩田 泰弘 『「魏志倭人伝」の行程と「水行十日陸行一月」について』 2(2024.11.25)
「倭人伝道里行程について」カテゴリの記事
- 新・私の本棚 大平 裕 『古代史「空白の百五十年間」の謎を解く』 第一章 2/2(2024.11.27)
- 新・私の本棚 大平 裕 『古代史「空白の百五十年間」の謎を解く』 第一章 1/2(2024.11.27)
- 新・私の本棚 大平 裕 『古代史「空白の百五十年間」の謎を解く』 序章(2024.11.26)
- 新・私の本棚 塩田 泰弘 『「魏志倭人伝」の行程と「水行十日陸行一月」について』 3(2024.11.25)
- 新・私の本棚 塩田 泰弘 『「魏志倭人伝」の行程と「水行十日陸行一月」について』 2(2024.11.25)
« 新・私の本棚 番外 サイト記事検討 刮目天一 「【驚愕!】卑弥呼の奴婢は埋葬されたのか?(@_@)」 1/1 補追 | トップページ | 新・私の本棚 ブログ批判 刮目天一 「卑弥呼の墓はどこ?」(続報)2/3 補追 »
コメント