新・私の本棚 御覧所収 謝承「後漢書」佚文 史料批判の試み 2/2 再掲
2020/07/25 2020/08/30 2022/11/23 2024/11/06
*加筆再掲の弁
最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。
〇書かれなかった後漢東夷伝
後漢書原史料として、後漢東夷管理記録(公文書)が存在していたとは思えません。(個人の感想です。念のため)
半島南部の荒地を領分とする帯方郡創設時期は、曹操が君臨していた献帝建安九年(CE204)頃とされます。当時、霊帝没後の「大乱」の期間は、後漢の帝国支配は瓦解していて、遼東郡太守公孫氏は、後漢に臣従しつつも自立していたため、帯方郡の東夷管理を後漢帝国に報告していなかったのです。それも無理からぬ所で、皇帝献帝は、雒陽を廃都して遷都した長安が内紛によって混乱したため、長安を脱出して放浪する事態に至っていましたが、曹操が献帝を自陣営の本拠であった鄴城(邯鄲)、ついで、許昌に収容して、後漢皇帝の指令を発信して、大国秩序の再構築を図ったものですが、雒陽、長安には、後漢政府機関が残存していて、それぞれ、皇帝の命令を発信し、各地の勢力は、雒陽、長安、鄴、許昌のいずれが帝国の本拠地なのか、混乱していたようです。ということで、遼東郡太守としては、いずれの「皇帝」居処に従うべきか、決めかねていたようにも見えます。ということで、曹魏が成立し、文帝曹丕が、曹魏皇帝こそ天子であり「雒陽」が「首都」であると宣言しても、大乱が一応収束したものの、東呉、蜀漢の自立は続いていて、混乱は続いていたと見えます。
したがって、後漢献帝期における東夷に関する後漢公文書は、霊帝没後の混乱のため、秩序だって集成/整備されていなかったと見られます。
いろいろ考えあわせましたが、謝承後漢書は、「東夷列伝」を持たず、従って、各書は、東夷伝を語る場合、別史料を引用したとみる解釈が、一番据わりが良いようです。
後漢及び曹魏の政府文書を把握していたと見える陳寿「三国志」魏志によれば、景初二年の司馬懿の遼東討滅で、郡公文書は焼却され、郡官人は全滅しましたが、それに先だって無血開放されたと見える帯方郡に、公孫氏東夷管理記録が存在し、新任太守によって、以後の東夷管理に活用されたようです。
〇范曄「後漢書」東夷伝の由来
一々考証内容は書きませんが、范曄は、「後漢書」「東夷伝」(倭条を含む)において後漢後期事情を語るに際して、魚豢「魏略」東夷伝と陳寿「三国志」魏志東夷伝の使えそうな記事を、後漢代にずり上げて採用していると見られます。要するに、限りなく捏造に近い、改竄と思われます。好意的に考えると、范曄は、陳寿「三国志」東夷伝が、曹魏公文書でなく帯方郡伝来文書に依存しているのに気付いて、帯方郡ならぬ遼東郡の後漢代文書を想像したものとも見えます。
要するに、景初の司馬懿遼東討伐の混乱期に、始めて「倭人」が参上したのではなく、先立つ後漢献帝の建安年間に、遼東郡太守公孫氏が、「倭人」を、言わば新来の東夷として認知したものと考察して、それに合わせて、史料を再編したものと見えるのです。つまり、史料の欠落を、時代ずらし、記事補填などの曲芸で埋めたのです。別稿で、范曄が、西域伝に対して行った曲芸を考証しています。
後漢書「東夷伝」は、ここまでに書いたように、ほぼ欠落していた史料を「美文」で造作して補填したと見えるので、よほど丁寧に考証を加えない限り、史料として採用できないと考えられます。何しろ、欠落していたわけですから、本来の後漢書東夷伝、中でも倭条(倭伝)は存在せず、当該佚文を范曄後漢書と対照して校正することはできないのです。
思うに、論議している「東夷列傳」は、謝承後漢書編纂時に、後漢公文書から編纂された「東夷列傳」なる列伝、つまり、銘々伝として存在したようであり、魚豢「魏略」も、陳寿「三国志」魏志も、そのような「東夷列傳」を承知していたかも知れませんが、史書として公認されなかったため継承されず、早期に散佚したようです。
陳寿「三国志」魏志「評」も、雒陽の関係部局が編纂した「西羌伝」の存在は示唆していても、「東夷伝」は、認識していないと明記されていますから、そのような公文書は存在しなかったのです。
〇「佚文」の扱い
以上論じたように、当該「佚文」をもって、原文が失われている謝承「後漢書」に「東夷列傳」があったとするのは、余りに軽率です。
正史解釈にあたって、外部資料を参照する際には、まずは、厳密な史料批判の上で、考慮に値する資料かどうか判断すべきです。当然至極の原則ですが、国内視点の古代史学では、(中国)公式史書(正史)の考察に際して、大抵無視/放念されているので、素人考えで指摘するものです。
具体的に云うと、謝承後漢書自体の写本断簡が提示されたのならともかく、一片の佚文で史料解釈を撓めるべきではありません。
