新・私の本棚 ブログ批判 刮目天一 「卑弥呼の墓はどこ?」(続報)1/3 補追
私の見立て ★★★☆☆ 奮闘真摯 初掲2024/07/06 *当家2024/07/16, 11/08
*加筆再掲の弁
最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。
〇外野見解の弁
国内古代史分野で麗名の刮目天氏にはさぞかしご不快と存じますが、中国史料解釈のドロ沼での苦闘を見ていられなくて、口を挟んで支援しようとしているものです。
*部分引用御免
卑弥呼の墓の場合、何故「塚をたくさん作った」が間違いなのかをもう少し捕捉します。この場合、奴婢の墓まで言及する理由がないからです。倭女王卑弥呼の墓の説明なのです。もしも墓域に奴婢が葬られていても、墓域の大きさまで説明する必要はないので、「径百余歩」は女王卑弥呼の塚の大きさだと分かるのです。つまり直径約150mの円墳が卑弥呼の墓ということになります。その中に奴婢が入っていようがいまいがです。径には「さしわたし」という意味があっても、冢(ちょう)は土で覆った塚のことで、径百余歩とあれば円形の塚のサイズですから直径のことですね。もしも長方形の墓ならば、縦・横のサイズを書くか、正方形ならば方百歩と書くはずでしょう(^_-)-☆
*外野コメント
横からくちばしを挟(さしはさ)む無作法をお許しください。
論敵氏は、決め付け話法で「用例を無視して勝手な解釈をする」とご高説を賜っていますが、提示用例は「多数の、つまり、複数の造船所に指図して盛大に造船する事例」であるから、ことさらに「数多く」と解釈できても、現下の事例は「女王」の掛け替えのない「冢」を造墓する話ですから、粗製乱造できないのです。要するに、提案いただいたのは、話が揃っていない「無効な用例」です。造成対象は一個の「冢」ですから、「数多く」との解釈は、自動的/決定的に排除されます。
文意読み不足の「用例」談議は空転です。
また、「女王」葬で「徇葬」者は参加者でしょう。俗に「殉葬」と改竄読みして、さらに「百人埋殺」と読むのを好む野蛮な「改竄派」が結構いらっしゃいますが、同時代史書から「殉死」は礼制に反すると排斥されていますから、浅慮早計でしょう。
勝手に「用例」を創造する文章芸術は場違いです。野蛮な「改竄派」に、当ブログは、自己防衛以外の場合は、極力関与しないので、おやすみになっている方を邪魔しないように、しずかに退席されることをお勧めします。
外野席からの応援になったでしょうか。
*「太平御覧」所引「倭人伝」談議~余談
些か余談ですが、失敗例であげやすいのは「太平御覧」所引「倭人伝」(所引魏志)です。
1.女王死大作冢殉葬者百餘人
所引担当「所引者」の文書考察が未熟で「殉葬者百餘人」はお粗末です。豊富な史料を参照する現代研究者は、「徇葬」が原文と確認できますが、大唐滅亡、長安混乱後の五代時代初期「所引者」は、時代相応の劣悪な級外写本に頼ったと見えます。
2.又南水行十日陸行一月至耶馬臺國
それ以前、道里行程記事で、「所引者」は、「魏志倭人伝」記事での「到伊都国」と行程括りに気づかず、「又」の連打で、子供じみたべたべた解釈に陥っています。
果ては、「又南水行十日陸行一月至耶馬臺國戶七萬女王之所都其置官曰…其屬小國有二十一皆統之女王」と書いて、投馬国からさらに南に「耶馬臺国」があると「明解」です。「所引者」は、先行史書の西域、東夷などの夷蕃伝の道里行程記事の知識に欠けていたので、後で「周旋五千里」と参照される主行程五国とわき道として書かれて戸数の「はけ口」になっていた余傍「三国」の峻別/見わけができていなかったと見えます。
一級史料である「魏志倭人伝」の編纂者は、減縮して「邪馬壹国」行程を維持したのに対して「所引者」は「耶馬臺國」と劣化した「級外写本」に頼ったと見えます。
南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月官有…可七萬餘戶
「所引者」は、まことに無教養で、班固「漢書」の読解を怠っていて、『三世紀当時、蛮王に「都」はない』のに気づかないで、水行十日陸行一月が(投馬国から)女王居処までの所要日数と勘違いしたのです。誤謬積層です。「倭人伝」道里行程記事の真意は、「到伊都国」との括りに着目して、郡から倭まで「水行十日陸行一月」と見るのが明快であり、見なければ、陥穽に落ちるのです。この分岐点は、ことさら丁寧に評価すべきでしょう。「所引者」は、一つの重大な失敗事例であり、この際の失敗事例を克服することが、正解への「明るい」道なのです。
さらに、「可七萬餘戶」の主体が理解できず、「戶七萬」が「耶馬臺國」の戸数と誤解しています。ここでも誤謬積層です。要するに、「所引者」は、「奴国二萬、投馬五萬」で「併せて総戸数七萬」との陳寿の「概数計算の明解な論理」、「明るい」道しるべを見過ごしています。
未完
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