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2024年11月 2日 (土)

新・私の本棚 棟上 寅七 『槍玉その68「かくも明快な魏志倭人伝」』3/3 追補

  木佐敬久 著 冨山房 2016年刊
「新しい歴史教科書(古代史)研究会」「棟上寅七の古代史本批評 ブログ」2021.5.06からの転載 
 私の見立て ★★★★☆ 必読の名批評 2021/10/29 補充 2022/10/11 2024/02/22-26、 11/01

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*コメント 続き
 このように、文献としての史料評価は、わずかな用語を浚える/囓り取るのでなく、文献として内容を熟読、吟味した後に提示すべきです。これは、Wikipediaの情報源としての限界/短足です。何しろ、現今のWikipediaは、陳寿「三国志」に対する後世の誹謗、中傷を積極的に収集した感があり、「曲筆/偏向の好事例」と見えますから、「客観的な判断には、利用しがたい」のです。なぜ、この場で、陳寿を弾劾しているのか、動機不純ではないかと不審なのです。

 後漢末期の献帝建安年間、「宰相曹操が、荊州討伐後に巡行し東呉に服属を促した」ときの「赤壁」での対決で、東呉の偽降による火攻めで大敗したという「江表伝」独自記事が裴注で補追されたために、「呉志」が「江表伝」依存の東呉自慢話に堕したと見えて、史書としては、はなから信用できない状態になっているのと同様です。「魏志」が、曹操撤退と粉飾/糊塗しているのと同様の意味で、「呉志」は、曹操大敗と言いたいところだったのでしょうが、「呉志」本文には大した東呉戦果は書いていないのです。
 「三国志演義」は、話を盛り上げるために、随分「粉飾」(厚化粧)を加えているのですが、元ネタは、裴注が拾い上げた「江表伝」なる、敗軍の負け惜しみに過ぎないのです。

コメント終わり

*時代錯誤の帆船起用への批判
 棟上氏は、生野氏の数字頼みの論証が、科学的・論理的な風体を示しながら、現代の帆船の航行速度を三世紀の船にあてはめる絶大な不都合を呈していると指摘していますが、これは、生野氏が、適切な専門家に適切な相談をしていないことを指摘しているものと見えます。言うならば、ご自分の夢物語/法螺話を無責任に放言されている」事への非難であり、素人目にも、反論できない失態と見ます。

 ついでながら、生野氏が起用した船体の大小は、時代と報告者の世界観で大きく変動し、現代読者の世界観も不確かなので、史学論では厳として避けるべき冗句ですいや、事は、船体の大小に始まり、人数の多寡などにも及ぶのであり、論考の展開に於いて、不明瞭な発言は厳に慎みたいものです。

 ここで、「大小」表現を、「不明瞭」と言うのは、このような粗雑な表現で論議を煽るのは、読者によってどんな数値を想起するか一定しないどころか、無法なほど差異があるので、著者と読者の想定する(ここでは)「船体」が食い違うことから、議論が転覆することを難詰しているのです。現に、後段でも言及される「後生」研究者には、現代風の多段マストの近代大型船の画像を掲示して、魏使の用船と見立てて論議を進めている例があるので、「明瞭」な主張を求めているのです。

 とはいえ、前ほど述べたように、氏のホラ話を真に承けて、『「倭人伝」の行程記事を、魏使が山東半島から大型の近代的な帆船で堂々と航海したとみて、道中情景を仮想している初学者がある』ことから、大声で否定せざるを得ないのです。

 続いて、棟上氏は、「野性号」実験航海情報を点検していますが、残念ながら、同航海は、学術的なものでなく、客観的な最終評価がされていないことを見過ごされたように見えます。要は本筋の議論ではない道草なのです。むしろ、同海域で、帆船による往来が存在しなかったと見極める方が随分「明快」です。

 続いて、棟上氏は、本記事の核心と言える至言を提示されています。
 「海に不慣れな魏使一行が貴重な贈り物を持って船に何日ものるか、韓半島には虎が生息していたのですが、それを防ぐ軍勢と共に山道を取るか、答えは見えているのではないでしょうか。当然陸路でしょう。