〇『七家後漢書』の解釈
汪文台『七家後漢書』は、当時残存していた諸所から各後漢書佚文を広く収集した労作であり、下記佚文が収録されていますが、依然として「東夷列傳」を謝承「後漢書」の一伝とする根拠とはならないと見えます。あるいは、太平御覧から用例を収集したものかと見えます。
《東夷列傳》一(曰):一 (三)韓俗以臘曰(日)家家祭祀。俗云:臘鼓鳴、春草生也
〇結論
結論として、氏の意見は、史料批判も史料考証も不十分であり、当方の意見を変えるには及びません。
『七家後漢書』は、悪く言えば、低質の残滓をかき集めたものであり、その努力に感謝するものの、史料として採用するには、まずは厳重な史料批判が必要という事に変わりはありません。
〇念押し
そもそも、類書である「太平御覧」の記事は、大部の類書の編纂についして収集された「所引」史料の集成であって、原資料の最善写本の正確な引用などではなく、不確かな史料であるので、検証しない限り正史の記事を覆すに足るだけの信頼は置けないと見るものです。信頼を置けない資料に引用された佚文は、悪材料が重責、山積しているので、一切参照すべきではありません。
以上
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コメント
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尾関郁さん
コメントを頂き感謝します。
大変貴重なご意見ですが、ここで書き募っている素人の知識で読み解こうとすると、色々辻褄が合わないのです。
まず、ものの理屈として、議論を東夷伝に限定するとして、随分後世に編纂された後漢書が、魏志倭人伝の原典を示すとの主張は、どうも不合理のように思えます。後世史書の記事が先行史書の記事に多少なりとも似ていたら、ここでは、范曄が陳寿に対する敬意をもって、踏襲していると見るものではないでしょうか。
続いて書かれている「史記」と「袁宏後漢紀」の関わりは、全く理解できません。そもそも、史記の良好な原本が残っていないのは当然としても、各種後漢書は、原本も写本も残っていないのです。(范曄後漢書は、唐代校訂本が継承されていますが)
お説に従い、謝承が東夷について関心を持ったとしても、後漢公文書は、西晋末の帝国壊滅までは、洛陽の帝国書庫に厳重保管されていたので、東呉の私人(孫権の史官は、後漢/魏の史官ではないので「私人」扱いです)が閲覧し、史書を編纂することは厳罰(死刑)必至です。史料がなくては、史書は書けません。
「西洋」、「シルクロード」というのは、古代史論では時代錯誤で、禁句としたいものです。魏晋代までの古代史で、「文化」とは、四書五経に書かれた華夏文明だけなので、皮革に横書きする西域(安息、波斯)から渡来するはずがないのです。将来されるのは「物」だけです。そして、東夷には文字がないので、「文化」はなく、何も齎されないのです。
東夷は、古典に示されている大禹(夏后禹)の母体であり、中原人が東夷に関心がないはずはないのです。現に、孔子は、東夷の美点に触れています。
魏が、明帝曹叡が指示した下賜物を届けなかったというのは初耳ですから、「じゃないですか」と馴れ馴れしくもたれかかられても、根拠を見ないことには同意できないのです。
以上、貴重な提言に感謝しますが、よほどの論証/批判/試錬がないと採用しがたいと思います。
恐懼頓首死罪死罪
>
>范曄後漢書と三国志倭人の節を各文対比しますと多少脚色・調整があるものの極めて似ています。(中略御免)魏もほぼ優勢が確保されるとあげると約束した倭への金印紫綬や銀印青壽、それ以外に真珠・鉛丹もくれなかったじゃないですか。
投稿: ToYourDay | 2020年9月 4日 (金) 17時42分
范曄後漢書と三国志倭人の節を各文対比しますと多少脚色・調整があるものの極めて似ています。私は従って後漢書が三国志の原典を示していると考えています。ほかに史記が、そして袁宏の後漢記からちょっぴり取り込んでいると考えます。謝承は孫権の妻の弟で公孫とのやり取りをした経過から他の撰者より東夷に関心があった可能性は高いでしょう。東大社研の図書館にあるとされる他の後漢書には東夷がないことが示唆しています。牧魏の後漢書はちょろっと引用されているだけで分かりませんし、他の五名の撰者の書は皆目わかりません。もし謝承の作に東夷伝があったら西域伝ぐらいに引用されているはずという意見には賛成できません。西域はシルクロードに沿って西洋の文化が齎されたので関心の強さが違います。東夷なんて黄河辺りの人にとってほとんど魅力がないじゃないですか。魏もほぼ優勢が確保されるとあげると約束した倭への金印紫綬や銀印青壽、それ以外に真珠・鉛丹もくれなかったじゃないですか。
投稿: 尾関郁 | 2020年9月 4日 (金) 12時13分