新・私の本棚 棟上 寅七 『槍玉その68「かくも明快な魏志倭人伝」』2/3 追捕
木佐敬久 著 冨山房 2016年刊
「新しい歴史教科書(古代史)研究会」「棟上寅七の古代史本批評 ブログ」2021.5.06からの転載
私の見立て ★★★★☆ 必読の名批評 2021/10/29 補充 2022/10/11 2024/02/22-26、 11/01
*加筆再掲の弁
最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。
*生野氏著書引用 続き
『それに、史記によれば漢の武帝が楼船を造ったとあるが、「高さ10丈、旗幟をその上に加え、甚だ壮なり」とある。三国時代の約300年前に、すでにこれだけの造船技術を中国は持っていたのである。
その武帝は、朝鮮征伐の際、5万もの兵を船で朝鮮半島に送りこんでいる。「楼船将軍楊僕を遣わし、斉より渤海に浮かぶ。兵5万。」 この時には山東半島から渤海を横断して朝鮮半島西海岸に着岸している。この海上ルートは、前漢時代には開かれていたことになるし、魏の明帝も楽浪・帯方を奪回した時は「密かに船を渤海に浮かべた」とある。
以上のことを参考にするなら、魏使一行の乗った船は相当大きな船であったと思えるし、黄河河口域から博多湾まで10日で来ることができた可能性もある。現在の帆船であれば、一日の航行距離は、150~200km以上は可能である。黄河河口域から博多湾までは、約1800~2000km程度であるから、数字上は10日程での航行は可能ということになる。こと帆船に限るなら、3世紀と現在とでそれほど大きな差があったとも思えない。】』
*生野氏著書引用 終わり
*コメント~2024/02/26
ここで、第三者が口を挟むのは、無作法で筋違いなのですが、生野氏の史料考証は、ちと(大幅に)脱線しています。
漢武帝の朝鮮侵攻で、山東半島から浮海、つまり、新造船で漠然と渡海したと書いておかれながら、生野氏は、大胆かつ無法にも、正始魏使一行の用船は、黄河(河水)河口部から渤海/黄海を長途南下して博多湾に至ったと見ているのです。つまり、司馬懿軍団すら迂回/回避した河水河口部扇状地の(存在したはずも無い)海港から帆船で船出するというのは、不合理そのものと見えます。
直前に、明帝の指示で帯方郡を接収したときは、新造船で山東半島から浮海した、つまり、目前、至近の帯方郡海港に、軽快な渡船で渡ったとされているのですから、このように確立されていた渡船航路を利用しないで遥かに迂回するのは、なんとも不可解なのです。
結局、山東半島に寄港するわけですから、何とも、不可解な白日夢と見えるのです。途上で、たいへんな迂回であり、海流に抗するため、操船が至難となる狗邪韓国、対海国を経由するのも不可解です。時に批判されるように、半島南岸沖を東行するのであれば、四周に海港のある一大国に直接入港すれば、帆船の航行が、たいへん容易なのですが、そのような考慮もされていません。
このような「現実離れ」「史料離れ」した時代考証が、両氏の間で論義されていないのは、通りすがりの野次馬にしてみると、何とも、これまた不可解です。
*コメント~「江表伝」史料審査
棟上氏の見解を差し置いて、史料考証からみたコメントは以下の通りです。
以下、生野氏著書引用が正確と仮定し、引用文における読み取れる限りの不備を指摘します。
まず、陳寿「三国志」「呉志」に「江表伝」なる列傳はなく、「呉志」に裴松之が付注した「江表伝」を誤解したものと思われます。
Wikipedia記事を参考にすると、【『江表伝』(こうひょうでん)は、西晋虞溥編纂の呉史書である。晋室南渡の後、虞溥の子の虞勃が東晋元帝に『江表伝』を献上し、詔して秘書に蔵したという。孫呉事績を、編年体「伝」形式を念頭にしつつ、記述したものと思われる。『旧唐書』「経籍志」に「江表伝五巻、虞溥撰」とあり、五代の乱世を経た北宋期には散佚して、書物の全容は全く不明である。】(要約、補追は、当プログ筆者の責に帰すものである)
当記事は、用語から「江表伝」 は、 魏晋視点で書かれたと速断していますが、用語は、晋代、ひょっとすると、東晋代に是正された可能性が高いとみえます。後出のように「江表伝」は、魏武曹操敗北を、後年、東呉視点で「粉飾」した東呉寄り史書とみるのが順当と思われます。
「江表伝」の散佚ですが、陳寿「三国志」「呉志」の裴注に「江表伝」の独自記事が引用され、当該部分は現在も健在です。「書物の全容は全く不明」とは、凝りに凝った表現ですが、無用の誤解を招くものであり、同記事の信頼性を大いに下げています。全容はともかく、裴注に採用された部分は、ちゃんと「正史」の一部として継承されています。