コメント
 生野氏記事の引用は、棟上氏の文責ですが、造船は地場の船大工が行うものだから、造船業のない土地では、いくら号令をかけても造船は不可能です勿論、船材大量調達も大問題です。魏の造船、呉の造船など、殊更言うのも無駄です。長江河口部に海水淡水両者の造船業があっても、それ以外の造船業は、「魏志」に登場する長江支流漢水の川船造船、山東半島など渤海岸の海船造船でしょうか。
 いずれにしろ、造船業は、それぞれの土地の地場のものであり、特定の帝国に属するものではありません。

 ちなみに、棟上氏の裁断は明解で、皇帝の命令で貴重な贈り物を大量に抱えた魏使が、剣呑な海船で行くわけはない。堅固な陸路に決まっているとの趣旨は、まさしく、一刀両断の「名刀」です。問題は、斬られた方がそれと気づかないことです。

 おっしゃるように、野獣の危険などは、兵士が護衛すれば良い」のであり、仮に野獣の被害を受けても、人馬補充すればいいから、陸路が当然です。何しろ、野獣は下賜物を持ち去ったりすることはないのです。海船は、難破が付きものであり、嵐の沖合で難波したら、誰も助けにいけないのです。そして、帰らぬ人々は別としても、海の「もずく」ならぬ藻屑となった財宝は、誰にも取り戻せないのです。

 因みに、棟上氏は、しきりに、海に不慣れな中原人たる「魏使」とおっしゃいますが、実質は、黄海の海況に通じた青州東莱、ないしは帯方郡の関係者が運用したのでしょうが、それにしても、実際は、沖合航海は無謀なものとして、頭から却下されていたでしょうから、手近な黄海対岸への渡し舟と狗邪~對海~一大~末羅の手慣れた渡し舟の運用が全てであったものですから、何も恐れるものではなく、中原で見なれている州島(中ノ島)への渡し舟と大差ないとしたものでしょう。要するに、生野氏はじめ多数の夢想家の言う「延々と半島沖の多島海を、南北ないしは東西する大航海」は、儚い白日夢でしょう。「覚めない夢はない」、「明けない夜はない」と思いたいのですが、いかがでしょうか。

 要するに、皇帝の文書、帯方郡使の文書、さらには、皇帝下賜の土産物を、こうした沖合航海の不慣れな船便に托すのは、不法なものだったのです。不法な行いの処罰は、斬首です。重罪に連坐すれば、家族も命を落とします。
 冒頭に明記したように、『「倭人伝」道里行程記事は、陸路による半島内の文書使往来を描いた』ものであり、後世の魏使到来の記録などでは無いのです。山裾の散歩道の出発点で大きな陥穽に落ちて、あるいは、躓き石で転倒して、それに気づかないようでは、以下の考察は、無意味なのですが、気づいている方は希なので、ここに無礼承知で指摘するしかないのです。

コメント追記 2022/10/11
 生野氏の「帆船論」へのコメントを書き足します。
 生野氏は、無頓着に、何も知らない素人の強み三世紀の帆船も現代の帆船も大差ないと軽率に武断していますが、とんでもない話です。まずは、三世紀当時は、海図も羅針盤も無く、レーダーも、深度計もなかったので、一度沖に出れば、現在地を知るすべがなく、また、安全な進路を見定めることもできなかったのです。もちろん、周辺海域の天候を知るすべもないから、それこそ、台風と言えども、出くわすまで知るすべがなかったのです。
 また、入出港時のような舵取りは、帆船の操船/舵取りでは対応できなかったので、タグボートなど存在しない古代では、多数の漕ぎ手を乗せて、櫂捌きで転針するしかなかったのです。当たり前のことを、素人がことさら指摘するのも僭越なのですが、舵で帆船を転進するのは、ある程度航行速度があってのことであり、入港直前で、徐行しているときは、ほとんど舵が効かないので、漕ぎ手の力技に頼るしか無かったのです。
 それにしても、岩礁や浅瀬も、位置を知らなければ、避けようがないので、結局、それぞれの港に通暁した水先案内の指示に従うしか無かったのです。
 また、現代の帆船は、向かい風でも帆の操作で推進力を得る技術を備えていて、極端な無風条件以外は前進することができるのですが、三世紀の帆船は、そのような高度な構造も、操船技術を有していなかったから、風向きが悪いと身動きできなかったのです。
 つまり、航行速度以前に解決すべき難題が山積しているのです。
 付け加えるなら、現地海域が、大型の船舶の航行可能な状態であったかどうかも調査が必要です。操船の不自由さを置くとしても、船底が閊えず両舷も楽に通過できる「航行路」は、小型の船が、ごく希に往き来するだけの辺地では、全く知られていなかったはずです。

 棟上氏の指摘通り沿岸を遠く、遠く離れて、岩礁や浅瀬を十分に避けて、こわごわ帆走するにしても、塩っぱくて飲めない塩水の上では、数日のうちに接岸上陸しなくては水が切れるので、どこかで岸に近づく必要があるのですが、どうやって、海図の無い海で、安全な進行を見いだせるのか不可解です。
 こうした事情は、ずぶの素人でも、耳学問、ネット学問で学習する事ができるのですから、著書で、このような暴論を吹き撒ける前に、専門家の意見を聞くべきなのです。いや、これは、生野氏の無謀な著書に対する批判であり、棟上氏をとやかく言っているのではないのです。

 因みに、冒険航海の諸氏は、そのような帆船の不合理を承知していて、手漕ぎ船として、多少大きめ、重めとは言え、「漕ぎ手の力技で操船不可能ではない」「小船」に、地域海況に詳しい「水先案内人」(パイロット)を乗せ、案内された既知の安全な進路で進んで、天気予報も受信し、ほぼ毎日入港して、食糧と水の補給とともに、可能な限り陸上で休養し、現地の水先案内人と交代する「実用的な安全航海」に挑んだと見えます。全員帰還できたのには、立派な理由があったのです。当然ですが、古代船を再現した帆船で同航路を突破しようとした例は、見受けません。恐らく、遭難必至とみているのでしょう。

 何しろ、想定されている数百㌔㍍に及ぶ危険連続の航海途上で、一度でも難船難破すれば、それで全てお仕舞い、人も、宝物も、海の「モズク」、ならぬ「もくず」ですから、冗談抜きで「必死」、棟上氏の言う「剣呑」、つまり、鋭利な剣を喉に呑み下すのに匹敵する確実な「危険」です。皇帝の下賜物を届ける重大な使命であれば、万が一にも失敗すれば、大使以下の「責任者」は、「責任」を取らされて、自分だけでなく、妻子、家族まで連座して、公開の場で刑死して、晒し者になるので、惜しいのは、自分の命だけではないのです。

 ここで、もし、「極めて困難」と書かれていたら、それは「絶対不可能」と解すべきであり、信念を持って、決然と断行すれば、きっとできるに違いない」というような楽天的な意味ではないのです。地点別の危険度を㌫で評価して加算しても、所詮百㌫が天井なのですが、一度遭難すればお仕舞いなので、そのような稚拙な数値化には、まるで意味はないし、これは、「リスク」などと、戯けて誤魔化せるものではないのです。

 冒頭にお断りしたように、この種の議論は、論外の泥沼に踏み込んでいるので、いくら誠意を持って論じても「明快」には成らないのです。

コメント終わり

 以下、木佐氏の諸国比定論批判になりますが、当ブログの専攻範囲の「圏外」なので割愛します。

*棟上氏の総括~引用
 根本的には古田師がよく言っていらしたように、いろいろ我が郷土こそ邪馬台国と主張されるが、考古学的出土品のことについて抜けていてはダメ、と指摘されています。この木佐説も同じです。同じ時期にすぐ近くに「須玖岡本遺跡」など弥生銀座と称される地域がなぜ倭人伝に記載されていないのか、という謎が木佐説では説明できていません。できないからの無言でしょうけれど。
 折角の大作ですが、俳句の夏井先生が古代史の先生だったら、この作品は「シュレッダー」でしょう。  以上

*棟上氏の総括~引用終わり
 「書き止め」の上、謹んで公開します。(陳寿結語の引用です)
 ついでながら、周回遅れ、後追いの素人読者の所感では、古田武彦氏第一書『「邪馬台国」はなかった』では、邪馬壹国所在地は、須玖岡本遺跡地域が推定されていて、同遺跡は、邪馬壹国の墓所であり、卑弥呼の冢は軽微な土饅頭であって、当遺跡を見おろす熊野神社に守られているのであろうとしています。 2024/11/04 補充

 誠惶誠恐頓首頓首死罪死罪謹言

                                完

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