このあたりは、素人集団の寄せ書きであるWikipediaの限界ですが、特に誤謬と言うほどでもないので、訂正・寄稿は控えています。
但し、「江表伝」は、陳寿が検証して「呉志」本文に採用したものではないので、裴注による追加記事としては、「三国志」本文と同様に扱うことはできません。
*裴注「江表伝」補追の意義~余談
「江表伝」上梓は陳寿没後なので、陳寿は其の内容を知らなかったのは明白であり、韋昭が主管していた東呉史官は、「呉書」編纂時に、史官の見識でこれに相当する史料を採用しなかったから、ここに復習すると『東呉史官が編纂し東呉滅亡時に晋に提出され、時の西晋皇帝が嘉納し、西晋公文書となった、東呉史官韋昭の編纂になる「呉書」』が、「三国志」「呉志」に充当されても、「三国志」に「江表伝」相当記事は不在だったようです。もちろん、陳寿は、「三国志」編纂に際し、後漢魏代に洛陽に於いて所蔵された公文書資料/ここでは韋昭「呉書」を援用することに努めているのであって、「呉志」に収録されていない野史、風評に類する史料は、史実でないとして参照しないのですから、陳寿は、「江表伝」同様の野史/稗史が存在していたとしても、仮に、そのような内容を目にしたとしても、「三国志」に採り入れることはなかった/できなかったのです。
そのような史官の編纂方針は、後生史官である裴松之の理解するところであり、そのため、裴松之は、劉宋文帝の諮問に応じた「三国志」補完の勉めの一環として、「江表伝」から、他の史書にない東呉寄りの視点の「偏向・曲筆」記事を、「蛇足」覚悟で「補追」したようです。念のため言い重ねると、裵松之は、決して、「三国志」が不備だという趣旨/視点からではなく、ご指示に従い「彩り」/蛇足を加えたように見えます。
このあたりは、あまり見かけない意見でしょうが、ご一考頂きたいものです。
と言うことで、世に言う裴注補追記事の評価は、かなり割り引く必要があります。厳しく言うと、裴注補追記事は、大半が蛇足で、「三国志」本文の充実には、何ら寄与していないと思われます。
もちろん、裴松之は、陳寿「三国志」が、「正史」として遇するに値する著作と認めた上で、あえて「明らかに蛇足と見て取れる低俗な史料まで補追して見せた」ものと見えます。何しろ、ご指示に背く補追として劉宋文帝の激怒を買うと、文字通り馘首されるので、少なくとも、皇帝の体面を保って見せたと見るものです。
後年、名君文帝の怒りを買って左遷された范曄が、任地で密かに後漢書を編纂していたところ、「笵曄が皇帝に対する大逆罪の陰謀に関与した」として投獄して死罪に処すと共に、編纂中の後漢書を接収するという弾圧事態が起こり、笵曄「後漢書」は、編纂の途次、未完稿の状態で終わったという後日談があるのをみると、裴注勅命の際にも、文帝の勘気が示されていたと見えますから、裵松之の補注編纂は、薄氷を踏むものであったかも知れません。ちなみに、後漢書「志部」は、共著者の手許で完成状態にあったのですが、范曄に連坐して処刑するのを恐れた共著者が、土中に埋没隠匿し、そのために、「志部」は失われたとされていますが、史官ならぬ私撰の文筆家であった范曄も、史官につきものの弾圧を免れなかったことを示しています。
世上、『陳寿「三国志」が簡潔に過ぎ、不備であるとして、裴注をもって「三国志」が完成した』とまで勝手に言い足して主張する方が珍しくないようですが、素人目には、『「三国志」は、陳寿原本が、史書/正史として完成形』と見るのであり、先行する万巻の大著である司馬遷「史記」、班固「漢書」を尊重しつつ、『後漢献帝が、 それぞれの得失を見た上で「座右の名著として備えるに適した簡要な史書」として勅撰した筍悦「漢紀」(前漢紀)』を参考に、三国鼎立という時代状勢の制約を踏みしめて、鋭意編纂したものです。
「三国志」の陳寿稿(遺稿)は、決して、未完稿で無く、時節を得れば、西晋皇帝の上覧を仰ぐべく決定稿、上申稿を遺して没したのですから、同時代最高の史官が完成形と自負した「三国志」陳寿原本に適確な評価を与えるべきでしょう。少なくとも、当時の史官の使命感を知ることのない「二千年後生東夷の無教養」な素人が、したり顔でとやかく言うべき事項ではないのです。
そして、裴松之は、劉宋文帝を代表とする同時代「建康」読書人の偏見によって『「三国志」が、陳寿の意に反する形態に改竄される危機を見事乗り越えた』ものとみるのです。
未完
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